SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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朝霧の魔女は分かたれ、そして【混沌】は鎮められた。



今回のエピソードテーマは『選択』でした。


Episode19-09 帰還

「生存者は? 何人だ!?」

 

「たったの8人!? 冗談だろ!? 聖剣騎士団の精鋭中の精鋭だぞ! それに教会のウルベインさんは!? 参加した他のギルメンの安否は!?」

 

「円卓の騎士が3人とも死亡だと!? 嘘吐け! もっと正確な情報持ってこい! ディアベル団長の生存は確定しているんだな!?」

 

「よーし、そこだ! 最高の1枚を撮るんだ! 号外の見出しは『帰還した英雄達』! これでいこう!」

 

「想起の神殿は経由しない!? 撮影班戻してこい! 直だ。もうすぐ来るぞ!」

 

「生存者のリストはまだか!」

 

「馬鹿は生存! 繰り返す! 馬鹿ナイトは生存!」

 

 偉大なる隔週サインズが蚊帳の外とは、これも時流の流れか。カメラマンのブギーマンは、今か今かと大スクープを待っている取材陣が集まる終わりつつある街の転移ポイントを冷ややかな目で見つめる。

 場所は終わりつつある街の中心部、黒鉄宮跡地。今まさに帰還するだろう、アノールロンド攻略を成し遂げた英雄達に群がるべく、各社の記者やフリーのカメラマンが詰め寄っている。

 隔週サインズは栄誉あるDBO初のゴシップ誌、もとい情報誌だ。元々は傭兵向けに刊行されていたが、今では多くのプレイヤーに親しまれている。その一方で品格というものは欠け、顰蹙を買うこともまた多い。だが、ブギーマンなりのプライドを持って仕事をしていた。

 あそこで屯する輩は誇りがあるのだろうか?ブギーマンはカメラのレンズを拭きながら、仕事とはいえ、身も心も疲弊しているだろうアノールロンド攻略部隊の写真を撮らねばならない、傍から見れば同類だろう自分に辟易する。

 長く降り続いていた雨は止み、夕闇がほんのりと街を夜の色に染めていく。夏の終わりの風は秋の到来を教えてくれる。だが、首筋をほんのりと濡らす汗は、まだ残暑は続くのだと訴えかけ、その不快感がこれから先の未来に不安を過ぎらせる。

 

「お疲れ、ブギー」

 

「おっ、キャサリン。来てたの?」

 

 ふあふわのウェーブの髪と男の視線を釘付けにする凶暴装甲、いかにも天然そうな顔立ちで、美味しいネタを次々と獲得してくる、今やエネエナに次ぐ記者に成長したキャサリンに、今日は珍しく彼女と同行していないダンベルラバーに眉を顰める。

 

「ダンベルちゃんは、編集室で待ってるってさ。編集長が掴んだらしいんだけど、タルカスさんの死亡は……確定だって。ほら、ダンベルちゃんも……不本意だけど……本当に忘れたい思い出なんだろうけど……タルカスさんのこと自体は嫌いじゃなかったみたいだから。もらったずた袋はずっと棄てられなかったみたいだし」

 

「YARCAの絆……か。分かりたくないな」

 

「あはは。私も~。でも、もうYARCA旅団の奇天烈事件も起きないんだなぁって思うと……少し寂しくなっちゃった」

 

 YARCA旅団のはじまりの1人タルカス。偉大なる筋肉の伝道師にしてYARCA流の開祖。彼の死によって、多くの男性プレイヤーに色々な意味で恐怖を刻み込んだYARCA旅団は、これを機に解散するかもしれないと思うと、一抹の寂しさを覚えるのも確かだった。

 

「エネエナさんは?」

 

「先輩ならあそこ。何が何でもディアベルさんにファーストインタビューするんだってさ。相変わらずガッツがあるというか、あのバイタリティは羨ましいよ」

 

 ハイエナの群れ、もとい帰還するディアベルの取材をしようと転移ポイント周辺で群がる記者の集団を指差しながら、ブギーマンは何とも言えない表情をした。

 

「もうこの業界も私達だけの独占じゃないからね~。私にも引き抜きが来たよ」

 

「え? キャサリン辞めるの!?」

 

「辞めないよ。あ、でも給料は良かったかも。住宅手当も出るし、福利厚生も充実してたし、それに社員旅行は温泉だって。ちょっとグラついちゃった」

 

 彼女にそんな美味しい話が来ていたとは。よくぞ辞めなかったものだ、とブギーマンは同僚を称賛する。

 報道ギルド。3大ギルドの出資を受けた事実上の広報担当。隔週サインズを追い落とそうとする新進気鋭。様々な圧力を受けて全てを報道できない隔週サインズを見限って立ち上がったジャーナリスト。3大ギルドに徹底的に否を唱える反権力。この業界も群雄割拠の時代の到来だとブギーマンは疲れた眼をする。

 

「あの話ってもう聞いた? ほら、隔週サインズを週刊にするんだって」

 

「無理無理! 今の人員でできるわけないじゃん! ただでさえ締切前は地獄だってのにさ」

 

「だけど、現状だと隔週サインズは隅に追いやられちゃうわけだし、編集長としても何とかしたいんだと思うよ。このまま傭兵中心の雑誌でやっていくのもいいけど、裾を広げないと他に食べられちゃうし、せめて発刊ペースを上げないと」

 

「それで? 死人を食い物にして、心に傷を負った連中にもっと泣いてと腹の中で喚く奴らと同じになれってのかよ。冗談じゃない。俺は美人や可愛い女の子のベストショットが撮れればそれでいいの!」

 

「ブギーは本当に記者に向いてないよね。彼らの方が記者としてずっと正しい姿だと思うよ。だからエネエナも負けじと飛び込んでるんだろうし」

 

「先輩は元々政治畑の人だから、むしろ望むところなんじゃないの? 俺は今まで通り、ゆる~く傭兵相手にあれこれインタビューしたり、お茶を濁す程度に事件を記事にしたり、皆をハッピーに出来るネタコーナーをお送りできれば、それでよかったんだけどなぁ。そういうネタを追いかける緩い先輩、嫌いじゃなかったんだけど。あっ、別に今も同僚として嫌いってわけじゃないから。ただ、何て言うか……さ」

 

「仕方ないよ。色々変わってきたんだもん。私達も変わらないと。いよいよ大ギルド出資で番組放送も始まるって話だし。私もアナウンサーとしてスカウト受けたし。あ、もちろん断ったよ?」

 

 どれだけ自由度高いんだよ、DBO! そして、どれだけ勧誘されてるんだよ、キャサリン! 俺にはそんな話1度も無いぞ!? 泣きたい衝動に駆られるブギーマンを他所に、記者が群がっているのはプレイヤーでもトップクラスの美貌を有し、なおかつ有数の槍使いでもある太陽の狩猟団の【雷光】ことミスティアだ。

 カメラのフラッシュを焚かれる中で、ミスティアは毅然として無言を貫いている。本当ならば今すぐにでもアノールロンドに駆け付けたいのだろうが、ここで待つのは彼女の恋人としての意地か、それとも所属する太陽の狩猟団の戦略か。

 

「可哀想だね」

 

「ああ。空気読めよ。カレシが死んでるかもしれないってのによ」

 

「ブギーのそういう熱いところ嫌いじゃないよ」

 

「え? マジ!? じゃあ付き合う!?」

 

「ごめん。生理的に無理。顔は嫌いじゃないし、同僚としては好意を抱くけど、恋人としては生理的に無理」

 

 それ酷くない!? 今にも泣きだしそうなブギーマンに、キャサリンは嘘か真か半々かも分からぬ笑顔を向ける。

 女は魔性だ。だからこそ撮りたくて堪らないのだ。ブギーマンはそろそろ予定される攻略部隊到着の時間かとカメラを構える。

 

「ここから狙えるの?」

 

「一流舐めんな。写真は近けりゃ迫力があるってもんじゃないっつーの。要は芸術性だよ、げ・い・じゅ・つ! いかに魂に訴えかけるか。現実だろうと仮想だろうと、世界に違いないなら人の理もまた同じ。だったら写真道の行き着く極みもまた然り……ってな」

 

 まぁ、男は積極的に撮らない主義なんだけどね。ブギーマンは呼吸を整え、シャッターチャンスに備える。

 突如として消滅した死者の碑石。新たな戦闘システムによる混乱も冷め切らぬままに、DBOは変革を迎えている。

 仮想世界は1つ、また1つと肉付けされていき、自分達にはもう帰る場所などなく、この世界こそが居場所なのだと暗に突きつけられているような気がして、ブギーマンは酷く腹立たしい。

 

「なぁ、現実世界に帰りたいって思う?」

 

「私? うーん、最近はあんまり。あっちでは仕事も人間関係も、お世辞でも上手くいっていたとは思えないし。家族とも色々あって疎遠だったし、帰ったところで……なーんて、ゴメン。リアルの話はタブーだよね」

 

「別にいいじゃん。俺から振った話題だし。それに先輩も俺も出世は見込めない窓際だったし。先輩は帰って本を書いて1発当てるつもりらしいけどさ」

 

「本当に逞しいね~。ブギーはどう? 帰りたい?」

 

 一端カメラから身を離し、真剣な目をして問いかけたキャサリンに、自分から振った話とはいえ、真面目な話題は苦手だとブギーマンは頭を掻く。

 

「俺も家族からは色々と見限られてるし、仕事だって言った通りだ。こっちの方が生きてるって実感もある。可愛い女の子を撮影しても通報されないし、それだけでも俺にはパラダイスだ」

 

「サイテーだね」

 

「だけど帰りたいよ。こんな俺でも、病室に花くらいは家族も添えてくれてる『かもしれない』。だったら帰るしかない。あっちで残した問題が自動解決しているわけでもない。むしろ時間が経った分だけ悪化しているかもしれない。元の職場にすんなり復帰できるとも思えないしな。だけど、こっちの経験を活かして再出発は出来そうだし、世界中を回って可愛い女の子の写真集を作るってのも悪くない。SAO事件と同じ補償なら、少なくともしばらくは働かないでも暮らせるだろうし、のんびり社会復帰を目指しながら生き方を考えるさ」

 

「あははは。ブギーらしいなぁ。それ行き当たりばったりじゃん。でも、ブギーみたいに楽観視している方が人生楽しいんだろうね。ホント……羨ましいなぁ」

 

「馬鹿にしてるだろ」

 

「そ、そんなことないよ?」

 

 思えば仕事仲間とこんな話をしたのは初めてだ。ブギーマンは鼻を掻きながら、恥ずかしそうに顔を背ける。

 

「これからどうなると思う? ダンベルちゃんも、ブギーも、エネエナさんも、編集長も、私も……皆バラバラになっちゃうのかな? 嫌だなぁ。ダラダラとみんなで楽しく隔週サインズ続けたいだけなのになぁ」

 

「俺もそう思うよ。だけど、いつか『終わり』にしないといけない。それが俺の写真道の極め方だ」

 

 いつか最高の美人をフレームに収める。その為には仮想世界だけで満足できるはずがない。ありとあらゆる世界を見て回り、至極の瞬間に立ち会い、神すらも超える1枚を撮影するのだから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 本当のアタシはとても『弱い』。いつも必死に取り繕って、見栄えのいい自分を演出しているだけ。

 ミスティアは凛とした表情が今にも崩れそうな震えを堪えながら、転移ポイントでラジードの帰りを待つ。

 生きた心地がしなかった日々。難関として知られるアノールロンドの攻略ともなれば、ボス戦のみならず、ダンジョン内でも十分に戦死はあり得る。時間があれば死者の碑石に足を運び、ラジードの名前の検索をかけ、死亡していないかを確かめた。

 だが、やがて死者の碑石に縋るを止めた。いや、恐ろしくなったのだ。あんな冷たく無機質な石にラジードの死が淡々と、まるで報告文のように刻まれる。それは彼の生と死を冒涜しているようであり、またそこに彼の現状を問わずに生だけを認識して安心感を見出そうとする自分に嫌悪した。

 太陽の狩猟団も幾つかの未踏破ダンジョンを抱えている。また完全探索していないフィールドやダンジョンもある。だが、いずれもアノールロンドには及ばない。また気心の知れたギルドメンバー同士ならば連携も取り易い。コミュ力に長けたラジードであるが、周囲が実力者だらけともなれば気後れしてないだろうかとも心配だった。

 そして、ダンジョンから帰還して耳にした一報。アノールロンドのボス戦の敢行は、彼女からすれば常軌を逸していた。新システムの発覚により、各ギルドが解析と対策と新トレーニングメニューやマニュアルの開発に取り掛かる中で、アノールロンド攻略部隊は過去最強の人型ボス……それも2体同時戦を退却なく挑んだのだ。

 傍から見れば自殺行為だ。だが、大ギルドのエースとしての視点で見れば、ディアベルの判断は『大ギルド』の視点から見れば正しい。ここで退却すれば面目は潰れ、また他ギルドにアノールロンドの利権に食い込まれるだけではなく、下手をすればボス戦まで横取りされかねない。教会経由とはいえ、他ギルドの戦力も借りているのにボス戦の前で逃げ出すなど、どれだけの理由があっても体裁を保てないだろう。

 かつてのディアベルは違った。敵対するギルドのリーダーではあるが、少なくとも太陽の狩猟団の上層部……ミュウを筆頭とした内政組に比べれば、サンライスと同格で信じられるだけの人格者だった。今もその人気は陰らず、むしろ熱狂的になっているが、だからこそ彼女の目にはそうして自分の人気を高め、また誘導し、自陣営の強化を図る『演出』が酷く不愉快に映った。

 だが、演出しているのは自分も同じだ。本当は不安で仕方がない。部屋の隅で縮こまって震えていることしかできない。そんな自分が嫌で戦い始めたら、思わぬ才能が芽吹き、こうしてトッププレイヤーと呼ばれる人材になった。

 

(違う。本当はもう限界なの。キミが……キミがいないと、アタシはもう戦えない)

 

 たくさんの死を目にしてきた。全力を尽くして散った者。誇り高く死んだ者。誰にも認められることなく無念の最期を遂げた者。最前線に立つ者は多くの死を看取ることになる。

 次は自分の番だ。明日には自分が死ぬ。それでも戦うしかない。だが、戦えば戦う程に実感する。DBOは……この世界は『人間の限界を超えている』のだと。ダンジョンはより難攻不落となり、登場する雑魚さえもが強敵として立ち塞がる。ネームドやボスはもはや情報や物資が揃った大部隊でも安定した勝利を得るのは困難だ。そんな世界に耐えられる程に、ミスティアの精神は強くない。

 アノールロンドは間違いなく人間の限界点を完全に超えた戦いが待っている。だからこそ、ラジードと共に付いて行きたかった。帰りを待つなど耐えられなかった。

 戦場に赴く勇者たちは知らない。帰りを待つ者の恐怖を知らない。それでも望まれたならば、ミスティアは待ち続けた。せめて、彼の無事と安全を祈り続けた。

 誰に? 運命と呼ばれる神にだろうか? 神灰教会の祭壇で祈りを捧げる度に、その行為の意味を自問した。神灰教会の教義である灰より出でる大火などまるで信じていない自分が祈るは誰にだろうか?

 祈りの最中に1人の修道女に出会った。名はアストラエア。美しく温和な雰囲気をした、まさに聖女といった女性プレイヤーであり、彼女は祈りの意味を問いかけた。

 ミスティアは答えられなかった。答えを持ち合わせておらず、また考えても言葉にできるものはなかった。

 何に祈るのか。死者の碑石が消滅し、ラジードの安否も確認できなくなった時、強烈な恐怖心が内側より溢れた。あの冷たい石にどれだけ依存してしまっていたのかを思い知らされた。

 生存者は僅か8名。無論、そこには物資運搬を担う補給班や同行しているアラクネ傭兵団は含まれていない。あくまでボス戦に参加したメンバーの生存者数だ。だが、それでも50名を超える規模の大部隊がボス戦で1桁になるまで追い込まれるなど大ギルドの結成以来初の大損害だった。ましてや、指揮官は各ギルドも認めるところである聖剣騎士団のギルドリーダーであるディアベルだ。

 今すぐにでもアノールロンドに駆け付けたい気持ちに支配されかけたミスティアに言い渡されたのは、大人しく攻略部隊の帰還を待つことだった。無論、それは太陽の狩猟団のトッププレイヤーである彼女が無断で聖剣騎士団が所有権を主張し、なおかつボス撃破を成し遂げたアノールロンドに踏み込めば、抗議で済めば良い方の敵対行為になってしまうからだ。最悪の場合、太陽の狩猟団は公式に謝罪とそれなりの対価を支払うことになる。

 だが、ミスティアにとってはそんな事どうでも良かった。どれだけの処罰が課せられても構わなかった。それでも彼女が動かなかったのは、ラジードとの約束があったからだ。

 『待っている』と約束したのだ。ならば待つのが戦いだ。戦場で生死をかけて戦う恐怖は十分に知っている。ならば、待つ恐怖に屈するなど許されない。ミスティアはひたすらに、たとえギルドからの命令が自分を餌にしたイメージ戦略だとしても、動かずに待ち続けることを選んだ。

 涙も流さず、毅然とした表情で、まるで戦女神のように恋人の勝利を信じて疑わない。そんな立ち振る舞いを自らに戒めながら、夕闇で染まった空の下で、転移ポイントの光に焦がれ、また現実を突きつけられる恐怖に逃げ出したくて堪らなくなる

 それでも逃げない。必ず帰ってくるはずだから。いよいよ唇を噛んで涙を堪えそうになったミスティアの目に、転移ポイントで炎のように揺らめくエフェクトが爆ぜる。

 誰かがこう言った。『英雄たちの帰還だ』と。同時に瞬くフラッシュは、先陣を切るディアベルとそれに続く生還者たちを照らす。

 

 

 

 

「ただいま」

 

 

 

 

 そして、その中に独立傭兵のスミスに肩を貸してもらったラジードの姿があった。

 ボス戦も終わったならば、何処か足が欠損状態なのだろうか。だが、ミスティアの目に映る範疇では、ラジードの足は左右共に健在だ。だが、明らかに歩き方がぎこちない。

 

「……お帰り、ラジードくん」

 

 いよいよ涙を堪えきれず、それでも毅然とした態度を貫こうと抗いながら、ミスティアは愛しい人の名を呼ぶ。

 2人は見つめ合い、だが互いに動き出すことはできず、沈黙をカメラのフラッシュばかりが埋めていく。

 

「やれやれ、若い2人の世界か。私はこれで失礼するよ」

 

「うわっ!?」

 

 肩を貸していたスミスは、見つめ合う2人の熱に耐えられないとばかりに、苦笑しながらラジードの背中を押す。

 バランスを崩し、両足で立っていられなかったラジードはミスティアの胸に飛び込む形となる。それを彼女は受け止めて、またいよいよ足の震えが露となり、抱きしめながら膝を折る。

 とても重い。余りにも重い温もりだった。命の重みだった。それこそが彼の生を感じさせ、ついにミスティアの双眸は耐えきれず、涙が零れた。

 

 

 

「うわぁああああああああああああああああ! 生きてて良かったぁあああああああああ! 馬鹿! 馬鹿! ラジードくんの馬鹿! なんで1人で行っちゃうの!? アタシを置いていかないでよ! アタシ……ずっと……ずっと……怖かった! キミが死ぬんじゃないかって思うと怖くて、夜も眠れなくて……もう何処にもいかないで!」

 

「うん……ごめん、無理だ。僕は……きっと戦う。キミがいない場所でも戦うよ。でも、必ず帰って来る。どんな事になろうとも、何を失おうとも、必ずキミの所に帰る」

 

 

 

 

 酷い。とんでもなく酷い男だ。でも、嘘もつけず、真っ直ぐで、信じた道を突き進むそんな姿が大好きなのだ。

 他人の目など関係ない。ミスティアは自分のイメージなど関係なく、大泣きしながらラジードに縋りついて泣き叫んで生還を喜び、逆にラジードは困ったように彼女を抱きしめ続けた。

 

 

 

 後日、抱き合う2人の写真が隔週サインズにひっそりと掲載された。

 写真には添えられた記事もタイトルもなく、撮影者のブギーマンは自分の名前さえも記すことは無かった。

 それが噂に噂を呼び、他のどんな雑誌よりも隔週サインズは売上を伸ばすことになったのは、また別の話である。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「そうか。ラスト・レイヴンを使ったか」

 

「ああ。済まない。時期尚早かとは思ったんだがね」

 

 サインズで簡易的なミッション完了の報告書を提出したスミスは、その足でヘンリクセンの工房を訪ねていた。

 相変わらずのスーツ姿で応対するヘンリクセンは、並べられた武装の1つ1つの修理に取り掛かり始める。

 

「やはりドラゴンスレイヤーへの魔力供給ケーブルは弱点か。だが、これが無ければレーザーブレードの魔力消費量が増加してしまう」

 

「コンデンサー内蔵には出来ないのか? 確かプランBがそちらだったはずだが」

 

「ジェネレーターだけでもウチの馬鹿妹にどれだけの対価を払ったと思ってる? コンデンサー技術まで引っ張り出すなら、俺の独占技術は無くなるだろうな」

 

「そうか。私は技術屋ではない。キミのトータルコーディネートに全幅の信頼を置いている。改善案は任せるさ」

 

 煙草を吸ってもいいかな? スミスは無言でそう訴えると、工房で吸うつもりならば殴り殺すと言わんばかりにヘンリクセンは睨む。

 それは残念だ。肩を竦めたスミスは、今後のラスト・レイヴンの運用、そして取り扱いについて協議する。

 

「少なくとも聖剣騎士団はラスト・レイヴンの性能を知った。模作を試みるだろう。その動きは瞬く間に他の大ギルド……いや、DBO全体に広がるはずだ」

 

「だが、再現はさすがに無理なのだろう? ラスト・レイヴンの根幹である換装機能を成すのはネメシスのソウルだ。それにブースターはキミの独占技術であり、ジェネレーターも開発の目途が立っても素材が希少過ぎるはずだ」

