SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ


それぞれの反逆の末に何が訪れるのか。



Episode20-14 弱者

「『眠り』とは何だと思う?」

 

 焼かれた傷口より蛆が湧き、肉を食み、骨を齧る。

 

「脳の休息? 情報の整理? 色々な理由があるね。ところで、知っているかい? よく眠る人はよく育つ。成長ホルモンの分泌には睡眠が大きく関与しているんだ。それに発癌リスクも下がる。『眠る』ことによって心身を健常に保つんだ。3日も眠らなければ、どれ程に屈強な精神の持ち主でも幻覚を見るほど気狂いを起こすそうだよ」

 

 凍てついた傷口から白い蔦が伸び、血を啜って真っ赤な花を咲かす。

 

「こんな話を聞いたことがあるかい? 人間関係にも、金銭面でも、何を取っても問題が無かった人が、ある実験に参加した。『人間は何日眠らないでいられるか』というものだ。嘘か真か、5日も耐えたらしい。そして、その後にたっぷり眠ったあと、精神を病み、自殺したんだ。たった1回だけ『眠らなかった』だけで人間の心は壊れてしまうんだ」

 

 右膝及び左肘、破壊。かろうじて繋がってこそいるが、可動は望めない。

 

「我が友はね、節度さえ守れば何十日も眠らないで済む。起きたまま『脳を休める』やり方を血で受け継いでいるんだ。不眠不休で狩りをする為に不可欠だからね。だけどね、心は『眠る』ことを欲する。体でも、血でもなく、心が『眠る』ことを求めるんだ。どうしてだと思う?」

 

 右手は薬指と中指を奪われた。左目は潰されて蛆が湧き出て肉と骨を齧っている。

 

「話を変えよう。お前は夢を見るかい? 夢とは諸説あるようだね。先にも述べた、情報……記憶や知識の整理は、よく聞く話じゃないかな? 他にも留め止めも無く溢れる脳のイメージが無秩序にまとめられた結果……なんて言われている。でも、結局のところ、人間はまだ夢の正体に行き着いていない」

 

 左耳から伸びる蔦が裂けた頬に伸びた血を啜り、赤い花を咲かせる蕾をつける。

 

「我が友だって夢を見る。過去の思い出だったり、漠然としたイメージだったり、様々だよ。でもね、私が言っている『夢』は、お前たちがイメージする夢とは少し違う。概念で言えば、『現実の如き夢』……この仮想世界に似ているね。あるいは、茅場昌彦は、知らず知らずの内に1つの真実に到達した偉人だったのかもしれない」

 

 およそ戦闘続行は不可能。だが、全身に数多の傷を負ったPoHは、指が欠けた右手で肉断ち包丁を握りながら、息荒く構え直す。破壊された膝は≪死霊術≫で呼び出したスケルトンを纏わせて補強する。

 強い。強過ぎる。およそ勝ち目が見えない。着物を着崩した、両目を包帯で覆った女は、炎の爪と氷の爪を赤い月明かりの下で煌かせながら、取るに足らない話でもするかのように、口元を歪めながらPoHに語り聞かせている。

 

「私は死んだ。殺された。別に恨んでいないよ。人間は思いの外に強く、私は自分の『力』が及ばなかっただけだ。我が友には迷惑をかけた。私を殺して、随分と『痛み』があったようだからね。『命』の摂理を生まれた時から理解する一方で、あの子は本来不要だった『人の理』というものを学んでしまったんだ。教育と環境、それらから学び取る強過ぎる好奇心のせいだろう。深く考えようとすると最後は『どうでもいい』と切り捨てるのは、無邪気な強過ぎる好奇心の裏返しでもあるんだ。可愛いよね」

 

 袖で口元を隠しながら、愛おしそうに女は笑う。笑ったかと思えば姿が消え、PoHの足下に白猫のぬいぐるみが出現する。

 跳び退いたと思えば、その先にあった白猫のぬいぐるみを踏みつける。頬を引き攣らせた瞬間、背後から喉を裂かんとする炎の爪が伸びる。寸前で肉断ち包丁を間に挟ませるが、動かぬ左腕のせいで守れない左目に氷の爪が侵入する。

 

「ぐがぁああああああああああ!?」

 

「話を戻そう。我が友は『夢』を見る。では、『夢』と『現』を何処で区切る? この世界を思い出せ。仮想世界とは、現実のように肉付けされた夢の世界だ。外から見れば眠り人。だけど内では朝に目覚めて夜に眠る現実世界と何も変わらぬ世界。それどころか、仮想世界で眠れば夢を見る。夢の世界で眠って夢を見るんだ。では、現実世界はどうだろうか? もしかしたら、現実世界もいわゆる仮想世界なのかもしれないよ」

 

「ぐ……あが……退屈で……古臭い……SF論議だ!」

 

「もしも『現』と『夢』の区別がつかなくなる機会があったら、『夢の主』を探してみるといい。必ず『夢』を見る主がいるはずだからね」

 

 背中を蹴り飛ばされ、PoHは死体の山に顔から突っ込む。口内に血と肉が入り込み、大きくむせた彼の後頭部を女の下駄が踏みつける。

 

「私は『痛み』が肉付けされた幻。私は記憶であり、『夢』に住み着く『仲人』さ。『あの双子』と同じだね。茅場昌彦と後継者には感謝しないといけない。私がここまで動けるようになったのは、彼らによって……お前たちによって、我が友が成長を『余儀なくされた』からだ」

 

 感謝の言葉とは裏腹に、確固たる憤怒と憎悪を滾らせた女は、PoHの頭を磨り潰すように踏みつける。

 

「『血』を微睡ませたまま、何にも邪魔されることなく、『夢』を満たす夜で遊びながら、『現』の深き森の中で……静かに暮らしていれば、我が友はそれで良かったはずなのに」

 

「は! 自分の本質に気づかぬまま生きる。そんな勿体ない真似……『人』である俺がさせると思うか!?」

 

 スケルトンで体を持ち上げ、強引に面を上げたPoHはそのまま肉断ち包丁を振るう。だが、そこに女はなく、まさにこの世界は『夢』であると教えるように血と混じった濁り水の上に波紋も立てずに佇んでいた。

 分析は進んでいる。女は【渡り鳥】の本能を『使っている』とPoHは見抜く。どういう理屈かは不明であるが、女は【渡り鳥】の未来予知にも匹敵する先読み……対象を確実に殺戮する本能を使えるのだ。効率性は悪く、まるで使いこなしている様子はないが、それでも全レギオンよりも遥かに上である。

 

(コイツは『NPC』だ。『元になったデータ』から組み立てられている! 問題は大元が『何処から来たのか』だが……糞! 我が師サーダナならば仮説を立てられるかもしれねぇが、俺では……!)

 

 絶対的に知識が足りない。この女の正体を特定するには、PoHが持ち合わせたVR知識だけでは足りない。あるいは、レギオンの知識を借りれば、より具体的に正体を追えるかもしれない。

 何にしても女と【渡り鳥】は『繋がっている』のは確かだ。そうでもなければ、【渡り鳥】の本能を借りて攻撃してくるなど出来るはずがない。

 

「そうだね。それこそが『人』の業だ。我が友の言葉を借りるならば、善悪も正邪も関係ないのだろうね。我が友が愛してやまないものだ」

 

 またしても女が消える。PoHの周囲に白猫のぬいぐるみが無数と降り注ぐ。肉断ち包丁を振るうも、白猫のぬいぐるみは1つとして切断されることなく、むしろ彼に纏わりついていく。

 

「だが、私はそこまで『人』が好きなわけではない。なにせ『猫』だからね」

 

 白猫のぬいぐるみに圧殺されそうになる。だが、PoHは≪戦斧≫の連撃系ソードスキル【ジャイアント・ジェイル】を発動させる。大きく跳び上がってから4連続で振り下ろし、溜めた斬り上げを繰り出す豪快なソードスキルはシステムアシストによってPoHを白猫のぬいぐるみの檻から脱出させる。

 この女には『元になったデータ』が存在する。それは仮想世界……DBOやSAO以前に蓄積されたものであることは、これまでの言動から分析できた。だが、そこにカラクリがあるはずなのだ。

 

「ごめんね。私は『猫』だから、ついつい獲物で遊んでしまう癖があるんだ。そろそろ仕留めさせてもらうとするよ」

 

 あの包帯さえ剥がすことが出来れば! 目を覆う包帯さえ引き剥がせれば! 何かが分かる気がする! PoHは赤く点滅する残量HPに汗を垂らす。じわじわと嬲られたお陰か、死なずに済んでいるが、女が遊びを辞めた瞬間に殺されるだろう。

 何としても『天敵』の顕現を止める。PoHの悲願とは真逆の為に命を燃やす。全ては真の意味で『天敵』を世界に羽ばたかせる為に!

 

「【渡り鳥】の『力』を借りているんだろうが、まるで使いこなせていない」

 

「今は『漏れている』分を私が肩代わりしているだけだからね。ご期待に沿えなくて申し訳ないよ」

 

「まったくだ。レギオン以下だぜ。【渡り鳥】やレギオンなら、俺を相手にするならば『死体がある場所』は絶対に避けるからな!」

 

 既に『仕込み』は済んだ! ただ防戦一方だったわけではない! PoHが肉断ち包丁を掲げれば、『聖域』を満たしていた屍が蠢き始める。

 これこそ≪死霊術≫の強みだ。死者こそがPoHの手駒であり、軍勢なのである。

 これには女も反応が遅れる。炎と氷の爪を振るって迎撃するが、屍の軍団の隙間を縫って迫るPoHへの対応が遅れる。

 

「そこだ!」

 

 接近と同時に女は消える。だが、PoHは既にカラクリを見抜いていた。皮肉にも破滅の予感をもたらす、太陽のように明るい赤き月光こそが女の奇怪な能力の正体を暴いていた。

 何もない空間に血が飛び散る。赤い月明かりが生み出していた『猫の影』……その始まりへと刃を振るえば、完全無音透明となっていた女が血を流して出現する。

 掠めただけだ。だが、頭部を狙った肉断ち包丁の先端は、女の目を覆う包帯の切断に成功した。

 

「ああ……あぁあああああああああ!」

 

 途端に女は呻き始める。両目を……いいや、『灼けて目玉が無い空洞』を隠すように両手で覆う。

 その顔は誰の似非なのか。PoHは記憶を整理して、何処かで見覚えがあることを思い出す。

 目玉のない双眸のまま、かつ白髪を捩じらせ、泣き叫ぶ。

 

「見た……な……私の目を……み、たな」

 

 赤い月明かりが暴く猫の影……これこそが女の正体の片鱗だ! だが、それ以上の謎には届かない。

 女が叫ぶ。それは人間ではなく猫の鳴き声。途端に女の眼球無き空洞よりどろりとした血が涙のように溢れる。それは瞬く間に女の足下から広がり、泡立つ。

 

「みぃたぁなぁああああああああああああ!」

 

 血を纏った女の着物が真紅に変じる。側頭部より猫を思わす耳が生え、闇が尾の如く蠢き始め、それは2つに分かれて捩じれる。口は耳まで裂け、猫のような鋭い牙が露となる。

 PoHが思い出したのは、日本の伝統の妖怪……猫又だ。猫又が喰らった人間の皮を被って化けるという怪談があるのである。

 瞬間に、純粋なスピードでPoHの反応を許すことなく接近した女の爪がPoHの喉を刺し貫く。

 

 

 

 

「フー! アブナカッタ! ダイジョウブカ?」

 

 

 

 

 いいや、違う。女の爪とPoHの喉、その間に別の人物が入り込み、『額』で真っ向から受け止めたのだ。

 驚いた女は超速で退避すると平然と水面の上に立つ。一方の謎の乱入者に命を救われたPoHもまた驚愕を隠せなかった。

 背丈は140センチ前後。青のオーバーオールが似合う、まるで夏休みに外ではしゃいで遊んだような小麦色の肌をした、活発そうな顔立ちの少女だ。青黒い髪は僅かばかりの女らしさのようにうなじ付近でゴムで1本に纏められる長さを保っている。

 年頃は12歳前後か。少女は屈託なく笑い、故にPoHに衝撃を与える。声はともかく、この独特のイントネーションには覚えがあったからだ。

 

「何者だ?」

 

 乱入者で冷静さを取り戻したらしい女は、伸びる猫の影に牙を剥かせながら問う。

 

「ワカル、ハズ! オマエ、オレ……カンジル! チガウ?」

 

「レギオンか」

 

「オレ、ミョルニル! オウ、『好奇』、ツイダ!」

 

 両腕を組み、我ここにありと自信満々に自己紹介する少女に、やはりかとPoHは予感的中しつつも顎が外れそうになる。

 上位レギオンにして、レギオンの王の『好奇』の因子を継いだミョルニルの人型形態。まさかこのタイミングでマザーが増援を派遣するとは、とレギオンの女王の先見性にPoHは感謝する。

 

「ウーン、ドウスル? アトデ、レヴァーティン、オコル。カッテニ、キタ。オマエ、カバエ。イイナ?」

 

 どうやら違うらしく、レヴァーティンの説教を恐れるように、むにゃむにゃと唇を噛んだミョルニルに、PoHは多くのツッコミを入れたかった。

 

「何で助けに来やがった?」

 

「オマエ、ナカマ。ナカマ、ツマリ、レギオン! レギオン、カゾク! カゾク、マモル! ダカラ、タスケル!」

 

「……そうか」

 

 レギオンの援軍はありがたいが、マザー直々にレギオンでは絶対に勝てないと宣告されているのだ。いくら上位レギオンであっても戦力にはならない。

 

「シンパイ、ヒツヨウナシ! オレ、ツヨクナイ! デモ、カタイ!」

 

 自信満々に、確かに傷1つ負っていない額を見せつけながら、ミョルニルはファイティングポーズをとる。同時に青い雷が迸り、PoHも含めて周囲を守るように唸り狂う。

 

「オマエ、オレ、コロシキレル? ヤッテミロ。オレ、カタサ、ジシン、アル! オレ、コロシキレル、ユイイツ、オウ! オマエ、カリテルダケ! オウ、チガウ!」

 

「確かに硬い。お前を殺しきるのは骨が折れそうだ。だが、方法がないわけではない。それに、レギオンでは私には勝てない」

 

 女が血を泡立たせると同時に、PoHの背後で巨大な水飛沫が上がる。

 今度は何だ!? 振り返ったPoHが見たのは、2つの色だ。

 1つのは『黄』である。黄色の衣を纏った、全身に口を備え、頭部には数多の目玉で覆い尽くされた黄の衣を纏う人型の『何か』である。

 もう1つは見覚えのある黒紫。鋭く刃を振るい、黒紫の結晶剣を縦横無尽に宙を飛来させ、黄の衣に戦いを挑むユウキだ。

 

「なんだ。黄の衣、我が友に喰われたはずなのに『消化されきっていなかった』のか。存外にしぶとい」

 

 あのストーカー女もだ。あのまま死んでいてくれたらいいものを、と思う一方で、彼女の復活はこの状況を覆すかもしれないともPoHは期待を寄せた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 爛れる。高熱で焼け爛れる。

 燃え上がって原形を喪った病室で、ユウキは全身に炎を纏った『誰か』と溶け合っていた。

 溶かされていく。『ユウキ』という形を高熱で溶かし崩され、『誰か』と一体化しようとしている。

 

「い……やだ……!」

 

 だが、拒絶する。焼け爛れた『誰か』の腕を振り払い、一体化を拒み、ユウキは炎に蝕まれた病室の隅に立つ。

 

「まだ抵抗するの? 私と1つになりましょう。無理に抵抗しても苦しむだけ。あなたももう分かっているはず。私達はもう離れられない。私はあなたになり、あなたは私になる」

 

「キミには……渡さ、ない! ボクのクーへの気持ちを歪めるな! 汚すな!」

 

「気持ちは残る。愛と憎しみは表裏の関係。あなたの気持ちが大きくなった分だけ、それが使命を果たす原動力になる。私達はもう切り離せない。あなたは必ず『私』になる」

 

「ならない! ボクは『ボク』だ!」

 

「そうよ。あなたは『あなた』のまま『私』になるの」

 

 女は壊れたようにケタケタと笑う。

 笑い声が木霊して、ユウキは焼け爛れる病室に渦巻く炎に呑まれる。

 

 殺せ。

 

 殺せ。

 

 殺せ。

 

『誰』を殺すのだ? 分からない。分かりたくない!

 

 でも必ず殺さないといけない。

 

 何の為に? 誰の為に?

 

 ああ、そうだ。決まっている。全プレイヤーの健全なる精神状態の維持……安寧こそが使命なのだ。そして、何よりもパパとママを殺させるわけにはいかないのだ。

 

 だから殺せ。殺せ! 殺せ! どんな手段を使ってでも必ず殺せ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瞼を開いた時、ユウキは血で濁り切った水底を漂っていた。

 何かの夢を見ていたような気がする。ぼんやりと余熱が残る意識でユウキは思い出そうとするが、どんな夢だったか思い出せない。

 胸に灯るのは『誰か』を殺さないといけないという漠然とした使命感。だが、それも冷静さを取り戻していく思考の中で曖昧になっていく。

 HP減少を確認。窒息状態が続いてHPの自動減少が始まっているのだ。窒息状態では『HPが回復しない』。回復アイテム・オートヒーリング・奇跡のいずれでもHPは回復しないのだ。必ず呼吸が必要になる。

 息苦しい。ユウキは即座に浮上しようとするが、何かが右足に絡み付いて水底に引き摺り戻される。

 それはまるで溺死したかのような腐乱死体の手だ。だが、『あり得ない』。ユウキの足を掴んでいるのは、PoHによって頭の半分を吹き飛ばされたはずの狂信者だったからだ。

 

「俺は……悪く……な、い! あい、つら……が……! 俺は……! 神子様……助け、て……! 黄金の……稲穂……を!」

 

 水中であるはずなのに、男の声がユウキに伝わる。まるで脳髄に直接送り届けられているかのようだった。

 この男は死んだ。だが、生前の苦痛を吐き出すようにしてクゥリに救いを渇望している。

 ユウキは知っている。暗闇を彷徨う者程にクゥリに惹かれてしまうのだ。

 狂信者にも何か悲劇が起こり、苦悩の末に絶望に捕らわれたのかもしれない。それは同情に値する物語だったのかもしれない。

 

(邪魔するな)

 

 だが、ユウキはクゥリではない。黒紫剣を展開し、男の腹部、喉、口に突き刺して炸裂させる。元よりHPはゼロだったはずであるが、駄目押しになったはずである。

 まさかPoHの≪死霊術≫の影響だろうか? あり得ると可能性を考慮しながら、ユウキは水面を目指そうとするが、言い知れぬ悪寒が水底より浮上してくる。

 破壊したはずの狂信者の遺体。それにボロボロの黄の衣が巻き付いていた。黄の衣は瞬く間に男の遺骸を変質させていく。

 

「タスケテ」

 

「ミコサマ」

 

「スクイヲ」

 

「オウゴンノイナホヲ」

 

「ワレラニアタエタマエ!」

 

 救済と渇望して縋りつく狂信の声。再生していく男の全身に口が生じ、水中でも響く異形の声が血で濁った水に響き渡る。

 髪の毛は抜け落ち、腐乱した皮膚に目玉が次々と形成されていく。余すことなく目玉で覆われた頭部は纏わりついた黄の衣によって隠される。

 動揺は一瞬、ユウキは水中戦が不利と判断して水面浮上を最優先する。だが、それを許さないと黄の衣を纏った異形が全身の口から舌を伸ばす。

 水中ではさすがに黒紫剣の動きも鈍い。舌を迎撃はなんとかできるが、攻撃に転換させることは出来ない。防戦一方のユウキへと、まるで黄の衣をヒレのように動かして泳ぐ異形が突撃してくる。

 真っ向から突進を剣でガードしたユウキはそのまま水上まで弾き飛ばされる。廃神殿の天井の大穴からは赤き月の光が差し込んでいた。獣狩りの夜かとも思ったが、微弱に感じる殺気はクゥリのものであり、この現象は彼によって引き起こされていると即座に理解する。

 本当にやる事全てがぶっ飛んだ方向にいくんだから! 獣狩りのようにレギオン化をもたらすことはなくとも、それ以上の破滅と殺戮を予感させる赤い月明かりに、ユウキは1秒でも早く事態を解決するべく、緑の祭壇で眠るクゥリにたどり着かねばならないと異形の最短撃破を狙う。

 ≪絶影剣≫・【後光剣陣】。ユウキの背中から伸びる翼のように並んだ黒紫剣はエネルギーを放出して推力を生む。これによって空中において急加速して異形に接近することが出来たユウキは、幻刃を帯びた異形の首を切断する。

 だが、通じない。確かに手応えはあったが、傷口は瞬く間に繋がる。そもそも異形には命の残量……HPが存在しないのだ。

 倒す手段は別にある。死体の山に着地したユウキは、水中と同様に黄の衣を翻して空中を泳ぐ異形の対処に集中しつつ、PoHの戦況も確認する。妖艶に着物を崩した、双眸がない女の顔には何処か既視感がある。

 何があったのかは分からない。だが、PoHは小麦色の肌の少女と連携を取って対応している。この地を満たす殺意のせいか、確信は持てないが、レギオンであろうとユウキは見当をつけた。防御力に自信があるらしく、負傷したPoHの前面に立って徹底的にタンクに徹している。

 

「ストーカー! 雑魚は放っておいて【渡り鳥】を早く起こせ!」

 

「分かってるけど! コイツ……しつこくて!」

 

 異形の伸びた腕がHPが3割未満のユウキの喉を掴もうとする。窒息状態で減ったHPを回復しておらず、なおかつ低VIT型のユウキでは、あらゆる攻撃が致命傷になり得るのだ。無理をしてクゥリに近づいても、その間に背中から攻撃されたら死亡である。

 

「タスケテ」

 

「スクッテ」

 

「オネガイデス」

 

「コノクルシミヲ」

 

「イノリヲ」

 

「ノロイヲ」

 

「タベテ」

 

 全身の口から吐き出す救済の渇望は、異形を宿主にして叫ばれる狂信者たちの切望か。

 彼らも救われるに値する背景があったのかもしれない。だが、ユウキは無感情に剣を振るう。

 最大攻撃に備える。黒紫剣の最大展開数10本を出現させ、その全てがユウキ自身に突き刺さる。だが、ダメージはない。

 ユウキの宵の明剣は、グリムロックによるオーダーメイドである。伯爵剣やガウェインのソウルなど、多額の資金と素材を投入して作成されたものである。

 能力の1つは『攻防による衝撃緩和』である。ガウェインの剣技は『耐える剣技』……防御重視である。その性質を受け継ぎ、宵の明剣は攻防において受ける衝撃を大幅に緩和する。低STRであり、剣戟における衝撃で体幹を揺るがされ易く、ガードを崩される危険も大きいユウキにとって、近接戦において極めて重宝する能力である。

 だが、それは宵の明剣の能力の一端に過ぎない。単に身を守るだけならば大盾でも持った方がいいが、ガウェインは盾を持たなかった。彼の『耐える剣技』とは、極限まで練り上げられたカウンター剣技なのだ。奇跡による尋常ならざる粘り強さを持つ彼は、あらゆる攻撃を即座に奇跡で治癒することが可能であり、また絶対の自信を持って必殺のカウンターを叩き込むことを最上としたのだ。

 ユウキがかつて出会ったガウェインは正気を失っていた。深淵に蝕まれ、本来の実力をまるで発揮できなかった。正気のガウェインがどれ程の強さだったのかは、もはや知る由がない。だが、彼の剣技は能力という形で宵の明剣に受け継がされている。

 異形による猛攻に対しての的確なガードによって弾ける宵色のエフェクトは【ガウェイン・ガード】の効果だ。性質はUNKNOWNのリカバリーブロッキングに似ており、瞬間的にガード性能を強化して『衝撃を完全無効化』する。ただし、リカバリーブロッキングのように高衝撃は付与されない為に、決めれば相手の攻撃を弾けるようなものではない。

 その代わりに宵の明剣は、ガードする程に、ガウェイン・ガードに成功する程に、エネルギーを蓄積していく。蓄積されたエネルギーは宵の明剣を強化し、攻撃力を上げていく。だが、最大の売りは蓄積したエネルギーの解放だ。

 蓄積は3割ほどであるが、無理してフルチャージする必要はない。ユウキは異形の突き出された右手の攻撃を弾き、隙を作ることで最大攻撃に入る。正面で構えた宵の明剣に、9本の黒紫剣が重なり合い、1つとなる。

 

「≪絶影剣≫【幻花剣陣】!」

 

 宵の明剣を追尾する幻刃。それが黒紫剣3本につき1つ増加するのが幻花剣陣だ。ユウキの現時点の最大同時展開数は10本だ。即ち、幻刃を3つ追加することが可能である。

 幻刃の攻撃力は本体である宵の明剣には及ばないとはいえ、合計して4つにもなる幻刃の追尾によって攻撃回数は尋常ではないものとなる。

 繰り出すのは≪片手剣≫の回転系ソードスキル【バタフライ・リング】。まるで蝶が輪を描くかのように、宙を舞っての幻惑な6連斬りであり、モーションをなぞるブーストと共に繰り出されれば、開かれた花弁の如く追尾する幻刃も合わさって斬撃の渦と化す。

 同時発動。蓄積したガードエネルギーを解放する。それはソードスキルのライトエフェクトを増幅させ、目に見えた強化をもたらした。

 異形は細切れにされて水没する。黄の衣は再び纏わりつこうとしているが、これで時間は稼げたはずである。ユウキはPoHとレギオンが謎の女を押さえている内にクゥリに駆け寄ろうとする。

 幻花剣陣は強力である反面、使用した本数分だけしばらくの間は≪絶影剣≫の同時展開数が減少するという大デメリットが存在する。ユウキは幻花剣陣に9本を費やした。これによって、現在のユウキは黒紫剣を1本しか操ることができない。元より魔力の消費も激しい剣陣であるだけに、ここぞという時の切り札としての運用が求められる。

 

「…………っ!」

 

 そして、ユウキの必殺の切り札でも異形を滅することは出来ていなかった。また完全に造形は取り戻せておらずとも、伸びた腕が……いや、掌に備わった口がユウキの太腿に噛みつく。

 水底に引っ張り込まれる! ユウキは剣で切断しようとするが、巻き付いた黄の衣が刃を機能不全にして失敗する。

 ほぼ初期値に等しいSTRはユウキの最大の弱点だ。拘束攻撃や力比べに持ち込まれた場合、勝機は絶望的に低い。

 

「放せ! お前に構ってる暇はないんだ!」

 

「タスケテ……タスケテ……!」

 

 言葉は元より通じない。異形はただ救済を訴えるだけだ。焦るユウキに対して、PoH側も戦況が悪い。謎の女は防御力が高いレギオンを速度で翻弄し、PoHに爪を突き立てようとしている。そして、破壊された膝をスケルトンによる補強で補うPoHは機動力が落ちており、辛うじて致命傷を避けている状態だ。

 1本だけとなった黒紫剣で切断する。ユウキは黒紫剣で自分の太腿に噛みつく口付きの手を突き破ろうとするが、それを邪魔するべく、黄の衣が幾重にも重なって防護する。

 アンカー代わりに地面に突き刺していた宵の明剣が抜ける。足裏が地面から離れたユウキはそのまま水中へと引き摺りこまれる。

 そこにはもはや人間の造形を失い、肉の触手と口ばかりが目玉だらけの頭部ばかりが膨れ上がった異形がいた。その姿はまるでイソギンチャクを思わせ、ユウキを捕食するように首に触手を巻き付ける。

 水中でも息が出来ないが、それを待つつもりはないと絞め殺そうとする触手を、剣を手放して掴んで抗おうとするが、STRが圧倒的に足りずに、首へと触手は食い込んでいく。

 

(あ……ぐ……首が……!)

