SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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投稿が遅れて申し訳ありませんでした。

また不定期でも短いサイクルで投稿できるように頑張りたいと思います。


お詫びと言ってはなんですが、甘くて優しくて穏やかで平和なエピソードをお届けしたいと思います。

納涼エピソードの予定だったのですが、どうかほのぼのをお納めください。


Lost Episode01 夏の夢

 入道雲が映える青空。窓から伝わる熱気を中和しきれない効きの悪い冷房。鼻腔を刺激する汗のニオイ。その全てが夏という季節を語り聞かせる。

 耳に装着したワイヤレスイヤホンから聞こえるのはこの夏のヒットソングであり、花火を題材としたラブソングである。ほのかな恋心と失恋の未来を感じさせる切なさが評判だった。

 

「……綺麗な場所だろう?」

 

「…………」

 

「思い出すな。ほら、小学校に上がる前に、みんなでおばあちゃんの家の裏にある沢に遊びに行っただろう?」

 

「…………」

 

「夜は花火をして――」

 

「ごめん、聞こえなかった。何か言った?」

 

「……いいや、何でもないよ」

 

 わざとらしくイヤホンを外し、運転する中年男性……自分の父親に半ば睨むように顔を向けた【沢渡璃々】は、どうして自分はこんな場所にいるのだろうかと苛立ちを込めて自問する。

 本当ならば今頃は学校の友達とショッピングしているはずだったのに。スマートフォンを操作するが、ネット利用はできない。中学生の璃々からすれば監獄に閉じ込められたかのような不自由さだ。友人達には前以って電波も届かないような田舎に行く旨を伝えてあるが、コミュニティから弾き出されたかのような疎外感と恐怖感に基づいた焦燥が絶えなかった。

 やはり断ればよかった。璃々は父親の仕事に同行し、貴重な夏休みを消費することを改めて後悔する。

 中学校……いいや、小学校高学年になる頃から父とは必要最低限しか会話を交わしていない。多忙な父は帰宅も夜遅いことも原因であり、また思春期を迎えたこともあったが、それ以上に父を親として、男として、人間として軽蔑しているからだった。

 

「それにしても相変わらず険しい道だな。あ、心配するな! お父さんの運転テクニックなら――」

 

「口を動かす余裕があるなら運転に集中してよ」

 

 友達は素敵なお父さんだと羨む。顏は並であるが、背丈もあり、40代前半なのに腹も出ていない。脂肪の代わりの筋肉は暑苦しくない程度に程よく鍛えられたものである。外見だけならば爽やかな印象の方が強い。なるほど。客観的には周囲をよく欺けていると璃々も認める。

 だが、彼女は知っている。この男がどれだけ情けなく惨めな男なのか、十分に知ってしまっている。だからこそ、嫌悪感が胸をどす黒く染め上げる。

 空を覆うように木々の影は濃くなっていく。蛇行した道は山奥に相応しい。いつしか空気は夏と思えない程に冷え、冷房を弱める。

 夏の暑さに辟易し、また別の理由もあって若干の自棄になっていた璃々は、普段ならば絶対に乗るはずない父の誘いに乗り、ネットで検索しても全くヒットしない、まさに日本の秘境と呼ぶに相応しい田舎への小旅行に赴くことになった。

 会社の車なのか、何に使うのかも分からない機材や金属製のボックスを積み込んだワゴンカーは昨日の夕方に出発し、父の手馴れた運転で遠い東京から高速道路を経て、機械文明から切り離された山中に辿り着いていた。

 狭い車内で父と2人っきりなど耐えられない。なにせ、父は戸惑いながらも何かと話題を振ってくるからだ。早々にイヤホンをつけて自分の世界に閉じ籠った璃々であるが、それもいよいよ限界に到達しつつあった。

 

「……ヤバ」

 

 バッテリー切れが間近になったスマートフォンに溜め息を吐く。父はいつも予備のバッテリーを持ち歩いているはずであるが、幾ら父とはいえ勝手にバックを漁る気にはならず、また会話と天秤にかければ無心で沈黙を保つ方を選ぶのは彼女からすれば至極当然だった。

 スマートフォンを隠し、イヤホンは外さずに音楽を聞いてるフリをする。だが、沈黙は茂る木々が生む影の分だけ澱んで重くなっているようで、璃々は徐々に耐え難くなっていく。それでも唇を噛んで堪え、やがて先の光も見えないトンネルを潜る。

 

「うわぁ、これ大丈夫なの?」

 

 思わず口から零れたのはトンネルが余りにも古くかったからだ。まるで岩盤を手作業でくり貫いたかのようであり、露出した岩肌は荒々しく、また濡れていた。電灯はなく、車のヘッドライトだけがトンネルの闇を切り裂く。

 

「大丈夫さ。璃々が産まれる前だけど、父さんは来たことがあるんだ」

 

「ふーん」

 

 父が昔話を語るより前に興味の無さをこれでもかアピールして口を閉ざさせる。何であれ、安全運転してくれるならばそれでいいと璃々は少しだけ肩に力を入れたまま正面を見つめる。

 右に、左に、右に、左に何度も曲がる。何度も上っては下る。方向感覚を狂わされていくトンネルは異様に長く、まるで気づかぬ内に地の底に招かれているかのような恐怖感が募る。

 やがてトンネルに変化が生じる。道の左右を石灯篭が並び始めたのだ。苔に覆われた石灯篭は単なる古さではなく歴史を感じさせるものであり、それこそ数百年の時間を蓄えているのではないだろうかと言葉にできない畏怖を覚えさせる。

 ようやくトンネルの出口……太陽の光が見える。璃々は安堵と共に目が眩み、そして先に待つ光景に思わず息をのんだ。

 日本の原風景をそのまま映し込んだような、タイムスリップしてしまったかのような美しい田園風景。四方を囲う山々は盆地の証であり、だが神秘を感じさせるほどに威圧感に満ちていた。

 旅行客向けの歓迎の看板などなく、使い込まれた道は現地人の生活の証だった。軽トラックに野菜や果物を積んだ移動売店と並走したかと思えば、助手席の璃々に気づいたらしい老人がにこやかに笑う。

 だが、璃々が更に圧巻されたのは電波も届かぬド級の田舎の中心部だった。田園風景を突き抜け、疎らに存在した民家を幾度か目にした後に辿り着いたのは、トンネルを抜けた後に見た古き良き日本の風景とはまたかけ離れたものだった。

 テレビゲームの類はしない璃々であるが、家電量販店で目にしたPVを思い出し、和風ファンタジーという単語が脳裏を過ぎる。 

 田舎の山村。自然以外は何もなく、老人ばかりが暮らす限界集落。そんな既成概念を覆す街並みだった。朱塗りの灯篭が立ち並び、張り巡らされた水路には鮮やかな蓮の花が咲き、芸術品のような錦鯉が泳ぐ。建物はいずれも和を感じさる造りになっているが、建築物に詳しくない璃々にも確かな差異を感じさせる。景観を破壊するテレビアンテナの類は目に見える場所になく、だが電線はまるで違和感なく馴染んでいた。

 

「いやぁ、観光客さんですか? ここから先は許可が無いと侵入禁止なんです。よければ駐車場に案内しますよ」

 

「仕事です。えーと……これが紹介状ですよ」

 

 今にも折れてしまいそうな程に痩せた老人が帽子を被り直しながら車を止める。窓を開けた父はやや緊張した面持ちで老人に封筒を渡す。

 封筒を開けた老人はもう目が悪いのだろう。首からかけた老眼鏡で中身の書類を確認すると驚いたように目を見開いた。

 

「おお! 須和先生の……! こりゃ失礼しました! 診療所の場所はお分かりで?」

 

「前に来たのは15年も昔で、さすがに憶えてはいないんですよ」

 

「そりゃそうだ。あっちに駐車場があります。須和先生には私の方から連絡しておきますよ」

 

「ありがとうございます」

 

「いえいえ、須和先生の客人なら仕方ない。2度目ならお分かりと思いますけど、『掟』には十分に注意してください」

 

「ええ、もちろん。娘にもよく言い聞かせておきます」

 

 掟? これだけの美しい村だ。景観を守るための厳しい条例があるのだろうか? そういう大事なことは前以って伝えて欲しいと父を睨んだ璃々は、だが電波も通じない田舎に来ただけの価値はあったと感動が勝る。

 老人の誘導でたどり着いた駐車場であるが、砂利が敷き詰められた土地にロープを張っただけの簡素なものであり、だが他にも観光客がいるのか。璃々たちと同じような県外ナンバーを確認することができた。

 先程の老人は駐車場の管理人なのだろう。扇風機が回る小屋で手続きを行い、父から車のカギを預かる。

 

「ん? お嬢ちゃん……こりゃイカン! 手首を出しな!」

 

 と、老人は慌てた様子で璃々の手首をつかむ。驚いて硬直した璃々はすぐに振り払おうとするが、老人は鬼気迫った表情で引っ張ると小屋に引き入れる。

 

「何するのよ!?」

 

 思わず叫んだ璃々であるが、老人は棚を開けると真新しい青い紐を取り出し、手早く彼女の手首に結びつける。

 

「これ……」

 

「間に合ってくれりゃいいんだが。おい、アンタ! この子を死なせる気か!?」

 

「す、すみません。私の不注意です!」

 

 老人に叱られた父は深々と頭を下げる。その様子が腹立たしく、璃々は早歩きで小屋を出る。

 

「璃々、約束しただろう? 旅行中はずっと身に着けているって」

 

「だって可愛くないし。ダサいし。それにお揃いなんて死んでも嫌」

 

 父の手首にも璃々が身に着けているのと同じ青い紐が結ばれている。ミサンガの類なのだろうが、ほんのりと優しいニオイがするのは香料が染み込ませてあるからだろう。早々に外そうとした彼女を、父は慌てて止める。

 

「頼む! ここにいる間だけでいいんだ。絶対に外さないでくれ」

 

「……分かったから頭を上げて。気持ち悪い」

 

 娘に頭を下げることも躊躇しない父に、璃々は軽蔑の眼を向けながらも約束する。それだけで父は心の底から安堵した様子だった。

 来てしまったものは仕方ない。父は無視して思いっきり観光を楽しもう。気持ちを切り替えた璃々はSNSにアップする写真を撮ろうとスマートフォンを取り出すが、バッテリー切れだったのを思い出して落胆する。

 

「よく聞きなさい。この村には幾つか守らないといけない約束事がある」

 

「はいはい、分かってます。ポイ捨てしない。それくらいの常識はあるって」

 

「そうじゃない。この村で見聞きしたものは絶対に外に漏らしてはいけない。写真を撮ってもいいが、他の人たちに見せるような真似は駄目だ」

 

「ハァ!? なにそれ! みんなに自慢できないじゃん!」

 

「次に、北に立派な神社と森がある。森には立ち入ってはいけない」

 

「そもそも森なんて行かないし!」

 

「あと蜘蛛を大事にするんだ」

 

「天然記念物でもいるの? いいよ。触りたくもないし」

 

 写真を撮ってもいいけどSNSに上げるな。旅行の話も友達とするな。挙句には神社の森に入るなと蜘蛛を虐めるな。何もかもおかし過ぎる。

 

「そして、夜は出歩かないこと。日が暮れる前に必ず宿に戻ってきなさい」

 

「どうでもいいけど、荷物はどうするの? 宿って何処?」

 

「荷物はさっきの人が運んでくれるはずだ。ともかく約束だ。いいね?」

 

「はいはい」

 

 なんか面倒臭い村。いや、この男が過保護なだけか。煩わしい。璃々は村の案内板の傍に束になって置いてあった観光マップを入手する。

 何処か懐かしそうな父とは違い、璃々からすれば文字通りの別世界である。街路樹1本を見ても歴史を感じさせる。その一方で不満だったのは、美しく奇異な街並みに反して蜘蛛の巣が異様に多かった点だった。それが美観を損なっている。

 ネットで調べても情報がまるでない辺鄙な田舎かと思えば、街並みだけで食べていけそうな村だ。璃々は無料で貸出されている自転車を発見する。広い村では交通集団が不可欠であり、バスが巡回しているようであるが、車が通れない細道も多いので自転車の方が便利であると観光マップにも記載されていた。

 父はどうやってこんな穴場を見つけたのだろうか。20年以上前と話していたが、もしかしたら母と一緒に来たことがあったのだろうか。疑問はすぐに嫌悪感に塗り潰される。言葉にすることさえも汚らしくなる。

 

「ねぇ、先に宿の場所を教えてよ。1人で回りたいし」

 

「だけど、この村は――」

 

「仕事があるんでしょ」

 

「先方の都合もあるんだ。午前は璃々と過ごそうと思ったんだ。頼むよ」

 

 娘相手とは思えない程に下手に出る父に、璃々は思わず舌打ちを鳴らす。

 照りつける日差しは夏の熱を帯びて、だが水路が天然の冷房として機能しているかのように涼風が心地よく吹く。盆地は風通しが悪く熱気が籠もる土地であるはずだが、この村ではまるで見えない巨人が扇を煽ってくれているかのようにそよ風が絶えなかった。

 あるいは都会育ちの璃々が異常なだけで、地球温暖化の影響があるとしても、夏の暑さとは本来この程度のものなのかもしれない。コンクリートジャングルは熱を蓄え、空気は室外機で温まり、屋外でありながらサウナのような環境を生み出す。対してこの村は気温も湿気も快適そのものであり、だが夏の暑さは確かに風物の如く感じられる理想そのものだった。

 観光客を相手にしていないのか、土産店などはなく、幾ら広くても人口を考慮すれば外食産業も発達しないのだろう。村で唯一の定食屋に入れば、日焼けした20代前半だろう店員が迎える。

 献立はいずれも平凡そのものであり、値段もお手頃価格だった。だが、立派なお膳に盛られた料理は想像以上の見栄えと量であり、間違えて高級料亭に入ってしまったのではないかと献立表を見直した程だった。

 味付けも濃過ぎず薄過ぎず、万人の舌を満足させる、そして幾ら食べても食欲を損なわない絶妙なものだった。値段に見合わぬ食材の質と料理人の腕前は、ここ最近はファーストフードやコンビニ弁当で済ませてばかりだった璃々の体を内側から浄化するように優しく染み込んでいく。

 夢中で食べていたこともあるが、璃々と面と向かって食事をする父は一言も発しなかった。あれだけ不快感を態度で示せば当然であろうし、また自分が話しかけて不機嫌にさせれば彼女の食事を台無しにしてしまうだろうという気遣いだろう。本来ならば願ってもない事のはずなのだが、途端に覚えるのは腹立たしさであり、璃々は荒々しく冷ややっこを箸で切り分ける。

 と、新たに入店してきたのは中年の男女だった。痩身の男に対して女は肥満体型の、合わせて割れば均等になって丁度良さそうだと璃々は目が合った男に軽く会釈しながら思う。

 彼らもどうやら観光客のようだった。物珍しそうに店内を見回している。女は夫よりも先に運ばれてきた料理に待ちきれず、璃々と同じように感銘を受けたようであった。そして、自分より先に食べ始めた妻に男は苦言も呈さずに、むしろ美味しく食べる姿が喜ばしいとばかりに笑んでいた。

 見た目のアンバランスはともかくとして関係は良好に思える夫婦に、様子に璃々は胸の奥に小さな痛みを覚えながら店を後にする。

 

「宿はここからだと少し歩くな」

 

「ちょっと貸して。すみませーん!」

 

 地図を広げた父の自信の無い足取りに不安を覚え、璃々は宿の住所が記された手帳を奪い取ると傍を通った和服の女に声をかけた。

 

「どうかなされましたか?」

 

 日傘なのか、朱塗りの和傘を開いた和服の女は振り返って応じる。そして、璃々は思わず息を呑んだ。

 綺麗だ。年頃は多く見積もっても20代半ばだろう。病的に白い肌と色素の薄い髪、恐ろしく整っていながらも穏和な優しさが滲み出た顔立ちをしていた。だが、何よりも魅入られたのは赤が滲んだ黒色の不思議な瞳だった。この世の者とは思えない瞳は魂まで魅了するようであり、また覗き込み続けると2度と這い上がれない暗闇の穴に落ちていくような恐怖心が湧き出す。

 

「あ、あの……この宿に行きたくて……」

 

「ああ、紫藤のお宿ね。ここからだとちょっと遠いわ。バスが出ているけど数が少ないから、今からだと少し待たないといけないわね。まだ日も高いし、歩きでもいけないことはないけど……」

 

 さすがに夏の日差しの下で歩くのは嫌だ。璃々は大人しくバスを待つことに決めたが、不意に見た父の横顔に唖然とする。

 父はまるで幽霊でも見てしまったかのように、女を前にしてある種の怯えにも似た驚愕を露わにしていた。

 

「馬鹿な。貴女は……あり得ない。あれから15年も経っているのに……」

 

「あら、何処かでお会いしたかしら?」

 

 父の反応に慣れた様子で美女は首を傾げ、やがて思い出したように、年下の璃々が可愛らしいという印象を受ける程に穏和な微笑を描いた。

 

「ああ、須和君のお友達だったかしら? もう15年も経ったのね。光陰矢の如し。年月が経つのは早いものね」

 

 上品に袖で笑った口元を隠した美女の視線は璃々に向けられる。いや、正確に言えば彼女の手首に巻かれた青色の紐に視線が注がれる。

 

「今回もお仕事で?」

 

「新しい器具を診療所に……」

 

「わざわざ娘さんを同伴して? 怖くなかったの?」

 

「璃々は……その……」

 

「ああ、そうなの。『落とし』に来たのね。それは貴方の願い? この子の希望? それとも須和君の入れ知恵かしら? でも、選りにもよってこんな時に……余程に切羽詰まっているのね」

 

 何の話だろうか? 単なる仕事ついでの小旅行ではないのか? 璃々は女の言葉が父を徐々に追い詰めている……いや、まるで蜘蛛の巣に捕らえて身動きを取れなくさせているような、絶対的な捕食者が獲物を甚振るようなおぞましさを覚えた。

 璃々の視線に気づいたのか、美女は和傘を回す。くるくる。くるくる。くるくる回す。回して回して、口元だけを覗かせるように顔の上半分を和傘で隠す。その様は温室育ちの良家のお嬢様といった風貌からかけ離れた、無邪気に虫の足を千切り取る子どもっぽさを感じさせて、不気味に心を掻き毟る。

 

「須和君のお友達なら歓迎しないとね」

 

 日陰に移動した美女は荷車を引いていた、農作業着の青年に手を振る。途端に青年は弾けたように駆け寄り、まるで忠誠を誓う家臣のように跪く。

 

「はい、奥様」

 

「畏まらないで頂戴」

 

「ですが……」

 

「須和君のお友達の前よ。ほら、可哀想に。怯えているわ」

 

 青年の態度を当然の如く受け取りながらも客人を気遣う口振りの美女はまさに生きる世界が違った。父もたじろいでいるようであるが、その目にはこの地に辿り着いてから幾度となく覗かせる懐かしさが灯っていた。

 美女が話をつけてくれたのか、青年は軽トラックを準備し、荷台に乗るように促した。

 

「えーと、確か荷台に乗るのって法律違反じゃなかったっけ?」

 

「この村はほとんどが私有地ですし、公道は通りませんからご安心を。まぁ、目は瞑ってくださいな。わざわざ取り締まる警官もいないしね」

 

「はーい」

 

 気安く接してくれる青年は好印象を途絶えさえない爽やかな笑みで璃々の心配に答えてくれた。なお、できればクーラーが利いた助手席に座りたかったのであるが、荷物が詰め込まれており、璃々は仕方なく父と並んで荷台に腰かける。

 

「危ないから立つな。それと頭も出すな」

 

「子ども扱いしないで」

 

「まだ子どもだろう?」

 

 こんな時ばかり父親面するのか。璃々は吐き出しそうな暴言を堪え、ビニールシートが敷かれた荷台に腰を下ろす。

 夏の日差しを和らげる風を軽トラックは生み出すが、それは親子の間に漂う澱んだ空気まで流してくれない。自然と璃々は運転席と繋がる窓を開けてくれた青年とのお喋りで時間を潰す事になった。

 

「村と言っても平成の大合併で隣町に吸収されたんだよ。村で暮らす者達もほとんどが町に職を持ってるんだ。俺みたいな小作人は村の外に出ることはないけどね」

 

「小作人って……古い言い方」

 

「ははは。俺達は先祖代々に亘って久藤様の土地を耕させていただいていてるんだ。今では収穫のほとんどは紫藤様がお買い上げになられて、これが良い稼ぎになるんだ。わざわざ慣れない都会で仕事するよりもよっぽど儲かるってもんだ。お客さん達が食べた食堂の野菜もウチの畑で採れたものだろうね。そっちには格安で卸してるんだ」

 

「凄く美味しかった! 料理人の腕前もだけど、やっぱり食材の質が良いんだろうなーって!」

 

「ははは、嬉しいなぁ。やっぱり、実際に食べた人の口から美味いって褒めてもらえるとやる気が出るよ」

 

 青年は璃々に多くを教えてくれた。この村の周辺の山々は残らず地主である久藤の私有地であり、許可を持っていなければ村に立ち入ることはできず、主な交通集団は私営のバスであるということ。そんな土地柄だから閉鎖的でインフラも整っておらず、通信基地局からも離れている為にスマートフォンといった携帯端末による通信もできず、また電話回線すらも限定的であること。そして、祭りも近く、多くの村の出身者が戻ってくる為に慌ただしくなりつつある事。

 

「あたし達はそんなに長く滞在しないんだ。でもお祭りがあるなら行きたいなぁ」

 

「祭りは2週間後だからね。大祭じゃないとはいえ、今年はいよいよ神子様のお披露目なんだ。各地に散らばった村の出身者や縁者が帰って来る。本家の方々はともかく、分家の方々は犬猿の仲でね。俺みたいに先祖代々に亘って本家に仕えた小間使いと違って、分家仕えの小間使いはどちらが上かと競い合うから仲裁がもう大変で大変で……」

 

「本家とか分家とか小間使いとか、まるでドラマみたい」

 

「ドラマよりも現実の方が生々しいよ。特に今年は地獄さ。なにせ小間使いにも神子様から直々に盃をいただけるんだ。1番酒を巡って、小間使い同士で殺し合いが起きたっておかしくない」

 

 青年の気苦労が吐露した頃に宿に到着する。青年と楽しく会話していたせいか、無視され続けた父は何処か顔が暗かったが、璃々はいい気味だとむしろ上機嫌になる。

 丁寧に頭を下げた青年は軽トラックを走らせて去っていく。璃々は改めて到着した旅館を見上げて息を呑む。

 和の風靡を感じさせながらも、まるで異国の地に立ったかのような、璃々が知り得るあらゆる外国の文化とも合致しない、この世に存在しない異国に辿り着いたような独特さで満たされていた。客人を迎える灯篭はまだ火が灯っていないが、夜になれば電灯には生み出せぬ、火の温もりと光によって旅館全体が煌びやかに彩られるだろう。

 100年の歴史は感じさせる佇まいは圧巻されるばかりであった璃々を迎えた女将は物腰穏やかであり、人当たりの良さそうな人物だった。

 

「荷物は既にお部屋に運んでおります」

 