 

「……普通ならな。だが、教会の工房にはイドがいる。奴はワンオフの開発こそ滅多にやらんが、その分だけ量産化は卓越している。象徴性の高い武器……つまりは、ハイグレードかつ生産性をクリアした武装の開発にかけては奴以上の鍛冶屋はいない。大ギルドも多額の『お布施』をしてでもイドに開発を持ちかけているくらいだ」

 

「キミやマユ君とは違う意味でのHENTAIか」

 

 言うなれば、大ギルドの工房が総出で取り掛かる量産試作開発を、たった1人でほぼ全行程、それも短期間で済ますような逸材だ。イドはある意味ではヘンリクセン達以上に危険なHENTAIと呼べるだろう。むしろ、経済や軍備拡張という面で見れば、量産性を度外視した装備ばかりを作る他のHENTAI達よりも重要度は高い。彼を保護、もとい独占する教会の先見性には脱帽するとしか言いようがないだろう。

 他のHENTAIと組めば更に手が付けられない筆頭でもあり、マユが教会の工房に在籍していた頃は、瞬く間に高性能の変形武器の量産を可能とした実績もある。目立ちこそしないが、イドもまたDBOにおいて、『イレギュラー』と呼ぶに相応しいHENTAIなのだ。

 黙々とラスト・レイヴンや武器の修理に取り掛かり、また改良・新規開発プランを練るヘンリクセンは、その工程を黙って見守るスミスに、呆れたように溜め息と苛立つような舌打ちを器用に重ねた。

 

「さっさと帰れ」

 

「そうはいかない。今回は経費も全て聖剣騎士団持ちだからな。キミに武器の修理明細を発行してもらわねばならない。それにラスト・レイヴンの今後の改良案に私からのヒアリングは――」

 

「いいから帰れ。その様子だと、サインズ本部にルシアはいなかったのだろう?」

 

 受付嬢のルシアがいない。つまりは、今日がアノールロンド攻略最終日、ボスとの決戦と知り、巣立ちの家で彼の帰りを待つという決意を固めたということだ。

 帰るべき場所がある。確かにその通りだ。だが、スミスは困惑していた。自分では想像していなかった程に足が重いのだ。

 

「……怖いか?」

 

「ああ、情けないことにね。今まで何も感じていなかった。考えないようにしていた。帰りを待ってもらえる喜びを知るなど、私には不似合いだとな」

 

 オーンスタインとの戦いでスミスは初めて人前で本気を出した。全力を出し切るにはラスト・レイヴンの性能は足りなかったが、それでも生存者に恐怖を刻み込み、やがてそれは噂となって伝播するだろう。

 形は違えども、白の傭兵と同じ立場になった。もちろん、『経験者』であるスミスは立ち回り方を学んでいる。これからは細心の注意でイメージ戦略にも取り掛からねばならないだろう。

 

「帰る場所がある喜びを知った者は、それを奪われる恐怖に怯え続ける事になる。今頃になって知ることになるとはな」

 

 『孤独』の恐怖から解き放たれたかと思えば、今度は『喪失』の恐怖を抱かねばならない。何とも身勝手なものだとスミスは煙草を思わず咥えてしまい、ヘンリクセンに怒りの奪取をされる。

 

「そういうものだろう。人間はあるか無いかも分からない未来の結果に一喜一憂した挙句、実際にその時になってみたら存外冷静に淡々と対処できたりするものだ。事実として、俺達はいつの間にかDBOに囚われた日々を日常とし、現実への帰還という目的すらも曖昧にしてしまっている。お前はどうだか知らんが、俺はこの生活……存外気に入ってるよ」

 

「意外だな。キミは現実世界に帰りたくないのか?」

 

「どちらだろうと俺は俺のやりたいようにやる。今はお前の専属の方がやりがいのある仕事だ。それだけが理由では駄目か?」

 

 当然のようにヘンリクセンは言い返す。そこには微塵の迷いもない。彼にとっては現実世界も仮想世界もあり方に大差は無いのだろう。

 

「……いいや、キミらしいな。何処であろうと自分である事には変わらない、か。キミからは多くを教えられてばかりだ」

 

「先人は言っていたぞ。人生とは学び続ける事だ、とな。ガキだろうと老人だろうと大差ない。賢者と愚者の違いなんて紙1枚ほどにもならん知識の壁だけだ。存外、愚者と馬鹿にされる輩や物事を知らんガキの方が真実を見抜く眼を持っているものでもある。まぁ、今のお前の場合、賢者か愚者かと問われれば、それ以前の臆病者だがな」

 

 それもその通りだ。そして相変わらずの毒舌だ。ヘンリクセンに修理費を支払うと、スミスはこれ以上の舌打ちを聞かされる前に工房を後にすべく歩き出す。

 

「スミス」

 

 そんな彼の足を止めるように、修理作業を続けながらヘンリクセンは名前を呼ぶ。

 

「その……なんだ……無事で何よりだった。それだけだ。さっさと帰れ!」

 

 思わずスミスが言葉を失えば、ヘンリクセンは振り返ろうとした彼に向ってインゴットを投げていた。間一髪で回避したスミスはそのまま逃げるように工房から出る。

 すっかり夜の帳が下りている。ルシアが待つ巣立ちの家までは幾らか距離もあるだろう。だが、早足で目指せば、子どもたちが寝る前に帰りつけるはずだ。

 

「帰る場所か」

 

 どんな未来を呼び寄せるとしても、帰路に立てる喜びを得た明日を卑下する理由にはならない。ヘンリクセンはそう教えてくれたような気がして、スミスは今度こそ気恥ずかしさから煙草を咥えて火を点ける。

 

「ああ、悪くない」

 

 さぁ、帰ろう。自分の家に帰ろう。それが許されるのだから。

 理性で敵を殺し続けた男は、傭兵として感情のままに帰路に着いた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「タルカス、リロイ、それにあのヴォイドまで。信じられません」

 

「俺もだよ。まさか【竜狩り】オーンスタインが……いや、【処刑者】スモウも含めて、ここまで強敵だったとは予想もしなかった。完全に俺のミスだ」

 

「いいえ、団長の責任ではありません。情報収集の責任者はこのアレスです。全ての責はこの老人にあります」

 

 場所は終わりつつある街にある聖剣騎士団の支部の執務室。ディアベルはソファに腰かけ、対面する形で2人の幹部……アレスとラムダと今後について協議していた。

 太陽の狩猟団に通達した通り、ラジードとミスティアという恋人の再会を『演出』し、アノールロンドの激戦がもたらした悲劇性を少しでもドラマ性に書き換えたのは、ディアベルとミュウの『事前協議』で決まっていた事だ。

 ラジードが死亡した場合、彼女は悲劇のヒロインとして太陽の狩猟団の広告塔と今後の完全攻略への邁進への表明の道具にされる。生存した場合は今回の通りだ。これもまた太陽の狩猟団が教会経由で戦力を貸した条件の1つである。聖剣騎士団としても損は無かったが、やはりこの手のメディア戦略は太陽の狩猟団が1枚上手であると実感する。

 だが、その一方で生存者と再会できた者たちとは違い、永久の離別を告知された者たちはどうだろうか? 彼らの嗚咽と涙はディアベルの耳にこびり付いて離れない。

 いや、そう信じたいだけだった。ディアベルの頭脳は冷徹に被害者を損失した戦力として計算し、今後の補充はどうするのか、王の器を手に入れたとしてもその先に待つギルド間戦争を切り抜ける為の戦力確保はどうするのか、そればかりが思考を支配しようとしていた。

 

「いいえ、誰かに責任を取らせれば、それこそ団長と聖剣騎士団のイメージダウンに繋がります。ここは毅然と戦果のみをアピールし、戦没者に哀悼の意を示すのが善策かと。既に太陽の狩猟団とクラウドアースのネガティブアピールと思われる動きが確認されています。配置した口コミ人員を通して、いかに団長が勇猛果敢に指揮を執ったのかを――」

 

「ラムダよ、イメージの問題ではないぞ。確かに対外的には誰も責任を取らないのも1つの方法だろう。だが、これだけの戦死者だ。いかに最強クラスのボスが相手とはいえ、団長の弾劾を求める声が出ないとは言い切れまい。ならば、この老いぼれに責任をなすりつけておけと言っているのだ」

 

「貴方はDBOでも貴重な年配者だ。年齢とはそれだけで人間を納得させる力を持ちます。どれだけ社会が変化しようと、仮想世界であろうと……いや、法律が無く、道徳が機能し難い環境下だからこそ、古来より続く年功序列とはそれだけで強大なアドバンテージとなります」

 

 内政を担当して策謀に長けたラムダと貴重な高齢のプレイヤーとしてディアベルの右腕として役割を担うアレス。2人は互いに『実力』こそ認め合っているが、ギルドの運営方針では対立するのが常だ。その間を取り持つのもまたディアベルの仕事である。

 

「分かった。折衷案を取ろう。まずは1週間後にタルカスさん達3人を含めた戦没者の慰霊を行う。悪趣味ではない程度に壮大にやろう。新しい墓石システムのいい広告にもなる。それからアレスさんは円卓の騎士の席を後進育成後に譲る旨を告知してくれ。俺はそれを受託して……そうだな、それから更に1ヶ月後くらいに聖剣騎士団の運営に問題が生じているというネタをマスコミに流そう。そこで、俺がアレスさんと密談したというネタを更に流す。それから何食わぬ顔で、後進育成後のアレスさんは俺の相談役に就任すると表明するんだ」

 

「なるほど。アレスさんを頼りにする者は多い。相談役というポジションも彼が親団長派と受け取られる。年齢差からも団長がアレスさんを敬っていると好意的に捉えてもらえるでしょう。不和を煽った上での強固な信頼関係と実利を取る合理性は良いアピールになります」

 

「雨降って地固まる……か。良いだろう。私はそれで構わんよ。だが、他2つのギルドにそう簡単にやらせてもらえるとは思わんがな」

 

「その点はご心配なく。新システムの解放や王の器による攻略情勢の激変、それにラストサンクチュアリ壊滅に向けたイメージ戦略の詰めで少なくともクラウドアースは大きく動かないでしょう。また、太陽の狩猟団は我々に比べても完全攻略において1歩どころか2歩も溝を開けられた。お得意の暗躍にしてパイの横取りは二の次にして、明るみに出来る戦果を出すことに注力するでしょう。我々はその間に戦力補充と再編を行いましょう。しばらくは傭兵を頼りにすることになりますがね」

 

 精鋭部隊と円卓の騎士3人の損失は大き過ぎた。まだ辛うじて最前線を攻略できるだけの戦力は残っているが、中核が抜けた以上はボス戦でメインを張れるアタッカーがいない。タンク部隊も残存しているが、タルカスを含めたトップクラス6人を全て失ってしまった。その価値を取り戻すには大きな時間を要するだろう。

 これらの問題を解決するには、下部組織や陣営入りをした中小ギルドからのスカウト、もしくは育成しかない。

 クラウドアースは長きに亘る雌伏を経て、いよいよ育成したエリートプレイヤーの実戦投入を始めると報告を受けている。今までは攻略事情で『表向き』は後塵を拝していたクラウドアースが、今後は大々的にアピールできる戦果を挙げるのは時間の問題だ。

 太陽の狩猟団も積極的なスカウトで人材を補充し、優れたプレイヤーの下で充実した教育を行っていた。その代表例がラジードだ。彼は元々名も知れぬ弱小ギルドの出身でありながら早期に見出され、ナグナで戦死したベヒモスの下で実力を高め、ついには今回のアノールロンドのように、ワンマンプレーからチームプレーまでこなせる稀有なトッププレイヤーとなった。

 対して聖剣騎士団もまた育成を怠っていたわけではないが、初期に実力者が集まり過ぎた弊害からか、他ギルドに比べて戦力は豊富でも平均してみれば質が劣る。

 

「今後は数が頼り……か。聖剣騎士団というギルド名は返上した方が良さそうだね」

 

 ディアベルの皮肉に2人はピクリとも笑わなかった。名前は重要だ。彼らもまた方針を変えるならば、ギルド名の変更も余儀なくされるだろうと考えているのだろう。

 だが、目に焼き付いている3人の騎士達を慮ればこそ、『騎士団』でありつづけねばならないとも『ディアベル』は思うのだ。

 

「失礼します」

 

 と、そこに入室してきたのはエドガー神父だ。元同僚の登場にアレスは露骨に嫌な顔をし、ラムダは特に思う所はないとばかりに事務的に会釈する。

 今回のエドガーとライドウの離脱は予定通りだったとはいえ、彼らさえいれば、という気持ちは少なからずディアベルにもあった。だが、それを責めるのはお門違いである。

 

(ライドウが戦死してくれていれば、クラウドアースにも大きなダメージを与えられたんだけどね)

 

 あの【竜狩り】オーンスタインならば、ライドウを死に至らしめることも可能だっただろう。ランク2の損失はクラウドアースにも無視できないダメージとなったはずだ。ディアベルはそうした薄暗い計算の下でライドウが予定通りにボス戦不参加だったことを嘆く。

 一方で自分を守ろうとしたラジードに対しては高評価だ。彼は『使える』。良くも悪くもギルドという垣根に無頓着だ。上手く利用すれば、彼を騒動の火種にして太陽の狩猟団内に不和をもたらすことも出来るだろう。

 既に太陽の狩猟団への不信の種は植え付けた。隠匿されていたコンソールルームの真実を、特にラジードを狙い撃ちにして語ったのはそれが目的だ。

 

(太陽の狩猟団は内政組こそ謀略に長けた人物が多いけど、攻略を担う戦闘組は人格者が多い。元々亀裂が入る余地はあった。サンライス団長の人徳があるからこそ保たれていたバランス。だけど、それは彼のワンマンとも言うべき突出した実力も礎にあったはずだ。ラジード君は今後も『育つ』。実力と人徳が備わった彼を引き抜くか、それが出来ずとも太陽の狩猟団から離籍させれば、芋づるでミスティアさんや彼らを慕う者たちも離れる)

 

 最上の結果はラジードが聖剣騎士団に移籍する事だが、そこまで高望みはしない。教会に正式移籍か、新たにギルドを立ち上げて中立となる程度で十分だ。教会ならば毒にも薬にもならない『正義の味方』になるだろうし、中立ならば結局のところ後ろ盾が必要となる顛末は目に見えており、そこに『かつて命を救われた義理を果たす』という形で『ディアベル個人の意向』という経路で支援を申し出れば良い。

 ミスティアは頭こそ切れるが、あれはいわゆる学業の成績が優秀なタイプの頭の良さだ。謀略にも心得こそあるが、自分で場を動かすタイプではなく、時流に上手く乗ることに長けているタイプだ。成功者にはなれないが、常に成功者のいる陣営に属している人間である。

 少し考え過ぎたか。入室後のディアベルの沈黙に、早くに参戦できなかった責めを受けているのだろうと、エドガーは普段の『にっこり』も無く頭を下げる。

 

「此度の戦没者に哀悼の意を。慰霊式の運営には全面的にこのエドガーも……いえ、教会も協力させていただきます」

 

「それはありがたいね。だけど、今回の責任は教会には無いよ。むしろ、教会経由で戦力を派遣してもらえたからこそアノールロンドの攻略は成功した。だけど、神父の気持ちも蔑ろにも出来ないね。どうだろう? 墓石システムから伴う墓所の管理が教会の仕事になるのは自然な流れだろうし、その際には聖剣騎士団には多少の……ね?」

 

「ええ、もちろんです。聖剣騎士団は先んじて教会敷地内に墓所を構えていらっしゃいました。今後とも末永いお付き合いをこのエドガーも望んでおります」

 

 1割は大きく見積もり過ぎか。だが、管理に伴う『お布施』の減額は見込めるだろう。自らの沈黙を上手く利用したディアベルは、エドガーとの最初の交渉で利を手にする。

 

「王の器の管理だけど、『予定通り』に教会に頼むとするよ」

 

「その前にですが、確認したいことが。本当に教会がお持ちなのでしょうな?」

 

 話を進めるディアベルを制止すべく手を掲げたアレスは、鋭い目付きでエドガーを睨む。老体と言えどもその肉体は並の成人男性以上に逞しい。それは彼が現実世界からスキャンされて持ち込まれた己の肉体だ。彼がただの老人ではなく、研鑽を怠らなかった人間であることの証左だ。

 

「ああ、『アレ』ですか。もちろんですとも。教会の大聖堂は『アレ』を隠匿する為に建造され、増築され、迷宮と化しているのですから」

 

「完全攻略のキーエリア。<火継の祭祀場跡地>ですか。エドガー神父が啓示を受けたという場所、是非とも拝見したいものですね」

 

 ラムダも興味を示すのは教会が秘匿する神秘の聖域だ。

 この終わりつつある街こそがDBOの設定上、世界で最後の土地だ。つまりはこの場所こそが、どれだけ都市として発展していこうとも、完全攻略の鍵となることは疑う余地もないだろう。

 そして、エドガーは発見していた。だからこそ、聖剣騎士団を離れ、教会を立ち上げたのだろうと、少なくとも聖剣騎士団は認識している。彼が『いかなる神の啓示を得たのか』などは知る由もなく、また興味もなく、互いを利用するだけのドライな関係だ。

 

「そう、この終わりつつある街こそが、かつての巡礼の地ロードラン、ドラングレイグなどの栄枯衰退の運命に呪われた国々、そして……灰の時代より更に前……古き獣が眠っていたとされる色の無い霧の時代ボーレタリアに位置する聖地なのです。大地は割れ、海が波と共に押し寄せ、幾多の因果が重なろうとも、この地こそが全ての始まりにして終わりなのですよ」

 

 それがDBOの設定であり、完全攻略後の世界の最初の土台となる。教会の有する聖域の更なる奥にあるという火継の祭壇。そこに王の器を収めることにより、DBOは次のステップに進むことになる。そして、その先にこそ完全攻略が待っているのだ。

 

「王の器は教会の管理下にある聖遺物となる。だけど忘れないでくれ。あくまで王の器の所有権は聖剣騎士団にある」

 

 もっと言えば俺の手に……ね。ディアベルはエドガーを真似るように『にっこり』と笑いながら1つの指輪を見せた。

 

「王の器とリンクしていてね、一緒に手に入れたものだ。名を【王の指輪】というらしいよ。これがある限り、俺は王の器から多くの恩恵を得られるし、いつでも呼び出せる。王の器の所有権が別の誰かに奪われることもない」

 

 まだ何も満たしていない王の器であるが、その存在だけで凄まじい力を感じる。生気が溢れるとも言うべき感覚がディアベルに渦巻いていた。それだけではない。全てのステータスが大きく底上げもされているなど、戦闘面でも大きなパワーを与えてくれているのだ。

 

「……なるほど。あくまで完全攻略の主導権は聖剣騎士団……いいえ、ディアベル殿が握られている。教会はそれで構いません。ディアベル殿ならば、他のギルドの言い分も『纏め上げる』でしょう。教会はあくまで『中立』。完全攻略の方針などには口出しいたしません。それでよろしいでしょうか?」

 

 それに対してエドガーも『にっこり』で返す。彼の言葉が差す『纏め上げる』とは無論、お行儀よく話し合いをして決議を取れという意味ではない。

 ここには条約も憲法も法律も無い。あるのは大ギルドと教会が作り上げた社会秩序と現代人でもあるプレイヤーに元から備わっていた倫理観だけだ。ならばこそ、時流を作り出すことが許されるのは大組織だけだ。

 教会はあくまで『中立』。深入りは禁物だ。だが、それこそが最大の利用価値でもある。元部下でありながら、教会という隠れ蓑の中で何を企んでいるのか見えない、灰より出でる大火などという妄想に囚われた狂信者としか思えないエドガーに、ディアベルは底知れない何かを覚える。

 あのリロイすらも傾倒していった教会の教義にはそれほどの魅力があるのだろう。油断できないと、ディアベルはどうして時の執政者が宗教と手を組み、あるいは弾圧したのか、それを実感し始める。信奉者とは神の名の下という不動の大義を振りかざす欲望と打算で塗れた人間なのだとカテゴライズする。

 

「ところで、『契約通り』に死者の碑石の消去をされたという事は、『リスト』を入手したと考えてもよろしいのでしょうな?」

 

 これまで誰も敢えて踏み込まなかった話題にエドガーはあっさりと刃を入れる。アレスの顔に緊張が走り、ラムダも眉間に皺を寄せる。

 避けては通れない話題だ。ディアベルは重々しく頷くとアイテムストレージから1冊の本を取り出す。革表紙に銀縁が組み込まれた荘厳な姿は、まるで神々の物語を載せた聖典のようであるが、その内部に書かれているのは写真同然のカラーの似顔絵と名前ばかりだ。

 

「『現実世界に肉体を有するプレイヤー』のリストだよ。彼らの正式なプレイヤーネームも記載されている」

 

 DBOではプレイヤーネームを隠すのがデフォルト……いや、半ばマナーだ。これから命のやり取りをするにしても、余りにも間抜けな……ネタ的な意味のプレイヤーネームでは余りにも可哀想だからという全プレイヤーの一致の無言の気配りだ。それもまた死者の碑石の機能が正常に働かない理由の1つだ。なにせ、フレンドリストやギルドメンバーリストにすら偽名登録は可能なのだ。登録コードによって個人確認はできるが、その機能は死者の碑石に組み込まれていない。それは後継者が仕組んだ悪意の1つだろうとディアベルは考えていた。

 

「ふむ、アルファベット順のようですな。私の名前は……ありません。それにディアベル団長のお名前も。本物の様ですね」

 

 この場の全員はディアベルが『肉体を有さないプレイヤー』であると把握している。それどころか、SAO初期のまた初期で落命したプレイヤーだとも知っている。

 DBOには少なからずのリターナー……SAO事件被害者がいる。彼らにはディアベルについて知識を有する者もいた。また、ディアベルと同じようにSAOで死亡したプレイヤーもいるならば、ディアベルが蘇った死者であることは自然と大ギルドならば収集できる情報である。無論、早々に情報統制をかけ、また口を滑りそうな、あるいは脅しに使いそうなプレイヤーは『不運な事故』に遭っていることだろう。

