SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

狩人よ、狩りを全うせよ。夜明けを迎える為に。


今年(2017)最後の更新となります。よろしくお願いします。



Episode18-61 獣血

 デーモンシステム。それはデーモンスキルとデーモン化の2種類に大きく分類される。

 解放する為には聖杯の儀式が不可欠であり、これを行うことによってデーモンシステムがアンロックされる。理屈で言えば、レベル1のプレイヤーでも聖杯の儀式を行えばデーモンシステムを序盤から使用できる。

 だが、デーモンスキルとデーモン化の獲得はレベル60以上からであり、未満の場合は獣魔化だけが解除された状態になる。

 獣魔化とはプレイヤーのアバターを人外……怪物へと変貌させた状態を示す。デーモン化制御時間の消耗がデーモン化の比ではなく、使用すればまず間違いなくプレイヤーはリミットオーバーでモンスター化する。

 プレイヤーとモンスターのカテゴリーの違い。それはランスロットのような人型でもモンスターと分類されているように、人型であるかどうかが問われるのではない。プレイヤーにだけ許された特権……プレイヤーシステムの使用が可能か否かが境界線となる。頭上に輝くカーソルがプレイヤーカーソルである限り、どれだけ異形になろうともプレイヤーであることには変わりがない。

 では、獣魔化によってモンスターアバターに成り果てた元プレイヤーはどうなるのだろうか? 死亡扱いとなり、彼らが現実世界に残した肉体は死に至らしめられるのか。それとも、プレイヤーとしての参加権を失い、永遠に目覚めることがない眠りに囚われ続け、いつか誰かが自分を討伐してくれるまで、あるいは審判がもたらされる完全攻略の日まで怪物として仮想世界を彷徨い続けるのか。

 ただ1つ言えることがあるとするならば、獣魔化したプレイヤーで元に戻れたプレイヤーは表向きでは確認されておらず、オレが殺した獣魔化した……デーモン化制御時間が完全に尽きてモンスター化したプレイヤーには『命』があったという点だ。

 デーモン化はプレイヤーの攻撃性を高める。大ギルドは闘争本能が刺激されて正常な判断力を失う極度の興奮状態に陥り易くなることがデーモン化の最大の危険性と判断し、だからこそプレイヤーに安易なデーモン化を禁じ、またそもそもとして聖杯の儀式を隠匿している。

 たとえボス戦でもデーモン化を切るプレイヤーが少ないのは、即時に発動できるタイプが少ないこともあるが、それ以上に集団戦において1人でもデーモン化制御時間が切れて強制獣魔化して発狂状態のモンスターとなって戦場で暴れ回れれば、ボス戦どころではない大被害をもたらす。

 

『デーモン化制御時間とは言いますが、それは実時間で計算されたものではありません。ダウンロード時間と実時間に乖離が存在するように、デーモン化制御時間とは「目安」と考えるのが妥当でしょう。何がトリガーになるかは未だ解明されてはいませんが、デーモン化がもたらす興奮状態……闘争心が暴発して我を失った状態であればある程にデーモン化制御時間は失われ易くなります。デーモン化状態で最も重要なのは自己を手放さない精神力ですね。ハァ、こんな曖昧かつ危険なシステムが導入されているとは、DBOが実は軍事転用前提の違法技術の実験場という噂話もあながち否定しきれるものではありません』

 

 ミュウから幾つか厄介な依頼を引き受けた前払いとして、グリムロックとグリセルダさん同席の上で太陽の狩猟団が獲得しているデーモンシステムの情報を開示してもらったのだが、オレに言わせればデーモンシステムなんて劇物をぶち込んだのは、ほぼ10割で後継者の悪意に決まっている。どうせデスゲームになるならば自分の思いついた限りの要素を投入してやろうというチャンレジ要素は買うが、こんなシステムが一般で公開されていたら炎上どころの騒ぎではない。

 SANが高ければ高い程にデーモン化時に幾らかの余裕が増える。その程度の認識で十分であり、実際にはデーモン化がもたらす闘争心の昂ぶりを利用できるか、それとも丸呑みされて暴走するか。その1点が重要なのだ。

 悪魔や鬼をモチーフにした魔人型、ALOの妖精のように翅を有したフェアリー型、多種多様な動物の要素が入った獣人型、ゲテモノ扱いの虫人型、レア度が高い竜人型など様々であるが、獲得時にカテゴライズされ、大よその燃費が明かされる。ここからプレイヤーは己のデーモン化の運用方法を決定するのだ。

 だが、オレの場合は完全な外れだった。低燃費型でも必ずパワーアップ要素があるデーモン化であるが、オレの場合は恩恵が無い。バフがかかってステータスが上昇することもなければ、スタミナ・魔力回復速度が劇的に上昇することもない。基礎性能として元の状態から何の変化もないのだ。

 敢えて違いがあるとするならば、デーモン化と獣魔化が一体化しているために、発動時点で獣魔化を発動しているかのように闘争心が刺激され、気を抜けばデーモン化制御時間が一気に消耗するどころか、より切実な問題としてオレ限定の作用……本能にダイレクトアタックがある。ただでさえ暴走しないように耐えている殺意が、デーモン化すれば急速に肥大化するのだから始末に負えない。気を抜けばデーモン化制御時間が尽きる前に見境なく周囲の人間を殺し回りそうだった。

 事実として、オレは試しに1度だけデーモン化した夜に、隣で寝ていたユウキの首に手をかけたことがあった。絞めずに済んだが、戦闘中でも無かったというのに、デーモン化の影響が色濃く残ってオレの本能が開いた顎に獲物を求めて止まなかった。あの日は、結局は夜中に家から抜け出してレベリングに励むことで何とか発散しようとしたが、それでもまるで足りず、落ち着かせるのに多大な時間を要した。

 基礎性能がまるで通常状態と変わらず、なおかつ本能が暴走してしまう。だからこそ、オレのデーモン化は色々な意味で使えない。使う価値もなかったし、使えば自分がどうなるかも分からなかった。

 だが、今は違う。ナグナの赤ブローチを砕いてパラサイト・イヴに与えた能力、ナグナの焔火。深淵狩りだったアンタレスに与えられた炎であり、それは混沌の火の亜種。普通の火とは違う、まるで紅玉のように鮮やかな真紅の炎が煌くものだ。魔法枠に応じてナグナの焔火は能力が強化される。

 通常の呪術とは違い、ナグナの焔火は対象となった武器の攻撃力より基礎値が算出されてPOWの値によって補正がかかる。即ち、ナグナの焔火は単純な火炎属性のエンチャント効果をもたらすものではなく、武器を扱う延長線上として存在しているのだ。よって、武器を振るった際のモーション値などによっても威力・衝撃が大きく変動する。

 

「混沌の火ではあるが、より黒炎に近しい性質があるようだな。美しい。まるで血より燃え上がったかのような真紅の炎だ」

 

 右手の贄姫と左手の死神の剣槍。それらを振るい、泥と水銀を飛び散らせて周囲に真紅の炎を巻き起こす。刃の軌跡をなぞり、また泥と水銀にも着火したかのように生じる真紅の炎がより攻撃範囲を拡大する。

 ナグナの焔火、基礎能力【ナグナの遅れ火】。攻撃判定が通った軌跡を真紅の炎が追尾するというものであり、攻撃速度と思考操作次第ではディレイがかかったように後追いで真紅の炎が発生する。

 ナグナの焔火は発火系の近距離呪術と同じで近接攻撃扱いだ。故に発生する真紅の炎が支配する空間にランスロットは瞬間移動できない。だが、そもそもとしてランスロットは既にナグナの焔火の性質を早々に見切っていた。

 繰り出される連続光波。神速の連撃はそのまま飛来する刃となり、鋭利な光波を潜り抜けて接近する。そこから折れた死神の剣槍を振り下ろして真紅の炎を発生させ、ランスロットの視界を潰して贄姫で斬りかかるも、ランスロットは翼のように変じた闇のマントで舞い上がって余裕を持って躱す。

 飛来する黒剣。高い衝撃が伴うナグナの焔火で弾くも、潜り抜けた数本が掠める。大地に突き刺されば、紫光がエンチャントされた黒剣は爆ぜる。ステップで爆発範囲から逃れれば、そこで待っていたランスロットの蹴りが鼻先を擦り、続く踵落としはそのまま踏み込みとなり、黒炎を纏った掌底をバックステップで紙一重で避けきるも、欠月の奔流を纏った突きが穿たれる。

 後ろはそのまま貫かれる。左右もランスロットの腕ならば補足範囲内。ならば前しかない。恐れなど無い。僅かとしてこの瞼は閉じようともしない。前にステップを踏み、月光突きと交差して贄姫を逆手で振るう。一閃から逃げられるも、飛び散る水銀が起こす真紅の炎からは逃げきれなかったランスロットはダメージを受ける。

 だが、それは微々たるものだ。ナグナの遅れ火自体の攻撃力が控えめな点もあるが、それ以上にランスロットの欠月の加護を受けた深淵纏いの影響だ。強力なダメージ減衰などの防御効果とスタン・衝撃耐性上昇効果があるのだろう。言うなれば、外見は変わらずとも常時デーモン化しているようなものだ。

 加えて厄介なのは、最終段階になって追加されたオートヒーリング。放置すればランスロットのHPはじわじわと回復し、あっという間に全快されてしまう。ランスロットは回復能力を織り込んだ上で、わざとナグナの焔火を浴びてこちらの手を探っているのだ。その上で攻撃の苛烈さは変わらない。

 意識が明滅する。脳を幾多の鋸が解体しているかのような頭痛。内臓が喉から吐き出されるのではないかと思うほどの嘔吐感。ただでさえ尋常では無かった負荷が、ナグナの焔火を使い始めてから倍化という表現も生温いほどに膨れ上がっている。それはそのまま致命的な精神負荷の受容によって生じていた激痛を、自身が灼ける言い知れない苦痛を際限なく引き上げていく。

 単純に能力が追加された分の処理が増えたからではない。ナグナの焔火は思考操作。モーションではなく、オレ自身がナグナの焔火という人体には存在しない発火能力を操ることが求められるからだ。

 本来ならば、オレはVR適性の低さがネックになって思考操作に基づいた能力・武器は使えない。思考操作は随意運動の延長線上になる。仮想の筋肉が伸びているというイメージではなく、人体に新しい器官が備わっているというイメージに基づいたコントロールが必要になる。それらを総括するのは一般的に、人間が仮想世界で動ける根底の1つを成す運動アルゴリズムとの連動性となる。

 逆に言えば、VR適性とは運動アルゴリズムとの親和性・連動性であるならば、これを介さずに直接負荷を受け入れて伝達のやり取りを行う、致命的な精神負荷の受容した今の状態ならば、VR適性は関係なく、増幅された負荷さえ耐え抜けば、後はオレ自身が何処まで思考操作を制御できるかに集約させることができる。

 

 

 

 舐めないで。私はアナタの『力』。もう扱い方は『喰らった』わ。あとはアナタが耐え続けるだけよ。

 

 

 狩りに火は付き物だ。火の扱いに長けぬ狩人など下の下だと知れ。

 

 

 

 ヤツメ様と狩人がオレに寄り添い、ナグナの焔火を制御し、もたらす負荷に耐えさせる。

 光波の籠。コンマ1秒でも足を止めれば全方位から放たれた光波が逃げ場なく迫る。逆に言えば、閉じる前ならば脱出路はあるが、そこにはランスロットの攻撃が待ち構えている。

 カタナと剣槍による回転斬り。右から左に、そこからディレイをかけて左から右に。二刀流による斬撃には当たらずとも、泥と水銀の飛沫が真紅の炎を生じさせる。炙られたランスロットが微かに怯む。

 やはりな。ナグナの焔火……特に遅れ火は単体では攻撃力が控えめであり、武具の攻撃を命中させて上乗せして炎を浴びせることがダメージ増幅の要となる。だが、それはダメージ源に重きを置いた場合であり、遅れ火は攻撃範囲の拡大とナグナの焔火の高い衝撃を活かすことにある。

 衝撃耐性が低ければ容易に体勢を崩させ、中量級でも直撃させれば怯み、重装甲冑でも連撃ならば足を止めさせられる。それがナグナの焔火だ。高い衝撃によってメインの攻撃を当てることに繋げることができる。

 ランスロットは人型でもプレイヤーと同サイズであり、元よりスタン・衝撃耐性は低い。デーモン化状態で補えるにしても限度がある。それは最終形態になっても変わらない。デーモン化程の防御力増加ではない以上、不意に浴びて耐えられなければランスロットでもオレの連撃に捕まりかねない。だからこそ、彼はダメージ覚悟で情報収集を行い、瞬く間に対応できるようになったのだ。

 

「ふむ……これならどうだ?」

 

 それだけではない。ランスロットは聖剣に黒炎をエンチャントし、ナグナの焔火の真似事をする! 遅れ火ではないが、黒炎は散る欠月の粒子を燃料にしているかのように残留するようになる!