 璃々たちの部屋は錦鯉が泳ぐ池を一望できる2階の部屋だった。敷かれた畳は寝転がりたい衝動を湧き上がらせたが、璃々はグッと堪える。女将の前だからではなく、父親の前で子どもっぽい反応を見せたくなかったのだ。

 

「うわぁ、本当に電波が無いんだ」

 

 充電器にスマートフォンを接続させるが、インターネットには繋げられなかった。如何に山奥とはいえ相応の数の人間が暮らしているのだ。不便にも程があると璃々は嘆息する。

 だが、不思議と肩が軽くなった気がした。常に誰かと繋がっているという事は、言い換えるならば縛られているという事でもある。社会から隔絶されたが故の疎外感と孤独感は、まるでタイムスリップしたかのような、あるいは言葉だけが通じる異国に踏み入れたような解放感が勝って打ち消されていた。

 

「それじゃあ、父さんは仕事の話をしてくる。くれぐれも気を付けるんだよ。それから約束を忘れないでくれ」

 

「…………」

 

 父の念押しに無言で応え、璃々はさっさと出て行けと背中を見せる。

 

「璃々」

 

 父は名前を呼び、だがその続きは無く、襖が開けて閉じられる乾いた音が璃々に粘ついた失望感を募らせた。

 折角の素敵な宿も父と過ごしては台無しだ。学校の友達を誘って来たかった。璃々は鞄から取り出したサンダルに履き替えると旅館の探検に出発する。父の目が失われたお陰か、まるで卵の殻のように心を覆っていた苛立ちは隠れ、純粋な好奇心ばかりが溢れ出る。

 何十人……いいや、100人以上が泊まれるだけのキャパシティを持った旅館であるが、どうやら璃々を除けば、定食屋で出会った夫婦以外に宿泊客はいないらしく、また彼らも村の散策に出かけている様子であり、広い館内を彼女は1人で歩き回る。

 青年が言っていた祭りが近いせいなのか、上品に迎えてくれた女将は仲居たちの先頭に立って慌ただしい様子だった。

 

「神子様にお出しする【奉膳】は何としても勝ち取れとの紫藤様からのお達しです。大旦那様は奥様に一任されたご様子。奥様の信任を得て、奉膳の名誉を何としても紫藤に捧げねばなりません」

 

「草部の連中はフランスから清次郎殿を呼び戻すと聞いた。女将、京都から大悟さんをお呼びできませんか?」

 

 女神と板前は深刻な表情で、それこそ璃々が廊下の陰からこっそりと覗いていることに気づく様子なく話し込んでいた。

 

「連絡はしましたが、電話先で無理だと泣いてましたよ。ああ、我が子ながら情けない」

 

「神子様に振る舞うんだ。大悟さんには荷が重過ぎたか。才覚があるとはいえ若くて修行の身。ましてや、パリで名を挙げてる清次郎殿には勝てまいか」

 

「神子様は大旦那様や奥様以上に甘味にご執心です。洋菓子を奉膳に載せるなど前代未聞ですが、奥様は神子様がお喜びになるならばとお選びになるでしょうね」

 

「菓子だけで奉膳が決まるわけじゃありません。紫藤の板前衆ここにありと、草部の雀共に見せつけてやりましょう!」

 

「頼みますよ」

 

 ……ドロドロだ。璃々は見なかった事にしようと踵を返す。

 まるで迷路を思わす旅館には多くの調度品が飾られていた。だが、その中でも特に多いのが剥製だった。

 絶滅したニホンオオカミ。今にも動き出しそうな迫力を持ったヒグマ。立派な鬣を持ったライオン。何処から集めたのかも知れぬ珍妙な剥製が幾つもあった。

 

「……うわぁ」

 

 そして、璃々が特に目を惹かれたのは壁から立てかけられた巨大な白い皮だった。詳しくない璃々でも質感からして爬虫類の類だと分かるが、あまりにも巨大過ぎた。素人目ではあったが、繋ぎ目の類は見当たらず、1枚の巨大な白い皮は人間の常識を覆す神秘を感じさせる。

 

「嘘か真か、かつて北の何処かにあったとされる谷の主だった蛇神のものだよ」

 

 と、璃々の疑問に答えてくれたのは背後から聞こえた声だった。。

 振り返った先にいたのは、他人の警戒心を解くような、悪く言えば見くびられそうな気弱な顔立ちをした男だった。もしも学校の先生ならば、自分も含めて男女関係なく弄っても怒られない、むしろ友人感覚で接せられて人気が出るだろう。整った顔立ちをしているが、それは他人の目を惹くよりもむしろ心の錠前を開けることができるような、根拠のない信頼感をもたらすような穏和さで形作られていた。

 服装も地味ではあるが、それ故に威圧感もなく、何処にでもいる近所の隣人のような接し易さがあり、璃々は自然と警戒なく肩の力を抜いてしまっていた。

 

「神様ってさすがに嘘ですよね?」

 

「人は理解の及ばないもの、理解したくないものを神やバケモノと呼ぶ。何らかの遺伝子異常で巨大化した生物がいたならば、それが今でも神聖視されている白蛇であったならば、十分に神と呼ばれる条件は満たしているよ。私の知り合いの言葉を借りるならば、非科学的であると否定する者は何よりも非科学的存在に縛られているそうだ。この世の理屈を解き明かしたと思い上がって常識を振りかざすなど傲慢であり、進歩を止めた愚者だとね」

 

 そういう見方もあるのか。璃々は男の解釈に納得して頷く。

 

「まぁ、もしかしたら無数の白蛇の皮を繋ぎ合わせただけなのかもしれないけどね。なにせ私も素人だし、専門家に鑑定してもらったわけでもないしね」

 

 茶化した男は若々しく見えたが、父と同年配か少し年上なのだろうと直感した。同時に、男に何処か既視感を覚えた。初めて会った気がせず、まるで何回も顔を合わせたかのような親近感すらあった。

 

「観光かい?」

 

「父の仕事の付き添いです」

 

「何処から来たのかな?」

 

「東京から」

 

「へぇ、随分と遠くから来たんだね。私も家族と一緒に東京から帰ってきたんだ」

 

 男の人懐っこそうな笑みは老若男女関係なく、それこそ言語や人種の壁を越えて人心を掴み取る魅力に満ちていた。この男が間に立てば、たとえ1000年に亘る諍いを抱えた民族同士ですら理性的にテーブルで論議できるのではないだろうかという説得力すらもあった。

 

「中学生かな? それとも高校生?」

 

「来年から高校です」

 

「じゃあ中学生だね。キミくらいの年頃だと夏休みはご家族で過ごすより学友と遊んだ方が楽しいんじゃないかい?」

 

「父に無理矢理誘われて、仕方なく。でも、ここはとっても良い場所だと思います」

 

「故郷を褒められるとやっぱり嬉しいね。それにキミも何だかんだでお父さんに付き合う良い娘さんだ。私の長男なんてね、もう何年も口を利いてくれないんだ。娘も素っ気ないどころか汚物を見るような目をしてね。末っ子だけが心の癒しなんだけど、長男も娘も末っ子にも私を嫌いにさせようと躍起になってるみたいでね。泣きたくなっちゃうよ」

 

 隣の芝生は青く見えるだけか。息子と娘に毛嫌いされて自嘲する男の言葉の節々には強い家族愛が感じられて、璃々は羨ましく思う。

 あの男は最低だ。クズだ。ゴミだ。璃々は内心で父を罵倒する。

 璃々の脳裏を駆け巡るのは雷雨だ。

 赤いランドセル。お気に入りの花柄の傘。長靴で水溜まりを踏み鳴らし、我が家を目指す。

 そして、玄関を潜った先で……

 

「大丈夫かい?」

 

 気付けば璃々の全身は汗だらけになっていた。冷房が十分ではないとはいえ、旅館の中は夏場とは思えぬほどに涼しい。それでも、まるで豪雨に襲われたかのように、璃々の全身は汗で湿っていた。

 

「知らない土地で疲れたのかもしれないね。お父さんは近くにいるのかい?」

 

「いいえ、父は仕事に……」

 

「そうかい。気分が悪いなら外の空気を吸うといい。裏山は日陰になっているから涼むのにも適しているよ」

 

「あ、ありがとうござい、ます」

 

 心配する男に丁寧に頭を下げた璃々は泡立った過去を再び暗い海底に押し込める。

 外の空気を吸いに行こう。璃々は旅館から出ると裏手に広がる木々が生い茂る山を見上げる。整備された山道こそないが、まるで璃々を誘うように踏み均された獣道があった。

 普段ならば虫に刺されたくないなどの理由でまず立ち入ることはないだろう。だが、璃々の胸中で渦巻く負の感情は発散先を求めるように彼女を突き動かした。

 ふと思い出したのは父との約束だった。立ち入りを禁止されたのは北の山である。太陽の方角でここが北の山ではないと確認した璃々は改めて踏み入った。

 この地は真夏とは思えない程に過ごしやすかったが、山の中は別格だった。天然の冷房が効いているかのように、じっとりと汗を掻いても不快感はなく、むしろ夏特有の清々しさが強まるばかりだった。

 そういえば、盆地はむしろ風が吹き難くて暑くなりやすいはずなのに、何故? 璃々の脳裏を過ぎったのは学校の授業で習った地理の特性であったが、この村は夏らしさを感じることはあっても息苦しさはなかった。むしろ、避暑地と呼ぶに相応しかった。

 機械文明を置き去りにした時代遅れの土地。人の手よる管理よりも自然に委ねられた場所。そんなイメージが相応しいはずなのに、まるで見えざる存在によって管理されているかのような、これまで全く信じていなかった神仏の存在を感じるような……宗教的聖地のような空気すらもあった。

 手製と思われる木材の荒縄を組み合わせただけの柵は危険地帯に踏み入らないように現地人が施したものだろう。璃々は獣道に従って山の奥へ奥へと進んでいく。聞こえるのは蝉の合唱であり、小川のせせらぎであり、蛙の鳴き声だった。

 剥き出しになった木の根は岩に絡みつき、それらの間を流れる清流は穏和な音色を奏で、澄んだ水面の下では手でつかみ取れると思う程に大小様々な川魚がゆったりと流れる時間を体現するように泳いでいる。

 ふと見上げれた木の葉のカーテンによって陽光は遮られ、だが確かに昼過ぎの明るさは届く。光と闇のコントラストが確かに存在し、太陽の恩恵をたっぷり受けた水辺では寝そべりたい衝動に駆られる程に苔生していた。

 まるで日本の原風景のように心を揺さぶられた田園や和の髄を集積したかのように見えて異国に辿り着いたかのような村の中心街とも違う、生命の根幹に訴えかけるような息吹が一呼吸の度に肺を浄化し、血を巡って全身を清めているかのような、落ち着いた気持ちを璃々にもたらす。

 璃々の周辺はいつの間にか幹の直径が2メートルにも達する大木ばかりが並んでいた。それらは蔦に覆われている。大木の洞には茸が群生し、思わず食べたくなる程に豊かな実りを強調している。

 小川の源流を求めるように璃々は山の奥へと進んでいく。とはいえ、登山装備でもない璃々の歩みは遅々としたものである。動き易さを重視したサンダルは山では剥き出しの皮膚を守ってくれない。足の甲を草や落ちた枝が擦る。

 額を、頬を、顎を汗が滴る。璃々は思わず笑う。源流に辿り着いたところで何も得られるものはないのに、自己満足の達成感すらもあるか怪しいのに、自分は何を探しているのだろうか。

 旅館に戻ってゆっくりと温泉に浸かっていればいい。その方が怪我を負うより何倍も有意義だ。そもそも子ども1人で見知らぬ山に踏み込むことがどれだけ危険なのかは璃々も承知している。

 戻ろう。今ならば日が暮れるより前に旅館に帰れるはずだ。踵を返した璃々は驚く。

 これまで一本道だと思っていた程に、明日は筋肉痛になるだろうと確信できる程に登り続けたというのに、振り返ればもはや獣道と呼べるものすらもなかった。あったのは小川という目印だけであり、彼女は魅入られたかのように草と苔と砂利と腐葉土を踏みつけてここまで来ていたのだ。

 帰り道などない。小川に添って戻れば下山は難しくないだろうが、自分を突き動かしたものは何だったのかと璃々は薄ら寒さを覚える。

 道はなくとも帰り方が分かっているだけ安全だ。璃々は深呼吸して小川を辿って下山しようとする。

 だが、璃々は大きな間違い……いいや、油断に気づけていなかった。山とは下る方が遥かに負担がかかるのだ。ましてや、整備された山道ではなく、彼女自身も経験も技能も無く、流した汗の分だけ失った水分と感情によって誤魔化されていた疲労は最初の1歩で露呈する。

 至極当然として、璃々はバランスを崩し、無理に体勢を立て直そうとした負荷は足首に集中する。

 

「っつぅうううううううううう!」

 

 声にならない悲鳴を上げ、璃々は蹲る。土に巧妙に隠された石によって地面を捉えきれず、予定調和のように足を挫いてしまったのだ。

 最悪だ。山奥で、それも山道から外れた場所で怪我を負うなど遭難の見本ではないか。嫌な汗が流れた璃々は期待もなく周囲を見回して人影を探す。だが、もちろん、そんな都合よく通り過ぎる救世主はいなかった。

 どうする? 不安が一気に膨れ上がった瞬間に、先程までは心地良さすらも感じた、木の葉に遮られて陽光が届かぬが故の影を色濃く視界に滲み出る。

 怖い。恐い。怖い。恐い。コワイ。璃々は目尻に涙を浮かべる。先程までの清涼感は消え去り、まるで食虫植物の甘い香りに誘われた哀れな犠牲者のような恐怖心が湧き出す。

 縋るように忙しなく動かした目は、焦りに反して普段の何倍も鋭敏になった視覚を強調するかのように、彼女にあるものを見つけさせる。

 小川の上流には明らかな人工物があった。まるで1つの石を削って作ったような存在感がある灯篭である。もう何年も使われていないように苔生しているが、それでも彼女に期待を膨らませる。

 もしかせずとも寺院や神社があるのかもしれない。本来の山道と繋がっているならば、誰かがいれば救助が期待でき、また無人であっても山道があれば遥かに歩きやすい。

 痛みを堪えて璃々はあともう少しと自分に訴えかける。これまでは心も汗も洗い流してくれるような小川の音色はただただ不安を掻き立てる。風が吹く度に草木が擦れれば、まるで背中を撫でられたかのような悪寒を募らせる。

 蛙の合唱はよからぬ存在を招こうとしているようで、振り返れば誰かに腕を掴まれて何処かに引き摺られるような形のない恐怖心ばかりが焦燥を膨らませ、足の痛みよりも心から際限なく湧き出す恐怖心に突き動かされて璃々は灯篭を目指す。

 

『璃々ちゃん』

 

 耳に木霊したのは母が自分の名を呼ぶ声だった。

 母は良妻と近所でも評判だった。物腰穏やかな父と結婚したのも頷ける内向的な女性だった。

 小さい頃からお洒落好きで、社交的で、孤独を嫌った璃々は両親のどちらにも似ていなかった。両親が形作った家庭で育っても影響を全く受けなかった。だが、漠然と両親は自分を愛してくれているという確信があって、だからこそ途絶えぬ幸福感があった。

 泡立つのは父への憤怒。父への諦観。父への絶望。璃々はいつの間にか割れた指の爪に、潜り込んだ泥土に、そして滲んだ血の赤色に、耐えがたい複雑な感情を潰すように奥歯を噛んで堪える。

 

「……つ、着いた!」

 

 ほんの十数メートルだったはずなのに、何十分も、あるいは何時間もかけたのではないかと思う程に全身の疲労感は体の節々から芽吹き、彼女の動きを鈍らせる。

 想像通り寺院だったが、璃々は溜め息を吐く。およそ人気が無い廃墟にも等しかったからだ。

 瓦は剥げ落ち、木板は腐り、青銅製の金具は錆び付いていた。寺院は形こそ保っているが、雨風によって朽ちつつある。当然ながら人気はなく、およそ参拝者も管理人もいないだろうことは容易に想像できた。

 だが、捨てられたとはいえ、仏の加護がある場所である。璃々が無責任な安心感を抱くのは仕方のないことだった。心の緩みは痛みを明確にさせ、璃々は今度こそ動けなくなって蹲る。

 動き易いが身を守らぬ短パンと保護面積も狭いサンダル、しかも大胆に腕や肩を露出したキャミソールとである。山慣れしていないともなれば傷だらけになるのは当然だった。挫いた足首など怪我の1つに過ぎず、彼女の全身には細かな傷で溢れていた。

 体を洗わなければならない。感染症を危惧した璃々が目にしたのは大きな池である。滝から零れる清流が溜まった場所である。溢れた清水は斜面を流れ落ち、璃々の目にした小川になっていたのだ。

 水流があるお陰で清らかさを保っているが、これまでと違うのは咲き乱れる睡蓮だった。

 そして、視界を舞うのは漆黒の蝶だ。知識はない璃々であるが、テレビや教科書、図鑑で見たいずれの種とも異なる、まるでこの世の理から外れた場所から飛んできたかのような印象を与える、手のひらほどの大きさをした蝶である。

 璃々は手を杓にして水を掬いあげると傷口を洗う。まるで氷水のように冷たく身震いしたが、我慢して傷口を丁寧に清める。だが、挫いた右足首ばかりはどうしようもなく途方に暮れる。せめて池の水で冷やして痛みを誤魔化し、腫れを抑えられるのは喜ばしかったが、それ故に身動きができ無くなっていた。

 これからどうしよう? 池の縁に腰かけて両足を浸からせた璃々が俯けば、思わず息を呑む。

 透明度が高いせいだろう。璃々は池の深さを見誤っていた。

 水中で繋がり合うのは睡蓮の根であり、それらが深みの底で張り巡らせているのは無数の仏像だった。1体や2体ではない。大小様々な仏像が、あらゆる宗派と時代と素材の垣根なく、沈められた仏像によって埋め尽くされていた。

 璃々は気づく。ここは捨てられた寺院なのではない。もはや信仰の対象ではなくなった仏像の……いや、仏という存在の墓場なのだ。神聖さすらも覚えさせた睡蓮は、その実は仏の骸を糧にして咲き乱れているようであった。

 ここに長居をしてはいけない。璃々が無理して体を動かし、池から離れる。

 背を向けた瞬間に聞こえたのは水面が騒ぎ立つ音色。深みの底から浮き上がってきて泡立つ何か。

 振り返ってはならない。挫いた右足を引きずり、涙面になって璃々は池から離れ、寺院の外廊下を歩けば、今にも底抜けそうに軋む。それに怯えた璃々が1歩後退れば、耳を擽ったのは這いずる音だ。濡れた身で、硬い何かが土を掴みながら這う音だ。

 

 ずるり。

 

 ずるり。

 

 ずるり。

 

 1つや2つではない、水面が泡立だたせながら続々と岸に上がり、璃々に追いすがる何かの音は彼女に前進を求める。だが、挫いた足では1歩が遅く、這いずる音は徐々に、確実に、璃々を肉薄していく。

 呼吸の度に漏れるのは真冬の如き白い吐息。だが、汗は止まらない。

 

「嫌……嫌……来ないで! 来ないで……!」

 

 涙目になって璃々は這いずる何か達に訴える。だが、廊下の木板の軋みは増すばかりで、腐った木を引っ掻く音ばかりが背中を撫でる。

 外廊下を歩み抜いた璃々を歓迎したのは、無数と立ち並ぶ壊れた仏像だった。野ざらしにされ腐った木像であり、あるいは明らかに人為的に破壊された石像であり、または哀れに焼かれた銅像だった。だが、いずれも無残な時の流れを感じさせるように苔に覆われ、あるいは木が根を張る土台にされている。

 純白だったはずの砂利は雑草塗れであり、石畳すらも苔の層によって覆い尽くされている。

 そして、璃々は思い知る。出口など何処にもない。彼女が目にしたのは、破壊された仏像だけではなく、無数の寺院だった。何の秩序もなく、まるであらゆる時代から流れ着いたかのように、朽ち果てた寺院が山の1部として呑まれた光景だった。

 走る。痛みを堪え、何度も体勢を崩しながら、仏と寺院の墓場を駆け抜ける。だが、どれだけ速度を上げても這いずる音は遠ざからない。

 そして、璃々は千切れた仏像の腕に躓いて転倒する。

 いいや、本当に躓いたのか? 璃々は自分の足首を掴まれたような気がした。確認したくても恐怖が勝って視界はただただ砂利を見つめるばかりだった。

 

「助けて……助けて……助けて……!」

 

 震える声で求めるのは救い。思い浮かぶのはいつも自分の前に立ってくれた大きな背中だ。

 記憶が捲れる。

 白黒の世界は色彩を取り戻し、幼き瞳が見た色を鮮明にしていく。

 ランドセルを楽しげに揺らした璃々は帰路に着く。

 いつもよりも少しだけ早い帰宅だった。

 我が家の玄関を潜り、靴を脱いで丁寧に揃え、リビングに向かう。だが、母はいない。

 専業主婦の母は璃々が帰ればいつも優しく迎えてくれた。

 帰れば家を満たすのはお香だった。

 週に何度か家はラベンダーのお香が焚かれていた。心を落ち着けるはずなのに、璃々はいつも何故か無性に充満するラベンダーの香りに不安を覚えていた。

 優しいラベンダーの香りに隠された、どうしようもない愚かさと、醜さと、哀れさを、幼き心は理解し、父への憤怒と絶望の下地となったのだ。

 瞼を綴じれば何かが無数と纏わりついている。まるでかつての信仰を取り戻そうとするように、璃々に信心を求め、だが我先にと争い、四肢を千切り、臓物を引き摺りだろうとするような圧迫感が増す。

 恐怖は決壊して嗚咽となり、瞼を閉ざした闇は自分の心の弱さを示し、ただただ心の脆さを守るように身を縮こまらせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お姉さんは何が恐いの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭上から降り注いだのは、夏の涼しさを運ぶ風鈴のように透き通り、天女が月夜に満たす調べのように優しく、闇深き森の奥底から溢れた蛍火のように儚い、この世の理から外れた海より聞こえる細波のように心を掻き毟る声だった。

 一声で璃々に群がっていた這う者達の圧迫感は霧散し、まるで慈母のように璃々の頭を何かが撫でる度に心を縛り付けていた不安感は拭われ、確かに伝わる人肌はまるで凍える冬の夜に出会った焔火のように、璃々の冷え切った心身を温める。

 

「大丈夫。大丈夫。大丈夫だよ。ぎゅーってしてあげるから、もう泣かないで」

 

 抱きしめられた分だけ熱が璃々を巡る。抱擁と共に聞こえる心臓の鼓動は璃々と一体化したように彼女の血の巡りを支配し、体の痛みすらも和らげているかのようだった。

 

「大丈夫だよ。恐いものはぜーんぶ食べちゃえばいいんだ。ぼくが食べてあげる」

 

