SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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今回は2話同時投稿となります。

すっかり寒くなりましたので、投稿が遅れたお詫びに、どうかお納めください。





Episode21-07 ヤサシイ ユウヤケ ノ ソラ

 被害者の共通点は貧民プレイヤーだけであるが、チェーングレイヴでも追いきれなかったアリシアの動向を探るのは難しい。

 DBOでは比較的安全地帯とされる都市部でもモンスターは出現する。終わりつつある街の場合、地下ダンジョンに潜りさえしなければ、犬ネズミか野犬がメインだろうか。どちらも水準レベル10未満である。とはいえ、コイツらはどちらも必ず群れで出現する上に、両方共なかなかに厄介であり、油断をすれば上位プレイヤーでも死にかねない。

 まず犬ネズミはとにかく数が多い。1匹を倒したところでは実入りも少なく、数で攻めてくる。しかも噛み付き攻撃にはレベル1の毒が蓄積する。攻撃は意外とスタン蓄積も大きく、囲われて連続攻撃を浴び続けて死亡はもはや様式美だ。

 だが、それ以上に危険なのはやはり野犬だ。DBOの格言で『犬はヤバい』がある。奴らは群れる上に素早く、水準レベルにしては攻撃力が高い。噛み付きはアバターを損壊させやすい。犬を舐めた奴は死ぬのがDBOだ。まぁ、逆に言えば野犬のような四足歩行生物の群れを相手取れなければソロでダンジョンに潜るのは無謀なので止めた方が良い。ちなみに調子に乗ったレベル10未満のビギナーを最も殺害しているモンスターが野犬であると言われている。

 野犬は犬ネズミと同じく不衛生な場所にポップする。貧民プレイヤーどころか不用意に単独行動を取った中位・上位プレイヤーを殺しまくっている。つまり、野犬の被害者からアリシアを追跡しようにも被害者が多過ぎるのだ。しかも被害者が貧民プレイヤーともなれば、まともに情報収集も出来ない。

 

「野犬の被害が減った?」

 

「ああ。俺の縄張りでも毎日のように死人が出ているんだが、どういうわけか見逃されたって報告がある」

 

 だが、廃墟を根城としている、この辺りを仕切る貧民プレイヤーの男に金を握らせてここ最近の野犬の被害について尋ねれば、意外な証言を入手することができた。

 貧民プレイヤーは基本的にコミュニティを形成している。残飯やゴミ拾い、乞食の縄張りがあるのだ。そして、彼らを更に支配しているのが犯罪ギルドでもある。

 とはいえ、全ての貧民コミュニティが余すことなく犯罪ギルドによって組織的に統率されているわけではない。貧民コミュニティの支配層は犯罪ギルドの靴を舐めてお零れをもらっている。つまり、麻薬系アイテムが蔓延る地域はまず麻薬アイテムの元締めが対象の貧民コミュニティを支配し、効率的に麻薬アイテムをばら撒ける下地を作っておくのだ。

 娼館に努められない売女がどれだけ稼いだところで縄張りを持つ貧民コミュニティの支配層に搾取され、彼らは更に犯罪ギルドに上納金を支払って支配を確固たるものにする。特に珍しくない、人間社会である限りは逃れられない上下関係だ。

 とはいえ、やはりチェーングレイヴの影響力の低下は如実に表れているな。有象無象の犯罪ギルドを取り仕切っていた、言うなれば裏の大ギルドとも呼ぶべき連中が更に身を守ってもらい、また秩序維持の頼りにしていたのがチェーングレイヴだ。だからこそ、チェーングレイヴは裏全般に大きな影響力を持っていた。

 だが、人口増加によってチェーングレイヴは決定的な人手不足に陥った。どれだけ個人が優秀でも1人でこなせる仕事量には限界がある。アリシアの足取りを追いきれないのも、情報収集に回せる人員がいないせいでもあるだろうな。

 

「しかし、ワンコロの情報に大金を支払ってもらえるなんて、気前が良いな」

 

「野犬を適度に間引くのも仕事ですから」

 

 男に支払ったのは1万コル小切手だ。彼からすれば大金だろう。これは見せ金だ。こちらが野犬に関する情報を幾ら出してでも買うと分かれば、下っ端を使って情報を集めようとするはずだ。そうすれば、男の動きに応じて他の貧民コミュニティも動き出す。そうして『野犬の情報は高く売れる』という噂が出来上がる。

 ……まぁ、グリセルダさんの発案なんだがな。オレは指示通りに動いただけだ。チェーングレイヴ以外の犯罪ギルドや大ギルドの暗部の耳にも入るだろうが、真偽不明の噂話など幾らでも流れるものだ。情報はいつだって玉石混合である。アリシアに関する確定情報でもない限り、大ギルドが出張ってくることはない。

 ともかく野犬が統率され、なおかつ情報とは違って無暗に襲っていないのは気になるな。

 

「また来ます」

 

 オレはフードを深く被り直して別れを告げる。

 今回は貧民街を中心として行動し、なおかつ情報収集も積極的に行わなねばならない。さすがにこの時勢で教会服のまま歩き回ると毎度の如く襲われてしまうので、今回は砂色をした【砂塵除けのコート】を中心とした目立たない防具で纏めてある。贄姫は腰に差さずに袋に入れて背負い、代わりにサブマシンガンを2丁、威嚇を込めて目立つようにホルスターで下げてある。

 長居は無用。男の部下たちの間を抜けようとして、だが道を塞がれる。どうやらすんなりと帰してくれないようだ。

 

「……まだ何か?」

 

「ウチのバックにはエバーライフ・コールさんが控えてんだ。チェーングレイヴだろうと勝手な真似は許されねぇんだよ」

 

 ふむ、そういう事か。エバーライフ・コールは確かチェーングレイヴとは中立関係にあるんだったな。今回のオレは『チェーングレイヴの野犬処理の事前調査を請け負った根無し草』という事になっている。金を支払って終わりの関係はできないか。

 

「今後は情報を売らない。そういう事ですか?」

 

「おいおい、誤解しないでくれ。チェーングレイヴが通達無しに侵犯したのがバレたら問題だが、ワンコロを間引いてくれるってなら大助かりだ。エバーライフさんは良くも悪くも上納金さえ支払っておけば、自治には不干渉でね。野犬程度じゃ出張ってくれない。『自治』の範囲ってわけだ」

 

「…………」

 

「野犬を狩れば毛皮がドロップして、そこそこの価格で捌ける。特に下位から中位に成り上がろうって奴にはそれなりに価値があるんだ。ここまで言えば分かるだろ?」

 

「……つまり?」

 

「察しが悪い奴だな。もしも大規模な野犬狩りをする時は俺が他のコミュニティにも話を通すから分け前が欲しい。チェーングレイヴでドロップした毛皮の3割……いや、2割でいい。俺達に回してくれ。ソイツを売り払ってエバーライフ・コールさんに上納すれば、顔も潰さずに済むし、コミュニティの地位も上がる。その代わり、情報を積極的にアンタに回す。どうだ?」

 

「……オレは雇われですので、交渉権を持っていません。ですが、話は通しておきます」

 

「おう! 頼むぜ!」

 

 まったく、こうした交渉は苦手だというのに。後でクラインに丸投げしよう。過労死でもなんでもすればいい。野犬狩り程度もできないならば、どちらにしても裏の秩序の要にはなれないだろう。

 しかし、こうも露骨にチェーングレイヴの支配力の低下の影響を受けることになるとはな。クラインもさっさと規模を拡大させればいいものを。別の目的があるのは分かるが、少なくとも裏を支配するお題目を掲げているならば、相応の戦力増強は不可欠だろうに。

 ……まぁ、裏の戦力増強は簡単じゃないのは分かるがな。大ギルドは応募をかければ我先にと殺到するプレイヤーから使えそうな奴を拾うか、あるいは生え抜きの中小ギルドからスカウトすればいい。というか、大ギルドの下部組織になっていない中小ギルドが停滞する理由の1つは大ギルド・有力ギルドによって実力者が引き抜かれるからだ。大ギルド・有力ギルドのスカウトマンは本当に根性と情報収集力が備わっているからな。

 

「統率された群れ。被害者の減少。アリシアと野犬による襲撃情報。噛み合わないな」

 

 チェーングレイヴから提供された下層・最下層のマップデータに情報を上書きしていく。

 情報によれば、チェーングレイヴが掴んだアリシアによる襲撃は7回。いずれも貧民コミュニティで虐殺を行っている。実際に足を運んでみたが、酷い有様だった。なにせ、縄張りが崩れて他の貧民コミュニティの手が伸びたのだ。あちらでもこちらでも殴って蹴って斬って刺して撃っての抗争である。更には支配域を広げたい犯罪ギルドまで関与してくるともなれば泥沼だ。

 地道な聞き込み調査は続く。やはり野犬の被害自体は飛躍的に増加しているようであるが、その一方で野犬に見逃されたケースがあり得ない程に多い。だからといって襲撃・見逃しの両方をマップデータに記入しても法則性は見られない。

 

「おいおい、分かってんのか? ここは【ブラック・シーライン】の縄張りなんだよ。チェーングレイヴの使い走りが来るところじゃねぇんだ!」

 

 そして、すぐこれだ。貧民街での調査を円滑にするために、敢えて量産の中位レベル帯の防具を装備したのが仇になったな。とにかく舐められる。腕の1本や2本を千切り取ってもいいのであるが、チェーングレイヴからはなるべく穏便に済ますように指示を受けている。オレの正体がバレるのはご法度だし、起こした暴力沙汰で犯罪ギルド・貧民コミュニティの抗争を起こすなど以ての外だ。

 だから金を握らせて黙らせるのだが、これって後で経費として請求できるのだろうか? こんなこともあろうかと……というか、見越してグリセルダさんが多量に小切手を準備してくれていたのであるが、順調に消費している。

 チェーングレイヴの支配力の低下はやはり著しいな。とはいえ、旧市街、下層、最下層の人口は教会すらも把握しきれておらず、この瞬間にも流民プレイヤーは増え続けている。3大ギルドでさえ、あくまで支配者として君臨しているだけで、その下には自陣営となる下部組織、有力ギルドがいて、旗色を示すだけの中小ギルドがあって、更にその下にはもはや名前だけの零細ギルドが腐るほどあるのだ。土台、チェーングレイヴがこの先マンパワーの増加に注力してもかつての支配体制の維持はできない。

 ……これならチェーングレイヴの名前を出さなければいいのだが、そうなると後々に問題が起きた時が厄介だからな。尻拭いは彼らにしてもらわねば困る。

 

「奴らは今までとは違いました。【獣除けの香】を焚いた壺を、木材を咥えて投げて壊したんです」

 

 背中に籠を背負い、ゴミを集めていた中年女性は恐ろしいとばかりに語る。≪薬品調合≫と薬草さえ手に入れれば簡単に作れる獣除けの香は野犬が出没する区画では彼らの生活……いいや、生命を守る必須アイテムだ。終わりつつある街で素材となる薬草が入手できるのはせいぜい旧市街のみ。リソースからも数は限られている。後はせいぜい火で遠ざける事くらいだ。

 アリシアはプレイヤーの野犬対策を潰す方法を群れに伝達している。野犬に自我と呼べるものが目覚めているかは定かではないが、脅威度はレベル10未満では収まらない域に到達しているな。

 

「……群れの維持・拡大を優先した狩りをしているわけじゃないな」

 

 貧民コミュニティを狙った攻撃を仕掛けている。多くても10匹程度の小さな群れしか作らない野犬であるが、アリシアが率いてからは100匹近い数で襲撃を行っている。しかもクロスボウや銃といった、近接戦技術が未熟な下位プレイヤーにとって生命線となる射撃武器への対策も講じている。射線を切り、陣形を崩し、各個撃破する。レベル10にも到達していない貧民プレイヤーでは一方的に狩られるだろうな。

 アリシアの目的は何だ? モンスターと一言で纏めても、友好、中立、敵対の3つに区分できる。アリシアは中立に分類された、プレイヤーが敵対行動を取らない限りは攻撃してこないモンスターをテイミングしたものであると提供された資料には記されている。

 アリシアはプレイヤーを『敵』と判断し、野犬を従属させて群れを形成し、組織的に狩りを行っている。だが、その一方で少なくないプレイヤーを見逃している。

 生物としてエネルギーの摂取……空腹を満たす為に貧民プレイヤーという脆弱な獲物を狙っているなら理解できる。だが、テイミングが解除されて野良に移行した今はどうなのだろうか? 空腹を覚えることはあっても飢餓感に苦しめれる程なのだろうか。他モンスターを見る限り、意図して組み込まれた食物連鎖でもない限り、モンスターが他モンスターやプレイヤーを捕食して生命維持を図らねばならない様子もない。

 野犬がプレイヤーを襲うのはAIとして『プレイヤーを襲う』というプログラムが組み込まれているからだ。AIにとっての本能と言い換えても構わないだろう。だからこそ、プレイヤーを襲う事に意味を問いただそうとしたモンスターは破綻する。『命』を持つ程に……明確な自我を有する程に、プレイヤーと敵対する理由を自問する。

 だからこそ必要なのはシチュエーションだ。たとえば、墓所の守護者であり、試練の担い手であり、戦場における敵軍だ。あるいは狂気に蝕まれているかだろう。敵も味方も区別なく襲う存在ならば、たとえ『命』があってもプレイヤーを相手に潔く首を差し出すことはない。敵ならとりあえず殺す戦闘狂が最も理想的か。

 そう考えると茅場の後継者も選抜には力を入れただろう。『命』があるAIであるが故の欠点か。無理に敵対の指向性を与えては実力を発揮できず、だからといって見境の無い狂犬のような状態では元来の強さに曇りが生じる。

 アリシアはどうしてプレイヤーに敵対行動を取る? 元は中立モンスターであり、条件を満たさない限りには襲ってこない。つまり、無差別にプレイヤーを襲撃するプログラムは最初から組み込まれていない。

 資料によれば、2匹の黒狼……アリーヤとアリシアは名も無き騎士の墓守だ。墓に手出しをしない限りはプレイヤーを襲ってこない。亡きマクスウェルはこの2匹と遭遇した時に≪テイマー≫スキルを獲得し、テイミングに成功した。

 野良化してもアリシアの敵対条件を満たす方法はない。たとえ、野良化によって凶暴性が増した……いいや、元に戻ったとしても、プレイヤーを見境なく攻撃するとは考え難い。

 

「アリシアは何を求めている?」

 

 フロンティア・フィールドでは他モンスターを狩って経験値を溜めてネームドに成長しようとする。これはある種の食物連鎖……弱肉強食そのものだ。だが、これはフロンティア・フィールド限定であり、他では適応されない。アリシアは自身や群れの成長の為にプレイヤーを狩る必要はない。

 テイミング状態ならば成長システムが適応され、プレイヤーと同じように成長できる。レベル100級まで成長できたことを考慮すれば、アリシアのポテンシャルは相当なものだ。あるいは、レベル上限がないのはテイミングモンスターの特権なのか。なにせ≪テイマー≫スキル保有者は少ない。偶然に頼るしかないスキルの代表例だからな。少なくとも、大ギルドの上位プレイヤーには≪テイマー≫スキルの保有者はいないはずだ。さすがは準ユニークに該当するだけはある。

 視点を変えよう。≪調教≫ならば捕獲したモンスターを戦闘にも活用できる。聖剣騎士団が有する飛竜など代表例だ。捕獲して≪調教≫スキルで飼い慣らし、騎獣として活用している。だが、これらには明確な成長限界が存在する。水準レベル10で捕獲したモンスターが水準レベル100のフィールドで通じるはずがない。だからこそ、新たに捕獲するか配合することでモンスターを強化する。まぁ、モンスター専用装備で補強する方法もあるが、それも限界があるしな。

 野犬たちはあくまで敵対モンスターとしてプレイヤーを攻撃する。だが、プレイヤーを倒しても成長しない。捕獲されたわけでもなければ、フロンティア・フィールドでもないからだ。

 野犬を率いてアリシアは何がしたい? 何が欲しい? 衝動的にプレイヤーに敵対行動を取っていないのは野犬に見逃されたプレイヤーが偶然では済まない数からも明らかだ。アリシアはターゲットを選んで野犬を差し向けている。だが、それはまるで虐殺にも近しい程に凄惨でもある。

 

「ここか」

 

 これまでは貧民コミュニティばかりがターゲットにされていたが、聞き込み調査で新たに被害者として特定できたのは窓ガラスが割れた酒場だ。事件は昨夜の事であり、店主と主な客だった犯罪ギルドの構成員が皆殺しにされている。だが、オレに情報提供してくれた娼婦のように1部は見逃された。

 

「血のニオイが酷いな」

 

 遺体は片付けられたようだが、掃除は済んでいない。血と肉片が今も残っている。

 長居は禁物だな。飢餓が疼く。袖で鼻を押さえて内部を調べる。安っぽいが、店主のこだわりを感じるインテリアだ。特にL字型のカウンターには血で汚れた陶器の人形が幾つも飾られている。隅に置かれた観葉植物にはお世辞ばかりの飾りが施されており、クリスマスを待ちわびていた心情が垣間見れた。

 

「割れた酒瓶以外は持ち出されているな。逞しいことで……」

 

 棚には1本くらい無事な酒が残っていてもよさそうであるが、御覧の通りに空っぽだ。事件後に略奪があったのだろう。別に珍しくもない。

 騙される方が悪い。奪われる方が悪い。殺される方が悪い。生き残る為ならば全てが肯定される。いいや、自己肯定しなければ死ぬのだ。

 善人であろうとして潔く飢え死にするのが正しいことなのか。騙して奪い取ってでも生き残ろうとすることは悪なのだろうか。くだらない問答だ。『人』に善悪の境界線はないように、『命』にもまた善悪の概念は存在しない。

 

「この世に生まれるべきでなかった『命』なんて存在しない」

 

 足下に広がる、時間が経過して粘ついた血に触れる。

 仮想世界でも『命』は生まれている。レギオンは1匹残らず殺すが、『命』ある種としては認めている。

 

(でも、アナタは常にこう考えている。『自分は生まれるべきじゃなかった』と)

 

 ……随分とご機嫌ですね、ヤツメ様。何か良いことでもありましたか? カウンターテーブルに腰かけ、割れたグラスに溜まった血を指でかき混ぜて舐め取るヤツメ様を睨む。

 

(そうコワイ顔をしないで。ワタシはいつだってアナタの味方)

 

 オレもまた1つの『命』だ。生きて死ぬ。それだけだ。確かに生まれるべきではなかったと思っていたこともあるだろう。だけど、今は……今は……

 

(ほら、言い切れない。アナタはいつだって自分が嫌い。大嫌い。アナタは『アナタ』でなくなることを恐れる。でも、それは何故? アナタが『アナタ』であることを恐れるのは、『アナタ』を観測する他者が存在するから。それは家族であり、友人であり、想い人。彼らが存在するからこそアナタは『アナタ』の消失を恐れる。アナタ自身は欠片として未練が無い。アナタは自分の全てを嫌悪し、全てを拒絶し、全てを――)

 

 それ以上は言うな。オレが強く睨めば、ヤツメ様は心底おかしくて仕方がないと笑う。嗤う。笑う。嗤う。オレを……『オレ』を嘲う。

 

(アナタは全ての『命』を愛している。だからこそ、自分の『命』を認め、いつだってこう思っている。自分という存在そのものがその身に宿す『命』への冒涜であると。だけど自死は選べない。殺した『命』の為に、喰らった『命』の為に、そしてこれからも多くの『命』を奪い取る為に)

 

 ……あるいは、そうなのかもしれない。それでも、オレは『オレ』として燃え尽きるまで戦う。

 

(強情ね。良いわ。狩りの全うがお望みなのでしょう? 見届けてあげる。ワタシはアナタ。アナタはワタシ。アナタの旅路の終わりが何であれ、ワタシだけが最後まで傍にいてあげるわ)

 

 ヤツメ様はカウンターテーブルから跳び下りるとクンクンと鼻を鳴らす。

 

(それにしても酷い悪臭ね。酒と血のニオイに混じったコレは何かしらね?)

 

 悪臭? 後遺症のせいで嗅覚も鈍ってるんだがな。消え失せたヤツメ様が立っていた場所を探れば、床の木板の割れ目に何かが落ちている。

 これは……小瓶か。中身は蜂蜜にも似た粘りを持った黄金色の液体だ。

 

「甘蜜の水金か。確か麻薬アイテムだったな」

 

 ヨルコ曰く、ヴェノム=ヒュドラが売り捌いていた麻薬アイテムだ。高い依存性と中毒性を持ち、純度が高いもの程に快楽も大きくなるが危険性も増す。今は大ギルドの主導の下で素材ルートの排除を行っていて、多くの逮捕者が出ているらしいが、既に生産されて出回った分の全てを回収するのは不可能に近い。

 少し調べるか。カウンター裏に回り、荒らされた倉庫を調べる。一見すれば略奪の後で残るは犠牲者の肉片ばかりであるが、飛び散った血は敷かれた古びた絨毯に染み込んでいる。略奪者達によって踏み荒らされているが、逆に言えば当時はまだ血も乾いておらず、今にも破れそうな絨毯まで奪うのは嫌悪感が勝ったといったところか。

 絨毯を剥ぎ取れば石造りの床が露わになるが、絨毯を浸透した血が不自然に1ヶ所に流れ込んだ痕跡がある。何度もブロック石を付け外して溝が出来ていたのだろう。

 オレのSTRならば片手でも簡単に外すことができる。隠されていたのはハンドル式のレバーだ。

 開錠。物々しい音が鳴り響く……こともなく、安っぽい木の乾いた音色と共に天井の1部が開いて梯子が下りてくる。随分と凝った仕掛けだ。店主の拘りというやつか。

 隠された屋根裏部屋にあったのは木箱の山だ。大半は空であったが、隅の1箱には甘蜜の水金入り小瓶が4ダースほど詰め込まれていた。

 決まりだな。ここの店主は甘蜜の水金のバイヤーだったのだろう。あるいは、酒に仕入れて振舞っていたのか。どちらにしてもこれだけの空箱だ。深く嵌まり込んでいたようだ。中身を全て回収……いいや、数本だけ残して後は全て破壊する。

 木箱に腰かけて情報を纏める。アリシアは野犬を統制し、ターゲットを選んで攻撃を仕掛けている。野犬を率いる群れのボスとしての行動ではない。群れの拡大や存続を望んでいるわけでもない。

 右手で甘蜜の水金入りの小瓶を弄りながら考える。もう少し情報が必要だな。だが、想定通りならば、大ギルドが動くのも時間の問題になる。

 

「クラインに連絡を取らないとな」

 

 グリセルダさんにメールを送信する。クラインとの即急なアポイントメントを取ってもらわねばならない。

 返信を待っている間に足音が聞こえた。どうやら新しいお客様のようだ。贄姫に手をかけ……いや、今は潜むべきか。屋根裏部屋の光源は小窓から差し込む外光のみ。

 光があるからこそ闇は濃くなり、人は恐れを抱く。ならばこそ、闇に潜むのは狩りの業の初歩。狩人も獣も闇の中でこそ獲物を如何にして狩るかを思案するのだ。

 

「あったか?」

 

「急かすなよ。アイツの話だと屋根裏に……ほら!」

 

「おお! 早速開けるぞ。……チクショウ! 誰かに先を越されたか!」

 

 オレと同じく恰好こそ偽装しているが、足運びで分かる。それなり以上の実戦を積んだプレイヤーだ。数は3人。得物は片手剣と小盾、ヌンチャク、そして全身を隠すマント姿の男だ。装備が明確な2人は荒々しく木箱の蓋を開けていき、やがて中身がいずれもない事に苛立ちを見せる。

 

「隠し梯子が下りてたんだ。とっくに持ち出された後だろうさ。悪いな、旦那。もうすっかり略奪されちまったみたいだ」

 

 片手剣使いとヌンチャク使いは大男を旦那と呼ぶ。リーダーではなく雇い主か。彼らはこの酒場の屋根裏部屋に麻薬アイテムが備蓄されていることを知っていたようだ。口振りからして店主と親しかったのだろう。うっかり漏らしてしまったか。

 マントの男は足首まで丈があるフード付きマントで完全に身を隠している。見た目は地味だが、かなり高い隠密ボーナスが付与されているな。素顔を見破るには正面からフォーカスロックを仕掛けるしかないだろうが、天井の隅に蜘蛛の如く潜むオレでは無理だな。インナー装備だけでは白夜の狩装束の持つ高い隠密ボーナスが得られないし、下手なアクションをして気づかれても困る。相手が≪気配察知≫といった索敵スキルを持っている危険性を考慮してもこのまま不動がベターか。

 

「……まだ新しい」

 

 大男は片膝をつき、オレが破壊した麻薬アイテムで濡れた床を指で撫で、指先に付着した粘性の高い黄金色の液体を鼻に近づけてニオイを嗅いだ。

 

「貴様らは知ってるか? 純度の高い甘蜜の水金は空気に触れたまま放置すると独特の濃厚な甘い香りに微かな硫黄臭が混じる。コイツを見ろ。高い粘性とまるで砂金を溶かしたような美しさ。間違いなく高純度品だ。それもとびっきりのな。だが、まだ甘い香りだ。何も混じっちゃいない。割られたのは30分以内……いいや、もっと短いだろうな」

 

「旦那は物知りですね」

 

「褒めても報酬の上乗せはしない」

 

「じゃ、じゃあ! 誰かが直近でこの屋根裏部屋を見つけて根こそぎ奪いやがったってことか!」

 

「違うな。見ろ。木箱は蓋が丁寧に閉ざされていたが、これだけ木箱の中で割られてる。略奪する奴らがご丁寧に片づけをするか? 他の木箱は最初から空だった。店主はどうやら仕入れる前にくたばっちまったようだな。そして、これは最後の1ケース。だが、中身はわざわざ箱の中で割られてる。略奪の最中に誤ったわけじゃない。破壊を目的とした証だ」

 

 ……しくじったな。競合がいないからと杜撰過ぎた。どうする? いっそ、このまま3人を……いいや、トラブルは避けるべきだな。

 

「ま、まさか大ギルドが!? それともチェーングレイヴ!?」

 

「大ギルドはあり得ない。連中も暇じゃないし、正義の味方でもない。金にもならないのに貧民の巣窟のお掃除なんてしない。そうなると、チェーングレイヴだろう。人手不足で、野犬の駆除さえも構成員以外を使わないといけないくらいだ。甘蜜の水金を取り扱っていた店の調査も外部からの雇い入れを使ってもおかしくない」

 

 ふむ、こちらの動向が掴まれているな。これまで接触した貧民コミュニティから情報が漏れたか? まぁ、それも想定の範囲内だ。だからこそ、オレも素顔と身分を隠して行動したわけだしな。

 

「だったら追いましょうぜ! 周囲の貧民共から情報を集めれば、すぐに……!」

 

「そうだな。ただでさえ高純度品は希少なのに、嫌なタイミングで動いたものだ」

 

 ままならないものだな、と男は嘆息を吐き、2人に先導されながら屋根裏部屋を後にする。

 この酒場に入る時も≪気配遮断≫は使っていたから、周囲の貧民プレイヤーにも気づかれてはいないはずだ。だが、厄介なことになった。あの男、どうやら高純度の甘蜜の金水をご所望のようだ。ヴェノム=ヒュドラが潰されて供給が断たれた以上、この先は精製も難しい希少品となるだろう。オレが保有している数本は存外に途方もない値段が付くかもしれない。まぁ、後はせいぜい治療目的の解析用のサンプルとして教会と大ギルドが保管している程度か。

 さて、どうしたものかな。音もなく着地したオレは人間が通るには難しい小窓を見つめる。成人男性には難しいが、オレの肩幅なら……うん、これ以上は止めよう。茅場と後継者をどちらもぶち殺したくなる。

 少し時間を置いて脱出だな。アイツらはご丁寧に屋根裏部屋の出入口をロックしたようだ。まったく、余計な手間を取らせやがって。

 瞬間、聞こえたのは地響き。そして、続いたのは浮遊感。オレが立っていた床は砕き散り、重力に従って落下する。

 

「……っ!」

 

「やはり、まだ屋根裏部屋にいたか」

 

 まずい! 着地狩りされる! まだ砕けきっていない床に踵をひっかけ、宙を舞って男から距離を取る。他の2人はいない。なるほどな。気づいていながら1度退室し、なおかつ屋根裏部屋を再度ロックしたのは2人を遠ざける為か。

 男の右手にあるのはすっっっごい見覚えのある独特の黒光りを浸した特大剣だ。うん、どう見てもイジェン鋼だ。それもかなり高純度だな。男の体格はかなりいい。肩幅はオレの倍にも達するだろう。身長は190手前ってところか。あの体格から察するに、特大剣でも特に幅広くリーチもある。高STRなのは確実だな。

 高STRなら高VITはセットだろう。特大剣を使うガチガチの近接ファイターか。だが、マントで姿を隠しているならば、何か別の奥の手があるかもしれないな。あるいは、単純に素顔を暴かれたくないだけか?

 

(あら、美味しそう。しかも攻撃してくれたわ。正当防衛よ。正当防衛よ。正当防衛よ! さぁ、狩りましょう! 狩りましょう! 狩りましょう! 今夜はご馳走ね!)

