SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

黒獣パール、参戦。


Episode18-40 雷鳴の先

 ようやく切り抜けたはずの2対1の劣勢。だが、それは黒獣パールの参戦によって振り出しどころか、より状況は悪化を辿っていた。

 ただでさえネームド級とさえ感じた脅威を誇る黒獣。それすらも上回り、並のボスでは及ばぬと見ただけで実感させられる黒獣パールは、着実にユージーンを追い詰めていた。

 

(パールにも≪剛覇剣≫は有効なのが救いか。だが、≪剛覇剣≫のソードスキルを発動させる時間を与える気はないようだな)

 

 幸いと言うべきか、黒獣パールの雷光のアーマーも無効化できる≪剛覇剣≫ならば常に安定したダメージを与えることができる。≪剛覇剣≫そのものが武器の火力を引き上げる効果もあり、雷光のアーマーに防御面を依存する黒獣からすれば、まさしくキラースキルと呼ぶべき性能を発揮できる。

 だが、一方で嵐という環境は黒獣に分があり、雷は常に拡散して範囲攻撃と化す。また、冷たい雨は寒冷状態に持ち込むほどではないにしても精神力を削り取り、複数戦では命綱にもなり得る聴覚も雨風の音色によって遮られてしまう。STRを活かしたガードによる踏ん張りもぬかるんだ地面では滑り、黒獣の巨体によって押し込まれるばかりだった。

 黒獣パールが咆える。同時に周囲に無作為に落雷が落ちる。数十の落雷が範囲攻撃となる。初撃をユージーンが避けられたのは偶然であり、2回目の落雷は発生点である雷球が上空に発生していることを見抜き、雷球の真下を避ける位置取りをする。

 落雷攻撃は3回連続発生し、それは周囲に放出する雷撃と違って法則性を戦闘中に見抜けるとはユージーンも驕らなかった。あるいは本当にランダム発生なのかもしれないと割り切り、黒獣パールの落雷の途切れと同時に跳びかかった手負いの黒獣の爪撃をドラゴンスケイルを使った大剣のガードで凌ぐ。

 持続力はないが、防御力と武器のガード性能を高めるドラゴンスケイル。このソードスキルならぬガードスキルが無ければ、既にユージーンのHPは尽きていただろう。あくまで瞬間的に過ぎないが、ドラゴンスケイルの発動中は兜を除く鎧装備のユージーンの防御力は大きく跳ね上がり、ガチガチの重装フルメイルで防御力を引き上げたタンクすらも上回る。そして、ガード性能が高められた重量級両手剣は最高峰のガード性能を誇る大盾にも匹敵する程に攻撃を受けても揺るがず、ダメージを通さない。

 ドラゴンスケイルで耐え抜いたところでカウンター斬りを決めようとするユージーンであるが、手負いの黒獣を守るように黒獣パールは地面を素早い右前肢の連撃で3度抉る。すると3方向に分かれる雷球が地面を3度走った。それはユージーンに回避を強いる攻撃であり、絶好のカウンターのチャンスを零させる。

 そして、動けば黒獣パールは他の黒獣の比ではない、スピードタイプのモンスターなのではないかと思う程に高速で駆け回る。既に村は見る影もなく破壊し尽くされ、廃墟とも言い難い瓦礫の山となり、それでも攻撃の余波を浴び続けてポリゴンの欠片となって散り、雷雨の狭間に消える。

 ライトエフェクト部分にも攻撃判定があり、より広範囲の攻撃を可能とするソードスキルもある≪剛覇剣≫であるが、いずれもドラゴンなどの『大物喰い』に適した発動の溜めが長いものばかりであり、逆に小回りが利くソードスキルは少ない。それをカバーする為には≪両手剣≫や≪格闘≫のソードスキルを織り交ぜるのが妥当であり、隙を作る為の呪術である。

 手負いの黒獣が咆えて全範囲薙ぎ払いのバースト攻撃を放つ。頭部に集中させた青い雷光が爆ぜ、巨大なクレーターが生まれるも、ユージーンは範囲攻撃の境界線を見抜き、ギリギリのラインで踏み止まり、黒獣パールの背後から繰り出す、自分の位置に正確に発生する雷柱を更に躱す。

 予兆である足下で集中する青い雷光を見逃せば、その瞬間に全身が雷柱に呑まれる。そうなれば大ダメージは避けられない。ようやく2体を火蛇で巻き込める位置を取ったユージーンは左手の剛なる呪術の火を地面に押し付ける。発生した対象を追尾しながら連続発生する火柱は、嵐の影響で減衰こそしているが、それでも輝く炎のエフェクトを散らして黒獣パールへ……そして途中に位置する手負いの黒獣を喰らおうとする。

 だが、黒獣パールが全身を青い雷光で輝かせれば、火蛇に対抗するように雷柱ならぬ雷蛇が発生し、両者は激突して相殺……いや、力負けしたようにユージーンへと雷蛇が襲い掛かる。

 執拗に追尾しながら発生する雷柱を躱そうとすれば、手負いの黒獣が全身を震わせて黒毛をうねらせ、無数の雷球を周囲に生み出す。それはまるで風に乗ったタンポポのようにふわりふわりと浮いて散っていたかと思えば、一斉にユージーンへと襲い掛かる。全てが近接信管型なのか、威力は低くともユージーンの傍で爆発する雷球は回避しきれぬ彼のHPをじわじわと削る。

 数の少ない貴重な白亜草を食べて回復を図ろうとするが、食べたタイミング……回復行為という致命的な隙を逃すほどに黒獣パールが甘いはずもなく、10秒かけて4割回復するはずの白亜草の効果を帳消しにするように雷光を噴出して推力を得た急速タックルを繰り出す。ガードすることもできずに直撃を受け、何度も地面を転がって彼の象徴たる赤い鎧は泥塗れになる。細かい傷こそ目立つが、それでも破損はない。クラウドアース謹製の防具はボス級の黒獣パールの攻撃にも十分に耐え、なおかつ高い防御力を発揮してくれていた。

 だが、それでも回復中はカウンター判定を取られ、ダメージが引き上げられたのだろう。回復した4割はほぼ無かった状態となり、依然としてユージーンのHPは5割以下から脱することはできなかった。

 DBOにおいて初期こそ回復アイテムは入手困難であったが、ある程度のコルが集まれば、ステージ開放に伴って増えるNPC商人より燐光草や燐光紅草を大量購入することは難しくない。回復系の奇跡は数値回復であるが、DBOの回復アイテムの過半は割合回復である為、安価で回復アイテムを購入でき、なおかつアイテムストレージの消費量が低めに設定されている草系HP回復アイテムは一見すれば救済処置にも見える。

 では、どうして上位プレイヤー程に草系アイテム離れが加速するのか? それは草系アイテムには多くのデメリットがあり、また回復発生までのラグと総じて『10秒』という戦闘中では長すぎる回復時間が関与しているからである。

 たとえば、常に草系回復アイテムを使用していれば常に回復状態を維持して疑似的なオートヒーリングを実現できる。これは戦法の1つとしても有用であり、回復量で敵からのダメージ量を上回って攻撃し続ける、上位プレイヤーでも頼ることは珍しくない『ごり押し』の1つだ。だが、回復中はスタン耐性と衝撃耐性が落ち込み、なおかつ敵の攻撃が全てカウンター判定となる。軽い攻撃の連打やスリップ系ならば有用であるが、相手の火力は相応に備わり、なおかつ高いスタン蓄積や衝撃を持っていれば、この戦法は容易く瓦解し、それどころか全てがクリティカル判定になる上、更にスタン状態になる危険性もある。

 また、回復中はスタミナ回復速度が大きく落ち込み、またスタミナ消費量も増加する。この回復中にソードスキルでも放ったりすれば、それこそスタミナ消費量は甚大なものとなるだろう。

 故に大ギルドはいかにデメリットが少なく、素早く回復できるアイテムを開発するかに躍起になっている。この点で他のギルドを出し抜いてトップを走っていたのはクラウドアースだった。いち早くに≪錬金術≫の有用性をアイテム開発方面で発揮し、レシピを生み出して広めて利権を獲得し、そこから派生する有用な回復アイテム全てを権益として握ることに成功し、回復アイテム市場において絶対的なトップを守ってきた。

 だが、最近になっては神灰教会の参入によって回復アイテムや補助アイテム市場は大荒れとなっている。特に回復アイテム関連では教会が事前に計画していたこともあってか、新ジャンルの……クラウドアース系列のレシピに頼らない新回復アイテムの販売を開始した。また、エンチャント系でもヤスリなどの高威力を短時間付与できる即効性の高い分野で裾を広げ、クラウドアースのシェアを奪っている。余談であるが、回復・補助・エンチャント系アイテムの分野拡大の背後にはエドガー神父の戦略があるとされ、彼には『ナグナ事件以降に助っ人として関与している優秀な薬剤師』がいるのではないかと疑われている。

 取り出す→口に入れる→咀嚼して磨り潰すという3アクションが必要な草系アイテムよりも飲料系か雫石などの砕くタイプが主流だ。だが、砕くだけで回復できる雫石は今以ってレアドロップ品であり、また回復速度も鈍い。故にクラウドアースは教会を出し抜くべく雫石系の回復アイテム開発に着手している。その一方で、草系アイテムに比べればアイテムストレージの消費量は高いという負荷の面で足を引っ張るというジレンマもあった。

 ユージーンも今回のアルヴヘイム入りにおいて、回復アイテムや補助アイテムは選別して持ち込んでいた。彼は傭兵であり、クラウドアースの専属らしく、安価かつ優先的に最新レシピのアイテムも融通させてもらえているが、必要とあらば教会は無論、聖剣騎士団や太陽の狩猟団のアイテムの使用も辞さない。専属傭兵はある種の広告塔の役割を果たしているならば、ユージーンの無節操さは独立傭兵に近く、本来ならば咎められるべき行為だ。だが、彼は合理性を重視し、セサルもそれを認め、『あくまで優先的にクラウドアースのアイテムを使うこと』という条件でベクターも納得させていた。

 レベルアップによる上昇を除けば、アイテムストレージの拡張に必要なステータスはCONとSTRである。近接戦闘型のユージーンはこの両方を高く成長させており、また装備も≪両手剣≫以外に持ち込むメリットも無く、武器枠も2つだけに留めているために、何処かの傭兵のように馬鹿みたいに多数持ち込んだ武器によってアイテムストレージが圧迫されることもない。また≪弓矢≫や≪銃器≫のように攻撃に消費アイテム必須な武装もない為に、アイテムストレージは比較的低負荷で済む。

 そんな彼が黒獣パール戦で痛感するのは、この黒獣戦において『回復する隙がない』という点……即ち『オートヒーリングの有無』である。

 有用かつ希少な回復系スキルである≪バトルヒーリング≫こそ所有しているユージーンであるが、このスキルはあくまで『受けたダメージの幾分か回復する』ものに過ぎず、失われたHPを根本的に補うものではない。また、全プレイヤーでもユージーンはトップクラスの熟練度まで成長させているが、現段階でも≪バトルヒーリング≫は受けたダメージの4割を回復する程度だ。大ダメージならば4割も大きいが、そもそも3割分でも涙が出るほどに恩恵を受けるならば、それは致命的に追い詰められているか、勝利を得るための戦術的被弾であったかのどちらかである。

 ソロとしての立ち回りを知るユージーンならば、草系アイテムでも飲料系アイテムでも隙を狙って挟み込める。敢えて兜を装備しないのも視覚を確保する以外にも飲料系回復を迅速に使用するためという切実な理由もあった。だが、2対1では片方に対処している間にもう片方が詰めてくるために、回復するタイミングは更に削られる上に、黒獣の高火力では回復量でダメージを上回ることも期待できなかった。

 故にオートヒーリングはここぞという危機を救うものではなくとも、止まることなく回復し続けるという意味では、まさしく命綱である。常に大ダメージの危機が纏わりつくボス・ネームド戦においては心許ない回復ペースであるが、それでも長期戦になれば削りダメージや軽傷分を補填してくれる。

 魔剣ヴェルスタッドには奇跡を使用できる能力が備わっている。残り少ない魔力を回し、一時的に高い効果を得る奇跡の生命の恵みを発動してオートヒーリングを付与できれば、より積極的に攻め入ることも可能だ。

 そして、ユージーンにはこの苦境を覆すカードが『2枚』あった。だが、それを切るには相応のタイミングが必要であり、油断なく、着実に削り殺すべく手負いの黒獣のフォローに回りながらも驚異的制圧力と高火力を誇る黒獣パールのせいで使えずにいた。

 せめて1対1に持ち込めば、黒獣パールさえも押し返せるだけの必殺を叩き込める。それを見抜いているかのように、手負いの黒獣を徹底してサポートする黒獣パールには慢心が無い。あるのは冷徹な『邪魔者』の排除だ。

 そう、『邪魔者』である。それがユージーンのプライドを滾らせる。黒獣パールの青い雷光の眼にあるのは黒獣の王としての気高い誇りと闘志だ。そして、それはユージーンに向けられたものではない。ユージーンを襲うのは『邪魔者』を排除する以上の目的ではない。

 舐めるなよ、黒獣パール! ユージーンは奥歯を噛む。HPが減れば減る程に防御力が増す≪逆境≫によって、ユージーンは手負いの黒獣の爪で横腹を抉られながらも耐え抜き、左前肢に強烈な上段斬りをカウンターで押し込む。≪剛覇剣≫によって素通りしたダメージに加える。そして、引き下がったところでユージーンが取り出したのは『鉄球』である。

 反りが合わない。ユージーンは同じクラウドアースの専属でありながら、自由人であり、何を考えているか分からない戦闘狂のライドウを快く思っていない。だが、その実力は本物であり、彼の格闘戦で強敵を圧倒するバトルスタイルには一目置いていた。

 そんなライドウが唯一の中距離武器、格闘戦には足りないリーチを補う為に使用するアイテムこそ、投擲用攻撃アイテムの鉄球だ。投げナイフは刺突属性が高く『刺し貫く』ことを目的としているならば、鉄球はSTR補正が高く『打ち砕く』ことを狙うことができる打撃属性だ。ユージーンは気にくわないランク2のバトルスタイルを学習し、この鉄球の技術を獲得することによって初めて挑んだソロでのボス戦、その相手となったヴェルスタッドの鎧にダメージを重ねて防御力の低下を招き、勝利をもぎ取ることができた。