 瞼を開いた璃々が見上げれば、そこにあったのはこの世の最果てに辿り着いたかのような幻想だった。

 璃々が村で出会った美女とは比べ物にならない程に、濃く深く赤が滲んだ黒という不可思議な色合いをした瞳。

白磁という表現すらも足りない程に透明感と絹すらも劣悪と思える程にきめ細かく柔らかな白い肌。

夏の涼風に揺れる淡い茶の髪は今にも全ての色を失いそうで、また太陽の光を湛えて輝いているような……月光の如き儚さを感じさせる。

まだ10歳にも満たないだろうはずなのに、清廉にして妖艶にして美麗にして可憐なる容姿は人類が追い求めた美の概念そのものであり、数多の芸術家が苦心と苦悩の末に求めた答えのようであり、人の手が加えられていない天然だからこそ到達できる生まれ持った容貌だと悟る。

 髪を彩るのは翡翠、紅玉、瑠璃といった宝玉によって彩られた、だが決して華美ではなく、本人の美を強調させる為だけの髪飾り。纏うのは巫女……いいや、神子にこそ相応しい装束。だが、和でありながら各所に見られるのは異なる宗教的象徴が集積しており、混沌としていて、何者にも真実にたどり着かせない秘密を纏わせているかのようだった。

 足袋で包まれた両足は真紅の鼻緒が特徴的な履物をしていた。だが、それは下駄でもなく、草履でもなく、むしろ外見としてはブーツに近しい革張りであり、だが密閉されていない様はいっそサンダルのようにすら思えて、何にも捕らわれていないデザインは、神秘を重ね合わせた装束にこそ相応しかった。

 

「ここは……あの世?」

 

「うん? 違うよ。お姉さんはまだ生きてるよ」

 

 落ち着いた璃々を抱きしめていた美少女の腕が離れる。途端に母の温もりを求める幼子のように璃々は名残惜しさと耐え難い独占欲に駆られる。

 涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃになった顔を今更になって恥じ、腕で擦ろうとするが土と泥と砂で塗れているともなれば余計に醜く化粧するばかりだ。

 

「怪我してるね。ちょっと待ってて。コゴロー!」

 

 美少女が声を張り上げれば、のそのそと歩いてきたのは大型犬だ。

 いや、本当に犬だろうかと疑いたくなる程に大きい。体長は2メートルを超えていた。限りなく金に近しい明るい毛並みは積み重ねた年月を示すようにくたびれている。黒真珠のような瞳には力が無く、いつ息を引き取ってもおかしくない老犬だった。

 

「大きいでしょ? 3代目コゴローだよ! おじいちゃんの猟犬なんだ!」

 

 子どもくらいならば簡単に噛み殺せるだろう大顎を持った老犬を美少女が抱きしめる姿は微笑ましさよりも幻想さが際立ち、自分が見ている光景の全てが夢なのではないかと疑いたくなる。だが、璃々は痛みで何とか現実感を繋ぎ止めて、利口にお座りをした老犬に軽く会釈をした。

 

「こんにちは」

 

 犬が返事をするはずもない。だが、老犬は璃々の言葉を正しく理解したように伏せた。

 

「3代目コゴローは凄いんだよ! 昔ね、おじいちゃんと一緒にたーくさん大きい獲物を狩ったんだ! でもね、2代目コゴローはもっともーっと大きかったんだって!」

 

 これより大きいとか、ゲームに登場するモンスターではないか。さすがに信じ切れない璃々が苦笑いすれば、美少女は可愛らしく頬を膨らませる。

 

「本当だよ!? おじいちゃんは嘘吐かないもん!」

 

「はいはい」

 

「あ、信じてない! コゴローもなんか言ってよ!」

 

 信じない璃々に美少女は喋ることもできない老犬を揺さぶるが、子どもの面倒を見るのは疲れると言わんばかりに老犬は眠たげに瞬きするばかりだった。

 

「コゴローの背中に乗って。スゴイ力持ちだから大丈夫だよ」

 

 乙女として体重は気にしているが、この老犬の背骨が折れないだろうかと心配した璃々であったが、杞憂であったように想像以上に力強く、老犬は璃々を背負うと現れた時と同じくのそのそと歩き始める。

 思い出したのは父と一緒に訪れた牧場での乗馬経験だ。璃々は無邪気に家族で過ごせる時間を満喫していた。

 胸を締め付けるのは父への怒り? いいや、これは悲しみだ。誰に対する? 分からない。璃々は老犬に乗せられ、美少女の先導に従う。

 女子の理想を形にしたような癖もなく腰まで伸びた髪。得意な神子装束の背中……肩甲骨の部位にはそれぞれに2本の切れ込みが加えられていた。それはデザインというよりも、背中から伸びる何かを解放するためのようで、美少女の人間離れした美貌も合わさって際立つ。

 

「でも、お姉さんはどうしてこんな所にいるの? クヒヒ、もしかして迷子なの?」

 

 当然の質問であった。美少女は心を掻き毟るような笑いと共に璃々について尋ねる。

 正直に山を登って、それも山道も使わなかったと言えば、さすがの美少女も呆れたようだった。

 

「お姉さんって山登りとか整備されていない森の歩き方とか知らなそうなのに、無謀だね」

 

 言い返すこともできない。だが、璃々は同時に疑問を覚える。あまりにも人間離れした美少女のお陰で逆に不気味さは失せ、むしろ神秘さが増した寺院と仏の墓場に、彼女はどうしているのだろうか?

 恰好からして現地人なのだろうが、まだ10歳にも満たないだろう年頃を思えば、山に1人で訪れているとは考え難い。璃々が尋ねるより先に美少女が立ち止まる。

 湧き水なのだろう。黒ずんだ大岩の割れ目より溢れる清水に美少女は手招きする。

 老犬から降りた璃々の右足を改めて洗う手つきは優しく、まるで洗礼を受けているかのように心が落ち着いた。

 

「ここの水はね、痛みを和らげ、傷を塞ぎ、病を癒す効能があるんだって。麓にある紫藤の旅館の温泉と同じだよ。飲めば五臓六腑を健常に正し、長寿をもたらし、美容にも良いんだって」

 

「へぇ、万能なんだ。物知りだね」

 

「えへへ」

 

 褒められて嬉しいのか、美少女は多くの事を教えてくれた。幸いにも山道と繋がっているらしく、更に歩けば車道もあり、日暮れまでには下山できるとの事だった。

 彼女もまた東京から里帰りした身らしく、彼女こそが祭りの主役……神子であると明かした。

 

「これね、おばあちゃんが仕立ててくれたんだ。まだ完成してないけど、本番のお祭りではね、ぼくが神楽を舞うんだよ。お姉ちゃんも見に来てよ!」

 

「ごめんね。お祭りの前に帰っちゃうんだ」

 

「……そっか。ざんねん」

 

 鑑識眼は備わっていない璃々であるが、美少女が纏う神子服は途方もない額が付くだろうことだけは理解できる。なにせ、髪飾り1つを取っても宝石で彩られているのだ。質素過ぎず、華美でもなく、ただ神秘だけを追求した装束はあらゆる宗教観が混在し、故に何にも増して混沌であり、故に深奥に辿り着かせない混迷に満ちている。

 だが、着飾る神子装束はあくまで美少女の美貌と存在感をより強調させる為だけに過ぎず、彼女の持つ美貌も……何よりも赤が滲んだ黒の瞳だけでこの世の全てを屈服させる程の魅了をもたらすことができるだろうと信じられた。

 美少女は湧き水をたっぷり啜った苔を奥歯で擦り潰し、璃々の右足首に塗り付ける。そして、袖より取り出した手拭と木の棒で固定を施した。

 

「ほとんど痛くない。まるで魔法みたい」

 

「お水をたっぷり吸って育った苔だもん。それにね、この苔は昔から狩人の傷薬の材料でもあったんだよ」

 

「すごいね。将来の夢は自然博士なの?」

 

「将来の……夢?」

 

 途端に美少女はまるで理解できないように首を傾げる。そんな難しい質問ではなかったのだが、美少女はまるでこの世の真理を尋ねられたかのような表情をして悩んでる様子だった。

 

「……分からない。だけど……ずっと、ずっと、ずっと……村にいたい」

 

 青空で夏の太陽は照り付ける。美少女はまるで太陽を抱擁するように、あるいは太陽を握り潰すように両腕を掲げる。

 

「日が暮れる前に下山しないと危ないね。急ごう」

 

 茶化すように笑った美少女の濡れた手で璃々の体を丁寧に清めて洗う。触れられる度に傷が痛むはずなのに、慈愛に満ちた指先はまるで痛みを取り除いてくれているように安らぐばかりだった。

 

「夜は獣の時間。狩人以外は出歩いちゃいけないから」

 

 璃々をまた運ばねばならないのかと老犬は緩慢な動作で姿勢を低くする。応急処置を施してもらったとはいえ、無理して動くわけにもいかず、また背中に乗せてもらう。

 自分よりも大きな犬に乗り、寺院仏閣が朽ち果てた山を惑い、現実離れした美少女と出会う。村に辿り着いた時も圧巻されたが、まるで夢の世界に迷い込んでしまったかのようだ。

 途端に思い出したのは先程の這う者達だった。身震いこそするが、美少女と老犬のお陰で恐怖は染み出ることなく、ただただ疑問が浮かぶばかりだった。

 

「ねぇ、ここは何なの? たくさんのお寺があって、仏像が……」

 

「ここはね、要らなくなったお寺や仏様が流れ着く場所だよ。廃れ、忘れられ、歪められ、狂わされ、眠る場所さえも失って……村の外からたくさんの人が捨てに来るんだよ。『お前はもうこの世界に要らない』ってね」

 

 歩みを止めた美少女は傍らに立つ大樹を撫でる。だが、よくよく見れば根元には大樹と半ば同化していた仏像の姿があった。元は絢爛豪華な金箔が貼られていたのかもしれないが、今では雨風と年月によって形を失う時を待つばかりだった。

 先程まで恐怖の対象だった朽ちた仏像達。だが、これら全てが時代の流れと共に不要とされて廃仏されたものばかりならば、哀れみを覚えずにはいられなかった。

 かつては信仰を集め、多くの人にとって心の拠り所となっただろう。だが、信心が失われ、ただの物質と化し、故に与えられた意味が無くなった。美術品として価値すらも見出されず、忘れられて朽ちていくしかなかった。

 ならば、彼らの墓所に無粋に立ち入った璃々は眠りを妨げた参拝者であり、故に信仰を求めたのかもしれない。

 仏像と寺院の墓場から脱すれば、人の手で整備された山道が現れる。やや急な斜面であったが、老犬は璃々を振るい落とさないように1歩ずつ踏みしめて美少女に続く。

 しばらくして振り返って気づく。璃々がいたのは三日月上の崖で覆われた窪地であった。あれだけの寺院がどうやって運ばれてきたのかと疑問に思っていたが、璃々が最初に見た池を筆頭に、多くの滝が流れ込んでおり、それらの上流の幾つかには停泊所らしき設備があった。分解された寺院は滝を利用して窪地に運び込まれ、再び組み直されるのだろう。そして、多くの仏像が見た通りに沈められ、あるいは草木に侵蝕されて、この地の1部となっていくのだ。

 もしかせずとも璃々が踏みしめていた土の下には、更に多くの寺院の残骸や仏像があったのかもしれない。璃々は最後に1度だけ拝めば、美少女は嬉しそうに笑った。

 

「お姉さんは優しいね」

 

 その後、山道は徒歩ならばやや険しかっただろうが、老犬のお陰で苦も無く通り抜け、やがて煙が立ち上る建物が目に映る。また人影も多く目に映って安心感がいよいよ噴き出した。

 並ぶのは茸の苗床だ。栽培されているのはシイタケだろうか。大きな傘を備えた、市場に出回ればさぞかし高値が付くだろうと素人でも予想できた。

 

「あらあら、お友達かい?」

 

「おばあちゃん!」

 

 そして、璃々たちを見つけて近寄ってきたのは、作業着姿をした、白髪に微かに黒髪が混じった老女だった。さすがに年齢差もあって血の繋がりは感じられなかったが、美少女は嬉しそうに老婆の腰に抱きついた。

 

「あのね、迷子なんだって。ねぇねぇ、おばあちゃん! 麓まで連れて行ってあげて」

 

「そうかい。可愛い孫のお願いは無下にできないねぇ」

 

 穏和な笑みに釣られて璃々は会釈してからぎこちなく笑いかける。

 おばあちゃんっ子なのだろうか。老婆と手を繋いだ美少女はとても上機嫌な様子だった。

 

「ねぇねぇ、お姉さんはまだ帰らないよね? 明日、一緒に遊ぼうよ」

 

「えー? どうしようかなー?」

 

「お願い!」

 

 縋りついて来る美少女はすっかり璃々に懐いた様子で、それが胸を締め付ける独占欲を湧き上がらせる。悪意を持って接してもあっさり騙されてしまいそうな危うい無防備さすらも愛らしかった。

 

「……もちろん! 旅館で待ってる」

 

「やったぁ!」

 

「良かったねぇ。さぁ、お嬢さんもそろそろ宿に戻りなさい。間もなく日暮れ。夜は獣の時間。出歩いちゃいけないよ」

 

 老婆に促され、璃々は指差された先へと進む。車道には軽トラックが停車しており、璃々を……いいや、美少女を見かけると慌てて運転席から男が飛び出して平伏する。

 

「神子様!」

 

「まだ神子じゃないよ」

 

 自分に頭を下げる男に戸惑った様子の美少女は、隠れるように璃々の背後に回ると背中を押した。

 

「この人を旅館まで連れて行ってあげて」

 

「ならば神子様も是非……」

 

「まだ神子じゃないもん! ぼくはコゴローと一緒に山を下りるから! じゃあね、お姉さん! 約束だよ! また明日!」

 

 元気よく手を振った美少女はそのまま木々の狭間に消える。

 気付けば夕暮れであり、今にも太陽は地平線に沈みそうだった。四方八方を山に囲まれているならば、夜の闇が訪れるのまた早いだろう。男は急いだ様子でエンジンを入れると山を下りる。

 璃々は自分が思っている以上に山を登ってしまっていたようであるが、曲がりくねった車道を経て下山するのに15分とかからなかった。

 まだ父は戻っておらず、璃々は大浴場へと向かう。天然温泉の露天風呂であり、璃々以外の利用客はおらず、実質的に貸し切りである。

 

「凄い。もうほとんど痛くない……というより感覚が無い?」

 

 効き過ぎたのだろうか? 挫いた足はすっかり腫れも引いており、問題なく歩行できるようになっていたのだが、同時に足が地面を捉える感覚が薄れていた。もしかせずともあの苔の効能は麻酔に近いのではないだろうかと璃々は疑う。治癒力を高める効果はあるにしても、痛み止めよりも感覚を薄れさせる類のものなのだろう。

 体を洗ってしっかり汗を流した璃々は湯に浸かる。腕や足の細かな傷に湯の熱が染みるが、思っていた程ではなかった。むしろ、まるで煮沸消毒されているかのように、温泉が傷口を通して全身を浄化しているかのようだ。

 痛みも疲れも何もかも溶かされていく。そして、見上げれば圧巻される満天の空だ。

 広大な宇宙の闇に散らばる星の輝き。そして、優しく大地を照らすのは月光。露天風呂を照らすのは脱衣所との境目にある照明を除けば、灯篭に灯された蝋燭の光だけである。だからこそ、夜空とはこんなにも美しいものだったのだと気づくことが出来た。

 思えば、もう何年も星を見ようなんて思ったことさえなかった。璃々は自然と右手を星に、左手を月に伸ばす。この世の全てを自分だけの独り占めにできたような幼稚な達成感が心地良かった。

 浴衣に着替えた璃々が部屋に戻れば、既に父が帰っていた。

 

「怪我をしたのか?」

 

「関係ないでしょ」

 

「まさか山に行ったのか!? あれ程……!」

 

「北の山じゃない! 旅館の裏山! ちょっと転んだだけ!」

 

 浴衣で腕や足の怪我は隠せても、手や頬の傷は目につくのは必然である。

 仕事が本命だったとはいえ、自分を放置した父を璃々は許されなかった。国内とはいえ、見ず知らずの土地に我が子を独りにすることに何も思わなかったのだろうか。父は鞄から救急箱を取り出して璃々の手を取ろうとするが、彼女は荒々しく振り払う。

 

「触るな、『人殺し』!」

 

「……璃々」

 

 娘の明確な拒絶に、父の顔に亀裂が入ったのではないかと思う程の悲壮が露わになる。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……済まない」

 

 搾り出た謝罪に、璃々は失望する。それしか言えないのか。

 そうだ。いつもそうだ。いつも、いつも、いつも! 謝罪すれば終わりだと思っている! 璃々は奥歯が砕けるのではないかと思う程に噛み締めた。

 その後、運ばれてきた夕飯はいずれも絶品であった。山の幸はいずれも職人技で調理され、舌を満足させる。だが、一緒に食べる相手が父では食の喜びも薄れるばかりであり、半ば胃に流し込むようにして食事を終えた璃々は父から離れるべく中庭に向かう。

 浴衣姿で仲睦まじそうに鯉に餌をやっているのは昼間に食事処で出会った夫婦だった。

 抱くのは羨望。もう取り戻せない過去にして唾棄すべき幻影だ。璃々は錦鯉が泳ぐ水面を見下ろす。

 まるで星空を自由に泳ぎ回っているような錦鯉達だが、彼らは何処にも行けない。囲われた池の外には出られない。璃々は水面を撫でて星々の光を掻き消す。

 

 その日の夜、璃々は夢を見た。

 

 あれは夏の香りが微かに鼻を擽る6月だった。

 お気に入りの花柄の傘を差し、水溜まりを蹴り、璃々は学校から一直線で我が家を目指していた。

 何の不安もなく、恐怖もなく、期待もなく、当然の如く変わらず存在する帰るべき場所に迷うことなく向かっていた。

 住宅街にあるごく普通の一軒家。いや、父は専業主婦の母と娘の璃々に何不自由なく養えるだけの収入を得ていたことも考えれば、むしろ恵まれた家庭だったのだろう。

 友達に羨まれる父とお淑やかな母。望めばどんな習い事も挑戦させてもらえた。欲しがれば何でも買ってもらえた。行きたい望めば何処でも連れて行ってもらえた。だからこそ、2人に褒めてもらいたくて、友達をたくさん作り、勉強を頑張り、誰が見ても恥ずかしくない、2人の自慢になるような娘でありたかった。

 玄関の戸を開ける。ただいまと言っても返事はない。夕暮れの雨は電気がついていない。

 香るのは母が好きなラベンダーではなく、強烈な薔薇の香り。むせる程の強いニオイを辿る。

 2階に続く階段を上る。雷鳴が体を揺さぶる。

 この先にあるのは地獄の始まりだ。甘く優しい幻想の終わりだ。璃々は自分の部屋のドアを開ける。

 

 

 璃々の部屋で花が咲いていた。真っ赤な……真っ赤な……花が咲いていた。

 

 

 朝の目覚めは爽やかさと無縁で、頬を流れる滴る汗を手で拭う。

 いや、これは本当に汗だろうか。璃々は歪んだ視界を正すべく瞼を閉ざす。

 

 

 

 

 

「今日はお父さんと村を回ろう」

 

「は? 勝手に決めないで。私、もう約束してあるから。昨日、山で出会った子が案内してくれるって」

 

 朝食の席で父に誘われるも璃々は顔を見もせずに断る。

 

「駄目だ。璃々、今日はお父さんと一緒にいるんだ。連れて行きたい場所がある」

 

 普段は璃々の一言で諦める父であるが、旅行に誘った時と同じく食い下がる。だが、聞く耳を貸すつもりはない。朝食を掻き込んだ璃々は父の制止を振り切って部屋を飛び出す。

 

「璃々!」

 

 普段は追いかけて来ないはずなのに。父は血相を変えて名前を呼ぶ。だが、璃々は振り返らなかった。足を止めなかった。

 

「あ、お姉ちゃん!」

 

 旅館の門を潜れば、昨日の神子装束とは違い、簡素な白衣と黒の袴だった。長髪は丈長で纏められている。昨日はまさしく神子といった風貌だったが、今日は巫女という印象の方が強かった。

 美少女は璃々を笑顔で迎え、だがすぐに心配そうに見上げる。

 

「……何処か痛いの?」

 

「ううん、体も足も……痛くないよ」

 

 璃々は胸を手で掴み、唸るように、叫ぶように、溢れ出すように、否定する。

 美少女に手を引かれてバス停で停まった、塗装が剥げて今にも止まりそうなボロボロのバスに乗り込む。年季の入ったバスに反し、運転手は若い男だった。

 

「昨日は紫藤の御山に行ったから、次は草部の山に行く? 草部には工房があるよ! 鍛冶師がいて、狩り道具を作ってるんだよ」

 

「神子様、お客様は女子です。狩り道具にご興味は持たれませんよ」

 

「ううん、そこで良い。なんか気になるし」

 

「だって! あと、まだ神子じゃないよ?」

 

「畏まりました、神子様」

 

「まだ違うのに……」

 

 からかうバスの運転手に不貞腐れた美少女は床に届かない足を揺らし、隣の璃々を興味深そうに覗き込む。

 

「眠れなかったの?」

 

「ううん、熟睡。温泉は気持ちよかったし、ご飯は美味しいし、冷房もないのに寝苦しくないし。住みたいくらい」

 

 たった1日なのに、学校の友人たちの顔に靄がかかっていた。

 上辺だけの付き合い。本音など言い合うこともなく、ただのコミュニティの維持だ。

 璃々はスクールカーストでも上位のグループに属する。流行に敏く、金回りも良く、人間関係を円滑に回す為のクッションになる彼女は皆に頼られる。常に笑顔を絶やさず、他人が欲しがっている言葉を探り出し、それでいて矢面に立たない絶妙な位置をキープを保つ。クラスの女子の半分の好きな人はリサーチ済みであり、学年毎の男子の間で誰が人気なのかも把握している。

 別に苦だったわけではない。息苦しさはあってもそれが常だった。だが、何もかもが虚構にしか思えなくなったのは『あの日』以来だ。

 この世は嘘だらけで、どれだけ仮面を剥いでも秘密しかなくて、ようやく見つけた真実は残酷で、無邪気に信じた心は裏切られる。

 

「嘘」

 

 だから、自分も美少女の真っ直ぐな眼に射抜かれるのだ。

 赤が滲んだ黒の瞳は、驚くほどに静寂で、それでいて無機質だった。人間ではなく別の生物……まるで蜘蛛に見つめられているかのようである。

 

「ねぇ、何が恐いの? 何を怖れているの?」

 

 身を乗り出した美少女は嬉々と笑う。まるで璃々の心の傷口に爪を引っ掻けて出血を強いるように、果てしない程に無邪気に、驚く程に無垢に、おぞましい程に残酷に笑みを描いて尋ねる。

 体が強張ったわけではない。脱力したわけでもない。まるで未来が定まっているかのように、美少女の両腕が璃々の首に絡む。吐息が頬にかかる程に彼女の顔が近づき、耳たぶに熱が籠った吐息が触れる。

 

「お姉さんの恐いものはぜーんぶ食べてあげるよ? そしたら、お姉さんは自由になれるんだよね? ずっと、ずっと、ずっと、この村で暮らせるよね?」

 

「そう……なのかな?」

 

「そうだよ。ぼく、お姉さんともっと遊びたい。だって、誰もぼくと遊んでくれないんだ。お兄ちゃんはほとんど家に帰って来ないし、お姉ちゃんは仕事が忙しいし、学校の友達は……みんな……ぼくのこと……」

