SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

支払われた犠牲に見合う命を見出す


Episode21-06 まっくら、さむい

「クソ! やはり防具では限界があったか!」

 

 グリムロックは抑えきれない不甲斐なさを暴力的衝動に変換し、机の上に並ぶ珈琲カップから鍛冶道具まで腕で払い除ける。

 工房には幸いにも誰もいない。グリムロックのヒステリックな叫びを耳にする者もいない。だからこそ、彼は普段以上に狂気的な内面を露出する。

 白夜の狩装束、限定解除バージョン2……白木の緋翼。クゥリは余すことなく使用してくれたが、グリムロックが追求した性能の3割にも到達していなかった。

 妥協してしまった。グリムロックは己を恥じる。求めたポテンシャルに到達していないにも関わらず、クゥリの類稀なる戦闘能力ならば十二分に活用できるだろうと甘えてしまった。グリムロックは何度も額を机に叩きつけて自罰する。

 

「やはり『防具』では限界があった。ヘンリクセンがラスト・レイヴンを格闘装具として武器枠を使用する形に発展させたのは、いかなる形であれ、防具を武装化するには限界があると悟っていたからか」

 

 先見の明はヘンリクセンの方にあった。一通りに暴れて疲れたグリムロックは椅子にもたれかかり、鍛冶場の灰で汚れた天井を見上げる。

 ならば白夜の狩装束も格闘装具なり何なりにしてしまえばいいが、そうなるとクゥリの武器枠を圧迫することになる。≪武器枠増加4≫はまだ発見されておらず、そもそも存在するのかも定かではないスキルだ。武器枠を増加させる指輪も噂の範疇ではあるが存在すると聞くが、逆に言えば噂は噂であり、また実在しても都合よく入手できるはずもない。

 

「それならそれで考えがある」

 

 そうなると不可欠なのは素材だ。少なくとも必要不可欠な素材が2つ、できれば欲しい素材が1つある。グリムロックは思案する。必要不可欠な素材については調達できる期待度の高い相手はいるのであるが、取引材料が乏しい。

 さて、どうしたものか。グリムロックは散らばった工具を拾い上げて片付けながら、やがて名案を思い付く。

 今回のヴェノム=ヒュドラの事件。これこそが取引材料を浮き彫りにさせているではないか。だが、グリセルダは面倒事が増えると首肯しないだろう。

 妻に隠し事をするつもりはない。ならば事後承認をするまでだ。グリムロックは意気揚々と出立の準備を始める。

 

「あら、出かけるの?」

 

 入れ替わりに帰ってきたグリセルダは疲労困憊といった様子であり、グリムロックは慌てて倒れそうな彼女を労わるように肩を抱く。

 

「大変だったようだね」

 

「ええ。聖剣騎士団とちょっと無理な取引をしたのよ」

 

「飛竜による降下作戦か。あれだけ大規模な戦力を1度に降下させられるのは聖剣騎士団だけだね」

 

 ソファに腰を下ろしたグリセルダは蓄積した疲労で頭痛がするのか。早々に横になって唸る。グリムロックはお湯を沸かすとハーブティを淹れる。酒ばかり飲んでいるヨルコであるが、だからこそ二日酔い対策などでハーブティなどの調合も手掛けているのだ。効果はお墨付きである。

 

「太陽の狩猟団がアピールも込めた大々的な作戦に出る以上は聖剣騎士団も同じくらいのインパクトがないとね。まさか新型アームズフォートで突撃をかますなんて予想外だったし、功労は太陽の狩猟団が1番だけど、聖剣騎士団も負けず劣らずのアピールが出来たわ」

 

「クラウドアースは捕虜連行で各新聞の1面を飾る。総体的には3大ギルドの協調性もアピールできるというわけか」

 

「聖剣騎士団の策略でしょうね。下手をせずともクラウドアースは何の華も持てなかった。ベルベットを失脚させたがってる輩からは苦々しいでしょうけど」

 

「それで、キミがどうして気苦労を背負うことになるんだい? 結果的に見れば、聖剣騎士団の利益は大きいんだろう?」

 

「……結果論だからよ。聖剣騎士団としてはアピール程度に済ませて火中の栗は他の大ギルドに拾わせるつもりだったのに、飛竜降下部隊による大演出をしたのよ? どれだけのコストがかかったと思ってるのよ。あの作戦1回だけで500万コルは軽く吹っ飛んでるわ」

 

「スケールが違うね」

 

「大ギルドは文字通り桁が……いいえ、次元が違うのよ。私達からすれば500万コルなんて途方もない大金だけど、それは個人資産として見た場合に過ぎないわ。大ギルドという組織として保有するコルの総額は考えたくもないわね」

 

 確かにその通りだ。体を起こしてハーブティを受け取ったグリセルダの言う通り、傭兵個人に対する支払いでも今の相場ならば80万は手堅く、ちょっとした襲撃依頼ならば100万にも到達する。逆に言えば、傭兵を運用できるだけの資金力が大ギルドにはあるのだ。

 また100万コル支払って終わりといった依頼はあくまで単独活動に限定され、それなりの規模の作戦に参加させるならば、別途で作戦にかかる様々な費用も発生する。

 傭兵の最大の利点はコストだ。傭兵を雇うコストが費用対効果に見合っている限り、『個人』を戦力として売買するDBOの傭兵業は廃れることがないだろう。

 

「まさかウチが負担するのかい!?」

 

「それこそ馬鹿を言わないで。私は情報を売って、しかも太陽の狩猟団の動きまでリークしたのよ? お願いしたのは、クゥリ君救出を確実にするために太陽の狩猟団を牽制するだけの規模と作戦よ。太陽の狩猟団なら、それこそクゥリ君ごと吹き飛ばす作戦を決行してもおかしくなかったでしょうしね」

 

 グリムロックの耳にも入っているが、今回の太陽の狩猟団の『本気』は一味違った。

 アームズフォート、スティグロ。ソウル・リアクター搭載の高性能運動性重視機動甲冑サンライト。規格外の対大型目標用クロスボウ、ドラゴン・ダウン。これぞ大ギルドとばかりに、グリムロック達などどれだけ技術力を持っていても、HENTAI鍛冶屋と持て囃されようとも、個人経営の工房に過ぎないのだと見せつけた。

 ソウル・リアクターはソウル・ジェネレーターのように安定した高出力は不可能でも、短時間の高出力を可能とし、よりPvP、GvGに適した性能であることは明らかだった。探索には不向きであるが、それは聖剣騎士団のヘビィメタルも同様である。

 ドラゴン・ダウンにしても詳細はまだ入っていないが、固定目標に対しての脅威度は量産型アームズフォートのランドクラブの主砲にも匹敵し、貫通力に限定すれば他の追随を許さない。グリムロックの見立てでは接地固定から射撃体勢に入らねばならないので射角が限定され、なおかつ1射毎に再装填が必要な以上は対ネームドにおいての有用性は低いが、本来の用途である固定目標の貫通破壊はもちろん、『数』を揃えられるという利点からも弾幕を張られればプレイヤーならば直撃すれば四肢は千切れ飛び、胴体に命中すれば即死は確定するだろう。

 ミディールの白光ほどではないが、それでもプレイヤー個人がアームズフォートの砲撃級の攻撃を可能とすると考えれば、どれだけ破格な武装なのか言うまでもない。しかもスキルに依存しないクロスボウというのも大きな強みだ。

 

「……ちょっと厄介な依頼を引き受けることになりそうね。それも格安で」

 

「キミが1番嫌う仕事というわけかい」

 

「そういう事。クゥリ君にはまた負担をかけることになるわ」

 

 クゥリの仕事にコストパフォーマンスという単語はほぼ存在しない。クゥリ自身が武器を使い捨てにするような戦い方をするウェイトも決して小さくないが、他の傭兵に比べてもハイリスクな仕事が多いのだ。しかも最初はリスクもコストも低かったはずなのに、蓋を開けてみれば大ギルドやDBOを揺るがす事件に発展していたことも珍しくない。

 

「彼は文句なんて言わないさ。自分を救助する為の行動だったわけだしね」

 

「……それこそ彼からすれば無意味だったのでしょうけどね」

 

 自嘲するグリセルダの気持ちはわかる。クゥリは結局のところ自力で脱出していたからだ。平然とした様子で聖剣騎士団の捜索部隊と顔合わせしたらしく、自分が騙されていたことにはついに気づいていなかった。

 グリセルダが何をせずともクゥリは何食わぬ顔で帰ってくることが出来ただろう。だが、大事なのは心意気であるとグリムロックは愛する妻を慰める。

 

「それこそ結果論さ。グリセルダにきっと感謝しているよ」

 

「……でも、心配なのよ。あの子、自分が騙されていたって聞いた時……とても動揺していたでしょう? それなのに、すぐに依頼なんて……気が進まないわ」

 

 確かに、クゥリらしからぬ程に動揺を隠しきれていなかった。今回の件に関してはクラウドアースから『口止め料』も支払われたので赤字になることはなかったのであるが、クゥリとしては自分がまんまと騙されて監禁されてしまったことが余程にショックだったようである。

 あるいは別の理由があるのか。傭兵業界において『騙して悪いが』はサインズ発足以後減少傾向にあるが、クゥリは黎明期から活躍する傭兵である。傭兵業の甘いも酸っぱいも経験済みである。今更になって動揺するはずもない。

 だが、今回はそもそも依頼主からして全てが虚偽であり、依頼斡旋機関であるサインズからして騙されていた前代未聞である。例外中の例外のケースであるが、クゥリにとっては曲げられない流儀を傷つけられたのかもしれなかった。

 

「それで、聖剣騎士団からの仕事って何なんだい? まさかフロンティア・フィールドの探索を?」

 

「だったら良かったのだけどね。もっと厄介よ」

 

 グリセルダが投げ渡した依頼資料を綴じたファイルを受け取ったグリムロックは中身を確認して、1秒と経たずして眉間に皺を寄せた。

 

「……聖剣騎士団に恨まれるような真似はした覚えもあるけど、少し露骨過ぎないかい? 最悪の場合、クゥリ君が暴走するよ?」

 

「聖剣騎士団としてもクゥリ君の利用価値を正当に評価している……とも言い換えられる。でも、正直に言うわ。あの子が1秒の逡巡もなく断る未来しか見えないの。この依頼をどうやって受けさせたものかしら」

 

 基本的に筋さえ通っていれば何でも引き受けるクゥリであるが、この手の依頼はクゥリが良い顔をするはずがない。

 

「ギリギリまで黙っているのも1つの手段だね」

 

「マネージャーが『騙して悪いが』した場合、あの子の傭兵の流儀として報復による死かしら?」

 

「騙したわけじゃない。敢えて詳細を通達しなかっただけだ。クゥリ君なら1度仕事を引き受ければ、後はアドリブで何とかするだろうさ」

 

「だからこそ不安なのよ。今回の依頼はリカバリーが通じないわ。聖剣騎士団も何でこんなリスキーな依頼を……」

 

「『クゥリ君だから』だよ。聖剣騎士団としても攻勢に出なければならない分野だからね。劇薬を投じるのも戦略さ。この依頼が上手くいけば、グリセルダが計画するプロデュースにもプラスになる」

 

「好転する未来はまるで見えないから問題なのよ。どう転んでも悪化しかしない気がするわ」

 

 あくまで反対の立場を貫きたいグリセルダであるが、本人が述べた通り、今回ばかりは断れないならば腹を括るしかないのだ。

 

「それに、しばらくはクラウドアースの依頼も回ってきそうにないんだろう? だったら、聖剣騎士団でバランスを取らないと太陽の狩猟団に手綱を握られることになる。グリセルダとしてもそれは避けたいんじゃないかい?」

 

「……あのミュウを牽制するには丁度いい、か。確かにね。でも……やっぱり不安なのよ。あの子の評価がこれ以上悪くなることだけは避けたいのよ。もう手遅れだと分かっていても……それでも……私はあの子のマネージャーだから」

 

 腕で両目を覆って夫だけしかいないからこそ弱々しい姿を晒す妻に愛おしさを覚え、グリムロックは労わるようにグリセルダの頭を撫でた。

 

「キミはよくやってるよ。私達が好き勝手してばかりで、どれだけ負担をかけているかも承知している。だからこそ、いつでも甘えてくれ」

 

「……いいのよ。いつも怒ってばかりだけど、貴方やヨルコは自由だからこそ真価を発揮できる人間なのよ。それに貴方達に迷惑をかけられてる時、心の何処かでワクワクしている自分もいるのも確かなの。貴方達は私の心を良い意味で掻き乱してくれる。路地裏の澱んだ空気を吹き飛ばす新風のようにね。でも、クゥリ君は……」

 

 それ以上を言いたくないのか。グリセルダは唇を噛む。だが、グリムロックは溜め込む必要はないとグリセルダの上半身を起こすと優しく抱きしめた。

 

「あの子は……いつも私に不安を植え付けるの。あの子が予想もつかない何かを起こす度に……壊れてはいけない何かが壊れている気がして……世界が軋んで砕けていきそうな気がして……怖くなるの。取り返しのつかない恐ろしい事が起きる気がするのよ」

 

 グリムロックにすら聞かれたくないような小声で、グリセルダは胸の内で澱んでいた感情を言語化するようにゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「分かってるの。あの子は何も悪くない。いつだって、あの子は最善を探している。ちょっと……ううん、致命的にお馬鹿な部分があるだけ」

 

「あと、とびっきりの不幸だね」

 

「そうね。何であんなにもトラブルの連鎖反応を起こせるのかしら。昔からそうだった。あの子が関わると……」

 

 これだけは言葉にしたくないとグリセルダは長き沈黙を選ぶ。

 分かっている。グリセルダは常に『それ』だけは否定してきた。

 依頼が舞い込む時点でもはやどうしようもなく詰んだ状況なのだと。

 少なくとも最悪を覆していて、それでも第3者から見れば十分に最悪にしか映らないだけなのだと。

 理不尽とも呼べるような暴力で苦境と強敵を捻じ伏せて、誰も生還できないような地獄から孤独に戻ってきているだけなのだと。

 

「グリセルダはまるでクゥリ君のお母さんだね」

 

「……急に何よ?」

 

「いやね、普段のキミはマネージャーというよりも暴れん坊の子どもに手を焼く母親みたいだって常々思っていたんだ」

 

 グリムロックはもう我が子を抱くことなどない。少なくとも、DBOの現状において『次世代』を産むことはできない。今後のアップデート次第では実装されるかもしれないし、DBOの行き着く先……完全攻略の世界ではプレイヤーと呼ばれていた仮想世界の住人達の子どもが育まれているかもしれない。

 現実世界で夫婦だった時、1度だけ子どもが欲しいとグリセルダに告げられたことがあった。だが、当時のグリムロックはまだ早いと説き伏せた。経済的な理由ではなく、自分が親になることに何ら興味がなかったからだ。グリセルダは納得していたが、思えばSAO時代におけるクゥリに対して親身だったのは、天使と呼ぶ他になかったクゥリに母性を覚えたからなのかもしれない。

 

「キミがクゥリ君を怖いと思うのは……彼の行く末を心配しているからこそ、だろう? 彼が何かを起こす度に世界が変わっていくような気がして、それがクゥリ君を余計に追い詰めているような不安があるからだ」

 

 グリムロックはむしろクゥリが何かを引き起こす度に歓喜している。少なくとも、今はクゥリの実力を遺憾なく発揮するのにこれ以上となく貢献している自分の作品に誇りを持ち、更なる好奇心と探求心を滾らせる日々に充実感を覚えている。彼が100万の屍を生み出すことになろうとも、世界に破滅をもたらすことになるとしても、その最後の瞬間までグリムロックは笑いながら自分の作品をクゥリに渡すだろう。たとえ、それが自分の命を奪うことになるとしても……だ。

 だが、グリセルダを自分のエゴに巻き込めるのかと問われれば、今でも躊躇を覚える。彼女に注意・警告を受けたからと言って鍛冶仕事を止める気はないが、彼女が全てを捨ててクゥリからも大ギルドからも逃げてひっそりと暮らそうと願うならば、苦悩の末に彼女を選ぶだろう。

 専属鍛冶屋として間違いなのは重々承知だ。だが、あの日、あの時、あの瞬間、漆黒の騎士に焚きつけられた好機の狂熱は今も勢いを増して渦巻いているが、その炎の中心部にはいつだってグリセルダに対する愛情が大きさも純度も変わることなく存在している。

 

「キミが願うならば、工房の炉を消そう。そうすれば、クゥリ君に対するキミの不安も幾らかは減るだろう?」

 

 率直に問う。グリセルダを真っ直ぐに射抜くグリムロックの眼光に、彼女は魅入られたように目を潤ませ、やがて沈黙の口づけをし、そのままグリムロックのネクタイを引っ張ると自分と居場所を入れ替えるように押し倒した。

 

「認めるわ。私は……あの子に母性を覚えている。あの子に『飛び立ってほしくない』って怖がっている。あの子は【渡り鳥】だから。きっと、私たちの手が届かない、何処か遠くへと飛び去ってしまうから」

 

「だったら……」

 

「だからこそ、翼を折りたくない。あの子が飛び立つ先は何処だとしても、私は命尽きる最後の瞬間まで見届ける義務があるのよ。あの子は……私に取り戻させてくれたから。貴方と本当の意味で夫婦になれた絆を……あの子は……結んでくれたから」

 

 最悪の裏切りで死別し、ナグナという地獄で真の夫婦となった。断罪と贖罪の末に、グリムロックはグリセルダと愛し合う今を手に入れた。

 クゥリは何も感じてないのだろう。自分は何もしてないと嘯くのだろう。だが、彼らからすれば、クゥリは地獄の闇を切り裂く焔火のようだった。

 だからこそ、2人はきっと許せる気がするのだ。たとえ、自分たちのせいで優しく温かな篝火が世界を焼き尽くす業火に育ったとしても、全ての因果と結果と受け入れて焼き尽くされるだろう。

 

「たくさん怒るわ。貴方にもクゥリ君にも、等しく怒って、咎めて、正そうとするわ。それこそが私の存在意義だから。だけど、だからこそ、貴方は自由でいて。たとえ、貴方の作品こそがクゥリ君を追い詰めることになるとしても、あの子が……あの子が本当に全てを注ぎ込んでも戦わないといけない時、一切の不安なく使えるのは……貴方の武器だけのはずだから。貴方の武器だけは……壊れる最後の瞬間まで、使い続けられるって……信じているはずだから」

 

「ははは、鍛冶屋冥利に尽きるよ」

 

 グリムロックはグリセルダが母性を抱いているように、クゥリを我が子のように思っているわけではない。

 いつだって予想不可能で、そうかと思えば単純馬鹿で、可憐にして美麗で、際限なく好奇心と探求心を湧かしてくれる最高の存在だ。

 子ではない。友でもない。顧客でもない。相棒でもない。グリムロックにとってクゥリは出会うべくして出会ったとしか思えない、自分の才能を発揮する為のマスターピースなのだ。

 だからこそ、いつだって願うのだ。

 自分の作品を常に上回り続けて欲しい。そうすれば、更なる開発にのめり込める。壊れ尽くした装備の数々を見て発狂して絶望し、だがどうすれば再利用できるかと苦悩し、また彼が必ずもたらしてくれる素材をどう活かすかと挑戦する瞬間は、最高に甘美なのだから。

 

 

 

 そして、自分の作品の完成を待ちわびて工房に足を運び、グリセルダの説教を受け、ヨルコの絡み酒の相手をするクゥリに、心から笑顔にさせてもらっているのだから。

 

 

 

 ああ、きっと刹那の夢なのだ。自分は地獄への道を自身の手で舗装し続けている。それくらい理解している。

 だが、それでもあの一瞬が大切なのだ。愛する妻のクゥリへの怒りと心配の裏に隠れた大きな喜びを見せてくれる。何もかもに絶望して諦観していたヨルコが美味そうに酒を飲んでクゥリにお姉さんぶって弄る。そして、そんな彼らを見ながら新たな作品への意欲を増々燃やす自分がいる。

 

「約束しよう。たとえ、完全消滅の1秒前だろうとも敵の全ての喉元を食い千切れる装備を、私は必ず提供し続ける。彼の専属として、キミの夫として、私が『私』である証明として……必ずね」

 

「やり過ぎないようにね」

 

「約束できない。それがお望みだろう?」

 

 回答に言葉はなく、だが先程よりも深く熱い接吻がグリムロックに溶け込んでいく。

 ヨルコは断酒会だ。しばらく帰ってこない。すぐにでも出発したい用事はあったが、今は妻を労うのが優先だ。グリムロックはお返しだとばかりに、息継ぎをしたばかりのグリセルダの口を今度は自分の唇で封じた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「ねぇ、例え話なんだけど、断酒会が面倒臭くてこっそり我が家に戻ったらリビングでイチャイチャしている熱愛夫婦を目撃してしまった時、どんな顔をすればいいと思う?」

 

「随分とピンポイントな質問だね」

 

 喪服のユウキは偶然出会ったヨルコの付き添いで真新しい墓標に献花を済ませ、今にも雪が降りそうな暗雲を見上げる。

 マクスウェルが死んだ。彼の部下も合わせて、小さくない痛手を被ったチェーングレイヴは立て直しと裏の勢力維持に尽力している。

 少数精鋭とは裏を返せば僅かな損害でも大きな影響を与えるということだ。特にマクスウェルはチェーングレイヴの頭脳でもあった。クラインも頭は回り、組織を纏めるリーダーとしては十二分なカリスマを持っているが、100人を超える組織を運営する『実務能力』は備わっていない。

 マクスウェルは自分に万が一の事があった時に備えて部下を育成していたお陰で何とかチェーングレイヴの運営はダメージを抑えられたが、それでも抜きん出た彼の損害はより組織の高度化を目指さねばならないこの時期に手痛過ぎた。

 ……いいや、そんなのは感情を誤魔化す嘘だ。ユウキがそうであるように、クラインなどの設立メンバーにとって、マクスウェルは重要な存在だった。

 

「私もさ夫婦水入らずの時間はなるべく邪魔したくないわけよ。だから、クリスマスパーティはご遠慮する予定ね」

 

「教会はクリスマスも断酒会を開催する予定だって、さっき掲示板に貼り出されていたよ?」

 

「……聞かなかったことにする。ハァ、クリスマスだし、黄金林檎の代表として何処かのパーティに参加すればタダ酒飲み放題だけど、ああいう場所ってお洒落門番がいるから面倒なのよね。何処かで白衣参加OKのパーティってない?」

 

「鍛冶屋組合のパーティだったらOKかも」

 

「あー、ムリムリ。あそこも大ギルドのお偉いさんが来るらしいから。参加できそうなタダ酒飲めるパーティはどれも大ギルドが出張ってくるのよね。死ねばいいのに」

 

「大ギルドが参加するようなパーティは料理を楽しむ場所じゃなくて政治的駆け引きをする戦場だよ」

 

 冷たく切り返すユウキは顔を暗く俯ける。対するヨルコはいつもの調子で缶ビールを手にアルコールで顔を赤らめている。

 分かっている。ヨルコなりに慰めているつもりなのだ。その程度には今の自分の顔は酷いのだろうとユウキも自覚がある。

 チェーングレイヴのメンバーは全員がいつでも死ぬ覚悟ができている。組織の大義に生と死の全てを捧げる決心をしている。そして、如何なる事情であれ、犯罪ギルドの1員である以上はまともに死ねないとクラインに誓わされている。

 ……ユウキ以外は、だ。クラインはマクスウェルの葬儀にユウキが参加することを認可しなかった。チェーングレイヴからまだ除籍されていないとはいえ、足抜けする彼女は『同志』ではないからだ。

 そもそもとして、ユウキが宣誓を済ませていないのはマクスウェルの計らいであったと、葬儀に参加することを認めないクラインに食って掛かった時に明かされた。

 

『アイツはよ、自分の娘をSAOで亡くしていた。独自でSAO事件には更なる闇があると追っていた。自分の娘の死の意味を探していた。だからこそ、俺にとって現実世界からの同志だ。俺達はチェーングレイヴの大義……蘇った死者たちを再び眠りにつかせるという至上の目的の為にDBOにオメェと同じで「裏ルート」で参加した』

 

 意地でも葬儀に参加しようとしたユウキに、クラインは暴力で黙らせるわけでもなく、言葉遣いを荒げるわけでもなく、感情を押し殺した決して揺るがぬ眼で、淡々とマクスウェルについて語り聞かせた。

 

『結局のところ、アイツの娘が蘇っている確証は見つけられなかったが、アイツは娘をもう1度眠らせることを……それが世の道理だとしても、迷いなく実行できるはずがないと苦しんでいた。それどころか、必要性があるとはいえ、犯罪ギルドに身を置く自分を娘は許すはずもないと自責の念をずっと抱えていた。そんなアイツにとって、オメェは……アイツが戦う「理由」だったんだろうよ。オメェに……自分の娘を重ねて……「幸せになってほしい」ってずっと願ってたんだ』

 

 いつも口うるさかった。うんざりする時の方が多かった。だが、他の誰よりも自分を信頼してくれているという嬉しさもあった。

 本当は気づいていた。アリーヤを自分に貸し与えてくれるのも、過保護を感じさせる言動も、言葉の節々にチェーングレイヴから早々に抜けるように促しているのも、ヴェニデのところでメイド業をさせていたのもチェーングレイヴの業務から遠ざける為なのも、何もかも……頭で理解しようとしなかっただけで、心の奥底ではマクスウェルの心配りに気づいていた。

 

『俺はマクスウェルと同じ気持ちだったってわけじゃねぇがな。オメェをチェーングレイヴに入れたのも【黒の剣士】に対するカウンターになると踏んだからだ。自分の死に場所を求めるようなオメェならアイツが立ちふさがった時に命懸けで戦えると確信したからだ。だが、今のオメェはもう駄目だ。自分の「生きる目的」があるなら、それがチェーングレイヴの大義と異なるなら、同じ道を進めないなら、オメェは「同志」じゃねぇんだ。だから、マクスウェルの誇りにかけて、オメェを葬儀には参加させるわけにはいかねぇんだよ』

 

 霊園には今日も多くの人々が足を運んでいる。人口増加とはその分だけ1日の死者もまた増えているということだ。その中でも霊園に葬られるのは、埋葬したいと願い、なおかつ相応の額のお布施を支払える財力を投じてくれた仲間や家族がいた者だけだ。

 マクスウェルの葬儀も墓標もクラインがポケットマネーで全額負担したとレグライドから聞かされている。葬儀は駄目でも墓参りまで禁じられていないと機転を利かせて場所を教えてくれたのだ。

 

「不思議だね。1番大事な人の為なら世界だって滅びてもいいって迷いなく言い切れるはずなのに、大切な人が死んだら……こんなにも苦しくて涙が出る」

 

 泣きじゃくるわけでもなく、頬を伝う1滴の涙をユウキは拭わなかった。

 

「人間なんてそんなものよ。1番が最重要でも、2番を無感情に切り捨てられるわけじゃない。迷いなく1番を選べるとしても、2番を失うことを割り切れるわけじゃない」

 

「ヨルコさんは大人だね」

 

「嫌な人生経験を積んでるだけ。1度死んだ人間舐めんな」

 

 霊園の入口付近にあるベンチに腰掛けたヨルコは新たなビールを差し出すが、ユウキはさすがに霊園で、それも墓参りの直後に飲むなんてクレイジー過ぎると遠慮する。

 

「たくさん泣けばいいわ。泣きたい時は、好きなだけ頼りたい人に頼って、甘えて、泣いちゃえばいいのよ。そうしないと立ち直っても捻じ曲がっちゃうわ」

 

「それも人生経験?」

 

「ある人物を観察した上で得た教訓。『誰』なのかは敢えて明示しないでおくわ」

 

 それって言ってるようなものじゃないか。ユウキはまだ再会していない白の傭兵の後ろ姿を思い浮かべる。

 ヴェノム=ヒュドラの非道と港要塞攻略作戦、その裏で起きたクゥリの拉致……というよりも虚偽依頼による監禁。ユウキも前者はヴェニデに入ってくる情報から把握していたが、後者に関しては全てが終わった後だった。

 いつも肝心な時に蚊帳の外だ。だからこそ、帰って来る時は迎えたい。だが、クゥリは姿を消した。グリセルダとは定期連絡を取っているようであるが、しばらく顔を合わせる気はないらしく、ユウキがどれだけメールを送っても『今は会えない』とだけ簡素に返信が来るだけだった。

 

「ユウキちゃんが苦しんでるって聞けば、依頼中でもない限り、すぐにでも現れると思うんだけどね」

 

「『だから』だよ。クーは……そういう人だから。だから、クーが苦しんでる時は甘えたくないんだ」

 

 アルヴヘイムでそうであったように、自分の苦しみを曝け出すことなく、ユウキを抱きしめてくれるだろう。

 ユウキはきっと泣いてしまう。泣いて、甘えて、1晩中……涙が枯れて眠るまで。

 

「傷の舐め合いも悪くないんじゃない?」

 

「クーがまともに傷を見せてくれると思う?」

 

 さすがのヨルコも返答できずにビールを無言で煽る。墓参りに来た他のプレイヤーが非常識だとばかりにヨルコを睨むが、彼女は全く気にしない。

 

「だから、この苦しみも悲しみも……クーには見せたくないんだ。今は駄目だよ。クーはきっと見抜いてしまうから。癒えるまで隠そうとする傷口を……見逃さないから」

 

「変なところで鋭い奴よね。その鋭さをもっと別なところに発揮できないのかって話なんだけど」

 

 そう言ったヨルコはユウキの肩を抱いて引き寄せる。

 

「だったら、お姉さんとお酒でも飲んで、パーっと気分転換しない?」

 

「えー」

 

「そんな嫌な顔するんじゃないの! ほら、行くわよ! その代わり、ユウキちゃんの奢りね♪」

 

 タダ酒を飲みたいだけではないか。呆れたユウキであるが、ヨルコはやはり気遣ってくれているのだと改めて素直に受け止める。

 

「実は前々から行きたかった店があってね、美酒を揃えているんだけどぼったくり疑惑があって、ユウキちゃんと一緒なら大丈夫でしょ!」

 

 ……本当に慰めてくれてるだけだよね? うん、下手な勘繰りは止めよう。ユウキは頭を空っぽにしてヨルコの『善意』を信じることにした。

 マクスウェルの死を簡単に乗り越えられるわけではない。浴びるようにお酒を飲んで明日の朝を迎えたからと言って、何事もなかったように笑えるとは思えない。

 それでも、前に進まなければならない。そうしなければ、会えない人がいる。涙を湛えたままでは、自分のことよりもユウキを迷わず優先してしまう人だから。泣きたくても泣けなくて、だからこそ苦しんでいる人だから。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「ボス、飲み過ぎですよぉ」

 

「うるせぇ」

 

 チェーングレイヴの集会場にもなっている場末の酒場にて、クラインは氷が溶け切ったウィスキーを傾ける。

 先の港要塞の戦い、結果だけ見れば大ギルドの大勝利だったが、チェーングレイヴとしては敗北とも言い換えられる大損害だった。

 派遣したメンバーは全滅。しかもマクスウェルまで失うという取り返しのつかない失態だ。

 マクスウェルは経営学を始めとした組織運営において高い実務能力を有していた。本来ならば前線に送り出して損失して良い人材ではない。

 今回の損害の裏で決定づけられたのは人手不足だ。少数精鋭であるが故の弊害であり、チェーングレイヴが容易にメンバーを増員できない、彼らが殉じると誓った大義こそが組織崩壊の危機という本末転倒を招きかけているのだ。

 人口増加という『攻略』という観点だけを見れば有利に働くはずの要因がチェーングレイヴを逆に追い詰める。いや、むしろ人口増加はDBOに不安と混乱と実害ばかりをもたらしているのだ。

 

「マクスウェルの穴を埋められる奴はウチにはいねぇよ。今のところはアイツが教育してくれていた奴らが踏ん張っているが、遠からず破綻は見える」

 

「まぁ、そうでなくとも経理、人事、戦闘、外交、アイテム開発まで、何でもござれの万能超人でしたしねぇ」

 

 クライン程ではないが、アルコールが回った顔で、マクスウェルとも親しかったチャクラム使いのレグライドも指摘する。マクスウェルの死因は自分と同じ得物であった事に思う所はあったらしいが、直接の仇でもあるヴェノム=ヒュドラの幹部であったハリデルの切断された頭部が砦要塞の最深部で発見されたことにより、怒りの矛先も失い、酒で慰めるしかないのだ。

 

「嘆く暇があるなら次の手を考えたらどうだ。私としては勝負に出ても悪くない頃合いだと思うが、どうなんだ?」

 

 クライン達とは違い、酔った素振りこそ見せず、上品にワイングラスで赤ワインを嗜み、だが足下に無数の空のワインボトルを転がし、ユウキが除籍扱いとなった為に幹部の紅一点となったジュリアスは提案する。元管理者であり、だが知識や能力の一切を凍結されたプレイヤーと全く同じ存在であるが、実力はチェーングレイヴ幹部陣でも群を抜いている。クラインもユニークスキル無しでは勝ち目すらも見えない実力者だ。

 

「……まだ目的のコンソールルームを発見できていねぇんだ。ここで焦って攻勢に出たところで、大ギルドを敵に回した挙句に、ヴェノム=ヒュドラに背後を取られる。破れかぶれの無謀に出たところでマクスウェルの死は報われねぇんだよ」

 

「『それ』だよ。本当に実在するのか? 全ての蘇った死者を眠りに……いいや、綺麗な言葉は止めよう。蘇った死者の抽出されたフラクトライトを『自壊』させる停止プログラムなんてものが」

 

「管理者のジュリアスが『それ』を言っちゃいますかぁ?」

 

「あくまで『元』だ。権限も知識も凍結された私は自我と感情を有した、少しばかり戦闘能力が高いAIだからな」

 

「……少しばかりって、ジュリアスに勝ち目があるなんて、それこそユウキかボスくらいでしょうに」

 