 聖剣騎士団製投擲アイテム【竜眼の鉄球】。野球ボールほどもあるそれを≪投擲≫の単発系ソードスキル【ハニーショット】で撃ち出す。その可愛らしい名前とは裏腹の、投擲用アイテムに高い誘導性を与え、なおかつ火力低下を招かない優秀なソードスキルだ。≪投擲≫スキルには投擲用アイテムにお粗末程度であるがステータスボーナスが乗って火力を高める効果もあるが、それ以上にこのスキルの有効性は投擲用アイテムを『実用化』する部分にある。

 フォーカスロックに投擲用アイテムのロックオン機能を付与するのが≪投擲≫あり、これによってプレイヤーは投擲アイテムを『当てる』ことができる。火炎壺系などの爆発系の投擲アイテムの場合は攻撃範囲が広いので≪投擲≫無しでもある程度に利用は可能であるが、小さく、また専門的な技術が要求される投げナイフなどを『動く的』に命中させるのは至難の業であり、高いプレイヤースキル……特に動体予測能力を要求する。

 プロ野球選手でも……億を稼ぐピッチャーでさえも離れたミット、狙った場所に投球することには高い集中力と技量と鍛錬が必要とされる。それはプレイヤーがどれだけステータスを高めても、仮想世界の恩恵を得ても入手できない、まさしく『技能』だ。なおかつ、高速で動き回る的の狙ったところに当てるなどおよそ尋常ではない。また、火炎壺などの爆発系アイテムにしても離れた場所、動き回る相手に的中させるのは難しい。DBOで物理エンジンが働き、放物線を描く以上は常に予測して投げねば爆発範囲で巻き込むこともできない。

 だからこそ≪投擲≫スキルは必要だ。フォーカスロック中は常に投擲攻撃にはロックオン機能がかかり、ある程度に雑に投げても狙ったところに飛ぶ。それは正しくプレイヤーの戦術の幅を広げる。また、最近ではUNKNOWNが使用しているように、≪投擲≫のロックオン機能を利用した追尾性に特化した投擲アイテムも現れ始めた。

 ユージーンの手から離れた鉄球は≪投擲≫のロックオン機能を受けて軌道に乗り、そしてハニーショットの追尾強化を受けて、あり得ない曲線をライトエフェクトの尾を引きながら描く。それは退避していた手負いの黒獣の左前肢に直撃し、同時に発生した靄のような竜の咆哮のエフェクトが黒獣の雷光のアーマーを剥ぐ。竜眼の鉄球の効果であり、命中した場所から追撃の竜の咆哮が発生してスタン蓄積と高い衝撃を与える。これは希少なドラゴン系素材から作られた生産数が少ないものであり、ユージーンも多くは所有しない投擲アイテムだ。

 ダウンした手負いの黒獣へと間合いを詰めるユージーンに、同朋の窮地に援護する黒獣パールは雷球を次々と飛ばすが、彼は止まらない。古い青涙の指輪によってHPが3割切った後も防御力は更に上昇する。それはHPの減少を意味し、同時にスキルと指輪の恩恵によって粘り強さを増幅させる。

 ここしかない! ユージーンは≪両手剣≫の単発系ソードスキル【ペイン・キス】を発動させるモーションを立ち上げた。踏み込みから捩じった上半身によって溜めた渾身の突きを穿つ、単発系ソードスキルでも高い火力ブーストを持ち、なおかつ踏み込みによる間合いの伸びが優秀である為に、ユージーンも気に入っているソードスキルの1つだ。突きであるが故に刺突属性が主軸になり、火力ブーストも刺突属性に対して高くかかるものであり、黒獣には効果的ではないが、雷光のアーマーが剥げて防御力が激減しているならば、たとえ耐性のある属性でも十分に効果的だった。

 また、ユージーンはレベル80になって新スキルで≪大力≫を獲得している。これは≪剛力≫の上位スキルで全てのSTR補正を高めるスキルであり、≪両手剣≫でもSTR重視の重量型両手剣やSTR補正を受ける剛なる呪術の火を用いるユージーンとも相性が良く、彼のただでさえ高い火力を更に引き上げている。また、STR補正を高めるとは衝撃耐性を高めることでもあり、アバターのバランスが崩れることなく果敢に攻められる。まさしくSTR特化のユージーンとは相性が良いスキルだ。

 1つ1つの積み重ねがユージーンの剣技を高めている。切っ先が手負いの黒獣の額にめり込んでいく中で、彼は雄々しく咆えた。それは声にならぬ闘志の叫びであり、雷鳴の中でも鋭く刃となって黒獣を刺し貫く殺意だった。

 

 

 

 

 

 だが、手負いの黒獣の頭上より捩じれた雷の束が降り注ぎ、『必殺技』にまで昇華されたはずのソードスキルは弾けた雷光に競り負けた。

 

 

 

 

 

 何が起きた? 確実に手負いの黒獣の息の根を止めるはずだったソードスキルは、『再展開』された雷光のアーマー共に爆ぜた雷光によって打ち消された。いや、雷光のアーマーの再展開時の雷爆発を相殺しただけソードスキルは効果を十二分に発揮してくれたと言うべきだろう。だが、ソードスキルの硬直時間を黒獣の撃破時間で稼ぐつもりだったユージーンは、大きく剣を弾かれた状態でまともに手負いの黒獣に正面から噛みつかれ、まさかの事態に混乱する。

 

「ぐおぉおおおおおおおおおおお!?」

 

 硬直時間の解除と共にSTR出力を全開まで引き上げる。余りにも急過ぎる出力の最大値までの引き上げは頭痛を呼び、嘔吐感が胸から喉までせり上がる。だが、HPが1割以下……赤く点滅するHPバーを残して脱出できたユージーンは黒獣の牙によって抉れた左腕を庇いながら、黒獣パールの雷球を躱す。

 何が起きた? 確かに手負いの黒獣の雷光のアーマーは剥いだはずだ。冷静さを取り戻そうにも赤く点滅するHPバーがうるさく、ユージーンは無作為に引っ張り出した白亜草を口内に放り込み、同時に手負いの黒獣のお返しとばかりの跳びかかりの右前肢の引っ掻きを掠める。あと数ミリも深ければ首を抉っていただろう一撃に死の足音を聞く。

 死の恐怖が全身を満たす。それでもユージーンは萎えずに闘志を繋ぎ止める。そして、黒獣パールの雷光の眼に自分が『罠』にかけられたのだと悟る。

 黒獣パールには仲間の黒獣の雷光アーマーを瞬時に復活させる能力があったのだ。恐らく多用は出来ず、使用にもリスクが伴うだろう。だが、それは黒獣の王に相応しい仲間を守る能力であり、それを武器にしてユージーンという『獲物』を仕留める策としたのだ。

 わざと黒獣パールは余裕のある自分が援護に徹し、ダメージを控えるべき手負いの黒獣に前衛を務めさせた。それはユージーンがダメージ覚悟でチャンスをもぎ取るだろうという『強者と認めた』が故の罠。必ず手負いの黒獣の雷光のアーマーを剥ぐ機会をつかみ取るだろうという先見性があったからこそだ。

 

(オレが……負ける? この『ランク1』が?)

 

 あってはならない。だが、黒獣パールの方が上手だった。自らが前衛で戦えば、より優勢に進められただろう数の利を活かせただろう。だが、ユージーンを舐めず、確実に仕留める策を準備した。そして、手負いの黒獣もまた命懸けで王の命に従い、見事にユージーンに追い詰められるまで奮戦した。

 必死に誇りを投じて燃やしていた闘志が小さくなっていく。白亜草によって無理矢理回復していこうとしても、もはや戦いのテンポは黒獣パールに握られている。回復すれば片っ端から削られ、多少のプラスが出ても、手負いの黒獣が黒獣パールの援護に重ねて攻撃してくる。

 これは本来ならばアルヴヘイムの3大ネームド戦まで、オベイロン戦まで取っておくアイテムのはずだった。ユージーンは虎の子の女神の祝福を取り出す。だが、その瞬間に見せたのは前衛の黒獣が引き下がり、黒獣パールが前に出て襲い掛かるという、プレイヤー側の十八番だったはずのスイッチだ。高速での前衛後衛の切り替えに反応が遅れ、黒獣パールの雷光を溜めた右前肢の引っ掻きに対処する為にはドラゴンスケイルしかなく、彼は左手に持っていた女神の祝福の瓶を自ら捨てるしかないという苦渋の選択を強いられる。

 爆発する雷光の爪を受け切り、お返しとばかりに斬り上げで黒獣パールの右前肢を斬りつける。ダメージは≪剛覇剣≫によって素通りするが、黒獣パールは悠然としている。

 またしてもやられた。黒獣パールはこれまでの戦闘からユージーンの『パターン』を見破っていた。強力な攻撃を敢えてドラゴンスケイルでガードし、そこにカウンターを入れる。女神の祝福が完全回復アイテムとは知らずとも、回復行動だと分かっていた黒獣パールはユージーンの勝機を……継戦能力を奪うべく、ダメージを負ってでもユージーンにドラゴンスケイルを発動させる為に女神の祝福を『捨てさせる』という誘導を行ったのだ。

 萎びた闘志を必死に繋ぎ止める為に『攻める』事を選ぶ。黒獣パールは見抜いていた。

 あそこで勝負をかけず、たとえ無様でも回避を選んでいたならば? 遠くに転がる女神の祝福の瓶を眺めながら、ユージーンは残り3割もないHPに喉を鳴らして笑う。

 

「貴様は……強いな」

 

 これが黒獣パール。伝説の赤雷の黒獣にも匹敵すると謳われるバケモノ。アルヴヘイムの深淵狩り、欠月の剣盟を以ってしても倒せなかった本物の魔獣。

 舐めていたのはオレの方だったか。心の何処かで『所詮は獣だ』と侮っていた。知性は人間に及ばないと侮っていた。そのツケが死という形で回ってきた。

 貴様もよく戦った。そうユージーンを讃えるように黒獣パールは雷光を一際大きく煌かせながら大きく跳び退き、この戦いにおいて功労を務めた手負いの獣と位置を入れ替わる。迫る手負いの黒獣はもはや起死回生の手段を失ったユージーンを倒すべく牙を剥く。

 

(スタミナと魔力は既に危険域。もはや回復を待つ時間はない。白亜草も尽き、女神の祝福も手放した。万策尽きたか)

 

 諦観は決死に代わり、ユージーンはせめて手負いの黒獣だけでも葬ると剣を構える

 

(サクヤ、オレは……)

 

 オレの剣は……お前にまで届くだろうか? ユージーンは静かに瞼を閉ざし、嵐の音色に愛しき女を求める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「諦めるとはらしくないな、『ランク1』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、猛然と突進する黒獣を弾いたのは、深淵系に弱点として働く光属性を付与した一閃。

 ユージーンを撫でたのは嵐を突き破る光の翅の風であり、それは手負いの黒獣の異形の頭部を薙ぎ払う。まさかの乱入者に距離を取った手負いの黒獣は唸り、勝利を確信していた黒獣パールも動き出す。

 

「まったく、いつも威張り散らして、自信満々で、プライドが高いくせに。1度心折れるとこうも脆いとはな。まぁ、不屈の男なんて女としては甘やかし甲斐も無いがな」

 

 皮肉と共に山吹色を帯びた白光を穂先に纏わせた槍を構えたのは、安全な場所に逃がしたはずの愛しき女だった。

 湧き上がるのは屈辱。諦観の決死は吹き飛び、ただただその背中に憤りと困惑を覚える。

 

「貴様、何故ここにいる!?」

 

 それは当然の疑問だった。わざわざ死地に戻るなどイカれているとしか言いようがない。ユージーンの切実な叫びに、それこそ何と馬鹿な事を口にしているのかと呆れた様子で『右目の瞳が蕩けて崩れた』サクヤは振り返りながら笑った。

 

 

 

 

 

「惚れた男を死なせたくない。それが女というものだろう?」

 

 

 

 

 

 唖然とするユージーンを置き去りにして、サクヤは頭上で槍を回して構え直し、背中に展開している翅を活かして空を舞い、次々と降り注ぐ落雷を躱し、急降下して手負いの黒獣の頭部に槍を振り下ろす。黒獣パールは面倒だとばかりに全身から雷球を次々と生み、飛行するサクヤへと放つ。それは高い追尾性を誇り、近接信管となってサクヤの傍で次々と炸裂する。雷爆風を浴びたサクヤのHPは減り、1度雷球の追尾を振り払うべく下降して地を這うように飛ぶが、そこに手負いの黒獣が回り込む。

 サクヤを抉るはずだった黒獣の爪を阻んだのはユージーンの大剣だった。≪剛覇剣≫の光を纏った不死廟の魔剣ヴェルスタッドは巨体の黒獣の爪と拮抗し、そのまま競り勝つどころか大きく弾き返す。

 足下に転がる女神の祝福を爪先で蹴り上げ、左手でキャッチしたユージーンは中身を一気に飲み干す。完全回復したHPは瑞々しい緑色に戻り、ここからがやり直しだと鼓舞する。

 

「……馬鹿な女だ」

 

「馬鹿な男には馬鹿な女がお似合いだろう?」

 

「否定できんな」

 

「そこは否定してくれ。馬鹿は私だけだ。私は……私のせいで、お前を苦しめることになる。だから、どうか馬鹿な女だと嘲ってくれ」

 

 背中合わせとなり、ユージーンとサクヤは自分たちを囲み、責めるタイミングを窺う手負いの黒獣と黒獣パールを無視するように笑い合う。

 サクヤにはもう『時間』が無い。黒獣との戦いはトリガーに過ぎなかった。いずれは来るべき時だった。

 

「いいや、むしろ誇りに思う。オレの目に狂いはなかった。オレの心に間違いは無かった。オレは……最高の女を愛することができた」

 

「口の上手い男は嫌われるぞ。そういう口説き文句は『次』に取って置け」

 

「ああ、そうだな。『次』はベッドの中で囁くとしよう」

 

 爆ぜるように互いに踏み込み、ユージーンは黒獣パールに、サクヤは手負いの黒獣へと斬りかかる。すでに飛行時間は残っていないのか、あるいは温存の為か、サクヤは地を足で駆ける。

 

「私のせいだ! 私が勝手に動いた! お前の言いつけを破り、自らに危機を招いた!」

 