 芸達者な奴だ! それもネームドとして備わっていた黒炎のエンチャントと聖剣の特性の応用で『その場で能力を開発した』のだ。固定された能力を有するモンスター側でありながら、桁違いの対応力を持つ。これがランスロットか。本当に度し難い。

 黒炎と紅炎が入り乱れ、不意に視界から消えたランスロットのヘルムブレーカーもどきが頭上より迫る。バックステップで逃れれば、聖剣が地面に触れると同時に黒炎が侵蝕し、続く斬り上げには黒炎を纏った光波が飛ぶ。

 大地を高速で切断しながら、範囲攻撃の黒炎を纏った光波! ヤツメ様が手を引くも逃げきれず、左腕を僅かに黒炎で炙られる。肌を焼かれるような痛みと闇が侵蝕する痛み、2つの痛みが混ざった黒炎が意識を切り刻む。

 黒炎に反応してか、深淵の病が脈動する。ヤツメ様が動かしてくれた心臓が収縮して止まりそうになる。それを前に出る1歩で耐え抜き、死神の剣槍にナグナの焔火を集める。

 

「お返しです」

 

 ナグナの焔火の1つ【ナグナの映し火】。対象となった武具の性質を帯びさせ、チャージに応じて威力を高めて放出する。また、その際は対象となった武具の物理属性を除いた性質を帯びる。

 死神の剣槍の保有するのは魔法属性と闇属性。どちらが表面化するかは実際に使ってみるまで分からなかったが、真紅の炎は闇属性によって黒炎に変じ、振り下ろしと同時に巨大な炎の波となって解き放たれる。それは黒炎の火蛇である黒蛇の巨大版であり、追尾性は無いがスピードはある。

 

「ぬるい」

 

 だが、ランスロットは片手で聖剣を振るい、引き起こされた巨大な紫光の爆発で巨大黒蛇を真正面から爆散させる。アルトリウス級に聖剣を使いこなすか。初めて聖剣を握った欠月の剣盟とは練度が違うな。多彩であり、数多の技を持ち、なおかつ熟達して深奥は未だ見せない。

 

「動きは元に戻ったが、深淵の病は気力だけで退けられるものではない。多くの深淵狩りが深淵に蝕まれ、最後は魔物になった。貴様の末路もいずれは同じだ。このオレが見抜けていないと思ったか? 貴様が今まさに使う真紅の混沌の火はデーモンの力だ。元来の持ち主は加護によって扱ったのだろうが、貴様では無理だったのだろう。デーモンの力を使い続ければ、いずれは貴様も魔物と成り果てる」

 

 ランスロットはデーモン化ができる。デーモンシステムの全容は理解しておらずとも、深淵の魔物となる深淵狩りの末路とは獣魔化と似ている。いや、あるいはそれが原型であるのかもしれない。

 ならばこそ、オレは嬉しかった。オレが深淵狩りの誓約を結んだのは、この時の為であったのかもしれない。

 アルトリウスを倒し、聖剣に触れ、深淵狩りの誓約を結んだ。だが、オレは深淵を憎めなかった。深淵とは……きっと悪ではない。そもそも善悪から外れた理の1つなのだろう。

 真っ向からの斬り合い。ランスロットは瞬間移動で背後に回るとみせかけて、3回の発動を通して攪乱した上でオレの左側に出現する。斬撃の1つ1つに光波が放出されるが、さすがのランスロットにも連続で撃てる限界があるのだろう。恐らくエネルギー容量が定まっているのだ。要は聖剣用のスタミナのようなものだろう。回復スピードはスタミナと違って桁外れであるが、大火力の光波を使い続ければ必ず数秒のインターバルが必要になる。

 だが、ランスロットは聖剣にも瞬間移動にも依存しない。黒剣が頭上より降り注ぎ、地面に接触すると同時に砕け散る。飛び散った破片が障害物となり、ランスロットとの距離を詰められない。ナグナの遅れ火で焼き払うも、深紅の炎を切断する光波が首の皮1枚の距離で通り過ぎる。

 危うかった。半歩分横に身をズラすのが一瞬でも遅れていれば、首は半ばまで切断されていただろう。

 全方位から飛来する黒剣をヤツメ様の導きで躱しきり、狩人の予測が徐々にランスロットを捕捉していく。だが、近づいた分だけランスロットはギアチェンジをしたかのように、軽々と振り払ってオレの攻撃1つ掠らせない。

 これならどうだ? 贄姫と剣槍で回転斬りをしながら舞い上がる。そのままランスロットに狙いをつけ、チャージした映し火を放出して加速を得て急行落下で振り下ろす。

 ランスロットに直撃こそしなかったが、地面に接触すると同時に映し火は解き放たれ、周囲に真紅の炎が吹き荒れる。これにはランスロットも逃げきれずに炙られたか思えたが、聖剣でガードしたランスロットの正面には淡い紫光の障壁が出来ていた。剣でカバーしきれない全身を守る防御能力まであったか。

 

「見事だ。だが、粗い」

 

 駄目出しとは手痛い。だが、こちらは事前にナグナの焔火の能力を確認したとはいえ、初使用だ。大目に見てもらいたい。だが、今ので大よそのコツは掴めた。負荷は凄まじいが、その分だけ威力を高められる。追尾性の無い火蛇のようにして放つ使い方が1つ、もう1つは我流だが推力代わりにして宙を浮き、空中でチャージして落下地点に目測を付けて再放出して急行落下し、そのまま地面接触で周囲に炎をばら撒く範囲攻撃か。後者は直撃込みなら大ダメージが狙えるだろう。

 問題点は脳を圧殺するような負荷もそうであるが、システム面で言えばスタミナと魔力の消費量だ。ナグナの焔火は本質的にはEXソードスキルに近しい。遅れ火はスタミナ消費は嵩むが魔力消費は少なく、映し火はスタミナも魔力も大きく消費する。チャージ量にもよるとはいえ、急行落下で2回分を使うあの攻撃は燃費が悪過ぎる。その分だけの攻撃力であるが、さすがに連用できるものではない。

 何よりもやはり負荷が問題か。視界がズレる。過ぎた負荷に、視覚情報を処理できなくなっている。

 だからこそのデーモン化。これがもう1つのオレにとっての有用効果。デーモン化による刺激が殺戮本能を……ヤツメ様を昂らせる。獣性が引き上げられていく。自分の『獣』がどんどん大きく顎を開いていく感覚が沸き上がる。

 もっと血を。もっと血を。もっと血を! 飢えと渇きが『獣』をより強く顕現させる。

 違う。駄目だ。『獣』とは夜の象徴。オレは夜明けの為に狩りを成す。『獣』に呑まれるとは狩りの全うを投げ出すことだ。

 

「揺れる……揺れる……揺れるのは、誰?」

 

 もはや死神の剣槍は限界だ。そろそろ良いだろう。武装侵蝕を施し、疑似的に耐久度を上昇させる。武器スキルによるステータスボーナスは消滅するが、今は武装侵蝕による攻撃力増加を上乗せした方がダメージに期待できるし、色々と都合も良い。

 まだだ。まだ耐えろ。ランスロットのHPは1ドットと削れていない。小さなダメージを積み重ねてもオートヒーリングで回復され、欠月の加護がある限り、欠損どころかアバターが損傷することさえ無い。まずは加護を剥がす。攻撃を当て続ければ必ず剥がせる。

 何よりもランスロットにも『限界』が近しいはずだ。今までの戦いは無駄ではない。確かに最終段階こそがネームド・ボスの本番であるが、そこまでの積み重ねが全くの無になるわけではないのだから。だから『仕込み』は必ず効いている。

 ヨルコ、オマエが最後の切り札になるはずだ。だから、それまでは必ず……!

 

「火はいずれ陰るもの。はじまりの火が世界に差異をもたらした。光と闇に分けた。火があったからこそ、元来曖昧だったものが分かたれ……灰色の世界が彩られたのだ。火さえ無ければ、そこに境界線は引かれなかった」

 

「だから火を消すのが正しいと?」

 

「火に興味など無い。薪を投じれば火はもう1度燃え上がろうさ。何もしなければ消えるだけだ。世界がどうなろうと俺の忠義に何の変わりがある?」

 

 本当にブレないな。ランスロットは世界の理に興味などない。あるのはグヴィネヴィアとゲヘナへの忠義だけだ。それこそがランスロットの『答え』なのだ。

 

「だから貴様も消えろ。火は燃えるばかりではなく、消えるのも定めだからこそ儚く美しい」

 

「灰に埋もれていこうとも、最後まで燃え上がるのが『火』の意地なんですよ」

 

「フッ、泥臭いな。だが、嫌いではない」

 

「オレもアナタの忠義には敬意を表します」

 

 繰り出される剣戟の度に、泥と水銀が散る。対して聖剣は揺るがない。黒の本体を核としてクリスタルのような紫の刀身を形成する聖剣は圧倒的な性能差を示す。

 受け流し続ける。カウンターを差し込めない。ランスロットの攻撃に対し、贄姫と死神の剣槍で捌き続けるしかない。

 パワーもスピードも依然としてランスロットが上だ。それどころか第3形態も上回っている。剣速も1段階上昇している。今にもヤツメ様の導きが千切られそうだ。だが、獣性が高まる分だけ、ヤツメ様が糸を張り巡らし直す速度も上がっていく。

 もっとだ。もっとランスロットの動きを『喰らえ』。聖剣を手にしたランスロットの全てを喰らい尽くせ。贄姫の一突きがランスロットの肩を掠め、鋸状の刃で削らんと即座に引く。だが、ランスロットは至近距離から黒炎のメテオを放つだけではなく、自分の周囲に黒剣を展開させて円陣を組ませると高速回転させる。退くのが遅れていれば、オレの胴体は黒剣の連撃で軽々と両断されていただろう。

 

「黒剣よ、深淵を纏え」

 

 ランスロットが呼びかけると同時に黒剣24本全てが深淵纏いを発動させる。それはランスロットが動きを止めなければ使えなかったはずの絶技。1本1本が自由自在に宙を動き回り、ランスロットが振るっているかのように動き回る。

 闇術はその名称とは裏腹に、その多くはより生命に近しいものだ。追う者たちのように、仮初の意思を与えて追尾性をもたせるなどが代表だ。だが、ランスロットがやったのは次元が違う。黒剣の1本1本に深淵狩りの奥義にして禁じ手である深淵纏いを発動させたのだ。

 威力は必殺級だろう。今までのように黒剣は脆くない。加えて動きも変幻自在で卓越した剣士が握っているかのようだ。

 躱し続けるオレに、ランスロットは平然と迫って攻撃を加え、光波も混ぜる。聖剣に黒炎を再エンチャントし、ナグナの焔火紛いを行使する。

 ナグナの遅れ火が無ければ対処しきれないだろう、攻撃量に物を言わせた圧殺。単身で数十人分の攻撃量を容易く実現したランスロットは瞬間移動で距離を取れば、黒剣も瞬間移動してランスロットの周囲に集まる。

 

「聖剣よ、黒剣に加護を」

 

 24本の黒剣全てがオレに向き、1本残らずに紫光の奔流を束ねる。その全てが死神の剣槍を半ばまで砕いた月光突きと化す!