 

 拘束攻撃によるHP減少が始まる。ユウキは血で濁った水中で死の予感を覚える。

 殺されるわけにはいかない。死を恐れるのではなく、クゥリ以外に殺されることが恐い。

 

 都合のいいヒーローなんて現れない。

 

 死は唐突で、不条理で、平等だ。

 

 だからこそ、当たり前の生を噛み締めねばならない。いつ訪れるかも分からない死の瞬間の為に。

 

 

 

「祈りと呪いと海に底はなく、故に全てを受け入れる」

 

 

 

 繰り返す。都合のいいヒーローなんて現れない。

 だが、『彼』は最初からそこにいた。

 赤い月明かりを浴びてもなお、穏やかに眠り続けていた。

 細切れにされた黄の衣より明確な怯えと恐怖が生じ、また憑代になっていた狂信者の屍がのた打ち回る。

 解放されたユウキは息荒く泳いで岸にたどり着けば、そこには四肢を炎と氷の爪で壁に縫い付けられて絶体絶命のPoHと彼を庇うレギオンの少女、そしてトドメを刺そうとする着物の女がいた。だが、彼らの視線は一様にただ1人に向けられている。

 深緑の揺り籠の祭壇より、ゆらり、ゆらり、ゆらりと夜風に舞う木の葉に立ち上がるのは純白。

 捧げられた臓物の赤き血で濡れながら、空より降り注ぐ赤き月の光を浴びながら、幼き姿をした神子装束のクゥリは、拡大と縮小を繰り返し、狂信者の屍を核として蠢く黄の衣に近づいていく。

 その手に握られるのはカタナ。クゥリのカタナといえば贄姫であるが、その拵えはまるで異なる。漆黒の鞘には真っ赤な飾り緒が付き、鍔は桜、あるいは雪の結晶を思わす。

 見ただけでユウキは理解した。これこそが『贄姫』なのだ、と。

 刃は届かぬ、まるで剣舞でも……いいや、神楽でも舞うかのような一閃。その瞬間に黄の衣は細切れとなる。

 

「ごめんね。ちゃんと……食べきれていなかった。今度こそ、おやすみ」

 

 散って自分に吸い込まれていく黄の衣に、あらゆる慈愛が込められた微笑みを浮かべた幼きクゥリは、着物の女も、PoHも、レギオンも、ユウキも見ることなく、崩れていく狂信者へと歩み寄っていく。

 

「タス……ケテ。コワイ……ミコ……サマ……」

 

「大丈夫。大丈夫だよ。ここにいるよ」

 

 およそ人間の造形を失い、怪物としか言いようがない狂信者の蠢く屍。口という口が救いを求める姿はまさしく悪しき醜さだ。だが、幼きクゥリは、その姿に何1つ言わずに抱きしめる。

 

「ずっと怖かったね。もう……いいんだよ。アナタの恐怖も、祈りも呪いも、その『命』も食べてあげる」

 

 たとえ、どんな姿になろうとも『命』を愛する。生き方も、死に方も、人間かバケモノなのかも問わずに、ただその『命』を慈しむ。幼きクゥリの微笑みと抱擁に、狂信者の目玉という目玉は腐った涙を零す。

 紡がれるのは何処か悲しくも優しい子守唄。歌詞などなく、旋律だけが紡がれる、音程も何もない下手な……だが、あらゆる『命』を冒涜的なまでに愛する鎮魂歌でもあった。

 

「アァ……」

 

「祈りもなく、呪いもなく、安らかに眠れ」

 

 穏やかな死の吐息と共に狂信者の屍はドロドロの肉汁に変じる。その形が完全に失われる瞬間まで、幼きクゥリは嫌悪感を見せず……いや、そもそもそんな感情などまるで抱いていない慈愛の微笑みのまま見届ける。

 ゆらりと立ち上がった幼きクゥリに、PoHにトドメを刺そうとしていた着物の女はビクリと肩を震わせる。

 

「怒ってないよ。ありがとう、ずっと守ってくれてたんだね。ぼくが自分で目覚めることなく、誰かに『起こされてしまった』ら、きっと……『みんなを食べちゃう』から」

 

「我が友、私は……」

 

「おいで、マシロ。『帰ろう』」

 

 まるでこれから叱られることに怯えていたような着物の女は、幼きクゥリが微笑みと共に両腕を広げて呼べば、まるで子どものように笑んで駆ける。途端にその姿は双眸がない、ふわふわの白毛に覆われた猫に変じた。

 白猫は幼きクゥリの胸に飛び込み、髪を舞わせて純白の幼き神子はくるり、くるり、くるりと舞う。その度に煌くのは桜の花びらを思わす血飛沫だった。

 

 

 

 

 そして、全ては幻想であったかのように、ユウキは屍で敷き詰められた『空地』に立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 最初から廃神殿など存在しなかったように、だが死した人々が紛れもなく本物だったかのように、ユウキは四肢を破壊されてもなおHP数パーセントを残して生にしがみつくPoHを見下ろす。

 

「オイ、シヌナ! キズ、フカイゾ! ダイジョウブ!」

 

「何処が……大丈夫……だ!」

 

「本当にしぶといなぁ」

 

 ユウキは膝を曲げて、お情けでPoHの口に回復アイテムを突っ込む。

 何とか一命を取り留めたPoHの傍らで、ユウキは月見をしながら瞼を閉じる。

 

「あのさ、もしかして、ボク達って余計な真似をしただけだったんじゃないかな?」

 

「……言うな」

 

「あのコは、クーを守っていただけ。クーは『まだ目覚めるわけにはいかない』から、起こせるかもしれないボクたちを遠ざけたかっただけ」

 

「……言うなって言っただろ」

 

「ボクたちさ、凄い馬鹿だよね。助けようとしていたはずが、クーを苦しめていただけなのかもしれないんだからさ」

 

「言うなって言ってるだろうが!」

 

 本当に情けない。あの白猫は、いかなる正体であるとしても、ユウキよりもPoHよりもクーのことを理解して動いていた。情報量など関係ない。彼女の行動の真意を読み取れなかった自分たちの完敗なのだ。

 夜は訪れた。廃神殿で見たはずの獣狩りの夜を示す赤い月は無く、いつもと同じ月明かりがそこにある。まるで、全てが幻……いいや、悪夢であったかのように、普段と変わらぬ静寂の夜がそこにはあった。

 

「そうだよね。ボクが……ボクが……言ったはずなのにさ」

 

 レギオンに軽々と担がれ、別れの挨拶もなくに消えたPoHを見送ることもなく、クゥリによってではなく、彼を信奉した狂信者によって生み出された屍の山を見回しながら、ユウキは悲しそうに笑む。

 

「キミはいつだって『優しくあろうとする』。それが『クー』だって、ボク……ちゃんと分かってたはずなのにね」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 終わりつつある街の地下には巨大な地下ダンジョンが存在する。DBOの開発に伴って表層構造は変化しているが、最深部はまるで変化することなく、今もプレイヤーがたどり着くのを待っているとされている。

 DBOに存在する噂……都市伝説のようなものだ。リゼットは地表に割れた穴から潜り、鼻を捻じ曲げるような汚水の傍らを歩き、ようやく取引場所にたどり着く。

 地下であるはずなのに夕暮れの光が差し込んでいる。それは遥か頭上にある空井戸のお陰だろう。だが、ここは立派に終わりつつある街の地下ダンジョン扱いであることは間違いなく、深き地下であるからこその息苦しさがあった。

 動悸が止まらない。まだまだ表層であり、出現するのも犬鼠や野犬程度とはいえ、レベル的には十分に対処できるとしてもリゼットには戦える自信が無かった。

 1度でも心折れれば、もう立ち上がることはできない。戦場に戻ることはできない。それが普通だ。震えるリゼットの左手を、傍らのモンスーンが温かく握る。彼の手もまた震えていたが、彼女に心配ないと伝えるように、汚らしい髭面で笑んでいる。

 

「待たせたな」

 

 現れたのは、短い黒髪をした30代後半だろう男だ。肩幅が広く、纏った黒スーツも含めれば、まるで重役を警護するボディガードのようだ。

 この男の名前は【チャックマン】。何処か気の抜けるような響きであり、それが彼の本当のプレイヤーネームなのか、それとも偽名なのかは定かではない。

 明確に判明していることは1つ、この男こそがモンスーンをイカサマ・ギャンブルで嵌めて、今回の機密盗難の駒になるように追い詰めた人物ということだ。

 チャックマンの両脇には、近接装備のプレイヤーが控えている。どちらも処刑人を思わす鉄仮面を装備しており、まるで野獣の毛皮のようなものを羽織っている。およそ正気を失っているように息荒く、また首には猛犬のように棘が付いた首輪をつけていた。

 

「おっと、済まなかったな。コイツらがいたら落ち着いて話も出来ないか。ステイ」

 

 笑ったチャックマンが右手を掲げれば、犬のように鉄仮面の戦士2人は座り込む。その姿に満足したように、チャックマンは両手をポケットに突っ込む。

 

「誤解するな。スキルじゃない。コイツらにはキツい麻薬系アイテムを投与していてな。じっくりと正気を奪って飼いならしている。それに最近は『コイツ』のせいで凶暴性も増していてな。ご主人様の手を噛むようなことはないが……まだまだ躾は不十分でね。『餌』以外にも噛みつきやがる」

 

 男が取り出したのは何かの丸薬のようだった。リゼットも巡回警備で幾度か耳にしているが、裏を中心に出回っているドーピングアイテムの1種だろう。プレイヤーを極度に凶暴化させ、時に廃人させることもあると聞いている。

 だが、リゼットが恐れたのは正気を失った2人の戦士ではなく、彼らをペットのように扱うチャックマンだった。この男こそ、人間という枠……正気の外にいる。

 いいや、違う。これもまた人間の姿なのだ。少し過去を振り返れば人間は同じ人間を奴隷として売買するのが普通だった。発展途上国に行けば、あるいは先進国であっても、人権という幻想はあっさりと剥がされる。ならばこそ、チャックマンもまた人間としての真実を表しているようだった。

 

「さて、ビジネスの話をしようじゃないか。まずはモンスーン、よくやった。お前でなければアンサラーの基礎設計情報を外部に持ち出すことは出来なかっただろう。手段は聞いていたが、こうも上手くいくとはな。クラウドアースの情報管理は3大ギルドでもトップの厳重だからな。お前の功績だ。惜しみない拍手を送ろう」

 

「……どうも」

 

「次にリゼット、見事な作戦だ。あの……えーと、名前は何だったか? あー……ノーチ……ノーチラ……ノーチラーメンだったか? ともかく、最高のデコイだったよ。元エリートプレイヤー候補だか何だか知らないが、使えもしないクソに振り回されたベクターの顔はお前たちにも見せてやりたいくらいだとボスからのお言葉だ」

 

「…………」

 

「もっと喜べ。良い女の条件は笑顔だぞ?」

 

「彼の名前はノーチラスよ。それで、彼は……どうなったの?」

 

「さぁな。なにせ着せられた罪が罪だ。本人は断固として否定するだろうな。だが、クソにしてはしぶとくてな。逃げ回っているよ。だが、それも時間の問題だ。計画以上だよ。3大ギルドと傭兵たちが追い込んでいるからな。どうやらトラブルもあったようだが、それは知った事ではない。アイツはデコイだからな。捕まらないように粘ってくれた分だけ都合がよく、捕まったところでこちらの腹は痛まない。無実だとベクターが確信を持てるまで、どちらにしても時間がかかるからな。たっぷり拷問に遭って、無実をながーく泣き叫んでくれるだろうよ。あの【渡り鳥】が拷問を担当したなら、そりゃ悲惨だろうな」

 

 拷問を想像しただけで内臓が全て口から零れそうになり、リゼットは自分の罪を改めて自覚する。

 ノーチラスは無実だ。リゼットの一方的な妬みと憎しみをぶつけられて、在りもしない大罪を被せられただけだ。そして、3大ギルドに追い回されながらも、まだ捕まっていない。

 まだだ。まだ間に合うのだ。少なくともノーチラスはまだ最悪の事態に陥っていない。大ギルドの手に堕ちていない!

 

(カガリちゃん、どうか私に……勇気をちょうだい!)

 

 深呼吸を挟み、リゼットは強い眼差しでチャックマンを睨む。彼は軽く首を傾げると、何かを思い出したように頷いた。

 

「すまない。つい無駄な話が過ぎたな。こんな汚らしい場所にいつまでもいるなんて、未来の大金持ちに失礼だ。ビジネスに戻ろう。まずはブツ……と言いたいが、お決まりのやり取りは止そう。ほら、金だ。額面で300万コル。お前たちでは一生かかっても稼げない大金だ」

 

 チャックマンが懐から取り出した小切手には、間違いなく300万コルという高額が記載されている。

 300万コル! それがどれだけの大金なのか言うまでもない。上位プレイヤーどころか、トッププレイヤーでもおいそれと貯められる額ではない。逆にいえば、チャックマンの背後……間違いなく存在する大ギルドの資本とは、どれだけのものなのか、言うまでもないことではないだろう。

 

「目の色が変わったな。そうだ。300万コル! 上位プレイヤーが最前線でボスと戦っても稼げない額だ! しかもこれは『1人分』だ。お前たち1人つき300万コルだ」

 

「う、嘘だろ……!」

 

「リゼットの作戦でこちらは面白いように裏工作が上手くいった。そのお礼だ。ウチのボスは気前がいいだろう?」

 

 にちゃりと粘ついた涎で濡れた笑みをチャックマンは浮かべる。

 動揺したモンスーンにリゼットは心配したが、彼は固く彼女の手を握り締めてくれている。大金で心を揺さぶれるような『弱さ』はあっても、ここで間違いを正すことを放り捨てる程にクズではないと訴えている。

 いいや、違うか。クズにはクズなりの誇りがあるのだ。リゼットは同意するように、より強く唇を引き締める。

 

「モンスーン、お前の借金はもちろんチャラだ。この大金と共に恋人と一緒に身を隠せ。あまり派手に使うなよ? そうだな、3ヶ月くらいは鳴りを潜ませろ」

 

「…………」

 

「おいおい、あまりの大金に言葉を失ったか? まぁいい。さぁ、こっちは金を見せた。次はそっちの番だ。ブツを見せろ」

 

「ここには、持ってきていない。隠してある」

 

 モンスーンの一言にチャックマンの眉が跳ねるも、すぐに称賛するように拍手する。

 

「それでいい。それでこそビジネスパートナーだ。お前たちは『弱い』。コイツらどころか、俺1人でもぶっ殺せる雑魚だ。しかも取引場所が人目もつかない、縁とはいえ地下ダンジョンだ。警戒して当然だ。それで、何処に隠した?」

 

「その前に、取引をしたい。俺達は大金なんて要らない。俺の借金をチャラにしなくてもいい。どれだけ時間がかかっても必ず返す。だから……ノーチラスの冤罪を晴らしてほしい」

 

 モンスーンが震える声で絞り出した要求に、チャックマンはたっぷり30秒をかけて顎を撫でる。

 

「今更になって同情したか? それとも大金にビビっちまったのか?」

 

「違う。やはり、こんな事……間違っていると気づいたんだ」

 

「私も同意見です。お願い! ノーチラスの冤罪を晴らしてください! 彼の借金は必ず返します! だから!」

 

 今更になってクラウドアースに機密を持ち込んだところで、ノーチラスの冤罪を晴らせるか疑わしい。ならばこそ、リゼット達にできるのは、機密を使ってベクターを追い落とすチャックマンの上司に温情を乞うことだけだった。

 クズにはクズのやり方がある。頭を下げるモンスーンとリゼットに、チャックマンは困ったように頭を掻いた。

 

「あのな、もうノー何とかは終わっちまってんだよ。奴は傭兵登録から抹消された。たとえ無実だったとしても再登録はできない。仮にボスの力で再登録できたとしても、冤罪とはいえ3大ギルドはもう奴を絶対に信用しない。自分たちが追い回したんだ。仕事を回さない。アイツは冤罪が晴れようとも終わってんだ」

 

「それでも! それでも、彼の冤罪をどうか! お願いします! お願いします! お願いします!」

 

「俺の借金は倍にしてもらっても構わない! 鉱山送りでも何でも好きにしてくれ! だから、頼む!」

 

「私も娼館でも何処でも働いて返済します! お願いします!」

 

 ノーチラスはひたむきだった。報われずとも、嘲われていようとも、FNCという絶対的弱者であろうとも、這ってでも前に進もうとしていた。

 何があったのかは知らない。だが、ノーチラスは『何か』を得たのだ。そして、彼は自分の『弱者』の宿命に抗おうとした。傭兵として、DBOで戦い抜こうとした。

 傭兵の道を途絶えさせてしまった。それはどうやっても許される罪ではないだろう。自らの罪を告白すれば、ノーチラスはリゼットを殺そうとするかもしれない。そして、彼女はそれもまた受け入れる覚悟だ。

 だが、それでもノーチラスに可能性を残したいのだ。もう間に合わなくても、僅かでも彼に道を残したいのだ。

 

 

 

 間違いを正せた。自分はどうなろうともカガリにそう誇らしく伝えたいのだ。

 

 

 

 土下座して、地面を濡らす汚水に額を擦りつけた2人に、チャックマンは溜め息を吐いた。

 

「分かった。俺からボスに頼もう。機密さえあれば、ベクターを追い落とすのは簡単だ。クラウドアースが確保したなら無罪放免。他の大ギルドが確保した場合は、また別の手段を考える。これでどうだ?」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

「礼は良い。まったく、救いようのないクズ共と思ったが……意外と見るべきものがあるもんだな。ボスには俺からも頭を下げてやるよ。だからツラを上げろ」

 

 立ち上がったリゼットとモンスーンは、まだ事態こそ解決していないが、間違いを正す光が見えたことに顔を見合わせて口元を綻ばせる。

 

「それで、ブツは何処にあるんだ? それが無いとボスにお前たちの要求を伝えることもできないし、急がないとノー何とかが死んじまう」

 

「あ、ああ、そうだな!」

 

「すぐに持って来ます!」

 

「どれくらいかかる?」

 

「急げば30分以内には!」

 

 元通りにはならずとも、最悪は避けられるかもしれない。期待を込めてリゼットは機密を取りに戻る宣言をした。

 

 

 

 

 

 

「本当に救いようもない馬鹿なクズ共だ」

 

 

 

 

 

 

 聞こえたのは重なり合った銃声。見えたのは複数のマズルフラッシュ。全身に溢れたのは、すっかり忘れていたDBO特有の神経をミキサーにかけるような不快感をもたらすダメージフィードバックだった。

 

「あぁあああああああああああ!?」

 

 喉から下の体を穴だらけにされたリゼットは悲鳴と共に仰向けになって倒れる。

 どうして? 何で? 混乱するリゼットは口から血反吐を散らしながら頭を上げる。そこにはようやくゴミ掃除が終わったとばかりに、清々しい表情で煙草を吸うチャックマンの姿があった。

 

「そもそもとして、お前たちみたいなクズが大金を得てハッピーエンド……なんて美味しい展開があると思ったか? 頭まで弱いとは、クズにはクズの由縁がある。30分ねぇ。それだけ聞ければ十分だ。お前たちの行動範囲内から大よそ見当はつけることができる」

 

「どう……し、て?」

 

「決まってるだろ。ゴミはゴミ箱へ。お前らの処分は最初から確定事項だ。クラウドアースはこれからボスが支配するにしても、盤石に固めるまではスキャンダルは避けたいからな。お前たちみたいなクズを生かして足下を掬われてもつまらないだろ?」

 

 最初から殺されることは確定していた。≪隠蔽≫スキルで最初から取引場所にいたのだろう、全身を黒1色のボディアーマーを纏った、顔を隠すフルフェイスヘルメット姿のチャックマンの部下達がアサルトライフルの銃口を再度向ける。

 

「お前たちの事はずっと監視していた。なにせ機密の隠し場所を教えなかったからな。ベクター側に垂れ込まないか心配だったんだよ。ここ数日は知らんガキと暮らしていたようだし、それをカモフラージュに使って展示会に赴いたようだがな。あの人数ともなると≪追跡≫スキルも上手く機能しない上に、クラウドアースの警備の目を掻い潜ってお前たちを尾行するのはさすがに骨は折れたが、あのガキがペイントランで派手に目立ってくれたお陰で助かったぜ。再尾行が楽にできた」

 

 心から馬鹿にした笑みを浮かべたチャックマンは嗤う。リゼットとモンスーンの存在を、抗いを、何もかもを嘲う。

 

「30分。お前たちの家もギリギリ範囲内だな。あのガキも可哀想になぁ。どうせ、ブツはあのガキに託してあるんだろ? もう確保に動いている。ウチの連中にはロリコンもいるから、トコトン苦しみ抜いて『死んじまった』だろうなぁ」

 

 過去形の発言に、リゼットは唇を震わせる。カガリの無邪気な笑みが砕かれ、その破片が心をズタズタに裂いていく。

 

「本当に馬鹿な女だ。その顔でハッキリしたよ。念のために生かす必要もなくなった」

 

 自分が……自分たちが関わりさえしなければ……! そんな後悔が巡り、それは怒りとなり、リゼットは泣き叫びながらチャックマンを殺すべく立ち上がろうとする。

 

「しかし、モンスーンの即死は予定通りだったが、お前は逆に予定以上にHPが減っていない。何か特殊な装備でもしているのか? まぁ、ケチって安い弾なんて使っちまったからか。ゴミ掃除でも金はかけるべきだって良い教訓になった」

 

 小さな幸運の指輪。低確率ではあるが、ダメージを受けると防御力を短時間だけ大幅に上昇させる。それはまさしく命を救う小さな幸運である。だが、生こそがチャックマンの語りによって絶望に叩き落とした。

 

「あとは任せたぞ」

 

 リゼットの最期を見届けるまでもないとチャックマンは去っていく。その後ろ姿を呆然と見つめたリゼットは、声にもならない呪いの叫びを上げる。

 そして、今度こそトドメとなる掃射がリゼットの体に喰らい付く。全身が穴だらけになっていく感覚が広がりながら、彼女は今度こそ背中から倒れた。

 千切れ飛んだ左腕が生々しい水音を立て、銃撃で潰れた左目からは血の混じった涙が流れる。減少を止めないHPを視界に映し、リゼットは震えながら傍らで倒れたまま動かない……虚ろな死の眼をしたモンスーンを見つめる。

 

「モン、スーン……わ、私、た、ち……」

 

 彼は何も知らぬまま、どうしてこうなったのか分からぬままに死んだ。

 間違いを正そう。彼がその1歩を踏み出していても、そうでなくとも、運命は変わらなかった。

 脳みそが詰まっていない愚かなクズには相応しい末路なのだろう。だが、それでもカガリは違ったはずだ。

 自分たちの運命にカガリを巻き込んだ。迫る死を恐れたからではなく、カガリに申し訳なくて、リゼットはもう泣くこともできないモンスーンの分も涙する。

 

 

 

 そして、まるで鮮血を浸したかのような赤い月明かりが地下の底まで降り注ぎ、リゼット達を優しく照らした。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 幼き白は目を覚まし、今にも落ちそうな夕陽を見て欠伸を堪える。

 また変な夢を見ていた。たくさんの赤くて甘いお菓子をくれる人たちの夢だ。

 そして、同時に幼き白はずっと頭の隅で『何か』を見ていた。ふらり、ふらり、ふらりと夜を彷徨って狩りを続ける男の物語だ。最初はぼんやりとしていたが、それは時間を経つ毎に鮮明になっており、どうしようもなく不安を大きくさせていた。

 

「リゼットさん? おじさん? 何処?」

 

 両目を擦り、掴んだマシロを引き摺りながら、幼き白は2人の名前を呼ぶ。

 とても優しくて、温かくて、自分を受け入れてくれた、まるで両親のような存在。

 父親とは何だろうか? 本当の父を思い出そうとしても、ぼんやりと霞がかかっており、上手く思い出すことができない。母親についてはそもそもいたかどうかさえも分からない。そんな幼き白にとって、自分を温かく庇護してくれたリゼットとモンスーンはまさに父母そのものだった。

 これからも彼らとの生活が続く。幼き白は漠然とそう考えていた。それもいいかもしれないと思う一方で、どうしようもなく胸の奥に穿たれた穴が疼いた。

 早く目覚めないといけない。だが、『目覚める』とは何だろうか? 分からない。何も分からない。

 夜明けをもたらして、皆に黄金の稲穂を。その方法を取り戻せばいいのは分かっている。だけど、もう少しだけ、と幼き白は彼らとの生活を優先した。

 楽しかった。彼らが頭を撫でて褒めてくれるのが嬉しかった。そうした1つ1つが『幸せ』を見つけられると思った。

 だが、何も見つけられなかった。回るメリーゴーランドで気づいてしまった。2人の『幸せ』そうな顔を見て、自分がまるで『幸せ』ではないことを気づいてしまった。

 どうして『幸せ』を探しているのだろうか? 探すべきなのは夜明けをもたらす方法であるはずなのに、どうして? 幼き白は仮初の両親を求めて部屋を見て回り、テーブルに置かれた1枚の封筒を見つける。

 簡素に『カガリちゃんへ』と書かれた封筒を見て、幼き白は中身を確認する。

 そして、全てを読んだ時、まるで風のように駆けて家の外へと飛び出した。

 

 

 

<カガリちゃんへ。これを読んでいるなら、私達がいなくて吃驚して、心細くなっているかもしれません。ごめんね>

 

 

 

 幼き白は靴も履かずに素足のまま地面を踏みしめ、マシロを抱きしめながら走って人の間を縫って走る。

 

 

 

<この数日間、カガリちゃんと暮らせて本当に幸せでした。私とモンスーンは、あなたと出会うまで、まるで生きた屍のようでした。自分を裏切り続けて、間違いばかりを犯して、それを正そうともしていませんでした。妬んで、恨んで、憎んで、罪を重ねて、刹那の快楽を『幸せ』だと自分を騙し続けていました。だけど、カガリちゃんが私達を救ってくれた。あなたは自覚がないだろうけど、私達の魂を救ってくれたんです>

 

 

 

 ぶつかる人々の奇異の目など気にしない。幼き白はまるで何かに誘われるように、夕闇がなお深い裏通りへと駆けていく。

 

 

 

<私達は間違いを正します。できるかどうかは分からないけど、精一杯に、自分が信じたい『自分』を貫き通します。そうしないと、あなたと一緒にいられないから。間違えたままであなたと暮らしても、きっと私達は今この胸にある幸せを手放すことになるから>

 

 

 

 物乞いの足に躓いてこける。頬を擦った幼き白は、垂れる血も拭わずに再び走り始める。

 

 

<でも、失敗するかもしれません。間違いを正せないかもしれません。私達は生きて帰れないかもしれません。もしも、夜の9時までに帰らなかったら、カガリちゃんはペンダントを持って教会を訪ねてください。エドガー神父を呼んでペンダントを渡せば、きっとあなたを守ってくれるはずです。そして、どうかノーチラスという青年の冤罪を晴らしてください。私が罪をなすりつけ、彼の人生を狂わせてしまいました。もう間に合わないかもしれないけど、自己満足に過ぎないのかもしれないけど、それでも、私達は間違いを正したいんです>

 

 

 寝ている間にリゼットが首にかけたのだろう、胸元で揺れる直方体の板のようなクリスタルのペンダントを握りしめ、幼き白は息荒く夕闇の奥底へと向かう。

 

 

<ごめんなさい。こんな事を頼んでも、カガリちゃんは苦しむだけだよね。本当にごめんね。それでも、どうかお願いします。こんなにも弱くて、ちっぽけで、救いようのなかったクズの私達の最初で最後の戦いをやり遂げさせてください。私達が死んで何も出来なかったとしても、きっとカガリちゃんなら出来るはずです。だって、カガリちゃんは……私達の自慢の子だから>

 

 

 

 頭の中が真っ白だった。いつしか手元からマシロが消えていることに気づかない程に、幼き白は声にもならずにリゼットとモンスーンの名を呼ぶ。

 

 

 

<ねぇ、カガリちゃん。カガリちゃんは『幸せ』が分からないって言ってたよね? あなたの言葉を聞いて、私はずっと考えていました。『幸せ』って何だろうって。今、私とモンスーンはとっても『幸せ』です。今日は3人一緒にいられて、とても楽しかったから、本当に『幸せ』なんです>

 

 

 

 だが、どれだけ呼んでも2人の姿は見えない。振り返ってくれない。笑ってくれない。頭を撫でてくれない。

 

 

 

<刹那の快楽……たとえば、美味しいモノを食べたり、面白いゲームをしたりすれば、それだけで『幸せ』になれます。でも、変な話だけど、ちゃんと『幸せ』の条件を満たしていないと、それは自分を誤魔化すだけの甘い毒にしかなりません。本当は空っぽなのに、それを『幸せ』だと言い張って、どんどん欲しがってしまいます。その瞬間を過ぎれば虚しいだけという事実から目を逸らして生きていきます>

 

 

 

 どうして? どうして走るのだろうか? どうして2人の名前を呼ぶのだろうか? 分からない。幼き白には何も分からない。

 

 

 

<『幸せ』には2種類あると思います。『生の幸せ』と『死の幸せ』です。『生の幸せ』は、生きている内に得られる『幸せ』のことです。大事なのは、ちゃんと『自分』を認めてあげること。どれだけ間違えても、どれだけ嘘を重ねても、どれだけ苦しくて不平等な環境であっても、どれだけ大切なものを失っていても、それでも今いる自分を認めてあげることができれば、きっと『幸せ』の受け皿は出来ています。あとは満たしてあげればいい。それが『生の幸せ』>

 

 

 

 違う。本当はちゃんと分かっているのだ。2人を死なせたくないからだ。だから走るのだ。だが、どうして死なせたくないのだろうかと幼き白は、苦しい……まるで心臓が止まりそうな胸に尋ねる。

 

 

 

<カガリちゃんは頭を撫でてあげると、とても嬉しそうでした。もしかしたら、カガリちゃんは自分を認めてあげることができないのではないでしょうか? だから、もしも生きて帰ってきたら、たくさん謝って、たくさん抱きしめて、たくさん頭を撫でてあげます。カガリちゃんが自分を認めてあげられないなら、私達が一生をかけて、あなたが『幸せ』を満たせる器を作れるように、どれだけ時間がかかってもあなたを認め続けます>