 まるで未来が見えているような回避。サクヤは最初の1歩の踏み込みから即座に後ろに戻って落雷を躱し、更に地面に広がる雷撃を跳び越え、迫る手負いの黒獣との間合いを自ら詰める。そして、右前肢の連続引っ掻きを、ユージーンが知る彼女の技量では到底できないはずの、針の穴を縫うような跳び込みで潜り抜けていく。

 それはレギオンプログラムが与える『力』だ。それは彼女を蝕み、着実に狂わしていく。そうと知るユージーンは、黒獣パールとの決着をつけるべく、再び猛った闘志を全身から溢れさせるように大剣を振るう。

 

「フン! 貴様が黒獣の報を聞いて動かなければ、オレは軽蔑していただろうな! 我が身可愛さに怯えて身を縮こませる女も愛でる価値はあるが、貴様はそんな殊勝な愛らしさではなく、気高く凛として誇りを貫く姿こそ美しい!」

 

「だが、愚か者だ! その結果がこの様だ! お前の覚悟も踏み躙っている!」

 

「誰が『愚か』と決めた!? それを決めるのは『ランク1』だ! 貴様が助けた人々がいる! それだけで貴様を『愚か』と呼ぶ者こそが愚劣な阿呆だ!」

 

「犠牲を増やしただけだ! 挙句に見ろ! 私はレギオンプログラムに――」

 

 黒獣パールの左前肢の引っ掻きからの叩きつけ。同時に発生する巨大な雷柱。それは地面を爆ぜさせ、帯電エリアを生む。だが、ダメージ覚悟で雷撃渦巻く地を踏み抜いたユージーンは黒獣パールの弱点でもある頭部に豪快な横薙ぎを決める。

 脳髄の奥底……歯車の向こう側……ずっとずっと隠されていた扉。ユージーンは自分が際限なく高められていく高揚感を覚える。それを引き出しているのは共に奮戦するサクヤの息吹だった。

 

「それがどうした!? 何度でもオレが引っ張り戻す! 何度でも貴様を泥沼から引き上げる!」

 

 黒獣パールが動きを加速させる。雷光のアーマーが大きく輝き、倍速化したような爆発的加速によってユージーンの視界から消える。フォーカスロックが追い付かずに、巨体でありながら恐るべき小回りを利かせて背後を取った黒獣パールの顎が迫る。

 だが、ユージーンは恐れなかった。見失った瞬間に『背後を取られる』と見抜いた。本来の自分の持ち味、この嵐ではどうしても活かしきれなかった踏み込み。だが、反転しながら右足で大地を踏みしめた時、いつものように自らに芯が通る感覚が突き抜けた。

 豪快な斬り上げはカウンターとなり、噛みつきで迫った黒獣パールの頭部を縦に割る。初めて漏れた黒獣パールの絶叫。そこに追撃とばかりにユージーンは回転斬りを浴びせ、その勢いのままに振り下ろしに繋げる。

 最後の一撃は欲張り過ぎだ。ユージーンにも分かっていた。黒獣パールは反撃とばかりに頭部より雷光を爆ぜさせた。それはユージーンに大ダメージを与えるも、途端に彼のHPは回復する。 

 手負いの黒獣を相手にするサクヤの奇跡【零れた太陽の温もり】だ。遠隔回復の奇跡であり、本職は前衛ではなく、オールマイティにこなす指揮官である彼女は、当然ながら遠隔で回復できる奇跡のバリエーションを備えている。それを知らぬユージーンではなく、彼女が手負いの黒獣の攻撃を躱して距離を取ったところで奇跡のモーションを取ったタイミングを見計らって無理に攻めたのだ。

 

「2対2だ。悪く思うな」

 

 黒獣パールが咆える。周囲に無作為な落雷が迸る。上空で生まれる雷球から発生する落雷は回避に徹するしかない。だが、サクヤはまるで落雷の場所が見えているかのように、その隙間を縫って黒獣パールの背後に迫り、奇跡の【拳のフォース】を打ち込む。フォースは周囲を弾き飛ばす奇跡であり、この奇跡はその亜種であり、拳打にフォースを乗せて相手を弾き飛ばすというものだ。本来は≪格闘≫との組み合わせで活きる奇跡なのであるが、≪格闘≫持ちではないサクヤがこれを仕込んでいるのは、仲間の窮地において自らが前に出て救う為である。

 そして、この拳のフォースによって黒獣パールは前のめりに倒れる。落雷中は雷光のアーマーの恩恵が減って怯みやすくなっているのだろう。落雷もまた止まり、引っ掻きながらサクヤに反転しようとした黒獣パールの懐に入り込んだユージーンは黒獣の右前肢の関節を正確に斬り払う。引っ掻きモーション中だった黒獣パールは≪剛覇剣≫の効果で素通りしたダメージもあってか、派手に転倒する。

 

(スタミナは危険域を脱していない。ソードスキルは大技を使えて1度。2度目はスタミナ切れが確実か)

 

 CONが高いユージーンはその分だけスタミナ総量は多く、回復速度も高い。それは継戦能力を高める。だが、それはCONが倍化すれば倍の戦闘時間を得られるような単純なものではない。

 スタミナシステム。それはDBOにおいて、プレイヤーを常に苦しませ続けるシステムの1つだ。スタミナはレベルアップによっても上昇するが、同じくレベルアップで上昇するHPや基礎防御力と比較しても上昇幅は小さく、CONにポイントを振って総スタミナとスタミナ回復速度を伸ばすのが一般的である。

 あらゆる行動にスタミナ消費が伴うDBOでは、いかにしてスタミナ消費量に対してスタミナ回復量を上回らせるかがポイントだ。そして、そこで重要になるのは装備負荷だ。

 防具は高防御力を実現できる高ランクの防具ほどに、鎧などの重量が重いほどに運動によるスタミナ消費量は増える。また武器ジャンルにもよるが、総じて高重量で高攻撃力の武具ほどにモーション値に、そしてソードスキルに対するスタミナ消費量に補正がかかる。

 即ち、同じソードスキルでも武器によってスタミナ消費量は異なる。故にCONを高めれば確かに継戦能力は高まるが、ソードスキルによる消費量は武器のハイクオリティ化に伴って増加する。これはCONを高めてソードスキルをひたすらに連発することを防ぐゲーム設計である。逆に燃費が総じて良い≪歩法≫のソードスキルは装備負荷がかからず、総重量とSTR値の兼ね合いによって消費量が決定する為に、比較的CONを高めれば高める程に使用回数が如実に増える傾向がある。そして≪格闘≫は防具や格闘装具によってスタミナ消費補正が大きくかかる。

 また、ユージーンの場合はスタミナ消費量を抑える補正がつくTECが低い。これは高防御力の鎧も合わせて素の燃費の悪さを生む。故にスタミナ管理は何にも増して必要な技術であり、回復量に対して消費量をいかに抑えるか、あるいは消費量を回復量が超えるように立ち回るかが要求される。

 だからこそ、ユージーンはレベル80で獲得した新スキルにて≪緑花の加護≫を得ていた。これはスタミナ回復速度を熟練度に対応して高めるというものであり、それは僅かであっても足しとなる。そして、ユージーンが装備する指輪は≪翡翠の騎士指輪≫だ。これはスタミナ回復速度を高めるユニークアイテムだ。緑花の指輪と同じスタミナ回復速度増加を与え、スタミナが危険域にあると更に回復速度が増すという代物である。

 

(サクヤのお陰で戦いにも余裕を持てるようになった。スタミナが回復している実感がある)

 

 故にDBOではどれだけCONを高めてもソードスキルは『必殺技』であり、リスクを背負うものであり続ける。だからこそ、プレイヤーはより通常攻撃を極めるべくプレイヤースキルを……己の技量そのものを高めんとする。

 この黒獣との連戦でユージーンはソードスキルを連発し過ぎた。その負荷は黒獣パールとの戦いにおいて絶好の隙を得てもソードスキルを使えないという形でのしかかる。だが、それをユージーンは素直に受け入れる。

 スタミナ回復速度は総装備重量の消費割合によって決定する。装備重量は消費割合によってDEXとスタミナ回復速度に下方修正が入る。防具のみならず武装も込みの装備重量もまたプレイヤーのスタイルによって様々な落としどころはあるが、一般的にタンクならば80パーセント以内、回避を多用する近接プレイヤーならば50パーセント以内が目安である。これは5割の壁を超えると下方修正の度合いが高まるからであり、80パーセントを越すと事実上DEXが『死ぬ』と言っても過言ではない。なお、100パーセントを超過すると問答無用でスタミナ回復が停止する。

 防具をしっかりと固めればその分だけ装備重量も増える。遠距離主体のプレイヤーには実感が薄いかもしれないが、近接プレイヤーにとってスタミナ管理は今なお奥義の中の奥義である。

 

(体の動かし方1つでスタミナ消費量は劇的に変わる。分かっていながらも、焦って我を失った状態ではスタミナ消費を増やす無駄な動きが大きくなる。オレもまだまだか)

 

 シャルルの森以降の発汗機能などのよりプレイヤーのアバターを『肉体』に近づけた謎のアップデート。体臭は女性プレイヤーを中心に阿鼻叫喚を呼び、肩凝りは多くのデスクワークに従事していたプレイヤーを地獄に叩き落とした。だが、特にスタミナ消費が激しい近接プレイヤーが実感するのは疲労感だ。スタミナが減れば減る程に、スタミナ消費が激しければ激しい程に、まるで体が重くなるような疲労感が付き纏う。

 逆に言えば、スタミナの回復が順調であるならば、それは確かな実感にもなる。

 戦闘による脳がもたらす意識的疲労感、スタミナが与えるシステム的疲労感、そして精神の消耗という心理的疲労感。近接プレイヤーは特にこの3つの疲労との戦いでもある。膨大な情報量を捌いて瞬時の判断が求められるバトル中は否が応でも脳に負荷がかかり、スタミナシステムは体感という形でスタミナ残量を訴えて焦らせ、何よりも死に隣接した中で集中力と闘志を保つ精神は摩耗させられる。

 1度は屈しかけた。それをサクヤのお陰で繋ぎ止めた闘志は『1人』で戦っていた頃よりも猛々しく燃え盛っていた。

 

(黒獣パール、まさしくボス級と呼ぶに相応しい。だが、オレとてボスならばソロで討ち取ったことがある!)

 

 確かに黒獣パールは強い。認めねばならない。知略において、獣だと侮っていたとはいえ、自分を絶望の縁まで追い込んだ。そして、サクヤのお陰で事実上の1対1になっても後れを取らずにユージーンを攻め続ける黒獣パールは、アルヴヘイムをかつて壊滅に追い込んだ伝説と並ぶと謳われても信じられる。

 だが、ヴェルスタッドよりも弱い。ユージーンはかつて自分の前に立ちふさがったボスを……不死廟の騎士を思い出す。

 奇跡の触媒でもある巨槌を操る騎士。一撃は高VITのユージーンでも安易に踏み込めない程に重く、またコンビネーションは騎士としての絶技であり、奇跡による補助と攻撃は際限ないバリエーションと粘り強さをもたらした。

 あの時も絶望があった。死への怯えを感じた。それでも乗り越えた。つかみ取った勝利の果てに……ヴェルスタッドのソウルを得た時、自らが1つの高みへと踏み入ったのだと知った。

 

「うぐ……うがぁあああ……ユージーン……ま、まだ……か!?」

 

 サクヤの足がもつれ、左手で額を押さえて震える。彼女の左目の瞳、その輪郭がゆっくりと崩れ始めていた。必死に耐えて押し込んでいたレギオンプログラム、その『力』を引き摺り出しているが故に侵蝕が加速している。

 

「ここで終わらせる! もうしばらく耐えろ!」

 

 出し惜しみしていたわけではない。ユージーンはようやく『発動』のチャンスをつかむ。黒獣の顔面に鉄球をぶつけ、そのまま雷爪をその身で受けながら、頭部へと大剣の一閃を振り下ろす。それによってダウンとなり、黒獣の王よりついに雷光が弾けて消える。いかにボス級であろうとも黒獣の致命的な弱点……雷光のアーマーの消失による脆弱化は避けられない。そして、黒獣は皮肉にもボスやネームドではないが故に新たな能力を解放することがない。その1本のHPバーがそのまま黒獣パールの命の残量なのだ。

 仮に黒獣パールがボス・ネームドだった場合、たとえ1対1でもユージーンは死の危機に瀕していただろう。ユージーンは敬意を込めて、自分のもう1つの切り札を使う。

 

 

 デーモン化発動。彼の全身をオーラが包んで爆ぜれば、その隆々とした筋肉は更に増し、悪魔を思わす翼と2本の角が彩った。

 

 

 翼はフェアリー型のように飛行特化ではないが、多少の滑空ならば可能だ。ユージーンの双眸は禍々しいとも思える黄金色になっている。そして、湯気のように湧き上がるエフェクトは彼の輪郭に触れた風景を歪ませる。それは熱気が光の屈折を生んでいるかのようだった。

 闘争を求める心。それが肥大化していく。デーモン化時特有の戦闘への意識の先鋭化。ユージーンは自らを御するべく意識を研ぎ澄ます。悪魔型とされるユージーンのデーモン化は、翼による低距離滑空を除けば、STR強化と防御力の増幅、スタミナ回復速度増加とストレートな強化だ。だが、いつの時代もシンプルだからこそ強力な事は多い。

 幾ら雷光のアーマーが剥がれているとはいえ、黒獣パールは黒獣の王だ。ダウン状態で頭部に一撃浴び、HPを大きく減らしながらも立ち上がり、他の黒獣と違って逃げることなく、だが適度に距離を取って爪を振るいながら再展開を狙う。だが、脆弱化しているとはいえ、ボス級とまで思われた攻撃を受けてもユージーンのHPの減りは明らかに少なかった。

 デーモン化による単純な防御力の強化。加えて≪逆境≫による防御力増幅。雷光のアーマーが無く、性能が大幅に下がっている黒獣の王の爪などもはや届かない。ユージーンは残りHPを削りきるべく、轟雷渦巻く嵐を斬り裂くべく剣を掲げた。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 血だ。

 血が足りない。

 血の悦びをもっと。

 頭の中身が殺意で……飢えと渇きで真っ赤に染まる。

 喉が渇く。お腹が減った。『食欲』に変換される殺戮本能が『殺して良いのだ』と囁く。これは生理的な反応だと許しを与え、狂える殺意を生物として正当な権利だと偽る。

 レギオン化が進めば進むほどに、この殺戮本能が『紛い物』なのだと思い知らされる。得られた『力』はこれほどまでに強大なのに、こんなものは片鱗と呼ぶのも烏滸がましいと我が身に罵られる。

 

(耐えられる! お前が……お前がいてくれれば、私は必ず耐えられる! また戻って来れる!)

