SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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ああ、インフル、あるいはインフルエンザ……

我らの祈りが聞こえぬか

けれど、我らは退院を諦めぬ!

何者も、我らを捕らえ、止められぬのだ!


訳:地獄(病院)から帰ってきました。
戒め:今年のインフルを舐めてはいけない。毎年の話ですが、インフルを舐めてはいけない。


Episode18-35 変遷

 いつか見えたはずの夜明けは遠く、ただただ夕暮れの光だけが『ぼく』を染める。

 

『篝。私の子。私の篝』

 

 手を引いてくれるのは母さんだ。いつも元気に振る舞っているけど、本当は体がとても弱くて、子どもの頃は長く生きられないってお医者さんに宣告されていたんだ。

 だから母さんは『命』の意味を探していたんだって。

 母さんは『命』を食べられるモノと考えてたんだ。脈々と受け継がれる、決して途切れない循環の輪。『命』もまた巡るものだと。

 それはきっと、たくさんの狩人が同じ考えの下で生きていた名残。母さんは生まれながらにそれを知っていて、それだけじゃないはずだって足掻いていて、そして何かを知ったんだと思う。

 

『狩人が必要とされない時代。それはとても喜ばしい事よ。だけど、私たちは狩人の血を継ぐ者としての誇りを抱いて生きて行かないといけない。等しく「命」に敬意を払い、礼節を重んじ、「人」として生きる。それが狩人』

 

 故郷の風は少しだけ冷たくて、遠くに去った夏、冬を迎えようとする秋の香りに満ちていた。

 黄金の稲穂が揺れている。母さんが手を引く小道の向こう側、水田は財宝にも見間違うほどの豊かな稲穂が風と共に靡いている。

 ヤツメ様は人の肝に飢え、血に乾いている。狩人の大事なお仕事の1つはヤツメ様が現れた時に討って鎮める事にある。でも、ヤツメ様は一方で狩人の守り神であり、戦の加護をもたらし、実りをもたらす。

 みんなは『ぼく』を見る度に『ヤツメ様みたいだ』って褒めてくれる。でも、母さんはいつも寂しそうな目をして『ぼく』の手を引くんだ。

 黄昏の光を浴びて、夕焼けの風が吹けば黄金の稲穂は海に描かれた細波のように揺れた。

 母さんが立ち止まる。とても優しい微笑み。でも、いつも寂しそうで、辛そうで、悲しそうな目をした母さんはゆっくりと口を開いた。

 

『篝。私の子。私の篝。ねぇ、篝は――』

 

 だけど、そこでフィルムが絡まったように母さんは動かなくなる。

 ああ、そうだ。これは記憶なのだ。

 この先に『ぼく』が……オレが欲していたものがあるのかもしれない。

 狩りの全う。その意味があるのかもしれない。

 いつしかオレの手を引いていたのはヤツメ様だった。

 思い出したら駄目、とヤツメ様は涙を溜めて振り返る。冷たい『痛み』の海風が吹く砂浜で……ヤツメ様はオレの胸に飛び込んで縋りつく。

 泡立つのは記憶の残骸。砂とばかりに思っていた足下は灼けた記憶……暗雲の空より降り続ける灰だった。

 ヤツメ様が握り潰した黄金の稲穂から火が滴り、灰に埋もれては微かな残骸すらも焦がす。

 

 

 灼けてしまえ。灼けてしまえ。灼けてしまえ! 黄金の稲穂など灼けてしまえ! 

 

 

 ヤツメ様の呪いが響く。潮風は優しい『痛み』を孕んで髪を靡かせ、ヤツメ様の叫びと涙は虚しく響くばかりだ。

 

 止まない雨の下で、灰に埋もれてもなお消えぬ業火が燻ぶる。それは残り火。

 

 何もかも灼けていく。

 

 雨は止まず、全てはやがて深い深い海の底に沈んでいく。

 

 呪いと海に底はなく、故に全てを受け入れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ッ」

 

 視界にすっかり見慣れた黄昏の輝きが入り、オレは痛覚で感覚を代用した右手で地面を掴む。

 どれくらいの時間を『死んでいた』だろうか? 伯爵城への道の途上、聖剣の霊廟へと続いていた薔薇のトンネルにて、オレは頬を地面に擦りつけながら倒れ伏していた。

 

「ナドラ?」

 

 MHCPの介入があってもおかしくない程の死の淵に見た『夢』。既に目覚めているので聞こえないとは思いつつも、オレは『孤独』の観測者の名前を呼ぶ。だが、やはり反応は無い。

 少しだけ期待していた部分もあったのであるが、あくまで彼女たちはプレイヤーの精神安定を夢で担う存在だ。覚醒時……通常の仮想空間では余程の事が無い限りは接触も難しいだろう。逆に言えば、彼女たちが自ら『こちら』で接触してきた時は相応の緊急事態とも捉えられるかもしれない。

 ゆっくりと指先に、膝に、腰に、力を流し込むイメージを描きながら立ち上がる。だが、上腕はプルプルと震えるばかり、両太腿と脹脛は痙攣して自由はなく、背筋に至っては針金が仕込まれたと思う程に凝り固まっているようだ。

 堪らずにもう1度うつ伏せになる。ここはボス部屋前の最後の1本道だ。モンスターが襲撃してくることもないだろう。だが、月明かりの墓所は大きく破損しているのだ。油断禁物である。何があるのか分からず、また後継者はプレイヤーの思い込みをあっさりと裏切る真似を多々実行に移す。この月明かりの墓所が後継者の設計である以上は気を抜くタイミングなど一瞬としてないだろう。

 弱々しい心臓がしばらく動くなと命じているようで、小さく嘆息しながら、1分だけこのままジッとしていようと決める。

 体を転がしてうつ伏せから仰向けになり、薔薇のアーチの向こう側……終わらぬ夕暮れの空から漏れる優しくも切ない黄昏の光を垣間見ながら情報を整理しようとして、まだ再装備していない眼帯のせいで左目からの情報が過多で嘔吐感を催す激しい頭痛に唸る。

 慌てて眼帯を付け、ようやく一息ついたと思えば左腕からの痛覚の大量流入に顔を顰める。骨針が起動したままなのだ。手首のピンを取り付け、左腕を貫いている数多の骨針を緩める。痛覚が幾分か和らぐが、それでも完全に失われることはない。骨針の黒帯のオンオフ機能はありがたいが、オフ状態でも痛みは与えられ続ける。感覚をもたらすそれが今は煩わしくて、オレは骨針の黒帯を外す作業を始める。

 装備画面でオミットしても良いのだが、いきなり消したら消したでその瞬間の鋭い激痛で意識が以前1度だけ飛びかけた事がある。故に手動でゆっくりと外すのが手間でも1番なのだ。針金を埋め込んだ痛覚による感覚代用を実行中の右腕はしょうがないとして、左腕分だけでも休憩タイムが必要かもしれない。

 休憩はもう良いだろう? 心臓にそう願い出て、オレは上半身だけを起こす。次は3分かけて立ち上がる準備を整えろと心臓に命令しておく。

 コートを脱ぎ、インナー装備になれば月明かりの墓所の肌寒い風に危うくくしゃみが出そうになる。黒のノースリーブのインナー装備もまた名目上はナグナシリーズなのであるが、グリムロックが数多の素材をオレに集めさせ、また資金を湯水のように使って揃えた素材、そして工房設備一新の末にできた癖のあるモノに仕上がっている。