「知識は凍結され、管理者時代の『記録』の閲覧はできずとも私の『記憶』が訴えかけている。最上位の管理者は文字通りの次元が違う存在だ」

 

 権限さえ凍結されていなければ『抵抗』くらいは出来そうなんだがな、とジュリアスはむしろ管理者としての全てを奪われた今の方が充実し、なおかつ闘志を燃やせるとばかりに不敵に笑む。

 

「SAO被害者のフラクトライトは全てライトキューブと呼ばれる、フラクトライト専用媒体に保管され、また機能している。これを機能停止することで、保管されたフラクトライトは緩やかに活動を止め、やがて自然崩壊……一般的に『死』と呼ばれる状態に移行する。苦しむこともなく、抗えない睡魔に呑まれたように、彼らは死に至る。俺達が目指すのはそれだ」

 

 概念としては安楽死に近いかもな、とジュリアスはクラインを補足するが、彼は自分たちの行為を虐殺と捉えている。掲げる大義は蘇った死者を今度こそ目覚めぬ眠りにつかせることであるが、『今』を生きる彼らから明日を奪う行為に他ならないからだ。もちろん、その本質を真に理解しているメンバーは少ないが、ここにいる2人はクラインと同様の見地である。

 とはいえ、レグライド自身も元SAOプレイヤーの蘇った死者であり、ジュリアスは元管理者という異色の経歴だ。クラインは現実の肉体に『改造』を施して真人間とは言い難いが、それでも罪を背負うべきは虐殺の末も帰るべき現実世界を持つ自分であると腹を括っている。

 

「教会が『リスト』を持っているんだ。プランC……我々の手で皆殺しにすればいいだろう?」

 

 ジュリアスの過激な提案に、聞き流すことはできないとレグライドが立ち上がる。

 

「それは前にもマクスウェルさんも交えて決議を取って却下したはずですよぉ。『リスト』に全員が記載されている保証はありませんし、何よりも結果は同じでも過程が大義から乖離し過ぎています」

 

「過程に拘っていられる状況か? 元より全ての罪を背負う覚悟があるのならば、有無さえ定かではないコンソールルームの発見に時間も人員も費やすのではなく、成功率は低くとも達成さえすれば目的を果たせるプランCしかないはずだ。戦力が足りないと二の足を踏んでいるならば、私が今からでも教会に乗り込んで『リスト』を――」

 

「元とはいえ管理者。AIに人間の感情は難し過ぎましたかぁ」

 

「喧嘩を売っているなら買うぞ、ゾンビもどき」

 

「売ってるんですよ、機械女」

 

 一触即発の空気がレグライドとジュリアスの間で醸し出され、互いが腰の獲物に触れようとした時、2人の間の空間が歪み、無数の青く煌めく斬撃が埋める。

 2人はクラインへと瞬時に顔を向け、だが彼は変わらず酒を口にしている。だが、彼の愛刀である羅刹丸はソードスキルを放った証のように『納刀』された状態でライトエフェクトを湯気のように散らしていた。

 

「オメェら、チェーングレイヴの掟を忘れたか? 仲間内で私闘はご法度。暴力ではなく言葉で解決。それも無理なら……」

 

「『飲み比べ』か『ババ抜き』。遺恨は残さない。前者はともかく後者は犯罪ギルドの威厳がまるでないな。だが、確かに同意していた」

 

「神速……いいや、『ゼロ』。これがボスの心意、ゼロモーション・スキル。ユニークスキルと噛み合い過ぎて反則ですよぉ」

 

 ジュリアスは肩を竦め、レグライドは脂汗を滲ませる。

 

「レグライド、ジュリアスに謝れ。暴言が過ぎるし、先に侮辱したのも喧嘩を吹っ掛けたのもオメェだ。ジュリアス、チェーングレイヴは俺の独裁じゃねぇのはオメェも承知のはずだ。俺はリーダーだが、大義に関しては全員が同等。1人1票の決議で多数決の原則だ。現方針の変更が望みなら招集をかけて決議を取れ」

 

 静かに酒を飲みながらも微かに怒気を発したクラインは2人の気持ちも分かるといった顔で苦言を呈する。

 

「……ジュリアス、すみませんでした」

 

「いや、私も悪かった。マクスウェルを失って組織は弱体化し、【黒の剣士】に匹敵しうる戦闘能力と強大な心意を覚醒しうるユウキの離脱による個人戦力の低下。チェーングレイヴの危機に違いないと思えばこそだったが、それこそが間違いだったようだ」

 

 互いに熱くなり過ぎたと非を認めた言動をクラインは受け止め、だがジュリアスの言う通り、もはや形振り構わぬ手段に打って出なければならない程に追い詰められつつあるのも間違いないのだ。

 

(事業拡大をして資金力と影響力を高め、チェーングレイヴの大義とは無関係の、比較的穏健でグレーな『手足』となる下部組織の育成。マクスウェルのプランもヴェノム=ヒュドラのせいで破綻寸前だ)

 

 少数精鋭の武闘派では影響力に限界が出始めた。今回のヴェノム=ヒュドラの件で、これまではチェーングレイヴを頼りにしていた犯罪ギルドでも秩序維持派だった面々は方針変更もあり得る。用心棒だったチェーングレイヴも数の暴力には勝てないと露呈したのだから当然だ。

 大ギルドによってダメージを受けたヴェノム=ヒュドラだが、あくまで『表』にちょっかいをかけるのを止めるだけだろう。失った戦力、拠点、麻薬アイテム・人身売買市場は大きな痛手になっているが、『裏』には支配力を高めるべく攻勢に出るはずだ。

 最低でもヴェノム=ヒュドラを黙らせ、『裏』の秩序を維持するだけの武力と組織力を明示しなければならない。だが、どちらにしても増員が不可欠であり、それでは大義の実行の障害を抱えることになる本末転倒だ。

 

(……やっぱり、アルヴヘイムに目当てのコンソールルームが無かったのがデカかったな。期待していたんだが、上手くいかねぇもんだ)

 

 クラインはDBOにログインした時に、キリトがアスナの奪還を餌にぶら下げられたように、復活した死者を眠らせる……抽出したフラクトライトを保管したライトキューブの停止プログラムの存在を教えられている。

 だからこそ、クラインは『茅場晶彦の駒』になった。茅場と茅場の後継者のゲームに参加した。もちろん、無策だったわけではない。少なくともログインする寸前まで、現実世界に残した肉体を彼に確保されておらず、現実世界で縁故となったヴェニデの協力を取り付けてある。

 だが、肝心のヴェニデはそもそもクラインの理解の枠外にある戦闘集団であり、コンソールルームの捜索には協力するが、大義の成就に関しては不干渉を貫いている。もちろん、協力関係の証としてヴェニデでも重要人物と呼んでも差し障りのない人物を派遣してもらっているが、それでもヴェニデ自体は事を起こした後の戦力として全く当てにできない。

 

(どうする? ジュリアスの提案も尤もだ。アスナも死んだ。憂いはねぇんだ。キリトはそれでも立ちはだかるだろうがな)

 

 しかも最悪の事態と言うべきか、キリトとクゥリの交友が復活してしまった。仮にクラインが行動に移せば、キリトは復活した死者の『虐殺』を防ぐ為に、何よりもクラインという戦友の凶行を止める為に、形振り構わぬ手段に出るだろう。

 最強の白黒コンビが復活する。クラインは断言する。あの2人が揃えば、組織も個人も区別なく無力だ。

 白が障害となる全てを蹂躙し、黒があらゆる不確定要素を超えて結果をつかみ取る。クラインは嫌という程に見せつけられてきた。

 

(クゥリだけでは絶対に手に入らないものをキリトは引き寄せられる。キリトだけでは突破できない絶望も苦難もクゥリは破壊できる。まるで正反対だからこそ、アイツらが組んだら……最強なんだ)

 

 最高に鮮烈だった魔王ヒースクリフ戦。SAOサーバーの演算処理能力と高度な戦闘用AIによるシステムアシストを受け、SAOのラスボスに相応しいステータスを持つ、ゲーム的な弱点を1つとして持っていなかった。

 キリトはあの戦いで限界を超えて反応速度を極限まで高めてシステムアシストを打ち破り、HP全損というゲーム的な死すらも『人の持つ意思の力』によって覆し、ヒースクリフを撃破した。

 クゥリは足りない反応速度を補う先読みとヒースクリフの戦闘思考の分析でシステムアシストを封じ込み、心理面まで深く食い込むトラップとキリトの隙を的確に埋める戦術構築、そして自死を恐れぬ無理と無茶と無謀の連続でラストアタックチャンスを作った。

 2人だけの世界。魔王ヒースクリフすらも置き去りにした白と黒のワルツ。命運を分かつラスボス戦だったはずなのに、事情はどうであれ仲間を皆殺しにしたクゥリの戦いだったはずなのに、クラインは魅入られていた。

 

「ボス、お客さんです」

 

 それは逃避にも似た過去の思い出への没入。クラインに我を取り戻させたのは店の玄関を見張っていたチェーングレイヴの構成員が怪訝な顔で来客を伝えたからだ。

 レグライドとジュリアスは身構えることなく、だがいつでも臨戦態勢を取れるだけの集中力を高める。対するクラインはあくまで予定の無い客を迎える為にゆったりと構える。

 

「やぁ、羅刹丸の調子はどうかな?」

 

「グリムロックか。ここはカタギが来るような場所じゃねぇんだ。用があるなら、こっちが時と場所を指定するって言ったはずだぜ?」

 

 丸眼鏡をかけた理知的な顔立ちと相反したDBOに狂乱をもたらすHENTAI鍛冶屋、グリムロックの登場にクラインは警告する。

 グリムロックが裏でクラインの羅刹丸を筆頭としたチェーングレイヴの装備を請け負ったのはクラウドアースも知らない秘密なのだ。不用心過ぎると気分を悪くしたクラインだが、グリムロックも馬鹿ではないのだろう。携帯しているアタッシュケースを叩いて見せた。

 

「試作の自衛用超小型ソルディオスでね、見張りはお寝んねしているよ」

 

 あくまで無力化しただけだから角は立たないしね、とグリムロックは平然と言ってのけるが、これは異常なことだ。

 グリムロック程の有名人ともなれば、各勢力の暗部によって見張られていて当然だ。クゥリのようにそもそも追跡自体が困難でもないのだ。彼の動向は常に大ギルドの目と耳に晒されている。

 黄金林檎が超危険ギルドでありながらアンタッチャブル扱いの理由はいくつかある。

 グリセルダの縦横無尽で大胆不敵な大ギルドを筆頭とした各組織との交渉。

 薬師のヨルコが懇意とする教会の威光。

 大ギルドに対して比較的協力的なグリムロックから得られる技術。

 もしも彼らに手出しをした場合、【渡り鳥】という核爆弾が形振り構わぬ暗殺による報復に出る危険性。

 そして、黄金林檎に探りを入れると何故か現れる、空を飛び回るボール型の謎のゴーレムの存在。

 情報不足の愚者か余程の覚悟が無ければ手出しは出来ない、満場一致の危険集団である。

 

「手持ちできる、それも暗部を根こそぎ無力化できるゴーレムか。見方によってはクゥリ以上にヤバい奴だ」

 

「私を彼と比べないでもらいたい。コレはあくまで自衛用だからね。他のアイテムを駆使しても、トッププレイヤー相手では応援到着までの『時間稼ぎ』くらいしかできないよ」

 

 グリムロック自体のレベルは中堅クラスのはずだ。素材集めなどで最低限のレベルアップをしているとしても、高レベルになるほどにレベルアップの必要経験値量が大幅に増加する以上は鍛冶屋と両立するには限界があるのだ。

 だが、グリムロックはトッププレイヤーという最高峰を相手にしても時間稼ぎができると言い切ったのだ。これがどれだけ恐ろしい事なのか、クラインが分からないはずもなかった。

 もしも時間稼ぎに成功すれば、グリムロックに恩を売りたい大ギルドが、黄金林檎と懇意にある教会が、何よりもクゥリが駆け付けるのだ。

 黄金林檎……ヤバすぎるぜ。クラインは大ギルドがここまで黄金林檎を放置し、アンタッチャブル扱いしているのもそれなり以上の事情があるのだと痛感する。

 

「チェーングレイヴのピンチだと聞いてね。商談に来たんだ」

 

「グリセルダは通さなくていいのか?」

 

「妻はお疲れでね。今は心労をかけたくない。事後報告するよ」

 

 心休まった後に地獄に叩き落す悪魔の所業じゃねぇか。チェーングレイヴの調査では、グリムロックは真正のドMとのことだったが、もしかせずとも無自覚Sの顔も持ち合わせているのかもしれないと評価を改める。

 

「欲しいモノがあるんだ。とても希少でね。だが、キミ達なら持っている確率が高いと踏んだんだ。もしも取引に応じてくれるならば、チェーングレイヴの危機に手助けできないこともない」

 

「……話を聞かせろ」

 

 グリムロックはグリセルダ程に交渉上手ではない。だからと言ってクゥリ程に壊滅的でもない。並よりも上程度だ。できれば、亡きマクスウェルにこそ任せて最大限に利益を得たい局面であるが、そもそも彼の死こそが現状を招いているのでクラインが応じるしかない。

 

「まずは問題点を掲げよう。チェーングレイヴは少数精鋭だからこそ、人口増加の煽りを受けて『裏』での影響力が低下し、ヴェノム=ヒュドラの増長を招いている。お陰でクゥリ君も巻き込まれてしまってね」

 

「アイツはトラブルに巻き込まれないと気が済まないのかって、俺には文句を言う権利があると思うんだがな」

 

「ハハハ、クゥリ君が事件に巻き込まれなくなる時は、彼自身が事件を起こして世界を巻き込む時だろうから、私は今の方が数億倍マシだと思うんだけどね」

 

「……笑えねぇよ」

 

「だったら商談を進めようじゃないか。単刀直入に言おう。チェーングレイヴの戦力強化に協力できる」

 

 グリムロックはアイテムストレージから情報記憶媒体のクリスタルを取り出す。

 

「実はね、前々からマクスウェルさんから考案されていたものがあってね、ようやく実用化にこぎつけたんだ」

 

「マクスウェルが?」

 

「嘘偽りなく報酬は未払いだ。加えて、ソウル・リアクターを搭載した機動甲冑の基礎設計を請け負おうじゃないか。どうせ、裏ルートから手配済みなんだろう?」

 

 情報を掴んでいるのではなく、チェーングレイヴならばそれくらい当然とばかりのグリムロックに、クラインは隠す必要もなくとも沈黙を保つ。

 クラウドアースはベクターが失脚したことによってヴェニデの影響力の低下に重きを置き、引きずられる形でチェーングレイヴとも距離を置いている。特に現議長のベルベットを筆頭としたクラウドアース首脳陣とはまだパイプを構築できていない。

 とはいえ、クラウドアースと太陽の狩猟団による共同開発となるソウルリアクターの幾つかは横流し品を得られる手筈は整えている。

 

「チェーングレイヴにもお抱えの鍛冶屋はいるだろうし、工房もあるだろうけど、ソウル・リアクター搭載ともなれば右往左往するはずだ。その点で言えば、私は基礎設計だけとはいえ、キミ達に大きなアドバンテージを与えられると思うけどね」

 

 特に基礎さえあればアイディアで飾るのも格段に楽だしね、とグリムロックはクラインが差し出した酒を疑わずに飲む。毒だと警戒もしないのは、自分を殺して得られるものよりも支払う代償の方が大きいとグリムロックは自覚しているからだ。

 

「とはいえ、チェーングレイヴの問題点は根本的な人員不足。それを解決はさすがに私にも無理だけどね」

 

「対価は何だ?」

 

 乗り気のクラインに、グリムロックは要求を伝える。耳にしたレグライドは露骨に顔を不安で歪め、ジュリアスは無表情となり、クラインも眉間に皺を寄せる。

 

「分かり切っていることですけどぉ、【渡り鳥】の強化に繋がっちゃいますねぇ」

 

「この男と交渉するとはそういう事だ。割り切るしかない」

 

「……簡単に言ってくれるぜ」

 

 レグライドの言う通り、クラインとしては潜在的に敵対するリスクが高いクゥリの強化はなるべく避けたい。だが、ジュリアスの指摘にもあるように、グリムロックとパイプを持って取引をしている時点でクゥリの強化は行われているので今更である。

 

「不安なら、私からもそれとなくクゥリ君に忠言しておくよ。見て分かる通り、ユウキちゃんはお気に入りみたいでね。ああ見えて、何かと気を遣っているんだ。効果は無いことも無いだろうさ」

 

「気休めにもならねぇな」

 

「答えは急がないよ。慎重になる気持ちはわかるからね。でも、そちらは猶予がないんじゃないかな?」

 

 クラインはテーブルを指で叩いて思案し、離席しようとしたグリムロックに待ったをかける。

 

「支払おう。ただし、条件がある」

 

「おや、取引に釣り合っていなかったかい?」

 

「当然だ。要求しているブツの危険性とオメェ自身の手で加工されてクゥリに渡る脅威。それらを考えれば、もう少し色をつけてくれてもいいんじゃねぇか?」

 

「ふむ、そうなると何か欲しい技術があるのかな?」

 

「クゥリを貸せ。アイツにやってもらいたい仕事がある。それも2つもな」

 

「……聞こうじゃないか。ただし、キミ達は犯罪ギルド。しかもサインズを通さない仕事だ。さすがにグリセルダと協議しないといけないね」

 

「1つは急ぎだ。すぐに回答を寄越してほしい」

 

 クラインはグリムロックに頼みたい依頼を告げた。

 今度はグリムロックが露骨に顔を顰め、気乗りしない様子でグリセルダに連絡を取った。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 苛烈な剣戟が火花を散らし、両者の集中力は重ねた刃の数だけ擦り減っていく。

 強い。更に腕を上げているだけではない。先の戦いを超える闘志を感じる。ユージーンの分厚い大剣から繰り出される剛の連撃を捌き続けるキリトは追い詰められていく。

 負傷の度に弱体化するオートヒーリングと防御力の低下はユージーンの攻撃から受けるダメージ量を増加させている。また、マユ謹製で並のフルメイルを超える防御力とアバター強度を得ているとはいえ、耐衝撃に関してはそこまで秀でておらず、ユージーンの大剣を受ける度にSTR制御を1つ間違えれば体勢が崩されそうになり、またダメージを受けるサイクルは負傷分だけ短くなる。

 対するユージーンはキリトがどれだけダメージを重ねても分厚い鎧によって身を守られ、また無理に斬撃を入れようとすれば平然とダメージ覚悟でカウンターを狙ってくる。一方で一撃の重さに秀でた月蝕光波や奔流は的確に回避・ガードするという卓越した技量もまた見せる。

 ギャラリーもいない、灰色のタイルが敷かれただけの修練場。キリトとユージーンはデュエルによって互いの剣の腕を競い合っていた。とはいえ、剣に限定せず、徒手格闘はもちろん、キリトならば聖剣の能力を、ユージーンならば新調した大剣の能力をそれぞれ駆使している。

 ユージーンの新たな得物は彼に相応しい重量型両手剣であり、肉厚の両刃剣で刀身には剣先から順に緑、青、白の3つの宝玉が埋め込まれている。

 大きく踏み込んだユージーンのかち上げ斬り。咄嗟に左右の剣でガードしたキリトであるが、足裏が地より離れる。浮いた状態での間髪入れずに振り下ろしが耐えきれるはずもなく、辛うじて保てたガードごと吹き飛ばされる。

 空中で姿勢制御するもユージーンは背後に剣先を向けると暴風を生み出す。それを加速に利用して間合いを詰め、体勢を復帰しきれていなかったキリトに風で加速した一閃をお見舞いする。

 左手のイジェン鋼の片手剣が弾き飛ばされる。ユージーンの一閃を弾くべくリカバリーブロッキングを狙ったのだが、お見通しだとばかりにタイミングをズラされたのだ。リカバリーブロッキングは一瞬しか判定がなく、僅かな狂いも許されずに相手の攻撃にタイミングを合わせねばならない。クールタイムは無いに等しいが、ユージーンはまさにリカバリーブロッキングの効果が切れた刹那にタイミングをズラした攻撃を合わせる絶技を繰り出したのだ。

 背後の壁に命中して甲高い音を奏でるイジェン鋼の片手剣に未練を持たず、即座に左拳を握ってユージーンの腹に≪格闘≫の単発系ソードスキルにして基礎ソードスキルである閃打を放つ。ライトエフェクトを帯びた拳はユージーンの鳩尾に命中するが、分厚い鎧には亀裂も入らない。むしろ、見え透いた反撃だとばかりにユージーンは薄く笑う。ソードスキルに反応して天雷装具スローネは雷属性を付与しているが、それもわずかにダメージを引き上げるだけだった。

 

「もらった」

 

「こっちの台詞だ」

 

 ユージーンが大剣を根元からキリトの肩に押し付けるが、それより先に瞬時に逆手持ちに切り替えた月蝕の聖剣の柄でユージーンの顎を強打する。これはさすがに無反応といかなかったユージーンが怯む。

 ユージーンの大剣の緑の宝玉が光る。風の能力だ。キリトは突風による吹き飛ばしを警戒するが、大剣から放たれたのはドーム状に広がるソウルの波動だ。射程距離こそ短いが、奇跡のフォースと同じ運用ができ、なおかつ魔法属性のダメージを与えるものである。

 宝玉が光ったからといって該当する能力が発動するのではないのか。まだユージーンの大剣の能力を読み切れていないキリトは残量HPを考慮し、ここが正念場だと呼吸を整える。一方のユージーンは八相の構えを取り、≪剛覇剣≫を発動させる。

 

「光輪剛覇剣!」

 

 ユージーンは咆え、禍々しいライトエフェクトを帯びた大剣を振り下ろす。空間に亀裂が入り、破壊エネルギーが立体的に伝播し、なおかつそこから無数の光輪が放たれる。ラストサンクチュアリ防衛にて、キリトを苦しめたユージーンの≪奇跡≫との合わせ技だ。

 だが、1度は攻略している。キリトは雷の如く広がる空間の亀裂と光輪を潜り抜け、聖剣に凝縮させた月蝕を解き放つ。

 月蝕剣技、シャイニング・ホライゾン。放出された月蝕の奔流はレーザーブレードの如く、また触れた対象を月蝕の重力で引き込んで破壊する。まずは大振りの一閃、続く振り下ろしと広範囲の2連撃にも繋げられるのも特徴だ。ただし、溜めの長さによって射程と威力が変動する為に、近接戦で素早く出した今回は威力も射程もせいぜいが3割程度である。

 ユージーンは横薙ぎこそ躱したが、続く振り下ろしは対処しきれないと判断し、即座に踏み込み、月蝕の聖剣本体へと大剣を重ねてシャイニング・ホライゾンを止める。

 ここだ。キリトはフリーの左手に穢れの雷を解放し、シャイニング・ホライゾンを押し返そうと全力を注ぎ込んでいるユージーンの脇腹を狙う。

 だが、キリトの背中に突如として衝撃が走る。同時に腹を突き破ってきたのは半透明の……霊体の槍だ。

 これは……!? キリトが振り返れば、ウンディーネの霊体妖精が槍で刺し貫いていた。更にユージーンをカバーするべく、彼の背後からサラマンダーとシルフが登場し、それぞれが破壊力を秘めた大剣と素早い刺剣でキリトに攻撃を叩き込む。

 

「オレの……勝ちだ!」

 

 キリトの視界に敗北のシステムメッセージが表示され、キリトは背中から倒れ込む。HPは赤く点滅しており、1割未満であるが、生存している。ダメージも10分の1に設定している為に意図的にオーバーキルを狙わない限りは死亡しないように安全に配慮したが、それでもHPバーがギリギリまで削れていく様は死に限りなく近い圧迫感があった。

 

「心意って……ズルいな」

 

「貴様だけは言う資格などない」

 

 それくらい分かっているさ。ただの負け犬の遠吠えなのだから聞き流してもらいたい。キリトはユージーンから投げ渡された回復アイテムを有難く使わせてもらう。

 

「心意には心意を返せばいいだろう。このオレには使うまでもないということか?」

 

「まさか。侮辱の意図はないさ。ただ……使えなかったんだ」

 

「相変わらずムラのある奴だ」

 

 回復を済ませ、まだ立ち上がれていないキリトと同様にユージーンも腰を下ろして胡坐を掻く。

 

「オレも完璧に使いこなしているわけではないが、能動的に発動はできるようになった。持続時間は短く、負荷も大きいが、短時間だけ任意の3体を召喚することができるまでに成長した。心意は鍛えれば鍛える程に成長と拡張があると実感が湧く」

 

 自分の手の内を明かした? いいや、馬鹿正直に信じるのはそれこそ愚かだ。実際には4体まで召喚できるのかもしれない、とキリトはユージーンの不敵の笑みに惑わされる。

 こうしてデュエルを行ったのは時間潰しであり、互いにもう1度剣を交えたいという気持ちがあったからだ。

 ユージーンは呪術を、キリトはメイデンハーツを封印し、互いに全力全開とは言い難いが、それでも限りなくイーヴンな条件でデュエルを行った。結果はキリトの敗北である。

 

「使えるものは何でも使う。心意だろうと何だろうと、何でも使ってこの残酷な世界で生き抜いて、俺の意思を貫く。覚悟は決めたさ。でも……」

 

 怖いのだ。心意はプレイヤーに許された領域を容易く超える。自分の心と本質が露わになる。

 ゼロ・モーションシフト。ヒースクリフに憎悪した過去とランスロットに刻み込まれた敗北感が生んだものだ。キリトもそれくらい自覚している。それは何処までも独りよがりで、破滅的で、繰り返した愚行を象徴するものだ。

 そうした自分の有り様を暴露するのが今さらになって怖くなったわけではない。キリトが恐れているのは、気軽に心意を使ってしまった場合、聖剣が取り返しのつかない何かを起こすのではないかと危惧しているのだ。

 聖剣が全てのプレイヤーとキリトをリンクさせ、心意を共鳴させて増幅させた。同時に多くの人々の心が……意思が流れ込んできた。

 クゥリを殺せ。殺せ。殺せ。バケモノを退治する【聖剣の英雄】であれという意思に染め上げられそうになった。必死に抵抗することが出来たのは、キリト自身があの状況で最高潮に自分の意思を確固たるものとして維持でき、なおかつそれを助長したのが他でもない戦う相手がクゥリだったからだ。

 

「フン。貴様とオレもまた繋がった。オレの心意を受け取ったのだからわかるはずだ」

 

「ああ、感じたよ。ユージーンの強い意思を……俺に託してくれた想いを」

 

 キリトとユージーンは既に特異で深い絆を有している。ユージーンが【聖剣の英雄】ではなく『キリト』を認めてくれたからこそ、心意を継承することができたのだ。

 

「心意は嘘を吐かない。何に怯えているのか知らないが、恐怖という感情で使用に二の足を踏んでいる時点で発動できる条件は満たせていない。鍛えられる時に鍛えておかねばいざという時に使い物にならん。せいぜい修練を怠らないことだな」

 

「……そうだな。デュエルに付き合ってくれてありがとう。スッキリしたよ。でも……でも……これでデュエルの連勝記録も終わりかぁあああ!」

 

「確かにオレの勝利だが、オレが呪術を封じたように、貴様もまた銃を……G&Sとやらを使えなかった。オレの真の勝利はアレを打ち破ってこそだ!」

 

 それでも勝ちは勝ちだとアピールするユージーンに、キリトは増々の悔しさを募らせる。

 心意の差で勝敗が分かたれたとはいえ、それ以前の戦いも全体を見ればユージーンの優勢だ。キリトもクゥリとの戦いを経て成長したつもりだったが、彼はいち早くフロンティア・フィールドに武者修行に出て己を鍛え直し、更なる高みを目指し、実際に力をつけていた。

 

「ヴェノム=ヒュドラの件もあって、3大ギルドもしばらくは有力ギルドによる代理戦争の小競り合いが主流になる。オレ達が戦場で会うのは当分先になるだろう」

 

「…………」

 

「浮かない顔だな」

 

「大ギルドの戦力を見たら……な。正直に言って甘く見ていたよ」

 

 キリトもスピリット・オブ・マザーウィルと戦った覚えもあるが、当時はあくまでマッチポンプであった。

 アームズフォートの脅威はもちろん、太陽の狩猟団が見せつけた戦力は組織としてどれだけ強大なのかをアピールした。

 

「大ギルドにとって傭兵とは強力な個人に過ぎない。攻略や探索では変わってくるが、GvGにおいては戦術的価値の範疇を脱しないだろう」

 

「まぁ、健全と言えば健全だよな」

 

 対人と対モンスターはまるで違う。太陽の狩猟団の新装備のサンライトなど、対人戦に特化された性能だ。そもそもGA自体が攻略に不適合した設計なのだから当然だ。

 傭兵が1人で10人分の価値があるならば、単純計算で11人をぶつければいい。元より個人である限り、範囲攻撃手段などがあったとしても、真っ向勝負で数の不利に質で覆すには限界があるのだ。

 対モンスター……特にネームドの場合、現在の最前線では人間の限界を超えた戦いを個人に要求する為に死者数は激増するが、それでも大ギルドが物資と人員の消耗を恐れなければ勝てる相手は多い。だが、しないのは『コストパフォーマンスが悪い』からに他ならない。プレイヤー人口は増え続けているとはいえ、最前線で最低限の戦力として機能するだけのレベルや装備を備え、なおかつ訓練するのにかかる時間と教育に割り当てる人員を考慮すれば、損耗する10人分を補え、なおかつ個人の質のお陰で生き延びられる傭兵やトッププレイヤーを送り込んだ方がコスパが良いのだ。

 この考え方は今後のGvGにも適応される。傭兵で防衛線の突破口を開く。補給線を破壊する。大型兵器を撃破する。敵拠点を潜入して攪乱、または防衛設備を無力化する。そうした『質』としての性質を活かす方面へと傭兵を活用していくことになるだろう。

 今回の港要塞がそうだったように、1人1人はキリトの足元にも及ばない実力、装備、レベルだったとしても、組織として機能すれば別だ。キリト個人ではどう足掻いても港要塞を陥落させることなどできなかった。だが、その一方でキリトも最初こそいいようにやられたが、通信設備を破壊することによって高度な連携が取れない状態に陥れ、実質的な組織としての戦力ダウンに貢献した。

 

「オレ達は傭兵だ。引き受けた依頼をこなすだけだ。だがな、オレ達『個人』がどのように生き、何を目指すかは別だ。【黒の剣士】、オレは貴様に負けこそしたが、まだ諦めていない。新たなやり方で、新たな道で、オレはオレが望むより良い未来を掴む」

 

 そう言ってユージーンは修練場を後にする。残されたキリトは再び大の字になって倒れる。

 俺だって迷いはない。だが、迷いが無いのと恐怖を抱かないのは別だ。

 恐怖を踏破する。そうすれば、キリトは心意を自由に使える自信がある。だが、心意の先にあるものが求める未来とは到底思えないのだ。むしろ、ようやく手に取ることが出来た、最も大切な友に再び刃を突きつける最悪の未来を引き寄せる気がしてならない。

 キリトは目を閉ざして最愛の友を想像する。

 穢れを知らない初雪のような純白の髪。静謐でありながら混沌を秘めた、蠱惑的でありながら清純そのものである、赤みがかかった黒をした不思議な色合いをした瞳。妖艶にして清廉にして美麗にして可憐なる、あらゆる芸術家が追い求めた美の具現の如き中性美の結晶というべき容貌。

 

『キ・リ・ト♪』

 

 振り返りながら自分の名前を呼ぶクゥリは容易く想像できる。もちろん親友だからだ。親友だからである!

 

『ほら、食え』

 

 自分に串焼きを差し出してあーんさせてくるクゥリ。他意はない。単なる過去の思い出だ。SAO時代の記憶だ。現在の姿に置き換わっているのは何の不思議もない!

 

『眠れないなら朝まで語り明かせばいい。幾らでも付き合うさ』

 

 SAOで寝付けぬ夜に察してくれて、ベッドで添い寝をしてくれたクゥリ。これもSAOでの思い出に過ぎない。今の容姿で記憶が脳裏で放映されているのも他意はない!

 美しく透き通った声は少年とも少女とも捉えられる高音で不愉快なく耳から入り込んで脳髄まで染み込む程に中毒的な心地良さがあって、普段の仏頂面や微笑みとは相反する小悪魔的な笑みは破壊力抜群で、しかもヒップラインは……!