 

 殺したい。黒獣も、助けた人々も、ユージーンさえも、この飢えを渇きを癒す為ならば殺したくなってしまう。

 生きているのが苦しくて、1秒でも耐えただけで自我が壊れてしまいそうな程の狂気的な衝動。それは劣悪な粗悪品であり、それでも実際の『食欲』に変換されるという形で緩和されている。そうすることで自己崩壊を防ぐ。その理屈を分かってしまうのは、サクヤのレギオン化が更に促進しているが故にだった。

 手負いの黒獣のHPは残り少ない。1度でもダウンを取ればサクヤでも押し切れる。だが、素の武器の攻撃力が低い以上、エンチャントが必須のサクヤでは成体の黒獣の雷光のアーマーを剥がしきれないでいた。

 レギオンプログラムのもたらす感覚による黒獣の攻撃の先読み。それも絶対ではない。あくまで粗悪の模造品だ。『オリジナル』には届かない。成体の黒獣を相手には回避に比重を置かなければ……いや、それでも危うかった。だが、それでもサクヤ自身の戦闘経験が手負いの黒獣を釘付けにして、ユージーンとの黒獣パールの戦いに水入りさせないようにしていた。

 ああ、何と自分勝手なのだろうか。サクヤは自嘲する。あれ程に嫌悪し、恐怖していたレギオンプログラム。これが無ければ黒獣から僅かでも助けられる人々はいなかった。ユージーンの危機にも無力だった。

 決めろ、ユージーン。いよいよデーモン化を発動させたユージーンは、雷光のアーマーが剥げた黒獣パールを仕留めようとする。

 

 

 

 

 

 だが、黒獣にも『覚悟』があった。人間にも劣らぬ『誇り』があった。

 

 

 

 

 

 手負いの黒獣、それは最後の力を振り絞るように、あるいはHPがギリギリまで削れたが故に隠された能力が解放されたのか、全身の雷光が更に激しさを増した。サクヤはレギオンプログラムに教えられずとも、それが決死の……文字通りの自滅をもたらす必殺の一撃なのだと戦慄する。

 狙うのはサクヤではなくユージーン。その背中であり、自らを破壊するほどに高めた雷光でユージーンを呑み込むつもりなのだろう。

 デーモン化状態ならば耐えられるかもしれない。その確率は決して低くない。半々だろう。ならば、放っておいても大丈夫なかもしれない。

 ああ、全ては仮定の話だ。『かもしれない』で目の前の危機に対処しない。それはユージーンが望んだ『サクヤ』という人間の在り方なのだろうか?

 

 嫌だ。

 

 死なせたくない。

 

 ユージーンを……1番大好きな……世界で最も愛している人を……死なせたくない!

 

 そして決壊する。

 愛する男の危機に、サクヤの背中は蠢き、脊椎を思わす血濡れの4本の触手が伸びた。

 それは黒獣が助走をつけたタイミングで重なり合って正面から突進を受け止める。

 

「あぁあああああああああああああああああ!」

 

 殺したい。殺したい殺したい殺したい! 血の悦びを求める渇望で狂いそうになる中で、サクヤの中にあったのはユージーンを『守る』という小さな灯だった。それがレギオン化が進行する中で彼女の自我を保たせる。

 

「サクヤ!?」

 

 ようやく自分がサクヤに救われたと気づいたユージーンが叫ぶ。救援に駆けつけようとするが、遅かった。

 爆ぜる雷光はサクヤのHPを削っていくが、それでも黒獣は必殺の一撃を発動の前に封殺される。そして、受けたダメージが……削られた命が……死への恐怖心が……それでもなお愛する人を守る為に欲した『力』への慟哭が……レギオンプログラムを流れ込ませていく。

 

「……ああ、結局はこうなってしまったな」

 

 雷光が弱まった手負いの黒獣がよろめく。それを赤く点滅する自分のHPが緩やかに……あるはずのないオートヒーリングで回復していくのを見つめながら、サクヤはゆっくりと振り返った。

 もはや表情を失い、目を見開き、唇を震わせる愛する男。豪雨に打たれて立ち尽くす彼に、何をやっているのだ、と笑いかける。そんな事をしているよりも、早くパールにトドメを刺せと罵りたい。

 本当に可愛くない。サクヤは嘆息し、すっかり蕩けて崩れた両目の瞳を涙で濡らす。

 

「やっぱり私に『次』は相応しくなかったな。こんな身勝手な女ではなく、もっとマシな『次』の女を探せ」

 

「……止めろ」

 

「駄目だ。ここでお別れだ。お前を愛せて……本当に良かったよ」

 

「行くな。オレならば救える! 必ず救う! 貴様を何度でもバケモノから人間に戻してみせる! それが出来るのは『ランク1』たるこのオレの役目だ! そうであるとオレが決めた!」

 

 本当に傲慢な奴だ。だが、嫌いではない。サクヤは弱まった手負いの黒獣をせめて遠ざけるべく、ユージーンとの別れを惜しみながら背を向けて、妖精の翅を限界まで推力を引き出し、伸びた触手で黒獣を捕らえる。

 レギオン化した今ならば! サクヤは一気に黒獣を押し込む。全身の肌を破って新たな肉体が解放されていくのが分かる。ユージーンの絶叫が苦しくて、同時に嗜虐に満ちた殺意が彼を殺したいと唆す。

 黙れ黙れ黙れ! 黒獣を林の奥まで吹き飛ばしたサクヤは、大幅な弱体化をした、弱々しい雷光を纏う黒獣と対峙する。

 手負いの黒獣のHPも赤く点滅している。もはや雷光のアーマーも機能していないに等しい。弱々しくも手負いの黒獣は、だが敗北を認めぬとばかりに牙を剥き、四肢の爪で大地をつかみ、黒毛を震えさせて林を焦がす雷を生む。

 

「本当に大した奴だ」

 

 敵ながら天晴、という気分ではない。憎たらしい皮肉で手負いの黒獣を称賛したサクヤは、右腕に、そして風紋の槍に1本の触手を絡ませる。

 これが最後の一撃だ。手負いの黒獣が雷光の全てを右手の爪に集めて跳びかかり、サクヤは触手の先端と半ば同化した風紋の槍の穂先で地面を抉りなが突進する。

 雷光が爆ぜる。それは林を成す木々の吹き飛ばし、木片がポリゴンの欠片となりながら雷雨の中で降り注ぐ。だが、そこにサクヤの肉片はない。

 手負いの黒獣の決死にして誇りをかけた一撃。その直前で残りの触手3本で地面を打って跳躍を強化したサクヤは宙を跳んで回避し、翅に残された最後の余力を振り絞って高加速で降下する。

 触手を纏った槍の穂先、それは黒獣の首に穿たれ、そのまま斬り落とした。首を失った胴体は、それでもなお戦いを求めるように暴れるも、HPが尽きると同時に雷光を霧散させて動かなくなった。

 

「ハァハァ……ハァ……ハァ……は、ははは……最後に、良い、土産を、残せたかな?」

 

 アルヴヘイムでも恐怖に譬えられる黒獣の1体を葬った。『プレイヤー』として成した事としてはどれ程の事かは分からないが、アルヴヘイムでは十分に偉業だろうとサクヤはジョークにも近しい思考で意識まで侵蝕するレギオン化に抗う。

 その場で膝をつき、サクヤは空を見上げる。槍と同化させていた触手を解き、暗雲から止まることなく降り続ける大粒の雨を顔に、全身に、心に浴びる。

 

「私はここまでか」

 

 悔いはないとは死んでも言わない。後悔だらけだ。サクヤは瞼を閉ざして戦いの日々を振り返る。

 ALOのキャンペーンで有名プレイヤーとして『宣伝の為に』と運営からメールが届いた。それが悲劇の始まりだった。他の有名プレイヤーも参加しているから、という程度の理由でサクヤはちょっとした気分転換のつもりでALOとは全くベクトルの異なるDBOへのログインを決めた。

 デスゲームが始まった時、彼女には実感が無かった。SAOプレイヤーの大半がそうであったように、すぐに助けが来るはずだと盲目的に信じていた。

 やがて1部のプレイヤーがボスの撃破を成し遂げた。次々と解放されていくステージは、抗わねば生き残れないというメッセージだった。

 何とか交流を持てたALOプレイヤーと手を組んだ。大ギルドの誕生から支配への変遷を見守り、このままではプレイヤー同士による派閥争いが激化し、攻略以前の自滅の道をたどるようにしか思えなかった。だが、出遅れた彼女に出来たのは僅かな仲間たちをせめて大ギルドの争いから遠ざける事だった。

 リーファやレコンが合流し、戦力的にも豊かになり、ギルドとしても順調だった。この頃から大ギルドより『編入』や『傘下入り』の打診があった。しかし、必死になって作り上げた大ギルド内のパイプと持ち前の交渉力で中立を保った。

 ユージーンはいけ好かないが、彼女からすれば武勇だけで称賛と地位を得た姿に、ある種の憧れを覚えていた。HPがゼロになれば本当に死ぬデスゲームにおいて、安全から程遠い傭兵というジャンルで、大ギルドの専属傭兵にしてランク1という栄誉を持つ姿に、中立なんて自己満足の欺瞞を守る為に必死に地道に立ち回るしかなかった自分が情けなかった。

 だからだろう。ユージーンに、態度は別として、あのような悩み相談をされた時には、腹の中で大笑いしそうだった。傲慢不遜でこのデスゲームすらも何処吹く風で突き進んでいると思っていた男が、純粋に『ランク1』という立場と自分の実力とユニークスキルの有無について悩んでいる姿が余りにも奇天烈だったのだ。

 ああ、そうか。誰でも胸の内に苦しみを持ち、悩みながらも前に進もうと足掻いているのだ。そんな当然の事に気づけなかったサクヤは、ただ目の前の男の助力になればと思うがままに言葉を並べた。

 そうして始まったのがユージーンによる猛烈なアタックの日々だ。もう少しやり方を考えろと今思い返しても叫びたい。そして、あれだけストレートに気持ちをぶつけられていながら羞恥心と先入観のあまりに、彼の気持ちに向き合おうとしなかった過去の己を殴り飛ばしたい。サクヤは自嘲しながら、亀裂だらけの穂先を見つめる。

 

「私は誰も殺さない。私が『私』で……ある……限り!」

 

 殺したい。喰らいたい。貪りたい。もはや止まらぬ殺意の奔流。もはやレギオン化は止まらず、彼女の自我は『上書き』されてレギオンへの変質が始まっている。ユージーンの喉に喰らい付きたいという渇望への禁忌さえもいずれは感じられなくなり、単なる食欲と血の悦びを満たす為の獲物以上には思えなくなるだろう。

 そんなのは嫌だ。サクヤは槍を逆手で握り、まだ鋭利さを失わぬ穂先を自身の心臓に向ける。決して火力は高くない上に、今はオートヒーリングまで備わっている。幾ら心臓部への攻撃でクリティカル判定でも相応の時間がかかるだろう。

 その程度の恐怖ならば耐えられる。死への恐怖ならば我慢できる。それよりも恐ろしいのは、ユージーンへの気持ちを抱いた『自分』がレギオンに『上書き』されて失うことだ。それはもはやサクヤと呼べない、『レギオンとしてのサクヤ』だ。

 

「すまない、フェアリーダンスのみんな」

 

 自分がいなくなった後のフェアリーダンスは果たして中立を保てるだろうか? リーファは政治に疎いが、レコンには見るべきものがある。だが、大ギルド相手には立ち回るには厳しい。何にしても、ユージーンに……クラウドアースに大きな貸しを作ったフェアリーダンスの今後は厳しいものになるだろう。出来れば自分が奮戦したいが、もはやそれは叶わぬ夢だった。

 

「すまない、レコン」

 

 ユージーンとクラウドアースを動かした手腕は見事だ。だが、きっとユージーンを真に動かしたのは話術ではなく、リーファを助けたいという真っ直ぐな心だったはずだ。どうかそれを失わないでほしい。心を動かすのはいつだって熱意だ。たとえ、気持ちを得られずとも、その想いを無下にする程にリーファは薄情ではない。いつも頼りないが、ここぞという時は誰よりも爆発的精神力と意外性を見せてくれたレコンを思い出し、サクヤは彼がどんな形でも報われる日を願う。

 

「すまない、リーファ」

 

 重い枷を背負ったリーファの心には暗い影が差し込んでいるだろう。自分のせいで犠牲になった。自分が見殺しにした。そんな風に背負う必要はない。個々など川に流れる木の葉のようなものであり、大勢を動かすには余りにも微々たる存在だ。だからこそ、誰かと手を取り、変えようと努力する。リーファには仲間がいる。このアルヴヘイムでも多くの味方がいる。ならば大丈夫だ。サクヤは再会できなかった仲間にして友人の笑顔を祈る。

 

「会わなくて、正解だったか」

 

 ああ、そうだ。リーファにはもう1つ背負わせてしまう事になる。彼女がオベイロン打倒を誓う理由の1つは自分を助け出すことだったはずだ。サクヤは爪が禍々しく伸び始めている己の手に嗚咽を堪える。彼女がユグドラシル城についてもサクヤはいない。ただただ無為な空虚感が彼女を包むだろう。そして、それがサクヤの死を教えるだろう。DBOに戻った時に、死者の碑石で自分の名前に入った一線を見つけて、彼女は崩れ落ちるかもしれない。

 それでも、レギオン化した……ただのモンスターよりもおぞましい本物の怪物に成り果てる自分を見せなくて済む。彼女はきっと『自分のせいでこうなった』と己を責めるだろう。そういう優しい女の子なのだとサクヤは知っていた。

 

「……ユージーン、愛しているよ」

 

 だから、もう良いんだ。

 もう私は『過去』にしてくれ。

 私のような馬鹿な女は思い出にして、『ランク1』として相応しい道を歩んでくれ。お前ならばきっと出来るはずだ。きっと救えるはずだ。全てのプレイヤーにとって希望になるような英雄になれるはずだ。

 

「お前の……お前の隣で、その姿を……見たかった、なぁ……!」

 