 

 璃々を解放した美少女は膝を抱える。そこには先程までの宇宙の如く理解しがたい深奥の神秘は失せ、まるで迷子の子猫のような寂しさと切なさしかなかった。

 声をかけるより先にバスが停車する。美少女は席を立ち、一足先に外に出る。後を追った璃々は料金を支払おうとして、だがバスの運転手にやんわりと断られる。

 

「過去は美しく、いつまでも磨いて大事にしたいものですが、時として祈りと呪いの依代になるというもの。ましてや、それが既に夢幻に過ぎないと気づいているならば尚の事」

 

「……は?」

 

「いえいえ、ただのお節介ですよ。神子様に食べてもらっても、お客様の恐怖は消えません。自らを解き放つならば、過去と向き合い、思い出にする事こそが肝要かと」

 

 璃々を気遣う口振りとは対照的に、バスの運転手は堪えきれない様子で嘲笑する。耳まで裂けているのではないかと幻視する程に、嬉々と醜悪なまでに牙を剥いて、これから璃々が果てしなく苦痛と苦悩を味わう事を期待するように嘲う。

 感じの悪い運転手だ。村で初めて出会った不快感を覚える人物であるが故に浮き彫りになる悪意に、璃々は明確な嫌悪を示してバスのステップを踏まずに跳び下りる。

 

「この石階段を上るとね、工房に続いてるんだよ。草部の工房はとっても大きいんだ。車でも行けるけど、こっちの方が近道なんだよ」

 

「へ、へぇ……」

 

 2体の狛犬……だろうか? 稲荷にも見えるが、どちらとも区別がつかない。いっそ沖縄のシーサーではないかとさえも疑えた。璃狛犬モドキに挟まれたのは黒塗りの鳥居であり、潜ればまるで夜の闇のように鬱蒼と茂る木々に囲われた石階段があった。もう何百年も使われているだろう歴史を1歩踏みしめた瞬間に感じ、2歩目でこの世の外に入り込んだような冷たい空気が肺を満たし、3歩目で湿気を重々しく纏う。 

 大人2人が並ぶのが限界の横幅が狭い石階段は、体力に自信がある璃々でも厳しいものがあった。だが、美少女は2段飛ばしどころか3段飛ばしで、まるで舞うように石階段を駆け上がっていく。

 

「ちょっと……待って! これ……急過ぎ……し、死ぬ……!」

 

 だが、足首の痛みが消えていて助かった。昨日に比べれば足の感覚もいくらか戻っており、歩き難さこそあっても階段を踏み外すことはない。璃々は早々に多量の汗を掻くが、対する美少女の額には夏の暑さを示すじわりとした汗の粒が1つ浮いているだけであり、その表情には疲労の欠片もない。

 どう見ても小学生低学年の美少女に対して璃々は中学生だ。筋力も体力も上のはずである。精神面の元気さでは負けるとしても、まるで無尽蔵の体力でも秘めているのではないかと錯覚するほどに美少女は機敏だ。

 石階段も上るばかりではなく、左右に分かれたかと思えば下らされ、また上り、分かれる。振り返れば木々の狭間から無駄に入り組んだ石階段を覗くこともできた。

 どうして一直線に作らなかったのか! 璃々はマラソンの後のように呼吸も荒くなる。

 

「草部の迷い階段って言うんだ。壊れる度に作り直して、繋ぎ合わせて、そうしている内に迷路みたいになっちゃったんだって」

 

「……先人にも計画性なんて無かったんだね」

 

「もしかしたら敢えて元通りに直さなかったのかも。だって、こっちの方が『面白い』もん」

 

 それはキミくらいの子どもの内だけだ、と璃々は呆れる。璃々はもう中学生だ。美少女のように真っ直ぐな好奇心は持ち合わせていない。面白いだけで非効率を受け入れられない。

 その一方で、大人でありたいと望む感情に反するように疼くのは、心の隅で蹲っている幼き日の自分だ。

 石階段の終わりまでどれだけ時間がかかっただろうか。充電したスマートフォンで確認すれば、間もなく正午である。午前9時には旅館を立ち、バスの搭乗時間を考慮すれば、2時間以上も石階段に苦戦していたことになる。

 美少女だけならばスピードから概算になるが、10分とかからなかっただろう。璃々はもう動けないとへたり込めば、山を切り拓いた平地に設けられた広大な施設に魅入られる。

 回る水車と響く金槌の音。研がれる金属の傍らに並ぶのは得体の知れぬ干された植物。時代劇のセットではないかと思う程に木造住宅が並び、いずれにも煙突が設けられ、屈強な男たちが刃物を研ぎ澄ます。

 

「み、神子様。このような場所においでになるとは……! 皆の衆! 神子様が参られたぞ!」

 

「まだ神子じゃないよ」

 

 美少女の姿を目にした老人がそのまま心臓が止まって死んでしまうのではないかと危うくなる程に目を見開いて驚き、山全体に響き渡ってもおかしくない大声を張り上げる。途端に刀工たちは我先にと老人の後ろ並んで跪く。

 

「草部の鍛冶衆、ここに! 神子様、如何なる狩り道具をお望みでしょうか! 何なりとお申し付けください!」

 

「……だから、まだ神子じゃないのに」

 

 頬を膨らませた美少女は璃々の腕に抱きつく。

 

「あのね、お姉さんを案内させたいんだ。良いよね?」

 

「神子様がお望みならば是非もなく! 案内を付けましょう」

 

「要らない。何度も来たことあるもん」

 

 璃々の手を引いて美少女は走る。昨日の登山の筋肉痛が発露しつつあった太腿が悲鳴を上げ、璃々は全力でブレーキをかけようとするが、美少女の力は璃々が全体重をかけてもなお止めることは出来なかった。

 

「この村って猟師で有名なの?」

 

「『血』に連なる男子は等しく狩人なんだよ」

 

「ふ、ふーん」

 

 美少女の顔を見ただけで目が焼かれたように老若男女関係なく平伏す。だが、璃々はその態度が単なる敬意ではなく、むしろ人智を超越した存在への崇拝……畏怖に近しいものに思えて、それが美少女から滲み出る孤独感の原因なのだろうかと自分の手を引く温かな彼女の手を握り返す。

 たったそれだけで自分の気持ちが伝わったように、美少女が嬉しそうに笑う。

 

「工房なんだけど、今では1部を除いてほとんど村の内部では作ってないんだって。技術が進歩したから、たくさんの技術者が必要で、たくさんのお金をかけないといけなくて、だから大きな工場が必要なんだ。でもね、ここでは昔から使ってる狩り道具も今はたくさん作ってるんだよ」

 

「へぇ……」

 

 打ち鳴らされた金槌の音色。研磨された刃。まだ弦が張られていない弓。いずれも生で体験したからこその迫力であり、伝統工芸の域を超えた、時代遅れの嘲笑を覆さんとする現代にも通用する実用性を求める情熱があった。

 美少女が次に案内してくれたのは工房に併設された修練場だった。そこでは男たちが弓道着に身を包み、次々と矢を射ていた。まるでクレー射撃のように続々と射出される、空気抵抗で不規則な軌道を描くように設計された的を、1つとして逃さずに射抜いている。

 その技術も見事であるが、璃々が思わず見とれたのは彼らがいずれも容姿端麗であった点だろう。端正で非の打ち所の無いモデル体型の青年、垂れ目で柔らかな顔立ちの美少年、まるでこれから時代劇の撮影に挑むかのような凛々しいおじ様、老練だからこその色気を醸し出す翁、日本人離れした体格をした筋骨隆々で野性味溢れた美貌の大男。より取り見取りである。

 

「草部は特に射手として秀でた狩人をたくさん輩出してるんだって。草部の狩りは基本的に『潜んで待つ』の狙撃で、紫藤の狩りは『誘い嵌める』の罠を主軸としてるんだよ」

 

「へぇ……よく分からない」

 

「草部の始祖は本家に仕えた刀工が始まり。常に本家と共に数多の狩りに参じ、数多の獲物を討ち取る礎を築いたという自負がある。対して紫藤は同格の分家といえ、明治に起きたばかりの新参で元は商家。職人気質の草部、商魂逞しい紫藤。まさに水と油。狩りの手法を1つでもどちらが上かと競い合っているのさ。本家からすれば『何であれ、狩れればそれで良し』と何に争ってるのか理解もされないが、これも分家の悲しい性ってやつさ」

 

 突如として背後から加わった説明に璃々は振り返り、彼女の心臓は高鳴った。

 年齢は璃々と同年配だろう。他の男たちと同じで弓道着姿をした、色黒の肌の健康的なスポーツマン風の爽やかな少年だった。整った容姿はもちろんだが、年齢に見合わぬ色香は璃々には少々刺激が強かった。

 

「神子様。草部として、神子の大任を承れたこと、心より御祝福を申し上げます」

 

 時代錯誤であるはずなのに、これ以上となく様になった振る舞いで跪いた青年に、美少女は璃々の後ろに隠れる。

 

「まだ神子じゃないもん!」

 

 美少女の態度に苦笑した少年は、何処か寂しそうに呟く。

 

「本当に祭りにも帰って来ないんだな、コウさん」

 

 だが、それも一瞬の事であり、璃々に対して好意的な笑みを浮かべる。

 

「キミは観光客かい? ここは見ての通り危ないから立ち入り禁止なんだけど……」

 

「え!?」

 

「そうだったの?」

 

 美少女は可愛らしく首を傾げながら無知を晒す。あわあわと慌てる璃々に、少年は心配する必要ないと笑んだ。

 

「ウチの村は色々と面倒臭い事が多いけど、客人を歓待するのが習わしだ。このまま帰せば草部の名折れ。よろしければ、自分が草部の自慢の工房をご案内いたしますが?」

 

 芝居がかった動作で腰を折りながら、左手は胸に、右手は羽ばたくように振るいながら腕を伸ばして肩に水平に。だが、それでいて視線だけは決して璃々から外すことがない、独特の礼だった。

 思わず頷きそうになった璃々であるが、途端に腰に衝撃が走る。美少女が勢いよく抱きついたのだ。頬を膨らませる彼女に、色黒の少年は肩を竦める。

 

「神子様の先約とあっては、引き下がるしかないようですね。では、神子様。自分はこれで」

 

「べー! ほら、行こう!」

 

 修練場を急いで去ろうとする美少女に半ば引きずられる璃々は、そのまま工房の各所を案内される。

 鍋で煮詰まった謎の液体の香りに昏倒しかけ、女人禁制だと鍛冶場から何故か璃々だけ怒鳴られて追い出され、神子様と呼び掛けては山のようにお菓子を差し出す人々から荷物持ちのように扱われる。

 

「あま~い♪ お菓子♪ お菓子♪ 真っ赤な♪ 真っ赤な♪ 真っ赤な金平糖♪」

 

 祭りの主役というだけではない。崇拝と畏怖がそのまま行動に現れている。美少女は貰った瓶詰の金平糖を美味しそうに摘まんで身悶えしているが、米袋を背負わされてるのではないかと思う程に渡されたリュックが破裂しそうな程にお菓子を背負った璃々は疲労がピークに達しつつあった。

 

「そんなにお菓子ばっかり食べてると虫歯になるよ?」

 

「ならないよ。なっても大丈夫。お母さん、言ってた。ぼく達の歯は折れても折れてもまた生えてくるんだって」

 

「生えないわよ。あのね、人間の歯は永久歯が抜けたらもう生えてこないの。サメとは違うの」

 

「でも、おじいちゃんは前歯が4回折れたって言ってたけど、綺麗に生え揃ってるよ?」

 

「入れ歯か差し歯ね。間違いない。キミをからかってるだけよ。だから、お菓子は食べすぎちゃ駄目だし、食べたらちゃんと?」

 

「歯を磨く! はーい♪」

 

 可愛い! 近所のこのくらいの年頃といえば、過半数はクソガキみたいなものなのに! まるで多くの人々が求める理想を写し取っているかのように、幼く、純粋で、愛らしい。璃々は貰った赤い金平糖を噛み砕かずに口の中で転がす。

 

『璃々、お誕生日おめでとう』

 

 脳裏で反芻したのは母の祝福だ。

 母は優しく、温かく、父と違って、学校から帰ればいつも家で待ってくれていた。

 嫌いだ。嫌いだ。大嫌いだ。璃々は母を思い出す程に父への憎しみを募らせる。負の連鎖であると分かっていても抜け出せないのは、痒くて痒くて何度も引っ掻いてしまう膿んだ傷口のせいか。

 

「ねぇ、他にはないの? 嫌な気分を忘れられそうな素敵な場所」

 

 工房も観光地としてはさぞかし素晴らしいのだろうが、璃々の感性には合わなかった。だからと言って先日のような仏の墓場には足を踏み入れたくない。この村ならば、きっと俗世の穢れと癒えぬ心の傷を清められるような、人智を超越した場所があるような気がした。

 何故? 璃々はオカルトを全面的に肯定していない。神頼みをすることはあっても神の名を呼ぶことはなく、墓参りをしても心はいつも空っぽだ。

 だが、この村に踏み入ってから一呼吸の度に漠然とした超常の存在を色濃く感じずにはいられない。1秒毎に自分が培っていた常識とはどれ程までに曖昧な知識と認識の上で成り立っていたのかを思い知る。

 美少女は顎に指を当てて空を見上げる。可愛らしく考え込んだ末に、璃々へとうっとりする程に可憐に笑む。

 

「あるよ。深海のように暗く静かで、だけど月明かりだけは届く、霧で満ち満ちた渦の底」

 

 魅入られるとはこの事なのだろう。まるで魂まで底なし沼に沈み込んでいくような錯覚に陥る。璃々はどれ程に神秘に溢れた場所なのだろうかと想像し、だが自分の人の世の垢で汚れて、穢れた思考では至れないのだと早々に悟る。

 

「お姉さんを連れて行ってあげてもいいよ。でもね、掟があって、狩人以外は入っちゃいけない森にあるんだ。おばあちゃんなら掟を破らないで済む方法を知ってるかもしれない」

 

 昨日の老婆を思い出す。今にも死に伏してしまいそうであり、また素朴な見た目をしていた、悪く言えば美少女の祖母と呼ぶには些か信じ難い人物だった。オーラとも呼ぶべきものが感じられなかったのだ。

 だが、人は見かけによらないのだろう。美少女に手を引かれ、心を惹かれ、魂を魅かれ、工房を後にする。

 

「おばあちゃんの草団子はとっても美味しいんだよ! お姉さんにもご馳走してあげる!」

 

「え? まだ甘いの欲しいの?」

 

「……食べたくないの?」

 

 思わず口走ってしまった璃々に、美少女は悲しそうに眉を曲げ、璃々はそんなわけないと首を横に振る。

 石灯篭は鬱蒼とした湿地の如き森の中で目印となり、昼間であるはずなのに夜の如く陰り、だが清涼のせせらぎが合図となって肌を舐める湿気は和らぐ。

 まるで世界が切り替わったように竹林が璃々たちを覆う。石灯篭だけは変わることなく、だが太陽の光が確かに届き、鮮やかな緑の風景の中で白の砂利で舗装された道を示す。

 

「神子様、ようこそ草部の庵に」

 

 そして、歓待するように現れたのはこれまた見目麗しい娘だった。年頃は璃々より若干の年上だろう。艶やかな長い黒髪を雄々しく束ね、黒の道着を纏っていた。腰には帯刀しており、その姿はまるで侍の如く、凛とした佇まいに相応しかった。

 何よりも魅入られるのは赤が滲んだ黒の瞳である。美少女に比べれば赤の色味が乏しいが、それでもやはり魂を絡め取るような不可思議な色合いは見つめ続ければ金縛りにかかってしまいそうだった。

 

「どうしてここにいるの?」

 

「愚弟から神子様の来訪をお伺いし、ならば草団子を求めて庵に参られるかと思いまして」

 

 兄……先程の色黒の少年の事だろうか。言われてみれば確かに、彼女もまた血の繋がった姉弟であることを示すように色黒であった。

 跪く色黒の娘に美少女は頬を膨らませて不満を露わにする。だが、そんな態度も慣れているとばかりに苦笑で応じた彼女は立ち上がる。その姿も板についており、男装をすれば並の男では及ばぬ程に女心を奪い取り、女子の輪に入れば性別無用で王子様扱いされるビジョンが容易に想像できた璃々は思わず頬をほんのり赤く染める。

 

「君の事も聞いている。旅人を歓待するのは習わしだ。丁重に扱わせてもらう。ましてや、神子様が懐かれたとあっては無下にできない。煩わしいかもしれないが、私に案内を任せていただきたい」

 

 璃々の手を取り、優雅と気品に満ちた態度で色黒の娘は微笑む。それだけで璃々は恋心を抱いていたはずの先輩の顔も思い出せなくなる程に想いが上書きされる。

 性別などどうでもいい。彼女に心も体も愛してもらいたい。そんな熱情から正気を取り戻させたのは、狂気の域にも達する程の美貌を持つ美少女が腰に抱きついたからだ。

 

「むぅうううう!」

 

「これはこれは……困りました。神子様に臍を曲げられては堪りません。ですが、私は女狩人。狩人たる者、礼節を弁えるべし。客人の乙女には相応の振る舞いを為さねばなりません。どうかご容赦を」

 

「だけど……!」

 

「おや、神子様ともあろう者が狩人の心得を蔑ろにされるのですか?」

 

「まだ神子じゃないもん!」

 

「なるほど、確かに。ですが、申した通りに私も狩人なのです。それとも、神子様は狩人としての在り方を……私を否定なさると? ああ、私は女狩人。認められてこそいますが、それでもやはり異端。神子様に……いいえ、本家の当主筋に否定されたとあれば、狩人と名乗ることは許されないでしょう。分かりました。これより大旦那様に狩人としての席を返上する旨を――」

 

「だ、駄目! ごめんなさい! いいよ! 案内して、いいよ!」

 

 色黒の娘の袴にしがみつき、美少女は必死になって認可する。その肩を優しく抱いて撫でた色黒の娘は璃々へとお茶目にたっぷりウインクした。まるで『ね? チョロいでしょ?』と告げているようであり、あっさりと手玉に取られた美少女の未来が不安になった。三流の詐欺師でもあっさり騙せそうであり、良からぬ悪意に溢れた都会に放り出せば、1日と待たずして食い物にされてしまいそうだと心配になるほどである。

 色黒の娘は草部銀羅と名乗った。厳つい名だろうと笑っていたが、彼女には雄々しい名こそ似つかわしいとむしろ魅力をより引き上げているようにしか思えなかった。

 

「あ、鈴の音」

 

 いつまでも聞いていたくなるような、煩悩を洗い流すような清らかな鈴の音に璃々は思わず立ち止まる。

 

「獣除けの鈴だよ。庵は草部にとって自らの心と向き合い、己の血を御する意味と意義を再確認する場所。獣を寄せ付けては意味がない。とはいえ……」

 

 銀羅は何かを見出したように、恐ろしく無機質な……まるで蜘蛛のような眼で昼の明るい竹林を睨む。

 

「『ニオイ』も隠し切れぬ紫藤の駄犬共め。相変わらず策謀にばかりに熱心か。それにこれは……」

 

 銀羅は思案するように顎を撫で、やがて納得したように璃々へと視線を移す。

 

「もしや君の連れか?」

 

「え?」

 

「……ああ、なるほど。神子様が懐くのは『そういう事』か」

 

 納得したらしい銀羅は右へ左へと曲がりくねる白の砂利道を進む。1本道であるはずなのに、工房に辿り着くまでの先人たちが作った迷路よりも遥かに目的地に辿り着けない、遠大な迷宮に入り込んだような不安が璃々に付き纏う。自分だけだったならば、進めども到達はなく、退き返しても帰れぬだろうという諦観にも似た直感があった。

 到着したのは水車が傍らで回る質素な庵だ。よく手入れされており、今も頻繁に用いられているのは明らかである。

 

「おばあちゃーん!」

 

 美少女は走って庵の中に入る。その様に、何故か暗い影を落とした顔で銀羅は嘆息し、庵に入ることなく壁にもたれかかった。

 

「祖母……か」

 

「入らないんですか?」

 

「ああ。まだ目を潰されたくないからな」

 

 そんなに恐ろしい人物だっただろうか? 穏和な老婆を思い出し、だが外面からは内面までは分からないものだと璃々は美少女の後を追って庵に踏み入る。

 待っていたのは着物姿の気品のある老婆だった。まるでこれから茶道の教室でも開くのではないかと自然と璃々の背筋が伸びてしまう程である。すっかり色が抜けて、白に近しい灰色の髪を上品に束ねて肩から流しており、美少女や銀羅と同じく赤が滲んだ黒の瞳をしていた。だが、年齢のせいか、腰だけはすっかり曲がってしまっていた。

 昨日の老婆とは違う。戸惑った璃々であるが、すぐに当たり前だと納得する。父方と母方、祖母は2人いるのが必定である。

 璃々は祖母に長らく会っていない。父方の祖母は他界しており、母方の祖母とは事実上の絶縁状態にあるからだ。

 自分に抱きつく美少女に、老婆は銀羅が恐れる理由がまるで想像できない程に穏和な笑みで応じる。

 

「おやおや、昨日の今日で、そんなに会いたかったのかい?」

 

「うん! おばあちゃんに聞きたいことがあったんだ! ねぇ、お姉さんを『森』に連れて行きたいんだ。どうやったら掟を破らないで済むの?」

 

 老婆は璃々を一瞥し、にっこりと笑うと手招きする。

 敷かれた座布団に美少女と並んで座るが、正座になれていない璃々は早々に足の痺れを覚える。

 焼き物の皿に盛られた草団子を差し出した老婆は煎茶を入れる。砂糖を使っていない、餡子のほんのりとした甘みと風味豊かな生地は正しく絶品であり、美少女が求めるのも頷ける味わい深さは、憶えもない懐かしさを璃々の胸に吹き込んでくる。

 

「掟とは、掟を守る者を護るもの。呪であるからこその祝。ならばこそ、掟の全てを背負う狩り長か、掟を超越をした存在……神子の許しがあるならば、客人はソトイミになることなく森に踏み入れる事ができる」

 

「つまり、ぼくが神子になった後なら入っていいって言えば入れるの?」

 

「そうですよ。ですが、先にも申した通り、掟を守る者を護る為に掟はある。忘れてはなりません。どうして掟は定められたのかを」

 

 諭すように老婆は告げると静かに茶を啜る。璃々も釣られて口にすれば、夏に合わない熱さに舌が火傷しそうだった。だが、一口飲めば爽やか味わいが喉を駆け抜け、夏の空気も茶の熱さも気にならなくなる。

 ミントとも違う。中毒性こそないが、何杯でも飲める。璃々が催促を口にするまでもなく、老婆は空の湯飲みに新しく注ぐ。

 

「ごめんね。まだ神子じゃないから、お姉さんを連れて行けない」

 

「……そっか。残念だなぁ」

 

 草団子を食んでは茶を飲む。それを3度繰り返した璃々はぼんやりとした頭の中に生まれた欲求をゆっくりと言葉に変えていく。

 

 

 

「だったら、祭りまで、村に残ろうかなぁ……」

 

 

 

