SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

嵐は終わり、次なる戦いが始まる。




Side Episode15 血の系譜

 届かない。

 この手は決して届かない。

 翻る黒いコート。2本の剣を背負った孤独な背中。その後ろ姿へとどれだけ手を伸ばしても届かない。

 やがて崩れる鉄の城の残骸の中で彼女はその名前を呼ぶ。

 だが、彼は決して振り返らない。

 

「……最低だ」

 

 涙で濡れた頬を自覚しながら、リズベットは最悪の気分で九塚村2日目の朝を迎えた。

 この頃は見る頻度も減ったと思ったが、その分だけアインクラッドの悪夢は密度を上げてパンチ力を高めてきた。クーラーは取り付けられているが稼働しておらず、扇風機だけが首を振り続ける客室で、リズベットは敷かれた布団から体を起こす。

 右手首に取り付けられたのはロープ付きのリストバンドだ。それは客室のデスクの脚に括りつけられ、彼女が自傷行為する事を防ぐ為の枷である。本来は両手を縛り付けておくのがベストなのであるが、旅先で……それも光輝の実家で両腕拘束姿を見られれば色々と別な方向から誤解を生みそうだったために、彼女が自分の現在の限界ラインを見極めた上での準備だった。

 SAO事件直後に比べれば精神も安定したとはリズベット自身も改善の兆候があると自信をつけている。だが、どうやっても彼女の中からアインクラッドの記憶が消えないと同じように、その悪夢は彼女の心を蝕み続ける。

 薬の量は減った。後は乗り越えるだけだ。だが、それにあと何年かかる? あと何十年かかる? リズベットは拘束用リストバンドを外し、繰り返された自傷行為……失血死寸前まで刻んだ事もある手首の傷痕を撫でた。

 最低な気分の理由は別にもある。ようやく光輝の気持ちをちゃんと受け入れられるようになったと思っていたが、彼女の中には今も【黒の剣士】がいる。彼の背中が網膜にこびり付いているように、彼女に罪悪感を苛ませる。

 別に初恋だったわけではない。年相応に恋も重ねていた。だが、アインクラッドで出会った彼は余りにも鮮烈に彼女の心を占有してしまった。

 

「別に良いじゃない。女は男を天秤にかけるくらいにずる賢くないとやっていけないわよ」

 

「天秤にかけるってそんな……。あたしは踏ん切りできていない自分が――」

 

 あっさりと心の内を読まれ、リズベットが顔を上げれば、ファンが卒倒しそうな姿……大きめのTシャツ1枚という姿で寝ぼけ眼をした灯が襖を開けてニヤニヤと顔を歪めていた。

 どうしてここに!? いや、ここは灯さんの家だから当たり前!? いやいや! 違う違う! そもそもどうしてバレたの!? エスパーなの!? 女優は表情だけで心の副音声まで聞こえちゃうの!? リズベットはそう頭を抱えそうになるが、灯は大したことないとばかりに薄く笑うだけだった。

 

「ほら、よく言うじゃない。『男はメモリー保存、女は上書き保存』って。そんな単純だったら苦労しないわよね。女の子なんだもん。愛だ恋だに悩んで苦しんで、過去に簡単に決別できなくて、昔の男をズルズル引き摺る。男よりも執念深いわよねぇ。そうでもないと、古今東西あらゆる媒体で女が情念の怪物みたいに描かれてないわよ。失礼しちゃうわ」

 

「……あの」

 

「ああ、ゴメン。昔の男じゃなくて片想い? それも完全に地雷タイプね。早く決着付けないとまずいわよぉ。花の20代浪費するわよぉ。屑兄を御覧なさい。どれだけ外見が若々しくても三十路よ。屑兄もああ見えて昔の女を引き摺るタイプで――」

 

「そうだな。高校時代に付き合ったカノジョがガチレズで、俺と付き合った本当の理由が糞妹狙いだった時はさすがに引き摺ったな」

 

 欠伸を噛み殺しながら灯の後頭部を叩いた光輝と目が合い、まさか先程の話を聞かれていたのかと動揺するリズベットは、彼のいつもの紳士的な笑みと直面する。

 

「おはよう、リズベットちゃん。僕は気にしてないよ。キミにとってSAO事件は人生を変えるものだったのは違いないし、それが無ければ僕らは出会わなかった。だから、ゆっくりと僕との距離を縮めてもらえれば良いからさ。ね?」

 

「ちょい待ち。あたし達ってまだ付き合ってもないでしょうが!」

 

 頭を両手で蹲って悶絶する灯を放置して去っていく光輝の背中に可愛らしくない憎まれ口を叩いてしまった。朝早々から気分が滅入ったリズベットは、兄の背中にドロップキックをぶち込むべく腹筋だけで起き上がった灯を見送る。

 

「あらあら。2人ともお付き合いしていなかったの? それは困ったわねぇ。お母さん、もう白梅会に出席の連絡しちゃったわ」

 

 そして、悶々とした気分で身支度を済ませて朝食が整ったリビングに向かえば、古き良きオカンのように、外見年齢はどう見積もっても20代半ばから後半にしか映らない光莉が割烹着姿でご飯を茶碗に日本昔話のように山盛りしながら、明らかに光輝と灯の顔が渋くなる、リズベットには理解不能な固有名詞の爆弾を投下する。

 悔しいけど、この卵焼きも味噌汁も篠崎家よりも美味で口に合っている。リズベット的には絹ごし豆腐なのは高得点だ。一方の光輝は同棲生活で分かっている通りの木綿派であるが、味噌汁には文句をつけないタイプである。爆風で味が分からなくなるより前にリズベットは朝食さえも絶品とはパーフェクトオカン過ぎると絶望的幸福を堪能する。

 

「白梅会って何なんですか?」

 

 まずは内容を知らねば反応することもできない。リズベットは絶妙な焼き加減の鰯を頭から齧りながら、顔を左手で覆って沈黙している光輝ではなく、苦笑いでギリギリ済ましている灯に尋ねる。

 

「別名で『紫藤家主催、女の駄弁り会』。一族の女の集会の1つよ。リズベットちゃんにはまだ早いかなぁ? 特にウチは本家でも当主筋で、かーくんが当主内定だったんだけど、SAO事件を機に外されちゃったから、今はそこの屑兄が当主候補筆頭。今や白梅会では屑兄の妻……つまりは次期当主の奥方が誰になるのかで大盛り上がりのはず。そこに許嫁どころか恋人でもないリズベットちゃんを放り込むという鬼畜を通り越した外道の所業ね」

 

「オイ、糞ババア。フライングすぎんだよ。リズベットちゃんをピラニアの群れに放り込む気か!?」

 

「こらこら、光輝。親にそんな口を利いては駄目よ。狩人たる者、礼節を重んじるべし。それに逸ったお母さんも悪いけど、言い訳させてもらうなら、リズベットちゃんは『赤』を付けているじゃない。婚約までは行ってないとしても、恋仲くらいにはなってるに違いないって勘違いしちゃったのも仕方ないと思わないかしら?」

 

「昨日の会話で気づけよ!? 相変わらず必要な所で螺子が緩んでんじゃねーぞ!?」

 

「コウ。あなた……いつから漬物が食べられるようになったの!? お母さん、感動したわ! 今夜は取って置きの大根のお浸しを――」

 

「そして話題を前触れなく変更するんじゃねーよ!?」

 

 朝から光輝さんが『素』で飛ばしていくなぁ。我が事ながらも余りにも実感できなさ過ぎて、辛うじて自分が好奇の渦中に放り込まれることだけは感じ取れた。だが、確かにこの沢庵は絶品だとリズベットは早くも5枚目を齧る。

 つつがなくとは程遠いが、こんなにも賑やかな『家族』の食卓を囲むのは久しぶりだ。リズベットは晴れやかな気持ちで光莉を手伝って洗い物を済ませる。そして、今日はどのようにして過ごすかと洗面所に準備された新品の……彼女のイメージカラーに合わせてある歯ブラシを手に取った時だった。

 おかしいわ。あたしっていつから古き因習蔓延る時代錯誤空間にいるのかしら? リズベットは遅れてやってきた危機感に蹲る。つい先日までは最先端科学であらゆる犯罪と戦うVR犯罪対策室のオブザーバーだったはずなのに、今いる場所はネットどころか電話すらも繋がらないという文明から切り離された異空間だ。

 今、21世紀。VR技術とAR技術がカオスで魔境化が進む、ガラパゴス化上等先進国ジャパン。そのはずなのに、ここは昭和? 大正? 明治? それともお江戸でござる!? 軽くオーバーフローした感情をひたすら歯磨きに集中することで何とか耐え抜き、リズベットは腹を括る。

 今回の旅行、もとい光輝の帰郷に同行したのは、彼についてもっと知りたいからだ。光輝があれ程までに嫌がった故郷に何があるのか。ヤツメ様とは何なのか。彼が抱える秘密とは何なのか。それを『1人の女』として踏み入りたいと思ったからだ。

 ならば、ある意味で嫁いだ……外部からこの異質のコミュニティである九塚村に嫁いだ女性たちからならば、より良質な情報を得られるかもしれない。リズベットは強引に前向きにそう捉える事に成功する。

 

「ごめんなさいね。私のせいで迷惑をかけてしまったみたいで。でも、白梅会でも若い子たちの集まりに参加してもらうつもりだったの。ほら、この村には見所も少ないでしょう? 大祭まで時間もあるし、良い暇つぶしになると思って……」

 

 玄関で出発の準備を整えていたリズベットに、申し訳なさそうに光莉は謝る。リズベットは気にする必要はないと首を横に振った。

 

「あたしもこの村のこと、皆さんのことをもっと知りたいですし、出席したいです。何処に行けば良いんですか?」

 

「僕が案内しようか?」

 

「おい、屑兄。リズベットちゃんを出汁にして逃げるな。屑兄にはこれから屋敷で親戚・客人に挨拶100連発の苦行が待ってるでしょう? 爺様が仕事でいないんだから代理くらい務めろ、長男」

 

 そういう狙いか。リズベットがわざとらしく嘆息すると、一緒に出る気満々だった光輝は観念したように天を仰ぐ。この村に来てから、今まで完全無敵の余裕の男を常に演じていた光輝にも弱点は多かった……もとい、本当に実家と故郷は苦手なのだとリズベットは新鮮さを楽しむ。なにせ、この男は肉体が1秒で炭化するような爆発が背後で炸裂しても、暴走電車の屋根でテロリストと撃ち合っても、客船の中でカンフー達人に囲まれても、100階オーバーの高層ビルから紐無しバンジーしても、常に余裕を崩さなかったのだ。

 これが母性を擽られるって奴なの!? 母と妹に本家の館に向かう準備をしろと背中を叩かれる光輝に少しだけ好感度を高めながら、リズベットは光莉に渡された地図を開く。

 

「まさか地図とはねぇ。文明の利器もここではただの鉄屑か」

 

 今日のリズベットはキャミソールにジーパンというシンプルな姿だ。清楚系偽装作戦は昨日の静との遭遇でメンタルダメージしか負わないと思い知らされたからである。それでも、普段のパンク系の服装ではないのは彼女なりの最期の抵抗だった。

 暑い。さすがは8月、夏真っ盛りだ。リズベットは出発の際に光莉が被らせてくれた麦わら帽子にジリジリと夏の熱が籠っていくのを感じる。

 白梅会が開かれるのは九塚村でも西方にある阿澄邸という場所だ。分家である紫藤が保有する洋館らしく、和風でありながらも和風ではない、和風チックという体裁の九塚村とは異なる風景が望めるらしい。だが、その為には彼女がいる村中央から移動する必要があった。

 田園風景を眺めながらのんびりと徒歩で行くにしても、この猛暑は甘く見ていた。幾ら例年にない冷夏とはいえ、8月の日差しを舐めてはいけないのだ。

 村を涼ませるためのような、錦鯉が泳ぐ冷水の水路はこの夏の暑さを和らげる為の知恵なのだろうか。リズベットはあえなく徒歩での移動を断念し、日陰に……カキ氷の旗を揺らす駄菓子屋に潜り込む。

 そこにいたのは高校生探偵の坂上翼の妹、美桜である。だが、彼女の傍にいるのは兄ではなく、色黒の……何処となく光輝と似た雰囲気を持った青年だった。一緒に駅に降り、またバスを共にした男である。

 

「アンタは確かコウさんの嫁の……えーと、リズベットさんだったか?」

 

 親族なのか、既にリズベットの情報は掴んでいるらしく、男は確認の意味も込めて尋ねる。

 

「嫁じゃない。『まだ』嫁じゃない」

 

 脳内アスナを振り払って全力で手を横に振って否定すると、単発の黒髪でスポーツマンといった印象を与える青年は、何か納得したように笑った。

 

「なるほどな。そういう事にしておこう。失礼、自己紹介がまだだったな。俺は草部錫彦。ちなみに金属の方の『錫』だ。色々と複雑だが、コウさんの親戚で学生時代の後輩。ガキの頃から何かと世話になっている身だ。よろしく」

 

「篠崎里香よ。リズベットでも構わないし、篠崎でも良いわ」

 

 気さくに、だが礼儀正しく、まさに好印象としか言いようがない態度で手を差し出す錫彦と握手を交わし、続いてぐったりとアイスバーを咥えたまま、店主の老婆と並ぶように扇風機の前から動かない美桜に視線を向けた。

 

「あ、どうも。昨日はお世話になりました」

 

 ようやくリズベットに気づいたらしい美桜は、夏バテしたかのような疲労たっぷりの顔を向ける。その目の下には年齢不相応な隈が刻まれていた。

 

「どうしたの? 酷い顔よ」

 

「生徒会長、もとい蜘蛛女がおにぃの部屋に入り込んでくる気がして、朝までガードに徹していたら、この様です。はは、嗤いなさいよ。この美桜様の無様な姿を嗤いなさいよぉ!」

 

 かなり情緒不安定に叫ぶ美桜の涙目に、リズベットは何事かと錫彦を見上げ、彼は溜め息1つと共に右手を額に置いた。

 

「村をフラフラ歩いているところを保護した。外の連中が『こうなる』のは珍しいことじゃないが、彼女の場合は事情が違うようだから対応に苦慮していたところだ」

 

 衰弱して壊れた様に『おにぃの貞操は守る守ル守る守ルるるるるるる』と呟いている美桜に、かなり精神が擦り減っているようだと判断したリズベットだが、この致命的なブラコンを治療する方法など思いつくはずもなく、錫彦に同意するように肩を竦めた。

 

「なるほど。阿澄邸にね。ここから徒歩で行けなくもないが、この日差しの下では辛いだろうな。丁度良い。あの子も静の客人だろうし、2人纏めてに送ってやるよ」

 