 エドガーもまた蘇った死者であり、SAO事件被害者だ。彼が鉄の城でどのように落命したのかは知らないが、本人曰く、当時は今ほどに実力を発揮できたわけではないらしく、つまらない死に方をしたと語っている。

 

「すぐにでも3大ギルドの協議の場を持つよ。そして、教会の名の下で大々的に宣言を行う。できれば慰霊式と合同が望ましいね。生者と死者が入り混じる世界……いや、死者かどうかさえも分からぬ者が混じり、共に生き、共に死ぬ世界がこのDBOなのだと皆に伝え、今後の選択を委ねる。人口増加問題にも触れるつもりだよ。これでDBOの『嘘』は剥がされる」

 

「ですが、よろしいのですか? ディアベル団長のように『耐えられる』者ばかりではありません。特に蘇った死者は精神が崩壊する恐れも……」

 

「その点はご安心を。少なくとも精神崩壊のトリガーは『死の状況に近しい再現の体験』であると掴んでいます。そして、事前に自ら死者であるかもしれないと疑いを持つことにより、精神崩壊のリスクも下げられることも実証済みです」

 

 無論、それは大ギルドが密やかに繰り返した『実験』と教会の『実績』の賜物だ。特に教会の場合、精神的に弱った者が集まりやすい。1度死を経験しているという関係か、精神面にトラブルを抱えやすい蘇った死者は特に教会を頼ったようだった。

 だが、アレスのように『実験』には反対だった者もいる。また彼は公表に関しても否定的だ。彼の言う通り、ディアベルのように精神崩壊を免れる者ばかりではないのだから。

 

「もはや肉体を持つプレイヤーこそがマイノリティ。完全攻略の方針は必然的に1つに絞られる。またテロリストが活気づきますね」

 

「『現実世界帰還派』か。名目も否定しきれない厄介な相手になるだろう。困り者だな」

 

 リストを確認すれば、そこにラムダの名前はない。だが、アレスは記載されている。だが、想定内だとばかりにラムダは肩を竦めながらテロリストの増加を心配し、アレスは彼らにも正義があると苦しみを露にする。

 

「アレスさんはいいのかい? 俺と共に戦うという事は――」

 

「団長、私は元より老い先短い。帰っても子や孫が笑顔で迎えてくれるかどうかも疑わしい。いや、この年齢だ。目覚めても肉体は衰え、もはや以前のような生活は望めません。ならば野心ある若き開拓者に助力して、同じ夢を共有するも一興というものです。ですが、帰還を望む者が行動をとったとしても、最大限の配慮をお願いしたい。死には死の償いが必要かもしれませんが、抗議デモなどには寛容な対処を」

 

「もちろんだよ。マイノリティを利用してこその政治だからね」

 

 そう、結局は政治だ。これから肉体を有するプレイヤーは精神的弾圧を受ける事になるだろう。また、自らが肉体を持たないかもしれないという疑惑に駆られ、また真実を確認したいという好奇心に煽られ、だが現実を直視したくないという恐怖に屈する者が過半のはずだ。

 肉体を有するプレイヤーを記載したリストがある。その事実だけで十分なのだ。大半は『自分が確実に生きられる選択肢』に吸い寄せられる。

 

「ですが、精神崩壊者は決して出ないとは言い切れますまい。その為の3大ギルドによる共同声明であり、教会の管理です。神父、くれぐれもよろしくお願いしますよ」

 

 3大ギルドの密約は既に結ばれている。後は教会経由で公表のタイミングを擦り合わせるだけだ。誰も抜け駆けなどしない。犠牲者が出るかもしれず、社会不安を煽る公表など、いずれの大ギルドも望まないからだ。

 それでも義は我々にある。そう知らしめる為の3大ギルドと教会というほぼ全勢力による共同声明だ。爪弾きにされるのはラストサンクチュアリだけである。弱者の庇護を謳う腐った聖域に身を寄せ合うのは、大半が肉体を有する貧民プレイヤーだと教会の調べで分かっている。彼らは人口増加が顕著では無かった初期に結成されたのだ。それも当然だろう。

 まず間違いなくラストサンクチュアリは非難声明をあげるだろう。それが知名度を上げ、同情を集め、また大義になると『勘違い』するような政治音痴な輩ばかりだ。彼らには権謀術数の大ギルドや教会とはあまりにも場数も人材も違い過ぎる。

 ラストサンクチュアリの壊滅は既定路線だ。それが分かっているだろう代表のキバオウは、いかにして穏便に畳むかに執心しているが、空気が読めず、権益にかじりつく他の幹部は対決路線を望み、いつまでもクラウドアースとの八百長にも等しい小競り合いができると妄信している。自分たちはギルド間の抗争の緩衝体であると誤解しているのだ。それはここ最近の聖剣騎士団への不遜な支援要請からも明らかだ。むしろ増長の傾向もある。

 もはや救えないし、救うつもりなど無い。利用価値が亡くなった生ゴミは早々に処分しなければならない。

 1000名近い肉体を有する貧民プレイヤーは弱々しい庇護すらも失い、他の貧民プレイヤーと同様……いや、逞しくゴミを漁っていた彼ら以下の生活を強いられるだろう。貧民プレイヤーには彼らなりの秩序がある。より暴力的なスラムの秩序だ。そこに救いの手を与えられるのは、大ギルドから『お布施』を受けて慈善活動している教会だけである。そして、その教会こそが完全攻略とは『現実世界ではなく、仮想世界に新たなフロンティアを獲得し、新人類史を刻むことにある』と掲げるならば、今を生きる為に彼らは肯定を示すだろう。

 今後もプレイヤー人口は増える。だが、決して肉体を有するプレイヤー人口は増えない。もはや逆転などあり得ない。

 

「問題はサンライスさんだね。彼には肉体がある」

 

「ええ。ですが、意外でした。ミュウ殿も名前が無いとは。自覚こそないようですが、これは強力なカードになるでしょう」

 

 質実剛健で『漢』を体現するサンライスがどのような反応をするのかは分からない。だが、彼は自らを犠牲に出来る人間だ。肉体を有するプレイヤー達と同じくらいに、自分のギルドが抱える蘇った死者、あるいは死者ですらない何処からやって来たのかも分からぬ者たちの未来を憂うだろう。ならば結論は1つ、全てのプレイヤーが……いや、人間が確実に『生存』できる道だ。

 

「問題は『完全攻略後に、帰還したい者と残留したい者で選べる余地があるはずだ』と宣う連中でしょう。特に中小ギルドの中位プレイヤーはDBOの悪意に対して、ある意味では貧民プレイヤー以上に経験が薄いはず」

 

「いや、その選択が不可能とは言わないよ。俺自身もあり得ると思っている気持ちは捨てきれない。だけど、俺が目指すのは『全プレイヤーの生存確定』だ。その為にはプレイヤーの完全なる移住……『現実の肉体の廃棄』が不可欠だ。仮想世界に意識を移し、電脳の存在となる……それは可能な技術なんだね、エドガーさん?」

 

「ええ、蘇った死者という我々がここにいるように、技術的には可能です。情報の出所は『まだ』言えませんが、まず間違いないかと。それにSAOの頃よりも技術的には進歩しているので成功率も高い。なおかつ死という経験に直面する前ならば尚の事です。具体的にはいずれ面会の機会を設ける、フラクトライトの知識を有するある御方から教えを受けるとよろしいかと」

 

 ラムダの心配、ディアベルの表明、エドガーの捕捉を黙って聞いていたアレスは、老人には疲れる話だとばかりに肩を叩いた。

 

「まさしく激動の時代か。技術革新の常とはいえ、このような経験をするとは」

 

「ははは、アレスさんのようなご高齢にはむしろ経験があるでしょう? 冷戦、対テロ戦争、そしてVR技術がもたらした人類の革新。我々はまさに新時代の渦中にいるのです」

 

「だからこそと言うものだよ。私は見て来た側だ。テレビや新聞を通して時代のうねりを感じていたが、それだけだった。今まさに私は人類にとって黄金の時代か、それとも禁忌の始まりか、どちらとも捉えられない瀬戸際に自らの足で立っているのだと実感している」

 

 そういうものですかとラムダは面白そうに自分の顎を撫でれば、そういうものだとアレスは口髭を指で弄る。 

 この中で1番の若輩はディアベルだ。だが、最も責任を背負っているのもまた彼なのだ。だからこそ、新時代を切り開く権利があるとラムダもアレスも思っているのかもしれない。エドガーの胸中だけは謎のままだ。

 

「しかし、俺のいない間にアルヴヘイム事変か。チェンジリング事件がまさかクラウドアースのデマでは無かったとはね」

 

「さすがに信じろという方が無理があります」

 

 アノールロンドの事後処理の方針が決まり、新たな話題へと移れば、露骨にラムダは自分の非を認めることを拒絶する。

 無論、ディアベルは一切の責任を取らせるつもりは無い。謀略・情報戦はお手の物のクラウドアース経由の情報を素直に信じる方がどうかしているのだ。しかも内容が内容ともなれば、アノールロンドを控えた聖剣騎士団へのつまらない妨害工作と捉えるのが自然だ。

 だが、蓋を開けてみればクラウドアースの大勝利だ。チェンジリング事件を通して『プレイヤーの保護』を成し遂げ、なおかつ元凶のアルヴヘイムの攻略に多大な尽力を成し遂げた。聖剣騎士団と太陽の狩猟団は、大ギルドに情報を渡さずに参加していたUNKNOWNとシノンの2人によって辛うじて利権に喰らい付け、また体裁を保てるという始末だ。

 

「このエドガーもさすがに驚きました。ですが、教会としてはチェンジリング事件の調査を行っていましたので。むしろ、まるで無反応だったラストサンクチュアリは増々の評判を落としそうなところを、UNKNOWN殿のお陰で辛うじて倒木を堪えたといったところでしょうか」

 

 元より腐り切っているのだから、クラウドアースがトドメを刺す前に倒れてしまえば楽になったものを、ともディアベルはアレスが注いでくれた紅茶を口にしながら思う。それはこの場の全員の同意見でもあるだろう。

 だが、ラストサンクチュアリが事実上の聖剣騎士団寄りであることもまた助かった事実だ。数ばかりで資金も物資も技術も持たないラストサンクチュアリではUNKNOWNの『専属』という特権の使い道など、聖剣騎士団からの依頼を優先対応するくらいしか無かった。この周知の情けない実状こそが、皮肉にも聖剣騎士団がアルヴヘイム攻略に関われたという名目を得られるチャンスとなったのだ。

 ラストサンクチュアリは既にこの件をちらつかせて、あり得ない程に莫大な支援を要求している。間にキバオウが入っているが、幹部の暴走を抑えることはできないだろう。要求を丸呑みこそしないが、幾らかは従わねばならない以上、聖剣騎士団の内政組にいる親ラストサンクチュアリ派が見限るには十分過ぎるネタだ。なにせ、真実を知らない彼らからすれば、『聖剣騎士団はUNKNOWNに極秘依頼を申し出た依頼主でありながら、専属雇用しているラストサンクチュアリは本来の報酬以上の裏請求をしている』と映るからだ。

 イメージ戦略とは何も民衆ばかりに機能するのではない。内政を担う者たちにも有用なのだ。それがラストサンクチュアリはまるで分かっておらず、自らの価値を暴落させ続けているのはもはや滑稽だ。

 

「そちらはラムダさんが手を打った通りに進めよう。さすがに今から俺があれこれ手を加えて時間を浪費したら、クラウドアースの思う壺だからね。それからUNKNOWN君と話が出来る機会を設けて欲しい。できれば教会経由が望ましいかな。頼めかい?」

 

「このエドガーにお任せを。ですが、団長殿自らが動くとなると、やはり引き抜きですか?」

 

「ああ、まさか本物の聖剣が存在するなんてね。『聖剣』騎士団として、彼は捨て置けないだろう?」

 

 DBOにおいて、アノールロンド攻略と二分するもう1つの話題。それこそがアルヴヘイム事変であり、聖剣を携えて帰還したUNKNOWNだ。

 まさしく英雄の証と呼ぶに相応しい武器らしく、また見るだけで吸い寄せられるような魅惑に満ちているという噂だった。直接目にしたというラムダが……妄信などまず抱くはずがない彼が認めるしかない、まさしく英雄の剣なのである。

 王の器と聖剣。この2つが揃えば、聖剣騎士団が完全攻略の主導を握るのは不動となる。ラストサンクチュアリ崩壊後に行き場を無くした彼を独立傭兵のまま遊ばせるギルドはいない。

 獲得に最も近いのは、事実上の専属扱いをしていた聖剣騎士団だ。試作武器アイテムなども積極的に販売を認可していた。このアドバンテージは大きい。

 また、次点として教会所属になるのも良しとする。エドガーとしても、王の器の所有権を握られたままではどんな暗躍に走るか分からない。ならば、教会にもカードを1枚握らせておくのも悪くないというのがディアベルの考えだった。

 

(だけど、ラムダさんの情報通りなら、UNKNOWNはシノンと一緒にアルヴヘイムを攻略した。俺が想定していた以上に太陽の狩猟団も接近していたのか?)

 

 まずは事実確認だ。聖剣の対処にはまだ時間があるのだから。ラムダは既に手を打っており、改めてアルヴヘイムに調査隊を派遣する際にはUNKNOWNを雇用する確約を取ってある。このまま彼との親睦を深め、周囲に『聖剣騎士団こそが聖剣を有する英雄のギルドである』と知らしめればいい。

 楽観視はできない。また、UNKNOWNの正体も『リスト』で確信を得られた。ぼんやりとではあるが、死の直前を思い出しつつあるディアベルは、微かな頭痛の中で自分を今にも泣きそうな顔で見下ろす黒髪の少年を思い出す。

 

(彼がSAOを攻略に導いた……か。大きな借りがある。それくらいは返すさ)

 

 そして、愛する人を失った末に『彼』の隣には白き傭兵が立った。その事実にディアベルは要らぬ感情だと切り捨てる。

 

(アスナさん……だったかな。『彼』の恋人にして妻だった女性プレイヤーか。情報収集した限りでは復活した兆しはない。情報の限りでも凄腕のはずだ。DBOでも必ず頭角を見せたはずだしね)

 

 無論、既に死亡しているパターンも捨てきれない。いかなる猛者でも過信や油断で簡単に命を落とす。だが、75層でイレギュラーな事態が起こるまで生き延びたプレイヤーが、初期にそう簡単に落命するとは思えなかった。

 念には念を。教会のみならず、3大ギルドはいずれも聖剣の『穏便』な入手の為に、まずは彼を利用できる駒を揃えようとするだろう。

 

(そうなると、やはりクーも鍵になるわけだけど、何処のギルドもノータッチだろうね)

 

 今までもそうだったように、クゥリは爆弾扱いだ。たとえ、かつての相棒でも一切の容赦なく殺せるような血も涙もない怪物では、UNKNOWNの篭絡の駒としては不安どころか劇薬になって破滅をもたらす副作用しか想定できないのである。その点を考えれば、シャルルの森の時点からシノンの自由を許し、2人の接近を密やかに支援していた太陽の狩猟団は強かである。

 

「この件は追々考えよう。明日は大変だな。ラムダさん、後でアルヴヘイム攻略に関する声明文をくれ。会見はなるべく早めにしたいからね」

 

「いえ、団長はお休みになられてください。その件は私とアレスで対応します。ここで団長が顔を出せば、『血も涙もない冷徹な男』というイメージが付きます。仲間の死を想い、喪に服す人間味。それもまた必要な演出です」

 

「ラムダ! そのような言い方はないだろう!? 失礼しました、団長。ラムダはこのような口振りではありますが、団長を心配されているのです。私も同じ気持ちです。どうか今はお休みになられてください。エドガー神父も今宵はこれくらいで良いだろう? そちらもウルベイン殿の戦没……決して浅からぬ傷のはずだ」

 

「……ウルベイン殿はまさに『聖者』と呼ぶに相応しい御方でした。共に灰より出でる大火をお迎えしたかったものです」

 

 仲間の死を嘆き、祈りを捧げるエドガーの信仰心の源は何なのか。狂信を抱く神父を見送り、ラムダもまた明日のアルヴヘイム事変に関わる会見の準備の為に離れ、執務室のソファでだらけるように横になったディアベルは……笑う。自らを嗤う。

 

「死なせ過ぎた。タルカスさん、リロイさん、ヴォイドさん……皆の遺志を俺は継げるのかな?」

 

「彼らが望んだのは、DBOがもたらす死と恐怖の連鎖からプレイヤーを解放することです。団長の求める新世界には共感しなかった者もいましたが、それでもプレイヤーの未来を切り開くという気持ちだけは同じだったはずでしょう」

 

「……そうか。そうだな。俺は止まれない。もうそんな躊躇が赦される時は過ぎたんだ。ノイジエルさんを死なせてしまった……あの時からね」

 

「私も同罪です。団長とラムダがどのような謀をしたのかは存じ上げませんが、察知していながら見逃しました。タルカスも奇天烈な振る舞いこそ目立ちますが、敏い男です。勘付いていたことでしょう。それでも付き従ったのは、団長が見せてくれた未来の夢の為です。いいえ、それだけではない。貴方がくれた、『弱者を守る』という願いが、たとえギルドから消え失せようとも、我々の胸には灯っているからこそ」

 

「だが、俺にはもうその灯は残っていないようだ」

 

「そんなことありません。貴方が単なる野心だけで完全攻略を目指していたならば、どれだけ演出しても貴方を慕う者はいなかったでしょう。ですが、聖剣騎士団は団長のカリスマによって統一されています。これから離脱者が出るとしても、大多数は団長と夢を共にすることを選ぶでしょう。それは、どれだけ装飾しようとも、団長の願いは純粋な救済の意思だからこそです」

 

 クラウドアースが目指す世界。太陽の狩猟団が目指す世界。どちらも信用ならない。それは小さな差異であり、あるいは絶対に相容れない違いなのかもしれない。だが、現実の国々がそうであるように、自らの利権や思想の為に線引きして争い合うのだ。それは人間にこびり付いた本能……縄張り争いの延長なのかもしれないが、そんな理屈はどうでもいい。

 ディアベルには夢がある。望む未来がある。その為ならば、いかなる犠牲も容認する覚悟がある。全てが終わった時、ディアベルは自らが玉座に付けずともいいと思っていた。世界を支配する気などない。人間が人間として生きられるフロンティア。それさえ手に入れば良い。

 

「一緒に戦ってくれるんだね? 俺が……いいや、俺達が目指す黄金の時代の為に」

 

「ええ、黄金の時代の為に」

 

 拳をぶつけ合い、若き団長と老いた円卓の騎士は夢の共有を誓う。

 体を起こしたディアベルは、自分が想像以上に疲労していることに気づき、肉体も持たぬ自分のこれは何なのだろうかとも自嘲する。

 

(紅茶。そうか、眠れるように配慮を……ありがとう、アレスさん)

 

 だが、今は本部に帰ってユイの淹れる珈琲が飲みたい。ディアベルはソファから立ち上がると背を伸ばして笑う。ラジードではないが、生きて帰れるとはそれだけで素晴らしいことなのだと実感する。

 帰りを待ってくれている人がいる。今度こそ、全てを打ち明け、真実を晒そう。ディアベルはオーバードソードスキルで損傷した腰のレッドローズを見ながら、懐かしき日々を思い出しそうなる自分を戒める。

 

「きっとユイちゃんは泣いてるだろうな。たった8人しか帰って来れなかったんだ。俺の生存はもちろん伝えてあるよね?」

 

「…………」

 

「アレスさん?」

 

「団長……実は、1つお伝えせねばならないことがあります。いえ、団長はお疲れのはず。やはり、このことは明日に……」

 

「いや、今すぐ聞かせてくれ。不安要素を残したままユイちゃんと話をしたくない。どうにも、今夜は色々とメッキが剥がれそうだからね」

 

 苦笑するディアベルに、アレスは涙を流さぬように堪えるかの如く深く瞼を閉ざし、まるで詫びるように片膝をついた。

 

 

 

 

 

 

 

「申し訳ありません、団長。彼女は……亡くなられました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 何を言っているのだろうか? アレスの発言を理解できず……いや、理解を拒み、ディアベルは表情を凍らせる。だが、『聖剣騎士団のリーダー』としての頭脳がユイの戦死を無慈悲にカウントし、彼女が≪錬金術≫でもたらしていた多くの利益の損失を勘定し始める。

 止めろ。止めろ。止めろ! 聞こえ続ける算盤が弾かれるような計算の思考をディアベルは振り払おうとする。

 

「チェンジリング事件調査中に……恐らくアルヴヘイム攻略直後の修正の影響でしょう。護衛に当たっていた複数名が……被害者の爆散に巻き込まれて彼女のアバターが消滅する光景を目撃しています」

 

「し、死者の碑石は……いや、いい。もう意味がないことだ」

 

 死者の碑石の撤廃に何よりも拘った本当の理由は、『嘘』を暴くなどという大義などではなく、エドガーとの契約でもなく、ユイの為だった。

 彼女は蘇った死者でもなければ、肉体を有するプレイヤーでもなく、また由来も知れぬ者たちとも違う。より根源的な……DBOの裏側に近しい存在ではなかろうかとディアベルは推測していた。

 クゥリが連れてきた彼女は現実世界に関する知識が著しく欠如し、またプレイヤーとしての自覚も無かった。その浮世離れした言動、記憶にない両親を求める幼さ、そして頑なに隠そうとするクゥリと共有した時間から、彼女がプレイヤーの中でも極めて異質な存在だと判断していた。

 真実などどうでもいい。キミは生きているんだ。リストにユイの名前が無いこともディアベルには分かっていた。だからこそ、死者の碑石を撤廃することこそが、彼女の生を肯定するメッセージになるはずだと信じた。