 帰りたくない。ずっとここにいたい。璃々の内側では既に都会も、学校の友人も、父を含めた何もかもが煩わしくなっていた。

 全てを捨てて、ここでやり直したい。いいや、彼女の傍にいたい。美少女は璃々の心に穿たれた空洞を埋めてくれることはなくとも温かく包み込んでくれる。無邪気に、無垢に、裏表もなく純粋に愛してくれる。それが僅かな時間でも十二分に分かった。分かってしまった。

 

「本当!? 本当に残るの!?」

 

「残りたいなぁ。住んでもいいかも」

 

「住もうよ! そしたら、ぼくが帰る度にお姉さんと会えるよ! それに、ぼくが村で暮らすようになれば、ずっと、ずっと、ずぅうううっと一緒にいられるね!」

 

「へぇ、キミも村で暮らしたいんだ。やっぱり外は煩わしい?」

 

「分からない。でもね、村はとても静かだから好き。春には花と踊り、夏には水と遊び、秋には風と奏で、冬には雪と歌う。それでいいよ。微睡みにも似た時間の中で生きて死ぬ。ただ命の理の中で……」

 

 幼さが強調された今までの振る舞いとは隔絶した、だが表裏などない同一であると疑いも違和感もなく受け入れられる達観した眼差しと微笑。だからこそ、美少女の切なさと儚さが璃々の胸を締め付けた。

 

「そうだ。琴を弾いてあげる。お母さんに教えてもらってるんだ」

 

「じゃあ準備しましょうね」

 

 老婆は美少女の要望に応えて琴を運び入れる。使い古されているが、市場に出れば途方もない額が付くだろうと素人の璃々にも見当がついた。

 だが、美少女が弾く光景と奏でられた音色の前では山積みの金塊さえも屑石同然だった。これこそが地上で数多の英傑が追い求めた至宝であり、天上より零れ落ちた至福であった。

 瞼を閉じる。鳴り響く鈴の音色さえも遠ざける演奏は如何なる楽曲か。いや、これは純然たる賛美だ。夏の日差しを、風を、水を、虫を、木々を……世界を満たす命を賛美して愛でる音色だ。だからこそ、奏でられた音色に名を与えるのは余りにも無粋である。

 癒されるのとも違う。淡々と、漠然と、無慮にゆっくりと時間が経つのを味わう。璃々は無言こそ最大の感謝であるとして瞼が生んだ闇の中で佇む。

 

「もう日が暮れたね」

 

 琴の音色が途切れ、傍らに寄って来た美少女が璃々の肩にもたれかかり、眠たげな眼で見上げていた。年頃にも至っていない幼き姿でありながら、この世の男を等しく篭絡させて欲情させる禁忌を帯びた魅惑の瞳であった。そして、あらゆる女の内なる母性を掻き毟る無防備な吐息に、璃々は頷く。

 

「そうだね。もうすぐ夜かぁ」

 

 ああ、この子の母になってあげたい。璃々はそう願った直後に、彼女の意識を揺さぶる甲高い鉄の音が響く。

 何事かと庵の外に出れば、銀羅が笑みで彼女を迎え、手を掴んで外に引っ張り出す。

 

「日が落ちた。夜は獣の時間だ。君を宿に帰す」

 

「嫌。私はここに残る。夜は危険なんでしょ? だったら、ここで泊まればいいじゃない」

 

 夢見心地だった璃々は嫌悪にも似た感情と共に否定を口にする。宿に戻れば父と顔を合わさねばならない。それは苦痛でしかないと心の内で叫ぶ。

 

「私は狩人だ。私と一緒ならば夜だろうと森を抜けて山を下り、宿まで送ることもできる。『ここは危険』だ。さぁ、帰ろう」

 

「……行っちゃうの?」

 

 追いかけてきた美少女が目を擦りながら問う。璃々は自分の手を掴む銀羅を振りほどこうとして、だが微動もしない彼女の筋力に驚く。

 

「ごめんね。また明日……明日も一緒に遊ぼう?」

 

「うん。分かった」

 

「神子様、後で小間使いを……いいえ、草部の白依を寄越します。どうか、それまではお寛ぎを。では……」

 

 庵の戸を閉めた銀羅は行燈に火を点ける。今時に行燈などと驚くべき場面であるはずなのに、璃々は何の違和感もなく受け入れていた。それこそが異物となって、庵から離れる程に璃々は薄ら寒さを覚える。

 銀羅にしてもそうだ。腰に帯刀? あり得ない。おかしい。危険人物だと標本しているようなものだ。美少女と物理的に距離を取っていく程に、夢から覚めていくように、璃々が今日までに蓄積した『常識』が機能していく。

 

「そうだ。それでいい。その感覚を決して忘れるな。今の君は神子様に魅入られている。現の縁を手放さず、己を見失わない楔を抱き、夢との境界線を意識するんだ」

 

 璃々の反応を喜ばしそうに銀羅は笑む。竹林を越え、湿地の如き鬱蒼とした森に入り込めば、昼間でも陰る森は正しく闇に満ち、だが火が点された石灯篭はぼんやりと歩むべき道を照らす。

 

「効果覿面だったろう? 草部の鍔打ちだ。刀を収める時に鍔で鉄の音を大きく響かせる仕掛けになっていてね。鉄は『人』の象徴だ。故に鉄の音色は人と獣の線引きを為す。曖昧になった現と夢に境界線を引く。魅入られた者を呼び戻す。とはいえ、私はまだまだ未熟。お爺様には遠く及ばない。君に通じて良かった」

 

 行燈の火は闇を照らしているはずなのに、まるで周囲の闇が火の光を喰らい潰しているような錯覚に陥る。璃々は恐怖心のままに銀羅の腕に抱きつく。

 

「私……その……何で……?」

 

「言っただろう? 君は神子様に魅入られた」

 

「魅入られ……た? 私が?」

 

 確かにこれ以上となく美しく、可愛く、また純粋無垢で、あらゆる穢れを知らぬかのような幼き眼差しには否応なく惹き込まれた。この世の全てを放り出したくなる程に。それは正しく魅入られたと呼ぶに相応しい。

 

「人の心は脆くて傷つきやすい。僅かな傷でも放置すれば膿み、腐り、傷口を醜く広げ、やがて大きな穴を穿つ。己だけでは治癒しきれぬ程の心の傷は浮世の穢れを引き寄せ、心の芯まで錆びらせ、やがて魂さえも蝕む」

 

 闇の中で何かが蠢いているような気がした。涎が滴らせながら嘲う饗宴の歌が聞こえた気がした。夏とは思えぬ寒気が背筋を通り、脊椎に染み込み、脳髄を溶かすかのように思考を放棄させようとする。

 響くのは鉄の音色。銀羅が鞘より僅かに抜いた刀身を再び鞘に収めれば、まるで凪の水面に生じた波紋の如く、文字通りに悪寒を打ち払う。

 

「故に魅入られる。神子様は凍えるような暗闇の中で見出した焔火のようなものだ。闇を彷徨う者は魅かれずにはいられず、そこに『何か』を見出す。ある者は救いを。ある者は滅びを。ある者は慈しみを。ある者は恐れを。まるで水鏡のように映し込む。それが神子様だ」

 

 間もなく森を抜ける。石灯篭はぼんやりと光り、夜の闇を啜った森の標となる。

 

「だが、水鏡には触れてはならない。望んだ姿を映し込むとしても、触れれば崩れて真実を知ることになる。ましてや、触れたのが清水ではなく、骨すらも焼き尽くす業火であるならば……」

 

 再び鉄の音が響く。ようやく森を抜け、民家の明かりが目に入って呼吸が楽になる。だが、璃々が暮らす都会に比べれば余りにも光が乏しく、また空を暗雲が覆っているともなれば、月光も星明かりもなく、闇ばかりが海の如く天上を満たす。

 行燈の明かりが心なしか強くなった気がした。山から下りたお陰なのだろうかと璃々は安堵すれば足が震える。銀羅の腕に抱きついていなければ、惨めに尻まで地に押し付けて動けなくなっていただろう。

 

「だが、古来より火は浄化の象徴。魅入られたからこそ、君の心の傷は神子様によって清められた。心の傷口がどれだけ深く大きくとも、苦痛を受け入れる覚悟があるならば、縫い合わせることはできる。人の心は脆く傷つきやすいが、同じくらいに治癒する可能性を秘めている。癒えさえすれば、傷痕の分だけ君は『強さ』を得られる」

 

 ここから宿まで徒歩では些か遠い。だが、車を捕まえて銀羅から離れる方が疲労よりもずっとずっと恐ろしい。彼女もそれを承知してか、璃々の肩を優しく撫でて付き添う。

 

「ましてや、君はまだ若い。老人の石の如く強張った心ではない。柔軟に物事を見据えることができる。君がすべきことは変わらない『事実』から受け入れるべき『真実』を選ぶことだよ。神子様もきっとその方がお喜びになられるはずだ」

 

 銀羅は決して美少女を悪く言うつもりは無いと告げるように、むしろ崇拝と畏怖、そして親愛の情を込めて璃々に伝える。

 

「神子様はまだ何も知らない。願われるのは微睡みのみだからこそ、皆は口を噤み、秘密で満たす。それが幸か不幸かは分からない。だが、因果からは逃れられないものだな。神子様は君に安らぎを与え、傷を清めた。あの御方は誰が定めるまでもなく神子なのだな」

 

 それは嬉しさよりも寂しさが色濃い微笑みだった。璃々は無言で銀羅の腕に体を強く押し付けた。自分の恐怖を和らげる為に。そして、自分の熱が彼女の抱える何かを癒す助けになればと信じて。

 軋む。心が揺れ動く。記憶が這い出て苛める。

 母はいつも笑顔を絶やさなかった。璃々をいつも優しい声で学校に送り出してくれた。

 父は笑わない人だった。いつも言葉足らずで、気配りが届ききらず、毎度のように何かが欠けていた。

 理想的な家族など嘘だ。それが『事実』なのだ。璃々は行燈の光に導かれるように、記憶の扉を開けていく。

 家に充満したラベンダーの香り。迎える母の優しく穏やかで充実に満ちた声音。

 父の汗臭く埃っぽさすらも感じるニオイ。まるで錆びた歯車を強引に動かし続けているような軋んだ声音。

 梅雨の帰り道。水溜まりを踏みつけて、玄関を潜れば、待っていたのは赤い花。

 あの赤い花を見た時から、璃々は父を侮蔑し、憤怒し、憎悪しているのだ。何もかもが嘘だったのだから。

 

「君の連れはしつこいな」

 

 と、銀羅の足が止まる。歩みが滞れば記憶に沈み込んでいた意識も引き戻される。

 酷く鬱陶しそうに銀羅は何もない背後の闇を睨みつけている。

 これまでよりも一際強く響く鉄の音色。璃々には見えぬ闇に唾棄するように、銀羅は3度繰り返して鳴り響かせる。

 

「死者は祈ることも呪うこともない。だが、生者の祈りと呪いは浮世に漂い、寄る辺を求め、積もり先を欲する。それが怨嗟ならば尚の事」

 

 哀れみはなく、あるのは侮蔑のみ。銀羅の一切の感情が籠もらぬ声の度に、行燈の光が妖しく揺らめく。

 

「神子様を求めているのだろう。だからこそ、君の傷口が清められて癒えることを良しとはしない。因果なものだな」

 

 そうして宿に到着すれば、玄関で待っていた父が飛び出してくる。

 ただいま、などと言うつもりは無い。璃々は顔を背けて無言で応じれば、さすがの父も歯を剥き出しにして右手を大きく振り上げる。

 だが、頬を叩かれることはなかった。璃々に飛んだ平手打ちを銀羅が片手で易々と止めたからだ。

 

「璃々さんの御父上とお見受けしました。ご心労もお怒りも理解しますが、どうか私に免じてご容赦を」

 

「私の家族だ。私の……娘だ! 口を挟まないでくれ!」

 

 体格に優れた父でも掴まれた手首を振りほどけないのは銀羅の筋力は常軌を逸していた。だが、銀羅は何もおかしい事ではないと言わんばかりに無表情で、だが無感情ではない眼差しで父を射抜く。

 

「家族であるからこそ、今ここで示すべきは『力』で虚飾されていない真実なのではありませんか? ましてや、人であるならば爪牙ではなく言葉で交わせる想いもあるはず」

 

 倍ほどの年齢は離れているだろう銀羅に諭され、父は深呼吸を挟んで腕を下ろす。感情で猛っていた眼は静かになる。

 

「璃々……心配したんだぞ」

 

「……ふーん」

 

 心配? この男が? ああ、なんとくだらない。見せかけだけの欺瞞だ。世間体を気にした虚言だ。璃々は目も合わせたくないと顔を俯ける。

 いいや、違う。これは何だ? 璃々は胸に痛みを覚える。この感情に名前を与えたくない。璃々は抗うように唇を噛む。

 

「ここは紫藤の宿。草部の私が長居をすれば厄介事が増える。これにて退散しよう」

 

「今日はありがとうございました」

 

「なに、神子様が気に入られた客人だ。歓待するのは当然の事。ああ、そうだ。これも何かの縁。君にこれを渡しておこう」

 

 銀羅が懐から取り出したのは赤い緒に結ばれた鈴だった。受け取った璃々は揺すってみるが、何の音も鳴らなかった。

 

「草部の音無しの鈴だ。夢と現の境目が分からなくなった時、鳴らしてみるといい。鳴らなければ現。鳴れば夢。悪夢に呑まれる前ならば、境界線が曖昧になっているとしても、現の縁を楔にして己を定め、こちら側に戻って来れる助けとなるだろう」

 

 別れに銀羅は惚れ惚れする程に優雅に礼を取る。だが、腰と頭は下げても眼差しだけは璃々たちを射抜き続けていた。

 温泉で汗を流し、並ぶご馳走は空腹を癒す。その間、父は何も語らなかった。だが、その目には確かな罪悪感があった。ひと時の感情に任せ、璃々を殴りつけようとしたことを恥じているのだろう。

 

「……あのさ」

 

 璃々は自分に驚く。彼女の口は父と言葉を交わすことを望んでいる。面を上げて次なる言葉を心待ちにするような期待の表情の父に、璃々は湧き出す憤怒のままに喉まで出かかった言葉を噛み潰す。

 素晴らしい美食も囲う相手次第で無味にも等しくなる。璃々は食後の散歩に出かける。

 昨日、眼鏡の男と出会った白蛇の皮を改めて拝見する。話半分で聞いていたが、今の璃々にはこの蛇の皮が本物の神の遺物に思えてならなかった。

 この感覚は果たして『日常』に戻れば薄れるものなのだろうか? 璃々はいつの間にか村を出ることを必然としている自分に気づく。美少女の傍にいた時はあれ程に朧がかかっていた友人たちの顔を思い出すことができる。

 璃々は手放す気にならなかった鳴らない鈴を揺する。そうだ。何も鳴るはずがないのだ。当然の結果に璃々は安心感を募らせる。

 

「ふぅ、サッパリした」

 

 と、そこに現れたのは同じ宿に泊まっている、初日に出会った太った女だった。璃々の記憶が正しければ夫婦で村を訪れ、仲良く2人で宿泊していたはずである。

 風呂上がりなのだろう。上機嫌の女は璃々と視線が合うと笑いかける。

 

「こんばんは」

 

「ええ、こんばんは。この村は最高ね。ご飯も美味しくて、温泉も気持ちいい。まさに楽園よ」

 

「そうですね。でも、楽園だからこそ帰るべき場所には帰らないと……」

 

「そうね。私もやっと区切りがついたわ。こんな村があるなんて知りもしなかった。この世はまだまだ理解できない不思議に満ちているのね」

 

 璃々と同じく白蛇の皮を見つめた女は胸中で何を思っているのか定かではない。だが、その声には確かな寂しさが滲んでいたのは間違いなかった。

 

「貴方は確か……お父さんと一緒だったかしら? お母さんは?」

 

「母は亡くなりました」

 

「……ごめんなさいね」

 

「いいえ」

 

 上っ面だけの同情には慣れている。璃々は機械的に受け答えをするだけだ。世間話を適当にこなせば円滑に物事は進む。

 

「私も夫を3年前に癌で亡くしてね。末期になるまで気づいてもあげられなかった。痩せ細って……あんな……あんな……!」

 

 思い出して涙が出たのだろう。だが、悲観する様子もなく、むしろ強い眼で自らの涙を拭った女は璃々を励ますように頷く。

 

「お母さんを亡くしたのはつらい事かもしれないけど、きっと思い出にできるわ」

 

「…………」

 

「あら? どうかしたの?」

 

 璃々が凝視したからだろう。女は狼狽えた様子だったが、驚きで硬直したのは璃々の方だった。

 

「旦那さん……亡くなっていたんですか? じゃあ、一緒にいたの……は?」

 

「一緒に? 私は『1人』でここに来たのだけど……」

 

 あり得ない。璃々は目撃している。定食屋で彼女が痩せ細った夫と食事を取っていたのだ。

 

「ああ、もしかして『見えた』の? やっぱりそうなのね! この村に来て正解だったわ! 友人に紹介で半信半疑だったけど、本当に実在するのねぇ。自然の空気と温泉のお陰かと思ったけど、この心身共に清められた感覚……やっと思い出にできたのは間違いなかったのね」

 

 勝手に納得して去っていく女の後ろ姿をぼんやりと見つめ、璃々は心を落ち着かせるように鳴らない鈴を揺すり続ける。

 

 鳴らない。

 

 鳴らない。

 

 鳴らない。

 

 鳴るはずがないのだ。

 

 璃々は駆け足で部屋に戻る。父の姿はなく、明かりをつけたまま彼女は布団に潜り込む。

 眠ればいい。夢など見たくない。暗闇の中で溶けて朝を迎えたい。璃々はその一心で瞼を閉じる。

 

 

 

 

 願いが通じたのか、璃々は夢を見なかった。だが、代償のように、あるいは昨夜の天候からして予想通りに、空は灰色に染まった雨天だった。

 

「頼む。今日はお父さんに付き合ってくれ」

 

「嫌。約束があるの」

 

「お願いだ。そんなに時間はかからない……はずだから」

 

 朝食の席にて、親としての威厳など皆無に土下座にも等しく頭を下げられる。

 璃々は美少女と遊ぶ約束をしている。もしかしたら、また旅館まで迎えにくるかもしれない。だが、雨は激しくなる一方であり、これではとてもではないが、山に入ることは出来ないだろう。村の見どころは山だけではないだろうが、この天気では美少女が旅館まで足を運ぶことはないかもしれなかった。

 

「……少しだけなら」

 

 美少女は神子として信奉されている。旅館の従業員にお願いすれば、仮に来たとしても璃々に用事が出来た旨を、言葉を選んで傷つけることなく伝えてくれるだろう。璃々はそう信じて父に了承を伝える。

 いや、これは言い訳だ。璃々は父に憎悪と憤怒以外の……憐憫にも似た感情を確かに抱いてしまっていた。気づきはそのまま濁流となって意識に流れ込む。

 不変の事実と選択すべき真実。銀羅の言葉が蘇る。璃々は父が用意してくれた服に着替える。まるで一切の穢れを祓ったかのような純白のワンピースだった。他にもお嬢様が身に着けるような白い帽子と靴もセットである。何もかもが純白で纏められていて、これから神事にでも参加するような気持ちが璃々を包む。唯一の例外として、持ち込んでいた赤いポシェットだけが白に映える。

 ポシェットにはスマートフォンや財布といった貴重品を入れ、最後に銀羅からもらった鳴らない鈴を括りつける。お守りのように、鳴らないことに安心感を抱かせる。

 

「さぁ、行こう」

 

 父が傘を差して璃々は入り込む。旅館の出入口には黒塗りの自動車が待機していた。車種は不明であるが、大型であり、何処となく霊柩車をイメージさせる。

 ドアが開けられれば、対面できるように席が設けられており、璃々と父は並んで腰かけた。先客がいたからだ。

 年齢は40歳から50歳の間だろう。表情には睡眠不足を代表とした疲労が滲んでいて、顔立ちは整っている部類である。若干のくたびれが目立つ白衣を纏っており、濃く纏うのは病院で否応なく鼻を擽る消毒液のニオイだった。

 医者なのだろうか。困惑する璃々を尻目に、父は出発した車内で男に深々と頭を下げる。

 

「この度はなんとお礼を言ったらいいか……」

 

「気にしないでくれ。私とキミは先輩後輩……いいや、それ以前に友人だろう? それにまだ成功したわけじゃない。急がねばならなかったとはいえ、時期が悪い。祭りを前にして、『あの子』が予定よりも早く戻ってきてしまった。先の『落とし』はつつがなく終えたが、今回はどうなる事か。どうやら『あの子』と出会ったせいで、かなり厄介な事になってしまっているみたいなんだ」

 

「何とかならないか!?」

 

「全力は尽くす。それ以上は何も――」

 

「ねぇ、何の話をしてるのよ!?」

 

 璃々を置き去りにして、明らかに璃々に関する重大な何かを語り合っている父と男に、彼女は噛み付く勢いで割り込む。

 

「……済まない。私はキミのお父さんの古い友人だ。ビジネスでも贔屓にさせてもらっていてね。色々と世話になっているんだ」

 

「答えてください……答えてよ! 私が何なの!?」

 

 璃々の剣幕に対して男は冷静そのものであり、対照的に父は暗く俯く。そして、沈黙ばかりが車内を占める。

 逃げ出したい。だが、走り続ける自動車から逃げ出す術はない。璃々は奥歯を噛む。

 

「この村に来てからおかしな事ばかり! 気が狂いそう! もういい加減にしてよ……! 私が……私が何をしたっていうのよ……!?」

 

「……キミは何もしていない。キミは何も悪くないんだ。だから落ち着いてくれ」

 

 落ち着けるものか。窓は黒く塗り潰され、外の風景を望むこともできない。璃々は嵐に襲われた海のように荒れ狂った感情の捌け口を求める。

 右へ、左へ、上へ、下へ。自動車は何処に向かっているのか。運転席との間にも仕切られた壁があるせいで目的地の予想もできない。

 どれだけの時間が経っただろうか。時間感覚も曖昧になる重苦しい沈黙の末にようやく停車する。

 まだ雨は止んでおらず、ドアを開けた先には黒いスーツを着た男が待っていた。まるで喪服のようであり、黒い傘も相まって、まるで現代の死神のようだった。そう思わせるのは、この村の特有のような美しい顔立ちのせいなのかもしれないと璃々は車から降りる。

 璃々をまず迎えたのは鳥居だった。いや、本当に鳥居なのだろうか? 造形は同一に思えて何かが違うと感じるのは細部に変化があるからなのだろう。朱塗りであり、幾重にも連なる鳥居の道は茂る森を切り拓くようであり、だが怪物の大口にも思えた。

 

「璃々様。どうか私から離れぬように。決して道から外れてはなりません。何が見えても口を利いてはなりません」

 

 男は厳しくも優しくもない声で璃々に忠告すると傍らに立って進む。背丈も足の長さも違うというのに、璃々の歩幅に完璧に合わせており、傘は璃々に一切の雨粒を届かせない。完璧な配慮の賜物だった。振り返れば、同様に父と男もまたそれぞれ1人ずつの黒スーツと横並びで等間隔を開けて鳥居の道を歩み始めていた。