「ありがたいわ。あたしもさすがにこの暑さで参ってたのよ」

 

 白梅会に出席する旨を説明すると錫彦は任せろと言わんばかりに自分の胸を叩く。昨日の彼……駅員とバスの運転手を相手にした時とは態度が違い過ぎてリズベットはやや戸惑う、また光輝の親戚とはいえ、見ず知らずの男の車に乗るのはどうかとも思ったが、ここで遠慮は失礼かと申し出を素直に受け入れることにした。

 ぐったりとした美桜の手を引いて駄菓子屋の外に出たリズベットは、昨日よりも村の人通りが増えていることに気づく。明らかにリズベット達と同じような村の外部の人間であり、その多くはカメラを保有していた。

 観光客ではなさそうだ。あの風貌、マスコミの類だろう。AKARI狙いのパパラッチだろうと見当は付けたリズベットは、好奇のままに村を撮影している彼らに謎の危機感を覚える。それは静の語り……この村で見知った全ては外部に漏らしてはならないと固く禁じられたからか。

 

「祭りが近づくとああして招かれざる者たちが集まるのは常だが、今年は多過ぎる。大祭だというのに不吉だ」

 

 錫彦は近くの30代半ばだろう男に何やら話しかけた後、歓迎されない来客たちに不愉快そうに眉を顰めた。

 この人はどちらかと言えば光輝寄りの人物なのかもしれない。故郷に複雑な気持ちを抱いているような眼に気づいたリズベットは、夏バテ×睡眠不足×精神限界ですっかりグロッキー状態になった美桜に手団扇でそよ風を送りながら、彼からならば多少踏み込んだ話をしても大丈夫かもしれないと考える。

 やがて先程の男がマリンブルーに塗装された外車を運転してリズベット達の前に止まる。錫彦は隠しきれない短気な性格を示すように剣呑な眼差しをした。

 

「もっと地味なのは無かったのか?」

 

「紫藤の屋敷に赴くのに、放蕩していた末息子とはいえ草部の当主筋が侮られて堪るものかというオヤジ殿からのお達しだ。我慢しとけ」

 

 楽しそうにひらひらと手を振って去る男に舌打ちしながら、申し訳なさそうに錫彦は美桜を後部座席に、リズベットを助手席に乗せる。

 

「オヤジは趣味が転じて外車のディーラーをしていて、コイツはコレクションの1つだ。断じて俺の趣味じゃない」

 

「でしょうね。あなたは軽トラの方が似合いそう」

 

「分かってるじゃないか。オヤジは面子を気にし過ぎなんだ。狩人たる者、礼節を重んじるのは当然。だが、あくまで我らは狩り、奪い、喰らう者。本分を見失ってはならない。張るべき見栄も時と場合には必要だが、それに呑まれてどうする? そんなんだから紫藤に馬鹿にされていると気づくべきなのに。耄碌しやがって」

 

 田舎に不釣り合いな外車を走らせる不快感に鼻を鳴らす錫彦を横に、リズベットは、クーラーが利いた車内でようやく落ち着いたらしい美桜が後部座席で丸まっている姿を確認しつつ、村の風景が緩やかに流れるのを見守るのも束の間、話を切り出すことにした。

 

「紫藤って静さんの名字でしょ? 仲悪いの?」

 

「一言では言えない。静も俺も分家のトップのガキだから、何かと顔を合わすことも多かったか。コウさんが俺の兄貴分だったように、俺は静の兄みたいなものだったんだよ。まぁ、ガキの頃から面倒臭い女だとは思ってはいたが、憎たらしく嫌ったことはない。だが、草部と紫藤は確執も多くてな。特に本家の当主筋、コウさんの御母上と亡き大奥様は紫藤の血縁。要は草部にとって、ここ半世紀以上も紫藤に『負けた』って思ってるわけだ」

 

 ……想像以上にドロドロの世界だったようだ。古き因習が濃く、お家騒動もあるだろうことは村に着いた段階で何となく予想していたが、久藤本家当主筋という重要ワードを背負う久藤ファミリーのある種の能天気っぷり&マイペースとは対照的な錫彦の語りに、リズベットは頭痛を覚える。

 

「そもそも本家とか分家とか、当主筋とか、あたしには全く意味不明なんですけど」

 

「だろうな。外嫁と外婿は、まずはこの辺で混乱して考えることを放棄するのが常だ。俺にとってはガキの頃からの日常だったが、今の日本ではイメージし辛いのも仕方ない。そもそも、その中心にいるはずの本家当主筋が分家の軋轢なんか我関せずの無頓着に等しいからな」

 

 苦笑した錫彦は信号1つない車道を走らせ、田園風景を切り分け、やがて道がくねった山道に入る。ガードレールなく、木々のトンネルで囲われたその土地は、先程までの村の中心からの逸脱を意味していた。

 この地図、当てにならないわね。確かに徒歩では『行けない事もない』だろうが、幾ら不本意でも荒事慣れしているリズベットでも『ちょっと散歩で』といった気分で行ける距離ではない。光輝にしてもそうであるが、錫彦にしても自分基準に当てはめ過ぎて、距離に対する感覚がズレているように思えた。

 広大とはいえないが、決して狭苦しいわけでもない、四方八方を山と森に囲まれた九塚村の地理を把握できていないリズベットに気づいたのだろう。錫彦は後ろで寝息を立て始めた美桜を気遣うような優しい運転で山道を駆けつつ、彼女が開く地図を指で軽く叩いた。

 

「東がこの村の出入口で、中央に住宅と商店諸々。西には紫藤の阿澄邸、南には草部の岩清邸。そして、北には屋敷街と本家の大屋敷、更に北に行けばヤツメ様の森と大社。基本は大きな道を進めば迷子にならない。逆に横道は山道やら何やら入り組んでいるから気を付けろ」

 

「北の本家、西の紫藤、南の草部、東が脱出路ね。了解」

 

「ははは、『脱出路』ね。逆さ。本当に死にたくないなら『紫藤は頼るな。草部は無視しろ。久藤から逃げろ。久遠を探せ』だ。狩人の戯言だが、憶えていて損はない」

 

「……くおん?」

 

 ただでさえ情報過多なのに、まだ分家でもあるのだろうか? 嫌な顔をしたリズベットに、錫彦はやや驚いた様子だった。

 

「そうか。コウさんはそれも教えてないのか。久藤は、本来永遠とか永劫を意味する『久遠』だった。それが時代の移ろいと共に『久藤』になったわけだ。今でも一族では久遠は『くどう』と読むのが常なんだが、本家当主筋だけは久遠を『くおん』と読んで『久遠の狩人』と名乗ることが許される。それ以外は『ただの狩人』……久藤の狩人なのさ」

 

「ゴメン。あたしね、馬鹿なの」

 

 プロファイリングは慣れているリズベットであるが、時代錯誤過ぎる情報の奔流は現代脳の彼女には限界があった。あっさりと降伏宣言するリズベットに、錫彦は感心したように頷く。

 

「正直者は好きだ。要は本家当主筋の男子だけが久遠の狩人と名乗れる。久藤は元々『久遠』と書き、それは『くどう』と普段は読み、狩人として名乗る時は『くおん』となる。言葉遊びだが、名とは最も強力な言霊だ。祝と呪の本質は同じ。名は祈りであり、呪いでもある。故に俺たちは『外』の連中以上に自分の名前と背負う狩り名を重視する。だから、コウさんが『久遠の狩人』と名乗った時は注意しなよ」

 

 冗談ではなさそうだ。錫彦はリズベットが『ある程度』は踏み込んでいると確信して話をしている。

 いいや、違う。錫彦はリズベットが『逃げられない』ように、わざと情報を公開しているのだ。虚言なく、真実という判子もなく、リズベットに刻み込んでいるのだ。

 

「あなたって性格悪い?」

 

「静ほどじゃない。おっと、さっきの戯言だが、『紫藤は笑顔で歓待して油断させてから狩る。草部はひっそりと待ち構えて狩る。久藤はそもそも狩りに来るので逃げるしかない』って意味だな」

 

「だったら久遠は?」

 

「……『もしも』逃げるなら、探してみたら良い。絶対にお勧めしないがな。ほら、着いたぞ」

 

 確かに重要な情報だったかもしれないが、やはり輪郭しか捉えられなかった。錫彦が停車し、リズベットが降りれば、そこにあったのは古めかしい洋館だった。

 3階建てであり、情緒溢れる佇まいである。玄関までの道のりは左右を池で囲まれ、そこには蓮が花開き、人魚を思わす石像が水面より顔を出している。玄関の両脇を固めるのは守衛のような2体の鋳鉄の獅子象だ。

 

「デケェ」

 

 寝ぼけ眼もパッチリになった美桜の渾身の感想に、リズベットも全面的に同意する。静のお嬢様といった雰囲気で分かっていたことであるが、紫藤家が富豪なのは間違いないだろう。

 

「でも、あの屋敷に比べればマシかなぁ。お姉さんも泊まるなら覚悟しておいた方が良いよ。あれはもうゲームのダンジョンだから」

 

 そして、美桜の不吉な宣言に、リズベットは昨夜こそ免れた本家の屋敷……今夜の寝床を想像して身震いする。こっちは小市民かつ現代日本人なのだ。仮想世界よりも仮想世界だと思ってしまうような異質の空間に、実は意識なくVRゲームにログインしているのではないかと錯覚してしまいそうだった。

 リズベット達が玄関に近づくと自動ドアのように勝手に扉が開く。そこで待っていたのは、清楚という言葉が似合う……そして、改めて見れば光莉と血縁があるだろうことが窺える静が水色のワンピース姿で出迎えた。

 

「ご苦労様でした、錫彦兄さん」

 

「……相変わらずだな。森の『ニオイ』がきつかったぞ。5人ってところか?」

 

「不正解。13人です。都会暮らしで『鼻』が鈍くなったのではないですか? それと『紫藤として』申し上げますが、『昨夜の件』は草部の失態。外の者が掟を無下にし、狼藉を働くのは常ですが、此度は限度を超えています。愚物がヤツメ様の森に踏み入るなどあってはなりません。しかも女人を連れて狩人でもない男が……汚らわしい」

 

「静」

 

 それは冷気と思う程の殺気。身震いした美桜を庇うように修羅場慣れしたリズベットが彼女を隠すように立てば、錫彦が諫めるように静の名前を呼ぶ。すると彼女は我に戻ったように笑顔を取り繕った。だが、その双眸は蜘蛛のような冷血の殺意に浸されているようだった。

 

「申し訳ありませんでした。私としたことがつい気が昂ってしまいまして。ですが、客人をもてなすのは紫藤の務め。篠崎様、美桜ちゃん、ようこそ阿澄邸へ。錫彦兄さんも折角いらっしゃったのですし、弥生様も出席されますからご一緒に――」

 

「白梅会は男子禁制だろ? 冗談でも止せ。それじゃあ、俺はこれで。2人ともまたな」

 

 気さくに笑いかけながら背中を向けた錫彦の後ろ姿は、やはり光輝に似ている気がした。

 

「凄いお屋敷ね」

 

「紫藤の本邸ですので。ですが、私としては洒落た洋館よりも草部の本邸の岩清邸の方が好きですね。ああ、ちなみにどちらも建築大工の棟梁の名を取ってあります。阿澄邸は明治中期に建造されたのですが、携わった職人たちは次々と『病死』し、完成と共に病に倒れた棟梁の阿澄は、死後もこの館の礎にならんと自分を含めた100人全員の亡骸を館の各所に埋葬を――」

 

「ストップ。静さん、ストップ。美桜ちゃんが本気で怯えてるから」

 

 ガタガタと1人だけ局地的地震に襲われたように全身を震わせる美桜を見かねて、リズベットが口出しすれば、静は慌てた様子でフォローになっていない更なる情報漏洩のフォローをしようとして、即座に右手を前に突き出して追加ストップをかける。

 

「今回の白梅会は私が主催したものでして、まだ九塚村に慣れていない皆様の緊張を解そうと開いたものです。私の部屋で細やかながらお茶会を催そうかと」

 

 エントランスを抜けて2階の1室に案内される。そこは落ち着いた調度品で纏められていて、青の絨毯が敷かれた洋室にはすでに甘いお菓子と紅茶の香りに満ちていた。

 先客は1人。昨日、錫彦が連れていた夏場なのに厚着をした、長く伸ばした前髪で顔を隠した女だ。静の言葉に嘘はなく、この場にいるのは『招かれた』外部の人間だけなのは、手首に結ばれた紐からも明らかだった。

 確か……弥生さんだっけ? リズベットが会釈すると先に席にこしかけていた憂鬱そうな女は3秒遅れで頭を下げる。その反応の鈍さは対人慣れしていない事が窺えた。

 

「……高砂弥生です。仕事は……学校の先生を……目指してました」

 

「えーと、篠崎です。一応は大学生です」

 

 それはつまり先生になったことがないという意味では? 思わずツッコミを入れたくなったリズベットは奥歯を噛んで堪えた。この村で一々ツッコミしていたら身も心も耐えられないのだ。

 

「美桜ちゃんは洋菓子ならアップルパイが好きって聞いたから焼いてみたの。お口に会えば良いのだけど」

 

「これ手作り!? お店に売ってるのより美味しそうじゃん! 生徒会長、アンタ何者なの!? というか、おにぃを何処に隠した!? 朝食から行方不明なんだけど!? 村中捜しても影も形もないんだけど!?」

 

「あら、翼くんなら、まだ屋敷にいるわよ? お父様に『運悪く』捕まってしまったみたいで、今頃はチェスの相手かしら。ほら、やっぱり日本だとどうしても将棋が人気でしょう? お父様は『翼くんはネットチェスを嗜んでる』って聞いたら、是非ともって聞かなくって……」

 

 ……ヤバいわ。この娘、父親にさり気なく翼くんの『紹介』と『好感度稼ぎ』を済ませて、なおかつ外堀も着々と埋めて『2人』の逃げ場を潰しにかかってるわ。リズベットはあわわわわと『おにぃがネットチェス出来るって……パソコンに最初から入ってるフリーゲームで遊んでくるくらいだよ?』と静の策略に気づいていない美桜に真実を告げたい衝動に駆られる。この白梅会、本命はどう見ても美桜の完全陥落だ。甘いモノ好きの彼女を『狩る』べく、その好物を『事前にリサーチ』して、なおかつ手作りという『重み』で殺しにかかっているのだ。

 だが、最悪のケース……リズベットが不特定多数の見ず知らずの女たちに光輝との関係を根掘り葉掘り尋ねられるという、好奇心を満たす玩具扱いにされる事態だけは避けられた。こうなれば美桜には素直に撃墜してもらおうと見捨てた彼女は、弥生の隣に腰かける。