 

 そして、何よりも面倒な相手だという証拠がこれだ。ヤツメ様が嬉々と踊り、狩りをご所望だ。今宵の晩餐にしようとうっとりとした眼でオレを見上げておねだりしてくる。港要塞で戦ったチャクラム使い相手では欠伸すら掻いていたのにな。彼も素晴らしい『人』を持ったトッププレイヤー級の実力者だったのだがな。

 しかも、まだヤツメ様の導きを張り巡らしていなかったとはいえ、潜伏状態で気を尖らせていても捉えきれなかった。彼らが去ったと思い込んだ瞬間を明確に狙われた。鍛え抜かれた……相当な修羅場を潜り抜けた武の持ち主だ。鍛え抜かれた『力』はまるで名称が打った日本刀のように研ぎ澄まされている。

 ……まだこんなプレイヤーがいたとはな。それとも灼けた記憶のせいで思いつかないだけか? 何にしても確信して言えるのは、コイツは間違いなくレベル100に到達し、プレイヤーを……人間を斬った経験があり、生死をかけた戦いで幾度となく勝利を掴んできた猛者ということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、素晴らしい! 戦わずとも『人』として高みに到達していると感じて血が昂る!

 

 

 

 

 

 

 ヤツメ様の導きを張り巡らせる。これだけの上物だ! 背中を見せて逃げるのは失礼極まりない! 殺し合いがお望みならば、喉元を食い千切ってあげるのが礼儀というものだ!

 

「……なるほどな。どうやら、とんでもない猛獣の尻尾を踏んでしまったか。我ながらいつもの事だが、運が無い」

 

 男の構えが変わる。右手で軽々と持つ特大剣で身を隠しながら、こちらの出方を窺っている。隙が無い。対人戦の経験も相当だな。

 キリトと同じく武の極みに到達することを許された資格者。ランスロットと同じ領域に至れる稀有な才能の持ち主だ。

 

「クヒヒ」

 

 勿体ない。贄姫を除けば、サブマシンガンしか持ってきていないのが実に勿体ない。しかも防具はインナー装備を除けば中位プレイヤーの量産装備。オレのVITを考量すれば、普段以上に一撃死のリスクは高い。だが、調整を施して完璧になった贄姫の相手に不足はない。

 血刃居合から攻める? それとも背後を取って首を落とすか? ここは倉庫。密閉空間だ。特大剣を振り回せるだけの広さはあり、故に大部分は男の間合いであり、しかも高純度のイジェン鋼製ともなれば、こんなボロ家の壁に当たっても刃は止まらない。だが、減速はするだろう。わざと追い詰めさせ、剣先が壁を削って剣速が鈍った瞬間に仕留めるか?

 ああ、悩ましい! 悩ましい! 悩ましい! どんな風に戦おう? どんな風に狩ろう? どんな風に殺そう? どうすれば、たくさん、たくさん、たーくさん『遊べる』かな!?

 

「……割に合わないな」

 

 悩んでいると男の足下に何かが転がる……って、あの独特の筒状の形状は太陽の狩猟団製の閃光筒か! 目を潰すような眩い光が放たれ、更には濃厚な赤色のスモーク、それにこのニオイ……唐辛子まで混ぜ込んだ改造品だと!?

 

(面白いわ! 真っ向勝負の剣士というわけではないという事ね!? 狩りはこうでないと楽しくない!)

 

 ヤツメ様が導きを張り巡らせる。倉庫の出口は1つ。だが、男は安易にそこを突破しない。壁を破壊して抜け出そうとするはずだ! 問題は方向であるが、ヤツメ様の導きが収束して居場所を暴く!

 贄姫一閃。確実に首を落とす斬撃は肉に食い込む感触が確かにあった。

 

「……逃げられたか」

 

 贄姫に付着した男の血を見つめて溜め息を吐く。やはり相当な武の持ち主だな。あらかじめ首を特大剣でガードしていたか。斬撃は押しきれずに逸れた。せいぜい二の腕を裂いたくらいだろう。相手の防具にもよるが、この出血量……浅いな。

 点々と続く血痕は破壊された壁の向こう側にまで続いている。スモークも壁の穴に流れ込んで消える。

 運が良い……いや、備えが良い。閃光だけならばそもそも青血の義眼のお陰でオレには通じない。右目の肉眼はともかく、左目の義眼は眼帯に覆われているし、何よりも狂縛者のソウルを使っているだけあって即座に最良の状態に回復する。

 だが、スモークは完全に視界を潰した。以前の義眼に備わっていた能力のソウルの眼ならば対象のソウルを視認して位置を特定できるのだがな。うん、攻撃特化にし過ぎた弊害だな。まぁ、破損によって失われた能力で、しかもグリムロックがソウル素材を用いても復元できなかったのだ。無いものねだりは止めよう。

 

「うーん、さすがに唐辛子入り。地味に有効だな」

 

 とはいえ、所詮は小細工。現実ならば有効でも仮想世界ではそうもいかない。まぁ、涙で視界が滲めば儲けものくらいの改造だろうな。だが、事前に想定していなければ、最初の刺激の時点でパニックを起こせるし、心理面を揺さぶれるので手間以上の価値はある。

 ……最近はこうした小細工をしていなかった。初心に戻れという事かもしれないな。ここしばらくグリムロック任せだったし、たまにはオレに出来る範囲で狩り道具を準備するか。

 追えないことも無い。逃げる獲物を追い詰めるのも狩りの醍醐味だ。だが、今は仕事中だ。今後も襲撃される危険性の高い不確定要素ではあるが、面倒事を増やすとクラインから報酬を減らされかねないからな。金ならともかく今回は素材が報酬だ。報酬をランクダウンされては堪らない。

 贄姫に付着した血を指で掬い取って舐める。ああ、とっても甘いけど何処か渋みを感じる味だ。

 スミスとは違う方向性の大人の男といった感じだったな。落ち着いた低い……とても魅力的なダンディな声だった。きっと素敵なおじ様なのだろう。この渋みは積み重ねた苦楽の味か。

 

(……食べ損ねた)

 

 不機嫌にヤツメ様が頬を膨らませる。そうですね。今回は相手が1枚上手だったという事でしょう。まさかあの場面から即座に逃げに徹するなんて思いもよりませんでした。ハァ、あのポンチョ男といい、強い大人の男は逃げも上手いみたいだ。ずるいなぁ。

 オレの潜伏を見抜くクレバーな立ち回り。ヤツメ様の導きを出し抜いた実力。特大剣に有利な戦場であったにもかかわらず、死亡の危険性を即座に看破して戦闘に固執せずに最低限の負傷で済ませる逃げを選択した判断力。全てが1級品だ。間違いなくトッププレイヤーの中でも上位に食い込める。

 

「まぁ、機会があれば次に狩るさ♪」

 

 ああ、楽しみだ。今度は何処で会えるだろう? 出来れば戦場がいいな。互いに逃げ場のない、殺し合う以外にない、素敵な戦場で出会えると良いなぁ♪

 

「クヒ、クヒヒ、クヒャヒャヒャ!」

 

 もしも、もしも人類を殺し尽くそうとすれば、あんな素晴らしい武の持ち主がたくさん殺しに来てくれるのだろうか?

 そうすれば、明けることのない狂おしい『夜』の中で、人類が滅びる時まで遊んでいられるのだろうか? 皆と一緒に踊っていられるのだろうか?

 殺して、殺して、殺した果てで、月光を携えたキリトがオレを全力で、心の底から倒すという決意を抱いて、戦ってくれるのだろうか?

 

「……どうでもいい」

 

 呼吸を整える。オレは狩りを全うする。永遠に続く夜を望んではならない。あらゆる獣を狩り尽くし、夜の闇に蠢く全てを殺すのだ。

 自分の喉にそっと触れる。かつて贄姫がそうしたように、歴代の神子がそうしたように、オレも……オレも……オレも夜明けを阻む『最後の獣』を狩らねばならない。

 

「ねぇ、どうすれば『幸せ』になれるの?」

 

 リゼットさんに教えてもらったのに、分からないんだ。『幸せ』の意味を命の全てを使って教えてくれたのに、どうすれば『幸せ』になれるのか分からないんだ。

 でも、ただ1つだけ確実に言えることがある。

 きっと、『最後の獣』を狩った果てでも、オレは何1つとして『幸せ』の欠片すらも手に入れることは出来ないのだろう。

 

「どうでもいい。どうでもいい。どうでもいい」

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。だが、剥がれ落ちない。

 自ら進んで『獣』に喰われていった……火に焼かれていった彼らが……ザクロが残した呪いが許さない。

 喉に触れていた指を口元に向かわせれば、もはや笑みなどなく、ただの乾いた真一文字。何の感情も映さない無表情がそこにある。

 

「少しだけ……疲れたな」

 

 だからこそ、手抜きはしない。クラインに確かめないといけない事がある。

 思い浮かんだのはユウキの顔だ。いつだって彼女には笑顔でいてもらいたい。殺したいくらいに愛しているからこそ、この手がその細い首に触れる時まで笑っていてもらいたい。

 

「ああ、カイザーの兄貴が言っていたのは……こういう事か」

 

 本音がどうであろうと、1番最初に浮かんだものが重要なのだ。たとえ『嘘』であれ、ユウキには泣いてほしくない。

 だから、多少の面倒が増えても、手間がかかるとしても、本当は惨たらしく殺したがっているとしても、やるべき事はやっておきたいのだ。

 贄姫を鞘に収めて歩き出す。今日中に仕事を終わらせたいところだな。そうしなければ、取り返しのつかない事態に陥るかもしれない。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 酒は心を癒す為に飲むのではない。心を休める為に飲むのだ。

 そう教えてくれたのはマクスウェルだった。クラインはグラスの中で溶ける氷と交わる琥珀色の液体を見つめながら、亡き戦友を振り返る。

 SAOで仲間を失い、直接的に殺したクゥリに憎しみを抱き、だがそれしかなかった事実を受け止め、故に己の無力さを噛み締めた。

 自分が生き残った意味を探した。世界中を旅した。死に場所を求めるように。だが、誰も死なせてくれなかった。運命さえもが生きろと言うかのように。

 そして、DBOに辿り着いた。死者を再び眠らせる為に。たとえ、それが地獄に捕らえる為の誘い文句だとしても乗ったのはクライン自身だ。後悔はない。

 キリトのような卓越したバトルセンスも剣才も無かった。だからこその目的を果す為に、自分にできる最上を尽くした。

 まだまだ成長できる。まだまだ強くなれる。DBOでは意外にも自分の底にはまだまだ到達していなかった事に驚いた。SAOで培った経験は地力としては十分であり、スタンダードから外した我流喧嘩殺法、ユニークスキルの獲得、そして現実の肉体に施してある『処置』によって、トッププレイヤーとしての地位を保てていた。

 だが、DBOのプレイヤー人口の増加は個人の実力・技能では覆せない組織力の差をどんどん大きく見せつけていった。

 クラインが得意とするのは『チーム』を纏め上げる事だ。言うなれば、クラインは隊長の器であって将軍には至れない。王にはなれないのだ。

 チェーングレイヴの大義も相まって組織拡充もならず、構成員の個々の実力は足らずともマンパワー不足は日に日に目に見えており、裏の秩序の維持すら綻び始め、ヴェノム=ヒュドラという毒蛇を世に放ってしまった。

 クラウドアースとのパイプが途切れたのもそういう意味では妥当と言えるだろう。衰退が目に見えているチェーングレイヴよりも組織規模が大きい犯罪ギルドと繋がりを持ち、支援した方が裏の秩序の維持には都合がいい。もちろん、まだ機能を果たしているチェーングレイヴと手を切るのは明らかに時期尚早であり、新議長のベルベットの判断ミスであるが、仮にベクターが続投していたとしても、遠からぬ未来で同じ判断を下しただろう。

 マクスウェルはチェーングレイヴが誕生した経緯からも安易な人員増加が出来ない事を苦慮し、多くの布石を打っていた。彼の卓越した経営能力はまさに縁の下の力持ちであり、本人も魔法使い型ではあっても秀でたプレイヤーであったならば、クラインよりも貴重な人材だっただろう。

 残された手段も時間も少ない。今までのやり方を続けていれば、間違いなく大義を果たす事すらも危うくなる。だからと言って、ジュリアスが提案した強硬手段に出るのはあまりにも無謀過ぎる。

 まず間違いなく全大ギルド・教会が敵に回り、なおかつキリトが最前線に出張ってくる。キリトを抑えられることは出来ても勝つことは出来ない。また時間稼ぎもどれだけできるか。それがクライン自身が己に下した戦力評価だ。

 本来ならば、対キリトを想定して引き入れたユウキだったが、彼女はアルヴヘイムで敗れ、またチェーングレイヴに所属する意義を失った。しかも聖剣まで手に入れたのだ。キリトが出陣した盤面は落とすことを念頭に入れねばならなくなる。キリトが相手でも戦略的勝利を得られるだけのマンパワーがチェーングレイヴに決定的に欠落しているのだから。

 いや、そうでなくとも大ギルドの戦力はもはや戦闘が成立する規模ではないだろう。個人サークルが国家に勝負を挑むようなものだ。大ギルドの1つでも動けば、チェーングレイヴはあっさりと壊滅させられるだろう。

 確かにクラインを含めた幹部陣全員がトッププレイヤー級なのは個人戦力として見たらチェーングレイヴは秀でた組織だ。対戦人数が決まっている試合形式ならば勝ち目もあるだろう。だが、戦争では勝てない。いや、戦争にすらならない。ゲリラ戦で苦しめることは出来ても『駆除』される未来が定まっている。

 完全に先手を取り続けたゲリラ戦を仕掛けたとしても耐えられるのは3日が限界。それがマクスウェルの出した結論だ。最終的に武力行使が求められる局面に到達した場合、全く察知されていないという前提の下でも3日でチェーングレイヴは1人残らず討ち取られる。

 しかし、それも現状の差異だった場合である。『たかだか100名』規模では現状でも3日が限界なのだ。更にここにマクスウェルが死んだ穴も加わる。もしかせずとも2日と耐えられないかもしれない。100名という本来ならば十分に大規模であるはずのギルドでさえも現状のDBOでは大した数にもならないのだ。

 加えて機動甲冑の登場を筆頭に、資本力と技術力による個における実力差すらも狭めた。攻略を考えない対人に絞った『兵士』の増産も順調だ。闇を担う暗部も十分以上である。

 冷静に考える程に戦いにはならない。だからこそ、完全不意打ちの先手を取り続けても3日しか『耐えられない』と結論を出したのだ。それも襲撃する先の規模や状況次第で幾らでも変動するだろう予測である。

 

(俺がすべき事は分かってるさ。マクスウェルの置き土産を最大限に利用する)

 

 組織の拡充は必須。だが、今から急に人員を増やしたところでチェーングレイヴは見かけだけの存在となり、大義を行使することは出来なくなる。ならばこそ、やるべき事は見えている。後は自分の決断に皆が頷くか否かだ。

 死者を眠らせるという大義の下でどれだけ死体を積み重ねることは出来るのか。大義に酔わねばやってられない。ならばこそ、扇動すべきはクラインだ。そして、悪魔と握手せねばならないのもまたクラインなのだ。

 

「……よう」

 

 だが、悪魔と契約を交わせば定められた代償を支払うだけだが、天使とはどうだろうか? 酒場に顔を出したクゥリを一目見て、クラインは在りし日を思い出す。

 自分の命に全く無頓着で、危険を危険と思わぬような立ち回りをしていたクゥリを叱りつけたのが初めて出会った時の記憶だ。

 怒られた事に驚いている様子で、何故か懐かれた。より男らしくなるようにと指導したのもクラインだ。彼が自分の傍にいた男性像を思い浮かべ、トレースし、まるで粗野な悪ガキのように振る舞い始めた時は、自分はとんでもない事をしてしまったと後悔したと同時に……安堵した。

 人間離れした美貌と雰囲気は表情と態度で靄に隠され、無邪気で無垢で危うさを湛えた言動は鳴りを潜めたからだ。最初に出会った時の、まるで天使の遭遇してしまったような感覚はいつしか思い出せなくなっていった。

 良くも悪くも『人間らしさ』があった。たとえ、それが道化だとしても、化粧の下にある理解し難い『何か』が見えなくなっていた。

 だが、こうして直に相対すれば嫌でも分かる。アルヴヘイムで再会した時とはまるで違う。雰囲気からして別格だ。あの頃の人見知りの天使の頃とも違う。まるで卵を割り切って孵化したようだった。美貌はより磨きがかかり、所作の1つを取っても気品と色気が共存して心を惑わし、微笑みは否応なく精神を掻き毟り、赤が滲んだ黒という不可思議な色合いの瞳は静謐にして混沌を矛盾することなく溶け合わせて底無しの深みを生み出している。

 

 

「待たせたな」

 

 唯一、口調だけはクラインに合わせた、旧友との語らいの為に調整された砕けたものだった。それがSAOにおける彼と共有した時間を……殺された仲間たちを思い出させ、見惚れる事を拒ませた。

 仮想世界であろうとも直に会えばここまで違うものなのか。クラインはカウンター席でグラスを2つ並べる。店主も含めて人払いは済ませてある。クゥリと2人だけで会うのは他の面々も反対したが、たとえ悪名高くともサインズの正規のランク持ち傭兵だ。チェーングレイヴのトップとの面会など風評を立たせるものではない。もとい、そんな噂が立てば、むしろチェーングレイヴの方が不味いことになるのだ。

 

「酒はいい。仕事中だ。しかし、幾ら支配下とはいえ、オレと会うのに店を貸切とは気前がいいな」

 

「世辞はいい。飲まねぇってなら本題に入ろうぜ」

 

 そして、相変わらず自己分析が甘い。自分の影響力を過小評価し過ぎている。クゥリと接触した側がどのような目で見られ、どのような対処をされるのか、全く考えていない。それでいて、チェーングレイヴの仕事を受ける時には、きっちりと自分の監視を引き剥がす程度はやっておくプロフェッショナルだ。

 

「その様子だと難航してるようじゃねぇか」

 

「そうでもない。アリシアの居場所の目星はまだついていないが、次の襲撃先は大よそ割り出せた。後は情報の量と収集速度の勝負だ。チェーングレイヴの手を借りたい」

 

「悪いが、動かせる人員は少ない。ほとんどがヴェノム=ヒュドラの残した傷跡の始末に負われてる」

 

「…………」

 

「相変わらず分かりやすい奴だ。どうせ行く先々で舐められたんだろうがよ」

 

 クゥリは自分の口元に触れる。どれだけ無言だろうとも態度で分かるのは相変わらずだ。クラインは少しだけ口元が緩み、だがすぐに引き締める。

 今も憎く、だが同じくらいに慕っていた過去がある。兄貴面をして、あれこれ面倒を見てやって、自己満足でも確かに絆があったという過去の記憶が脳裏を引っ掻くのだ。だからこそ、これ以上は憎みたくない。仲間を殺せたのは自身の無力さが原因だと割り切れるのは天秤が傾いていないからだ。

 

「これでいいのか?」

 

「オメェが気にするようなことじゃねぇさ。これは俺達の問題だ。仕事にだけ集中しろ。で? 何の情報が欲しい?」

 

「……ヴェノム=ヒュドラについて。奴らの手先となっていた連中も含めて詳しくな」

 

「無理な相談だな」

 

「その程度も集められないのか?」

 

「そうじゃねぇよ。関係者という枠組みだと『多過ぎる』だけだ」

 

 チェーングレイヴが通常業務も滞る程に人員を割り振らねばならないのは、ヴェノム=ヒュドラの毒は広範囲に亘って表にも裏にも染み込んでいたからだ。表に関しては大ギルド・教会が中心となって清掃するだろう。正確に言えば幾らかの見せしめで露呈していない関係者に圧力をかけていくはずだ。そうでなくともあの手この手で浄化を進めていくだろう。

 一方の裏の秩序とはそうもいかない。ヴェノム=ヒュドラはダメージを受けても未だ健在であり、ひとまず表への魔手を引っ込めたに過ぎないからだ。彼らは裏の盟主となるべく最下層を根城にして次々と犯罪ギルドを併呑・服従させている。単純な総数は間違いなく全犯罪ギルドでもトップである。

 加えて技術力・資本力・個人の突出した戦闘能力まで確保している。先の『仕置き』のダメージがあるとしても、裏の盟主として名乗り上げる資格は着々と揃えてあり、このままいけば大ギルドが密約を交わすのも時間の問題だ。

 チェーングレイヴによる裏の秩序は遠からず終わりを告げ、裏は血で血を洗う抗争の無秩序がやってくる。チェーングレイヴが用心棒として機能しないならば、より武力の確保に注力せねばならず、それは更なる混沌を生む。エバーライフ・コールのようなチェーングレイヴ中心の秩序に対して中立の立場だった犯罪ギルドも続々と新たな動きを見せるだろう。

 今はチェーングレイヴやヴェノム=ヒュドラの台頭に危機感を持った有力な犯罪ギルドが排除を進めているが、根城にしている最下層はまさしくDBOの掃き溜め……貧困のまた貧困。あらゆる悪意と不浄が集まる場所だ。彼らからすれば下層すらも妬みの対象になるのだ。

 逆に言えば、最下層に拠点を置いて支配を進めるヴェノム=ヒュドラは最下層の住人からすれば上手く乗っかれば成り上がれる大船であり、自ら下る者も多く、抗う者は呑み込まれる。そして、ヴェノム=ヒュドラの影響力は下層にまで及び、そして表にまで滲み出ていた。

 炙り出してもキリがない。終わりがない。そもそも正直にヴェノム=ヒュドラと握手を交わした者が名乗り出るはずもなく、なまじ数が多過ぎて調べきれず、粛清しきれず、ある程度は放置するしかないのが実状なのだ。

 とはいえ、クゥリにそれらを伝えたところで意味はない。掻い摘んで説明すれば、クゥリの眉が微かに曲がる。

 

「面倒臭いな」

 

「人が増えればこうもなるさ。終わりつつある街もパンク寸前だ。大ギルドや有力ギルドが中心となってフロンティア・フィールドの入植を進めているのもキャパの問題だしな」

 

「他のステージに入植しようにも交通の便が悪い。そうなれば食料の運搬さえもままならない。しかも現地における生産コストも割高かつ利用可能な土地も限られている……か。それならレベル100級でも、他ステージとは違って移動する条件が緩いフロンティア・フィールドの方が大多数の、戦闘をせずに生活の安定だけを望むプレイヤーにとっては魅力的というわけか」

 

「支配階級にとってもな」

 

 クラインは素直に驚いていた。クゥリが想像以上に現状を把握し、フロンティア・フィールドの入植についても十分に理解していたからだ。

 いや、クゥリはそういう奴だったとクラインは思い出す。何も考えていないようで、実は熟慮し、考察し、分析を怠らない。単純に口にせず、また1番大事な局面程にどうでもいいと追及を放棄しているだけだ。

 

「……フロンティア・フィールドへの入植が進めば経済圏が生まれる。大ギルドの直轄地と傘下の有力ギルドの支配域。終わりつつある街は言うなれば自由交易都市みたな位置づけになるだろうな。そんでもって、残された未開のフロンティア・フィールドを巡って探索し合い、それも終盤に差し掛かれば……領地の奪い合いの小競り合いだ。大ギルド同士は歯止めが利くだろう。だが、傘下の有力ギルドが行き過ぎれば……ドカンだ」

 

「ギルド間戦争」

 

「そういうわけだ。上は理性的な判断が出来ても、下は目先の利益が最優先。戦争の発端なんて大層な御託よりも些細な諍いに見出すものさ。話が逸れたな。ヴェノム=ヒュドラの関係者なんて腐るほど多過ぎる。そもそも関係者を何処までで線引きするかにもよるからな」

 

「……だったら、ひとまずはコイツで絞れるか?」

 

 そう言ってクゥリがアイテムストレージから実体化させたのは、蜂蜜のような黄金色をした液体を封入している小瓶だ。

 

「甘蜜の水金か? ウチも回収を進めてるが、こりゃ上物だな」

 

「駆除を進めてるのか?」

 

「まぁな。なにせ高い中毒性であっという間に分量が増えて廃人に変えちまうからな。教会が中心になって治療を進めちゃいるが、受けられるのはほんの一握り。嵌まっちまった貧民プレイヤーのほとんどは中毒性に苦しみ、やり過ぎた奴は死を待つだけの思考しない肉の塊になっちまう」

 

 販売・仲介・製造に関わった者は根こそぎ排除している。従来の麻薬アイテムを製造・販売していた犯罪ギルドまで乗り気だ。なにせ甘蜜の水金は中毒性のお陰でリピート率が高くとも、リピーターは瞬く間に『減る』のだから。長きに亘って生き血を啜らねば意味がない。特に一時期蔓延した娼館では、稼ぎ頭の娼婦を事実上失ったところも多く、徹底的な排除に精力的だ。

 

「まだ推測の域だが、アリシアは甘蜜の水金の『ニオイ』を目印にターゲットを絞っている」

 

「……何?」

 

「狼も野犬も嗅覚は鋭い。甘蜜の製造者・販売者……そして、中毒者は特にニオイが濃く纏わりついているはずだ。貧民プレイヤーは風呂に入る機会もまともにないし、着替えの服もないからな」

 

 体が洗えるような水場はコミュニティの有力者に支配され、あるいは危険地域で踏み入れない。故にせいぜいが週に1回だけ小さな桶に汲んだ濁った水で体を洗うので精一杯の者が多い。娼館にも入れなかった路上娼婦はそれを誤魔化す為に安物の香水を纏う。その方が入浴よりも安上がりだからだ。

 当然ながら歯磨きなどしない。そもそも虫歯が無いのだから口臭や見栄えさえ気にしなければやる意味がない。甘蜜の独特の強く粘ついたニオイが残るならば、確かに嗅覚に鋭い狼であるアリシアや野犬がターゲットを選別する条件として機能するだろう。

 そうだ。ターゲットだ。クゥリの推測が正しければ、アリシアは無差別に襲っているのではなく、対象を選んで野犬をけしかけている事になる。

 

「前提が間違っていた。アリシアは野生化したんじゃない。明確な意思……『復讐心』で動いている」

 

「復讐……だと? まさかアリシアの奴、マクスウェルの……!」

 

「仇を討つつもりなのだろう。ヴェノム=ヒュドラと直接・間接問わずに関与した全員を皆殺しにするつもりだ。その手始めとして甘蜜の水金に関与したプレイヤーを襲撃している」

 

 確かにアリシアはアリーヤと同じく頭が良かった。アリーヤ程に感情を見せるタイプではなかったが、マクスウェルを主として慕っていたのは違いないだろう。

 アリシアの役割は典型的な後衛の魔法使いであるマクスウェルの護衛にして機動力を担う事だ。並の近接プレイヤーならば寄せ付けないスピードと攻撃力を持ち、なおかつ緊急時にはマクスウェルを背負って離脱することも可能だ。

 マクスウェル本来の戦法とは、アリーヤとアリシアの黒狼2匹を用いたものである。だが、アリーヤを失い、死したミッションではアリシアを留守番させた。

 当時、アリシアはクラインの護衛についていた。ヴェノム=ヒュドラに動きを察知され、攻勢を仕掛けられた時、万が一でも彼を離脱させる為であった。だが、それが裏目となってマクスウェルは命を落とした。

 さぞかし無念だっただろう。同朋のアリーヤは慕っていたユウキを最後まで守り抜いて死んだとマクスウェルは言い聞かせていた。ならばこそ、アリシアはアリーヤに代わって主を守り抜くと決めていたのかもしれない。

 だが、主は討たれた。テイミングから解放されたアリシアはモンスターとしての機能を取り戻して自由となり、だからこそ主を奪い取ったヴェノム=ヒュドラの関係者全てに牙を剥くことを決めたのだ。

 使用者もまたヴェノム=ヒュドラに利を与えた広義の協力者であるならば容赦はせず、販売・製造に携わったならば以ての外だろう。暴走にも等しいが、復讐とは制御しきれない感情の産物であるならば、そこに冷静さを求める方が異質であり、故に理解できる。

 

「アリシアにとって、これは序幕に過ぎないだろうな。言うなればヴェノム=ヒュドラと関与した全ての者に対する宣戦布告だ。今のアリシアは野犬の統率が何処まで出来るかも含めて研究・実験している最中でもあるはずだ。予想が正しければ、既に野犬は組織化されている。知能は低いからこそ統率に乱れはなく、頭であるアリシアは……」

 

「ずば抜けた知能の持ち主。ワンコだと思って舐めたプレイヤー相手なら出し抜くのは朝飯前だ」

 

「クライン、正直に答えろ。終わりつある地下ダンジョンに、強力な犬系モンスターは……いるか?」

 

 チェーングレイヴの強力なアドバンテージ。大ギルドも容易に切り捨てられない理由の1つである地下迷宮の支配。クゥリは自分が知らないからこそクラインに求める知識は、最悪の回答を導き出す。

 

「いるぜ。とびっきりに凶悪なのが何種もな」

 

「やられたな。野犬による被害は復讐の狼煙と共に陽動もかねている。ヴェノム=ヒュドラと自分が率いる野犬への対処で手一杯ともなれば、地下ダンジョンの深部と繋がった出入口は見張り切れていないはずだ。もしも、アリシアが統率できるのが野犬ではなく、狼・犬系モンスター全てで、しかも支配下においたモンスター全ての行動範囲を拡大させるものであるならば……」

 

「ヤバい! 連中は野犬なんて目じゃねぇぞ! 中位プレイヤーどころか上位プレイヤーにも死者が出る! いや、不意打ちならばトッププレイヤーでもな!」

 

 事態が想像以上の緊急を要すると察し、クラインは席を立とうとするが、クゥリが肩を押して止める。

 