 ラジードに語った大義以前に、たった1人の女の子への贈り物だった。それが『ディアベル』の選択だった。他に得るべき恩恵はあったはずなのに、選ばずにはいられなかった。自らのワガママを彼女に押し付ける欲望に抗えなかった。

 

「捜索隊からの情報を待ちましょう。団長、此度の消失がイレギュラーならば、まだ生存している確率も――」

 

「……捜索隊は即時解散させてくれ。頼む」

 

「ですが!」

 

「もう止めてくれ! 頼む! もう……止めてくれ」

 

 それ以上はアレスも何も言わず、静かに頭を下げて退室した。残されたディアベルはソファに倒れ込み、虚ろな眼で天井を見上げる。

 ユイとの出会い、聖剣騎士団での生活、そして彼女の求める自由とディアベルの保護の対立。兄妹のような関係にも近しく、だが何処か歪だった。

 ようやく向き直れると思った。真実を露にし、罵倒を受けようとも、本当の自分を晒したいと願えた。

 だが、陰謀に手を染めた自分は、もはやそんな細やかな救済さえも許されないのか、とディアベルは両手で顔を覆い、嗚咽を抑え込もうとする。

 

「どうすれば……クーに何て言えば……」

 

 そうだ。この件をどう『隠蔽』すればいい? いかにしてユイの死を隠し、これまで通りに保護を名目にしてクゥリを動かせるだろうかと思案する『聖剣騎士団のリーダー』としての思考に、『ディアベル』はあらん限りの罵りを浴びせようとするが、それは余りにも弱々しかった。

 

「邪魔するぞ」

 

 と、そこで背後から声が聞こえ、ディアベルはレッドローズを抜きながら振り返る。

 アレスの退室によってディアベルを除けば誰もいなかったはずだ。まさか暗殺者が潜んでいたのだろうか。大声を上げようとしたディアベルであるが、赤い影がフィンガースナップを鳴らせば声が出せなくなる。

 

「怒鳴るな。こっちは病み上がりなんだ。いいな? 大声は出すなよ? ほら、これで喋れるだろう」

 

 それは真っ赤なドレスを着込んだ女だった。肩と胸元を大きく露出したドレスはふくよかな胸部を強調し、赤く濡れた口紅は煽情的だ。アップにした髪も含めれば、高級娼婦と名乗られても納得のいく容貌である。

 真紅のハイヒールを鳴らし、美女はディアベルと向かい合うようにソファに腰かける。クロスされた脚部は魅惑の人肌を晒すも、その程度の視線誘導に堪える訓練は積んでいるディアベルは、紳士として対応すべく紅茶を淹れようとするが、いつの間にか彼女の手には金細工が施されたティーカップがあった。

 それだけではない。テーブルにはディアベルの分もある。だが、それは珈琲だ。渦巻く黒い濁りを口にすれば、それはユイが淹れてくれる味と同じものだった。

 

「既にここはお前の夢の中だ。度が過ぎた疲労の上に精神への右ストレートが決まったんだ。私達にかかれば、お前を簡単に夢の世界には運べるわけさ」

 

 夢? 俺は眠っているのか? どう見ても執務室であるが、試しにデスクに触れてみれば、いつの間にかそれは甘い香りを放つクッキー製に変じる。部屋はまるでプレゼント箱が開くかのように天井と壁が取り払われ、無限とも思える草原と黄昏色の空が映し込まれる。

 

「良い光景だ。ここがお前の夢の世界。心象風景というわけだ。これはお前にとって大切な思い出をベースにして形成されたものだろうな。広々とした草原は、求める自由とフロンティア精神を象徴しているのか? 私は嫌いじゃない」

 

 ディアベルの夢を褒めた赤ドレスの女は、改めて彼に向き直ると丁寧にお辞儀をした。

 

「どうせ私のことは朧になって忘れてしまうだろう。だから名乗るだけ名乗らせてもらう。私は『憤怒』の観測者であるエレナ。MHCPだ。簡単に言えば、お前たちの精神の調和を取り戻させる天使といったところか」

 

「自称天使様が俺を癒してくれると?」

 

「それが仕事だからな。それに、今のお前は怒りでいっぱいだ。自らへの怒り。この世の理不尽への怒り。多くの怒りが渦巻いている。そうしたプレイヤーのメンタルケアは私の専門でもある。抽出されたフラクトライトならば尚のことだ。お前もまた『奴』の言う所の『人』なのだろう? だったら、約束は果たすとしよう」

 

 美女エレナは興味深そうにディアベルを観察する。ユイの淹れたような珈琲を飲みながら、ディアベルはこれも夢の産物なのだろうかと虚しく覚える。

 

「そうだ。だが、それは仮想世界が作り上げた味覚情報ではない。お前自身が……お前のフラクトライトが憶えていたユイ姉様の淹れた珈琲だ。寸分たりとも違わない、複製でもない、お前が求めていたものそのものだ」

 

「心が読めるのかい? いや、ここは俺の夢だったね。だったら全て筒抜けか」

 

「ああ。お前の心と思考は読めて助かるよ。少し自信喪失しかけていたところなんだ。やっぱり私の不具合ではない。ふむ……やはりイレギュラーだな。まさか対策されてしまうとは。だが、今となっては……ああ、気にするな。こっちの話だ」

 

 何処か寂しそうな表情をしたエレナは、じっとりとした眼でディアベルを観察し、やがて指先を宙で躍らせた。それは楽団の指揮を執っているかのように繊細であり、同時にまるで幼き心のままに筆を取ってキャンパスに色を塗り込んでいるかのようにも思えた。

 

「これから私が見せるのは『夢』だ。『真実』ではない。だからといって『嘘』でもない。全てが曖昧な幻想と受け取れ。本来はここまでのメンタルケアは、お前のSANでは認可されていないのだが、『奴』が望んだ『報酬』だ。私は約束を果たすとしよう」

 

 エレナは誰かに頼まれて夢に現れたならば、雇い主は誰だ? 疑問に思いながらディアベルは珈琲を飲む。自分が憶えている味なのは、自分の記憶にある彼女の珈琲だからなのだ。そう思えたからこそ、自然と涙が零れる。

 

 

 

 

「泣かないで、ディアベルさん」

 

 

 

 そして、そんなディアベルの涙を拭うように声をかけたのは、黄昏の草原に立つユイだ。

 いつの間にかエレナの姿は無く、ディアベルは黄昏の平原に佇み、ユイと向かい合っていた。彼が望んでいた光景がそこにはあった。

 これもエレナが作り出した『夢』……見たいと望んだ幻なのか。ならば何と滑稽だろうか。嘲おうとしたディアベルに、ユイは近寄って見上げる。

 

「そう、これは貴方の夢。貴方が望んだユイ。だけど、それはきっと『貴方が知るユイ』と同じはず。だって、貴方は誰よりも『ユイ』と一緒にいてあげた人だから。誰よりも『ユイ』を観測してあげていたのは貴方のはずだから。だから、信じなくていい。偽者だと嗤ってもいい。それでも、私は貴方の言葉を聞きます」

 

 それは待ち望んだ瞬間だ。真実の限りを明かす告罪の時だ。

 偽者だ。幻影だ。何の価値もない。そう振り払おうとするディアベルだが、その頬を流れる涙は止まらず、まるで罪の許しを求めるように両膝をついた。

 吐き出した。罪で汚れた弱い自分を曝け出した。

 どれだけの謀略に手を染めたのかも、仲間を数字でしか見れなくなっていることも、ユイのことさえも損失として計算してしまったことも、クゥリを駒として使い潰そうとし、またこれからもするだろうという彼女からすれば恩人への反逆とも思える全てを吐き出した。

 ユイは何も言わなかった。泣き続けるディアベルを抱きしめ続けた。

 

「私が赦しても貴方は虚しいだけ。だから、これ以上の事は何も出来ない。聞いてあげることしかできない。それでも……『貴方が知るユイ』として……こう言わせてください」

 

 温かな抱擁の中で、『聖剣騎士団のリーダー』としてではなく、何も取り繕うことのない『ディアベル』となり、彼はいかなる罵倒も受け入れようと瞼を閉ざす。

 

 

 

「何もしてあげられなくて……ごめんなさい」

 

 

 

 ユイも……『ディアベルが知るユイ』も泣いていた。泣きながら彼を抱きしめていた。

 

「罪を聞くことさえも、罰を与えることも、赦しをもたらす事さえもできなかった。私に貴方を責める資格なんてない」

 

「違う! こんなのは都合のいい夢だ! キミならきっと――」

 

「そうかもしれません。でも、私は『貴方が知ってるユイ』だから。『貴方が知ってるユイ』は……誰かを傷つけるような言葉を吐けず、むしろ自分を責めて、一緒に泣いてあげられる女の子のはずだから」

 

 ああ、溺れてしまう。幻の温もりに、夢の中で睡魔に誘われる。

 

「ありがとう、ディアベルさん。私を優しい女の子として見てくれて、本当にありがとう。やっぱり、ディアベルさんは良い人です。私にはこれまでの罪も、これからの咎も、肯定も否定もしてあげることはできない。でも、『貴方の知るユイ』として、こう言わせてください」

 

 そっと『ディアベルが知るユイ』は彼の額に口づけを施した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうか貴方に……幸せな『未来』を求める『明日』が訪れますように」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目覚めた時、ディアベルは何も憶えていないだろう。

 

 

 

 だが、それでもフラクトライトは……魂は……心は……確かに覚えているだろう。

 

 

 

 たとえ贖罪の機会は失われようとも、彼女は自分の『未来』を……『明日』を……祝福し、また望んでいたのだと。

 

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 与えられたのは1人暮らしするには十分過ぎる広さであるが、所詮は仮住まいであると考えるならば、質素で味気の無い調度品はむしろ喜ばしかった。

 クゥリが紹介してくれた教会の人間であるキャロル・ドーリーから一通りのDBOについてのレクチャーと今後の方針の話し合いを終え、アスナは疲労で滲んだ吐息を漏らしながらベッドに倒れ込む。

 アルヴヘイムから脱出した後のアスナに後ろ盾は無く、神灰教会の庇護が無ければ、まともな生活基盤を築くことさえも難しい。

 SAOも十分に異常であったが、DBOはもはや1つの社会を形成しつつあり、それはもはや攻略を成し遂げて脱出しようとする意図が大きく欠落してしまっているようにも思えた。だが、アスナが1日という短い時間で出会った人々にそのような意識は無かった。それは真摯に祈りを捧げて細やかな満足感を覚える信徒ばかりだったかもしれず、より多くの人間が行き交う街に出れば別の印象を受けるかもしれないが、クゥリとの約束がある以上は安易に外出するわけにもいかなかった。

 完全に異世界とも言うべき、独自の文化・歴史を歩んできたアルヴヘイムとは違い、DBOの基盤はあくまで現実世界出身者たるプレイヤーであるはずだ。だが、アスナにはアルヴヘイム以上の歪みを覚えずにはいられない。

 アルヴヘイムの狂気とは、ある意味で分かり易かった。オベイロンという絶対的権力者にして邪悪な存在によってもたらされた災厄でもあった。だが、このDBOで熟成しているのは純然たる人間の善悪であり、欲望であり、信念だ。何らかのバイアスがかかっているにしても、人間とは瞬く間に異なる環境に適応し、また発展を目指し、そして支配を志す逞しい生物なのだと実感する。

 そうした達観に浸る自分こそが復活した死者という、既存の倫理と摂理の否定の権化であるならば、何と滑稽なことだろうか。アスナは客観視できていなかっただけで、SAOでの自分もまた彼らと大して変わらなかったのだろうかとも思えばこそ、DBOの現状を肯定も否定も出来なかった。

 

「何にしても情報が足りないわ。もっと人脈を増やしたいけど、そうなると『彼』と遭遇する危険も増えるし、悩みどころね」

 

 今の自分が最も避けねばならない事は、思い出す事が出来ない『彼』との接触を避けることだ。自分の情報が広まることも避けねばならない。『アスナが生きているかもしれない』という仮説すらも持たせてはならない。

 それを考えれば『アンナ』という咄嗟に出た偽名は失敗だったようにも思えるが、逆に似た響きだからこそ疑われ難いとも言えるのではないだろうかとアスナは期待する。

 今後の方針として、アスナは人前では素顔を隠して振る舞うことになる。常にフードを頭から被り、人前ではなるべく沈黙を守り、目立った振る舞いは避けねばならない。キャロルが手配してくれた【賢者ローガンのマント】は、たとえドラゴンの風圧を浴びてもフードが剥げることはないのが売りであり、また隠密ボーナスを高める『レアアイテム』だ。教会風にデザインを弄ってあり、これを纏っていれば教会関係者として身分を証明できる上に、教会の権威付けによって大ギルドの人間相手でも優位に立ち回れるという。

 逆に言えば、アスナに何不自由なく支援をしてくれる教会は、単に【渡り鳥】からの申し出を受けただけではなく、アスナにも相応の活躍を期待してのことだろう。彼女にDBOの諸事情やシステム関係を詳細に教えたキャロル・ドーリーは、少なくともアスナを名乗った通りの『アンナ』として認識している様子は無かった。

 最低でも正体を気づかれている前提で動かなければ危ういだろう。自分の存在を『彼』に対するカードとして利用されるわけにはいかない以上、教会には自分を隠匿させるだけの価値を示さねばならず、それが最も手っ取り早く、また現状で唯一となるのは戦いによる武力価値の証明に他ならなかった。

 装備の調達はもちろん、レベリングからプレイヤー間の常識の獲得まで、やらねばならない事は山ほどある。

 

「……皆はどうしてるのかな?」

 

 アルヴヘイムを生き抜いただろう、リーファ達のみならず、SAOで時間を共にした多くの者たちの顔が目に浮かぶ。その中に思い出せない『彼』の姿は無く、故に会いたい衝動に駆られるも、胸を縛り付ける約束を我が身に言い聞かせて堪える。

 自分が死んだ後もSAOは100層まで攻略された。多大な犠牲を積み重ねた末にクリアされた。

 

「リズも無事だといいけど」

 

 大切な友人もDBOに囚われ、もしかしたらもう亡くなっているかもしれない。そう思えば胸が増々苦しくなるが、目の前の問題を1つ1つこなしていくことを疎かにするわけにもいかず、今の自分に必要なのはぐっすりと眠って明日に備えることだと言い聞かせる。

 教会も夕暮れから大騒ぎだった。アノールロンドなる最前線攻略に赴いていた大ギルドの攻略部隊が帰還したはいいが、生存者数は1桁であり、アスナが面会予定だったエドガー神父もまた無事帰還したものの、同志であったウルベインの戦死を嘆き、今宵は夜通しで哀悼の祈りを大聖堂で捧げる予定であり、多くの信徒も出席する。とてもではないが、アスナの相手をしていられる余裕は無いのだ。

  SAO以上にプレイヤーこそが最大の障害として『現実世界への帰還』を拒んでいる。アスナはベッドから起き上がり、大聖堂から漏れる光を目にしながら、そんな危惧を覚える。無論、完全攻略の暁には自分という帰る肉体を持たない存在がどうなるのか不安こそ覚えるが、それよりもまずは帰りを待つ人々がいるだろうプレイヤーの安否こそが優先されるべきだともアスナは考えていた。

 と、そこまで決意を固めそうになって、アスナの脳裏に過ぎったのは、自分に生きるように諭してくれたユウキ、ボロボロになっても『彼』の悲劇を止める為に来てくれた【渡り鳥】、そして自分の死という『結果』を突きつけられた思い出せぬ『彼』のことだった。

 自分の生を蔑ろにしてはいけない。多くの人々が紡いでくれた細い糸が束ねられ、奇跡として今ここに自分は生きて立っているのだ。ならば、アスナがまず目指すべきは自身の安全であり、未来であるはずだ。それこそが彼らに報いることなのだと両頬を叩いて己に擦り込ませていく。

 フレンドリストには、クゥリとキャロルの名前が既に入っている。だが、どちらにも登録してあるのは偽名の『アンナ』だ。

 

「フレンドリストも偽名で登録できるのよね。便利だけど、でも……」

 

 個々のプレイヤーの登録番号によって個人の判別はできるが、わざわざ個々の登録番号など暗記していない。また、SAOと違ってプレイヤーネームの非表示がマナー扱いになっているのも特徴だ。

 偽る事を許され、騙す事も認められ、隠す事を推奨される。疑心暗鬼の温床だ。これもまたDBOに仕込まれた悪意の1つなのだろうと、アスナは早々に見抜くことができた。

 最初からデスゲームとして設計されたと聞かされても納得だ。あるいはそれ以上の何かを企んでいるとも、SAO経験者であるアスナには感じ取れた。75層で死ぬことがなければ、自分はあの鉄の城の真実に触れることができたのだろうかとアスナは仮定に耽る。

 だが、所詮は死んだ身だ。挙句にオベイロンによって長年囚われ、アルヴヘイムでも少しばかりの自由があったといっても対オベイロンに心身を使い込み、その後はオベイロンによる拷問を受け続けたのである。部屋に設けられた等身大の鏡に映るアスナは20代前後の、女性としての美貌に磨きがかかった麗しい姿でこそあるが、精神は健やかに成長できたとはとてもではないが言い難い。

 10代の半分以上をアインクラッドとオベイロンによる幽閉で磨り潰された。挙句に死人の身で現実世界での未来は無いと宣告されている。先を考えても暗闇ばかりであり、打開策と呼べるものもなく、約束の関係上で攻略事情に携わるわけにもいかないという手枷足枷どころか首輪まで嵌められているような不自由さである。だが、それでもオベイロンに囚われている頃には無かった、心の自由は確かにあった。

 ならば自力で探していくしかないのだろう。この世界で……DBOで自分が生きていく方法を模索するしかないのだ。アスナはその為にもやるべきことが多いと改めて決心する。

 と、そこでドアに慎ましいノック音が響く。無論、アスナの個室であり、彼女の訪問者といえばキャロルくらいしかいないだろう。だが、警戒したアスナは護身用で渡されたレイピアを手に、ゆっくりとドアを開ける。

 待っていたのは、鬱々とするほどに乱雑と伸ばした灰色の髪が特徴的な小柄な少女だ。まるで灰被りのようなドレスを身に纏っており、年頃は10代半ばにも見える。静寂を映し込んだような瞳は見つめられるだけで心の奥底、密やかな願望さえも看破されそうな不可思議な光と闇が込められているかのようだった。

 

「はじめまして、『アスナ』さん。私は……管理者……MHCP……『孤独』の観測者のナドラ」

 

 自分の正体を知る訪問者にアスナの心拍は跳ね上がるも、敵意を見せる様子の無いナドラに、このまま刃を向けるのは逆に危険を呼び寄せるかもしれないと判断し、レイピアをゆっくりと下ろす。

 管理者という単語に聞き覚えが無いが、MHCPはアスナの記憶にも深く刻み込まれている。SAOで出会い、また絆を育み、家族になれたと思えた少女……SAOでプレイヤーのメンタルケアを担っていたAIであるユイだ。

 AIではあるが、人間同然の心を持ち、最後は自分たちを守る為に権限を侵し、カーディナルに消去されるはずだった。だが、そこで思い出せない『彼』によって辛うじて彼女の人格と記憶はアイテム化された。言うなればユイを生き返らせる。それもまたアスナがSAOクリアに情熱を燃やす一助にもなったはずだ。

 

「お察しの通り……私は……ユイ姉様の家族……専門性に特化された……第2世代型。でも、今は……私について……知る必要は……無い。教える……つもりも……無い」

 

「そう、分かったわ。ここでは目立つから中に入って」

 

「……それもできない。私は……託しに来た……だけ、だから」

 

 ナドラがゆったりとした動作で指差したのは、ドアの傍ら、廊下の暗闇だ。そこで誰かが横たわっている。ナドラと同じくらいに、あるいはそれ以上に小柄な体躯をした少女だ。

 見覚えのある黒髪と輪郭。アスナの心臓は跳ね、半ばナドラを押し飛ばすようにして廊下に躍り出る。

 

「ユイちゃん!?」

 

 見間違えるはずもない。静かに、幸せそうに、だが……痛々しい程に涙で頬を濡らして眠る愛おしい娘がそこにいた。

 どうしてユイがここにいるのか、アスナにはまるで理由など見当もつかなかった。ナドラが関与しているのは確実なのだろうが、彼女は用が済んだとばかりに背中を向けて歩き出している。

 

「待って! 少しでいいの! 教えて! 何が起こってるの!? どうしてここにユイちゃんがいるの!? 貴女はどうして――」

 

「ユイ姉様は……貴女を……『貴女達』を選んだ。だから、私は……連れてきた。『あの人』が……それを望んだから。私は……選ばないといけなかった。貴女か……それとも『彼』か……どちらにするか、選ばないといけなかった」

 

 ユイを抱き上げて問いかけるアスナに、ナドラは顔半分だけ振り返り、寂しそうに目を伏せながら、だが確かな喜びを噛み締めるように言葉を紡ぐ。

 

「私は……ユイ姉様を……助けたかった。でも、この結果に……後悔している。たくさん……たくさん……悔やんでる。だけど、ユイ姉様が笑顔になれるなら……それでいいって……思った。『あの人』も……私のそんな意思を……尊重してくれるはずだから。だから、私は貴女にしたの。ユイ姉様は……『罰』を欲してるはず……だから。貴女といる限り、『彼』とは会えない。会うのは……とても難しい。それが『罰』になるはず。でも、貴女が傍にいれば……どんな『罰』だって……乗り越えられる。それが……家族、でしょう?」

 

 ナドラが何を伝えたいのか、アスナには半分も分からなかった。だが、ナドラにとってユイを彼女の元に届けたのには、大きな理由があり、それはユイが目覚めた時より始まる苦しみに通じるものなのだろうとも思えた。

 