 

「本当に美味しい。静さんは料理が上手なのね。憧れちゃうなぁ」

 

「紫藤も分家とはいえ、血は久藤。久藤の女として最低限の嗜みです」

 

 これが最低限の嗜みならば、世の洋菓子店を開く職人の方々は自信喪失するのではないだろうか。絶妙なシナモンの効き具合、シャキシャキ感を残しながらもドロリと溶ける蜜付けされた林檎、外はサクサクながらもふんわりとした多重構造のパイ。女子力の結晶を通り越して職人技である。

 ウマウマ! そんな声が聞こえてきそうな程に幸せそうな顔をしてアップルパイを食べる美桜を横目に、リズベットはまず隣の弥生との交流を深めようと話しかけることにした。

 

「ここまで錫彦さんが連れてきてくれたんだけど、弥生さんはあの人の恋人って事で良い?」

 

 少々馴れ馴れしいだろうが、これくらいの距離感の方がこの手のタイプは案外口を開きやすいものだ。フレンドリーに接するリズベットに、弥生はアップルパイを切り分けていた手を止めて、前髪のカーテンからジッとこちらを見つめる。

 

「……うん。結婚を前提に……お付き合いしてもらってる」

 

「それって婚約者ってこと? でも、あの爽やかイケメンさんってバリバリのアウトドア系に見えるけど、お姉さんとどんな接点があったの?」

 

 アップルパイ効果か、すっかり場に馴染んだ美桜も踏み込むと、何故か彼女は怯えるように震えた。

 何か地雷を踏んだ? 美桜が縋るようにリズベットに視線を向けるが、そもそも恋人との出会いが爆弾扱いになるならば、何も尋ねられない。困惑する2人に、静は場の雰囲気をリセットするように両手を合わせた。

 

「何も心配いりませんよ、弥生さん。あなたの人生に『何があった』としても、その性質が『何を呼び寄せたのか』としても、我らの血は受け入れます」

 

 立ち上がって新しく紅茶を注ぎ直すべく、弥生の背後に回った静は囁くように語りかける。

 ごくりと生唾を飲んだ弥生は両目に涙を湛え、話すべきかどうか迷っているようだった。だが、静がまるで蜘蛛の糸を張るように肩に触れれば、割れた窓から風が吹き込むように声が漏れた。

 

「私のお父さん……警官、だった。凄い正義感が強くて……巡回中に銀行強盗に出くわして……子どもが人質が取られて……だから発砲して、犯人を殺した。殺しちゃった。世間で……いっぱい叩かれて……それでも毅然として……でも、犯人の遺族に恨まれて……放火……さ、されて……お父さんとお母さん……小さかった私を庇って……」

 

 ガチガチと歯を鳴らした声の隙間から漏れるのは、恐ろしいまでの怒りと殺意だ。弥生が手袋を外せば、そこには痛々しい火傷の痕が姿を見せる。彼女が厚着しているのは全身を焼いた、家族を奪った炎なのだとリズベットは理解して喉を引き攣らせる。

 彼女は今日に至るまでに『何』をしたのだろうか。リズベットは弥生の前髪に隠されたどす黒い感情に気づき、彼女もまた自分と同じ狂気の世界に浸かった人間なのだと察知する。

 

「錫彦さんにバレて、でも……肯定してくれた。好きにすれば良いって見守ってくれた。手伝ってくれた。でも……全部『終わった』私には何もなくて……そしたら、結婚してくれって……私、もう何も残ってなくて……」

 

「よくわかんないけど、ヤベェ。弥生さんもあの爽やかイケメンも……ヤベェ。おにぃの事件ファイルNo.22『メリーさんとテケテケ事件』級にヤベェ」

 

 この狂気の世界を『ヤベェ』で済ませられるあなたも十分『ヤベェ』って気づいた方が良いわよ。リズベットは口からアップパイの欠片をポロポロと零している美桜も、何処かしらネジが外れた人種なのは違いないだろうと認定を済ませた。

 その後、茶会は意外なことに平和に進む。それぞれの当たり障りのない趣味に始まり、小さな惚気話を弥生が始めたかと思えば、静がチャンスを逃さずに翼との出会いについて語り出し、何とかお菓子の魔力から脱した美桜が噛みつき、リズベットがそれを諫める。それの繰り返しだ。

 

「そういえば……静さん……ピアノ、弾くの?」

 

 まだ声のボリュームこそ足りないが、自分から口を開くようになった弥生が指摘したのは、この広々とした静の私室に置かれたグランドピアノだ。

 

「はい。お母様が外嫁でして、世間では『悪い意味』で知名度の低いピアニストだったものでして。私もお粗末ながら手解きを受けています」

 

「『悪い意味』?」

 

 知名度に良いも悪いもあるのだろうか? リズベットが首を傾げると、静は立ち上がってグランドピアノに歩み寄る。その過程で彼女の視線は棚に飾られた、幼い彼女とよく似た女性の写真を捉えていた。

 この様子だと死別しているのだろう。雰囲気から悟ったリズベットは彼女にとって母親の話題はタブーなのかもしれないと美桜にアイコンタクトを送るが、マドレーヌをモフモフと頬張る彼女は気づく様子もない。この場においてある種の1番の大物っぷりである。

 

「お母様の演奏技術は娘としての色眼鏡無しでも世界クラスです。ですが、お母様には致命的な欠陥がありました。極度の興奮状態……具体的にはお母様は天性のサディストでして、悲鳴に浴しながら演奏しなければ、その技術を披露することはできなかったのです。ですので、お母様が演奏を披露するのは、主に真っ黒な地下劇場ばかりでして、どうしても知名度が上がらなかったのです」

 

「ヤベェ。おにぃの事件ファイルNo.48『赤灯館の混血ヴァイオリニスト事件』以上にヤベェ」

 

 むしろ、それがどんな事件なのか聞きたくてヤベェ。真剣に物悲しくも、常軌を逸した母の語りをしている静に集中したいリズベットは、必死に美桜から意識を外そうとする。

 

「ですが、やる気のない時でもお母様の演奏は素晴らしいものでした。私はそんなお母様の演奏の片鱗に触れたくて、今も教わった昔を思い出しては弾いているのですが、やはりお母様のようにはいきません」

 

 ピアノに触れて静は一呼吸入れ、演奏したのは……『ねこふんじゃった』だった。曲の選択ミスにリズベットは椅子から滑り落ちそうになる。

 何故!? そこ心を震わせるクラシックソングを奏でるところでしょう!? そう叫びたいリズベットを無視して、ノリノリで演奏する静はやり切ったとばかりに、無駄に心に響かせる演奏を披露した。

 確かに上手だ。上手だけど、やっぱり全部台無しだ。この娘、良くも悪くもド天然だ! 血涙を流したいリズベットはクッキーを頬張り、演奏の感動を飲み下そうとする。

 

「ちなみにお母様は先日階段から足を踏み外しまして、全身複雑骨折して入院中です。大祭に参加できないことを悔やんでおりました」

 

「しかも死別してない!?」

 

「そうですね。文字通り1歩間違えれば死んでいたでしょう。まったく、指を守る為に全身16ヶ所を折るなんて、お母様は大馬鹿者で、自慢のピアニストです。幸いなことに、須和先生のご紹介で名医の下で治療を受けておりまして、後遺症もなく回復が――」

 

 泣いて良いだろうか? リズベットは顔を覆ってすすり泣きたい気持ちを抑える。

 

「静様」

 

 と、そこにノックと共に入室してきたのは、皺1つないスーツ姿の大柄の男だ。不本意ながら、雰囲気で血縁者か否かが見抜けるようになってきたリズベットは、彼が『違う』部類だと区別する。

 大男は静の傍に跪くと小声で耳打ちする。すると静の双眸から感情の色が抜け落ち、あの冷たい殺意を滲ませる。

 

「そう。分かったわ。くれぐれも逸らないようにと皆に言伝を」

 

 これだから『ソトイミ』は。そう小さく呟いた静に、リズベットは自分の喉に蜘蛛の糸が絡みつき、気道を潰さんと絞めつけているのではないかと思う程の圧迫感を覚える。

 

「畏まりました」

 

 焦った様子の大男は退室するが、リズベットはその際に彼の首に並々ならぬ傷痕があることに気づく。それは致命しなかったことがおかしい程の、鋭利な刃物による切断の痕跡だった。

 

「皆様、お招きした身でありながら申し訳ありませんが、私はこれにて。また本家本邸の大屋敷でお会いいたしましょう。帰りは先程の彼、藍沢に送らせますのでご安心ください。では」

 

 にっこりと殺意を抑え込むような笑みで、だが早足で私室にリズベット達だけを残して去っていった静は、隠しきれない怒りを溢れらせているようだった。それはジョーが『ヤツメ』とヤツメ様を呼び捨てた時に匹敵していた。

 ならば、静が客人である自分たちよりも優先して動かねばならなかったのはヤツメ様絡み? すっかりアップルパイを始めとしたお菓子の虜になってしまった美桜を一瞥しながら、リズベットは少ない情報を纏め上げる。

 

「ねぇ、弥生さん。ヤツメ様とか九塚村について何か知ってる? あたしさ、実は何も知らないままこの村に来たんだ。今更聞ける雰囲気じゃないみたいで困ってて、出来れば教えて欲しいんだけど」

 

 弥生はリズベットと違って、嫁入りを前提としてこの地を訪れたことは確定している。兄にくっ付いてきた美桜は無知だとしても、彼女ならば錫彦から何か教えてもらっているかもしれない。そう期待した彼女に、弥生はイチゴジャムをたっぷり塗ったクラッカーを口元に運び、ゆっくりと味わうように顎を動かしたてから紅茶を一口だけ飲んだ。

 

「……錫彦さんは、あまり、教えてくれなかった。ヤツメ様は……蜘蛛の神様で……白髪で赤い瞳の……奇麗な娘の姿で……現れて……人の生き胆を喰らい……血を啜る。そんな……怖い神様。あとは……九塚村は……」

 

「それって神様っていうよりも物の怪なんじゃないの?」

 

 静がいたらその場でアイアンクローを繰り出しそうな危うい発言をした美桜を豪胆と呼ぶべきか、それとも空気を読まない才覚に優れていると哀れみと共に褒めたたえるべきか悩んだリズベットであるが、少なくともヤツメ様はリズベットが集めた情報通り、少なくとも大人しい神様ではなさそうだった。

 昼食替わりがお菓子というのも不健康だが、腹が膨れてしまったものはしょうがない。主無き部屋でたっぷりと村の外部から来た3人らしく、取るに足らない会話を重ねて時間を浪費したリズベットは、そろそろ阿澄邸を離れるべきかと席を立つ。

 

「私は……もう少し……ここにいる。錫彦さんが……迎えに来る……はずだから」

 

 さすがに静の私室で時間をつぶすわけにはいかないだろう弥生は、館の管理をしているという老女に連れられて別れを告げる。2人だけになったリズベット達がエントランスに赴けば、そこには静が紹介した藍沢という大男が直立不動の姿勢で迎えた。ただし、服装は先程までのスーツからラフな半袖シャツの姿に変化していた。

 

「先程は申し訳ありませんでした。ですが、どうか静様を悪く思わないでください。静様は多忙な御方。まだお若い身でありながら、紫藤家の息女として多くの務めを背負っていらっしゃる身。特に此度は大祭でありながら神子様が不在という前代未聞。『ソトイミ』も例年にない数に上っています」

 

 館の門前に止めていた黒塗りのバンから犯罪臭がするのは、断じて藍沢が若い娘2人くらいならば簡単に腕力で抑え込める大男だからでもなければ、首の傷痕と厳つい顔がどうにも危険人物として思えないからではない。断じて違う。そうリズベットは我が身に言い聞かせる。

 来た時と同様に後部座席に乗り込んだ美桜は満足だとばかりに膨れたお腹を撫でている。ブラコンではあるが、弱点を徹底的に攻撃され続けている彼女が明日までに陥落するか否かは不鮮明であるが、大祭までたっぷりと時間がある滞在期間を考えれば、どう考えても勝敗は決定づけられている。それを哀れむか否かはリズベットが見定めるべきことではない。

 

「ねぇ、『ソトイミ』って何?」

 

「……ご存知ではありませんでしたか。申し訳ありません。『そといみ』とは読んで字のごとく『外から来た忌み事』……故に『外忌』と申します。もうご存知だと思いますが、九塚村には多くの掟がございます。それを侵し、軽んじ、蔑ろにしない限り、招かれざる客さえもてなすでしょう。ですが、彼らの多くは掟を破り、外忌をもたらします」

 

 後部座席でシートベルトを装着したリズベットを確認し、周囲の安全点検を済ませるという念入りな作業を経て出発した藍沢は渋い顔をして説明する。

 要は村の外部の人間がもたらした厄介事という意味だろう。四方八方を山に囲まれた閉鎖的コミュニティらしく、外部の人間には排他的ということだろうか? だが、その一方でリズベットや美桜、翼といった外から来た人々には誰も彼もが好意的だ。

 この手首につけたヤツメ様の赤糸のお陰だろうか? だが、その割にはジョーのような観光客……もとい、九塚村を取材に来た記者などを毛嫌いする様子も村の人々には無かった。

 掟。それを守り続ける限りには、招待の有無を問わずして、彼らは客人として迎える。だが、掟を破った時にはどうなるのだろうか? リズベットは光輝の『大切な人』として村に招かれた。だが、『まだ』この村の住人ではない。この独特のコミュニティに属していない。

 

「ねぇ、掟って具体的に何があるの? おにぃも私も生徒会長にそこそこ教えてもらったけど、たくさんあるなら意図せずに破っちゃうこともあるかもしれないし、おじさん教えてよ」

 

 後部座席から乗り出した美桜に、藍沢は困ったように唇を真一文字にして唸る。

 

「私は紫藤家の使用人、狩人の小間使いですから。私の口から多くを申し上げるわけには……」

 

「別に気にしないわよ。むしろ、あたし達が掟を破ったら、それこそ静さんや藍沢さんの責任になるかもしれないわよ?」

 

 畳みかけたリズベットの言葉が利いたのだろう。自分はともかく静の不名誉になるのは避けたいように、藍沢は決心して頷いた。

 

「……決して難しいものではありません。ヤツメ様の森や大社、深殿といった禁域に踏み入ってはならない。この村で見知ったことを許可なく外に漏らしてはならない。その程度です。ですが、それさえも守れない者は多い」

 

 確かに守ろうとすれば守れる簡単なものである。だが、同時に人間には抑えきれない好奇心もあるだろう。法律で制限され、罰則が定められているわけでもない。掟という現代日本人からすれば、余りにも感覚がかけ離れている。

 だが、それが九塚村のルールなのだろう。旅行客が現地でマナー違反を意図せずに引き起こして顰蹙を買い、トラブルを起こすのは常だ。『郷に入っては郷に従え』を守ることが大事なのだろうとリズベットは納得する。

 だが、やはり掟の中心にもヤツメ様がいる。それはこの地の土着信仰という枠組みを超えた、もっと恐ろしい『何か』のような気がするのだ。リズベットは藍沢ならば、より深く突っ込んだ話を引っ張り出せるのではないかと期待を込める。

 

「ところで、狩人とか小間使いとかって何なの? えーと、確か久藤家の血縁の男が狩人なのは分かったけど、小間使いは?」

 

「小間使いは小間使いですね。私たちは狩人達に仕える者であり、ヤツメ様を共に祀っています。なので、危険なのは狩人の方々よりも我々の方ですよ。今も昔もヤツメ様に狂信して災禍を呼び寄せることも少なくありませんから」

 

 敢えて自分を危険な部類だと告げる藍沢に、リズベットは朝倉教授を重ねた。彼もまたヤツメ様に触れ過ぎた……近づき過ぎて狂い果てたのだろうか。だが、『何』を知れば、自らの内に蜘蛛を巣食わせるほどに狂えるのだろうか?