 それは24の流星。ガード不可。命中即死。掠れば肉がごっそりと消し飛ばされるだろう。

 ナグナの遅れ火程度では軌道も歪められない。ならばこそ、最低限を受け流し、残りは躱しきる。

 前へ。ひたすらに前へ。それ以外に突破の道は無いのだから。

 紫光の流星と化した24本の黒剣に対してヤツメ様が踊る。オレは共に舞い、黒剣は意識から抜け落ち、緊張1つなく体を動かす。

 

「これを躱すか」

 

 ランスロットとの間合いを詰めての贄姫の一撃がようやくランスロットの脇腹を捉える。真紅の炎の追撃がダメージを増加させるも、ランスロットの加護を破るには足りない。ダメージ量? スタン蓄積? それとも攻撃回数か? 何でも構わない。『加護が剥がれるまで攻撃する』。それだけだ。シンプルで分かりやすい。オートヒーリング分を上回るダメージを与え続ければランスロットは狩れる。

 問題は魔力残量か。スタミナは最悪切れても体を動かし続ければ良い。今までもそうしてきた。だが、魔力はそうもいかない。1度切れれば魔力が3割回復するまでナグナの焔火は使えなくなる。

 使い勝手は良いのだが、ミラージュ・ランは控えるべきか。【磔刑】1回、【陽炎】2回が主な魔力消費だったが、先程の急行落下斬りで大消費し過ぎた。その場の思い付きで試すものではないな。

 ランスロットが聖剣を掲げる。あの構えは……まずい! ランスロットの周囲に紫光のサークルが展開され、欠月の粒子が舞う。絶対防御状態からのフルチャージ……アルトリウスの奥義だった巨大光波を放つつもりか。

 

「穿て」

 

 見極めて回避行動を取ろうとしたヤツメ様の導きを瞬間的に欺き、ランスロットは巨大光波を解き放つ。

 ヤツメ様が叫ぶ。だが、大丈夫。もう狩人の予測が捕捉済みだ。本能頼りでは久遠の狩人は名乗れない。サイドステップで紙一重で躱せば、背後の建物が破壊されていく。だが、チャージがアルトリウスよりも速い分威力は劣るな。プレイヤーなら即死級だが、アルトリウスの巨大光波ならば文字通り建物は消滅していただろう。加えてここから360度を薙ぎ払う拡大する円の光波を放つ回転斬りにアルトリウスならば繋げてきた。

 やはり聖剣に限定すれば、アルトリウスの方が扱いは上だ。だが、ランスロットはそこにアルトリウスには無かった深淵の力を上乗せしている。これこそがアルトリウスを遥かに上回るランスロットの力の正体だ。

 冷や汗を垂らして導きの糸を張り巡らし直したヤツメ様の頭を狩人が撫でる。頬を膨らませて狩人を睨むヤツメ様だが、狩人は冷淡に無視してオレにさっさとランスロットを狩れと睨みを利かせる。

 聖剣に闇が渦巻く。ランスロットが瞬間移動で宙に移動すれば、聖剣が纏った闇は無数の手となる。ランスロットの背後に現れたのは、女性を模る闇……ゲヘナの残滓。ランスロットが取り込んだゲヘナのソウルが彼に力を与えているのか。

 それは生まれ落ちた時から深淵の主であった彼女が、ついに使うことは無かった闇の力なのだろう。深淵の手は次々とオレに掴みかかったかと思えば、一斉に静止し、その全てが黒の炎を灯す。

 数十に及ぶ黒手による黒メテオ。命中すれば即死。爆炎を受ければ大ダメージとスタミナ削りかつランスロットの奇襲が確実に命中するので即死。要は全てを躱しきれば――

 

「貴様なら躱しきれる。信じていたぞ」

 

 だが、黒炎のメテオの嵐を潜り抜けたオレの眼前に瞬間移動したランスロットは、一呼吸の余裕も与えずに黒剣で囲んだ左手を突き出す。それは【逃水】のお返しのつもりか。高速回転する黒剣のドリルのように回転して眼前に迫る。この回転は受け流しきれない。

 死神の剣槍を盾にして防ぐ。残された刀身が砕けるもダメージは免れて跳び退くことに成功するが、回転していた黒剣を射出される。回転を加えることでより受け流し難くしたランスロットの底が知れない。

 デーモン化で獣性を高めてもヤツメ様の導きはギリギリだ。狩人の予測の捕捉から逃げきられたら、今度こそランスロット相手に死ぬだろう。

 

「ふむ、物は試しだったが、貴様を相手にするには些か溜めに時間がかかり過ぎるな。だが、貴様の武具を1つ潰せたなら上等か」

 

 もはや死神の剣槍は柄しか残っていない。右手の贄姫の水銀長刀も、纏う水銀が剥げかけて内部の刀身が見えている。鞘に収めて回復できた水銀ゲージでは水銀長刀1回分。ランスロット相手では水銀ゲージを回収できない。

 

「多くの者は想いも実力も伴わず、死を前にして無様な本性を露呈する」

 

 連続光波からの瞬間移動での背後取り。そこからの月光突きを躱すも、ランスロットの膝蹴りが顎を掠める。そのまま宙を浮いたランスロットの横殴りの蹴りを左腕でガードすれば骨が軋む。武装侵蝕で作った獣爪の籠手の上からこの威力……無理に耐えようとすれば折られる! 素直に吹き飛ばされて地面を転がり、口に入った灰を吐き捨てる。

 

「幾らかの者は想いはあれども力不足で骸を晒す。あの忍の娘のようにな」

 

 ザクロの想いの強さだけを認める口ぶりで、ランスロットは黒雷の槍を雨のように降らせる。貫通性能の高い頭上からの攻撃。一撃即死は変わらない。

 動け。動き続けろ。1歩の度に灼けていこうとも、切り抜けてランスロットに攻撃し続けろ。

 

「だが、貴様には『無い』のだ。どれだけ言葉を並べようとも……そこにあるべき本心が『無い』! ただ『力』だけがある。飢餓に狂ったケダモノこそが貴様の本性だ。故に貴様のそれは虚偽で生み出された幻に過ぎない! 嘘を並べ立てようとも己の真意に殉じれるならば、それは自己犠牲となるだろう。自己犠牲とは自己満足より生まれるものだからな。だが、貴様のそれには己を満たすものは1つとしてない! 己の真意を否定する者は何も成せん!」

 

 ランスロットは聖剣の一振りで光波を作れば、それは数十に分裂する。単発火力は低いだろうが、変わらぬ切断力を前にすれば、生半可な盾も鎧も意味を成さないだろう。無論、オレなど抵抗も無く分断される。

 

 

 そして、『黒光』が爆ぜた。

 

 

 それでも潜り抜けたと思った矢先に迫ったのは黒雷……いや、『黒光』を帯びたランスロットの回転蹴り。黒炎でも黒雷でもない……ランスロットがゲヘナのソウルを得て到達した深淵の秘奥……いや、新たな深淵の『力』なのか。彼の忠義が至った新境地か。

 それはまさしく黒光装具。ランスロットの四肢は深淵の力の極致……黒光を帯びている。それが速度とスピードを上げ、爆ぜる黒光が攻撃力を爆発的に増幅させている。格闘攻撃さえも下手すれば一撃必殺の致死クラスに引き上げられたかもしれないな。

 聖剣を背負ったランスロットによる格闘攻撃。その全てが必殺級であり、瞬間移動を駆使すれば間合いは自由自在。一撃の度に黒光が爆ぜる。

 聖剣がもたらす紫光と深淵より見出した黒光。2つの極致の『力』を帯びたランスロットに死角はない。

 

「沈め」

 

 ランスロットが拳をその場に振り下ろせば落雷の如き轟音が響き、黒光が地面を伝播して爆ぜる。何とか攻撃範囲から逃れるも、続くランスロットの蹴りが横腹を捉える寸前で贄姫のガードを挟む。

 纏う水銀が崩れるも直撃は免れ、ステップを加えてダメージを最大限に減らすが、それでも内臓が揺さぶられる。

 

「が……ぐがぁ……」

 

 潰れたか? 流血ダメージは……大丈夫だ。時間を置いたお陰でアバターが修復されたお陰でオートヒーリングの回復の範囲内だ。いや、違う。修復速度が増している? これは一体……それにオートヒーリングも強まっている気が……デーモン化の影響か?

 デーモン化制御時間……3割損耗。思ったよりも消耗速度が鈍い。だが、気を抜けば一瞬で全て持っていかれる。『獣』にオレの意思は呑み込まれる。

 倒れたまま動けないオレに、余韻を示してランスロットが闇の翼を大きく広げ、肩の高さで聖剣を地面に水平にした構えを取る。欠月の奔流が収束され、更に黒光が圧縮をかけていく。

 

「希望も絶望も諦観も無い飢餓の獣の眼。おぞましくも美しい、最も純粋な殺意。愚かな。貴様の本質は何をどう取り繕おうとも『獣』だ。自身の手で己を偽った者に勝機など無い」

 

 あの一撃はまずい。回避を……ヤツメ様の導きは……ある。だが、体が動かない。ナグナの焔火を使った反動か。

 足りないというのか。ようやく見た黄金の稲穂。探し続けた『答え』などそこには無く、だが確かに幼き日の約束があった。狩りの全うの意味を知り、だからこそ終わらぬ夜を望む殺戮の渇望ではなく、たとえ虚偽に塗れていようとも夜明けを選んだ。

 この身を薪にしても足りないのか!? ランスロットには届かないのか!? 

 震える体を腕に力を込めて起き上がらせようとする。だが、深淵の病が膨れ上がり、息が出来ない程に喉が圧迫されて血が吐き出される。

 いや、まだ手はある。まったく、何が『使えない』だ。自分が勝手に不要の烙印を押しただけではないか。ナグナの赤ブローチと同じで、覚悟さえあれば……『獣』に呑まれない意思さえあれば使えるはずだ。

 深淵に対峙する者は、それ故に闇に染まっていく。故に優れた深淵狩りは闇を武器にする禁忌を身に着ける。

 かつてアルトリウスさえも蝕んだ深淵の闇。それを『力』にして深淵を討つ。たとえ、それは破滅に満ちていようとも、彼らは1人として不満を抱かなかったはずだ。

 罵倒されようとも、恐怖されようとも、名誉は得られずとも、深淵狩りは信じていたのだ。聖剣の導きを得たからこそ、始祖アルトリウスの伝説の遺志を継いだからこそ、彼らは自己満足の自己犠牲に殉じることができた。

 なるほどな。確かに、本質と心意を塗り固める嘘を選んで夜明けを求めたオレは、それは自己犠牲でも自己満足でもない、ただの愚行なのだろう。それでも……それでも!

 深淵に呑まれた伯爵領を経て、ついに到達した深淵狩りの誓約スキルの最高峰。ナグナの赤ブローチと同じく使えない理由は単純明快。ナグナの焔火と同じく、デーモン化状態でしか発動することが出来ないからだ。

 だが、これを使えばデーモンシステムは制御できない程に本能の解放を求めるだろう。もはや、オレは自身を制御できるかも分からない。

 それでも……それでも、オレには『力』しかないんだ。これしか、狩りを全うする方法が思いつかない。ランスロットを倒す為には必要だ。

 

 

 

「深淵纏い……発動」

 

 

 

 闇が周囲から溢れ、オレに纏わりつく。だが、ランスロットのように身に纏うのではなく、深淵の闇は内側に注ぎ込まれていく。

 深淵狩りの最上位誓約スキル≪深淵纏い≫。それは単純に自己強化を施すシンプルなものであるが、デーモン化状態でしか使用できず、よりデーモン化制御時間の消耗が増す。即ち、獣性が増幅される。殺戮本能の狂気を引き寄せる。

 ランスロットの必殺の一突き。それは速度という概念を超えたゼロタイムに等しい一撃。その突きの延長線上を回避も許さず射抜く欠月の閃光。深淵纏いで増幅されたDEXの分だけステップの速度は上昇し、ランスロットとの間合いを詰める。

 ランスロットの腹を一閃し、そのまま背後に回って背中を斬り払う。不可避のはずの一突きを躱しきられたランスロットに動揺はなく、即座に瞬間移動でオレの背後に回ろうとする。

 だが、オレは反転して瞬間移動したランスロットの正面から対峙する。ランスロットの袈裟斬りを避け、その間にオレは左手の死神の剣槍……その最後のギミックを発動させる。

 

 

 

「死神の剣槍……終槍モード」

 

 

 

 死神の剣槍の柄尻、そこから飛び出したのは小さな刃。そして、失われた刀身があるべき場所に泥が溢れ出す。

 柄は小さな刃を得て『穂先』となり、刃があるべき場所は泥で固められた『柄』となる。

 ランスでもなく、ランスブレードでもなく、それはまさしく槍。Nが遺した……死神の槍に最も近しい姿。刀身が完全に破損した場合に形成する最終モード。

 ナグナの遅れ火を纏った一突きがランスロットの脇腹に突き刺さり、そのまま斬り払われる。瞬間移動で脱して距離を取ったランスロットの居場所を読み、オレはステップで瞬時に追いかける。

 折れた贄姫でランスロットを刻み、彼の剣速を超えて動き、宙を舞って蹴りを顔面に穿ち、そのまま踵落としで地面に叩きつける。

 どうやらオレの深淵纏いは皮肉にもランスロット同じで、STRよりもDEXに特化されたタイプだったようだ。速度が飛躍的に増している。纏う紫がかかった闇は深淵の病を刺激し、上限無くこの身に苦痛をもたらすが、もはやそれに正常な反応を示せる『正気』などオレには残っていないのだろう。

 ステラ、もうオレには分からない。どうして手を伸ばしたのか。それはキミがくれた大切な福音だったはずだ。それが確かにオレの大切なモノに……人間性になっていたはずなのに。

 

「フッ、面白い。この俺に対して深淵纏いか。いや、それでこそ深淵狩り!」

 