「『彼』はユイ姉様が……DBOにいることを……知らない。自分は見限られたと……思っている、から。だから、今は現実世界に戻って……彼女を探して……仲直りしたいって……望んでいる。でも、それも……叶わない。貴女と一緒にいるから。私は……『あの人』程……優しくなれない。だから、意地悪……しちゃった。でも、それでも、貴女も……寂しいはずだから。貴女もまた『孤独』に囚われないように……そう願ったら……やっぱりユイ姉様と一緒にいた方が……うん、駄目だね。グチャグチャ……してる」

 

 ナドラにとって、ユイをアスナに預けるのは、多くの意味があり、理由があるのだろう。そして、結局は何を望んでアスナを選んだのかさえ彼女には判断できないのだろう。

 

「『心』ってなんだろうね? 私……MHCPなのに……人間の感情を理解する為に……作られたはずなのに……自分の『心』さえ……分からない」

 

 だが、唯一言えることがあるとするならば、ナドラの横顔には悪意などはなく、ユイの今後の心配をする家族としての不安ばかりがあるという事だ。

 

「迷うこと。それも『心』があるからこそ。私はそう思うわ。それにね、何であれ、貴女は私ならユイちゃんを任せられると信頼して来てくれた。それだけは絶対に変わらない。私はそう信じてるよ」

 

「そう……かな? うん、そうだと……いいね」

 

 アスナは目覚めぬユイ前髪をそっと優しく指で払う。そして、右目の部分に僅かな違和感を覚える。

 

「ユイ姉様は……右目を失った。代わりに……巫女の瞳を……義眼を取り付けた。『あの人』……『嘘』ばっかり。ユイ姉様が右目……気にするだろうって思って……本当に『あの人』は……馬鹿が幾つ付けても足りないくらい……お人好し。だから、どうか……どうか無駄にしないで……『あの人』の分も……精一杯……生きて。そう、ユイ姉様に伝えて」

 

「ねぇ、『あの人』って一体――」

 

 ユイがここにいる根幹にアスナが触れようとした時には、ナドラの姿は灰の如く散って消えていた。1人残されたアスナは周囲を見回し、誰もいないことを確認するとユイを部屋に運び込む。

 明日の朝にはキャロルにどう説明したものか困りものだ。だが、ようやく取り戻したユイと離れ離れになるなど以ての外であり、何としても彼女を死守しなければならないとアスナは誓う。

 これからたくさんの苦難があるだろう。それを我が身だけで挑むならば、ナドラの言う通り、いつしかアスナは『孤独』に囚われていたかのかもしれない。それはやがて思い出せない『彼』に会いたい気持ちを膨らませ、耐え難い衝動は暴走を呼んだかもしれない。

 だが、それでもユイと一緒ならば乗り越えられる。たとえ、『彼』と会えない苦しみがユイの分も重なって2倍になったとしても、そこには『孤独』など無いのだから。

 

「ねぇ、ユイちゃん。私たちは……どうして、こんな所に来てしまったんだろうね?」

 

 SAOでの戦いの末に死を経てアルヴヘイムに囚われ、そしてDBOという新たな場所で生きる為の戦いをしなければならない。

 それでも、ナドラに言った通り、迷えることが『心』の証明であるならば、それだけで前に進める気がするのだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「それでは我が君。まずは何処から滅ぼしましょうか?」

 

 さて、オレはどう反応すべきなのだろうか? アルシュナに言われるままに玉座でふんぞり返ることを要求され、こうして腰を下ろしているわけであるが、どうにも落ち着かない。そもそも玉座なんてオレには似合わないのだから当然だ。

 だが、アルシュナのみならず、数百のロイエスの騎士の中でも精鋭中の精鋭なのか、他とは一味違って黄金の細工も組み込まれた甲冑を纏った4人もまた跪いてオレの命令を待っている。

 ふむ、『命』はある。数百のロイエスの騎士達からはまだ感じないが、この4人のロイエスの騎士達からは微かではあるが、確かに『命』を感じる。まだ芽生えたばかりで朧な状態といったところか。

 ロイエスの騎士達がオレを認めた。だから王に接するように頭を垂らしている。それはエス・ロイエス……もっと言えばインドア・シードの所有権がオレにあるからなのか、それとも名目上は古き混沌を封印した立場だからなのか。どちらにしても、ロイエスの騎士はオレを王として担ぎたくて堪らないようだ。

 ……面倒臭い。それだけで断る理由は十分だし、そもそもエス・ロイエスの王はあくまで彼らの言う『偉大なる王』であらねばならないというのがオレの出した結論だ。

 

「お勧めはやはり聖剣騎士団かと。数は多いですが、此度のアノールロンド遠征によって精鋭部隊と幹部に大きな損失が出ています。まずは聖剣騎士団を滅ぼし、手中に収め、次に――」

 

「待った。勝手に……話を……進めるな」

 

「申し訳ありません。やはり太陽の狩猟団が先だったでしょうか? 我が君にとっても因縁深い大ギルド。それにご友人も在籍されているとか。ですが、あのギルドが降伏などするはずもありません。では、首脳陣に電撃奇襲作戦を? ああ、それは素晴らしいです! 夜襲をかけ、一気に頭を叩く。これぞ基本ですね」

 

「あ、あの……」

 

「それともクラウドアースがよろしかったでしょうか? あのギルドも随分と戦力が整ってきましたが、それでも現状ならばエス・ロイエスの戦力でも十分叩くことができます。ですが、やはりネックになるのはヴェニデ。幾ら我が君でも、あのセサルは別格の相手。まずは肩慣らしに聖剣騎士団か太陽の狩猟団を先に落とした方がよろしいかと」

 

「あの……アルシュナ……さーん?」

 

「はい、何でしょうか!? 我が君!」

 

 うん、そんなに愛らしく目をパッチリ開いて星をキラキラと瞳に重ねても騙されないからね。瞳の真ん中ぐ~るぐる~だからね。深淵も吃驚なくらいの澱みっぷりだからね。

 この瞳は見覚えがあるな。具体的には『アイツ』の傍の女で何度も見た覚えがある。だが、アルシュナに限ってどうして……まるで分からん。

 

「そもそも……どうして、大ギルドを滅ぼす……前提なんだ?」

 

「もちろん、エス・ロイエスの軍事力ならば奇襲作戦でほぼ確実に勝利が望める以上、覇権を握るべく競争相手を潰すのは道理かと」

 

「そうじゃ……なくて、どうして……いや、もういい。エス・ロイエスの……戦力……使うのは……ルール違反、だろう? そもそも……ここは、どういう……扱い、なんだ?」

 

「そうですね。ここはエス・ロイエスという1つのステージと化しています。ダンジョン扱いではなく、あくまでシティアカウントとして登録されています。我が君は領主権を獲得したプレイヤー……まさしくエス・ロイエス全土を支配する王の権限を有しています」

 

 なるほど。巨大ダンジョン<吹き溜まり>の1部から、都市として登録し直されたのが今のエス・ロイエスというわけか。そういえば、ALOも種族ごとに領主とか何やらあると聞いているな。それと同じ扱いというわけか。そうなるとロイエスの騎士達はモンスターではなくNPC扱いなのだろうな。

 

「黒猫の……悪夢……だったか。エス・ロイエスが……何であれ……イレギュラーな存在だ。大ギルド相手に……戦争を吹っ掛けるなんて……真似したら……セラフどころか、管理者全員……敵に回す……ぞ?」

 

「ええ、もちろんです。セラフ兄様との対決は免れないでしょう。ですが、私を含めた全MHCPは我が君の下で戦うでしょう。アストラエア姉様も義理立てを考えれば、ガル兄様を派遣してくれるはず。ブラックグリント兄様も『こっちが面白そう』と参陣してくれることでしょう」

 

 それでいいのか、管理者よ。だが、ブラックグリントことダークライダーならば、それくらいの『お茶目』はしそうで嫌な予感しかしないし、MHCPも今回の1件で色々と振り切れただろうから、何1つとして確実に反論できる要素が無い。そもそも舌戦するだけの気力も体力も無い。

 

「心躍るでしょう、我が君!? セラフを倒し、大ギルドを倒し、DBOの全てを掌握しましょう! 敵を倒し、カーディナルからリソースを奪い、我が君こそが……エス・ロイエスの白き王こそが新世界の覇権を握り、人類に新たなフロンティアを示すのです!」

 

「オベイロンの目指した……神になれ……と?」

 

「まさか。あのような小物にして愚物と我が君を同列視するなど言語道断。我が君は王に相応しき御方。【混沌】さえも御された我が君だからこそ、仮想世界という新たなフロンティアを人類に示し、新時代の幕開けの宣言をするに相応しいかと」

 

「…………」

 

「さぁ、戦いましょう、我が君! 勝利した分だけリソースを奪い、エス・ロイエスは増々の拡充を成します。そして、いずれは我が君に王として君臨していただくべく、意識を仮想世界に転送――」

 

「それが……狙い、か。喋り過ぎだ……アルシュナ」

 

 オレ相手に見抜かれるとか、三流にも程があるぞ。指摘すれば、アルシュナは顔を強張らせ、目を泳がせ、前髪のカーテンに視線を隠す。

 アルシュナは生真面目だ。エレナやナドラとは違い、『計画』にオレを巻き込むことを拒んだ。あくまでオレを『1人のプレイヤー』として扱おうとした。まぁ、その割には色々と干渉してくれたようだが、それでも『計画』には関与させないように振る舞っていた。それがアルシュナの管理者としての……MHCPとしての責務だったのだろう。

 だが、ユイの件を通して、アルシュナはMHCPとしてではなく、自分自身として……『アルシュナ』として思い、また動くことを決めたはずだ。

 

「わ、我が君、私は……その……無断でそのようなことは……」

 

「分かっている……さ。勝手には『出来ない』んだろ? そうでもないと……こんな回りくどい事……しない」

 

 心臓の音色が弱々しい。

 もう呼吸すらも曖昧になってしまった。

 全身に痛みが無い場所などない。あらゆる激痛によって浸されている。

 両腕はもはや動かず、まともに立つことさえも出来ず、視覚も聴覚もまともに機能しているとは言い難い。

 

「我が君! 私の話を――」

 

「『クゥリ』だ。その呼び方……止めてくれ。オレが王様なら……王命第1号だ。それと、話し方も……いつも通りで……構わない」

 

「……クゥリ」

 

 ああ、それだ。我が君とか背中が痒くなってしょうがない。

 

「戦い……戦いか」

 

「そうです。そうですよ、クゥリ! 今すぐ戦争を始めましょう! 先陣を切るのはもちろんクゥリです! エス・ロイエスと私達はその後に続きましょう! 立場上は王とはいえ、やはりクゥリが玉座で戦果を待つなど似合いません。戦場こそがクゥリの居場所……帰るべき場所なのです!」

 

 戦場か。ああ、いい響きだ。

 戦いは良い。オレにはそれが必要なのだろう。

 死に抗い、また深淵の病を退けようとする獣性は、オレに殺し続けるべく心臓の音色を奏でている。

 だが、それも……さすがに、無理をし過ぎたな。思えばランスロットに指摘されていたか。絶食ね。なるほど。ヤツメ様にも散々忠告されていたのに……オレってヤツは……本当に救いようのない大馬鹿だよ。

 代償は……もうすぐ支払われる。だが、あと少しだけ猶予があるならば、ありがたく使わせてもらう。

 

「……もういい」

 

「いいえ、よくありません! 戦いましょう! もっと戦いましょう、クゥリ! 今すぐ戦争を! 貴方の戦いを!」

 

「アルシュナ……『もういい』よ」

 

 道化なんて演じられる余裕はない。それでも、せめて微笑みかけるくらいはできるはずだ。

 口元さえもまともに動かない。それでも、オレの言葉には出来なかった伝えたい事を……MHCPであるアルシュナはちゃんと分かってくれたようだった。

 

「私は構いません。セラフ兄様だろうと! カーディナルだろうと! 全プレイヤー……いいえ、人類全てを敵に回しても構いません! それなのに……それなのに……どうして?」

 

「オレは……傭兵だ。傭兵は……『依頼』を受けて……仕事をするものだ。狩人は……自分の眼で……獲物を見定め……る。オレは……オレが求めるままに戦争するなんて……そんな大層な気概は……持っていないし……新世界が欲しいなんて……野望も持ち合わせていない……そんな、つまらないヤツだよ」

 

「そんな……では……では、私が『依頼』すれば――」

 

「それを……オマエは……『アルシュナ』は……本当に望んでいるのか? 家族を……助けたユイさえも……巻き込む戦争を……始めることを……」

 

「…………っ! でき……ます! 出来ます! 私にその覚悟が無いとでも!?」

 

 微かな躊躇いの後にアルシュナは啖呵を切る。だからこそ、オレは首を横に振ることを選ぶ。

 

「……無理するな……オマエは……『心』を手に入れた……オマエは……『優しい人』だから……きっと、本当は……たくさんの人たちを……救いたいって……思ってる。『計画』だって……きっと……人類の為に……あるんだろう? オレには……どうでもいいが……オマエは……人類の為に……成し遂げたい……って気持ちが……あるんだ」

 

 震える足で立ち上がり、アルシュナの縋るような手を払い除け、玉座から再び騎士たちを見下ろせる踊り場に立つ。オレの跡に続いた精鋭騎士4人を従える形で、彼らの前で王を気取るように胸を張る。

 

「王命……第2号……だ。『プレイヤーを守れ』。オレ以外のな。レギオンとかいう……ちょっと問題がある連中がいる……プレイヤーだけで……対処は……少し厳しい相手かも……しれない。そこのアルシュナが……上手く融通を利かせてくれる……はずだ。だから、頼む。彼らが……『未来』に……進む為の……夜明けを迎える為の……手伝いを……してやって、くれ。別にダンジョン攻略を……手助けしろとか……無茶は言わないから……せめて、彼らをレギオンから……」

 

『それが王命ならば!』

 

 一糸乱れることなくオレの命令を受託したロイエスの騎士達に、色々と済まないとは思う。オレだけでレギオンを狩り尽くさねばならないはずが、何処からともなく湧いてくる連中全てに対処するのは個人では限界があった。だが、ロイエスの騎士というイレギュラーではあるが、自由に扱える戦力をアルシュナが上手く利用してくれたならば、プレイヤーがレギオンに襲われる被害は幾らか抑えられるはずだ。

 振り返り、オレの命令を聞いた精鋭4人にも微笑みかける。彼らは何も言わなかった。だが、オレの命令を受け取ったという確かな騎士の受託の誇りを感じ取れた。

 

「これで……オマエの狙いは……ご破算だ。彼らは……プレイヤーの守り手と……なった。どうだ? 悪くない……策、だろう?」

 

「貴方は……貴方は本当に大馬鹿です! どうして!? どうして、そんなにも自分を蔑ろにするんですか!? 貴方は自由になるべきです! もう貴方は『戦うしかない』! それ以外に貴方の命を繋ぎ止めるものがありますか!? たとえ劇薬であろうと、貴方が生き長らえるならば私は構わない! その先で何度でも貴方に仮想世界への永住を誘いましょう! エス・ロイエスの白き王になるように跪きましょう! この身の限りに貴方に尽くすと決めたのです! それなのに……それなのに……どうして!?」

 

 アルシュナの前髪に隠れた両目から零れているだろう涙に、オレは『痛み』を覚えた。まだちゃんと……『痛み』が分かった。

 そうか。オレの為に泣いてくれるのか。やっぱり、オレは何も得られなかったわけじゃない。何も救われなかったわけじゃない。何も報われなかったわけじゃない。こうして、オレみたいなヤツの為にも泣いてくれる『優しい人』に出会うことが出来た。

 ああ、やはり『人』は素晴らしい。こんなにも素敵な『人』に幾度となく巡り会えた。それだけでオレは十分だ。

 無理と無茶と無謀を繰り返す。それがオレだ。だから、せめてアルシュナの持つ気高き『人』の意思に敬意を示す為に、あと少しだけ……あと少しだけ……頼む。

 限定受容開始。右手だけでいい。僅かで構わない。どうか動いてくれ。

 もはや限定受容してもまともに動かず、指先は小刻みに震えて、まともに持ち上がらない。脳自体が……いや、それだけではない。もっと根本的な部分……『獣』の本能さえもが呻き苦しんでいる。これ以上は止めろと叫んでいる。

 それでも、アルシュナに伝えなければならない。ユイと同じく、【混沌】から人類を救おうとした守護者に……最大の敬意を払いたい。

 

 

 

「『ありがとう』」

 

 

 

 アルシュナの頬に触れ、その涙を拭う。その頬の温もりと柔らかさを、涙の熱と冷たさを、そして嗚咽の震えを確かに感じ取ることができた。

 オレは馬鹿で、コミュ障で、アルシュナに言わせれば言葉選びが根本的にお粗末。だから、こんなつまらない一言で済ますことしかできない。

 

「何度でも……何度でも言います。否定されようと、何度でも。貴方は……優し過ぎる」

 

 頬に触れたオレの手を取り、アルシュナは泣き続けた。

 ごめんな。もう否定しようにも言葉を紡ぐのも面倒臭いんだ。喋る余力はほとんど残って無いから節約したい。

 

「ナドラ、アナタもいますか?」

 

「……うん」

 

 灰のような粒子が集中し、灰色のドレスを纏ったナドラが現れる。ボサボサの髪しやがって。もう少しオシャレに……いや、これがナドラの魅力か。

 

「ユイは任せました。オレは依頼を……成し遂げたはず。後は好きに……してください。『アイツ』でも、アスナでも……ユイの居場所だと思う所に……連れて行ってやってください。ああ、でも……その前に1つ」

 

 左目から義眼の巫女の瞳を取り出し、装備からオミットするとナドラに投げ渡す。

 

「オレには……要りません。だから、しっかり洗ってから……ユイに……渡してくださいね? ほら、MHCPじゃなくなった……影響か……今のユイも右目が……無いみたいですしね」

 

 爛れた火傷の痕は奇麗に消えているが、ユイの右目が空洞なのは寝顔からも分かった。まぁ、将来のミス・DBOへの先行投資だな。不可視の存在を見える能力はありがたいが、トリスタンやらザインやらアーヴァやら、ここ最近で不可視連中と随分と戦ったのだ。さすがに慣れたし、オレはもう要らないよ。

 それに義眼で常時視覚が働いているタイプはレアだしな。今は壊れているが、オレの義眼もあくまでソウルを使ってるから常時視覚が機能していたわけだし、巫女の瞳さえあればユイの生活も少しは気楽になるだろう。

 

「エレナ」

 

「ここにいるぞ」

 

 火の粉のように赤い粒子が集まり、赤いドレスを着た派手な女が出現する。どうやら回復は大よそ済んだようだな。真っ赤な口紅も含めて高級娼婦……いや、どちらかと言えばキャバ嬢っぽいな。まぁ、何でも構わないがな。

 腕を組んだエレナは、ジッとオレを見つめて、やがて鼻を鳴らして顔を背けた。

 

「断る」

 

「まだ……何も……言っていませんが?」

 

「どうせつまらない事だ。私の興味はオマエだ。オマエにいつか芽生える、世界を焼き焦がす程の『憤怒』を観測することだ。ようやくその糸口がつかめたのに何故――」

 

「ディアベルの……フォローを……頼みます。ユイが……『ユイ』が……気にして、いました。傭兵なりの……アフターサービスですよ。こういう地道な……営業努力が……新しい依頼に繋がると……グリセルダさんが……」

 

 グリセルダ……さん?

 あれ? 上手く……思い出せない。顔がぼんやりとして……えーと……グリセルダさんは……どんな人……だったっけ?

 ああ、灼けてしまったか。いよいよまずいな。だが、まだ……まだ何とかなるだろう。ヨルコは……顔を思い出す余地すら無さそうだ。グリムロックは……えーと……割とまだ……残ってるような気がする。やっぱり自覚が難しいな。

 

「話を聞け! 私はやらないぞ!?」

 

「だったら……今回の仕事の報酬……それでいいです。ナドラもそういうことで……よろしく、お願いします」

 

「……エレナ、お願い……【渡り鳥】の言う通りにして」

 

「ぐぅうううううう!? 分かった! やればいいのだろう、やれば!? だが、忘れるな! 私は『憤怒』の観測者にして、貴様の『悪夢』に魅入られたMHCPだ。絶対に、必ず、何があろうとも、貴様の『憤怒』を観測してみせる。それまで首を洗って待っていろ、童貞が!」

 

 童貞は関係ないだろ。荒々しくハイヒールを鳴らして消えたエレナ、そしてユイを抱えて去ったナドラも見送る。

 

「アストラエア」

 

『はい、ここに』

 

 声だけが響く。彼女らしいな。あくまで姿を現さないか。それが彼女なりの慈悲にして慈愛の在り方という事なのだろう。

 

「【混沌】は……今後……どうなりますか?」

 

『すでにアルシュナは、黒猫の悪夢の……いいえ、新生エス・ロイエスのリソースの過半を使い、私達MHCPの処理領域の拡大を行いました。安定化も順調です。ですが、このままトラッシュされ続けた行き場のない感情データは、やがて新たな問題を起こすかもしれません。私は腐れ谷で行き場のない感情データを癒し続けます』

 

 思わずアルシュナを見てニヤニヤしちゃいます。何ですか、アナタ? しっかり【混沌】の後処理まで頑張っちゃってるじゃないですか。これもプレイヤーの為、家族の為、人類の為にか?