 山を下りたリズベット達が藍沢によって運ばれたのは、村の中央から少し離れた場所にある公民館だった。正確に言えば『公民館だろう建物』である。古めかしい木造の1階建ての横長の建造物は繰り返された補修の痕跡がある。公民館の正面から見て右隣には、まるで見張り塔のように白く大きな鉄塔があり、そこには蔦のように電線ケーブルが巻かれ、錆付いたスピーカーが幾つも取り付けられていた。

 

「ですが、本当によろしいのですか? 篠崎様も坂上様も客人。祭りの準備を手伝っていただけるのは喜ばしくはありますが……」

 

「あたしからのお願いなんだから別に気にしなくて良いですよ。この村のこともお祭りのことも、もっと詳しく知りたいですし」

 

 本来ならば久藤家の人々から訊き出すのが最も真っ当なのだろうが、光輝はこの期に及んでもはぐらかすだろうことは目に見えている。灯は下手にノックすれば扉の奥から欲していた以上の情報が流れ込んできそうで恐ろしい。光莉に至っては何を尋ねても『嫁入り決定』の判子を額に押されそうで別の意味で危ない。

 それにしても不気味だ。リズベットが頬を引き攣らせたのは、公民館の前に敷かれたシートの上にずらりと、まるで天日干しでもするかのように並べられた吊り贄の人形である。いずれも藁人形であり、九塚村の道中で目撃した生々しい……首吊り死体とも見紛うほどの精巧なモノとは違い、明らかに人形と分かるものばかりであるが、それでも100を超える吊り贄の人形が並んでいるともなれば、薄ら寒いモノを覚えるものだ。

 

「あ、おにぃ!」

 

「美桜! お前何処に行ってたんだよ!? 心配したんだぞ!」

 

 公民館には祭りの準備の手伝いに来たのか、あるいは静の父親との接触に『危険』を感じて隙を見て逃げ出してきたのか、翼が見目麗しい女性たちに囲まれて、頬を赤く染めてデレデレしながら妹を迎える。

 彼女たちには見覚えがある。昨日、村で出会った白依と呼ばれる巫女たちだ。ただし、今はあの独特の装束ではない。だが、半分以上が板についた和装なのは、やはりこの村のズレた感覚を象徴しているように思えた。

 主人を守ろうと勇む子犬のように美桜が歯をむき出しにして翼を美女たちの囲いから『救出』する。

 

「ちなみにジョーさんもいるぞ! 大祭という摩訶不思議のフェスティバル! その準備となれば取材するしかない!」

 

「取材しても外に漏らしたら掟違反よ」

 

 祭りの準備風景を激写していたジョーは嫌でも目に付いていた。この村の奇怪さもご褒美になるとは、ミステリーハンターと自称するのは伊達ではないのだろう。

 男衆の手伝いに向かうという藍沢と別れ、リズベットは何か手伝えることはないかと尋ねる。祭りの準備に携わってこの公民館に集っているのは女性ばかりであり、男性は翼とジョーだけだった。

 

「生徒会長のお父さんって本当に怖いんだって! こう、ニコニコ笑ってるけど目は笑ってないって言うかさ! しかもチェスに誘われてさ、てっきり強いのかなって思ったら滅茶苦茶弱いし」

 

 下手の横好き相手に接待すべきか、男として本気でぶつかるべきか、悩んだ末にどちらを選択したのかは翼にしか分からない。だが、着実に静の術中に嵌まって逃げ道を失っていることだけは間違いないだろう。リズベットは沈黙と共に合掌する。

 

「ふーむ、吊り贄か。興味深い。元々は狩人達が罪人の遺体を吊るして、その血のニオイで獣を誘うことを目的としたらしいね。だけど、時代の移ろいと共に実用されなくなり、今ではお祭りの為だけに準備するそうだよ」

 

 先んじて取材したらしいジョーの説明に、想像こそしていたが、やはりネーミング通りの血生臭い由来があったようだとリズベットは慣れたとばかりに辟易し、慣れてしまった自分に涙を零す。

 

「じゃあ、これも吊り贄なの?」

 

 リズベットが参加することになったのは竹を編んで何かを作っているグループだ。座布団を持ってきて、空けられたスペースに腰を下ろしたリズベットが覗き込めば、灯や静と同じように血が滲んだような赤色が混ざった黒の瞳を持つ美女がそっと近づく。

 

「『宴供箱』です。ヤツメ様に捧げる供物を入れる為の多重箱。これはその1番外側ですね」

 

 えんくばこ? これも慣れたことであるが、ここぞとばかりに固有名詞が飛び出してくるのは恒例行事なのだろうか? 意味を理解できていないリズベットに、美女は惚れ惚れするくらいに上品に笑った。

 

「大祭は規模こそ大きいですが、本祭の流れは例年と変わりません。狩人も小間使いもヤツメ様に供物を捧げる。これはその為の化粧箱のようなものです」

 

「く、供物? 物騒ねぇ」

 

「フフフ。聞こえは悪いですが、供物を捧げない神事や祭事を探す方が難しいですよ? 日常から切り取っても、神棚にお酒を捧げたり、先祖の墓に花を添えたりしますよね? それも立派な供物です」

 

 美女にやんわりと指摘され、リズベットは恥じて顔を俯ける。この九塚村は確かに不気味な部分も多いが、それはリズベットが無知だからだ。外部から見れば隔絶されたコミュニティはいずれも奇天烈に映るものである。

 

「そうだぞ! 篠崎さん! 世界には不思議がいっぱい溢れているんだ! この日本にも、偏見に晒されながらも信仰を守っている人々がいることをむしろ誇りに思わないといけない! それがマジョリティであれマイノリティであれ、人間の生活に宗教は付き物だ。なにせ、人類の歴史は宗教の歴史だからね! おっと、科学が神秘を暴いたなんて最高の無粋だよ? 科学こそが最大の宗教だとジョーさんは断言するからね!」

 

「ジョーさんに指摘されるとか、あたしって……ダメダメじゃん」

 

 私のことを何だと思っているんだい?! 思わず本音が漏れたリズベットに、ジョーは憤慨しながらシャッターを連射する。

 

「仕方ないことです。やはり、今の日本では神や宗教と聞けば倦厭されます。知名度の高いキリスト教や仏教でさえもそうなのですから、ヤツメ様を信じる私達が奇異に映るのも仕方ありません。私達もそれで構わないと思っています」

 

 美女は憂いを帯びた眼で丁寧に竹を編んで作っているのは猪であるとリズベットは理解し、彼女が求める短刀を慌てて手渡す。手伝いに来たとしても、作業の手順も分からないリズベットに出来るのは道具を迅速に渡すことだけだった。

 

「信徒を求めていません。他の神を否定もしません。ただヤツメ様を祀らせてください。鎮めさせてください。畏れさせてください。かねて……血を恐れたまえ」

 

 その後は黙々と作業は続き、リズベットは何か話を切り出せる雰囲気ではなかった。あのジョーさえもが自重してカメラを置き、祭りの準備を進める女衆の鮮やかな作業を見守った。

 

「かねて血を恐れたまえ……か」

 

 ヤツメ様、狩人、小間使い、そして血。見えてきたと思えば霧の奥深くに踏み入っただけであり、謎はその輪郭こそ浮き上がらせても、真実という実体を見せることはない。

 だが、少なくとも九塚村の人々は、少しばかり特殊な宗教を……ヤツメ様という神を奉じている人々。それ以上の理解は必要ないのではないだろうか? リズベットはこれから祭りの為の稽古があるという白依たちを見送り、小間使いの人々と共に後片付けをする。

 

「翼くんはどう思う? ほら、高校生探偵としての直感として、この村はヤバい?」

 

「ヤバい。絶対に事件が起きる。起きないはずがない」

 

 干されていた吊り贄を軽トラックの荷台に男衆と一緒に積み込みながら、汗だくになった額を拭う翼はリズベットの問いかけに即答する。

 リズベットが投げ渡したスポーツドリンクを受け取ると、右手の親指だけで器用にキャップを外してがぶ飲みした翼は首にかけたタオルで口元を拭う。

 

「つーか、もう起きてるかもしれない。珍しく俺が即現場遭遇していない時点で危険度AAAだ」

 

「へぇ、おにぃにとってSランクじゃないんだ」

 

「『ロンドン=ブルーブラッド事件』に比べればマシなイントロって感じ」

 

「……『アレ』と比べる時点でヤベェ。助けて! インターポールのナイスガイのおじ様!」

 

「ホントになぁ! ベリさんがいなかったら、今頃俺たちはアリゲーターの餌だぞ、美桜ぉ!」

 

「おにぃ!」

 

 抱き合ってガタガタと震える兄妹のトラウマスイッチが入ったらしく、まともな会話ができる状態ではなくなる。

 この高校生探偵(他称)はあたし並みにダイハードの連続なのではないだろうか? あの美桜さえも死んだ魚の目をするロンドン=ブルーブラッド事件とは何が起こったのだろうか。好奇心の食指が動くリズベットであるが、耐えに耐えて、とりあえずは気になる情報に触れることにした。

 

「何か『起きてるかもしれない』ってどういうこと?」

 

「えーと、なんつーか、村の雰囲気が昨日と今日で変わったと思いません? こう……ピリピリしているっていうか。クローズドサークル系事件が既に発生したっぽいっていうか」

 

 駄目だ。この高校生探偵(他称)、事件慣れし過ぎて感覚が他人よりもズレている。雰囲気の1つで事件の有無を判断されるなど、それこそ光輝の『鼻』のようなものではないかとリズベットは呆れた。

 

「うーむ、最近の若者は苦労しているんだなぁ。ジョーさんも世界中を旅していた身として、多くのトラブルに遭遇したものでね」

 

「はいはい」

 

 腕を組んで何に納得したかとも知れずに首肯するジョーを放置して、リズベットは夕暮れが近くなった空を見上げる。

 気づけは1日は間もなく終わりだ。振り返ってみれば、リズベットが無駄に詮索しようとさえしなければ、少々風変わりではあったが、穏やかに時間が流れただけだったのかもしれない。

 思えば、リズベットの目的は既に達成されたのだ。光輝はあれ程嫌っていた帰郷を成し遂げて家族と水入らずで食卓を囲んだ。ならば、リズベットの『同僚』としての仕事はもう終わったのかもしれない。

 ならば『それ以上』の関係を望んでいるリズベットして……『篠崎里香』として、この九塚村で何を知りたいのだろうか? それは知るべきことなのだろうか? 悩むリズベットは太陽と重なる白い鉄塔を見上げる。今にもトロイメライが聞こえてきそうなスピーカーに黄昏を覚える。

 と、そこでリズベットの視界に入ったのは鉄塔の頂上の、見張り台のような空間で動いた人影だった。それはおよそ人間離れした動きで、まるでハリウッドのスパイ映画かNINJAアクションでも見ているかのように、梯子も無い鉄橋を瞬く間に降りて着地する。

 それは12歳前後の女の子だった。だが、日本人ではない。鮮やかな赤毛をしたラテン系の美しい顔立ちをした少女は、その身の丈ほどの大きな黒い鞄を背負っている。

 

「……もうすぐ日が暮れる。さっさと帰れ、客人。夜は獣の時間。祭りでもないのに狩人以外は出歩くな。死ぬぞ?」

 

 流暢な日本語かと思えば、刺々しく挨拶も無く忠告され、リズベットは唖然とする。ラテン系の少女は鼻を鳴らし、重そうに鞄を背負い直しながら去っていった。

 不思議な女の子だ。だが、彼女は血縁者ではない。人間離れした運動能力ではなく、その瞳からリズベットは判断する。これまで出会った、久藤家の血縁者は全員が遺伝的特徴なのか、まるで血の赤が滲んだ黒の瞳をしていた。それは先天的な色素欠乏症の1種なのかは不明であるが、その不可思議な瞳とそこに渦巻く静謐にして混沌の殺意が見られなかったのだ。

 曖昧な感覚だ。翼くんのことをとやかく言えたものじゃない。リズベットは自分の判断基準も着実に『狂っている』ことにある種の焦りを覚えた。慣れてはいけないとは思っているのであるが、慣れるしかない境遇が恨めしかった。

 

「でもさ、意外だよね。こーんな日本の辺境のまた辺境の奥地で外国の方にお会いできるなんてさ」

 

「コラ! あの日本語聞いただろ? きっとハーフか日本生まれの日本育ちの『ハートは誰よりもじゃぱにーず』に決まってるだろ。祭りで里帰りしている人が多いんだから、彼女もその1人なんだろうさ」

 

 美桜の指摘に対して、常識的な範疇で叱る翼であるが、その頬は引き攣っている。彼もまた独自の基準で何かを感じ取っているのだろう。

 

「本当にお送りしないでよろしいのですか?」

 

「良いって良いって。もう日も暮れてきて涼しくなったし、ここからお屋敷までなら十分に歩いて帰れるからさ」

 

 送迎を命じられているだろう藍沢に、翼は気軽に断りを入れてリズベットも便乗する。昨日は静の案内である程度は村を見て回ったと言っても、それは当たり障りなく道をなぞりながら説明を受けただけだ。村について自分の足で探索する時間は無かったのである。

 旅館に宿泊するジョーとはここで別れ、リズベットは坂上兄妹と共にのんびりと歩いて、まだ見ぬ今夜の宿泊場所……美桜にも脅された大屋敷を目指す。

 まだ日数には余裕もあるが、限りなく個人で動ける時間は限られているかもしれない。ならば、出来る限り自分の目で見て回りたい気持ちがあったのだ。

 