 深淵纏いならばランスロットのスピードにギリギリで追いつける。STRもそれなりに上昇しているので、STR出力を8割維持できれば、今までのように一方的に押し切られることはないだろう。

 だが、まるで足りない。まだまだ足りない。ヤツメ様の導き……ランスロットに致死をもたらす蜘蛛の巣……それにオレ自身が追い付けていない。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

「イカれてるわ」

 

 神代凛子はランスロットと『互角』の戦いをする【渡り鳥】に戦慄する。

 そのカラクリは【渡り鳥】が誓約レベル3に到達して獲得していた誓約スキル≪深淵纏い≫が1つ。ランダムで決定される強化作用であるが、彼の場合は奇しくもランスロットと同じでDEX特化型だった。

 【渡り鳥】のデーモン化である獣魔化一体型は強化作用が無い。それを誓約スキルで補ったのだ。本来ならばデーモン化の恩恵に上乗せされるものである。本来は何も無い強化作用を、スキルと武器能力で補うのは彼らしいと言うべきであるが、それは現状の本質ではない。

 

「DEX特化、スタミナと魔力回復速度の中程度の上昇。STR上昇は低めか。あくまでスピード重視のようだ。だが、深淵纏いの負荷に運動アルゴリズム無しでどうして耐えきれる?」

 

 仮想世界に人間が踏み入る基礎を成す運動アルゴリズム。それはあらゆる味覚・知覚も含めた人間が仮想世界で活動する為に不可欠な要素を組み込んだ多機能エンジンの総称だ。指先1つどころか、瞬きから呼吸に至るまで、仮想世界に接続された者は運動アルゴリズムを介在することによって脳への負荷を軽減する。

 VR適性が劣等とは運動アルゴリズムとの親和性の低さであり、それはそのまま仮想脳の発達性の無さに直結する。だからこそ、【渡り鳥】は致命的な精神負荷を受容する事によってVR適性の劣等を一時的とはいえ排することができる。

 だが、常人ならば1分と耐え切れずに自我が崩壊して廃人になる。まともな思考もできず、戦うことなど以ての外だ。ならばこそ、致命的な精神負荷に耐えている上に思考も自我も崩壊することなく、むしろ冴えていく【渡り鳥】の異常性を示す。

 そして、今まさにナグナの焔火と深淵纏いの2つの負荷も追加された。運動アルゴリズムを通さない思考操作と深淵纏いによるステータス上昇による運動情報の増加。加えて、ランスロットとの戦闘は通常を遥かに上回る情報量のやり取りだ。

 人間ではない。これだけの負荷を現状で『捌き切る』など、人間の領域を超えている。

 

『あぁアアアアアアアアアアああぁアアアアア!』

 

 叫びを漏らしながらも、ランスロットに攻撃を当て続ける【渡り鳥】の動きはもはや人間ではない。野獣の如く、だが、それでいて彼が扱っていた狩人の動きだ。それも1秒ごとに成長しているかのように、ランスロットから余裕ある対処を奪っていく。

 ならばこそ、凄まじいのはランスロット。深淵纏いの【渡り鳥】に対応し続ける。いや、ランスロットもまた成長している。この局面において、【渡り鳥】に引っ張られるように剣技は冴え、その刃は【渡り鳥】に近づいていく。

 そして、神代がイカれてると感じたもう1つの対象は【渡り鳥】の槍だ。

 刀身が完全に砕けて失われ、それでも柄尻に仕込まれた刃を飛び出させ、泥で柄を作ることで槍となった。だが、普通に考えれば、そんな局面にまで達する武器などない。武器より先にプレイヤーが壊れるのだ。死亡するはずだ。

 だが、あの槍を作成したプレイヤーは何の迷いもなく『武器が壊れ尽くされた状況になっても【渡り鳥】は戦闘を続行する』と信じたのだ。そうでもなければ、あんなギミックをわざわざ仕込む労力はかけない。

 今や【渡り鳥】の瞳は蕩けて崩れていた。それはレギオン化がもたらす獣の病。だが、彼こそがレギオンのオリジナルであるならば、それは回帰と呼ぶべきだろう。

 

 

 ずっと被り続けた『人』の皮。それが灼けて灼けて崩れ始めているかのようだった。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 ランスロットの膝を贄姫の鋸状の刃が削り取り、ランスロットの黒剣がオレの脇腹を抉る。

 互いの血が零れ落ち、オレは血反吐を垂らしながら死神の槍を杖にして倒れることを防ぎ、ランスロットも片膝をついて伏せずに堪える。

 

「何故だ……何故、貴様は……戦える!? 嘘に殉じるつもりか!? 己の本心を己の手で偽るならば、それは自己犠牲ですらないと言ったはずだ!」

 

「『答え』なんて要らない。嘘でも構わない。好きに生き、理不尽に死ぬ。それがオレだ!」

 

 互いに向き合い、刃を重ねる。水銀長刀と聖剣は拮抗せずとも、オレは即座に受け流すことで対応し、ランスロットの肩を薙ぐ。だが、彼もまた光波を穿ち、そこから黒剣で全方位からオレを襲い、黒雷の槌を振り下ろして轟音と土煙を撒き散らし、欠月の軌跡を描く。彼が振るった刃の軌跡には紫光が残留し、時間を置いて爆ぜる。範囲は狭いが、読み誤れば爆ぜる刃の軌跡によってダメージを受けるだろう。

 ナグナの焔火でランスロットを削り、徐々にオレを捉えようと正確性を増す光波を躱す。

 

「いい加減に気づけ、ランスロット! アナタの忠義はもう果たされた。ゲヘナに報いてもらえたんだ! アナタの物語は……忠義を貫いた騎士譚として終章を迎えたんだ! ここは……これからの時代は……『彼ら』の物語だ!」

 

「戯言を! 我が忠義に終わりはなく、故に俺の物語に筆を置く時など来ない! 貴様のように、己の物語を燃やし尽くす末路など、俺は迎える気などない! 燃えるのならば、勝手に1人で惨めに寂しく燃え尽きるが良い!」

 

 ナグナの焔火がランスロットを揺るがす。死神の槍を突くも、それは誘い。ランスロットは配置した黒剣を左右から飛ばす。間一髪で首を両側から刺し貫いただろう攻撃を避けきるも、復帰したランスロットが黒光を纏った掌底を放ち、そこから連続回し蹴りを繰り出す。死神の槍の泥の柄でガードするも、破裂する黒光で容易く砕け、そのまま勢いでオレは吹き飛ばされる。

 再構成完了。泥の柄を復元し、唯一無二の本体である穂先をランスロットに向け、全力で投擲する。槍はランスロット左肩を貫いてノックバックさせ、距離を詰めて瞬間移動を封じたランスロットの腹に左拳で穿鬼を決める。

 爆音の如きサウンドエフェクトが放たれ、ランスロットが半壊したティターニア像に衝突する。だが、まだ欠月の加護は剥がれない。これだけの猛攻をしても、ランスロットのHPはまるで削れていない。死神の槍を捨てた必殺の拳は不発に終わった。

 強い。強過ぎる。穿鬼の命中直前にランスロットは瞬時に身を引いたのだ。本来の半分も効果は発揮していない。その証拠に、ランスロットは死神の槍を抜いて放り捨て、平然と聖剣を構える。

 水銀長刀が崩れかけている。ならば、武装侵蝕を施して強化する。≪カタナ≫は失われるが、こちらの方が有効だ。

 もうカードはほとんど残っていない。だが、『仕込み』は続いている。既にヨルコが準備してくれた取って置きはランスロット戦が始まった時から『使っている』。だが、さすがに時間がかかるか。その為には何としてもランスロットの欠月の加護を剥がねばならない。

 

 武装侵蝕された水銀長刀と聖剣が激突する。押し負けるのは贄姫。だが、それでも、何度でも斬り結んで水銀を散らす。ナグナの焔火が着実にランスロットを焦がしていく。

 

 夜明けを迎えるべき人々がいる。

 

 光の世界を……太陽が輝く、狩人が不要な時代を生きるべき人々がいる。

 

 灼ける中で『アイツ』の姿が思い浮かぶ。

 

 たくさん苦しんだはずだ。たくさん傷ついたはずだ。それでも『アイツ』は立ち上がって、打ちのめされて心折れても前を向いて歩き出すことを選んだ。

 

 夜明けを迎えても罪と後悔に苛まれるだろう。歩んだ道のりの分だけ流れた血に呪われるだろう。『英雄』の称号を背負うとは、増え続ける罪と後悔に向き合う茨の道なのだ。そして、それが出来るのは……罪の意識を持てるのは、優しき『人』が心にあるからこそ……人間性があるからこそなのだ。

 

 だからこそ、たった一瞬で構わない。大切な人たちを得て、『アイツ』が何の後ろめたさも無く笑える瞬間がくるはずだ。『アイツ』の『強さ』ならそんな未来を引き寄せられるはずだ。

 

 だけど、その風景にオレがいてはいけない! 夜明けを迎えて光の中を歩む、『アイツ』が進む太陽の下の旅路に……オレは不要だ!

 

「おぉああああああああああああああああああああ!」

 

「はぁああああああああああああああああああああ!」

 

 水銀長刀から水銀が飛び散る。ランスロットは黒雷の大槍を投げたかと思えば、大きく左腕を振るう。放たれたのは黒光の輪。まるでチャクラムのように8方向へと飛来する。スピードはあるが、黒雷ほどではない。

 だが、黒光のチャクラムは再びランスロットの元に戻る。彼が瞬間移動を駆使すれば、黒光のチャクラムは変則的に移動し、オレの動きを制限したところで、彼は闇のマントを大きく広げ、人間性の爆雷をばら撒く。それは第3段階と同じく黒雷の地雷となる。第3段階のように暴走状態でばら撒かないからか、要所での使い方が上手い! 戦術性が増している!

 ランスロットの浮遊からの闇を使った加速による一突き。同時に闇のマントが伸びて左右から追撃する。後方左右への回避を完全に封じた一突き! だが、勝利は前に踏み出した者だけが掴めるものだ。

 戦いに対してオレは希望も絶望も抱けない。だからこそ、致死の圧迫感に対して何ら恐怖を抱けない。オレは『人』だからこそ成せる『強さ』……恐怖の踏破ができない。そこに恐怖が無いからこそ、オレは『弱い』のだ。

 それでも幼き日から『何か』を恐れていた。怖がっていた。だから、怖いものは全て食べてしまえば良いと思っていた。マシロの死がその引き金になった。

 だったら、オレは『何』を怖がっていたんだ?

 

「贄姫!」

 

 必殺の一突きを躱しきられたランスロットの致命的な隙。ランスロットの首を贄姫が捉える。だが、足りない! まだ加護を破れないのか!?

 ランスロットが聖剣を振るってオレとの間合いを離す。瞬間移動ではない? ならば……いや、早計か。まだ足りないはずだ。だが、ランスロットもまた追い詰められているのは確かなはずだ。

 

「時は満ちた。我が忠義の前に跪け、最後の深淵狩りよ」

 

 ランスロットが剣を正面で水平に構え、左手を刀身に這わせる。全身に紫光と黒光を集まり、彼の姿は急速に変じさせていく。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、聖剣を有したランスロットが『デーモン化』を発動させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 最終段階でも……デーモン化は健在か。それはそうか。誤算だったな。僅かに与えたダメージすらも回復された。確定でHP回復も当然のように備えている。

 第2形態に近しいデーモン化ではあるが、全身に紫光の筋が血管のように張り巡らされ、四肢に黒光を帯びた籠手と具足が同化している。まさしくランスロットの最強の姿だろう。

 恐らくトリガーは欠月の加護の損耗。加護を剥ぎ取るとは、デーモン化を解除させると同義に違いない。即ち、ランスロットの最強の状態であると同時に極限まで追い詰められたからこその最後の切り札と呼べるだろう。

 

「『あれ』は実に美技だった。貴様にも味合わせてやる」

 

 ランスロットが黒光を聖剣に帯びさせたかと思えば、刹那に連撃を生み出す。そして、一筆書きで描かれたのは光波の網……8の刃で生み出された斬幕。それは霞桜をランスロットが真似たものだ。

 コイツ……欠月の剣盟が数多の仲間を召喚して生み出した絶技を……オレが走馬燈を使ってでも到達しなかった8連撃に……容易く!?

 いや、対処できる。自分で言うのも何だが、水銀居合で生み出す霞桜に比べて速度が足りない。回避不能の面攻撃ではない! これならば、欠月の剣盟の時と同じ対処ができる!