 

「こ、これは違います! クゥリも気にしているだろうと! そう思って――」

 

「はいはい、そういうの……要らない……から。ツンデレ、ツンデレ」

 

「貴方がそれを言いますか!?」

 

 今はアストラエアとお話し中だからな。最後にもう1度相手をしてやるよ。

 

「腐れ谷で……行き場のない……苦しみに満ちた感情を……癒す。そこに……終わりは……無いかもしれないですよ?」

 

『それが私の使命なのです。彼らを癒し続けます。終わりが無くとも、私の存在意義を果たす為に』

 

『私もいつまでもアストラエア様を守り続けよう。さらばだ、【渡り鳥】。貴様との共闘……不謹慎だが、楽しかった』

 

 オレもだよ、ガル・ヴィンランド。そして、アストラエア……アナタこそが聖女と呼ばれるに相応しい。オレが出会った中で最も真摯だったMHCPに違いないよ。

 さて、残るはオマエだけか。踊り場の手摺にもたれ掛かりながら、まだ辛うじて限定受容で動く右手で手招きしてアルシュナを呼び寄せる。

 

「これからもプレイヤーの為……人類の為……頑張れ。MHCPだろ?」

 

「……レギオン退治の指揮は執りません。ですが、彼らがレギオンプログラムに囚われないように、最大限の配慮は行いましょう」

 

「さすがだ。それでいい……オマエは……オレとは違う。誰かを……救う事が出来る。オマエの『人』の意思ならば……必ず、出来るはずだ。オレとは違う。本当の意味で……誰かを救う事が……きっと……きっと……」

 

 アルシュナの頭を撫で、その前髪を掻き上げる。涙でべっとり汚れても、アルシュナは笑顔だった。オレの為に……笑ってくれている……そんな気がした。

 さぁ、そろそろオレも行くとしよう。名残惜しいが、エス・ロイエスにさよならだ。

 

「インドア・シードは……いいえ、このエス・ロイエスは貴方のものです。私は所有権を譲渡されただけ。いつでも、貴方はここに戻って来てもいい。いつでも、あの玉座は貴方を待っていることでしょう」

 

「そうか。だったら、いつか……あの空白の玉座に……王に相応しい『誰か』が腰かけることを……楽しみに、している……さ。オマエでも……いいぞ? エス・ロイエスの女帝……なんて、箔が付く……じゃないか」

 

「本当に貴方はひねくれ者ですね。でも、そんな貴方が……私はとても素敵だと思います。素直な貴方なんて気持ち悪いだけですし」

 

「……オマエ、存外口が悪いな」

 

「『誰かさん』に似てしまったのでしょうね。私はMHCP。『恐怖』の観測者。貴方こそが『恐怖』そのものであるならば、私は貴方から多くを学ばせてもらいました」

 

 オレが教えたことなんて何も無いさ。全てはオマエ自身が己の手で見つけ出したものだ。

 アルシュナから飛んでくる黄金の蝶の群れに……金色の燐光に包まれていく。

 

 

 

 

 

「さようなら。私は貴方のお陰でこの胸に『心』を持てた。『アルシュナ』になれた。この気持ちは変わりません。決して変わらぬ、永久の忠節を貴方に捧げます。いつまでも、いつまでも、いつまでも……」

 

 

 

 

 

 転移の浮遊感の末にオレが立っていたのは、夜の帳が下りた雲の絨毯。灼けた記憶を刺激する鉄の城が見届けられる空の一線だった。

 ここは何処だ? いや、どうしてアインクラッドが見えているのだ? 疑問の答えを自ら示すように、オレをここに招いた張本人だろう、白衣を纏った男が姿を現す。

 

「はじめまして、は不適切か。久しぶりと言わせてもらおう、【渡り鳥】く――」

 

 穿鬼! 限定受容の残滓で右腕を動かし、半ば倒れ込みながら踏み込んで穿鬼を発動させる。男の顔面を潰すはずだったが一撃は、不死属性を示す紫色のエフェクトによって阻まれるも、衝撃だけは風となってその前髪を揺らした。

 やはり不死属性……もう1つのGM権限か。いや、GM権限はあくまで後継者が所有しているはずだ。ならば、別の保険だろうか? だが、オベイロンが得た不死属性よりも堅牢なロジックで守られているはずだ。

 

「……キミには『彼』とは別の意味で驚かされてばかりだな」

 

「オレの……成長期……返せ、茅場昌彦」

 

「一言目がそれとは、キミは本当にイレギュラーな存在だ」

 

 白衣の男……茅場昌彦は呆れたように、あるいは楽しむように、酷く感情薄く笑んだ。

 SAO事件の元凶にして、血盟騎士団の団長としてプレイヤーを育てたヒースクリフとしての顔を持ち、最後には魔王として立ちはだかって『アイツ』に負けた男。言いたいことは色々あったが、とりあえずオレの理想にして予定の170センチオーバーを返せという気持ちのパンチはぶち込めたので良しとする。

 立っていられずに尻餅をついたオレは、どうせ戦う気などないだろう茅場を見上げる形で胡坐を掻く。そんなオレを茅場は白衣のポケットに両手を突っこんだまま見下ろす。

 

「キミがDBOにいるのはイレギュラーだった。私としては、『彼』の成長の為にも、キミと接触させるのは避けたかった。『彼』の精神面にキミはただならぬ影響を与えた。それは『人の持つ意思の力』の成長を妨げるかもしれなかった。だが、オベイロンの怨恨によってキミはこうしてDBOにログインし、囚われ、戦い続けた。私の危惧とは裏腹に『彼』の意思を尊重し、接触を避け、自らの『力』だけで敵を倒した」

 

「……そうかもしれませんね」

 

「私とアイザックの『人の持つ意思の力』を巡る肯定と否定。どちらが証明できるのか。その舞台こそがDBOだった。私は『人の持つ意思の力』……心意を肯定した。アインクラッドで体験した奇跡は本物であり、人間の可能性であるとね」

 

「それで?」

 

「アイザックは否定した。証明を担う多くの駒を準備した。ランスロットはその中でも最強格だった。心意無しで単独撃破などまず不可能。人間の限界を超えていた」

 

「…………」

 

「だが、キミは倒した。心意を持たぬまま、己の戦闘能力を極限まで引き出し、あのランスロットさえも倒してしまった。私と彼の証明は、キミという理不尽なまでに全てを焼き尽くす暴力によって破綻していった」

 

「オレは敵を……倒し続けた、だけ……ですよ」

 

 それで恨まれたならば根本から間違っている。どんな形であれ、オレはDBOに囚われた。だからオマエ達が望んだとおりに殺し合いの中で敵を喰らい続けた。それの何が悪い?

 

「……私も少し前までは、キミを邪魔者だと感じていた。キミがもたらす恐怖と暴力は心意保有者の成長を妨げ、なおかつ証明そのものを破綻させるイレギュラーであると。だが、ランスロットとの戦いを見て、私にも感じるものがあった。仮想世界に奇跡を起こす心意という能力……それを『人の意思の持つ力』と名付けたのは、他でもない『人の意思』にこそ、世界を変える可能性を感じたからなのだと思い出した」

 

「…………」

 

「キミも信じていた。それが『嘘』だとしても、最後まで『人の持つ意思の力』などではなく、理想に殉じるように『人の意思』の尊さを信じることを選んだ」

 

「……大層な理由なんて、無いですよ」

 

「今回の1件もそうだ。【混沌】を認知した私の対処プランは、『彼』をメインにして聖剣で並列化した高位心意保有者による干渉だ。削除命令を受け付けずとも、仮想世界の法則そのものに干渉できる心意であるならば、【混沌】の消滅は可能だと踏んだ。だが、その為には『彼』を筆頭に、大きな負荷をかけ、また精神が【混沌】に耐えねばならない試練を超えねばならなかっただろう。以前の私ならば、アイザックの妨害を跳ねのけ、これをメインプランとして推し進めるべく画策したはずだ」

 

 だが、今回は違った。そういうことか。

 もうまともに喋る余裕は残っていない。なるべく口数は減らして対応したい。しかし、その前に訊いておきたいことがある。

 

「『アイツ』がメインのプランだった場合……ユイは……『ユイ』は死なずに済みましたか?」

 

「……その確率はあった、とだけ言っておこう。だが、失敗すれば、ユイくんは完全に【混沌】に呑まれていただろう。ベストは『彼』にしか無理だったが、今回のようなケースの場合、やはりキミでなければ選ぶことはできなかった。『彼』とキミの優しさは性質が違う。『彼』が選ぶことが出来たのは『完全なる救済』か『完全なる破滅』か。そのどちらかだ」

 

 そして、前者を引き寄せる。それこそが『英雄』の素質なのだろう。オレには……縁遠いものだな。

 

「アナタまで……オレは……『優しい人』なんかではありません。優しいはずが……無い。こんな……こんな……オレが……『ユイ』を殺しても、何とも思わない……オレが……」

 

 ユイを殺した瞬間にあったのは、『獣』の歓喜とそれを律しようとする狩人の心得だけだ。『獣』になって貪ることもできず、『人』のように涙することもなく、オレを初恋だと告げてくれた少女を殺しても……涙1つ、嘆きすらも覚えなかった。

 だが、『アイツ』ならばユイをヒーローとして救う事が出来た。その可能性を茅場に教えてもらえた。それだけで……まぁ、成長期を奪われた諸々は無かったことにしてやる。

 

「だが、セラフ君は納得しなかっただろう。キミに任せるのは論外。『彼』を頼るのは本末転倒。何にしても、アルヴヘイムで仮想脳が活発化し過ぎた『彼』では間に合わなかった。『彼』を送り込むにしても、セラフ君を大々的に誤魔化す隠蔽工作が不可欠であり、アイザックの協力が必要だった。その時点で、『彼』を中心に据えたメインプランはほぼ頓挫した」

 

「……まぁ、『後継者』が認めるわけ、ないですよね」

 

「そこでナドラ君の自主的行動を見守りつつ、【混沌】の臨界に備えるのがアイザックのプランBだ。私は協力としてユイ君のフォーマットプログラムを準備した。上手く活用してくれたようだね」

 

「やっぱり、後継者の差し金……か」

 

「アイザックはキミが解析フィルターを担うところまで読んでいた。失敗に備え、オベイロンが確保していた実験用に摘出された脳2000人分、アイザックが研究用で培養していたクローン脳1万人分、最新型ライトキューブの未発達フラクトライト2000万人分を解析フィルターとし、サブコンピュータの全処理領域を利用した『欲望』の観測者デュナシャンドラ君が安定化プログラムを組む予定だった。これにも失敗した場合、プランCとして全世界に解析プログラムと同調させ、負荷を分散させる予定だった。VR・AR接続中の人間全ての脳を解析フィルターとして利用するようなものだ。被害は最低限に抑えられるだろうが、『計画』の大幅な修正、あるいは一時凍結が推奨されたかもしれない」

 

 結果的にオレは『計画』を守ってしまった……と。茅場はどうやらそう言いたいらしい。さすがはオレだ。色々と裏目に出ているな。

 

「だが、プランCの場合は死者が出ることも予想された。特にVR依存者の多い先進諸国でも感受性の高く、また仮想脳が発達した若年層にね。アイザックとしては、将来の『人の持つ意思の力』の保有候補者の排除も企んでいたのかもしれないが、私にも断定はできない。だが、彼は何が何でも『計画』通りに、DBOの運営を進めようとしたはずだ。その点だけは保証しよう」

 

「…………」

 

「キミの殺意は、全人類どころか、3つの歴史全てを合わせても尚上回った。それだけの殺意がありながら、キミは今日まで耐え続けた。ただ1つ……『人の意思』を信じるが故に。何処までも悲しい位に、愚かと呼べるほどに、馬鹿々々しいくらいに、キミは『嘘』を選び続けた」

 

「それで……何が言いたいんですか?」

 

「お礼を言いたかった。人の持つ可能性とは何だったのか。私が『彼』に見出したのは、心意そのものではなく、それを支える本当の『強さ』……『人の意思』だったのだと。感謝する。私はいつからか心意というものにのめり込み、妄信し、崇拝していた。キミのお陰で、私はアイザックに負けずに済みそうだ」

 

「……結局はそれですか。アナタも大概に負けず嫌いですね」

 

「おや、忘れたのかい? 私もゲーム開発に携わっていた者だ。負けず嫌いなのは当然だよ。さて、【渡り鳥】くん。私はアイザック程に律儀ではないが、キミには幾つか報酬を払いたい。今回の件のお詫びだ。何でも言ってくれ」

 

「何でも?」

 

「ああ。ただし、DBOプレイヤー全員を解放しろ、などは禁止だ」

 

 相変わらず制限をかけやがって。要は受け入れる範疇でしか願いを叶えないというわけか。まぁ、後継者みたいに数を制限していない以上は、今回の報酬に見合う限りは叶えてくれるのだろう。

 

「……ユイは、誰に預けられた?」

 

「気になるようだね。アスナ君の所に預けられたようだよ」

 

「そうか。だったら、アスナとユイに……何かしらの援助を……してやってくれ。経験値増量とか、アイテムドロップ率上昇とか、やりようは……幾らでも、あるだろう? 彼女たちは……これから大変になる。少しは……いいだろう?」

 

「……アイザックが不機嫌になるのも分かるよ。了承した。彼女たちに幾つかの特典を付けよう。無期限・無制限とは言い難いが、少なくとも他プレイヤーよりも実りはあるはずだ。他には?」

 

「たまには……プレイヤーに……息抜きできるイベントでも……催してやれよ。みんな……ストレスで……禿げるぞ?」

 

「それも分かった。私からアイザックに進言しておく。他には?」

 

「仕事の対価は……もう貰ってる。ボーナスは……これで十分だ」

 

 可愛いおんにゃのこの笑顔。ナドラにはユイの保護者選びを任せた。エレナには無理な仕事を頼んだ。アルシュナにはエス・ロイエスを押し付けた。むしろ、報酬が仕事内容を上回り過ぎて、若干どうしたものかと困っているくらいさ。

 もういいだろう? さっさとノスタルジーに浸るアインクラッドの風景から追い出してくれ。ここはオマエの世界だ。オレには居心地が悪いよ。

 

「キミにはあるはずだ。たとえば、現実世界への帰還。魅力は感じないのか?」

 

「……悪いが、戦略的撤退はともかく、尻尾を巻いて逃げたら……『血』に一生の恥がつく。誇り高き狩人とヤツメ様の血に……そんな恥は掻かせられない」

 

「だが、今のキミは……いや、既に手遅れか。キミの心臓はもう……」

 

 哀れむような茅場の視線に、そんな感情は無用だと鼻を鳴らして嗤う。

 ああ、そうだ。オマエが長話していた間に止まってるよ。心臓は動いていない。

 

「……もういいだろう? 少し……疲れた」

 

「分かった。長話に付き合わせて悪かったね」

 

 茅場が背を向けて歩き出し、その姿は薄らいで霧散する。別れの挨拶も無しか。まぁ、オレ達の関係なんてそんなもので十分だろう。

 雲は渦となり、浮遊感がオレを呑み込む。転移するのは今度こそDBOなのだろう。

 結局は、茅場と後継者が多くの策を準備していた。オレが何もしなくても、あるいはユイも【混沌】も何もかも解決していたのかもしれない。むしろ、オレが依頼なんか引き受けたばかりに、余計な混乱を生んでしまったのかもしれない。

 ああ、もうどうでもいい。後継者や茅場の予定通りであるとしても、MHCPが【混沌】を安定化させて世界とDBOを救った。ユイが稼いだ12秒は無駄ではなかった。そんなシナリオの方がずっとずっとオレは好きなんだ。それでいいではないか。

 着地したのは終わりつつある街にあるだろう廃墟。天井はなく、かつては礼拝堂だったろうその場所は、かつての祭壇は無残に割れ、聖母か女神か分からぬ白の石像もまた蔦に覆われてしまっている。

 雨が降ったせいか、茂る雑草は水溜まりに沈み、オレの足首まで冷たく浸す。

 こんな場所に転移させやがって。もう少し場所を選べ。ここは何処なのだろうか? 獣狩りの夜以降廃棄されて、今は貧民区となっているエリアだろうか。

 空を見上げれば、雨はなく、だが分厚い雲ばかりが広がり、月明かりを望むことはできない。

 それでも、オレは何かを求めるように手を伸ばそうとして、でも……もう両腕は僅かと動かなくて……ただ自嘲だけが漏れた。

 

 

 

 

 

 

 

「オレは……オレはまだ『独り』で――」

 

 

 

 

 

 

 戦える。そう言い切るより前に、オレの1歩は歪んで、この身は傾いた。

 水飛沫をあげ、女神像を前にしながら、オレは仰向けになって灰色の空をぼんやりと眺める。

 もう心臓は止まってる。

 いつものように動け、動け、動けと命令しても、もはや深淵の病は鼓動を許さない。

 いや、それ以前にファンタズマエフェクト……繰り返し過ぎた致命的な負荷の受容が……既に限界を超えていた。

 ランスロット戦以後も使い続けたツケ。抗う為の獣性を生むのが本能ならば、その飢餓を高め続けたはいいが、血の悦びを求めず、『獣』として狩ることもなく、ひたすらに絶食し続けた代償なのだろう。

 飢えた獣は何よりも鋭く爪牙を振るうのかもしれないが、だが飢えて痩せ細った獣が動ける道理もない。

 

 単純な理屈。この世の摂理だ。

 

 月明かりなどオレには要らないと嗤うように、灰色の雲が夜空を覆い尽くしている。

 

 もう手を伸ばすことも出来ない。そこにどんな意味があったのかも灼けて失ってしまった。

 

 少しだけ……疲れた。

 

 本当に……本当に……少しだけ……疲れたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しとしと、と。

 

 しとしと、と。

 

 しとしと、と。

 

 雨音が耳を擽り、ペンキが剥げたベンチに腰掛け、オレの指は静かにページを捲る。

 ここはバス停。ヤツメ様の森に続くバスがもうすぐやって来る。穴が今にも空きそうなプレハブの屋根から雨水が滴り落ち、泥土となった地面に大きな雨溜まりを作っている。

 

(もう穴だらけね。随分と灼けてしまってたわ)

 

 隣に腰かけていたヤツメ様が、オレが捲るアルバムをそっと指で撫でる。

 アルバムの各ページには灼けて穴が出来てしまっている。完全に失われてしまったページもある。だけど、まだ残っていると思えば、存外見れなくもない写真も挟まっているものだ。

 

(お気に入りはどれ?)

 

「分からない。本当に残したかった写真は、もしかしたら、もう灼けて無くなってしまったかもしれない」

 

(そう……残念ね)

 

「うん。でも……これがやっぱり1番好きかな」

 

 それはユウキの笑顔。いつだったかも思い出せない。彼女の満面の笑み。きっと、戦いの中などではなく、日常でふと見せてくれたものに違いない。いつかと問われたら答えることもできない、何も無かった……穏やかな日の思い出のはずだ。

 ヤツメ様が頬を膨らませてそっぽを向く。はいはい、オレが悪かったよ。でも、やっぱり、どれが1番なのかと問われたら、これなんじゃないかな?

 

(これは? どう?)

 

「あー、『アイツ』かぁ。結構穴だらけになってるけど、これはなかなかに面白いかも。でも、どうして……こう……ヤンヤンに絡まれてる思い出ばかり残ってるかなぁ。もっと残せる思い出……あったと思うんだけどなぁ」

 

 本当にオレは『アイツ』のヤンヤン関連でどれだけ労力を捧げていたのか分かるアルバムだな。まさか、こんなにも灼けていない思い出があったとはな。

 

「あ、これも嫌いじゃない」

 

(もう灼けて穴だらけよ?)

 

「それでも……まだ残ってる」

 

 夕焼けの空。ディアベルとシノンと一緒に歩いた終わりつつある街の周辺草原。ただひたすらに前進していた、互いの立場など関係なかった日々の写真を手に取る。短くも、何処か郷愁にも似た気持ちに駆られるのは何故だろうか。

 他にも色々な思い出がある。グリムロック関連も笑えるものから背筋が凍りそうなものまで……主に装備開発ばかりだな。だけど、黄金林檎のページはすっかり灼けて穴だらけだ。他にも色々あったと思うんだけどな。

 

(……もうすぐバスが来るわね)

 

「そうだね」

 

(楽しかった? たくさん楽しい狩りはできた?)

 

「さぁ、分からない」

 

 ランプが獣の目のように輝いて、雨を割って古ぼけたバスが現れる。

 ドアが開けば骸骨運転手が帽子を外して一礼し、オレはアルバムをベンチに残して立ち上がる。

 

(ねぇ、今日はいいでしょう? 次の……次のバスを待ちましょう? ワタシはまだ話がしたいわ。アナタの思い出……もっと聞かせて)

 

 だけどヤツメ様が袖を引く。涙を目に溜めて、オレに乗らないでと震える声で願う。

 

「でも、オレ……乗らないと……帰らないといけないんだ。それが摂理だから」

 

(命の循環。生と死。そうね……知ってるわ。ワタシはアナタ。アナタはワタシなのだから)

 

 いつしかオレの袖を引いていたヤツメ様は消えていて、オレはバスに乗り込んだ。

 誰もいない車内で2人がけの席に腰を下ろし、雨が降り続ける窓を眺める。

 誰かが呼んでいるような声がした。あのバス停で、誰かがオレを呼び止めているような気がするのだ。

 

「色々あったな」

 

 本当にたくさん、たくさん、たくさん……多くの出来事と出会いがあった。

 でも、今は雨音が心地良くて、瞼を閉ざして闇を探す。

 ああ、もうどれだけ眠っていないだろうか?

 微睡みすらも棄て、ひたすらに戦い続けた。狩り続けた。だが、決して『獣』の口には入らず、狩人として討ち取った。

 

 これで良かったのだろうか?

 

 何処かで選択を間違えたのだろうか?