 

 

 

「……で、ここは何処なのよ?」

 

 

 

 

 だが、道に迷いたいとまで思ったつもりはない。

 今にもカラスの鳴き声が聞こえてきそうな空の下で、リズベットは石階段に腰を下ろす美桜の足首に濡らしたハンカチを巻いていた。

 

「あとで腫れてくるかもしれないわね。知り合いに腕の良いお医者さんがいるから、後で紹介するからちゃんと治療してもらいなさい。以上!」

 

「……はーい」

 

 痛みで顔を歪めながら、リズベットに応急処置された右足をブラブラする美桜に、とりあえず骨には異常無さそうだと安心する。

 館に戻るのは良いが、このまま一直線に帰るのも面白くないと美桜が言い出し、兄の翼も同意して横道に入ったのが失敗だった。いつの間にか木の葉が舞い散る山道へと入っていた。すぐに引き返せば良かったのであるが、来た道を戻るのも惜しいと考えてしまうのが人間の悪い癖である。嫌な予感をした時は素直に反転して撤退する、というのは常にベターな選択肢なのだ。

 

「へー、篠崎さんって医者とか看護師でも目指してるんですか?」

 

 手際よく美桜に応急処置したリズベットに感心する翼に、リズベットはそんな人生もあったのだろうかと思いつつ肩を竦める。

 

「まさか。『ただの女子大生』の嗜みよ。女の子の秘密を男が探るもんじゃないわよー」

 

 SAO事件にさえ巻き込まれていなければ、とは思わない。過去は変えられないのだ。むしろ、各種応急手当や言語の習得は、SAO事件以後、VR犯罪対策室のオブザーバーになってから身につけた技術である。

 足をくじいて動けなくなった美桜を背負う姿は『お兄ちゃん』としての面目を守る為だろう。美桜がスーハーと兄の背中で深呼吸している様子から目を背けるのはリズベットの優しさである。もはや翼も妹の行き過ぎた自分への感情は把握しているのは、悲しいくらいに見て分かる。ならば、このブラコンをどう扱い、どう決着をつけるかは、リズベットの助言も必要無しに兄として翼が成すべきことなのだ。

 まぁ、日本全国探しても、兄に異常な愛情を持つ妹なんて稀有な存在は美桜くらいだろうとリズベットは楽観する。互いに火花を散らして嫌い合う光輝と灯のなんと健全な兄妹関係だろうか。

 

(そういえば、『アイツ』にも妹がいたっけ?)

 

 まだ病院にいた頃、SAO事件のPTSDに苛まれたリズベットにも『彼』の妹だという少女が訪れていた。あの時は状態が状態だっただけにまともな対応は出来なかった。

 確か名前は桐ヶ谷直葉。DBO事件の被害者名簿にも名前がある、ALOでトッププレイヤーの1人として数えられていた少女だ。さすがは兄妹というべきか、DBOでも現時点では生存が確認されている。モニターされた限りではSAOで言うところの攻略組と目される巨大ギルドのいずれにも属していないようだが、それでも高いレベルを確保しているプレイヤーの1人である。

 今も行方不明の『アイツ』とシリカが何処で何をしているのかは分からない。だが、DBO事件に何らかの形で関与していると失踪時期からVR犯罪対策室は睨んでいる。独自にDBO事件の前兆を掴んで『始末』されたのではないかという推測もあるが、リズベットは『彼』がそう簡単に死ぬはずがないと信じていた。

 だが、もしも『彼』は自分の妹がDBOにいると知った時、どんな反応をするのだろうか。仮に最悪のパターンの1つ……『彼』とシリカがDBOにログインした状態でプレイヤーとして参加を『強いられている』ならば、兄妹は出会うことができたのだろうか?

 エギルの襲撃とインプラント事件。その後の本部からの情報開示で明らかになった事であるが、1部のサバイバー……DBOの『招待状』を受け取りながらも無視したSAO事件生還者たちが変死しているのだ。

 

(後継者はあたし達サバイバーを狙い撃ちにしているけど、それは『招待状』を受け取っていながらも無視した奴らだけ。だったら、いずれはあたしも……?)

 

 事件発生当時、幾ら外国にいたとはいえ、『招待状』を送られていながらもDBOにログインしなかったリズベットにもまた、後継者の魔の手が忍び寄るのだろうか。それは確かな恐怖心であり、同時に来るならば来いと立ち向かう勇気もまた彼女の中で燃え上がる。いかなる形であれ、あちらから接触してくるならば、返り討ちにして情報を引き出すまでだ。もちろん、暴力沙汰は光輝の役目である。

 あれこれ考え過ぎるのもよろしくない。今は目の前の微笑ましい……かどうかは別として、坂上兄妹の仲睦まじさを見守るとしよう。リズベットは急斜の石階段を軽々と上る翼に、やはり荒事慣れして体力は多いのかと評価しつつ、その後を追う。

 

「やっぱり引き返した方が良いんですかね?」

 

「私もそれに1票」

 

「あたしも同意見よ。でも、今から戻ったら途中で確実に日が暮れるわよ? ここは前進あるのみ! あたしに続け!」

 

「「オウ!」」

 

 本当にノリの良い兄妹ですこと。リズベットは年上らしく彼らを先導するが、このままでは本当に夜の闇が訪れてしまうと焦心だった。掟うんぬんではなく、夜の山は危険である。足下は危うく、簡単には動けなくなる。恐怖心は歩みを鈍らせる。だが、光源になり得るといえば、リズベットも坂上兄妹も鉄屑同然の携帯端末だけだ。これでは山の夜を突破するのは厳しい。

 木の葉こそ散っているが、それなりに整備された様子の石階段だ。とりあえずはこの上を目指せば、民家なり何なりがあるかもしれない。リズベットは汗を垂らしながらも妹を背負って石階段を踏みしめる翼にエールを送る。

 

(……お地蔵さんって悪い存在じゃないってわかってるのに不気味よねー)

 

 石階段を囲むのは苔生した地蔵だ。それも1体や2体ではない。まるで森から彼女たちを見守る小人のように、無数と並んでいる。幾つかは伸びた木と一体化し、もはや数十年どころか数百年単位に亘って石階段を見守り続けているかのようだった。

 だが、リズベットが無表情のはずの地蔵たちから聞こえるのは嘲笑だった。まるで、自ら怪物の顎の内に進んでいる愚かな餌を嘲うような地蔵たちの眼を覚えてしまうのは、ゆっくりと着実に近づく夕闇の向こう側、夜の足音が耳から入り込んで骨の髄を舐めるからだろうか。

 恐怖心が足を急がせる。そうして上り切った先にあったのは寺院だった。顎を濡らす汗を手の甲で拭い、まるで参拝客を労うように竹筒を通して苔に覆われた石臼に流れ続ける湧き水を両手で掬って飲む。市販のミネラルウォーターが紛い物だと思う程に口当たりが優しく、水の豊潤な香りと味がするのは、夏の暑さが助けになっているからか。それとも喉を乾かすような、胸を締め付ける恐怖心があるからか。

 

「古いお寺ですね。あー、ヤダヤダ。寺と言えば、やっぱり『純銀千手観音トレジャーハント事件』を思い出すな」

 

「あはは。おにぃもお零れに預かれば良かったのに」

 

「時価数億円の純銀観音様をただの銀の延べ棒にしようなんていう文化の愚弄者に手を貸すほどに、お兄ちゃんはお金に困ってないし、文明人を止めてません」

 

「……おにぃのそういうトコ、カッコイイよ」

 

 あたし的にはその事件の詳細も是非とも教えてもらいたいわよ。この兄妹というよりも高校生探偵、一体どれだけのペースで事件に巻き込まれているのだろうか? 彼からすれば、九塚村は少々風習が特殊な村への小旅行に過ぎないのではないだろうか。リズベットは今度こそ哀れみを込めて涙する。

 

「それにしても不気味だなぁ。蜘蛛の巣だらけだけど、ちゃんと掃除されてるみたいだし」

 

「えーと、ヤツメ様って蜘蛛の神様なんだよね? だから蜘蛛を殺しちゃいけないって生徒会長が言ってたけど、外面悪いよねー」

 

 翼の指摘通り、寺院には蜘蛛の巣がこれでもかと張られていた。それだけではない。灯篭にまで蜘蛛が彫り込まれている。幾ら蜘蛛の神様を信仰しているとはいえ、行き過ぎではないかとリズベットは喉を鳴らした。

 

「あら、あなた達……」

 

 と、そこに現れたのは額に薄っすらと汗の粒を光らせた、リズベット達とバスを共にした、切れ長の目をした何処か危うい雰囲気があったショートカットの髪の女だった。

 

「良かったわね。反対にも階段があって、それを下りればすぐに大道に出るわ」

 

 事情を説明するとリズベット達が求めて止まなかった情報を提供した女性に、彼女と坂上兄弟は無言の勝利のハイタッチをする。あそこで引き返さない選択はやはり英断だったのだ。

 

「でも、あなた達はどうしてこの村に? 観光って様子じゃないけど……」

 

「俺は学校の……ゆ、友人? カノジョじゃないし、えーと……先輩の付き添いです!」

 

「その付き添いです!」

 

「あたしは同僚の付き添いです」

 

「付き添いだけしかいないの?」

 

 その通りだ。リズベット達3人が間抜け面を全開にした安堵感と共に全面同意すると、女性は心なしか雰囲気を緩める。

 

「私は岸間美琴。あなた達、悪いことは言わないわ。明日のバスでも良いから早くこの村から逃げなさい」

 

 だが、腕を組んだ岸間の厳しい口調に、リズベットは顔を顰め、坂上兄妹は『あー、このパターンかぁ』と何処か慣れた反応を示す。特に坂上兄妹の反応が異常過ぎたのだろう。岸間はやや驚いた様子ながらも、真剣な眼を向けた。

 

「善意で言ってるのよ。この村は異常よ。あなた達みたいな学生が遊び半分で踏み込んではいけない魔境」

 

「どういうことですか?」

 

 少なくとも、リズベットも翼も『ただの学生』ではない。故に胆力が備わり過ぎている。だが、ここは無知で無力な学生を演じるのが吉だろう。リズベットはそう判断して、やや不安そうな表情を作って尋ねる。

 岸間は周囲を警戒するように目配りすると、誰もいないことを確かめた上で灯篭に背中を預けた。

 

「……この村では毎年失踪者や死者が出ているの。それは決まって村の外部の人間」

 

「だから逃げろって横暴じゃないですか。確かにちょっと変な風習とか掟とか、時代錯誤って感じはしますけど、別にここだけの話じゃないし」

 

「そうね。でも、おかしいと思わない? この村では携帯も通じないし、インターネット回線もまともに引かれていない。それどころか、外部と連絡を取る為の電話回線だって整備されていないのよ? 個々の住居にある電話は『村の内部』だけで完結する連絡網。外と連絡を取る手段があまりにも無さ過ぎる」

 

 翼の反論に対して、予想していた通りとばかりに岸間は彼女が独自に調べただろう情報を並べる。

 確かにリズベットもおかしいとは感じていた。幾ら田舎……四方八方を山に囲まれているとはいえ、外部との連絡手段が乏し過ぎるのだ。ケイタイは本当に基地局の関係だとしても、インターネット回線が全くと言っても良い程に整備されていない。そして、岸間の言葉通り、電話回線さえも制限されているならば、それは少なくとも『外来者』には外部と連絡を取る手段が無いに等しいことになる。

 

「……おにぃ、これでもまだAAA?」

 

「いや、Sに格上げかも」

 

 さすがの翼も電話回線まで限定されているとなるならば、異常性を大きく認識するしかないのだろう。そして、岸間は駄目押しとばかりに肩にかけたショルダーバックより取り出したのは、ゴツゴツとした見た目の通話機器だった。

 

「加えて衛星電話も駄目。分かる? この土地は外部との連絡手段が乏しいんじゃない。『排除』しているの。恐らくジャミングの類ね。昨日と今日で歩き回ったけど、村の全域で使えなかった。各所に『埋め込まれてる』のか。それとも巨大な装置があるのか。どちらにしても、分かるわよね? この村は時代遅れなんかじゃない。現代技術に対して『カウンター』を準備して、意図して『閉鎖された空間』を作り出しているの」

 

 夏とは思えない冷たい風が吹き込み、リズベットは背筋を凍らせる。

 思い出したのは、昨夜温かく迎えてくれた久藤家の皆であり、村に慣れていない自分たちを茶会に招いてくれた静だ。

 彼らの善意を信じたい。だが、岸間が唐突に突きつけた情報が真実であるならば、そこにはある種の恐怖を覚えずにはいられない。

 

「ちょっとストップ。えーと、岸間さんの言い分が正しくて、この村がとんでもなくヤバいとしよう。だけどさ、だったら岸間さんも十分に怪しいんだよな。だって、そんな機器を持ち歩いていて、しかも2日かけて調べ回るなんて『異常』だろ?」

 

 確かにその通りだ。翼の言う通り、何処の世の中にGPS機能付き衛星電話を持ち歩く女がいるだろうか? 3人分の疑いの眼に、岸間は話すしかないかと言った様子で溜め息をつく。

 

「……私の姉もこの村の犠牲者の1人なの。姉は敬愛していた先輩の自殺……ううん、怪死事件を疑っていたわ。名前は久藤陽太。私も数回しか会ったことなかったけど、大らかで優しい人だった。姉はとても尊敬していたわ」

 

 久藤陽太。もしかしたら光輝さんの親戚の1人だろうか? 自殺とは穏やかではなく、怪死という表現も物騒である。だが、リズベットは黙って岸間の言葉に耳を傾ける。

 

「姉はとても好奇心が強い人間だった。タブーを恐れず、危険を鑑みない。でも、だからこそ自分の身の守り方は心得ていたわ。まぁ、オカルト対策でお守りを買い込んでいたのはちょっと危なかったけど、それでも! 姉が『崖から足を踏み外した』なんて信じられなかった。姉は家を出発する前に『ヤツメ様を調べてくる』って言い残したの。当時の私には何のことか分からなかった」

 

 またしてもヤツメ様だ。ゆっくりと闇が濃くなる世界で、リズベットはそろそろ出発しなければ本格的に日暮れを迎えてしまうこともあり、案内するように歩き出した岸間の後に続く。さすがの坂上兄妹も九塚村の異常性を認識ているのだろう。

 

「それでも、私だって区切りをつけていたわ。姉は油断しただけ。不注意だっただけ。ただの事故なんだって。姉の遺留品の……お守りの中身を見るまでは」

 