 インナー装備と言っても侮ることなかれ。革系にしろ金属系にしろ、無装備に比べれば防具って素晴らしいと思う程度には防御力が大幅上昇するのだ。

 これにはプレイヤー・モンスター双方にいえる部位・攻撃判定到達深度に関係している。

 攻撃判定到達深度……要は『攻撃が何処まで到達したのか』という判定をシステムが攻撃ヒット時の状態・モーション値、武器の攻撃力や斬・打・刺・射のそれぞれの属性値や貫通性能、防具・アバターの防御力や強度、他にも色々と計算要素がたっぷりあるが、それらをひっくるめてダメージを割り出す。オレは専門外だが、頭のネジがおかしい分析型……グリムロックとかは武器に蓄積された戦闘データを見るだけで即座に『どんな体勢で、どんな武器を、どれだけのモーション値を確保して、どれだけのダメージを出したのか』を割り出せるらしい。うん、HENTAIだな! 以前にグリムロックに計算式講座を聞かされたが、10秒で頭が破裂しそうだった。

 ここで危険なのが、単純にシステム画面で分かるトータル防御力に過信してはいけない点だ。たとえば、あるVRゲーム初心者プレイヤーが胴だけ立派で重厚な鎧を身に着けて、頭と四肢は軽装にしてステータス状の防御力は高くしつつも装備重量を抑えてスピードを確保するという、実に『ゲーム的』な発想でダンジョンに乗り込んだ。

 結果、そのプレイヤーはリタイヤである。死にこそしなかったが、心が折れて終わりつつある町に引き籠もった。その後どうなったかは知らないが、獣狩りの夜で死んだ確率は割と高いだろう。当時の彼に何があったのかは又聞きどころか噂なので詳細こそ知らないが、四肢欠損状態の達磨だったところを遭遇した聖剣騎士団に助けられたらしい。むしろ四肢を失って生きてるとか、どれだけ高VITかつHP強化に余念がなかったんだよとツッコミを入れたい。

 確かにトータル防御力は重要だ。だが、それは額面的な数字の話であり、自分が『大よそどの程度の防御力を得ているのか』という基準に過ぎない。胴だけ装備しても腕に対してフルに恩恵が得られるわけではないのだ。まるっきりゼロというわけではないし、むしろ胴こそが総重量の結構な割合を持っていかれる分だけ防御力確保の花形とも言うべき位に多大な影響はあるのだが、胴だけ鎧をつけて腕と足をおざなりとか阿呆の極みだろうと件のプレイヤーに言いたい。胴だけ重く分厚く堅牢な鎧をつけて他は最低の『トータル防御力だけは高いだけのプレイヤー』よりも、全体部位を余すことなく相応にしっかりと固めた『そこそこのトータル防御力を確保したプレイヤー』の方が実戦では十分に防御力を発揮して生存率が大幅に高まるのだ。

 蛇足だが、逆に胴を適当にして四肢だけ上等とか自殺願望か何かである。トータル防御力は結果的に低くなるし、そもそも胴防具が全身に与える防御面の影響は他の部位装備とは比較にならないからだ。まぁ、例外として頭部を保護する兜だけを装備するのは実に有効的だ。兜の有無で頭部へのダメージも攻撃判定の到達深度も劇的に変わる。ザクロが兜を装備して、UNKNOWNが仮面にこだわるのも、単純に気に入っているからとか、素顔を知られたくないとか、他のメンタル的原因があるからではなく、頭部の保護が重要だとシステム的に把握していて、視界へのデメリットを勘定に入れても装備する価値があると判断したからだ。……そ、そのはずだと信じたい。そうだと信じさせてください、お願いします。無駄な抵抗だとしてもそう信じておく事にしておきたいんです!

 まぁ、ともかく攻撃判定深度と部位ごとによってダメージは大幅に変わる。頭部や首は深度が浅くてもダメージは大きい。逆に手足は出血・欠損はもちろん、打撃で骨が砕けて一時使用不可になるなど強度面では相対的に脆いが、腕や足が千切れでもしない限りはダメージ的にそこまで大きく伸びない。そして、胴は心臓を除いて最も平均的に防御システムが関わるので、攻撃判定が深く届けば届くほどにダメージは叩き出せる。これはプレイヤーもモンスターも同じだ。つまり、人型ネームドの倒し辛さとは攻撃の当て辛さでもあるのだ。単純に的が小さい上に素早い連中ばかりだからな。プレイヤーと違ってフルメイルでも鬼のような速度が出せるし。Nとか、アルトリウスとか、ランスロットとか明らかに装備重量の概念が無い。オレがどれだけ防具を犠牲にして武具の装備重量分を浮かせているのか切に説きたい。

 結論、フルメイルはマジで強い。聖剣騎士団がフルメイル推奨なのも納得だ。思えばノイジエルにしてもカークにしても粘り強さが半端じゃなかったからな。単純に機動力確保だけがDBOで生き残る全てじゃないのだ。それは『普段』ならちゃんと鎧装備でありながらランク5にして聖剣騎士団最高位ランカーのグローリーも証明している。まぁ、オレは『当たっても耐え抜く』というのがあまり性に合うタイプではないし、現在は痛覚のせいでフルメイルでも攻撃を受ければ身悶えするくらいの痛みが発生するので方針としては全くあり得ないが。

 さて、胴装備の重要性は防御システムからも分かり易い。他部位も含めた全身に恩恵を与え、なおかつ最もダメージを出され易い部位を守る。頭部や首にクリーンヒットが連発するなら大人しく兜を被りなさいと言うとして、軽装プレイヤーはオレも含めてコートやジャケットとインナー装備を併用している。特に袖があれば腕の防御面を総じて高める。防御面は革・金属鎧には及ばないが、上半身を特に守りたい場合には頭部以外を保護できる優れモノだ。鎧もサーコートやマントで似た恩恵を得られるが、コート・ジャケットとインナーの組み合わせは軽装プレイヤーの特権みたいなものだ。

 なので、本来ならばインナー装備も余程な事が無い限り防御面をガチガチに優先すべきなのだが、オレのナグナの狩装束のインナー装備は少々特殊だ。柔軟な革製で軽量性特化しているので、物理は刺突属性を除いて低めであり、属性防御力を重視しているが、浅い判定深度程にダメージを軽減する効果がある。つまりは『掠りや貫通性能が低い攻撃に強い』という防具としてもピーキーな性能だ。

 要は防具としての防御面の半分を否定して、効果を重視した、オレの『当たったら死ぬ』を代表する装備だが、グリムロックは1度頭のネジを締め直した方が良い。コートでバランスを取っていなければ、幾らオレでも笑顔で作り直しを要求していただろう。まぁ、貫通性能が高い刺突対策をしている分だけグリムロックにも最低限の『攻撃が直撃した場合』への配慮はあったのだろう。あとは到達深度が比較的低めに止まりやすい格闘攻撃もそうだな。グリムロック曰く、オレの場合は命中寸前で体を攻撃方向に無意識で逸らしているらしい。

 

「現実逃避もこれくらいだな」

 

 やるべき事を済まそう。右手の革製の籠手を外し、五指を開閉して呼吸を整える。骨針の黒帯を外す作業はあまり好きではない。

 固定ベルトを1つ1つ丁寧に外せば、無数の細い結晶の針が肉を貫いたままの姿が目に映って憂鬱になる。シャワーや風呂の度に外すのだが、毎度のように気が滅入る。

 装備としての必要性か、この針にはダメージが無い。だが、外せばまるで片腕専用のアイアンメイデンで串刺しにされたような腕が露になるのだ。オレが言うのもなんであるが、なかなかにグロテスクである。

 意を決して黒帯を剥いでいく。針が抜けていく度に慣れたものとは別の痛みが脳髄と意識に刻み込まれていく。叫びは漏れない。これは感覚を取り戻すための必要な対価だ。この装具を選んだのは戦い続ける……いや、殺し続ける為に必要な『力』だったのだから。