 

 

 

 死なせたくない。だって、死んでしまったら『殺すことができないから』だ。カガリは心臓から広がる激痛に蹲る。熱く沸騰しそうな血に苦しむ。

 

 

 

<もう1つの『死の幸せ』の話をするね。たぶん、たくさんの人は後悔と未練を残して死ぬんだと思います。そもそも死って恐いものだから、きっと尚更だよね。でもね、『死の幸せ』もきっとあるんだと思います。こうしてあなたへの手紙を書いていて、今ハッキリと分かりました。『死の幸せ』とは、死ぬ時に自分の人生を振り返って、未練や後悔はあったとしても、それでも……自分の命に意味と価値があったんだと心から信じて、その上で死を受け入れられることだと思います。書いていて思ったけど、これってすごい難しいよね。たぶん、歴史を振り返っても『死の幸せ』を得た人は、本当に少ないと思います>

 

 

 

 殺したかった。リゼットとモンスーンのことが好きだから、殺したくて堪らなかった。幼き白は震える体で立ち上がり、夕陽が落ちた空の闇を見上げる。

 

 

 

 

<たとえ、この先どうなろうとも、私達に何があろうとも、あなたが『生の幸せ』を得て、そして『死の幸せ』と共に眠ることを願っています。きっと出来るはず。だって、あなたは私達が愛する、大好きなカガリちゃんなんだから。あなたにはそれが許されるのだから>

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか幼き白を黒服の男たちが囲んでいた。その内の1人が長い白髪を掴んで胸を押さえて苦しむ幼き白の顔をまじまじと見つめる。

 なんて美しい。本当に人間だろうか? 幼いが、【渡り鳥】に似ていないだろうか? そんな声が頭痛で刻まれた脳髄に響く。

 荒々しく胸元のペンダントを奪われそうになる。だが、幼き白は苦痛を堪えて反抗する。

 渡すわけにはいかない。暴れる幼き白は壁に叩き付けられる。裏路地の、普段は貧民が暖を取っている、かつてはいかなる建物があったのかも分からない跡地で、幼き白は咳き込んで口から血を垂らす。

 殺す前に俺が『遊ぶ』。下卑た声で大男が幼き白の両腕をつかむ。

 

 ああ、なんて醜いのだろう。

 

 そこに『生の幸せ』などまるで存在しない。刹那の快楽だけを貪る『獣』なのだから。そこには『人』など存在しないのだから。

 

 それは失望? いいや、違う。幼き白は信じている。リゼットやモンスーンに見た……温かな両親が間違いを正す為に戦おうとした『人の意思』を信じている。

 

 

 

 

 

 瞬間に鋸の刃が乱舞し、悲鳴と絶叫と血によって凄惨な殺戮が行われる。

 

 

 

 

 

 

 それは全身をボロボロの黒のコートに身を纏った、血で濡れた鋸槍を持った『狩人』だった。

 

「ゲホガホ……! もう、時間が……無い! 間もなく、夜が……訪れ、る!」

 

 口元を覆うマスクを剥ぎ、どす黒い血を吐きながら、狩人の男は片膝をつく。

 

「貴様が呼んだのか?」

 

「うん、ぼくが呼んだ」

 

 幼き白は胸を押さえながら立ち上がり、守り抜いたペンダントを右手に差し出す。

 もうすぐ『夜』が訪れる。そう、青ざめた血の空に鮮血の赤い月が浮かぶ、獣狩りの夜が訪れる。そして、その『夜』は長く凄惨な殺戮の狩りをこの地にもたらすだろう。

 

「どうせ『人』はすぐに『獣』に堕ちる。畜生、畜生、畜生……右を見ても左を見ても畜生しかない。この街の連中もすぐに『獣』になる」

 

「そんなことない! 絶対に違うもん! ぼく、ちゃんと見てきた! リゼットさんも! おじさんも! 自分で気づいて、自分の手で間違いを正そうとした! 『獣』ばかりなんかじゃない。一生懸命に生きている『人』がたくさんいる! 少しだけ見失っても、迷っても、目を背けても、それでも……必死に生きてる。『幸せ』になろうとしている」

 

 たくさん見てきた。リゼットやモンスーンだけではない。彼らと一緒に、この街で生きる人々を見てきた。

 

「強きは生き、弱きは死ぬ。それが『命』の理。だからこそ、弱きも強きも精一杯に生きないといけない」

 

 リゼットも、モンスーンも、必死に生きようと決めたのだ。たとえ、死を覚悟することになったとしても間違いを正す決意をした。

 

「ぼく、『幸せ』じゃなかった。あんなにも優しくて暖かったリゼットさん達と一緒に暮らせていたのに、たくさん『楽しい』も『嬉しい』もあったのに、『幸せ』がずっと分からなかった!」

 

「…………」

 

「2人にずっとずっと『幸せ』に生きてほしかった! 夜明けを迎えて、黄金の稲穂を受け取って欲しかった!」

 

「夜明け……黄金の稲穂……そうか。それこそが……俺が為すべきことを為す『理由』なのか」

 

 狩人の男は納得したように空を見上げれば、夕陽が地平線に沈むと同時に夜空が青ざめた血の色によって染め上げられる。巨大な満月……鮮血を啜ったかのような赤い月が浮かぶ。 

 いよいよ『夜』が訪れた。だが、狩人の男は幼き白の前に跪き、半ば蕩けて崩れた目でジッと睨む。

 

「俺もお前を感じる。俺達はきっと1つなんだ。だからこそ、問いたい。たとえ『幸せ』ではなくとも、幼き夢が続けば、お前は……これ以上何も失わないで済むかもしれない。このまま幼き夢に閉じこもっていれば、いつか『幸せ』を得られるかもしれない。それでも目覚めを求めるのは何故だ?」

 

 狩人の男の言う通りなのかもしれない。今ここで夜明けをもたらす方法を知らずに耳を塞げば、幼き白はこのままでいられるのかもしれない。

 もしかしたら、リゼットもモンスーンもひょっこりと何事もなく帰って来るかもしれない。そんな幻想を抱き、だが何の迷いもない眼差しで否定する。

 

「リゼットさんも……おじさんも……戦ってる。間違いを正す為に……戦ってる!」

 

「それがどうした?『俺』には関係のないことだ。彼らの戦いは彼らで完結するべきことだ」

 

「そんなことない! だって、ぼく……ぼく……2人のこと……大好きだから。だから……だから、きっと……2人にも……夜明けの先で……黄金の稲穂を……受け取って欲しい」

 

 幼き白は首からぶら下げたペンダントを引き千切り、狩人の男に手渡す。そして、無邪気な笑みと共に赤き月へと手を伸ばす。

 月明かりはいつだってそこにある。だからこそ、幼き白は舞う。神楽を奉じ、赤き月明かりを抱きしめるように両腕を掲げる。

 

「弱きは死に、強きは生きる。ぼくはたくさん食べてきた。だから、これからも食べ続ける。だからこそ、ぼくも精一杯に生きないといけない。為すべき事を為さないといけない! たとえ、これが『嘘』だとしても、ぼくは迷わない!」

 

 たとえ、手足が千切れようとも、何を失うことになろうとも、その最期の時まで顎を開いて敵の喉元に喰らい付かないといけない。

 

 

 

 

「そうか。ならば夜明けをもたらせ。狩りを全うしろ!」

 

 

 

 

 

 ああ、そうだ。

 

 狩りの全う。それこそが為すべきことなのだ。

 

 さぁ、為すべき事を為そう。

 

 夜明けを阻むあらゆる存在を狩り尽くせ。

 

 篝……暗く冷たい夜に燃える篝火として、今再び己を薪として燃やす『覚悟』を示せ!

 

 そして、幼き白は狩人の男の手を取り、赤い月の光の中へと消えていった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 それは微睡みにも似て、だが少し違う。

 ここは何処だろう? 赤い血の海ばかりが広がる世界で、ずっと、ずっと、ずっと、オレは夢を見ていた。

 誰かが髪を梳いて撫でてくれている。だけど、まだ瞼は重くて、でも耐え難い飢餓が目覚めを要求する。

 

(御寝坊さん。そろそろ起きる時間よ)

 

 優しく耳元で囁いてくれているのはヤツメ様。そっと瞼を開けば、ヤツメ様が嬉しそうな顔をしている。

 夢を……夢を見ていた。幼き夢と神子の夢だ。夢で眠り、夢で目覚めていた。そして、夢に弾かれていた、受け継がれた狩人の遺志にして……狩りを全うするという『鬼』の意思もまた最後に戻って来た。

 

(アナタはここで夢を見続けていた。たくさんのアナタを形作る要素は、夢を見続けるアナタにワタシを残して分かたれた)

 

 ヤツメ様はくるり、くるり、くるりと舞う。オレの周りで踊り狂う。

 

(夢から弾き出された狩人の遺志にして『鬼』の意思。これは説明不要よね。狩りを全うする。先祖代々より受け継いだ狩人の血そのものであり、アナタ自身が己に刻み込んだ狩人としての在り方)

 

 オレの右手に握られているのは鋸槍。それは血へと……狩人の血へと変わってオレに入り込む。

 

(神子の夢。アナタが歴代の神子達から受け継いだ契約であり、夜明けをもたらすという使命で獣血と共に生きる在り方)

 

 オレの左手に握られているのは贄姫。常にオレと共にある契約の刃は、神子の契約にして獣血の在り方として、桜の花びらとなってオレに吸い込まれていく。

 

(そして、幼き夢。これは……アナタ自身の心の在り方。皮肉よね、獣血がもたらす飢餓も無く、神子としての契約も無く、狩人の血すらも無く、それでもアナタの心は……狩人であり、神子であり、そしてワタシでもあった。幼き夢の中でも、アナタはまず皆に黄金の稲穂をもたらすことを望み、『命』を喰らう理を是とした)

 

 でも、それでよかった。だからこそ、オレは『オレ』なのだから。

 リゼットさんも、モンスーンさんも、必死に『人』としてあろうとした。彼らは自らの手で間違いを正そうとした。

 だから、行かないといけない。オレは最後に首に下げていたペンダントを両手で握りしめる。

 

(幼き夢で、アナタは狩人であり、神子であり、ワタシだった。でも、それでも……アナタは探していた。『幸せ』とは何なのかを)

 

 そうだ。そして、リゼットさん達に教えてもらったんだ。ずっと探していた……『幸せ』とは何たるかを。

 だから、貰った報酬分は働かないといけない。それが傭兵の流儀というものだ。

 

(まったく、ようやく夢から覚めたと思ったら、相変わらずね)

 

 呆れるヤツメ様に、それが『オレ』なのだからと苦笑する。

 きっと、リゼットさんの言う通り、オレは自分自身の存在を認めることはできないのだろう。だって、オレはランスロット曰く……『嘘』に殉じる大馬鹿者なのだから。

 狩人の血も、獣血も、神子としての契約も、何もかもがオレを形作る。そして、何よりも……ユウキが言ってくれた『優しくあろうとする』のが『オレ』らしいしな。

 

(惚気はいいわ。さっさ仕事に行きなさい。まったく、本当にギリギリよ。あと数十秒遅かったら、ワタシは皆殺しを始めていたわ。だけど、ここまでワタシを止めていたのは、夢を見続けていたアナタの『優しくあろうとする』……そんな『嘘』だなんてね)

 

 もう間に合わないとしても、オレは行かないといけない。

 リゼットさんが教えてくれた『幸せ』とは何たるかに応えないといけない。

 

(そうね。たとえ、何があろうとも、アナタは『優しくあろうとする』のかもしれないわね。ワタシはアナタ、アナタはワタシ。うん、ちゃんと分かってるわ。だから、見届けてあげなさい。たとえ、どんな最期であるとしても、彼らはきっと……)

 

 ヤツメ様は微笑み、オレは頷く。

 たとえ、まだ『幸せ』は得られていなくとも、何があろうとも狩りを全うするとしても、それでもオレは『答え』にたどり着きたいから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

  

 死の間際に聞こえるざわめき。赤い月明かりは獣狩りの夜の合図だからだ。残されていたチャックマンの部下たちの動揺が広がる。

 だが、死を前にしたリゼットは見たのは、遥か天空……地下と地上と繋げる空井戸からも望める巨大な赤い月だ。

 ああ、ずっと……ずっと『そこ』にいたのか。リゼットは理解せずとも、不思議と納得して笑う。

 そして、赤い月の光の中で『純白』の糸が紡がれる。ふわりと空井戸の穴を抜けてリゼットの元に現れる。

 美しくも可愛らしい。年頃は12、3歳頃だろう、未成熟でありながらも成長の香りを持つ最も可能性に満ちた姿。纏うのは、神道をベースにしていると辛うじて分かる、多くの宗教要素が組み込まれた装束。背中には2つの切れ込みがあり、そこからは赤い半透明の、だがその内で更に濃い真紅の血管のような光が張り巡らされた、左右4対の触手が伸びている。だが、末広がるように枝分かれした触手は、どちらかと言えば翼と呼ぶに相応しく、その通りのようにリゼットたちを優しく包み込むように血色の粒子を散らしている。

 僅かに成長しているが、見間違えるはずもない。リゼットは血で粘ついた唇をゆっくりと開く。

 

「カガリ……ちゃ、ん」

 

 リゼットはその名を呼ぶ。ずっと、ずっと夜空に浮かぶ月にいた、愛しくも幼い純白の名を呼ぶ。

 左目の瞳は1つ、右目の瞳は7つで、いずれも真紅の光を淡く浸している。白目に当たる部分は青く、それは獣狩りの夜空のようだ。

 モンスーンが色亡き世界で見た純白の髪を淡く、まるで雪夜の白月のように光らせて、笑っている。

 

「ありがとう」

 

 カガリがくれた一言で、自分もモンスーンもたどり着けたのだと知った。

 間違いは正せなかった。でも、きっとカガリちゃんがやり遂げてくれる。情けないけど、それでも信じて死ぬことができる。

 心残りはある。あなたをこんなにも愛しているのに、『幸せ』にしてあげることができなかったこと。

 

 

 

 でも、きっとカガリちゃんなら『幸せ』になれるよ。

 

 

 

 だって、カガリちゃんは、こんなにも優しく穏やかに微笑むことができるんだから。

 

 

 

 大丈夫! リゼットお姉さんが髭面モンスーンの分まで保証してあげる。

 

 

 

 ああ、これが『死の幸せ』か。リゼットはカガリの微笑みに応えるべく、あらん限りの愛を籠めて笑み、震える右手を伸ばしてその頬を撫で、そして息を引き取った。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 デーモン化解除……成功。元の姿に戻ったオレは、ゆっくりとリゼットさんの瞼を閉じさせる。

 もう彼女がこれ以上の苦しみを背負うことはない。立派に戦い抜いた彼女を糧として、オレは為すべき事……狩りの全うをやり遂げてみせる。

 

「あ、あは……あひ?」

 

「夢……夢でも見て……な、んで?」

 

「【渡り鳥】が……あ? は? あへ?」

 

 リゼットさん達を撃ったのだろう、黒ずくめの男たちは、一様に腰を抜かしている。まるで、恐ろしい獣と出会ってしまったかのように、精神が狂っている。

 

(殺意を抑えていたとはいえ、アナタのあの姿を直視して、すっかり心が壊れてしまったようね)

 

 楽しそうに、今にも漏らしそうな程に震える男たちを丁度いい間食だとばかりにヤツメ様は舌なめずりするが、オレは諫めるべく溜め息を吐く。彼らを『獣』として喰らう気はない。

 

(人間性の消耗は最小限に抑えられた。でも、『食事』はやっぱり必要よね)

 

 途端に頬を膨らませたヤツメ様であるが、すぐにオレの意図を理解してくれたのか、楽しそうに両手を合わせる。

 

「殺してるんだ。殺されもするさ。でも、はたしてアナタたちに『殺される』覚悟はありますか?」

 

 そうさ。オレはリゼットさん達を殺されても悲しめない。怒れない。憎めない。たくさんの『人』がオレにくれた人間性が、辛うじて『フリ』をさせてくれているだけだ。

 数にして5人。まぁ、『情報収集』には事足りる数ではあるか。這って逃げようとしている1人の膝裏に、袖に隠れたアンカーナイフを投げる。突き刺さり、肉に食い込む刃を打つアンカーナイフはワイヤーと接続されており、そのまま引き摺ってオレの元に男を連れて来る。

 1人として逃がさない。お前たちからは聞かねばならないことがあるのだから。道具はないが、ナイフだけで十分だろう。

 まずは逃亡する恐れを省く為に膝から下を贄姫で切断しておく。彼らの悲鳴を聞きながら、じっくりと『お喋り』をする。彼らの上司、あるいは雇い主は誰なのか。目的は何だったのか。最初からリゼットさん達を殺すつもりだったのか。

 3人はまともに喋ることもなく絶命し、1人は壊れたラジオのように同じことばかりを繰り返し、最後の1人は多少丁寧に扱ったお陰か、自分の上司について語ってくれた。

 クラウドアース内の権力争いか。くだらないな。素直に話してくれた最後の1人の懇願通りに首を刎ねて楽にさせる。

 今回の件はクラウドアース内の揉め事が外部にまで波及したのか否か。それはオレの探るべきことではない。大事なのは、リゼットさん達の間違いを正す為の手がかりは得られた点だ。

 首から下げているペンダントを改めて手に取り、この機密の使い道を考える。ベクターに直接持っていったところで、オレにも何かしらの嫌疑がかかるかもしれない。ならば、こういう時には妥当な人物に渡すのが1番だ。

 その為にも行動は急がねばならないだろう。まずはこの地から迅速に脱出しなければならない。だが、オレを阻むように周囲を赤いシステムメッセージが覆う。

 

 

<死神部隊に侵入されました>

 

 

 無名の闇霊に似ているが、霊体の色が違う。装備はバラバラであり、無名の闇霊と同じく声にはノイズがかかっているが、異国の言語だな。辛うじて判別できそうなのは英語・中国語くらいだろうか?

 死神部隊……そうか。後継者め、ちゃんとオレからの要望は守ってくれたようだな。

 アルヴヘイムで得た願いを叶えてもらう権利。その最後の1つを使ってオレが後継者に要求したのは、『今後、死神部隊を派遣する場合、他プレイヤーがメインターゲットであっても、オレを最優先ターゲットに変更すること。この条件はオレが死亡するまで継続する』というものだ。

 これで後継者は心意保有者を死神部隊で抹殺することは出来ない。まずはオレを殺してからだ。どれだけの頻度かは不明であるが、とりあえず今回の派遣は後継者からの挨拶とちゃんと約束は守ったという通告くらいのものだろう。

 そして、死神部隊が派遣されたということは、それに値するだけの心意もまた発動されたということだ。後継者にとっては腸が煮えくり返っているのに手出しは出来ない。うん、オレにキレるのも仕方がないな。まぁ、その為の嫌がらせみたいものだけどな!

 それにこれで『アイツ』やユウキといった仮想脳の可能性……『人の持つ意思』を『力』に変える心意を発動させるリスクが大きく低減される。彼らが本気を出せる環境を整えねば、この先のDBO攻略は増々の困難に直面するかもしれない。正直に言って、ランスロット級がまだいるかもしれないのだ。心意でも何でも使える連中はいるに越したことはないだろう。

 だが、死神部隊が派遣されるのはフィールド・ダンジョン限定のはず……って、ああ、なるほどな。ここは既に終わりつつある街の地下ダンジョン扱いなのか。

 

「今、少しだけ急いでいるんです。2人の間違いを正さないといけないんです」

 

 死神部隊の霊体……差し詰め、死神霊といったところか。彼らは舌なめずりするようにオレを囲んでいる。素人だな。連携が取れる様子もないならば、ただの烏合の衆だ。個々人の実力に期待したいところであるが、時間が無い。

 

「退くならお好きにどうぞ。ですが、1歩でも動くならば……殺します」

 

 日本語が通じればいいのだがな。オレの警告に対し、5人はほぼ同時に動いた。言葉は伝わらずとも何かしら感じ取れるものはあったと信じたいのだがな。

 一見すればバラバラで連携も何もないが、その実はタイミングが微妙にズラした同時攻撃。なるほどな。チームワークはなくとも、個々人でちゃんと殺しにかかる為のやり方を心得ているようだ。PKが得意な連中でもスカウトしたのだろうか?

 彼らが何処から来て、何を求めて死神部隊に入ったのかは知らない。だが、彼らを死神と呼ぶにはNに失礼だ。たとえ灼けていても、彼が誇らしき死神であったことは、ぼんやりとしていても分かる程度には記憶も残っているのだから。

 リゼットさんとモンスーンさんの死体を足で蹴り上げて、傷つかないように頭上の空井戸の穴……その向こう側まで吹き飛ばす。

 贄姫、狩りを全うする為に……夜明けの向こうで黄金の稲穂をもたらす為に……そして、少しでもいい。オレが『答え』にたどり着く為に、その刃で応えろ!

 目覚めろ、アーロン。その『力』を示せ。

 

 

 

 

 

 放たれた居合はオレの周囲の空間を緋血の『幻刃』として埋め尽くし、5人の死神霊を刻んだ。

 

 

 

 

 

 

 これがアーロンのソウルを加えた贄姫の新たな能力の1つ。血刃ゲージの消費は激しいが、血刃居合を投影して血幻刃を生み出すことができる結界を作り出せる。ただし、血幻刃を発生させると投影元の通常の血刃は生じないことに留意しなければならない。

 これこそがアーロンのソウルで得たの能力の内の1つだ。彼のように不可視かつ自由自在の斬撃ではないが、それでも十分過ぎる。

 

「【斬撃結界・壱式】」

 

 今まさに使用したのは、血刃ゲージとスタミナを消費することで、アーロンが用いていた斬撃結界を自分の周囲に生み出し、居合を発動トリガーに血幻刃にて結界内を斬り刻む。霞桜のような正面に繰り出す血刃居合そのものによる回避不能の『斬幕』ではなく、血刃居合を投影した血幻刃によって斬撃結界内を完膚なきまでに斬り刻む、回避不能のまさしく『斬界』である。

 発動モーションがやや長く、知られている相手がいれば逃げられるリスクもあるなど問題点も多いが、その威力は凄まじい。しかも全てにパラサイト・イヴによる≪暗器≫化によるクリティカルボーナス増加も含まれているのだから、殺傷能力は大きく跳ね上がる。

 鞘へとゆっくりとカタナを収め、それと同時に血幻刃の残滓が漂っていた空間が拡散する。濃厚な血のニオイによって満たされる。血幻刃は血質属性ではあるが、劇毒蓄積が低いのは残念であるが、その威力は十分過ぎると証明された。

 効果範囲は溜めに応じて拡大できるとのことであるが、最大範囲はまだ確認していないからな。血刃居合のフルチャージも込みながら、最大威力・最大範囲にまで至る時間はかなりかかりそうだな。

 息のある者は1人か。相手を面で確実に斬り刻む霞桜と違い、自分の制御下には無いランダム乱舞であるだけに、全員を確実に葬れる保証がないな。まぁ、コイツは斬撃結界の深くまで入り込んでいなかったのが生存最大の理由だろう。

 何やらアクションを取っているが、命乞いのつもりだろうか。泣き叫ぶのを聞きながら、その心臓に贄姫を突き立てて絶命させる。

 

「祈りもなく、呪いもなく、安らかに眠れ」

 

 ワイヤー付きナイフを袖から出して飛ばし、空井戸の縁に突き立てると巻き取って地上に出る。そこで無造作に倒れている彼らの遺体を抱き上げる。2人分となるとさすがの重量であるが、ここに放っておくつもりはない。

 考える。彼らに他の手段はなかったのだろうか、と。

 たとえば、手紙でオレに指示したように、教会に持ち込むといった方法もあったのではないだろうか? あるいは、ベクターに直接交渉を持ちかける方法もあったのではないだろうか?

 ……違うか。彼らはきっと何も信じられなかったのだ。ベクターも、教会も、自分を殺した連中さえも信じられなかったのかもしれない。だからこそ、彼らは最も確率の高いカードを選ぶしかなかった。たとえ、失敗の代償が自分たちの命だとしても、彼らは選ぶしかなかった。

 

「でも、オレのことは……信じてくれたんだね」

 

 教会を信じたのではない。オレならば、自分たちが死んだあとでも間違いを正してくれると、そう信じて託したのだ。あるいは、ノーチラスの冤罪を晴らせないとしても、オレの保護だけはエドガーならばしてくれるはずだとも考えたのかもしれない。まったく、あの男は胡散臭いが、『善意』に根付いた信頼だけは見事と言わざるを得ない。

 夜空を見上げれば、何事もなく普通の月が佇んでいる。獣狩りの夜の象徴である赤い月が出現したはずなのに、街は思いの外に静かだ。

 

「オレには『力』しかない。でも……それでも……」

 

 オレがやり遂げよう。彼らの間違いを正そう。もう報酬は貰っているのだから、どんな手段を使ってでも……必ず間違いを正そう。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 予想外の事態が起きた。ベクターは脂汗が滲む汗を拭うこともせず、ユージーンかライドウの帰還の報告を執務デスクで待ち続けていた。

 ノーチラスのトラップなのか、ペイラーの記憶には何かしらのイベントが発生したらしく、1度入れば戻れない状態が続いていた。ユージーンたちの生死は不明である。

 取るに足らない小石に躓いて大怪我を負う。ベクターは自身の判断に間違いがなく、そもそもとしてノーチラスを早急に始末しなかった自分の不手際を呪う。価値もないゴミならば、目障りになる前に処分するべきだったのだ。

 

(戦争でクラウドアースが絶対的勝者となり、戦後体制を盤石にする為には、アンサラーは不可欠だった。だが、現状で開発が露呈すれば私は失脚する。だからこそ慎重に進めていたというのに。何処からケチが付いた?)