 蛇行する鳥居の道の合間には無数の石像があった。お稲荷様かと思いもした造形であったが、鳥居と同じくやはり何かが違う。単純に『獣』と呼ぶことこそが最も相応しかった。

 雨音に混ざるのは蛙の合唱。雨にも負けない蝉の演奏。そして……足音。

 これは何の足音だろうか? 璃々は忙しなく視線を動かす。こんな足音は聞いたことがない。だが、不思議と1つのイメージが思い浮かぶ。

 

 

 カサカサ、と。

 

 

 カサカサ、と。

 

 

 カサカサ、と。

 

 

 地を這い、巣を作り、獲物を待ち構える蜘蛛の足音だ。まるで脳髄を蹂躙するかのような、魂まで貪り喰らうような蜘蛛が大群で押し寄せているかのような足音なのだ。璃々は歩みを止めそうになるが、今ここで立ち止まれば進むことも戻ることも出来なくなる気がした。

 鈴は鳴らない。まだ鳴っていない。だが、それは雨音と蜘蛛の足音で聞こえなくなっているだけではないのではないか? 璃々の不安を察したように、黒スーツの男は寄り添って微笑みかける。

 鳥居の道の先に終わりがやってくる。止まぬ雨の下、璃々が目にしたのは神社とも寺とも教会とも呼べる、あるいは呼べぬ建造物だった。あらゆる時代、あらゆる宗教、あらゆる霊的概念を詰め込んだかのような奇怪の権化である。

 雨でも消えない燃え盛る炎は篝火。重油のような松脂を焼き焦がして火の粉を舞わす。木造の両開きの戸へと続く石畳みを囲うのは2人の美女。いずれも巫女にも似た装束でありながら何かが違う。漆塗りの下駄も、黒い袴も、まるで血管を思わす赤の文様が描かれた上衣も半透明に顔を覆い隠す頭から被った白のベールも、何もかも和の神秘を基調としながらも多くの宗教的なシンボルが隠されていた。

 美女たちの瞳はこの村で何度となく出会った赤が滲んだ黒の色合い。彼女たちが等しく血縁者であり、また璃々はこれまでこの瞳を持つ者は女性しかいなかったことに気づく。彼女達と類似した特徴……端正な顔立ちや独特の雰囲気を持った男たちの瞳はいずれも黒真珠のようだった。

 

「沢渡璃々様、お待ちしておりました」

 

「どうぞこちらに」

 

 美女たちに招かれ、璃々は何と呼ぶのが相応しいのかも分からない建物に踏み入る。綺麗に掃除は行き届いているが、何故か蜘蛛の巣だけは放置されており、それが不気味さを醸し出していた。

 

「へぇ、あなたが先生のお友達の……」

 

 と、不意に背後から声がかかって振り返る。そこには真っ赤な傘を差した少女が立っていた。傘で顔こそ隠しているが、璃々よりも少し年下であろうに、大人を上回る色気を感じずにはいられない。それも表情ではなく、単なる立ち姿だけで蠱惑を振りまいているのは、もはや暴力にも等しい誘惑だった。

 

「どうして、ここにいるんだい!?」

 

 意外なことに声を跳ね上げたのは医者の男だった。詰め寄りこそしなかったが、若干の非難にも似た声に、少女は嬉々と笑う。

 

「クヒヒヒ。お母さんから聞いたの。先生のお友達の娘さんが『落とし』にやってくるって。それに錫彦からも教えてもらったよ。かーくんが気に入ったんだって? あーあ、可哀想に。かーくん、かーくん、私のかーくん。かーくんが気に入ったなら、その子はもう『終わり』。きっと囚われる」

 

「それは違う。彼女はあの子と出会ったからこそ清められ、未来を歩む権利が与えられたと私は信じているよ」

 

「そっかぁ。先生には『聞こえない』のかぁ。貴女はどう? 聞こえているんじゃない? カサカサ、と。カサカサ、と。カサカサ、と蜘蛛の足音が……」

 

「それ以上はお母さんに言いつけるよ」

 

 少女はくるくる回していた傘を止める。だが、それは脅しが通じたからではなく、伝えるべきことを伝えたからなのだろう。顔を見せることなく少女は軽やかに跳んで後退る。不思議なことに、まるで舞い落ちた木の葉のように、水溜まりは弾けることなく、美しい波紋を刻んだ。

 

「ねぇ、鈴の音は聞こえる? まだ聞こえない? そう、良かったね。このまま聞こえなかったらいいのにね! でも無理。貴女はもう魅入られた。かーくんが微睡む間の退屈凌ぎの玩具になるしかない。壊れるまで、ずっと、ずっと、ずーっと遊んでもらわないとね。クヒヒ……クヒャヒャ……クヒャヒャヒャ!」

 

 少女は雨の中に消える。圧倒された璃々は体を震わせる。あの声には聞き覚えがあった。村の中ではない。日常とも呼ぶべき世界で、幾度となく彼女の耳を支配した声だったはずだ。

 

「何なんだ、今の子は?」

 

「……少々気難しい3兄弟の1人さ。人をからかうのが大好きで、言動を信じれば大抵痛い目では済まない惨事に誘導される。悪意無しで物事を破滅に誘うことを是とするだけさ。ああ見えて、家族の事は本当に愛していてね、兄が弟の晴れ舞台をすっぽかしたから気が立ってるんだろう」

 

 医者は溜め息を吐き、困惑する父の肩を叩く。璃々は美女たちに両脇を固められ、建物の内部へと連れて行かれる。

 通されたのは千手観音に囲われた和室だった。いずれが本尊かも分からない無秩序であり、だが焼け爛れた無数の仏像が灰に埋もれる中心部では、まるで護摩のように火が焚けっていた。

 

「宗教意識は薄れている現代日本人だが、潜在意識には刷り込みが行われている。奥さんの宗派から最良の形式を構築してもらった」

 

「これで本当に大丈夫なのか?」

 

「この世にオカルトなど存在しない。あるのは未明の摂理だ。先人たちのやり方には何かしらの意味がある。私達の好奇心はまだ世界の秘密……『魂』の領域まで手が届いていない。今後、いかなる技術発達があるかは分からないが、『まだ』その時を迎えていない。だからこそ、既存の方法と既出の法則に従って『落とす』しかない」

 

 父と医者の会話が何を意味するのか。璃々は盛る炎の前に美女たちに誘われる。

 

「それで? 私はどうすればいいの? さっさと終わらせたいんだけど」

 

「死者は祈りも呪いもせず、されども生者の祈りと呪いは現を漂う」

 

 美女の1人が告げたのは、昨夜も銀羅から聞いた言葉だった。どういう意味か分からないと璃々が困惑している間に、隣に父が腰を下ろす。

 

「神子は未だ目覚めず、微睡みの中なれども、いずれは現の祈りと呪いを集め、そして深殿に帰られる。自らが生んだ祈りと呪いを疎み、御せずに滅びに歩むのが人の世の常ならば、この地に捨て行きなさい。それこそが秘密を守る迷い箱を形作るのです」

 

「我らは宿願も宿命を変わることなく継承しましょう。だから我らに祈りと呪いの声を。赤子の赤子、ずっと先の赤子まで」

 

「我ら血によって人となり、人を超え、また人を失う。知らぬ者よ、かねて血を恐れたまえ」

 

 それは洗礼の如き祝福に似て、だが底の無い呪詛にも思えた。2人の美女はそれぞれ璃々と父に促すように、燃え盛る炎を指差す。

 

「璃々、これを……」

 

 そう言って父が璃々に差し出したのは銀の指輪だ。そして、対照的に父は金の指輪をつまんで切なさと共に見つめていた。

 璃々はこの2つの指輪を知っている。父と母のペアリング。結婚指輪だ。

 

「これを……どうするの?」

 

 質問などする必要などないくらいに求められる行動は明確だった。だが、璃々は尋ねずにはいられなかった。

 否定しろ。否定しろ。否定しろ。璃々は駄々をこねるように父の次なる言葉を待つ。これまで何度も何度も父が彼女の言葉を待っても得られなかったというのに、自分は急かす心のままに父を睨む。

 

「火に投げ込むんだ。お母さんと過ごした日々を終わりを告げて、思い出にしてあげるんだ」

 

 この男は何を言っているのだ? 何を、そんな今にも泣きそうな顔でほざいているのだ? 璃々は血が滲む程に唇を噛み、感情を押し殺そうとして、だが耐え切れずに狂うままに破裂させる。

 

「ふざけないで! お父さんが……アンタみたいな最低の屑が! お母さんを思い出にする!? 過去にして忘れろって言うの!? 都合が良すぎて反吐が出る!」

 

「……璃々」

 

「止めて! アンタに名前を呼ばれたくない! アンタは違う! 父親面するな! 人殺し! 人殺し! 人殺し!」

 

 聞こえる。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 血管を、神経を、魂を貪るように這う蜘蛛の足音が聞こえる。

 

「璃々ちゃん、落ち着くんだ! 私も事情は知ってる。君がどれだけ否定しようとも『事実』は変わらない! だが、『真実』は選ぶことができる! 何に納得し、どのように終わらせるかは自分で決めることができるんだ!」

 

「知らない! 知らない知らない知らない! 私は何も知らない! 知りたくない! コイツはお父さんじゃない! 私はコイツの娘なんかじゃない!」

 

 火の粉に混じる灰の香り。それがいつしか変わる。

 本当に? 何故? 分からない。だが、それは我が家の玄関を潜る度に香ったラベンダーだ。

 だが、あの日だけは違った。ラベンダーが香らなかった。

 そうだ。こんな雨の日だったはずだ。突風が吹き、灰が舞い上がり、火が消える。昼間とは思えぬ暗闇は訪れる。

 璃々は走った。何かに手を引かれているような気がした。走って、走って、走って、気づけば建物の外にいた。

 

「あーあ、まるで灰被りね。でも、貴女に魔法はかからなかった。御都合主義の魔法使いは現れなかった。惨めな現実を受け入れたらどう?」

 

 靴も履かずに飛び出した璃々は雨に打たれる中で、赤い傘を差した少女と出会う。まるで待ち侘びていたかのように、くるくる、くるくる、くるくると傘を回して舞わす。

 

「嫌……嫌だ……違う! 私はあんな屑の娘じゃない。あんな最低な男の娘じゃない!」

 

 帰りたくない。帰りたくない。帰りたくない! もうあの男の傍にいたくない! 璃々は震える体を自分の腕で抱きしめる。

 脳裏を埋め尽くすのは美少女の微笑みであり、耳を貪り尽くすのは琴の音色であり、喉を染め上げるのは美少女への願望だ。

 

「ここに……いたい。あの子の傍にいたい。ねぇ、教えて! 現とか夢とかどうでもいい! お願い!」

 

「そっかぁ。かーくんと一緒にいたいんだぁ。いいよ。教えてあげる♪ あっちに漆塗りの裏口がある。そこから真っ直ぐ、真っ直ぐ、何があっても真っ直ぐ進むの。そしたら、村の中心部に続く道に出る。今の貴女なら迷わない。だって、かーくんの遊び相手になってあげるんでしょう?」

 

「ありがとう。本当にありがとう!」

 

「いいよ。気にしないで。だって、私はかーくんのお姉ちゃんだもん。かーくんが気に入った『玩具』を取り上げるような無粋な大人とは違う。貴女に魔法をかけてあげる。目覚めることのない夢の住人になれる魔法を……ね♪」

 

 少女に指差されるままに、璃々は駆ける。不思議なことに、黒スーツにも、美女たちにも追いつかれることなく、漆塗りの裏口を見つける。あの少女が開けてくれていたのか、鍵はかかっておらず、戸を引いて踏み込めば、道とも呼べない木々の狭間があった。

 だが、璃々は走った。汚れても、傷ついても、転んでも、血を流しても、璃々は走り続けた。真っ直ぐに進み続けた。その度に頭の中から聞こえる蜘蛛の足音はいつしか自分の1部になっているような悦楽すらもあった。

 少女の言った通り、開けた場所に出て村の中心に続くだろう道路があった。璃々は足の裏の皮が剥げ、肉に小石が木の枝が突き刺さっているのも厭わずに、息が続く限り……いや、肺が破裂するのではないかと思う程に走る。自分はこれ程に走れただろうかと疑う程に。

 雨のせいもあってか、行き交う者は少なく、誰もが傘を差していた。璃々のずぶ濡れの姿に声をかける者もいたが、彼女は全てを押しのけて美少女を探す。

 ああ、見つけた。至福が血を巡る。甘味処にて、野外の軒下に設けられた長椅子に腰かけた美少女は、足を愛らしく揺らしながら串に刺さった団子を食んでいた。

 

「あ、お姉さん。どうしたの? なんで傘を差さないの? なんで傷だらけなの? 痛くないの?」

 

「……うん、とっても『痛い』の。だから、取り除いて? 私を……私を自由にして。私のコワイモノを食べて」

 

 目を見開いた璃々は膝を折って美少女に縋りつく。

 美少女は笑う。まるで嗤うように笑う。恐れと怖れと畏れを抱かせて、無慈悲なまでの凶暴に、だが慈愛に満ち溢れて優美に笑う。

 

「いいよ。食べてあげる。お姉さんのコワイモノは……ぼくが食べてあげるよ。さぁ、教えて。何がコワイの?」

 

 死ぬと分かっていても舐めずにはいられない甘い猛毒のような声で、吐息がかかる程に耳元で、湿った紙を突き破る雫の如く囁く。

 

「私が……私がコワイのは……お父さ――」

 

 だが、喉が痙攣する。雨に打たれて体が凍えたせいか、それともここまで体の限界を超えて走ったせいか。上手く言葉にできない。

 美少女は首を傾げ、労わるように璃々の頬を何度も撫でる。そして、魂まで丸呑みするような微笑みを描いた。

 

「ここは寒い? もうすぐおばあちゃんが迎えに来るんだ。一緒に行こうよ。まずは体を温めないとね」

 

「……うん」

 

「ぎゅーってしてあげる。ねぇ、温かい?」

 

「あたた……かい」

 

 抱きしめられて、鼓動が重なって、璃々は自分が溶けていくような感覚に襲われる。自分が自分ではなくなるような、自我を霧中に迷い込ませたように曖昧になる。

 

「あ、おばあちゃん!」

 

 抱擁から解き放たれ、椅子に立てかけてあった赤い、赤い、赤い……まるであの日見た赤い花のように真っ赤な傘を差した美少女は近寄る影に駆けていく。

 

「……え?」

 

 璃々は首を傾げた。美少女が近寄ったのは、璃々が出会った2人の老婆ではなかったからだ。それどころか、老婆という表現など侮辱に値するだろう、まだ30代の黒いワンピース姿の女だった。

 若作りしているだけ? いいや、違う。あり得ない。出会った2人の老婆がそれぞれ別人だったのは頷ける。父方と母方、それぞれの祖母だろう。

 だが、3人目の祖母などいるはずがない。再婚したのか? あり得ないこともないだろう。だが、何かがおかしい。おかしい。おかしいのだ。

 

 美少女が1歩近づけば、女の伸びた背筋が曲がる。

 

 美少女が2歩寄れば、女の口元に家族に向けるような親愛の笑みが描かれる。

 

 美少女が3歩迫れば、女の声から洩れる吐息に皺が寄っていく。

 

 

 

「なんだい? 私の可愛い孫よ」

 

 

 

 女は『祖母』となった。見た目は変わらずとも背筋を曲げ、声を皺がらせ、孫を慈しむような手で美少女の頭を撫でる。彼女はそんな女を『祖母』と認識しているように腰に抱きつく。

 

「ねぇねぇ、おばあちゃん。お姉ちゃんを家に連れて行ってもいい? あのね、ずぶ濡れで、傷だらけで、とっても、とーっても『痛い』んだって。だから、ぼく……食べてあげるんだ! お姉さんのコワイモノを!」

 

 美少女は気づいていない。目の前で起こったはずの老婆の変化が見えていなかったように。そもそも、30代にしか見えない女を皺らだけで腰が曲がった老婆のようにしか接していない。

 

「ねぇ……」

 

 何かが聞こえる。

 

 

「1つ、聞いても、いいかな?」

 

 そうだ。この音は……この音は……この音は……

 

「何かの冗談だよね? ほら、一昨日と昨日の人がおばあちゃんで、その人は……親戚とか? あ、あははは! すごいですね! 即興で冗談に付き合ってあげられるなんて!」

 

 耳を擽るのは無機質で、火花が散るのではないかと思う程に甲高い……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何を言ってるの? 一昨日も、昨日も、今も、ずーっと同じだよ? 同じ『おばあちゃん』だよ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……現と夢の線引きをする、鉄の鈴の音色だった。

 璃々は喉を引き攣らせる。鉄の鈴の音がまるで無数の色が無秩序に塗られた画用紙に漆黒の1本の線を上書きしたかのように、目の前の異常にして怪奇を認識する。

 老婆を演じる女は途端に笑う。歯を剥き出しにして、耳まで裂けるように、首をあり得ぬほどに傾けて、嬉々と笑う。両目はいつしか瞳がなく真っ黒に塗り潰されていた。

 ケタケタと壊れた玩具のように笑った女の目から、鼻から、口から、重油のようにどす黒い……いいや、濁り尽くされた赤い血が溢れ出す。それは影と混じり合い、泡立ち、真っ白な腕が1本、2本、3本、4本……幾多と伸び始める。

 璃々は異形から顔を背ける。だが、目を向けた先にいた、璃々を旅館まで送ってくれた青年も笑っている。老婆のように腰を曲げて、目をどす黒い赤に染め上げて、濁った血を垂らしながら笑っている。

 老若男女関係なく、等しく『祖母』となり、だが異常なる世界で何1つ変わることがない美麗にして可憐にして清廉にして妖艶なる『神子』だけは変わることなく、まるで踊るように水溜まりに波紋を刻みながら腰を抜かした璃々に近寄る。 

 

「ひっ……ひっ……ひっ……!」

 

 怪異が笑う中で、『神子』だけは何1つ変わることなく、故に最もおぞましい。

 

「どうしたの、お姉さん? そんなにコワイの? だったら……お姉さんのコワイモノはぜーんぶ食べてあげるよ。ねぇ、何がコワイの?」

 

 ぺろりと『神子』は唇を舐める。食べたくて、食べたくて、食べたくて仕方ないとびっきりのお菓子にでも期待するように。

 

「あ……あ……ああ……!」

 

 喉が震える。

 鉄の鈴の音が鳴り止まない。

 雨と涙で滲んだ視界の中で、璃々を囲うのは数多の『祖母』達。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あな、たが……コワイ。この……ば……バケモノ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 途端に『神子』は後退る。頭を押さながら振り回し、雨に濡れた丈長が千切れて長髪が舞う。

 

「なんで……な、んで……そんな……そんな酷いこと……言う、の?」

 

「あ……あぁ……ああ……あぁああ……!」

 

「お姉さん、ぼくと……遊んでくれるって……約束……ずっと一緒にいてくれるって……」

 

 まるで『神子』の狼狽に呼応するように、『祖母』達も苦しみもがく。璃々は唇を震わせ、自分が幼い心に深々と刃を突き立ててしまったのだと悟る。

 

「違う! 違うの! 今のは……今のはそうじゃなくて! 私……私……!」

 

 豪雨の中で雷鳴と稲光が走り、『神子』は静止する。まるで面白い遊びを思いついた子供のように笑う。

 

「そっか……そっかぁ! ぼく、分かっちゃった! お姉さん、アタラシイ遊びだね? バケモノ♪ バケモノ♪ バケモノごっこ♪ バケモノは狩りをして、獲物は逃げる♪ 日暮れまでに狩ったらぼくの勝ち♪ 逃げきれたら獲物の勝ち♪」

 

 捩じれ曲がった自己完結。うっとりとした、璃々が『あんな酷いことを言うはずがない』と信じ切った、だがまるで蜘蛛のように、鉄の鈴の音色よりも無機質な殺意に満ちた瞳で、『神子』は遊戯を宣言する。

 

「さぁ、遊ぼう! ぼくと踊ろう!」

 

 幼き姿に相反した、世界を抱きしめる聖女の如き慈悲と慈愛に満ちた微笑みで『神子』は両腕を伸ばす。まるで璃々の『命』を抱擁するかのように。そして、愛して、壊して、喰らい尽くすかのように。

 

「8個数えるね。ひとぉつ。ふたぁつ」

 

「違うの! 遊びじゃないの!」

 

「みぃっつ。よっつ」

 

「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

 

「いつつ。むっつ。ななぁあああつ」

 

「許して。私……そんなつもりじゃ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっつでヤツメ様。さぁ、狩りの時間だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走った。もう動けないと思ったはずの体は恐怖に駆られて走っていた。

 だが、歩幅で勝るはずの璃々の正面にいつの間にか『神子』はいた。即座に反転すれば、やはり『神子』はそこにいた。

 

「お姉さん! 遊びも本気じゃないと面白くないよ?」

 

 愛らしく頬を膨らませる『神子』もまた怪異か? いいや、違う。雨で湿って泥土となった道には踏み込みの痕跡があった。

 純然たる速度。桁違いの瞬発力。疲れ切り、またスポーツ経験も無く、命の危機に晒されたこともない都会の少女では影を追うことさえもできない、幼き身通りに未完でありながら、文字通りの世界最高峰のアスリートたちの影さえも容易く踏む超人の域。

 生物としての規格が違う。だが、『神子』はまるで気づいていない。自分の異常性を理解せず、まるで平然としている。『祖母』達を祖母と認識しているかのように、己の異常性に無知に晒す。

 異形の『祖母』達が嗤う。嘲う。鉄の音色が響く中でケタケタと嗤う。もうお前は逃げられないと嘲う。

 

「命はね……食べられる為にあるんだよ。獲物なんだから命の限りに逃げて、逃げて、逃げて……狩られないと駄目だよ?」

 

 死生観から違う。目の前にいるのは人の形をした『何か』であり、異形の『祖母』よりも遥かにこの世に存在してはならない禁忌であると直感する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、一際甲高い鉄の音色が世界を揺さぶった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聞き覚えのある鉄の音。璃々の視界の端に映ったのは銀羅だった。彼女は昨日と変わらぬ和装のまま、再び鍔で鞘を打ち鳴らす。

 

「これでよろしいのですか、奥様?」

 

「ええ、上々よ。手間を取らせたわね」

 

「いいえ。我が愚弟が漏らしたばかりに、このような顛末を迎えるとは」

 

「私も同罪よ。我が娘と思い、油断があったわ。ここまで見通していたのかしら? 須和君には本当に迷惑をかけてしまったわね」

 

 銀羅の隣に立つのは村に来てすぐに出会った美女だ。その顔立ちは今にして思えば、何処となく『神子』に似通っていた。だが、美しさも愛らしさも『神子』が遥かに上ともなれば、彼女ほどの絶世の美貌であっても霞んでしまっていた。

 これまでとは違い、明確に苦しんで溶けていく『祖母』達の中で、『神子』はそんな姿も見えていないとばかりに笑う。

 

「お母さん!」

 

「おいで、私の子。雨に濡れたら風邪を引くわ。祭りはもうすぐなのよ?」

 

「うん。でもね、お姉さんと遊んでるんだ! バケモノごっこ! ぼくが狩る側! おばあちゃんも『それがいい』って! こんな遊びを思いつくなんて、お姉さんは凄いなぁ」

 