 血塗れの左腕は小さな穴だらけであり、指先に至るまで余すことなく針の筵だったのだと嫌でも教えてくれる。だが、まだ外したのは肘までだ。二の腕の型付近まで巻きついた骨針の黒帯を丁寧に剥がしていく。

 ボロボロの左腕は糸が切れたように下がる。今は穴がある分だけ、また残留した痛覚が感覚の代用を成しているが、穴が修復する頃には感覚を失った左腕が戻る。

 オフ状態ならば『針が無数に突き刺さっているだけ』だが、骨針の黒帯は結晶の針を『腕の奥深くまで伸びて根を張る』ものだ。左腕限定のSTRボーナスと防御力増加・強度上昇は効果的であるが、開発者のグリムロック本人が試しにつけてオフ状態で泡拭き痙攣1歩手前になる程度にはフィードバックが酷い代物らしいのでまず大量生産も流通も無いだろう。そもそも素材も割とレア度が高いしな。逆に言えば、大ギルドならば相応の数が揃えられるという事だ。

 

「エドガーに生産を依頼するか?」

 

 教会ならば『狂信者用』とかで欲しがるかもしれない。自罰を与える鞭的な役割はできるかもな。意外と売れるか? これはグリムロックの開発特許でまさかの黄金林檎の安定した収入源獲得チャンス到来か? アルヴヘイムから戻ったら右腕用も準備しないといけないのだが、ある程度の数を揃えておきたい。特に両足用に。

 まぁ、そんなどっぷりと教会に浸かった狂信者などそうはいないだろう。そもそも宗教とは一朝一夕に成り立つものではない。明日も見えない、完全攻略というゴールも分からないDBOとはいえ……なぁ?

 

「……行くか」

 

 コートを羽織り、今度こそ立ち上がる。3分だけのつもりだったが、5分も座ったままだった。少し気合を入れ直そう。

 薔薇のトンネルの向こう側では、まるでオレを迎えるように抜け殻のゲヘナが待っていた。ガジルとの……欠月の剣盟との戦いで更にボロボロの姿になったオレに、ゲヘナは怪訝そうに眉を顰めた。

 

「よくぞ無事に戻った。だが貴公、手ぶらとはよもや聖剣を捨てたのか? 我の見立てでは貴公こそ聖剣の資格者。聖剣の導きを得たはずだ」

 

「元より手にしてはいません。聖剣を得たのは……欠月の剣盟です」

 

「……そうか。あの深淵狩りたちは届いたのだな。始祖アルトリウスより続く、深淵狩り達が追い求めた聖剣に。たとえ贋作であろうともな」

 

 感慨深そうにゲヘナは微笑んで頷く。深淵の主の抜け殻が宿敵を賛美する。それ程までに聖剣を手にしたのは尊い事柄なのだろう。増々以ってオレには聖剣など相応しくないな。

 

「その件ですが、オレは聖剣には真贋などの区別など無いのではないかと思います」

 

「ほう?」

 

「そもそも深淵狩りの始祖アルトリウスは聖剣と出会ったと伝説にはあります。彼は月光が映し込まれた水面を掬い取ることを選び、それが彼の聖剣となりました。以来、誰1人として真なる聖剣を得た者はいない。でも、資格者の数だけ聖剣は同じ特徴を持っていても様々な姿になって現れます」

 

 アルトリウスの聖剣も欠月の剣盟の聖剣も、どちらも光波という特徴こそ宿していたが、その宿した光の色も含めて異なるものだった。

 彼の群青のマントを模したような青の月光を宿したアルトリウスの聖剣。月明かりの墓所で咲き乱れる黄金の薔薇と同じ金色の月光を持つ欠月の剣盟の聖剣。いずれも彼らにとって唯一無二の聖剣だったはずだ。

 

「そもそも真贋など無く、己が望んだ聖剣を得る……か。フフフ、聖剣に固執しない深淵狩りの貴公らしいな。始祖アルトリウスすら月光の聖剣を得ていない以上、確かに深淵狩りにとって聖剣の真贋など問う価値などなく、聖剣に見える事自体が誉れか」

 

 納得した様子のゲヘナは伯爵城に誘うように背を向けて歩き出す。それに続くオレであるが、右足の動きが鈍く、何もないところで派手に転倒する。驚いた様子のゲヘナは振り返るも、心配無用と微笑んでオレは自力で立ち上がる。

 右膝から下の感覚がやはり鈍っているが、それ以上に痺れが深刻だ。致命的な精神負荷の受容は比較的短かったとはいえ、それでも影響は着実に蓄積されている。後遺症は悪化している。

 まだ戦えるさ。ほら、もうちゃんと歩ける。バランスを取るのが今までよりも更に難しくなっただけだ。両腕のように完全に感覚を失った場合は『処置』の必要性が出るが、まだその段階まで進んでいない。

 

「貴公、我には理解できぬが、どうやら良からぬ病に侵されていると見た。貴公さえ良ければ、しばしの休息を城で取ると良い」

 

「いえ、結構です。アナタに話はありますが、それが済めばすぐにでも出発する所存です」

 

「ほう? 随分と焦っているようだな。アルヴヘイムが深淵に蝕まれて久しい。今更焦るほどの事でもなかろうに」

 

「深淵は関係ありません。ご存知ないのも無理のない事ですが、アルヴヘイム全体で反オベイロンの動きがあります。オベイロン討伐の為、オレはユグドラシル城に結界を張る残り2つの証を手に入れなければなりません。その為にもシェムレムロスの兄妹の元へ向かうつもりです」

 

 ゲヘナがいた礼拝堂に到着し、オレはランスロットの話を抜け殻とはいえ、彼が守り抜いた秘密たる『ゲヘナ』について尋ねようと口を開く。だが、ゲヘナは焦るなと言わんばかりに、あるいは忠告があると言うように目元を厳しくした。

 

「シェムレムロス……か。貴公、あの者と関わり合ってはならぬ。シェムレムロスの【アルテミス】はシース公爵の弟子。アルテミスは魔道の祖たるシース公爵より智慧を授けられた魔法の極み。それだけではない。シース公爵の悪しき研究にも魅入られていた。アルテミスは母国ヴィンハイムの竜の学院で自分の派閥を作るのみならず、数多の狩猟者を放ち、シース公爵と同じく人攫いに興じ、実験材料にして『永遠』の研究に没頭していた。だが、【岩のような】ハベルを信奉する戦士団とヴィンハイムの魔法剣士隊が手を組んでアルテミス一派を壊滅に追い込んだ」

 

 この口ぶりから察するに、どうやら彼女は単に抜け殻ではなく、ゲヘナ本人の記憶や知識をある程度は有しているのかもしれない。どちらかと言えばオリジナルのサチと『サチ』の関係に近いかもしれないな。

 だが、どうやらシェムレムロスの兄妹……特に妹のアルテミスはオレが言うのもなんだが、かなり捻じ曲がった性格と思想の持ち主のようだ。『永遠』なんてものを研究している時点で嫌な予感はしていたが、どうやら厄ネタという意味では、ランスロットや穢れの火以上のアルヴヘイム最大級の『ハズレ』と見て間違いなさそうだ。

 

「しかし、アルテミスは狡猾だった。奴は既に火の世界で成すべき研究を終え、鱗が無い古竜シース公爵が『不死』という『永遠』を求めたように、彼女が欲する『永遠』を得る研究の基礎を終えていた。そして、ヴィンハイム地下に築いたアルヴヘイムへの門を通じてこの地に至ったのだ。後にアノールロンドがオーンスタイン卿の部下の1人【砂の騎士】に命じてアルヴヘイムへの門を封じさせたと聞いた」

 