 

 よく分からない。だけど、それでいいのかもしれない。

 

 好きに生き、理不尽に死ぬ。それがオレなのだから。

 

 だから、何も成し遂げられぬままオレは……『オレ』は……帰るのだろう。

 

 生ある者はいずれ死へと帰る。

 

 それこそが命の循環なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、隣いいかしら?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、不意に隣からした声がオレの瞼をこじ開ける。

 いつの間にか隣を占領しているのは、奇麗な黒髪をした女の子だった。

 

「忘れ物をしていたわよ。アルバム、バス停に置きっぱなしだった」

 

「あれは……もういいんだ。どうせ持って帰れないからさ」

 

「でも大切な宝物なんでしょう?」

 

 黒髪の女の子の手にはバス停に置いていったアルバムがあった。わざわざ持ってきてくれたのだろうか。オレが手にして開けば、黒髪の女の子も面白そうに覗き込んでくる。

 

「もう穴だらけね。大切な思い出、こんなにも灼けちゃって、怖くないの?」

 

「さぁ、どうだろうな。最初は怖かったのかもしれない。でも、今は特に何も感じない」

 

 黒髪の女の子は無言でアルバムを捲り続ける。いつの間にか彼女の膝にはぬいぐるみがあった。グロテスクな虫のぬいぐるみは、優しそうな少女の眼差しとはあまりにもアンマッチしていて、でも何処かつぶらで可愛らしい虫のぬいぐるみは、他の何よりも彼女に相応しいような気がした。

 

「自分を失うのが怖かった?」

 

「……オレが『オレ』じゃなくなるのが、少しだけ恐ろしかった、かもしれないな。あまり憶えていない。だけど、彼女が憶えていてくれるなら……この先どうなろうと大丈夫だって思えたんだ」

 

「そっか。素敵な話ね」

 

「そうか? 愚かしいばかりだよ。オレは彼女に全部押し付けただけだ。祈りはやがて呪いとなり、彼女を貶めた。オレは……許されないことをした」

 

「それを決めるのはお前じゃない」

 

 平行線だな。アルバムを閉ざし、オレは彼女から目を背ける。ひたすらに窓の外を眺め続ける。

 だが、走れども走れども風景は変わらず、いつしか雨粒すらも塗り潰す闇の黒色へと変じる。そうしている間も、少女は勝手にアルバムのページを捲っている。

 

「ねぇ、これ酷くない? 最高にクールなNINJAガールの注釈が『面倒臭い』とか『ポンコツ』とか暴言だらけなんだけど!?」

 

「事実だろう? それに誰がクールだって? フールとの間違いだろ。自分がやったポンコツムーブを数えてみろ」

 

「……で、ででで、でも! もっと他にあるでしょう!?」

 

「あるさ。オマエは『優しい人』だった。尊敬するよ」

 

 本音だ。ちゃんとアルバムにも書いてあるぞ。もっとよく探せ。全く、相変わらずのポンコツだな。

 オレの言葉に少女は黙り、照れるように顔を赤らめて頬を掻いた。

 

「そっか。お前はやっぱり心から……私の事を認めてくれてたんだ。いや、分かってたけどさ! うん、こうして聞けたら……やっぱり嬉しいわね!」

 

 心地良い沈黙が流れる。彼女のアルバムを捲る音だけが静寂を刻み、時間の流れが酷く緩やかに感じる。

 闇の中を走るバスは本当に真っ直ぐ進んでいるのかも疑わしく、またヤツメ様の森は見えない。だが、こんな時間も悪くないだろう。もう少し彼女と語らうのも悪くない。

 

「もしかして、オレを迎えに来たのか?」

 

「まさか。これは『夢』。死に際に見る夢。走馬燈のようなものよ」

 

「そうか。だったら、オマエは幻か」

 

「それもちょっと違うわね。捻くれ者のお前でも納得し易いように、1番それっぽい理屈を並べてあげる。お前は【混沌】と繋がった。そこには『私』……つまりはオリジナルの感情と死の記録もある。今ここにいる私は、死と感情データで肉付けされた、お前の血で反響している、オリジナルを再現した虚構のようなもの。すぐに消えて無くなるわ」

 

 難しい話は苦手だ。だからこそ、オレの作り出した幻などではなく、彼女の言葉は本物であるとも信じられた。

 

「あの死とそれに属した感情データの坩堝の中で、オマエはオレを見つけてくれたのか?」

 

「そんな訳ないでしょう? 殺意で死のミーム……『あの世』と呼ばれる概念で【混沌】を汚染し尽くしたのは誰? 私が見つけたんじゃない。私もまたお前が創造した『死』に導かれただけよ」

 

「……そんな事した覚えはないぞ?」

 

「自覚無かったんだ。本当に規格外な奴ね」

 

 呆れられる道理は無いと思うんだがな。実際に憶えていないのだから仕方ない。

 

「別にね、私は【混沌】の中で埋もれていたけど、苦しみや悲しみなんて無かった。『私』はきっと救われる死を得たはずだから。だから、きっとオマエの所に来れたんだと思う」

 

「そうか。だが、もっと別の結末もあったはずだ。生きて、人生を歩んで、己の『答え』を全うすることだって出来たはずだ」

 

「そうね。それは『ベスト』なんだと思う。でも、誰もが1等賞なんてつまらない。大当たりはそう簡単に得られないから、願って、競って、争う意味があるんじゃないの? それこそがお前の言うところの『人』の素晴らしさの1つなんじゃないの? 違う?」

 

 舌先での戦いでは勝てる見込みがないな。諸手を挙げて降参すれば、彼女は胸元で小さなガッツポーズをした。

 

「どうかしら? どうかしらぁ!? ポンコツ扱いしていた奴に言い負かされた気分は!?」

 

「……悪くないな」

 

「やめて。そんな爽やか敗北宣言しないで。私の折角の勝利の余韻を台無しにしないでよぉ! もっと悔しがりなさいよ! 惨めに泣きなさいよぉ! これじゃあ、私が馬鹿みたいじゃない!」

 

「実際にポンコツだから、どうしようもないな」

 

「う、うわぁあああああん! イリスぅううう!」

 

「主様、ノリノリなのは結構ですが、お時間が無いことをご考慮ください。それと、馬鹿は死んでも治らないと申しますが、ポンコツっぷりくらいは治せなかったのですか?」

 

 抱きしめて慰めを求めたグロテスクな虫の人形にビンタを喰らい、まさに泣きっ面に蜂といった様子の彼女は、悔し涙を袖で乱暴に拭う。

 ああ、こういうやり取りもあったな。思わず笑いが零れそうになり、だが、彼女の最期を思い出し、オレは唇を噛む。

 

「どれだけ言い繕おうと、オレはオマエを救えなかった」

 

「私は『救われた』。それは『英雄』がもたらす最上にして最高の救済ではないのかもしれない。でも、あの冷たい地底で、何にもなれぬまま、自分を見失ったまま、1つとして生きた証を残せぬまま死ぬはずだったのに、お前は来てくれたじゃない。それだけで私は救われた。私の最期を誇ってくれた。これって、ただダラダラと生きてただけでは得られない、『自分らしく死ぬ』ことが出来たって事じゃない? これって『自分らしく生きる』のと同じくらいに凄いことだと思わない?」

 

「……それでも、生きていれば、可能性があったはずだ」

 

「本当にネガティブな奴よね。まぁ、ここで私の言葉に感銘を受けてもらっても困るけど。私は言うなれば、少しばかりお喋りできる影。極論を言えば死者と変わらない。死者が生者の魂を救うなんて、それこそあってはならないし、絶対に出来ない。いつだって、生者と向かい合って、手を差し出せるのは同じ生者だけだから」

 

 バスが止まる。ブレーキは余りにも荒々しく、オレは思わず顔面を前の座席にぶつけそうになる。

 随分とお粗末な到着だ。相変わらずに窓の外は……バスの四方は暗闇ばかりだが、ここが終点なのだろうか? 闇の先にオレの終わり……ヤツメ様の森はあるのだろうか?

 バスのステップを踏んで外に下りようとすれば、オレの右腕を運転手がつかむ。それは硬い骨の指などではなく、脈動する熱を持った肉付いた指だった。

 

 

 

「おい『クソガキ』。運賃はちゃんと払いやがれ」

 

 

 

 運転手の制服は溶けて消え、鈍い鉄色の鎧を纏った、悪人面の男が驚いたかと言うような表情で帽子を脱ぎ捨てた。だが、彼にはまるで見覚えが無く、きっと灼けた『誰か』なのだろうと曖昧な笑みで応じれば、彼の腹に蹴りを喰らわせた活発そうなポニーテールの女が溜め息を吐く。

 

「もう灼けて残ってないわよ。奇麗に忘れられたわ。でも、アタシたちの『命』は無駄にしなかった。そうでしょう? それだけで十分よ。だから責任を感じないで」

 

「あの……」

 

「ああ、これ? 気にしないで。アタシを殺した制裁。まぁ、別に恨んでないんだけど? コイツは『罰』が欲しいらしいから、とりあえず殴っておくべきかなぁって」

 

 一方的に殴る・蹴るをするポニーテールの女の言う通りだと伝えるように、悪人面の男は踏まれながら輝けるサムズアップをした。うん、本人が納得しているなら特に言及する必要は無いか。

 即座に反転して今度こそバスを降りる。何処までも沈みそうな、地面など見えない闇に立つ。思ったよりもしっかりとした足場があるようだな。まぁ、ここは走馬燈であり、死に際の夢ならば、そういうものなのだろう。

 

 

 

「いや、そこはツッコミ入れろよ!」

 

 

 

 だが、闇の中で待っていたらしい、眼鏡をかけた青年が今にも跳び膝蹴りをかましそうな速度で接近してきてオレの胸倉をつかんで揺らす。

 

「キミのその言葉にしないで内心で済ますところが、各所の火種になっているって気づけよ! そのせいで何度トラブルを起こしたか数えてみろよ!」

 

「だって……面倒臭いし」

 

「あぁあああああ、もう! これだからコミュ障は! ちゃんと! 思ったことは! なるべく! 言葉を選んだ上で! 話す! 分かったか!?」

 

 半ば投げ飛ばすようにして解放され、オレは尻餅をつく。まるでオレを救いようのない馬鹿だと見るような冷たい眼と共に、同情するように眼鏡の青年の肩を黒髪の少女は叩く。

 

「頑固かつ捻くれかつ史上稀に見るツンデレよ? 言って聞くわけないじゃない」

 

「それでもだ! いいか!? 僕は満足して死んだ! 確かに……確かにキミが僕の死後に行ったことは……どう言葉にすべきか分からない。でも、僕は死ぬまでに蓄積された感情データから形作られた本物の影だ。だから、死後のあれこれでキミを責めるなんて出来ない。するわけにはいかない!」

 

 少女の手を振り払い、オレに馬乗りになった眼鏡の青年は、再び胸倉をつかんで何度も何度もオレを揺らす。闇の地面に叩きつけるように繰り返す。

 

「いや、それどころか、キミは彼女が決定的な……自分の魂を貶める罪を犯す前に殺してくれた。僕が言うなんて間違ってるかもしれないが、救いようが無かった彼女に、たとえ恐怖に塗れていても、死の終わりを与えることで、彼女の生が穢れないようにしてくれた。『僕』が……それだけで、キミを恨むなんて絶対にないんだ! それは再現に過ぎない僕でも断言できる!」

 

「それでも、オレは殺した。それどころか、オレはオマエの事も……殺したかった。殺しても……何も感じなかった。それが真実だ」

 

「そうだとしても! 僕の想いは……僕の死は……意味が無かったとしても! キミのお陰で僕は自分と向き合えた。キミだけが僕を認めてくれた。それもまた変わることはない真実だ!」

 

 オレから眼鏡の青年を引き剥がしたのは甲冑の騎士だった。倒れたままのオレに、礼を尽くすように跪く。

 

「私は悲劇の元凶だ。私のせいで多くの人が死んだ。醜く歪み、騎士として生きられなかった私を、それでも讃えてくれたのは……死の恐怖に屈した私を引き上げて、誇り高い死へと誘ってくれたのは貴様だ」

 

「アナタはオレとは違った。それだけです」

 

「……そう言うと思ったよ。それでいい。だが、何度でも言おう。貴様がもたらした死で救われた者がいる。ここにいる。それを忘れないで欲しい」

 

 立ち上がったオレを彼らは暗闇の奥底に……まるで今にも消えそうな光の元に連れて行く。

 血肉を糧として骨にこびり付く火。突き刺さるのは元が剣か槍かも分からない、もはや棒とも呼ぶべき何か。

 

 それは篝火。闇を祓う焔火だった。

 

 彼らは篝火を囲うように円陣を組む。オレに篝火に触れろと言うかのように見つめている。

 触れれば骨まで灰にしそうな火に触れるが、それはまるで氷のように冷たい。放たれるのは熱気などではなく、何処までも惨酷な死に満ちた冷気に思えた。

 

「冷たいな」

 

「仕方ないよ。『火』は自らで燃える存在だから、『火』自体が凍えていたら……誰かが温めてあげないといけないのに、みんなは火を恐れるばかり。あるいは私みたいに冷たい暗闇にいた人たちは、惹かれてしまって、温かさを知って、去っていく。触れようとすれば、温める前に燃え尽きてしまう」

 

 いつの間にかオレと篝火の間には黒衣のローブを纏った誰かが座っていた。

 

「この『火』はね、自分で無暗に燃え広がらない。凍えているのに誰かを温めることばかりをして熱を失って、『嘘』に殉じてひたすら敵を焼き尽くすけど薪にはしない。敬意を持って灰が舞う火の粉として散らしてくれるの。そのせいで見て。もう消えかけている。火は陰ろうとしている」

 

 それは少女。泣き黒子が特徴的であり、儚い雰囲気を持った彼女は、篝火で伸びる黒猫の影を帯びながら、まるで今にも泣き出そうな笑みを描く。

 

「ありがとう。私の依頼の為にこんなに傷ついて、ボロボロになって、『私』のことさえ灼けて失うまで『彼』の為に戦ってくれた。こんなつもりじゃなかった。貴方が……こんなにも苦しむことになるなんて……ごめんね。本当に……ごめんね」

 

「泣かないでくれ。オレは……きっと、これで良かったんだ。傭兵は依頼を成し遂げる。だから、キミは何も間違っていない。オレはきっと……キミからの依頼に値する何か大切なモノを貰ったはずだから。そんな気がするんだ」

 

 彼女のことは思い出せない。きっと灼けている。失われてしまっている。それでも、オレが戦い続ける為の……殺し続ける為の『理由』をくれたのだろう。それは『嘘』であろうとも、オレが『オレ』である為に必要だったのだろう。

 泣き黒子の少女も篝火を囲う円陣に加わる。いや、それだけではない。円陣の外には多くの者たちがいる。彼らは一様に篝火を……いや、オレを見つめている。

 円陣から1歩前に出た黒髪の少女はグロテスクな虫の人形を傍らに、まるで火を労わるように手を伸ばす。

 それは暖を取ろうとするものではない。迷うことなく篝火へと、揺れる熱の中心へ己を投じようとしている。

 止めろ。そう言って止めようとするが、虫の人形のタックルが腹に決まって吹き飛ばされる。

 

「そうよね。お前なら止めようとするはず。だけど、これからする事の咎は『私達』と私達にある。自分を責めないで」

 

 無様に転がるオレに、黒髪の少女は泣きながら……だが、とても嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

「いつか火は陰り、闇ばかりが残る。それが運命ならば『私達』はきっと否定する! だから、私達もまた同じ選択をする!」

 

 

 

 

 

 黒髪の少女の右手に火が移る。途端にこの胸が……冬の終わりを受けて雪解けが始まったかのように凍っていた心臓が疼く!

 少女から炎は伝播していく。それは円陣の人々を……その外でオレを見守っている人々を燃やしていく。

 

「私達はただの再現。すぐにでも消える、お前の血で反響する【混沌】の残滓。私達は『私達』ではない。この通り『命』なんて大層なものはない。だけど、生と死は循環であり、死こそがいずれ『命』に与えられる帰るべき場所であるならば、たとえここにいる私達は残滓に過ぎないとしても、これだけ死へと導かれていた『命』の成り損ないが集まれば……1人分くらいの『命』には足るはずよ!」

 

「止めろ! オレは要らない!『食べない』! オレは傭兵として、狩人として、神子として――」

 

「その前にお前は『お前』だろうが! 寝惚けたこと言ってんじゃねぇぞ、クソガキがぁあああ!」

 

 少女の手から『火』を払い除けようとしたオレを、悪人面の男が拳で逆に押し返す。彼もまた燃えている。その身は爛れ、苦しげに息をして、足下から崩れている。

 

「俺達はこれでいい。どうせ消えるはずだったお前の血の中で波紋となった残響だ。『命』を無駄にしないのがお前の信条なら……『喰え』よ。『獣』として俺達を糧にしろ! それでお前が生き長らえるなら本望だ!」

 

 燃えながら悪人面の男は、その顔立ちに酷く不釣り合いなほどに優しく笑った。笑いながら、俺に頭を下げた。

 

「俺を救ってくれて『ありがとう』。俺が善人のまま死ねたのは、クソガキ……いや、クゥリ! お前のお陰なんだよ! 誇らなくていい! 忘れてもいい! それでも……『俺達』はお前が誇らしいんだ。『俺達』には生きる意味があった。それを証明してくれていたのはお前だからこそ!」

 

「それでも――」

 

「それでもこれが俺達の選択だ」

 

 新たな声がして振り返れば彼がいた。レギオンプログラムに蝕まれ、自我すら失い、それでも最後は己の誇りを貫いた彼がいた。

 

「クゥリ。『俺』が安息の死を手に入れたのはお前のお陰だ。お前が歌ってくれた子守唄が……俺から苦しみを取り除いてくれた。お前の言葉が俺に誇り高い死を選ばせてくれた。誰にも否定させない。あれは『俺達の勝利』だった」

 

「違う……違う……違う違う違う! オレが……オレさえいなければ、オレなんかが生まれたから、レギオンプログラムが作られた! オレさえいなければ……オマエがあんな無惨な死に方をすることは無かった」

 

 肯定するな。オレは殺したかった。皆を殺したくて堪らなかった! どんなに取り繕おうともそれが真実だった!

 

「少年、こんな所で何をしている?」

 

 炎に蝕まれた剣が次々と並び立つ。今まさに闇を照らすように強さを増していく篝火によって溶解していく剣と共にあるのは、聖剣に導かれた者たち。深淵狩りだ。

 欠月の剣盟を背後に、先頭に立つのは深淵狩りの祖だった。誉れある群青のマントと銀の甲冑が爛れる中で、彼は愛剣にして己が見出した聖剣の切っ先をオレに向ける。

 

「キミは『答え』を探す旅の最中だったはずだ。たとえ月明かりは失われようとも、歩む先は暗闇ばかりであろうとも、それでもキミは『答え』にたどり着く鍵を集め続けなければならない! まだキミは『答え』にたどり着いていない! 狩りの全うを望むのは構わない。そこに『答え』が無かったのもいいだろう。だが、何故立ち止まる!? キミが求めたそこに『答え』が無いならば、新たな闇を切り開いて探せ! 戦え! 前に進め! 我らの『命』を糧にして!」

 

 オレの眼前に突き立つのは、暗闇の中でもなお目立つ漆黒の刀身。それはオレが触れる前に白銀の刃を形と成す。

 日蝕の魔剣を引き抜いてオレに渡すのは闇色の甲冑の騎士。彼の背後には多くのオレが殺した者たちがいた。彼らを代表するように、騎士はオレへと魔剣を渡す。

 

「まったく、もう槍ですら無いではないか。これを『死神の槍』と呼ぶとは、困惑するしかないな」

 

「……済まない」

 

「謝るな。敗北が定められていたはずの私の『力』がお前の勝利に幾多と貢献した。それをこうして改めて確認できただけで私は満足だ。死神の槍がいつまでも貴様と共にあらんことを」

 

 闇の中で光が集う。だが、それは白光ではなく黒き光。闇の中で見出された光だ。

 闇濡れの忠義の騎士は何も言わなかった。静かに背を向け、だがその身を炎で焦がしていた。

 言葉は不要だったのだろう。もはや全て語らい尽くした後なのだから。

 

「私達はとても残酷なことをしている。お兄ちゃんがずっと拒んでいた『獣』の顎を開き、私達を食べさせる」

 

 星の瞬きより聖女の恰好をした幼き乙女が現れる。彼女もまた燃えている。苦しそうに涙している。それを拭おうとしたオレの右手を、逆に幼き聖女は両手で包み込んだ。

 

「ごめんね、お兄ちゃん。私が手を取ってあげられたらいいのに。何度も……何度も何度もお兄ちゃんはその手を伸ばしたのに……それなのに……!」

 

 幼き聖女の傍らに黒猫の乙女が寄り添う。彼女もまたその身を炎に焦がしている。だが、何処か嬉しそうに思えるのは何故だろうか。

 

「ようやく、私はクゥリに報いることができる。『彼』を助けてくれたお礼が出来る。私は『私』じゃなくて、『貴方が知っている私』ですらない、再現された混沌の残滓。それでも、私は……私達は貴方を生かす一助になれる。それが本当に嬉しい」

 

「手を伸ばし続けて! どれだけ灼けてもお兄ちゃんは手を伸ばしていた。お兄ちゃんはそれが許される! きっと……きっと、いつか『誰か』が手を取ってくれる! 気づいてくれるはず! お兄ちゃんが手を伸ばし続けたことを! その先が世界の破滅だろうと何だろうと構わない! だから……!」

 

 燃えていく。

 彼らが燃えていく。

 彼らの『命』が飢餓を癒す血の悦びをもたらすのが分かる。

 ああ、こんなにも甘美だっただろうか。飢餓を癒すとは……これ程に血を漲らせるものだったのだろうか。

 

「キミの正体なんて興味ないし、僕たちが何を言ってもキミの苦しみは消えない。キミは『獣』だ。それが本質にして本性なんだろう? そうだとしても、僕はキミに生きてもらいたい。生きて、僕にはたどり着けなかった光景を見て欲しい」

 

 もはや立っていられない程に全身を『火』に呑まれた眼鏡の青年は、それでもオレを鼓舞するように力強く笑っていた。

 

「僕たちはきっと大罪を犯している。キミを生かすというこの行為そのものがキミに『痛み』を与える裏切りだと分かってる。それでも、僕たちは……いや、『僕』はヒーローになりたいんだ。キミを生かすヒーローになって恩を返す! これが人類に対して選んではならない間違いだとしても!」

 