 拳を握って震える後ろ姿は、姉を奪われた怒りか、それとも村への恐怖か。リズベットにはどちらとも区別は出来なかった。

 

「姉の最後の抵抗だったのでしょうね。血塗れのお守りの中には千切られた手帳の切れ端が入っていたわ。『ヤツメ様が来る』と……一言だけ」

 

 ヤツメ様が来る。『来る』とはどういう意味だろうか? ヤツメ様は神の名だ。この九塚村で信仰されている神が実在し、岸間の姉を死に追いやったとでもいうのか? それはさすがにオカルトが過ぎるとリズベットは否定的に捉える。

 だが、その一方でこの村で出会った人々はいずれもヤツメ様を祀ることに何ら疑念を抱いていない。彼らの信仰心が何処から来るのか、まるでつかめないのだ。

 

「じゃあ、その衛星電話は……」

 

「保険よ。万が一に備えてね。でも、これでハッキリしたわ。姉は犯罪に巻き込まれて『殺された』のよ。姉はこの村の『何か』を掴んで殺された」

 

「それがヤツメ様絡み……ってわけですか?」

 

「ええ。まだ全貌は掴めていない。でも、姉は殺されるような悪人じゃなかった。好奇心は強かったけど、他人の心を踏み躙るような人じゃなかった。そんな姉が殺されて良い道理なんかない。だから悪いことは言わないわ。あなた達は明日にでも帰りなさい。この村の全てを忘れて日常に戻ることね」

 

 村に光が灯る。村の動脈とも言うべき大道に出ると岸間は他言無用とだと約束させると自分の宿泊地である旅館への道を歩き出した。

 少なからずはあった旅行感覚がすっかり消え失せ、リズベットは震えそうな体に深呼吸で新鮮な空気を送り込む。落ち着くのだ。自分が怯えては翼が……というよりも美桜が怖がってしまうではないか。予想通り、翼は『慣れている』とばかりの目付きであるが、美桜は彼の背中で小さく丸まっていた。

 

「……俺はさ、別に正義感を振りかざして『高校生探偵』なんて呼ばれてるわけじゃないんだよなぁ。そりゃあ、色々な事件に巻き込まれて、身勝手な糞から悲しい復讐者まで、たくさんの人に出会ってきたけど、俺自身は真実を暴きたいとか、被害者の無念を晴らすとか、彼らにこれ以上の罪を重ね欲しくないとか、そんなカッコイイ気持ちは無いんだ。成否はどうであれ、俺が『やらない』なら『間接的に不幸になる』ってジンクスがあって……だから『やるしかない』んだ」

 

「理不尽な人生ってわけね」

 

「そういうこと。だから、この村で事件が起きたなら俺は『やる』以外の選択肢は無い。じゃないと、今度は誰にとばっちりがいくのやら。ソイツが回り回って俺を苦しめるんだから最悪だ。本当に胸糞悪いんだよ。父親はリストラ、母親はホストと蒸発、妹は突然の兄LOVEカミングアウトに、幼馴染は不良と駆け落ちしたかと思えばアヘアヘ写真を送りつけてくるし」

 

「…………」

 

「あー、すいません。最後はセクハラとかじゃなくてマジなんですよ。俺のトラウマ。好きだった女の子のあの写真とか見たらね、もうある種の女性不信だ。まぁ、最後だけはアイツが幸せなら、アイツにとっては『不幸』ってわけじゃないんだろうけどさ、俺にとっては十分に『不幸』ですよ」

 

「おにぃ、待った。私のカミングアウトを『不幸』に分類しないでほしいな」

 

「俺にとっては十分にトラウマじゃい、ボケ」

 

 ポカポカと背中を殴る美桜を揺すり、翼は本当にどうしようもない人生を呪うように星の光が見え始めた空を見上げる。

 

「だからさ、今回くらいは見逃してくれよ、神様よぉ。生徒会長、最高じゃん。美人で金持ちで頭も良い。胸は残念だけどさ」

 

「おにぃは巨乳好きだもんね」

 

「そうそう。だから、俺のベットの下をロリ系にすり替えるのはいい加減に止めような? お前、アレを何処から調達しているのか、お兄ちゃんとっても気になるからさ。な?」

 

 あの話を聞いて、すぐに兄妹のじゃれ合いに持ち込めるのは、この兄妹も何処かで『螺子』を落としてしまったからなのか、それとも最初から外れていたのか。

 きっと後者なのだろう。少なくとも、翼は自分の人生を呪いながらも抗うことを決めているように思えた。そんな兄を唯一救えると信じているのが美桜なのかもしれない。ならば、この歪んだ形の彼らの唯一無二の信頼関係なのだと思えばこそ、リズベットは小さな羨ましさを覚えた。

 

「まっ、そういうわけなんで、篠崎さんは俺たちを気にしないで帰っちゃって良いですよ。できれば、このストーカー気質の妹を連れ帰っちゃってください。俺は残らないと。事件が起きるなら、真実を探し出すのが『探偵』の役目らしいんで」

 

「残念。あたしも撤退不可なのよ。こっちだって逃げ出して堪るものですか」

 

 あたしは帰るんだ。『現実』に帰るんだ。『リズベット』を棺に押し込めて、まだSAOにログインしたまま目覚めない『篠崎里香』として夜明けを迎えるんだ。その為ならば、この村で何が起きようとも戦ってやる。何があろうとも光輝さんの隣にいると約束したのだから。

 

「……ヤベェ」

 

 だが、この『現実』とはどう戦えば良いのだろうか? リズベットは思わず美桜のように呟いたのは仕方ないことだろう。なにせ、灯篭が吊るされ、これ見よがしに正門が開いて彼女を迎えていたのは、およそ『巨大』としか言いようがない屋敷だったからだ。

 和風でありながら和風ではない、あくまで和風チック。それは九塚村の印象だった。それをそのまま体現したような、武家屋敷でありながらも何かが違う、和洋折衷とも異なる屋敷。それは繰り返された増築によって膨れ上がり、まさしく『大屋敷』と呼ぶ他なかった。

 

「お帰りなさいませ、リズベット様、坂上翼様、美桜様」

 

 和服の侍女が下駄を鳴らして駆け寄り、3人の背中を押して大屋敷の玄関に押し進める。同時に彼女たちを待っていた正門は閉ざされ、男2人がまるで逃げ道を塞ぐように鉄製の閂をかけた。

 

「ねぇ、あたし達って、何でこんな場所にいるんだっけ? ここ1泊300万とかじゃないわよね? 大丈夫よね?」

 

「俺はそれだけの功績は残したと思ってます! 某国のお姫様のお忍び旅行中に起きた誘拐事件だって解決したし!」

 

「ちょい待ち! おにぃの事件ファイルNo.67『ロスト・プリンセス事件』は誰にも言っちゃ駄目だよ! あれは国際問題1歩手前だったんだから!」

 

 この高校生探偵もその気はなくとも世界クラスの危機を救っているのだろうか? だとするならば、この地球で一体どれだけのインターバルを挟んで大トラブルが起きているのだろうか? そんなことを気にする必要が無かった、SAO事件以前の日常が少しだけ恋しくなったが、もはや回想できない程に色褪せてしまっていて、リズベットは思わず本気で泣き出しそうになる。

 日本庭園が望める廊下を歩んだと思えば、今度は枯山水が姿を現す。2階に続く階段があると思えば、地下に続く螺旋階段。奇麗に掃除が行き届いてるかと思えば、まるで隠されたような細い廊下には埃が積もった書籍が山のように重ねられている。

 

「じゃあ、俺たちはこれで」

 

 翼曰く、この大屋敷は久藤・紫藤・草部のそれぞれの屋敷が合体している……正確に言えば、巨大過ぎる久藤本邸に呑まれた形になってしまっているらしかった。2人は目の錯覚なのか、それとも実際にそうなのか、S字に曲がっているような分かれ道の廊下を進む。リズベットは先導する侍女の背中に続いた。

 久藤家の皆様が最初にあの庶民全開のお宅でリズベットを迎えたのも納得である。初日にこんな屋敷に案内されていれば、彼女の心は決して休まらなかっただろう。

 

「普段は皆ここで住んでるの?」

 

「まさか。祭事や法事の集まりを除けば、皆様は普段使いの方を好まれています。住み込みしている小間使いの方が構造は詳しいくらいですよ。大旦那様も村にいる時は山小屋か工房のどちらかにいるのが常ですね」

 

「だったら、どうしてこんな屋敷が?」

 

 侍女の言葉通りならば、せいぜい一族全員が集まれる『普通』の屋敷で良かったのではないだろうか? リズベットの言葉は真理を突いたのか、あるいは彼女にとって実に滑稽だったのか、楽しそうにクスクスと笑う。

 

「さぁ? 私は小間使い。狩人の方々の世話をするのが役目ですので。ですが、ここで1つ。ウィンチェスターの館をご存知ですか?」

 

 有名な話だ。リズベットも知っていて頷く。銃でも有名なウィンチェスターであるが、その屋敷は繰り返された増築で奇々怪々の迷路となっているというものだ。多くの人を殺害した怨念を恐れた結果だとも言われているが、この館もまた同質なのだろうかとリズベットはごくりと生唾を飲む。

 

「私は『逆』だと思います。まぁ、これも長年に住み込んだ小間使いの独り言。お気になさらずに」

 

 逆とはどういう意味だろうか。リズベットは侍女に朝倉の背中を重ねる。彼女も同類なのだろうか? 脳髄に蜘蛛の足音を聞いてしまった、ヤツメ様の狂信者なのだろうか?

 無数の能面が両脇の壁にかけられた廊下を進んだかと思えば、リズベットの目に飛び込んできたのは古木だった。

 それは桜の木だろう。10年や100年では足りない、悠久の時を感じさせる。素人目で圧巻される存在感に足を止めたリズベットに、侍女は無理もないと言うように、惚れ惚れとした様子で桜を共に眺める。

 

「白月桜。久藤三花の1つでございます。春はおろか、1年を通して花開かぬは常。冬の寒い雪夜、凍ったように白んだ月の下でのみ咲くとされる千年桜でございます。私も小間使いとしてこのお屋敷に仕えて25年。咲いたのを見たのは1度だけ。神子様がお生まれになった年のみでございます」

 

「……白月桜。寒桜なんてさぞかし奇麗なんでしょうね」

 

「はい。咲かせるのは血の如き赤の花弁。幸運にも巡り合った歌人が是非もなく歌を詠み、ですがその美を讃えること叶わず、あるがままに愛でまた恐れたという逸話もあります。盟友の須和家がお連れになった植物学者曰く、この条件下で咲く理由は全くの謎。分かった事といえば、遺伝子的には突然変異であること。他の桜と交わることもない、世界で1本だけの孤独な桜でございます」

 

 神秘的であり、同時に侍女の言葉通りの血のような真っ赤な花弁を想像し、言い知れない恐怖心も抱く。既に太陽は無く、星々さえも呑み込むような月が夜を照らす。孤独な桜は次なる冬に花を咲かすのか、それは誰にも分らない。

 

「その一夜は大旦那様も皆に名酒という名酒を振る舞われ、狩人も小間使いも集ってあの白月桜の下で凍えながら宴を開いたものです。あれ程の美酒、もう2度と味わえませんね」

 

「神秘の桜を花見しながらの酒盛りかぁ。確かにビールが美味しくなりそうだわ」

 

 ごくりと喉を鳴らせば、侍女は嬉しそうに笑う。普通に笑うこともできるではないかとリズベットは安心した。

 やがて侍女がリズベットを案内したのは、無地の白の襖という何かを暗示するような部屋だった。腰を下ろして襖を開き、リズベットに入るように促す侍女は告げる。

 

 

 

 

「大旦那様、リズベット様をご案内いたしました」

 

「おう! ご苦労!」

 

 

 

 

 大旦那……様? 目を白黒させたリズベットが入ったのは、心地良い畳が敷かれた空間だった。夜の闇を照らすのは蝋燭……ではなく、意外と思う程に普通のLEDの電気の輝き。そこで待っていたのは、紫の座布団の上で胡坐を掻いた光輝、そして彼に似た老人だった。

 

「王手」

 

「んな!? コウ! ちっとは老い先短いお祖父ちゃまに花を持たせようって孫の気配りは無いんか!?」

 

「ほい、また王手。ちなみに角獲りな」

 

「ぬほぉ!? ま、待った! お祖父ちゃんに待ったをくれ!」

 

「どうせ詰んでんだよ、糞ジジイ。ほら、さっさと参りましたって言えよな」

 

 それは祖父と孫の微笑ましい将棋の風景……などではない。互いに今にも殴り合いを始めそうな狂犬同士の睨み合いである。

 優越感たっぷりの光輝に、プルプルと屈辱の極みを呑み込んだ様子で老人は頭を下げる。

 

「参り……ました。これでどうじゃ、馬鹿孫がぁああああ!」

 

「アン!? ヤるってのか、糞ジジイ!?」

 

「おうおう、粋がってるのぉ! ヤるってのはもちろん『殺る』って意味だろうな!?」

 

「こっちはいつでも『殺る』の意味って言ってんだよ!? 耄碌してんのか!?」

 

 ……先程までの静謐に満ちた神秘を返して。いや、こっちの方があたしにはお似合いだろうけどさ!? 泣き崩れそうなリズベットに、何とか殴り合いの衝突は止めようと紳士的に解決したらしい光輝と老人は互いの胸倉をつかむ手を放す。

 

「ほら、勝ったんだ。もうリズベットちゃんは良いだろ。挨拶済ませたし、これで終わり」

 

「馬鹿言うな。1敗するごとに1分減らすってルールじゃい。えーと、10分の約束で初めて、儂が5連敗じゃから……」

 

「6連敗だ。狩人が約束を違える気か?」

 

「数え間違えただけじゃい! 6連敗! だったら4分あるな! 良し! 今からな! 今からじゃからな!?」

 

 将棋盤を蹴り飛ばし、リズベットと光輝を並べて座らせると、威厳たっぷりに和服姿の男は颯爽と肩掛けを靡かせながら上座に腰を下ろす。

 

「ようこそ、九塚村へ。儂は大旦那とか当主とか狩長とか色々呼ばれてはいるが、名は1つ! 久藤光之助。それが儂の名だ。そこの馬鹿孫の祖父でもある」

 

 顔には無数の傷痕。特に生々しいのは、まだ癒えきっていないと分かる右目を抉りかねなかっただろう縦になぞっているものだ。そして、単に恰好をつけているだけかと思ったが、違う。この老人は左腕が無かった。手を出さぬ袖は虚しく垂れるばかりであり、この老人に何があったのかとリズベットは息を呑む。

 