 魔法は白竜シースを祖としている。それはDBOで最も古い魔法の学び舎、ヴィンハイムの竜の学院からも判明している事だ。魔法に竜が象徴的に扱われているのは、全ての魔法の原点はシースにあるからだ。そして、どうやらシースはオレが知る以上に狂った竜のようだ。『狂う前のシース』に会う事がDBOの『完全攻略』に不可欠のはずだ。だが、そもそもイカれた研究を始めてしまうのが『狂う前』ならば、素の状態でまともな会話は期待できそうにないな。

 

「アルテミスはアルヴヘイムに至った後、翅を持つ者……妖精たちを新たな研究材料として着目した。それも『永遠』に魅入られた妖精たちを狩猟者に仕立ててな。師より創造の秘儀を授けられて生み出した月光蝶はその名残。アレは良質な研究素材を見つける為に空を舞う。今も人攫いを続けているかどうかは定かではないが、シース公爵の弟子が研究を諦めたとは思えぬ。貴公、注意せよ。始祖アルトリウスが聖剣に見えた最初の神族であるならば、白竜シースは最初の火が起こるより前に、聖剣に出会った古竜。自らの尾に【月明かりの大剣】を埋め込んで力を得たと聞く。無論、アルテミスもそれを知っている。師と同じ力を得る為ならば聖剣を欲するはずだ」

 

「理解しました。十分に注意します。ですが、証を手に入れる為にシェムレムロスの兄妹に接触が必要である以上立ち寄らないという選択肢はありません」

 

 オレの発言に、ゲヘナはどうやっても捻じ曲げることはできないと察したのだろう。呆れ果て……だが、貴公は本当に面白い深淵狩りだ、と嬉しそうに呟いた。

 

「貴公の話は分かっている。ゲヘナとランスロットの物語だろう? 少しならば語らっても良いが、抜け殻である我に全てを告げる資格はない。故にしばし待て。聖剣を得た深淵狩りの名誉を讃える為、堕ちた彼らを討ち取った貴公を主賓として晩餐を開きたい。その時に語り聞かせよう。こちらの鍵を使うが良い。深淵に染まった騎士と亡霊が徘徊せぬ客間を開けられる」

 

 銀色の鍵を渡されたオレは今すぐでも話を聞きたいという衝動を抑える。抜け殻のゲヘナは伯爵領を壊滅させた張本人だとしても、今は悪意など無く、ただ自らが抜け殻である事の無為に苛まれ、深淵狩り達すらも讃えらえる淑女だ。『獣』ではなく、彼女もまた『人』であらんとしている。ならば、オレは彼女の言葉を信じ、晩餐まで待つとしよう。

 しかし、亡霊と騎士だらけの伯爵城で安全地帯などあるのだろうか。まだボイコットはしていないヤツメ様は黄金の稲穂を握り潰したまま、やや怒った眼でオレの隣を歩いている。この様子だとゲヘナが『騙して悪いが』をする気は無さそうだ。

 鍵の説明文に従い、双頭の馬に跨る騎士が刻まれたドアの鍵穴に差し込む。開錠された先は明らかに客間というよりもこの城の主……伯爵と伯爵夫人の寝室だろう、豪奢な部屋だ。今も埃1つなく赤い絨毯が広げられ、四方の隅には黄金の薔薇が生けられた花瓶が置いてある。そのせいか、甘ったるい香りが部屋全体に充満していた。

 ゲヘナめ。気を遣ったのか知らないが、こんな部屋では逆に気など休まらない。ダブルのつもりなのだろうが、明らかにサイズが大き過ぎるベッドに腰かけ、背中の死神の剣槍を外して壁に立てかける。ザリアも外してテーブルに置き、贄姫だけを護身として抱える。

 

「アルテミス。狩人の守護者……ね」

 

 イーストノイアスで出会った騎士エルドランの言葉を思い出す。どうやらアルテミスの伝説は捻じ曲がってアルヴヘイムに広まったらしい。恐らくは彼女が用いた狩猟者は妖精たちを狩ってシェムレムロスの兄妹に献上していたのだろうが、長い時間をかけて真実は捻じ曲がり、狩人の守護者にして銀月の女神として信奉されたのだろう。月はDBOでも魔法の象徴の1つであるし、アルテミスがシースの弟子で魔法の使い手であるならば納得もいく。

 逆に言えば、シェムレムロスの兄妹は既に真実が捻じ曲がる程に、オババが『永遠』の探究の真実を知らない程に、アルヴヘイムでも古い時代に人攫いを『大っぴらには』止めていたという事だろう。それがオベイロンの反逆と時期を同じくしての場合……色々と面倒な事になりそうな気配もするな。

 それにしても聖剣の資格者……か。獣血のソウルの説明文を見る限りではオレにも聖剣の資格はあったようだが、その基準がまるで分からない。案外プレイヤーならば誰でも資格を持っているのではないだろうか。

 そういえば、ガジルがネームドとして登録される時に『コード:MOONLIGHT=HOLY BLADE』というシステムメッセージを目にしたような気がする。赤いエラー画面が渦巻いていたので確証はないが、彼を……欠月の剣盟を蝕んでいたレギオンプログラムに反応して、システムがオレと混同して聖剣を獲得するコードを発動させてしまったからなのではないだろうか。

 DBOの伝説の1つと考えていた聖剣であるが、単に武器としてカテゴライズされているものではなく、より重要な役割を持っているような気がしてならない。

 考えろ。このDBOはSAOとは違う。茅場昌彦は鉄の城の具現化を望んだ。故に彼の目的はデスゲームが開始された時点で達成されていた。だが、後継者は違う。DBOは彼にとって現在進行形で続いている『ゲーム』なのだ。そして、目の敵にしている『アイツ』の死は後継者が求める『完全勝利』の為に必要不可欠な結果だ。

 

「アルトリウス、シース、オレ……駄目だ。共通点が思いつかない」

 

 そもそもDBOの『歴史』で聖剣に見えた彼らとプレイヤーであるオレは区分すべきものなのか。いや、そもそもコードが存在するからと言ってプレイヤーに適応されるためのコードというわけでもないか。

 聖遺物か。少し調べる価値があるかもしれないな。聖遺物探索のNPCともフラグは立てているし、聖壁の都サルヴァを目指すのも良いかもしれない。そうなると……サルヴァの占有権を持つ太陽の狩猟団との交渉……つまりゴミュウが相手か。

 ……どれだけ情報とアイテムを持っていかれるだろうか? いや、この場合こそグリセルダさんの出番……駄目だな。聖遺物について調べるのはオレの勘だ。グリセルダさんの手を煩わせることはできない。

 

「ゲヘナなら何か知ってるかもな」

 

 彼女はオレに聖剣の資格があると見抜いていた。つまり、NPCである彼女にはシステム的に、あるいは客観的に聖剣の資格者を判別できるという事だ。だが、ゲヘナの性格からすると簡単に教えてくれそうにない。

 

「ほう、貴公。我に訊きたい事が増えたのか?」

 

 そして、いつの間にいたのか、オレの右隣にはゲヘナが腰かけていた。赤いドレスを着た彼女の妖艶な笑みに、オレは嘆息する。

 

「アナタの寝室であると重々承知していますが、客人としてオレを招いた以上はノックくらいしていただきたいものですね」

 

「すまない。貴公の驚く顔を少しでも見てやろうと思ってな。フフフ、しかしだな、貴公はとてもランスロットに似ている」

 

 オレとランスロットが似ている? ご冗談を。ランスロットの真実の片鱗を見た今では彼とオレが似ているとは思えない。

 否定がそのまま表情に出ていたのか、ゲヘナは楽しげに笑う。出会った頃は笑顔など知らないような顔だったのに、今はとても自然に、明るく、華やかに笑う。それは抜け殻の彼女が持つ『本物』の残滓なのだろうか。