 

「……って、違ぁああああああああああああう!」

 

 いつの間にかスクラムを組んだタルカスの亡霊に囲われているイメージと共にYARCAの大合唱が聞こえ、キリトは悶絶しながら額を床に何度も叩きつけて振り払う。

 

「出ていけ! 出ていけ! 出ていけぇえええええ!」

 

 額が割れて顔面血だらけになったキリトはようやくYARCA合唱を握り潰すことに成功する。

 タルカスの遺志と言わんばかりのYARCAの誘い。何度も振り払っても、油断をすると忍び足でキリトの背後を取ってバックスタブを狙ってくる。どうにか解決方法はないかと模索するも、そもそもYARCA旅団に深入りすること自体が本末転倒である為に対処療法以外に何も無いのだ。

 砦要塞攻略以来、クゥリと連絡を取れていない。グリセルダ曰く、無事であるがしばらく仕事・プライベートの両方でキリトと接触させるつもりはないと拒絶された。

 クゥリの身に何が起こったのか。あるいは、キリトにも教えられない長期依頼に従事しているのか。どちらにしても、キリトは自分のやるべきことをやるだけである。

 何はともあれ、まずは足場固めと情報収集だ。アスクレピオスの書架……実質的に教会の専属になったとはいえ、日は浅いのだ。まずは信頼を得て教会から情報をもらえるように努力しなければならない。

 その為にも専属として仕事をこなす。並列して『永住』と『帰還』の両立を志しているプレイヤーをピックアップする。

 

(あとはマネージャーか。あれだけ破格の待遇を準備してくれているとはいえ、マネージャーはやっぱり必要だよな)

 

 マネージャーの有無で依頼の質も、報酬も、負担も変わる。傭兵業に追われて本来の目的に手をつけられなくなっては本末転倒である。

 そうなるとマネージャーの選抜だ。キリトもこれでもかと名刺を渡されている。

 ランク持ち傭兵のマネージャーは花形だ。このタイプのキャリアにおける到達点とも言える。

 プライベートと徹底的に分け隔てるビジネスライクの者もいれば、身内のように深入りして親身になってくれる者もいる。キリトは自分の意図を汲んでくれる人物を望んでおり、報酬優先で仕事を取ってくるタイプは候補に入らない。

 本音を言えば、シリカならばマネージャーとして何の不満もないが、彼女にも彼女でやるべき事がある。また、シリカとの関係をあのままズルズルと続けていくのも良しとしなかった。

 トレーニングルームを出れば、いつから待っていたのか、シノンが両腕を組んで壁にもたれていた。

 

「長かったわね、敗北者さん」

 

「…………」

 

「ユージーンの顔を見れば、どっちが勝ったのか予想もつくわ」

 

「彼の剣については情報が無かった分だけ不利だった」

 

「情報不足を自分の敗因の言い訳にするのは結構だけど、死因にならないように注意する事ね」

 

 月蝕の聖剣に関する情報は既に出回っており、実際に戦ったユージーンならば癖も把握している。対するキリトは彼の新調した剣について無知だった。このディスアドバンテージは大きいのだ。

 とはいえ、今回のデュエルはユージーンから申し出たことではあるが、即決して受けて立ったのはキリトだ。デュエルの前の情報収集を怠ったのは自分であるが故に、シノンに反論する余地はなかった。

 

「ユージーンなりの埋め合わせと宣戦布告さ。彼と俺は同じ方向を見ているかもしれないけど、辿る道も違って、目指す場所も全く同じというわけじゃない。その上で、ラストサンクチュアリ戦があんな結末になってしまった事に責任を感じているんだろうな」

 

 キリトとしてはユージーンが心意を継承させてくれただけで十分過ぎるのであるが、彼はそれを是としなかった。わざわざ自分にとって大きなアドバンテージである新装備の情報をデュエルという形でキリトに教えてくれたのだ。また、自分の心意の成長を見せつけ、キリトを焚きつけることも目的なのだろう。

 

「俺も先に進まないとな」

 

 恐怖して、怯えて、足踏みしていられない。使えるものならば何でも使わねばならない。心意とも向き合って鍛え上げていくべきなのだろう。

 その一方で、キリトが心意の鍛錬と積極的活用に踏み切れないもう1つの理由は、茅場の後継者が心意……より正確に言えば、心意保有者に対して何らカウンターを準備していないはずがないという事だ。

 だが、今のところキリトにもユージーンにも茅場の後継者側から何もアクションはない。それが不気味で、大きな見落としをしているような気がするのだ。

 

「ねぇ、私にも心意って使えるかしら?」

 

「どうだろうな。シノンは今まで自分の頭の中心部……魂とも言い換えられる部位に仮想世界が繋がるような感覚はあったか? こう……閉ざされていた扉が開いたような解放感とかさ」

 

「覚えはない……けど、今になって思い返してみれば、心意じゃないかって疑ってる事は幾つかあるわね」

 

 シノンと共に階段を昇れば、傭兵寮のロビーに出る。家賃に相応しく様々な設備が整っており、傭兵たちの訓練にも積極的に用いられているが、利用可能なトレーニングメニューにも限度がある。今回のように限りなくギャラリーを排したデュエルには適しているが、個人が行うトレーニングとしては若干の時代遅れ面は否めない。

 噂によれば、3大ギルドは既に最新設備で限りなく実戦に近しいトレーニングを可能とする施設の運用を開始したとのことだった。教会もまた此度のヴェノム=ヒュドラの件を契機に教会剣を独立させてギルド化させ、3大ギルドと同様の最新トレーニング施設を導入する予定であり、利用には相応の『お布施』こそ必要になるが、一般にも公開する予定である。

 教会剣の専属ではないとはいえ、同じく教会系列のギルドであるアスクレピオスの書架の専属であるキリトも利用を許可される手筈になっている。もちろん、書架側からの好待遇もあって利用に制限はない。

 

「ハァ、寒い。すっかり冬よね」

 

「そうだな」

 

 巻いたマフラーを揺らしてポケットに手を入れたシノンを傍らに、キリトは今にも雪が降り落ちそうな灰色の空を見上げる。

 ヴェノム=ヒュドラの麻薬・人身売買については大きく報じられ、DBOに大きな衝撃をもたらした。だが、それはクリスマスに向けて浮かれる街のムードを変化させる程ではなかった。

 無責任にも近い聖夜への期待感。DBOから解放されるわけでもない。デスゲームが終わるわけでもない。何かが変わるはずもない。それでも、人々は生きる目的のようにクリスマスに向けて希望を膨らませ、また生き抜こうと足掻いている。

 

「……ねぇ、クリスマスの予定だけど、貴方は大ギルドのパーティに出席? それとも教会の専属らしく聖夜祭に出席するの?」

 

 慰霊祭を兼ねた聖夜祭を教会は大々的に催す予定だ。アスクレピオスの書架の専属となったキリトにはまだ招待こそないが、出席は半ば義務のようなものだろう。

 

「これから書架に顔を出すし、今月の予定だけでも打ち合わせする予定だよ。ラストサンクチュアリの時とは違って、専属先の意向には限りなく寄り添わないといけないだろうしな。そう言うシノンはどうなんだ?」

 

「私も似たようなものよ。太陽の狩猟団のパーティに参加して、その足で聖夜祭に出席ね。自由なのはクリスマス・イヴだけ」

 

「そうか。去年と同じなら、『特例』はイヴも含まれているもんな」

 

 全プレイヤーがデスペナルティから解放されるクリスマスイベントは、クリスマス・イヴも含めた2日間であると目されている。終わりつつある街の各地でクリスマスイベントに関する情報の開示も始まったらしく、NPCやクリスマスイベントに参加する為のアイテム入手イベントも発見されている。

 

「ね、ねぇ、クリスマス・イヴだけど……」

 

「ん?」

 

「よ、よかったら……その……イヴを……」

 

 顔を俯けたシノンは前髪とマフラーで表情を隠す。彼女の次の言葉をなかなか聞けなかったキリトは『あの事』かと笑いかける。

 

「仲間内だけのパーティの出席者だろ? 確かに、誰を呼ぶかは悩みどころだよな」

 

「え?」

 

「マユから教えてもらったよ。やるじゃないか。『シノンの提案』で、イヴにクリスマス・パーティを開くんだよな? 今からでも招待は遅いくらいだけど、リーファやレコンは誘いたいよな。他にも何人か呼びたい人達もいるけど、十分に人間関係を把握して選ばないとな」

 

「…………」

 

「あ、でも、クーは駄目だぞ! 彼は『先約』が入る予定なんだ! でも、開始時間によって前半だけ参加も……いやいや、欲を出したら駄目だな! うん!」

 

「…………」

 

「シノン?」

 

「……アハハハ! マユったら気が早いんだから! 私が連絡する予定だったのに! そうそう! そうなのよ! どうせクリスマスはそれぞれの予定が詰まってるだろうし、イヴに肩の力を抜けるような、皆で親睦を深められるちょっとしたパーティを開こうって思いついたのよ!」

 

「良い計画だよ。さすがはシノン。気が利くな」

 

 未来について重々しく語り合うのでもなく、全てを忘れて純粋に楽しむためのパーティも必要だろう。そんな時間を共有してこそ信頼は深まるはずなのだ。だからこそ、招く相手は厳選しなければならない。招かれる方が下手な勘繰りをして疲れてしまっては失敗なのだから。

 こんな細やかな幸せの積み重ねの先に未来があれば、どれだけ素晴らしいだろうか。キリトは考える。

 目の前の事に全力を投じて、ひたすらに今日を生き抜いて、そんな日々が輝かしい未来に繋がっているならば、どれだけ正の活力に満ち溢れているだろうか。充満している閉塞感を打ち破れるだろうか。

 だが、キリト達が直視せねばならないのは闇だ。目指すべき場所に辿り着く為の地図もコンパスもなく、自分の居場所を教えてくれる星々さえも暗雲に隠されている。だからこそ、分厚い雲を切り裂くようにして月光が降り注ぐ。

 妄信すれば戻れぬ闇の奥底へと誘い込む、だが真の意味で信じて共にあらんとすれば『導き』となる月光がいつだって傍にあるのだ。

 

「……それじゃあ、私はこれで。ちょっとマユの工房に用があるの。とっても『大事な用』だから、しばらく訪問しないでもらえるかしら?」

 

「ああ。もうメイデンハーツの受け取りは済んでるし、微調整をお願いしたいけど、急ぐことじゃないしな。俺は明日にでも足を運ぶって伝えておいてくれ」

 

「ええ、分かったわ♪」

 

 そして、シノンは満面の笑みで上機嫌な足取りでマユの工房へと道行く人々を半ば強引に掻き分けながら向かって行った。

 あの様子だとマユから新装備でも受け取るのだろうか。キリトはそんな想像を巡らせながら、アスクレピオスの書架のホームがある聖堂街へと向かう。

 教会関連の施設が並ぶ聖堂街は終わりつつある街でも屈指の治安の良さを誇る。教会の本拠地にしてちょっとしたダンジョンを超える規模・複雑構造を誇る大聖堂を中心にし、荘厳な雰囲気に満ち満ちている。また、教会の管理下にある霊園も幾つかあり、死者を偲ぶ場所でもある。

 

(随分と警備が厳重だな。やっぱり教会剣がギルド化した影響か)

 

 以前は見回りの警備など最低限だった聖堂街であるが、今は教会剣の証である聖布を装着した2人1組が頻繁に巡回していた。また、重要性の高い施設には分厚い甲冑と大型ハルバードを装備した重装の警備兵が睨みを利かせている。

 今回のヴェノム=ヒュドラの件で最も大きな影響を受けたのは、間違いなく教会だろう。来るもの拒まずといった雰囲気が確かにあった聖堂街は、清潔と静寂と安全の確保と引き換えにかつての懐の広さを失っている。

 

「お、お恵みを……お恵みを……!」

 

「貴様、聖堂街で配給は行わないと何度言えば分かる!? これ以上の立ち入りは教会への害意があると見なすぞ!」

 

 これまでは聖堂街で乞食をしていたのだろう、貧民プレイヤーは巡回の教会剣に見つかってつまみ出される。それでも抵抗の意思を示せば、腰の剣を半ばまで抜いて示威し、逃げていく貧民プレイヤーに彼らは鼻を鳴らす。

 思わず介入しそうになったキリトは堪える。彼らは新たなルールに従っているだけだ。キリトは聖堂街を囲うべく建築が進む大きな塀や堀に苦々しい表情を浮かべながら、アスクレピオスの書架のホームを目指す。

 大聖堂から程近い、終わりつつある街でありながら緑豊かな敷地。白い塀には余すことなく蔦が纏わりつき、正面玄関に配置された2頭の青銅のガーゴイルも苔生していた。

 

「お待ちしていました、【黒の剣士】さん」

 

 待ち侘びていたとばかりに迎えてくれたのはアスクレピオスの書架の副リーダー、ヒストニアだ。冬であっても見ているだけで汗が流れそうな程の厚着と重ね着であり、何よりも彼女自身が汗で肌を濡らしていた。だが、その身は極寒の野外に裸で放り出されたのではないかと思う程に震えていた。

 

「FNCなんて大変だな」

 

「生きているだけ文句は言えません。多くのFNCは自覚する前に死に直面し、あるいはその後もDBOの荒波に揉まれて生存する余地すら奪われます」

 

 同情されるのは慣れているのだろう。ヒストニアはキリトの言葉を軽く聞き流し、彼を案内する。

 

「ここはアスクレピオスの書架のホームであり、同時に研究所でもあります。我々は日夜ここで様々な薬の配合や臨床の他にも、薬の素材の栽培や増産の研究なども行っています」

 

「……臨床」

 

 病院や研究所と呼ぶにはクラシカルな雰囲気であり、また所々に見受けられる神秘を感じさせる意匠は、アスクレピオスはあくまで教会の直下にあるのだと肌で感じさせる。キリトは廊下に設けられたガラス窓から部屋の内部を覗き込み、ベッドに横たわれる幾人もの病院服を纏った人々に眉を顰める。

 

「ご安心ください。彼らに投薬されているのは各種回復アイテムです。彼らには同意の上で様々な回復アイテムの臨床試験を行っています。回復効果やデメリットを調べるには、実際に負傷やデバフ状態になり、精密な情報収集が不可欠ですから。多くは臨床試験に耐えうるだけのレベルのプレイヤーです。特にレベル20以上60未満は何かと入用で、臨床試験への参加者には相応の支払いを行っていますので、人気の日雇いなんですよ?」

 

 負の想像をされるのも慣れているのだろう。エストニアはマスクとゴーグルで覆われた顔で笑いかける。

 キリトもアスクレピオスの書架が恐ろしい実験に手を染めているとは思いたくない。なにせ、これから先しばらくは世話になる専属先だからだ。だが、ここは一般にも公開されており、見学も許可されているエリアのはずである。これだけの規模ともなれば、相応の深みもまた隠し持っているのは当然だ。

 

「1つだけ言っておく。俺はアスクレピオスの書架の悲願成就への協力を聖剣に誓った。だが、書架が非人道的な研究に手を染めた場合、俺は『俺』自身の誓いに従ってアンタ達を倒す。それだけは忘れないでくれ」

 

「ええ、それはもちろん。我々は医道を志す者。人を救う為に外道に堕ちては本末転倒と弁えています。その証拠として、【黒の剣士】さんには書架のホーム【植物館】を自由に立ち入る許可を与えています。もちろん、こちらとしても【黒の剣士】さんを信頼こそしていますが、セキュリティ上の問題から同伴を付けさせていただきますが」

 

 ヒストニアは何も隠すことなどないと笑む。だが、彼女が知らぬだけの闇が隠れているかもしれないし時を経る毎に日の光が当たらぬ場所から腐っていくかもしれない。とはいえ、組織である以上は完全なる清廉潔白などあり得ないことはキリトも承知であるので、最悪のラインさえ超えなければ口出ししないつもりである。

 そういう意味では謀略に満ち溢れた大ギルドの専属など、キリトには土台として不可能なのだろう。この辺りに対する過敏反応もまた彼の組織というものに決定的に馴染めない原因でもあった。

 

「それで、今日はリーダーが面会する予定だったのですが、あの人は……その……根っこからの研究者なので……」

 

「だから、ヒストニアさんが窓口なんだろ? それも理解してるさ。でも、いずれはちゃんと顔を合わせて話がしたいな」

 

「ええ、私の方からも強く申しておきます」

 

 ヒストニアに割り当てられた執務室なのだろう。大型の暖炉だけではなく、ストーブが10台と過剰設置のみならず、床下暖房まで完備という徹底ぶりだ。全て使用した場合、サウナを上回る高温空間が出来上がるのだが、キリトの訪問があってか、暖炉だけに火が点されていた。

 

「それでは依頼の話をさせていただきます。【黒の剣士】さんは――」

 

「キリトでいいさ」

 

「分かりました。キリトさんはまだマネージャーも雇用されていないとのことで、直接やり取りをさせていただきます。依頼の流れとしては、緊急性の高い依頼を除いては事前に協議を行い、内容と報酬を確約した上でサインズを通して正式に依頼させていただきます」

 

 ヒストニアとしても、現場や連絡がいつ取れるか定かではないキリトよりもマネージャーを通した方が負担は少ないはずである。キリトは彼らに迷惑をかけない為にも、即急にマネージャーの選抜が必要だと改めた。

 

「さて、今回の依頼ですが、内容としては長期依頼になります。仕事内容として【ウンディーネの秘薬】の素材収集をお願いします」

 

「ウンディーネの秘薬?」

 

「はい。我々が入手した薬学書に記載されていた最高難度の回復アイテムで、HPを9割回復とアバター修復速度を上昇させ、炎属性防御力を大幅に高めます。ウンディーネの言い伝えによれば、死の淵からすらも息を吹き返させるとか」

 

 アスクレピオスの書架の至上の目的は不老不死であるが、当面の目標は完全回復アイテムである女神の祝福、ないし同様の効果を持つ回復アイテムの作成と生産体制の確立である。

 仮にウンディーネの秘薬の安定した供給に成功すれば、プレイヤーの死亡率は間違いなく抑えられる。キリトとしてもこの仕事がどれだけ大きな意味を持つのかは理解できた。

 

「最長拘束期間は2ヶ月か。長いな」

 

「はい。ですが、その間は最長でも14日間の他依頼への従事を認可していますし、依頼報酬から差し引かせてもらいますが、申請していただければ休暇を好きな時に取っていただいて構いません。ただし、最低でも30日間の本依頼への専念をお願いします」

 

 報酬も条件も悪くない。むしろ、アスクレピオスの書架側が実質的な初依頼として気を遣っている。長期依頼で拘束することでキリトの獲得を内外に強くアピールすることも目的の1つだろう。

 

「あとは各種雑誌のインタビューや撮影。これも専属傭兵の仕事……か」

 

 専属傭兵とは専属先の広告塔でもある。キリトもまたアスクレピオスの書架が作成した様々な回復アイテムをアピールしなければならない。特にキリトの場合はエスト弾という回復手段があるだけに、戦闘外での広告活動は必須だった。

 

「分かった。どっちも引き受けよう」

 

「ありがとうございます。必要な物資や情報はいつでも仰ってください。ああ、それと真に勝手ながら、現地のサポート要員はこちらで準備いたしました。宿の方も滞りなく」

 

「何から何まで済まない」

 

「いいえ、これでまた1歩研究が進むことを祈るばかりです」

 

 拘束期間こそ長いが、探さねばならない素材に関して情報が無さ過ぎる。現地のサポート要員との協力が不可欠になるだろう。キリトがアルヴヘイムを攻略したという実績もあって、アスクレピオスの書架は素材発見に期待しているのかもしれないが、改変前アルヴヘイムにはそこまで詳しくない彼としては地道な探索と情報収集が鍵を握ることになる。

 

「そういえば、クリスマスなんだけど、俺は専属として聖夜祭に出席した方がいいか?」

 

「我々としてはキリトさんに依頼として参加を申請する予定はありませんし、聖夜祭自体にもそこまで力を入れていないのですが、教会の人間として申し上げさせていただくならば、是非とも参加していただきたいですね」

 

「……OK。予定は空けておくよ。ただし、挨拶とかは勘弁してくれ」

 

「重々承知しております」

 

 あくまで教会系列ギルドの専属であって、教会の人間ではない。キリトの副音声はしっかりと届いただろうヒストニアは軽く会釈して了解する。

 キリトはアスクレピオスの書架を後にするとその足で大聖堂に向かう。

 大聖堂は聖堂街でも最大規模の敷地を有し、最初にして最大の霊園もまた内包している。

 キリトは聖堂街の花屋で幾つかの花束を購入し、そのまま大聖堂へと踏み入る。彼はほとんど顔パスのようなものであり、衛兵たちも背筋を伸ばして呼び止めることもなく通す。

 霊園に設けられた、3大ギルドの各慰霊碑。キリトは先の作戦の犠牲者の葬儀に参列していない。傭兵の暗黙の了解として、それこそ余程の知人の死でもない限り、自分が参加した作戦の犠牲者の葬儀に参列してはならないのだ。

 昨日の敵は今日の味方であり、今日の味方は明日の敵。それが傭兵業界だ。ましてや、依頼で死者が出る度に葬儀に顔を出しては仕事にもならないからである。

 キリトは無言で太陽の狩猟団の慰霊碑に、そして教会が作成した全ての犠牲者を悼む合同慰霊碑に献花を行う。

 慰霊碑に添えられた花の数だけ今日も涙が流された。キリトは冷たい冬の風を浴びながら、先の作戦で亡くなった者達を弔う。

 チェーングレイヴは当然ながら『無関係』であるキリトにマクスウェルたちの葬儀の日取りも墓所も教えていない。教会に検索を依頼すれば、登録さえしていれば捜し出すこともできるが、制限が欠けられている場合は広い霊園の1つ1つの墓標を調べるしかない。

 キリトはアイテムストレージから、マクスウェルが託してくれて、だが結局は使うこともできなかった蛟の吐息を取り出す。

 チェーングレイヴに返還を願い出たが、あくまで件の作戦とは無関係であると言い張るチェーングレイヴは頑なに受け取ろうとしなかった。

 先の作戦において救出された拉致被害者はユナを合わせて11名。内の10名は心神喪失状態らしく、どうやらヴェノム=ヒュドラで慰み者にされ、また重度の麻薬中毒も患っていた。

 現在はアスクレピオスの書架の主導の下、ギャラクシーオレンジ共々に治療が行われているが、回復には時間がかかるとの事である。キリトにできることはなく、せいぜいがアスクレピオスの書架からの依頼を引き受けて素材集めをすることくらいであるが、今はその必要もない。どうやら、教会と懇意にある優秀な薬師がレシピの解析から治療に役立つ薬の開発を行っているらしく、進捗状況は良好とのことだった。

 だが、ユナを除く拉致被害者の場合、最大の問題は精神面のダメージである。譫言を繰り返しているらしく、まるで恐ろしい『何か』を見てしまったように、あるいは魅入られてしまったように、狂い切っているのだ。

 大ギルドは深追いしない。ヴェノム=ヒュドラは大きな傷を負った。『表』に手を出した報復は終わった。これ以上は火中の栗どころか導火線に火がついた爆弾を掴むことになる。だが、ここぞとばかりに勢力拡大を狙う犯罪ギルドはヴェノム=ヒュドラを潰しにかかるだろう。

 だが、あれだけの規模と技術力を持つ犯罪ギルドをこのまま大ギルドも放置するとは考え難い。大ギルドは表立って動かずとも暗部を投入し、また自分たちにとって都合のいい、制御が利く犯罪ギルドを支援するはずである。

 何にしても、キリトにお呼びがかかることは当分ないのだ。彼が心配するのは難民キャンプの元ラストサンクチュアリの人々であり、彼らが迫られた自立の際にヴェノム=ヒュドラの毒牙にかからないかだけである。

 どれだけ言葉を尽くしても死者は帰らない。それが道理であるのだ。SAOの死者が蘇ったDBOこそが狂っているのだ。それくらいは自覚している。キリトは灰色の空にアスナを思い浮かべて踵を返す。

 

「……あ」

 

 だが、霊園を後にしようとしたキリトが出会ったのはユナだった。

 淡い茶の髪を冷風で揺らしたユナもまた大きな花束を抱えていた。彼女もまた自分の救助に尽くしてくれた人々の為に献花を望んだのだろう。

 慰霊碑の前に跪いたユナの黙祷をキリトは無言で見守る。

 決して長い時間ではない。だが、キリトが死者を思い返すには十分過ぎて、心が自然と沈む最中にユナは立ち上がる。

 

<少し話がしたい。大丈夫?>

 

「俺も……ユナと話がしたかった」

 

 キリトはユナに誘われるままに霊園のベンチに向かう。

 2人で並んで腰かけたキリトはユナを見ることなく、並ぶ墓標を淡々と見つめる。墓標の1つ1つがDBOにどれだけの死者が積み重ねられたかを噛み締める。

 人口が増える一方で多くの死者も出ている。理不尽に、暴力的に、抗う術もなく、命を奪われている人たちがいる。キリトは静かに拳を握り、深く息を吐いた。

 

「元気になったみたいで良かったよ」

 

<キリト達のお陰だよ。本当にありがとう>

 

 ユナも心に大きな傷を負ったはずだ。だが、彼女は気丈に振る舞っている。この世界の不条理に負けるものかと心折れることなく踏み止まっている。

 

「エイジも心配していただろう? 怒られただろうけど、大丈夫だったか?」

 

「…………」

 

「ユナ?」

 

<エーくんは怒らなかったよ。無事で良かったって、それだけ言って、いつも通りに接してくれた>

 

 別に不思議ではない。ユナも十分に恐ろしい目に遭ったのだ。彼女を気遣い、まずは日常に戻って来れたことを示すべく普段通りに振る舞う事も十分にあり得る。だが、ユナの表情から察するに、キリトの推測は正しくないのだろう。

 

<私は何も知らなかった。エーくんがあれだけ忠告してくれたのに、エーくんに心配かけたくなくて、エーくんの手を煩わせなくても生きていけるって示したくて、余計に迷惑をかけた>

 

 ユナは保護される立場であることを受け入れられなかったのだろう。教会に保護されるならば、相応の対価を支払い、エイジに負担をかけたくなかったのだろう。

 幼馴染。ユナにとってエイジは対等の存在であってもらいたいという気持ちもあったのかもしれない。エイジにばかり負担をかけていると思い、故に彼女は危険を承知しながらも無理をしてしまい、今回の事件に巻き込まれることになった。

 キリトはユナに反論できない。彼が思い出すのは、クリスマスになると必ず胸の奥底で痛む、突き刺さったままの棘だ。

 独りよがりを繰り返し、1つのギルドを壊滅に追いやり、挙句に守ると誓った少女さえも死なせてしまった。どれだけ時間が経とうとも、帳消しにすることができない自分の罪として重くのしかかる。

 ああ、だからか。クリスマスに浮かれたい気持ちがある一方で、この時期が来る度に心が沈んでしまうのは。キリトは握っていた拳を開き、それでも彼女はあの時の自分の傲慢を見抜いた上で許していたことを思い返し、それでも消えない自責の念を味わう。

 

<私が死んでいた時間の分だけ、エーくんはたくさん苦しんでいた。頭では分かっていたのに、心では無頓着だった。エーくんは何も変わっていないって、体が大きくなっただけで、中身は何も変わっていないって信じたかった>

 

「……ユナ」

 

<私とエーくんはずっと一緒だった。幼馴染だから、何でも知ってるのが当たり前だった。でも違った。死ぬ前でさえ、エーくんのことで知らないことがたくさんあって、でも知ろうともしなかった>

 

 書き綴っていたスケッチブックごと膝を抱えたユナはベンチで丸くなる。嗚咽は聞こえなかった。だが、必死に堪えようとする強がりだけはキリトにも感じ取れた。

 

<今のままだと私とエーくんは『ただの幼馴染』のままで、このままだとエーくんは何処か遠くに行ってしまう気がする>

 

 再び顔を見せたユナには微塵として揺るがない意思があり、故にキリトは敢えて溜め息を吐く。

 

「……人生なんてそれぞれなんだ。幼馴染だからってずっと一緒じゃないだろう?」

 

 たとえ幼馴染でも成長すれば、それぞれの進むべき道を見つければ離れ離れになっていく。それでも結ばれた縁は簡単に消えないが、やがて疎遠になり、物理的な距離も加われば、別れの挨拶も無しにいつの間にか2度と会わないようになっていたことも珍しくないだろう。

 だが、とキリトは疑念を覚える。エイジは少なくともユナが蘇る方法を見つけ、大ギルドに追撃されるという己の死はもちろん、社会的な死すらも覚悟して戦い続けた。ユナの為ならば全てを失っても構わないという覚悟が伴っていなければ、大ギルドを敵に回して逃亡劇を繰り広げ、なおかつ無数のネームドが徘徊する中で戦い抜く等不可能だ。

 そこまでした男がユナをぞんざいに扱うとは思えない。何か理由があるはずだ。だからと言って、キリトがのこのこと姿を現して尋ねたところで、何もない場所に油を撒いて着火させるようなものだ。

 

<同じことを別の人にも言われた。でも、私はこのままなんて嫌。たとえ、エーくんに嫌われることになるとしても、『幼馴染』でいられなくなるとしても、ちゃんと向き合いたい>

 

「その為に、ユナはどうしたいんだ?」

 

<強くなりたい。エーくんの手を掴んであげられるくらいに強くなりたい。どうすれば強くなれる?>

 

 ユナの真っ直ぐな目を見て、キリトは自分が危惧するような……いいや、かつての自分と同じように『力』に憑かれて追い求めているわけではないのだと悟る。

 ユナが欲しいのは『強さ』だ。何処か遠くに行ってしまいそうなエイジを繋ぎ止める為に、手を伸ばすことできる『強さ』なのだ。そして、そこに到達する為にはエイジと同じ土俵に立って対等であると示す為の……DBOで生きていくことができるだけの最低限の『力』が要るのだ。

 

<失礼なのは分かってる。でも、キリトは凄い強いから、どうすればいいのか知ってると思ったから>

 

 キリトは自覚する。自分はたくさんの人に助けられて、支えられて、背中を押してもらって、今ここにいる。

 ユナが求める誰かを繋ぎ止めようとする『強さ』はキリトとは無縁だったものである。彼自身が突っ走って来て、いつだって誰かに手を掴んでもらって止めてもらう側だった。

 だが、今こそキリトはユナが欲するのと同じ『強さ』を求めているのかもしれない。目を離せば遥か遠くに消え去ってしまっているような、儚い白き友を繋ぎ止める『強さ』を見つけたいのかもしれなかった。

 

「俺はユナの求める『強さ』を持っていないよ。でも、一緒に探すことはできる」

 

 1人で出来ないなら2人で探せばいい。2人でも無理ならば、もっとたくさんの人を頼ればいい。キリトは寒さと心細さで震えるユナの右手を自分の両手で包み込む。

 

「強くなろう。俺が手助けする。だから、ユナも俺を助けてくれ。俺はキミが思っているよりもずっと情けなくて馬鹿だからさ」

 

「…………」

 

「ユナ?」

 

 顔を赤くしたユナは慌てた様子でキリトの手を振り払う。感情のままに動いてしまったキリトはしまったと頬を掻いて目を逸らした。そして、どちらかとも分からぬ程に重なったタイミングで目を合わせると笑い合う。

 

<よろしくね、キリト>

 

「こちらこそ、ユナ」

 

 さて、これから忙しくなる。キリトは張り切って考える。幸いにもユナは教会の保護下であり、キリトからも彼女の要望を申し出しやすい。しかも自由度の高い長期依頼だ。彼女のレベルとステータスにもよるが、割り当てられる時間は多いだろう。

 死者は何も語らない。それが道理だ。だが、ユナは蘇って今ここに生者として存在する。ならば、キリトは世の道理よりも目の前の女の子の願いを優先するまでだ。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「本当に良かったのか?」

 

「何がだ?」

 

「ユナは自分を罠に嵌めた奴を隠している……いいや、庇っている。ユナ至上原理主義過激派筆頭としては、どう対応するのかなって思ってな」

 

 荷造りすると言っても大した量ではない。家具はほぼすべてが教会の支給品であり、私物はほとんど売却して数えるほどしかないからだ。

 だが、最低限の礼儀として掃除を済ませたエイジは、洗濯を済ませて皺を伸ばしたばかりのシーツが敷かれたベッドの上に寝転がるスレイヴに若干の殺意を覚えながらも応じる。

 

「ユナが拉致された同日に孤児院からハナミという少女が行方不明になっている。それも夜中に警備の目を掻い潜ってな。同じく夜明け前に孤児のチョコラテが裏口の衛兵に爆竹を投げつける悪戯を起こしてる」

 

「つまりはチョコラテ少年がハナミ少女の脱走に手を貸している、と? そうなるとユナの拉致を手引きしたのはハナミ少女の確率が高いな。特に今回の手法は教会の内側にスパイがいる分だけやりやすいだろうしな」

 

「だろうな。教会も無関係とは思っていないだろう。だが、広いDBOで、それも下層に潜り込まれたら簡単には見つけられない。神父はチョコラテ少年をそれなり以上に信用しているようだし、彼を尋問するような過激な手法は取りたくないようだ。しかもユナも沈黙を保つならば、1人の孤児院の新入り女の子が馴染めず逃げ出した。それだけだ」

 

 チョコラテが何かを隠しているのは見抜けていた。だが、今のエイジに追及する気はない。他でもない、ユナが真実を明かすことを望んでいないからだ。

 水銀の槍としてもハナミの捜索と抹殺の指令は来ていない。つまりはエドガーもハナミをひとまずは見逃す、あるいは彼女1人を探すだけの労力は割けないということだろう。教会剣のギルド化に伴って仕事量も増加し、エドガーも組織運営の為にもより信頼できる手足の確保に努めねばならないようだ。逆に言えば、猫の手も借りたい状況だからこそ、エイジを手札として加える価値を見出したのだろう。

 

「それよりも、スレイヴこそ何をしていたんだ? お前がいればユナは……」

 

「こう見えて忙しいんだ。俺も好き勝手やらせてもらってこそいるが、レギオンとして仕事が割り振られたら最低限こなさなければならない。それに厄介なことになっていると言っただろう? 俺に重要度の高い仕事が回ってくる程度にはレギオンも動かねばならない状況なんだ」

 

「……分かった。信頼するさ」

 

「信頼か。お前からそんな言葉が聞けるなんて嬉しいなぁ」

 

「だったら今すぐベッドから降りろ」

 

 さもなければ『洗濯ばさみ』だ。エイジが無言でポケットに手を入れれば、スレイヴは察したように飛び跳ねてベッドから転げ落ち、強打した鼻を押さえて涙目でのたうち回った。

 

「しかし、ようやく馴染んだこの部屋ともお別れか。新居も居心地が良ければいいんだがな」

 

「…………」

 

「分かってるさ。エイジがわざわざ手を回して聖堂街に俺の部屋を準備してくれたんだ。約束通り、ユナは見守る。だが、今回のケースのように四六時中見張れるわけじゃない」

 

「……ユナならきっと大丈夫だ。彼女は無鉄砲だけど、僕程に馬鹿じゃない。DBOの危険性は学んだ。これからは上手に立ち回るさ」

 

 ユナはこのまま教会に引き篭もるような真似はしないだろう。彼女は恐ろしい目に遭ったからこそ立ち向かうことを選ぶはずだ。それがエイジの知るユナなのだ。

 たとえ歌声を失おうとも、ユナの本質は変わらない。エイジにとっていつだって眩しかった彼女は、いつだって自分よりも真っ直ぐに光の中を進んでいく。

 