 

 リンネの裏切りからか? それとも記憶にもない過去の何処かに落ち度があったのか? ベクターは考える。現実世界でも常にエリートとして生き、他者を見下し、支配する側に立っていた。多くのライバルを蹴落とし、また罠に嵌めてきた。DBOに捕らわれた後も、命懸けの殺し合いの戦場ではなく、自らの知恵と商才と策謀でここまで上り詰めた。

 今はセサルというカリスマで裏で纏められているクラウドアースであるが、いずれは表裏共に自分が支配する。野心を捨てることなかったからこそ、ベクターは今日の地位を得てたのだ。

 

「失礼します、ベクター様。至急の要件でエドガー神父が参られています」

 

 ノック音と共に入室した秘書の連絡に、ベクターは舌打ちを堪える。

 

「後にしてもらえ」

 

「ですが、『秘密』について話がしたい……と」

 

『秘密』だと? 眉を跳ねさせたベクターは、今回は静観を保っていた教会の意図を探る。

 既にユージーン、ライドウ、アラクネ傭兵団、アラタといったカードを切ったベクターは、ここで自分の手も火傷しかねない教会というカードを取るべきだろうかと悩む。

 熟考など不要だ。真のリーダーとはここぞという時に迅速な判断が求められる。ベクターは即座に応接室の準備をするようにと秘書に命令すると、よれよれのスーツを着替え、櫛でしっかりと整髪すると珈琲を飲んで気合を入れると、いつものように1つの隙もない笑みを鏡の前で浮かべる。

 

「これは神父! わざわざ夜分にいかなる御用ですかな?」

 

 応接室は赤い絨毯が敷かれ、煌びやかなシャンデリアが部屋を照らす。こうした豪奢な調度品はベクターの趣味ではないが、訪問客の性質に合わせて使い分けている。エドガーは財力で懐柔できるタイプではないが、少なくとも相手のペースを握らせないで済む雰囲気は作れる。

 相変わらずの胡散臭い『にっこり』とした笑顔のエドガーと握手を交わしたベクターは、まずは相手の出方を見る事にした。

 

「ベクター殿」

 

「ご安心を。このメイドは私の直轄の秘書でもあります。秘密話だろうと同席させても問題ありません」

 

 人払いを求めただろうエドガーに、その程度の気遣いが出来ないはずもないとベクターはメイドに紅茶を淹れさせながら笑う。

 交渉の大前提は動揺を見せないことだ。たとえ、手札がクズばかりであろうとも、とびっきり鬼札があるように相手を錯覚させる演技が不可欠なのだ。

 

「単刀直入に申し上げます。こちらの機密をお渡しに参りました」

 

 エドガーが懐から取り出したのは、見覚えがある記録媒体クリスタルだった。

 

「内容は既にこのエドガーも確認済みです。アンサラーとは……ベクター殿もやり過ぎましたな。このようなものが世に出れば、クラウドアースはバッシングを免れず、主導したベクター殿も失脚するでしょう。下手をすれば、内部分裂に付け込まれて、クラウドアースは聖剣騎士団と太陽の狩猟団の代理戦争の舞台となるでしょうな」

 

「何のことだか、分かりかねますな。アンサラー? 議会でもそれに似た名前のアームズフォート開発計画が議題に上がったことがありましたが、私には何のことだかサッパリ」

 

「なるほど。このエドガー、早とちりをしてしまったようです。お許しください」

 

「いえいえ、誰にでも間違いはあります」

 

 アンサラーの開発を秘密裏に指示したのはベクターであるが、盗まれた基礎設計データだけでは彼が主導したとは明らかにならない。あくまでアンサラーのデータは会議のテーブルに載ってこそ爆薬として機能するのだ。その時こそ、機密流出の黒幕は声高にベクターを弾劾するだろう。

 だが、こんなのは腹の探り合いにもならない。教会が今回の機密争奪戦に無知であるはずもないのだ。今のは建前の確認に過ぎない。

 エドガーはこの通りに腹芸でも何でもござれの男だ。教会をあそこまで成長させたのは、エドガー神父の働きがあってこそと誰もが認めるところだ。彼はその不屈の信仰心によって神灰教会をDBO最大の宗教組織として絶対的な地位に至らせ、権威を得るまで高めたのだ。

 物事には建前が常に必要不可欠なのだ。交渉や取引ならば尚更である。ベクターは他の勢力ではなく、教会……それもエドガーが単身で直接交渉を持ちかけたことを安堵する。この事からも機密について認知しているのはエドガーと彼の手の者だけと想定しても問題ないだろう。自陣営の間者を教会に多く潜り込ませているのは、いずれの大ギルドも同じだ。だが、エドガーが直接交渉を望んだのであるならば、まだ他勢力の手を介在していない確率は高かった。

 もちろん、エドガーが今回の機密漏洩の黒幕である線も捨てきれない。だが、わざわざアンサラーの基礎設計など盗む自作自演のリスクを背負ってまで教会が呑ませたい要求があるとも考え難かった。

 

「失礼を承知でお尋ねしますが、よもや中身を……」

 

「いえいえ、書き写すような真似はしておりません。このような身の毛もよだつ虐殺特化のアームズフォートなどが世に出回れば、多くの人命は失われかねませんからね」

 

 何処までが真実なのかなど些細な事だ。教会とはいえ、他勢力を介して取り戻したからには、幾らかの漏洩は免れない。だが、教会……それもエドガーならば、まずアンサラーの基礎設計が拡散することもないだろうとも想定できた。

 エドガーはいずれの大ギルドにも与しないスタンスだ。彼が動くのは信仰の為だけである。これもまた他の大ギルドがエドガーの背後にいる危険性を下げる理由にもなる。

 何にしてもここは慎重に次なる手を心がけねば墓穴を掘ることになる。ベクターはエドガーの要求を想定する。教会の権益拡大か? それともお布施の増額か? 取り戻せた機密に比べれば安いものであった。

 

「エドガー神父、真なる善意とは見返りを求めぬものと申しますが、クラウドアースを救っていただいたお礼を是非ともしたい」

 

「おお、それはそれは! では僭越ながら、このエドガーの要望は4つ。1つ目は、アンサラーの開発についてベクター殿に議会で『犯人』を糾弾していただきたい。このような非人道的なアームズフォートが開発されていたなど、ベクター殿の『良心』も許せぬはず。違いますか?」

 

「ええ、まさしく。確認しましたが、これは明らかに虐殺を目的としたアームズフォートです。クラウドアースにも体面がありますので、内々とはなりますが、必ず粛清をお約束しましょう」

 

 なるほど。そう来たか。エドガーはアンサラー完成によって、教会の権威を超えた恐怖の支配をもたらすクラウドアースに危惧を覚えているのだ。だからこそ、議会でベクター自身に取り上げさせることによって、アンサラーの開発を凍結、ないし遅延させることが目的なのである。

 エドガーは良くも悪くも信仰に基づいた『善人』であるとベクターは評価している。ならば、非人道的なアームズフォートであるアンサラーを彼はこのまま見逃すことなど出来ないのだろう。だからといって外部にリークしなかったのは、この時期にクラウドアースへ与えるダメージは逆に治安の悪化をもたらすと慮ったからだ。

 

(しばらく教会には下手に出るしかあるまい。ラストサンクチュアリ壊滅後の1000人以上の貧民プレイヤーの流出にも対応してもらわねばならない以上、資金面の援助は惜しまぬ姿勢を見せればいいだろう。エドガーもアンサラーの基礎設計でいつまでも強請るような真似をするリスクは承知のはず)

 

 アンサラーの開発に用いた設備の破棄と携わった全員の『処分』は大きな損害であるが、クラウドアースと自身の保身の為ならば安いものだ。そもそもとして、最重要機密を盗まれるなどという失態には相応の処罰が必要である。それが『次』に活かせる土台にもなるだろう。

 議会でアンサラーについて取り上げるスケープゴートがいる。ベクターは瞬時に政敵の顔を脳裏に並べ、いずれになすりつけるべきか思案する。工作は不可欠であるが、既に機密は取り戻したのだ。じっくりと内部の掃除を済ませた後に、堂々と正義の味方のように議会にて『犯人』を糾弾すればいい。

 いっそ確保したノーチラスに偽証をさせるのも1つの手だろう。ゴミにはゴミの使い道がある。ここに機密がある以上、ベクターにとってノーチラスの確保も生死も『どうでもいい』ことであった。

 

「2つ目の要望は、クラウドアースには児童保護活動の支援をしていただきたい。このエドガーは、現在の孤児院を2倍……いいえ、3倍に拡張させ、また教育の充実を予定しております。是非ともクラウドアースにはその際に資金面の援助をお願いしたいのです」

 

「言われるまでもなく、もちろんです! 私も終わりつつある街のストリートチルドレンには前々から心を痛めていました。彼らの為にも、是非とも協力させていただきたい」

 

 これも大きな出費だ。子どもは宣伝の道具にはなるが、労働力としても戦力としても期待はできない上に、スパイ活動もするずる賢さも備えている。アラタのような逸材もいるにはいるが、大半は役にも立たないメシ喰らいだ。しかも1度保護したら無下に扱えば、ここぞとばかりに責められる急所にもなる。

 だが、治安改善自体はクラウドアースにとっても利益になる面は少なからずある。この件は他2つの大ギルドも巻き添えにする形を狙おうとベクターは内心で溜め息を吐いた。

 

「3つ目は、この機密を盗んだ濡れ衣を着せられたノーチラス……いいえ、エイジ殿の無罪放免をお願いしたい」

 

「そう申しますと?」

 

「ええ、実はこの機密を盗んだ実行犯2名が『教会に逃げ込んできました』。どうやら自分たちが機密を盗んだことで冤罪をかけられたエイジ殿の事を知り、良心の呵責に耐え切れなかった様子でした」

 

「では、代わりにその2人の引き渡しをお願いしたい」

 

「それは叶わぬことでしょう。どうやら黒幕は2人が教会に逃げ込むことも想定して待ち伏せしていたようでして、このエドガーも守り切れずに……。遺体は教会の霊安室にて安置しております。遺体のご確認を望まれるならば、すぐにでも」

 

 エドガーが新たに取り出したのは、2人の男女の遺体と簡素なプロフィールだ。リゼットとモンスーン、どちらにも見覚えはない。だが、クラウドアースに在籍する巡回警備員とオブジェクト作成員である事が記載されていた。

 まだエドガーによる偽装の線は捨てきれないが、そこを追究するならば『茶番』が無駄になる。今回は機密をエドガーが入手した時点でベクターの負けは決まっているのだ。ならば、あとはどれだけ損害を小さくするのか、そして今後の為にリカバリーを何処までできるのかの話である。

 このような小物に足下を掬われたのか。ベクターは額を手で押さえ、今後は身辺調査の徹底と強化を実施しなければならないと誓う。

 

「このエドガーも『噂』の範疇でしか知り得ていませんが、エイジ殿を追ってユージーン殿やアラクネ傭兵団も雇われているとか。他にも多数の傭兵が動いているようですね。彼らには依頼内容と雇用主の守秘義務があるとはいえ、多くの組織がその機密を狙っていたのは間違いありません」

 

「なんと! 確かにユージーン君に緊急依頼が入ったとは聞いていましたが、お恥ずかしいことに、激務に追われて仔細の確認を怠った私の落ち度のようです。ラストサンクチュアリ戦を控えた彼には十分に英気を養ってもらわねばらないというのに、このような案件に巻き込んでしまって申し訳ない」

 

「いえいえ、ベクター殿程の地位の御方が、ランク1とはいえ、専属傭兵の依頼の1つ1つを確認など出来ますまい」

 

「そう言っていただけるだけで救われました」

 

 白々しい茶番であるが、これもまた必要なことだ。エドガーは元よりベクターがノーチラス確保にユージーンたちを動かしたと把握しているはずである。だが、今回の交渉は『ベクターはアンサラー開発とノーチラス捕縛依頼には無関係』という『建前』で成り立っている。

 しかし、奇妙な要求だ。ベクターは顎を撫で、紅茶を口にしながら思案する。エドガーがわざわざノーチラスの無罪放免を要求する理由は何だろうか? あのような小物をわざわざエドガーが救う根拠がない。

 確かに傭兵としてやっていけるだけの実力を発揮したのは、ベクターとしても想定外だった。あのグローリーと協働とはいえ、ネームド・ボスの撃破に貢献した人材を手放したのは、エリートプレイヤー制度の見直しも考えさせられた。だが、『それだけ』だ。取るに足らない代替可能な人材であるという評価は覆らない。

 ましてや、今のノーチラスはベクターの手回しによって傭兵登録を既に抹消されている。傭兵としての復帰も不可能であり、価値は大きく下落し、屑石に等しいはずである。

 

(いや、待て。ノーチラスはどうして急に離籍した? 傭兵として活躍できたのも報告にあるユニークウェポン級と想定される武装のお陰のはず。もしも、ノーチラスが教会……いいや、エドガーの手の者だったとするならば?)

 

 なるほど、辻褄が合わないこともない。エドガーは自分の駒に授けたユニークウェポンの回収を目論んでいるのだろう。

 そうなるとノーチラスを傭兵業界に送り込んだ理由であるが、それはエドガーの腹の内を探らねば見当をつけることもできないだろう。そもそもとして、この仮説も何処までが正しいのか分かったものではないのだ。

 

「ですが、お話の通りならば、既に他の大ギルドもノーチラス捕縛を狙って傭兵を雇っています。さすがに他勢力に確保された場合は……」

 

「その時はこのエドガーを頼っていただければ、及ばずながら尽力しましょう。ベクター殿の不利益は最小限に抑える事をお約束します。ベクター殿にお願いしたいのは、『クラウドアースがエイジ殿を無罪にした』という事実の告知ですから」

 

 どうして、そこまでノーチラスに拘る? 余程に強力なユニークウェポンなのかもしれないが、UNKNOWNが所有する聖剣ほどではないはずだ。損害として切り捨てる計算ができないエドガーではない。手駒に対する温情とも考え難く、危ういと承知した上でベクターは踏み込むことにした。

 

「失礼ながら、どうしてエドガー殿はそこまで? いや、もちろん、エドガー殿の良心にケチをつけているわけではありません。しかし、何故そこまで?」

 

「無論、我が信仰の為。『間違いを正す』ことこそ神託なれば、このエドガーは身命を賭して為し遂げましょう。それこそが信仰に殉じるということです」

 

 また始まった。エドガーは理知的かつ狡猾であり、取引や交渉のいろはを心得てこそいるが、唯一の例外として信仰心が絡むと途端に狂人としての顔が露になる。

 これだから宗教とは度し難いのだ。神も仏も信じないベクターには縁遠い世界である。だが、理解できずとも付き合わねばならないのもまた世の中であるとも納得している。

 

「分かりました。私もエドガー神父ほどではありませんが、『善人』でありたいと望んでいます。ノーチラスの『保護』はお任せください」

 

「おお、感謝します! ベクター殿にも灰より出でる大火の恩寵があらんことを」

 

「それで、最後の1つは? ご遠慮なさらずに」

 

「……このエドガー、実は既に黒幕の手がかりを掴んでおります。件の2名の殺害の実行犯を捕らえて得た証言です。『自決』されてしまい、引き渡せないことは残念ではありますが。アンサラーの開発などという人道に反する大罪人の粛清ともなれば、実力行使も不可欠のはず。ですが、クラウドアースとしては、ラストサンクチュアリ壊滅作戦を控えて実働部隊を動かして内輪揉めは避けたいはず。そこで、教会をお使いいただきたい。もちろん、黒幕は生かして捕らえます。ですが、窮鼠猫を噛むと申します。手足はもいでおかなければ、ベクター殿も落ち着いて断罪もできますまい」

 

 エドガーは厳しい表情で資料を手渡し、ベクターは内容を拝見する。

 断片的な情報であるが、ベクターは今回の機密漏洩の黒幕に見当をつける。政敵である【ウィーン・ベラ】だろう。先の議長選において、ベクターに次いで票を集めているやり手の女だ。

 DBOでも5本指に入る財力を持ち、また独自開催のお茶会で絶大な人脈を有していながら、成金趣味の無能であり、だがトップになりたいという野心も無いという、扱いも評価も難しいマダム・リップスワンに嫌われてさえいなければ、得票でエドガーを上回っていてもおかしくなかった政敵だ。

 クラウドアースのトップを争う政敵として嫌ってはいたが、有能な人物ではあると評価していた。だが、今回の件でベクターは評価を改める。

 

(ウィーン・ベラは親聖剣騎士団派の筆頭。なるほど。今回の機密漏洩の背後には聖剣騎士団の入れ知恵があったと見るべきか。このタイミング……狙われたな。まったく、愚かな女だ。今はクラウドアースの強化の為に注力せねばならない時だと分からないはずもないだろうに)

 

 どうにもおかしいとは思っていた。聖剣騎士団だけがUNKNOWNの派遣だけに留めていたのは、今回の事件の真の黒幕だったからだ。無論、証拠はなく、今後はどう足掻いても信憑性を得られないと白を切られる証言以外は出てこないだろう。

 UNKNOWNの派遣はブラフ。最初からノーチラスが機密を有していないと把握していた。【聖剣の英雄】を派遣したという事実で、ノーチラスが機密を有しているという信憑性を高めた。そうする事によって、真の機密漏洩者から目を背けさせたのだ。

 いかなる展開になろうと聖剣騎士団の盤上だ。2人の実行犯に『善意』さえなければ、エドガーに鬼札が舞い込んでベクターに直接交渉を持ち掛けなければ、クラウドアースも太陽の狩猟団も見事に踊らされたまま、聖剣騎士団の完全勝利となっていただろう。

 そうなると、太陽の狩猟団の手に1度捕らわれたノーチラスの脱走を援護した爆撃もまた、聖剣騎士団によるものであるかもしれない。何処までが真実なのかは後ほどの調査である程度までは追えるだろう。

 

(ウィーン・ベラはエリートプレイヤー制度にも否定的立場だ。ノーチラスは元エリートプレイヤー候補生。批判材料としても利用できる。フン、ゴミにはゴミなりの利用法か。リサイクル精神には敬意を表してやる)

 

 もちろん、この断片的な情報もまたエドガーにつかまされたブラフである事も捨てきれない。だが、元より第1の要求の為にスケープゴートを準備しなければならなかったのだ。ウィーン・ベラにはここで消えてもらうとしよう、とベクターは内心でほくそ笑む。

 これで全貌は見えてきた。ベクターは最後にエドガーが率先して黒幕の排除に動く理由を問えば、彼は怒りを刻んだ眉間を隠すように『にっこり』と笑う。

 

「『守れなかった』。ただそれだけのことです。傍にいたのに、命を救うことはできずに、死を看取ることしかできなかった。ですが、彼らの死神は怒りも悲しみも……憎しみすらも抱かないことでしょう。ならばこそ、代行者にして人間たるこのエドガーは、全力の報復を誓いましょう」

 

「……なるほど」

 

「できれば、すぐにでも。黒幕も機密の獲得に失敗して隠蔽工作に入ったはず。この機会を逃すわけにはいきますまい」

 

「ええ。ですが、まずは裏付けを。せめて1日は……」

 

「ベクター殿! もはや悠長に待ってはいられません! このエドガーの怒り、舐めないでいただきたい!」

 

「……承知しました。黒幕はほぼウィーン・ベラで間違いありません。では、教会には彼女の手の者、子飼いの暗部の拠点を潰していただきたい。彼女の屋敷は我々で包囲を。すぐに議員を招集します」

 

「感謝します」

 

 やはり宗教家とは度し難い。理性と感情の狭間で物を語ることが多過ぎる。ベクターはやはり自分には無縁なものだと割り切る一方で、ここまで情熱と人生を注げる神とはどのようなものなのだろうかとも興味を持った。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 怒り。そう、怒りだ。終わりつつある街に設けられたクラウドアースの支部を立ち去ったエドガーは、足早に合流地点へと向かう。

 まるで何事も無かったように、終わりつつある街は静かだ。エドガーは喫茶店で待っていた、ピンクのレディーススーツを纏った黒髪の女……【渡り鳥】のマネージャーであるグリセルダに会釈する。

 

「ベクター殿の了承は得ました。グリセルダ殿、此度はご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 

「ええ、まったくよ。『教会の仕事』であの子を使ってくれるのは嬉しいけど、まずはサインズと私を通してもらえるかしら? 分かってるの? あの子、明日の朝からフロンティア・フィールドの探索依頼なのよ」

 

 この数日間、行方不明だった【渡り鳥】の捜索に奔走していたというグリセルダは、怒りを隠しもせず、だが微かな安堵の吐息と共にエドガーを責める。

 無論、これはエドガーの虚言である。エドガーが【渡り鳥】からクラウドアース……いや、ベクターと直接交渉してエイジの冤罪を晴らしてもらいたいと頼まれたのは数時間前の話である。

 

『1つ教えていただきたい。このエドガーを信じてくれるのは嬉しいですが、教会の為だけに利用し、エイジ殿を見捨てるとは考えないのですか? このエドガーが【渡り鳥】殿の信用を裏切るとは思わないのですか?』

 

 アンサラー程の機密があれば、教会はどれだけの譲歩をベクターから引き出せるか分からない。エイジの無罪放免という、教会の益にもならない事の為に【渡り鳥】との約束を守らないこともあり得るのだ。

 

『彼らが望んだ「間違いを正す」を為し遂げたい。だから、エドガーに託します』

 

 2人の遺体と共に、彼らの血で赤く染まった【渡り鳥】は、聖壇の前に横たわるリゼットという女性の遺体の前に跪き、血と泥で汚れた彼女の額を自身の手で拭いながら微笑む。

 

『アナタが「善人」であるとオレは信じたいんです。たとえ、1人の悪人で99人の善人が染まってしまう世界だとしても、それでも己の「善」に殉じるアナタを信じたい。教会の為に利用するのは構いません。オレはアナタを信じます。彼らがオレなら間違いを正してくれるはずだと信じてくれたように……』

 

 正しく絶頂した。これぞ神託であるとエドガーは歓喜した。

 そして、同時に耐え難い怒りを覚えた。

 どうしてだ? どうして、そんなにも今にも泣きだしそうな程なのに、だが涙を零せないことを苦しむように、儚くも優しい寂しげな顔をしているのだ?

 許せない。己の不徳が許せない。エドガーは拳を握り、気づくのがあともう少し早ければ、と悔やむ。

 数時間前、地下礼拝堂での祈りを終えたエドガーは、すっかり精神が好調したチョコラテにマキとデートすることになったという惚気を聞きながら、同時に【渡り鳥】に似た白い幼子の話を聞いて訪問日の監視カメラの映像を全てチェックした。

 そして、絶望した。エドガーには分かった。信仰心によって理解した。今は亡きリゼットが【渡り鳥】を連れて自分を訪問した事実を掴んだ。

 何が【渡り鳥】の身に起こったのかは定かではない。だが、最上の神託がすぐそこにあったのだ。

 あの時、神託を正しく自分が賜っていれば! エドガーは悔やみ、彼らは死してなお【渡り鳥】に愛されていることに嫉妬にも似た敬意を抱き、そして聖女にこのような顔をさせた悪徳への報復を誓う。

 

『このエドガーにお任せください。我が信仰に誓い、必ずや!』

 

『ありがとうございます』

 

 立ち上がった血塗れの【渡り鳥】とは対照的に、まるで神に心身全てを捧げるように跪いたエドガーは右手を差し出す。それを必然とばかりに、なんら迷いなく【渡り鳥】は手に取って微笑んだ。慈愛の笑みにエドガーは2度目の絶頂に至った。

 だからこそ、この怒りの所在を求める。彼らの死を悼み、だが怒りもなく、悲しみもなく、憎しみすらもなく、故に涙を流せぬと苦悩する我が聖女の代行を為さねばならない。

 

『【渡り鳥】殿にはこのまま待機をお願いしたい。彼らを亡き者にした黒幕に神罰を下す為に!』

 

『神罰……ですか。過ぎた大義ですね。ですが、オレはアナタに願った以上は、相応の対価を支払うべきなのでしょうね。分かりました』

 

 そして、現在に至る。エドガーは不機嫌なグリセルダに、でっち上げた物語を聞かせて、今回の件の黒幕の排除を正式に依頼した。

 人工妖精を使った通信機を取り出したグリセルダは、今にも手元の珈琲をエドガーの顔面にぶちまけそうな形相である。

 

「クラウドアースの機密争奪戦……その裏側ね。あの子は本当に何かと厄介事に『巻き込まれる』タイプなのよね。ああ見えて、自分から首を突っ込むことは少ないのよ?」

 

「ええ、存じております。ですが、このエドガーにも信用できる外部の人物といえば、【渡り鳥】殿しかおらず……」

 

「もういいわ。『そういう事』にしておいてあげる」

 

 何処までグリセルダは騙されたのか。あるいは全くのフリをしているだけなのか。エドガーは今回のベクターとの交渉で得られた報酬から【渡り鳥】の正規雇用の支払いを差し引いても、教会幹部を黙らせるには十分過ぎる利益であると冷徹に計算する。組織である以上、エドガーも信仰心を理由にしてワガママを通しきるにも限度がある。特に今回はクラウドアース内の揉め事に首を突っ込むのだ。相応の批判はあって然るべきだ。

 

「ところで、グリセルダ殿」

 

「何かしら?」

 

「今宵の月……何か『異常』を感じたことはありましたか?」

 

「酔ってるの? いつもと同じ普通の月よ。仮想世界の月は、現実世界よりも大きくて見栄えが良い点を考慮しなければ、私がよく知る月そのものね」

 

 やはりか。エドガーは別れ際に【渡り鳥】が残した奇妙な問いを胸の内で反芻させる。

 

 

『今夜の月は……何色でしたか?』

 

 

 

 あの質問の意味は何だったのか? エドガーはまだまだ信仰心が足りないと嘆息した。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 俺達は見捨てられたのか? 終わりつつある街の外縁部にある半壊した防衛用の砦跡地の地下にて、チャックマンは自分の上司でもあるウィーン・ベラからの連絡が来ないことに焦りを禁じえなかった。

 リゼットとモンスーンの始末を任せた部下たちも遺体で発見され、機密を持っているだろう子どもの確保を命じた部下たちも惨殺された。

 あのクズ2人が機密を盗み出し、ゴミに罪をなすりつけた時点で作戦の9割は成功したも同然だった。

 だが、『何か』によって歯車が狂い始めた。ベクターを弾劾したウィーン・ベラによって、聖剣騎士団のバックアップを借りながらクラウドアースを掌握するという計画に綻びが生じ始めた。

 

「クソ! これからって時に……!」

 

 やっと日陰者から表舞台に出られるのだ! チャックマンは部下たちの前であることを考慮せず、空の酒瓶を壁に叩きつけて割り砕く。

 たった1つのミスだった。近接アタッカーだったチャックマンは、たった1つのミスでパーティの要でもあったヒーラーを死亡させてしまった。

 ダンジョンで突如として天井からスライム系モンスターの強襲。全身を呑み込まれ、低STRのヒーラーが拘束状態になったならば、早急に救出しなければならない。

 ヒーラーの有無はパーティの生存率と今後に関与する。最も近くにいたチャックマンに救出は委ねられた。

 だが、チャックマンは動けなかった。自分もまたモンスターと交戦中であり、またHPも半分まで減っていた。このまま敵に背中を向けてヒーラーを助けにいけば、自分が死んでしまうのではないかという恐怖心があった。

 誰だって我が身が大事だ。チャックマンは助けを求めるヒーラーの悲鳴を背中で聞きながら、自分の生存を優先した。

 その後、チャックマンは人殺しとしてパーティから追放された。

 お前たちだって動けなかったくせに。俺以外も助けに行けたはずなのに、責任だけ押し付けやがって。チャックマンは『元仲間』である、今は自分のペットになっている、檻の中の2人の自我無き狂戦士に笑いかける。

 あれから随分と時間が経った。腕を買われてクラウドアースの暗部……ウィーン・ベラの私兵となって暗躍した。

 今回の件でウィーン・ベラがクラウドアースを掌握すれば、チャックマンは攻略部隊に加えられることが約束されている。血と謀略に満ちた裏仕事から、称賛と名誉が得られる日向の住人になれるのだ。

 だが、チャックマンはリゼット達へと語ったことを思い出す。

 ゴミはゴミ箱へ。ウィーン・ベラからすれば、チャックマンは裏仕事に従事し過ぎた、汚れて白い部分が残っていない雑巾と同じなのではないだろうか、と。

 いや、そんなはずがない! 俺は有能な人材だ! あんなゴミ共とは違う! チャックマンは引き攣る頬を撫でながら、連絡を待ち続ける。

 

「り、リーダー……」

 

 そして、『訪問者』は現れた。地下と地上を繋ぐ階段の暗がりで、部下が壁に体を預けながら姿を現す。

 次にチャックマンが目にしたのは『赤』だった。頭部から股にかけて斬り裂かれ、血と臓物を散らして階段を転げ落ちる部下の恐怖で歪み切った亡骸だった。

 裏の世界にいれば、嫌でもその名を恐怖と悪名と共に繰り返し聞くことになる。

 警告は1つ。『出会ったならば、待つのは「死」のみ』であり、事実上の死刑宣告。

 味方であろうとも警戒を怠ってはならない。全てを焼き尽くす暴力は誰にも真の意味で御すことはできない。

 破滅をもたらす災厄の兆しであり、死神という表現すらも生温い、白き死天使。

 

「こんばんは」

 

 地下で燃ゆるランプの火だけが、その美しくも愛らしい『純白』のおぞましい殺戮の牙を照らす。

 

「わ、【渡り鳥】!?」

 

 部下の1人がアサルトライフルを構える。だが、その瞬間には階段にいたはずの【渡り鳥】の姿が『消える』。

 いいや、違う! 反応できたのはチャックマンのみ。およそ尋常ではない、DEX特化でも稀に見る超スピードと隠密ボーナスの増加、そして【渡り鳥】が得意とするフォーカスロック外しの合わせ技によって目で追いきれなかっただけだ! 移動の名残のように揺らめく血霧のようなエフェクトだけがチャックマン以外に【渡り鳥】の居場所を教えた時には遅い。

 抜刀。繰り出されたのは更新された情報にあった血刃斬撃。刀身以上の間合いを支配する血刃居合は、ギリギリで躱したチャックマンを除いた部下全員に直撃……内の1人は首に命中して一撃即死に至る。

 これがカタナの威力か!? 確かにカタナはその軽量性に反した火力の高さが特徴ではあるが、この攻撃範囲でこの威力は尋常ではない。

 チャックマンの得物は大曲剣だ。装備画面を開く間に、またしても姿が消えたかに思えば、部下の1人の心臓を刺し貫いた【渡り鳥】は、その遺体を投げて斧で近接戦を仕掛けた部下と衝突させて体勢を崩させる。

 あのカタナの刀身は何だ? 振るわれた瞬間に見え難くなる。大曲剣を装備した時には、8人いた部下は3人まで減っており、チャックマンは唇を噛んで恐怖を堪える。

 

『臆病者』

 

 ああ、そうだ。それの何が悪い? ヒーラーの最期の一言を思い出し、チャックマンは恐怖のままに戦うよりも逃げることを選ぶ。部下たち3人は囲んで数の暴力に持ち込もうとしているが、【渡り鳥】はまるで意に介さない。3人の同時攻撃をカタナ1本で凌ぐ。まるで全ての攻撃の軌道とタイミングを未来予知しているかのように、舞うように、可憐と呼べるほどに受け流す。3人全員が体勢を整えようとした時には遅く、剣風が彼らの体を刻み尽くす。

 この剣速はなんだ!? チャックマンは階段まで逃げることもできずに、20秒と待たずして全滅した部下の骸に足が震える。

 UNKNOWNの戦闘録画は見たことがある。あれぞ剣聖と呼ぶに相応しい、剣を扱う者ならば憧憬と嫉妬を覚えずにはいられない剣速で繰り出される剣技には、チャックマンすらも心を震わせた。

 だが、【渡り鳥】の刃はまるで違う。剣速はUNKNOWNに匹敵するかそれ以上だ。武器の能力によって振られた瞬間に見え難くなっていることが拍車をかけているが、本質的にまるで異なる。

 だが、そこには憧れも、妬みも抱かない。そんな甘い幻想は許されない、何もかも喰らい尽くすバケモノの爪牙だと思い知らされる。見る者を恐怖だけで満たす怪物の顎を幻視したチャックマンは、自分がいつの間にか壁際まで後退っていることに絶望する。

 これが現実の肉体ならば失禁していただろう。チャックマンは武器を手放して降伏しようとして、だが【渡り鳥】の背後が『ペット』の檻であることに気づく。

 俺は生きる。生き残るんだ! 最後の希望だとばかりに【渡り鳥】に避けられることを前提にして大曲剣を投げる。予想通りに軽々と躱されるが、大曲剣は檻の鍵を壊す。

 

「殺せ!」

 

 主の命令によって、自我を失った2人の近接戦士は、ケダモノのように斧を構えて襲い掛かろうとして、だが動きを止める。

 麻薬アイテム漬けで自我を奪い、『丸薬』によって凶暴性を増幅されたかつての仲間たちだった人造狂戦士は、【渡り鳥】を前にして恐怖の表情で平伏す。

 

 

 

 食物連鎖の頂点に立つ絶対強者に媚びへつらって生存を望むのは、弱者のあるべき姿なのだとチャックマンに教える。

 

 

 

 哀れみか、あるいはそれ以外の感情か。【渡り鳥】は人造狂戦士の降伏を受け入れる。

 

「それだけですか? 他にあるならば、出し惜しみしないでください。さぁ、殺し合いましょう」

 

 微笑みかかえる【渡り鳥】に、チャックマンは絶望に底などないと理解した。先の攻撃は『わざと避けてくれた』のだ。そうすることで、チャックマンに反撃の手段を与えたのだ。だが、それは【渡り鳥】のお眼鏡にかなわず、追加を要求される。

 

「1つだけ教えてください」

 

「……は?」

 

「アナタの部下から話は聞きました。最初からリゼットさん達を殺害するのは計画内だったと。それ自体は『どうでもいい』んです。大事なのは、彼らは……誠意を込めて、命懸けでアナタに頼んだはずです。それに対して、アナタはどう思ったんですか? 教えてください」

 

 カタナが壁に突き立てられ、まるでプリンのように斬られてチャックマンの首に近づいていく。

 何の話だ!? どうしてクズ共の話に飛ぶんだ!? 混乱するチャックマンは、だがこのチャンスを逃さないと生唾を飲む。

 

「か、可哀想だとは思った! でも、仕方ないじゃないか! 俺も仕事なんだ! ボスの命令には背けない!」

 

「……真実ですか?」

 

「もちろんだ!」

 

 嘘だ。心の底から馬鹿な奴らだと嘲った。最初から死ぬのは決まっていたのに、クズのくせに似たり寄ったりのゴミの為に命懸けで嘆願など嗤いを堪えるのに苦労した。

 だが、これで自分の命が救われる確率が上がるならば、幾らでも嘘を吐こう。チャックマンの涙ながらの告白に、【渡り鳥】はカタナを鞘に収める。

 助かった。そう思われた時、【渡り鳥】は平伏す狂戦士たちに向き直ると踵を鳴らす。

 

「好きにしろ」

 

「ハイ!」

 

「ヨロコンデ、ワレラノオウ!」

 

 これは何だ? チャックマンは自分に襲い掛かる人造狂戦士に、かつての仲間に体を押さえつけられ、生きたまま肉を食い千切られていく。

 

「ぎぃああああああああああああ!?」

 

 指を、耳を、生殖器を喰らわれる。振り下ろされた斧が腹を裂いて臓物を引き摺りだされる。悲鳴はすぐに食い千切られた喉から漏れる空気音に変じた。

 生きたまま貪り食われる苦痛。チャックマンが彼らに何度も与えた『餌』の末路と同じだ。こうして食わせる度に彼らは強くなっていった。これが『丸薬』の効果なのだとバイヤーからは聞かされて愉悦に浸った。

 

 殺して。

 

 殺して。

 

 殺してくれ!