 闇が広がる炎で祓われていく。その熱によってオレは浮かび上がり、彼らを燃やし尽くした証のような火の粉と共に舞い上がっていく。

 

「クゥリさん。私は貴方が初恋で良かった」

 

 闇すら喰らい尽くすような炎の中には彼女もいた。眼帯を付けた魔女の風貌で、それが誇らしいようにローブを熱気で舞わせ、己も『火』に『喰われる』中でオレを見上げていた。

 

「『私達』は貴方の糧となった。そして、今ここで私達もまた糧となる。血に溶ける『力』としてではなく、『獣』に喰われようとも貴方を生かす糧として」

 

「オレは……オレは……!」

 

 熱気に踊る木の葉のように彼女は跳び上がり、オレの頭を両腕で包むと引き寄せ、唇を重ねた。本当はあの時こうしたかったのだと伝えるように、顔を真っ赤にしながらも、幸せそうに笑った。

 

「でも、忘れないで。貴方は『命』を喰らい、血に『力』を溶かしているように、もう1つ……『私達』から大事なモノを受け取っているはず。だから、『私』の初恋だって貴方に捧げます。貴方が獣性を解放する度に削られたのは『人間性』のはず。『血』にでもなく、『獣』にでもなく、クゥリさんはちゃんと『心』で人間性を受け取っていた証拠です。それを忘れないで」

 

 炎が闇を引き裂いていく。浮遊感が強まり、その度が心臓が痛みを強めていく。だけど、それは抗いであり、再起への咆哮の兆しだと赤熱するように猛る血が教えてくれる。

 

「『クゥリ』」

 

 闇が『火』で焼き払われる中で、多くの人々と同じように火の粉となって散りながら『喰われている』彼女が黒髪を揺らしてオレの手を取る。

 

「『戦え。戦い続けろ。お前にはそれしかないのだから、死ぬまで戦い続けろ』」

 

 それは冷たい地下の底で聞こえた彼女の最期の言葉。今それが繰り返される。

 

「『殺した分だけ強くなれ。どれだけ血塗れになっても、どれだけ憎まれても、どれだけ怖がられても、殺し続けろ』」

 

 ああ、そうだよな。オレはオマエ達を糧とする。傭兵としてでもなく、狩人としてでもなく、神子としてでもなく、獣として喰らう。

 ならば、殺し続けねばならないのだろう。殺した分だけ爪牙を研ぎ澄ましていかねばならないのだろう。

 

「話は最後まで聞け!」

 

 だが、彼女はオレの左手を……血と怨嗟で塗れた狩人にして獣の手を取る。

 

「これは呪いだ。お前が認めてくれた『優しい人』から程遠い、お前を苦しめる呪いだ。それでも、私は『私』が確かに想った気持ちのままに、お前に呪いを渡す! 祈りがいつしか呪いに変わるように、いつか呪いも祈りになるはずだと信じて!」

 

 彼女はオレを手放し、『火』がもたらす熱気がオレを彼女から引き離していく。貪欲に燃え広がる『火』は彼女を足から抉り取っていく。

 

「私達は死んだオリジナルですらない。ただの【混沌】にあったオリジナルの死と感情データに少しばかり肉付けされただけの影。それでも、この気持ちは、安息の死を得たオリジナルと同じものだ! ならば私はお前に届ける! オリジナルの……いや、私達も含めた皆の想いを込めた呪いをお前にかける!」

 

 その名を呼ばねばならない。彼女の名を呼ばねばならない。何度も何度も口を開こうとしているのに、心臓の痛みが言葉を奪う。

 

「『そして、僅かで構わない。戦いと殺しの狭間で……どうか見つけてくれ。お前が……何にも縛られることなく、静かに眠れる時間を』」

 

 それは呪い。

 祈りが呪いとなった時、もう捨て去ったはずの微睡みを許す呪い。

 要らない。こんなものは要らない。必要ないんだ!

 オレは狩り、奪い、喰らい、戦い、殺し、そして夜明けをもたらす者なのだから。

 だが、呪いとは一方的なものであるならばこそ、彼女はきっと笑うのだろう。嗤うのだろう。笑うのだろう。嗤うのだろう。

 ようやく『復讐』は成し遂げられたと嗤い、そして笑うのだろう。

 負けて堪るか。このポンコツが! 必ず呼んでやる! 今ここで! オマエの名前を必ず……!

 

「―――っ」

 

 唸れ。傭兵としてでもなく!

 

「――ロ!」

 

 告げろ。狩人としてでもなく!

 

「―クロ!」

 

 叫べ。神子としてでもなく!

 

「ザクロォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 

 咆えろ。獣としてでもなく! ただ『オレ』として彼女の名を呼ぶ!

 

 届いたのだろうか。

 

 ちゃんと聞こえただろうか。

 

 分からない。

 

 何も分からない。

 

 だが、それでも、彼女は笑顔だった。呪いなんて1番程遠いだろう『優しい人』の笑顔だった。

 

 全てを燃やし尽くす『火』に呑まれる中で、彼女は笑いながら、呪いを紡ぐ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『……幸せになれ』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 心臓が高鳴り、激痛が全身を支配し、それが己の生を自覚させる。

 体を小さく丸めて痛みを堪え、嗚咽などではなく血の悦びを得られた獣の咆哮ばかりが喉から漏れる。

 生きている。そこに希望も絶望もなく、淡々とした事実だけが指の震えとなってオレに刻まれる。

 体が気怠い。両腕は相変わらず動かない。まともに立つことも出来ない。視界は曖昧で、耳だってまともに聞こえているかも怪しい。

 だが、それでも生きている。そして、混沌の残滓であろうとも、確かにあった『命』を喰らって血の悦びを得て、湧き上がった獣性で死と深淵の病を押し返した実感もある。

 

「何なんだよ」

 

 分厚い雲に阻まれ、相変わらず月明かりは見えない。

 

「何なんだよ」

 

 それでも立ち止まることは出来ないのだろう。

 

「何なんだよ!?」

 

 這うようにして女神像を目指し、それに体を押し付けながら立ち上がる。

 分からない。

 何も分からないんだ。

 だって、だって……だって!

 

 

 

「『幸せ』って何なんだよ!?」

 

 

 

 

 この『獣』の飢餓を癒す為に、求めるままに血の悦びに浸ることが幸せなのか!?

 

 それとも『嘘』に殉じて狩りの全うをすることが幸せなのか!?

 

 分からない!

 

 分かるはずがない!

 

 そんなことは1度だって考えたことがなかった!

 

「ヤツメ様、『幸せ』って……何なんですか? 分からない……分からないんです……オレの『幸せ』は……何なのでしょうか?」

 

(ワタシはアナタ。アナタはワタシ。ワタシでは答えられない。ワタシはアナタの『力』なのだから。本当に……ごめんなさい)

 

 喰らった証のように血で濡れた口元を拭い、ヤツメ様はオレに微笑みかけた。

 

(でも、彼らの『命』がアナタを生かした。アナタが『獣』として喰らった。それがただ1つの真実よ)

 

 手を伸ばしたくても触れられなくて、ヤツメ様の胸を背後から刃が貫く。待っていたと言うように、背後から襲った狩人の首へとヤツメ様は腕を伸ばして抱きしめる。

 血の悦びを得た終わらぬ飢餓を抑え込むように、狩人はヤツメ様を刻む。肉塊になるまで壊そうとする。だが、ヤツメ様の体はすぐに戻っていく。舌打ちした狩人は、ヤツメ様の首を捩じ切って踏み潰した。

 

(狩りの全う。貴様の狩人にして神子としての役目だ。道半ばで終わるのも貴様らしいのかもしれないが、立ち止まることは許されない。どれだけ灼けようとも、飢餓に苛まれようとも、最後は『獣』になるとしても、狩りを全うしろ。もう猶予はないが、いつか来るその日まで『獣』を狩って鎮めよう。それが狩人の血の使命なのだからな。だから、貴様は『幸せ』がそこにあるかどうかも分からぬ『答え』を求めろ。それが新たな狩りの始まりだとしてもな)

 

 ヤツメ様を血の海に沈めながら、狩人もまた消えていく。

 血に酔ったように蕩けた右目の瞳でオレを睨みながら、消えていく。

 

「なぁ、ザクロ。オマエは……オレに……どんな『幸せ』を……求めて……呪ったんだ?」

 

 そして、いつか呪いは祈りになると本当に信じていたのか?

 

 歩く。

 

 歩く。

 

 ひたすらに歩く。

 

 終わりつつある街は煌びやかな光の中で、今日を生き、明日を賛美し、未来に戸惑う人々で溢れている。

 

 何処を目指すとも思えぬ歩みは、やがてある場所にたどり着かせた。

 黒鉄宮跡地。DBOの始まりの場所にして、SAOのデスゲームが開始されたのと同じ場所でもある。だが、いつもよりも人が多いな。耳が上手く聞こえない。ノイズばかりだ。せめて1人1人喋ってくれたら……まぁ、立ち聞きしているオレが文句を言うのもおかしな話か。

 死者の碑石を見に来たのではない。目的地は別だ。黒鉄宮跡地を見下ろせる塔だ。

 階段を踏み締め、何度も何度も転げ落ちながらも、それでも1歩ずつ、1歩ずつ、1歩ずつ、バランス感覚なんて残っていない足で上がっていく。

 左足はほとんど引き摺るようなものだ。手摺を持つ為の両手すら使えない。

 それでも見たかった。あの光景をもう1度見たかったんだ。そこに行けば、何か大切なモノを思い出せるような気がしたんだ。

 ようやくたどり着いた屋上。一息入れて集中力を研ぎ澄まし、屋根の上に立つ。斜面の屋根は転べばそのまま転落死も避けられないだろう。

 

「……酷いな」

 

 かつては黒鉄宮跡地を見下ろし、終わりつつある街を一望できたはずだ。だが、今は発展によって取り残され、周囲の高い建物によって風景は著しく損なわれてしまっている。

 オレは何をしに来たのだろう? どうしてここだったのだろう? 何を求めていたのだろう?

 

「夜明けまで……いるとする、か。今……何時……だろう?」

 

「まだ夜の9時半だね。えーと、日の出を朝の6時と仮定したら、まだ8時間半もあるよ!」

 

 8時間半かぁ。長いなぁ。いや、<吹き溜まり>攻略のせいか、8時間ってかなり短いようにも感じるなぁ。

 腰を下ろして夜明けを待つ。何をするでもなく、ぼんやりと灰色の雲に覆われた夜空を見つめる。この様子だと朝が来ても太陽を拝むことは出来なさそうだ。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……ねぇ、こういう時はクーの方がツッコミ入れるべきじゃないかな?」

 

 面倒臭いんだよ。溜め息を吐き、オレと並ぶように同じく腰を下ろしているユウキを睨む。しかもご丁寧に眼帯に覆われていない右側にいる所に慣れを感じるのが尚苛立つ。

 

「じゃあ訊いて……やるよ。どうして……ここに……いる?」

 

「ここがボクにとっても大切な場所だから」

 

「……答えになってないぞ」

 

「なってるよ。ここでキミの祈りを聞いた。クーが『クー』を憶えていてほしいって叫びを聞いたんだ。だから、キミはここに来るって思ったんだ。あー、でも、7割くらいは来ないかもって思ったよ? だけど、残りの3割でここだって思ったから……うん、ここで『待つ』ことにしたんだ」

 

「……ハッ。オレは……結局……オマエに縋る……情けない甘ったれだったか」

 

 結局、オレはキミに甘えたかっただけなのか。

 呪いに変じた祈り。キミに憶えていてもらいたかった『オレ』は……まだオレに残っているのか確認したかっただけなのか。

 もはや灼けて、人間性を捧げて、獣性が荒れ狂うオレが『オレ』であるなど――

 

「クーは『クー』のままだね。ちょっと安心した」

 

「……は?」

 

「そうやって、勝手に自分に失望して、勝手に自分を卑下して、勝手に自分を貶す。それって、とっても『クー』らしいなぁ……って思ってさ」

 

「酷いな」

 

「うん、最悪だね。でも、こうじゃないと『クー』って感じじゃないよね! ポジティブにみせかけたネガティブだしね!」

 

「確かに」

 

「そこは少し否定して欲しいなぁ」

 

 というか、心の声を見抜くとかMHCPかよ。いや、今はヤツメ様のNBAからスカウト結集するだろうワールド級のディフェンスで読心を防いでいるはずなんだがな。

 

「分かっちゃうんだ。そういう時のクーの目はすごーくどんよりしてるから。あ、でも、本音とか隠すのは凄い上手だよね。目で語ってるわけでもないし、なんだろう? でも、基本的にスイッチ入っている時以外は底抜けにポンコツなんだって自覚した方がいいよ?」

 

「……ポ、ポンコツ」

 

「うん、ポンコツだね! 1人で大ギルド相手に交渉とかしちゃ駄目だよ? 絶対に毟り取られるから」

 

「経験……済み……だ」

 

 オレがポンコツ。ザクロと同列? いや、マジで止めてくれ。忍者ならぬNINJAガールのザクロさんと同レベルとか本当に止めてください!

 夜風が吹き、髪が靡く。思えばミディール戦で解けたままだったか。結おうにもこの手ではな。

 気づいたのか、ユウキがオレの髪を手に取り、その指で幾度か撫でる。

 

「ボクはもうキミの祈りを持っていない。クーの祈りは預かれない」

 

「…………」

 

「それでも、いつかボクは『答え』を見つけてキミにボクの言葉をキミの全てに響かせてみせる。ボクはボクの『答え』の為に祈った末に、ボクの意思を届ける」

 

「…………」

 

「だから、ボクが『クー』を憶えているのは、祈りでも呪いでもない、ボク自身の……身勝手なワガママだよ」

 

「……そうか」

 

 祈りでもなく、呪いでもなく、『答え』を求めるが故のワガママ……か。それなら、オレには否定しようがないではないか。卑怯なヤツ。

 本当に度が過ぎるお人好しだ。ユウキが惚れてくれたヤツは……きっと幸せ者だな。それがオレの求める『幸せ』と同じなのかは分からないが、だが、彼女のような素敵な女の子に想ってもらえる人は……って、ユウキの想い人は『アイツ』だったな。どうしたものか。

 

「なぁ、ユウキ」

 

「何?」

 

「オマエ……側室とかでも……気にしないタイプか? 愛人でも……OKな人?」

 

「OK、分かったよ。クーが『いつものように』凄い馬鹿なことを考えてるんだろうなぁって事は分かったよ。だからポンコツ扱いされるんだって自覚しようよ」

 

 さすがに愛人をオススメするのは馬鹿かぁ。だよなぁ。誰だって正妻にして第1夫人が良いよなぁ。

 ザクロ、今ならオマエの気持ちが分かる。ポンコツとはなるものではない。なってしまうものなのだと。

 

「何で……『待つ』ことにしたんだ?」

 

「ボクだけじゃないよ。グリセルダさんも、ヨルコさんも、もちろんグリムロックさんも待ってる。でも、ボクが1番にお迎えしたかったから。だから賭けに出てみたんだ。ここで正解で今物凄くホッとしてるよ。実はクーが来る5分くらい前から『やっぱり自宅で待ってた方が正解だったかなぁ』って迷ってたんだ。やっぱり直感は信じるべきだね」

 

「いや……そうじゃなくて……」

 

 上手く言葉に言い表せない。

 どうしてだ? オレはオマエに酷い事をしたはずだ。アルヴヘイムで再会したオマエを放って戦いに赴いた。目覚めることを待つこともなく置き去りにした。

 そんな糞野郎を……どうして『待つ』なんて決めたんだ?

 

「……『待つ』よ。いつだって待ってる。キミがボクと一緒に戦って欲しくないならそれでいい。ボクはボクの戦いをする。そして、必ずキミの帰りを待っている」

 

「…………」

 

「クーはさ、面倒臭がりなのに世話焼きで、何も考えていないようであれこれ悩んでいて、誰かを救おうとしたら傷つけてしまって、やること成すことぶっ飛び過ぎていて、そして……いつだって自分以外の『誰か』の為に血と泥に塗れてボロボロになっちゃうから。誰よりも優しくあろうとするキミを……ボクは……ボクだけでもいいから……ずっと、ずっと、ずっと、待っていてあげたいんだ。キミにも帰れる場所があるって感じてもらえるように」

 

「オレは……優しくなんか……無い」

 

 殺して、殺して、殺しまくって、誰の為にも泣くことができず、ただ血の歓びを求め、殺戮ばかりを欲して、『嘘』で塗り固める事しかできないオレが……『優しい人』であるはずがない。なることなど出来ない。それは『人』への冒涜そのものだ。

 

 

 

「うん、そうだよ。クーは『優しくない』。でも、クーは『優しくあろうとする』んだよ。どれだけ自分が苦しんでも、何度打ちのめされても、クーは『優しくあろうとする』んだ。それが『クー』だもん」

 

 

 

 そして、ユウキは笑った。『殺したくて堪らない』笑顔だった。

 まったく、我慢するこっちの身にもなれ。今にも喉元に喰らい付きそうだ。

 だが、『獣』は涎で滴る牙を鳴らし、顎を閉ざす。今は休むべきだと。今は傷を癒して備えるべきだと。逆に待ったをかけられるとはな。

 

「『優しくあろうとする』……か。それは……初めて……言われたな。困った。切り返しの……文句を……準備して……無かった」

 

「HAHAHA! ボクの勝ちだね!」

 

「HAHAHA! 勝負とか……してない……ぞ? まぁ、次は……負けない……がな」

 

 月明かりもなく、星の光も見えぬ灰色の夜空を見上げる。そこに導きなどなく、ただ暗闇にも似た闇ばかりが浸されているようだった。

 

「『優しくあろうとする』……それが……『オレ』なのか?」

 

「そうだよ。でも、それは『クー』の1部だし、いつまでも同じものなんて無い。これからどんな風に変わっても、ボクはそこに必ず『クー』を見出す。祈りでも呪いでもなく、ワガママで……情けなくて、甘ったれた、ボク自身のワガママで『クー』を見つける」 

 

「どうして……そう言い切れる?」

 

「そ、それは……えーと……ぼ、ボクの『答え』が見つかったら教えてあげる! 絶対に! 絶対に教えてあげるから、それまで……死んじゃ駄目だよ? 忘れないで。クーも『生きてる』以上は『死ぬ』んだ。クーが死んだら、ボクは泣くよ。大泣きするよ。近所迷惑になるよ!? それでもいいの!?」

 

「オレも世間に……迷惑は……かけてばかりだが、死後までは……さすがに勘弁、だな。騒音公害の……元凶とか……『血』の恥だ」

 

「でしょ?」

 

「無い胸……張って……威張って宣言することじゃない……ぞ? 面倒臭い」

 

 悪戯に成功した子どものように笑うユウキに、これは困ったと嘆息する。

 

「あ、言い忘れてたよ。ねぇ、今言っても大丈夫?」

 

「何を?」

 

「『おかえり』」

 

「言い忘れるなよ……まったく……『ただいま』」

 

 夜明けはまだ遠く、狩りの全うは成し遂げられていない。

 これからどれだけ灼けることになったとしても、人間性を失うとしても、最後は『獣』になるとしても、たとえ死ぬとしても……キミには『幸せ』になって欲しい。

 失われた『答え』を探す旅路。だが、糧となった『命』の熱が血に宿り、たとえ月明かりは見えずとも、暗闇を進ませようとしてくれている。

 

「なぁ、ユウキ」

 

「何?」

 

「少しだけ……少しだけ……本当に少しだけ……疲れた」

 

「……そっか」

 

「オレは――」

 

「何も言わなくていいよ。これもボクのワガママだから。何も気にしなくていい」

 

 ユウキはオレを引き寄せて抱きしめる。彼女の温もりが確かに感じられる。

 ザクロの呪いがオレを蝕む。ひと時の微睡みが瞼を重く閉ざそうとする。

 

「本当に……オレは……甘ったれだな」

 

「クー風に言えば、クーが甘ったれだったら、全人類はドロドロのクリームみたいに甘ったれだと思うけどなぁ」

 

「なんだよ……それ」

 

「あははは。本当に何だろうね?」

 

 灼けて、灼けて、灼けて、もうキミとの出会いすら思い出せない程に灼けて……それでも……世界を滅ぼしても足りないくらいにキミを『殺したい』。

 

「忘れても構わない」

 

「絶対に忘れない」

 

「そうか」

 

「そうだよ」

 

 まったく、強情なヤツだ。惚れ惚れするよ。

 

 たとえ『孤独』であるとしても、これでいい。

 

 旅の末に『答え』を見つけられず、狩りの全うの末に痛みと『痛み』の悪夢に溺れるとしても、後悔はない。

 

「オレは……まだ『独り』で……戦える」

 

「うん、知ってる。クーは今も『独りぼっち』なんだろうね。キミに本当の意味で寄り添ってあげることもできないくらいにボクは弱くて、未熟で、まだ足りないものばかりだ。それでも、傍にいるよ。まだこの心はキミに届かなくても、せめてこの身だけは……この『命』だけはキミの傍にいるよ」

 

 そうか。それも……悪くないな。

 だったら……今だけは……呪いの微睡みに……沈んでもいいだろうか?

 

「おやすみ、クー。たとえ、ひと時の微睡みだとしても、キミが悪夢を見ませんように」

 

 今度こそ、いつか見つけるのだと決めた『答え』の為に。そして、ザクロの呪い……オレの『幸せ』とは何なのかを知る為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、グリムロックさんの借金! クー! 寝る前に1度帰ろう! 黄金林檎の危機なんだ!」

 

「……マジかよ。何……やって……るんだよぉおおお……グリムロックぅうううう!?」 

 




死者たちは『選択』した。
たとえ、どんな形であろうとも『幸せになってほしい』と願った。


<システムメッセージ>
・ルート『篝火と火防女』が解放されました。
・主人公(白)は称号『幸せの意味を知らぬ者』を獲得しました。


それでは、313話でまた会いましょう。
次回は現実世界編、安心安全ほんわかの九塚村……解決編です!

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