 抜け殻のゲヘナは深淵の主に戻ろうとしていた。本物に成り代わって深淵の主として復活しようとしていた。ランスロットの忠義を彼女も知っているはずだ。ならば、彼女もまたランスロットの忠義を終わらせたがっている1人なのかもしれない。自分が深淵の主として復活し、討たれることで、彼を名誉ある深淵狩りに戻そうとしていたかもしれない。

 

「ああ、顔ではないぞ? ランスロットは頑固者で、無理をしても平然として、分かり辛いがとても愛情深い男だった。貴公も同じだ」

 

「…………」

 

「だから言おう。休め、貴公。我でも分かる程に貴公は死に瀕している。このまま戦い続ければ……死ぬぞ?」

 

「話はそれだけですか? でしたら、オレはもう出立します。ランスロットの話を聞けないのは残念ですが、アナタの語りだけでも十分に彼の性格は分かりました。それだけで――」

 

 休んでいる暇など無い。シェムレムロスの兄妹を倒して証を手に入れる準備を進めないといけないのだ。

 だが、ゲヘナは立ち上がり、オレの正面に移動すると何処か寂しそうな顔で首を横に振る。

 

「貴公は死を恐れぬ。それは深淵狩りの共通点とも言えるだろう。彼らは死を恐れず、むしろ死の先にこそ名誉があると信じていた。そう信じるしかなかった」

 

 ああ、そうかもしれないな。ゲヘナの言葉は限りなく真実に近しいだろう。

 アルトリウスは死を恐れなかった。むしろ、騎士としての誇りを抱いて死ぬことを本懐としていた。それが戦闘狂である彼らの願いだった。

 トリスタンにしてもそうだ。彼は確かにランスロットの裏切り……愛した太陽の温もりこそが彼に地獄の責め苦にも等しい『騎士の忠義』を求めた。いや、ランスロットの深淵狩りの誇りと騎士としての忠義を『利用した』と知って絶望して深淵に堕ちた。だが、彼は自らの誇り高い死を望んで散った。

 欠月の剣盟も同じだ。彼らは死こそが遺志の継承だと信じ、束ね、そして古い深淵狩りと同じ境地に至った。その体現者として欠月の剣盟の歴史と遺志を背負った深淵狩りのガジルもまた死を決して恐れずに戦い抜いた。

 

「だが、彼らは死を恐れぬだけ。死の恐怖を乗り越えるに足る信念が、矜持が、理想があっただけだ。だが、貴公は違う。根本的に違う。貴公の目は……死を淡々と摂理として捉えている。それでは駄目だ。改めて言おう。貴公よ、休め。その病の詳細は分からぬが、一刻でも長い休養こそが貴公の『命』を繋ぐはずだ」

 

「死に恐れなど不要。『命』は循環するものです。ゲヘナ、アナタには分からないかもしれませんが、オレは狩人として――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃあ駄目なんだよ、『クー』!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 途端に散ったのは黄金の薔薇の花弁。その向こう側で赤毛を揺らしていたゲヘナの姿が鏡のように割れる。

 窓から差し込む黄昏の光で踊っていたのは黒紫の髪。双眸で踊るのはゲヘナの翡翠の陽光ではなく赤紫の月光。その姿は変わらず彼女の赤ドレスのままであるが、背丈は小さくなっている。

 ユウキの姿を取ったゲヘナの頭上にあるのは<抜け殻のゲヘナ>というHPバーだった。その数は1本だけだ。だが、それは彼女が……アルヴヘイム改変前から存在したネームドであると証明する。

 

「……ボクはゲヘナ。深淵の遺物、ゲヘナの鏡の1つ。鏡に映った彼女の深淵の力の残滓。神族と人の血を継ぐ半神半人の幻影。有り得たかもしれない光と闇が手を携えたかもしれなかった未来の残骸」

 

 跪いたユウキの姿をしたゲヘナがオレの左手に触れる。まだ疼く痛みは彼女の温かな……深淵のどろりとした生温かさを感じさせる。たとえ抜け殻であろうとも、彼女もまた深淵の存在であるのだと教える。

 

「これはボクの力。ボクに残された、たった1つの本物のゲヘナの力。ボクには感じ取ることができる。心の奥底にある『愛情』を知り得て、その姿を写し取ることができる。この力を使ってボクは伯爵を誑かした。キミの愛情はまるで迷宮のように入り組んでいて、混沌として、全容が分からない。だけど、『彼女』には強い愛情があった。だからこそ、この姿を選んだ。ボクは『キミが愛する人』を再現する。そうしてでも、キミを止める」

 

 抜け殻のゲヘナは月明かりの墓所で本来は待ち構えているべき聖剣の霊廟への案内人であり、同時に門番の役目を担っていたのかもしれない。そして、たどりつくだろう『アイツ』の前でその深い愛情……アスナの似非を取って立ち塞がる。

 たとえ偽者だと分かっていても『アイツ』の剣は鈍るだろう。そして、斬った事への罪悪感も生まれる。『愛情』のスキャンはMHCPと同系統の能力か。後継者め。本当に『アイツ』絡みになると容赦がないな。心を抉るだけ抉った後にランスロットの相手をさせるとか殺意が半端無い。ある意味ではクリスマスダンジョンにも匹敵する程に精神攻撃たっぷりのダンジョンだったかもしれないな。

 

「ランスロットの話が聞きたいって言ったね? 教えてあげるよ。ランスロットの本当の地獄は、深淵と太陽が手を取りあえる未来を摘み取った事だよ。ゲヘナを光と闇はいつか反発することなく融和する象徴にすれば、未来に起きる多くの災厄を食い止められるかもしれないと理解していた。だけど、彼には出来なかった。深淵狩りが深淵狩りであり続けるには深淵という『敵』が必要だから。神々にとってもゲヘナは何としても隠して葬り去りたい恥部だから。何よりも、そんな責務をゲヘナに背負わせたくなかった。『ただの少女』として彼女に生を全うさせ、死なせたかった。彼は愛し過ぎていた。神々も、深淵狩りも、友も、ゲヘナも……」

 

 ゲヘナの目に涙が溜まる。気丈に振る舞っていたゲヘナの名残は無い。それは決壊した彼女の気持ち……ゲヘナの記憶と向き合い続けた抜け殻だからこその、客観して整理し続けていた、本物に成り代わって深淵の主を目指した似非だからこその、ランスロットへの想いの奔流だろうか。

 

「キミにランスロットと同じ道をこれ以上歩んでほしくないんだ。もっと自分を大切にしてあげて」

 

「…………」 

 

「ランスロットは深淵狩りの……友の誇りの為に、太陽の温もりが求めた忠義の為に、ただの少女として生きるゲヘナの為に……未来永劫に続く咎を背負った。道は違えども、キミ達は同じだよ。どちらも自愛できない破綻者なんだ」

 

「そうかもしれませんね。でも、それで構わないと思っています。オレには誇りがあります。狩人の血の……ヤツメ様の血の……先祖たちから継承した血の誇りが。ならば、オレはそれと共にあり続ける。それだけで十分です」

 

 ランスロットは『未来』を求めていなかった。

 騎士としての忠義と深淵狩りとしての責務の狭間の中で、世界の命運を変えかねない決断を迫られ、彼は『有り得たかもしれない光と闇が手を取り合う未来』を握り潰した。

 ユウキの姿を得たゲヘナは何処か遠くを眺めるように……きっとオレにランスロットの面影を重ねるようにこちらを見つめる。

 

「やはりそういう頑固なところ……1番似ているよ。うん、ランスロットに本当にそっくり。いつだって1番に卑下するのは自分なんだ」

 

 再びオレの隣に腰かけたゲヘナがランスロットを撫でるようにオレの頬に触れた。濡れた双眸は何かを決心したように意思が宿っている。

 

「……『この姿』は貴公が向ける強い愛情の1つ。だからこそ、貴公の心を少しは揺さぶれると思ったのだがな。全く、本当に頑固者だよ」

 