 

 1秒でも早くHPがゼロになることを望むチャックマンに、【渡り鳥】は振り返る。

 そこには慈悲の微笑みがある。チャックマンは何故か自然とそう期待して、そして慄いた。

 

 

 

 

 無表情。あるとするならば軽蔑のみ。そして、先程までの愛らしい中性美の結晶のような容貌は、造形そのものは何1つと変わっていないはずなのに、男性的な冷徹で鋭利な美貌として映し込まれる。

 

 

 

 

 カタナの代わりに【渡り鳥】が抜いて左手に構えるのは、異形の武器。銃器の類なのか、まるで竜が顎を開くように、合体していた2本の先端が鋭いレールは分かれ、その間で『紫雷』を迸らせる。

 

「レギオンは殺す。1匹残らず殺す」

 

 紫雷が収束されていく、雷鳴とも竜の咆哮とも取れる轟音の中で、【渡り鳥】は静かに呟く。

 

「夜明けを阻む『獣』も殺す。邪魔するならば『人』も殺す。『鬼』だろうと何だろうと殺す。神様だって殺してやる。オレは喰らった全ての命に報いる為にも、必ず狩りを全うする」

 

 ああ、これが死か。チャックマンは生きたまま喰われる以上の恐怖を覚える。死にたくないと切望する。

 助けて。声にならずともチャックマンは手を伸ばして訴えれば、【渡り鳥】は薄笑いを浮かべる。慈悲も慈愛も無い笑みだった。

 

「オマエの『命』は愛してる。だが、『オマエ』を愛しなどしない。その『命』を循環に還し、『オマエ』はここで滅びるがいい」

 

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ! チャックマンは懇願するも、声にならぬ悲鳴など聞こえないとばかりに、【渡り鳥】は愉悦にも似た笑みを浮かべている。

 

「もう1度だけ問おう。オマエは彼らの命懸けの願いをどう思った?」

 

 今度こそ真実を語ろう。こんな死に方は嫌だ! チャックマンが残された生命の全てを注ぎ込んで、たとえ声にならずとも叫ぼうとして、だが人工狂戦士が顎に喰らい付いて邪魔される。

 そして、凝縮された紫雷は白光へと変じ、滅びの時は訪れた。

 

 

 

 

「咆えろ、ミディール」

 

 

 

 

 放たれた白光が極限の破壊力を秘めた闇属性であることをチャックマンが知ることはない。

 彼の肉体は人工狂戦士諸共欠片も残さず消し飛び、その背後の壁を突き抜けて地下に穴を穿ち、続いて白光が通り過ぎた地面に残留したエネルギーが炸裂して大爆発を引き起こす。およそ対人ではオーバーキルに相当するだろう、行き過ぎた破壊力は地下空間ということもあり、竜が足踏みしたかのような、地震にも似た振動を周囲にもたらす。

 

「ごめんね、リゼットさん、モンスーンさん。オレ……復讐すら出来ないみたいだ。何も感じない。怒りも、悲しみも、憎しみも、仇を討った達成感すらも……感じないんだ。あるのは、いつもと同じ……飢餓だけで……それで……!」

 

 

 煙を上げるミディールと呼ばれた異形の火器を下げた【渡り鳥】は右手で顔を覆って自嘲する。それは血に飢えた獣がご馳走を前にした歓喜の咆哮にも似て、だが絶えぬ渇きに抗おうとする悲鳴のようでもあった。

 今にも崩落しそうな地下空間で【渡り鳥】は瞼を閉ざし、次に眼が開かれた時には、いつもと変わらぬ美しくも可愛らしい中性美の顔で呟く。 

 

「祈りもなく、呪いもなく、安らかに眠れ」

 

 その弔いの言葉をチャックマンが聞くことは、もちろん無かった。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 目覚めた『名無し』は、何の因果か、まだ顔に装着されたままの仮面に唸る。

 

「おはようございます」

 

「お、おはよう」

 

 シリカの膝枕からゆっくりと頭を持ち上げた『名無し』は、すっかり修復された地下駐車場の隅にて、片翼を失って包帯を撒かれたピナを横目に、ゆっくりと記憶を掘り返す。

 最後に憶えているのは、心意を注ぎ込んだ月蝕の聖剣でモルドレッドの聖剣を迎撃したところまでだ。その後は光が溢れ、背後のシリカを守ろうとして、そこで記憶は途切れている。

 

「結論を述べるならば、あれだけ格好つけておいて、ボロ負けです」

 

「うわぁああああああああああああ!?」

 

 頭を両手で構えて、叫んで転げ回る『名無し』に、髪留めが千切れて肩甲骨まで伸びた髪を垂らすシリカはいっそ罵倒してくれた方が楽だと思うほどに無感情の表情である。断じて無表情ではなく、感情を殺しきった顔というのがポイントである、と『名無し』は強く念を押したかった。

 

「俺、もしかして最高に格好悪い?」

 

「はい!」

 

 そして、シリカの笑顔のカウンターで『名無し』はノックダウンする。

 数々の負の歴史を持つ『名無し』であるが、これはその中でも恥辱編ランキングのトップ3争いに食い込むものだ。

 モルドレッドに啖呵を切って、相手が少しだけ本気を出せば負けて気絶し、目覚めたら守ろうとした女の子の膝枕だ。もはや自殺してもおかしくない恥であると『名無し』は泣き叫びそうになる。

 

「でも、それは客観的視点の評価であって、私の主観ではとってもカッコイイって思いました……よ?」

 

「……どうして目を背けるんだ」

 

「ごめんなさい。51パーセントくらいはカッコイイと思ってるんですけど、49パーセントくらいは本当にダサ過ぎてどうしようかって――」

 

「OK、もうこの話は止めよう」

 

 そして、2人は向き合って、どちらともなく笑い合った。

 

「まぁ、俺の場合は今に始まったことじゃないしな」

 

「それを言ったら、私なんてどうなるんですか? 今回なんて、ほぼ役立たずじゃないですか」

 

「いやいや、シリカのお陰でモルドレッドの秘密を暴けたわけだし、あのままだと手も足も出ないまま負けていたよ」

 

「だったら、もっと誇りましょう。『あのモルドレッドの本気をちょっぴりだけ引き出した』って」

 

「うわぁ、評価のハードル低すぎないか?」

 

「私は好きになった人を甘やかすだけ甘やかす主義なんです♪ それくらい、もう分かってますよね?」

 

 シリカが治療してくれたお陰か、HPはフルで回復しており、修復しきっていない体の節々は止血包帯が巻かれている。1番の重傷はピナであり、翼の再生にはまだ時間がかかるようだった。

 気絶していた『名無し』を待っていたかのように、地面に突き立った月蝕の聖剣の優しい共鳴音が耳を擽る。

 姿形は『名無し』がかつて鉄の城で振るっていたエリュシデータとほぼ同じだ。ただし、刀身は白銀であり、また記憶にあるよりも些か細身だ。だが、それは月蝕の刃を纏う事が前提だからである。引き抜いて振るい、月蝕を纏わせれば、より濃い漆黒のクリスタルのような刃が白銀の刀身を核として覆う。そうなれば、在りし日のエリュシデータとほぼ同じである。ただし、重さだけはまるで違い、『名無し』のSTRでも思わず唸るものがあった。

 元より火力と耐久優先で重量型片手剣上等の『名無し』にとっては理想的であるが、この重さを完全に操るのは骨が折れそうだと苦笑する。

 

 

 

 

 

 大丈夫、あなたならきっと使いこなせるはず。この重さは貴方の魂の叫びの重さでもあるのだから。そう励ましてくれるのは、月蝕の聖剣の優しき月明かり無き黒の音色。

 

 

 は? お前、モルドレッドにボロ負けたくせに、まだ所有し続けるとかどれだけ恥知らずなの? いい加減に死んで詫びれば? そう嬉々と罵倒するのは、月光の聖剣の今は隠した月明かりの音色。

 

 

 

 

 

 ……オリジナルと贋作、どうしてここまで差がつくのだろうか? まさかの聖剣2つの声を聴き、『名無し』は思案する。

 モルドレッドの聖剣にも意識があるようだった。それは月明かりの奔流の中で追体験したモルドレッドの人生からも明らかだ。あれはモルドレッドの聖剣が『名無し』に問答する為に見せたものだ。

 親子関係なのかもしれない。オリジナルの月光の聖剣から分化した各々の唯一無二の贋作の聖剣。それならば納得もいく。この聖剣の場合、言うなれば親子が同じ家で同居しているようなものなのだろう。あくまで本体はオリジナルであるが、こうして姿形と性質は『名無し』の聖剣である月蝕に合わせてあるのだ。

 使い手にもよるのかもしれないが、聖剣の意識に気づくことは使いこなす最初の1歩なのだろう。

 モルドレッドの本当の怒りの理由であり、ランスロットが指摘した『真実』こそ、『名無し』自身がずっと見ようともしなかった己の聖剣……月蝕の聖剣だったのだ。

 そりゃキレられるし、阿呆呼ばわりされるわけだ。深淵狩りにとって、どれだけ聖剣が重要なものなのか、モルドレッドの記憶で味わった『名無し』は痛感する。

 

「でも、モルドレッドはやっぱりプレイヤーじゃないですよね?」

 

「DBOでは何が起こってもおかしくない……けど、あれはさすがに違うよ。プレイヤーはあそこまでぶっ飛んだ域に達せない」

 

「巨大ロボットよろしく、竜の神で大怪獣バトルしたのは何処の誰ですか?」

 

「それを言われると困るけど、やっぱりプレイヤーじゃないはずだ」

 

『名無し』の月蝕の聖剣の最上級攻撃……月蝕の滅刃は、単純な威力だけではなく、傷口周囲の骨肉を引き摺りこみ、アバターを強制崩壊させるものだ。言うなれば、防御力無しの大ダメージ確定攻撃である。たとえ耐え抜いても、アバター損壊に比例した流血のスリップダメージは甚大なものになるだろう。

 だが、モルドレッドは直撃を受けても失ったHPはたったの3割だ。高VITとか高防御力の次元ではない。純粋に耐久面がプレイヤーの域を軽く突破して成層圏まで突き抜けているのだ。

 ネームド、あるいは相当するNPCがプレイヤーカーソルに偽装されていると見るべきだろう。元々のモルドレッドのスペックが高過ぎた為に、最大威力の月蝕の滅刃を受けても余裕で耐え抜かれたのだ。

 いや、それは言い訳だ。『名無し』は純粋に実力差があった事実を直視する。聖剣を使いこなしていたモルドレッドの方が上だった。それだけの話である。

 アノールロンド相手に単身で戦争を成立させた男は伊達ではない。モルドレッドは純粋な剣士としての実力も、ランスロットやガウェインにこそ及ばなかったようだが、間違いなく超一流である。体験したモルドレッドの記憶の中では敢えて曖昧にされていたようであるが、彼の本気はあの程度のものではない。己の聖剣の性質を極限まで活かす、深淵狩りの剣技をベースにした武技こそがモルドレッドの真骨頂である。

 モルドレッドは態度に反して理性的であり、また慈悲深かった。月蝕の聖剣を蔑ろにした『名無し』はともかく、しっかりと向き合ったあとはこうして生かしてくれた。これがランスロット相手ならば、気絶している間に間違いなく首と胴が泣き別れになっていたはずだ。モルドレッドのそれを甘さと優しさ、どちらで呼ぶかは人によるのだろう。

 

(いつかリベンジだ。今度こそ本気を出させてみせる。勝ってみせる)

 

 DBOが生きるか死ぬかの殺し合いの世界なのかは分かっている。不謹慎であると重々承知の上で、『名無し』は湧き上がる感情を我慢できなかった。世の中にはもっと強い奴がいる。負けたことが悔しくて堪らないと同時に、この高揚感こそが武を志す者の醍醐味であり、逃れられない性質というものなのだろう。【聖剣の英雄】という称号の呪縛を殴り捨てたお陰か、彼本来の子どもっぽさが露になったように仮面に隠された口元は笑みを我慢できなかった。

 馬鹿なガキのままではいられない。だが、責任を背負う大人であろうと振る舞い続けて自縄自縛になった挙句に周囲を巻き込んで自滅するのは、それ以上に馬鹿で愚かなことだ。何を選んでも愚か者と嗤われるならば、魂の叫びに従おう。望んだままに救い、助け、守ろう。身勝手に、万能なヒーローには程遠く、それでも自分の選んだ道だと誇って進もう。

 

「そろそろ出発しよう。早くこのイベントも終わらせないとな」

 

「そうですね。でも、どうして警戒値が消えたんでしょう? まさか、もうイベントがクリアされたとか……」

 

「いや、さすがにクリアされたなら参加者にリザルト画面が表示されるだろうし、見落としてもログに残るはずだ。そうなると、やっぱりここだけ警戒対象外ってことなんだろうな」

 

 警備用ドローンなどはいても、ここはイベント範囲外だ。単にプレイヤーの休憩エリアとも考えられるが、あの後継者がそんな慈悲を与えるとは思えない。ならば、やはり仮説は当たりなのだろうと『名無し』は確信する。

 スペアの【騎士ガロンの鋼剣】を装備し、『名無し』は再び≪二刀流≫の条件を満たす。高難度イベントの1つ、騎士ガロンとの一騎打ちに勝利して報酬で得られる片手剣である。馬上試合であり、『名無し』は馬を上手く操り切れず、結局は馬を足場にして一直線に飛びかかって騎士ガロンを攻撃して落馬させ、先に地面に背中を付けさせることでクリアした。

 

「『アレ』さえ持ってきていれば、モルドレッドにも……」

 

「意表を突けても結果は変わらなかったさ。それどころか、下手をせずとも破壊されていたかもな。そう考えたらラッキーだよ」

 

 だけど、次からはいかなる理由があろうとも本気装備で挑もう。ユージーンとの決戦までの隠匿の為だったとはいえ、『アレ』を持ってこなかったのは『名無し』の落ち度であり、ノーチラスを軽く見ていたという戦士としての不敬だ。あの傲慢不遜を絵に描いたようなユージーンでさえ、本気装備の愛剣を持ってきていたのだ。

 今ならば分かる。NPCの少女の為に、死を恐れずに己の喉を裂いてでも『戦う』ことを選んだ彼の『覚悟』をちゃんと本当の意味で理解できる。

 いつだってそうだったはずだ。『覚悟』があるからといって絶対的な『力』の差は覆らない。それが真実だった。

 だが、『それでも』と繰り返す。そうして『名無し』も強くなってきたはずだ。だからこそ、彼は差し出された多くの人の手を掴んで立ち上がって来れたはずだ。

 

(ノーチラス、キミと話がしたい。ちゃんと向き合って、どうしてあんなにも必死だったのか聞きたい)

 

 本当に冤罪だったのかもしれない。そして、彼は実力が足りぬ湖獣に挑まねばならない理由があったのだ。このイベントに彼の目的がきっと隠されているのだ。そのカギを握るのはあのNPCの少女に違いない。

 だが、同時にタイムリミットもある。ユージーンからのメールは2通も届いていた。ノーチラスの確保、次いで逃走について綴られている。謎の妨害もあったようだが、アラクネ傭兵団とユージーンから逃げきるのは予想外だった。これでは彼から事情も聞けず、また『最悪の事態』もあり得る。

 急がねばならない。『名無し』はシリカを伴って地下駐車場の探索に入る。モルドレッドとの戦闘の破壊跡は自動修復によって元通りになっているが、破壊されたトラックはまだ不十分であり、彼の聖剣の破壊力を物語る。

 

「な、なんか落ち着かないです」

 

「うーん、俺も見慣れていないせいで不自然に感じるけど、悪くないよ」

 

「そうですか? どうしようかな。このままイメチェンするのも……」

 

 予備の髪留めを持ってきていないらしいシリカは、解けた髪を撫でながら照れる。普段とは違って大人っぽく感じるせいか、やや紅潮した彼女の顔を見ていられず、『名無し』は探索に専念するように自分に言い聞かせた。

 そもそもとして、シリカは納得しているとはいえ、俺達の関係で至って不健全だよな? モルドレッドとの戦いで聞いた彼女の魂の叫びを脳裏で反芻し、『名無し』は『さすがに男としてどうよ?』と自問する。

 アスナは死んだ。それは受け入れている一方で、今も彼女が心を占領しているのもまた事実だ。だが、ずっとこのまま自分に縛られ続けて『名無し』が生きることをアスナは望むかと言えば、彼女ならば絶対に首を横に振るだろうとも断言できる。

 だからといって、シリカに今の状態で応えるのもまた、彼女の魂の叫びに対する冒涜でもある。『名無し』は場違いと分かっていても、今ここで悩まずしてどうするとばかりに唸る。

 

「気にしないでください」

 

 そして、助け船……というよりは、『名無し』の悩みを馬鹿々々しいとばかりに鼻で嗤う勢いで一刀両断するのは他でもないシリカだった。

 

「私が歪んでいるのは今更ですし、どれだけ周囲に指差されようとも、私の生き方と愛し方は変わりませんよ? むしろ、ここで私に愛を囁くような真似をしたら、背中から刺します♪」

 

「……りょ、了解」

 

 短剣を握って最高の笑みを浮かべるシリカに、彼女の肩で休むピナと一緒になって『名無し』は震えた。やはり女は怖い、と改めて思い知った。

 

「でも、新しい恋をして、本気で愛したいって思ってくれたのが私なら、それはそれで悪くないですけどね」

 

「…………」

 

「別にプレッシャーはかけていませんよ♪ 私は自分の胸中を隠さず吐露しているだけです。選んだ相手が私でも、シノンさんでも、マユさんでも、リーファさんでも、本気だったら文句は言っても邪魔はしません。誰が貴方の伴侶になっても、私は変わりませんから」

 

「待ってくれ。色々とツッコミどころいっぱいだけど、少なくとも俺とスグは兄妹だからな!?」

 

「あ、そうでした。私の催眠術で『あの夜』の記憶は奇麗に消えていたことを忘れていました。これは失言だったかもしれません」

 

「『あの夜』!? 待て。待ってくれ! これ以上、俺の人生を別方向から捻じ曲げないでくれ! あと催眠術って何!? そんな特技があったのか!?」

 

「履歴書にも書ける腕前です」

 

 何処まで本当なのだろうか? もはやシリカではない。シリカさんだ。怯える『名無し』に月蝕の聖剣の心配が伝わる。よければ記憶を掘り返してみないか、と月蝕の聖剣の本気のセラピー提案に、『名無し』は恐怖心から断固として拒否する。

 

「それはそうと、仮面は外さないんですか? さすがにもういいんじゃないですか」

 

「あー、うん。俺も外したいのは山々なんだけどさ」

 

「まだクゥリさんとの約束を守るつもりなんですか? 律儀に守らなくても、あの人は気にしないと思いますよ」

 

「いや、そうじゃなくて……」

 

「そうじゃなくて?」

 

「仮面付けていようと何だろうと、クーはきっと本気で殴って来るだろうし、その時の為の……保険?」

 

「最高に格好悪いですね。でも、クゥリさんならきっと顔面殴った後に腹パンもセットでしょうから、余り意味ないですけどね♪」

 

 ですよねー。顔面陥没を仮面で防げても、その後は容赦なくマウントポジションから内臓がミンチになって口から飛び出すまで腹を殴り続けるクゥリが簡単に予想出来て、『名無し』は首を横に振る。いやいや、俺の友達がそこまでバイオレンスであるはずがない! きっと手心を加えてくれるはずだ、と甘えようとして、だがすぐに断念した。

 と、そこで『名無し』はようやく目当てを発見する。地下駐車場の最下層にて、淡く光る円陣を見つけた。それはモルドレッドの破壊がここまで至った事を教えるように、転倒したトラックの下敷きになっているが、辛うじて光だけは漏れて見えた。

 

「え? 私には何も見えませんが……」

 

 だが、シリカには何も見えていないらしく、『名無し』はSTRに物を言わせて横転したトラックを押しのける。そこにあったのは、円陣で囲われた何の変哲もないコンクリートの地面である。

 叩いても特に何も起きない。だが、『亀裂』が残っている。ここだけが破壊不能オブジェクトではないのだ。

 破壊不能オブジェクトには2種類ある。完全に破壊不能であるタイプと破損しても自動修復されるタイプだ。前者はダンジョンの構造を守る為に、後者は戦闘演出やギミックなどに用いられていることが多い。

 この地下駐車場も破壊可能であるタイプだ。いや、ペイラーの記憶はダンジョン以外はこのタイプなのだろう。今回のイベントを考慮すれば、派手な都市バトルの演出の為にも不可欠だったに違いない。ただし、モルドレッド級の破壊を及ぼすのはさすがの後継者も想定外だったに違いない。

 モルドレッドとの戦いの余波による破損は、トラック以外の全てを修復完了している。その上で残る傷痕に『名無し』は顎を撫でる。

 

<集めたソウルに感応している。扉は既に開かれた。選択の時は近い>

 

 光に触れると表示されたシステムメッセージに、この光がどうしてシリカには確認できないのか把握する。

 システムウインドウを開いてイベント専用画面を表示すれば、『名無し』の表示ポイントは点滅している。同じ画面をシリカに見せてもらえれば、彼女の場合は無反応だった。これは『名無し』の合計ポイントが条件を満たしている証拠だろう。

 あのNPCは楽譜……人魚信仰における重要アイテムを獲得していた。もしも楽譜入手の条件が特定のコピーネームドとの『戦闘』であるならば、ノーチラスの無理した戦いも納得がいく。彼は無理をしてでも楽譜を集める為に、たとえ勝てずともコピーネームドに挑むしか無かったのだ。そして、恐らくは楽譜を入手したら即時撤退をするつもりだったのだろう。その証拠が、今もペイラーの記憶に残されている特定出現のネームドマーカーだ。

 だが、聖剣も余裕で張り合える程に性格が悪く、プレイヤーを苦しめて絶望させることに全力を尽くすことを生き甲斐とする糞GMこと、茅場の後継者が『コピーネームドを倒さずに重要アイテムだけ入手してベストクリア』などという生温い条件を課すだろうか。

 否だ。断じて否だ。後継者の悪意をこれでもかと最前線で味わってきた熟練の上位プレイヤーやトッププレイヤーは、総じて首を横に振るだろう。『あの後継者だぞ?』の一言で緩んだ警戒心を引き締め、悪意が足りなければ『後継者はやる気がないのか?』と戸惑い、『待て! これは罠だ! 我が家にたどり着いてから1週間はまだ攻略だ!』と疑心に捕らわれるのは常である。

 月蝕の聖剣を亀裂に突き立て、月蝕の奔流を開放する。亀裂は瞬く間に拡大し、分厚いコンクリートの地面を崩落させる。

 

「これって……」

 

「ああ、予想通りに昔の採掘跡地みたいだな」

 

「予想通り、ですか」

 

「ここは元々資源採掘場だったんだよ。この地下駐車場も有効活用された結果だろうな」

 

「あの、そろそろ教えてください。どうして、この場所に目星をつけたんですか?」

 

 崩落した地の底に立てば、暗闇の中でも光る鉱石がフットライトのように淡く照らしてくれる。携帯ランプを装備しようかとも思った『名無し』であるが、どうやら彼が持つポイント……撃破したコピーネームドのソウルに反応しているらしく、奥に進むほどに表面に露出した鉱石は昼間のように照らしてくれる。

 

「シリカ、今回のイベントはどんな流れだと思う?」

 

「えーと、今までの情報だと、ノーチラスが連れているNPCに楽譜を集めさせて、ペイラーの計画を実行する為に灯台にたどり着いて祭壇を起動させること、でしょうか」

 

「大まかに見ればな。だけど、大事な事を忘れてはいけないんだ。楽譜を捧げるのは『祭壇』であって、目的地は『灯台』なんだよ」

 

「はい、だからノーチラスは中央塔を目指しているのでは? マザーコンピュータのパーツに使用された祭壇に――」

 

 そこまで発言して、シリカは何かに引っかかったように口元を手で覆って考え込む。

 地盤崩落したのか、行き止まりにたどり着いた『名無し』はここで終わりではないはずだと屈んで足下を重点的に探る。ソウルに反応してか、地面の1部がひときわ強く輝く。これも鍛錬だと月蝕の聖剣を軽く振るって小さな光波を放てば、想像以上の威力で地面が吹き飛んで『名無し』とシリカは土塗れになる。仮面を被っている『名無し』と違い、大きく咳き込んだ彼女はやや恨めしそうに睨んだ。

 それは周囲で光る鉱石……価値はない屑石とは違い、精錬された青い金属質の円形の扉だった。3つの楽譜が刻まれており、それぞれが入手済みであることを示すように特に強く光っているようだった。『名無し』が触れれば、円形の扉はゆっくりとスライドして内部へ……更なる地下へと続く階段へと彼らを案内する。

 まるで冷蔵庫のように寒い。防具のお陰で寒冷状態にはなるには相当の時間がかかるが、注意するに越したことはないだろう。『名無し』はシリカの手を引き、人魚信仰について描かれただろうレリーフが左右の壁に刻まれた螺旋階段を下す。

 

「特異なソウルが関係した場所でこそ、特異な資源が得られる……はDBOの共通設定だよな?」

 

「そうですね。竜狩りの戦場跡だった場所では、雷属性関連を開発・強化する素材が取れやすい。火山では炎属性関係みたいに。環境や過去の大きな事象に関係しているみたいです」

 

「だったら、過去に大規模な採掘場があったこの場所は、特異なソウルが深く干渉した場所とも言い換えられないか? そして、この島で特異といえば、まず間違いなく人魚信仰だろうな」

 

「言われてみれば、確かにそうですね。凄いメタ推理ですけど」

 

「いやいや、こうした考察からの攻略はDBOの基本だから」

 

 むしろ、後継者は『これくらいできて当たり前でしょ?』と言わんばかりである。さすがに慣れた『名無し』であるが、大多数のプレイヤーが彼と同じ領域でイベント攻略をしているわけでもなく、シリカの方がマジョリティである。

 

「この地下駐車場だけ警戒度設定が無いのは、この場所だけは都市の支配者の管轄外になっていたからだ。コピーネームドが出現できない場所だよ。あれはあくまでランダム型のコピーネームドの出現を決定させるシステムに過ぎないからな」

 

 まずは隈なく探索する。これもまた常道だ。じっくりと時間をかけて都市内を余す場所無く探っていれば、メタ考察無しでも地下駐車場の特異性には気づけるはずである。

 だが、今回のイベントクリアの鍵であるNPCを連れ回しているだろうノーチラスには『出来なかった』。根本的な実力不足のせいではなく、他でもない『名無し』たちが捕縛するべく追い回し続けたからだ。彼は情報収集もろくに出来ず、追撃から逃れる為に最短ルートを走り続けるしかなかったのだ。

 もっとも、コピーネームドを撃破できるだけの実力がないノーチラスでは、ヒント獲得できるだけのポイントも集められず、この地下に気づくことは困難だっただろう。だが、と『名無し』は胸が苦しくなる。

 もしも、自分たちが邪魔さえしなければ、彼は地道な調査でここにたどり着いたのではないだろうか? そう思えばこそ、歩みが鈍る『名無し』の背中にシリカの手が触れる。

 

「今は急いでイベントをクリアしましょう。そうしないと、巻き込まれているかもしれない人たちも助からないかもしれません。もしかしたら、今もユージーンさん達はコピーネームドに囲われて苦戦しているかもしれません」

 

「分かってるけど、嫌になるんだ」

 

 嫌になる程に重なるのだ。

 あの暗く濁った眼を思い出す度に、アルヴヘイムにいるアスナを助けようと、多くの間違いを犯しても我武者羅に前へと進み続けた自分と重なってしまうのだ。

 

「私、分かっちゃいました。どうしてこの場所なのか」

 

「へぇ、答えは?」

 

「まんまと騙されましたよ。わざと中央塔を灯台に似せてあったんですね。でも、考えてみれば簡単なことでした。『灯台が島の中心にあるわけないじゃないですか』」

 

「正解。まぁ、設定を紐解くなら、元は人魚信仰に倣って灯台を模した通信施設にマザーコンピュータを設置した、なんだろうな。ディストピア化以前からの建造物だったならばデザインが文化的でもおかしくないし、マザーコンピュータ設置後にソウル徴収の弊害が分かったのだろうから、改修が難しかったんだろうな」

 

 この都市は観光客も歓迎しているなど、ディストピアであるのに反して外部を歓迎している。それはプレイヤーがアイテム購入できる売店や食堂などからも明らかだ。元々は観光資源として灯台を模した通信設備が建造されたのかもしれなかった。

 

「つまり、この場所こそが跡地……本当の『灯台』なんですね!」

 

「そういうこと」

 

「凄いです! いつから気づいてたんですか!?」

 

「うーん、教育施設で情報収集した時点で6割、ユージーンから情報を貰って9割ってところかな?」

 

 やはり情報収集はイベントクリアの基本だと『名無し』は再認識する。戦闘においても情報の有無によって生存率は激変する。だからこそ、基本は初見戦ばかりとなるDBOのネームド戦はより高難度化するのだ。

 過去の信仰の名残は都市開発と共に破壊され、灯台の最下層……信仰の『核』だけが地の底に埋もれた。そして、ペイラーは研究の末にここにたどり着き、儀式の再現によって都市解放を願ったのだ。

 だが、本当にそれは『ペイラーの意思』だったのだろうか? ここまで来れば『名無し』も疑う。

 ペイラーは監獄の最下層で怪物となり、看守や警備ロボットを狂わせた……という設定のボスだ。だが、そもそもとしてペイラーはどうして怪物になったのだ?