 右手を水平に構えて、曲線を描くように1ステップでランスロットの間合いを詰める。ミラージュ・ランを併用した高加速を得てDEX8割状態の曲線斬りがランスロットの胸を裂く。

 

「貴様の負けだ」

 

 違う。刃は届いていない。ランスロットはオレの曲線斬りを……初見でありながら『見切った』のだ。紙一重で半歩退くことで躱していた。だが、まだ対処できる。ナグナの遅れ火がランスロットを奇襲する。

 しかし、これもランスロットは『見切る』。身を屈めて追撃の真紅の炎を躱しきり、アルトリウス流の回転跳び退き斬りに繋げる。瞬時に跳んで刃が足裏を掠めるも、風圧によって姿勢が崩れる。そこに跳び退いたランスロットが黒雷の大槍を投擲する。

 だが、こちらも『見切った』。オレは贄姫の一太刀で黒雷の大槍の命中判定を切断する。霧散した黒雷に隠れて接近した黒剣を贄姫で受け流して着地するも、スピード任せに接近したランスロットのアッパーカットが顎先に触れる。

 制動を度外視した、瞬間移動以上の超スピード接近! まずい……黒光が……来ない!? そうか。ランスロットの制御しきれない程のスピードから、黒光が間に合わな――

 

「俺は全てを裏切ったとしても、己を裏切った覚えはない。我が忠義に嘘偽り無し」

 

 そして、ランスロットは聖剣を『投げ捨てる』。両手をフリーにした左右同時に黒光を纏った拳打!

 させるものか! 左右の腕をランスロットの内側に潜り込ませ、強引に双拳の軌道をズラす。ここだ。ここでもう1度だけ穿鬼を!

 

「……がっ!?」 

 

 走った衝撃と痛みが意識をダウンさせかける。それがランスロットの頭突きだと気づいた時には、オレは火が燻ぶる瓦礫と炭と灰の中でうつ伏せになって倒れていた。

 最強の武器である聖剣を捨てて格闘攻撃、回避されれば即時対応の頭突き。スマートではないが、完全にオレの動きに対処されていた。だが、あの戦い方……ああ、そうか。なんというか、オレのやり方に……似ている。まったく、変なところで共通点を見せやがって。

 さすがに頭突きはそんなにダメージは出ていないか。だが、額が……割れたか? HP残量は……4割くらいか。やはりオートヒーリングが少しばかり強まってるな。計算よりもHPが回復していた。それに、この損傷具合なら流血ダメージも無いに等しいだろう。

 戦闘続行可能。立ち上がろうとしたオレは、腕に力が入らずに四つん這いになったまま動けなかった。そんなオレにランスロットは聖剣を呼び寄せ掴み、極大光波の構えを取っている。安易に接近せず、大火力で押し潰すつもりだろう。

 まだ足りないというのか!? あと何を焚べれば良いのだ!? もっと『火』を燃え上がらせろ! この身は幾ら灼けても構わない!

 口から零れた血。それは武装侵蝕と水銀長刀によって辛うじて武器として機能している贄姫を染める。

 それは深淵の病に……闇に蝕まれた血。

 闇の血を持つ者。それがプレイヤーの呼称だ。闇こそが……闇のソウルこそが人間の証であるというのがDBOだ。そうでありながら、まるでオレは人間であることが『相応しくない』と仮想世界に……DBOの理に唾棄されているかのように……深淵の病がオレを殺そうと蠢いている。

 深淵の闇がいつものように、蒸発するように拡散しようとする。

 そのはずなのに、闇が離れない。赤が黒を手放さない。それはまるで牙を剥き、闇を喰らおうとしているかのようだ。

 

「ああ……これは血か?」

 

 たとえ、オレがどれだけ嘘で塗り固めようとも、己の本質や真意を裏切ろうとも、『血』はオレと共にある。

 

「ヤツメ様の……獣血か」

 

 絶対に見捨てない。最後まで裏切らない。ヤツメ様が己の手首を噛み切り、血染めにして手を差し出す。

 ヤツメ様の血は赤く……赤く……赤く……だが、泡立って……まるで純化されていくように赤色は掻き乱されて……深淵を喰らって新たな色を示す。

 

 

 

 

 

 それは、まるで宇宙の深淵を潜ませたような……青ざめた血だった。

 

 

 

 

 思い出したのは獣狩りの夜。赤い月が生じた時に滲みだす幻想的な青ざめた血のような夜の色。

 レギオン。ああ、そうだよな。オレから……オレの本能から生まれたのだ。ならば、『人』を『獣』に狂わせる夜もまた……オレの1部なのだ。

 それは変異を続けるオレのデーモン化がもたらした幻のようなものだったのかもしれない。今はただ赤く赤く赤く、深淵を喰らって濁り、より鮮やかな血の色だ。

 ああ、分かってるさ。もう手札は残り少ない。ランスロットを追い詰める為には……何が必要なのか……いや、『何』を捧げないといけないのかくらい分かっている。

 

「……くれてやる」

 

 ユウキ、オマエが好きだ。

 

 愛している。殺したくて堪らない。誰よりも惨たらしく殺したいくらいに愛している。その『命』を余さず貪り喰らいたいくらいに愛している!

 

「……好きなだけ、くれてやる!」

 

 だから、嬉しかったんだ。

 

 ザクロの夢を継いでくれた時、オレは……本当に嬉しかった!

 

 いつか、オマエが普通の女の子として……好きなように生きて……誰かと結ばれて……幸せを感じられる……そんな未来が夜明けの向こう側にあるならば……オレはどんな嘘だって貫き通してみせる! オマエだけはオレにとっての『例外』だから!

 

 ヤツメ様の血塗れの手を取る。その血がオレに流れ込み、今までになく血が沸騰するように熱く滾る。

 纏う深淵が……闇が体内に……血に貪られていく。紫を帯びた黒色のオーラは……今や、どす黒い赤色の……血が溢れ出たようなオーラへと変じる。

 分かる。ここから先こそがオレのデーモン化の真髄だと。獣魔化一体型であるならば、枷を外せばどうなるのかなど……分かり切っている。この姿はバケモノに近づいていくだろう。

 肉体と精神は結びつくものであるならば、人間の形の喪失とは『人』からの逸脱を示すものなのか。ああ、どうでも良い。

 ヤツメ様の首輪を外した。あの時から飢餓感は強くなった代わりに、より強くヤツメ様の導きを感じられるようになった。己の本能が強まったのを感じた。

 だから、くれてやる。もう少しなんだ。もう少しでランスロットを倒せるはずだから。優しき人々が……誇り高き人々がオレの心に渡してくれた大切なモノをくれてやる!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間性を……捧げよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この意思は灼けて灰になるまで残り続ける。ならば、たとえ『獣』であろうとも巡る血に意思が宿る。

 贄姫を地面に突き刺して立ち上がる。

 我ら狩人の祖先。それはヤツメ様と烏の狩人の間で生まれた『鬼』だ。

 鬼とは何か? それは諸説があるが、その1つとして情念に囚われた存在を指し示す。

 

 

 

 

 

 即ち、『獣』に対峙するという、血の本質に抗う意思に呪われた『鬼』こそが久遠の狩人の始まりだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 ならば、オレは祖先に倣って『鬼』となろう。夜明けを迎えるという意思に執着した『鬼』に成ろう。そうすれば、『人』を捧げるとしても……『獣』に成り果てようとも意思は残るはずだから。

 ランスロットの極大光波。だが、今は『見えている』。あらゆる激痛と苦痛が満たしているはずなのに、思考だけは明瞭に澄んでいる。

 デーモンシステムがもたらす闘争心の刺激に抗わず、昂る本能の顎を自ら開く。それがこんなにも体を軽くする。

 そのはずなのに『痛い』んだ。なぁ、ステラ。オレは……何のために……何を求めて……手を伸ばしたんだろう?

 極大光波の一撃。それとすれ違うように触れるか否かの境界線でランスロットに迫る。だが、オレが躱すかもしれないのは織り込み済みだろう。流星となる黒剣が……地面に潜り込ませていただろう欠月の奔流を纏った黒剣が飛び出す。

 だが、全て狩人の予測の範囲内。導きの糸は『獲物』の血肉を求めて誘う。

 ステップを踏み、体を揺らして、舞わせて、ランスロットの正面に迫る。

 

 

「踊りましょう、ランスロット?」

 

 

 オレはランスロットに笑いかける。そして、彼の迎撃の刃を潜り抜けて贄姫の連撃を浴びせ、そのまま顔面を掴んで地面に叩きつけて引きずり回し、女神像へと投げつける。即座に体勢を立て直したランスロットは黒炎のメテオからの瞬間移動による頭上取りした黒光を帯びた踵落としに移るが、足首を使ったターンを決めて躱しながらランスロットの背後に回り込んで後頭部に肘打を浴びせる。それでも怯まぬ彼に対し、オレは左手の獣爪を己の胸に突き立てる。

 触れれば何だって武器に出来る。この溢れる血だって武器になる。左手を振るい、武装侵蝕を施した血をランスロットに浴びせれば、ナグナの遅れ火によってランスロットが燃やされる。微かに怯んだところに蹴りを打ち込み、瞬間移動で距離を取ったランスロットに『先回り』する。

 不思議だ。今までになく『見える』。ランスロットの動きを細部まで感じ取れる。どうしても不足していた知覚情報の1つが補われた。

 ああ、鼻も利く。耳も澄んでいる。まるで現実の肉体をそっくりそのまま持ってきたかのようだ。致命的な精神負荷の受容をしても足りなかった部分がようやく補われた感じだ。

 これが『獣』か。だが、呑まれない。この意思が……『鬼』となった執着が……血に酔わせない。

 ここからは『獣』の狩りの時間だ。オレは久遠の狩人。だが、これよりは狩人の血と溶け合ったヤツメ様の血……獣血の狩りをお見せしよう。

 分かっている。ここからは禁忌の領域。ただひたすらに強くあらんとした狩人達すらも封じた、獣性の解放。

 久遠の狩人のもう1つの姿……獣血の狩人。狩人の血を取り込んだヤツメ様の血……その真髄を明かすことなのだから。

 

 

 ようやく届いた。9割の世界。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 崩れて蕩けていた【渡り鳥】の右目の瞳。だが、今やそれは瞳が『分裂』し、複数となって形を取り戻したまま並んでいる。

 レギオン化……獣の病の兆候は、元来これこそが本来あるべき変異であり、不完全にして劣化しているからこそ、蕩けて崩れた瞳はケダモノの象徴となる。

 

「深度4……これでもまだ進行は4割に到達した程度ですね」

 

「うわぁお。底なしだねぇ。『アレ』でも正気を保ってる……デーモン制御時間は尽きないなんて、もはや呪いと呼ぶべき執着かな?」

 

 マヌスはデーモンシステムの管理者であるが故に、デーモン化を使用したプレイヤーの『全て』の情報を閲覧できる権限がある。管理者権限はセラフがトップであるが、MHCPが人間の夢に干渉できるように、各々の役割に則った特別な権限がある。マヌスの場合はデーモン化したプレイヤーのリアルタイムでの解析だ。装備・スキル・ステータス出力まで全て丸裸に出来る。

 故にマヌスを前にしてデーモン化をするとは『すべての手札を明かす』のと同意義だ。これはセラフも持っていない特権であり、そもそもセラフは『必要としない』権限でもある。逆にブラックグリントなども戦闘用AIにして戦闘用オペレーションの開発・アップデートの権限を持つが故に、似たような解析権限を持てるのだが、彼は『そんなつまらんモノがあっては逆に弱くなる。敵に未知があるからこそ、戦いは面白く、また己の強さを発揮できる』と一笑に付した。

 

(発光した髪は『知覚器官』化された影響か。単なるエフェクトではない。周囲の音や温度変化、物体・エネルギーの運動を収取する知覚器官。言うなれば高感度センサー。それが彼の予測能力を補佐して精度を引き上げているわけか。加えて未来予知に匹敵する先読みも強まっているようだ。何ら強化作用が無いとはいえ、それは『ステータス』に限る。アバター変異に特化された獣魔化一体型だからこその『戦闘特化の変異』というわけか)

 

 深度が低い状態では負荷量を下げる為に機能を封印していたようだが、【渡り鳥】の中で何かが振り切れた途端に起動したのだ。

 そして、分裂した瞳は視覚情報の強化。ランスロットの超スピードに対応する為であり、複眼となったことで相対速度への対応力が増した。右目だけなのは左目が義眼である影響なのかもしれないが、今や義眼に対してもアバターから肉が『伸びている』。

 レベル3の呪いで欠損された左目。ならば『義眼を基礎として別の目玉を形作れば良い』と判断したのだ。

 心意によってデーモンシステムは干渉を受けてアバターは変異する。だが、【渡り鳥】のそれは心意ではなく、仮想脳がもたらす『人の持つ意思の力』ではなく、純粋な殺戮本能によって『より狩りに特化する為』という理由だけで変異をもたらされる。