「頭が先陣を切るな。それにここでチェーングレイヴが大きく動けば、今回の事件の責を負わされるぞ。まぁ、それもアリシアの狙いなのかもな。自分を始末する為にチェーングレイヴが動くのは必定。だからこそ不動を強いる戦略を……そうか。読めてきたな。つまり、次に野犬の統率を確固たるものとし、地下ダンジョンから戦力を強化したアリシアが狙うのは……あそこか」

 

 まるで蜘蛛のように無機質な殺意が渦巻く瞳。だが、クゥリは何処か楽しげにも思えた。まるで、これからアリシアが起こす災厄を心待ちにもしているような残虐性を覗かせる微笑みを描く。

 

「野犬の動きについて情報収集を頼む。各貧民コミュニティも上手く先導して味方につけろ。あとまだ処分していないなら回収した甘蜜の水金を罠に使え。アリシアを誘導する事が出来るかもしれない。まぁ、そんな安い陽動には引っ掛からないだろうが、攪乱にはなるし、次第によっては追い詰める手がかりを作れる」

 

 クゥリはコートのフードを被り、仕事だとばかりに出発しようとして、だが足を止める。

 

「聞きたい事があと2つ残ってたな。1つ、アリシアの統率能力を知っていたか?」

 

「そんな便利な能力があるならチェーングレイヴは人手不足で困ってなかったぜ」

 

「それもそうか。そうなるとテイミングした時点でオミットされた能力だったのかもな。あるいは……いや、どうでもいい」

 

「もう1つは何だ? さっさと言え」

 

 このままでは野犬の比ではない被害が出る。そもそもDBOにおいて犬系モンスターは鬼門なのだ。中位・上位プレイヤーでも単身では対処しきれない者は多い。それが統率されて群れを成し、しかも強力なレベル80級まで混ざった無尽蔵となれば、もはやネームド級といった枠組みさえも超えた災厄そのものだ。比喩でもなんでもなく、上層から最下層に至るまで終わりつつある街を滅ぼせるだけの力を持つことになる。

 このまま黙って座って酒を飲んでいるわけにもいかない。たとえ、構成員を安心させる為に必要だった処置だとしても、今はかなぐり捨てて剣を抜くべき時だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アリシアを……殺さないで済むなら……その方がいいか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 は? クラインは思わず瞬きして、また思考が明滅した。

 クラインが無言でいるとクゥリは俯く。フードは闇を生んで顔は隠れ、表情は窺い知れなくなる。 

 

「アリシアは自分を捕獲しようとした……チェーンぐレイヴのメンバーを……殺さなかった。『殺したくなかった』んだ。アリシアにとって……テイミングが解除されたとしても……『敵』じゃなくて……むしろ大切な仲間で……だからこそ、仲間を苦しめてるヴェノム=ヒュドラがより一層許せなくて……もしかしたら、使用者を襲っているのも、チェーングレイヴが敷いた秩序を無下にしているのが許せないからで……」

 

「クゥリ」

 

「だ、だから……だから! これは……『依頼』だ。チェーングレイヴからの……クラインからの……依頼なんだ。だから、殺したくないなら……『狩るな』って言うなら……オレは……傭兵として……依頼を達成する、つもりだ」

 

「クゥリ」

 

「ア、アリシアも……ユウキに懐いていたし、殺さないで済むなら、彼女も……苦しまずに、済む。殺したくないなら……オレは……オレは……努力する。ううん、殺さないように……絶対に殺さないように頑張る……から。だから………だから……」

 

「クゥリ、もういい」

 

 きっと本人はクールを装いながら、冷静沈着に伝えているつもりなのだろう。だが、声は震えていて、苦悩していて、どうしたらいいのか分からなくて、まるで子どもが放課後まで残っても分からなかったテストの問題の回答を教師に尋ねるような迷いで満ちていた。

 クラインは振り返る。仲間を殺した。クゥリは一切の容赦なく仲間を殺し尽くした。それがあの局面で必要だったからだ。

 勝利に……敵を殺しきるのに、クゥリは一切の迷いがない。だからこそ、必要ならば仲間だろうと殺せる。そして、他の方法があったとしても後悔はしない。そんなものは思いつかず、また実行しても成功したかも分からず、また後悔しては殺した者達を侮辱することになるからだ。少なくとも本人の口から堂々と告げられ、クラインは感情を爆発させた覚えがある。

 言葉足らずでありながら容赦がない発言が飛び出る。それがクゥリだ。口は禍の元とは彼の為にあるのだろうとさえ思う。

 クゥリは迷わない。『己の判断』に迷いはない。目的達成の為ならば迷いなく殺す。だが、これは『依頼』だ。『クラインの判断』で下した依頼なのだ。

 必死に考えてくれたのだろう。クラインの事を、チェーングレイヴの事を、何よりもユウキの事を考え抜いて、殺す方が断然に楽であるはずなのに、わざわざ自らに苦難を課すように、提案をしてくれたのだろう。

 立ち上がったクラインは俯いたままのクゥリの正面に立つ。自分が長身なのもあるが、やはり小さい。いや、根本的に肩幅が狭く、華奢で、まるで女の子のようだ。そして、肩は返答に対する不安を示すように……僅かに震えていた。

 

「捕獲できるようなら捕獲しろ。オメェが無理だと判断したら殺せ」

 

「それで、いいのか? 本当に……それでいいのか?」

 

 顔を上げたクゥリは……何処か嬉しそうに微笑んでいた。必死に縋りついていた、振り解かれるとばかりに思っていた手が握り返してくれたかのように。

 クラインは額に巻いたバンダナを指で弄りながらニッと笑う。チェーングレイヴのボスでも、滅んだ風林火山のリーダーでもなく、かつてクゥリと出会ってしまった1人のプレイヤーとして……いいや、1人の男として笑う。

 

「おうよ! オメェの判断なら間違いねぇだろ! アリシアの手足を折って≪調教≫用の檻にぶち込んで無力化しちまえば、後はゆっくり時間をかけて説得できるぜ。だからよ、殺さないで済むなら殺さないでいい。だが、殺すしかないと判断した時は殺せ。依頼主である俺が許す」

 

「分かった。分かった。分かった! 任せろ!」

 

 初めてのお使いに行くガキのようだ。クゥリは弾けるように酒場を出る。行き先も告げずに、彼が見抜いた次なる凶行が起きる場所へと。

 カウンター席に戻ったクラインは酒を飲む。それが自分の仕事だ。ボスとしてどっしりと構えて部下の仕事に期待する。クゥリの報告を待つ。

 そうだ。待つしかないのだ。力が入り過ぎたグラスがひび割れる。

 

「リーダーなんて……なるもんじゃねぇなぁ。背負いたくもねぇもんまで背負い続けなきゃならねぇんだかな。だがよぉ、因果なものだぜ。テメェの願いを叶える為には必要なんだからな」

 

 そうだ。今もこの心はクゥリを憎んでいる。仲間を殺した事を仕方なかったと言いつつも憎み続けている。

 それが責務だからだ。仲間を率いて戦い、仲間を殺されたクラインの使命なのだ。クゥリを憎み続けねばならないのだ。

 だが、『クライン』という人間は違う。本当はとっくに許している。クゥリは誰かがやらねばならなかった事を、最速・最短で判断を下して実行しただけだ。無情なまでに慈悲も無く、あるいは殺す事こそが慈悲であったように。だからこそ、これ以上は憎みたくない。

 クゥリは殺すことに迷わないだけだ。言葉にしないだけで、多くを考えている。今回もまた、彼なりに考え抜いて提案してくれたことも分かっている。

 

「殺す。必ず殺すさ。それがオメェなんだよ……クゥリ」

 

 だからこそ、クラインは呟くのだ。どれだけ熟慮したところで、最後には一切の迷いなく殺しきって踏み躙るのはクゥリ自身なのだ。

 クラインは諦観ではなく、憐憫にも似て、だが確かな友愛が含んでいる吐息に唇を噛み、そして酒で苦悩を飲み込んだ。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「キリりんはさ、馬鹿だよね」

 

 こ、恐い……! ユナはキリトを問答無用で土下座に追いやった、滾る炉の熱や香る鉄錆のニオイとは相反した可憐なる和服少女に怯えを隠せなかった。

 

「いや、これには深い訳が……!」

 

「黙れ」

 

「はい!」

 

 事の発端は土下座するキリトの後ろで震えて動けなくなっているユナである。

 エドガー神父の仲介もあり、今回のキリトが受託した仕事の教会からの監督役として派遣される体裁を得たユナであるが、彼女自身は成長ポイントの割り振りもスキルの獲得も装備も整えていない。そうした準備不足こそが、先の拉致において自力で脱走しきれなかった要因にもなっていた。

 キリトはDBOのゲームシステムも熟知しており、スキルやアイテムに関しても多くの知識を持っている。エドガーもキリトならば安心だろうと快く申し出を受けてくれた。

 

『自らの意思で苦難の道を行く者を祝福するのは聖職者の役目。このエドガー、何も言いますまい。ですが、キリト殿の指示にはくれぐれも従うように』

 

 エドガーから激励を受けたユナは即座にエイジにも連絡を取って話をしたが、返ってきた反応は淡白なものだった。

 

『……【黒の剣士】か』

 

 キリト自身もエイジとは決して良好な関係ではないと申告していたが、エイジからは不気味な程に乾いた声音しか出なかった。それは単なる悪感情や無関心の代物ではなく、容易に推し量れないものだった。

 

『僕も長期の仕事が入ったんだ。ユナの手助けはできない。だから……気を付けてくれ。いや、大丈夫か。僕よりも【黒の剣士】の方が戦い慣れてるし、ユナを上手くサポートできるはずだ。安心したよ』

 

 ただの幼馴染。目線は合わせてくれても、心は開いてくれていない。いや、生前もちゃんと向き合っていただろうか。近くにいたのが当たり前過ぎて、多くのものが見えていなかったのではないだろうか。

 だからこそ、ユナは強くなりたい。エイジの抱えているものに気付けるようにならないといけない。それは一朝一夕で身につくものではないだろう。だが、最低でも生き残れるだけの付け焼き刃は手に入れなければならない。

 ヴェノム=ヒュドラの件で痛感したのだ。弱さは悪ではないが、だが死の言い訳にはできない。ユナが『力』を手に入れるのは1度経験した死とも向き合う事を意味していた。あの日、あの時、あの瞬間、置き去りにしてしまったエイジを知る為の術でもあるのだ。

 ユナはまずキリトと共に教会の訓練場にて一通りの武器を振るった。現実世界では運動神経にもそれなりの自信はあったが、あくまでそれなりであり、ましてやスポーツに骨肉を削る程に打ち込んだ経験もない。キリトは早々に見切りをつけた。

 そこで選ばれたのはユナ自身も選択肢として数えていた後衛職だ。キリトが提案したのはMYSを積極的に高めて≪奇跡≫を絡めてヒーラーないしバッファーとして活躍するというものだ。

 

『ハッキリ言うけど、ユナの戦闘能力はそこまで高くない。でも、動きはよく見てるし、行動力も判断力もある。ソロで戦えるプレイヤーではなく、チーム……前衛と組んで活躍する道を選べばいいんじゃないかな? もちろん、最低限の自衛はできる戦闘能力を持つことは前提だけどさ』

 

 ユナは反論しようとしたが、キリト曰く、むしろソロで戦闘をこなそうとする方がDBOの難易度的にも無茶であり、大ギルドで名を挙げるトッププレイヤーも基本的には集団戦を是としており、ソロで何でもするのは危険に見合う大金で動く傭兵くらいだと力説した。

 そうしてユナは後衛を選んだが、そうなると次に問題となるのは武装である。戦闘能力を極限まで削って回復に特化させたヒーラー1本の道はさすがに選べず、故に回復をこなしつつ支援を行うヒーラー寄りのバッファーというのがユナの取る道になったが、武装は必然的に近接戦闘よりも中距離・遠距離を想定とした射撃武器がメインとなる。

 だが、射撃武器はクロスボウを除けばスキルが無ければ扱うことができず、適性を確かめることは出来ない。クロスボウも初心者であるユナでは射撃適性を測るには不十分だった。

 悩むより選べ。キリトはそう言うと自分が世話になっている工房に行けばヒントが得られるかもしれないとユナを連れて行った。

 

『マユ! 初心者でも後方支援できそうな射撃武器はないか?』

 

 そして、キリトの問いによって、工房の主たる和服少女……マユは笑顔でキレたのだった。

 

「初心者でも後方支援できる射撃武器? あるわけないでしょ。そんな都合がいいもの」

 

 工房道具だろう金槌を肩で担ぎ、土下座するキリトを中心にゆっくりと時計回りするマユの目は据わっていた。

 

「キリりんも少しは自覚したら? 前衛が戦ってる中で正確に後方支援射撃するのがどれだけ大変だと思う? DBOにはフレンドリーファイアがあるんだよ? 想像してみなよ。強力なモンスターと戦ってる最中に仲間から背後をぶち抜かれたらどうなる? 隙が出来るでしょ? 死ぬよ。死なないと思ってんの? へぇ、キリりんは余裕ある戦いばっかりなんだねぇ」

 

「そ、そそそそ、そんな事は……!」

 

「大型モンスター相手なら腕前が無くても当てるだけなら何とかなる。でも動き回る小型モンスターと前衛が戦ってる時に援護射撃が出来るのは、高い判断力と精神力、そして何よりも射撃の腕が必要だからね。シノのんはDBOでも5本指に入るシューター。射撃の精密さだけならば間違いなくトップ争いに食い込んでる。そこら辺の有象無象がどれだけ後方支援だって言って仲間殺しを直接・間接でやらかしたか、数えたらキリがないよ。むしろ死因の上位に食い込むよ」

 

「……お、仰る通りです」

 

「まぁ、方法がないわけじゃないよ? 合図を決めて射線を開けて攻撃させるのはセオリーだしね。≪弓矢≫ならソードスキルが使えるから色々と使い勝手もいいし。だけど、キリりんが思ってるのは前衛が戦ってる時に後衛がどんどん撃ち込んでいくとか、そんなスタイルでしょ? そんなの上位プレイヤーでも限りなく上澄み……安定して出来るのは準トッププレイヤークラスだろうね」

 

 マユは安楽椅子に腰かけると、長く、重く、深く溜め息を吐き、頬杖をつくとキリトを土下座から解放する。

 

「それで? また女の子? 別にいいけど。マユはキリりんの専属鍛冶屋だし、オーダーがあれば揃えるのも仕事。メイデン・ハーツの開発の為にも色々と試作も素材も取り寄せしていたのは事実だし、後ろの子の……えーと……」

 

<ユナです。この度はご迷惑をおかけします。だからこれ以上キリトさんを怒らないであげてください>

 

「ふーん、貴女が噂の……。キリりんの話だとそこそこ腕の立つ幼馴染の男の子がいるんだよね? その人に手伝ってもらえなかったの?」

 

 自分の事情を把握しているのはキリトが話をしていたからだろう。ユナはキリトに2度とも助けられた身だ。専属鍛冶屋ならば知っていてもおかしくない。ユナは説明しようとスケッチブックにペンを躍らせようとしたが、立ち上がったキリトが止める。

 

「ユナは今度の依頼の監督役を任されたんだ。場所はアルヴヘイムだから最低限の自衛が求められる。彼女はSAOの経験もあるし、完全な素人じゃない。判断力も行動力も並以上だよ。だけど、近接戦闘の才能がないんだ」

 

「監督役ねぇ。うーん、エドガー神父は何を企んでるんだろ。そもそも、貴女のレベルって貴女自身で経験値を稼いで至ったものじゃないよね? 成長ポイントをまるで割り振ってないし、スキルも未収得みたいだし。それで、キリりんを頼って武器を手に入れて、指導までしてもらおうなんて、恥知らずなの?」

 

「マユ! そんな言い方……!」

 

「キリりんは黙って」

 

 キリトが手渡したユナの資料を拝見したマユの指摘はご尤もだ。ユナのレベルが高いのは彼女が救助された経緯に関係するのだろう。彼女自身がモンスターを倒して経験値を稼いで到達したものではない。

 マユの目にはズルをしているように映っているのだろう。申し訳無さが湧き出る一方で、意図せずとも高レベルなのだから出来る事はしなければならないと己を奮い立たせる。

 

「……へぇ、睨み返すんだ。いいよ。うん、合格。もしも俯くようだったら追い出してたけど、貴女にも為すべき事があるみたいだね。だったら……マユの可愛い作品を売ってあげる」

 

 試されていたのか。幾らか態度が柔らかくなったマユは艶のある黒髪を指で弄りながら工房の奥へと誘う。

 

「さっきも言ったけど、支援射撃は高度な射撃技術が求められるよ。でも、それは使う武器にもよる。たとえば、ガトリングガンみたいな弾幕系は選択肢にも入らない。連射系寄りのアサルトライフルもメジャーの割にその実は高難度。そうなると弾速と精度に重きを置いたスナイパーライフルは理想的だけど、こちらはこちらで狙撃手としての能力が求められるし、≪奇跡≫を本格的に運用するステ振りを考えたらSTRやTECに触れるポイントなんてたかが知れてるから除外。そうなると必然的に弾速・精度・要求ステのバランスを取りやすいライフルに限定されるね」

 

 倉庫にはずらりと武器が並んでいた。いずれも資料が添えられており、1つの武器を生み出すための試作品の数々であることは間違いなかった。

 

「これ全てがキリりん達の専用装備を生み出すための試作品……とマユの趣味の産物」

 

「ちなみに割合は?」

 

「7:3」

 

「…………」

 

「……うっ! はい! ごめんなさい! 本当は3:7の真逆だよ! これでいい!?」

 

「別に怒ってないぞ? 趣味でも、最終的には全部応用されていくんだろ? 俺も専門家じゃないけど、それくらいは分かってるさ。マユが作ったもの全てが俺の助けになってくれている。だから怒るはずなんてない」

 

 キリトが理解を示せば、マユは恥ずかしそうに顔を背ける。

 

「キリりんはズルいなぁ」

 

「何が?」

 

「……別に。知らない!」

 

 キリトはユナに視線を向けてマユがどうして恥ずかしがってるのか分からないと肩を竦めた。だが、ユナからすれば、彼女の心をしっかり掴む発言だったのは火を見るより明らかだった。

 

<背中を刺されないように注意してね>

 

「それ、クーにもよく言われるな」

 

 悩めるキリトを置き去りにして、マユは倉庫の奥からケースを引きずって戻ってくる。朱塗りの金属ケースの中に入っていたのは白銀色の長銃である。

 

「ん? これは見たことないな」

 

「キリりんが知らないのも無理はないよ。シノのんの専用装備とキリりんのメイデンハーツを作っていた時に思いついた実験作だし」

 

 マユはユナに持つように促す。金属の塊を持てるだろうかと思ったユナであったが、思いの外に軽く、まだSTRを上げていないはずだが、腕にかかる負担は大したものではなかった。

 ユナの反応から軽量性を悟ったのだろう。キリトは訝しむ顔で持ち上げて驚く。

 

「幾ら何でも軽過ぎないか? こんなに軽かったら反動が……」

 

「そうだね。こんなに軽かったら、≪銃器≫の実弾なんて撃ったら反動が酷過ぎて使い物にならないだろうね。だけど≪光銃≫だったら?」

 

「……いや。いやいや。いやいやいや! あり得ない! 確かにレーザーは≪銃器≫の実弾に比べれば低反動だけど、その分だけ高重量になるはずだろ!? こんなに軽量化したらたとえ撃てても雀の涙にもならない!」

 

「『レーザー』だったらね。でも、ここで発想を変えちゃうのがマユの天才たる理由なんだよ! だったら『レーザー』を撃たなければいいじゃない!」

 

 DBOの武器事情に詳しくないユナであるが、キリトの表情を見る限り、マユがおよそ常識はずれな事を口にしているのは違いないだろう。驚くキリトに上機嫌になったマユに急かされ、ユナは銃の情報をシステムウインドウに表示する。

 分類上は≪光銃≫。だが、同時に≪奇跡≫を発動させるのに不可欠な触媒でもあるようだった。攻撃力等も表示されているが、知識不足のマユにはこれが高いのか低いのか適正なのか区別できなかった。

 

「お、おい……キミは……なんてものを……!」

 

「取り寄せした素材にはレアなものも含まれてたけど、ユニーク素材は使用していないよ。まぁ、そこは強化・改造の余地があるね!」

 

<これの何が凄いの?>

 

「……あらゆる銃火器は適合した『弾』が不可欠なんだ。銃と弾の性能で攻撃力・射程・命中精度・反動が大きく変動する。どちらが欠けても真価は発揮できないし、単に高価な弾だけを使えばいいわけじゃない。これは≪光銃≫も同じなんだ。エネルギー弾倉の性能で差が大きく出るんだ。だけど、これは違う。いや、まぁ、確かに『なるほど』って思うし、ユニーク素材無しでここまで完成させたマユは本当に『天才』なんだろうけど、これは駄目だろう!?」

 

 ユナはよくよく性能面を熟読するが、キリトが何に驚いているのか分からなかった。それは単なる知識不足に過ぎないのだが、だからこそユナにはマユの発想がどれだけイカれたものなのか理解しきれていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<水鉄砲なのがそんなに驚くことなの?>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いかにも銃弾が飛び出しそうな、実際の軽量性はともかく、重々しい外観のフルメタル・ライフルであるが、その実態は内部から泡や水を放出する『水鉄砲』なのである。

 

「メイデンハーツのような銃弾の自己製造はできない。だけど、そうなると持ち込める銃弾数にどうしても限りが出る。これは実弾でもレーザーでも変わらない難題なんだよねぇ。だったらどうするか? 本命のネームド級との戦いまで高品質の銃弾を温存する? でも、フロンティア・フィールドみたいなネームドが闊歩する環境で偶発的にエンカウントしたら? 銃弾を取り換え、再装填する時間なんてない。だったら簡単だよ! 装填するのはたったの1種。しかも環境次第だけど、ほぼ無限に補給可能な『水』を射出すればいい!」

 

 いやーん! マユったら天才過ぎぃ♪ そう言ってマユは小躍りし、キリトはこんなのあり得ないとブツブツと呟きながら両手両膝を地面について絶望し、ユナはやはり凄さが分からずに素直にそういうものなのだろうと受け入れる。

 

「≪光銃≫って基本はエネルギー弾倉なんだけど、これって使い捨てなんだよね。でも、このコは少し違うんだなぁ。なんとリサイクル可能! 弾倉の内部に【バブルドラゴンの無傷の肺胞】と【金剛王蟹の背中珊瑚・玉級】を惜しみなく使った超吸水スポンジを採用! これによって多量の水を吸水し、しかも重量影響は無し!」

 

「ちょっと待て! バブルドラゴンの無傷の肺胞ぉおおお!? ドロップ率0.01パーセント以下って噂の超レアアイテムじゃないか! ただでさえ強いバブルドラゴンからしか採れない高級素材だぞ!? それに金剛王蟹の背中珊瑚って、倒す前に背中に飛び乗って採取する以外に入手方法が無いけど、その中でも玉級のドロップ率は肺胞ほどじゃないけど、決して高くない! しかも金剛王蟹自体が準ネームド級ともされる破格の強さを持ったモンスターなんだぞ!?」

 

 キリト、凄い早口だなぁ。レアな素材を使っているのは分かったが、ユナにはまだ真価が見えていなかった。

 

「1つの弾倉を作るのに、その2つを幾つ使うんだ? 待て! やっぱりいい! 聞きたくない!」

 

「えへへ。恐がらないでよぉ。そんなに使わないよ。2桁には届くけど♪」

 

「う、うわぁああああああああああ! マユ! いくらだ!? いくら借金を抱えてるんだ!?」

 

「……マユは高級取りだから。キリりんとシノのんに気持ち請求は上乗せしてるし。マユ自身も教会の工房からの依頼や興行で十分に稼いでるし」

 

「目を合わせてくれ! 他に! こんなヤバいのが! 幾つあるんだ!?」

 

「……それでねー、この銃の凄いところはねー、徹底した軽量化とDBO初の水属性を完全主体にした射撃武器ってところなんだー。あのねー、水鉄砲って言ってもねー、ただ高圧の水で撃ち抜くわけじゃないんだよー。レーザーライフルの冷却システムを利用し、過冷却した水を射出するんだー」

 

「こっちを見るんだ!」

 

「でもねー、ほらー、エネルギー弾倉じゃないから内部機構の動力が無くてねー、だから奇跡の【雷の武器】を銃器にエンチャントさせることで蓄電して使うんだー。だから≪奇跡≫の触媒でもあるんだよー」

 

 その後、キリトの猛追によってマユは渋々と家計簿を見せ、キリトは絶叫を轟かせた。窓ガラスが割れるのではないかと思う程の声量であったが、幸いにも工房に採用されているだけあってか強度は十分であり、揺れる程度で済んだ。

 

<神父に支払いのいい仕事を回してもらえないか、頼んでみるね>

 

「ありがとう。本当にありがとう! ユナに会えて良かった! これで俺達は安心してクリスマスを迎えられる!」

 

 椅子に腰を下ろして死んだ魚の目になっていたキリトは活力と希望を取り戻し、ユナの手を握って感涙する。それを面白くなさそうにマユは見ていたが、自分が元凶と分かってか、表情だけで言葉にすることはなかった。

 

「マユ的には実戦運用データも欲しいし、キリりんの紹介もあるから出世払いでいいけど?」

 

<この銃は幾らするの?>

 

「うーん、素材に使った費用に対して性能自体はそこまで突出していないし、市場に出せば400万……ううん、500万くらいかも。まぁ、価格が付くだけ『普通』だと思うよ? メイデンハーツは価値が高過ぎて天井が無くなっちゃうだろうし、聖剣はそもそも価格なんて付けられないし」

 

 500万……! 軽かった銃に金の重みが追加され、ユナは震える。大金であるはずだが、それでも『まだマシか』という顔をしているキリトも、『安いくらいかな?』と思案しているマユも、どちらも住んでる世界が違っていた。

 

「だったら防具も仕上げてもらった方がいいかもな。頼めるか?」

 

「防具はさすがに手付け金が欲しいかなぁ」

 

「だったらコレで頼む。ユナの装備を整えるのに使うなら文句は無いだろうしさ」

 

 キリトが取り出したのは虹色の霧が渦巻くガラス玉である。途端にマユは目を輝かせてキリトの手から奪い取り、炉の光を通し込むようにうっとりとした目で眺める。

 

「蛟の息吹!? なんでキリりんが大ギルドも収集してる戦略級アイテムを持ってるの!? これさえあれば、その銃をもっと強化できる!」

 

「売って借金返済に充てるんだ」

 

「ヤダ!」

 

 その後は押し問答の末にキリトの方が返済計画を立てることを条件に折れた。

 

「防具は教会風に仕立てた方が良さそうだね。そうなると教会から幾つか取り寄せしないといけない防具と素材があるし、権利等の契約を済ませないと」

 

「どれくらいで出来る?」

 

「教会の防具をベースに加工するから、早ければ半日。遅くても2日かな?」

 

「分かった。じゃあ、俺達で素材の受け取りは済ませておくよ。リストをくれ」

 

「ほーい」

 

 マユから防具・素材のリストを受け取ったキリトは工房を後にし、ユナも丁寧に頭を下げて礼を尽くして追いかける。

 

<少し変だけど、カワイイ人だったね。キリトの恋人なの?>

 

「ははは。違うよ。マユは俺の専属鍛冶屋だ。より優秀な鍛冶屋を専属にすれば安心して装備を運用できるし、自分の手の内が漏れることも防げる。マユみたいな突出した技術力を持つ個人経営の鍛冶屋は特に貴重なんだ。逆に鍛冶屋側も誰でもいいわけじゃなくて、素材・資金を融通してもらえて、なおかつ自分の腕前・技術の宣伝になる人物が望ましいだろうな」

 

 もちろん、個人的にも信頼はしているさ。最後にキリトはそう付け加えたが、ユナにはマユがキリトを見る時の視線の熱っぽさ、そしてユナを見る時の嫉妬・不安・焦燥を察しており、彼女が恋する乙女であることは容易に見抜けていた。

 知らぬはキリトばかりか。ユナは横目で隣を歩くキリトの横顔を窺う。整った顔立ちは穏和であるが影を感じさせ、彼が普通の人生を『歩めなかった』ことを感じさせる。少年から青年へと成長を遂げたばかりの初々しさがまだ色濃い。輪郭など柔らかく中性的であるが、男性特有の凛々しさが数奇な経験と年齢を重ねたことで花開いたようだった。顔立ちで意識せずにいたが、よくよく見れば肩幅も大人の男のそれであり、首や腕などからもよく鍛えられている男の逞しさを感じさせる。

 気付けば、キリトが街を歩くだけで周囲の視線が自然と集まっている。彼は【聖剣の英雄】であり、DBOの希望を背負う【黒の剣士】であり、プレイヤー最強の座を巡る実力者だ。知らぬ者を探す方が難しいのだろう。ならばこそ、自分のような無名の小娘が彼の隣に歩けば注目の的であり、彼によからぬ噂が流れるのではないかと歩幅が自然と小さくなる。

 

「気にしなくていいさ」

 

 だが、キリトは距離を取ろうとしたユナの手を掴んだ。

 

「周囲の目を気にしない……なんて格好よく言い切れる程に俺は強くないけど、それでも誰と一緒にいるのかは自分で決める。ユナにも迷惑をかけるかもしれないけど、気を遣わなくていい。もしも俺のせいで困った事になったら何でも言ってくれ。必ず力になるから」