「それで、お前はこれからどうするんだ? 教会の暗部となり、しかも犯罪ギルドとも縁故。切るのは後者だとして、まだ早いんだろう?」

 

「ああ。ライドウはどうやら次のステージに僕を進めるみたいだ。エバーライフ・コール……いいや、カリンも僕の借金を肩代わりした『本当の理由』も別にあるみたいだしな」

 

 ライドウとカリンの間で交わされた取引。そして、ライドウが宣言したカリンの殺害。エイジはこの2つが繋がっていると考えている。だが、あのライドウの考えだけに読み切れているかどうかは疑わしい。

 

「念入りに準備しろと言われている。出来る全てをするつもりだ」

 

「……だからってなぁ、邪剣を渡すか?」

 

 エイジは教会の手引きでアーチボルドと面会し、砦要塞で殺した女の武器や太陽の狩猟団の最新鋭装備を手土産に、ダーインスレイヴの更なる強化と新装備の開発をお願いした。

 アーチボルドは骸骨と見紛う程に痩せ細った男だった。だが、溢れんばかりの活力を浮き上がった肋骨の裏側に隠している、鍛冶屋としては危険な人物でもあった。

 

『私の追い求めた青い雷光! ユージーンは愚かだ! まるで使いこなせなかった! 挙句に私のせい? 私のせいで負けただと!? クラウドアースは節穴だ。私は……私は敢えて欠陥と呼ばれようとも、あの姿こそが美しいと修正しなかったのだ! 極限まで! 極限まで! 極限までぇえええええ! 雷を吸収し、そして爆ぜる! そのギリギリまでソウルの能力を引き出すことに何故躊躇する!?』

 

 自爆しては元も子もないからだ、とはエイジも初対面の相手の機嫌を損ねたくない為に発言しなかった。

 ともかくアーチボルドという人物は、巷で噂されているような、ユージーンの敗因となった自爆を予期しながら改善を放棄して、それでスペックを極限まで引き出せたと断言できる危険人物であることは理解できた。

 

『ここに太陽の狩猟団の最新鋭装備と僕が持つ装備の全てがあります。僕の戦闘スタイルをお話ししますので、持てる限りの技術を尽くしていただきたい。少ないながらも資金も準備しました。足りない素材はこれで購入してください。ただし、くれぐれも足がつかないように』

 

『青い雷光は?』

 

『……素材にありません』

 

『やる気出んなぁ』

 

 あの態度で果たして期待できるだろうか。エイジは不安を覚えるが、一呼吸で回想を切り上げる。

 最高の仕事をしてくれるかはともかくとして、あの手の類は依頼人を裏切らない。何よりも太陽の狩猟団の最新鋭装備……特にソウル・リアクターは興味をそそったはずである。

 あれから3日、ひとまず進捗状況を確認しに向かうのがエイジの今日の予定だ。ライドウは準備期間と称し……もとい、彼自身もクラウドアースから仕事が入ったらしく、稽古を付けられないとして、エイジは自主練と準備に専念することになった。

 

「それに盗まれたとしても、スレイヴなら居場所を追えるんだろう?」

 

「俺への負荷を考慮しなければな! 寿命は削れるがな!」

 

 頬を膨らませて抗議するスレイヴを無視したエイジとて、何も不安ではないわけではない。鍛冶屋による装備の持ち逃げは珍しい案件ではないからだ。個人経営はもちろん、それなりに名の通った工房でも従業員が持ち逃げしたケースは少なくない。故にトッププレイヤーの条件の1つは安心して装備を任せられる鍛冶屋、工房の存在が不可欠である。

 港要塞の戦いを経て、エイジは新たな『力』を手に入れた。ガラス窓に映る半透明の自分の顔……右目は今でこそ元に戻っているが、あの時の感覚は忘れていない。

 

「なぁ、スレイヴ」

 

「んー?」

 

「……なんでもない」

 

 元よりリスクは承知だ。むしろ、変化が恒久的状態として定着しなかった分だけ良しとすべきだろう。エイジは質問を堪え、荷造りを終える。

 

「僕の表面上の身分は、葬儀屋ギルド【シールド・ボックス】の助っ人だ。間違えるなよ」

 

 名刺を取り出して投げ渡せば、スレイヴは得意顔で指で挟み取ろうとして、だが失敗して額に名刺の角が突き刺さって悶絶する。その様子に不安を募らせたエイジは腰に手を当て彼女を睨んだ。

 

「信頼しているんだろう? 口を滑らせるなんて、初歩的なミスは犯さないさ」

 

「だといいんだがな」

 

 良い笑顔で良い返事をしてサムズアップするスレイヴであるが、額に名刺が刺さったままでは説得力皆無である。エイジは本当に大丈夫だろうかと思わず唸った。

 葬儀屋ギルドとは名称通りの葬儀の執り行いと遺体・遺品の回収を主な業務とするギルドだ。その性質上から教会とも密接に関与しているが、如何にDBO内でも現実世界の信仰を持ち合わせているものが多く、教会の葬儀形式を望まない者も多い。

 シールド・ボックスは教会と協定を結ぶことで仕事を多く貰い、代わりに葬儀を通して多くの信者獲得に協力している。ビジネスと信仰のウィン・ウィンの関係である。こればかりは多くの人員の分だけ多様な信仰を内包せねばならない大ギルド勢力には難しい。

 大ギルドは絶対的な武力と財力を持っているが、彼らに頭を垂らすだけが繁栄の方法ではない。皮肉にも武力と財力に多少の余裕が持ててきたからこそ、エイジにもDBOの社会・経済の姿が以前に増してよく見えるようになっていた。

 ノック音が響き、エイジはスレイヴに目配りする。退去するエイジを訪ねる人物は1人しかいない。

 ドアを開ければユナが立っていた。救出された翌日こそ疲労と精神的ショックで寝込んでいたユナであるが、今は顔色も良く、双眸には芯の通った強い光が宿っている。

 

<本当に行くの?>

 

「ああ。住居も準備してもらえて好待遇なんだ。準備を整えたら、すぐにでも仕事に参加して誠意を見せないとな」

 

<もう少しでもいいから、ここで暮らせないの?>

 

「教会を通して紹介してもらった仕事でもあるんだ。彼らの顔に泥を塗るわけにもいかない」

 

<私のせい? 私が迷惑をかけたから、エーくんが出て行かないといけなくなったの?>

 

 ユナは自分だけ教会に留まることを気にしているのだろう。エイジは首を横に振り、僅かばかりの私物が入ったリュックを担ぐ。

 

「前々から打診されていたんだ。教会も僕の社会復帰を望んでいたし、いつまでも庇護下に置くわけにもいかない。僕もこのチャンスを不意にしたくないし、利害の一致だよ。ユナも落ち着いたら似たように促されるさ」

 

 教会としてもユナを保護し続けるメリットがなければ現状を維持しないだろう。理想としては修道会に属してもらい、正式に教会の1員となって戦いとは無縁の場所で静かに暮らしてもらうことであるが、今回の事件のようにDBOにおいて安全など実に脆い。ユナも痛感するからこそ、そして彼女の性格を考えれば、どのような選択を取るのかはエイジにも予想が出来た。

 ユナは口を開こうとして、だが喋れないことを思い出したようにスケッチブックを手に持ち、しかし指が追いつく前にエイジは出立するべく踏み出す。

 

「これ、新しい住所だ。忙しい仕事だから、訪問する時は連絡してくれ。なるべく都合を合わせる」

 

 半ば押し付けるように新居の住所を裏書きした名刺をユナに手渡す。

 

「……机の上に少しだけどお金も置いておいた。霊園に大ギルドの慰霊碑がある。花でも買って、僕の分も兼ねて、犠牲者に追悼しておいてくれ」

 

 ユナを救うために尽力してくれた人々だ。エイジは自分にできる返礼はこの程度であるとユナに頼む。

 立ち去ろうとするエイジの袖をユナは掴む。まだ話したいことがあると言うように、唇を噛みながらエイジを見つめている。

 

「…………」

 

「……ユナ」

 

 ユナの瞳に吸い込まれていくような錯覚に陥る。エイジは思わず足を止める。胸の内でオイルのように憎しみで粘ついた言葉を吐き出しそうになる。

 あの時、僕もあの場所にいたんだ。キミを助けられなかった。無力だったんだ。何もできなかったんだ。まるで懺悔のように泣き言が漏れそうで、エイジは狼狽える。気を抜けば、ユナに縋りついて全てを吐露してしまいそうな程に、心なしか潤んでいるユナの瞳に揺さぶられる。

 

「はいはい、ストーップ。今生の別れじゃないんだから……な?」

 

 と、そこに割って入ったのは見守っていたスレイヴだ。エイジの袖をつかむユナの指を離させるべく体を滑り込ませ、スレイヴはにこにこと能天気に笑う。

 

「エイジ、ユナもあんな事件があった後にいきなりお前と離れ離れになるんだ。彼女の不安も少しは理解してやれ。ユナもユナだ。DBOで待遇と報酬が釣り合った仕事を得るのがどれだけ大変なのかはもう分かってるだろう? いくら『幼馴染』でも、ずっとは一緒にいられないんだ。コイツの立場も少しは理解してやってくれ。頼むよ」

 

 さすがはスレイヴだ。普段が嘘のように、こういう時には役に立つ。スレイヴの背中を頼もしく思うエイジは、たじろぐユナが自分とスレイヴを交互に見る様子に、苦笑を交えた微笑みで返す。

 

「いつでも遊びに来ていい。ただし、近道して治安の悪い地域を通らないでくれ」

 

「HAHAHA! 安心しろ! 俺も大聖堂から出ていくが、聖堂街で暮らすことになったからな。貧弱にして最弱だが、その分だけ生き残ることには長けている! エイジを訪ねたい時はいつでも同行するさ。だから『仲良くやろう』じゃないか。なぁ、ユ・ナ♪」

 

 自分は邪魔者だとばかりに跳ねて2人の間から退いたスレイヴは、これからの友好を願うようにユナにウインクした。

 

「ああ、それとエイジ。『例の件』に進展があった。『後でお前の家を訪ねる』からメシを作って待っていてくれるか?」

 

「準備しておく」

 

 ユナの声を取り戻す方法についてだろう。エイジは強く頷いて了承する。

 

「じゃあ、僕は行くよ」

 

「俺も途中まで付き合おう。別件の用事があるんだ」

 

 最後にユナと視線を交わし、エイジはスレイヴを伴って今度こそ出発する。

 エドガーは見送りに来ない。エイジにとっては上司に相当するが、水銀の槍は教会の非公式組織である。援助はあるとしても、エイジに万が一の事態が迫ったとしても手助けはない。仮に仕事で誰かを殺し、それがバレて追い詰められたとしても、教会は無関係を貫く。

 誰が水銀の槍なのか、エイジは知らされていない。基本的に水銀の槍は協働する時以外の接触を禁じられている。もしかしなくとも、廊下ですれ違ったシスターが、軽く会釈する門番が、荷車を引く花売りが、聖堂街との境界線に屯する貧相な乞食が、太陽が高いうちから客を取ろうとする娼婦が、自分と同じ水銀の槍かもしれないのだ。

 互いの正体を知る必要などない。故に秘密は保たれる。エイジは薄汚い路地裏に消えたスレイヴを見送り、新居へと向かう前に、下層に設けられたアーチボルドの工房を訪ねることにした。

 ヴェノム=ヒュドラの影響力が低下したお陰か、下層の空気は肌で感じ取れる程に変化していた。ただし、それは良い意味ではない。これから群雄割拠の戦国時代が幕開けするかのような、ヴェノム=ヒュドラの失った市場を奪い合おうとする猛獣たちが肌を焦がすような殺気立った空気だ。

 

「酷いもんだったぜ。内臓が食い荒らされてたんだ。野犬の仕業らしいが、信じられねぇぜ」

 

「ここ最近はきな臭い事件が多過ぎるな。チェーングレイヴがデカい顔をしていた頃は、こんなヤバい事件なんて1日と経たずに解決していたってのによ」

 

「ウチの娼館も経営者が変わって、以前よりノルマが厳しいのよねぇ。新人は慣らしの期間が必要なのに」

 

 クリスマスの装飾で彩られた中層とは違い、下層は目に悪いネオンの光や悪臭が漂う排水溝など普段と何ら変化が無い。だが、道行く人々の口から漏れるのは例外なく不安だ。エイジは自然と早足になってアーチボルトの工房を目指す。

 下層のガラクタ市場。廃品やゴミと表現する他にない素材、アイテム、破損した装備などが山積みされ、それらを売り捌く店が中心となった市場だ。中には掘り出し物もあり、人によっては宝探しと称して好んで足を運ぶこともある。その影響もあってか、快楽街と同じくらいに中位、上位プレイヤーの姿も見受けられた。

 その中でも機械関係の廃材で埋もれた、鉄板をつなぎ合わせた今にも倒壊しそうな店があった。読みやすさを放棄した、ベニヤ板にスプレーで『アーチボルド工房』と書かれた店の戸を開けたエイジは、HPを削る勢いの爆風に前髪を揺らされる。

 

「何故だ! どうして安定しない!? 私の計算は完璧のはずだ!」

 

 青白い電撃が爆ぜる炉の前で荒れ狂うのは、スケルトン系モンスターと勘違いされても仕方ない程に痩せた男だ。老人と呼んでも差し障りの無い年齢であり、DBO最高齢プレイヤーとされるアレスとも良い勝負だろうが、痩せ衰えている分だけ『老いぼれ』という表現が似合った。

 

「何が足りないのだ……! ああ、青き雷光! あの美しき輝きをこの手に! どうして深淵より至る雷は青い!? 青い雷はどうして闇属性を持たない!? 深淵より生み出されるはずなのになぜ!? いいや、逆だ! そう、逆なのだ! DBOで一般的とされる、黄金の雷! これこそ神族の影響を受けた証! 正しき雷の姿こそが青なのだ! 故に深淵の闇によって中和されたことによって、雷本来の美しさを取り戻すのだ!」

 

「…………」

 

「もう少しだ! あともう少しなんだ! 何が足りない……何が足りない!?」

 

 そもそも何が作りたいんだ? 泣きじゃくって拳が血で真っ赤に染まるまで床を殴り続けたアーチボルドが落ち着くのを待ったエイジは、ようやく訪問客に気づいた彼に対して会釈をした。

 

「なんだ。お前か。青い雷光の素材を持ってきたのか?」

 

「……いいえ。装備の開発状況を如何かと」

 

「フン! 役立たずが! 好きなところに座れ!」

 

 まるで興味が無いとばかりにアーチボルドは禿げた頭を掻いて舌打ちする。

 何処に座れというのだ? ガラクタと丸められた設計図だらけの工房は足の踏み場も座る場所もない。辛うじて客を迎える為のカウンターさえも廃材で埋め尽くされているのだ。およそ商売は成り立たない。

 クラウドアースを追い出されたアーチボルドは私財を売り払ってガラクタ市場に小さな工房を構えていた。店の構えこそ商売する気もないが、青い雷光に魅せられてイカれてしまっているとはいえ、下層において彼のような鍛冶屋でも重宝される。

 たとえば、破壊された装備を分解してまだ利用できる素材に加工したり、廃材から希少素材を抽出したり、とリサイクル屋よろしく、1人で食べて生きていけるだけの稼ぎは得ているのだ。とはいえ研究費用を捻出できる程ではなく、エイジからの依頼は渡りに船だったはずである。

 だが、アーチボルドは全くと態度を変えず、エイジすらも邪魔者扱いをして憚らない。だが、逆にそれでいいとエイジも割り切っている。互いのプライベートに踏み入ったところで得などないのだ。

 工房の玄関に鍵をかけたアーチボルドはエイジに珈琲を振舞う……ことなく、自分の分だけ注いで汚らしく喉を鳴らして飲む。

 

「急かすわけではありませんが、大仕事が控えていまして、進捗状況を――」

 

「私を誰だと思っている!? 青き雷光の権威にして最先端! アーチボルドとはこの私のことだ!」

 

 だが、渡した装備にも素材にも青い雷光に関するものも無いのだが。エイジはツッコミを喉元で堪え、アーチボルドが蹴飛ばした木箱を開ける。

 

「まさか、もう完成を……!?」

 

「当然だ。ソウル・リアクターか。太陽の狩猟団も着眼点は悪くないが、私に言わせればまだまだよ。面白い玩具ではあったが、私にかかれば解析など朝飯前。お前のバトルスタイルに合わせて改造を施した」

 

 木箱の中に入っていたのは青みがかかったバトルスーツだ。エイジが奪取したサンライトは機動甲冑であったが、外見には名残もない。柔軟性に富んだ素材であり、装備すれば首元まで含めて全身を覆う。胸部、腕部、脚部には防御力強化用のプロテクターも備わっており、更に一体化したコートは裏地には電子回路のようなものが見て取れた。

 サイバーチックな装備だ。可動性を重視した手袋の調子をチェックしつつ、エイジは首裏……バトルコートによって隠された肩甲骨の間で不気味に光る小型の装置を鏡で視認する。

 形状のみならず、大幅な小型化が施されているが、ソウル・リアクターに違いないだろう。だが、これだけ小型化されていた場合、燃料供給による高出力モードは可能なのかと心配になる。

 

「ああ、燃料供給機構か。あんなゴミは外しておいたぞ」

 

「は?」

 

「お前の仕事が何か知らんが、燃料供給機構はそもそも燃料はもちろん、肝心の補給設備が無いと無用の長物。しかも供給後の自然消耗を考慮すれば、ダンジョンどころかフィールド探索でもお荷物だ。ソウル・リアクターはあくまで補給設備との同時運用が前提だ。個人でフットワークを重視して運用するにしても、最低限の補給設備を搭載した移動手段の手配が必須だ」

 

 そう言ってアーチボルドが投げつけたのは、補給設備を搭載したトラックの見積だ。口こそ悪いが、エイジが納得するようにしっかりと必要な素材や機材の手配、更にはランニングコストまでびっしりと細かく記載されていた。

 ゼロの……ゼロの数が多い。エイジは大よそ1ヶ月に『未使用』であっても必要とされるコストに眩暈を起こす。こんなものを個人で運用するなど馬鹿げている。1人分を維持するだけでも最低でも中規模ギルドの財力が不可欠だ。しかも得られるのは短時間……それも燃料補給設備が移動できる範囲内である。

 たとえ財力はクリアできても、移動や整備の諸々を考慮すれば、最低でも5人……それも相応の熟練度に達した≪鍛冶≫スキルを持ったスタッフが要る。オミットも納得の内容だった。

 

「強度と安定性を犠牲にしてソウル・リアクターが元来備えているエネルギー発生量を極限まで高めた。薄さと柔軟性に特化した人工筋肉繊維を基にバトルスーツに仕上げてある。一体化させたバトルコートは運動時の過剰供給で拡散されたエネルギーを回収して再利用する。足を止めた時は脆く、逆に動いている時ほどに防御力は増す」

 

 強度と安定性を犠牲? 過剰供給? 不穏なワードを連発されたエイジは、ともかくバトルスーツの襟によって隠された小型のソウル・リアクターこそがこの装備の生命線なのだと把握する。ここが破壊された場合、装備の能力が大幅に低下してしまうのだ。

 

「あと、膝のプロテクターだが、お前が持ってきたあのメリケンサックを利用した」

 

 アーチボルドに促されてエイジが膝蹴りを出せば、小さな棘が複数飛び出し、『青い雷』が発生する。格闘装具化されているのはこれが理由かとエイジは納得した。

 

「……待ってください。アレとは雷の色が違いますが?」

 

 アザゼルから奪ったメリケンサックは『普通』の黄金の雷だったはずである。エイジの質問に、よくぞ気づいたとアーチボルドは自信満々に胸を張る。

 

「私、やっぱり天才! 美しき青い雷光に変化させてやったぞ!」

 

「……性能は?」

 

「青き雷光。それ以上の重要性が必要かね?」

 

 木箱にご丁寧に入ってるカタログを開けば、全141ページ中の60ページにも亘って膝蹴り時の性能についてだけ無駄に割り当てられていた。流し読みした限りでは、わざわざ青い雷光に変化させた結果、回りくどい表現こそされているが、黄金の雷時よりも性能ダウンしていることだけは違いなかった。

 

「…………」

 

 不満を顔に出すな。装備を提供してくれる貴重な狂人なのだ。膝蹴りの強化機構そのものは素晴らしいのだ。エイジは必死に弁護を繰り返して無表情で受け入れる。

 

「呪術の火とは一体化させてやったぞ。これで装備枠を消費することはない。性能ダウンしたが、手数は増したはずだ」

 

 左手には本来の呪術の火とは違い、青い電撃が縁取る呪術の火が隠されている。カタログを捲れば、55ページも使って青い雷光の『エフェクト』追加について綴られていた。幸いにも発動スピード上昇と隠蔽という利点はあるが、呪術に雷属性が付与されることもなく、火力そのものはむしろダウンしている。

 そもそもサポートであるし、発動スピード特化ならば悪くない。元より呪術に火力を期待していないとエイジは何とか割り切ることができた。

 

「言った通り、ソウル・リアクターは強度と安定性と引き換えに出力を引き上げている。稼働時はエネルギー発生とバトルコートで隠されている分、属性攻撃には耐えられるが、物理属性には弱い。直撃には注意することだな」

 

「ご忠告、感謝します」

 

「フン。ソウル・リアクター……ソイツには私の技術も使われている。太陽の狩猟団だけではなく、クラウドアースとの合作だろう。奴らめ、私を追い出しておきながら、私の技術を盗用するとは、恥知らずめ!」

 

 組織に属して開発したならば、所有権は貴方ではなくクラウドアースにあるのは当然では? エイジは喉まで出かかったが、自分の技術を無断で使用されていた事にアーチボルドが怒っているのは何となく共感できた。

 トータル性能を見れば、むしろ上々である。背面の脆弱なソウル・リアクターという致命的な弱点を除けば、重量に対して得られるメリットは大きい。エイジは試運転だとばかりに動き始めるが、途端に右膝に強烈なダメージフィードバックの不快感が広がる。

 

「がぁああああ!?」

 

 完全な不意打ちにエイジは喉から悲鳴が漏れて倒れる。幸いにも折れてこそいないが、体の動きに対してバトルスーツ……脚部の人工筋肉繊維があらぬ方向に可動しようとしたのだ。

 歩行でこれだ。走りであったならば、右膝は完全に折れていた。エイジはフラフラと立ち上がろうとするが、それだけで太腿の筋肉が千切れるのではないかと思うほどのダメージフィードバックを覚える。実際のHPが減少しており、のたうち回る間も背筋や両腕に負荷がかかる。

 

「言っただろう? 安定性を犠牲にしていると」

 

 アーチボルトは呆れた様子でソウル・リアクターに指を伸ばしてオフにする。息荒くエイジは立ち上がり、自分の体がもう1つの自分の意思とはズレた体に支配されていた感覚に戦慄を覚える。

 

「その人工筋肉繊維はユージーンの装備を開発した時の試作品だ。性能は高かったが、防御性能が要求に応えられんでな。奴のバトルスタイルと合致しなかった。奴の敗北後にすぐ追い出されたせいで、クラウドアースのデータベースには残っておらん、数少ない私の独占技術だ。試作品もソイツに使われたものを除けば残っておらん。本来は雷属性の供給を前提としたせいで、ソウル・リアクターとでは相性も悪い」

 

「そんな貴重なものを……」

 

「『最高の仕事』がお望みなのだろう? 手は抜かん」

 

 態度こそ悪いが、自身の腕にプライドを持つからこそ引き受けた仕事に妥協しないプロ意識がアーチボルドにあるのだろう。エイジは必ずコイツを自分のモノにしてみせると決意する。

 

「お前の剣だが、改造を施しておいたぞ」

 

 スレイヴがこの場にいれば発狂するだろう、生ゴミが詰まったバケツの下敷きになっていたダーインスレイヴをアーチボルトは引っ張り出す。

 刀身には以前より大型化され、灰銀色の片刃の長剣である。鍔に該当する部分には駆動機関が組み込まれている。

 

「ソイツはただの武器ではないな。クラウドアースでも多くのユニークウェポンに触れてきたが、ソイツは今まで見たどんな武器とも違う。まるで生きているようだ。何を組み込んでもあっさりと適合……いいや、『最適化』される至極よ。『武器漁り』のGRが見たら垂涎だろうな。ソイツさえあれば、どんな武器にどんな能力を組み込もうとも100パーセントの親和性を発揮する」

 

「…………」

 

「とはいえ、肝心の素材が足らん。お前が持ってきた黒祖の斧槍をエンジンに使って補わせてもらった。生み出された黒石をソウル・リアクターから供給されたエネルギーで燃焼し、核となっているダーインスレイヴを通して『外装ブレード』に伝達。外装ブレードを補強し、瞬間的な衝撃強化……お前のバトルスタイルの主軸に置く弾きを強化するだろう。伝導した炎属性エネルギーは放熱機構から排出し、剣速を高めることができる。とはいえ、なにせある素材で無理にやり繰りして、本体のダーインスレイヴの最適化に頼り切った代物だ。完成度は低い……が、使いこなせば、上位プレイヤーのオーダーメイドにも劣らん」

 

 片刃なのはその為か。柄にはギアチェンジが備わっており、戦闘中にエンジンの稼働を引き上げたり、蓄熱することによって瞬間的な威力増強も可能とするようだった。ただし、アーチボルドの作品らしく、暴走を前提としているかのような作りであり、扱いを間違えれば自壊は免れない。

 

「感謝しか言いようがありません」

 

「フン。約束通り、使わなかった武器や素材、提供された資金はすべて私のモノだ。見た目こそ整ってるが、メイン素材を除けばほとんどが廃材から抽出した素材で作ったものだ。なにせ、私はクラウドアースを追い出された身。希少素材を誰も売りたがらん。『裏』にもろくにパイプがないとなればな」

 

 説明に疲れたとアーチボルドは肩を叩きながら積み重ねられたタイヤを椅子代わりに腰を下ろす。

 

「言っておくが、そのソウル・リアクターは替えが無い。太陽の狩猟団でも最精鋭にのみ配備されるハイエンドモデルだろうからな。今後、まともな市場に出回ることはあるまい。修理素材は金に物を言わせて調達できても、破損する程のダメージを受ければ強度の関係でソウル・リアクターそのものを取り換える処置を施すしかないからな」

 

「分かりました」

 

「モノは次いでだ。サブウェポンを売ってやろう! 見よ! 青き雷光を発する鉄槌! 美しきト――」

 

「要りません」

 

 球体状のヘッドから青い雷光を散らす戦槌を熱く推そうとするアーチボルドに断りを入れれば、彼は酷く不機嫌になって顔を逸らした。

 

「お前が欲しがっていた火薬はそこに置いておいた。爆弾に加工せずに欲しがるとは酔狂な奴だ」

 

「……これが逆にいいんですよ」

 

 必要なものは揃った。エイジは渡せるだけのコルを追加で支払う。アーチボルドは額面に興味はないらしく、さっさと出ていけとばかりに金槌を握る。

 

「青い雷光……もっと輝きを! あの美しき輝きを! 私は……私は必ず再現をしてみせる!」

 

 アーチボルドはあそこまで青い雷光に憑かれているのは、彼の人生観を狂わせる……いいや、魅了するほどの鮮烈な出会いがあったからだろう。エイジはもう会話をする気が無いアーチボルドに深く頭を下げて工房を後にする。

 

「ああ、青き雷光の具現……あの美しさをもう1度……!」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「ウーン、ナンカ、サムケ、スル。オイ、ヨメ。ナニカ、アタタカイモノ、タベナイカ?」

 

 ……どうしてこうなった? シリカは引き攣った顔で、終わりつつある街を面白そうに、まるで好奇心旺盛な無邪気な子供のように忙しなく見回す少女の後ろをついていく。

 健康的に焼けたような小麦色の肌。野性味溢れるボサボサの青髪。可愛らしく覗かせる八重歯。活発な容姿に相応しいオーバーオール。冬の寒さに合わせてか、毛糸の帽子を被ったともなれば、今から子供たちに交じって雪合戦でも始めそうだった。

 だが、見た目に騙されることなかれ。シリカも信じられないが、外見年齢10歳前後だろう少女は自らをミョルニル……アルヴヘイムの廃坑都市において虐殺と捕食を行い、なおかつシリカを全身骨折までさせた異形にして青き雷光を操ったレギオンと同一の存在であると自己紹介した。

 そう、堂々と自らをレギオンと明かして接触してきたのである。シリカは思わず脂汗を滲ませたものである。

 肩ではピナが最大限に警戒しているが、到底勝てる相手ではない。サポートには秀でているが、単独では戦闘能力が高くないシリカではどう足掻いても勝ち目がない相手である。だからといってキリトに連絡を取ろうにも、下手な刺激を与えてレギオンとしての本性を露わにされては周囲に被害が及ぶために、彼女の要求通りに『デート』に応じるしかなかった。

 

「オオー! スゴイ! ミロ! マシュマロ、ウサギ、スガタ! カワイイナ!」

 

 露店で売ってるお菓子にはしゃいだかと思えば、ギャラリーもいない2人組の芸人の前でまるで面白くないコントに腹を抱えて笑う。まるで落ち着きがなく、何もかもが新鮮で楽しくてしょうがないといった様子だった。

 

「オカネ、キニスルナ! オコヅカイ、タクサン、アル!」

 

 外見年齢通り、まるで無い胸を張るミョルニルは、シリカの手を引いて顏ほどの大きさもある肉まんを買う。

 

「ウマイ、カ?」

 

「え、ええ……美味しいです」

 

「ヨカッタ!」

 

 本当に廃坑都市で遭遇したレギオンと同一なのだろうか? 天真爛漫といった表現すらも似合うミョルニルに、シリカは圧倒されて振り回される。

 今にも雪が積もりだしそうな灰色の空の下で、クリスマスに向けた装飾で華やかに彩られつつある終わりつつある街。ヴェノム=ヒュドラの事件が報道されても、人々の聖夜に向けた期待感は変わらない。

 死と恐怖の圧迫感からの解放を望んでいるのだ。去年と同じクリスマスイベントがあるという確証も無いのに。冷めた立ち位置を保ちたいシリカであるが、自分自身も日に日にクリスマスに近づく度に、捨てきれない希望を膨らませている事実を味わう。

 人々が期待するのはそれだけではない。いつの間にかDBOにいた流民プレイヤーは知らないが、去年のクリスマスから生き残ったプレイヤーが密やかに渇望するのは『クリスマスの聖女』の再来だ。

 黒鉄宮跡地で執り行われた慰霊祭。クリスマスの最後に響き渡った、音痴であるはずなのに、まるで砂漠に降り注いだ雨のように心にまで染み入る慈悲と慈愛に満ちた歌声。多くの人々が我慢しきれずに涙を流し、あるいはDBOの日々で狂いきった中で我に返ったように俯いた。

 クリスマスの聖女……彼女が何者なのかは謎のままだ。だが、赤鼻のトナカイを歌った彼女をキリトがしばらく正体を探っていたのは確かだ。結局は見つけられなかったが、キリトも言葉にこそしないが、今年もあの歌声を聞けるのではないのかと密やかな期待をしているのは確かだろうとシリカは思う。

 

(それにしても、アスクレピオスの書架の専属になるなんて!)