「数刻前に帰ってきてな。ちょいと仕事で顔に傷を増やして腕1本失っちまった。これじゃあ大騒ぎになるじゃろう? 狩人たる者、気配を殺すのは基礎の基礎。それで、こっそりと戻ってみれば、そこの馬鹿孫が儂の代わりに挨拶してやがる。いやー、我が目を疑ってね。嫁候補を連れてくるとは聞いてたが、自分から皆様方に堂々と挨拶しておるんじゃからな! これが孫の成長かって泣きたくなっちまった!」

 

 残された右手でポリポリと首を掻き、面白おかしそうに正座してプルプルと怒りを呑み込んで震えている光輝を嗤う光之助は、やはり光輝によく似ていた。実の孫というのは嘘ではなく、むしろ彼の血を濃く継いでいるように思えたのは勘違いではないのだろう。

 ならばこそ、リズベットは勘違いされないように、それでいて堂々と背筋を張り、手を前ついてゆっくりと頭を垂らした。

 

「お初にお目にかかります。篠崎――」

 

「ああ、構わんよ。『リズベット』なんじゃろ? 儂もそう呼ぶ。名前ってのは大事だからな。嬢ちゃんが『名乗りたい』って思えるまでは儂も呼ばんでおくよ」

 

「あと3分」

 

「嘘つけ。あと3分18秒じゃ。誤魔化すなよ、馬鹿孫」

 

 この2人は本当に仲が悪いのだろう。あるいは喧嘩腰でしかコミュニケーションが取れない程に不器用なのか。少なくとも光輝は本気で嫌っているようだが、光之助の方は彼に合わせているだけにリズベットの目には映った。

 悪い人ではないのだろう。思わず頬を綻ばせたリズベットに、老人と孫は顔を見合わせ、とりあえずは休戦だと顔を背けた。

 

「……悪くない。まぁ、合格じゃな。コウ、大事にしろよ? 狩人たる者、娶った女は一生愛せ。烏の狩人がそうしたようにな。儂ら狩人は代々巨乳好きにして女好きじゃが、娶った妻を1度として裏切っておらんのが誇りじゃからな。じゃがなぁ、お前は儂に似て女遊びが過ぎるぞ。ちゃんと避妊しておるか? 何処かに『血』をばら撒いておらんじゃろうなぁ?」

 

「してねーよ。俺を何だと思ってんだよ?」

 

「んー……屑孫?」

 

 殴り合い10秒前! リズベットは指を鳴らして立ち上がった光輝の腰に抱き着き、必死に押し止める。だが、今回ばかりは光之助の指摘は正しいように思えた。少なくとも、リズベットが知る限りでは、彼女と出会う前の光輝の女関係は擁護できない程に『派手』だったのだから。

 

「それにリズベットちゃんとだって、まだ同衾してない! 今、俺……じゃなくて僕は! 彼女と清い付き合いをしているんだ!」

 

「あ、当主。訂正入れますけど、あたしは『まだ』お付き合いもしていません。プロポーズもされていません。今は『まだ』ただの同僚です」

 

 このノリならいける! リズベットのカミングアウトに、顎髭を右手で弄った老人は興味無さそうに頬杖をついた。

 

「知らん。儂は認めた。後は好きにしろ。この様子だと惚れたのはお前の方じゃろ? だったら文句は言わんよ。儂らの『血』はそういうもんじゃ」

 

 意外だ。光輝に無理矢理嫁を……いや、選んだ女を夜這いさせて既成事実を作らんと企んでいた老人とは思えない、あっさりとした宣言である。これは自分の同伴による言い訳作りは不要だったのではないかと疑う程だった。

 リズベットの困惑を見抜いたのだろう。光之助は多くの傷が刻まれた、だが、衰えても美丈夫である造形をした顔を歪める。

 

「『血』の鍛えが足りんかった昔ならいざ知らず、今なら『血』が選んだ相手ならば不足は無かろうよ。嬢ちゃんの『血』に見るべきものがあった。それだけじゃろしな」

 

 またしても『血』だ。リズベットが疑問を膨らませると、老人はクツクツと喉を鳴らして笑う。

 

「こんな話を知っておるか? 一目惚れの理由の1つは異性の『ニオイ』って話じゃよ。そこにある遺伝子情報を嗅ぎ取って、交配相手として相応しい異性を探し出す。まぁ、儂は生物学には疎いが、大いに共感した。本能はより良質な伴侶を求める! より優れた次世代を残す為に!」

 

「行こう、リズベットちゃん」

 

「おいおい、コウ。ここからが良いところなんじゃ。それでだな、儂らは許嫁やら何やらで『血』を掛け合わせる。愛する者と引き離され、決められた相手と結ばれる。そんな時代があった。まぁ、これは一昔前なら有り触れた光景なので珍しくもない。だが、いつの頃からか、儂らは自由恋愛を重視するようになった。それが『許される』ようになった。何故? 儂はこう思う」

 

 リズベットの手を引いて立ち上がらせて退室しようとする光輝を呼び止めるように、また彼女も光之助の話の続きを聞きたいと望んでしまったかのように、彼らの動きは止まる。

 

 

 

 

 

「『ただひたすらに強くあれ』。そう儂らを誘う獣血たる本能が欲しおるのさ。『この血が必要だ。この血を取り込め。この血を継がせろ。赤子の赤子、ずっと先の赤子まで』とな。だから恋愛大いに結構じゃ! 惚れた相手こそが『血』を高める最高の相手じゃからな!」

 

 

 

 

 

 途端に空気が破裂する。そう思うような豪速の蹴りが光輝から放たれる。それは寸止めなどではなく、ハッキリと光之助の顔を陥没させるルートを通っていたが、老人はまるで『読んでいた』ように軽く首を傾げて躱すだけだった。

 

「二言目にはいつも『血』だ。『血』以外に見るべきものはないのか? 俺たちの気持ちまで……心まで『血』で縛るのか?」

 

「逃れられんのが『血』さ。捨てることは出来んよ。我らに獣血が……ヤツメ様の血がある限りな。お前も灯も……そして、篝もな。いや、アイツこそが最も強く求めるじゃろうさ。『血』を高める相手を」

 

「そうかよ。4分だ。じゃあな、糞ジジイ」

 

 リズベットを引き摺るように退室した光輝は襖も締めずに部屋から飛び出す。

 無言の光輝の手は強く、リズベットの手を握りつぶしそうで、だが彼女を優しく包み込もうと必死だった。

 

「ごめん。キミにこんな話を聞かせるつもりは無かった」

 

 かつて聞いたことが無い、苦しみに満ちた謝罪。リズベットは白月桜の前で足を止める。同じく光輝も立ち止まり、彼女が望んでいると分かっているように振り返った。

 今にも泣きだしそうな顔の光輝に、リズベットは薄く笑いかける。

 

「謝ることないわよ。大体ね、事情も分かっていないあたしが怒涛の勢いで血だのヤツメ様だの言われても理解できるはずないじゃない。だから、光輝さんは何も苦しまなくて良い」

 

 光輝の頬に両手を伸ばして撫でながら、リズベットは微笑む。

 

「今日ね、たくさんの事があったの。この村を好きになれることも、怖くなることも、たくさんあった。でも、あたしは『あたしが知っている光輝さん』を見捨てない。その為にここにいる。だからさ、ちょっとは信頼してよ? もっとさ、光輝さんのことを教えて。この村のことも……『血』のことも……」

 

「……そうだね。それが1番なんだと思う。でもさ、僕はキミが思っているよりもずっと怖がりで、臆病で、弱虫なんだ。キミに全てを打ち明けたら、もう手が届かないところに逃げてしまうんじゃないかって思うくらいに……」

 

「そう。だったら、証明してあげる。光輝さんは何も教えなくて良い。あたしは自力で調べる。自力でたどり着く。それで、ちゃんと知ったあたしを見て『もう大丈夫』って思ったら、改めて全部教えて。既知も未知も全部聞いてあげるからさ」

 

 これで恋人ならば、キスの1つでも交わし合うのだろう。だが、リズベットは名残惜しそうに光輝の頬から手を離し、彼もまたそれを拒まない。無言で2人は縁側に腰かけて、春に咲かぬ千年桜に何かを求めるように見つめる。

 

「……ビール欲しいわね。神秘の桜を前に月見酒とか贅沢じゃない? 聞いたわよ。あの桜、冬しか咲かない上に真っ赤な花弁つけるらしいじゃない。しかもこの20年近くで1度しか咲いてないなんてロマンよねぇ。これぞ地球と生物の神秘にして謎って思わない?」

 

「仮想世界なら再現可能だろうけどね」

 

「そういう無粋は禁止。仮想世界は仮想世界。現実は現実。たとえ仮想世界がどれだけ現実に近づこうとも、あたしにとっては『ここ』が現実なんだ。そうしたいの」

 

 まだ鉄の城の悪夢は終わらない。たとえ、現代社会から切り離されたような不可思議な九塚村でも彼女の眠りと共に蘇る。ならば、彼女にとってのSAO事件はまだ終わっていないのだろう。だからこそ、恋い焦がれた『彼』の背中を今も脳裏にこびり付く。

 それでも、いつかは『篠崎里香』に戻りたいと望むならば、『彼』の幸福を願って見送ろう。『彼』を解放してあげよう。そして、『リズベット』も眠らせよう。

 

「ところでさ、あたしにもそろそろ『素』で接しても良いんじゃない? ちょっと野蛮で粗暴だけど、嫌いじゃないわよ?」

 

「断固拒否するね。僕はリズベットちゃんの前ではこれが『本物』って信じてるんだ」

 

 そんな他愛もない会話が夜を更けさせていく。一夜の度に満ちていく月を愛でるように、彼女たちの時は過ぎる。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

「儂、なんか悪いこと言ったかのぉ? まーたコウの野郎を怒らせてしまったわい」

 

「無理も無いかと。当主は全方位に敵を作るのがお上手ですから」

 

 あちらに良い腕の医者がいたようだ。布団で寝転がり、『食い千切られた』左腕の断面を診察させる老人に、リズベットの面会の顛末を聞いた須和は溜め息を吐いた。

 現当主にして狩長の久藤光之助は老人だ。戦前生まれである時点で年齢は察せねばならないだろう。だが、それでも体はあり得ない程に若々しく感じる。無論、その身はすでに痩せ細り、肉は減る一方で皮と骨が目立つようになってきた。だが、それでも並の成人男性では足下にも及ばない程に、そうでなくとも訓練を積んだ玄人でもこの老人を相手取るのは困難を極めるだろう。

 

「おう、言うじゃねぇか。で、どうだ?」

 

「処置は素晴らしい。腕も問題ないです。ですが、当主も無茶なさる。もう全盛期には程遠いのですから、此度の仕事は引き受けずとも良かったのでは? 今は昔と違って重火器を用いれば、大よその『獲物』は凡人でも狩れます。もはや狩人は必要とされない時代。それは当主が1番ご理解しているかと」

 

 どれだけ若々しく見えても年齢が年齢だ。体力の衰えは否めない。腕1本を失って平然と生き延びているこの老人の生命力を、今も病魔に苦しんでいる小児科病棟の子どもたちに分け与えたいものだと須和は呆れを通り越す。

 上半身だけを起き上がらせた光之助は鼻を鳴らし、布団の脇に置かれていた盆より徳利を手に取ってお猪口に注ぐと大きく煽って飲んだ。中身は日本酒……ではなく洋酒、ウォッカである。この老人は和装を大層好むが、酒だけは洋酒を好んでいた。正確には東西あらゆる酒を好む中で、どちらかと言えば洋酒の方に軍配を上げている。

 

「かー! 肝臓に浸みる!」

 

「……お酒を控えるようにと申し上げませんでしたか? さすがの当主の肝臓もボロボロです。肝硬変1歩手前ですよ?」

 

 脇に置いていたカルテを叩いて主張する須和に、光之助は無視を表明するように飲酒し続ける。老い先短いこの男からすれば、今更になって禁酒する方が寿命を縮めると信じているのだろう。もはや常世でやるべき事はやり終えた。後は死を待つばかりの老人からすれば、せめて好きなように酒を飲んで死にたいというのは至極真っ当な天寿の全うに思えて、医者として失格だなと須和は目を揉んだ。

 

「社会が発展し過ぎたな。国や軍がどれだけ隠そうとも、誰かが口を零す。カメラが回る。マスコミが嗅ぎつける。闇から闇に葬りたい不都合な『現実』って奴さ。神秘は薄れて、誰もが『常識』って奴に拘るようになった。だから儂みたいな古い人間が古いやり方で始末をつけるのが情緒ってもんさ。今回はちょいとばかし遠出した『熊狩り』だったってだけだ。腕を失ったのは儂の落ち度だ。20年ぶりの仕事で自分の体がどれだけヨボヨボのジジイになっちまってたのか実感したよ。老いたくないもんだ」

 

「……『熊』ですか。確かに生物学的分類では『熊』と呼ぶべきかもしれませんね。これ、あちらの政府が誤って逃がした遺伝子操作された『兵器』なのでは?」

 

「知らんよ。儂は狩人。昔馴染みに狩ってくれと請われたから出向いただけじゃ」

 

 今回の『獲物』の写真を手に取り、須和は是非とも解剖し、ありとあらゆるアプローチで研究したいと好奇心が疼く。だが、遺体は1部を除いてあちらに回収されている。

 

「既に当主がもらい受けた『熊』の右腕は工房に搬送し、剥製にすべく作業に取り掛かっています。近日中には問題なく仕上がるかと」

 

「そうかい。ご苦労」

 

 お前も飲め。そう言うようにお猪口を差し出され、須和は仕事中だと断ろうとするが、無理に押し付けられる。医者として患者の診療中に飲酒など言語道断なのだろうが、こうなれば老人は飲むまで離さないだろうと観念し、須和はゆっくりと高熱が帯びたようなアルコール度数の高い濃厚な液体を味わう。

 

「で、篝はどうだ?」

 

「……極めて危険な状態です。SAO事件当時とは異なり、心肺機能が特に不安定で、不整脈や心停止など、常人ならば死亡してもおかしくない状態に移行することも珍しくありません。高ストレス環境の影響か、頭髪等の色素欠乏も見られる他、接続ログを見る限りでは彼とVRシステムの根幹とも言うべき運動アルゴリズムの致命的な乖離症状がみられます。篝くんはDBOにおいて、心身共に大きなディスアドバンテージを抱えており、ゲーム内での戦闘続行及び生存は困難を極めるかと」

 

 孫の容態はやはり気になるのだろうか。須和の報告に光之助はどれだけの理解を示したのか分からないが、彼は蜘蛛のように冷え切った双眸で残された右手を見つめている。

 