 

 強気を滲ませた微笑みにユナは無意識にも近しく頷いていた。自分の手を引くキリトの手は温かく、また何処かで懐かしさを覚えさせる。

 

 視界が……いや、頭の奥底が疼くように、何かが重なる。

 

 

 

 

 炎。

 

 血。

 

 雄叫び。

 

 傷だらけになって、もう歩けない程にボロボロになって、それでも『彼』は文字通りの命を燃やして手を引いてくれた。

 

 それは逃避行。『彼』の背中は余りにも頼りなくて、振るう剣は情けない程に弱々しくて、何1つ打ち破れず、地に伏せ、血反吐を垂らす。

 

 それでも、それでも、それでも、たとえ引き離されようとも、最後の最後まで手を伸ばしてくれた。

 

 

 

 

 

 押し寄せた頭痛に顔を歪めたユナは身震いする。今のは何なのだろうか? 靄がかかっているように詳細がぼやけた『記憶』だ。

 記憶の中の『彼』が誰なのか思い出せない。そもそも男だっただろうか? 何もかもが曖昧だ。だが、キリトの手よりもずっと頼りなくて、冷たくて、強張っていた。だが、その手は他の何にも代えられない安心感をくれた。

 知っている。この懐かしさを私は知っているはずだ。キリトに重ねるのは在りし日の頃の思い出だ。夕焼けの空で、泣いている自分の手を引いてくれた……

 

「う、うわぁああああああああああ!」

 

 だが、手繰り寄せようとした記憶は悲鳴によって再び闇に沈む。

 悲鳴を上げたのは路上を歩いていた、これから冒険にでも出立するかのような甲冑姿の男だ。彼は自分にもたれかかった血塗れの、全身を鋭い牙で抉られた男を受け止める。

 

「どうした!?」

 

 キリトは駆け出し、震えるばかりの甲冑の男から血塗れの男を引き剥がす。

 

「あ……あが……!」

 

 血の泡ばかりで呼吸が出来ておらず、また首にも深手を負っている。キリトはアイテムストレージから取り出した薬を飲ませようとするが、男は吐き出すばかりで回復しない。キリトは腰のハンドガンを抜くと男の胸に銃口を当てて撃つ。男のHPは回復するが、HPは再び減少していく。全身の傷が多く、また深過ぎるのだ。流血のスリップダメージを補いきれない。

 

「い……ぬ……おそ……われ……!」

 

 キリトの肩を掴み、何があったのかだけを断片的に伝えると男は息絶えた。キリトは顔を俯けて奥歯を噛み、拳を地に振り下ろす。それだけで補整された石造りの地面に大きな亀裂が入った。

 

「……クソ!」

 

 助けられなかった無念を荒々しい一言に凝縮したキリトは深呼吸を挟むと死んだ男の両目を優しく閉じさせた。

 あれだけの深手である。全身の傷を治癒させる手段でもない限り、延命は難しかっただろう。そして、手段を講じるには余りにも唐突過ぎた。むしろ、あの場面で回復アイテムの飲用ができないと判断して即座に専用の回復手段を用いたキリトの判断力と実行スピードは驚異的だった。

 何が起こったのか? 誰もが想像もできない内に、更なる轟音と煙、そしてけたたましい鐘の音が鳴り響く。

 

「あの方角は……まさか!」

 

 キリトは遺体を甲冑の男に任せると血痕を辿る形で煙と鐘の音の源へと向かう。

 それは教会が買い上げただろう、周囲を高い壁で覆われた屋敷だ。だが、門番は今や全身を食い千切られ、敷地内では衛兵が善戦こそしているが、多勢に無勢であり、見る見る内に悲鳴と血で溢れ返る。

 見渡す限り、犬、犬、犬だ。無数の犬が死を恐れることなく果敢に襲い掛かり、自分たちを軽々と一刀両断する攻撃を掻い潜ってダメージを負わせている。そして、1発入れば瞬く間に数の暴力で押し潰す。

 

「うがぁああああああああああああああああ!? 助け――」

 

 野犬に群がられ、甲冑を噛み砕かれ、腕を、足を、喉を、顔を食い千切られ、内臓を生きたまま貪られる。およそ正気を失うに足る狂喜の宴が繰り広げられる。

 

「ここは……何でここが!?」

 

 キリトが驚愕するのも無理はない。今は血と肉片によって看板は汚されているが、この施設は教会が管理する薬物中毒者の治療施設……その中でもヴェノム=ヒュドラが蔓延させた麻薬アイテム・甘蜜の水金の中毒者専用施設なのだ。

 

「ユナは安全な所へ!」

 

 キリトはそう言い残すより早く、文字通り目で追えない程の速度で斬り込んでいく。

 ユナもキリトの後に続こうとするが、踏み止まる。

 

 何度同じ過ちを繰り返せば気が済む?

 

 自分の無力さを棚に上げて危険に踏み入った? そのせいでどれだけの代償を支払った?

 

 それは迷い。かつてのユナには生じなかったものだ。

 目の前で傷つき倒れていく者がいる。文字通りの地獄がある。自分にも何か出来る事があるはずだと無鉄砲に飛び込んだところで焼け石に水どころか、遺体が1人分増えるだけだ。

 それでも守れる命がある。ユナは自分を突き動かそうとする意思を蛮勇と罵って強引に抑え込む。

 

(私に出来る事……それは救援を1人でも多く呼ぶ事!)

 

 これだけの戦闘音である。遠からず救助は現れるだろう。だが、それに期待しては助けられる命も助けられない。

 ユナは走り、何事かと遠巻きで見守っていた人々の元へと向かう。彼らの中にはユナの目から見てもそれなりの装備を整えたプレイヤーもいた。彼らの救援があれば、キリトが孤軍奮闘せずに済む。

 

<野犬に教会の施設が襲われています。どうか助けてください!>

 

 ユナはスケッチブックに書き殴り、必死になって周囲に向けて振り回す。だが、誰も見向きもせず、あるいは目を通しても動く気配はない。

 どうして? ユナは疑問を覚え、また当然の帰結に至る。

 わざわざ危険に踏み込む価値が無い。自分が動かずともいずれは救助が現れる。命懸けになったところで得られる報いは果たして釣り合うのか?

 打算と保身。彼らは何も悪くはない。目の前で起きる危機に対処できる能力があるとしても、それをわざわざ人助けに……それも麻薬中毒者の救助に注ごうとは思わないだけだ。自分の生死をかけてまで戦う理由が無いだけなのだ。

 それでも戦う力があるならば貸して欲しい。ユナは高レベルだろう、見て見ぬフリをする見栄えの良い装備を纏ったプレイヤーに先回りをしてスケッチブックを見せる。だが、平然と無視してユナの肩を邪魔だと押し退ける。

 倒れたユナは拳を握る。諦めるものか。キリトは戦える力があるからこそ迷いなく飛び込んでいった。彼がどれだけ強くともあの数では押し切られる。施設の人々を守り切れない。少しでも救援が必要なのだ。

 だが、野次馬は増えるばかりであり、小柄なユナは人ごみに呑まれ、彼女が掲げるスケッチブックは増々の関心を集めなくなる。

 

「……かひゅ……きひゅ……!」

 

 自然と出た訴えの叫び。だが、喉は震えるばかりで声は出ない。零れるのは蛙が潰れるような醜い空気音ばかりである。

 お願い、助けて! あの施設にいる人たちが死んでしまう! それだけではない。キリトもあの数では危ういのだ。1人でもいいから助けが必要なのだ!

 出ろ。出ろ。出ろ。声を絞り出せ! ユナは喉を押さえて言葉を欲するも、望みは叶わない。

 まるで雷が走ったかのような頭痛。それはまるで全身を刺し貫くようであり、ユナは人の海の中で倒れる。

 痛い。頭が痛い。全身が痛い。まるで血管に、神経に、骨に亀裂が入り、深く広がっていくような痛みだ。より根源的な何かが軋みながら砕けようとしている『音』がするのだ。

 ユナの指は自然と喉を掻き毟る。チョーカーで隠された、喉の声帯を抉ったような醜い傷痕を引っ掻く。爪を切った指はただ惨たらしく傷跡を抉り、皮と肉を削ぐ。

 

「お、おい……アンタ、どうしたんだ!?」

 

 ユナの異常性に気付いた1人が倒れた彼女の肩を揺する。ユナは喉を掻くことを止められないまま、だが注目を集めることが出来たと血塗れの指でスケッチブックを掲げる。

 

「お……あ……くひゅ……」

 

 言葉など紡げない。それでも彼らを助けて欲しい。キリトを助けに行って欲しい。そう願いを込めて、血の赤で彩られたスケッチブックを示す。

 だが、誰も動かない。ユナの異変に困惑し、あるいは治療を施そうとしても、彼女の願いを無視する。

 私よりも彼らを助けて。キリトを助けて。1人でも多くの命を救って。そう願うユナの意思は人の波に押し流される。

 

 

 

「分かった。キミがそれを望むならば、僕は行くよ」

 

 

 

 瞬間、ユナの体が宙を浮く。

 血は冬の冷たい風の中で零れて舞い、脱力した彼女の体を抱き上げるのは、都合のいいヒーローなどではなく、いつだって傍にいてくれた……

 

「……きゅ……えぁ……!」

 

 名前を呼びたいのに、それさえも許されないのか。ユナは血だらけの指で、自分が知らないくらいに冷たく、また恐ろしい程に猛々しい熱を帯びた眼をした『幼馴染』の頬に手を伸ばす。だが、彼はそれを望まぬように顔を背けた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 数が多過ぎる! キリトは月蝕の聖剣を振るい、庭で群がる野犬を一掃するが、次の瞬間には背後から別の個体に喰らい付かれる。

 幸いにも高レベルと高VITのお陰でHPは十分に確保し、なおかつマユ特性の防具のお陰で腕に噛みつかれても牙は肉まで食い込まないが、それで動きが鈍れば、続々と野犬が襲い掛かり、数に物を言わせて殺しきろうとする。

 キリトが相手取るのは水準レベル10未満の、終わりつつある街ならば何処にでもいる野犬だ。周辺フィールドに出現するが、1体ずつの耐久力は低く、だが素早い動きと攻撃力があり、なおかつ群れで出現する厄介なモンスターだ。

 四足歩行モンスターでも犬系は特に脅威度が高い。その機敏な動きに単独で完璧に対応できるのは上位プレイヤーでも数が少ない。

 

「チクショウ! 犬の分際で! この! この! このぉおおおおおおお!」

 

「止めろ! 無暗に振り回すな! 囲まれないように足を動かして、最小限の動きでカウンターを狙うんだ!」

 

 数少ない粘っていた衛兵の1人は中盾とハルバードかつ全身を教会製の銀色の甲冑で防護していた。だが、度重なる攻撃で甲冑には亀裂が入り、足元にも小さくない血溜まりが出来ている。リーチが長い竿状武器のハルバードを振り回すことで野犬を遠ざけ続けていたが、恐ろしく統制が取れている野犬は敢えて間合いのギリギリを保ち、衛兵のスタミナ消耗を狙っている。

 確かに野犬は脅威だが、余りにも知能的過ぎる! キリトが知る野犬の動きではない。

 予想通りと言うべきか、早くも息が上がり、スタミナの枯渇が見え始めた衛兵の動きが鈍る。瞬間に待っていたと言わんばかりに野犬が手首に喰らい付き、ハルバードが指から零れ堕ちる。

 

「うわぁああああああああ!」

 

 盾で殴りつけて野犬を追い払うも、武器を失った衛兵に野犬は一気に全方位から襲い掛かる。キリトは瞬時に間に入り、月蝕の奔流を解放して薙ぎ払う。だが、思う存分に火力を引き出しきれず、それは攻撃範囲に影響し、野犬を一掃しきれず、左手のメイデンハーツを連射して牽制をかけるので精一杯だった。

 

(下手に月蝕光波で薙ぎ払おうとすれば巻き添えが出る! 威力が大き過ぎるのも考え物か!)

 

 たとえば、モルドレッド程の緻密な制御ができるならば、あるいは被害を抑えつつ広範囲を月蝕光波で薙ぎ払うことも可能かもしれないが、キリトはまだ聖剣操作はその領域にまで達していない。せいぜいが出力・収束の制御であり、力任せに最大出力・最高収束まで持っていくことは出来ても、低出力で細やかな放出が出来るまでに熟達していないのだ。

 思えば、編み出した月蝕剣技もいずれも高出力技だ。キリトはそこに自分の聖剣の特徴を見る。また聖剣そのものが乱戦では本領を発揮しきれない。仲間を巻き込むリスクが大き過ぎるのだ。

 英雄とは孤独なものだ。まるでそう警告するかのように、聖剣の力は個人の活躍に集約しているのだと感じ取る。

 ならばメイデンハーツだ。キリトは月蝕光波を極力控えて通常攻撃に止め、メイデンハーツから放たれる銃弾で続々と野犬を撃ち抜く。たとえ急所の頭部や心臓を撃ち抜けずとも、胴体に命中させれば1発で絶命させられるだけの火力はあるのだ。

 

『貴方はスナイパーよりもガンマン向けね』

 

 G&Sの開発中、シノンはキリトをそう評価した。

 

『命中精度を要求される中・長距離射撃、もちろん狙撃にも向かない。命中率が悪過ぎるわ。でも、近距離射撃は思っていたほど悪くない。どちらにしても命中率が落ちる片手撃ちが前提なんだし、丁寧に狙い撃つのではなく、ばら撒くのでもなく、『とにかく当てる』射撃をメインに据えましょう。相対速度が飛躍的に高まる近距離超高速戦闘に慣れていて、最高峰の反応速度を持ち、運動速度もトップクラスの貴方ならば可能なはずよ』

 

 シノンは自分とは真逆だとも述べた。義手になった影響もあり、元来の超遠距離精密狙撃は失われたものも、シノンの武器は如何なる状況下でも相手の急所を狙い、また仲間の隙間を縫うように撃ち抜く射撃精度にこそある。その一方で単純な早撃ち勝負……近距離射撃戦ではキリトにも後れを取るかもしれないとも述べた。

 

『結局のところ、私は中・長距離戦が本質なのよ。近接射撃戦の装備を揃えたところで、間合いを詰めてくる近接ファイターに接近戦を許せば敗色濃厚。中距離をキープして相手を削りつつ、精密な射撃で急所を狙うのがセオリー。対して貴方はあくまで接近戦がメイン。射撃は牽制か、とにかく命中させてダメージを与えるかね』

 

『ちなみにスミスは?』

 

『……近・中・長の全部において人外級の超人ね。言っておくけど、あんなに高速で動き回りながら人間サイズの相手にアサルトライフルで平然と命中率90パーセントオーバーで、DPSを装備の理論値に限りなく近づけさせられるとかリアルチートよ。狙撃に限定すれば勝てる自信もあるけど、それも的当て限定。殺し合いの狙撃戦になったら、私もどうなるか分からないわ。負けない自信はあっても、簡単には勝たせてもらえない確信がある』

 

 武器のスペックにもよるが、射撃には個人の能力が大きく依存する。キリトのメイデンハーツは大型とはいえハンドガン。弾速・命中精度・距離減衰などはライフルに及ばない。ただし、火力に限定すればライフルにも迫る威力を発揮できる。その分だけ反動も大きいが、キリトはそれを高STRで抑え込みながら動きを鈍らせることなく戦えるバトルセンスがある。

 G&Sの更なる深奥へ。キリトは迫る野犬を右手の月蝕の聖剣で瞬く間に薙ぎ払い、その中で銃撃することで的確に数を減らしていく。

 もっとだ。もっと先へ。キリトは全身の神経を集中させる。クゥリとの戦いの中で得た、まるでエネルギーの流れを視認するような感覚を引き出す。

 途端に野犬の体内を流れるエネルギーの流れが視覚と重なる形で情報が入り込む。これだ。この感覚だ。研ぎ澄まされた意識が見せる世界は情報量が大幅に増加して脳を圧迫するが、キリトは耐え切り、なおかつ処理しきることで視覚内の全ての野犬の動きを完璧に見切る。

 更には音だ。聴覚を通してエネルギーの流れを集積する。視覚程に明瞭ではないが、それでも大雑把でも野犬の動きが分かれば御の字だ。不可思議な感覚であり、まるで脳にソナーが組み込まれたかのような感覚である。

 斬撃は更に加速し、織り交ぜる銃撃は背後を見ずに放たれる。苛烈なマズルフラッシュはキリトの周囲を苛烈に輝かせ、漆黒の斬撃は月蝕の残滓を散らすことでまるで斬撃の軌跡を残して舞う。

 

「ぐっ……!」

 

 だが、目が焼けるように熱くなり、キリトは眉間に皺を寄せる。視覚を通したエネルギー視認は負荷が大きいらしく、ましてやこれだけの野犬の数ともなれば、情報量が多過ぎた。幾らキリトでも視覚に映る全てのエネルギーの流れを高精度で、それも通常の視覚情報を維持したまま拾い上げるには無理があり過ぎたのだ。ましてや、ろくに訓練も積んでいないのだ。反動が耐え難いのも当然である。

 聴覚を用いたエネルギーソナーも同様だ。あくまで音を媒介として集積しているだけに過信は出来ず、思いの外に範囲は狭い。精度的にもせいぜい周囲3~4メートルが限界だろう。対象が小さくて速い程に位置は把握し難くなる。

 

「うぐ……す、済まない! 焦っちまった……!」

 

「泣き言は後だ! 立てるか!?」

 

「無理だ。足をやられちまった。俺はもう駄目だ。だから……」

 

「置き去りにしろって? 悪いが、俺は馬鹿で融通が利かないから、勝手に助けるぞ!」

 

 負傷した衛兵の肩を担ぐ。その分だけ攻防は疎かになるが、置き去りにする選択肢はなかった。

 館の屋根からは援護射撃が行われているが、焼け石に水だ。これだけの野犬が何処から現れたのだとキリトは訝しむが、今は状況の打破が最優先である。既に衛兵の大部分は死亡・負傷して施設内に逃げ込み、救援が来るまでの籠城を目論んでいる。

 

「アイツら……真っ先に連射火器を持った仲間を殺しやがった。俺達の戦い方を熟知してやがる……ぐっ!」

 

 片足がズタズタに裂かれた衛兵は自分の足では歩けない。キリトは彼を担いで負傷者が駆け込んでいる施設の内部に入り込む。既に施設内も阿鼻叫喚であるが、幸いにも病棟に関しては麻薬中毒者を収容するという事もあって堅牢であり、病棟に続く廊下には早くもバリケードが敷かれつつあった。

 衛兵たちは残る戦力を結集させてバリケード建造までの時間を稼いでいるようだった。キリトが登場するとバリケードの隙間から負傷した衛兵を引き入れる。彼は助けてくれたことを感謝したが、キリトは頷き返す時間も惜しく防衛にあたる。

 キリトは他の衛兵とは違い、教会剣の正式装備だろう、白銀の甲冑を纏った色黒の男の隣に立つ。彼の得物は片刃の両手剣であり、教会の武器らしく仕掛けが施されており、アサルトライフルと一体化しているようだった。その連射性能は耐久度が低い野犬にとって最大の脅威らしく、バリケードを建設する時間を上手く稼いでいた。

 

「【黒の剣士】か! さすがは英雄! 良く来てくれた! 私は【ホランド】。この施設の警備を任せていた教会剣の者だ」

 

「残る戦力は後どれくらいだ!?」

 

「さぁな。大部分が負傷か御覧の通りに死んだ。渡り廊下は全部で3つ。他2つの状況は分からんが、バリケードの建設は指示通りに順調なはずだと信じたいところだな。糞! 中毒者が暴徒になった際の防護シャッターも来週には追加設置予定だったのだが、それさえあれば籠城も容易に……!」

 

「無いものよりあるものを活かす話をしよう。残弾は?」

 

「何せ牽制用なものでね。野犬相手には即死ダメージを出せるが、装弾数自体は少ない。あと20発程度で弾切れだ。野外戦の時に撃ち過ぎたツケだな」

 

 自分の判断ミスだと苦渋の表情をしたホランドだが、襲い来る野犬を的確に斬り飛ばす彼の剣技は見事なものだった。

 キリトは考える。ここから自分が取れる選択肢は2つ。このままバリケード建設の時間を稼ぐか、それとも野犬の群れに突撃して殲滅するか。後者も不可能ではないが、時間がかかる。特に施設内ではどれだけの生存者がいるかも分からない以上、余計な破壊を生む月蝕光波は増々の制限を強いられるだろう。

 銃弾を自動生産するメイデンハーツとはいえ、ホランドの事を言えない程度には撃ち過ぎた。ヤスリを用いた特殊弾よりも通常弾が有効な相手とはいえ、残弾は4割を切っている。逆に言えば、それだけ異常なまでに野犬の数が揃い過ぎているのだ。弾数回復がまるで追いつかない。

 天雷装具スローネを発動させれば、スピード任せに強引に倒せる。だが、問題はスローネにはボルテージ・システムが組み込まれている点だ。

 天雷装具スローネはその名の通り、スローネのソウルが素材として使用されている。これによってオーンスタインの血脈に連なる神の業……黄金の雷光による身体強化、特にスピード強化を発揮する。だが、神族の御業ともなれば、装備・発動には相応のMYSが要求される。

 これを解消する為に組み込まれているのがボルテージ・システムだ。戦闘時間、与・被ダメージ量によってボルテージは上昇し、段階を経る毎によって、発動中の魔力消費量が増減するのである。ボルテージを全く引き上げていない第1段階では秒間の魔力消費量は桁違いに高く、聖剣によって魔力回復速度を上昇させているとはいえ、キリトのPOWではとても耐えられるものではない。

 故にスローネは斬って斬られての超攻撃的短期決戦か、相応の長期戦でもない限り、安易に使用できないという弱点が存在するのだ。逆に言えば、制限を設けないといけない程度にはキリトのMYSは足りないのである。

 

「ここは私が抑える。【黒の剣士】は病棟内を移動し、他の渡り廊下が無事にバリケード建設が出来ているか確認しに行ってくれ。場合によっては援護を頼む」

 

「大丈夫か? まだ数はかなり残ってるぞ」

 

「ワンコロ相手に遅れは取らんよ。幸いにもこの渡り廊下の横幅では奴らも容易に取り囲めないようだからな。スタミナもまだ残っている。耐えきってみせるさ」

 

 ホランド以外の戦える衛兵はいずれも負傷しているが、彼に負けずと士気は高い。キリトはこの場を任せると建設中のバリケードの内部から病棟に入る。

 病棟とはいうが、教会の施設という事もあり、柱の1本を取っても象徴性が高い。だが、同時に監獄のような殺風景にも感じさせるのは、ここに収容されているのが善良なる病人ではなく、収容されているのが麻薬アイテムに手を出した中毒者だからだろう。

 鉄格子が嵌められた扉の奥からは麻薬アイテムを欲する呻き声が漏れている。キリトはここの何処かに先の事件を契機に移送されたギャラクシーオレンジもいるはずだと思い返す。

 約束は守らねばならない。この施設は守り通す! キリトは渡り廊下の1つ目に到着するが、既に完成済みだった。職員だろう修道女は血だらけの姿で泣きじゃくって座り込んでいた。負傷したのかと思い片膝をつくが、彼女の傍らでは首の半分を食い千切られた衛兵が横たわっていた。兜を外した顔は既に修道女の袖によって血を拭われているが、もう息絶えている。

 他の衛兵も似たり寄ったりであるが、明らかに負傷兵が多過ぎる。あれだけの数に襲われていながらここまで逃げ込めたのかと疑うが、それこそが野犬たちの狙いかとキリトは察知する。

 対人地雷は殺傷よりも負傷を目的とする。それと同じだ。野犬たちは敢えて適度な数の負傷者を出す事によって、自分たちに対抗する勇敢かつ強力なプレイヤーを救助に割り当てることで封じ込め、また隙を作ることによって確実に殺傷しているのだ。

 やはりただの野犬の群れではない。高度に統率され、なおかつ対人戦を知り尽くしている。明確な司令塔が存在し、野犬を余すことなく統率しているのだ。

 幸いにも病棟の壁は堅牢かつ窓にも格子が嵌められている事によって防衛は完備だ。2つ目の渡り廊下のバリケードも無事に完成しており、死者こそ多いが、彼らは衛兵としての責務を全うしていた。

 戻ろう。キリトは最初の渡り廊下へと踵を返そうとした時、轟音が鳴り響く。

 瞬間に窓の外を赤色が……野犬の攻撃が届かない屋根から攻撃を行っていた射手達が死体となって落下する。野犬は確かに動きこそ素早いが、屋根まで駆け上がれる程の運動能力はなく、また射撃攻撃は持たないはずである。

 

「これは何事だ! 外で何が……!?」

 

 戻った渡り廊下のバリケードも完成済みであり、耳を食い千切られた事を除けば目立った負傷もないホランドと合流する。

 

「分からない。でも、もしかしたら連中は野犬だけで構成されているわけじゃないかもしれない!」

 

「馬鹿な! 終わりつつある街は広大・複雑化しているとはいえ、ダンジョンではない! せいぜい野犬と犬鼠、それからゴーストくらいしか出現しないはずだ。ゴーストなら屋根の上にも攻撃できるかもしれんが、出現は夜間の、それも限定的な地区の廃屋・墓所に限られる!」

 

 ホランドの言う通りである。もしも野犬以外のモンスターが混じっているならば、それこそおわりつつある街周辺のフィールドから侵入したか、それとも何者かが意図的に捕獲したモンスターを解き放たねばならない。だが、キリトはもう1つ、最悪の想定をしていた。

 

「……終わりつつある街の地下にはダンジョンがある。そこから湧き出ているとしたら?」

 

「馬鹿な! ダンジョン内のモンスターはダンジョン外に出られない! 例外は幾つかあるが、それはあくまで例外だ!」

 

「そうだな。だけど、これだけの野犬の数が揃って襲撃し、なおかつ統率されている。十分に例外が起きてもおかしくないはずだ」

 

 キリトに反論を述べられず、ホランドは黙り込む。

 

「DBOでは何が起こっても不思議ではない……か。久しく忘れていたよ。まったく、少し最前線から離れると平和ボケしていかんな」

 

「こんな糞ゲーを作った茅場の後継者を思いっきりぶん殴ってやらないとな」

 

「ああ、まったくだ」

 

 苦笑したホランドの肩を叩いて鼓舞したキリトは、続く爆音にも似た破壊音に気を引き締める。

 音の方向は渡り廊下ではない。キリトはホランドを置いて先んじて向かう。場所は病棟の裏口だ。こちらにもバリケードは先んじて張られていたようであるが、破壊され、衛兵や修道女の遺体が無残に転がっている。

 裏口ごとバリケードを破壊して突破してきたのは野犬ではない。全長3メートルにも達する全身が赤黒い毛に覆われた3つ頭の大型犬だ。その様はまさしくケルベロスであり、3つの顎からは絶え間なく涎が垂れていた。

 知らないモンスターだな。キリトはサインズを通してモンスターについては余すことなく情報収集しているが、目の前のケルベロスには思い当たる節が無い。だが、これまで多頭型犬モンスターと戦闘経験がないわけではない。

 キリトは銃撃で牽制する。だが、ケルベロスは瞬時に身を翻し、穴を開けた裏口から野外へと退避する。途端に野犬が津波の如く押し寄せるが、キリトは月蝕光波で纏めて吹き飛ばす。

 だが、それでいいとばかりにケルベロスは攻撃してこない。キリトを誘い出すべく、銃撃も月蝕光波も躱せる間合いをキープしている。ここでキリトが野外に出てケルベロスと戦うのは簡単であるが、そうなれば野犬が一斉に病棟内になだれ込む事になるだろう。

 そして、ここだけが攻撃されているわけではない。他の場所でも同様に破壊音が響き、それは決死で築いたバリケードがある渡り廊下にも及んでいる。

 キリトは奥歯を噛む。自分ならばあのケルベロス単体を倒すのは決して難しくない。完封して倒せる自信がある。だが、ケルベロスには取り巻きの野犬が多く、キリトに自由に戦わせないだろう。そして、キリトが破壊された裏口から離れたならば、容易く病棟内部は地獄と化す。そして、他の場所も同時に攻撃を受けた場合、どう足掻いても守り切れない。

 どれだけ強大な個人であっても1人である限り、防衛できる限界がある。たとえ、この戦いでキリトは五体満足かつ無傷で生き残ったとしても、守るべき全てが殺されたならば、それは完全敗北に他ならない。

 キリトに許された勝利条件はただ1つ、いつ来るかも分からない救援の到着だ。既に援護要請は行われているはずだ。だが、先遣隊が生半可な数では犬の餌になるだけだ。相応の部隊が送り込まれるのにどれだけの時間がかかるか不明である。

 個人の限界。たとえドラゴンを殺せる剣士でも1人で砦を守り切れるはずがない。たとえ単独で敵陣に突撃し、大将を討ち取ることが出来たとしても、それより先に自陣が陥落する。

 

 

 

「ここは任せろ」

 

 

 焦るキリトの背後から到着したホランドが先程のお礼だとばかりに現れる。

 

「既に各所に生き残った衛兵を向かわせた。持ち堪えてみせる。お前は少しでもいい。大物の数を減らしてくれ」

 

「だけど……!」

 

「私達を舐めるなよ。大ギルドの養殖とは覚悟も修練も違う。我ら教会に仕える戦士はいずれも生死が混在する本物の実戦で鍛え抜いてきた。大火をお迎えする我らに与えられた試練であるとな。ましてや、今ここで生き残ってるのは貴様らには及ばんが、先の襲撃を潜り抜けた猛者ばかり。簡単には倒れんさ」