 

 シリカに相談できない程の緊急事態だったのだろう。シリカの現職が現職だとしても、真っ先に教えて欲しかったのだ。

 

(やっぱり失敗だったでしょうか。私がマネージャーをしていた方が……でも……)

 

 肉まんを食みながら、シリカは過去の選択を悔いる。

 ラストサンクチュアリ壊滅後、シリカはキリトと離れる選択をした。

 キリトはようやく仮面を自ら壊すことが出来たのだ。彼の歩みを邪魔したくなく、また彼の傍にいるからこそ、彼女もまた自分自身の選択で彼が目指すものを共有する必要があったからだ。

 シリカは『帰還』と『永住』の両立に対してそこまで熱意を燃やしているわけではない。むしろ、包み隠さない本音を言えば、今更になって現実世界に帰ってどうするのだという気持ちがあるのだ。

 SAO事件後、シリカがキリトと行動を共にしたのは、家族との関係が良好ではなかったのも理由の1つだ。

 家族は温かく自分を迎えてくれた。だが、彼らはいつまでも思い出の中にある、SAO事件を経験する前の『綾野珪子』としか見ようとしなかったからだ。SAO事件を経験した『シリカ』を否定したからだ。

 違う。断じて違う。自分は『シリカ』だ。多くのプレイヤーを扇動し、SAO末期の地獄に誘った悪女だ。自分が戦意を煽ったせいで、多くの人々が攻略の為と自らの足で地獄に向かい、命を落とした。

 彼らの今際の悲鳴が『シリカ』にはこびりついている。そんな彼女を救ってくれたのがキリトであった。たとえ傷の舐め合いだとしても、彼がいなければ自殺を選んでいただろう。たとえ、SAOから解放されたとしても精神を保てなかっただろう。

 両親のことは今も愛している。温かく迎えてくれた友人たちにも感謝している。だが、彼らが『シリカ』を認めないならば、彼女は永遠に死人を演じ続けねばならない。

 DBOを完全攻略して『永住』を選んだ方がずっと生きやすい。キリトもDBOの方が……仮想世界の方が自分の真価を発揮できるはずだ。彼の才能はまさしく仮想世界の申し子だ。加えて仮想世界には無限の謎と冒険の可能性に満ちている。まさしく彼が望む世界そのものだ。

 だが、シリカは同時に深く理解している。キリトは仮想世界を愛しているが、殺し合いを肯定しているわけではない。彼が真に愛するのは、安全が確保され、誰もが冒険を享受することができる『ゲーム』という名の仮想世界なのだ。

 あるいは、キリトが現実世界に帰還することを望むのは自身に定めた罰なのかもしれなかった。愛する仮想世界で生きることを許されず、窮屈な現実世界で死ぬ。自分の居場所は現実世界であると貫き通すことこそがDBOのデスゲーム化を見逃したことへの絶対的な罰として決めているのかもしれなかった。

 誰かが言った。罪を定義するのは法ではなく心ではあり、罰を知ることができるのもまた心だけなのだ。シリカは肉まんの最後の欠片を口内に押し込みながら、ならば自分が望むのは何かと自問する。

 

「ヨメ、タノシクナイ、カ?」

 

 だが、悩みが顔に出てしまっていたのだろう。寂しそうにミョルニルが覗き込んできて、シリカは失敗を悟る。

 そもそも今はミョルニルに集中すべき時だ。シリカは取り繕って笑おうとすれば、ミョルニルの両手が不意に伸びる。

 

「ムリシテ、ワラウナ。ソンナノ、ツライ、ダケ」

 

 笑おうとしたシリカの両頬を揉み解し、ミョルニルは自分には何の不安も無いとばかりに笑う。

 

「ゴメンナサイ、イワナイト、イケナイ。ヨメ、メイワク、ダッタ?」

 

「……正直に言って、迷惑です。職場にいきなり現れて、デートの申し込みなんて非常識です」

 

「……ソッカ。ゴメンナ」

 

「でも、楽しくない……わけじゃないです。最近はどうにも余裕がなくて、こうして街をじっくりと眺める時間もありませんでしたから」

 

 キリトが傍にいない生活。連絡1本入れれば、キリトはすぐに駆け付けてくれるだろう。だが、シリカはそれを良しとはしない。

 自分はキリトを救うことができない。彼が地獄にいる時、傍にいることが彼女の愛し方なのだから。自分の細腕では彼を闇の底から引き上げることは出来ないのだから。

 だからこそ、見つけなければならない。彼と同じ道を歩むだけの、心の奥底に宿すべき理由を得なければならない。

 いつでも会おうと思えば会える距離なのに、会いに行きたくない。あれ程に仮面を剥がすことを望んでいたはずなのに、『キリト』を取り戻した途端に遠くに行ってしまいそうな彼に置いて行かれそうで怖いのだ。

 今まで通りに依存するのは駄目なのだ。キリトが望んだから自分もそれでいいでは駄目なのだ。それでは重荷になるだけだ。彼が地獄にいる時に重石になってしまうだけだ。

 そうして思い悩んでいた時に、突如として飛来してきた隕石のようなミョルニルからのデートの誘い。頭が真っ白になったお陰で、終わりつつある街を満たすクリスマスへの希望と期待を素直に味わうことができた。

 

「ミロ! オレ、シッテル! クリスマスツリー!」

 

 黒鉄宮跡地の中心には巨大なクリスマスツリーの建設が進んでいる。全長200メートルに達する予定であり、装飾品も含めて何百万コルも投資されているだろう巨大プロジェクトだ。もちろん、大ギルドの主導である。このクリスマスツリーの建設だけで膨大な雇用を生み出してDBOで暮らすプレイヤー達の生活を支えているのだ。

 

「当日はさぞかし綺麗なんでしょうね。とびっきりのデートスポットになりそうです」

 

「ダッタラ、クリスマス、イッショニ、スゴスカ?」

 

「結構です」

 

「ガーン!」

 

 ガーンって……口で言う人、初めて会いました。涙目になってショックを受けたミョルニルがおかしくて、シリカは思わず吹き出して笑ってしまう。

 

「ヤット、ワラッタ!」

 

「え……? あ、ああ……そうでしたっけ?」

 

「ソウソウ! ヨメ、ワラッタ、カワイイ!」

 

 可愛いのは自覚しています。見た目は女の子でもレギオンに褒められても嬉しくない、と思いたくても、すっかりミョルニルにペースを掴まれたシリカは、彼女に手を引っ張られて建設途中の巨大クリスマスツリーの周囲を走って見て回る。

 

「スゴイナ! タクサン、ヒト、キョウリョク! クリスマスツリー、ツクッテル!」

 

「これだけ巨大なものを1人では作れないですからね」

 

「ウン! デモ、コレ、スゴイ! ミンナ、バラバラ! ニンゲン、バラバラ! ナノニ、ツクル! タスケアウ!」

 

「そんな大層なものじゃありませんよ。これが仕事で、お金がもらえるから足並みを揃えているだけです。まぁ、プロ意識がある人達もいるでしょうけど、末端の人たちはお金目当てですよ」

 

「ヨメ……キビシイ」

 

「でも真実ですから」

 

 ミョルニルに手を引かれて、黒鉄宮跡地から離れていく。クリスマスに向けて露天商の場所取り合戦が既に始まっている間を駆け抜けていく。

 

「ミテ! ココカラモ、ミエル! スゴイナ!」

 

「本当ですね。気づかなかったです」

 

 まだ建設途中だ。完成すれば、幾ら立体構造化したDBOであっても、多くの場所から目撃することができるだろう。クリスマスが終われば解体されるのが今から勿体なかった。

 

「1つ訊いてもいいですか?」

 

「ナニ?」

 

「どうして、私を『嫁』呼ばわりなんですか? ミョルニル……さんは女の子でしょう?」

 

「……オレ、オドロイタ。オレ、ナンデ、オンナ? デモ、ドウデモイイ。ダイジ、チガウ。タイセツ、ココロ。オレ、ヒトメボレ!」

 

 小難しい理屈を捏ね繰り回さず、シリカを指差して一目惚れ宣言するミョルニルはいっそ清々しかった。

 

「でも、私には好きな人がいるので応えられませんよ。告白されても断ります」

 

「ダカラ? スキ、ヒトリ、ジャナイ。ヨメ、ケンシ、スキ。デモ、アタラシイスキ、デキル、カモシレナイ。アタラシイスキ、オレ、ナル。オレ、ヨメ、ダイスキ!」

 

「一目惚れで私の事を何も知らないのに? 私を殺そうとしたのに?」

 

「ウーン、ソレ、ダイジ? タイセツ、イマ、ココロ。オレ、ヨメ、スキ。ズット、カワッテナイ。ソレデイイ」

 

 首を傾げたミョルニルは、物珍しいとばかりに露店に並ぶスノーボールに目を輝かせる。

 

「コレ、イクラ?」

 

「ん? 3000コルだよ。お高いと思うなかれ。1つとして同じデザインはない、完全手作りだよ!」

 

 いやいや、嘘でしょう。私が見る限りでも似通っているどころか同じデザインが7組も見つかってますよ? 広げた風呂敷に100個以上のスノーボールを並べた露天商の営業トークを即座に看破したシリカであるが、ミョルニルはまんまと騙された様子だった。

 

「スゴイ! コレダケ、ゼンブ、テヅクリ!? オジサン、ガンバッタ!」

 

「お、おう……!」

 

「3000コル、ダナ? ワカッタ! エート……エート……1、2、3、4、5、6、7……ウーン、ミンナニ、カッテイク。デモ、カゾエル、メンドウ! ワカッタ! ゼンブ、カウ!」

 

「「え!?」」

 

 100個はあるスノーボールを全て購入すると宣言するミョルニルに、さすがの露天商も狼狽え、シリカも開いた口が閉じなくなる。

 

「…………」

 

「……お嬢ちゃんの勝ちだ。1個2000……いいや、1200でいい」

 

 シリカが無言で露天商を見つめれば、ミョルニルの無邪気な全買い宣言に良心が揺さぶられたのだろう。ミョルニルの夢を崩さない為に、大量生産品だとバラすことはなく、だが適正金額だろうまで値引きする。

 オマケだとスノーボールを別ストレージで収納できるリュックまでもらい、ミョルニルは嬉しそうに露天商に抱きつく。

 

「オマエ、ヤサシイナ! アリガトウ!」

 

「……まったく、こりゃ勝てねぇよ」

 

 苦笑した露天商は完敗宣言をし、上機嫌にお土産を背負ったミョルニルにシリカもまたすっかり毒気を抜かれる。

 騙された方が悪いとばかりのDBOにおいて、善性を信じる方が難しい。ましてや、店を構えるような野望を抱かない、その日暮らしの露天商ともなれば、信用よりも安い原価で客に高く売りつけるかが大事だ。

 そのはずなのに、ミョルニルの真っ直ぐな笑顔によって強欲も悪意も溶解してしまったように、露天商は釣られて笑ってしまっていた。正直者が馬鹿を見ると舌を出すことなく、むしろ自分が恥ずかしくて堪らないように。

 なぜなのだろう。目の前にいるのは、姿こそ違えども、人間を喰らい殺すのに何の躊躇もないレギオンであるはずだ。シリカは彼女が多くの人を惨たらしく殺す姿を目撃している。

 人間の姿をしているから? 違う。シリカは何となくであるが、姿形など関係なく、これがミョルニルというレギオンなのだろうと肌で実感する。

 

「ミョルニルさんは……」

 

「ミョルニル、ヨビステ、イイ」

 

「ミョルニルは……本当に……その……本当にレギオンなんですか?」

 

 周囲の耳を気にしながら、シリカは信じられずに尋ねる。アルヴヘイムにおいて助力してくれたレギオンについて聞いているが、シリカのイメージはあくまで人間を貪り喰らう、まさに人類の敵といった怪物の姿だ。たとえ人間の姿をしていることもあってレギオンだと信じ切れなくなっていた。

 

「スガタ、モドス? オレ、コノスガタ、イジ、ケッコウ、タイヘン」

 

「止めてください。大事になります」

 

「ワカッタ」

 

 太陽の高い内から、それも人が往来する道の真ん中でレギオンが出現したらパニックどころでは済まない。一瞬だが、ミョルニルの口が耳元まで裂けていく姿を見て、シリカは即座に制止する。

 

「オレタチ、スガタ、キメラレナイ。グングニル、ダケ、ニンゲン、スガタ、セッケイサレタ。デモ、オレ、チガウ。ダカラ、オドロイタ。オンナ、ダッタ。ハハ、イッタ。コノスガタ、オウ、インシ、ウツシタ、カガミ。オレ、ヨクワカラナイ」

 

「今の姿はミョルニルの中にあるレギオンの王の因子によって定まったものなんですね?」

 

「タブン」

 

 秘密でも何でもないと明かすが、これもまたレギオンの秘密を紐解く大きなヒントだ。

 シリカが知る限り、キリトやユージーンなどがこれまで出会った人型のレギオンはいずれも女性だ。即ち、王の因子を持つレギオンであるミョルニルが女性であるならば、レギオンの王も女性……正確に言えば『レギオンの女王』という事になる。

 マザーレギオンはあくまで『レギオンの母』。レギオンの生みの親だ。だが、それとは別にレギオンの王が存在する。謎が謎を呼ぶが、レギオンにとって真祖とも呼ぶべき存在はマザーレギオンではなくレギオンの王なのだろうとシリカは予想する。

 

「……1つ訊いてもいいですか?」

 

「ナンダ?」

 

「私達がレギオンと話し合いを望むならば、叶いますか?」

 

「ハナシ? イマ、ハナシテル!」

 

「いえ、そうではなく、もっと、こう……取引みたいな話がしたいんです」

 

 レギオンからの情報提供があれば、『永住』と『帰還』の両立に関して大きな進展が得られる。シリカの問いかけに、ミョルニルは真冬だからこそ美味しいとばかりにソフトクリームを買って美味しそうに舐めながら、頬にクリームを付けたままシリカに振り返る。

 

「イイヨ」

 

「本当ですか!?」

 

「ウンウン! デモ……」

 

 やはり取引の場に条件をつけるか。当然だ。コーンまで丸呑みしたミョルニルは、シリカをジッと見つめると今にもキスが出来そうな距離まで顔を近づける。

 

「ソレ、ホントウニ、ヨメ、ノゾムカ?」

 

「……え?」

 

「オレ、ムツカシイ、ワカラナイ。デモ、カンジル。ヨメ、マヨッテル」

 

 心の中に抱いていた迷いを見透かされてシリカは後退る。そんな彼女に迫ることなく、新しい興味の対象だとばかりにミョルニルはシリカの手を引いて行く。

 ミョルニルが目指したのはクラウドアースが支配する、コロシアムを中心とした歓楽街だ。クラウドアースが治安維持に力を注いでいるだけあって中層であっても特に治安は良いのだが、コロシアムで興奮した客による乱闘騒ぎなども珍しくない。

 ミョルニルの興味を引いたのはコロシアムのようだった。今日は催し物が無く閉鎖されているが、ミョルニルは瞼を綴じて湧き上がる観客が目に浮かぶとばかりに飛び跳ねる。

 

「オレ、デタイ! シッテルゾ! ツヨイ、カツ! ユウショウ、トロフィー! ヨメ、ササゲル!」

 

 片膝をついたミョルニルはプロポーズだとばかりに大声を張り上げれば、周囲の人々は堪えきれないと笑い声を漏らす。恥ずかしくなったシリカは容赦なく彼女に背中を向けた。

 

「要りません」

 

「ガーン!」

 

 本日2度目の声出し涙目を披露したミョルニルに、シリカは自然と口元が緩んでしまった。

 

「デモ、ヨメ、ツヨイヤツ、スキ、チガウ?」

 

「強い人は好きじゃありません。むしろ、強い人は……怖いです」

 

「コワイ?」

 

 私は何を語ってしまっているのだろう。ミョルニルはレギオンだ。心を簡単には許してはいけない存在だ。そのはずなのに、まるで悪意も見せない、子供のような素直さと無邪気さをお馬鹿っぷりを見せつけるミョルニルのせいで、シリカの心のガードは緩んでしまっていた。

 

「強い人はどんどん先に行ってしまいます。どんどん私を置いて行ってしまいます」

 

「ソウナノカ?」

 

「そうなんです。私の好きな人も、とっても強い人。たくさんの『弱さ』を抱えているはずなのに、乗り越えて『強さ』に変えてしまう人。何度も何度も躓いても、それでも最後は立ち上がってくれるって信じられる……そんな『強さ』を持った人なんです」

 

 だから、誰もが助けたくなる。誰もが背中を押したくなる。誰もが一緒に歩きたくなる。彼と同じ場所を目指したいと、彼の『強さ』に惹かれて、歩みの中で自分の『強さ』に目覚めていく。

 だからこそ、怖いのだ。自分の足が追いつけなくなった時、彼は手を引いてくれるだろう。助けてくれるだろう。見捨てないでくれるだろう。そうして、彼の優しさを独占出来て、心が満たされてしまうだろう自分が容易に想像できて、怖くて堪らないのだ。

 矛盾している。キリトが立ち上がることを望んでいたはずなのに、仮面を剥いで歩み出した途端に置き去りにされる恐怖を覚える。彼ならば、何の迷いもなく自分の足並みに揃えてくれるはずなのに。

 

「ダカラ、マヨウ?」

 

「ええ、そうですよ」

 

「ソウカ」

 

 ミョルニルは納得したように頷くと、これまでシリカを先導していた手を放す。

 

「ヨメ、ドコ、イキタイ?」

 

「何処って……」

 

「エラベ。ドコ、イク? オレ、ツイテイク!」

 

 行きたい場所? シリカはミョルニルの意図が読めずに悩む。そもそも今回のデートはミョルニルの意図しない脅迫によって成立している。

 とはいえ、ミョルニルに対しての警戒が解けてしまい、振り回されながらも楽しんでしまっていたのもまた自分だ。シリカはじっくりと考え、ミョルニルが喜んでくれそうな場所を思いつく。

 

「こっちです」

 

 今度はシリカがミョルニルの手を引く。これまで力任せに、だがシリカが絶対に転ばない速度で引っ張ってくれていたのだと今更になって感じながら、今度は自分の番だとミョルニルの歩幅に合わせて、だが先導するように早足で突き進む。

 たどり着いたのはコロシアムから程近い場所にあるクラウドアース保有のホテルだ。最上階のスイートルームともなれば、1泊だけで数十万コルが飛ぶとされている。他にも宿泊客以外も利用できる浴場、レストラン、バーなどがある。特にレストランともなれば、クリスマスは予約で満席である。

 シリカの目当ては展望ルームだ。コロシアムはもちろん、終わりつつある街を一望できる。

 普段はカップルだらけのデートスポットなのであるが、混雑するのは夕方以降だ。コロシアムを含めた歓楽街の街並みの灯が宿った夜景こそが目玉なのである。

 とはいえ、刻一刻と姿を変える終わりつつある街である。かつての絶景も時期によっては損なわれ、2度と取り戻せなくなるかもしれない。展望ルームから眺められる終わりつつある街並みは、また眺められる光景すらも1部でしかないという薄ら寒さを覚えさせる。

 プレイヤーの手によって生み出された、社会構造という名の巨大ダンジョン。果てしない開発によって立体構造化している。かつては低かった建造物も、プレイヤーの手によってこのホテルのような高層建築が実現している。

 だが、それでも終わりつつある街の中心部は変わらない。荘厳なる大聖堂が君臨しようとも、終わりつつ街の中心は黒鉄宮跡地……茅場の後継者がどんな気持ちで設計したのかも分からない、SAOの確かな名残だ。

 

「オオー!」

 

 この展望ルームからは小さくではあるが、黒鉄宮跡地が確かに見える。それを裏付けるように建設途中のクリスマスツリーが目に映る。

 

「あのクリスマスツリー、気に入っていたみたいですから、ここなら気に入ってもらえるかなって……」

 

「ヨメ、スゴイ! ヨク、シッテタナ!」

 

「有名なデートスポットですからね。リサーチ済みです」

 

 喜んでもらえて良かった。シリカははしゃぐミョルニルに安堵する。

 

「……ウン。ヨメ、ソレデイイ」

 

「何がです?」

 

「ヨメ、カンガエタ。マヨッタ、ケド、カンガエテ、ツレテキテクレタ。ココ、ステキナバショ。ウン、ダイジョウブ。ヨメ、ドコデモ、イケル」

 

 満足したように、展望ガラスに頬を張りつけながら、ミョルニルは無邪気に笑う。

 

「オレ、ムツカシイ、ワカラナイ。デモ、ヨメ、ススメバイイ。マヨッテ、マヨッテ、マヨッテ、エランデ、ススメバイイ。ヨメ、ダイジョウブ。キット、ステキナバショ、タドリツケル!」

 

「……私だけでは無理ですよ」

 

「ダッタラ、オレ、ツキアウ! オレ、ムリナラ、ヨメ、スキナヒト、トモダチ、サソエバイイ! ミンナ、ミンナ、ミンナ! キット、ヨメ、エランダ、ステキナバショ、ワカッテクレル!」

 

「本当に……本当に何ですか、それ。私は……」

 

 自分に選ぶ権利なんてない。シリカは怖いのだ。共有できなくなるのが怖いのだ。一緒に歩けなくなるのが怖いのだ。傍にいられなくなるのが怖いのだ。それなのに、自分で選ぶなんて出来るはずがない。

 かつて強大な敵……モルドレッドに啖呵を切った。キリトの『強さ』を信じて立ち向かった。だが、シリカは何処にも行けない。

 自分は鎖だ。キリトの隣という居場所が欲しくて、策謀だろうと何だろうと駆使して彼を縛り付ける鎖だ。だからこそ、彼が先に進もうとする時、自分の足が遅れてしまえば、彼の重石になってしまうと理解している。

 

「ヨメ、ドコ、イキタイ? スキナヒト、ナカマ、トモダチ、ツレテ、ドコ、イキタイ?」

 

「私は……私は……」

 

 私が行きたい場所。キリトが掲げる『帰還』と『永住』の両立などではなく、自分自身が求める行き先を想像する。

 だが、思い浮かばない。シリカは拳を握りしめ、縋るようにミョルニルの方を向くが、彼女はもう影も形も無かった。

 自由気ままなレギオンだ。シリカは溜め息を吐き、だが自分の手を握ってくれていたミョルニルの温かさを思い出すように右手を見つめる。

 展望ルームを立ち去ったシリカの足が自然と目指したのはサインズ本部だった。傭兵や関係者が屯する談話スペースや食堂を覗き込むが、求める姿は何処にもない。

 フレンドメールを使えばすぐにでもアポイントを取れる。だが、シリカは自分の足で探したかった。今度はマユの工房に行けば、シノンが笑顔でマユを追い詰めていた。普段の人を食ったような態度は鳴りを潜め、壁際に追い詰められていたマユが何をしたのかは知らないが、シリカは自業自得の4文字を即座に思い浮かべ、また確信した。

 ここにも彼はいない。夕暮れの街を歩き進み、今度は教会を目指す。厳かな聖堂街は教会剣の巡回によって乞食1人いない清潔さを保っていた。

 広大な敷地を有する大聖堂を探しきることは出来ない。シリカは霊園の入口に向かい、大聖堂内部を歩いて回り、孤児院の傍まで近づき、一息と共に自分は何をしているのだと立ち去る。

 

「私の……私の行きたい場所……」

 

 シリカは夜の街を歩き続ける。待ち人もいないのに。

 そうして、シリカは戻ってくる。ミョルニルが気に入った、建設途中のクリスマスツリーが鎮座する黒鉄宮跡地に戻ってくる。

 夜となって工事を終え、撤収前に腹が減って動けない様子の建築ギルドの男たちが汚れた作業服姿のまま、資材を椅子にしておにぎりを頬張っていた。

 

「おい、ハナ! へばってんじゃないよ! 手を動かしな!」

 

「は、はい! すみません!」

 

「おいおい、鬼オバ。ハナちゃんが可哀そうだろ。新人イジメは止しなよ」

 

「馬鹿言うんじゃない! 今のご時世、仕事を探している奴らは腐るほどいるんだ! 握りメシの100個や200個で泣くような根性無しには、ガキだって雇ってやれないよ!」

 

 恰幅のいい赤い三角巾を被った40代前後だろう女性は、片手で山積みにしたおにぎりを作業員に配っていく。傍らでは深く被った帽子でも隠し切れない程に顔に酷い火傷を負った少女が、熱い米を握って真っ赤にした両手を震わせながら、それでもペースを衰えさせることなく炊き立ての白米を握る。

 

「そうそう、上手じゃないかい。米を潰さないように優しく、ふわふわの空気を込めるようにね。食べる人の気持ちを考えるんだ。手はもっと早く。冬の寒さで折角のアツアツのご飯が冷えちまわないようにね」

 

「はい!」

 

「ハハ、新人潰しの鬼オバがガキを雇ったって吃驚したけど、才能を見込んでってわけかよ」

 

「才能? 違うよ。根性さ。『何でもするから雇ってください』って裏口で土下座して2日もどかないんだよ。だから、涙の1つでも流そうものなら追い出そうと思ったけど、まぁ……認めてやらないこともないね。ハナ、アタシらの朝は早いよ! アタシと一緒に住み込みで朝5時起床! アンタの仕事は掃除、洗濯、メシ炊きだ! コイツらが暮らすタコ部屋はゴミ捨て場より酷いから覚悟するんだよ。いいね!?」

 

「ありがとうございます! 一生懸命頑張ります!」

 

「アンタらも、このコに変な真似したら尻の穴に大根ぶち込むからね! 覚悟しな!」

 

「鬼オバの弟子に手を出す奴なんていねーよ! それにロリコンじゃあるまいし、なぁ?」

 

「え? あれくらいの年頃ってアリじゃないの?」

 

「……お前」

 

 性癖カミングアウトした1人が三角巾の女に、文字通りの鬼の形相で迫られ、制裁の如く口にアツアツおにぎりを詰め込まれて悶絶する。その様子に唖然とした少女の周りで、俺達はボインしか興味ないから安心しな、と汚いスマイルを浮かべる作業員たちに、少女は気圧されながらも頷いている。

 誰もが必死に生きている。歓迎された少女が思わず泣きだして、変な悪戯をしたのではないかと三角巾の女が少女を囲っていた作業員たちを蹴散らす姿に、シリカは心の何処かで羨望を覚える。

 

「私だって、もっと甘えたかった」

 

 SAOは怖かったと親に縋りつきたかった。自分はたくさんの罪を犯したと泣いて震えたかった。でも、彼らが見ているのは過去の幻影で、素直で良い娘だった『綾野珪子』だった。

 自分を『シリカ』として見てくれたのはキリトだけだった。彼もまた『キリト』として生きるしかなかったからこそ、傷の舐め合いは成立して、彼となら何処までも一緒に堕ちることができた。

 自分が嫌いになる。アルヴヘイムの旅を経て、ようやく自分の本心を向かい合って、新しい関係の出発を誓って、それでも彼の傍にい続けたいと望んで、だけど自分では彼を救うことはできないと理解していて、だから心の何処かでは彼が倒れた時に立ち上がらせる為に手を差し出してくれる誰かに期待している。

 

(ああ、だから、私は……クーさんが嫌いなんだ)

 

 過去の数々のデリカシーの無い発言もあるが、何よりも気に食わないのは、シリカが必死になって立ち上がらせようと寄り添うのに、キリトを最も奮い立たせて再び歩ませるのは……あの白い傭兵だからだ。

 ただの嫉妬だ。嫉妬でいつも酷い態度を取っていただけだ。本当はクゥリの存在こそがキリトをいつだって前へと歩かせてくれていたと分かっていたはずなのに。シリカは俯いて、いつしか歩みにも力がなくなる。

 だが、デートと称してシリカを連れ回したミョルニルが手を引いてくれたように、彼女の温もりが微かに残っているかのような右手は伸びる。

 

 

 

「……シリカ」

 

「キリト……さん?」

 

 

 

 そして、触れたのは建設中のクリスマスツリーを見上げていたキリトだった。

 

「どうして……ここに?」

 

「何となく、かな。もうすぐクリスマスだし、ここは目玉スポットになるだろうなぁって思ってさ」

 

「そうですか」

 

「元気ないな。新しい仕事……大変、なのか?」

 

 ぎこちなく尋ねるキリトに、シリカはいつものように気丈に振る舞おうとして、だがミョルニルの底抜けに裏のない笑顔が脳裏に過ぎって、肩の力を抜く。

 

「ちょっとツラいです」

 

「確か、報道ギルドで働いているんだよな?」

 

「ええ。3流のゴシップ記事を載せる、週刊サインズといい勝負ですよ。でも、その分だけ大ギルドの影響も弱くて、独自路線でウケも良いんですよ? 何よりも情報が入ってきます。大ギルドも見逃しているような、噂レベルの貴重な情報も得られますし」

 

 それに報道ギルドに属していれば、他の報道ギルドの動き、またそれらに干渉する大ギルドの狙いも見えてくる。これからの世の流れを見据えてシリカは報道ギルドに潜り込んだ。元ラストサンクチュアリかつランク9の元マネージャーであり、シリカ自身もSAOリターナーともなればネタの宝庫である。特ネタは囲うに限るとばかりに歓迎された。

 

「ピナのお陰で情報収集もスムーズですしね。レベルも高いお陰で、大ギルドの部隊や傭兵との密着取材も出来るから重宝されています。だけど……」

 

 一呼吸挟んだシリカはテストで装飾が点灯されたクリスマスツリーを見上げながら、冬の夜風で黒コートを靡かせるキリトに1歩近寄る。

 

「だけど、やっぱり……疲れます。見たくないものを見ないといけなくて、知りたくないことも知らないといけなくて……たとえば、キリトさんの口より先に、アスクレピオスの書架の専属になったのを知った時とか……結構、キツかったです」

 

「ごめん。シリカにも相談すべきだったよな」

 

「いいんです。仕方ないことですから。でも……悔しくて……とても怖かったんです。キリトさんに置いて行かれるような気がして……」

 

 事件が終わった後、キリトはちゃんと連絡を入れてくれた。目まぐるしく動き回る情勢の中で、シリカに通達するだけの余裕がなかっただけだ。同僚たちからはキリトとの深い関係がありながら特ダネを掴めなかったことを詰られ、本当に噂通りの関係なのかと疑われ、即答できなくて、苦しくて堪らなかった時、ミョルニルが連れ出してくれた。

 

「ねぇ、キリトさん」

 

「何だ?」

 

「私……キリトさんが好きです」

 

「……知ってるよ」

 

「そうですよね。だったら、恋人になれますか? 私の事を……好きって言ってもらえますか?」

 

「……シリカ、俺は――」

 

「それ以上は言わないでください。今、ハッキリと断られたら、泣いちゃいますから」

 

 キリトはちゃんと自分との関係と向き合ってくれている。彼の言葉の続きが容易に想像できて、やっぱり傷の舐め合いはもうとっくに終わっていたのだとシリカは打ちのめされる。

 それでも好きだ。大好きだ。シリカは深呼吸する。

 

「キリトさん、私……こう見えて甘えたがりなんです。知ってました?」

 

「知ってるよ」

 

「泣き虫で、虚勢を張っていないと動けなくて、守ってくれる背中があったらすぐに逃げ込んじゃって、なかなかにダメな子なんです」

 

「うん、知ってる」

 

「そこは否定して欲しいです!」

 

「それが『シリカ』じゃないか。俺は嫌いじゃないよ」

 

 自分と同じようにクリスマスツリーを眺めていたキリトは優しい笑みを描いている。自分を一瞥もすることなく、確固たる信頼を込めて『シリカ』を認めてくれている。

 ああ、反則だ。だから好きになるのだ。もっともっと好きになるのだ。

 

「ちょっと肩を貸してください。色々あって昼から歩き通しで疲れてるんです」

 

「ダンジョンを丸1日歩き通せるシリカ様が?」

 

「私だって女の子なんです。疲れて、歩けなくなって、頼りたくなる時だって……あります」

 

 キリトにもたれかかれば抵抗などなかった。シリカはそのまま腕を回そうとして、だが心の隅から湧き上がる感情が卑怯だと呟く。

 傭兵なら卑怯は誉め言葉なのだろう。かつての自分なら手段など選ばなかったのだろう。どんな手段を用いてでも、彼の心を独占したいと望んだのだろう。

 だが、シリカは知っている。『キリト』には『桐ヶ谷和人』も含まれている。シリカの中で『綾野珪子』が死んでしまったのとは違う。彼はキリトと桐ヶ谷和人を1つの存在であると認めた上で『キリト』として生きている。

 それは簡単なようで難しい事だ。現実世界での生き方がまるで通じない、だが現実世界以上の質感を持つこの忌々しい仮想世界では……すぐに見失ってしまう事なのだ。あるいは、この残酷で狂おしい世界でこそ、己の本質が剥き出しになっていくならば猶更である。

 

「私……行きたい場所があるんです。一緒についてきてくれますか?」

 

「俺に連れていける場所なら何処でも」

 

「いいえ、私が連れて行きたいんです。だから、付き合ってください」

 

 シリカは思い浮かべる。自分が行きたい場所は何処なのか。見たい風景は何のか。あれ程までに考えてもまるで見えなかったのに、キリトの隣にいると不思議なくらいに簡単に浮かぶ。

 

「SAOで死んだ皆の……お墓に行きたいんです。謝る為じゃなくて……私は……『シリカ』はちゃんと生きているって……伝える為に」

 

 SAOの死者たちは蘇った。シリカが扇動して死に誘った者達も息づいている。彼らは姿を見せずともシリカに密やかな憎しみを抱いているかもしれない。

 だが、シリカの中では変わらない。彼らは鉄の城で死んだ。自分の言葉が彼らを死へと駆り立てた。だからこそ、事実を変えてはならない。

 

「だから、私は『帰る』んです。この世界は……認めたくないくらいに居心地がいいけど、私が行きたい場所は絶対に無いからこそ……」

 

「そうだな。付き合うよ。思えば、俺も1度もSAO慰霊碑に足を運んでなかったからな」

 

「うわぁ。私達って最悪ですね。しかも、キリトさんってアスナさん個人の墓参りだけは欠かしていませんでしたよね?」

 

「あの頃の自分を殴り殺したい」

 

「そんなものですよ。私達は……ううん、私は自分を許したくなかっただけなんですから」

 

 罪に怯えていながら、苦しみの中でこそキリトの傍にいられるからこそ、彼に甘え続けることが出来たからこそ、『シリカ』として生きる本当の許しを自分自身で与えることができなかった。

 ふと思い出したのはリズベットだ。SAOで心が壊れてしまった少女。キリトにとって大切な人間だった1人。病室の前を通る度に、彼女はしきりに自分を……『リズベット』を否定しようとしながら、まるで壊れたように自分の髪を何度も何度も、医者に止められても何度も染めていた。かつて鉄の城でそうであったように、派手に目立つピンク色に染め上げて、否定したいはずの『リズベット』になろうとしていた。

 彼女は『リズベット』を眠らせることができたのだろうか。本来の自分に戻れたのだろうか。自分とは対極を選んだ彼女がどうか幸せを掴んだことを願わずにはいられない。

 

「『シリカ』を許してあげることができたら、お父さんとお母さんにもう1度会いに行きたいです。これが今の私なんだって、ちゃんと認めてもらいたいです」

 

「手伝うよ。『シリカ』の素敵なところをたくさん伝えて、認めさせてみせる」

 

「プロポーズですか?」

 

「……離れていいか?」

 

「駄目です。もう少しだけ……もう少しだけ甘えさせてください」

 

 腕は組めずとも手だけは。シリカは右手に残るミョルニルの温かさを手繰り寄せるように、左手でキリトの右手を掴む。彼は何も言わずに握り返してくれた。

 そして、静かにクリスマスツリーの灯は消え、夜の暗闇の中で2人はそれぞれの帰路へとつく。

 たとえ、目覚めた時に互いの顔が見えずとも、確かに共有した願いが繋いでくれる。シリカはベッドで布団を被りながら、2つの温もりが宿った両手を組みながら丸くなる。

 必ず帰る。帰ってみせる。だから、キリトが憂いなく一緒に帰れるように、『帰還』と『永住』が両立できる道を探そう。たとえ、どんな終わり方だとしても、DBOという名の悪夢から目覚めた時、罪と悔恨の涙は免れないとしても、少しでも自分を許してあげられるように。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 カーテンは閉ざされて日光は届かず、ランプの灯ばかりが照らすのは澱んだ空気に満ちた暗室。整理こそされているが、積み上げられた木箱や縄で蓋を縛った壺は倉庫であることを物語る。

 林檎の絵が描かれた木箱をテーブル代わりにして、折り畳み椅子に腰かけて向かい合うのは2つの人影。傍目から見れば、どうして狭苦しい倉庫にこの世の楽園が存在するのだと謎に満ちた歓喜を上げるだろう光景だった。