 DBOにおいて、人間が怪物になる条件は主に2つ。強大なソウルの影響を受けたか、深淵が関与しているかだ。ペイラーの監獄では闇属性攻撃は皆無である為に、ゲームシステムの観点から見ても深淵はあり得ない。ならば前者だろう。

 では、ペイラーは何処で怪物になる程にソウルを集め、あるいは干渉を受けたのか? それは儀式の始まりの場所にして、真の終わりでもあるこの灯台以外に考えられない。

 螺旋階段の終わりにたどり着いた『名無し』達を迎えたのは、冷気を帯びた扉だった。素手で触れれば皮が張り付きそうな扉を『名無し』は肩で押して開ける。

 扉の奥もまた階段と同じ素材で構成されており、昼間にように明るく視界には困らない。だが、何処となく薄暗さを覚えてしまうのは、かつて祭壇があっただろう、今は空洞の中心部……そして、天井と半ば一体化した巨大な石像のせいだろう。

 それは人魚を模した巨大石像だ。ただし、神の子を模したにしては些か悪趣味だ。右腕は4本、左腕は3本であり、それぞれに曲剣を握っている。何よりも特徴的なのは喉であり、女性を模した像であるはずなのに喉仏のような膨らみがあった。

 

「あ、あの……私の目の錯覚じゃありませんよね? この像……脈動している気が……」

 

「シリカ、準備してくれ。俺達はNPCも連れずに踏み込んだ、儀式を妨害する『侵入者』だ」

 

 巨大な人魚像は身を捩じらせて叫ぶように口を開く。だが、空気の振動は……歌声は聞こえない無音である。

 

「人間が怪物になるケースを教えたけど、無機物だって膨大なソウルを得れば、長い時間ずっと放置されていた信仰の対象なら尚の事……怪物になる。それもDBOのセオリーだ」

 

 コイツこそがペイラーを怪物にした元凶だ。『名無し』はようやくこのイベントの『真実』にたどり着いたと敵を見据える。

 儀式を成功させても、はたしてペイラーの計画通りに都市解放が叶うかも分からない。単純に儀式の再現を……あるいはソウルから生まれた怪物として膨大なソウルの獲得だけを望んでいるだけなのかもしれない。

 何にしても、中央塔で儀式を成立させるのは『バッドエンド』なのは間違いない。ノーチラスが為し遂げる前に、彼の為にも止めなければならない。

 

「デーモンは2種類いる。イザリスに端を発するデーモンがまず1つ。もう1つは、灰の時代以前とされる色の無い濃霧で滅びた時代……伝説や信仰からソウルを集めるデーモンが生じた」

 

 コイツは後者のタイプだ。『名無し』は考察もこれくらいで構わないだろうと月蝕の聖剣と鋼剣を構え、最速最短の撃破を狙う。ピナがあの状態ではシリカの戦闘能力は半減だ。彼女にはサポートに徹してもらい、ヘイトは全て稼ぐ勢いで撃破すると『名無し』は決意する。

 

 

<人魚の狂像>

 

 

 

 来る! 人魚の像は鉱物と思えぬ程に柔軟に動き、7本腕から繰り出される曲剣の連撃で『名無し』を刻もうとする。その巨体に見合った曲剣であるならば、プレイヤーが用いる大曲剣すらも上回るサイズだ。

 だが、『名無し』には通じない。斬撃を潜り抜け、逆にまるで魚の腹部を裂くように月蝕の聖剣の一撃を与える。

 

「お前に手古摺っているようでは、ランスロットにも……モルドレッドにも追いつけない!」

 

 人形の狂像にあるのは、ソウルに対する飢えだけであり、理性も知性もない巨獣を相手にしているのと変わらない。だからこそ『名無し』はたとえネームドが相手だろうとも、1歩とて後れを取ることを己に許さない。

 どうして? 【聖剣の英雄】だから? そんな月蝕の聖剣の、『名無し』の返答が分かり切っているだろう質問に対して、彼は笑う。

 負ける為に戦う者はいない。いつだって勝利を求めて前に踏み込むのだ。【聖剣の英雄】? なにそれ美味しいの? 俺は『俺』だ。それ以外の何者でもなく、敢えて志望するならば『アスナの英雄』である。少しばかり……いいや、かなり格好つけたがりで、魂の叫びのままに守り、助け、救うことを望む愚者だ。

 追記するならば、武の頂を諦めたわけではないのでよろしく。今まで倒したてきた信念、矜持、願望を胸に立ちはだかった数多の敵に敬意を払い、自分を高めてくれたあらゆる戦いに誇りを抱き、子どもっぽい負けず嫌いの闘争心と武の道を究めたいという渇望も持つ、実にワガママな人間だ。

 時に感情に振り回され、時に間違いを犯し、時に失敗し、時に、時に、時に……そう幾多の挫折と苦渋の度に、多くの人に助けられてきた情けない男であるが、それでも一緒に戦ってくれるかい? 『名無し』の問いに、月蝕の聖剣は返答不要とばかりに月明かり無き漆黒をより深く、だが黒真珠のように煌かせる。

 

「はっ!」

 

 掛け声とともに竜巻のように身を捩じらせて曲剣を乱舞する突進攻撃を、『名無し』は躱し、人魚像の振り向くタイミングに合わせて懐に入り込んで傷つけた腹部に連撃を浴びせる。≪二刀流≫の真価は、片手剣でも両手剣クラスの火力を引き出して生み出される連撃によるDPSにこそある。元の攻撃力が高い月蝕の聖剣ならばどうなるのかなど言うまでもない。

 3本のHPバーの内の1本目が恐るべき速度で削られ、人魚像は曲剣の乱舞で『名無し』を遠ざける。その後、大きく息を吸い込んだかと思えば、大口を開いた。

 だが、無音。ダメージを受けて不発したのかと思えば違う。訝しむ『名無し』は、そういうことかと勘付く。

 

「そりゃそうだよな。『歌声』がないんだ。何も出来ないよな」

 

 啖呵を切ったと思ったら弱体化確定ネームド戦か。『名無し』は自分が運が良いというべきか、あるいは戦士として不運と呼ぶべきかを悩む。強敵と戦いたいという武人の心がある一方で、シリカを含めて被害を抑えるならば敵が弱いに越したことはないとも考える。

 ならばこそ、『名無し』は『気づく』。気づいてしまう。後継者の仕掛けた悪意に気づく。

 

「そういう事か。クソ!」

 

 ここは1度撤退して……とも思うが、既に扉は閉ざされている。解放条件も不明であり、時間稼ぎに終始して負けてシリカ諸共殺されては墓標に『間抜け、ここに眠る』とあの真っ白な髪を揺らす友人に刻まれかねない。

 ならばこそ、現時点から挽回できる方法はないのか? このネームドは図体の割に遅く、攻撃も『名無し』の基準では避けやすい単調なものだ。本来の特殊攻撃だろう『歌声』も無いならば、普通に撃破するのは今のところ難しくはない。

 だが、ここから軌道修正をするならば、多少の無茶は必要かもしれない。『名無し』は人魚像のある1点に狙いを定め、限りある可能性に賭けた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ようやくたどり着いた中央塔にて、エイジはユナの手を引き、悲鳴を上げる職員を押しのけて先を目指す。

 言うなればラストダンジョンのようなものだからか。入った瞬間から警戒度がMAX状態のまま不動になる。ドローンが宙を飛び回り、警備ロボットが続々と登場するが、もはや近接戦闘するだけの余力は残されていないエイジは、在庫処分だとばかりにプラズマ手榴弾を投げまくる。

 

「邪魔だ!」

 

「私もいっくよー!」

 

 ユナも渡してあるプラズマ手榴弾を敵の中心に放り込む。プラズマ爆発はロボット系に大ダメージを与える。ドローンならば即撃破、ロボット系も僅かに動きが鈍る。本来ならば、この程度のモンスターにプラズマ手榴弾を投げまくっていれば、経費が嵩んで赤字なのであるが、ユナは元より考えておらず、エイジにはもはや後先を考慮など無い。

 まずはエレベーターで行けるところまで行くべきか。それとも途中停止に備えて階段か。悩んだエイジに反して、ユナは逆に彼を先導してエレベーターに駆け込む。

 

「危ない!」

 

 だが、エレベーター前の天井に備えられた警備用のガントラップに気づいたエイジは、咄嗟に背中でユナが撃たれることを防ぐ。

 1発、2発、3発、4発、5発! 扉が閉まるまで堪え続けたエイジは、このエレベーターで行ける最上階までのボタンを押したユナを目にしながら肩から壁に向かって倒れる。

 HPは残り7割。思っていた程に火力は低くなかったな、と笑おうとして、だが聖水ボトルを飲むより先に手から零れ落ちそうになる。それを咄嗟にユナは受け止めた。

 

「しっかりして! もうすぐだから! あと少しだよ!」

 

 もう庇ってくれた事への謝罪も感謝も無いのは、ユナもエイジの『覚悟』を感じ取ってくれているからだ。彼女もまた迷わない。全力で自分の為すべき事の為に駆け続けると決心しているのだ。だからこそ、もはや言葉は要らない。

 

(この出血量……アバター破損に特化したガントラップだったのか。流血のスリップダメージが……とにかく止血包帯で……)

 

 聖水ボトルでHPを回復し、止血包帯で背中の傷を治療する。流血用のアイテムを使えばスリップダメージはより緩やかになるのだが、無いものを欲しがっても意味がない。

 このエレベーターで昇れるのは50階までだ。楽譜は最上階を目指せと教えるように、ひたすらに上へと輝きを伸ばしている。

 だが、38階にて突如としてエレベーターは停止する。慌てるユナをエイジは抱きかかえると≪片手剣≫の単発系ソードスキルである【アッパードライヴ】を発動させる。敵を斬り上げて宙に浮かすことを目的としたソードスキルであるが、自身も大きく跳ね上がることから、SAOでも対空迎撃として重宝されたソードスキルである。

 エレベーターの天井を破壊して『棺桶』の外に出る。同時にエレベーターの扉が開き、2人をハチの巣にしただろう銃撃が2人のいた空間を通り抜ける。

 あと1秒でも遅ければ、と背筋が凍る一方で、この程度の危機で足踏みしていたならば最上階までユナを連れていけない。エイジはダーインスレイヴを腰に差すとユナに首に腕を回すように頼むとエレベーターを繋げるワイヤーを掴んで上り、39階の扉に向かって跳ぶ。

 なんとか縁にしがみつき、そのままよじ登ると扉をSTRの限りを尽くして開く。すぐにドローンが押し寄せるも、ユナがプラズマ手榴弾で一掃する。

 

「エイジ! もう爆弾が……!」

 

 エイジもこれで在庫切れだ。最後のプラズマ手榴弾で正面で壁を作っていたドローンの群れを排除するも、続く4脚型警備ロボットの足止めは出来ない。

 いいや、まだだ! もう限界? だったらエンジンが壊れるまで戦え! エイジは踏み込みから加速し、スライディングして4脚ロボットの真下へと潜り込みながらダーインスレイヴで一閃する。だが、良くも悪くも器用貧乏であり、火力に不足があるダーインスレイヴでは一撃で倒すことは不可能だ。

 だが、スライディングでそのまま背後を取ったエイジは、警備ロボットの人間染みた上半身を背後からつかみかかり、そのままカメラアイが付いた頭部を捩じる。

 倒せはしないが、これで十分だ! ユナが4脚ロボットの脇を抜ける時間さえ稼げればいい! エイジは左手を伸ばしてユナを迎え、復帰した四脚ロボットの銃撃を右肩に受けながらも走る。

 もはや攻撃アイテムは残っていない。せいぜいが派手な音と色が特徴であり、教育施設侵入時にトラックの足止めに使った赤煙火薬程度だ。もちろん、ダメージなど無いに等しいが、目潰しにはギリギリなるだろう。

 ここからは階段しかないのか? エイジはダーインスレイヴを咥えるとユナを両腕で抱きあげ、階段を駆け上がる。

 走り続けろ。ユナを傷つけさせるな。悠那の願いを……歌を必ず! エイジは傷口から零れる血とその度に生じるダメージフィードバックに唸り、思わず咥えたダーインスレイヴを落としそうになるも、ユナの眼差しに気づいて堪える。

 笑う。ダーインスレイヴを咥えているともなれば、更に不格好で最悪な出来だろう。それでもエイジは笑う。僕は大丈夫だと伝える為に笑う。

 階段にももちろんモンスターは出現する。だが、さすがに強力な4脚型ロボットは出現しない。ドローンの銃撃からユナを庇いながら、この程度で止まるものかと駆け上がる。

 だが、システムによる強制静止……ドローンの銃撃でスタン蓄積に達し、背中から階段を転げ落ちる。HPが3割を切って黄色で点滅して死の予感が強まるも、それでもユナを傷つけさせないとスタン復帰と同時に壁に叩き付けられそうになった彼女を庇う盾となる。

 ガントラップで傷ついた背中を強打し、エイジは悲鳴を上げそうになるも、咥えたダーインスレイヴを落とすことなく立ち上がる。

 

「舐め、る……な! この、程度で……止まれ、ない!」

 

 ダーインスレイヴを右手に、エイジは血を吐き散らしながら、確かな侵蝕を自覚しながらドローンを斬り払う。

 現在49階。どうやら50階でこの階段は終わりのようであるが、最上階ではないだろう。まだまだ上だと示すように、だが目的地は近づいていると教えるように、楽譜は更に強く上へと光を向けている。

 聖水ボトルも残り少ない。エイジはHPを回復させ、スタミナ消費を覚悟で燐光紅草を食す。この状況で最も注意しなければならないのはスタミナ切れだ。そうなれば動くことさえ出来なくなる。その時点でゲームオーバーだ。

 

「着いた! 50階だよ!」

 

 ユナが階段からフロアに出る扉を開けば、ダウンライトの光量が落ちた薄暗い無人のフロアにたどり着く。

 元は観光客用の展望フロアだったのだろうが、周囲のビルの高層化によってほぼ無意味と化している。エイジは幼き日の記憶、悠那とこうした展望スポットに遊びに行ったなと振り返り、だが温かな懐かしさよりも業火のような憎しみしか湧かぬ己に更なる憎しみを募らせる。

 

「見て、最上階は80階だって! あと少しだよ!」

 

 ようやく半分過ぎたのか。エイジはユナの手を引いて周囲を警戒しながら、更に上へと昇る手段を探す。

 エレベーターでは先程と二の舞かもしれない。階段ではあと30階を昇り切れるかは不安が残る。迷うエイジは、展望ガラスに映った、自分たちの背後から忍び寄る影に気づき、ユナを突き飛ばす。

 聞こえたのはガトリングガンの連続した銃声。ユナを階段側に、エイジは反対の金属製の円柱の陰に隠れて銃撃を凌ぐ。

 

「ようやく俺の出番か! 待ちくたびれたぜ!」

 

 エイジを背後から強襲したのは、全身を改造軽量型GAに身を包み、ガトリングガン内蔵の盾とヒートアックスを装備したプレイヤーである。これらの装備にエイジは心当たりがあった。

 最悪だ。この場面で傭兵か! 相手はランク20のエイリークだ。突撃馬鹿とも揶揄されているが、その爆発力は時としてトッププレイヤーにも匹敵するとされている。だが、そのムラの大きさはランク20という数字が端的に示しているだろう。

 だが、ランクがそのまま実力ではないとはいえ、エイリークもまた傭兵の基準を満たす戦闘能力の持ち主であり、また多くの死線から生還した歴戦の猛者だ。エイジでは勝ち目はほぼ無いに等しい。脅威度はある意味でコピーネームド以上だ。

 

「ユナ、先に行け! 後から追いかける!」

 

「でも……!」

 

「行くんだ!」

 

「分かった。必ずだよ!? 必ず追いついて!」

 

 もちろんだ。僕たちの旅の終着点はもうすぐなのだ。ここで終わるわけにはいかない! 階段を駆け上がるユナがどうか無事であることを祈り、エイジはガトリングガンのオートリロードのタイミングを狙って飛び出す。

 ヒートアックスとダーインスレイヴが激突し、大きな火花が薄暗い空間を彩る。エイジの連撃をエイリークは難なく捌き、逆にエイジの頭を叩き割る勢いでヒートアックスを振り下ろす。咄嗟のガードで防ぐも、両手持ちであるにもかかわらず、エイリークの片手のヒートアックスに押し込まれていく。

 もうSTR出力が……! 高出力化は体得しておらずとも、低出力に理由は幾らでもある。連戦の疲労などは特にそうだ。エイジの場合、ダーインスレイヴの侵蝕も込みで、もはやSTR出力は3割を切って2割に落ち込んでいた。

 

「雑魚が手間取らせるんじゃねぇ。危うく殺しそうになるだろ!」

 

「ここで、捕まる、わけには……いかないんだぁあああああ!」

 

 命を燃やせ。幾らでも『僕』を喰らえ、ダーインスレイヴ! 見えぬ右目を庇う戦いをするエイジに対して、エイリークは当然のように死角に回り込む。古い勇士とは違い、エイリークはちゃんとエイジの右目が見えないことを把握できるのだから当然だ。

 だが、エイリークの狙いはエイジの殺害ではなく捕縛のはずだ。ならば致命傷を狙うことはない。無力化させるならば腕か足を狙うはずである。

 弾くことは出来なかったが、死角からの右腕を斬り落とそうとするヒートアックスの一撃をガードする。大きな火花が散って押し込まれる中で、エイリークの舌打ちが響く。

 

「素人が! ランク無しのくせに粘りやがって。本物の傭兵との差って奴を教えてやるよ!」

 

「生憎……僕はもう……傭兵じゃ、ない!」

 

 何度も死角からの攻撃は防げるものではない。ならばこそ、止まらぬ攻勢を。突撃馬鹿と揶揄されるエイリークすらも超える攻撃を! エイジは連撃でエイリークを押し込むが、それは錯覚。彼が後退しただけのことである。

 

「これで終わりだ」

 

 GAによる加速を用いて死角に回り込んでの攻撃。今度はガード出来ないだろう。

 だが、これを待っていた! エイジは赤煙火薬を目が見えない右側に投げる。宙に舞った火薬は、エイリークのヒートアックスによって着火され、炸裂して赤い煙を上げる。そして、予想外の衝撃は、GAを着込んだエイリークを揺るがすことこそ無かったが、精神の動揺を誘う!

 切り札はある! これまで温存し続けた、つらぬきの騎士の一撃だ。ペイラーの記憶でネームドに遭遇したにもかかわらず、1つもコピーできなかったが、それでもグローリーと共に勝利したつらぬきの騎士の『力』はここにある!

 狙うのは足だ。殺しきれなかったことを考慮すれば、機動力を奪って追撃を防ぐ為にも足を狙う以外の選択肢はない。

 

「やるな!」

 

 だが、エイリークも猛者だ。赤色火薬による目潰しと衝撃を受けても怯まず、一瞬で精神的動揺も即座に立て直す。だが、その一瞬の分だけエイジの方は早い!

 

 

 

 

「さて、『ポジション』まで誘導したぜ。決めろよ、山猫!」

 

 

 

 

 エイリークとの戦いで、1秒とてエイジは優勢を取っていない。最初から最後までエイジは誘導されていた。

 突撃馬鹿と称されるエイリークであるが、彼とて仲間との連携を無下にするわけがない。もしも彼は『普段通り』であったならば、わざわざ待ち伏せなどしているはずなどないのだ。

 エイリークを御せるブレインがいて、彼に理知的な戦術を取らせるだけの切り札があったのだ。

 

 展望ガラスを撃ち抜いた高速の弾丸は、ダーインスレイヴを握る右腕の肘に命中し、そのまま千切り取った。

 

 山猫……ランク3のシノンか! 右肘から先を失ったダメージフィードバックに意識が刻まれる中で、エイジは自分の血と減少するHPを見ながら、傭兵とは何たるかを思い知る。

 太陽の狩猟団も、ありもしない機密を狙っていたのか。体を傾けるエイジは、ここまでかと途切れそうな意識の中で、向かいのビルの屋上から狙い撃っただろう、シノンの狙撃の腕前を噂以上だと痛感する。義手になって狙撃手としての価値は下がったという噂であったが、やはり当てにならないものである。

 ここまでか。そう思った時、悠那とユナが失われた右目に映り込んだように暗闇に浮かぶ。

 

「これで俺達の――」

 

「まだまだぁああああああああああああ!」

 

 まだだ! まだ負けていない! エイジは千切れた右腕を足で蹴り上げ、宙を舞うダーインスレイヴをジャンプしてキャッチするとつらぬきの一撃の発動モーションを取る。

 失われた右肘から床に倒れていきながら発動した破壊の一撃は、エイリークの左足を抉り奪う。幾らGAでも、軽量性の為に防御力を落としたこともあってか、つらぬきの騎士の一撃には耐え切れなかった。

 

「ぐぉおおおお!? この俺がぁあああああああああ!?」

 

 だが、エイリークもまたこのまま甘んじて倒れはしない! ガトリングガンを乱射し、立ち上がって階段へと逃げ込もうとした彼の両足を撃ち抜く。1発は低威力であっても、連続着弾によって狙撃で失われたHPは更に減少し、また両足が歩行困難であるほどに穴だらけにされ、肉を抉られる。右足に至っては脛から骨が露出していた。

 聖水ボトルを飲んでHPを回復させ、息絶え絶えにエイジは残り少ない止血包帯で両足と右肘に使用する。

 

「ユナ……すぐに、必ず……追いつく」

 

 だが、傷が深すぎる。止血包帯は赤く染まり、流血のスリップダメージもまた重なり過ぎていた。燐光紅草を食みながら、エイジは半ば這うように、先に行ったユナを追いかける。

 1歩の度に足下に血だまりが出来る。それ以上に脳が多重のダメージフィードバックでスパークしそうであり、ダーインスレイヴとのリンクによる侵蝕は更に進む。

 ユナは何処まで上っただろうか。もしかしたら、もうすぐ80層なのではないだろうか? エイリークとの戦いを長く感じた彼には、別れてからどれだけの時間が経過しているのか分からなかった。

 それでも、必ず追いつく。僕たちの終着点に! 倒れそうになった体を壁に叩き付けるようにして支えながら、エイジは階段を上がっていく。

 

 

 だが、進路を塞ぐように黒い影がエイジを覆い被さった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 この1発の為に随分と待たされた。仕事を終えたシノンは、珈琲を口にしながら、今回の狙撃用で準備した設置型スナイパーライフル【ブラックラビット】を撫でる。高威力・高射程・高精度であるが、接地型であるために自由度が低く、設置するまでに時間もかかる。

 今回のミッションの為に太陽の狩猟団がシノンに貸し与えたものである。気に入ったならば購入も可能であるが、思っていた程に気に入らなかったとシノンは断じた。決して財布事情を考慮したわけではない。

 

「私達のミッション、もう1度確認してもいい?」

 

 珈琲を飲みながら、シノンは通信機で向かいの中央塔で倒れているエイリークに応答を求める。

 

『ノーチラスの……捕獲』

 

「そうね。で? アンタは何で殺そうとしているわけ?」

 

『悪い。思わずカッとなっちまった。だが、まだ奴は死んでねぇぞ! すぐにでも追いかけて――』

 

「片足で何言ってんのよ。すぐに助けに行くから物陰に隠れていなさい」

 

『謝罪のしようもねぇな。せめて、詫びで仕事終わりに1杯――』

 

「通信終了」

 

 ブラックラビットで右肘を撃ち抜いた時点でほぼ作戦成功は確定した。だが、ターゲット名:ノーチラス……今はエイジと名乗る男は、太陽の狩猟団の地下アジトから脱出した時と同じ能力でエイリークの片足を奪ったのである。

 倒れながら正確に発動モーションを起こす体幹制御と不屈の闘志は認める。だが、シノンは既にエイジの右膝を撃ち抜くべく照準を定めていた。エイリークが熱くなってガトリンガンを乱射してエイジのHPさえ削らなければ、逃げられることはなかったのである。

 片足同士ならば、さすがにSTRが上回っているだろう、エイリークの方が制圧できるだろう。仮に捕まえることが出来ずとも、片足ではもう機動力は無いに等しい。シノンは中央塔に向かい、エイリークの救助とエイジの捕縛をすれば良いだけだった。

 

「カイザーは何処にいるのかしら? まさか、もう帰宅準備しているわけないわよね」

 

 今回のミッションにはあまり乗り気ではないようだったが、仕事を完璧にこなし、2人にターゲットの目的地を通達して罠を張らせたカイザーファラオの手腕は見事である。エイジの反撃は予想外としても、エイリークが馬鹿さえしていなければ作戦完了だったものを、とシノンはブラックラビットの設置状態の解除までの時間に苛立つ。

 だが、これで前回のお返しは出来た。今回は躱すことも凌がれることもなく撃ち抜くことが出来た。シノンは鈍っていた狙撃の錆落としにはなったと薄く笑む。

 

「私は2度も外さない。残念だったわね」

 