 

 信頼できるのか? いいや、するのだ。キリトは頷き、破壊された裏口をホランドに任せると衛兵と野犬の血と屍で地獄絵図と化した広大な庭に躍り出る。

 待っていたのはケルベロスが2体と無数の野犬だ。キリトは月蝕光波でまず野犬を葬ろうとするが、彼らは賢く、また用意周到だった。手足をわざと負傷させられた衛兵や施設内から引きずり出された薬師や修道女が何人も息絶え絶えのまま放置されている。

 キリトという突出した個人を封じ込める戦略としては正しい。だが、その残虐な作戦にキリトは怒りを爆発させる。ただし、思考は常に冷静さをキープする。

 ケルベロス2体がキリトを囲い、まずは野犬が命の無いミサイルの如く突撃してくる。銃弾を温存すべく斬撃で対処すれば、ケルベロスの中心の頭がブレスを吐く。それは毒ブレスであり、地を這うように広範囲に広がる。

 レベル3の毒! 野犬も巻き込む毒ブレスはお構いなしだ。そして、もう1体のケルベロスの左右の顎をかち鳴らす。途端に毒ブレスに着火し、爆炎が巻き起こる。

 瞬時の判断で宙を舞って回避したキリトは上空から月蝕光波を穿つが、ケルベロスはさすが四足歩行の犬型というだけあって回避する。着地予想地点で既に野犬が待ち構えているが、キリトは結合弾を庭に備えられた、太陽と光の王女グヴィネビアの石像の額に撃ち込み、ソウルワイヤーで空中を移動する。

 元は高所得者向けの屋敷を改良したものなのだろう。患者の療養の為にも庭も緑で溢れ、オブジェや樹木も多い。今は無惨に荒らされた花壇ではあるが、元は冬でも色彩豊かな花々が彩ったはずだ。お陰で結合弾で移動するターゲットは事欠かないが、キリトの命中精度はお世辞でもよろしくない。即座に精密な射撃を行う技量もないとなれば、結合弾の有効範囲は実質的に半分以下だ。

 

『あのね、ハンドガンの有効射程距離なんてたかが知れてるわ。しかもGGOに比べればアシストが無いにも等しい。貴方が見てる射撃サークルはあくまで大雑把に把握できる銃口の向きと命中範囲を教えてくれるに過ぎないと割り切った方が良いわ。ましてや、貴方は命中率を高めるスキルを持っていない。銃弾は狙った通りに何処までも真っ直ぐに飛ぶわけじゃない。重力の影響を受けて放物線を描くし、風などの環境の影響を受けてブレる』

 

『えーと、つまり?』

 

『カタログスペックなんて当てにならないってこと。たとえば≪精密射撃≫スキルがあれば、命中率補整がかかって、銃器のスペック以上に銃弾のブレや環境によるズレを抑制することができる。より中・長距離において信頼できる射撃が可能になる。反動も幾らか軽減されるわ。命中率補整ってそういうことなの。本当に単純に銃弾の命中率を引き上げたいなら≪オートサイティング≫スキルを取った方がマシよ。とりあえず構えれば自動で狙いをつけてくれるから。ただし、システムアシストに振り回されるから読まれやすいわね』

 

 安易に≪オートサイティング≫を獲得し、自身の腕前を磨かなくなって死亡する銃器使いがどれだけ多い事か。シノンの発言には憂いこそなかったが、哀れみがあった。

 

『自分の銃の集弾率を把握し、距離減衰から有効射程距離を割り出し、更に銃のスペックと自身の腕前から実質命中距離を導き出す。近距離や近寄り中距離射撃戦になるとこれに更に相手の複雑な動きと相対速度が加わる。しかも銃器には初弾命中や連続着弾といったシステムがあるから、それらを把握していて、なおかつ相手の急所を迅速に割り出し、なおかつ最も効果的なダメージを与えられる距離を確保し続けなければ勝てない』

 

 近寄って撃ちまくればいいとか思ってる馬鹿は死ねばいい。シノンはそう吐き捨て、キリトは身震いしたものである。

 

『メイデンハーツはハンドガンでは規格外の高威力。しかもヤスリを利用した特殊弾も撃てる。G&Sは既存の近接銃撃のメソッドは必ずしも適応されない。でも、忘れないで。銃器である以上は有効射程距離があり、貴方の腕前を加味した実質命中距離がある。これを見誤った時、G&Sにおいて銃撃は牽制以上の意味を持たないお荷物になるわ』

 

 これまで訓練を除けば、緊迫する状況下で用いたのはユージーン戦とクゥリ戦のみ。キリトはシノンからの指導を思い返しながら、メイデンハーツを活かしきれなければこの場を切り抜けられないと把握する。

 

(だけど、やっぱりコイツらには司令塔がいる。それも何処かから俺の動きを見ているな)

 

 キリトの着地点で待ち構えた野犬の動きはスムーズ過ぎた。キリトへの対処法を既に幾つも共有しているのだ。結合弾への対処が遅れたのはこれまで特殊弾を用いていなかったからだ。

 ケルベロスの1体に接近し、斬撃を浴びせる。キリトの異様な速度の踏み込みに対処しきれずにまともに浴びたが、外見通りのタフさを発揮し、HPは2割程度削れるだけだった。月蝕の聖剣をまともに受けてこれだけしかダメージが通らないなど、レベル100級に匹敵するだろう。

 中心の首は毒の牙で襲い掛かり、左右の首は火打石となる牙をかち鳴らしてたかと思えば、短い射程ながらも炎をまき散らす。動きも機敏となれば、2体同時に、それも無数の野犬を相手取るには厄介な相手である。だが、倒せないこともないとキリトは踏んだ。

 開眼。エネルギーの流れを読み取れば、思考速度がフル稼働する。ケルベロスの動きを完璧に読んで連撃を浴びせ、続く野犬のフォローを的確に銃撃でカウンターし、背後を取ろうと回り込んだもう1体のケルベロスの中心の頭を振り返り様に縦割りにする。

 全てが見えて、あらゆる動きが読めるような全能感。エネルギーソナーは視覚に頼らずとも大よその位置を立体的に把握し、全方位から攻撃を仕掛けてくる野犬の群れを刻みながら突破するのに役立つ。

 いける。このまま押し込む! キリトがまず2体のケルベロスを葬ろうとした時、絶叫が木霊する。

 キリトから数メートルの距離で放置されていた負傷した修道女に野犬が群がり、肉を割いて内臓に喰らい付いたのだ。悲鳴の末に絶命した修道女と目が合い、途端にキリトは硬直する。

 動揺を狙った心理的トラップ。キリトの攻撃を制限するだけではなく、ここぞという場面で攻勢を緩めさせ、思考を停止させる悪意に満ちた罠。

 瞬間に足下に影が広がり、無数の闇の刃が突き出す。霜柱のようなそれを躱しきれず、腹、右腕、左太腿を刺し貫かれる。

 しまった! キリトは苦悶を浮かべながら、傷口が広がるのを承知で強引に闇の刃の拘束から脱し、続くケルベロス2体同時の毒ブレスからの着火コンボから脱するも間に合いきれず、聖剣を持つ右腕が焼かれる。

 

「さすがはマユ謹製だな」

 

 焼き焦げたがコートの袖も含めて原型は残っている。さすがの防御性能である。だが、スローネの籠手で守られきれていないグローブ部分が焼け落ち、人差し指が爛れていた。熱傷状態にこそなっていないが、修復には時間がかかるだろう。その間は指の繊細さが求められる剣技に支障が生じる。

 地面から溢れた闇は形を成し、狼の如き姿を取る。キリトが思い浮かべたのはアインクラッドの第28層のフロアボスであった【ワヒーラ・ザ・ブラックウルフ】だ。高速で動き回り、獰猛に攻撃を仕掛けながら、自身の影を操って地面からの広範囲攻撃を仕掛けてくる厄介なネームドだった。

 だが、この闇の狼はネームドでも何でもない。通常モンスターである。それも1体ではない。ケルベロスより多い3体もが同時に出現する。

 SAOならばネームド級が平然と通常モンスターとして3体も同時出現。耐久面は劣るとしても、むしろ攻撃面や知能はこちらが遥かに上であるはずなのに、である。

 

「相変わらず……狂った難易度だな!」

 

 キリトは貫かれた傷口から血を流し、脂汗を流しながら強気に笑う。怒りを抑えるべく笑う。

 倒れる負傷者たちは人質だ。無視して戦い続ければ彼らの悲鳴を聞き続けることになる。そして、彼らは決して容易く殺されない。キリトの広範囲攻撃を封じるべくギリギリまで生かさず殺さずを続けさせられる。

 彼らは虫の息であるが、キリトに助けを求める縋る視線を向けている。それが見えぬ鎖となってキリトの動きを明確に鈍らせていく。

 闇の狼の1体は再び形を崩し、影となって地を這う。もう1体は形を保ったまま飛び掛かり、最後の1体はキリトを牽制するように距離を取っている。そうしている間にもケルベロスは唾液を周囲に撒き散らす。それは治癒効果があるのだろう。自身の傷を癒している。

 いや、それだけではない。唾液を浴びた死んだ野犬はゾンビ犬となって蘇る。動きは鈍っているが、その分だけ耐久力……もとい再生力が尋常ではなく、キリトの聖剣ならば問題なく倒しきれるが、2度殺さなければならず、1度殺してもすぐに復活する。そして、2度殺して倒しても、ケルベロスによって即座に復活させられる。

 ゾンビ犬には炎属性が有効であり、発火ヤスリを用いた爆破弾ならば銃撃でも1発で倒せる。だが、これだけの数では銃弾も発火ヤスリも足りない。ましてや、ケルベロスを倒さねば無限湧きなのだ。

 ケルベロスが突進を仕掛け、それをカバーするように闇の狼が影となって地を這う。キリトがカウンターを決めようとしても闇の刃が斬撃を止め、そこから間髪入れずに巨体によるタックルをケルベロスが決める。聖剣でガードしたキリトは押し飛ばされ、もう勝負を決めるには天雷装具スローネしかないと黄金の雷光を迸らせる。

 圧倒的な超スピードでケルベロスと闇の狼だけでも撃破する! そうすれば状況を打破できる! キリトが発動モーションを取ろうとした時、野犬たちは待っていたとばかりに彼の視界内に何かを引きずってくる。

 それは裏口を任せろとキリトの背中を押してくれたホランドだ。彼を引きずるのは闇の狼である。ここにいるのが全てではなかったのだ。野犬と闇の狼の同時攻撃に耐え切れず、彼は敗れ、両足は切断されていた。

 

「な、にを……やって、いる! 私は気にするな。戦え……守る、んだ……【黒の剣士】!」

 

 ホランドが敗れたという事は病棟に既に野犬たちが流れ込んでいるという事だ。それも1ヶ所だけの攻撃ではないならば、同時に複数個所から野犬が入り込んでいる。残りの衛兵だけではもう長く耐えられない。

 どうする? どうする? どうすればいい!? ホランドを……他の負傷者を見捨て、ケルベロスと闇の狼を最速で殲滅し、病棟に戻らねばならない。だが、彼らを見捨てるわけにはいかない!

 

 

 

『オレが斬る。だから、前だけを見てろ』

 

 

 

 蘇るのは1つの記憶。アインクラッド末期のフロアボス戦にて、クラインの風利火山のメンバーを文字通り皆殺しにしたクゥリの言葉。

 彼は斬った。何の迷いもなく、クラインが止めるように懇願する悲痛な叫びを無視し、殺されていく風林火山のメンバーの絶叫すらも踏み躙って、殺し尽くした。モンスターの事実上の人質であり、また自由を奪われて味方を攻撃してくる脅威にもなっていた彼らを殺さねば全滅したからだ。

 他の方法はあったのかもしれない。だが、クゥリは選ばなかった。思いつかなかったのだから。あったとしても勝てなくなると分かっていたから。あるいは、自分以外の全てが死ぬことになると見抜いてたからこそ、犠牲を最小限に抑える為に、仲間を殺した。

 至極単純明快だ。最速最短で勝利する。その分だけ犠牲は減る。情を優先して犠牲を増やした挙句に勝てなくなるのは本末転倒だ。

 クゥリは殺す。迷わず殺す。殺し尽くす。たとえ味方であろうとも、それ以外に手段がないならば、それ以外では自分を除く全てが死ぬと判断したならば、殺すのだ。

 

『気にしなくていい。「いつも通り」だ。そうだろう?』

 

 クラインと決別した夜もクゥリは動じなかった。自分も同罪だと寄り添おうとしたキリトをやんわりと、だが冷たく突き放した。

 

 

 選べ。自身の良心か、それとも犠牲を容認した勝利か。自分の手を汚すのではないのだから簡単だろう?

 

 

 それは聖剣ではなく、過去の亡霊……アインクラッドの思い出からの囁きだ。

 

「戦え、【黒の剣士】!」

 

 迷いを吹き飛ばすのはホランドの叫び。キリトは覚悟を決めてスローネを解放する。彼らの死を決して無駄にはしないと誓う。

 

 

 

 

「お願い、助け、て。死にたく……ない」

 

 

 

 

 だが、同時に聞こえたのはホランドとは違い、戦士として死ぬ覚悟など出来ていない、善良なる精神で中毒者の治療に従事することを是としただろう修道女の命乞いだった。

 ああ、クゥリならば迷わないのだろう。仕方ないと諦めるのでもなく、必要だからと切り捨てるのだろう。逡巡すらもなく敵という敵を殺し尽くし、その末に死んだ彼らの亡骸に詫びることもなく佇むのだろう。

 だが、キリトは『キリト』だ。彼は迷う。迷うからこそ強くなれる。そして、迷うからこそ、戦えない一般人の悲鳴と命乞いを聞いて、それを僅かな迷いもなく即座に切り捨てられるはずもない。

 

 

 たとえ、それが戦場において致命的な隙になるとしても、それはキリトが『キリト』であるが故に。

 

 

 背後から右鎖骨に喰らい付くのは毒性を帯びた牙。スローネ発動の動きが迷いで鈍り、その隙を突いたゾンビ犬に背後を取られたのだ。

 

「ぐぁああああああああ!?」

 

 思わず漏れた悲鳴に闇の狼が全身を大きな槍のように変じさせて突進する。ゾンビ犬を振り払おうとするも、死を恐れぬ野犬たちがここぞとばかりに四肢に噛みついて拘束する。

 闇の狼に穿たれた野犬とゾンビ犬の血肉が飛び散り、キリト自身も腹に刺し貫かれる。穴が穿たれ、零れる血は極めて危険な流血状態の証であり、オートヒーリングはほぼ機能しなくなる。

 拳1つ分の穴が腹に空いたか。キリトはエスト弾で回復しようとするもケルベロスの毒ブレスで回避を強要される。跳んだ空中で回復しようとすれば、影となって天へと伸ばし、空中で再び形を取った闇の狼の爪撃のガードを強いられ、地面に叩きつけられる。待ち構えていた野犬たちに噛みつかれ、更に血を流し、それでも月蝕の奔流を解き放って周囲を吹き飛ばすことで何とか追い払う。

 左足の負傷、甚大。機動力の大幅な低下は免れない。キリトは血反吐を垂らす。

 通常モンスターによる戦略と数の暴力。それによって、ネームドすら単独討伐できるはずのキリトは追い詰められた。

 所詮は1人。キリトは大ギルドが突出した個人を危険視しながらも排除しない理由を思い知る。彼らからすれば、策と人員さえ割けば十分に対処可能であるからだ。何も恐れるに足らないからだ。組織に対抗できるのは同規模以上の組織だけであり、個人では限界があるからだ。

 

「私達はいい! 見捨てろ! 見捨てるんだ!」

 

「……嫌だ!」

 

 ああ、それが本音なのだ。ホランドの覚悟を決めた訴えにキリトは否を唱える。

 たとえ、自らを窮地に追いやるとしても、勝利から遠退くとしても、敵の罠に深く嵌まるだけだとしても、待っているのは悲惨な結末だとしても……捨てられない。

 ホランドにしても、他の負傷者にしても詰んでいる。キリトを制限する為だけの人質だ。ここでキリトが見捨てようと見捨てまいと結末は変わらないのかもしれない。

 それでも、それでも、それでも……キリトは改めて自分の心から偽りなく叫ぶ。

 

「もう……誰も……見捨てたくないんだ!」

 

「……【黒の剣士】」

 

 まるで子どもの駄々だ。それでも、大人になると偉ぶって見捨てたくない。そんな事をしてもクゥリに嗤われるだけだ。彼は自分の真似をしてよくやったなど言わない。きっと、淡々と、失望すらもなく、そうかと一言だけ述べるだけなのだろう。

 ふざけるな! 俺は彼の隣に立つ友でありたいと望むのだ! 彼が何と言おうとも、世界中の人間が殺せと命じても、絶対に殺さない! ならば、ここで彼らを見捨てる者が、仕方ないと諦める者が、あらゆる怨嗟と呪詛のままに殺せと願う数多の人々の希望に抗えるものか!

 ケルベロス2体が並び、左右の牙をかち鳴らす。短距離の強力な炎は噴き出される。キリトは聖剣から放出した月蝕の奔流を地面に放ち、それを推力にして炎を突き破る。まさかの突撃にケルベロスは対応しきれない。

 深い斬撃がケルベロスの1体の腹に潜り込み、更に刀身を形成する全月蝕を解放した内部から爆散させる。そして、逃げるもう1体に対し、キリトはユージーンの心意を強引に使い、自身の幻影を呼び出すと追撃を仕掛ける。

 修道女を殺そうとする野犬たちに黄金ヤスリを用いた加速弾で追い払うも、幻影で殺しきれていなかったケルベロスが操るゾンビ犬が足下で復活し、キリトの左手首を噛み付き、メイデンハーツが落ちる。

 まだだ! 月蝕の刀身を再構成中の聖剣から強引に月蝕を引っ張り出し、左拳に纏わせる。纏った月蝕は肥大化し、1つの形……巨大な竜神の拳となる。

 エネルギー感知ではなく、培った戦闘勘によって反転したキリトは影で接近して大顎となって具現化した闇の狼へと竜神の拳を解き放つ。竜の咆哮にも似た拳圧は闇の狼をただの闇の塵に変える程に崩壊させる。

 しかし、残る闇の狼の1体が全身を震わせると闇の針を射出する。太い針はまるで投げ槍であり、竜神の拳を解き放った反動で動けないキリトに殺到する。

 

 

 

 だが、闇の針は突如としてキリトの正面で振るわれた機械仕掛けの剣によって防がれた。

 

 

 

 かつての剣であった頃のメイデンハーツとは違い、精巧さこそ感じるもより武骨で洗練されていないフォルム。鍔の部分がエンジンと化しているのか、唸り声のような駆動音が特徴的だった。

 纏うのは一瞬だけ回路の光が靡くコートと一体化したバトルスーツ。サイバーチックなデザインであり、同時に古風な騎士の如く、相反するイメージを一体化させている。そして、コートの襟で隠されたうなじの下には何らかの小型装置があり、僅かな光が漏れていた。

 

「……借りを返しに来ましたよ、【黒の剣士】さん」

 

 ぶっきら棒かつ慇懃無礼。笑みの1つもないが故に怜悧で端正な顔立ちが何処か歪に強調されたエイジは増援だと語る。

 

「これをどうぞ。【教会の治癒粉薬】です。書架の専属である貴方ならば不要かもしれませんがね」

 

「いや、助かる」

 

 投げ渡された粉袋の中身を全身振りかければ、HPが回復するだけではなく、一時的とはいえ流血のスリップダメージが緩和され、また足を補強して幾らかの機動力が戻る。

 

「どうして――」

 

「どうして僕がここにいるかと申し上げますと、後でユナに感謝をお願いします。貴方を助けて欲しいと形振り構わずに救援を求めていたようでしたから。僕は買い物帰りに偶然通りかかっただけですよ」

 

 ユナが? 安全なところに逃げたと思っていた彼女であるが、遅れるだろう救援を見越して人々に訴えてくれていたのだ。

 何の実りも無く助けに入ってくれるプレイヤーなどDBOでは多く期待できない。キリトの知り合いの幾人かならば我が身や損得を鑑みずに飛び込んでくれるが、その多くは卓越した実力者であり、同時に人格面に幾らかの問題があるとはいえ、基本的に善良な判断を下せる人物だ。そして、大多数の人間はまず自身の安全が最優先であり、なおかつ損得勘定を優先させるものだ。善意だけで危険に飛び込んでいたら、馬鹿を見るだけではなく、自分や他人を滅ぼすのがDBOの常なのだから。

 それでもエイジは駆け付けてくれた。ユナの訴えならば無下にしないだろうが、それでも遺恨がある相手であるキリトの救援に来てくれたのだ。それが信じられず、視線と表情に出てしまったのだろう。エイジは苛立つように眉を顰めた。

 

「……失礼ですね。僕には貴方に3つの大恩があります。返す前に死なれては困るんですよ」

 

「3つ? そんなにもあったかな」

 

 飛び掛かるゾンビ犬。エイジが用いるのは機械仕掛けの片刃の両手剣だろう。だが、その動きは極めて素早く、むしろ運用は片手剣に近かった。ゾンビ犬の群れを一閃して追い払う。

 

「ユナを救い出してもらい、ヴェノム=ヒュドラからも助け出してもらい、そして修練に付き合ってもらえるとか」

 

「最初の1つは……カウントしていいのか!? 俺のせいでもう1人のユナは……!」

 

 エイジの背後に飛び掛かる野犬たちを聖剣の連撃で吹き飛ばし、更に足下から迫る闇の狼に対して地面に向けた月蝕突きで対抗する。どうやら完全に影として溶けている状態ではダメージが通り難いらしく、闇の狼は難なく退くが、そうしている間にエイジが左踵でメイデンハーツを蹴り上げ、キリトはキャッチすると加速弾で正確に闇の狼の眉間を撃ち抜く。ダメージを受けてよろめいたところで、エイジは瞬時に間合いを詰める。

 だが、カウンターだとばかりに闇の狼が形を崩し、闇の槍となってエイジを穿とうとする。

 だが、取るに足らないとばかりにエイジは闇の槍を踏みつける。1歩間違えれば自分が刺し貫かれかねない危うい防御だ。

 否。防御ではない。踏みつけられて体勢を崩した闇の狼へと剣を刺し貫く。そして、そのままエンジンを駆動させ、火の粉をまき散らしながら斬り上げる。宙に浮きながら形を戻した闇の狼に、エイジは空中連撃を決めて撃破する。

 影の如く溶けるならば、影と接しない空中では形を元に戻す。あの一瞬でエイジは闇の狼の能力のカラクリに仮説を立て、即座に実行したのだろう。

 初見だろう、闇の槍を見切って踏みつけ、体勢を崩したところに強烈な一撃。更にそこから浮かせて連撃を決める。ペイラーの記憶で戦った時からバトルスタイルはより洗練されているだけではない。明確な血肉となった実力が垣間見える。

 

「誤解しないでください。あれは僕が弱かっただけのこと。【黒の剣士】さんには何の責任もありません」

 

「だけど、俺が邪魔したせいで……」

 

 残る闇の狼がケルベロスと共に仕掛ける。その間にも負傷した衛兵や修道女を野犬が襲おうとするが、エイジはされるかと言わんばかりに何かをばら撒く。

 激しく鳴り響くのは爆竹だ。強烈な閃光・衝撃・煙は賢く群れていようとも野獣である犬には効果覿面であった。まともに浴びた野犬はよろめく。更に煙には刺激物が混じっているのか、嗅覚に鋭い野犬たちがもがき苦しみ、あるいは遠ざかる。

 

「気になさるならば、『NPCのユナ』の事は他言無用でお願いします。特にユナには」

 

「……嫌だと言ったら?」

 

「ここで見捨てましょうか? 僕が抜ければ、幾ら貴方でも犠牲が増えることを止められませんよ?」

 

「…………」

 

「睨まないでください。冗談ですよ」

 

 続々と放たれる闇の針をエイジが弾き、続くキリトが月蝕の聖剣の振り下ろしと共に月蝕の奔流を解放して衝撃波を生み、ケルベロスの毒ブレスを吹き飛ばす。着火は爆破を狙っていたケルベロスは隙が出来る。

 

「スイッチ!」

 

「言われずとも」

 

 キリトの掛け声に合わせるまでもなくエイジが入れ替わり、何かの粉末を散らす。そして、刀身が瞬間的に炎をエンチャントするとそのまま薙ぎ払い、粉末は炸裂して爆撃を纏うかのような一閃に変じる。

 斬撃と爆発を組み合わせた剣技! それも装備の能力ではなく、アイテムと連携する戦術にはキリトも感嘆した。発想だけで実行できるものではない。的確に隙を狙い、火薬の拡散範囲と着火タイミングを斬撃と完璧に合わせねばならない高等技術である。

 ケルベロスは深手を負って遠ざかる。その間に地面を影となって這っていた闇の狼が闇の刃で強襲しようとするも、具現化する一瞬を見逃さずにキリトは聖剣で刺し穿つ。聖剣で拘束されたところで、竜神の拳で打ち抜いて撃破する。

 残るケルベロスはゾンビ犬を突撃させる。だが、それより先に間合いを詰めたエイジがまず中心の頭を斬り上げる。

 連続の噛み付きと前足のコンビネーション。ケルベロスは正面に立ったエイジに連撃を浴びせるが、彼は冷静にそれらを刀身で弾き、逆にケルベロスの体勢を崩ささせ、跳んで背中に乗ると機械仕掛けの剣のエンジンを激しく駆動させ、火花を散らせながら一気に深く尾まで刻む。

 

「エイジ!」

 

 だが、ケルベロスは健在。キリトの掛け声と構えからケルベロスの背後に着地したエイジも察知して構えを取る。

 キリトが穿つのは≪片手剣≫の突進系ソードスキルにして基本ソードスキルのレイジスパイク。エイジが放つのは≪両手剣≫の突進系ソードスキルの【メイルブレイカー】。2つの突進系ソードスキルに挟まれ、退路を奪われたケルベロスは前後が貫かれて倒れる。

 ソードスキルの勢いのままに交差して2人は互いにほぼ同時に硬直時間を解消し、背中を預け合いながら野犬の怒涛の波状攻撃を捌く。その間もエイジは爆竹をばら撒いて負傷者から野犬を遠ざけ、キリトは銃撃で負傷者周囲の野犬を1体でも多く討ち取る。

 

「残弾ゼロ!」

 

「こちらも爆竹は無いですね」

 

 キリトがアイコンタクトを取れば、エイジは頷くことなくカバーに入る。その間にキリトは拳に雷光を溜めて構えを取る。ボルテージは十分に溜まった。これならば発動時間を確保できる。

 天雷装具スローネ解放。黄金の雷を四肢に纏い、高速移動を可能としたキリトは縦横無尽に駆け回って庭の残る野犬を殲滅していく。

 同時に視界に映るのは青。エイジの装備もまた高速機動可能とする能力が備わっているのだろう。スローネ程ではないが、それでも比肩しうるだけの、およそ安全性を感じさせない暴力的な加速だった。

 最後の1体を仕留めたキリトは即座に病棟へと向かおうとするが、エイジは剣をその場に突き立てて杖にして動かない。よくよく見れば、彼のバトルスーツの隙間からは反動による自傷と思われる大量の出血があり、小さくない血溜まりが出来ていた。

 

「エイジ!」

 

「問題ありません。使いこなせなかった……僕の実力不足。それ以上でも以下でもない。早く行ってください。僕は負傷者の救護を行います」

 

「……済まない」

 

「借りを返しただけですよ」

 

「それでも、ありがとう。君が来てくれたから、1人でも多く助けられた」

 

 キリトはエイジをその場に残し、ホランドが防衛していた破壊された裏口より病棟に入る。どうやらケルベロスや闇の狼といった強力な戦力はキリトに回されたらしく、また残った衛兵たちもガッツを見せ、辛うじて最後の防衛ラインが敷かれていた。

 キリトの登場に衛兵たちは活気が付き、残る野犬たちを打ち払う。そして、キリトが防衛に加わってから数分も経たずして、教会剣の増援、更には大ギルドの部隊も到着し、功績を争うようにして野犬たちは瞬く間に討伐されていった。

 これが組織の力か。キリト1人では防衛が精一杯だった。幸いにもエイジが駆け付けてくれたからこそ反撃に転じられ、また病棟の最終防衛ラインは守り切れた。

 

「君は馬鹿だな。私達を見捨てていれば、そんな傷を負うこともなかっただろうに」

 

「……よく言われるよ」

 

 生き残ったホランドは担架で運ばれる最中にキリトに呆れたとばかりに鼻を鳴らし、だが嬉しそうに握手を求めた。

 

「だが、どうして聖剣が君を選んだのか、分かった気がする。君は正しく英雄だ。たとえ、愚かしい甘さを持っていようとも、だからこそ君は英雄なのだろう。他の誰でもなく、君が聖剣の持ち主で良かった」

 

 ホランドの手を握り返したキリトは運ばれていく彼に違うのだと心の中で唱える。

 聖剣に選ばれたのではない。託された挙句、エゴのままに振るい続けると決めたのが俺なんだ。その在り方が『英雄』と映ったとしても、俺は身勝手に戦って生きる1人の人間……『キリト』という個人に過ぎないのだ。

 

「キリト! 大丈夫か!」

 

「ラジードも来てたのか」

 