 そして、獣魔化の影響が色濃くなればなる程に、デーモン化本来の武器・スキル・誓約の影響性も表面化する。その1つがオートヒーリングの強化とアバター再生速度の上昇。前者は義眼のアバターとの『一体化』が進んだことで、後者は深淵纏いと同化した結果だろう。

 後遺症の拡大と共に低下していた知覚能力。それが運動アルゴリズムとの齟齬から拡張するVR情報に対する脳の不適応化に由来するものであるならば、致命的な精神負荷の受容を行えば、運動アルゴリズムに起因していた後遺症の幾つかを限定的に回復させることができる。正確に言えば、負荷の受容など行えば回復以前に精神崩壊もあり得るのでメリットは無いのであるが、【渡り鳥】のデーモン化は致命的な精神負荷の受容を行う事でこそ真価を発揮する類だった。

 デーモンシステムの深奥に届いた者。マヌスがデーモンシステムに求める変動性の体現。そして、レギオンプログラムがどうしてデーモンシステムとの相性が良く、その強化・変異にデーモンシステムが応用されているかを端的に示している。

 レギオンのアバターの変異・強化能力とは、【渡り鳥】のデーモン化の劣化コピーでもあるのだ。

 

「しかしステータス出力9割ですか。もはや人間ではありませんね」

 

「まぁ、方向性は違えども、ボクと彼は血族だからねぇ。『人間止めちゃってる』のは今更じゃないかい? 群体か個体かの違いさ。そう考えると、群体にして最強の個体を頂くというレギオンは、まさしく2つの血族のハイブリットかもしれないねぇ。その辺はレギオン代表としてどうなんだい?」

 

「母上は確かにインターネサイン構想にして天敵論に基づいていると仰られていますが、レギオンはレギオンです。それ以上もそれ以下もないかと」

 

 案外ドライだね、とセカンドマスターはケタケタと笑って、いかにも堅物そうなレヴァーティンにアップルパイを勧める。彼女は呑気に観戦する彼の正気を疑うように頬杖をついて嘆息した。

 レギオンよりも管理者よりもセカンドマスターの方が人外とは皮肉なものだ、とマヌスは呆れる。

 9割の世界。STRとDEXの両方が9割台の出力に到達している。3割から4割と8割から9割では、同じ比率でも生み出されるエネルギー量が違う。1歩前に出ようとしただけで制御困難なスピードが出て、その握力は軽く握っただけで石を砕く。これを一瞬ではなく常態的に、ランスロットとの戦闘状態のまま御するなど人間業ではない。ましてや、9割の時点で人間の領域ではないのだ。あらゆる動きが飛躍し、とてもではないが操り切れない。

 

「筋肉、骨格、神経伝達速度等々。血を重ねて『進化』を目指したのが彼の血族だとボクは考察している。より強いパワーを生み出す為の筋線維は柔軟で強靭に、外圧及び自己破損を免れる為に骨も強くないとね。それに【渡り鳥】くんがよく女性に間違えられるのは何も容姿だけではない。骨格もそうだね。彼が女性に間違えられやすいのは、骨格が男性のモノではないからじゃないかな? 限りなく『女性に近しい骨格』なんだよ。不運があるとするならば、先天的に筋肉量が不足していた事かな? あるいは『量を減らしても十分過ぎるエネルギー量を発揮できる筋肉』を獲得したから? まぁ、この辺りは解剖してみないと分からないねぇ。発達した神経は常人場慣れした反応速度の一端を担う。だけど、それでも『足りない』と彼らは感じた。だから、彼らの『血』は『獲得』したんじゃないかなぁ? フラクトライト……茅場さんが『揺れる光子』と名付けた記憶媒体にして情報伝達媒体の利用をさ」

 

「それは……つまり?」

 

「簡単に言えば『神経だけじゃ遅いから光ファイバーでやり取りしようぜ☆』ってことだよ♪ 血中のフラクトライトを利用した情報伝達。彼の特異なフラクトライト構造の『1つ』として、虫などにみられる神経節……要は『戦闘用フラクトライト構造』が体内の発達した神経の各所に確認されている。これらが血中のフラクトライトに通信情報を送受信して神経に命令。人間離れした『現実世界での反応速度』の基礎の1つとなっているんだろうねぇ。それが彼の仮想脳が発達しない理由の『1つ』とボクは睨んでいる」

 

 うーん、人外♪ アップルパイを持った皿を膝に、人間の話をしているとは思えないセカンドマスターは彼にしては珍しく人間を楽しそうに解説している。

 

「常時そんな状態なら『世界が遅すぎるぜ☆』状態だから、普段はセーブしてる。これは筋肉も同じだろうね。社会に溶け込む為に身に着けた擬態能力なのかもしれない。だけど、本能が動き出すと思考も含めて血中フラクトライトとの通信回路が開き、神経伝達とのリンクが開始される。彼が仮想脳無しで思考速度が人外級なのは、最初からフラクトライト通信と神経伝達のリンクを前提としているなら納得できる。いやー、サイボーグ強化論を真っ向から否定しているね! まさに『生物の限界を勝手に決めて機械化とか舐めてんの?』だよ!」

 

 一般論で言えば、人間を止めてる奴に言われたくない、という反発が即座に出るのだろうが、マヌスはそういうものかと納得して頷けば、レヴァーティンが額を押さえて嘆息した。

 

「当然、そんな肉体を操作するには脳の発達も不可欠だ。甘いものが大好きな嗜好も血族特有なら当然さ。そんな肉体を維持する為には莫大なエネルギーが必要になる。脳だけでもとんでもないカロリー消費量だね。脂肪は邪魔だから、発達するなら肝臓かな」

 

 でも、あの未来予知級の先読みだけは理屈じゃないよなぁ。直感で済ませられるなんて理不尽だよなぁ。そう、セカンドマスターは嬉しそうに『未知』を指摘する。

 マヌスは真紅の炎を舞わせ、獣でありながら狩人という常識離れした動きでランスロットを追い詰めていく【渡り鳥】に哀れむ。

 もはや、それは『人間ではない』のだ。たとえ、生物としての分類は『人間』であるとしても、そのような変異を遂げた人間の精神が『人間』であるはずがないのだ。だから、セカンドマスターはむしろ自分に近しい存在として、友好を結べなかったことを悔やむのだろう。出会い方さえ違えば、友達になれたはずだと。

 

「本能を解放した彼が9割を引き出しても何の不思議もない。『意思の力』? そんなものは存在しない。彼にあるのは『血の力』。ボクと同じさ♪」

 

「……『そうであって欲しい』のですか?」

 

 マヌスが指摘した時、セカンドマスターは一瞬で不機嫌そうに眉を顰めて顔を背ける。事実を指摘されてへそを曲げるとは、まさに子どもそのものだ。

 

「『人の持つ意思の力』ではなく『意思の力』。それは我々AIも持ち得るものかもしれません。セカンドマスターは、それさえも否定なさるのですか? こうしてDBOを築かれた。それもまたセカンドマスターの意思があってこそであるというのに」

 

 癇癪を起したように荒々しく膝に置いていた皿を投げ飛ばし、セカンドマスターは千切れかけるほどに親指を噛む。真っ赤に染まった右手に嘆息し、拳銃を取り出して咥えれば躊躇なくトリガーを引けば、真新しい死体の代わりにマヌスの背後から傷も汚れもないセカンドマスターが現れる。

 処理しきれない感情。即効性のある対処法は『死ぬ』ことだ。次なるセカンドマスターは自分の死体を蹴り飛ばし、何事も無かったように笑む。

 

「さぁ? ボクには分からないや。だけど、彼が9割まで到達できるのは自分の人間味……即ち人間性を放棄したからこそだ。自分をバケモノであると認めるだけじゃない。人間性を捨てたバケモノに成り果てても構わないとして、『枷』を外したんだ。それを『意思の力』と呼ぶのは勝手だけど、行き着く先は怪物さ。それに、9割に到達してもランスロットは倒しきれない」

 

 ランスロットの動きが変わる。それは防御とカウンターに特化された剣技。ガウェインの剣技だ。回避を主軸としつつ、カウンターと猛攻を使い分ける【渡り鳥】に対して、ランスロットはガウェインの剣技で防御に徹し、丁寧にして一撃必殺のカウンターを繰り返すことで対処している。

 恐るべき対応力。これこそがランスロットの強みだ。最強クラスの由縁は、今のオベイロンのような性能頼りではなく、戦闘能力の高さそのものだ。

 

「一撃でも当たれば【渡り鳥】くんの負け。対して【渡り鳥】くんは圧倒的な『火力不足』。折れかけの武器と格闘攻撃だけではランスロットの欠月の加護の回復率に及ばない。必要とされるのは火力なのだけど、それが足りない」

 

 その通りだ。マヌスは【渡り鳥】の残りの手札が見える。だが、それをどう運用するかまでは分からない。だからこそ、現状ではどうやっても、たとえ手札を完璧に運用出来だとしても、ランスロットを倒すには不足が生じるのではないかと感じる。

 ならばこそ、それはマヌスという自己ではなく、デーモンシステムの管理者として歓喜する。

 

「ようやくか。深度7……いや、それ以上に!」

 

 ついに獣魔化一体型の真骨頂……人間という形状を【渡り鳥】が捨て始める。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 凄まじい猛攻。まるで自分の全てが見切られていると錯覚するほどの先読み。それが本能的直感と驚異的予測能力の並列作業であるとランスロットは見抜き、瞬時に戦術の変換を選択した。

 あの武具の園の時には時間稼ぎを選択したが故に追い込まれた。ならばこそ、同じ轍は踏まない。

 

(借りるぞ、ガウェイン!)

 

 奇跡を用いた粘り強さこそがガウェインの持ち味だった。純粋な継戦能力の高さで言えば、ガウェインに並ぶ者はいないとランスロットは断言する。なにせ、彼と戦った時に幾度も無くトドメを刺したと確信しながらも、まさしく不死身の如く回復して立ち上がるのだから。味方ならば心強いが、敵に回せればあれ程に厄介な相手はいない。

 そして、ガウェインは己の強みを理解したからこそ、攻撃的な深淵狩りの剣技以上に己の培った『耐える剣技』を好んだ。巨大な深淵の怪物を相手に使用しても耐え抜き、必殺のカウンターを決める。それがガウェインのやり方だったのだ。

 ランスロットがガウェインの剣技を選択した最大の理由は、もはや自分が攻撃的になっては、最後の深淵狩りに対処しきれるか危ういと判断したからだ。両者共に高速であり、相対速度が上昇した現在、ランスロットを以ってしても限界点であり、最後の深淵狩りの猛攻が更に引き上げられている今のままでは、このまま自分も攻撃に傾倒しては手痛い一撃を負いかねないからである。

 だが、ランスロットにも『切り札』はある。だからこそ、ここは慎重を極める必要性があった。

 

「幾ら貴様が強くとも、武器が追い付かないようだな」

 

 そして、もう1つ。ランスロットは自信の揺るがぬ優位性があった。それは最後の深淵狩りは折れたカタナしか残されておらず、対して自分の聖剣は刃毀れにすら程遠い。本物の刀身は欠月が固められた半透明のクリスタルのような大刃で守られ、この欠月の刀身はどれだけ傷ついても再生する。対して、ついに白の深淵狩りのカタナは纏う水銀が剥げ落ちる。

 一撃でも当てれば勝てる。黒光の拳でも蹴りでも打ち込めば勝ち。剣が当たっても勝ち。ならばこそ、ガウェインの剣技こそ最良の選択だった。

 

「……ぐがぁ……あぐぅ……!」

 

 何よりも深淵の病。まるで深淵纏いを血が喰らったかのように、全身から赤黒いオーラを発する最後の深淵狩りであるが、それが余計に深淵の病を悪化させているのだろう。頬にまで伸びた黒い血管の浮かび上がりは痛々しい。

 ゲヘナ、お前を思い出す。生まれながらに深淵の主であるが故に、時として内なる深淵に悩まされたゲヘナの為に、アルヴヘイムに咲く白い花を探して薬として調合し、彼女の気休めに用いた。ランスロットは薬の調合は不得手であり、トリスタンに多少の心得を教えられただけであったが、あの時ばかりは武技ばかりではなく薬学にも食指を伸ばすべきだったと後悔したものだった。

 

『貴方はもう少し人間らしい食事というものを学ぶべきです。それと、家にいる時くらい甲冑姿でなくて良いでしょう?』

 

 思えばゲヘナの小言も懐かしい。普通の女として人生を全うさせ、その眠りを守り続けたが、まさか主として振る舞える程に気高く成長していたとは見抜けていなかった。

 

『ランスロット、手を握っていてください。怖いんです。目が覚めたら貴方がいなくなっている気がして……』

 