 黄金の薔薇の花吹雪の向こう側で鏡が割れる音が響く。元の姿に戻ったゲヘナは疲れ切った顔でベッドに横になった。

 

「愛は人を動かす最も強い原動力。憎悪と並ぶ根源に通じる感情。愛憎とはよく言ったものだ。伯爵も我の虜になっていたようで……だからこそ、最後は我に対して憎悪に駆られたのかもしれんな。だが、そこにあるべきは『本物』の感情だ。相手の心に潜む愛情の残影を映すに過ぎない我では何も動かせぬ。何も成せぬというわけか」

 

 諦めたようにゲヘナは微笑む。その赤毛も翡翠の瞳も本物の残滓に過ぎないのかもしれない。それでも、今ここにいるのは『抜け殻のゲヘナ』という、感情と心を持つ個なのだろう。だからこその苦悩があったのだろう。

 

「最後にもう1度だけお願いしよう。貴公は休むべきだ。自らの『命』をもっと大事にすべきだ。頼む、シェムレムロスの所には行くな。ランスロットとも戦うな。貴公には許されるはずだ。『あの娘』も貴公に言ったはずだろう? 投げ出しても良いのだ。誰も責めなどしない。貴公自身が認めやるのだ。『自分は十分によく戦った』とな」

 

 それはザクロの言葉だろう。オレは彼女を殺したがっていた。それは……少なからずの好意を彼女に抱いていたという事だ。

 仲間への、友への、異性への……愛。それらを覗き込めるゲヘナにとって、彼女自身が抜け殻に過ぎないという残酷な真実は……すべてが空虚だったのかもしれない。

 深淵の主にすらなれなかった抜け殻のゲヘナ。ネームドとしての役割を全うしなければならない抜け殻のゲヘナ。そして、彼女は自分の『命』の使い道を決めた。

 後継者はある意味で正しく、ある意味で間違っている。『命』の有無。それは苛烈な闘争心や殺意を発露させ、AIの自己保存プログラムという枷を振り払った『死』の恐怖を踏破する信念・理想・矜持・願望を脈動させ、オペレーションに従うAI以上の戦闘能力を引き出すことが出来るだろう。

 だが、オレは知っていたはずだ。『命』があるからこそ闘争を否定する、自らのネームドとしての役割を拒絶する、『命』あるAIを知っている。

 抜け殻のゲヘナもまた『命』を持つからこそ、アルヴヘイムでの長い長いイレギュラーな時間、月明かりの墓所からの解放、そして伯爵領での日々と破滅の後の孤独で……彼女は足掻き苦しんでいたのかもしれない。

 

「……ありがとうございます、ゲヘナ。でも、オレは止まれません」

 

「即答か。やはり『愛情』を透かし見ても、我は鏡に過ぎぬか。それとも貴公が向ける友愛……『あの男』の姿を取った方が良かったか?」

 

 何にしても同じだ。オレはゲヘナの望みを理解し、贄姫を抜く。

 彼女は『終わり』を求めている。彼女はネームドだ。『倒されるべき存在』なのだ。1度でも真の姿を露にすれば……もう、オレとは殺し合うしかない。

 逃げるという選択肢もある。オレが無様に背を向けて逃亡すれば、ゲヘナの『命』は今だけならば助かるだろう。だが、それは延命処置とも呼べないゲヘナの覚悟を踏み躙る外道だ。

 

「ユウキでも『アイツ』でも、オレは同じ回答をしていました。抜け殻のゲヘナ……こんなオレを気遣ってくれた『アナタ』に感謝します」

 

「……そうか。貴公はこんな我すらも『愛している』のか。抜け殻に過ぎぬ我の『命』すらも愛するのか」

 

 抜け殻のゲヘナ。彼女もまた『人』なのだ。オレが敬愛してやまない『人』なのだ。そこに疑問を抱く余地はなく、また彼女の『命』に敬意を表するのは当然のことだ。

 贄姫を鞘から抜き放つ。ゲヘナを少しだけ『殺したい』という意思が芽生えたせいか、指先まで殺意が蠢いて、彼女の首に刃を潜り込ませ、抉り、悲鳴を聞きたいと感じる。それを一息で捻じ伏せる。

 

「死は怖いですか?」

 

「いいや、怖くない。既に受け入れてある。貴公に討たれるならば……深淵狩りに討たれるならば、抜け殻でも深淵に列する者らしいだろう。いや、むしろ深淵狩りに討たれる日をずっとずっと待っていた」

 

 贄姫を両逆手で握り、ゲヘナに跨ったオレは……彼女の心臓に躊躇なく刃を振り下ろす。鋭利な切っ先は柔肉を貫き、その触感は痛みとなって右腕が脳髄に伝わる。

 ネームドのHPだ。簡単に削り切れなどしない。だから深く、より深く、長く、彼女のどす黒い深淵の血が溢れる中で、オレは贄姫を刺し続ける。

 

「ランスロットはゲヘナを殺すべきだった。深淵狩りとして『敵』を討つべきだった。だから……だから、我は深淵の主になりたかった。ランスロットに討たれるべき『敵』になりたかった。彼を深淵狩りに戻してあげたかった」

 

 ゲヘナのHPが赤く点滅する。彼女はランスロットの幻影を見ているようにオレへと手を伸ばす。

 オレの胸に触れたゲヘナは愛おしそうに撫で、やがて瞼を閉ざした。

 

「本物はな、ランスロットに父を感じ、兄を感じ、恋人を感じていた。自分を見守り続けるランスロットに……『幸せ』になって欲しいと望んでいた。それが間違いなのか? 我は……我はただ……ランスロットの『敵』になりたかった。ランスロットの望んだ『幸せ』な日々を全うした本物の代わりに、彼に――」

 

 その最期の言葉は唇だけが動くに止まり、HPが尽きたゲヘナは黒い血……いや、深淵の泥の塊となって崩れた。

 残されたのは白い靄の内で散乱する小さな黒が特徴的なソウルだった。黒炎や闇術からも分かるように、DBOにおいて闇はその輪郭に白い靄がつきものだ。だが、このソウルは本来は闇を誇張する白い靄ばかりのソウルである。

 贄姫を鞘に収め、オレは抜け殻のゲヘナのソウルを手に取り、その説明文を開く。

 

 

<抜け殻のソウル:深淵の主ゲヘナの似非、鏡に映った残滓のソウル。これは空虚な抜け殻に過ぎず、故に意味はない。だからこそ抜け殻のゲヘナはソウルを満たす闇を求めていたのだろう>

 

 

 このソウルは抜け殻のゲヘナの苦悩そのものであり、本物に成り代わってでもランスロットを救おうとした尊い『人』の意思なのだろう。たとえ、それが伯爵領の破滅をもたらしたとしても、彼女への嫌悪などなく、その『命』もまた糧にしよう。

 ゲヘナは神族と人間の混血。グヴィネヴィアの落胤とはそういう事なのだろう。ならば、ランスロットの忠義は正しく『後始末』を押し付けられた、深淵狩りという闇に穢れた者の厄介払いだったのかもしれない。そして、きっとランスロットは気づいていたのだ。自分の忠義は神々の都合で振り回されているに過ぎないと分かっていたはずだ。

 それでもグヴィネヴィアへの忠義を捨てられなかった。ゲヘナを守る事を選んだ。深淵を自分に封じ込め続ける事を選んだ。光と闇が手を取り合う未来を摘み取った。そんなランスロットを……抜け殻のゲヘナは救いたかったのかもしれない。それが伯爵領の悲劇を生んだのかもしれない。

 

「……戦わない覚悟、か」

 