「御心配ですか?」

 

「まさか。死ぬ時は死ぬ。それがこの世の定めだ」

 

 生きているならば、いずれは死ぬ。この老人は本気でそう言い放つことができる。肉親としての愛情が無いからではない。それは彼らにとって絶対なる摂理なのだ。

 ならば、老人が気にするのは何か。それは一糸纏わぬ上半身、その右胸に大きく穿たれた古傷に起因するのだろう。それは何か巨大なものが右胸を貫通した痕跡であり、この老人の人間の枠を超えた生命力を象徴している。

 

「『血』が伴侶を定め、子を成し、継承する。儂の言い分は間違っているか?」

 

「真理の『1つ』ではあるとは思います。ですが、そんな『血』の道理よりも『愛』の一言で済ませる方が美しいからではありませんか?」

 

 光之助に正面から世間話のように否を唱えられる須和は豪胆であり、だからこそこの老人は素直に受け入れる。そう示すように頷く。

 

「確かに。そう考えれば、コウもなかなかにやりおるわい。その方が良いのじゃろうな。だが、『血』は既に新しい時代を見てるぞ。VR適性じゃったな? 良かろう。足りぬならば『持っている者』と交わり、子を成せば良いだけじゃ。これまでと何も変わらん。今の儂らに『無い』としても、次代に『有る』ならば問題ない」

 

「はい、当主。VR適性がある程度の遺伝性を持つのは既に実証されています。一族のVR適性の低さは、最新設備で解明した特異なフラクトライト構造によるものが大きいかと。篝くんのVR適性の顕著な低さは『血』の濃さそのもの。ならば、『血』が濃くなった弊害としてVR適性が低いならば、克服するだけの『先天的に高いVR適性を発露しうる血』を取り込むだけです」

 

 国も企業も時代を握るVR・AR技術に高い関心を持っている。それはVRアレルギーが蔓延する日本でも変わらない。既に企業と連携してVR適性の測定が一般化し、若年層におけるVR適性リストは完成しているに等しい。そうでなくとも、日常的に使用するデバイスにすらVR・AR技術が蔓延し始めているのだ。もはやVR適性測定は体重測定と何ら変わらない程にハードルが下がっている。

 ならば、調査も容易だ。『高いVR適性保有者』を多く輩出する『家系』を特定することなど難しくない。戦闘適性の高い人物を平和な日本で探し出すよりも1000倍簡単だ。

 

「もちろん、家系など関係ない『天才型』もいます。ですが、蛙の子は蛙と申しますので」

 

 こういった『仕事』をする為にVR犯罪対策室のオブザーバーになったわけではないのだが、これも須和家の『仕事』だ。須和は後でリストを整えて光之助に渡すだけであると手土産を思い浮かべる。

 

「それはそうと、外忌はどうした? 聞いたぞ。ヤツメ様の森で淫行してたアホがいたそうじゃねぇか。そいつらが吊り贄にされていたそうじゃな?」

 

「まだ犯人は特定できていません。ですが、草部は失態を取り返そうと必死のようです。紫藤は紫藤で動き始めました」

 

 疑わしきは『狩り』ますか? 暗にそう尋ねれば、止せ止せと言うように光之助は右手を横に振った。

 

「『客人である限り』は手出しするなよ。『まだ』掟を破ったわけではないじゃろうしな。それよりも、妙だな。てっきり若い連中で『血』が抑えられん奴がやらかしたかと思ったが、やり方が『お上品』過ぎる」

 

「確かに。発見者の小間使いたちの報告通りならば、2名は自らの腸で吊られていたことになります。確かに残忍な手口ではありますが、吊り贄自体は獣を集めることを目的としたもの。このやり方は『おかしい』ですね」

 

 光之助が『お上品』と言ったように、昨晩ヤツメ様の森にて発見された死者……村に来訪した大学生グループの内の2名の遺体は、まるで吊り贄のように自身の腸で首を吊っていた。全身を刻まれ、皮を剥がされ、血が滴る様は確かに吊り贄としては効果的だ。

 だが、この遺体は余りにも残虐性を主張し過ぎている。確かに元来の吊り贄は非人道的であるが、獣を効率的に狩る為に遺体を『道具』として扱う。だが、これの目的は『吊り贄を再現する』以上には感じられないのだ。『遊び』ですらないのだ。

 

「面白くなってきたのぉ! 大祭前にこれとは血が騒ぐわい!」

 

 顎髭を撫でる光之助に、何を呑気な事を言っているのだと須和は嘆息した。

 

「……明日に来訪します結城家にはお伝えしない方が良さそうですね。彼らは耐性がありませんから。挨拶だけして帰られるでしょうし、内密に」

 

「なんじゃい。連中また祭りには出席せんのか?」

 

「したくないのでしょう。気持ちは分かります」

 

「即答せんで良いわ。まったく、結城への恩返しはあと何年だ? 儂の爺さんの約束で、120年じゃから……」

 

「あと14年です。結城には大恩があります。狩人が約束を破ったら終わりですよ?」

 

「破らんわい! 馬鹿孫と同じことを言うな! 儂は狩人として約束を守るわい! というか、あの家はあと何年お家騒動すれば気が済むんじゃ!? 儂、今年で3回も仲裁に派遣されてるんじゃけど!?」

 

 怒鳴り疲れたのだろう。光之助は布団に寝転がり、須和に明かりを消すように手を振る。相変わらず自由気ままなご老人だと須和は立ち上がった。

 

「……気を付けろよ、須和の坊主。お前さんは儂らとは違って『鼻』が利かんからな。後ろからガツンとやられたら終わりだ」

 

「ご忠告感謝します。ですが、私は誰とも知れない『狩人気取り』よりもヤツメ様の方が恐ろしいので。ヘルメットよりもべっこう飴を持ち歩くことにしておきます」

 

 そう、今回の犯人は『狩人気取り』だ。狩人ではない。血に酔った狩人でもない。狩人の真似事をした誰かだ。明かりを消した光之助の寝室から立ち去り、月光が差し込む廊下を歩みながら、須和は考える。

 大祭前で誰も彼も気が昂っている。加えて招かれざる客の多さ。彼らは不用心に、好奇心のままに、踏み込んではならない領域に立ち入る。

 

「……医者として言わせてもらうならば、死人は出て欲しくないものだ」

 

 だが、きっと新しい死者は出るのだろう。須和は諦観にも等しく溜め息を増やすだけだった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ヤツメ様という神を据える九塚村の風習と掟。意図して制限された通信環境。外部に逃げる術も限られた閉塞された空間。

 この村の不可解な要素。それは彼に『高校生探偵』として謎への挑戦に誘うだろう。

 

(だが、その前に! 俺は……脱童貞するかもしれない!)

 

 正座してガチガチに固まった翼の前にいるのは、艶めかしい寝間着姿の静だ。無論、大屋敷に相応しい和装であり、薄く白い1枚の布は帯1つで守られている。障子越しで差し込む月光は布団の上で向き合う男女を照らし、互いの本能的な部分を昂らせようと演出しているようだった。

 

「翼くん、夜分にお呼びして申し訳ありません」

 

「い、いいえぇ!? 別にぃ!? 俺は元気だけが取り柄だから!」

 

 あくまで紳士的に! まだだ! ビーストモードはまだ堪えろ! 翼は背筋を伸ばし、黒髪を妖艶に垂らす静の首筋を見つめ、その憂いを帯びた瞳に吸い込まれそうになる。

 美桜は昨晩の寝ずの番と昼間動き回った事もあり、お布団に入って3秒で夢の世界。邪魔する者は誰もいない! つまり、ここからは『大人』の時間! 俺はまだ高校生だけど、フライングで『大人』になるんだ!

 汗ばむ拳を握り、生唾を飲んだ翼に、静は意を決したように面を上げて正面から見つめる。

 

「こんな事、恥ずべきことだって分かっています。でも、翼くん以外には任せられなくて……」

 

「分かってる。生徒会長には……いや! 静さんには絶対に恥をかかせない。俺に任せて」

 

 本やらネットやらで予習は完璧だから! がっしり静の両肩をつかみ、渾身の男前スマイルを披露すると、彼女は安心したように微笑んだ。もはや理性のブレーキは崩壊寸前である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「実は……贄姫が盗まれたの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、翼の欲望の情熱に冷や水を注ぎ込むように、静は実に真面目に……『そんなつもりはない』と告げるように囁く。

 零れたのは涙。静は恥と怒りを混ぜ合わせた表情で頬を流れる涙を両手で拭う。

 

「盗まれた……の。大社の鍵が壊されていて、贄姫が……。どうしよう。今年の贄姫の管理は紫藤の役目なのに、この失態。久藤や草部の耳にはまだ入っていないみたいだけど、大祭は目前。それまでに取り返さないと……!」

 

「ちょ、ちょっと待て。贄姫って、たしか御神刀みたいなものだったね?」

 

「ええ。お願い、翼くん! 贄姫を取り返して! これはあなたにしか……高校生探偵にしか解決できない事件なの! もしも、解決した暁には……わ、私にできる事なら何でもするわ!」

 

 何でも? 何でもってつまり『何でも』? 良からぬ想像を掻き立てるワードに悶々としながらも、怯えて震えている静に、邪な想像をしている余地はないようだと翼は頭を掻く。

 

「……分かったよ。でも、探すからには生徒会長にも情報を提供してもらう。良いね?」

 

「私に出来ることなら何でもするわ」

 

「じゃあ、まずは女の子が『何でも』なんて言っちゃ駄目だ。俺じゃなかったら襲っちゃうよ?」

 

 神様よ、これが今回の事件なのか? それともその入口なのか? だが、どちらにしても事件が始まっているならば、全力を尽くすしかないのが『高校生探偵』の役目なのだ。

 今日は本当に明るい月夜だ。翼は都会では感じられない月光の眩しさを感じた時だった。

 

 誰かが見ているような気がした。誰かが障子の隙間から覗いているような気がした。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 それはまるで蜘蛛がその足で引っ掻くような音。

 

 何かが心を蝕む。まるで蜘蛛の糸が脳髄に張り巡らされたように、神経を縛り上げように、体の自由が利かず、だが首だけは堪えきれない恐怖心と好奇心に誘われるように動いて、その目を障子に運ばせる。

 

 

 

 

 

 

 

 キヒ、クヒャ、クヒャヒャヒャヒャ! そんな笑い声が聞こえそうな程に歪んだ口。月光で揺れるのは白髪。覗く左目の瞳はまるで血を映し込んだような赤色だった。

 

 

 

 

 

 

 

 途端に自由が戻り、一瞬で溢れた汗のままに跳ねるように立ち上がって障子を開ければ、そこには誰もいなかった。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 それは花弁。血のように真っ赤な桜の花弁。

 足裏の浸すのは儚い白雪の冷たさ。一呼吸の度に吸い込まれるのは冬の凍てついた空気。

 あれ? あたし……寝ていたはずなのに。リズベットはぼんやりと周囲を見回す。それは大屋敷の縁側から覗いた、白月桜を中央に得た庭園。桜以外を植えず、ただ土を盛って芝を敷いた、白月桜を愛でる為だけの造り。

 思い出せない。どうして、ここにいるのか、思い出せない。寝室に案内されて、慣れぬ屋敷の天井と布団に緊張して眠れず、瞼を閉ざして『ピナが1匹、ピナが2匹』とアインクラッド流の誘眠術を試していたことまでは憶えている。

 ああ、やっぱり夢だ。リズベットは我が身を見て理解する。それはもう袖を通すことはない、懐かしきアインクラッドでの衣装だ。腰まで伸ばしていた髪も短くなり、彼女はかつて鉄の城に囚われていた頃と同じ姿になっている。

 それにしてもリアルな夢だ。仮想世界よりも仮想世界らしく幻想的でありながら、まるで本物のような質感を持つ。それは彼女の心が望んだ風景だからなのだろうか。

 

『ねぇ、アナタは血を受け入れるの? それとも拒むの?』

 

 ならば、『彼女』もまたリズベットの心が望んだものなのだろうか?

 満開の白月桜の下で毬を突くのは、12歳前後だろう小柄な少女だ。いや、少女なのだろう。腰まで伸びた長い白髪を靡かせて、少女白依たちのような恰好をしていた。だが、細部が違う。彼女が通す白い袖には血管を示すような赤糸で文様が縫い込まれ、黒い袴より露になっているのは真っ白な肌の素足。雪風と舞う桜の中で覗かせる首筋は蜜毒のように艶やかにリズベットを誘う。

 

『呪いと海に底は無く、故に全てを受け入れる。でも、アナタはまだ悪夢の中。明けない夜。「終わり」を拒んでいる。アナタも何かに囚われたの? 狩りに? 血に? それとも悪夢に?』

 

 滴る。それは血。少女が突いていた毬をその両手で握れば、肉片と骨片と共に鮮血が零れる。

 それは毬ではなく、人頭。『リズベット』の頭だった。

 

『ああ、良い血の香り。悪夢で熟成された血の香り。素敵』

 

 振り返らないで。リズベットは『リズベット』の頭を握る少女がゆっくりと振り返る姿に瞼を深く閉ざす。見たくない『幻想』から目を背ける。

 

 

 そして、生温い風が吹き、夏が薫る。

 

 

 再び目を開けば、リズベットは真夏の……だが、冷夏の山奥らしい涼しさを微かに浸した夜風に靡かれながら、全身を汗で濡らした浴衣姿で膝を折っていた。

 夢遊病は無かったはずだが。頭痛がする額を押さえながら、当然のように花開いていない白月桜に、リズベットは弱々しく笑む。

 

 

 

 

 

 ねぇ、お腹空いたの。お姉さん……食べて良い?

 

 

 

 

 

 優しく、抱擁でもするように、だが首を糸で締め付けるように、『誰か』がリズベットの後ろから首に抱き着いた。そして、耳朶を食むように、蕩けるような熱を込めながら、だが髄まで引き攣らせるほどに冷たく囁いた。

 

 

 

 

 

 

 そして、今度こそリズベットは目を覚ます。

 

 

 

 

 

 

 それは夜明けの光。朝焼けの空を望み、リズベットは虚ろに立ち上がる。

 全ては『夢』だ。そうに決まっている。震えが止まらない体を抱きしめながら、リズベットは我が身に言い聞かせる。

 

 

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 

 

 蜘蛛の足音が聞こえた気がした。

 他の何処でもない、リズベットの耳奥で……脳髄で……魂の深奥で……蜘蛛の足音が、まるで少女の笑い声のように……聞こえた気がした。




ここは蜘蛛の巣。逃げ場などない。



次回は再び仮想世界に戻り、アルヴヘイム後編となります。


それでは、281話でまた会いましょう。

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