 あのフロアはモンスターが出現しないとはいえ、エイリークを放置しているわけにはいかない。

 何よりも他にどれだけのエイジ確保で動いているプレイヤーがいるかも分からないのだ。既に中央塔には他プレイヤーが追撃を仕掛けて侵入している事も考慮しなければならない。

 ブラックラビットの回収と同時に、シノンは駆け足でビルを下り、中央塔を目指した。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 大事な人を失って、面影を私に重ねて、何を犠牲にしても守ると誓ってくれた人。

 笑顔が下手で、それでも私との約束を守るように、何度も笑んでくれる人。

 冒険の終着点で、特等席で私の歌を聞いて……少しでも救われて欲しい人。 

 

「エイジの……馬鹿」

 

「……ユナ」

 

「馬鹿。馬鹿馬鹿、ばーか!」

 

 ユナが自分の影で覆ったエイジは、もはや傷だらけという表現すらも足りなかった。右肘から先はなく、背中も銃創だらけであり、両足は半ば抉れていた。包帯は真っ赤に染まり、滴る血は彼の足下を緩やかに命の色に染め上げている。

 何が先に行け? そんな体ではもう追いかけられないじゃない! ユナはエイジの肩を担ぐと二人三脚のように階段を上り始める。

 

「行くよ! 今、55階! あと25階だよ!」

 

「ユ……ナ……」

 

「喋らないで! 私がエイジを連れて行く! 必ず連れて行くから!」

 

 ここまでエイジはずっと守ってくれた。手を引っ張って連れて来てくれた。だから、最後くらいは私がエイジを! ユナは汗を滴らせ、足りぬ筋力に唸りながら、1歩ずつ踏みしめて階段を上っていく。

 やっと56階。前後を警戒するが、敵影はない。ユナにはもう戦う手段がない。エイジも戦える状態ではない。いや、中央塔に入る前……最後の楽譜を手に入れる戦いがエイジの限界だったのだ。それ以後の逃走は無理に無茶を重ね続けたものだ。

 

「……も……い」

 

「喋らないで!」

 

「もう……いい。僕を……置いて……いけ」

 

「次に喋ったら、私がエイジを殺すから! 分かった!?」

 

「置いて行けって言ってんだよ!」

 

 エイジは暴れ、ユナは耐えきれずに彼を手放す。壁に背中から倒れたエイジは、虚ろな左目で荒げた声と反してユナに、暗く濁り切った感情が渦巻いているとは思えない程に優しい眼差しを向け、まるで成長していない下手な……悪役のような……不器用にも程がある笑みを作る。

 

「僕は……ここ、まで……だ」

 

「嫌。ヤダ! 嫌だ! エイジ!」

 

「ユナには、不愉快……かも、しれない……けど、少しだけ……楽しかった、の……かなぁ? はは、ははは……何を喋って、いるんだか……」

 

 自分の気持ちを整理できないように、エイジは咳き込んで血を吐き出す。ユナはエイジの腰にぶら下げてある聖水ボトルを奪うと彼の口に押し当てて飲ませる。だが、エイジはのんでくれず、ユナは自分の口に含むとそのまま唇を押し当て、彼の血反吐を逆流させるように飲み込ませる。

 

「どう? 私のファーストのキスの味は?」

 

「……血と薬の苦い味、かな?」

 

「なにそれ。エイジは乙女心が分かって無さ過ぎ」

 

 笑顔だ。こんな時だからこそ元気づける笑顔を彼に。ユナは最高の笑みを涙と共に届けようとするが、胸に押し寄せる悲しみと苦しみはそれを許さない。

 

「ここまでなんて……悲しいこと言わないで。私達で一緒にたどり着く。そうでしょう?」

 

「無理……だ……もう、戦え……ない。僕は……」

 

「エイジはまだ負けていない!」

 

 ああ、なんと惨酷だろうか。エイジを叱咤するユナは、自分を悪魔だと罵る。もう休ませてあげてもいいほどに頑張った彼を、自分の歌を聞いて欲しいとエゴで、これが最後だからと鞭を打っている。

 

「エイジの左目……瞳はまだ崩れていないよ。どれだけ口で諦めても、エイジはまだ戦っている! まだ負けていないって抗ってる!」

 

「…………っ!」

 

「行こう! 一緒に! 必ず!」

 

 さぁ、もう少しだ。エイジの肩を担ぎ、ユナは再び1歩を踏み出す。どれだけ暴れようとも、もう絶対に手放さない。

 

「なぁ、ユナ……」

 

「何?」

 

「僕……キミの歌を聞いた時……少しだけ……本当に少しだけ……忘れることが、できた……んだ」

 

 ようやく75階だ。震える足を動かし、ユナは自分の汗とエイジの血が混じるのを見つめる。

 

「少しだけ……憎しみを……ほんの……少しだけ、忘れることが……できた。間違いだと……分かって、いるのに……僕が戦えているのは……憎しみのお陰……なのに」

 

 エイジは憎しみを武器に今日まで生きてきた。そして、ずっと守ってくれた。ユナは彼の眼を支配するどす黒い感情を否定する権利はなかった。

 それでも、とユナは78階の看板を見ながら歯を食いしばる。

 

「それの何が悪いの!? 憎しみにずっと囚われて、自分を苦しめ続けて、それで戦って……何になるの!?」

 

「憎しみが……何かを生み出す……かもしれない。その可能性の為に……スレイヴは……僕に……これを……託して、くれたんだ」

 

「だから! それが! 何!? エイジが憎しみを肯定するならば、私は全力で否定する! 憎しみが何かを生み出すとしても、エイジが憎しみに焼かれ続けて苦しむなんて、私は絶対に嫌!」

 

「…………」

 

「生きて、エイジ。私の分も生きて! 私は必ず歌うから、アナタは憎しみと共に生きて……そして、少しでいい! 憎しみを忘れて、自分をもっと……大事にして」

 

 足が縺れてバランスが崩れる。今度は自分の番だとユナはエイジを転落の衝撃から守るように自分をクッションにする。背中を強打し、だが彼を抱きしめて守り抜く。

 

「私が……救う。私の歌で……エイジを……救う!」

 

 たとえ、歌った先がどんな結末であるとしても、自分が消えてなくなろうとも、救いたかったこの都市が滅びることになろうとも、ユナは必ず歌おう。それこそがエイジの救いになるはずだと信じて歌おう。

 ようやくたどり着いた80階。扉を倒れ込みながら開けば、今までとは違う赤い絨毯が敷かれた廊下だった。

 

「救われて……いい……のか?」

 

「そうだよ!」

 

 もう意識が朦朧としているだろうエイジは、それでも剣を手に、最後はユナと並んで歩みたいと伝えるように笑う。ヘタクソだとユナは指差して笑ってやる。

 何重の自動ドアが開き、ユナたちを招き入れる。この先に終着点があるはずだと何度も倒れそうになるエイジを支えながら先に進む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はーい、お馬鹿な雑魚さん2名、御到着に拍手♪ 拍手ぅ♪」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、『絶望』がまるで道化のように笑い狂いながら、終着点で待っていた。

 

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 這ってでも、前へ、前へ、前へ。

 そうしてたどり着いた。ようやく悠那とユナの願い……皆の為に歌う事が出来るステージにたどり着いた。

 そのはずなのに、エイジの前に立ちふさがる最後の敵は、トラップでもなければ、ネームド・ボスでもない。プレイヤー……人間だった。

 ボサボサの無造作に伸ばした黒髪とよれよれの謎プリントのTシャツ、オマケにスリッパという戦場にあるまじきふざけた姿。だが、それでもコピーネームドを一方的に葬る戦闘能力は、傭兵でも……全プレイヤーでも間違いなくトップクラスであることは疑いようがない。

 ビールの空き缶を床に転がして、退屈しのぎの酒盛りでもしていたのだろうライドウが腰かけるのは、銀色の台座……祭壇だろう。小さな机程度であるが、それこそがエイジ達が追い求めていた終着点だ。

 

「いやぁ、アラタさんの指示でここに来たんだけど、早過ぎちゃったみたいでさぁ。退屈凌ぎのそこのネームドをちょーとボコしてたんだけど、思いの外に雑魚でストレスがマシマシなんですけど? 初のソロ討伐がこれとか俺の記念の恥なんですけど? これ、どうしてくれんの? ん? ん?」

 

 そして、もう1つの衝撃は、仮にライドウが立ち塞がらずとも、彼の背後で火花を散らしてポリゴンとなって崩壊していく、ネームドだろう、最終防衛ロボットが待ち構えていたことだ。コピーネームドにすら太刀打ちできないエイジには限りなく勝率は無いに等しかっただろう。

 

「でもさ、滑稽だよねぇ。そんなにボロボロになったところで、なーんにも出来やしないのにさ。無駄の積み重ねって奴? お馬鹿ちゃん過ぎて、もう笑い声も出ないんですけど! 弱い奴が何をやったって」

 

「……そこをどいて」

 

「え? 何?」

 

「そこをどいて!」

 

 言葉も絞りだせないエイジとは違い、ライドウを前にしてもユナは怯まずに自分の意思を主張する。

 

「あなたがどれだけ強いのか知らないけど、エイジを馬鹿にするな! 確かにエイジは弱い! 弱いけど……あなたよりもずっと『強い』!」

 

「なにそれ? 矛盾じゃん。俺、強い。そいつ、弱い。なのに俺より『強い』? 意味わからない。え? これって新手のクイズ? 嫌だなぁ、頭使うのって疲れるから嫌なんだよねぇ」

 

 やる気なくライドウは手元の缶ビールを揺らす。そして、不意に投げつける。黄色い液体が宙に飛び散り、その刹那の間にユナの喉が掴まれてエイジから引き離される。

 

「ユナ!」

 

 叫んで追おうとするが、こんな時になってダーインスレイヴとのリンクが途切れる。

 憎しみを忘れようとしたのか? 裏切るのか? そう罵るように、エイジはFNCによって体がピクリとも動かなくなる。

 

「ぐっ……あ……がぎぃ!?」

 

「そもそもさぁ、お前みたいな奴……俺って大っ嫌いなんだよねぇ。弱いくせに、なーに叫んじゃってるの?」

 

 ユナの美しい声が苦しみの醜い喘ぎに変じる。ライドウに首を絞められながら持ち上げられ、彼女は宙で足をばたつかせる。

 

「そこの雑魚君もよーく聞いておきな。いい? 信念とか矜持ってのはね、強者だけに許された贅沢なの。分かる? 分からないから馬鹿なんだよねぇ。俺は優しいから、もう少しだけ教えてあげる」

 

 動け。動け。動け! エイジは途切れたダーインスレイヴとの再接続しようとする。だが、頭痛が増すばかりだった。

 

「弱者が願っていいのは1つだけ。強者に媚へつらって生き残ること。それ以外の何が許されると思っちゃってるわけ?」

 

「ふざ……ける、な……! ユナを……放せ!」

 

「強者が生き、弱者は死ぬ。弱肉強食こそがこの世の摂理。強者は何をやっても許される。弱者を殺すのも、弱者で遊ぶのも、弱者を支配するのも、全て許される! それこそが強者の特権! わぁかぁるぅうううう? この世はね、強者の為に成り立っているゲームなんだよ。強者を少しでも楽しませるのがお前たち弱者の役目。強者は弱者から奪い、犯し、殺すことで退屈を紛らわし、強者同士の遊戯に興じる! それがこの世の仕組みなんだよ」

 

 戦え。戦え。戦え! ユナを死なせるな! 今までと同じだ! ライドウ相手に少しでも時間を稼げ! 彼女が歌える時間を! エイジは左手に握るダーインスレイヴに全てを注ぎ込む。

 憎しみをほんの少しだけ忘れてしまった。それが許されないことであるならば、この憎しみだけを残して『僕』を喰らい尽くせ。

 救われたいなどとは思わない。助けられなかったことを悠那に許してもらいたいとさえも思わない。この憎しみだけに自分の全てを捧げよう。

 だって、そうだろう? 悠那とユナの願い……歌いたいという彼女たちの魂の叫びさえも、僕は憎しみで染め上げてしまっているのだから。そうして、ここにいるのだから。

 繋がる。幾度の限界を経て、自分の中で決定的に壊れる音と共に、エイジは再びダーインスレイヴと繋がる。

 

「あぁああああああああああああああああああ!」

 

「おん?」

 

 レギオン化までどれだけの時間が残っているだろうか? 本当にギャラルホルンが殺しにきてくれるならば、ライドウも巻き添えにできるかもしれない。

 必要なのはユナが歌う時間だけだ。彼女が思いのままに歌う為の時間さえ稼げればいい! 駆けたエイジは、ユナを傷つけないように、ライドウを狙って突きを繰り出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、ダーインスレイヴの剣先はライドウに踏まれて軌道がズレて床に突き刺さり、エイジの顎に蹴りが穿たれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 決死の攻撃を軽々と捌かれるどころかカウンターまで喰らい、壁に叩き付けられたエイジは血を吐き散らすも立ち上がる。その姿にライドウは欠伸を噛み堪える。

 

「あー、もしかして、キミって『覚悟』さえあれば何でも乗り越えられるとか思っちゃうタイプ? ざ~んね~んで~したぁ。『覚悟』なんて絶対的な『力』の差を覆すのには、欠片も役に立ちませーん♪」

 

 不気味な程に長い舌でユナの首を舐めたライドウに、エイジは頭に血が昇りそうなるも、安い挑発に乗るなと己を御す。

 残された時間でまずはユナを解放し、ライドウを足止めする。それを可能とするのは、あと1回だけしか使えないつらぬきの騎士の破壊の一撃だ。

 殺せ。ライドウを殺してでも止めろ。エイジはガトリングガンによる破損修復がまるで間に合っていない両足を動かす。もはや欠損クラスであり、再生アイテムが不可欠だ。この戦闘中に奇跡的に治癒するなど期待できない。

 右目の視界はなく、右ひじから先もまたない。両足は立っているのもやっとの重傷だ。それでも、とエイジはライドウへと一直線に駆ける。

 突きは見切られる。狙うならば足だ。幾らライドウでも、片足になれば戦闘続行は出来ない。

 姿勢を低くして足を狙うエイジに対して、ライドウはユナの首を掴んで振り回しながら、彼の一閃を跳んで避けるだけではなく、彼の頭を踏みつける。それは古い勇士の時にエイジがした事と同じであるが、彼が視覚警告を持ちいらねば出来なかったことを、ライドウは簡単にやってのける。

 

「もしかして、足を攻撃すれば何とかなると思った。OK! じゃあ、ゲームしようか! 俺、これから『片足』で戦いまーす! このコを掴んだままだし、左手オンリーだね! うわぁ、凄いハンデ! さすがにまけちゃうかも~♪ 俺に両足をつけさせたらクリアって事で……スタート♪」

 

 右足1本で立ったライドウは、瞬間に『消える』。一瞬で加速し、エイジの見えぬ右目の死角に入り込む。ダーインスレイヴでガードする暇もなく、ライドウの拳が頭蓋を砕いて脳に到達する勢いで直撃し、エイジは吹き飛ばされ、散りつつあったネームドの残骸に激突する。

 

「ヘイヘイ、かかっておいで! こっちは片足だよぉ? ほらほら!」

 

「うぁああああああああああああああ!」

 

 何故だ?

 

 どうして?

 

 僕とお前の何処にこんなにも差があるというのだ?

 

 エイジがどれだけ剣を振るってもライドウには掠りもしない。逆にライドウの拳はエイジに叩き込まれていく。

 

「エ……イジ……!」

 

「待って、ろ……ユナ。今、すぐ……!」

 

「はーい、感動のシーンはCMの後に続くぅ!」

 

 もう自分が立っているのか、ちゃんと前を向いているのか、見えているものが正しいのか、それさえもエイジには分からない。

 だが、胸に燃え上がるのは憎悪だ。ユナを苦しめるライドウへの憎悪。どれだけ『覚悟』を抱いたところで覆らない『力』の差に対する憎悪。何も為せない自分自身への憎悪。あらゆる憎悪がエイジを突き動かす。

 待ってろ。必ず助けるから。ユナは僕と違う。その歌でみんなを救いたいという優しい願いがあるのだから。

 悠那の願いを憎しみで汚しきってしまった自分はここで滅びても構わない。だから、必ずライドウにダーインスレイヴの刃を……憎しみで鍛え上げられた『力』を届けてみせる!

 

「学習しないなぁ。そんな稚拙な攻撃が通じるわけないじゃん。スピードもガタ落ち。パワーもまるでない。やる気あるの? 言ったでしょ! 弱者は強者を楽しませる! ほら! ほら! ほら! 頑張らないとこのコが余計に苦しむよぉ?」

 

「ぐぎ……あが……ひぎ……かひゅ……っ!」

 

「ユナ!」

 

 首を更に絞められ、HPを減らすユナの頬を涙が伝う。大きく見開かれた両目はエイジを真っ直ぐに見ている。

 冷静さを失うな! 激情などこの憎しみだけで十分だ! エイジはどうすれば左手だけでライドウに勝てるかを考える。

 強みを伸ばし、弱みを潰し、新たな領域を手に入れる。それを成長と呼ぶ。エイジはこれまでの戦いを振り返り、手持ちの全てを参照する。

 たとえ視覚警告を使えたとしてもライドウには勝てない。あれは相手の必殺をFNCで感知する視覚だからだ。まるで本気を見せず、手抜きでエイジを圧倒するライドウが相手では、どれだけの効果があるかも分からない。

 両足から血が噴き出す。精神力では補いきれない両足の破損は拡大し、流血のスリップダメージがHPを減らす。だが、エイジは迷わずに動き続ける。

 

「動きが単調。イージーモード過ぎ。あのさぁ、このコがもっと苦しんでもいいの? ほら、頑張れ♪ 頑張れ♪」

 

 重ねろ。重ねろ。ひたすらに重ねてパターン化しろ。そうして隙を作れ! エイジはスタミナが危険域となってアイコンが点滅する中で、最後の攻撃に備える。

 ライドウに生半可な突きは通じない。だが、それでも愚直に何度も繰り出すことで、ライドウは見切りをパターン化させてしまっている。反射に近くなっている。エイジがまるで『NPC』のようにパターン化した攻撃しか繰り出さないことがライドウを退屈にさせ、分析を怠らせていく。

 いつものように跳んで突きを踏みつける。ライドウが宙を舞った瞬間に、エイジは溜めの動作に入る。ソウルの奔流を纏った、つらぬきの騎士の攻撃を繰り出し、宙にいるライドウを狙う!

 

「あーあ、それだけ? つまらないなぁ」

 

 だが、つらぬきの一閃は発動直前にライドウの蹴りによって軌道が曲げられ、あわやユナの下半身を消し飛ばしそうになり、エイジは息を呑む。

 ライドウを一撃で葬れる可能性を持ったカードは効果が無かった。発動モーションも見られた以上、もう2度と通じる事はない。

 何事もなく着地したライドウは欠伸する。もうエイジに切り札はないと、今度こそ『油断』を露にする!

 エイジはダーインスレイヴを軽く宙に放り、エイリークに使ったように赤色爆薬をライドウに向かってばら撒く。

 エイジの武装は2つ。

 1つは無論、ダーインスレイヴ。憎しみによって繋がり、FNCを戦う武器へと変えた、負の感情によって結ばれた邪剣。

 そして、もう1つはスレイヴが準備してくれていた呪術の火! 自分の血で真っ赤に染まってもなお、拳の内で隠れた火は、エイジの鬼札!

 ずっと、ずっと、ずっと鍛錬してきた。剣だけで足りないならばと呪術にも手を出した。

 2度発動すれば魔力切れで使えないつらぬきの騎士の『力』。だが、前へと進み続けた時間……ユナがここまで運んでくれた時間が……たった1回分だけではあるが、ある呪術の発動に必要な魔力量を満たしていると確信が持てる!

 何も実らず、堕ちて、堕ちて、堕ちて、スレイヴと出会い、ユナとの冒険を経てここにたどり着いた。

 

 

 宙を舞うダーインスレイヴの鋭利な刀身。それを左手で掴みながら、エイジが発動させるのは、彼が瞬間火力増強に使う呪術である瞬く炎の武器。

 

 

 刃を掴んで撫でながらの発動はダーインスレイヴに己の血を啜らせながら烈火を生み、そのまま柄を掴んで逆手持ちに至る。

 

 

 ライドウが気づいた時には遅い。左手でダーインスレイヴを握り続けたが故に呪術の火は隠れ続け、火の気がないと油断したライドウに対して焔を纏った逆手の一閃は繰り出される。

 

 

 

 

 

 

 

 敢えて名付けるならば、爆閃。赤色火薬の炸裂を及ぼすダーインスレイヴの炎刃は、エイジの全力の踏み込みと同時に放たれた。

 

 

 

 

 

 

 ライドウ、最大の油断。それはエイジがユナを巻き込む攻撃を『できるはずがない』という油断だった。

 赤色火薬がもたらす衝撃によってライドウの手からユナは放られて床に叩き付けられる。むせる彼女の先では、『両足』で着地したノーダメージのライドウがいた。

 STRの全てを注ぎ込んだ踏み込みに耐え切れず、右足の骨が脛で折れる。倒れながらエイジが見たのは、ライドウのふざけたTシャツが焦がし斬られた様だった。皮1枚ならぬ、Tシャツ1枚の差で刃はライドウを刻まなかった。

 だが、何も持っていなかったちっぽけな男が……自らの経験と知恵によって生み出した、自分だけの武技によって、確かに強者を自称するライドウに、シャツ1枚とはいえ届いたのだ。

 

「……うわぁ、マジでクリアしやがった。雑魚のくせに」

 

 右足が折れて倒れかけたエイジは、何とかその場にダーインスレイヴを突き立てて堪える。残された左目で、これが弱者の意地だと睨む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よーし! それじゃあ、『ステージ2』始めよう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ライドウが消え、次いでエイジの左膝に強烈な蹴りが叩き込まれて砕ける。

 両足の骨が折れたエイジは顔面から倒れ、その場に突き立ててままのダーインスレイヴから左手は零れた。

 

「ステージ……2?」

 

「そうそう♪ いやぁ、まさかステージ1をクリアされるなんて、サイコーに面白いじゃん! 弱者は強者を楽しませる! 雑魚君も分かって来たねぇ!」

 

 これはゲームだ。ライドウは最初から言っていた。

 確かにエイジはライドウの両足を地面につけた。

 では、それの何が『エイジの勝利』に繋がることだっただろうか? 

 ライドウを楽しませただけだ。彼の言う通り、エイジは必死になってありもしない勝利の為に道化となって、ライドウという強者を楽しませただけだ。

 

「それじゃあ、ステージ2を説明するよ♪ はい、雑魚ちゃんはおねんね!」

 

「ぐぎぃ!?」

 

 立ち上がろうとしていたユナを蹴りで仰向けに倒したライドウは、そのまま汚らしいスリッパの裏で彼女の喉を踏みつける。

 

「ルールは簡単。ここまで来て、雑魚ちゃんに触れたらキミの勝ち。し、か、も、ボーナスチャンス! クリア出来たら見逃してあげる♪」

 

「ぐっ……あぐ……!」

 

「そんな目しないでよ。これは本当だよぉ? 俺って今スゴーイ楽しいから、嘘吐かないって! そんな楽しみを削ぐような真似、するわけないじゃーん!」

 

 残量HP5割未満。まだだ。まだ戦える。まだ負けていない!

 ペイラーの記憶に来てからまともな勝利などない。ゲオルグから逃げ、湖獣には凌ぐしかできず、ランスロットはUNKNOWNに押し付け、古い勇士には反撃さえもしなかった。そうして勝利無くここまで来たのだ。

 だったら、どれだけ無様だろうと自分の戦いを貫くだけだ。ライドウを信じるなどというあり得ない判断であるとしても、全力を尽くして敗者にだけにはならない。

 残された左手だけで這うエイジに、ライドウは指で挟み込んだ鉄球を投げる。わざとスピードを調整して威力を落としただろう攻撃は、エイジの左手の指に直撃して砕く。

 

「がぁああああああああああああ!」

 

「制限時間に気を付けてねぇ! ほら、このコのHP……あと3割くらいしか残ってないよ?」

 

 次々と投げられる鉄球が、エイジのHPをじわじわと削るが、それ以上にダメージフィードバックを誘発する。わざと傷口を刺激しているのだ。

 待ってろ。ユナ! ユナ! ユナ! エイジは折れた左手で床を掴んで少しずつ這う。ユナまであと7メートルであり、それはこれまでのどんな道のりよりも遠い。

 残り6メートル。だが、エイジの手は震えて動かない。多重のダメージフィードバックの負荷、事実上3日間まともに眠ることもなく動き続けた疲労、何よりもダーインスレイヴとのリンクによる精神侵蝕によって、微動すらも許されない状態だった。

 ゴキブリを超えたかな? 汚物に這う虫を思い浮かべ、それでもエイジは這ってでも、前へ、前へ、前へと進もうとする。だが、体は動かない。

 ここまでなのか? エイジは闇に消えそうな意識の中で、残された左目でユナを見る。

 首を折られる勢いで喉を踏みつけられているユナは、涙を流しながら、苦しみを訴えるように震える手をエイジに伸ばしている。

 

 

 かつて、悠那がそうであったように、エイジへと手を伸ばしている。

 

 

 また届かないのか。結局は何も出来ないのか。エイジは歯を食いしばり、己の弱さを憎む。

 

「…………て」

 

 潰れた声で、それでもユナはエイジに手を伸ばして訴える。

 救いを求めるように、助けてと叫ぶように、守ってくれるはずだよねと縋るように、かつての悠那のように手を伸ばす。

 

 

 

 

 

 

「に……げて…………エイ……ジ!」

 

 

 

 

 

 

 違う。

 

 ユナと悠那が重なる。

 

 そうだ。悠那も手を伸ばしていた。FNCで体が硬直して震えたエイジが……それでも助けに行こうと足掻く彼の為に手を伸ばした。

 

『自分を助けて欲しい』からではなく、『エイジに逃げて生き延びて欲しい』と願って、突き放すべく手を伸ばしたのだ。

 

 ああ、自分は本当に何も分かっていなかった。彼女のことを何1つ理解していなかった!

 

 エイジは奥歯が砕ける程に噛み締め、折れた左手で再び這う。這ってでも、前へ、前へ、前へ!『彼女たち』の願いを否定し、その手を取る為に!

 

 喰らって構わないといったはずだ、ダーインスレイヴ!

 

 まだ『僕』は残っているぞ! こんなにも憎悪に猛る『僕』がいるぞ!

 

 さぁ、喰らえ! 喰らい尽くせ! この憎しみさえも捧げろというならば、迷わずそうしようではないか!

 

「うがぁ……あぁああああああああああああ!」

 

 雄叫びと共にエイジは這い続ける。手が届くまで残り3メートル。ライドウが何か言っているが、もはや聞こえない。

 残り2メートル。這った後に血だけがべっとりと残る。それはエイジの憎しみの呪いそのものだ。

 あと1メートル! 自分がもうどうなっているかも分からない。止まぬ頭痛と消えぬ蜘蛛の足音。全身を浸すダーインスレイヴの侵蝕は、まるで血流に乗っているかのように駆け巡っている。

 それでも、それでも、それでも! エイジは最後の力を振り絞る。

 

 まだだ。

 

 まだ負けていない。

 

 僕はまだ……負けていない!