 それもまた『人』らしい『命』の使い道なのだろう。たとえ理想に過ぎないとしても、踏み躙られて嘲笑される愚行だとしても、深淵の主になれなかった抜け殻の彼女が……永久とも思えたアルヴヘイムでの時間で導き出した『答え』だったのかもしれない。

 オレとは縁遠い、とてもとても優しい『強さ』だな。ならば、このソウルには意味がある。その誇りも理想も信念も関係なく、その『命』を糧しよう。

 

「抜け殻のゲヘナ。祈りもなく、呪いもなく、安らかに眠れ」

 

 悪いな、抜け殻のゲヘナ。命を懸けてオレに休息を訴えたのは、オレにランスロットの面影を重ねたアナタの願望だったのかもしれない。だが、オレもランスロットも止まれない。オレ達に必要なのだ。情け容赦ない、相手を殺しきる為の死闘が必要なのだ。それはランスロットの過去を知ったからこそ分かる。

 ランスロットは既に『答え』に至っている。ならば、後はそれを全うするのみ。対してオレは未だ『答え』を得られない迷子のままか。

 ランスロットを超える為には必要なのかもしれない。黄金の稲穂……過去に残した狩りの全うの意味を……そこにあるはずだろう『答え』を。

 伯爵城を出発し、月明かりの墓所に戻ると欠月の剣盟が利用していた空間の亀裂に飛び込み、繋ぎ合わされた城下町の下水道に着地する。深淵の泥のニオイに満ちた闇の下水道もまた迷路のはずだ。十分に注意して脱出を目指すべきだろう。だが、それでも伯爵城を通り抜けるよりも幾分かは楽なはずだ。

 携帯ランプを腰に付け、背負った死神の剣槍の重さを感じながら、1歩1歩を踏みしめる。

 

「聖剣の資格については分からないまま、か」

 

 惜しいとは思わない。ゲヘナは何か知っていたかもしれないが、手元に無いものにあれこれ拘っても仕方がないのだ。今あるカードを活かす方向が現状では最優先だ。

 

「しかし、ここは何処の辺りなんだ?」

 

 欠月の剣盟は目印らしきものを準備していない。恐らくは何かしらの法則に従って駆け抜けたのだろうが、それを知らないオレでは下水道の突破は容易ではないかもしれないな。とりあえず地上への出口を探すとしても、顔を出したら大軍に囲まれているという事もある。さすがに現状でオーガビーストと戦うのは避けたい。

 出現するのは巨大鼠ばかりだ。犬ほどの大きさで俊敏であり、DBOでも初期から登場する犬ネズミと同系統だろう。だが、深淵の泥で膿で膨らんだ腫瘍で皮膚を盛り上がらせたネズミは間違いなくデバフ持ちだ。攻撃に当たらないように注意しつつ、適度に進まねばならないだろう。

 幸いにも力尽きた深淵狩りの剣士たちの遺体が倒れているお陰で、それを追うことで出口を目指すことができる。そうしてようやく太陽の光を目にして出てみれば、城下町の排水が流れ込む水路にたどり着く。いずれも深淵の泥で浸されている。猛毒地帯と一緒だな。

 梯子を上れば城下町の南端らしく、民家は少ない。オーガビーストが3体ほどウルの森に消えていく姿を目にしながら、悲劇を保存した伯爵領を振り返る。

 

「……食事だけでも取るか」

 

 下水道設備を担う管理小屋の陰で壁にもたれ掛かり、残り少ないゴム質の保存食を取り出す。味も何もないそれを食い千切りながら、アイテムストレージの整理をする。

 アルヴヘイムの旅路で得たのはソウル系アイテムはホルスのソウル、トリスタンのソウル、獣血のソウル、そして抜け殻のソウル。計4つだ。ソウル系はアイテムストレージを事実上消費しないので特に気にしないが、アルヴヘイム突入時は限界まで詰めたはずのアイテムストレージも随分と寂しい事になっている。主に弾薬が関係しているのであるが、それ以外にも消耗は多かったからな。

 ザリアのほぼ空のエネルギー弾倉をパージし、新しく2つをセットする。連装銃は残り2射分。贄姫には薄くだが亀裂が入っている。死神の剣槍は健在であるが、細かい傷が目立って消耗具合を教えてくれている。

 鋸ナイフも数は少ない。シャロン村で仕入れた粗鉄ナイフも底が尽きかけている。牽制用の魔力壺も1桁。強化手榴弾はランスロット戦で使う為にも残しておきたい。虎の子の聖水オイルもそうだ。

 保存食はあと3食分。水筒の水は新しく補給できるので問題はないが、携帯ランプの燃料が心許ない。松明の仕入れを検討すべきだろう。ザクロの弁当は……もうしばらく取っておくとするか。現実世界と違ってアイテムストレージに入れ続けておけば耐久度は減らない。保護していない飲食物を腐らせるトラップもあるのだが、その時はその時だ。

 

「……耐えられるか?」

 

 シェムレムロスの兄妹と穢れの火。オレはこの2体も倒す想定で動いている。他の【来訪者】の動きが分からない以上は最悪を想定しておくべきだ。そして、これら2体を倒すとなれば武器の損耗は一気に激しくなる。

 ザリアのエネルギー弾倉は装填した2つを除けて残り2つ。ネームド戦1回くらいならばフル使用のペースでもランスロット戦まで温存できる。だが、贄姫は今回の欠月の剣盟戦で無理をさせ過ぎた。注意が必要だろう。死神の剣槍は……まぁ、大丈夫だろう。耐久度は高いしな。

 

「せめて投げナイフだけでも仕入れたいところだな」

 

 反吐が出るほどに不味いと有名な保存食なのだが、アイテムストレージの消費が低いのでオレにとっては有用な食料だ。このゴムみたいな歯応えにも慣れた。ひたすらに齧っては噛んで呑み込むを繰り返しながら、この苦境の突破方法を考える。

 

「……ナグナの赤ブローチ」

 

 胸にある真っ赤な赤いブローチに触れ、オレはこれを使用した場合のリスクを考慮する。グリムロックも他の使い道が無かったというだけあって強力ではあるが、劇的に変化するほどではない。何よりもオレでは使いこなすにしてもリスクが大きい。だからこそ、グリムロックも『切り札になり得る』と言いつつも積極的な使用を推奨していない。断じて、後から素材にして強力な武器に作り替えるとかそんな腹積もりがあるわけではないはずだ。

 純粋に不安要素があり過ぎる。安定性に欠けた武器を扱うのは慣れているが、ナグナの赤ブローチは区分そのものが異なると言っても過言ではない。こういうのは『アイツ』の方がずっと有利に使用できるだろう。

 今回の伯爵領で得られた感覚麻痺の霧はボスやネームドにはあまり効果が無いだろうが、ここぞという場面で相手の回復を鈍らせるならば使い道もある。伯爵の剣はオレでは使い道がないが、何かしらのトレード材料にはなるだろう。あの絢爛豪華な片手剣ならば買い手にも欠かないだろうしな。

 

「何にしても変わらないか」

 

 伯爵領。思えば色々な事があったダンジョンだった。後継者の乱入もそうであるが、伯爵領の悲劇、抜け殻のゲヘナの苦悩、そして欠月の剣盟。

 食事を終え、ウルの森へと向かいながら、最後にもう1度だけ伯爵領の終わらぬ黄昏色に染まった街並みとその向こうにある伯爵城を眺める。

 もしも……もしもオベイロンが倒された時にアルヴヘイムが元の姿に戻るならば、この伯爵領も消え失せてしまうのだろう。

 それは何だか物悲しくて、オレは少しだけでも……たとえいつか灼けてしまうとしても、この黄昏の伯爵領を憶えていたかった。

 

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「ボクは反対だよ。レギオン殺すべし」

 