 勝手に璃々の提案とし、勝手に璃々を賛美し、勝手に璃々を狩らんと定める。おおよそ狂ってるとしか言いようがなかった。

 瞬間に璃々は本能的に理解した。

 目の前にいるのはこの世界における捕食者の頂点なのだと。あらゆる振る舞いが当然として受け入れられ、喰らい尽くされることは摂理の正しさなのだと。

 傲慢なのではなく、生まれた時から価値観が違うのだろう。

 人類種を喰らい尽くす『バケモノ』がそこにいるのだ。

 

「そうなの。でも、お母さんは心配だわ。雨でこんなに濡れちゃって。、転んで怪我でもしたら大変。さぁ、いらっしゃい」

 

「……はーい。お姉さん、ちょっと待っててね? お母さんに許しをもらってくるから」

 

 子どもが遊んでいいのか母親に尋ねるのは当たり前。そんな調子で璃々を置き去りにして駆け寄ってきた『神子』を美女は優しく抱擁し、そして首裏に袖から素早く取り出した注射器を突き立てた。

 

「お母さ……ん?」

 

「大丈夫。大丈夫よ。目覚めたら『いつも通り』よ。何も残っていない。全ては微睡みの中で……」

 

 美女は狂気的な母性の笑みで、『神子』のゆっくりと力を失っていく四肢と体を抱き止める。

 

「……12秒ってところね。須和君が調合した、クジラでも5秒で眠らせられるって売り文句の薬だったのだけど、効き目が悪いわ。しかも耐性ができるでしょうから次は完全に効かないでしょうね。須和君に頼んで『また』切り札を準備しないといけないわね。それも微睡んでいるからこそ。目覚めた後はどうなるか分からない」

 

「心中お察しします」

 

「貴女にはまだ分からないわ。母親ではないでしょう?」

 

 我が子を抱いた美女は動けずにいる璃々に1歩ずつ迫る。

 もう『祖母』達はいない。『神子』も眠っている。そのはずなのに、目の前の純然たる『母』が怖ろしくて堪らない。璃々は後退るもそれを許すことなく美女は詰め寄る。

 

「私の子を『バケモノ』呼ばわりしたわね。この子は『人』よ。誰が何を言おうと『人』として育てた。目覚めさせるものですか。お前たちのような人間の為に、私の子を贄にして黄金の稲穂は与えない。この子が死ぬ時まで微睡ませる。それが私の母としての務め」

 

「は……ひ……ひぃあ……」

 

「貴女は須和君のお友達の娘。それにこの子も気に入っていたみたいね。貴女の何に惹かれたのかしら。母親として本当に気になるわ。でも、『どうでもいい』。失せなさい。殺さないのは、須和君への義理立てと、この子の興味と、娘の愚行の贖いだからよ」

 

「はい……はい……はいぃいいいい!」

 

「そうよ。私は殺さない。でも、貴女は『落とさなかった』わね。鳴らない鈴が鳴り続けている。ああ、忌々しい。誰も彼もがこの子に祈りと呪いを積み重ねようとする」

 

 美女は最後に優雅に笑むと『神子』を抱いて去っていく。残った銀羅は倒れた……『祖母』だった人たちを担ぎ上げる。彼らの目はいずれも元に戻っていた。大地を染め上げていた濁った血など何処にもなかった。

 

「……君の感性はきっと正しい。正しいのだろう。私には……『私達』にはよく分からないが、恐怖に怯えて死を望まずに生に足掻くのは、きっと『正しい』のだろう。たとえ、それが誰かを傷つける言葉を生み出すとしても。だから君に警告する。早く『落とす』んだ。この地はきっと受け入れる。不変の事実から目を背けず、だが欲する真実を選べ。そうすれば、きっと……」

 

 残された璃々は体の痛みを引きずりながら、足裏から止まらぬ血を足跡に染み込ませながら、何処とも知れずに歩く。

 私はどうしてここにいるのだろう? 璃々は自問する。

 単なる小旅行のはずだった。それなのに、どうして? 璃々は何度も何度も頭の中で反芻させ、やがて父への怒りと憎しみを噴き出す。

 そうだ。こんなことになったのは全てあの男のせいだ。何かを隠してこんな村に連れてきた。璃々は白いワンピースを土と血で汚らせ、ふらりふらりと雨に打たれながら歩き続ける。

 そうして見えたのはバス停だった。ボロボロの屋根には幾つか穴が開いていて、錆び付いたベンチは塗装もすっかり剥げ、時刻表はすっかり滲んで読めなくなっていた。

 璃々は疲れ切った体をベンチに下ろす。

 

「……もう嫌だ」

 

 何もかもが嫌だ。私は世界に嫌われているんだ。

 あの日からずっとずっと全てが虚構だった。

 この村でやっと見つけたと思った本物は、理外の存在だった。

 もう現も夢もどうでもいい。鉄の鈴の音さえも煩わしい。

 璃々は瞼を閉ざす。誰も起こさないでほしいと願って暗闇を求める。

 

 

 

 

 

 しとしと、と。

 

 

 

 

 

 しとしと、と。

 

 

 

 

 

 しとしと、と。

 

 

 

 

 

 

 

 夏の雨は止むことはない。

 

「璃々ちゃん」

 

 だが、自分を呼ぶ声が聞こえた。璃々は薄く瞼を開け、豪雨とは程遠い優しい小雨を見て、そして隣の温もりを感じ取る。

 顔を向ければ母がいた。もう会えないはずの母がそこにいた。

 

「お母……さん? お母さんなの? どうして……?」

 

「ずっと璃々ちゃんの傍にいたわ。苦しかったわね。寂しかったわね。傍にいるって伝えてあげられなくてごめんね」

 

 母の手だ。忘れることのない母の温もりだ。自分を撫でる母に璃々は涙する。

 

「お母さん!」

 

 抱きついた璃々は赤子のように泣きじゃくる。堪った苦痛と理不尽を吐き出すように泣き叫ぶ。嗚咽を母は抱擁で受け止めてくれた。

 

「ねぇ、璃々ちゃん。お母さんが璃々ちゃんの苦しみを肩代わりしてもいいかな?」

 

 母に膝枕してもらった璃々は甘える子どものように何も考えることなく、ぼんやりとした意識の中で母の提案を聞いた。

 

「璃々ちゃんの世界は何もかもが嘘だらけ。誰もが薄っぺらい虚構の中で生きている。そうなのでしょう? そんなの苦し過ぎる。お母さんが背負ってあげる」

 

「本当……に?」

 

「ええ、本当よ」

 

 ああ、それならもう息苦しさを感じることはない。

 父に怒りと憎しみを抱く必要はない。あんな情けなくて、恥知らずで、裏切りに満ちた男に暴言を吐くこともない。

 きっと『家族』に戻れる。そうだ。そうに違いない。璃々は安息を得たと笑う。

 

 

 

 

 

 そういえば、どうして父に怒っていたのだろう? 憎んでいたのだろう? 軽蔑の限りを尽くしていたのだろう?

 

 

 

 

 

 

 鉄の鈴の音が聞こえる。

 

 璃々は雨の中を歩いていた。お気に入りの傘で雨と踊るように我が家を目指していた。

 いつものように母が迎えてくれる。優しいラベンダーの香りと共に。

 だが、あの日は違った。玄関を潜っても薄暗い闇ばかりで、母の気配は無かった。

 階段を上る。璃々は知っている。その先にあるのは赤い花だ。真っ赤に咲き誇る赤い花だ。

 璃々の部屋のドアは半開きだ。香るのはラベンダーではなく錆び付いた鉄のようなニオイ。

 璃々のベッドの上で真っ赤な花は咲いていた。

 裸体の母が裂かれた腹から花びらのように臓物を飛び散らせて死んでいた。

 

 

 

 

 

 

 鉄の鈴の音が聞こえる。

 

 父は母の骸に泣き叫んでいた。

 殺したのは璃々は顔を合わせたこともない、見ず知らずの男だった。父よりも少し年下であり、堅物な父とは違い、遊び人といった風貌の男だった。

 男はドラッグ中毒者であり、母の愛人だった。母の体内からも薬物が検出された。中毒者だった。2人は情事でクスリを使い、男は常軌を失って璃々の机に置いてあったハサミを手に取り、母の腹に突き立てた。そして力任せに腹を抉り、素手で臓物を引きずり出したのだ。

 警察は前々から危険視されていた違法ドラッグだと語ったが、このような事件は初めてだと告げた。

 父を殺した男は死刑にはならなかった。ドラッグによって既に廃人同然であり、心神喪失が認められた。

 センセーショナルな事件はメディアの格好の餌だった。連日のように詰め寄る記者たちによって父は精神的に追い詰められていたが、カメラの前では『悲劇の夫』を演じた。

 

 

 

 

 鉄の鈴の音が聞こえる。

 

 引っ越しを余儀なくされ、父も転職した。同じ業種らしかったが、変わった職場で生き抜くためにも、そして事件を忘れる為にも仕事にのめり込んでいた。

 世間は勝手なもので、早々に新しい事件に喰いつき、璃々たちは忘れ去られた。ネットにはいつまでも事件の記事は残ったが、もはや騒ぎ立てる者はいなかった。

 母は愛人の男と危険なクスリの情事に嵌まり、あろうことか娘のベッドの上で交わった。

 そうして気づいた。いや、本当は気づいていたのだと璃々は自分の『女』の本能の囁きを聞いた。

 帰る度に家を満たした優しいラベンダーの香り。あれは母の気遣いなどではなく、獣の如く肉欲を貪った悪臭を隠す為だったのだと。

 

 

 

 

 鉄の鈴の音が聞こえる。

 

 引っ越しからしばらくして、父の書斎でまだ整理されていない段ボール箱を見つけた。

 中身は興信所に調べさせていたのだろう、母と男の情報だった。

 どうやら母と男の関係は父と結婚する前から始まっていたようだった。母は父が稼いだ金を男に貢いでいた。その見返りとして肉欲を貪っていた。

 そして、法的根拠にはならないだろう、DNA検査の報告書もあった。

 璃々の生物的な父親は母を殺した男だった。父は何も知らなかったのではない。母の本当の姿を見抜いていた。それどころか、璃々が自分の子どもではないとも知っていた。

 

 

 

 

 鉄の鈴の音が聞こえる。

 

 何も信じられなかった。

 世間では仲睦まじいと評判だったはずの夫婦であり、璃々も含めて理想的な家族だったはずだ。

 そのはずなのに、全ては虚構だった。馬鹿正直だったのは璃々だけだった。

 怒りと憎しみのぶつけ先を求めた。これだけ母の秘密を暴いていながら、離縁することもなく、璃々を娘として育てていた父の情けなさと愚かさを憎んだ。

 父が毅然とした行動を取っていれば、母は社会的制裁を受け、死ぬことはなかったもしれないと夢想した。

 自分を愛していたかも定かではない女の骸に泣き、墓を建て、血の繋がらぬ璃々の心を癒そうと仕事の疲れも隠し切れぬのに優しく接する父が……全て悪いのだと決めつけた。

 

 

 

 

 

 鉄の鈴の音が聞こえる。

 

 母は休日に璃々に付き合うのは父に誘われた時だけだった。

 父は休日になると璃々が煩わしく思う程に遊びに行こうと手を引いてくれた。

 テストで良い点を取った時も、かけっこで1等賞を取った時も、初めて演劇で主役を任されて見事にやりきった時も、真っ先に褒めてくれたのはいつだって父だった。

 メディアに追い回される中で、璃々を家に閉じ込め、自分だけがカメラの前に露出し続けたのは、決して彼女を世間の無責任な好奇心の食い物にさせない為に壁となったのも父だっ。

 SNSで璃々の写真が流出した時、烈火の如く抗議して、あらゆる伝手を駆使して迅速な削除に手を回していたのも父だった。

 引っ越しして、転校しても学校では事件を話題にされるのではないかと怯えていた璃々に、何があっても自分が守ると笑って安心させてくれたのは父だった。

 たとえ、璃々が殺人犯呼ばわりしても、変わらず父として娘を愛し、どれだけ無下にされても心配し、家族だからと言葉をかけ続けてくれたのは……父だった。

 

 

 

 

 

 

 鉄の鈴の音が聞こえる。

 

 鉄の鈴の音が聞こえる。

 

 鉄の鈴の音が聞こえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

『私の家族だ。私の……娘だ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、そうだ。

 村に来てからも自分勝手だった璃々の身を案じて、心から怒って心配してくれたのも……父だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鉄の鈴の音が聞こえる。

 

 鉄の鈴の音が現と夢を切り分ける。

 

 鉄の鈴の音が目の前の醜い夢の産物に否を唱える。

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、お母さん。私ね……お母さんに愛してもらえてると思ってた」

 

 自分に溶け込んでいくような母の温もりを、他でもない自分の意思を乗せた手で押しのける。

 

「だけど、違った。お母さんは私なんて愛していなかった。私はあの男が産ませた子で、お父さんを縛る為の道具だった。私を心から愛してくれていたのは、お母さんに裏切られて、自分の血を分けてもいない子の為に、いつも不器用なくらいに全力だった……お父さんだけだった」

 

「璃々ちゃん」

 

「本当は違うのかもしれない。本当は……お母さんもちゃんと私のことを愛していたのかもしれない。だけど、それが……それが不変の『事実』から導き出した……私の……私が選びたい『真実』なの」

 

「璃々ちゃん」

 

「私の……私の名前を呼ぶな! アンタなんて『お母さん』なんかじゃない! アンタは私の母親だとしても『お母さん』じゃない!」

 

 きっと『お母さん』とはあの子の為に本気で怒り狂っていた美女のような人をいうのだ。

 

 愛する我が子の為ならば、この世の全てを傷つけることも厭わない人をいうのだ。

 

 否定する。

 

 この世界は虚構であるとした根幹を……母に愛してもらっていたはずだという己に騙し続けた『嘘』を否定する。

 

 違うのだ。本当は世界と自分はちゃんと繋がっている。

 

 いつも疎んでばかりだった父親も、薄っぺらな関係だと思っていた友人たちも、淡い恋心を抱いていた先輩とも、見ず知らずでも優しくしてくれた人たちとも、自分は虚構でもなんでもなく本物の繋がりを持っているのだ。

 母の像が崩れる。足も腕も胴も首も長く伸び、歯はボロボロに抜け落ち、髪はボサボサに伸びて枝分かれし、目は血走って泥水のような涙を流す。撒き散らす涎は嘘のラベンダーの香りで、それがどうしようもなく悪寒を呼ぶ。

 今更になっては全てが遅いのだろう。父はきっと璃々を救うために村を訪れた。璃々には理解できなかった危機が目の前の汚物がもたらしかけていたのだ。

 璃々は自らの手でチャンスを不意にした。父の愛を蔑ろにした。挙句に、自分を純粋無垢に慕ってくれていたあの子を『バケモノ』と呼んで拒絶し、否定し、侮蔑し、恐怖した。

 汚物の手が璃々の首を絞める。自分の中にラベンダーの香りが染み込んでいくのが分かる。

 

 

 

 鉄の鈴の音が聞こえる。

 

 ポケットが熱い。璃々は手を突っ込み、父から渡された銀の指輪……父が『妻』に送った指輪を握りしめる。

 これをどうにかすれば、この汚物を引き剥がせる。だが、どうしようもない。何もできない。ここには清める炎などないのだから。

 

「リリチャン……リリチャ……ン……リリチャン!」

 

「負け……な、い! 私……やり直す……んだ! 今度こそ……お父さん……と……ちゃんと……向き合って……!」

 

 意識が遠退く。

 

 ラベンダーの香りに塗り潰される。

 

 自我が溶けて消えていくような感覚の底で、璃々は『璃々』とは何かを思い出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「璃々!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうだ。自分を呼んでくれる父の声こそが縁であり、現に自分を繋ぎ止める楔なのだ。

 父の手が汚物の腕を璃々から引きはがす。咳き込んだ彼女はこれも夢の産物なのかと父に触れ、だが確かに手を通じて聞こえる心臓の鼓動は現の本物であると確信させる。

 

「お父さ……ん! お父さん!」

 

「済まない。遅くなって……済まない!」

 

 璃々を抱きしめる父は悔しさで泣いていた。璃々は嬉しさで涙して、父に笑いかける。

 

「ううん、ありがとう。いつも……いつも、助けてくれて、傍にいてくれて……ありがとう!」

 

 傷の痛みと疲れで立っていられない璃々を父は逞しい腕で支える。だが、その顔には困惑に満ちていた。目の前の異形が『妻』と呼んでいた女とは何となく察しがついているのだろう。だが、この現状をまるで呑み込めていないようだった。当事者である璃々も理解できていないのだから当然だろう。

 

「お父さんは……どうして……ここに?」

 

「あ、ああ。璃々が危ないと教えてくれた人にここまで連れてきてもらったんだ。だが、さっきまで一緒だったはずなのに……」

 

「指輪……そうだ! 指輪! 指輪を何とかしないと! そうすれば『終わり』にできる! お父さん、何か火……火を持ってないの!?」

 

 と、そこで父は渋い顔をした。優良健康体である父は喫煙知らずである。ライターなど持っているはずもなかった。

 再びラベンダーが香る。異形の汚物は執拗に璃々に腕を伸ばす。父はいつだってそうだったように我が身を盾にするが、徐々に蝕まれていっているように目に見えて息が荒くなっていく。

 父が来てくれて嬉しかった。助けられて喜んだ。だが、状況は改善していない。

 璃々に分かることは鉄の鈴の音が現と夢を区別させ、指輪をどうにかして葬ればいいことだけだ。

 指輪を滅する為には火が必要なのか? それとも過程などどうでもよく、指輪を捨てることに意味があるのか。

 

 分からない。

 

 分からない。

 

 分からない。

 

 だが、璃々はふと手を己の手首に巻かれた青い紐を見つめる。

 

 決して外してはならないと誓わされた。これもまた何かの縁なのだろうか。何かと繋がっているのだろうか。

 

 璃々は強く念じる。あるいは祈りを捧げる。

 

 

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい! 私のこと……あんなにも慕ってくれていたのに、傷つけてしまって……! それなのに、都合がいいことばかり! でも、お願いです! どうか私の祈りを受け取ってください! 私……お父さんと……生きたいんです!」

 

 あの子はきっと愛してくれていた。無償の愛を捧げてくれた。

 

 この心の傷を洗って膿を取り除いて清めてくれたからこそ、あの時間があったからこそ、璃々は不変の事実と向き合って選びたい真実を手に入れた。

 

 

「お願い! 私のコワイモノを……食べて!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いいよ。それがお姉さんの望みなら、食べてあげる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鉄の鈴に亀裂が入る程に高々と鳴る。

 

 ああ、これもまた夢なのだ。

 

 だが、次元が違う。異形の汚物はこの地の夢にへばりついているだけだ。

 

 彼女は夢の『主』にも等しい存在なのだ。

 

 

 

 

 

 

 空は闇となり、星に彩られる。だが、月だけは不自然に存在しない。まるで眠り続けているかのように。

 星の光は雨となり、世界を優しく濡らす。璃々の体の痛みと蝕みを癒す。

 出会った時と同じく神子装束の……だが、まるで髪は白と見間違う程に光を帯びて、神子は現れる。

 異形の汚物は明確に恐怖していた。だが、神子は気にもしない。

 

「愛してあげる。殺してあげる。食べてあげる」

 

 神子から伸びる影が異形の汚物に喰らい付いた。

 それだけで終わった。

 呆然とする璃々と父に、神子は慈愛と慈悲に満ちた、まさしく聖女にして天使の微笑みを描く。

 

「お姉さん……お父さんのこと、大事にしてあげてね? もう見失ったら駄目だよ」

 

「……うん」

 

「クヒヒ、良かった。家族は仲良しが1番だもんね!」

 

 神子は両手を合わせて盃を作り、そこに焔火を生む。璃々は自分の足で歩き、そして指輪を投じた。

 ああ、終わった。もう思い出になったのだ。夫婦という名の呪縛の象徴を葬り去ったことで、璃々は自分の出自も含めた過去を思い出とし、父の愛を信じて生きていくことを決意する。

 

「……お父さん?」

 

 だが、父はまだ指輪を投じれずにいた。常に身に着けていただろう金の指輪を見つめ、震え、迷っていた。

 ああ、そうか。不変の事実でも璃々とは選んだ真実は違うのだ。父はたとえ血が繋がっていなくとも璃々を愛し、そして母の事も……憎めなかったのだろう。璃々が傷つけた言葉以上に、自分自身を情けなく愚かな男だと責め続けていたのだろう。

 

「お父さんは……立派だよ」

 

「だが、私は……私は……俺はアイツを……救えなかった!」

 

「だけど、私を救ってくれた。もう自由になっていいんだよ。あの人を……お父さんにとって『妻』だった人を……思い出にしてあげていいんだよ」

 

 涙を零した父と手を重ね、璃々の力を添えて指輪を火に投じる。

 

 燃えていく。

 

 2つの指輪が……夫婦と娘を縛り付けていた呪いの象徴が焼き尽くされていく。

 

 だが、呪い自体が消えたわけではないのだろう。

 

 神子は己が生んだ焔火と共に去っていく。もう璃々は心配いらないと告げるように、迷いなく、優しくも何処か冒涜的な歌声と共に……月がない夜の向こう側に消えていく。

 

 ああ、あの子は私たちが捨てた呪いを背負ったのだろう。璃々は襲い掛かる睡魔の中で父と重なり合って倒れながら、せめて感謝だけは忘れたくないと願った。たとえ、それさえもが彼女にとって苦痛になるとしても、身勝手に呪いを捨て、祈りを押し付けた者としての責務なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 移り行く景色は何処だろうか。璃々は呆然としながら走る自動車の助手席に腰かけていた。

 運転するのは誰だろうか? 璃々はまだぼやけた視界で目を凝らし、辛うじて運転手が男だと知る。

 

「お父さん?」

 

「残念だが、私はキミのお父さんじゃないな。彼は後部座席でぐっすり眠っているよ。処方した薬通りならば、あと3時間ほどで目を覚ますはずだ」

 

 何処かで聞いた覚えのある声が意識を明瞭にさせていく。璃々はしっかりとシーベルトをつけた状態で、そして治療が施されて包帯が巻かれた足の痛みに唸る。

 

「先に言っておこう。君を着替えさせたのは私ではなく娘だ。妻があんなに静かに怒っていたのは久方ぶりだよ。生意気盛りの娘が正座してお説教を受ける姿を見学するのは、父としては気まずかったがね」

 

 そうだ。旅館で出会った眼鏡の優男だ。璃々はまだぼやける目を擦る。

 

「まずは謝罪を。私の子達が迷惑をかけたようだ。治療費はもちろんこちらで全額負担するし、他にもいくつかの補償の準備がある。もちろん、これは村で起きた全ての出来事は他言しないという約定の上に成り立っていることを理解してもらいたい」

 

「……それが、掟、だから?」

 

「そうだ。掟はね、掟を守る者を護る為にある。これは必要な処置なんだ」

 

「要は……脅し……でしょ? あんな村が……世間に知られたら……大問題だから」

 

「キミは若いのに度胸があるね。確かに脅しの意味もある。だが、本質ではない。村の異常性はキミも理解した通りだが、真に秘匿されねばならないのは『血』だ。悪夢は『血』の秘密を守る迷宮であり、同時に『血』が招く災厄を閉じ込める檻でもある」