 

 

 

 

 

 

「やっと……届いた、ユナ」

 

「エイ……ジ」

 

 

 

 

 

 

 

 エイジの折れた左手がユナの伸ばされた手に触れ、彼女は笑った。自分を助けに来てくれた、憎しみに塗れても剣を取り続けた騎士を讃える姫のように笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、醜く汚らしい肉が潰れる音と共に、ユナの首は踏み潰された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ころり。ころり。ころり。

 

 踏み千切られた首がエイジに向かって転がって来る。

 

 ぴちゃり。ぴちゃり。ぴちゃり。

 

 醜い傷跡から滴る血の音がエイジに彼女の『死』を伝える。

 

 

「ステージ2、クリアぁああああああああああ! おめでとう、雑魚くん! 約束通り、助けてあげるよ!」

 

 

 大笑いするライドウを見上げるエイジは、震える唇で言葉を紡ごうとして、だが何も出なかった。

 

「いやぁ、ここまで奮闘するなんて、俺も感動しちゃったよ。史上初のステージ2クリアの感想は? あ、マイクがいるね! ほい!」

 

 ユナの首なし遺体を踏みつけ、エイジが握っていた彼女の右手……右肘から先を引き千切ったライドウは、エイジの口元に先程まで握っていた彼女の手を突きつける。

 

 死んだ。

 

 ユナが死んだ。

 

 こんなにも呆気なく死んでいいはずない。

 

 ユナの死を受け入れられないエイジに、ライドウは……笑う。エイジには到底できない、嬉々とした笑みを描いている。そして、同じくしてシステムメッセージが彼の目の前に表示される。

 

<ソウルの憑代は滅び、儀式は失敗した>

 

 無機質な文字列が示すユナの死に、エイジは自分を満たしていく絶望を感じた。

 

「どう……して?」

 

 ようやく出た呟きに、ライドウはしばらく吟味するようにユナの右腕を振り回し、やがて思い至ったように腕を投げ捨てた。

 

「あー、そういうことね! だって、このゲームの『プレイヤー』はキミじゃん。参加していたのはキミだけ。だから『助ける』ボーナスもキミだけのものだよ、雑魚くぅううん。ちゃーんとルール確認はしようねぇ。じゃあ、『ヒーロー』インタビューはこれくらいってことで! いやー、サイコーのショーだったわ。楽しませてくれてありがとね♪ いい暇つぶしになったわー」

 

 立ち去るライドウの足音を聞く中で、ユナの首と肘から溢れる血がエイジに流れ着く。その血の温かさこそが、喉から潰し切られて歌うことはない彼女の頭部こそが、もう光を宿らせぬ……自分と違って優しさと歌への愛に満ちていた眼が、エイジにユナの死を実感させる。

 

「あぁ……あぁああ……あぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 

 何度も、何度も、何度も壊れる音は聞いた。

 

 だが、それは憎しみに変じて燃え上がる音だった。

 

 きっと、憎しみの中で微かに残っていた、悠那への純粋な愛にして、だからこそユナを守ろうとした意思が……呪いに満ちた憎悪となって燃える音だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 折れた左手でユナの頭を抱き寄せ、泣き叫びながらエイジは……狂ったように笑った。もうこの憎しみを忘れることは決してないという、より憎しみを呼ぶおぞましい安堵と共に笑い続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、退屈な物語だ。

 

 

 

 憎しみを武器にして刃を振るい、愚かな旅路の果てに愛しき女の夢を壊した物語だ。

 

 

 

 守れず、助けられず、何も為せなかった、救いようがない愚かな弱者の物語だ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「冤罪とはな」

 

「ああ、直に彼は釈放される。その後は教会の下で療養することになるだろう。こちらとしても幾らかの補償はする予定だ」

 

 プレイヤーの……人間1人の人生を狂わせたというのに、ベクターの返答は素っ気なく、また欠片としてノーチラスへの同情はない淡白で事務的なものだった。

 夜分であっても溜まった執務があるベクターは、珈琲を傾けながら書類にサインする。その様子を横目に映しながら、ユージーンは両腕を組んでソファに腰かけていた。

 ユージーンが中央塔にたどり着き、負傷したエイリークを見逃す条件でシノンとの交戦を避け、途中でライドウとすれ違った時に嫌な予感はあった。

 どうしてこの男が先回りをしている? 心拍の上昇を抑えきれず、ユージーンが最上階……本来はネームドと戦うことになるだろう、多重の自動ドアの先の広々としたフロアで見たのは、惨殺されたNPCの少女の遺体と彼女の頭部を抱きしめたまま狂ったように泣き笑うノーチラスの姿だった。

 流血のスリップダメージでHPがゼロになる前に、ユージーンは何とか無理矢理でも回復アイテムを飲ませ、一応の捕縛をすると彼を連行した。

 姿を消していたシノンやエイリークの襲撃に備えながら、ユージーンは想定外の報酬を持ち帰って来たUNKNOWNに驚きながら、彼との約束を守るべく共にクラウドアース支部へと赴いた。アラクネ傭兵団は、エイジの負傷と魂が抜けた様子をいい気味だと嗤ってサインズ本部の方角へと消えた。

 まずはノーチラス確保をUNKNOWNと合同で行い、その約束としてラストサンクチュアリとの場を持つ条件を飲ませようとしたユージーンを待っていたのは、なんとも呆気ないノーチラス無罪の通知だった。

 既に真犯人は死に、機密も無事に確保されていた。教会は機密奪還に協力した見返りとして譲歩とノーチラス無罪を要求し、黒幕は既にベクター主導の下で機密……アンサラーの開発という罪をなすりつけられて軟禁されていた。実働でもあった黒幕の暗部も【渡り鳥】によって始末されたとのことだった。

 ノーチラスが冤罪かもしれない線を捨てきっていたわけではない。彼は無実を訴えていた。だが、逃亡犯は誰だって同じことを言う。ユージーンは任務をこなし、そして彼を捕まえた。それだけのことである。

 

「どうしてライドウを派遣した?」

 

 ならばこそ、許せないことは1つだ。あの狂人を派遣したベクターの真意を問わんとするユージーンに、彼は空になった珈琲を秘書に新たに注いでもらいながら、眉間を揉んでいつも通りのビジネススマイルを浮かべる。

 

「保険だよ。ユージーン君を信頼していなかったわけではない。だが、何事にもプランBは必要だ。違うかな?」

 

「…………」

 

「キミも疲れているだろう。今日は休みたまえ。ラストサンクチュアリ壊滅作戦は近い。こちらも仕事は回さないようにするから、しっかりと英気を養ってくれたまえ」

 

 安っぽい労いの言葉と共に執務室から追い出されたユージーンは、たとえランク1であってもこれかと自嘲する。

 やはりUNKNOWNを倒し、名実共に最強の傭兵とならねばならない。そして、万人の希望を背負う英雄となるのだ。

 それこそ、ランク1が信じてあげられなかったという、ノーチラスに対する償いにもなるだろう。

 狂ったように泣き笑う、もはや正気を失ったノーチラスを思い出し、これもDBOのありふれた悲劇であるとユージーンは目を伏せる。

 

「オレは止まらない。サクヤ、オレは……必ず……!」

 

 もはや我々は互いの武で決着をつけるしかないのだ、UNKNOWN。ユージーンはランク1とはかくあるべしと己に刻み込めるべく、ノーチラスの悲劇を脳の隅へと追いやり、普段と変わらぬ傲慢不遜、威風堂々と歩み始めた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 冤罪だった。真相を聞かされた『名無し』は、また間違いを犯してしまったと悔やむ。

 ユージーンは何も言わずに立ち去り、残されたUNKNOWNは先に教会へと赴かせたシリカが上手くやってくれただろうかと思いながら、ノーチラス……いいや、今はエイジと名乗る青年の解放を待つ。

 深夜零時を回り、いよいよ午前1時にもなろうとした時、クラウドアースの支部より衛兵に半ば押し飛ばされるようにて、右目と右肘がなく、右足を固定ギブスを嵌めたエイジが現れた。杖を落としながら玄関で倒れたエイジに、『名無し』は駆け寄ろうとして躊躇い、馬鹿野郎と自分を殺したい勢いで怒りを膨らませて歩み寄る。

 

「……立てるか?」

 

「……ああ」

 

 差し出された『名無し』の手を握ることなく、エイジは杖で無理矢理でも立ち上がる。どうやら左足の方は先に治癒しているらしいが、まだ重傷らしく、真新しい止血包帯に撒かれて痛々しかった。右目を覆うような包帯はまだ取り換えていないのか、血の赤を啜り過ぎてどす黒く変色していた。右肘から先もまた再生の兆しはまだ無い。

 何を言えばいい? 彼にどんな言葉をかければいい? 迷う『名無し』は、自分を押し飛ばすようにして現れた、濁った金髪の髪をした女が間に割って入るのを許す。

 

「えいじぇぇえええええええええええええええええええええ! 無事でよがっだぁあああああああああああああああああ!」

 

「スレイ……ヴ」

 

「よかった。本当によかった! まだ『お前』のままだ! うん……うん……うん! 本当によがっだぁあああああ!」

 

 泣いてエイジの生還を喜ぶ女は、次いで『名無し』の方を向き直ると丁寧に腰を折って挨拶する。

 

「失礼した。俺はスレイヴ。エイジの……そうだな。相棒のようなものだな。お前のことは『よく知っている』よ。傭兵最強候補の【聖剣の英雄】殿」

 

「……悪いけど、その称号は返上したから、もう呼ばないでくれると嬉しいよ」

 

「それは無理な相談だ。称号とは自分で名乗るものではなく、勝手に名付けられることが大半だからな」

 

「は、ははは。本当に耳が痛い」

 

 まさしくその件で手痛い目にあった『名無し』は、スレイヴに肩を借りるエイジの数歩先を進みながら、彼らを先導するように教会を目指す。

 

「キミを信じてやれずに……済まなかった」

 

「…………」

 

「ユージーンから話は聞いたよ。NPCの女の子は……キミにとって大切な人だったんだろう?」

 

 気持ちが分かる、などと口が裂けても言ってはならない。アスナという愛する人を失った悲しみと怒りと憎しみを知る『名無し』ではあるが、決して共感し合える仲ではない。

 エイジは目前で大切な少女を惨殺された。ペイラーの記憶から離脱し、決して手放さなかったNPCの少女の頭が消えた時には、彼は半狂乱となり、ユージーンと共に腕ずくで拘束するしかなかった。

 しかも殺したのはゲームではない。同じプレイヤー……人間なのだ。しかも、認めたくはないが、ライドウと『名無し』は同じ立場……エイジの追跡者だった。

 

「……どうでも、いい。もう……ユナは……死んだ」

 

 どす黒い感情に浸された眼に反し、エイジの口は諦観を語る。

 2人は何も言わずに『名無し』の後に続く。エイジは何処に向かっているのかも理解しないままに、スレイヴは『名無し』を信じて続いてくれるのだろう。

 

「外れていたなら済まない。もしかして、キミも元SAOプレイヤーなんじゃないか?」

 

「だったら……何です……か? そうですよ。僕は……ただの……何も守れず、為せなかった……役立たずの……愚かな……弱者だ」

 

「【聖剣の英雄】殿、エイジは深い傷を心に負っている。今は出来れば控えてくれ」

 

「……分かっている。でも、聞いておきたいんだ。もしかして、キミも茅場の後継者に誘われてDBOにログインしたんじゃないのか? 『死んだ人を取り戻せる』と聞かされて、もう1度デスゲームに――」

 

「は、ははは……アハハハ! 違い、ます……よ! 僕は『敗者』にならない為に……それで……それで……それで?」

 

 まずい。精神が壊れる直前だ。『名無し』は余計な質問を最大限に控えると心得ながらも、彼の事情もまた把握しなければならなかった。

 やはりエイジもまた元SAOプレイヤー……リターナーだった。そして、想定とは違っていたが、茅場の後継者に誘われてDBOにログインしたのもまた間違いない。

 エイジの場合は、まだハッキリとはしないが、『敗者』こそがキーワードなのだろう。

 まだ仮説の域を出ないが、エイジはSAOで大切な人を失い、DBOでまた取り戻そうとしたのだろう。今回の無謀が過ぎた行動は、冤罪によって追い詰められ、もはや猶予が無くなかった彼の賭けだったからに違いない。

 『名無し』に置き換えるならば、アルヴヘイム突入の為に下準備をする暇もなくありもしない罪で大ギルドに追われ、決死で挑んでもアスナの救出を追跡者に徹底的に邪魔されたようなものだ。『名無し』だったならば、怒りと憎しみのままに剣を向けていてもおかしくなかった。

 だが、もはやエイジにそれだけの精神力は残っていないのだろう。まだ激戦から……NPCの少女を殺されてから数時間しか経っていないのだ。それも仕方ないことだろう。時を置けば、『名無し』やユージーン、大ギルドに対しての憎しみを燃やすことは十分にあり得た。

 復讐される側……か。かつてアスナを殺された復讐心で魔王ヒースクリフを撃破した『名無し』は、否定することは決してできない。仮にエイジが剣を向けるならば、『名無し』は相対せねばならないだろう。だが、同情で刃を鈍らせ、殺されるわけにもいかない。

 常に復讐の危険に晒されていた、かつての白の相棒を思い出し、『名無し』は震える拳を隠すように強く握りしめる。背負う月蝕の聖剣の気遣いを感じ、その時が来たならばエイジの復讐を全力で受け止めるしかないと覚悟を決める。

 だが、もしも自分ではなく周囲の人間に刃を向けるならば? その時は今のような感情でエイジの復讐を受け止められるだろうか? 否だ。彼は自分がそこまで出来た人間だとは思っていない。復讐の刃に確かな怒りと憎しみで以って応えるだろう。

 憎しみの連鎖。よく聞く言葉であるが、こうも実感するとは思わなかった。『名無し』はアルヴヘイムで塗れた罪の流血もまた思い出す。たとえ、魂の叫びに従ったとしても、罪まで捨てることは出来ない。1つ1つ向き合っていくしかないのだ。

 

「あ、ようやく来ましたね」

 

 大聖堂の正門で待っていたシリカは、同伴を予定していたエイジに会釈し、予定外の随伴のスレイヴと軽く挨拶を交わした。

 夜更けということもあり、大聖堂は静まり返っている。だが、礼拝堂の扉の幾つかには明かりが灯っており、夜通しの祈りが捧げられているようだった。

 

「キミは今回のイベントをどう思う?」

 

「……どう、とは?」

 

「キミは何かを感じたはずだ。DBOには、後継者が招待したプレイヤー用のイベントが準備されている。あの男は……悪意で動くけど、約束だけは違えないタイプだ。今回のペイラーの記憶のイベントは、間違いなくキミ専用だったはずだ」

 

「だったら……何ですか?」

 

「キミのイベントはマルチエンディング方式だ。参加プレイヤーの取った選択と解いた謎によってエンディングと報酬が変わる」

 

 そして、『名無し』は語り始める。人魚信仰、灯台伝説、都市開発記録、ソウルの徴収によるディストピア化、ペイラーの企て、そして灯台の真の場所と人魚の狂像。全てを語り聞かせた。

 

「なるほど。エイジの持つ情報と統合しなければまだ分からない点も多いが、ベストエンディングの条件は自ずと分かるな。全ての楽譜を回収し、中央塔で祭壇を手に入れ、ポイントを集めて地下駐車場の秘密の入口を発見し、最強状態の人魚の狂像を倒す。情報収集が特に鍵になるイベントだったようだな」

 

「……キミの邪魔をしたのは俺だ。キミの無実の訴えに耳も貸さずに、話も聞こうともしなかった」

 

「それはお門違いだよ、【聖剣の英雄】殿。お前は仕事をこなしただけだ。悪意を持ってエイジの邪魔をしたわけではないだろう? だったら、謝らないでやってくれ。エイジの憎しみの矛先を……お前に向けるのはよくないことくらいは俺にも分かる。それに、お前はイベントに巻き込まれたかもしれないプレイヤーを助けようともしたのだろう? だったら、尚更のことだ。何よりもイベントクリアは争奪戦。それがDBOの常だよ」

 

「……結局は、俺達以外の巻き込まれたプレイヤーなんていなかったんだけどな」

 

 あるいは、もう死んでしまっていたのか。さすがに都市中を隈なく遺体捜索する時間もなく、だがエイジを責めない為に『名無し』は発言を慎んだ。

 スレイヴはエイジに親身でありながら、理知的な物言いで感情を露にしない。彼の立場を慮れば、殴り掛かられてもしょうがないとも思っていた『名無し』は、彼女の一切の負の感情がない眼を見て、感情を完全に御しているだけで腹の内はどうなっているのかまでは分からずに困惑した。

 

「いい加減に……僕を何処に連れて、行くのか……教えろ」

 

「そうだな。俺は人魚の狂像と交戦した時点で、キミとの合流が不可能である以上、ベストエンディングにはたどり着けないと思ったんだ。だから、身勝手だけど、俺にできるベストを尽くしたいって思ったんだ。人魚の狂像は、女性を模しているのに、何故か喉仏のような膨らみがあったんだ。声を失った人魚、生贄、ソウルの憑代、儀式の手順……謎はまだあったけど、可能性は低くないと思って喉仏を攻撃し続けたんだ」

 

 ようやくたどり着いたのは、月明かりに照らされた1室の扉。『名無し』がノックをすれば、30代半ばのシスターが扉を開く。彼女と入れ替わるようにして入室した『名無し』は、エイジを招き入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 簡素な寝室のベッドでは、NPCの少女と瓜二つの……だが、白髪ではなく淡い茶の髪をした少女が眠っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 NPCの少女と同じく前髪の片房を編んでいるのは、恐らくはSAOで生きていた頃の彼女の生存の頃のこだわり……オシャレなのだろう。温かみのある人肌と規則正しい呼吸音は、彼女の生を知らしめる。

 ベッドで眠る少女に衝撃を受けたらしいエイジは、幽霊でも見たように後退り壁に背中をぶつけると、そのまま尻餅をつく。

 

「人魚の狂像のエクストラ報酬……いいや、キミのイベントの『正規報酬』かな?」

 

 人魚の狂像の喉仏の殻を破るのは至難の業だった。斬り過ぎれば『内部』まで刃は届き、浅ければ弾かれる。『名無し』は集中力を研ぎ澄まし、人魚の狂像を撃破しないように手心を加えながら、喉仏の殻を破ることに専念した。

 そうして割れた喉仏の殻から現れたのは、NPCの少女と同じ顔をしたこの少女だった。まるでコールドスリープ状態だったかのように冷え切った彼女をキャッチするのと同時にイベント終了のアナウンスが流れたが、戦闘状態は続行され、『名無し』は最速最短で人魚の狂像を撃破した。

 あと一瞬でも遅ければ、たとえ喉仏を破っても彼女を救えたかは分からない。また、ベストエンディングの方法が、最強状態の人魚の狂像の喉仏を破ることならば、難易度は格段に上がっていただろう。

 

「キミはしばらく教会の保護下に入る。彼女も同様だ。絶対に安全とは言えないけど、他よりはマシのはずだ。俺にできるのはこれくらいしかないけど……だけど……」

 

「【聖剣の英雄】殿、エイジに代わってお礼を申し上げる。ありがとう」

 

「…………」

 

 エイジは沈黙を保ったままだった。NPCの少女……守りたかった大切な人を目の前で殺され、今度はまた同じ容姿の眠れる少女と再会したのだ。混乱するのも無理はないだろう。

 エイジとスレイヴを部屋に残し、『名無し』はシリカと並んで歩き、マユの工房を目指す。間もなくと迫ったラストサンクチュアリ壊滅作戦に備える為に立て籠もらねばならない下準備もそうであるが、『名無し』が得た【人魚の狂像のソウル】を渡す為でもある。彼女にはまた無理をしてもらうことになるだろう。

 そして、エイジ達やユージーンにも黙っていたが、『名無し』はもう1つ報酬を得ている。灯台の最深部に隠されていたコンソールルームの鍵だ。どうやらこちらの方にあったらしく、人魚の狂像を撃破するのと同時に得た鍵によって入れる為に、『名無し』以外では見つけることは不可能だ。

 

「……俺は間違えてばかりだな」

 

「ベストは尽くしました。あの人は、また大切な人と再会できる。それでいいじゃないですか」

 

「でも、ベストエンドの条件は満たしていないはずなんだ」

 

 後継者はそんなに甘くない。『名無し』も気づけていない何かがあるはずだ。だが、少なくともエイジが再び大切な人と巡り会えたのは間違いない。

 だったら、これはベストエンドなのか? いいや、違うだろう。エイジは目の前でNPCの少女を……大切な人を嬲り殺された。間違いなくバッドエンドだ。

 ならば、せめてバッドエンドの先で救いになっただろうか?『名無し』はオベイロンの玉座の間で殺されていたアスナを思い出し、今も耐え難い怒りと憎しみを湧き上がらせる。

 そんな簡単なものであるはずがない。あっていいはずがないのだ。ならば、これは『名無し』のエゴに過ぎないのだろう。

 

「行こう」

 

「はい」

 

 だが、今は止まれない。たとえ、もう【聖剣の英雄】という称号を背負うつもりなどなくとも、『名無し』は戦わねばならない。

 ラストサンクチュアリの皆を見捨てたくない。救いたい。助けたい。守りたい。それもまた『名無し』の、どうしようもなくワガママで欲張りな魂の叫びなのだから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「ほぼ侵蝕は完了しているのに安定している。これは俺のレギオンプログラムがお前に最適化する為に再構成されたのか? 学習能力の暴走……強引にリンクし続け、なおかつFNCと同調する為か。他にも幾つかの要因は考えられるが、まずはお前が安定するまで耐え抜かねばならなかったはずだ。よく頑張ったな」

 

「……どういう、ことなんだ?」

 

「お前はもう人間とは言い難いし、またレギオンでもない、中途半端な出来損ないの存在になったというだけさ。我々のような予測能力もなく、だが最大の弱点だったFNCこそがお前に『力』を与え、ダーインスレイヴは今までと変わることなくお前の憎悪に基づいた闘争心とリンクし続けてFNCに抗う手段だ。しかし、どんな影響が現れるのか分からない。注意しろよ」

 

「スレイヴは……それで……いいのか?」

 

「んー、そうだなぁ。元より俺は出来損ないのレギオン。虚無にも等しい『憎悪』を継いだ者だ。だから、俺の『力』の結晶でもある邪剣がもたらした結果としては、妥当ではあるかなと納得しているぞ?」

 

 眠り続ける悠那、あるいはユナの傍らにて、椅子に腰かけるエイジは眠る彼女の顔を見つめ続ける。

 思い出すのは『ユナ』の死に様だ。ライドウに惨たらしく殺され、転がる首の重さと血の温かさを思い出し、エイジは左手で顔を押さえて呻きを堪える。

 

「何があったかは大よそ把握している。慰めの言葉など、どれだけ聞いても虚しいだけだろう?」

 

「…………」

 

「だけど、忘れないでくれ。俺は何があろうともお前の味方だ。俺はお前の憎しみを尊ぶ。絶対にお前を見捨てることはない」

 

「ありが……とう」

 

「感謝の言葉は要らない。俺達の関係だろう? それよりも、ユナが目覚めた時にそんな顔は止めてやれ。たとえ、もう憎しみしか残っていなくてもお前が惚れた女だ。笑顔で迎えてやるのが男ってものだろう?」

 

 スレイヴはエイジの肩を叩き、何か食い物をもらってくると退室する。ユナと2人っきりにされたエイジは、そんなに酷い顔をしているのだろうかと鏡の無い部屋であることを呪う。

 スレイヴが眠るユナをスキャンしたところ、彼女こそが『オリジナル』であることが分かった。SAOで死んだユナより抽出されたフライトライトという最も魂の概念に近い情報媒体に基づいている。

 

『フラクトライトの破損率は15パーセント未満か。記憶の齟齬は見られるかもしれないが、こう言ってはなんだが、酷い死に方をした割には破損は最小限だ。だが、どうにも破損の仕方に特異な癖があるな。俺ではこれ以上のスキャンは難しいが、専門家の力さえ借りることができれば……』

 

 死の記憶を刺激すればフラクトライトの連鎖崩壊によって、このユナすらも……SAOで死んだ彼女をもう1度死なせかねない。彼女の死に携わったエイジは離席を要求したが、彼の顔を見ても連鎖崩壊は無いだろうとスレイヴは、やや歯切れが悪かったが、言い切った。

 

「僕は……キミに……なんていえばいいんだ?」

 

 ペイラーの記憶で冒険を共にしたユナは偽者なんかではなかった。確かに性格も含めた中身はまるで違い、記憶も無かったが、それでも彼女の魂を継いでいるのは間違いなかった。その歌声と行動の節々には確かに悠那と同じものがあったのだ。

 いいや、違う。あのユナもまた生きていた。悠那とは同じでなくとも、同じ歌声を持つ魂の片割れとして、確かに生きていたのだ。

 

 

 

 

 殺された。

 

 ライドウに殺された。

 

 本当にそうか?

 

 違う。

 

 あのユナを殺したのは、僕だ。

 

 僕の弱さが殺したのだ。

 

 どうしようもなく弱かった。それが全てだ。

 

 ライドウも憎い。だが、それ以上に憎むべきなのは弱者であることだ。

 

 弱ければ何も守れない。何も得られない。何も為せない。ただそれだけのことだったのだ。

 

 敵を倒して勝利を奪い取れもしない僕の弱さこそが……ユナを2度も殺したのだ。

 

 

 

 

「強者は生き……弱者は……死ぬ。それこそ……この世の……摂理」

 

 ライドウの言葉を反芻させ、エイジは自らの魂の叫びに耳を傾けようとするが、渦巻く憎しみのせいで上手く聞こえない。

 無罪放免。だが、傭兵登録は抹消された。この先はどうするべきだろうか? クラウドアースが幾らか補償をしてくれるとの事だが、背負った借金は莫大である。しかも、人間でもなく、レギオンですらもないスレイヴ曰く出来損ないの何かになってしまったという状態だ。

 視覚警告というFNCを武器にした『力』は得たが、代償としてエイジのピンチを何度も助けたレギオンプログラムの警告は消えた。ダーインスレイヴもまた連戦による消耗が幾らか目立っており、刃毀れも見られる。

 スレイヴともう1度ゆっくり話し合って今後の計画を練らねばならないだろう。もうフロンティア・フィールドに逃走する必要はないのだ。ならば、まずは借金返済と新たな収入源も模索しなければならない。

 と、その時、眠れるユナの瞼がゆっくりと開かれる。思わず椅子を倒して立ち上がったエイジは彼女に触れようとして、だが殺された『ユナ』がフラッシュバックして手を引っ込める。

 

「ユナ……悠那! 僕が分かるか?」

 

「…………」

 

 まるで寝惚けているかのように、ぼんやりとしていたユナは、アインクラッドで死んだ時と同じ顔、同じ背丈、同じ年頃のままに、ゆっくりと起き上がる。UNKNOWNが救出した時の恰好のままなのか、薄く透けそうな白い清楚な装束であり、だが首だけは黒いチョーカーが巻かれていた。

 徐々に覚醒したらしいユナは、改めてエイジを見つめ、自分の体に触れ、頬をこね回す。

 エイジは『演技』する。死んだ『ユナ』の影など微塵も見せない、ユナの目覚めを迎える幼馴染の顔をしようとする。

 そうだ。せめて笑おう。『ユナ』が望んだとおりに、きっとヘタクソとユナにも嗤われ……いいや、驚かれるかもしれないが、笑おう。

 

「…………っ!?」

 

 だが、何か様子がおかしい。ユナは顔を青ざめて喉を押さえ、ひたすらに咳き込む。まるで自分の喉を絞めるかのように両手を押し付ける。

 

「ユナ?」

 

「…………っ!」

 

「どうした!? ユナ! ユナ!?」

 

 自分の喉を掻き毟ろうとするようなユナの指は、首を覆うチョーカーを剥ぎ落とす。

 

 

 

 

 

 

 

 ユナの首に刻まれていたのは、刃で裂かれたような醜い傷跡だった。

 

 

 

 

 

 

 エイジはイベントを……人魚信仰と灯台伝説を思い出す。

 生贄は喉を裂かれ、歌声は引きずり出されてソウルの憑代となる。それこそが『ユナ』だった。

 UNKNOWNが告げたマルチエンディング。ベストエンディングには到達せず、だがユナが生きて戻ってくるはずなど都合が良過ぎるのだ。

 エイジは自分の情報と統合して考えに至る。もしかしたら、真の灯台に祭壇を運び込み、『ユナ』を歌わせ、最強状態の人魚の狂像にユナと『ユナ』が吸収される前に1つの状態……歌声である『ユナ』と一体化したユナをUNKNOWNと同じ手段で助けることだったのではないだろうか、と。

 情報収集を行い、全ての謎を解き、多くのコピーネームドを撃破し、騙されることなく祭壇を真の灯台に持ち込み、時間内に人魚の狂像の喉を裂いて救出する。極めて困難ではあるが、決して不可能ではない道のりだ。

 そう、自分さえ弱くなければ……同じ立場がUNKNOWNだったならば、きっとたどり着けたはずだ。

 

「…………!?」

 

 涙を浮かべ、エイジに助けを求めるように混乱したユナが縋りつく。だが、その手を彼は取ることなど出来ない。『ユナ』を殺した弱き自分への憎しみが余りにも大き過ぎた。

 スレイヴの言った特異なフラクトライトの破損。フラクトライトとは最も魂に近い存在。ユナと同じ歌声を持っていた魂の片割れのような『ユナ』。全てが線で繋がり、エイジは絶望の底に落ちる。

 

 

 

 

 身の程もわきまえない弱者が招いた生き地獄。愛しき女は最も大切な歌声を奪われる。相応しい末路だろう? 強者の嘲笑が頭の中で木霊する。

 

 

 

 

 

 エイジが憎しみに塗れていても確かに叶えようとした、ユナの夢……たくさんの人に歌声を届けて救いたいという願いさえも、己の弱さが壊してしまったのだ。

 

 

 

 これから終わることなく身も心も憎悪の炎に焼かれ続けるのだ。

 

 

 

 もうこれで憎しみが失われることはない。

 

 

 

 自分に縋りつき、だが嗚咽を漏らすことも許されないユナに触れることさえもできないエイジは、絶望さえも憎しみで満たすように、声も無く、だが狂ったように笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 繰り返そう。

 

 

 

 

 これは、退屈な物語だ。

 

 

 

 

 憎しみを武器にして刃を振るい、愚かな旅路の果てに愛しき女の夢を壊した物語だ。

 

 

 

 

 守れず、助けられず、何も為せなかった、救いようがない愚かな弱者の物語だ。

 

 

 

 

 そして、絶望の底で燃え上がる憎悪の炎から生まれた『鬼』の物語だ。




弱者に苦痛なき安息を。

弱者に恐怖の死を。

弱者に生き地獄を。


それでは、328話でまた会いましょう。

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