 もう涙は堪えなくて良いのかもしれない。ボタボタと溢れる雫は冷たい雨の中でただただ熱く、レギオンに蝕まれながらも己の心は未だに『人』なのだと……『サクヤ』なのだと感じられる。

 新しく背中から2本の触手が増えた。血を滴らせ、脊椎を思わす形状だったそれは、まるでサクヤに適応して新たな姿を模索するように肉付けを始める。

 させるものか。私は『私』である内に決着をつける。サクヤは涙を拭わず、いつものように勝気に笑んで、槍の穂先を自分の胸に向けて振るった。

 

「私の勝ちだ、レギオン。私は『私』で……貴様に勝つ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、胸を貫くはずだった穂先は止まる。他でもないサクヤ自身の手が動かなくなり、心臓を貫くことなく止まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうして? 何故!? サクヤはあと数ミリの距離を残して止まった槍の穂先に、まるで石化したように動かない両腕に声にならない叫びをあげる。

 だが、動かない。心臓を貫くことはできない。肉付けされ始めた6本の触手が視界で蠢く。それはレギオンの象徴。その鋭利な先端はまるで槍の穂先のようだった。

 

「あぁ、あぁああ、あぁああああああああああああああああああ!?」

 

 分かってしまう。悟ってしまう。気づいてしまう。

 レギオンプログラムは生命を損失させる『無意味』な自傷行為を禁じているのだ。

 たとえ劣化品であろうとも、これほどまでに狂気に満ちた耐え難い狂気そのものである殺戮本能を搭載しているからこそのセーフティ。自己崩壊を最大限に防ぐための『母』の処置。

 

「死なせて! 死なせてくれ! 私を……『私』のまま死なせてくれ!」

 

 何度も何度も槍を突き立てようとする。触手で自分の首をもぎ取ろうと、全身を貫こうとする。だが、出来ない。それは許されていない。

 狂乱して泣き叫びながら、最後の救いが失われ、サクヤは脆弱なる自我がレギオンプログラムの侵蝕に歯止めが利かなくなっていくことを自覚する。もう耐えられない。もう時間が無い。全てが『上書き』されてしまう。サクヤはサクヤのまま『サクヤ』を失い、完全なる『レギオンとしてのサクヤ』に生まれ変わる。

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! フェアリーダンスのみんなが知る、リーファが知る、何よりもユージーンが愛してくれた『サクヤ』が失われる。

 自ら死を選ぶ矜持さえ許されないのか。怪物に堕ちる事を望まぬ意思さえも貫くことは認められないのか。口内で犬歯が伸び、肩が蠢いて腕の骨格を変異させようとする芽吹きを感じる。それが恐ろしくて、サクヤは救いを求めて手を伸ばす。

 

 そして、聞こえてきたのは足音。

 

 後ろからではなく、手を伸ばした前から……林の奥から聞こえてきた、雨を啜った木の葉を踏む優しい足音。

 

 止まらぬ風はその美しい白髪を靡かせ、赤が滲んだ黒の瞳は混沌に満ち、存在は恐怖そのもの。

 

 知っている。サクヤは知っている。2つの意味で……知っている。

 

「……【渡り鳥】」

 

 全てを焼き尽くす凶鳥。不条理と破滅をもたらす死神。殺戮の権化。

 リーファの紹介で依頼をした時、気品に溢れた佇まいから噂は噂かと納得し、バトルオブアリーナの戦いぶりで少なからずの恐怖心を植え付けられながらもリーファの信用に根負けして、その後も何かと小さな依頼を出す程度には関わってきた。

 それ以上は何も知らない。

 何も知らないはずだった。

 だが、サクヤには分かってしまった。模された劣悪品のような、自分をここまで狂わしてもなおオリジナルの片鱗とも呼べぬレギオンプログラムの真髄、殺戮本能。それのオリジナルは何処から来たのか。『誰』から生まれたのか。そして、自分が『レギオンとして』頭を垂れるべき相手も。

 

 

 ああ、我らの王。レギオンの王よ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「……【渡り鳥】」

 

 驚愕に呑まれた、涙に濡れたサクヤの瞳は蕩けて崩れている。それは欠月の剣盟にも見られた症状……レギオン化の兆候だ。

 どうしてサクヤが? そんな疑問を持つべきではないのだろう。オベイロンにはレギオンの助力がある。それは廃坑都市の時点で判明していた。ならば、チェンジリングの被害者であり、推定としてオベイロンに囚われていただろう彼女が、何らかの理由でレギオン化させられていたとしてもおかしくはない。それは考えたくはなかったが、あり得るパターンの1つとして想定できたことだ。

 だが、どうして彼女がこんな場所にいる? この先には黒獣がいるはずだ。だが、近くには黒獣の……オレが戦ったよりも更に巨大な黒獣の亡骸がある。跳ね飛ばされた首を見るに、サクヤが討伐したのだろう。

 何も結びつかない。どうして目の前でレギオン化している途中だろう、触手を蠢かせたまま座り込んでいるサクヤに、オレは1歩近寄る。だが、それよりも先に震える体を抱きしめるように触手を振り回しながらサクヤは自力で立ち上がった。

 

「頼む、私を……殺して、くれ」

 

 小さく伸びた、今も成長を続ける鋭い犬歯。蕩けた瞳を抱く眼球の白目は血走り、側頭部付近からは白い角のようなものが1対突き出し始めている。指の爪は黒ずんで太く曲がり、まるで鉤爪のようになっていた。

 止まらない変異。だが、サクヤの『命』は今もそこにある。感じられる。彼女の『命』は今まさにレギオンに侵食され、歪められ、儚い。

 

「お願いだ、殺してくれ。いきなり、こんな……事……間違ってるって……分かってる。だが、もう……耐えられない! 殺したくて堪らない。飢えと渇きが消えないんだ。消えないんだ! 殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて堪らない! ユージーンを食べたい! 彼を貪りたい! その血肉を残さず! アヒャ、クヒャ、クヒャヒャヒャ……! だ、だから、だから……止めて、くれ。私はもう私を止められない! 止めたいと思えなくなる! 私が『私』じゃなくなる!?」

 

 泣き叫びながら触手を暴れさせ、林の木々を薙ぎ倒し、サクヤは泣き叫んで手を伸ばす。レギオンへの変質を止めない右手を伸ばす。

 

「お願いだ、【渡り鳥】。私が……私が『私』である内に……殺して、くれ!」

 

 制御が利かないのは彼女の抗いの証なのだろう。6本の触手はオレを遠ざけるように荒れ狂い、その様は嵐の雷雲よりも激しい。

 サクヤを殺す? オレは甘美な誘いにリーファちゃんの笑顔を思い浮かべる。もしかしたら、リーファちゃんもレギオン化させられているのかもしれない。だが、それは今ここで考慮すべき案件ではない。

 オレにとって、アインクラッドが終わった後の日々は……この血を……狩人の血を……ヤツメ様の血を……自分の本性を忘れることができた、大切な日々だった。オレが『人』として平凡だけどそれなりに悪くない日々を送れた時間だった。どれだけ灼けても、たくさんの思い出せないことばかりになったけど、それでも欠片の1つ1つがオレにとっては宝物だ。

 それをくれたのがリーファちゃんだ。直葉ちゃんなんだ。こんなオレに、真っ当に生きられるかもしれないと思わせてくれた。その為に歩む努力を応援してくれた。大学に合格した時だって1番に来てくれて、お祝いしてくれて、オレは……やっと……やっと、自分の血から目を背けるのも悪くないかもしれないって思えたんだ。

 それは間違いだったのかもしれない。結局はこの様だ。だが、だからと言ってあの時間を否定などしない。

 それなのに、オレがサクヤを殺す? リーファちゃんの世界を作る大事な人々を奪う? これは何の冗談だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だからこそ殺したくて堪らない。さぁ、食事をしましょう。だって、あなたには『時間』が必要なのでしょう? だったら喰らいなさい。血の悦びを求めるままに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雷鳴が轟き、サクヤとオレの狭間でヤツメ様が笑う。後ろで手を組んで前屈みになり、オレを見上げて笑っている。嗤っている。ただ本能のままに目の前の『餌』を貪れと。

 ああ、そうだ。オレには『時間』が必要だ。ここでサクヤを血の悦びを欲するままに喰らえば、きっと『時間』が得られる。少しでも飢えと渇きが落ち着けば、オレが『オレ』でいられる『時間』が得られる。

 選ぶだけだ。合理的になれ。今のオレの状態はかなりまずい。端的に言っても、ランスロットと戦えるコンディションを維持できるかどうかも怪しい。終わらぬ頭痛と吐き気。寒気は皮膚の下で這い回り、内臓を爛れさせるような熱は内側から消えず、視界はもはや針の山のように見た情報量だけで脳を刻む。音は全てが剃刀のようで、まるで三半規管を絶えず抉っていくようだ。もはや右腕さえも感覚を失い始めた。

 だから、せめて本能だけは……絶えず大きくなる飢えと渇きだけは何とかして落ち着けねばならない。そうすれば、きっと……きっと!

 

 

 

 

 

「お願いだ。殺してくれ。殺してください。お願いです……『我らの王』!」

 

 

 

 

 

 

 サクヤの懇願に、オレは自嘲して、飢えと渇きのままに刃を振るわんとした自分を恥じる。

 アルトリウスとの戦いで、オレは認めた。この獣の本性を利用しても良いのだと。たとえ、狂った殺意であろうとも利用して良いのだと。

 だが、それは『獣』のままに血の悦びを貪ることか? いいや、違うだろう。

 確かに殺すことで血の悦びは得られる。だが、それを求める為に殺すのではない。たとえ、『獣』の殺意であるとしても、オレが『人』としての心で……狩人として戦い、そして殺すのだ。それを忘れて殺せば本末転倒だ。

 それに何より……サクヤを苦しめているのは、彼女がこんな風になったのは……他でもないオレのせいではないか。オレがいたからレギオンは生まれたのだから。

 オレさえいなければ、レギオンは生まれることなどなかったのだから。

 ヤツメ様が顔を引き攣らせる。ああ、そうだろうな。ただただ本能のままに彼女を殺せば、きっと『時間』は得られただろう。でも、オレは素直じゃないんだ。飢えと渇きのままに殺すなんて、それこそ『獣』の所業じゃないか。

 

「『サクヤ』さん、今すぐ殺してあげます」

 

 狩人の血と誇りにかけて……必ず。オレは遥か向こう側で見えた巨大な火柱を目にしながら死神の剣槍を抜いた。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 黒獣パールが再び雷光を纏う。その姿を淡々とユージーンは眺めていた。

 サクヤを守ると誓った。だが、結果はどうだろうか? ユージーンは自嘲し、手にする大剣を握りしめる。

 他でもない自分のせいで……自分を守る為に、サクヤは最後の一線を越えた。

 油断は無かった。黒獣が奥の手を持っていただけだ。そんなものは言い訳にもならない。敢えて言うならば、ユージーンが『弱かった』以上の何物でもない。

 もっと『力』があればこんな事にはならなかった。連戦だったから? 黒獣パールが現れたから? 確かにその通りだろう。幾らボスの『再起動』には相応の経験があるとはいえ、このような連戦はユージーンとしても稀有な経験だった。それも相手がボス級だろう黒獣パールだ。彼に落ち度を探す方が難しいだろう。

 だが、それは『客観』に過ぎず、『主観』では阻むこともできない力不足という現実をユージーンは味わう。

 

(オレは守りたかった。『ランク1』として……『ユージーン』として……『1人の男』として……サクヤを、守りたかった)

 

 絶望が内側から滲み出る。再び雷光を纏った黒獣パールが飛びかかる。

 それに呼応したのはユージーンの剣だった。彼は一切の迷いなく、雷光を帯びた爪を大剣で受け止め、踏ん張り、逆に弾き返す。

 デーモン化によるSTR強化? ステータスの高出力化? 否。それとは違う『何か』を感じるユージーンだが、どうでも良いとばかりに奥歯を噛む。

 

「そこを……どけ!」

 

 まだ間に合うはずだ! ユージーンを動かすのはもう1つの事実だ。それが彼を奮起させる。

 サクヤは1度レギオン化が大きく進行した状態から持ち直したのだ。ならば、もう1度自分の呼びかけで戻せば良い。

 誓ったのだ。何度でも助けると。ならば、今回もそうするだけだ。サクヤを『人』に引きと戻すことができるのは自分だけなのだとユージーンは黒獣パールが繰り出す雷球を躱しながら懐に入り込む。

 だが、黒獣パールはユージーンの斬撃に合わせるように爪を振るう。黒獣パールは≪剛覇剣≫のガード無効化能力が雷光のアーマーを機能させていない事を察していた。そして、これまでの戦闘から相殺こそが最適解であるとたどり着いていた。

 既に黒獣パールはユージーンを『邪魔者』ではなく明確に『敵』として扱っている。だが、ユージーンからすれば今の黒獣パールはサクヤへの道を阻む『邪魔物』以上でも以下でも無かった。

 巨獣との真っ向からの斬り合い。連撃に秘められた雷光の爪をユージーンは大剣が生む剣圧で拮抗させては弾くを繰り返し、弱点の頭部へと振りかかれば発せられた雷撃で阻まれる。回り込もうとユージーンが駆ければ黒獣パールは距離を取る。

 黒獣パールが咆える。落雷が生まれ、ユージーンは否応なく距離を取る。鉄球を投げようにも落雷が壁となり、黒獣には届かない。

 だが、ユージーンの脳裏に、意識に、思考に『情報』が流れ込む。同時に周囲に現れたのは無数のシステムウインドウ。それは一瞬だけ彼の周囲で回転したかと思えば消失する。だが、その間に流れ込んだ『情報』はユージーンに1つのモーションを起こすべきだと判断させる。

 不死廟の魔剣ヴェルスタッド。かつて死闘を演じた強敵の名を持つ大剣を両手で握り、八相の構えを取る。すると≪剛覇剣≫の特徴として纏わりついていた刀身を包む赤いオーラは形を変質させる。それは蛇のように蠢き、剣先へと集中し、小さな球体を育てた。

 

「咆えろ、≪剛覇剣≫」

 

 そのまま踏み込みからの振り下ろし。それは球体を解き放ち、正面で解放する。それは爆発と共にドーム状になって拡大しながら黒獣パールに直進する。落雷を受けても減衰する程度で打ち消されずに突き進む攻撃に黒獣パールは対応しきれずに直撃を受けた。