 

 理解できない。だが、男が語ればすんなりと脳が受け入れてしまう不思議な力があった。独特のテンポの話し方のせいか、声の性質か、あるいは薬を盛られているのかもしれないと璃々はフルに頭を回転させて分析する。

 

「なるほどね。あの子が気に入るわけだ。妻には理解できなかったようだが、キミは実に『人』らしい。間違えて、迷って、だが真実を選んで貫き通し、そして愛を手に入れた。あの子は強く『人』に興味を抱いている。教育の産物なのかもしれないし、それ以外の要因もあるかもしれない。だが、キミはあの子の興味を惹けたが、それ以上でもそれ以下でもなかった。あの子が求める『人』とは、きっと、誰もが希望を抱いて共に歩みたくなるような……まさしくバケモノを討つに相応しい英雄という名の『人』の極致の1つ。これは父親としての確かな分析だよ。あの子には生来の自己破滅願望のようなものがある。バケモノとしての本能の1部なのかもしれない」

 

「奥さんは……あの子をそんな風に呼んだから……殺しにかかるんじゃない?」

 

「半殺しでは済まないだろうね」

 

 苦笑する男は片手間の運転で、1つ間違えれば転落死も免れない蛇行道を華麗に進む。

 

「だが、バケモノはバケモノだ。妻がどれだけ『人』として育てようともね。まぁ、思いの外に微睡みは続いている。この平和な日本だ。あの子が目覚めるような血生臭い戦場はまずないだろうし、私も父親としてあの子を戦場に送って『敵』を無為に恐怖に陥れるのを望まないし、妻が望む通りになるだろう。夫としても、父親としても、狩人としても、それはとても喜ばしいことだ」

 

「……私でも分かる。喜ばしいなんて、嘘でしょう? アンタ……あの子を……本当に愛してるの?」

 

「嘘偽りなく愛してるし、喜んでいるよ。だが、困ったものでね。狩人の血はより強い獣との戦いを望んでしまうものなのさ。そして、私の血はあの子が死のうと動揺をもたらさないだろう。この心を動かさないだろう。確信を持って言えるよ。だから人間の真似をしないとね。悲しんで泣くフリは得意なんだ」

 

 一切の感情の揺れがない声。極限まで『穏和な語り』の『演技』が貫き通された無感情の発言。男が本当に人間なのか疑いたくなった瑠璃は喉を震わせる。

 

「イカれてる」

 

「困ったことに、これが私たちの『正気』なんだ」

 

 男は鼻歌を奏でる。不愉快な程に上手であり、璃々は現と夢の狭間で聞いたあの子の下手な歌声の方が余程に心地よかったと悪態をつきたかった。

 

「あの子は神子だ。祈りと呪いを集めて深殿に帰る。それが定めだ。だが、仮に『例外』であるならば……どうなるのだろうね? 誰も止めることができない最強の獣を、どうやって倒すのだろうか? あるいは、誰も討ち取れずに人類は滅びるのか? 興味が尽きない。君ならば何かしら有益な手がかりをくれるかと思ったんだが、期待外れだった。せっかく、君とあの子が出会えるように誘導してあげたのにね」

 

「……サイテー」

 

「私が珍しく本音で話しているからね。それだけ君を高く評価していたのだと理解してくれると嬉しいな」

 

 万人の心の警戒を解くような穏和な笑み。だが、それこそがこの男のおぞましい本性そのものなのだと璃々は嫌でも理解した。

 

「さて、君の疑問について幾つか答えよう。疑問を残せば、その分だけ掟を破る確率が高くなるからね」

 

「……『アレ』は悪霊みたなものなの?」

 

「実の母親を『アレ』呼ばわりか。おっと失礼。睨まないでくれ。さて、何と言ったらいいのか。須和先生の言葉を借りるならば、残留した生前の意識・感情の集合体か。まだ証明されていないけど、空間には何らかの記録媒体ないし情報伝達媒体が存在し、巨大なネットワークを作っているのではないかと推測している。まだ笑い話の領域だが、存外に正しいのではないかと私は信じているよ」

 

「…………」

 

「要はまだまだ未知だけど、世間一般では悪霊と呼ばれるものであり、だが何の根拠もないオカルトではない。少なくとも幾つかの法則性は見つけているし、古来より鉄の深奥を極めんとした草部の特化された狩人ならば対処も難しくない。今回のケースのようにね。とはいえ、今回はまだ夢と現の境界線が曖昧になっていただけ。悪夢に完全に呑まれたならば、草部の鍔鳴らしでも守りで手一杯。音無しの鈴もせいぜい夢の出口を探す手がかりになるかならないか程度の代物になる」

 

 現と夢。悪夢。境界線。璃々は精一杯に頭を動かしてキーワードから村で得た経験と知識を動員するが、何も見えてこない。ならば深追いしてはならないと素直に諦める。

 

「どうして――」

 

「どうしてお父さんはキミを村に連れて行ったのか、だね? 須和先生の入れ知恵であり、私の助言でもある。君のお父さんが須和先生に相談し、君の情緒不安定な傾向と周囲の環境で見られた幾つかの事象から『悪霊』がキミに『憑いている』と分かったんだだろうね。それも、キミの情緒に悪影響を与え、自己破滅を招きかねない程に事態は深刻だった。須和先生は祭りを前にして、あの子が神子となる手前、予約済みの『落とし』以外は延期すべきだと考えていたみたいだがね」

 

「だけど、アンタが……認可した?」

 

「選択肢を提示しただけさ。彼は自分の判断で私が差し出した選択肢を『最善』と評価しただけの事。なにせ頭がいいからね。自分の頭の中で情報を組み立てたからこそ、私の混ぜた誘導には気づかない。気づいていても、否定することができない。他でもない、自分自身が考え抜いた末に必要性を判断し、即急な処置が必要だと認めてしまったからね。特に彼は医者だから。あの子に負担をかけるのではないかと苦しみ抜いた末の決断だっただろうね」

 

「……人間のクズ」

 

「君達家族を救った裏方でもあるのだけどね」

 

 感謝して欲しいのではなく事実だけを述べている。感情が乗った演技をした無感情の声音だったのがより一層に疎ましい程に璃々に染み込んでしまう。

 もしも村を訪れていなければどうなっていたのだろう。文字通り、憑き物が落ちたような自分の精神状態を璃々は自己分析できた。全てが『アレ』のせいとは言わない。間違いなく、99パーセント以上は自分自身のせいだ。父の愛を素直に受け止めていれば良かったのだ。

 だから『アレ』のせいにしたくない。その一方で、区切りをつけたこともあってか、肩が軽くなったような気がするのも確かなのだ。

 

「そういうものだよ。結局のところは主観の問題だ。キミのお父さんは主観でキミの異常性と危機を察知し、須和先生は主観で処置の必要性を選択し、キミは主観でそもそも自分自身の精神に問題があったと結論付けた」

 

 山道を抜けて街が現れる。都会ではないが、落ち着く程にコンクリートの色合いをした、人間が住まう世界だった。

 

「これは私の主観からの想像だが、悪霊は君というよりも君と君のお父さんの間で形成された何らかのネットワークに依存してたのではないかな? 君達親子の繋がりはきっと本物だったのだろう。だが、村という大海に入ったお陰で小さな水槽に留まる意味を失った。あとはキミ達から切り離すだけだったんだけど、そこにあの子の登場だ。君の母親は増々の切り離しを拒み、なおかつ君自身が分離に傾く中で、あの子の温もりを知ってしまった」

 

「だから、『アレ』は私を……『私』を奪おうと……した?」

 

「そうかもしれないね。たとえキミと同化したところで、あの子の興味は惹けないだろうし、恐怖しか覚えずに破滅しただろうに。哀れだよ」

 

 まるで哀れみを覚える様子の無い口振りは無感情というも無関心だった。

 男はコンビニに車を止め、炭酸飲料水と梅おにぎりを買って来た。驚く程に璃々の好みを射抜いており、ただのリサーチだけはない『何か』がこの男に璃々の好みを見抜かせたのではないだろうかと疑う。

 

「なんで、あの子は……別の人を……おばあちゃんと……」

 

「……一時的な『上書き』だ。村に長期在住している人物にしか起きない現象であり、あの子がいないと『祖母』は現れない。そして、『祖母』となった人物は他者からも『祖母』としてしか観測されなくなる。だから君が『祖母』を上書きされる以前の人物として見えていたのは興味深い事だ。君の才能か、それとも別の要因か」

 

 璃々以外にはあの子が『祖母』と認識している人物が『祖母』として観測された。男にとっては目を惹く特異性だったのかもしれない。だからこそ、こうして敢えて情報を開示し、璃々の反応を見ることで特異性を解明しようとしているのかもしれなかった。

 

「そもそも、あの子の祖母はずっと前に亡くなっているんだ。それこそ産まれるより前にね」

 

「そんな……」

 

「だが、あの子の前に『祖母』は現れる。あの子は疑問にも思わない。『そういうものだ』とバイアスがかかっているのかもしれない。そもそも、あの子って地頭はいいけど、根幹が単純だしなぁ。どう足掻いてもお馬鹿。あれは妻似だね。長男と長女は存外に私に似てる。だからこその同族嫌悪かな?」

 

 遠回しでもなくダイレクトに自分の奥さんが単純馬鹿だと言いやがった。璃々は無言でおにぎりを食べる。嫌になる程に美味しく感じるのは空腹だからか。

 

「だから考えたんだ。祖母の回忌を行う。何度も何度も……何度もね。そうすれば、あの子も祖母は亡くなったと認識する。『祖母』は現れなくなるだろう。だが、今は駄目だ。あの子は『祖母』に懐き、そして神子とは何たるかの心構えを学んでいるようなんだ。死者から知識を継承する。実に興味深いね。神子にとって情報の獲得は生者や書物に依存しないということなんだ」

 

「父親なら止めなよ。アンタのお母さんでも……あるんでしょ?」

 

「君には共感してもらえるかもしれないが、母とはおよそ人間らしい感情を育める間柄ではなかったよ。だからこそ、嬉しいんだよ。我が子と母がどんな形であれ、仲良いのは……」

 

「…………」

 

「さて、こんなものかな?」

 

「最後に……教えて。あの子が……あの子が夢で……私の祈りに応えてくれた。願いを叶えてくれた。私は……」

 

「あの子は眠っていた。眠っていたんだよ。だから夢を見ていたんだろうね。短い間だけど、自分に構ってくれた年上のお姉さんのお願いを叶えてあげる夢を見ていたんだ。うん。やっぱり私の子は天使だな。純粋無垢で、慈悲深く、慈愛に溢れ、そして……決して『人』ではない」

 

 自動車が止まったのは安っぽさ際立つビジネスホテルだった。待っていた従業員が眠る父を担ぎ入れる。

 

「君たちの車は既に東京に返してある。のんびり電車で帰るといい。費用はこちらで負担する。私が自発的に君に接触する事はもう無い。約束しよう。君は君の人生を謳歌するがいい。平和で、退屈で、だが尊い……いつ終わるとも分からない人類の黄昏をね」

 

「ねぇ、あと1つだけ」

 

「何かな?」

 

「あの子の名前は? 私、知らないの。どうしてか、分からないけど……」

 

「君が知りたくなかったからさ。ひと夏の思い出には要らないものだったんだよ。君はきっとそう願っていたんだ。あの村は……あの時間は……『夢』に過ぎないんだと最初から分かっていたんだ」

 

「それでも知っておきたい。私、あの子に酷い事を言ったから。あんなにも、私を愛してくれたのに……願いを聞いてくれたのに、名前も知らないなんて……嫌」

 

 璃々の真っ直ぐな眼差しに、男は根負けしたように、あるいは嬉しそうに口を開いた。

 この男は最低の屑野郎なのだろう。だが、邪悪ではないのだろう。心から家族を愛し、他人を救う手立ても惜しまず、その気になれば自らが傷つくことも厭わないのだろう。

 

 男から聞いた名前は、真夏に相反した凍える雪夜の如き暗闇の中にいた璃々が出会った焔火に相応しく、また癒えたばかりの傷跡が疼く優しい響きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、璃々は振り返る。あれから月日は流れ、世間ではVRやARが驚異的な速度で蔓延していた。

 SAO事件やDBO事件といった大規模電脳犯罪こそあったが、世界は変化と歩みを止めることを知らない。

 だが、璃々の日常は変わらない。平凡で、退屈で、だが尊いものだ。

 

「お父さん、行ってきます」

 

 璃々は仏壇に手を合わせる。父は昨年に亡くなった。末期の膵臓癌であり、手の施しようがなかった。

 父の友人であり、かつてあの村であった医師の手配により、都会の喧騒から離れた静かな湖畔で余生を過ごし、KISARAGI製薬から提供された試薬のお陰か、宣告された余命の倍以上を生き、また苦しむことなく息を引き取った。

 あの男の『補償』の範疇なのかは定かではない。だが、父の最期に璃々は満足している。惜しむべきは孫の顔を見せられなかった事だろうか。とはいえ、付き合っている恋人すらもいないのだ。願っても叶えられたものではないだろう。

 出発前に洗面台で身だしなみのチェックを行う。『アレ』に似た目の造形だ。『アレ』を殺した男に似た鼻筋と唇だ。父から受け継いだものは何もない。

 いいや、あるのだ。眼に宿る光……父がくれた人を真っ直ぐに愛する優しさがある。

 知れば知る程に『アレ』を殺した男……生物学上の父親と璃々には似通っている部分がある。環境が人を形作るというが、明らかに血筋としか思えない共通点が幾つも数えられた。まるで血からは逃げられないと嘲われるように。

 だが、璃々は恐れない。確かに璃々には『アレ』と生物学上の父親から受け継いだ部分があるのだろう。認めたくないが、自身の本質は生物学上の親から受け継いだ部分が多いと分析している。だが、それが璃々の全てではない。

 父は息を引き取る瞬間まで璃々を愛してる事を伝えてくれた。ならばこそ、璃々は自分に流れる『血』ではなく、父が育んでくれた『心』を信じて生きていける。

 

「……ヤバ! 遅刻する!」

 

 鏡の前でセンチメンタルになっている間も無情に時間は過ぎていく。璃々は慌てて家を飛び出し、駅を目指して駆ける。

 今や右を見ても左を見てもARデバイスがスマートフォンに取って代わった。若者ではARデバイスを使用していない者を時代に置いて行かれた化石扱いしている。璃々もまたARデバイスを装着し、駅に駆けるまでの間に続々と視界に流れる自分の嗜好をディープラーニングしたAIがチョイスしたニュースを視聴していく。

 最新芸能ニュースには日本の最高峰にして世界を股にかける清純派の若手女優のセンセーショナル海外結婚……もとい婚約が正式に発表されて再び大きく取り上げられている。グルジア出身の毒舌上等のハリウッド俳優とは、外見だけならばお似合いそのものであるが、かねてからの噂が本当だった事に世界中の双方のファンは阿鼻叫喚であった。

 璃々は何故か彼女の事を好きになれなかった。あの子と同じく赤が滲んだ黒の瞳をしているのに、どうしようもなく脳裏が爪で引っ掛かれるのだ。

 

「はい、ホット珈琲。もうすっかり寒くなったからね」

 

「気の利く番犬じゃない」

 

「お礼はキスでいいよ」

 

「キスだけでいいの? ん? どうなの?」

 

 駅のホームでは朝からこれ見よがしにハートを周囲に振りまくカップルとすれ違う。周囲の女が思わず目で追わずにはいられない美青年であり、傍らにいる彼女は可愛らしくもあるが男に比べれば平凡な……だが、ピンクに染色した腰まで伸びた髪と何処か影を帯びた眼差しは俗世離れしていて、2人に間に割って入れる隙などないように思えた。

 璃々は早歩きになる。自分の職場を目指して駆ける。断じて遅刻を恐れているから早足を駆け足にランクアップさせているわけではない。

 

「ふぃー! セーフ!」

 

「セーフじゃない。1分遅刻だ」

 

「銀羅さん、私が遅刻したんじゃありません! 時計が1分遅れているだけです! 時計が世界より1分遅刻しているんです!」

 

「減給」

 

「無慈悲!」

 

 璃々が働くのは、ヤクザの事務所と疑われてもしょうがない雑居ビルに設けられた興信所だ。所長は銀羅であり、彼女の元に舞い込むのはおよそ人智では理解できない、超常と呼べるような問題だ。

 偶然ではない。璃々はあの村での出来事を忘れることができず、日常から離れた非日常を仕事にすることで、自分の生きる道を見出した。そして、彼女を気にかけていた銀羅に拾われるべくして拾われただけである。

 他にも所員はいるが、経歴はいずれも異常にして異端だ。彼らに比べれば璃々など可愛いものである。

 

「お父さんの1周忌なんだ。もっと長く休んでいても良かったんだぞ」

 

「死者は祈らないし、呪いません。でも、生者の祈りと呪いは残って縁に宿る。お父さんの祈りは私と共にある。だから、お墓参りは済ませたし、毎日出社前には仏壇で手を合わせてる。それでいいんです」

 

「そういうものか」

 

「そういうものなんです。銀羅さんが教えてくれたんですよ?」

 

 璃々が笑えば、銀羅は恥ずかしそうに目を背ける。出会った時から変わらずのクールビュティであるが、幾らか感情を表面に出せるようになっているようだった。

 

「それで、次の事件は何なんですか? どれどれぇ……」

 

「自殺した恋人に追い掛け回されて自殺未遂した実業家の親族からの依頼だ。昼夜問わないどころか、VRでも追い掛け回されて、精神的に衰弱しきっていて社会復帰はしばらく無理らしい」

 

「……恋人が死んだ原因は何ですか?」

 

「書面上は『事故死』になっているな」

 

 この手の事件……それも金持ちが絡むとなれば、大抵はどす黒い背景が見えてくるものだ。銀羅はもちろん、暴力沙汰にも強い従業員は揃っているが、璃々本人は護身術を齧った程度であり、ボディガードは必須である。

 

「現実の捜査は私がやる。お前はVR上を捜査しろ。被害者はVRシティ上にも不動産複数有している。調べれば何か手がかりが見つかるかもしれない」

 

「またVRですか? 体が鈍るなぁ。私、この半年で2キロも太ったんですよ」

 

「職務外で運動しろ。あとお前は食い過ぎだ。30過ぎたら今の比ではなく太るぞ」

 

 ……自分はどれだけ食べても太らないからって他人事だ。璃々は横幅が増えた未来の自分を想像して身震いし、間食の我慢を誓う。

 

「ハァ、銀羅さんのVR適性がもう少し高かったら良かったのに」

 

「あんなもの1時間とやりたくない。気分が悪くて立ってもいられなくなる」

 

「はいはい。給与分は働きますよ。でも最近こんな仕事ばっかりですね」

 

「元より私達が相手にしているのはオカルトではない。確かに実在する『何か』なんだ。VR上に存在してもおかしくはない」

 

 仕事はいずれも奇妙にして奇怪なものばかりであるが、昨今はVRやARに関わる仕事が急増し、VR適性が無い銀羅は苦慮していた。対照的にずば抜けて高くはないが、長時間に亘って安定して低ストレスでVR接続できる璃々はこの手の仕事ばかりに着手していた。

 

「……空間フラクトライト・ネットワーク、でしたっけ? 聞いた時にはいよいよかって興奮しましたよ」

 

「ああ。業腹だが、茅場晶彦のお陰だな。須和先生曰く、空間フラクトライトネットワークは特定の環境下でしか安定して形成されないようであるが、もしも現代社会……VR・ARの蔓延によって空間フラクトライトネットワークが形成・安定しやすい環境になっていて、既存の情報ネットワークに影響を与えているならば、私達の仕事の幅が広がるのは道理だ」

 

 仕事が増える分には構わないと銀羅は肩を竦める。だが、確かな不機嫌が滲み出た事を璃々は見逃さなかった。

 

「だけど困ったことに、こっちの手段は限られてますし、VRでは銀羅さんの鍔鳴らしも使えない。今回にしたってどうやって解決すればいいんだか。他に方法はないんですか? たとえばサーバーをお祓いでドーンとか」

 

「出来たら苦労しない。だが、自称・他称の霊能力者を対象としたフラクトライトの観測実験も行われていると聞く。何らかの新しい戦術・戦略のヒントは得られるかもしれないな。実験を主導しているサーダナ博士が一般を対象に行っている講習会の予約を入れておいた。研修だと思って行ってこい」

 

「へーい……って、土曜日じゃないですか!? ウチって完全週休2日制じゃありませんでしたか!?」

 

「だから毎週2日間は休ませてるだろう? 土日に固定していないだけだ」

 

「横暴だぁ!」

 

「……で、この茶番はあと何度繰り返せばいいんだ? 私はコメディアンじゃないんだぞ?」

 

「銀羅さんがナイスな返しを思いつくまでです」

 

「一生かかっても無理そうだな。だが、退屈し無さそうだ」

 

 あ、少しだけ機嫌が直った。璃々は安心して仕事の資料を纏める。

 銀羅は茅場晶彦が関わる話題だと露骨に不機嫌になる。それは彼女の一族に関与することだろうと璃々は見当がついていた。

 璃々はまだ掟が有効だ。銀羅も村で起こった出来事は話題にせず、璃々も決して話さない。

 それでいいのだ。父とあの子がくれたのは平和で退屈で尊い日常であり、自分が仕事として選んだのは非日常。その区別がついていたらいいのだ。

 璃々はバックにつけたお守りの鳴らない鉄の鈴を指で叩く。今でも『夢』の防犯ベルとして役立っているが、あの村程に鳴ることはない。ただし、鳴った時は生命の危機を感じる場面が大半なのはご愛敬だ。

 だが、1ヶ所だけ鉄の鈴が激しく鳴り響く場所がある。偶然にも通りかかった、KISARGIの医療センターだ。最新テクノロジーの粋が集められており、公式では患者を収容しておらず、次世代の医療器具の開発が行われている。

 この医療センターは現と夢が曖昧になっている。だが、銀羅は決して手出し無用だと強く命令している。すなわち、彼女の血筋に関わる『何か』があるのだろう。

 手出しはしない。立ち寄るだけだ。何故か胸騒ぎを覚えて、どうしても足を運んでしまうだけなのだ。

 

「ふぅ、寒い。もう12月かぁ。クリスマスまでに恋人くらい欲しいなぁ」

 

 世間はクリスマスムードで染め上げられている。街を闊歩したところで鉄の鈴は鳴らず、だが蔓延したARは夢の如く現と重なり、誰もが現と夢の分かち難くなった世界で笑って、泣いて、生きて、死ぬ。

 この世には不思議な事がある。だが、それは認識と知識が追いついていないだけだ。啓蒙が足らないだけなのだ。

 ならばこそ、璃々は無知のままに受け入れる。賢者のように理解できずとも、探求者のように未知を解き明かすことはできずとも、父がそうであったように、あの子もまた自分に真実を与えてくれたのだから。




夢と現を分かつのは鉄の音。

だが、誰が今ここに立つ大地を現と決めたのだろうか。夢と断じた幻こそが現であるならば、真に見失わないのは己の内に抱えた真実だけ。



それでは、345話でまた会いましょう。

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