 ゲヘナの最期。何の変哲もない流行り病。熱にうなされた彼女の手を握れば、嬉しそうに笑っていた。そして、そのまま息を引き取った。

 幸せな人生を歩めたのだろうか。ランスロットには分からない。だが、それでも、彼女の最後の笑顔を守るために……死後も決して深淵の主とならないように、聖剣を捧げて故郷の黄昏と共に眠らせることを選んだ。

 忠義を尽くす。深淵狩りとして抱いた理想も、信念も、矜持も捨て、ただ1つの意思……忠義を貫き通す。そうしてたどり着いたのは、聖剣を取り戻し、最強にして最後の深淵狩りとの戦いに身を投じるとは、何とも感慨深かった。

 不意にランスロットは横殴りにされる。瞬時に跳ぶことで威力を軽減するが、少しばかり戦いから意識が抜け落ち油断したかと思うも、そうではないと把握する。

 

「ぐ……ぐがぁ……クヒャヒャ……ヒヒャ!」

 

 狂笑を繰り返す最後の深淵狩りの背中から伸びたのは『触手』。まるで脊椎を思わせる、血塗れの触手だ。それは間接同士を靱帯で結ばれたものであり、伸縮自在にランスロットへと襲い掛かる。その数は6本。

 それだけではない。最後の深淵狩りを、赤黒いオーラが実体化して包み込み、血の繭に変じさせる。

 

「やはりな。深淵に呑まれた……か」

 

 本来、深淵に与したランスロットを除けば、自らの内にゲヘナの闇を封じ込めた彼以外の深淵狩りにとって、深淵纏いとは最終奥義。不退転の戦いを常とする深淵狩りにおいても、決して敗れることが出来ない、後の無い戦いでのみ使用するものだ。使ってまともに生還できた者はおらず、運よく生き延びれても必ず深淵より受けた後遺症に苛まれ、遅かれ早かれ堕ちて深淵の魔物に成り果てる。

 元より深淵に近しい……いや、深淵よりもなお濃く底知れない殺意を有した獣の権化だった。それを必死に人間であろうとする縁で堪えていたのだろうが、ランスロットを倒す為に禁忌に手を出したのだろう。それが決壊を呼び、深淵の魔物化が始まってしまったのだろうとランスロットは睨んだ。

 

「…………っ!」

 

 そして、ランスロットは息を呑む。現役時代、多くの深淵の主を討伐した彼は、同時に多くの深淵の魔物……堕ちた戦友を倒した者でもあった。

 そんな彼をして、バケモノとしか呼ぶ他ない『獣』がそこにいた。

 

 その全身は本来白色なのだろうが、血で汚れて赤黒く、硬質とも軟質とも呼べる肌は不気味の一言。

 

 その体は痩躯であり、特に胴体は今にも折れそうであるが、その胸部は肋骨が開いたかのように外部に突き出し、途絶えることなく血に濡れている。

 

 左右の腕は2つの肘を有し、指は長く、また鋭い爪を有している。右手は5本指であるが、左手は6本指のアシンメトリーであり、それがこの怪物を象徴しているかのようだった。

 

 尾の如く揺らぐのは右に7本、左に3本揺らぐ脊椎を思わす細身の触手。だが、そのいずれの関節部にも鋭い棘を有し、素早く振るわれれば鋸の如く機能する鞭となるだろう。その先端は何よりも鋭く、だが傷口を広げて苦痛を与える為だけのように捩じれている。

 

 何よりも異常なのは頭部。大きさは人間だった頃に比べて倍化したにも関わらず小さめであるが、目も口もない『無』。ただ中心部に空くのは穴であり、そこには深淵の闇よりもなお濃い、底知れない何かが潜んでいるかのようだった。まるで髪の毛のように蠢くのは無数の触手であり、それは背中から分かたれるものとは違い、何処かゴム質であり、イソギンチャクを思い出させた。

 

 膝に刃を有する足は長く、また踵にはアンカーの役目を果たすだろう爪が備わっていた。だが、その脚部は何処か人間に近しい印象を受けるのが、彼が『人間だった』証なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 この場に【来訪者】の誰かがいればその名を呼ぶだろう。『レギオン』と。レギオンの王と。

 

 

 

 

 

 

 

 これ程までに破滅を予感させる魔物はいなかった。いずれの魔物も悲壮感で溢れていたというのに、この魔物から感じるのは際限なく血を求める愉悦だけだ。

 

 

「多くの深淵の魔物を見てきた。だが……」

 

 聖剣を握る手を強め、ランスロットは自嘲する。

 最後の深淵狩りとの戦い。忠義を貫く為に深淵狩りの歴史に幕を下ろすことに躊躇いは無かった。

 嫌でも理解する。もはや、アルヴヘイムの外に深淵狩りは残っていないのだろう。グウィン王の治世も既に終わっているはずだ。別の種が新たな繁栄を手にしたのか……人間の本質が暴かれる闇の時代が来たのか……はたまた全く別の予想外を迎えたのかは知らないが、何にしても深淵狩りは白の深淵狩りが最後に違いない。アルヴヘイム最後ではなく、世界最後の深淵狩りとして自分に対峙しているのだろうと感じ取っていた。

 

「俺に……裏切者の俺に……深淵狩りの如く魔物を倒せと?」

 

 聖剣を握った裏切者が、深淵狩りの末路として魔物になった最後の深淵狩りを討つ。それは何と皮肉なことだろうか。

 だが、ランスロットに迷いはない。深淵狩りとしてではなく、忠義の騎士として、たとえ深淵狩りの真似事になろうとも魔物に成り果てた最後の深淵狩りを倒すと決める。

 触手を用いたすさまじい猛攻と連撃。自分の加護を剥がすには十分過ぎる威力。だが、ランスロットは深淵渡りで変幻自在に間合いを取れる。

 黒剣には触手で対処するが、黒雷の大槍はどうだろうか? 放つも軽やかに躱される。魔物となったことでより鋭敏に、忌々しい程にあの先読みが強化されているとしか思えない。だが、ランスロットは即座に光波に切り替える。次々と放たれる光波は黒剣と違って弾けない。強度は十分の様であるが、靱帯を正確に狙った欠月の刃は連続命中で触手の1本を切断する。

 多くの深淵狩りが魔物に堕ちた。だが、ランスロットは悲しいまでに言い切る。確かに恐ろしく強い。だが、彼らが持つべき持ち味を失い、野獣の如く暴れ回る様に、深淵狩りだった頃のような深みはない。

 殺意に翻弄された末路のような白の深淵狩りの魔物の姿に、ランスロットが臆することは無い。だが、触手が再生する様を見て、次いで光波が当たって裂けた頭部も再生するともなれば、戦術を切り替える。

 

(深淵の魔物の再生力は重々承知している。この手の類は『核』を破壊すれば良い。コイツの場合は……心臓だろうな)

 

 開かれた肋骨。その内側の肉の中で確かに脈動する心臓。それこそが弱点のはずだ。触手の一撃一撃は剛槍の如く、また振るわれれば大地を容易く削り取る鋸と化すが、ランスロットは闇の翼を広げて滑空し、回転斬りと共に懐に入り込む。そのまま胸部に黒炎のメテオを至近距離から撃ち込み、欠月の奔流を纏った聖剣の一突きを繰り出す。

 躱しきられた。だが、ランスロットは手を緩めない。深淵纏いと欠月纏いで流星と化した黒剣を放ち、触手7本全てを破壊し、丸裸にした怪物にそのまま刃を振り下ろす。

 

「浅いか」

 

 よく躱す。だが、先程の方が強かった。やはり深淵狩りは魔物になった方が弱い。ランスロットは聖剣を肩で担ぎ、あのまま戦い続けていれば、自分も『切り札』を使わざるを得なかっただろうと微かに無念を覚える。それは彼なりの最後の深淵狩りへの餞になったはずだからこそだ。

 さっさと滅ぼし、あの二刀流から月光の聖剣を奪い取る。深淵狩りの歴史に幕を下ろし、聖剣を伝説の内に帰し、終わらぬ忠義を貫く。邪魔するだろうオベイロンも殺す。その後のアルヴヘイムを妖精たちがどう統治しようと彼の興味の範囲外だ。

 ランスロットはせめて始祖アルトリウスの剣技で葬ろうと聖剣の刀身に手を這わせる。必殺の片手突進突き。黒光による加速と欠月の奔流を乗せたものだ。先程までの白の深淵狩りならば躱せただろうが、狂ったケダモノに成り果てた今の彼には無理であろうとランスロットは見抜いていた。

 破壊の一撃。それが容易く魔物の胸を貫き、そのまま爆ぜさせる。

 だが、手応えが無い。訝しむランスロットは、崩れていく魔物の内側が空洞であり、周囲に零れた血が泡立っていることに気づく。

 心臓が既に移動していたのだ。まるで無形のように、ランスロットを嘲うように、血こそが本体であると示すように、それは腕となり、足となり、触手となり、いや……血こそが全ての生命を溶かすのだと証明するように、彼に襲い掛かる。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 痛い『痛い』痛い『痛い』……ただ痛みと『痛み』で溢れていく。

 解き放たれた『獣』のままに、血の悦びを欲し、怪物の顎となって暴れ回る。

 そこに知性も理性も無い、ただの飢餓の牙。こんなものが『獣』の解放なのかと嘲笑する。

 

 

 

 いいえ、違う。これはただの入口。アナタに教えてあげる。本当の『獣』の姿を。

 

 

 

 だが、ヤツメ様は血塗れの世界で嬉しそうに踊る。

 それはいつか見た夢の風景。血の海が広がり、獣狩りの赤い月が浮かぶ終わらぬ夜。屍は際限なく湧き上がり、泡立つ血には苦悶の叫びが漏れる。

 

 

 

 

 アナタは世界の全てが恐ろしかった。全ての『命』を愛してしまえば、終わらぬ夜が訪れてしまうから。狩りを全うできなくなるから。でも、今は違う。私はアナタを『獣』に誘い続ける。でも、同じくらいに『鬼』となったアナタの意思と共にある。

 

 

 

 

 血の雨が降れども荒立たず、だがヤツメ様が踊る度に血の海は澄んだ旋律を奏でて波紋が生まれる。

 殺戮の世界。終わらぬ狩りの夜。溢れる血の悦びと『人』の輝き。暗い夜だからこそ『人』の光は尊く映えるのであるならば、大きな光で満ちた太陽の下ではどうなるのだろうか?

 ああ、それは気にすることではないのだろう。未来を求める『人』に黄金の稲穂を。たとえ、『答え』が失われようとも、狩りを全うすると決めたのだから。

 

 

 

 

 

 さぁ、踊りましょう。いつか終わる狩りの夜。でも、今は違うから。アナタと私、一緒に生まれてきたからこそ、今ここに何より深く濃く静謐な『夜』を呼びましょう。

 

 

 

 

 

 オレもまた手首を噛み切り、溢れ出す赤い血を示す。

 手を取り合えば、2つの血は混じり、オレとヤツメ様は1つになっていく。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 まさしくレギオンの王とも呼ぶべき姿。だが、ランスロット相手には通じるはずもない。

 だが、マザーレギオンには分かっていた。

 

「今の貴方ではランスロットには勝てない」

 

 世界樹ユグドラシルの頂点で戦いの行方を見守り続けたマザーレギオンは、再びその口で讃美歌を紡ぐ。

 間もなくアルヴヘイムの地平線に太陽が昇る。だが、それは世界の夜明けではない。

 そして、夜明けとは果たして『人間』にもたらされるものだろうか。マザーレギオンは、ようやくこの時が来たと恭しく頭を垂らす。

 

「そう、獣血を封じ込めていたアナタでは勝てなかった」

 

 だが、もはやその憂いは晴れた。

 これより夜明けがもたらされる。だが、それは誰にとっての夜明けなのか。

 

「ああ、ようやく生まれた。我らの王。レギオンの王。我らレギオンに『始まりの朝』をもたらす王よ」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「撃ち続けろ! 手を緩めるな! 死んでも攻撃しろ! ここが最後の勝負だ!」

 

 まだ『宣言』のバフは効いている。これが切れたらアウトだ。レコンは大声で叫び続ける中で、シリカはどうにかしてUNKNOWNに接近できないかと悩んでいた。

 過剰な痛覚のせいか、今も動いてこそいるが、それは朦朧とする意識の中で辛うじて立っているような状態に近しい。いつ竜の神が崩れるか分かったものではない。

 だからこそ、シリカは今の自分ならば出来る事があるはずだと信じる。後遺症は幾らか和らいだとはいえ、右腕の感覚をシリカは半分ほど痛覚で補っている。DBO初期に無理をしてスタミナ切れの状態で動き回った代償だ。