「うん。上の命令で街の巡回警備に駆り出されていたんだ。あんな事件があったばかりだったから威圧も兼ねてね。それよりもボロボロじゃないか! 君がそんな風になるなんて、どんな強敵だったのか!?」

 

 ラジードが率いる太陽の狩猟団は1番乗りを果たしていた。彼に情けない姿を見せるのは恥ずかしかったが、疲労と負傷が勝り、キリトは大人しく腰を下ろして休んでいた。

 

「……1体ずつは大したことなかったし、普通に戦っていれば勝てた相手だよ。だけど、今回ばかりは、俺1人だったら……完敗だった」

 

 ホランド達衛兵の奮戦があったからこそ守り抜けた。確かに犠牲は大きかったが、皆殺しにされていた未来を防げたのは、キリトが奮闘したからではなく、あの場の全員が守護の精神で戦い抜いたからだ。

 修道女や薬師といった非戦闘員の死者は7名。警備に従事していた衛兵24名の内、生存者は僅か3名。キリトが最初に助けた衛兵は、自分がお荷物になると知るや否や、仲間に涙ながらに自決用の爆弾を求め、野犬の群れに片足を引きずりながら突撃して散ったという。

 馬鹿野郎。キリトは焼き焦げた廊下と散らばる肉片に拳を握る。尊い犠牲だったと受け入れる一方で、最後まで抗って戦えと叫びたかった。彼がどれだけの覚悟で死を選んだとしても、それでも生きて再会したかった。

 

「やっぱり、俺だけで出来る事なんて、たかが知れてるな」

 

 心意や聖剣があれば何でもできるわけではないと改めて認識できた。自分は万難に無双して全てを守ることなどできない。自分だけで世界を救うなど論外だ。

 多くの人の手を借りなければ望む未来に手を伸ばす事さえもできないのだ。

 

「キリトも休んだ方が良い。事後処理は僕の方でしておくから」

 

「……そうだな。あ、そういえば、エイジは? 無事なのか?」

 

「エイジ?」

 

「庭にいただろう? 負傷者を救護するからって残ってたはずなんだ。彼も深手を負ってる」

 

 とはいえ、モンスターではなく自傷ダメージであるが、そちらの方が名誉を傷つけると思い、キリトは省く。

 だが、ラジードは腕を組んで黙り込み、首を横に振る。

 

「僕たちが到着した時には誰もいなかったよ。負傷者は最低限の応急処置が施されていたみたいだけどね」

 

「……そうか」

 

 確かに宣言通りに救護は行ったが、人目を避けて姿を暗ませた。あれ程の実力を手にしたならば、証言も合わさって大ギルドに売り込むことも出来るはずだ。

 庭に戻ったキリトは並べられた負傷者に声をかけて励ます。その多くがダメージフィードバックに不慣れであり、流れ出る血に死の怯えを隠せずにいた。現実世界ならば致死に至る傷もDBOならば必ずしもそうではなく、また呪われていなければ完治するのだ。だが、参った精神は拠り所を求めるのである。

 と、そこに駆け込んできたのはユナだった。首に包帯を巻いており、何らかの負傷をしたようだったが、彼女は息荒く焦って周囲を見回す。

 

<エーくんは何処? 無事なの?>

 

 辛うじて読める程に書き殴ったユナに、キリトは何と言うべきかと視線を泳がせる。それが彼女に最悪を誤解させたのだろう。血の気が引いた顔でその場にへたり込む。

 

「ち、違う! エイジは大丈夫だ! 大した傷は……うーん、大した傷じゃないとは言い切れないけど……」

 

 もはや文字を書く冷静さもないとばかりに焦燥を露わにしたユナはキリトに縋りついて涙目で訴える。彼は落ち着かせるべく肩を叩いて笑いかけた。

 

「自分の足で歩いて帰ったよ。彼、見た目通りにクールなんだな」

 

 本当に大したことないとキリトが笑顔でアピールすれば、ユナは安堵の吐息を漏らして脱力する。自分に寄り掛かるように倒れたユナの肩を抱いたキリトは、周囲の冷やかすような視線、あるいは殺気を帯びた眼に、そういう関係じゃないと手を振って否定する。

 ユナにとってエイジは本当に大事な人なのだろう。キリトが割って入るとかそんな無粋が許されるような関係ではない。

 

「キリト、いい加減にしようよ。ね?」

 

「だから違うんだ!」

 

 ラジードに肩を叩かれたキリトは咆えた。

 ユナは負傷者の治療に参加し、もちろんその1人に含まれていたキリトの治療を行う。彼女は習得したばかりの≪奇跡≫で回復を行う。回復アイテムとは違い、回復系の奇跡はよりアバターの修復効果が高い。腹に穴まで空いているキリトとしては実に有難かった。

 

<戦うとこんなに酷い傷を負う事になるんだね>

 

「今回は追い詰められこそしたけど、ネームド戦の凄惨さはこんなものじゃない。傷を負ったら回復して戦線に復帰して、それさえも許されずに殺されて、仲間の骸を傍らにしても戦い続けないといけない」

 

<私にも耐えられるかな?>

 

「……ユナの場合は大怪我を負ったらステータス的にも装備的にも復帰は難しいだろうな。離脱するか即死するかのどちらかしかない。良くも悪くも傷付いて回復しながら戦うのは俺達近接ファイターやタンクの役割なんだ」

 

<同じ苦しみは共有できないんだね>

 

「傷ついて苦しんだ方が偉いんじゃない。ユナにはユナの出来る事がある。そうじゃないと後方支援を全否定することになるからな。俺も今回の戦いで、自分1人の限界を改めて思い知ったよ」

 

 自分が飛び込んだ意味はあったが、せめてあらん限りの救難信号を飛ばすべきだった。思い浮かぶ限りの知人たちは、キリトが助けを求めれば、最速で駆けつけてくれたはずだ。だが、そんな頭を回す事もなく、単独で飛び込んでしまった。

 悪い癖はなかなか抜けないな。他者を頼らずに自分でこなそうとするソロプレイヤー時代の悪癖が今も頑固な油汚れのようにこびりついているとキリトは嘆息する。

 

「報告は以上です」

 

「……そうか。ありがとう」

 

 と、キリトが治療を終えた頃、ラジードは部下から報告を受けたようだった。三白眼の青年はキリトを見ると憧れに近い視線で敬礼し、傍らの魔法使い風のお下げの少女と共に去っていく。

 まだ負傷者の治療を行うユナを残し、深刻な表情をしたラジードにキリトは駆け寄る。

 

「何があったんだ?」

 

「…………」

 

「隠さなくていい。隠したら大ギルドのスキャンダルだろうと探るぞ」

 

「キミなら本当にやりそうで怖いよ。別に隠す事じゃないし、すぐに耳に入るだろうけど……どうやら終わりつつある街の各所で同様の襲撃事件があったみたいなんだ。ここまで大規模ではなかったみたいだけど、中にはキリトが倒した強力なレベル100級も含まれていたみたいだ」

 

 ラジードは彼の象徴である特大剣を背負いながらキリトを隣に中毒者治療施設を出発する。なお、逞しいと言うべきか愚かと言うべきか、この混乱に乗じて脱走した中毒者もいるらしく、教会は教会剣も動員して確保に乗り出しているようだった。

 

「無事なのか? 犠牲者は!?」

 

「犠牲は最小限に抑えられた……みたいなんだ。でも、その……それ以上に……」

 

 ラジードは口を押え、現場だろう、クリスマスムード1色だっただろう商店街に案内する。その中でも襲われたのは商業ギルド【卍大鯨】だ。特に食品系を卸すことで財を成し、このあたりの商店街はいずれも支配下に置いている。

 

「自前の用心棒はほぼ全滅したいみたいだね。まぁ、同情はあまりできないけど……」

 

「どういう事だ?」

 

「マダラ……僕の部下が救護に駆け付けた時に発見したらしいんだけど、彼らは大ギルドが禁じていた甘蜜の金水を廃棄せずに蓄えていたんだ。どうやら系列店を通してプレミア化した商品を高値で売り捌こうとしていたみたいでね」

 

「そういう事か」

 

 キリトは冷たく吐き捨てる。ラジードは同情しないと言いつつも憐憫の情を捨てきれないようだが、キリトは冷淡に彼らに欠片の慈悲も抱かない。それは甘蜜の金水を不幸にも作り上げてしまった1人の男の悲しき復讐を知るからなのかもしれなかった。

 

「生き残った人たちも関係者は罰せられることになる。罰する法なんてあるかどうかも定かじゃないけどね」

 

 ラジード曰く、他にも恐れた商店が幾つもあるらしく、大ギルドと教会が救助を行っているらしいが、いずれも後の祭りである。

 どうしてラジードが顔を顰めたのか。その理由は別にあったのだ。

 野犬やケルベロス、闇の狼といった死体。だが、そのいずれもまるで怪物に襲われたかのように、およそ惨劇としか呼びようがない程に破壊され、また殺し尽くされていた。

 

「ひっ……ひっ……ひっ……!」

 

 従業員だろう女は頭から血を浴びてしまったのか、瞳孔が開いたまま震え、まるで母の抱擁かのように肩にかけられた布団を抱き寄せていた。

 

「生存者の1人だ。何というか、その……各現場での生存者の少なくない数がこんな状態なんだ。それで……」

 

 言い淀むラジードに代わり、キリトは片膝をついて怯えた子供のように丸まる女従業員に声をかける。なるべく怯えさせないように、優しい声音を心掛ける。甘蜜の金水を取り扱っていたとしても従業員の全員が共犯とは考え難い。もしかせずとも大多数は善良な人間であり、彼女もその1人かもしれないのだから。

 

「何があったんだ。教えてくれ」

 

「……あ、なたは……聖剣、の……ああ……ああ! 助けてください、【黒の剣士】様! 来る! 来る! 恐い……怖い……コワイ! 笑ってたの! 幸せそうに笑ってたの! 殺して、殺して、殺して、たくさんの人が死んでるのに、楽しそうに笑って、皆の血と肉が散らばる中で踊ってたの!」

 

「落ち着け! 何があったんだ!」

 

「ひ、ひひ……ひひひ! アレは人間じゃない。人間なんかじゃない! そうよ! アレは……アレは……天使様! ひひひ! 天使様よ!」

 

 天使。その単語にキリトの心臓が跳ね上がる。

 

「アイツは見殺しにした。私の友達が助けてって手を伸ばしたのに、見向きもしないで犬たちだけを殺し回った。助けられる人たちもいたはずなのに……!」

 

 そうだ。彼は迷わない。

 

「でもね……ひひ……ひひひ……でもね……それが……とっても綺麗……なの。不思議なくらいに……見惚れてしまって……ひひひ……ひひひ……!」

 

 彼は殺す。殺し尽くす。最速最短で殺す。自分の手で殺す。あるいは見殺しにする。

 

「ねぇ、【黒の剣士】様。アイツを……『あの御方』を殺して。ねぇ、お願い。そうしないときっと、いつか、皆が殺される。ひひひ……ひひ……ひひひひひひ! 死天使様が舞い降りた! ああ、正しかった! 正しかったのよ! バケモノ! バケモノ! バケモノ! バケモノ!」

 

 壊れたように狂笑する女従業員に、ラジードは首を横に振り、キリトは共に凄惨な事件現場から踏み出る。

 

「……各地で、血のような赤い翼を生やした『白髪の天使』を見たって報告例が上がってる。最速最短で、救助もせず、モンスターだけを狩って移動を繰り返してね」

 

「そうか」

 

「もっと他にやりようがあるだろう!? なんで、こう、いつも……!」

 

 頭を掻いて理解できないと咆えるラジードは『良い人』なのだろう。彼の戦いを見て狂ってしまった女を目の当たりにして、街中に爆発的に広がった恐怖にも否を唱えられる程に『良い人』なのだろう。 

 

「彼は迷わない。戦い、そして殺す時……絶対に迷わない。出会った頃から変わらないな」

 

 最速最短で敵を殲滅することであらゆる犠牲を最小限に抑える。たとえ、伸ばされた手に見向きもしないとしても、より多くを殺すことで最善を為すのだから。

 

「ああ、チクショウ。悔しいなぁ」

 

 そんなキミを否定して手を取ってあげたいのに、俺はこんなにも無様だ。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 失敗した。アリシアは思わぬ抵抗に苛立つ。

 狙いだった中毒者治療施設の襲撃は失敗。よもや【黒の剣士】が乱入してくるとは予定外だった。地下ダンジョンが連れてきた強力なモンスターの過半を差し向けたというのに、衛兵ばかりに死傷者が出て本命を1人も殺せなかった。

 望まぬ犠牲ばかりが増えた。主人を死に追いやったヴェノム=ヒュドラに関わる全てを破壊し、抹殺する事こそがアリシアの復讐であり、彼らを守ろうとするならば同罪であるが、それでも犠牲は最小限で済ませたかった。

 古巣にあまり迷惑をかけたくない。また、派手に動いた分だけ大ギルドといった危険な戦力も動くことになる。だが、これは必要経費である。

 自身の能力を極限まで活かし、なおかつヴェノム=ヒュドラに関わる全てを滅ぼすならば、そこには大ギルドの1部も含まれているだろう。敵対するのは予想の範囲内である。そして、自分は容易には狩られない。最初こそ直接的な統率が不可欠だったが、現在は各指揮官個体に伝令することによって作戦を実行している。

 

 

 作戦は失敗したようだね。そう言って残念そうに自分の頭を撫でるのは男とも女とも分からない者。敢えて表現するならば『闇』とも言うべき存在だ。

 

 

 濡れたように湿って、何処までも堕ちていくような深淵の如き存在。『闇』はアリシアに新たな能力を強化してくれた。地下ダンジョンから強力なモンスターを連れ出すことが出来たのもその1つだ。本来は野犬程度の統率しかできなかったが、今は野犬を通して伝令を共有させ、なおかつダンジョンから狼・犬系モンスターを引き連れる事も可能とした。

 ヴェノム=ヒュドラに関わる全てを滅ぼすことに手を貸して、『闇』に何のメリットがあるだろうか? アリシアが問いかければ、美しいとも醜いともとれる笑みを『闇』は描いた。

 

 

 キミが可哀そうだった。それだけだよ。狼には思う所が多いんだ。

 

 

 気まぐれに近い哀れみ。『闇』は色褪せたエメラルドの指輪のようなものを指で弄り、懐かしい思い出に耽っているようだった。

 アリシアに誰を重ねて哀れんだのか。随分と数奇な運命をたどった狼がいたようである。アリシアは残存戦力を確認する。野犬は実に9割を損耗。手駒にした地下ダンジョンモンスターは全滅した。

 これが人間……プレイヤーの組織ならば立て直しは絶望的だ。だが、野犬は無尽蔵に生まれる。地下ダンジョンからも幾らでも引っ張り出せる。アリシアは手応えを覚えていた。今回の倍……いいや、3倍以上の戦力を十分に統率できる。ある程度の統率を自分以外に指揮を任せれば、10倍以上も可能だ。

 何よりも大収穫だったのはプレイヤー側最高峰の戦力である【黒の剣士】も個人に過ぎないという点だ。作戦と物量次第で抑え込むことが出来る。むしろ、アリシアにとって厄介だったのは増援で現れた男の方だ。あの爆竹は獣系モンスターを怯ませるのに特化した攻撃アイテムだろう。野犬では分かっていても防ぎようがない。

 同じく大ギルドが本格的に動き出せば、銃器による中・遠距離からの掃射によって殲滅される恐れがある。だが、それも戦い方次第だ。人間にはできない無尽蔵の補給を可能とするならば、大ギルド相手でも戦えるとアリシアは確信する。

 

 

 あの白き者はどうするのかな?

 

 

 目下最大の問題を『闇』は指摘し、アリシアは毛を逆立たせる。

 ああ、感じずにはいられない。アレはまさしく獣の王だ。そして、ユウキの想い人だ。

 獣の王は自ら動かないと踏んでいた。何が起きようとも自分と関係者に害が及ばない限り、基本的には他人任せ。それが獣の王だとアリシアは見抜いていた。

 だが、古巣は獣の王を雇った。アリシアを狩る為だろう。最善の選択肢である。獣の王が相手となれば、アリシアとて危ういのだから。

 治療施設を含む7ヶ所を時間差で襲撃。だが、本命は【黒の剣士】によって阻まれ、残りも圧倒的な殺戮能力を遺憾なく発揮した獣の王によって阻止された。いずれも多少の被害こそ出たが、派手に動いたリスクには到底見合わなかった。

 どちらにしても戦力増強は必須である。邪魔をする相手には徹底的な消耗戦を仕掛ければいい。たとえ、あちらが絶大な戦力と資本力を持っていようとも戦場に出る兵士の士気は有限だ。戦って名を挙げられるでもない野犬の相手に何処まで士気を保てるかは見物である。むしろ警戒すべきなのは今回の事件の解決に乗り出さんとする強力な個人……【黒の剣士】や獣の王といった傭兵に居場所を特定されることだ。

 並のプレイヤー相手ならば勝負をするまでもないが、突出した実力者は危険だ。勝る機動力で逃げに徹するべきだろう。なおも追い縋るのであるならば、今回の【黒の剣士】に有効であったように、相応の策と戦力で応じればいいだけのことである。

 

 

 邪魔なら私が倒してあげようか?

 

 

 獣の王に勝てると豪語する『闇』には傲慢も油断もなく、淡々と事実だけを述べているようだった。まるでジャンケンにおいて、グーはパーに勝てないという不変のルールを述べるような口振りでもあった。

 あの獣の王を倒せるというのか? アリシアは『闇』を見つめ、だが否を唱えた。アレは確かに人間の域を超えた存在だ。まさしく獣の王だ。だが、それ以上にユウキの想い人なのだ。亡き同僚の想いを無駄にしない為にも、なるべく手出しはしたくない。

 アリシアの意思を聞いた『闇』は去っていく。その後ろ姿は純潔の聖女のようであり、また老獪な賢者のようでもあった。

 

 

 そうか。残念だ。だが、機会は幾らでもある。あの天使を倒せばどんなソウルが手に入るのか、楽しみは取っておくとしよう。

 

 

 アリシアは最初から存在しなかったように失せた『闇』に嗤う。

 確かに同情もあっただろう。哀れみで助けたのだろう。だが、気まぐれで自分を殺すのだろう。どんなソウルが手に入るのだろうか。そんな興味1つで殺すのだろう。

 まずは戦力を回復させねばならない。待つだけでいいのだ。それだけでまた野犬に関しては補充できる。地下ダンジョンのモンスターを再び手に入れるのは古巣との対立しなければならないが、今の自分ならば戦力不足の古巣を押し込んで地下ダンジョンを闊歩できる。

 ならばこそ、最優先しなければならないのは自身の生存だ。アリシアという存在がいる限り、不滅の軍団が維持されるのであるならば、自己の生存を最優先にしなければならない。

 古巣は回収した甘蜜の金水でおびき寄せようとしているようだが、その手には乗らない。こちらが何をターゲットにしているか読め解けたところで、アリシアの次の動きまでは読めない。

 滅ぼす。滅ぼしてやる。主人を奪い取ったヴェノム=ヒュドラの全てを! アリシアは怒りと憎しみで狂った魂を胸に、隠れ家へと向かう。

 

 

 

 

 そして、まるで慈雨の如く、優しく天より刃が胴を貫いた。

 

 

 

 

 アリシアは刺し貫かれた瞬間にそのまま脳天まで裂かれるより先に、鋭い刃を利用して自ら体を裂いて刀身から脱出したのである。

 それでも致命傷だ。自身の命の残り……HPを意識したアリシアは深手には変わりないと判断した。

 

「初手としては上々。うん、心臓はちゃんと外せて良かったです」

 

 アリシアの血で濡れた刃……カタナを振るい、白木を骨格として緋血が翼膜にして肉のように蠢く異形の片翼を羽ばたかせる天使は微笑む。

 ここはアリシアの隠れ家の1つ。元は大ギルドが運営していた、だが事故か、あるいは敵対勢力の妨害によって破壊されて復旧されずに廃棄された工場だ。念入りに迂回し、わざと残存の野犬に古巣の仕掛けた罠を向かわせておいたのだ。

 それなのに何故? 工場の暗がりの中でも恐ろしく映える純白の髪を靡かせ、全身をアリシアの同胞を殺し尽くした血で染め上げた獣の王をアリシアは睨む。

 

「別に不思議ではありません」

 

 言葉は通じないはずなのに、心は確かに通ったかのように、獣の王は可愛らしく舌を出しながら悪戯を告白するように告げる。

 

「指揮も隠蔽も完璧でした。特に中毒者治療施設の襲撃はお見事でした。キリトが介入したので『大丈夫だろう』って無視したんですけど、その後も時間差で的確に各所を襲撃。広い終わりつつある街を駆け回る羽目になりましたが、派手に動いてくれたお陰で実に助かりました」

 

 アリシアの逃げ場を奪うように、ゆったりとした動きで獣の王は距離を詰める。単純なスペックでは逃げきれない。

 

「見事な統制。恐らく現場に指揮官がいたのでしょうね。ですが、同時に俯瞰して各所に指示を飛ばす司令塔……アナタの存在も不可欠だと感じました。だから、全襲撃地点を同時に目視可能なポイントを探り、全7ヶ所における共通したポイントが最も高いと踏みました」

 

 ああ、そうだ。そこまではアリシアも読まれると踏んだ。だからこそ襲撃完了次第に即座に移動を開始したのだ。仮に≪追跡≫スキルを持っていたとしても、アリシアの隠蔽能力の方が上位のはずである。たとえトップクラスの熟練度があろうとも≪追跡≫は効力を発揮しないと見込めた。

 

「アナタの直近の痕跡を発見した。それだけで十分です。丁寧に移動したつもりでしょうが、貴方の移動した痕跡は確かに残っていました。足跡は無くとも、自重で歪んだ屋根がありました。アナタが通って不自然に散らばったゴミがありました。攪乱に用いられた野犬が不自然な空白地帯を教えてくれました。それら全てを統合すれば追跡は可能。狩人にとって児戯です」

 

 ふざけた観察眼のみならず、それらからアリシアであると取捨選別するのは狩りの為す本能か。スキルに頼ることなく、自前の技術と本能だけでアリシアの足取りを、それも決して遅くない動きで移動していたにもかかわらず、あっさりと追いついた。何にしてもアリシアの想像を上回る程のバケモノ。それが獣の王であったようだ。

 

「後はアナタを尾行し、隠れ家と思われるこの廃工場に侵入した段階で上の穴が開いた屋根で待機。タイミングを見計らって……ザクリ。如何でしょうか?」

 

 可愛らしく人差し指をアリシアに向けて説明を終えた獣の王は上機嫌だった。およそまともではない、人とモンスターの血と臓物のニオイを纏いながらも、楽しくてしょうがないといった様子である。

 

「これからアナタの四肢を砕いて捕縛します。生かして捕らえる。それが今回のオレの仕事なんです♪ ああ、殺す以外の仕事なんて久しぶりで、少し舞い上がってますね!」

 

 それが嬉しいのか? いいや、違う。アリシアは哀れむ。

 獣の王はアリシアを生かして捕縛することに微塵として『喜び』を覚えていない。眼が何よりも語っている。酷く淡白で、興味もなく、むしろ抵抗の末に殺してしまった方がずっとずっと愉快でしょうがないだろう。

 獣の王が笑って……いいや、嗤っているのはアリシアが率いる野犬とモンスターと殺し合いが思いの外に楽しくて、同時に響く人の涙と悲鳴と流血が心地良かったからだ。殺戮の中で遊ぶことが出来たからだ。

 血の香りに昂っているだけだと本人は気づいていない。必死に、必死に、必死に思い込もうとしているのだろう。

 何にしてもお陰で勝機は生まれた。最初の一撃、もしも頭や首を狙われていたならば即死だった。アリシアは身構え、獣の王というたった1人の存在の殺意による包囲網からの脱出を試みる。

 廃工場からの逃げ道は正面玄関、割れた窓、裏口の3つ。屋根の穴もあるが、アリシアのスピードを活かすならば、滞空時間が長いジャンプは避けるべきである。

 裏口は論外。背を向けた瞬間に狩られる。窓も危うい。回り込まれて足を砕かれる。

 ならば狙うは正面突破しかない。アリシアは唸り声をあげ、全身の黒毛を靡かせる。

 右と見せかけて左、そこから更に右へのターンを決めての突破。陽動込みであり、常人どころかトッププレイヤー相手でも欺き、また見抜かれても対応できない速度だ。そもそも骨格レベルで生物として違うのだ。アリシアのスピードも加味すれば追いつけるはずがない。

 だが、獣の王はあっさりと封じ込める。陽動はもちろん引っ掛からず、アリシアの動きを容易く追いつく。

 ステータスが違うからではない。アリシアの目は誤魔化せない。人間と狼では骨格という体の基礎が違うように、獣の王の骨格は巧妙に『人間』とは違う。人間でありながら、限りなくアリシアのような四足歩行生物に近しい動きが可能であるように、股関節からして構造が変形しているのだ。

 だからこそ獣の王は男でありながら女のような体付きなのだろう。女性の柔軟性の更に先……獣の動きを実現する為に、生物として誕生した時点で他の人類とは骨格レベルの基礎からして異なるのだ。

 人間を模した造形をした、人間に擬態する精神を持つ、人間を超越した生物。それが獣の王だ。

 強烈な蹴り。アリシアの前足関節を精密に狙って砕こうとしている。アリシアは咄嗟に頭を垂らし、蹴りの軌道上に額を無防備に置く。

 

「……っ!」

 

 瞬間の蹴りの停止。アリシアは狙い通りだと獣の王を突破する。

 単純明快な殺傷目的ならばアリシアには勝ち目などなかった。だが、捕獲を目論むならば別だ。獣の王の秀でた殺傷能力は逆に仇となる。あの瞬間、獣の王は緊急停止する為に本能の空白が生まれた。そこをアリシアは突いたのだ。

 とはいえ、初撃は深手だ。今にも臓物が垂れそうであり、夥しい出血を伴っている。血痕は……何よりも血の香りは獣の王にとって追跡を容易にさせるだろう。

 

 駆ける。

 

 駆ける。

 

 駆ける。

 

 何処までも駆ける。

 

 いつしか空は夕暮れとなり、アリシアは1つの思い出を呼び起こす。

 

 あれは主と出会って間もない頃だ。臆病な同胞に辟易しながらも狩りをして主とのコンビネーションを育んでいた。

 アリシアは主に感服していた。仲間には常に厳しく接しながらも、その実は愛情深く、先を見通して幾つもの計画を進行させていた。

 この御方が主で最良だ。同胞は女にばかり尻尾を振っているが、アリシアは違う。主の為に戦う事こそを至高とした。

 同胞はすっかりへこたれて、常に優れた成果を出す自分を主は褒めてくれる。

 そうだ。あの夕暮れの空の下で、主は優しく笑っていたのだ。それこそが本当の顔であるように。

 

 同胞は死んだ。あの情けない甘ったれは、ユウキの為に決死を尽くして死んだ。己の誇りを貫いて死んだ。

 

 自分もそうであるべきだと誓った。亡き同胞は自分よりも遥か先を行く気高き狼であったと認め、己もそうでありたいと望んだ。

 

 だが、誓いは果たせなかった。主の命とはいえ、戦地に共に行くことが出来ず、死なせてしまった。

 

 もう2度と誓いは果たせない。亡き同胞に申し訳が立たない。何よりも、主の無念を思えばこそ、煮えたぎるのは怒りと憎しみ。

 

 復讐だ。アリシアは激情のままに牙を剥くことを選んだ。

 報いは受けるだろう。復讐は完遂できずに道半ばで終わるかもしれないだろう。だが、それでも最後の瞬間まで主の仇、主を奪い取った全てに噛みつこう。

 愚かであると分かっている。それでも止まれないのだ。止まることは許されないのだ。

 

 駆ける。

 

 駆ける。

 

 駆ける。

 

 夕暮れの空の下で、迷宮のように入り組んだ街を駆ける。

 獣の王を撒いたとは思わない。必要なのは時間だ。野犬を再び統率し、攪乱し、今度こそ完璧に身を隠すのだ。

 ふと目があったのは犬だ。街に巣食う野犬とも違う、艶やかな毛並みをした猟犬だ。

 しまった。アリシアは自分が狩られる側であると悟り、その場を離れようとする。

 

 

 だが、銃弾はアリシアを正確に撃ち抜いた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「随分と大規模な攻撃を仕掛けてきましたな」

 

「まさか本当に実在したとは。野犬を統率するのみならず、あれほどの強力なモンスターまで従えるなんて、前代未聞です」

 

「ですがあれ程の脅威。捕獲ではなく仕留めるべきでは?」

 

「愚かな! 黒狼を手に入れれば、万にも等しい軍団を手に入れられるのやもしないのだぞ? 歩兵戦力で劣る我々が聖剣騎士団との距離を詰めるには利用せずにどうするのだ!?」

 

 十人十色の意見がぶつかり合う。既に方針は決議されていても、隙あらば溢れる思想があり、野心を持つからこその信条があり、組織ならばこその派閥がある。

 人間は他の生物を上回る知能を持ち、それは強固で発達した社会を形成し、純粋な身体能力の差を覆す様々な技術を育み、ついにはもう1つの世界とも呼ぶべき仮想世界という神の御業の領域にまで到達した。だが、高い知能を持つが故に群れる生物でありながら、群れを崩壊させる多くの因子を保有する。それこそ、国という人類における最大級のコミュニティすらもあっさりと崩壊させる程に危ういものだというのに捨てられない。