 1人は若い娘だった。雪の妖精と紹介されても疑う余地がない儚さと決して折れることも錆びることもない凛とした強さという相反するかのような、だが共存してこそ完成すると証明するかのような美貌の持ち主である。少女としての幼さを残しつつも、大人の女としての色香を確かに纏い始め、だが挫ける者を鼓舞し、蹲る者を癒し、立ち上がれぬ者を抱きしめるような春先の太陽の如き母性を帯びた優しさを覚えずにはいられない。

 もう1人は純白だった。可憐にして美麗にして清廉にして妖艶の容姿。真冬の夜に降り注いだ白雪のような髪を編んで1本に束ね、赤が滲んだ黒という不可思議な色合いをした、静謐にして混沌を秘めた、蠱惑にして清純なる瞳は鎮座する。見る者の心の在り方によって、天使とも悪魔とも映り、あるいは神ともバケモノとも恐れと怖れと畏れを抱かせる、幼さが濃く残るからこその、未成熟であるが故の禁忌にも似た、数多の芸術家が追い求めた『美』を体現したかのような、性別を超越した中性美の結晶だった。

 かつてSAOで【閃光】の異名を持ち、最強の女性プレイヤーであったアスナ。

 全てを焼き尽くす暴力の権化と恐怖される【渡り鳥】の2つ名を持つ傭兵、クゥリ。

 2人が並べばまさしく楽園。人の世であるからこそ万人を魅了する美しさと世の理を狂わして壊す美しさ。この2人を同時に視界に入れて美の概念について偉人に、神に、己に問わぬ者はいないだろう。

 ただし、2人の自己評価は客観的評価に対してドライなものである。

 アスナは自分が美人の部類であることを自覚し、女性として着飾って化粧することは大事であると淑女の嗜みとしても個人の趣としても会得している……が、彼女自身があくまで重点を置くのは内面である。類稀な容姿を持つからこそ、家柄の関係で多くの社交経験を持つからこそ、SAOというデスゲームを経験したからこそ、どれだけ外見の見栄えが良かろうとも中身が無ければ意味がないと断じる。故に彼女自身は美醜自体に対して頓着は無い。

 クゥリはそもそも自己評価という点において常に自身を最下に置くことを出発点とする。自身が世間一般の枠さえも超越した美貌の持ち主であるなどそもそも頭にはない。他人に評価されたところで価値はない。美醜と呼ばれるものは社会の影響を受けて均一化された価値観であるならば、彼のそれは何処までも外付けに過ぎない。故に他者の美醜に対しては好奇を示すことはあっても、自身を着飾ることには何ら価値を見出さず、また理解ができない。

 そんな2人は緊張した面持ちで向かい合う。言うなれば互いに居合の構えを取った達人同士の間合いにのみ発生する擦り切れて混じり合いそうな生死の境界線の如く、どちらかが動けば片方が、あるいは両方が命を落とすと言わんばかりだった。

 

「本当に……本当に、するんだな?」

 

「ええ、覚悟はできてるわ」

 

「アスナに説教なんてしたくないが、覚悟なんて軽々しく口にしない方がいい。引き返せる時に引き返すのも勇気だ。自らを追い詰めるだけの蛮勇に価値はない」

 

「無茶と無理と無謀の3拍子がデフォルト設定のキミが言っても説得力皆無よ」

 

「…………」

 

「でも、ありがとう。キミは本当にひねくれているけど、ちゃんと心配してくれているのは分かってるから」

 

 アスナの力強い笑みに、クゥリは深呼吸をして両腕で抱えていた雑誌を、かつてない強敵のように睨む。

 

「勝率は50パーセント……いいや、もう少し低いかもしれないな。だが、ゼロではないはずだ」

 

「やって頂戴」

 

「……分かった。何があろうとも、全てはオレの責任だ。アスナが死んだら、アイツには真実を告げる」

 

「『私の自殺』よ。キミが殺したんじゃない。それが『真実』よ。絶対に曲げないで」

 

「……そうか」

 

「ごめんね。巻き込みたくなかった。自分で決着を付けたかった。でも、やっぱり、キミ以外に頼める人はいないの。私に何かがあったら、私の事情を理解して、ユイちゃんを保護してくれる人がいないと実行できない」

 

「理解してる」

 

 責任を背負わせた罪悪感を露わにするアスナに、それこそ気にするなとクゥリは微笑む。互いを結ぶのは友情とも信頼とも異なる奇妙な関係の糸だ。

 

「ねぇ、憶えてる? アインクラッドではキミとよく鬼ごっこしたよね。あの頃の私は自覚してなかったけど、心の何処かで……楽しんでいたのかもしれない。まるで放っておけない弟が出来たみたいでね」

 

「そうか。そういうものか」

 

「キミは相変わらずね。親身になったと思ったら冷淡。距離感がまるで分からない」

 

 アスナの苦笑にクゥリは無表情で応える。それを最後にして、深く瞼を閉ざした白の傭兵は雑誌を握り潰す勢いで握力を込める。

 ついにこの時が来た。アスナは走馬燈のように今日に至るまでの全てを思い返す。『優等生』を演じ続けて自分を押し殺し続けた日々。生死をかけたデスゲームの中で知った命の大切さ、人と繋がりを持つ尊さ、自分という存在を曖昧にすることなく魂をさらけ出してでも生きる力強さ。理不尽とも思える死の別れと愛する人の記憶の喪失。妖精王オベイロンの虜囚となった悪夢。短いながらも反撃に命を捧げ、同時に蘇った自分の命を認めて今を生きることに目覚めたアルヴヘイム。そして、白の傭兵の手引きで始まったDBOにおける新たな生活。

 不思議な程に鮮明で、だがどうしても欠落した愛する人の思い出。喪失の穴が痒くて、掻き毟って血が零れ出そうで、覗き込もうとすれば魂が砕けるような苦しみが押し寄せる。

 

「やるぞ」

 

「……ええ!」

 

 負けない。負けるわけにはいかない。アスナは自分が守らねばならない愛しい娘、ユイを脳裏に埋め尽くして、クゥリが繰り出す殺意の一撃に備える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これがオマエの旦那だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雑誌の表紙を飾るのはこれでもかと黒で統一された男。幼さが残る童顔の部類ながらも確かに大人になりつつある顔立ち。癖のない黒髪。黒いコートの上からも、写真からも分かる程度には鍛えられた肉体。週刊サインズの『ラストサンクチュアリ壊滅戦を徹底解剖! 最強プレイヤー候補筆頭【黒の剣士】キリトとは!?』という煽り文句が書かれた表紙に似合う、漆黒の剣を背負った青年の笑みに、アスナの記憶の欠落は刺激される。

 津波のように押し寄せる頭痛に対して、ユイの為に自我を保たねばならない、目の前にいるクゥリに責任を背負わせたくない、何よりも生きることを諦めるわけにはいかないとアスナは歯を食い縛り、頭を両手で押さえながら悶絶する。

 

「……アスナ?」

 

 やがて、テーブル代用の木箱に頬を押し付けて突っ伏したアスナを労わるようにクゥリが肩を揺する。彼女は声を発する気力こそないが生きていると示すように顔を動かした。

 5分……10分……30分……1時間。微睡みにも似た、時間の流れが遅い中で彼女を刺激したのは甘い香りだ。ようやく上半身を起こしたアスナが目にしたのは、クゥリが簡易コンロで茶を沸かし、木製の皿にケーキを盛っている姿だった。

 

「テツヤンの店で買った。お祝いには丁度いいだろう」

 

「……お祝いね。そうよね。命懸け……だったんだよね」

 

 乗り越えてしまえば大したことはない。アスナは放り投げられている雑誌を拾い上げると、【黒の剣士】キリトの顔を愛おしそうに撫でる。

 

「キリト……くん、でいいのかな? 私は彼をどんな風に呼んでいたの?」

 

「さぁな。オレはアイツ……キリトからアスナの話は聞かされていたが、アスナからは何1つ聞かされていないからな。まぁ、愚痴の1つや2つは漏らしていたかもしれないが、そこまで憶えていない」

 

「……そう」

 

「だから、今は呼びやすいように呼べばいい」

 

「そうね。だったら……うん、やっぱり『キリトくん』かな? これが……1番むず痒くて、心が温かくなる」

 

 嬉しさと切なさが同居した表情でアスナは左手を胸に当てる。鼓動が速まっている。

 ああ、彼を愛していたのだろう。いや、今も愛しているのだろう。記憶を喪失しようとも感情は確かに残っているのだと胸の苦しみが教えてくれる。アスナは紛らわすように振る舞われたケーキを口にし、ほんのりと口の中で広がる紅茶の味に癒される。

 

「これ、ティーパック?」

 

「本格を飲みたいなら期待するな。オレは≪料理≫スキルを持っていない。まぁ、茶くらいなら≪薬品調合≫で代用できないこともないが、コストがかかるからな」

 

「ううん、やっぱりキミって言葉にしない気遣いが上手だなぁ……って思っただけ。これ、高いでしょう? 味も香りも良い。それにこのケーキだって、確か開店と同時に並べない数量限定品でしょ?」

 

「…………」

 

「それくらい知ってるわ。DBOで1番のスイーツ店よ? 女子の嗜みです」

 

 DBOでは少しでも品質を上げれば金額は跳ね上がる。紅茶のティーパックだけでも、現実世界を基準とすればせいぜいがコンビニで買えるレベルの味だとしても、DBOでは恐ろしい値段になる。嗜好品を購入するプレイヤーはそれだけ財力に余裕があるという事であり、一定の品質を超えれば富裕層を基準とする為に高額化するのだ。

 

「……どうでもいい」

 

 あ、照れた。本当に分かりやすい。アスナは思わず笑ってしまう。本人は自覚していないのだろうが、顔を赤くして震えながら顔を背ける姿は清々しいまでに愛らしかった。本人はクールに誤魔化しているつもりなのだろうが、それは主観の話であり、客観的に見れば丸わかりなのである。

 

「でも、危うく今際に聞いた最後の言葉が『旦那』になりかけたわ。もっと他になかったの?」

 

「愛しいダーリン様だぞ、とか?」

 

「……もういいわ」

 

 重要なのはこれでDBO生活最大の問題点であった『キリトの認識』についてクリアできたという点である。

 キリトは有名人だ。接触を控えても、街を歩けば名前を聞き、雑誌や新聞には不意に顔が載る。これではユイ共々山か森の奥で人と関わらない隠遁生活をするしかなかった。

 

「顔で大丈夫なら声もいけるだろうな。それにアスナが知ってるのはSAOの頃のキリトの声だろう? あの頃に比べれば声も低くなってるしな」

 

「そっか。SAOではアバターが固定だったから、身長も声も変わらなかったもんね。SAO当時と今の年齢を考慮すれば、成長期を経て声もどんどん大人の男になってるよね」

 

 写真だけではあるが、身長も自分より頭1つ分は上かもしれない。顔立ちも童顔ではあるが確かに青年になりつつある、少年時代の終わりを感じさせる。そこに微かな違和感を覚えるのは、記憶は失われようとも感情が残っているように、自覚できない思い出の欠片があるからなのかもしれなかった。

 それに対してクゥリの声はまるで変っていないわけではないが、男らしい低音になったとは言い難い。当時はまさに少女としか評することができない愛らしい声音であり、今は少年とも少女とも捉えられる透き通った澄んだ声だ。どちらにしても声変わりを迎えた男の声とは評せない。それどころか、アスナが見る限りでは骨格レベルでも男性と呼んでいいのか困る部分がある。

 特にヒップラインだ。尻は明確に男女を分かつのだが、クゥリは判別し難いのだ。肩幅にしても男性とは思えない程に華奢である。中性美とは何も顔立ちだけではなく、骨格から体格に至るまでトータルによって成立している。

 

「でも、顔も声も大丈夫なら、直接会っても……いいえ、やっぱり危険よね。忘れて頂戴」

 

 思わず堪えきれなかった本心が漏れたアスナは即座に否定して頭を振る。だが、クゥリは理解を示すように自分の分の紅茶を傾けた。

 

「アスナがキリトと認識した上で対面、会話、接触するのはやはり危険だろうな。大丈夫だったとはいえ、今回も写真だけで1時間以上もダウンだ。今も頭痛は抜けないんだろう?」

 

 ご名答である。アスナは消えない鈍痛にしばらく苛まれることになるだろうと憂鬱だった。

 

「つまり、私がキリトくんと認識しないで接する上では問題ないかもしれないって事よね?」

 

「そうだな。だが、アイツが変装をしたところで、アスナは鋭いから見抜くだろうし、それにキリトに説明するにしてもどうする? この先ずっと『キリト』と認識されないようにアスナと接するなんて、それこそアイツにとっても地獄だろうし、やっぱりリスキーだ。キリトの顔面と喉を完膚無きまでに潰した上で接触させたらどうなるのかは興味もあるが……な」

 

 キミは物騒な発言を付け足すのは止めた方がいいわよ、とアスナは言えなかった。クゥリにとっては可能な提案をしているに過ぎないと理解しているからだ。そう思えば、物騒極まりない発言の数々も彼なりに真剣に物事に当たってくれている証拠なのだ。

 閉め切られた倉庫で行われた生死をかけた戦いと細やかな祝賀会は終わる。戸を開ければ、すっかり夕暮れであった。

 アルヴヘイムは広大なステージに反してプレイヤー人口は少ない。理由の1つは利便性の悪さである。正規ルートで入るにはダンジョンを突破しなければならず、レベル80以上あっても厳しい。そうでない場合はギルドが開通させた転移ポイントを利用するしかない。当然ながら転移ポイントの維持にもコストがかかる。アスナが普段使いしているのは教会の影響下にあるギルドの転移ポイントであり、アスナのような教会の関係者でなければ『お布施』が不可欠である。

 また水準レベル100以上のフロンティア・フィールドに比べてもプレイヤーによって開発させ難く、また大ギルド・有力ギルド共にフロンティア・フィールドに注力している為に、プレイヤーにとって生活しやすい環境とは言い難いのだ。

 フロンティア・フィールドの開発は順調であり、新聞ではちょっとした都市の建設にまで移行している。プレイヤーにとって生活拠点である終わりつつある街のキャパシティが人口増加によって限界を超えた以上は、これからはフロンティア・フィールドへの入植が促進されることになるだろう。

 アルヴヘイムは言うなれば田舎だ。プレイヤーメイドの物流も無ければ、交通の便も悪い。しかも治安が良いといってもそれはプレイヤーによる犯罪率の話であり、水準レベル100ともなればいつ死んでもおかしくない危険が同居する。オマケに生活しようにも住居も食べ物もアルヴヘイム調達ではコストが高いとなれば、自然と不人気になるのだ。そうなれば、プレイヤーによって開発され、また大ギルド・有力ギルドの庇護下にあるフロンティア・フィールドの方が水準レベル100以上でも生活の場としては魅力的なのだ。

 アスナが望むのは第1にユイの平穏であり、第2にDBOの攻略を手助けすることだ。この優先順位が覆ることはない。倉庫から真っ直ぐ我が家に向かえば、鼻を擽るのは香草が効いた夕飯の香りだ。

 

「ママ! 大事なお話は終わりましたか!?」

 

 玄関の戸を開けるより前に察したらしいエプロン姿のユイが開けて迎える。

 

「うん、ごめんね。思ったより時間がかかっちゃった」

 

「いいんです。でも……ママから甘い香りがします。もしかして、私に内緒でお菓子を食べたんですか!? もうすぐ夕飯なのに!?」

 

 クンクンと鼻を動かしたユイに図星を突かれ、アスナは目線を逸らす。頬を膨らませる愛娘に、アスナは両手を合わせて頭を下げた。

 

「ごめんなさい! でも、ちゃんと食べられるから! それにユイちゃんの分も残してあるよ? ほら! テツヤンの店の限定ケーキ!」

 

「うわぁ! し、仕方ないですね! 今回だけですよ?」

 

 全部食べないで良かった。アスナは胸を撫で下ろして振り返れば、クゥリの姿はない。彼はユイの視界から逃れるように、玄関脇の壁にもたれかかって腕を組んでいた。

 

「クゥリくん?」

 

「用事は済んだ。オレは帰る」

 

「折角だし、ご飯を食べて行ったら? ユイちゃんはいつも多めに作ってるし、遠慮しなくても……」

 

「家族の団欒を邪魔する気はない」

 

 襟元が大きく開いた教会のローブ姿のクゥリは深くフードを被り直す。白を基調としながら、豪奢とは程遠くとも気品がある金糸が縫い込まれている。デザインの1つ1つがクゥリの魅力を引き出す為のものであることは明らかであり、高額を投じて作成されたオーダーメイドなのは間違いなかった。

 クゥリはそのまま去っていく。だが、それを良しとするアスナではない。彼の手を掴み、強引に引っ張ると家に連れ込んで鍵をかける。

 

「あ、アスナ……さん?」

 

「クゥリくん、人の好意は素直に受けとっておいた方がお姉さんは良いと思うなぁ」

 

 ニコニコ、という擬音が聞こえてきそうなアスナの笑みにクゥリは硬直する。

 

「ユイちゃーん! 今日はお客様がいるから3人分テーブルに準備して―!」

 

「お、お客様ですか!? いきなり過ぎます! ママったら!」

 

「ごめんごめん! でも、ユイちゃんの料理だったら何でもご馳走だから、きっと大丈夫よ」

 

 怒ったユイに謝ったアスナはクゥリの背中を押してくつろぐように促す。2人暮らしでは十分どころか広過ぎる家である。1人増えたところで手狭になることはない。

 

「あ、お客様ですか? はじめまして! ユイです!」

 

 ピンク色のエプロンをドレスのように翻して丁寧に挨拶したユイに、クゥリはフードを外そうとして、だが手を止める。

 

「『はじめまして』、ユイちゃん。お母さんの……友達……とは少し違うな。アドバイザーみたいなことをさせてもらっている」

 

「アドバイザーさんですか?」

 

「そうだよ。お母さんは色々と大変だからね。相談できる人も限られているから、微力ながら応援させてもらっているんだ」

 

 微力……ね。アスナは呆れてものも言えなかった。教会を土台にした現在の生活基盤をアスナが手に入れられたのはクゥリの紹介があってこそである。彼がいなければ、ユイと2人で今もどうやってDBOで生活したものかと四苦八苦していたはずだ。

 

(SAOではまるで見抜けなかったけど、本当に自己評価が低い。ううん、もっと悪いか)

 

 言葉の節々から感じる自己否定には根深いものがある。クゥリは顔を見せず、だがそれでもユイとは対等であると示すように膝を折って目線を合わせる。声音もユイへの労わりなどの配慮が強く滲み出ていた。

 夕飯は香草を効かせたチキンソテーである。3人が食卓を囲えば、ユイは上機嫌にクゥリを見つめていた。普段は2人だけ……いいや、アスナが外出すれば1人で食事どころか過ごす時間が長いユイにとっては顔も見せない来客でも大歓迎なのだろう。

 

「アドバイザーさん、ママは普段どんな仕事をしてるんですか? 私には何も教えてくれないんです!」

 

「そうだな。人を助ける仕事をしている……かな」

 

「お医者さんですか?」

 

「それに近い。まぁ、最近は本業より副業がメインになりつつあるみたいだけどな」

 

 言い訳もできない。ヒーラーになるつもりが前衛兼任しているのだ。そもそもヒーラーは何があっても前に出ず、戦況を俯瞰して仲間の生命を預かる重要な役割だ。アスナは剣士として前衛をこなしつつ、全体を把握してヒーラーとしての仕事も担っているという無茶をしているだけである。【バーサーク・ヒーラー】と呼ばれても仕方のないことだった。

 元よりSAOで剣士として活躍したアスナだ。本業のつもりだったヒーラーがおざなりになるのも適性というものだろう。だが、今後はよりヒーラーとして、前には出ないように努めるつもりである。

 

「アドバイザーさんは、そんなママを助けているんですね!」

 

「……違うよ。オレは助けてなんかいない。アスナはユイちゃんを思って必死に頑張っているから、オレは悩みの相談に乗ってあげてるくらいさ」

 

「じゃあ、アドバイザーさんはいつもどんな仕事をしているんですか?」

 

「お母さんとは逆だよ」

 

 逆? 思いつかないように首を傾げるユイは年齢相応だ。彼女はSAO時代で明かされた正体……MHCPとしての権限と知識を全て失い、それに合わせてか、外見相応の精神年齢になってしまっている。アスナが最初に出会った記憶喪失の頃のユイの状態に近かった。

 賢くはあるが、まだまだ子どもだ。故にクゥリの言い回しに勘付けないのも仕方なく、故にアスナは料理を口に運ぶ手が止まる。

 

「ユイちゃんはお母さんのこと……好き?」

 

「大好きです!」

 

「そうか。だったら、お母さんをあまり困らせちゃ駄目だ。お母さんは今ね、とても大変なんだ。ユイちゃんしか心を休められる相手はいない。お母さんを支えてあげてくれ」

 

「もちろんです! ママは私が守ります!」

 

 クゥリは褒めるように、胸を張ったユイの頭を撫でた。その手つきは慈愛に溢れ、ユイも照れながらも心地よさそうに受け入れていた。

 食事を終えれば、クゥリは食器を洗おうとしたが、ユイがお客様にさせるわけにはいかないと断りを入れる。仕方なく居間に移動したクゥリは何処か落ち着かない様子で窓辺に立ち、カーテンの隙間から夜景を眺めていた。

 

「終わりつつある街に比べれば静かでしょう?」

 

「そうだな。あっちは人が増えただけ、夜も喧騒が尽きない。住んでる傭兵寮は防音設備も高いが、上も下も隣人も騒がしくてな。傭兵であるが故に……ってヤツだ」

 

 サインズ本部周辺は繁華街に負けず劣らずの賑わいだ。24時間休むことなく仕事が舞い込む都合上、彼らをターゲットにした店も当然ながら夜更けどころか朝を迎えるまで明かりが途切れることはない。そうでなくとも争乱が絶えない終わりつつある街だ。静寂とは無縁なのだろう。

 

「新居を探してはいるが、なかなか見つからなくてな」

 

「そっか。キミの場合は仕事の都合上、利便性が重要だもんね」

 

「いや、むしろ重要なのは隠匿性だな。トラップは仕掛けるにしても、なるべく人目が付きにくくて、外敵を迎撃しやすく、逃走も容易な立地が望ましい。多少の利便性の悪さは許容範囲内だ」

 

 自宅にトラップ? 迎撃? 逃走? クゥリの選定基準にアスナは唸る。それは自宅ではなく隠れ家というのではないだろうか?

 

「アルヴヘイムなんてどう? 転移ポイントへの移動手段さえ確保していれば、人気も無くて住みやすいと思うけど」

 

「候補には入れておく」

 

 カーテンを閉ざしたクゥリは壁にかけられた時計を確認する。アスナは泊まっていくように促そうと思ったが、さすがに彼が承知しないだろうことは把握していた。

 

「あれ? もう帰っちゃうんですか!」

 

「ああ。ユイちゃんとお母さんの時間を邪魔するのは悪いからね。オレは退散するよ」

 

「邪魔じゃないです! もっとお話を聞かせてください!」

 

 クゥリの袖を掴んだユイに同意してあげたかったアスナであるが、堪えて彼女を抱き上げると引き離す。

 

「ユイちゃん、我儘を言っちゃダメ」

 

「……ごめんなさい」

 

 玄関まで見送ったユイはそれでも名残惜しそうに手を振る。アスナはマントを羽織ってクゥリ同様にフードを深く被ると見送りとして転移ポイントまで同行しようとしたが、それではユイを騙したことになると断られた。

 

「ママはたくさんの人を救ってたんですね! すごいです!」

 

「あ、あははは。物は言いようかな?」

 

 クリスマスシーズンになり、エドガーも教会の運営に忙しく、聖遺物探索関連の仕事も舞い込まない。収入が途切れては困るので、回してもらえる仕事はないかと打診しているが、【バーサーク・ヒーラー】の正体隠匿の必要性もあってか、なかなかマッチした仕事はなかった。

 無邪気にはしゃぐユイの為にも、何よりもユイの財産を切り崩すような生活をしない為にも、アスナは家計簿を開く。

 前回のフロンティア・フィールド探索のお陰で相応の額が振り込まれたといっても、貯蓄も考慮すれば、やはり安定した収入は不可欠である。今回のキリトの顔を目視するテストも仕事の幅を増やす為には不可欠だったからだ。

 

(教会も人手不足みたいだし、選り好みはできない。スミスさんとの約束もある。何とかして教会からの信用を得ないといけない)

 

 ひとまずは【バーサーク・ヒーラー】を駒として抱えるだけの価値は示せている。もう1歩深く踏み込めるかどうか。アスナは明日にでもエドガーと連絡を取るべきかと悩む。

 その一方で、キリトが実質的に教会の専属になってしまったのは痛手である。都合上、大聖堂にも足を運ばねばならないアスナはどうしても聖堂街を通らねばならない。つまり、偶然にもキリトとすれ違うリスクが高まるという事である。

 

「またアドバイザーさんとお話しできるかな……」

 

 猫顏クッションを抱えたユイはアスナの隣に来ると、また家に来るように誘ってくれないかと目で訴える。ユイの愛くるしさに胸を射抜かれたアスナは彼女を抱きしめた。

 

「うーん、難しいかなぁ。とても人付き合いが苦手な人だから」

 

「……そうですか」

 

 ユイが義眼である右目を手で覆う。失われた彼女の右目を補うものであり、肉眼とほぼ同等の有効視界距離を得られるだけではなく、見えざるものを見る能力も備わっている、市場に出せば高額がつくだろうユニーク品である。

 ユイを授けてくれた少女からの贈り物だ。この義眼がなければユイは不自由な生活を強いられたことだろう。なにせ、アスナが知る限りでも損失した肉眼を同等に補える義眼は数える程しかなく、それもいずれも手が届かない程に高価どころか、金を支払えば得られるものではないのだから。

 

「ママは何処にもいきませんよね?」

 

「急にどうしたの?」

 

「アドバイザーさんを見ていたら、不安になったんです。あの人……まるで、何処か遠くに行って……そのまま帰ってこないような……そんな気がして……」

 

 ああ、だから引き留めようとしていたのか。ユイの不安を感じ取ることが出来なかった自分を恥じ、アスナは増々強く抱きしめる。

 

「安心して。私は何処にもいかない。必ずユイちゃんの所に帰って来る」

 

「本当ですか?」

 

「本当。逆にユイちゃんが何処かに行ってしまっても、必ず助けに行く。約束」

 

「はい! 約束です!」

 

 ユイと指切りをしたアスナは胸中で誓う。

 この世には絶対に手放してはならないものがある。たとえ、血は繋がっておらずとも、ここが仮想世界であるとしても、自分とユイの間には母子の絆がある。ならばこそ、たとえこの身が滅びることになるとしても、ユイだけは幸せにしなくてはならないのだと。

 

 

 その為ならば、たとえ……たとえ誰が『敵』になろうとも、斬らねばならないのだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「――以上より、今回の飛竜降下作戦……ドラグーン部隊の運用は想定を上回る成果を出しましたが、あくまで敵性戦力が対空能力を十二分に保有していない場合にのみ効力を発揮し、また飛竜の飛行能力で確保できる高度も考慮すれば、今後の作戦において主流になることはないというのが結論となります」

 

 会議室に明かりが戻り、暗闇の中で映し出されていた立体映像が消滅する。中心部の輝く球体は収納され、円卓を囲う者たちは息を漏らす。

 かつては聖剣騎士団の最精鋭たる円卓の騎士が座するはずだった空間。だが、今はかつての石造りではなく、近代的な会議室に改修され、座する者達は甲冑を身に着けていない。

 組織再編に伴い、軍服が支給され、戦闘時以外の『公務』においては着用が義務付けられたのだ。デザインはより騎士をモチーフにしている為に金緒など装飾がやや過多で、片側マントのハサーが標準装備となっている。

 この軍服はディアベルが申し出た戦場常駐の心構えに則り、物理防御力こそフルアーマーには劣るが、聖剣騎士団の最新素材である【軽イジェン繊維】を利用しており、並の甲冑に匹敵する防御力を誇る。属性防御力の不足は補う意味でもハサーは魔法属性防御力を高めるブルーコーティングが施されており、これはディアベルのメインカラーである青によって組織を統一することで団結心を高めることも目的としていた。

 

「虎の子の飛竜のお披露目、もう少し温存しておくべきだったんじゃねーの?」

 

 文句を垂れるのは数少ない円卓の騎士の生き残りにして馬や飛竜といった騎獣を統括するモーファだ。まだ着慣れないとばかりに詰襟を弄りながら作戦を非難する彼に、報告を主導していたラムダは眉を顰める。

 

「飛竜によって構成されたドラグーン部隊の真価は戦力の投下ではなく、対地爆撃にこそあります。3大ギルドでも飛竜の大部隊を保有するのは我らだけ。このアドバンテージは既に周知の事実。太陽の狩猟団とクラウドアースに、飛竜の脅威と降下戦術の有効性を知らしめただけでも十分過ぎる威嚇になります」

 

「加えて宣伝効果も上々です。太陽の狩猟団が投入した独自開発新型アームズフォート、スティグロよりもドラグーン部隊の方が『ヒーローチック』です。事実として、此度の作戦では1番手柄こそ太陽の狩猟団ですが、世間で最も『人気』を得たのはドラグーン部隊の活躍であることは間違いありません」

 

 ラムダを補足するのは広報部門のトップの【アガサ】だ。広報を担当するというだけあって、自分の持てる魅力を引き出すことに長けた女性である。軍服姿でありながらも、化粧や髪型だけで十分以上に女性の魅力を引き出しているのはさすがと言うべきだろう。

 だが、彼女の物言いにモーファは良い顔をしない。ラムダやアガサが組織運営……内政を担当するならば、モーファは自らが騎獣に乗って戦陣に切り込まねばならないからだ。広報に都合がいいという理由だけで大っぴらに手の内を明かしては堪ったものではないのである。たとえ、元より警戒され、対策を立てられているとしても、実際に戦場で披露するか否かで相手の動きは全く変わってくるからだ。

 円卓を蹴り飛ばす勢いで起立しようとしたモーファを押し止めたのは左隣に座する真改だ。DBO屈指のカタナ使いにして、聖剣騎士団でも最も影の薄い男は、同じ武人としてモーファに感情を御するように訴えたようだった。とはいえ、表情を変化させるどころか顔さえモーファに向けていないのであるが、そこは長い付き合いである。モーファも理解したように深呼吸をして感情を抑え込んだ。

 かつて円卓を囲んだのは類稀な実力でのし上がってきた武闘派ばかりだ。だが、今は違う。純粋な個人の戦闘能力を評価された者は圧倒的少数派だ。そこに一抹の寂しさを覚えるのは過去を知るからこそだろう。

 

「確かにドラグーン部隊の披露は時期尚早だったかもしれない。でも、こうして実践投入したからこそ得られた情報も大きい。今回の成果を糧として、ドラグーン部隊の更なる強化につなげればいいだけだ」

 

 思い出は現状を打破してくれない。ディアベルはどちらの肩を持つわけにもいかない。彼はいつものように崩さぬ笑みのまま、一声で会議の空気を支配する。全員の視線と意識を一挙一動で掌握する。

 

「飛竜の大規模育成に成功しているのは俺達だけだ。他のいかなるギルドも試行錯誤で成功には至っていない。とはいえ、飛行戦力を保有できるアドバンテージはいつまでも確保できるものではない。クラウドアースは飛行ユニットの開発を推し進めているし、太陽の狩猟団は遅れている分だけ対空への怠りが無い。特に飛行ユニットの量産が成功した場合、飛竜とは違って『生産力』が天地の差になるだろうね」

 

「待ってくれ、団長! たかだか鉄の塊に俺の飛竜が――」

 

「だからこそ、ドラグーン部隊には更なる『質』の向上が求められるんだ。飛竜用防具はもちろん、爆装の開発にも力を入れなければならない。根本的な品種改良は言うまでもないね。何よりも……秘中の秘である飛竜の増産・育成方法は何としてもスパイから守り抜かなければならない。それなのに……これは何だい? どうして、騎獣部門への予算削減なんて馬鹿げた発案が出てくるんだろうね?」

 

 笑顔のまま、声も優しい声音のまま、だが確かな威圧を込めてディアベルは幾人かの額に流れる脂汗を吹き飛ばすように溜め息を吐きながら、手元の資料の束を指で叩いて見せた。

 

「そ、それは、団長が仰られた通り、クラウドアースの飛行ユニットの生産力を鑑みれば、今後の『先』が無い騎獣の育成・維持コストの削減は――」

 

 1人が起立して弁明しようとするが、全て聞くまでもないとディアベルは右手を向けて閉口を指示する。

 

「そうだね。ここが『現実世界』ならそうだろうね。それで、『ここ』は何処だい? 銃より剣が弱いのかい? 車より馬が速いのかい? ヘリより飛竜が役に立たないと本気で言ってるのかい?」

 

 戦場を知る者だからこそ籠る言葉の覇気。ディアベル達は……最前線で戦い続けた者達は『竜』と名の付く存在がどれだけ強大なのか思い知っている。たとえ、古竜の末裔に過ぎない飛竜であっても、たった1体の、ネームドですらなくとも、上位プレイヤーのみで構成されたパーティが全滅することもあるのだ。そんな飛竜を騎獣として使用できることがどれだけ敵対者にとって脅威なのかは竜と殺し合った者にしか実感は湧かない。

 騎獣は育成にも維持にもコストがかかる。『生物』なのだから当然だ。怪我をすれば終わりだ。工業製品とは違って部品を取り換えて修理もできない。だが、ここはどれだけ現実世界以上の質感を持っていようとも仮想世界なのだ。

 足が千切れても薬で生やすことができる。骨が折れても短くない時間で元通りに治癒する。そして、何年も時間をかけて育成させることもなく戦力として利用できる。それがDBOなのだ。

 