 それは≪剛覇剣≫の単発系ソードスキル【バスタードレイ】。ユージーンには『まだ解放されていなかった』はずのソードスキルである。

 このタイミングで熟練度が到達してアンロックされた? 違う。土壇場で隠し性能が解放された例は少ないながらも報告されている奇跡であり、その代表例はディアベルが腐敗コボルド王戦での武勇伝だ。だが、ユージーンは此度のアンロックが本来とは異なる別の『何か』によって強引にこじ開けられたものだと理解していた。

 だが、今は何でも構わない。全身に溢れ出る力の限りにユージーンはバスタードレイを放つ。地面に解き放ち、ドーム状に拡大させながら直進する破壊の一撃は速度と燃費のバランスが良い、ユージーンからすれば呪術と並ぶ、速攻で放てる中距離攻撃手段だった。

 何よりも落雷でも阻めぬならば、黒獣パールからすればこれまで優位を保てた攻撃手段だった落雷は、一方的にバスタードレイを浴びる危機に変じる。右前肢を叩きつけ、雷柱を連続発生させても、ユージーンはデーモン化の長所の1つである翼の滑空を用いて大きく長く跳んで雷柱とすれ違いながら距離を詰める。

 だが、黒獣パールも驚きこそしても対応する。素早く左前肢を振るい、ユージーンにガードを強いる。

 

「おぉおおおおおおおおおおお!」

 

 だが、雄叫びと共にSTRは高出力化されるだけではなく、不足分を補う後押しがあるように大剣の刃で受け止めた黒獣パールの左爪を弾き返すのみならず、その衝撃で大きくよろめかせた。

 脳髄が疼く。『扉』が開けられ、吹き込んできた新風が後押しする。遠ざかる黒獣パールにバスタードレイを放ち、そのまま回転斬りモーションに繋げている間に第2発目がチャージされて解き放たれ、そのまま振り上げに持ち込めば第3発目が穿たれる。最大で複数のモーションから3連発できるバスタードレイに、黒獣パールはテンポを崩され、跳び込むタイミングを狂わせて3発目の直撃を浴びる。

 衝撃とスタン蓄積は高いが、攻撃力は低いバスタードレイは、ドーム状に広がるという特性から範囲も広く、無論として≪剛覇剣≫のガード無効化もある。これまで出の速いソードスキルが不足していた≪剛覇剣≫の弱所を補うものだ。巨大な雷光を集める黒獣パールに、ユージーンは大剣を振り上げる。

 そして、同時に彼に起きたのはアバターの変化だった。まるで鎧のような硬質のものが首筋を覆い、鎧を変質させ、翼を拡大させる。角は捩じれて枝分かれし、目の下には刺青のように赤い文様が浮かび上がった。

 突き出したのは左手。燻ぶる剛なる呪術の火。指を擦り合わせて1つの呪術の発動モーションを起こす。

 溢れたのは溶岩を思わす混沌の火だった。だが、それはただ溢れるだけではなく、左手の前で球体となる。普通のプレイヤーならば混沌の大火球を思い浮かべるだろう。だが、ユージーンの前で育った火球は巨大化を止めず、腕を大きく振り上げた彼の頭上で際限なく巨大化する。

 それは黒獣の持つ能力、雷のメテオに似て……だが、より上位にあると言わしめるような、今にも爆発しそうな太陽のような輝き。嵐の豪雨すらも蒸発させていくその混沌の火に、黒獣パールは自らに雷を呼んで対抗するも、もはや力の歴然は明らかと言わんばかりに、どちらの輝きが上回ったかは言うまでもない。

 デーモンスキルによって獲得した呪術にして切り札、【イザリスの焔火】。発動すると強制的にスタミナ切れと魔力切れを起こす代わりに、巨大な混沌の火球を生み出すことができる。ただし、チャージ時間が長く、ソロではまず現実的ではない。

 黒獣パールが爪を振るって雷球を飛ばす。それは何度もユージーンに直撃するも、そのHPの減りは小さい。イザリスの焔火は1度発動させれば自発的に止められない代わりに、その間は防御力、スタン耐性、衝撃耐性が爆発的に上昇する。更にデーモン化による防御力上昇、HP減少すれば≪逆境≫と古い青涙の指輪、イザリスの焔火の発動中にもたされる余波の熱気によるバリアによってユージーンのHPを黒獣パールが削り切るには近寄って直接連撃を叩き込むしかなかった。

 だが、この瞬間になって黒獣パールに躊躇わせたのはイザリスの焔火の……かつて魔女たちを滅ぼした炎への恐れではなく、ユージーンの眼から溢れた闘志だった。それが黒獣パールに踏み込むタイミングを逸しさせた。

 イザリスの焔火は膨れ上がり続ける。それはユージーンの分析通り、デーモン化時には混沌の火が強化されるからこそ、彼が想定したよりも更に巨大化していた。

 

 

 

 

「失せろ、害獣! オレの道を阻むな!」

 

 

 

 

 振り下ろした左手と共に解き放たれた、余りにも巨大すぎる混沌の火球を、黒獣パールは茫然と見つめ、やがて少しだけ笑ったように口を歪めた。

 相手にとって不足なし! そう叫ぶように黒獣パールは巨大な雷柱を生むも、それはイザリスの焔火を破ることはできず、ただ溢れた溶岩によって全身を焦がされていくだけだった。

 巨大な火柱が立ち上がり、嵐を吹き飛ばす暴風が生まれ、かつて村があった場所に巨大な溶岩地帯が生まれる。デーモン化が解除され、スタミナ切れで膝をつきながらも剣を突き立てて倒れまいとしたユージーンが息絶え絶えに顔をあげれば、そこには原形こそ残していないが、辛うじて黒獣パール『だった』だろう残骸が溶岩の中で燻ぶっていた。

 

(デーモン化が……変化した?)

 

 それに先程の溢れた……ステータスの上限を超えたような力は何だ? 強敵を下したことへの安心感が疑問を生じさせるも、すぐにサクヤを追わねばならないという気持ちが押し潰す。そんなものは後から幾らでも考える時間がある。だが、サクヤを追わねばならない。彼女をレギオンに変えてはならない。その想いだけがユージーンを奮い立たせる。

 スタミナ切れが何だ!? 全身から失われたバランス感覚、耐え難い息苦しさ、1歩の度に脳が抉られるようだった。無理した2歩目で転倒し、ユージーンは喉を掻き毟りたいように呼吸ができなくなって蹲る。

 倒れたユージーンはそれでもなお這ってでも林の奥を目指す。サクヤの後を追う。

 スタミナが1度切れると危険域を脱するまで……すなわち3割回復するまではスタミナ切れ状態になる。だが、スタミナ切れ状態に1度なった場合、スタミナ回復速度が大幅に高まる補正が入る。これはスタミナ切れが回復するまで続く。故に今のユージーンがすべきことはスタミナ切れの状態を甘んじて受け入れる事だった。たとえ這ってでも進もうとも、その分だけ余計にスタミナを消費するだけだった。

 合理的な判断ではない。だが、それでもユージーンはサクヤを求めて這い続ける。それは余りにも『ランク1』から程遠い無様な姿に映るだろう。

 だが、誰も彼を嗤いなどしないだろう。そこに勇者を見るだろう。

 イザリスの焔火によって掻き消された雨は再び降り始め、ユージーンを冷たく濡らし始めた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「う~ん、こんなものかなぁ」

 

 ちょっと想定とは違う決着だったけど、これはこれで興味深いデータが取れた。鼻歌で1曲この嵐を賛美したい気分と腸が爛れる程の憎悪を同居させながら、その男はようやく煌々とした熱が消え始めた溶岩地帯に踏み入れ、かつては赤雷の黒獣と並ぶとさえ謳われた黒獣パールの『残骸』へと近寄る。

 雨から白いスーツを守るのは安っぽい透明なビニール傘であり、まだ溶岩地帯のスリップダメージは有効だとばかりに足裏から煙をあげてHPを減らしながら、その男は……茅場の後継者は黒獣パールの頭部『だっただろう』眼前にたどり着いた。

 

「……オベイロンは馬鹿だねぇ。キミのAIはそのアバターの基礎性能フレームを完全に凌駕していた。スペック不足の肉体は使い辛かっただろう? ボクならば、キミに相応しいだけの能力と性能を備えた、そのAIを十全に活かせるだけのネームドアバターを準備してあげることができた」

 

 労わるように片膝をつき、なおも残る溶岩地帯で焦がされながらも、後継者は悼むように黒獣パールの残骸を撫でた。

 

「すまないね。これはせめてもの詫びだよ」

 

 右腕を振るいながらフィンガースナップを鳴らすと、黒獣パールだった残骸は跡形もなく消え去る。焼かれ果てたその様はこの黒獣の王には相応しくないと告げるように、その体はポリゴンに分解されて渦巻いていく。

 

「フラクトライト系列ではない、純粋なAI製。黒獣の強さはそこにあった。フラクトライト製なんてAIは『人間の名残』が強過ぎて駄目だとなぜわからない?」

 

 このアルヴヘイムを見て回り、モンスターの過半……オベイロンの改変後に自立進化を続けて生態を築いたモンスターはフラクトライト製だった。それは酷く彼を不愉快にさせ、オベイロンが『安易な手段』を取った愚かしさに怒りを禁じえなかった。

 

「オベイロン。そういえば、キミは欲していたねぇ。『人の持つ意思の力』をさ」

 

 仮想世界の法則を支配する『人の持つ意思の力』……心意。溶岩に覆われていたクレーター地帯から脱した後継者は、くるくると傘を回しながら思考に浸る。

 

「P04339……プレイヤーネーム【ユージーン】か。『候補者』の1人ではあったけどねぇ。やれやれ。死神部隊を今すぐ送り付けたい気分だよ」

 

 黒獣パールとの戦いで、P04339は『人の持つ意思の力』を覚醒させた。結果、バフシステムを経由してSTRを上昇させ、強引に黒獣パールを圧倒するほどのパワーを獲得した。そして、ソードスキルのアンロックを解除し、まだ未獲得状態だったはずの≪剛覇剣≫のバスタードレイを使用するのみならず、その性能と発動モーションに至るまでの全ての情報を瞬時に閲覧して脳にインプットした。

 

「しかし、さすがはイレギュラー。やらかす事が派手だねぇ」

 

 だが、この情報は有用だ。今後の対イレギュラー戦において有効活用させてもらうとしよう。後継者は林に消えたユージーンに喉を鳴らして嘲う。

 

「しかし、複雑な気分でもあるねぇ。デーモンシステムは『本質』を暴き、あらゆる人間に潜む戦闘本能を刺激して攻撃的し、最後には暴走状態にする。だからこそレギオンプログラムとも相性が良いせいで汚染されているんだけどさぁ」

 

 デーモンシステムは使用者の……プレイヤーの『本質』や『精神』に則った能力と外見を与える、後継者が深淵の主マヌスより作成したシステムだ。故にマヌスは管理者として迎え入れられる事になった。

 ある程度の『型』は後継者が事前に作成しているが、『型』のいずれにも不適切とシステムが判断した場合は最適作成を行うようにプログラムされている。そして、『本質』はともかく『精神』は常に変異するものである。

 レギオンが無制限にアバターを変質・変異させて強化できるのはデーモンシステムを応用しているからだ。これは後継者がレギオンプログラムとの相性を考えてマザーレギオンに搭載したものである。今にして思えば軽はずみだったかなぁ、ともアンビエントのただでさえ表情が薄い顔で淡々と事実の羅列を並べられた時は心が折れそうだったと後継者は溜め息を吐く。

 

「デーモンシステムは『変異』に寛容だ。だから、プレイヤーの成長などによってデーモンアバターが変化・強化するのは想定の範囲内……だったんだけど」

 

 自己強化プログラム。それがデーモンシステムの1つの側面だ。これは後継者なりのプレイヤーへのプレゼントであり、のめり込んで暴走状態の獣魔化してしまえというトラップでもある。

 デーモンアバターの変異は希少である。故に後継者としても今回のユージーンがもたらした情報が非常に有用であり、研究心を昂らせるものだ。

 だが、まさか『人の持つ意思の力』とコラボレーションするとは想定外だった。ダブル強化によって黒獣パールの勝ち目は完全に無くなったのである。

 

「まぁ、これも1つ良い勉強になったと割り切らせてもらうとしよう。……はいはい♪ こちら黒獣監視係☆でーす! ふむ! ふむふむ! ふむむむ! なーるほど♪ そちらもそちらで花火が上がりそうってわけだ」

 

 約束の塔、ティターニアを巡って大きな盛り上がりがあると『あちらに配置された後継者』からの連絡があり、後継者は顎に手をやって頷く。

 

「こっちは問題ないよ。もう結果はネットワークにアップ済みだろう? P04339の勝ちさ。忌々しいけど、黒獣パールは負けたよ。こちらの観察は終了。次のポイントに移動する」

 

 溶岩地帯だったクレーターで渦巻いていた黒獣パール『だった』ポリゴンは、後継者が伸ばした右の掌に集中する。それはソウルの形を成して揺らめいた。

 

「カーディナル、フレーバーテキストを」

 

 小さなシステムウインドウが黒獣パールのソウルの周辺で回転して吸い込まれる。それに満足した後継者はソウルを手に取った。

 たとえイレギュラーでも……『人の持つ意思の力』を使ったとしても……勝者は勝者なのだ。

 

「ボクはGMだ。勝者には相応の報酬を。それが信条なものでね」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 暴れ狂う触手は全部で6本。生々しい肉が張り付き始めているが、レギオン特有の脊椎を思わす触手としての外観はまだ残っている。特徴的なのは先端がより鋭利に鋭くなっており、6本の内の2本は鋭い槍のように、残りの4本はやや反った形状……まるで薙刀のようだ。

 貫通特化と斬撃特化の先端を持つ触手か。死神の剣槍を両手で構え、オレはサクヤに近づけまいとする触手の間合いに踏み込む。途端に縦横無尽に触手は蠢いた。

 左右から斬撃特化が2本、バックステップで回避後に地面に潜入していた貫通特化の襲撃を即座に前ステップで躱し、触手を鞭の如く振るう薙ぎ払いの軌道を読んで潜り抜ける。背後から迫る貫通特化の触手の鋭利な先端を背中に構えた死神の剣槍の刀身で受け止め、弾けた火花と共に衝撃を利用して更に距離を詰める。