 ならばこそ、求められるのは強大なリーダーだ。数多の思想を、信条を、派閥を、有無を言わさずに纏め上げるカリスマ性の持ち主だ。民主主義においては多くの政党の中で勝ち抜いてきた傑物が選ばれ、王政の元ではたとえ能力こそ凡庸であっても血統によって裏書きされた権威が補填してくれる王族より排出される。

 そして、乱世においては何にも勝るのは武勇だ。その背中だけで、一言だけで、数多の豪傑や天才を跪かせる者こそが頂点に立つのである。戦場に立ち、多くの勝利をもたらし、臣下に希望をもたせる者こそが王となるのだ。

 

「くだらん!」

 

 たとえば、この男……サンライスは誰もが正装……逆に言えば非武装であり、文官であることを示す中で、戦場常駐の心意気だと言わんばかりに革製の軽量な鎧を纏い、大胆に丸太のような二の腕を晒した男は会議場を一喝する。

 明らかに場違いな格好。陰謀を好む太陽の狩猟団の上層部達を前にして、知略が大いに劣るはずのサンライスは絶対的な存在感を放って沈黙をもたらす。

 

「最優先すべきは住民の安全! 黒狼の確保は次に同じ事例が起きぬとも限らぬが故の研究の為! 我々が目指すべき未来に多くの犠牲は出るだろう! だが、1つとして無駄な血が流れてはならん!」

 

 相手を怯ませる大声は天性の素質。そして、それは群れを統率する雄に最も不可欠な威圧を与えるのみならず、敬服と従順をもたらす。

 生まれ持った王の素質。腕を組んで鼻を鳴らすサンライスの傍らで、副団長というナンバー2の立場でありながら、サポートの為に席に着かずして彼の背後に控えるミュウは最大の感服と尊敬を胸に、今日も疑心暗鬼かつ派閥の拡張に全力を注ぐ同僚たちに微笑みかける。

 

「団長の申される通り、今回の黒狼捕縛作戦はあくまで終わりつつある街の住民の安全確保と治安改善を最優先にしたものであり、戦力増強はあくまで副次的なもの。捕獲チームにも捕縛を最優先にしつつ、周辺被害が拡大する場合、捕獲よりも処理を優先するように通達してあります」

 

「ですが……」

 

「無論、我々の陸上戦力が聖剣騎士団に劣るのは明確な事実。ですが、黒狼1匹に左右されるような戦力ならば最初から無用。量産できるならば考慮すべきですが、代替の利かない個体に依存するなど戦力とは呼べません」

 

 反論を封じ込めたミュウは部下からメモを受け取る。『予想通り』に黒狼は大規模な動きを見せた。事前にヴェノム=ヒュドラ事件を名目にして治安維持を目的として部隊を終わりつつある街に配備した価値があったようだ。

 問題は何処まで被害を抑えられるかであるが、幸か不幸か、あの【渡り鳥】が動いている。果たして流れる血はどれだけになるかは定かではないが、少なくとも全員を守り切れずとも治安維持に派遣した部隊にヘイトが向くことは避けられるように、上手く誘導したいものである。

 ミュウは思案し、だが今回の作戦において【渡り鳥】はイレギュラー的に関与しているとはいえ、肝心ではないと切り替える。

 必要なのは野犬の襲撃に対して1番に対応出来たという名誉を得る事だ。人心掌握はこうした細かい積み重ねが重要なのである。それに比べれば、守り切れなかったヘイトも、部隊に多少の損害が出るにしても、十分にお釣りが出る。ましてや、今回は一般からの人気も高いラジードを派遣しているのだ。広報にも十分に使える。

 だが、人気取り以上に優先すべきなのは黒狼の捕獲ないし処分だ。野犬を統率する能力がある黒狼は、それだけで戦略的価値を有する。場合によっては1体で大ギルドの大戦力を覆しうる脅威にもなり得るだ。

 DBOで特に脅威の高い犬系モンスターを軍用犬として大量に保有し、プレイヤー戦力と並列して運用できたならば、あらゆる陸上戦において優位に立てる。たとえば、強力な爆弾を背負わせて敵陣に突撃させて自爆するだけでも有効だ。本来ならば、調教コストなども考慮すれば、そのような大胆な戦略は簡単に打つことなどできないが、黒狼の能力が期待通りであるならば、無尽蔵に犬系モンスターを戦力として補充できる上に、調教という時間コストを割かずに最高効率で運用できる。

 何としても欲しいのが本音である。だが、同時に個体に依存する危険性も熟慮する。最優先すべきなのは安定した量産であるが、同時に危険視しなければならないのは他の組織、他の大ギルドに確保される事である。教会であっても渡すわけにはいかないのだ。

 だからこその処分。捕獲が無理ならば迅速に処分に切り替える。撃破して素材を入手するだけでも価値はあるだろう。仮に何もドロップしなくても、他の手に亘る前に消すだけで潜在的な危機を取り除ける。

 

「ミュウよ! そもそも、治安維持に部隊を派遣した事には賛成したが、どうして黒狼の捕獲・討伐に大規模な戦力を投入せず、あまつさえ住民に警告を通達しなかった!?」

 

「DBOは真偽も定かではない風聞・風説が常。黒狼の存在を警告しても貧民は真摯に受け取ることもなく、また警戒したとしても対処しきれません。ましてや、ヴェノム=ヒュドラ事件の直後ともなれば、大ギルドによる『裏』への表立った介入は避けるべきだと判断しました」

 

 サンライスの叱責は尤もだ。ミュウは眼鏡を光らせ、台本通りに口を動かす。事前に打ち合わせしていない言動が飛び出すのはサンライスの場合、平常運転である。ミュウは慣れたものだとばかりに、事前に質疑を想定して回答を準備している。

 

「うーむ! 確かにその通りだが、他にやりようもあっただろう!? 傭兵を派遣するなどして、黒狼の所在を掴むのに全力を注ぐべきではなかったのか!?」

 

「傭兵を派遣すれば聖剣騎士団及びクラウドアースに察知される恐れがありました。捕縛・処分はあくまで太陽の狩猟団の主導の下で行う必要がありましたので。それに、既に犯罪ギルドの幾つかとは暗部を通して情報収集の協力の見返りとしてヴェノム=ヒュドラに与して麻薬アイテムや人身売買に関与した事を不問とする契約を交わしてあります。彼らの傘下の貧民コミュニティから多くの情報を吸い上げることができれば、傭兵単独よりも高効率に情報収集が可能になるかと」

 

「そこだ! どうして、ヴェノム=ヒュドラに下った犯罪ギルドと手を組んだのだ! 無論、我々は全ての罪を罰する法の番人ではない! だが、奴らの非道を咎めてこそ得られる秩序もあるというものだろう! 違うか!?」

 

「仰られる通りです。全ての非は独断で認可した私にあります」

 

 ミュウは躊躇いなく全ての責任の所在を自身に集中させる。もちろん、部下を守るためだけはなく、これこそが最善の手であると知っているからだ。

 サンライスは馬鹿だ。馬鹿で、清廉潔白を是とするが、清濁を併せ呑む事が出来る大物でもある。ここでミュウを咎めて罰するようなことはしない。自身は戦場に立って武勇を振るって統率する役割であると分かっているからこそ、組織運営やそれに伴った様々な汚れ仕事をミュウに敢えて一任しているからだ。

 光と闇の完全なる分担。だからこそ、太陽の狩猟団は後ろ暗い噂が絶えない一方で、実力者はいずれも人格者揃いで有名である。サンライスの人柄を慕うからこそ、組織の華である軍部は常に清らかであり、内政を担う文官は陰謀で汚れているのだ。

 

「団長、ここで副団長の非を責めるのは如何なものかと。確かにヴェノム=ヒュドラの人身売買のせいで、貴重な上位プレイヤーにも損害が出たのは事実です。ですが、関係者の全てを罰するには人も足りなければ、金も時間も足りません。何よりもDBOのプレイヤー人口がここまで膨れ上がった現状で、『裏』にまで注力すれば、太陽の狩猟団はとてもではありませんが破綻を免れません」

 

 会議に出席する1人が諫めれば、サンライスは腕を組み、重々しく瞼を閉ざす。

 慈善を掲げる教会でさえ裏を浄化することは出来ない。それで答えは出ている。たとえ、3大ギルドの1つに数えられている程の資本・軍備を持とうともそれらは有限なのだ。慈善の心で打算なく手を差し伸べれば、貧民は指どころか腕の骨まで齧り尽くし、更には胴体まで容赦なく飢えのままに喰らい付くだろう。

 貧民。貧しき民であり、同時に『貪る民』でもある。ミュウはそんな言葉遊びを胸に、サンライスもちゃんと理解した上で発言しているのだと察している。だが、彼の良心と在り方から発言を回避することは許されないのだ。逆に言えば、この気質、この覚悟があるからこそ、誰もが彼を王として自分たちの上に君臨することを心から認めている。

 

「良かろう! 此度の事は不問とする! しかし、だからこそ被害の拡大を最大限に抑えねばならん! 良いな!?」

 

「畏まりました。全力を尽くす所存です」

 

 サンライスの出す答えは分かり切っている。そして、ミュウの返答もまた彼は予想していたはずだ。たとえ、周囲から歪に見えようとも、太陽の狩猟団の黎明期からそうであったように、2人には確かな信頼が結ばれているのだから。

 既に他の大ギルドよりも1手先を行っている。【渡り鳥】は監視の目を上手く逃れたが、こちらが貧民コミュニティに潜り込ませた暗部の目までは誤魔化せなかった。装備を偽装し、中堅プレイヤーに擬態して顔も隠していたようだが、事前に【渡り鳥】が裏で動くと分かっているならば手の打ちようなど幾らでもある。

 彼を雇ったのはチェーングレイヴ。先のヴェノム=ヒュドラの件で戦死した幹部のマクスウェルがテイミングしていた黒狼の1体が事件を起こした。主人を失った事による暴走か、それとも別の要因か。何にしても、黒狼による野犬の統率を真っ先に情報を掴んだのは太陽の狩猟団であり、情報操作によって他の大ギルドが『風聞』程度で本格的に動くより前に先手を打つことが出来た。

 襲撃パターンがランダムであり、次のターゲットの予想は出来なかったが、繰り返される襲撃が本格化し、表にまで損害が及んだならば、真っ先に動けるのは太陽の狩猟団であるように準備を整えた。そうなれば、こちらのものだ。どれだけ黒狼が賢かろうとも1体のモンスターに過ぎない。大戦力を投入し難いネームド戦とは違い、戦力に制限がない市街戦であるならば、圧倒的に有利なのはプレイヤー側なのだ。

 黒狼の襲撃が本格化して表に損害が出ると同時に大手を振って『狼狩り』に部隊を派遣。いずれの大ギルドも元より裏には相応の情報網を張っているが、黒狼の動きを見越して暗部まで動かし、更には複数の犯罪ギルドとも協定を結んだ太陽の狩猟団が絶対的に優位だ。

 

(このタイミングならば、念には念を入れてチェーングレイヴにも打診するのはありですね。今のチェーングレイヴはクラウドアースとパイプを失っている。せいぜい動かせるのはヴェニデくらいですが、セサルは徹頭徹尾の実力主義。思想を優先して戦力拡張を怠ったチェーングレイヴへの評価は下落しているはず。ましてや、あの男は騒乱を望んでいる節がある。今のクラウドアースには情報を伏せているようですしね)

 

 ならばこそ、ここでチェーングレイヴを太陽の狩猟団に引き込むのも悪くない手だ。リーダーのクラインは図抜けた統率力の持ち主であり、決して馬鹿ではない。知恵袋にして組織運営の要であったマクスウェルを失ったのだ。この状況でクラウドアースとの関係も悪化しているともなれば、太陽の狩猟団からの誘いも受けるだろう。

 裏の秩序の再構築は必須事項だ。なるべく裏には裏で自治を任せておかねばコストがかかり過ぎる。フロンティア・フィールドへの移民を進めているが、それでも裏は決して無くならないのだ。ならば誰かが秩序を維持しなくてはならない。

 これまではクラウドアースがチェーングレイヴと関係を保つことで裏の秩序維持で得られるアドバンテージを得ていた。だが、ヴェノム=ヒュドラの台頭など、人口増加に伴う裏の火種が増大したことによってバランスは崩れた。

 チェーングレイヴを立て直しつつ、あちらの要求であろう戦力増強にも協力する。そして、同時並列で行うのはチェーングレイヴの真の目論見の看破と地下ダンジョンの確保だ。加えて、チェーングレイヴを味方に引き入れるのは、ミュウの大きな企みにおいて有用である。

 

「ミュウ様」

 

 部下からメモを受け取ったミュウは鉄仮面の表情のまま、だが内心でほくそ笑む。

 黒狼が予想通りに表に大規模な襲撃を仕掛けた。治安維持に派遣していた部隊を最速で派遣するのは太陽の狩猟団だ。しかも襲撃されたのは教会が保有する麻薬中毒者の治療施設である。これは教会に大きな借りを作ることも出来るだろう。

 犠牲者が出ても良いのだ。大事なのは『1番乗りで駆けつけ、1人でも多く救助した』という名目である。更に同時に黒狼に大手を振って戦力を派遣できる。その為に、既に猟友会にも所属する、狩猟を得意とするプレイヤーや中小ギルドを配備しているのだから。

 

(ですが、やはり1番の問題は【渡り鳥】さんですね。彼が関わると作戦が上手くいかなくなります)

 

 とはいえ、【渡り鳥】がどれだけ派手に動いたところで、太陽の狩猟団が治安維持に活躍したという不動の栄誉を手に入れる事になる。そして、黒狼の捕縛はともかく、処分についてはこれで心配も要らないだろう。

 殺す。必ず殺す。【渡り鳥】はそういう存在なのだ。ミュウらしくない、サンライスを除けば、個人に対する絶対的な信用を【渡り鳥】には置いているのだから。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 逃がしたか。不殺など慣れない事をした途端にこの体たらくだ。情けないな。

 あのまま頭蓋を粉砕する勢いで蹴っても殺しきれない算段は大きかったのだが、万が一を考慮すると足を止めねばならなかった。そうしたらあっさりと読みが甘くなった。

 オレがデュエルを苦手とするのもこれが理由の1つだろう。どうしても殺しを前提としないと動きが鈍る。なにせ、こっちはVR適性が底辺なのだ。先読みが甘くなれば、それだけでオレの動きは鈍ることになる。場合によってはフリーズしたかのように固まって見えるのではないだろうか。

 だが、このまま逃がす気はない。血痕で追跡可能であるし、オレの鼻は後遺症でイカれつつあるが、血の香りだけは明確に嗅ぎ分けられる。いや、これは本当にVR情報として……嗅覚情報として伝達されているものだろうか?

 血の味がオレの舌で踊るように、血の香りもまた、何処か甘く誘うようなのだ。まるで、オレだけにしか嗅げないかのように。

 

(頭の良いワンちゃんね。血痕を上手く偽装に利用しているわ)

 

 血痕を安易に辿れば行き止まり。辿るべきなのは血の香りだけだ。

 しかし、失敗したな。インナー装備であるが故に緋翼は発動できるが、纏っているのは中堅装備であるが故に天蜘蛛が発動できない。アレさえあれば3次元機動によって効率的に追跡できるのだがな。ひとまず緋翼を解除し、追跡に専念する。

 まぁ、これも変装の代償だな。どうせ当たれば死ぬのだ。やる事は変わらないし、スピードは十分に確保できる。

 空はすっかり夕暮れだ。もうすぐ夜が訪れる。それまでに決着を付けたいな。黒狼の体毛はよく闇に紛れる。そうなれば追跡は少し億劫だ。

 血の香りが濃くなった。もうすぐ追いつく。足を速めるが、それより耳を撫でたのは銃声だった。

 嫌な予感がする。スピードを上げれば、夕焼けの空が映える開けた場所……埋め立てられた井戸と建物の残骸が散らばる広間にて、アリシアは倒れ伏していた。囲うのは隠密ボーナスを優先した装備を纏う集団であり、彼らの傍らには調教された犬系モンスター……猟犬達が控えていた。

 

「お? なんだ、【渡り鳥】か」

 

 ハンティングキャップを被ったリーダー格の男がオレの登場に気付き、血が滾った顔で笑う。

 

「……そちらは?」

 

「まぁ、雇い主については黙らせてもらう。だが、アンタも想像がついてるんだろ? 黒狼による野犬統率疑惑はお偉いさんの耳にも入っていてな。猟友会所属の俺達【銃弾流星隊】にもお呼びがかかってたってわけだ。まぁ、疑惑レベルで待機させられても報酬は出たんで損にはならなかったんだが、とんでもない大物だったみたいだな」

 

 猟友会……モンスターの狩猟を是とする愛好会の1つだったか。DBOにはそうした非営利団体が幾つかあり、情報交換やルール決めを行っている。どうやら、何処かの大ギルドが猟友会でも名のある狩猟ギルドに声をかけて、アリシアの討伐……いいや、捕獲に乗り出したというわけか。

 アリシアは痙攣して動かない。どうやら銃撃を浴びせられただけではなく、麻酔弾も撃ち込まれたようだ。ダメージは深刻であるが、死には至っていない。その辺りの腕前はさすがといったところか。

 ……殺すだけの狩りを行うオレよりも、本来の意味の狩人としては、彼らの方があるいは有能なのだろうな。というか、そうだよな。わざわざ血の香りを辿らずとも、≪追跡≫スキルやら猟犬やら活用すれば同じかそれ以上の事が出来るよな。

 

「そっちも黒狼狙いだったみたいだが、今回は俺達の勝ちだな。まぁ、コイツが傷を負っていなかったら、ウチの可愛い相棒も追跡できなかっただろうし、アンタが追い詰めてくれたのは確かみたいだし、報酬の1部は渡すが、どうする?」

 

 依頼はアリシアの捕縛ないし討伐。邪魔者を排除するという意味では彼らを殺すのに問題はない。

 相手は5人……いや、6人か。北東の建物の屋上に狙撃手が1人いるな。全員が銃器を装備しているが、いずれも取り回しが悪く連射性が低いものばかりだ。まぁ、狩猟向きではあるが、対人にはハッキリ言って向かない。オレ相手という事もあって、リーダーが交渉役を担いつつも、他のメンバーはそれとなくオレに銃撃できるポジションを確保している。

 なるほどな。対人はともかくとして相当な実力者集団だ。リーダーもオレに臆することなく交渉を持ち掛けられる胆力の持ち主でもある。

 殺すのは容易い。初弾さえ潜り抜ければ、この場の5人は3秒以内に首を刎ねることができるだろう。狙撃手も居場所は割れた。追跡は容易だ。

 

「……いいえ。仕留めたのはそちらですので」

 

 だが、既に狩られた獲物を横取りするのは狩人として恥ずべき行為だ。傭兵として依頼に失敗したと素直に受け入れるしかないだろう。

 それに……少しだけ安心している。少なくともアリシアは殺されていない。彼らも目的は捕獲だったからだろう。抵抗が激しければ討伐も止むを得なかったかもしれないが、オレが与えた傷が思いの外に深く、弱っていたのが幸いしたのか。

 彼らの背後に大ギルドが控えているならば、チェーングレイヴも責を問われるかもしれない。だが、いずれの大ギルドにとってもまだまだ利用価値はあるはずだ。ならば、後はクラインの交渉次第か。

 アリシアが生きているならば、ユウキの顔が曇ったとしても、泣くことはないだろう。それでいいのだ。

 だから、この胸に渦巻くのは『安心』でいい。それでいいんだ。

 

「そ、そうか」

 

「何か?」

 

「いや、あの【渡り鳥】だからな。問答無用でぶっ殺されるんじゃないかと不安だったんだ」

 

 リーダーは安心したように吐息を漏らす。まぁ、考えたのは事実だしな。1歩だけ近づき、誤魔化すように微笑みかける。

 

「皆殺しにして横取り。その方がお好みですか?」

 

「ご、ご遠慮願う!」

 

 おい、こちらも多少の狼狽えは期待していたが、何で顔を真っ赤にする? そこは青ざめてもらいたいものなんだがな。

 アリシアの両足は縛られ、ネットがかけられる。≪調教≫に用いるモンスター捕獲アイテムか。≪テイマー≫とは違い、モンスターを捕獲後に≪調教≫スキルでモンスターを従僕にする必要があるからな。アリシアには優れた知能があるとはいえ、何処までシステムに抗えるものやら。

 記憶の消去が行われるのだろうか。それとも好悪のバイアスがかかるのだろうか。興味はあるが、知りたいとは思わない。アリシアの復讐はこれで終わったのだから。

 夜は訪れる。重く息苦しい夜は瞬く間に世界を覆う。

 いいや、違う。まだ空は夕焼けのままで、夜の闇は近くても天蓋を覆わず、だからこそ錯覚させるのは濃く濡れた『闇』。

 全身に走るのは激痛。心臓が止まりそうになるのは一気に悪化した深淵の病。喉にせり上がるのは闇に蝕まれた血。

 手で押さえる間に吐血し、かつてない程の……深淵纏いを発動させた時以上に深淵の病の進行スピードがバランス感覚を奪い、片膝をつきそうになる。

 原因は明確。夕焼けに映されたアリシアの影より這い出たかのように、当然の如く立っていた存在のせいだ。

 感じる。これまで出会ってきた多くの深淵の関係者達を遥かに超える闇。あのミディールを蝕んでいた闇すらも幼稚に思える程の、闇の……深淵の超越者。

 だが、不思議な程に姿恰好は平凡だった。全身に纏うのはアストラの上級騎士シリーズ。左手には魔法防御に優れた紋章の盾。右手に持つのはアストラの直剣である。

 倒れるアリシアを前に、上級騎士は手を差し出す。誰もそれを咎めることができなかった。余りにも突然の出現で対応しきれなかった。

 大気が震えるような脈動。アリシアが眼を開き、その全身の毛が逆立つ。まるで内なる肉が隆起しているように毛皮は蠢き、口から流れる唾液には闇の汚濁が混ざる。

 

「な、なんだ!? お前は――」

 

 リーダーの男が銃口を向ける瞬きの間に、上級騎士のアストラの直剣が躊躇なく喉に突き刺さる。装備に反した高火力によってリーダーは絶命し、特徴的だったハンティングキャップは噴き出した血によって濡れる。

 リーダーの死に呆気に取られても彼らは一流とばかりに銃口を向けて撃つ。だが、上級騎士は最低限の動きで躱し、あるいは盾でガードすると間合いを詰め、1人、2人、3人と斬り捨てる。

 逃げ出す1人の背中にアストラの直剣を投擲して背中から心臓を刺し貫いて殺す。同時に狙撃されるも兜も頑丈なのか、命中してもたじろぐだけであり、逆に居場所が分かったとばかりに背負っていたロングボウを恐るべき速度で構えると矢を放つ。それだけで狙撃手が絶命したと分かった。

 残されたのはオレだけだ。彼らが殺される間に割り込むこともできた。だが、深淵の病に蝕まれた体の制御を取り戻す方を優先した。その方が上級騎士を確実に殺傷できると判断したからだ。それだけだ。

 ああ、キリトならばきっと違ったのだろう。たとえ、全身に傷を負い、病に蝕まれようとも、彼らを守ることを優先したのだろう。

 だが、オレは違う。目の前にいるのは姿形も、装備さえも平々凡々であるが、まるで桁が違う。深淵の主のソウルを吸収したランスロットさえも足下に及ばない程の闇の塊だ。

 ならばこそ、割り込もうとも彼らは守り切れない。だったら、上級騎士を確実に殺す為にコンディションを整える方がいい。その動きを少しでも分析して殺しきるのに活用する方が有用だ。

 いいや、違うな。彼らが死ねば、オレは依頼を達成する事が出来る。彼らが死ねば横取りにはならない。アリシアが拘束から脱すれば、改めて捕まえる……いいや、殺すことが出来ると分かっていたのだから。

 ああ、嫌になる。それでも、これが『オレ』なんだ。だったら、とりあえず眼前の上級騎士を殺すだけだ。

 上級騎士は沈黙を保つ。構えを取らない。それどころか、『さぁ、どうした!?』と言わんばかりに両腕を広げる。

 ステップで一気に間合いを詰めて背後を取る。狙うのは鎧の防護が薄い脛裏、横腹、首裏の3ヶ所。だが、上級騎士は軽々と反転すると盾でガードし、逆に反動を利用して後ろに跳ぶと絶命しているプレイヤーの背中に突き刺さるアストラの直剣を抜き取る。

 カーソルはプレイヤーだが、存在感は明らかにネームドのそれだ。加えて投擲した武器を平然と抜き取った。オレやキリトのようにファンブル状態を回避する手段は幾つかあるが、この上級騎士はそもそも免除されているように感じ取れた。

 贄姫の斬撃を受けても傷1つ負わない盾も異常だな。アリシアの変異も気になる。ネットが破られる前に上級騎士を始末する。

 贄姫を宙に放り、腰のサブマシンガンを2丁を構える。生み出された弾幕に対し、上級騎士は盾でガードしながら突っ込む。1発の火力が低いサブマシンガンの弾幕に対し、全身甲冑の堅牢さを活かし、中盾とはいえガード状態ならば十分に突撃できるのは明白だ。

 サブマシンガンを捨て、落ちてきた贄姫を掴みながら一閃。当然の如くガードされるが、その間に鞘に収め、居合の構えを取る。

 これはどうする? 血刃居合による間合い外からの斬撃。溜めはほとんど無いのでガード貫通は期待できないが、まともに盾受けすれば多少の傷は負うはずだ。それでHP総量を割り出せる。

 だが、上級騎士はフルメイルとは思えない軽快さで血刃居合に飛び込む。それはそのままローリングに繋がり、オレの足を狙う薙ぎ払い、そこから起き上がりながらの突きに連携される。それらを躱し、逆に袈裟斬りを狙う。

 

(捨てなさい!)

 

 ヤツメ様が叫ぶ。瞬間に贄姫を握る手を緩め、ほぼ同時に上級騎士が盾を横振り……パリィを決める! 贄姫を手放すのが刹那でも遅れていたならば、パリィによってオレはシステム的に強制スタン状態にされて無防備を晒していただろう。

 本人の技量によるパリィならば、同じ隙を晒すにしても対処できる。ソードスキルならばエフェクトや予備動作で見抜ける。だが、この上級騎士のパリィは恐るべきスピードで発生し、なおかつシステムによる強制スタンを発生させるのだ。

 ソードスキルによるパリィとは、正確に言えば衝撃蓄積に相当するらしく、どんな攻撃でも決まれば強制スタン状態になるものではない。相手の衝撃耐性を抜いた時に、通常の衝撃耐性突破の時とは違い、確定スタン状態になるのだ。問題はその蓄積性能の高さにあるのだが、そもそも判定が一瞬であり、穿鬼程ではないがタイミングも難しく、なおかつ失敗すれば逆に隙を晒すので、カウンターの中でも倦厭されている節がある上級技術だ。また主に対人スキルであり、人型であってもモンスターには必ずしも通用しないので攻略でもそこまで狙うものではない。だが、決まれば強制スタンからのカウンター判定で大ダメージを狙えるので、小盾などのパリィに特化した盾ならば狙う価値もある。

 何にしても、上級騎士のパリィはもはやチートレベルだ。ソードスキルのような固定モーションではないならば極大の脅威となるだろう。今回は贄姫を咄嗟に手放したお陰で難を逃れたが、衝撃は腕まで伝っている。ヤツメ様の警告無しではカウンターで即死だっただろう。

 贄姫を失ったオレに上級騎士は畳みかける。こちらはサブマシンガンも捨てて贄姫を弾き飛ばされた。無手ともなれば攻めるのは道理。

 だからこそ逆にカウンターを狙う。大きく踏み込んだ突きに合わせた穿鬼が炸裂し、上級騎士の鎧の胸部が大きく凹む。兜の隙間から血が零れたのは内臓までダメージが到達した証だ。だが、上級騎士は吹き飛ばされるのを地面にアストラの直剣を突き立てて堪え、地面を抉りながらも止まり、反動を活かすように斬りかかる。

 ステップで横薙ぎを回避して上級騎士とすれ違う。振り返った時、上級騎士はアストラの直剣を捨て、ロングボウを構えていた。

 だが、オレの方が先んじていた。氷雪の弓を発動させ、引き絞っていた。上級騎士が矢を放つより先に冷気を帯びた氷の矢は上級騎士の兜の覗き穴に潜り込み、ヘッドショット判定でノックバックさせる。更に追撃で3本の矢が頭部を射抜けば、上級騎士のHPはゼロになって倒れた。

 HPはレベル100級の近接アタッカーより少し多い程度か。穿鬼の直撃を浴びて、更に氷の矢のヘッドショットに4発も耐えたのは驚いたが、装備通りに水属性防御力は低かったといったところか。

 ……ギリギリだったな。口から多量の血が零れる。上級騎士と接近している際に蝕む闇は尋常ではなかった。先の港砦で戦ったチャクラム使いが発生した闇も大概だったが、コイツは存在そのもので周囲を蝕んでいる。今にも心臓が止まりそうであり、また視界が明滅している。残り火を砕くか砕かないかの瀬戸際だ。

 贄姫を拾い上げる。殺した。殺しきった。ヤツメ様もそう判断した。

 

 

 

 

 だから、反転して振り下ろされた斬撃を受け流すのは、狩人の予測である。

 

 

 

 

 攻撃はアストラの直剣ではない。大曲剣のムラクモだ。防具も変化している。贄姫に……カタナに合わせてか、斬撃に高い効果を発揮する東国シリーズだ。

 大曲剣ならではの、破壊力を活かした舞踊の如き剣技だ。一撃は重たく、まともに受ければ贄姫でも折られかねない。だが、問題なのはヤツメ様が殺しきったはずと判断したのに、平然と装備すらも替えて反撃してきた点だ。HPも完全回復している。

 

(確実に殺しきったはず。だけど、生きてる?)