「もちろん飛竜だけじゃない。軍馬や地竜の育成も急務だ。平地ばかりが戦場じゃない。山岳地帯、湿地帯、熱帯雨林……ありとあらゆる環境が戦場になり得るんだ。その時、最も効果的に機動力を発揮することができるのは自動車でもバイクでもない。騎獣だ」

 

「も、申し訳ありません! すぐに新たな予算案を作成いたします!」

 

「誤解しないでくれ。責めているわけじゃないよ。正しく予算を分配し、組織の強化を図ることこそがキミ達の仕事だからね。だからこそ、現場の意見をもっと尊重して欲しいんだ。今回のヴェノム=ヒュドラの件で分かったはずだよ。俺達が作り出した秩序は上辺だけに過ぎない。たとえ大ギルド同士であっても、互いに銃口を向け合っていることを忘れないで欲しい。戦争という名の『外交』で負けない為にも……ね」

 

 一皮剥けば野蛮な本性が露わになる。現実世界のように国際法もない、ルール無用の戦争ならば猶更だ。いや、現実世界であっても最後に笑うのが勝者であるならば、ルールを守り続ける事に意味を見出すのは絶対的な有利を確保した側が『正義』を高々と喧伝したい時だけだ。

 会議が終わり、退室していく中でディアベルは残った数人達の前で息苦しいとばかりに詰襟を外す。

 

「お疲れ様です、ディアベル様」

 

「ああ、悪いね」

 

 ずっと自分の後ろで不動の起立を保っていたソフィアに珈琲を差し出され、ディアベルは疲労を溶かすように口にして、途端に眉を顰める。彼女はあくまで護衛であって秘書官ではないのであるが、いつの間にか彼女が珈琲を差し出すのが日常となっていた。

 思い出すのはユイの笑顔だ。彼女が淹れる珈琲は格別だった。もはや取り戻すことが出来ない過去の日々であり、2度と会えない彼女との思い出を噛み締めるように、珈琲を深く味わっていく。

 

「いやー、ラムダさん。ごめんねぇ。俺も部下を持つ身としてハッキリ言っておかないといけなくてさ」

 

「殴られるかと冷や冷やしたぞ。反論があるならば事前に通達しておけ。さては資料を全く読んでいなかったな? 何の為に渡していると思っているんだ? まったく、お前みたいな奴がいるからアレスさんには是が非でも残ってもらっていたかったのだがな」

 

「アレスのおじいちゃんに頼りっぱなしなのは不味いでしょー? おじいちゃんはサインズで傭兵として働きながら日和見のギルドを聖剣騎士団寄りに勧誘する仕事があるんだからね」

 

 会議では一触即発であったはずのモーファ、ラムダ、アガサはそれぞれ先程までの態度が嘘のようにフレンドリーだ。聖剣騎士団拡張時期から内政で四苦八苦してきたラムダの苦労はモーファも知るところであり、アガサはアレスが育成した内政業務を担う要で相応の親交がある。公の場ではなく、個人として接すれば、全員が友情以上の信頼を互いに寄せあっているのである。

 

「皆様! 会議とは『予定調和』であらねばなりません! それなのにディアベル様に一喝させるとは何事ですか!?」

 

 今にも角を生やしそうな勢いでソフィアが怒鳴る。代弁してくれるのは結構であるが、自分はそこまで怒っていない。むしろ慣れているとディアベルは諦観する。

 会議とは始まった時点で9割完了しているようなものなのだ。根回しは済んでいて当たり前なのである。だが、実力でのし上がった者……武闘派のモーファにはそうした政治的配慮が欠けている。部下も持たない個人として最高幹部に座する真改はそもそも会議に参加する気などなく、出席するだけのお仕事である。投票が必要な案件は事前にディアベルが指示をしておくのが常だ。

 だからこそ、会議、交渉、取引において最も恐ろしいのはモーファのような暗黙の了解を弁えない人物だ。引っ掻き回して、滅茶苦茶にして、爆弾を投下して、着地点すらも穴だらけにしてしまうのだ。堪ったものではないのである。もちろん、そうした戦術も無いわけではないのではなく、むしろ常套手段なのであるが、何事にも限度があるのである。

 

「ソフィア、落ち着いてくれ。今回はモーファさんと打ち合わせを十分に済ませていなかった俺のミスでもあるんだ」

 

「ディアベル様は多忙の身です! それこそ会議など一言も喋らずに済むくらいでなければお体を壊してしまいます!」

 

 うん、珍しくブレーキをかけてくれないね。ディアベルはヒートアップしたままのソフィアの内心を把握する。

 先のヴェノム=ヒュドラへの攻撃……港要塞攻略戦において、万全の準備を整えて1番手柄を掲げると意気込んでいたソフィアであるが、蓋を開けてみればドラグーン部隊の投入だ。出番が無ければ功績も挙げられない。ご立腹なのも尤もである。

 

「確かに、今回の予算案には団長に釘を刺してもらわねばならなかったとはいえ、少々危うかったと言わざるを得ません」

 

「ん? 何処が?」

 

 全く理解が及んでいないモーファに、ラムダは思わず渋い顔をするが、旧知の間柄には説明するのも情けだろうと眉間を揉む。

 

「聖剣騎士団は今や万人単位の規模を誇る大組織だ。下部組織も含めれば、どれだけの人数になるかは言うまでもないだろう。加えて言えば、聖剣騎士団陣営に属さない、財力とコネクションを持った商業ギルドも多数存在する。聖剣騎士団からの援助を受けた有力ギルドもいる。即ち、利権争いが生じるということだ。今回の場合、騎獣部門の予算を割きたい派閥が裏で手を回したといったところだろう。調べは大よそついている。後で私も出向くが、団長が釘を刺さねばならない程度には騎獣部門は戦闘以外貧弱ということだ」

 

「どうしてそうなる? 訳が分からん」

 

 ラムダの言わんとする事を全く理解できない様子のモーファに、アガサは栗色のウェーブがかかった髪を指で弄りながら苦笑する。

 

「人間に滅私奉公なんて土台不可能ってこと。誰もが理想のサムライになんてなれないのよ。ねぇ、ソフィアちゃん?」

 

「わ、我が命はディアベル様の為にあります! 本当です! 本当ですよ!?」

 

 話を振られたソフィアは露骨に狼狽してしまい、ディアベルの前に跪く。まるで飼い主に捨てられるのではないかと慌てた忠犬を見ているような気分になったディアベルは思わず沈黙してしまい、彼女の動揺を大きくしてしまう。

 

「ディアベル様が命じられるならば、このソフィア! 今すぐでもヴェノム=ヒュドラの幹部を尽く討ち取って御覧に入れます! お望みならば、切腹でも! ポールダンスでも! よ、よよよよ、夜のお相手でもなんでも致します!」

 

 顔を真っ赤にして涙目で半ば縋りつくソフィアに、忠誠心も度が過ぎると危ういものだなとディアベルは頭痛を覚える。

 

「……見損なったぜ、団長! 権力の横暴で護衛にバニーガールを強要していたなんてよ!」

 

「モーファ、それくらいにしておけ。団長が剣を抜かれる3歩手前だ」

 

 別に怒ってはいない。今の自分にこんな軽口を叩けるのはこの場の面子とアレスくらいのものだ。モーファはデリカシーが少しばかりなく、たまにはデュエルの相手になってもらおうかと思ったくらいで、怒ってなどいないのだ。ディアベルは咳をして場の空気を整える。

 

「ともかく、組織再編は順調とは言い難いね。ラムダさんの提案でユニフォームの統一を図ったけど、人の心までは1つにできない」

 

「ですが、推し進めるしかありません。装備も規格統一化が進んでいます。個人調達した武装よりも、こちらから支給した規格品の方が遥かに優秀となれば、後は個人調整の範囲内で済みます。功績や実力に応じてハイエンド化や改修を行えば十二分でしょう。ならばこそ、組織の分解を防ぐ為にも分かりやすくユニフォームを支給し、義務化するのは当然の流れです。むしろ、それを怠れば『戦力』を保有する大組織は成り立ちません」

 

「それに規格化された中で個人装備で身を固めたとなれば象徴化も容易い。トッププレイヤーにはそれこそソウル素材を用いた最高の装備を支給し、士気高揚の要にもなってもらなわないと困りますしね」

 

 ラムダとアガサのそれぞれ似て異なる視点の発言を受け止めたディアベルであるが、彼の内心を映すように珍しく真改は眉を顰め、察したようにモーファが頭を掻いた。

 

「あのさ、非常に言いにくいんだけど……ハッキリ言っちゃうぜ? 今の聖剣騎士団の『質』の低下は割と深刻だぞ」

 

「……そうだね。確かにその通りだ」

 

「GvGなら、現状の装備の向上と訓練された『兵士』で何とかなる。だけど、完全攻略のカギを握るのは、フィールドを探索し、ダンジョンを攻略し、ネームドをぶちのめせる『冒険者』だ。数に物を言わせることもできなくはないが、それが通じる場面と相手ばかりじゃないのがDBOだ。そうだろ?」

 

 モーファの仕事は騎獣を活用できるフィールドの探索だ。騎獣を持ち込めないダンジョン攻略は専門外である。だが、それでも徘徊型ネームドと激突することもあれば、フィールドを封じる中ボス的な立ち位置のネームドを仕留めた経験も幾度となくある。そんな彼だからこそ、聖剣騎士団の『攻略』における戦力低下の著しさの指摘は重々しい。

 

「確かに。先月の聖剣騎士団の攻略貢献を数値化したところ……あの馬鹿騎士が69パーセントとバランス崩壊も著しい」

 

 ラムダも深刻な問題だと眉間に皺を寄せる。

 度重なる戦力の損耗によって、攻略を担うプレイヤーが激減したのが聖剣騎士団の最大の問題だ。辛うじて傭兵……それもグローリーの活躍によって支えられているのが現状だ。

 訓練を行い、レベルや装備を整え、戦力として機能するにしても、攻略は分野違いなのである。装備からして対モンスターよりも対人、対拠点を想定したものばかりであり、イレギュラーが常の未知なるフィールド探索、ダンジョン攻略、ネームド戦では、どれだけの損害が出るかも考えるだけで吐き気がする。

 加えてネームド……特に『ボス』の立ち位置に属するダンジョンの最奥で待つ者は、数の暴力を仕掛けたくても、一定数以上のプレイヤーを戦力として投入するとステータスが超強化される『調整』が入って損害が飛躍的に拡大する。そうでなくとも、ネームドの戦闘能力はもはや人間の限界を超越する領域にまで到達しているのだ。

 仮に……仮に【竜狩り】オーンスタインと同等かそれ以上のネームドと遭遇した場合、現状の聖剣騎士団において上位プレイヤーに属する戦力では、どれだけ数が揃っていても勝ち目はないとディアベルは断言できた。指揮と装備だけではカバーしきれない隔絶した差を埋める戦闘の要となるトッププレイヤー、ないし準トッププレイヤーが圧倒的に不足しているのだ。

 ネームドを単独討伐できるような『英雄』クラスが何人も確保できるとは思っていない。トッププレイヤーさえも『超人』なのだからそう簡単に現れてもらっても困る。だが、最低でも『傑物』と呼ぶに相応しい準トッププレイヤーは限りなく確保しておかなければならない。攻略のみならず、GvGにおいても戦術的価値は高いのだ。

 そう考えれば、ランク持ち傭兵の価値の高さも分かる。彼らは全員が『最低』でもトッププレイヤー級なのだ。得られる戦果に比べれば、支払う報酬など安価なものである。費用対効果は抜群である。だからこそ、傭兵の需要は決してなくなることはなく、自陣営の損耗でないならばと思いっきり活用することができる。独立傭兵ならば猶更だ。

 

「ならば我ら親衛隊にお任せを! ディアベル様のご命令とあれば、地の果てまで冒険し、如何なる宝物であろうとも捜し出してみせます!」

 

「親衛隊が団長から離れてどうするんだよ」

 

 モーファの冷静なツッコミにソフィアはうっと後退る。親衛隊の実力も高いが、最上位のソフィアでも準トッププレイヤー級である。

 ディアベルの見立てでは、あと2、3回ほど死線……最前線のネームドとの激闘を潜り抜けてくれれば、ソフィアも殻を割ってトッププレイヤーに至る成長性こそあるのであるが、悪戯に貴重な戦力を死亡率が最も高い最前線のネームド戦で損耗させるわけにもいかない為に機会は限定している。もとい、親衛隊である以上はディアベルが出陣する時くらいしか存在しない。

 

「そうなると……期待すべきはやはり心意かな」

 

 ディアベルの発言に、ただでさえ感情も表現も希薄な真改が珍しくハッキリと怪訝を表明するように唇の形を変えた。彼は心意の積極的な獲得に否定的である。部下も持たず、剣の実力だけで最高幹部の席を……数少ない円卓の騎士の生き残りとして影が薄くとも在籍する彼は、心意という不安定な能力を『武器』として信頼していないのだ。

 

「心意研究はいずれも進めていますが、クラウドアースと教会に先んじられているのが現状です。教会は堂々とクラウドアースから協力を引き出し、クラウドアースには心意保有者のユージーンがいます。当然と言えば当然ですが、手痛いリードですね。しかも【黒の剣士】まで教会に与したとなれば、聖剣騎士団の心意研究の遅れは必至。こちらからもアプローチを取っていますが、新議長のベルベットはクラウドアースをギルド連合から統合への推進を目論んでいるので、これがなかなか……。皮肉にも、お陰で太陽の狩猟団との連携も乱れているようですが」

 

「ラムダさんはこれまで通りのアプローチを続けてくれ。ユージーンの引き抜き工作の継続を頼むよ。彼もラストサンクチュアリ壊滅作戦で敗北した身だ。ランク1を保つのは難しいだろうし、そうなればクラウドアースとしても彼の価値は低下する。ベルベットの傭兵軽視路線は好機だ。【黒の剣士】に敗れたとはいえ、彼もまた匹敵する実力者なのは疑う余地もないからね」

 

「畏ま……失礼、緊急の連絡のようです」

 

 ラムダはシステムウインドウを開き、届いたメールをチェックして、やがて会心の笑みを浮かべる。

 

「団長、朗報です。『アレ』の回収に成功したとの事です。犠牲は大きかったですが、諜報が確かならば、我々が第1号かと」

 

 やっと見つかったか! 発見できる保証などなかったが、他の大ギルド……いいや、『アレ』を欲するすべての勢力との奪い合いに勝利できたのは大成果である。

 

「ディアベル様、何をお探しになられていたのですか?」

 

 ディアベルが目に見えて上機嫌になったからだろう。問わずにはいられなかったソフィアに、彼は右手で口元を正そうとして、だが堪えきれずに歪みを大きくする。

 

「砕けた聖剣の1部さ」

 

「せ、聖剣の……!」

 

「ええ、報告によれば名前は……【月光の欠片】とのことです」

 

 月光の欠片、か。ディアベルはラストサンクチュアリ壊滅作戦……いいや、『英雄』と『バケモノ』の殺し合いの中で確かに見た、心が聖剣を通して繋がるような月光を思い出す。

 ここから巻き返しの時だ。他の大ギルドよりも先んじて月光の欠片を入手できたアドバンテージを何としても活かさねばならない。その為にも心意保有者の確保は最優先事項だ。ディアベルは次の策を練るべく思案の海に潜り込んだ。

 

 

▽     ▽      ▽

 

 

 まるで子どものおもちゃ箱のような部屋だ。天井ではプラネタリウムのように星々が泳ぎ、地に落ちることなく様々な動物の風船が浮かぶ。ぬいぐるみが各所で散らばっていた。

 食べかけのケーキ、半ば溶けたカラフルな山積みアイスクリーム、ガラス皿に盛られたキャンディといったお菓子が視界を常に彩る。

 ピンク色の天蓋付きベッドではシーツが汚らしく捲れ上がり、ふわふわのレースが施された枕は落ちていて、主が先程までぐっすりと眠っていたことを示している。

 

「あらあら、殺人鬼さん♪ 私に御用なんて珍しいわね♪」

 

 歓迎しているのかいないのか。よく分からない愉快な音色でPoHを迎えるのはマザーレギオンだ。だが、彼女はこちらを見ることなく、巨大なモニターを前にしてふかふかのクッションに腰を下ろし、コントローラーを必死に動かしている。

 

「あ、ちょっと……ちょっと待ってね! む、むむ……ムムム! むぅううううう!? くぅううううううううやぁああああしぃいいいいいい! この私が2位なんて! 我らの王の恥になっちゃうじゃない……って、世界ランカー!? なんで世界ランカーが来てるのよ! もう!」

 

「何をやってやがる」

 

「見て分からない? マリ〇カートよ」

 

 ああ、確かにマ〇オカートのようだ。モニターでは世界的に有名な赤帽子の配管工のレーシングゲームが映し出されている。ちなみにマザーレギオンが操作しているのは俗称・永遠の2番手であった。

 

「貴方もやらない?」

 

「結構だ」

 

「はい、コントローラー♪」

 

 拒否権は無い。マザーレギオンはフィンガースナップを鳴らせば、天井の星空から新たなモニターとコントローラーが落ちてくる。溜め息を吐きながら受け取ったPoHは、自分の操作キャラを緑のドラゴンにした。

 

「あら、意外ね。ヨッ〇ーが好きなの?」

 

「適当に選んだだけだ」

 

「ふーん」

 

 コントローラーゲームに触れるのはいつ以来だろうか。そうだ。我が師サーダナに誘われた時以来だ。

 サーダナはゲームなど低俗と吐き捨てる人物ではなかった。頭の休憩に丁度いいとマイナーから大手まで幅広く手を付けていた。とはいえ、彼の楽しみ方はバグを見つけてメーカーに連絡するという厭味ったらしいものだったが。

 サーダナの弟子達との付き合いは薄かったが、何度か無理にコントローラーを握らされたことがあった。初めてゲームに触れたのはその時であり、このレーシングゲームもナンバリングこそ違ったがプレイした。初心者の彼は最下位常連で、他の弟子たちに嗤われて、珍しく悔しさを露わにして何度も再戦を申し出たことを覚えている。

 今にして思えば、数少ない人間らしい時間だったのだろう。あの時間をもっと大切にしていれば、今のようにデス・ガンやロザリアとの関係構築に苦慮することもなかっただろう。逆に言えば、あの時に人間関係を切り捨てて思想家として歩むことを決めたからこそ『天敵』に出会うこともできたのだ。

 人生とは面白いものだ。マザーレギオンが操作する緑の2番手に赤甲羅をぶつけ、彼女の怒りの絶叫を浴びながらPoHは1位でゴール……するかに見えた瞬間、バナナの皮でスリップして追い抜かれ、世界中の名も知れぬ誰かが操作をする桃色お姫様が栄冠を手に入れた。

 

「……もう1戦だ」

 

「奇遇ね。私も同じ気分なの」

 

 その後、2人は黙々とコントローラーを操作しては2人の間にいつの間にか置かれていた煎餅を齧り合う。程よい醤油の味わいが喉の渇きを招き、いつの間にか最も取りやすい位置に冷え切ったコーラが準備されていて、ご丁寧に差されたストローのお陰で最短時間で炭酸を喉に流し込む。

 

「どうして仮想世界でコントローラーゲームなんかしてるんだ?」

 

「これこそが『ゲーム』だからよ。私に言わせれば、VRゲームなんてゲームとして欠陥品ね」

 

 マッチングするまでの空き時間、自分の顔ほどの大きさもあるマシュマロを食むマザーレギオンの回答に、PoHは興味をそそられた。

 

「VRゲームの最大の問題点って何だと思う?」

 

「VR適性だろうな」

 

「違いまーす。『VRであること』でーす。クヒヒ、ちょっと難しかった?」

 

 意味が分からない。PoHはゲームにそこまで詳しくないと悔しさも見せずに肩を竦める。

 

「VRゲームとはつまり体感型ゲームのこと。コントローラーではなく、仮想世界に作り出されたもう1つの自分の肉体……アバターを操作する事こそが現代におけるVRゲームの定義でしょうね。アバターは茅場晶彦が設計した運動アルゴリズムに従い、VR適性次第では現実を完全に超越した反応と思考速度を可能とする。確かにそれは大きな格差よね。でもね、VR適性なんて過半は横並びよ。世界中でVR適性がA以上なんて極少数。国によってはSやSSは貴重な人材として保護され、英才教育を施される場合もあるわ。その程度には逸材なのよ」

 

「だったら、俺の答えで間違いはないだろ」

 

「言ったでしょう? 大半は横並び。確かに高VR適性者はゲームバランスを崩壊させる因子になり得る。心意に覚醒するかもしれないリスクも含めてね。でも、VR適性が全てじゃない。ステータスや装備の相性、アイテムやチームワークによる様々な戦術・戦略を駆使すれば、たとえPvPでも高VR適性者を倒すことはできる。何故なら『デスゲーム』じゃないから。死なないと分かっていれば、人間って大胆な行動が取れるものでしょ?」

 

「……確かにな」

 

「それにVR適性は反応速度、思考速度、アバター制御能力に関係するけど、面倒なことにアバターというもう1つの肉体はイメージで動いているわけじゃない。運動アルゴリズムという仮想世界の神経系が張り巡らされた『肉体』なの。つまり、本人の肉体制御能力が少なからずのウェイトを占めるのよ」

 

「だからこそ、【渡り鳥】は劣悪なVR適性でも戦い抜ける」

 

「では、VRゲームの醍醐味について考えてみようかしら。目玉は『体感』。すなわち、経験をより生々しく肉付けする。幻想的な風景を目にした感動も、銃を撃った反動も、剣で突き刺した感触も、自らの『肉体を動かす』という行為さえもね」

 

「意味が分からないな。それの何処か欠陥なんだ?」

 

「従来のコントローラーゲームで要求される五感は大きく分けて2つ。目で見るという視覚。音を聞くという聴覚。そして、操作に必要なのはコントローラーを動かす指だけ。ゲーム内の事象は画面の向こう側で全てが完結する。でもね、VRゲームは仮想世界の肉体をフルに活用しないといけない。ゲームキャラクターのように常に最高のパフォーマンスを発揮してくれない。何もかもが『自分の能力』に依存する。どれだけシステムが整っていても、体感ゲームである以上は最後には操作の全てが自分自身の肉体操作に帰結する。画面の向こう側ではなく、今そこにある仮想世界における体感こそがゲームプレイなのよ」

 

 なかなかマッチングしないわね。のんびり待つ気らしいマザーレギオンはゆったりと左右に揺れる。まるでPoHを惑わすように、コーラをストローで飲む音が異様に響く。

 

「VRゲームは『スポーツ』に近い。そう言いたいわけか?」

 

「まぁ、簡単に言えばそういうこと。コントローラーゲームであれ、キーボード操作であれ、目と耳と指で終わるのが従来のゲームだった。でも、VRゲームでは運動アルゴリズムによって制御されたアバターという肉体のフル操作を常に要求される。こんな論文があるわ。スポーツ経験の有無でVR適性が同一であってもアバター操作の初期能力及び成長速度には大きな隔たりがあると」

 

 ようやくマッチングした。今度こそ負けないとPoHは肩の力を抜いて意識を集中させる。

 

「今はVRという夢の産物の具現でプレイ人口が増えているだけ。日常として、生活の1部として完全に定着してしまえば、VRゲーム市場は落ち着くわ。事実として、これだけVRゲームがリリースされる現状であっても、コントローラーゲーム市場の縮小も想定以下みたいだしね。何よりもシナリオ重視やキャラゲーの場合、VRゲームにする必要性が薄い。まぁ、VR上で神の視点から眺めるというならまた別だけどね♪」

 

「……真面目な考察をしながら、スターでタックルするな!」

 

「ビリは嫌! ビリは嫌なの! はい、ゴール! はい、私の勝ちー! 殺人鬼さん、ビリ! 罰ゲーム決定!」

 

 罰ゲームなんてルールは決めていない。ワースト1位、2位フィニッシュという低レベル争いは傍から見ればさぞかし喜劇だろう。新たなマッチングを待つ間、PoHはそろそろ本題に入りたいとマザーを横目で睨む。

 

「ヴェノム=ヒュドラは、マザーの仕込みか?」

 

「違うわよ」

 

「だが、連中の技術力は高過ぎる。あれだけの資本が投入されていながら、レギオンが掴めていなかったなどおかし過ぎる。それに奴らは深淵とレギオンプログラムを組み合わせたようなヤクも作ったみたいだぜ?」

 

「情報はネットワークにアップされているわ。確かに面白いわね。アルヴヘイムの深淵汚染のデータも応用されているし、デーモンシステムの暴走もレギオンプログラムの関与が見受けられる。だけど、あくまで『生物』として元来備わっている凶暴性の発露……獣性の表面化がメインのようね。暴走を除けば、デーモンシステムの獣魔化の範疇よ。あれはレギオン化とは呼べないわ」

 

「マザーには正体がつかめているんじゃないか? 連中の正体は場合によるが、レギオンにとって厄介の種になるぜ」

 

「……貴方はどう思っているの?」

 

「レギオンの死体……レギオンの素材が関与している。奴らのヤクの原材料としてな」

 

 マザーレギオンがこれまでプレイヤーにちょっかいを出す為に派遣したレギオンは1体や2体ではない。

 上位レギオン……マザーレギオンからレギオンの王の因子を切り分けて生み出されたレギオン姉妹達は別格としても、それに続く強大なレギオンもまた存在する。たとえば、クゥリのメイン装備である、感染・侵蝕能力を持った規格外のユニークウェポンは獣狩りの夜を発動できるという強大な能力が与えられたレギオンのソウルを素材として作り出されたとPoHは考察している。

 

「……レギオンを倒せば、レギオンの素材が低確率だけどドロップする。でも、現状で麻薬アイテムとして多数生産できるほどではないわ。結論から言えば、私が把握できる限り……すなわち、レギオンネットワーク上では、それだけ強力なレギオンの撃破は記録で該当するものはない」

 

 マザーレギオンは……いいや、レギオンは嘘を吐かない。悪戯や誤魔化し程度の虚言こそあっても、こちらが真剣に尋ねる限り、嘘を並べて弄することはない。そういう種族なのだ。

 ならばヴェノム=ヒュドラにレギオンの関与はない。思い違いかとPoHは嘆息を吐こうとした時、生温かい吐息が彼の耳を舐めた。

 

 

 

「でも、サルベージされたなら別かもしれないわ♪」

 

 

 

 そのまま暴力的に押し倒されたPoHの上に跨ったマザーレギオンは、人間にはあり得ない漆黒の肌をモニターの光で妖しく照らされながら、多重円の赤い瞳で彼を射抜く。

 

「少し前、トラッシュデータ領域でイレギュラーダンジョンが生じたわ。その際に何者かが我らの同胞の遺体を漁っていたとしたら? あるいは、何らかの要因でトラッシュデータ領域から正規エリアの何処かに出現していたとしたら? アルヴヘイムでは数多のレギオンが倒されたわ。その遺体を貴方の≪死霊術≫のようにカーディナルから別枠のシステムが組み込まれたユニークスキルの類で素材として活用されたならば、十分にあり得るわね♪」

 

 ぺろりと唇を舐めたマザーレギオンはPoHの首に甘噛みをする。唾液で肌は濡れ、脈動する首筋に歯が立ち、肉に優しく食い込む。

 

「それはどういう……ぐっ!?」

 

 甘噛みのラインを超えて血が零れ、肉にマザーレギオンの歯が……鋭く変形した牙が食い込んでいく。同時にまるで毒を流し込まれたようにPoHの全身が内側から焼かれるかのような熱を帯びる。

 

「ぐがぁああああああああああああああああああ!?」

 

 四肢を暴れさせて脱しようとするが、マザーレギオンはそれを許さない。華奢な体に見合わぬ剛力でPoHの体を拘束し、じっくりと堪能するように何かを流し込み、その対価のように血を啜る。

 

「ご馳走様♪ とっても熱くて、苦々しくて、でも何処かに果汁のようなほのかな甘みがする血だったわ」

 

 PoHの血で濡れた口元を妖艶に赤く染め、マザーレギオンは痙攣する彼をそのまま放置してコントローラーを握る。

 

「ヴェノム=ヒュドラの裏には誰がいるのかしらね。でも、誰であれ、現状を引っ掻き回したいのは間違いないみたいね。3大ギルドの秩序の否定? それとも戦争の加速? あるいは……クヒヒ!」

 

「ぐが……あがぁあああ……」

 

「何にしても≪操虫術≫は回収したいわ。だけど、このまま放置してDBOを混乱に陥れて、最後に美味しく狩っちゃうのも悪くないわね。レヴァちゃんに要相談かしら」

 

「お、れに……何を……し、た!?」

 

「新型のレギオンプログラムを植え付けたわ。今の貴方では剣士さんには勝ち目が余りにも薄過ぎるわ。私ね、こう見えて貴方の事を高く評価しているの。貴方を失うのは惜しいわ」

 

「ぐぉおお……おおおおおおおぉおおおお……うがぁああああああああああああああ!?」

 

「適合率は1パーセント未満。でも、こういう時の低確率って大抵成功するのがジンクスよねぇ。そう思わない?」

 

 もはや悲鳴は悲鳴でなくなり、獣の唸り声の如く喉から吐き出され続ける。PoHはもがき苦しむ中で自分へと満開の笑みを浮かべるマザーレギオンを見たのを最後に視界が暗闇で塗り潰された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫よ。貴方がレギオンになっても『家族』になるだけだから♪」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まるで何百年も眠っていたかのような深い眠りが破れ、次にPoHが目覚めた時は清々しいまでの爽快感があった。

 ピンクの天蓋が目につき、ふかふかのベッドで半裸……いいや、全裸で仰向けになっていた。同じく一糸纏わぬ姿でマザーレギオンが傍らで寝そべっている。

 

「ほら、適合できた。クヒヒ! 私の思った通りね♪」

 

「……ふざけるな」

 

「でも、気分がいいでしょう?」

 

 否定はできない。PoHは上半身を起こしてみるが、心臓と一体化したような強大な脈動を覚える。

 

「レギオンになる気はない。人間のままでやらないといけない事が残っているからな」

 

「あら、レギオン・プログラムで武装してるくせに、レギオン化は否定しちゃうの? 悲しいわ」

 

「『力』を利用させてもらっているだけだ。それにな、俺をレギオンにする気など毛頭なかったはずだぜ。どうせレギオンに変わる前に殺すつもりだっただろう?」

 

「そんなことしないわよ」

 

 マザーレギオンは煽情的に、だが慈母の如く微笑むとPoHの右頬を撫でる。

 

「『誠実』、『好奇』、『慈悲』、『敬愛』、『憎悪』。私の中の王の因子をたくさん切り分けてきたわ。その分だけ私は自分を保つのが危うくなっている。ダーちゃんほどではないけど、何かの拍子で崩壊を起こしても不思議ではないわ。だから優秀なレギオンは1体でも多く作っておきたいの」

 

 PoHの予想した通り、上位レギオンを生み出すとは再生できない内臓を切り離すのと同じことなのだ。相変わらず自由奔放に見えるマザーレギオンであるが、こうして面を合わせる機会が減っているのは、自己保全の為の休眠時間が伸びているからなのだろう。

 

「どうして上位レギオンを増やす? 何が目的だ?」

 

「……知りたい?」

 

「知っておきたい」

 

「教えない♪」

 

 つまりは教えるべきではない秘密ということだ。マザーレギオンの思考が読めてきたPoHはわざわざ追及することでもないかとこの場は堪えることにした。

 

「俺に何を与えた?」

 

「ちょっと特別なレギオンよ。今は休眠状態で貴方の中にいるわ。暴走することも、王に察知されることもないわよ。私からのプレゼントを使うために必要不可欠だから貸してあげるわ。貴方ならきっと使いこなせるはず」

 

「それで俺に何をさせたい?」

 

「何だと思う?」

 

 可愛らしく笑んだマザーレギオンは、深刻な表情をしたPoHがおかしくて我慢できない様子だった。

 服を着たPoHは相変わらず裸体のマザーレギオンに見送られる。下手をせずとも情事の後のようであるが、そんな甘いものではないと彼は断固として抗議する。

 

「ああ、それと……貴方が欲しがっていたものだけど、私が準備するまでもなく出回ったみたいよ。探してみたら?」

 

「本当か!?」

 

「レギオンは嘘をつかないわ。でも、急いだほうがいいわよ。数が少ないみたい」

 

「感謝するぜ」

 

 何が何でもあの本を手に入れなければならない! 懇切丁寧に説明できる自信はあるが、やはり教本の有無は大きい。マザーレギオンに準備してもらえば済むことであるが、自力で手に入れたならばデス・ガンも学ぶ気が大きくなるだろう。

 

「ああ、それともう1つ」

 

 今すぐにでも出発したいPoHに、マザーレギオンは人差し指を立てた。

 まだ用があるのか? PoHは焦りを抑えながら発言を待つが、マザーレギオンの声はあまりにも小さい。眉を顰めて少し前屈みになった瞬間、彼女の両腕が伸びて彼の頭を包み込み、そのまま自分へと引き寄せる。

 触れたのは瑞々しく柔らかい唇。マザーレギオンの熱い吐息が籠った接吻を受け、PoHの思考は停止した。

 

「……ぷは! 罰ゲームをすっかり忘れてたわ。じゃあね、思想家さん♪」

 

 マザーレギオンはお茶目にウインクして私室のドアを閉める。残されたPoHは唖然としたまま、まるで初キスを体験した初々しい中学生のように自分の唇を触れる。

 あのマザーレギオンが甘ったるい感情でキスしたはずがない。何かを仕込まれたに違いない。PoHは自分の中に何のレギオンプログラムが仕込まれたのかと疑心と恐怖を抱く。だが、そんな感情を芽生えさせることこそがマザーレギオンの『遊び』であるならば、これ以上となく有効であり、ならばこそどうする事も出来ない。

 他の上位レギオンに相談したくとも、相手次第では命取りだ。ひとまず安牌であるグングニルかミョルニルの捜索は急務である。

 

「クソ! 天敵論を入手するチャンスだというのに!」

 

 今回もまたすっかりマザーレギオンに振り回されてしまった。PoHは苛立ちを込めて嘆息を吐いた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 ユイはやはりオレのことを完全に憶えていなかった。いや、分離した以上はそもそもオレと過ごした記憶など存在しなかった。

 これまではなるべく接触を避けていたが、こうして改めて確認できたのは大きい。ユイの心配をする必要はもう無いだろう。

 砦要塞の戦いが終わってから、行く当てもなく、仕事が舞い込むまで各地を転々としていたオレだったが、アスナからの強い要望もあって、今回は彼女のホームにてキリトの認識試験を行うことになった。

 結果は上々。アスナはキリトの顔を目視してもフラクトライト崩壊を引き起こさなかった。あの様子ならば、声もやはり大丈夫だろう。

 だからこそ危険だ。確かに有名人であるキリトの顔を目視できるか否かのテストは必要だった。だが、これまで顔も想像できなかったからこそ、キリトに会いたいという欲求も抑えきれていたはずだ。

 もちろん、ユイの存在がアスナのブレーキとして機能することは間違いないだろう。だが、仮に……仮に、手を伸ばせば会える距離まで不意にキリトが近づいてしまった時、アスナがそれに気づいてしまった時、果たして堪えきれるだろうか?