 ずっと隠していた。明かせば、彼が罪の意識に囚われるのではないかと危惧した。だが、今だからこそ、真実を打ち明ける勇気を持ち、彼に訴えかけるべきではないかと悩む。

 

「オォオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 

 と、そこにシリカが聞いたのは、この場で最も聞きたくない声……黒く毛むくじゃらで複数の目を持った、廃坑都市で襲われた異形のレギオンだ。

 その全身から青い雷をばら撒き、まるで興奮する様を見て、こちらを攻撃してくるのかと思えば、そうではない。彼が率いる幾体かのレギオンもまた、まるで歓喜するように咆えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時、シリカの全身を襲ったのは『恐怖』以外に形容できるものではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仮想世界において殺気を感じたことは幾度となくある。だが、過去の体験とは濃度が違う。

 それはシリカだけではなく、この場にいる全員……オベイロンでさえも例外ではないかのように、自然と体が震えて動かなくなる。

 死にたくない。生きたい。死にたくない! 生きたい! 生存本能が暴走し、無様にこの場から逃げ出したくなる。事実として、反乱軍の幾人かは泣き叫びながら、レコンの命令に従って傷だらけの体を引き摺って包囲陣を敷いた命知らずの戦士たちが、狂ったように走り出している。

 

「止めて」

 

「死にたくない……死にたくない!」

 

「お母さん、助けて」

 

「怖い……怖い……怖い!」

 

 何が起こっている? 正気を失ったように恐怖を感じ取って怯える者たちに、シリカは誰かの『人の持つ意思の力』、あるいはオベイロンにも反する管理者の攻撃かと考えるも、自分の指が小刻みに震え続け、今にも嘔吐しそうな感覚は全く別の理由なのだと悟る。いや、そう感じ取るしかなかった。

 あらゆる理屈を超越して、『命』ある限りに感じずにはいられない『捕食者』に対する恐怖心。人間という知性と勇気で恐怖を駆逐しようとする者であろうとも、『命』ある生物である限りには、現実世界出身だろうと仮想世界出身だろうと関係なく襲い来るだろう……絶対的な『天敵』への恐怖心。

 

「オォオオオオオオオオオオ! レギオン! レギオン! レギオン! コエアルモノ、サケベ! コエナキモノ、ホエロ! オウ! オウ! オウ! ワレラノオウ! レギオンノオウ! アラワレタ! アラワレタ! アラワレタ! ニンゲン、ホロブ! ワレラ、レギオン、ジダイ、クル!」

 

 レギオン達が歓喜している。ならば……このおぞましくも理解しがたい程に美しいと感じてしまうほどの澄んだ恐怖は……レギオンの王がもたらすものか。

 

「おやおやぁ? 皆さん纏めてダウン? レコンも? イカンですなぁ。恐怖に抗ってこそ『人』の『強さ』でしょ? そんなんじゃレギオンの王と対峙した時に正気を保てないよ。もっともっとナギちゃんに魅せてよ!」

 

 ただ1人、ナギだけが平然として嬉しそうに踊る。この恐怖を心地良いと感じているかのように、おぞましい程に愛らしく笑う。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 血が1つに集まり、泡立って破裂した時、『それ』は現れた。

 数多の瓦礫。都市の残骸と炎ばかり溢れる戦場でありながら、その瞬間だけはまるで静寂が訪れて無音となったかのようであり、辺り一面を染め上げる血は波紋1つない。

 深淵の魔物より溢れた血。それが『それ』を作り上げたのだろう。あるいは、その本質を掻き集め、今まさに1つの形を取らせたのだろう。

 ランスロットはついに対峙する。最後の深淵狩りの『本質』を目前とする。

 

 靡くのは変わらぬ淡い光を帯びた白髪。

 

 纏うのは深淵より紡いだようなボロ布。だが、時間の経過の度に織り込まれて色を生じさせ、やがてそれは遠き東の地にある神職の装束に近しいと感じるも、細部に何か異物感があり、不完全であることこそ無限の成長性を示しているかのようだった。

 

 その身は小柄で10代前半……せいぜい13歳前後だろう……熟してないながらも微かな成長を感じさせる『人間』の姿。その肌は病的に感じるほどに白くきめ細かい。いかなる深層の令嬢でも、神族の貴族だろうとも、これ程までにはいかないだろう。

 

 座り込んでいた白の者はその長い髪を夜風で揺らし、月無き夜空を見上げていた。やがて、ランスロットに『そこにいたのか』と今更になって気づいたかのように、緩やかに顔を向ける。

 

 天使と形容しても足りぬほどだった中性美の容貌は体に合わせて幼さを増し、見る者に狂気をもたらす程の美の神秘となる。そして、ランスロットを見る目に……彼は月無き夜空こそ今は相応しいと感じた。

 

 その右目にあるのは7つの瞳。そして、義眼だっただろう左目は受肉を果たし、ただ1つの瞳を鎮座させる。

 

 本来白目であるべき場所は、遥か夜空の彼方にある深奥を引き摺り出したかのような鮮やかな青。そして、瞳はいずれも優しくも狂うように光る赤。

 

 

 

 

 

 それはまるで……青ざめた血の夜に浮かぶ獣の月。8つの瞳を有する双眸を持つ人間の形をした『何か』。

 

 

 

 

 

 己に巣食う深淵すらも糧として喰らった本物の怪物。それが今まさに立ち上がれば、その装束の背中には前もって切れ込みが入れてあるのか、8本の触手が蠢きながら静かに伸びる。それは先程と同じく脊椎を思わせるが、より細く鋭くなっている。

 

 

 

 

 

 

 揺れる火によって作られた『何か』の影。それは巨大な『蜘蛛』のようだった。

 

 

 

 

 

 しばらくランスロットを見つめ、ようやく彼が『誰』なのか認識したように『何か』は微笑む。そうすれば、触手の全てに更なる触手が……真っ白で細かくふわふわとした無数の触手が羽毛のように生える。それは母の抱擁に似て、逃れられぬ死を象徴するかのように、関節部より溢れる血でじわりじわりと赤く滲む。

 蜘蛛の影を背負いながら、白き烏の羽毛を持つが如く、だが体をゆっくりと折り曲げていく様は山猫のように……だが、その身から再び血のような赤黒いオーラが溢れ出す。

 

 

「ああ、とてもお腹が空いた。ねぇ、アナタ……食べて良い?」

 

 

 もはやランスロットを『餌』としか思っていない、蕩けるほどに甘く優しい笑みで『何か』はお菓子をねだる無邪気な子どものような声音で小首を傾げながら問いかけた。

 ランスロットが無言で聖剣を向ければ、何かを悩むように可愛らしく右手の人差し指を唇に当て、何かに思い至ったように両手を叩いた。

 

 

「N。誇り高き死神。その槍をここに」

 

 

 そして、ランスロットの全身を赤黒い光の槍が刺し貫いた。

 発生源はいつの間にか足下に広がっていた血だまり。ランスロットが怯まずに深淵渡りで距離を取れば、移動先で『何か』は『待っていた』。

 

 

 

「アルフェリア。泥に埋もれた嘆きの乙女。その叫びをここに」

 

 

 

 キスをねだるように至近距離で見上げていた『何か』がランスロットの胸に触れれば、あの異形の黒の剣から放たれた悲鳴が解き放たれる。『何か』の手から潜り込んだ悲鳴がランスロットの内側から攻撃する。欠月の加護が無ければ、鎧ごと内側から爆ぜていただろう。

 聖剣より放つ光波は踊るように軽やかに避けられ、その度に広がる赤い血に波紋が生まれる。だが、彼の攻撃は触手も含めて1つとして掠ることもなく、まるで天使の翼のように『何か』の背中から伸びて揺れている。

 それは人間と神族……闇と光が手を取り合ってでも駆逐せねばならない世界を終わらせる怪物。光も闇も関係なく貪る飢餓の獣そのもの。

 

「それが……貴様の正体か! 最後の深淵狩りよ!」

 

「深淵狩り……深淵狩り……アルトリウス? ちゃんと食べられなかったから分からないけど、アナタは『美味しい』?」

 

 始祖アルトリウスを狩ったと言わんばかりの、会話の脈絡が感じられない返しに、ランスロットは聖剣を構える。

 出し惜しみは元よりしていない。だが、今ここで『何か』を倒さねば忠義を貫き通すことはできない。ならば死力を尽くすのみ。

 

「改めて名乗ろう。名も知らぬ狂気にして、飢餓の獣の権化よ。我が名はランスロット。ゲヘナより忠義の騎士の座を賜った者。我が忠義の聖剣の下、貴様の首……もらい受ける」

 

 ランスロットの宣誓に、『何か』はまるで遊んでもらえるとはしゃぐ子どものように笑う。その8つの光る赤の瞳は青ざめた血の夜に浮かぶ獣の月であり、故に終わらぬ狩りの夜を体現するかのように、ランスロットを見つめていた。

 その白桃のように艶やかで柔らかそうな唇が開き、『何か』は胸に両手を這わせて喉を震わせる。

 

 

 それは歌。唄。詩。人智どころか、神々の叡智ですらも解読することを拒絶する、全ての根源にまで深く波紋を呼ぶような旋律だった。 

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 あり得ない。マヌスは拳を握りしめる。

 獣魔化とは人間の姿を逸脱するものだ。そうでもなければ、わざわざデーモン化と獣魔化に分化させることなどしていない。

 だが、今まさに獣魔化深度9……限りなく完全に近しく獣魔化を進行させた【渡り鳥】の姿は、触手こそ生やしているが、確固たる人間の形状を保っている。

 イレギュラーにも程がある。加えてデーモンシステムによって装備・スキル・誓約が反映されるが、獣魔化の深度が進んだことによってついに独自能力が表面化した。

 

 

 獣魔化時の装備に使用されたソウル……それを能力として振るうことができる。

 

 

 それ自体は珍しい事ではないだろう。ソウルウェポンを装備したプレイヤーが獣魔化すれば、ソウルを色濃く残した能力を身に着けた獣魔化形態になるはずだ。だが、【渡り鳥】の場合は好きなように、好きな形に組み替えてソウル能力を使う。

 無限の柔軟性と応用力。千変にして無貌。あらゆる経験を糧とする怪物。魂喰らい。彼の本能を体現したかのようなデーモン化にして獣魔化である。

 そして、レギオンのオリジナルだからこその同型……いや、全てのレギオンにとって『原型』と呼ぶべき触手。だが、それらは随意運動のはずだ。幾ら運動アルゴリズムを介していないとはいえ、8本の触手を自在に操り、なおかつ思考操作型の能力を備えるなどあり得ない。その負荷量は人間の脳の処理能力を超える。

 何が起こっている? そもそもとして、彼の言うところの本能とは『何』なのだ? 最古の深淵の主は、今まさに最古の血を引き摺り出した狩人の末裔に『命』の深淵を見る。

 

「おぞましいおぞましいと恐れられた『獣』の姿……それこそが『人』そのものである、か。キミらしいじゃないか、【渡り鳥】くん」

 

 マヌスも『命』があるからこそ感じる、だが『誕生』と共に再び圧縮されて消えていく恐怖の波の中で、レギオンのレヴァーティンと同じく平然とするセカンドマスターもまた、やはり似て非なる存在なのだろう。

 

「精神だけ退行しているのかな? 無駄な人間性を省くなら、それこそが最も効率的だ。まさしく精神も肉体も狩りに特化された、血の到達点というわけかい。これぞ『血の意思』だ」

 

 デーモンシステムの行き着く先。心意という外的干渉はなく、自らの本質だけで極致に到達してしまった者。今やデーモン化制御時間の減少が『止まる』のは、飢餓を受容したのではなく一体化したからだろう。 

 

「しかし、彼の姿。映る影は蜘蛛の様だ。えーと、彼の一族で何て言うんだっけ? マザーレギオンの開発コードとして名付けてあげたんだけどね」

 

 今も何処かにいる古い血を継ぐだけではなく、新しい血を注ぎ続ける狩人の一族ならば、恭しく頭を下げながらも、狩りを成して鎮める為に目を開くだろう。

 

 今も何処かにいる狂える信奉者は、血と肉を捧げる為に、従者にして下僕の如く駆けずり回り、恐怖と畏敬を込めて跪くだろう。

 

 

 

「そうそう。確か……『ヤツメ様』だったかな」




我ら血によって人となり、人を超え、また人を失う

知らぬ者よ

かねて血を恐れたまえ


<システムメッセージ>
・スキル≪獣性解放≫を獲得しました。
・スキル≪獣性解放≫の獲得により久遠の狩人【獣血】モードがアンロックされました。
・スキル≪獣性解放≫の獲得により天敵【ヤツメ様】モードがアンロックされました。


それでは、299話でまた会いましょう。

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