 

 訝しむヤツメ様を押しやり、狩人が立つ。どうやら、現状ではヤツメ様の導きが有効ではない。より活用すべきは狩人の予測であり、狩人の眼なのだ。

 一呼吸の間に切り替える。上級騎士シリーズから東国シリーズに切り替えたからか、紋章の盾は鉄の円盾に変更されている。だが、今はムラクモを両手持ちしているのでパリィされる心配はない。

 斬撃防御力を高めた事からも贄姫の攻撃を浴びながらも斬りつけるつもりだろう。加えて接近すればするほどに闇の侵食で深淵の病が悪化するのだから有効だ。

 決めるならば一撃。連撃の間で組み込まれた、踏み込みからの間合いを伸ばす片手振り下ろしに対し、刀身を鞘に収めて東国の斬撃に合わせて抜刀する。≪カタナ≫のEXソードスキル【鬼門】。火花にも似た橙色のライトエフェクトが爆ぜるパリィの居合ソードスキル。≪盾≫のパリィ程に優れていないが、自由な構えから発声出来るために応用と連携に秀でているが、習得条件が少々面倒だ。

 先程とは逆に東国は大きな隙を晒す。ここから刺し貫いてもダメージはたかが知れている。ならばと蹴りを入れ、体勢を崩した間に再び抜刀し、居合で薙ぐ。

 

「…………!?」

 

 東国の動揺。それはカタナとは思えぬ一撃の重さと東国シリーズの斬撃防御力が十全に発揮されずに深々と致命的なダメージを受けた事だろう。

 抜刀、血刃長刀モード。緋血を纏い、並んだ牙の如く荒い鋸状の刃を形成した斬撃である。純斬撃属性ではなくなるが、その分だけメタ読みして斬撃防御力に特化した相手には強烈に突き刺さる。加えて血質属性攻撃力も劇毒の蓄積能力も上昇する。

 贄姫の弱点は脆さのみ。ソウル受容能力で刀身を再生できるが、耐久度そのものを上昇させてはいないので、下手にガードすれば折られてそのまま攻撃が押し通るリスクがある。まぁ、ガードを使用するなどカタナの扱いに問題があるので、意味のない弱点だがな。

 心臓を刺し貫き、そのまま抉り斬る。だが、まだ死んでいない。ムラクモの斬撃を潜り抜け、胴を、太腿、そして首を薙ぐ。

 死んだ。殺した。ヤツメ様は今度こそ見逃さないと注視する。倒れ伏した東国はピクリとも動かない……はずが、まるで平然と立ち上がる。HPも最初からそうであったかのように完全回復する。

 再起動ではない。別のカラクリか。暴くには……少々時間が無いな。深淵の病が悪化したせいか、右目の視界がどす黒く染まっている。少しでも視界を確保し続ける為に左目の眼帯を外しておく。

 東国の装備がまた変わる。今度は銀騎士シリーズか。平均的な防御力の高さは目を見張るが、闇属性防御力だけは著しく低い。神族の防具ならではの特性である。装備も【銀騎士の盾】と【銀騎士の槍】だ。

 突撃を仕掛けたかと思えば、銀騎士は槍を投げ、盾でバッシュをかける。血刃長刀を振るうと同時に解除し、緋血の飛沫で兜を染めて視界を潰し、ステップで背後を取ると同時に左袖から射出したアンカーナイフを掴み、獣血侵蝕を施すと兜と鎧の隙間に潜り込ませ、首の付け根を突き刺す。クリティカル部位にダメージを受けた銀騎士はよろめきながらも腕を振るってオレを遠ざけたかと思えば、何もない空間に手を伸ばす。

 ソウルが凝縮し、当然の如く握るのはロングソード。武器を創造した? いいや、まるでプレイヤーのアイテム具現化に似ている……というかエフェクトが違うだけで同じだ。

 つまりは装備品、あるいは所有物の具現化か。これがコイツの能力か? アイテムストレージのようなものがあって、そこにある装備を次々に切り替えているのか? ロングソードの突きを受け流し、そのまま斬りつける。パリィを狙われるならば対処は容易い。必ず振り払うアクションが入るのだ。ならば、そのモーションに合わせて斬撃を流し、パリィを不発にさせるどころか体勢を崩させる。

 キリトが対ヒースクリフに編み出し、今や得意技でもある盾殺し。見様見真似だったが、問題ないな。『喰らった』甲斐があった。たとえパリィであろうとも有効のようだ。

 これには銀騎士装備も驚いたようだが、これで終わりだ。T字型の覗き穴、素顔を画す闇に贄姫を突き立てる。刀身は確実に脳まで到達し、そのまま捩じり、引き抜き、駄目押しで更に突き、倒れ行く銀騎士の胸に贄姫を突き立てて地面に拘束する。

 穿鬼。倒れた銀騎士の頭部を完全粉砕する。何度も復活するならばこれでどうだ? 頭部を潰されても復活するならば、今度は全身を磨り潰すまでだ。

 頭部を失った銀騎士はやはり当然の如く手を伸ばして贄姫の刀身を掴む。引き抜かせるものか。先に掴んで捩じり、押し込む。だが、ヤツメ様が首根っこを掴んでオレを退避させる。

 瞬間に頭上より降り注いでいたのは『ロングソード』。それは銀騎士自身を……いいや、再びアストラの上級騎士の姿になったヤツを貫くが、それも意に介さずに立ち上がる。

 上級騎士は左手に持つ魔術師の杖で右手に持つシミターにエンチャントする。あの光り方……強い魔法の武器か。更にソウルの槍を連発し、オレを間合いに近づけさせない。恐るべき連射速度であり、同時に貫通力もプレイヤーが使う比ではない。背後の建物に次々と穴を開け、その先まで貫き通していく。下手をせずとも巻き込まれたプレイヤーがいるだろう。

 だが、上級騎士の攻勢は終わらない。先程のネタ明かしだとばかりに自分の周囲に装備を切り替えた時と同じ、ソウルを凝縮させて無数のロングソードを出現させる。

 ランスロットの黒剣と対処は同じで構わない。だが、問題は物量! 10本や20本ではない! 数百本が浮かんでいる!

 数百本のロングソードの同時射出。回避ルート無し。ならば贄姫で受け流し、ロングソード同士を激突させて穴を作る!

 ロングソードの密集射出を潜り抜けるも、頬や肩を刃が掠る。同時に受けるダメージフィードバックは炎属性特有の熱と雷属性特有の痺れ。ただのロングソードではない。外見は同じでも炎属性と雷属性が付与されているのか。

 シミターの斬撃……いいや、パリィか。贄姫の突きをそのまま引っ込ませ、パリィが不発したところに改めて突く……と見せかけてステップで回り込む。左右から射出されていたロングソードを回避するも、上級騎士が左手に持つ杖が妖しく光る。

 ソウルの大剣! 屈んで躱しながら太腿を薙ぎ、そこから急上昇する燕の如く兜の隙間から喉を刺し貫く。

 血の泡が呼吸音と共に漏れ、捩じり刺した贄姫で頭蓋まで裂く。その間に左袖からアンカーナイフをつかみ取り、近くの大きな瓦礫に突き刺して獣血侵蝕を施し、獣血フレイルを作る。

 大きく跳び上がり、ロングソードの射出範囲外だろう距離から何度も獣血フレイルを振り下ろす。その身が潰れ、挽肉になるまで、何度も何度も振り下ろす。

 1人分とは思えない血痕が出来上がり、今度こそ上級騎士は起き上らなかった。だが、システムウインドウにリザルト画面は表示されない。獣血フレイルを解除して瓦礫を退かしてみれば、そこに肉片も臓物もなく、ただ多量の血の染みだけが膨大な闇を放ちながら残っていた。

 逃げられた? いいや、違うな。ヤツの狙いは最初から時間稼ぎか。オレはネットを突き破るアリシアを見据える。

 もはや黒狼とは呼び難い異形。全身は5メートルを超え、肋骨は開いて皮も肉も弾け飛び、だが内臓の代わりに縦割りの顎を晒す。大顎の内には無数の牙が並び、蛇の如く分かたれた舌が泳ぐ。目玉は腐ったように濁り、また深淵の怪物特有の赤い感覚器官がまるで夜の闇を待ちわびる星の如くぼんやりと光っていた。四肢は獣のそれよりも人間に似て、もはや元の造形は誇り高かった黒毛にしか見受けられず、それさえも深淵によって濡れている。

 

「……アリシア」

 

 その名を呼んでも反応は無い。もはや、主の為に牙を剥いた黒狼は何処にもいない。

 捕縛は不可能だ。撒き散らす深淵は先程のヤツに比べれば余りにもお粗末だが、それでも深淵の病は疼く程度には濃い。

 オレは深淵狩りの宿命を継いだわけではない。それでも、これまで殺してきた深淵狩り達がそうしたように、オレもまた狩るのだろう。

 闇に呑まれたかったのではない。ただ主を愛し、主の仇を討つ為に牙を剥いた、1匹の狼を狩る。それだけだ。

 狼としての機敏さを残さぬ荒々しい動き。這いつくばる虫の如く、だが蛇のように肉を蠢かせて動く。腹の縦顎から零れる唾液は大地を黒く染め、深淵で形作られた狼を生み出していく。

 狼の狩りか、それとも真似ているだけか。どちらにしてもくだらない。

 

「孕め、贄姫」

 

 ソウル受容能力、解放。病魔の火は贄姫を濡らす緋血で燃え上がり、消えぬ濁った炎は突っ込んでくる狼を片っ端から焦がす。攻撃力こそ低いが、それでも効果は十分なようであり、狼は形を崩して深淵に戻る。

 感じる。最も深淵の病が疼かせる核がある。まるでアリシアが最後の誇りを守らんとしているように、復讐心だけは忘れていないように、まだ融合しきっていない。

 ああ、アナタもミディールと同じだ。譲れない想いがあるのだろう。何かに誓った約束があったのだろう。

 病魔の火で焼き焦がし、炎上するアリシアは劇毒で全身から黒ずんだ血飛沫を撒き散らす。全身の裂傷で苦しみながら咆える。

 

「そこか」

 

 見えた。縦顎の奥……肉壁に隠された、変形して繭のようになった肋骨。積み重なった骨で守られた心臓だ。

 前肢の叩きつけからの全身を回転させた薙ぎ払い。ステップで範囲外に脱し、そこから大きく跳んで頭上を取る。

 

「くれてやる」

 

 斬撃結界・特式【煉獄】。極小範囲であるが、その分だけ発動は素早い。巨体化したが故にアリシアの全身を範囲に巻き込めなかったが、頭部を含めて上半身に幻刃が乱舞し、更に斬撃を浴びた部位より激しく病魔の火は発火する。

 更に劇毒でHPが減る。だが、深淵によって驚異的な回復を見せるアリシアの致命には至らない。濁った炎に焼かれたアリシアが晒す胸部……縦顎の奥に刃を突き立てる時間さえあればいい。

 贄姫を突き入れる。刺し貫いた場所から病魔の火が生じ、焼きながら肋骨の繭を砕く。内部から病魔の火で焼かれて悶え苦しみながらも、アリシアはオレを喰らい殺すべく全身を使って胸部の縦顎を大きく広げて喰らい付く。

 これでいい。喰らい付かれる間際に贄姫と入れ替わるように獣血覚醒で獣爪と化した左手を突き入れ、鼓動する心臓を掴む。

 

 

 獣爪撃、発動。心臓を掴み取り、引き千切る。その衝撃でアリシアは吹き飛び、のたうち回りながら全身から深淵は塵となって夕闇に消えていく。

 

 

 これで終わりだ。だが、それでもアリシアは立ち上がる。まだ身に残る闇を頼りに起き上がり、正気を取り戻しながらも、復讐の狂気に憑かれた眼でオレを睨む。

 

「ああ、それでいい。それでいいんだ」

 

 オレはアナタの『敵』だ。主に忠誠を誓った黒狼を殺す、悲劇の最後に現れる怪物だ。

 だから容赦なく牙を剥け。復讐の全てをかけて喰らい付け。

 黄昏の終わり、夜と交わる儚い光の狭間でアリシアは駆ける。

 もう止まれないのだから。喰らい付く以外に道はないのだから。もう進む以外は選びたくないのだから。

 詫びはしない。ここで糧となれ。

 

「祈りも無く、呪いも無く、安らかに眠れ」

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 

 走る。

 走る。

 走る。

 何処に? 決まっている。ユウキはチェーングレイヴの会合が行われる酒場の門を半ば破壊するように開ける。

 

「……何しに来た?」

 

 酒場にはクラインだけしかいなかった。チェーングレイヴは人手不足が明確であり、彼以外の幹部陣は出払っているのだろう。

 酒臭い。酷く不機嫌だ。こんなボスは初めて見た。ユウキは驚きながらも、だが荒い呼吸のままに詰め寄る。

 

「ねぇ、アリシアが暴走してるって……本当なの?」

 

「それを何処で聞いた?」

 

「もう大ギルドでは噂になってるよ! 太陽の狩猟団から漏れたみたいだけど、街中を襲った野犬を統率するのは黒狼だって! 終わりつつある街にいる黒狼なんてアリシア以外にいない!」

 

 仕事着のメイド服のままに、ユウキは捲し立てる。

 ヴェニデの屋敷にも情報が入って来たのか、ブリッツとスカーフェイスは立ち話をしていた。どうやらヴェニデは不干渉を貫くようだが、黒狼による野犬統率の被害、チェーングレイヴから打診されていた協力要請、そして太陽の狩猟団が黒狼の捕縛に動いているという事。

 

「ねぇ、嘘だよね!? アリシアじゃないよね!?」

 

 縋りつくように問いかけて、否定を求めるユウキに、クラインは沈黙で肯定を示した。

 

「太陽の狩猟団が動きまで見切れなかったのは俺の失敗だった。クラウドアースが……ヴェニデが情報を寄越してくれれば何とか出来たかもしれねぇが、どうやらセサルは俺達の弱体化に好意的じゃねぇみたいでな。ただでさえクラウドアースに縁切り寸前だってのによ」

 

「ボクが説得する! アリシアが大人しくなれば、それで済むんだよね!? それでいいんだよね!?」

 

「もうそんな次元は過ぎた。裏だけの被害なら何とかなったが、教会の施設やら何やらで暴れ回り過ぎた。オマケにアリシアの情報を掴んでた太陽の狩猟団が動いてる。猟友会でも腕利きを雇ってな」

 

「何処で……そんな情報……まさか!」

 

「……そういう事だ」

 

 太陽の狩猟団から直々にリークされたのだろう。つまりはチェーングレイヴにアリシアを譲れという打診が事実上あったのだ。そうすれば事は穏便に済ますだけではなく、クラウドアースと関係が悪化するチェーングレイヴにとって新たな大ギルドとの繋がりになるからだ。

 

「オメェは帰れ。ヴェニデのメイドを続けろ。もう辞めるっていうオマエを利用し続けるのも癪だが、オメェがヴェニデの屋敷で働く限り、とりあえずは『友好』が続く証左になる。これからマクスウェルに代わって面倒事を裁かねぇといけねぇんだ。あっちで取引、こっちで交渉だ」

 

「アリシアを失っていいの!? マクスウェルさんの形見なんだよ!?」

 

「…………」

 

 クラインの顔に表情は無く、だが眼だけは凍てついた怒りを抱えていた。

 必死に堪えているのだ。本当は自分たちでケジメをつけたいのに、アリシアを止めたいのに、もう間に合わない。

 確かにチェーングレイヴは裏の秩序を担っていた。だが、人口増加に比例して組織としての規模が小さくなり、人手不足が露呈し、更にはマクスウェルを筆頭とした人材を先のヴェノム=ヒュドラ事件で失った。トドメにクラウドアースとの関係悪化である。太陽の狩猟団に抗うどころか、野犬被害の責を問われれば、もはや組織として瓦解する以外の道は無いのだ。

 太陽の狩猟団に捕まえれば、アリシアは戦力増強の道具として利用されるだろう。そんな真似はさせない。ユウキは飛び出そうとして、だがクラインに腕を掴まれる。

 

「止めろ! もう誰にも止められねぇんだよ! オメェが行ったところで事態が混乱するだけだ!」

 

「だから何!? アリシアを見捨てるなんて、ボクにはできない!」

 

「オメェはワガママしか言えないガキかよ!? 少しは大人になれ!」

 

「ボスみたいに情けなくなるのが大人になる事なの!? だったら嫌だね!」

 

 咆えるユウキの頬をクラインは強烈に叩く。吹き飛びそうになるも、クラインはSTRを全開にしてユウキの腕を手放さない。このまま骨を折る勢いで力を込めている。

 訓練で殴られた事は1度や2度ではない。だが、ここまで激情が乗った……そして優しさが込められた平手打ちは初めてだった。ユウキはダメージフィードバックが残る頬に触れ、クラインを見上げる。

 小柄なユウキと大柄なクライン。向き合えば、正しく大人と子供のようだった。

 

「アリシアは……もう止まれねぇんだよ。アイツの目的は復讐だ。マクスウェルの仇を取る為に、ヴェノム=ヒュドラに与した全員を殺すつもりだ」

 

「そんな事……」

 

「ああ、出来るわけがねぇんだよ。頭の良いアリシアだってそれくらい分かってる。この事を知っちまえば、マクスウェルを慕っていた連中もアリシアに味方をすることになる。だから、このまま終わらせるんだ。アイツの復讐を止めてやるんだ」

 

「太陽の狩猟団に売り払ってでも?」

 

「そうだ。ああ、そうさ! その方がずっとマシなんだよ! アイツが……アイツが殺しちまうより、大ギルドに実験動物みたいに囲われても、生きてる方が数倍マシだろうが!」

 

 アイツ? 疑問を抱いたユウキの表情に、クラインは失敗したとばかりに額を押さえる。

 

「ねぇ、『アイツ』って誰? ねぇ、誰なの?」

 

「……言えねぇよ」

 

 クラインの苦悶の表情が物語る。彼にこんな顔をさせる相手など2人しかいない。

 1人は【黒の剣士】キリト。もう1人は……敵対するならば容赦なく殺し尽くす白の傭兵。

 野犬による被害が出ているならば、ましてや教会の施設が襲撃されたならば、キリトが動くのも道理だろう。彼は今や教会系列のアスクレピオスの書架の専属傭兵なのだから。

 だが、殺すというワードがユウキに濃く死のイメージを与え、闇の中でこそ浮き彫りになる純白を意識させる。

 

「ボスは……大人なんだね」

 

「ああ、悲しいがな」

 

「だったら、ボクはやっぱりボスと同じ道はいけない。ボクは……ワガママな子供のままでいい」

 

 黒紫の結晶剣がユウキの周囲に生じ、クラインはさすがに腕を放して遠ざかって居合の構えを取る。≪絶影剣≫の発動という敵対にも等しい行為で拘束を脱したユウキはそのまま全速力で店外を目指す。クラインは確かに実力者であるが、高DEXのユウキの足には追いつけない。

 

「させるかよ!」

 

 だが、目指す出入口で空間が歪む。≪無限居合≫による遠隔空間斬撃だ。

 ここでブレーキをかければ捕まる! ユウキは躊躇なく歪んだ空間の中に飛び込み、全身を刻まれながらも外に脱出する。

 元より低VITかつ防具ではなく仕事着のメイド服ともなればダメージも大きく、また傷も深い。クラインが手加減してくれていたお陰でダメージは想定していた程ではなかったが、それでも7割も吹き飛んでいた。

 右腕は深く裂け、指はまともに動かない。背中と腹もざっくりと裂かれ、メイド服は見る見る内に赤黒く染まっていく。

 また強引に走り抜いたせいで太腿の傷が開いてしまっていた。ユウキは破れた袖を食い千切り、右腕に巻いて止血を行う。

 ヴェニデの仕事着だけあって頑丈であるが、クラインの≪無限居合≫の前では紙切れ同然だった。改めて彼の脅威を覚え、ユウキは防具を準備せずに飛び出した自身の失敗を呪う。

 

「アリシア……ボクが……ボクが止めるから」

 

 アリシアと出会ったのはチェーングレイヴに入ってしばらく経っての事だ。マクスウェルがテイミングしてきた2匹の黒狼は、【黒の剣士】の打倒だけを生き甲斐としたユウキにとって、確かな心の癒しだった。

 アリーヤはよく懐いていた。ユウキが撫でるとすぐに腹を見せて、もっと掻いてと甘えた。対するアリシアはそんなアリーヤに呆れ、また1人と1匹の保護者のように落ち着いていた。

 どちらかと言えばアリーヤと一緒にいる時間は長かった。それはアリシアが基本的にマクスウェルの傍を離れなかったからだろう。だが、黒狼は2匹で1つであり、主の命令には忠実であり、また信頼関係があった。

 アリーヤを亡くして以来、アリシアはよりマクスウェルから離れなくなった。アリーヤを失った寂しさを埋める為か、あるいはアリーヤの死に様を……いいや、生き様を知ったからなのか。

 アリシアはユウキと過ごそうとはしなくなった。マクスウェルを守り抜くことに心血を注いでいた。それこそが存在意義のように。

 

「……友達なんだ」

 

 マクスウェルは死んだ。ユウキの知らぬ場所で死んだ。あっさりと、何の前触れもなく死んだ。

 そういうものだ。死とは突然であり、避け難く、また抗えないものだ。死ぬ時は死ぬ。それ以上でも以下でもない。

 だからこそ、受け入れられない時がある。マクスウェルは死に、アリシアは生きている。きっとそれが許せないのだろう。

 

「友達なんだ!」

 

 復讐を誓うのは当然だ。愛する主を失って、しょぼくれているだけなんて嫌だとユウキだって思う。同じように、待っているのが破滅だとしても牙を剥くだろう。

 それでも死んでほしくない。ユウキは切に願う。

 止まれないならそれでいい。だけど、少しで良い。悲しみと苦しみを分かち合える時間が欲しい。そうすれば、何か違うものが見えてくるかもしれない。復讐以外にも進むべき道があるのかもしれない。そうした気付きを得られるのかもしれないのだから。

 ああ、都合のいい妄言だ。そんな事は分かっている。きっと何も変えられないかもしれない。

 それでも、それでも、それでも! ユウキは傷口から発せられるダメージフィードバックに怯み、転倒し、顔面から地面に擦る。口内に広がる血の味を噛み締めながら、クラインの我慢を思い返す。

 アリシアを見捨てたくないのはクラインも同様だ。マクスウェルを最も信頼していたのはクラインだ。彼の形見であるアリシアを太陽の狩猟団に売り渡していいはずがない。

 それでも生きていて欲しいと願った。たとえ、大ギルドに捕まるとしても、他にはない野犬統率能力……いいや、それ以上の能力を秘めているかもしれないのだ。重宝されるだろう。

 ならばこそ、死は訪れる。純白の死は一切の無情にもたらされる。

 

「止める。ボクが止める!」

 

 ああ、きっとこれも傲慢だ。自分の言葉でクゥリが止まるはずもない。殺すと決めたならば殺すのが彼なのだ。

 それでも、止めるのだ。ユウキは奥歯を噛み、アリシアを探す。広い終わりつつある街で、それも複雑怪奇な下層で、何処を探ればいいのかも分からぬままに。

 

「アレは……」

 

 本来ならば見つけられるはずもなかった。だが、ユウキは空に舞い上がる塵を見つける。激しい戦いを示す土煙を見る。

 もうスタミナ切れも間近だ。右腕も使えない状態だ。とてもではないが、クゥリを止められる要素は無い。

 だが、戦いだけが止める手段ではないはずだ。一瞬で構わない。自分の声が届いてくれれば、その隙がアリシアを生かすカギになる。

 

 走る。

 

 走る。

 

 走る。

 

 濃厚な血のニオイが近づいてはならないと警告するかのように香る中で、ユウキは夕焼けの空の終わりの果てに辿り着く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 血だらけの黒狼を踏み躙り、嘲りにも似た狂笑を描くクゥリがアリシアの首を刎ねる瞬間を見届ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走って、走って、走って、立ち止まる。

 ユウキは知っている。クゥリは殺す。必ず殺す。敵対する全てを殺し尽くす。それが彼なのだとユウキは知っている。

 それでいいと思った。彼が救われるならば、数多の血が流れ、無数の屍が積まれ、涙と嘆きが大海の如く溢れるのを良しとした。

 そして、同時に知っていた。

 1番大事なものがあるからと言って、2番目を、3番目を、4番目を失うことに苦しみが抜け落ちるわけではない。悲しみが消えるわけではない。

 等しく苦痛を、悲哀を、涙をもたらす。心を深く傷つける。

 

 情けなく切り捨てるような大人になるくらいならば子供のままでいい。ワガママを貫いても大事なものを守れる子供で構わない。

 

 そう願った心に傷が入る。転がるアリシアの虚ろな眼がユウキを射抜く。

 

 心を抉った傷口に纏わりつくのは……まるでオイルのように粘ついて濁った熱。

 

 己の首に刃を突き立てて封じ込めたはずの『何か』。

 

「あ……あぁ……アぁあああ……!」

 

 嫌だ。こんなの嫌だ。マクスウェルが死んで、アリシアも死んだ。

 

 どうして?

 

 殺された。

 

 殺された。

 

 殺さレた。

 

 殺サレた。

 

 殺サレタ!

 

 最も大事で、1番愛している人に殺サレタ。

 

 最も大事で、1番アイシテいる人に殺サレタ。

 

 最もダイジで、1番アイシテイル人に殺サレタ。

 

 最もオゾマシクテ、1番ニクタラシイ人に殺サレタ。

 

 

 

 

 最もおぞまくして、1番憎たらしいバケモノに殺された!

 

 

 

 

 

 違う。違う! 違う! 違う! 夜の闇が訪れた世界でユウキは両手で頭を掴みながら振り回し、涙は傷口から流れる血と混じり合い、嗚咽は悲鳴にも似て奏でられる。

 誰にも汚されたくない感情。失いたくない想い。そこに心の傷口に潜り込んだ異物が混ざり、1つになって、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと溶け合わさっていく。

 

 バケモノは大事な全てを奪い取っていく。

 

 だから殺さないといけないんだ。

 

 滅ぼせ。滅ぼせ。滅ぼせ。バケモノを欺いて心臓に刃を突き立てろ。

 

 アリシアを殺した報いを受けさせるのだ。同じように全てを踏み躙って殺してやるのだ。そうする事で守り切れるのだ。

 

「違う……違ウ……違ウヨ! ボク……ボクが大事なのは……『パパ』と『ママ』で……だからバケモノを……バケモノを……バケモノを……!」

 

 感情の混濁の中で、アリシアの遺骸が示す結末から逃げる。死を求めて呪った、滅びを欲して願った、純白のバケモノから遠ざかるように。

 壁にぶつかり、血をこすり付け、声から洩れるのは自分とは思えぬ怨嗟と憎悪に満ちた叫びだと認められずに歩む。

 その果てに辿り着いたのは何処とも知れぬ廃墟。月明かりが降り注ぐそこにあったのは、まるでユウキを迎えるように原型を残した、大きな大きな姿見の鏡。曇り切った表面は何者も映さないようで、だがユウキが血塗れの左手で拭えば、確かに己の姿が映る。

 そこに映るのは……全身が焼け爛れた己の姿。燃え尽きることなく、朽ち果てた使命と記憶の残骸のままに、バケモノの死を欲する呪いの権化。

 

 

「あ……あはは……アハハハ! 殺す! 殺す! 殺す! そうだ! ボクが……ボクが殺すんだ! それがボクの使命なんだもん! そうしないとパパもママも殺されちゃう! 大事な全部が、あのバケモノに殺されちゃうんだ! だから……だから……だから、ボクが……クーを殺すんだ」

 

 

 そうさ。彼が望んでいた、クゥリが『クゥリ』であることを汚して、踏み躙って、壊して、壊して、壊して……殺してやるんだ!

 ユウキは笑う。無邪気に笑う。ようやく使命を思い出せた敬虔なる信徒のように狂って笑う。

 差し込む月光の底で、まるで泣き叫ぶように……笑った。

 

 

 

「ボク、何をしてたんだっけ?」

 

 

 

 そして、まるで仮面を被るように全てを偽りの忘却の底に隠した。

 アリシアの死が頭にこびりつく。だが、それが必要以上に染みの如く広がって、大事な何かを思い出せない。

 

「そうだ。クーに……会わないと……それで……それで……それで?」

 

 何をするんだっけ? ああ、そうだ。少しでも彼に寄り添うのだ。たとえ、その心を満たせずとも、孤独を癒せずとも、せめてこの身だけは傍にいてあげるのだ。そうする事でこそ『使命』を果たせるのだ。思い出せないが、何かを為せる気がするのだ。

 まるで夢に溺れるかのような恍惚な表情で、ユウキは砕け散った鏡の破片を短剣の如く、まるで愛おしそうに握りしめた。




誰もが夢を見たかった。

優しい世界に溺れたかった。

だからこそ、もう目覚めよう。


ようこそ、悪夢の如く悪意に満ちた現実へ。



それでは、346話でまた会いましょう。

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