 いや、そもそもとして、現状は果たして正しいのか? キリトはアスナが惨殺されたと信じ、アスナはキリトに会えない苦しみを背負い続ける。これが悲劇を止めたと言い切れるのか。形を変えただけで、悲劇には変わりないのではないのか?

 キリトの悲劇を止める。頭にこびりついた依頼だ。だが、誰の依頼だっただろうか。彼を強く想う者の願いにして祈りだったはずだ。

 転移して終わりつつある街に辿り着く。通行料の支払いも馬鹿にはならないので、自宅として居を構えるには些か抵抗がある。まぁ、探しさえすれば立地条件は悪くなさそうではあるんだがな。

 

「ん? これは……グリセルダさんからの……」

 

 傭兵寮にも帰る気がせず、仕事が入るまでまた何処かへ足を運ぼうかと思っていた矢先に、ようやく新しい依頼の連絡が来る。

 だが、どうやらサインズを通した正規の依頼ではなく、グリムロックが取ってきた、それもチェーングレイヴからの依頼のようだ。アイツは何をやってるんだ?

 仕事の内容は2つ。グリセルダさんは無理に受けなくてもいい旨を記載している。

 

「これは……」

 

 だが、無視できるものではないな。グリムロックがわざわざ取ってきた仕事ということは、オレの装備の強化・改良を目的とした素材が報酬になるだろう。

 

「殺し……殺し……殺し、か」

 

 依頼は2つ。どちらも殺しだ。

 依頼1は『黒狼アリシアの討伐』だ。どうやらテイミングしていたプレイヤーが亡くなったことで野生化したらしく、高い知能と凶暴性を発揮し、終わりつつある街の野犬を統率して群れを形成しているようだ。

 既に貧民プレイヤーに犠牲が出始めている。アリシアは成長も相まってレベル100に匹敵するモンスターの強さであり、率いる群れとテイミング時代に学習したプレイヤーという存在を合わせれば、脅威度はネームドにも匹敵すると評価されている。

 チェーングレイヴは当初、アリシアを捕獲し、飼い慣らす、もしくは別の誰かの≪テイマー≫スキルの発露を期待していたようであるが、捕獲に参加した構成員5名はいずれも出し抜かれただけではなく負傷した。不特定多数の水準レベル10未満とはいえ野犬を統率し、なおかつプレイヤーの戦術・戦略を完全に把握している。ネームド級の脅威度も納得だ。

 加えて、チェーングレイヴはただでさえ人手不足だ。広大・複雑化した終わりつつある街において、俊敏かつ野犬の目と鼻による索敵さえも可能とするアリシアを発見することさえも困難である。

 このまま貧民プレイヤー以外にも犠牲者が出始めた場合……いいや、ネームド級の脅威が終わりつつある街に潜在している事を認知した時点で、大ギルドは懸賞金をかけて討伐に乗り出すのは時間の問題だ。それより先にチェーングレイヴはアリシアを討ち取らねばならない。『モンスター』としてではなく『仲間』として……だ。

 オレに頼るのは苦渋の決断といったところか。だが、オレを指定したクラインは正しい。まぁ、最大の理由は人手不足だからだろうけどな。

 依頼2は……今はいいだろう。何にしても殺しだ。殺しなのだから。

 

「殺して、殺して、殺して……殺してばかりか」

 

 思わず口から零れるのは自嘲のはずなのに、口元は醜悪に歪んでいることに気づく。

 アリシアを目の前で殺せば、黒狼を可愛がっていたユウキはさぞ苦しむことになるだろう。悲しむことになるだろう。涙を流すだろう。

 ユウキを愛しているからこそ、彼女をもっと苦しめたい。もっともっと傷つけたい。もっともっともっと……!

 オレは自覚している。惨たらしく傷つけ苦しめる姿に悦楽を覚える自分を知っている。血を流し、肉を削ぎ、骨を砕く、終わりのない闘争を欲している自分を知っている。

 ユウキの笑顔を見たいはずなのに……彼女が夜明けの向こう側で黄金の稲穂を手に入れる姿を望みたいはずなのに……暗く深い夜の下に縛り付けて惨たらしく破壊し尽くされて涙した彼女が血の海に浮かぶ姿に焦がれている。

 会いたくない。今は……ユウキに……会いたくない。

 傷つけたくない。苦しめたくない。泣かせたくない。たとえ、それが全て『嘘』だとしても……それでもキミを……愛しているから。

 サインズの傭兵寮に辿り着けば、正面玄関ではグリムロックとグリセルダさんが並んで待っていた。今にも雪が降りそうな夜なのに、部屋で待っていればいいものを。オレはフードを外して2人に顔を見せる。

 

「やりたくないなら――」

 

「受けますよ。有用な素材が手に入れば、それだけ次の依頼も楽になりますしね」

 

 大丈夫だよ? オレは微笑みで返せたはずだ。なにも心配させていないはずだ。グリセルダさんは『優しい人』だから。

 

「その意気だよ、クゥリくん! この依頼を達成すれば、キミの装備は新たな次元に到達する! さぁ、受け取りたまえ! 贄姫だ! 修理だけではなく、『アレ』の調整も済ませておいた。まさしく万全だよ……!」

 

 戻ってきたか、贄姫。これさえあれば港要塞はもう少し楽だったんだがな。

 それに『アレ』もようやく調整完了か。『アレ』の調整さえ済んでいればキリトを確実に殺せ……いや、過去を振り返ってもしょうがない。どうでもいい。グリムロックでもこれだけの時間を要した。それだけだ。

 

「サポートが必要ならいつでも言ってね。それよりも貴方、少し大事な話があるの。ちょっといいかしら?」

 

 笑顔でグリセルダさんはグリムロックを連行していく。おかしいな。今回はグリムロックの言動に特に問題はなかったはずなんだがな。

 傭兵寮の階段をじっくりと時間をかけて上りながら考える。今回のターゲットは特殊だ。野犬を統率し、プレイヤーを知り尽くした黒狼アリシア。どうやって居場所を割り出すか。まずは犠牲者が出たポイントを調査しよう。野犬を統率しているとしても終わりつつある街の全ての野犬を支配下に置いていないはずだ。

 相手は嗅覚も鋭い。念入りなニオイ消しも不可欠だな。加えて野犬『だけ』を統率しているかどうかも重要だ。先入観は死を招く。

 ヨルコに依頼して消臭アイテムを準備するか? いや、手持ちに十分な数があったな。だが、やはり傭兵寮だけでは装備もアイテムもストックに限界がある。不足分を毎度のように黄金林檎の工房から運搬してもらうのも骨が折れるし、何よりもサインズの管理下にある傭兵寮にはあまり装備もアイテムも置いておきたくない。

 

「ふーん♪ ふん♪ ふーん♪ お、【渡り鳥】じゃねぇか。浮かない顔してるな。どうした? 何か悩みがあるなら乗るぞ!」

 

 と、ようやく自室の前に着いたかと思えば、上機嫌なカイザーの兄貴と出くわす。随分と気合の入った服装だ。デートか?

 

「カイザーの兄貴こそ、何処かにお出かけですか?」

 

「まぁな。色々あってラビズリンが停職処分を食らっちまってな」

 

「聞き及んでいます。この度はご迷惑をおかけしました」

 

 オレの依頼がダミーであり、その件でサインズで悶着があったらしく、紆余曲折を経てラビズリンはサインズ上層部に喧嘩を売ってしまったらしい。ダミー依頼の件はさすがにサインズの恥として隠し通されている。グリセルダさんも相当な額の口止め料をもらったらしい。ただし、今回の件はそれだけでは済まず、サインズ上層部と大ギルドの癒着問題にまで発展し、サインズが確保するべき公平性が欠落し、このままでは傭兵からの信用が無くなるとして水面下で改革が始まっているようだ。

 まぁ、大ギルドからのシークレット依頼が多いオレからすれば、何がどうなろうと知ったことではないが、3大ギルドが同等の影響力を持っているならばともかく、何処か1つの大ギルドが突出してしまえば、サインズが保有する膨大な情報を独占できることになる。

 情報は生命線だ。サインズを信用するからこそ、傭兵は自分たちの情報を登録している。もちろん、隠している爪もあるにはあるだろうが、それでも露見すれば少なからずの急所を晒すことになる。そうでなくとも、依頼情報を特定のギルドに横流しするだけで依頼中の傭兵の身は危うくなる。

 サインズが守り通さねばならない傭兵の雇用システムの瓦解。それの危機なのだから下克上もやむなしだろう。ラビズリンはその切っ掛けを作ったのだ。これから追い落とされる側が堪ったものではない。とはいえ、彼女は3大受付嬢の1人だ。実務能力と人気でサインズを支える看板娘である。解雇はできず、苦し紛れの停職処分といったところか。

 ……サインズ改革が激化すれば、口止めされているとはいえ、オレがまんまとダミー依頼によって港要塞に監禁されていたことも明るみになるかもな。というか、週刊サインズは間違いなくネタを掴んでるだろうしな。今後の展開次第ではオレが騙され抜いた事実が露呈するわけか。うん、笑えない。

 

「しかし、彼女の停職と兄貴の外出に何の関係が?」

 

「フッ! アイツにとって本職はむしろ瑠璃色楽団の歌姫よ! 受付嬢の仕事が無いからな。今日からライヴ三昧ってわけだ。俺もお呼ばれしたわけよ」

 

 チケットを見せびらかすカイザーの兄貴の頬は心なしか緩んでいる。ふむ、そういう事か。

 そういえば、クリスマスには各所でライヴが開かれる予定だったな。随分と華やかなクリスマスになりそうだ。

 

「それで? お前はどうなんだ? そんな『悩みがあります』ってツラされるとよ、兄貴と呼ばれる身としては放っておけないわけだ。話してみろよ」

 

「……特に何も」

 

「仕事か?」

 

「…………」

 

「依頼内容にまで口出ししないが、やりたくない依頼なら受けないのが傭兵ってもんだぜ?」

 

 別に依頼自体はどうでもいい。どうでもいいのだ。腕を組んでオレを見下ろすカイザーの兄貴に、オレは俯いて視線を逃がす。

 

「もしも……いえ、やっぱり……」

 

「言っちまえよ。同じ傭兵だ。答えられる悩みもあると思うぜ?」

 

「……よくある話です。これまでも何度も何度も経験してきました。だから慣れているんです。慣れている、はず、なんです」

 

 壁にもたれかかり、オレは肩から垂れる結った髪を指で弄る。カイザーの兄貴もまたオレの隣で腕を組む。

 

「依頼で傷つけて、壊して、殺す。そしたら、奪われた誰かが涙を流す。でも、知らせないこともできる。知らないままで、終わらせることもできる。だけど、教えたい。知ってもらいたい。見てもらいたい。傷つけて、悲しませて、涙を流させることになるとしても……。そんな時、カイザーの兄貴ならどうしますか?」

 

「難しいな。そもそも、お前は何で知らせたい? 誰かを殺すとして、ソイツの死を教えておきたいからか? 自分が殺したって伝えたいからか?」

 

「…………」

 

「OK、込み入った事情ってわけか。だったら、そうだな……迷ってるってことは、お前は先にどっちを思い浮かべた?」

 

「どっち……とは、隠したい理由と明かしたい理由ですか?」

 

「ああ」

 

「隠したい理由……でしょうか」

 

 これで何が分かるというのだ? オレが答えれば、カイザーの兄貴は笑いながら俺の額を指で突いた。

 

「いいか? こういう時は先に思い浮かんだ方が重要だ。たとえ、後から浮かんだ理由が自分の本音だとしても、先に思いついた方が相手を強く想った証なんだからな。ましてや、それが惚れた女のことならよ」

 

「……………」

 

「……プッ! 本当に! お前! 分かりやすいなぁ! いやー! あんなにも訳わからんと思ってた【渡り鳥】がこんなにも顔と態度に出る奴なんて思ってもいなかったぜ!」

 

 自覚は無いだけに少々ショックだ。修正案件だな。突かれた額を撫で、無表情を強要し、気を引き締める。

 

「ようやく分かってきたぜ。お前、見た目以上に中身がガキなんだよ」

 

「……もう子どもではありません」

 

「大人を気取るガキはみんな同じことを言うんだよ。知らなかったか?」

 

 ひらひらと手を振りながら意気揚々とデートに出発したカイザーの兄貴の背中を見送る。

 隠したい理由が先に思い浮かんだ。だったら、それに従えばいいのだろうか。自室のドアを開け、明かりもつけず、そのままベッドに直行して倒れる。

 眠りたい。でも眠れない。眠りたくない。縁もなく眠れば、目覚めた時にオレは『オレ』ではなくなっているかもしれないから。

 だけど、前ほどに恐ろしくはない。『オレ』を失う事に対して無頓着になっている。人間性が失われたせいか? ああ、すこぶるどうでもいい。

 仰向けになり、カーテンの隙間から僅かに差し込んだ月明かりに手を伸ばす。だが、触れようとした月光は消えてなくなる。分厚い雲に覆い隠されたのだろう。闇ばかりが視界を占める。

 

「……オレは何をしてるんだ?」

 

 狩りの全う。幸せ。血の悦び。膨れ続ける飢餓。何もかもが頭の中でぐるぐる回る。

 まだ憶えている。アルトリウスが教えてくれた。『答え』に至る為の鍵。戦いの中では決して見つからないもの。オレは……まだ見つけられていない。

 

「オレに……『答え』なんて、あるのか?」

 

 ヤツメ様は答えてくれない。伸ばしていた右手を拳に変える。

 今は戦うしかない。戦い続けるしかない。それ以外に何もすることはないのだから。

 明日は早い。たとえ眠れずとも脳を休めなくてはならない。睡魔は強まる一方で、だが決して眠ることはできず、また飢餓が意識を苛める。

 足は自然と傭兵寮から夜の街へとオレを誘う。

 眠ることを知らない欲望で爛れた街。クリスマスムードで装飾されていても、少し裏を除けば変わらぬ『日常』がそこにある。

 下層に赴けば、より剥き出しになるのは人間の本性か。チェーングレイヴの支配力が弱まっていることを示すように、かつてはあった裏の秩序は陰りを見せていた。

 奥へ、奥へ、奥へ。人気もなく、月明かりも届かず、汚水と悪臭に満ちた下層の奥へ。更に潜っていけば最下層と呼ばれる貧民層と犯罪ギルドの底辺に辿り着く。下層までは裏の秩序を敷く旧来の犯罪ギルドが縄張りを敷いており、娼館などのグレーな歓楽街に溢れているが、最下層はもはや秩序などない欲望と暴力による、原始的とも言い換えられる汚泥だ。

 いや、あるいはそれこそがDBOのあるべき姿だったのかもしれない。灼けて随分とぼやけているが、大ギルドの支配が行き届いていなかった頃のDBOは、個々のモラルに依存するしかなかった。まだ現実世界の感覚を多く引き摺っていたとはいえ、それでも暴力こそがルールであり、欲望に忠実な者こそが成功していた。

 

「ここから先は通行料を支払いな」

 

 狭い路地の行き先を塞ぐように、ボロボロのパーカーを着た、威圧するような入れ墨を左頬から胸にかけて施した男が立ち塞がる。

 踵を返せば、仲間だろう男たちが下卑た笑みで並んで道を阻んでいた。

 無視して通り過ぎる。男たちの間を抜けようとして、だが肩を掴まれ、毒々しい紫の水草さえも腐敗して漂う排水溝の傍に押し倒し、首元にナイフを突きつけた。

 男たちは何か喋っている。上玉だ。教会の女だ。馬鹿な奴だ。そんな風に嘲って、浅ましい肉欲を剥き出しにしている。

 ずっとずっと日の光が届いていないのだろう。冬の冷たさが芯まで凍り付かせている。唇から漏れた吐息は白く濁り、オレを押し倒した男を撫でる。それが彼の欲情を煽ったように、襟に手をかける。

 

「ここは寒いんです」

 

 フードが外れる。オレの顔が露わになると、男たちの表情が肉欲の悦楽を得られる醜い期待から絶望で染め上げられた恐怖に変じる。

 

「とても……とても……寒いんです」

 

 オレを押し倒していた男の頬に触れる。ああ、震えている。まるで、真冬の夜に迷子になってしまったかのように。

 そのまま首を捩じ切る。血飛沫がオレを濡らす。悲鳴が上がるより前に、オレの背中から白木を骨格とした緋血の翼が生まれる。だが、それは翼と呼ぶには余りにも異形で、獣の顎のようにも、爪のようでもあった、不定形の片翼。

 舞う。ステップで加速し、緋翼を舞わせる。それだけで殺戮の爪牙と化し、彼らは解体される。微かに聞こえた断末魔は血と肉と臓物に恐怖を染み込ませる。それこそが血の悦びをより上質なものに変えるのだと本能が教えてくれる。

 

「『正当防衛』です」

 

 必要なのは理由付け。だけど分かっている。オレは『誘った』のだ。こんな場所で、教会の服を纏って非武装ならば、物取りだろうと何だろうと襲ってくれと看板を掲げているようなものなのだから。

 路地を挟み込む廃墟には男たちの肉片が付着して、真新しい血で濡れる割れたガラス窓にはオレの姿がぼやけて映る。教会服の白を赤く染めた姿は聖者からほど遠く、口元は嬉々とケダモノの如く歪んでいるかとも思えば違う。

 ただ……ただ……空虚な無表情だった。ガラス窓に映るのは人形のように感情を宿さない瞳だった。

 

 繰り返す。

 

 誘っては殺す。

 

 誘っては殺す。

 

 誘っては殺す。

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。繰り返して殺し続ける。

 

 その度に血の香りが飢餓を刺激する。その度に強い渇きを覚える。その度にキリトやユウキを惨たらしく殺したくなる。

 

 喰らいたい。少しでも血の悦びを得なければならない。だが、オレは止まれるだろうか? ザクロたちを喰らった時の感覚は忘れていない。思い出してはならない。後戻りが出来なくなる気がするのだ。

 いいや、違うな。最初から戻ることなどできない。進むことしかできない。何処を目指すのかも知らないままに。

 

「……寒い」

 

 血に塗れた右手を見つめ、ぺろりと舐め取る。幾重と深まった血は独特の甘みの層を生み出していた。だが、まるで足りない。安酒をどれだけ混ぜたところで安酒なのと同じだ。奥底から熱が湧き出すような芳醇さが足りない。

 夜明けが近いように空は白み始める。最下層付近から抜け出し、そのまま向かうのは旧市街だ。プレイヤーによって開発される以前の終わりつつある街の風景を残した、だが獣狩りの夜によって壊滅して放置されたままの区画だ。ここもまた貧民街でもあるが、獣狩りの夜を……レギオンを恐れてか、暮らしている貧民プレイヤーの割合は低い。実際に下層や最下層以上に旧市街では貧民プレイヤーの生存率は低いのだろう。

 焼け焦げた建物。破壊されたままの枯れた噴水。折れ曲がって錆び付いた街灯。旧市街は生ける者が踏み入ってはならない死んだ街のようだった。

 たどり着くのはかつての神殿の残骸だった。蔦に覆われ、屋根は朽ちて穴が開き、内部は水浸しだった。波紋を作るのは清水であり、砕けた長椅子も、折れた石柱も、御神体を奉っただろう祭壇さえもが苔生している。

 血を啜った教会服のまま清水に浸かる。仰向けになり、冬の寒さで凍てついた水の中に沈み、瞼を閉じる。

 ヴェノム=ヒュドラの港要塞を終えてから繰り返し続ける。夜を歩き、誘い殺す。そして、人知れずに血を洗い流して体を清める。そんな真似をしたところで薄っぺらな取り繕いにすぎず、生まれた時から漂う獣臭は消せないというのに。

 だが、体は水底に縛られることなく浮上し、空気が濡れた体を撫でる。

 

「あと、どれだけ殺せば、狩りを全うできる?」

 

 殺し足りない。いいや、違う。殺すのは生理現象と同じだ。呼吸と同じだ。殺すことこそが生きることなのだ。

 

「あと、どれだけ奪えば、夜明けは訪れる?」

 

 本当は夜明けなど望んでいないというのに。終わらぬ夜で踊り続けたい。キリト達といつまでも死と血に溢れた夜で戯れたい。

 

「あと、どれだけ喰らえば……満たされる?」

 

 満たされる時などない。この飢餓に終わりなどない。血の悦びがもたらすのはひと時の癒しに過ぎない。

 たとえ、キリトを死闘の先で殺しても、ユウキを惨たらしく殺しても、それらさえも飢餓を終わらせることはできないのだろう。

 

「オレの『幸せ』は……何なんだ?」

 

 自由に『命』を貪り喰らったところで解放感はあっても、飢餓は永遠に満たされることはないと改めて突きつけられるだけだろう。待つのは血の悦びを知った分だけ膨らみ続ける飢餓に苛まれる日々だ。飢餓を癒す為だけに喰らい続ける因果だ。

 狩りの全うを為し遂げて黄金の稲穂を皆にもたらせたとしても、神子の契約を履行……『嘘』に過ぎない。

 

「オレの……『答え』」

 

 みんな……みんな……オレを置いていく。自分の『答え』を見つけて消え去っていく。

 いつまでも迷子のままなのはオレだけだ。『答え』に至る鍵さえも見つけられない。

 濡れた体を労わらず、苔生した祭壇に手をかけて陸に上がる。空はいつしか青色に変じていた。

 朝の風は冬の冷たさで研がれていながら、だが朽ちた神殿に吹き込むのは何処か優しくて、温もりがあって、微睡みに身を任せられないと分かっていながらも瞼を閉ざし、屋根に穿たれた穴から差し込む朝日と共に受け入れる。

 

 

 

 

「人類が滅びれば……終わるのかな?」

 

 

 

 

 飢餓のままに殺戮しようにも獲物がいないならば、空虚な諦観と共に夜の終わりを受け入れられる気がする。

 たくさんたくさん殺せば、人類を滅ぼすくらいに殺せば、キリトのような人間もたくさん現れるのではないだろうか? そうすれば、『人』を捨てて『獣』に堕ちるような者達の血は根絶やしにされ、『人』として高みに至れる者達だけが人類を名乗れるのではないだろうか?

 ああ、それはきっと素晴らしい事だ。きっと、きっと、きっと……人類が滅びる瞬間まで見せる『人』の輝きであるはずだ。

 

「クヒ……クヒヒ……クヒャヒャヒャ……」

 

 瞼を開かぬままに、己で作った暗闇の中で、笑う。嗤う。笑う。嗤う。

 人類が滅んだ末に何が待っているかなど知らない。興味はない。だが、きっとオレは心の底から笑えて眠れるだろう。

 

 

 

 もう『人』など何処にもいない。『人』が生まれることもない。自然の摂理と溢れんばかりの生命が満たすだけの……『人』と『獣』の境界線を喰らい殺された世界が残るのだから。

 

 

 

「愛しています。全ての『命』を……愛しています」

 

 

 

 殺し殺され、奪い奪われ、喰らい喰われる。あらゆる因果は生から死へ、死から生へと帰結する。それこそが命の循環なのだから。

 

 

 

 

 

「……仕事の時間だ」

 

 瞼を開き、乾ききっていない教会服を翻しながら出発する。

 ああ、分かっているさ。そんな時など訪れない。

 

「オレは……オレはまだ独りで戦える」

 

 

▽     ▽     ▽

 

 危うかった。ギルド【オールサンデー】のリーダーである【マサハル】は殲滅された樹木型モンスター【腐果の奇木】の群れに安堵する。

 腐果の奇木はアルヴヘイムに出現するモンスターであり、他の木々に擬態して森林で待ち構える。プレイヤーが近寄った時、中身のないシャボン玉のような果実を膨らませて対象を捕らえるのだ。捕獲されたプレイヤーはレベル3の麻痺が急速に蓄積し、またSTR低下と消化液によるスリップダメージを受ける。果実に捕らえられると連続麻痺とSTR低下の効果が合わさり、スリップダメージで削り殺されることになる。ソロで遭遇し、捕まれば死を覚悟しなければならないモンスターだ。

 逆に言えば2人以上で遭遇すれば大した脅威にもならないのであるが、マサハル達は腐果の奇木の群れに踏み入ってしまった。最初の奇襲で半数が捕らえられ、更には【青腹の大蚊】にも集られてしまったのだ。青腹の大蚊は吸血によるHP回復をメイン攻撃とする。また、このモンスターは羽音による攻撃で対象のSTRとDEXを低下させるモンスターであった。

 数の武力と数の暴力、しかもSTR低下の多重によって1度捕らえられたら増々の脱出が難しくなる。焦りの中で1人、また1人と捕まる中で、マサハルが諦めて今いる生存者だけで脱出しなければならないとリーダーとして非情なる決断をしようとした時だった。

 上空から降り注いだソウルの矢が青腹の大蚊を殲滅し、続いて地を這う炎の津波が腐果の奇木を焼き焦がしたのだ。

 今の内に救出を! 混乱する中で耳に入り込んできた指示のままに仲間たちを助け出し、それが終わると同時に第2波の炎の津波によって腐果の奇木の群れは焼き尽くされた。

 

「間に合ってよかった。この辺りは奴らの縄張りでしてね。アルヴヘイムのモンスターはずる賢い。他のモンスターと連携してプレイヤーを追い詰めます」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 広大なアルヴヘイムは十二分に探索が済んでいるとは言い難い。まだまだ謎に包まれているエリアは存在するのだ。オールサンデーはそうしたエリアの探索をしてマップデータを始めとした情報を商品として乗り込んだが、さすがはフロンティア・フィールドと同じく水準レベル100である。彼らもまたレベル80台と決して低くこそなかったが、装備・レベル・実力の不足を露呈してしまった。

 マサハル達を助けてくれたのは短めの金髪をオールバックにした眼鏡の男だった。銀フレームの横長レンズの眼鏡は知性を醸し出し、また整った顔立ちも高い教養を伺わせた温和な笑みが特徴だった。だが、その一方で相反するような、狡猾の象徴である蛇を何処となく思わせる目だとマサハルは失礼に思いながらも印象を抱いた。

 強力な魔法の攻撃の通り、男の装備は魔法使いに相応しいものであるが、近接戦も想定してか、動きやすさを重視しているようだった。使っているのは黄金の槍であり、先端は鋭く伸びているが、まるで太陽のように2本ずつ放射状の棘もまた備わっており、神々しさと同時に突き刺されたら相手に惨たらしい痛みを与えるような邪悪さも感じさせた。

 

「そうでしたか。皆さんは教会の仕事でこの辺りの探索を……」

 

「ええ。アルヴヘイムは未探索エリアも多いので良い商売だと思ってたんですけどね。教会には申し訳ないですけど、今あるマップデータだけ提供して手を引きます」

 

 どうやら教会はアルヴヘイムの未探索エリアに用があるらしく、近日中に傭兵を派遣すると聞いていたが、マサハルは今回の件で懲りていた。水準レベルを満たさないアルヴヘイムの探索事業をこれ以上続けていては仲間に死者が出る。それでは金を得ても虚しいだけだ。命あってこその物種である。幸いにも平均レベル80を超えているオールサンデーならば、中小ギルドとはいえ、仕事は幾らでもありつけるのだ。

 

「ところで、貴方は見たところ1人のようですが、お仲間と逸れたのですか? あれ程の強力な魔法、もしかして大ギルドの所属なのでは?」

 

「お恥ずかしながらソロなんですよ。ちょっと探し物をしていまして、アルヴヘイムの何処かにあることだけは分かっているのですが、これが広くてなかなか……」

 

 男は恥ずかしそうに頭を掻き、無防備にも自分のマップデータをマサハルに見せてくれた。どうやら自分の足でアルヴヘイムを地道に探索しているらしく、大部分が未探索状態のようだったが、それでも幾つかの場所はオールサンデーも立ち入っていないエリアがあった。

 ソロで、しかも近接戦もこなすとはいえ魔法メインでこれは凄い! マサハルは考える。この男も探索に用があるようだ。アルヴヘイムの未探索エリアにも知識がある。ここで契約を打ち切れば報酬は激減してしまう。

 アルヴヘイムの探索には自分たち以外にも雇われたと聞いている。マサハルは彼らにこの男を代理人として紹介できないものだろうかと企んだ。そうすれば、報酬を丸っといただくことができる。

 

「助けてもらった恩があります。貴方も人手が足りないご様子。どうですか? 他にも探索の仕事を請け負った方々がいまして、私が口添えしますので、協力して探されてみては如何ですか?」

 

 マサハルは中小ギルドとはいえ、リーダーとして大ギルドや有力ギルドとも取引をしている。もちろん、ほとんどは下っ端相手であるが、彼らとも有利な条件を引き出すことに長けていた。

 だが、途端にマサハルは後悔した。蛇の印象を受けた男の目が冷徹な光が宿ったように思えたからだ。

 

「ですが、私は申し上げた通りソロ。なにせ身分を保証できない。それなのに、貴方達に仲介をお願いするなど……」

 

「い、いや……こちらも無理にとは言いませんよ。お嫌なら――」

 

「いえ、『好意』には甘えさせていただきます。ですが、私には後ろ盾がなくて、見ず知らずの方々と組むにはどうにも恐ろしい。なにか私の身分を保証してくれるようなものさえあれば……」

 

 情に訴える口振り。だが遠回しに『命を救っただろう?』という脅し文句が含まれる。こちらの下心を完全に見透かされているとマサハルは生唾を飲んだ。

 本来は仲間であるはずのメンバー達から同情の声が漏れる。リーダーである彼を通り越して、この男は立ち振る舞いだけで人心掌握してしまったのだと悟り、マサハルは文字通りの格の違いを思い知った。

 その上でこの男は決して悪意ではなく、あくまでマサハルの下心に対してのみ切り返してきたのは明白だった。

 

「わ、分かりました。こちらで業務の正式な委託手続きを行います。もちろん、手数りょ……『お布施』はこちらで負担しますよ」

 

「ありがとうございます! 教会に身分を保証していただけるならば、こちらとしても助かります!」

 

 嬉しそうに握手を交わすが、瞬間に男はマサハルを引き寄せた。

 

「……自分たちの利益ばかりを追求すると足下を掬われるよ。今後は注意した方がいい」

 

 耳元で小声の忠告を受け、マサハルは表情1つ変えない男に背筋を凍らせた。もしも、男が悪意を持って罠に嵌めようとしたならば、マサハルは気づくこともなく大金を巻き上げられていてもおかしくなかっただろう。それだけの交渉・取引における明確な実力差を思い知った。

 その後、アルヴヘイムの教会にてオールサンデーを仲介して正式に男が仕事を引き受けることになった。業務変更の手数料を支払った挙句、男はギルド単位で得られる報酬をまんまと平らげることになったのである。オールサンデーも仲介人として幾らか受け取る権利も得られたが、男の交渉術は巧みであり、熟達した教会の人間相手でも優位に進め、お情けばかりに赤字にならない程度の報酬を残してもらった形だった。

 その後、男と夕飯を共にすることになったマサハルは助けてもらったお礼と非礼の詫びを込めて奢ることにした。

 

「いやぁ、参りました。私も偉い連中を相手に修羅場を潜り抜けてきたと思っていましたけど、貴方には及ばない! もしかして、リアルは大企業務めとかですか!?」

 

「こら、リーダー! リアルは厳禁だって!」

 

 酒が入って饒舌になってしまい、タブーを犯してしまったマサハルを仲間が窘める。だが、男は特に怒った様子もなく、むしろ何処か苦々しそうに笑うばかりだった。

 

「実は記憶が曖昧なんですよ。どうして、ここにいるのかも含めてね。ただ……ハッキリと分かるのは、アルヴヘイムの何処かに私の探し物がある。それさえ見つければ、何もかも解決するという確信でしてね」

 

「はぁ……そりゃ難儀ですね。記憶が曖昧ってことは流民プレイヤーかもしれませんけど、ここはDBO。リアルの未練なんて持ち込まないに越したことはない。なぁ、お前ら!」

 

 今を必死に生きて、今が楽しければ万々歳! 先の悩みなど抱くだけ無駄だ。マサハルは男と改めて乾杯しようとし、そういえば命の恩人の名前を聞いていなかったと羞恥する。

 

「あのー、失礼ながら……お名前は?」

 

「ああ、名前ですか」

 

 男は眼鏡を外し、懐からわざわざ専用の眼鏡拭きで曇り1つ残さず神経質に磨くと不敵な笑みと共にかけ直す。その姿は無償で命を助けてくれた善人とは程遠い、相手の骨までしゃぶり尽くすような悪徳の影を感じさせるものであり、事実と印象の矛盾にマサハルは不気味さを覚える。

 

 

 

「【スゴウ】。今はそう名乗っています」




冬の寒さが示すのは破滅か再生か。

聖夜に向けて人々は新たな誓いを胸に刻む。



それでは、344話でまた会いましょう!

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