 もはやレギオンと『サクヤ』の熾烈な主導権争いが行われているだろうサクヤの肉体の変異は著しい。牙は更に伸び、蕩けた瞳はゆっくりと赤く光を湛えている。黒く染まった鉤爪が張り付いた手で顔を覆い、サクヤは何度もよろめいてはオレに襲い掛かる触手の制御を奪おうとしている。

 

「あぁ……アァあああァあああアアああああァアアアアアアア!? 殺したい!? アヒャ、キャハ……ヒヒャ……殺したい!? なんで!? 私は……『私』はだ、レ!? クヒャヒャヒャ!? アヒャヒャヒャ! ユージーン、好き……愛してる……肉……血……肉……血、血血血、血が足りないぃいいいイイイイ!?」

 

 顔を覆っていた手を剥いだサクヤの双眸は大きく見開かれ、首を傾げながら真っ赤な口を広げる。両端は千切れながら広がり、全ての歯が野獣の如く鋭い牙に生え変わった様を見せつける。

 だが、途端に彼女の右目が震え、その表情に『サクヤ』が戻る。一瞬だけ硬直した触手の檻を死神の剣槍で薙ぎ払って千切り飛ばすが、サクヤの狂乱と呼応するように再生する。なるほど。他のレギオンよりも再生力が高い。

 

「止まらない。お腹が……お腹が……空いて、喉が渇いて……だレか……タスケてェ! 殺さないと! 殺さないとコワれル!? 狂い死ヌぅううう!」

 

 舌が口内から突き出し、それは2つに分かれる。頸椎にあたる部分が黒い結晶体が伸びる。虹色の翅が抜け落ち、代わりに結晶体の翼が生え始めた。

 まずい。あれが飛行能力ならば、早急に決着を付けねば逃がしてしまう。だが、再生能力を活かして触手は攻撃ではなくガードに回された。

 贄姫、抜刀。左手だけに死神の剣槍を持ち替えると同時に腰の贄姫を居合抜きし、水銀居合でサクヤごと触手を一閃する。ダメージは通ったが、オートヒーリング持ちなのか、3割ほど減ったHPは瞬く間に回復を始める。このまま水銀の刃で削るか? 駄目だ。変異速度が上だ。倒しきる前に逃げ切られるかもしれない。

 策を考える逡巡する時間すらも与えないとばかりに、黒結晶の翼から光の鱗粉が散り始める。先に獲得した飛行能力で脱するつもりか。完全な変異を待たずして逃亡する。それはレギオンと『サクヤ』の競り合いがあるからこそだろう。

 させるものか。贄姫を投擲し、サクヤの右足の甲を貫く。その口から獣のような絶叫が漏れる。縫い付けて飛行を阻止したが、それでも数秒が限度だろう。依然として暴れ狂う触手を突破できるだろうか?

 ああ、してやるさ。首を狙って迫った刺突特化の触手を右手でつかみ、ブヨブヨとした肉を握り潰し、左逆手で持った死神の剣槍を背中に隠すように構え、身を屈めて跳ぶ。

 当然ながら宙にいるオレを狙い付ける6本の触手。内の4本の軌道は狩人の予測で捉えている。消耗を惜しまず、右手の指の間に挟んだ4本の鋸ナイフを投擲し、まだ肉に覆われていない、脊椎のような触手の靭帯を貫く。痙攣し、統制を失い、残ったのは刺突特化と斬撃特化の2本。その内の刺突特化を死神の剣槍で払い、軌道を変化させて斬撃特化の触手を貫かせる。

 着地と同時に再び蠢きだす6本の触手だが、すでにサクヤを貫ける間合いだ。彼女を拘束する贄姫を右手でつかむ。同時に彼女の右手が多き振り上げられ、その鉤爪がオレを狙う。

 読めているさ。贄姫を引き抜き、足を、太腿を、腹を裂きながら逆手で降り抜いた贄姫の鋭利な刃がサクヤの右腕を肩から切断する。

 

「ギャアアアアアアアアアアアアアア!? 私ノ腕!? 止めてください、我らの王! 我らノ王! 我らの王よ!?」

 

 王? 違うだろう! 贄姫で胸を横一閃に斬り付け、よろめきながらも飛行しようとするサクヤの心臓に向けて、左手の死神の剣槍……その先端を向ける。体を捩じり、渾身の突きを穿つ準備を整える。

 思い出したのはサクヤと初めて会った日だ。とてもくだらない依頼だと思った。心底どうでも良いと思った。

 でも、あの後もアナタは小さな依頼ばかりだったけど、オレを傭兵として活用してくれた。リーファちゃんへの義理立てだったのかもしれなかったけど、嬉しかったよ。

 アナタがいたから、きっとリーファちゃんは笑顔を失うことはなかったはずだ。アナタがいたから乗り越えられた事があったはずだ。アナタがいたから……!

 

 

 

『篝さんは良い人ですよ。だから……きっと、誰でも得られるような、「普通の幸せ」が見つけられますよ』

 

 

 

 

 それはまだ灼けずに残っている、リーファちゃんが……直葉ちゃんがくれた、小さな光。

 あり得たかもしれない。もはやそう瞼の向こうで夢見ることすらも許されないのだろう。

 躊躇いは無かった。自分でも嫌になるくらいに、この手は一切の淀みなく動いた。

 死神の剣槍、その先端がサクヤの左胸に吸い込まれる。肉を抉り、心臓を貫き、背中から血を啜った黒い刀身が突き出す。

 まだ足りない。完全に殺しきる! 贄姫を捨てて柄に右手も添え、体をサクヤに密着させる勢いで死神の剣槍を根元まで彼女の左胸に埋める。呻き声が漏れ、肉すらも纏った血染めの死神の剣槍が彼女の背中から生えて、雷光を浴びながら雨で清められる。

 黒い結晶体の翼が剥がれ落ち、天に向かって雷を求めるように伸びた6本の触手は震えて、やがて地に落ちた。

 

「ありがとうございます、我らの王。私は……『私』のまま……死ねます。もう、ユージーンを……殺したいと……喰らたいと、思わない」

 

 口は裂けても、サクヤの穏和な表情は確かに『人』だった。彼女の中のレギオンは死に、今ここにあるのはHPが減る中で最後の時間を……僅かな生にある『サクヤ』だ。

 

「……本能とは度し難いものだな。お前の狂気は……私が抱いたのよりも遥かに強いはず。なのに、どうして、正気を……いや、無粋か。それこそ、お前が……レギオンの王たる証なのだろうな。それでも、お前は……私と違って屈せず……」

 

 サクヤは『モンスター』しか表示されないHPバーの赤い点滅を見上げるように空を仰いで、幸せそうに笑った。

 

 

 

 

「ユージーン、お前を……愛せて、『私』は……幸せ、だった……よ――」

 

 

 

 

 そして、サクヤのHPが尽き、轟雷の音色と共に動かなくなった。

 死神の剣槍を引き抜き、仰向けになって倒れたサクヤの瞳はもはやに映さず、だが変異して怪物になり始めていた顔はかつての美しさを損なっていた。

 誰かの声が聞こえる。男の声だ。雷鳴のせいだろうか? それとも聴覚が後遺症で? なんでも構わない。

 やるべき事は分かっている。オレは死神の剣槍を両逆手で握り、その先端をサクヤの顔の中心に向けた。

 

「祈りもなく、呪いもなく、安らかに眠れ」

 

 レギオンとしての冒涜はここで潰す。それが彼女の亡骸への弔いだ。彼にレギオンへと変じた彼女の死に顔など見せてはならない。

 

 迷いなく振り下ろされた死神の剣槍は、その鋭利な先端を彼女の顔に埋め、分厚い刀身は頭蓋を砕き、そして頭部を潰した。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 これは何だ?

 豪雨に打ちひしがれ、雷光に照らされ、ようやくスタミナ切れから脱して駆けたユージーンが見たのは……死神だった。

 1本の三つ編みに結った白髪はただただ美しく、雨に濡れて風に靡いている。

 左目を眼帯で覆いながらも、右目の瞳は血の赤色が滲むような黒。それは不可思議な程に人を魅了し、捕らえ、貪り喰らうような冷たく無機質な殺意に浸されている。

 

「……【渡り鳥】」

 

 このアルヴヘイムにいるのは分かっていた。だから、遭遇しても驚くべきではない。

 

「何をしている?」

 

 だが、問わねばならないのは彼の握る黒い異質の剣。刃は敢えて潰され、光を吸うような黒い刀身は雨に洗われながらも血を今も啜っている。それは彼の足下……サクヤの頭部を貫く形で大地に突き刺さっていた。

 止めろ。そう静止をかけるより先に、【渡り鳥】は刀身を捩じり、より醜くサクヤの頭部を破壊し、血飛沫と肉片を散らしながら引き抜く。凄惨に壊されたサクヤの頭部はもはや見る影もなく、かつての美しさを見出す為の陰りすらもなく、ただただ大穴が空くばかりだった。

 感情が暴走する。

 怒りが捌け口を求める。

 自然と背負う大剣を引き抜き、ユージーンは大きく踏み込んで振り下ろしていた。その一撃を躱せぬと判断したのか、【渡り鳥】は黒い異質の剣でガードする。だが、STRに差があるのは歴然であり、ユージーンは体格も活かして一気に押し切ろうとする。

 だが、【渡り鳥】は器用に手首を捻ってユージーンが力任せにした瞬間を狙って刃を滑らせる。派手に前に転倒したユージーンは起き上がりながら大剣を振るい、連続で突きを繰り出し、荒々しく薙ぎ払う。

 

「どうして殺したぁあああああああああああああ!?」

 

 救えた。オレならば救えた! オレならば救えたはずだ! この『ランク1』ならば必ず!

 もはや剣技でも何でもない、感情に支配されて振り回されるばかりの大剣に、簡単に躱せるはずの【渡り鳥】は黒の異質の剣を振るって受け流し続ける。

 

「オレならば助けられた! 彼女を……サクヤを……助けられたはずだ! なのに貴様がぁああああああああ!」

 

 オレならば!

 オレならば!

 オレ……なら……ば?

 あの月夜の奇跡を繰り返す。1度出来たならば、もう1度だって叶うはずだ。

 怒りに染まった思考の中で嘲りが聞こえた。

 

 あの時以上にレギオンに侵蝕されたサクヤを助けられる。そう驕るのか?

 

 本当は気づいていたはずだ。

 

 マザーレギオンが言った『救い』の意味を。

 

 だが、ユージーンは思考を怒りで振り払う。届かぬ大剣を捨て、拳を握る。その顔面を狙い、巨漢の彼がSTRを振り絞って打ち出した拳を【渡り鳥】は……避けなかった。

 軽装である彼が耐えられるはずもなく、吹き飛ばされ、地を転がり、木の根元に激突する。即座に跳んで追撃し、その胸倉を左手でつかんで地面に叩きつけ、右拳を再度顔面に……その中性美の結晶のような顔を潰す勢いで振り下ろす。

 

「貴様が! 貴様がぁ! 貴様がぁああああああああ! 貴様とてサクヤとは知らぬ仲では無いだろう!? なのに、どうして平然とあんな真似ができる!? どうして貴様はぁあああああああああ!」

 

 決壊する心のままに何度も何度も拳を振り下ろす。

 もはやそこに力が籠っておらず、弱々しい叫びばかりの代弁に成り下がった拳を振り下ろし続ける。

 

 

 ああ、本当は分かっていた。

 

 思い返せば、サクヤはいつも笑顔を絶やさないようにしていた。

 彼女は幸せそうに、素直に、ユージーンに愛を囁いた。

 きっと、誰よりも彼女が心の奥底で残り少ない『時間』を大切なものにしたいと望んでいたのだ。

 いつか訪れる時の為に。

 いつか……レギオンと成り果てる時の為に。

 自分が『幸せだった』と伝える為に。

 

(……『時間』こそが救いになる、か)

 

 マザーレギオンは遠回しにこう言いたかったのだろう。

 

 

 

 どうせレギオン化を止められないから、残りの時間を精一杯に愛してあげなさい。そう言いたかったのだろう。

 

 

 

 だが、ユージーンは彼女をレギオン化から救えるはずだと信じた。残り少なかった『時間』の全てを彼女に注ぎ込もうとしなかった。

 ずっと傍にいてあげればよかった。オベイロンも何もかも忘れて、このアルヴヘイムで彼女がレギオン化する直前まで傍に寄り添うべきだった。

 そして、殺すべきだった。彼女がレギオンになる前に、自分が愛した『サクヤ』の内に殺してあげてこそ、それは彼女にとって『救い』になったはずだった。

 

「おぉおおおあぁあああああああああああああああああああああああ!」

 

 涙で濡れた雄叫びをあげる。

 もはや取り戻せない。何1つとして取り戻せるものなどない。無為に消費した時間の全てはその両手から零れ落ちた。

 ただ残るのは、思い出の中にある幸せそうな……本当に幸せそうなサクヤの笑顔だけだった。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 ユージーンの泣き叫びが聞こえる。それが『痛み』を生んでいく。

 ぼんやりとオレに馬乗りになったまま叫ぶ彼を見つめる。

 やがて雷鳴が3度重なり、彼はゆっくりと立ち上がるとオレに手を差し出す。そこには溢れんばかりの殺意こそあったが、オレは手を伸ばして掴み、己の足で立ち上がった。そうする事が今の彼には必要な事だと感じた。

 

「……済まなかった、な」

 

「何がですか?」

 

「貴様に非は……無かった。剣を振るい、殴りつけ、あまつさえ……あのような暴言を……」

 

 顔を俯けたユージーンの双眸に普段の傲慢不遜な輝きはない。あるのは大切な人を失った1人の男の虚無だけだった。

 暴言? いいや、正論だ。オレは袖で口元の血を拭いながら、取れぬ頬の痛みにユージーンの怒りと喪失を感じ取る。

 愛する人を失い、なおかつ目の前に殺した相手がいるのだ。誰だって怒りと憎しみを抑えられない。それが普通だ。それが『人』というものだ。大剣をあのまま振るっていたならば殺していたが、拳ならば別だ。数発なら殴られてやろうと思っただけだ。それでも殴り殺しに来るならば相応の反撃はしたし、その場合も殺すつもりだった。

 だが、結果としてユージーンはオレに殺意をぶつけても実行には至らなかった。ならば、これで良かったのだろう。

 

「クク……ククク……『ランク1』失格だな。オレには、そんな資格は……無い」

 

「それを決めるのはアナタじゃありません。『ランク1』は他者より与えられた称号です」

 

「痛烈だな」

 

「事実を述べているだけです」

 

 本心だ。彼はクラウドアースの政略があったとしても、多くの人に認められるだけの功績を残し、実力を示し、そして相応しいと望まれてランク1の名誉を得た。

 オレでは決して届かないだろう栄光。純粋に眩しさを覚える。敬意だって持っている。

 

「恨むなら構いません。アナタの言う通り、オレはサクヤさんを殺しました。アナタには復讐の権利がある。いつでも相手になります」

 

「……それは、筋違いだ。貴様はオレがすべきだった事を代行したまでだ。オレの『弱さ』を押し付けた挙句に復讐とは、サクヤに合わせる顔が無い」

 

 捨てた大剣を再装備したユージーンは雨で濡れた髪を掻き上げ、怒りと憎しみで染まった眼をオレに向ける。

 

「憎むべきはオベイロンとレギオンだ。サクヤを辱めた挙句に改造したオベイロンは殺す。そして、レギオンこそ元凶! レギオンなど1匹残らず殺さねばならない! 奴らを殺し尽す! それこそがオレの責務!」

 

 それはレギオンに向けられた復讐心。

 だが、どうしてか、オレの胸に『痛み』は生まれる。

 レギオンは1匹残らず殺す。ヤツメ様の血を冒涜としたヤツらを殺すのは、オレの狩人としての責務だ。

 なのに、どうしてこんなにも『痛い』んだ?

 

 

 

 

 

「サクヤを狂わせたのは、レギオンプログラムなるものだ。気を付けろ、【渡り鳥】。あれはプレイヤーも蝕む、おぞましい殺戮本能だ。『何』から作り出されたのかは知らんが、決して『存在してはならない』!」

 

 

 

 

 

 

 分かっている。ユージーンは正しい事を言っている。

 レギオンプログラムは……プレイヤーを……AIを……何もかも狂わせる。

 そして、それはオレの本能を模したものだ。オレがオリジナルであり、レギオンプログラムに搭載されている本能は……『劣化』した模造品だ。

 だから、だから……だから……存在してはならないのはレギオンであり、レギオンにとってオレは始まりであり、だから、オレは彼らに『王』と呼ばれているのだろう。

 

 だから、見方を変えれば、人々にとって、オレは……人間の形をしているだけのレギオンなのではないだろうか?

 

 オレ自身の区別なんて関係ない。ヤツメ様の血を冒涜しているから、なんて他の連中に理解されるはずがない。

 何度も認めたはずだ。オレはバケモノなのだと。だから、オレは彼に憎まれるべきだ。オレがいたから……オレが生まれたから……レギオンが生まれた。

 

 

 

 

 

 オレさえ存在しなければ、レギオンなんて生まれなかったのだから。

 

 

 

 

 

 サクヤを殺したのはオレだ。

 その『命』を糧として、オレは戦い続ける。殺し続ける。たとえ、レギオンよりも遥かにおぞましい殺戮本能を持っているとしても、オレは……この心に『人』を抱いて。 

 

「そうですね。注意……して……おきます」

 

 辛うじて取り繕うように微笑み、オレはユージーンの眼差しから逃げるように顔を背けた。

 パラサイト・イヴの武装感染を秘匿すべきだ。そう冷静な思考がわざわざ装備画面で死神の剣槍と贄姫を回収する。そんな思考を回して、これ以上考えるべきではないと深呼吸を入れる。

 ユージーンはアイテムストレージから野宿用の毛布を取り出すとサクヤの遺体を丁寧に包んだ。このまま雨曝しにして置き去りには出来ないのだろう。何処かちゃんとした場所で埋葬するつもりなのかもしれない。

 

「すまない。1人にしてくれ」

 

 包まれたサクヤの遺体の前で両膝を折るユージーンの暗く沈んだ声音に、オレは無言で背を向ける。

 歩き続けた先にあったのは、かつては小さな村だっただろう事だけは辛うじて分かる場所。破壊の痕跡が広がり、巨大なクレーターには雨水が溜まっていった。焦げた地面の様子から混沌系の呪術による溶岩が発生したのだろう事が窺える。ならば、これはユージーンが作ったものだろうか?

 黒獣の姿はない。この戦いの様子ならば、ユージーンが黒獣を……パールを仕留めたのだろう。

 

「オレは……バケモノだ。分かっているさ」

 

 否定などしない。サクヤを殺す時に確かに悦びを感じていた。言い訳などできない。

 それでも、オレは狩人として……彼女を……殺した、つもりだ。

 本当にそうだっただろうか? オレは狩人として彼女を殺せただろうか? この心はバケモノに成り果てていないとどうして言い切れる?

 

 

 

 だから言ったのに。そんなに苦しむ必要なんてない。血の悦びのままに殺せば良いだけなのよ?

 

 

 

 後ろから抱き着いて囁くヤツメ様の声が、僅かにだが癒された飢えと渇きを教えてくれる。きっと、望むままに殺せば、もっともっと満たされていただろう。狩人としてではなく、バケモノとして……『獣』として貪っていれば、少しはマシな状態になっただろう。

 オレはヤツメ様を振り払う。笑いながら、嗤いながら、ヤツメ様は遠ざかって踊る。ほら、やっぱり『獣』こそあなたに相応しい。そう嘲う。黄金の稲穂を握り潰しながら、泣き叫ぶように笑っている。

 ユージーンの憎悪が蘇る。彼はオレを憎まないと言った。ただ殺した事への怒りをぶつけてしまっただけで、要らない詫びを入れた。

 だが、彼が憎むべき相手にはオレも含まれている。いいや、オレこそが元凶だ。

 ユウキ、オレはまだ『オレ』のままだろうか? サクヤが『サクヤ』のまま死ぬことを望んだように、オレは『オレ』のまま戦い、そして殺し続けることができるだろうか? この戦いの果てに『答え』などあるのだろうか? 狩りの全うの意味を知った時、『答え』を得られるのだろうか?

 灰色の狼を召喚し、オレは約束の塔を目指す。それ程までに遠くないはずだ。全速力で向かえば十分に間に合うだろう。

 

「オレはオマエらとは……レギオンとは違う。オレは捨てない。この心から『人』を……決して、捨てるものか」

 

 駆け出した灰色の狼と共に目指すのは約束の塔。何があろうともオレがすべきことは変わらない。

 サチ、必ず依頼は成し遂げる。オマエとの約束を守る。『アイツ』の悲劇を止める。止めてみせる。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 これから何をすべきなのか、ユージーンにはまるで思い浮かばなかった。

 オベイロンを殺す。その復讐心は猛っている。あらん限りの残虐を尽くし、泣き叫ぶ様を見ながら死の谷底に叩きと落としたいと望んでいる。

 レギオンもそうだ。ただの1匹として生かしておかない。サクヤを苦しめたレギオンなど生かす価値などない。

 そして、何よりもレギオンプログラムを生んだ『根源』まで滅ぼし尽さねばならない。あれ程までの狂気を作り出すなど、この世を地獄に変え、人類を破滅させる悪夢の因子だ。

 

「まずはオベイロンだ。奴を殺す。その為にも、まずは深淵狩りの契約を集めねば……」

 

 冷静さを取り戻せ。無謀に突き進んでも勝ち目は薄まるだけだ。そう我が身に言い聞かせ、ユージーンがサクヤの遺体を抱えて立ち上がろうとした時だった。

 いつの間にかサクヤの遺体を挟んだ目の前に立つ人影があった。

 アルヴヘイムではまず見かけることが無い、純白のスーツを纏った男。くるくる回しながら透明なビニール傘を差す姿は嵐に気分を高揚させた子どものようだった。癖のある金髪や青い瞳も含めて容姿はかなり整っているはずだ。

 その『はず』だと、ユージーンは奇妙な感覚に陥る。これ程までに鮮明に男の姿をはっきりと見えているはずなのに確信が持てない。老いているのか若いのか、そもそも男なのか女なのか、その『存在』を理解したくないと脳が拒んでいるかのように霞がかかってしまうのだ。

 あるのはただ強烈な存在感と言い知れぬ邪悪さだけ。まるでこの世の悪を煮込んで煮込んで煮え滾らせて、ドロドロになるまで純度を高めたような悪意の塊。

 

「ヤッホー☆ 今日もプレイヤーの皆さんの笑顔をお届けします! デストロイあーんどジェノサイドのミ☆カ☆タ! 茅場さんの後継者とはボクのことでーす♪」

 

 ふざけた態度で舌を出しながらウインクして左目を覆う横ピースサインをした男に唖然としながら、ユージーンは辛うじて単語の意味を噛み砕く。

 茅場の後継者……GM……デスゲームを開始した元凶! 咄嗟に大剣を振るおうとしたユージーンであるが、男は傘を捨てて布団に包まれたサクヤの遺体を蹴り上げるとつかんで盾にする。危うくサクヤの遺体ごと斬りそうになったユージーンは刃を止める。

 

「この……外道がぁ!」

 

「怖いなぁ♪ 何でも暴力で解決するのはよくないと思うよ? ボクはキミにお届け物があるだけなんだから。はい、どうぞ♪」

 

 サクヤの遺体という壁越しで男は怒りに震えながら歯を食いしばるユージーンに投げ渡したのは、闇を纏ったソウルだった。

 それは【黒獣パールのソウル】である。黒獣の遺体をチェックしなかったユージーンの取り漏らしかとも思ったが、後継者は違うとばかりに指を振った。

 

「勝者には相応の報酬を。これはボクのGMとしての信条でね。黒獣パールの撃破報酬はソウルこそ相応しい。それをどう使うかはキミ次第だ」

 

「それだけか? さっさと、サクヤを放せ。貴様の汚い手で彼女を――」

 

「そうそう、それともう1つ。とても残念だよねぇ、カ・ノ・ジョ。レギオンプログラムに脳も精神もフライトライトすらも蝕まれ、レギオンに改変される。ああ、なんて哀れなんだろう☆ これが悲劇と言わずして何が悲劇なんだろうねぇ♪」

 

 芝居がかかった口調で、全く哀れむ様子なく、サクヤの死に言及する後継者に、いよいよユージーンの怒りが爆発しそうになる。だが、そのタイミングを待っていたとばかりに後継者はサクヤの遺体を手放すとユージーンに傾かせた。

 剣を振るうよりも遺体を受け止めることを優先したユージーンに、後継者はまるで影が這い出たような動きでぬるりと距離を詰め、鼻先まで顔を近づける。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ボクならもう1度会わせてあげられるよ? キミの愛おしいカノジョにね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは悪魔の囁き。心臓が握られたかのように内側から圧迫感を覚える。

 こんな甘言に乗ってはならない。それが分かっていながら、後継者の言葉に仕込まれた甘い猛毒にユージーンはごくりと喉を鳴らす。

 

「サクヤを……生き返らせられるのか? あの【閃光】のように!」

 

「それはぁああああああああああああああ、無☆理!」

 

 サクヤの遺体を抱きしめ、喰いかからん勢いで問いかけたユージーンから距離を取り、溜めに溜めて後継者は腕で×印を作る。そして、ユージーンが暴力に訴えるよりも先に、焦らないと言うようにチャーミングに右手の人差し指を立てながら2回ウインクした。

 

「残念だけどSAOで死んだ【閃光】の時と違って、DBOは死亡時にフライトライトの抽出は行っていないものでね。まぁ、今からならばギリギリ抽出も間に合うだろうし、その為の人員を送ることも不可能じゃない。でも、言っただろう? 彼女の脳は既にレギオンプログラム……より正確に言えば、それの根幹を成した『ある人物』の劣化殺戮本能によってフラクトライトに関してはミンチ状態だ。もう無理なんだよ。彼女はボクの持つ技術の全てを使っても『死んでいる』状態なんだ。だけど、『再現』はできる」

 

「『再現』……だと?」

 

「そうさ! 彼女の『記録』を統合し、人格形成を行い、AIとして『再現』させることはできる。ボクにはそれができる」

 

 技術的には可能。そう言い切る後継者に、ユージーンはもう1度サクヤに……生きたサクヤに会えるかもしれないと心臓が高鳴る。だが、すぐに並べられた言葉の意味を悟り、侮蔑を込めて後継者を睨んだ。

 

「それは『サクヤ』ではない! ただのサクヤを模したAIだ!」

 

「まさにその通り! 彼女はもう死んだ。もう戻らない。フラクトライトは産業廃棄物よりも意味を成さないまで壊された。だから、ボクにできるのは『再現』だ。でも、キミにとって彼女が否か、それを決定づける因子は何かな? そうとも! それはキミの『主観』さ☆」

 

 傘を拾い上げた後継者は耳まで避ける勢いで口を開いて笑う。ユージーンの『揺らぎ』を嘲う。

 

「たとえ情報の羅列から生み出された人形に過ぎないとしても、キミにとって『人形』は『本物』になるさ。だって、キミの『主観』では『彼女は生き返った』ことになるんだから。そう、ボクがプログラミングしよう。キミの『選択』によって彼女はもう1度『新しい命を得た』と書き込もう」

 

「…………ッ!」

 

 違う。そんなものは『サクヤ』ではない。必死に頭に巣食う願望を振り払おうとするが、サクヤの笑顔が過ぎる度に捨てることができなくなる。

 

「ふざけるなぁあああああ!」

 

 だからこそ、ユージーンは叫びながら大剣を振るう。間合いの外にいると分かっていながら、後継者にこれ以上口を開かせれば、自分が冒涜的な選択をしてしまいそうで恐ろしかった。

 肩を竦めながら傘を拾い上げ、濡れて垂れた前髪を掻き上げながら後継者はユージーンから遠ざかる。

 

「まぁ、せいぜい抗いたまえ、イレギュラー1年生。キミもまた『人の持つ意思の力』の保有者だ。次はソウルではなく、死神部隊をお届けするよ。でも、キミがもしも『可能性』を捨てる事を望み、彼女の『再現』を望むならば……いつでもボクを呼びたまえ。歓迎するよ」

 

 そして、後継者は林の闇に消える。まるで最初から存在しなかった、悪夢から抜け出してきた幻影だったかのように。

 残されたユージーンは、終わらぬ嵐の中でサクヤの遺体を抱きしめた。ただ……もう1度その笑顔が見たいという、抗えぬ願いと共に。




サクヤさん、お疲れさまでした。

次回は約束の塔周辺、アスナを巡る戦いが始まります。


それでは、276話でまた会いましょう。

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