「だが、彼女が持っているのは間違いなくシェムレムロスの兄妹の居場所に通じる鍵だ。それに、あんな可憐な娘が危険だと言われても信じられん」

 

「俺も危険だとは思う。けど、彼女がドラゴンクラウンを持っているし、強くは出れないな。何よりも敵意が無い女の子に剣を向けるのはちょっと……な」

 

 これだから男共は! 虹色の髪の乙女、聖女のような微笑みを絶やさないグングニルと名乗った少女から少し離れた場所、かつてはどんな施設だったかも分からないほどに崩落し、焼き焦げた建物の残骸の物陰にて、ユウキ達はこの事態にどう対処するか会議を開いていた。その中でユウキはグングニルに甘い反応を示す男たちに頭を抱えそうになる。

 グングニル。その身からは覇気と呼べるものはなく、むしろお花が飛んでそうな程にほわほわとした空気を放出している。彼女の周囲だけ春の日溜まりのようであり、その身が動く度に荒野に草花が溢れそうな程に優しい笑顔だ。

 女の子大好きのアリーヤも尻尾を振らずにはいられない美少女である。黒狼の首根っこを掴んでストップをかけながら、ユウキは改めてグングニルを睨む。すると彼女は何を勘違いしてか、好意的に手を振って調子を狂わせてくる。

 

「アレは間違いなくレギオンだよ。その……はず、だよ?」

 

 だから問答無用で斬るべきだ。そう宣言したいはずのユウキなのに、自分の『愛』の直感に疑念を持ってしまうのは、グングニルが今まで出会ったいかなるレギオンよりも『レギオンらしくない』と呼べる存在だからだろう。

 大なり小なり、たとえ紛い物であろうともレギオンはクゥリの本能……その殺意を受け継いでいる。それは残骸とも呼べない贋物だ。だが、グングニルはそんな『悪臭』さえも歪んでいるのだ。

 

「レギオンか。キミ達が言う危険な怪物という認識だったが、あの少女もそうなのか? とても怪物には見えんが……」

 

「レギオン絶対殺すガールのユウキが言うんだから間違いないだろうな。俺にはどう区別しているのかサッパリだけど」

 

「……むしろキミが分からない事に言い知れない失望感を抱くボクの気持ちはどうすれば良いんだろうね?」

 

 相棒だったくせに、たとえ贋物であろうとも、あんなにも分かり易いクゥリの殺意が分からないなんて、本当に失格だよ! ユウキの中でUNKNOWNの株が理不尽に下落する。だが、分かる方が異常だと彼女には自覚がない。

 

「言っておくけど、ボクだってレギオンの全部区別つけられるわけじゃないよ。だけど、グングニルは間違いなくレギオン……のはず」

 

 言い切れないせいで説得力が欠けているのは自覚しつつも、ユウキは何度もグングニルをチラ見して本当に自分の直感が正しいのか疑問を際限なく抱いてしまう。

 UNKNOWNは腕を組み、右手に握るメイデンハーツの剣先で地面を数度叩いた。

 

「彼女がレギオンという前提で、注意を払いつつ、コミュニケーションを図る……はさすがに策になってないよな?」

 

「中途半端は1番危険だろう。幸いにも彼女自身は手練れとは思えん。私達ならば囲めば剣も鍵も奪えるとは思うが……」

 

「いっそ拘束して情報を引き出すのも有りじゃないかな?」

 

「情報といえば、ご存知ですか? オベイロン王の正体は須郷という普通の人間だったAIなんですよ。茅場の後継者さんが招き入れた御方なんです」

 

 へぇ、そうなんだぁ。いきなり飛び込んできた重要情報にユウキは頷きながら、そもそも須郷とは誰なのか見当もつかない彼女には猫に小判であり、UNKNOWNの驚いた様子だけが伝わり、そして10秒遅れで自分たちの円陣会議にいつの間にか参加しているグングニルに剣を向ける。

 まるで気配がしなかった。それは歴戦の戦士であるUNKNOWNもガイアスも同様なのだろう。忍び足という次元ではない。殺意も戦意も欠片も無いのだ。そのせいで接近を許してしまったという危機感がユウキに冷や汗を強要する。

 

「私、何か余計な事を申しましたでしょうか? あ、少々お待ちくださいませ。母上から『喋ってOK帳』をいただいております。今確認を……」

 

 ユウキの剣が喉元にあり、あと1ミリも押し込めば柔肌を裂いて潜り込むにも関わらず、グングニルはまるで気にした様子もなくポケットから小さな手帳を取り出して開く。その動作のせいで切っ先が皮膚を破り、どろりと赤い血が零れた。

 

「ふぅ、大丈夫です。これは『話してOK』でした。他に何か知りたいことがあれば遠慮なく申しつけください」

 

 一切の敵意も悪意も戦意も殺意も無い笑顔。毒気を抜くとはこういう事を言うのだろう。戸惑うユウキに、ガイアスは肩を叩いて剣を下ろさせる。

 

「とりあえずは『利用する』でどうだ? ここまで危険を感じないなど赤子ですらない」

 

 困惑はガイアスにも及んでいるらしく、戦士の直感を疑う程にグングニルからは危険性を感じないようだ。

 頭では分かっていても、その笑顔を見ていると気が抜けてしまう。ユウキは選択の行く末を求めるようにUNKNOWNを横目で見た。

 

「……まずは俺の剣を返してくれないか?」

 

 物は試しという事だろう。UNKNOWNがなるべく敵意を示さないように、だが警戒を怠らずに要求する。

 これにどう応える? ユウキも目を光らせる中で、グングニルは何の問題もないと言うように頷いた。

 

「畏まりました、剣士様」

 

 ドラゴンクラウンが躊躇いなく返却され、UNKNOWNは訝しみながらも再装備する。だが、その刀身は目に見えて刃毀れしており、亀裂も目立っていた。長期に亘って放置されていたのが原因だろう。

 

「どう?」

 

「……使えない事もない、かな? 1戦に限れば耐えきってくれるはずだ」

 

 ただでさえ武器の消耗が激しくなる≪二刀流≫だ。壊れかけのドラゴンクラウンでは連戦に耐えられないという判断だろう。 

 だが、逆に言えば1戦に限ればフルに≪二刀流≫が使えるという判断だ。UNKNOWNとしてはランスロット戦にぶつけたいはずである。

 躊躇なく武器を返還し、情報も渡す。その目的は最初からドラゴンクラウンをUNKNOWNの手に戻す事、そしてシェムレムロスの兄妹の元に案内することであるならば、何ら矛盾のない行動だ。だが、グングニルに何か後ろ暗い策謀があるようにも思えない。

 本当にどうすれば良いのだろうか? レギオン相手にここまで躊躇するなどあってはならない事なのだが、ユウキは今でこそ下ろしたスノウ・ステインから迸る冷気を見つめる。男2人を無視して首を刎ねることこそが最良の判断だと実行したいのに、どうしてもできない。

 重ねてしまう。笑顔に重ねてしまう。ユウキが大好きな白い狩人の面影を見てしまう。

 

「えーと、ストーカー様、ですよね? 母上があなた様をそう仰っていました」

 

 その意識の隙に正確に潜り込むように、グングニルはユウキとの距離を詰めていた。その1歩がいかなる瞬間に、いかなる呼吸の狭間に入ってきたのか分からず、ユウキは増々の混乱に陥る。

 

「「……ストーカー?」」

 

 男2人にジッと嫌疑をかけられる眼差しを向けられ、それの何が悪いのかとユウキは睨み返す。本人公認のオープンストーカーなのだ。むしろ対象が目を離した隙に行方不明になるせいでストーキングしたいのにさせてくれない、存在意義すら果たせていないストーカーなのだとユウキは卑下する。

 

「母上はストーカー様が大層お嫌いのご様子でしたが、私は違います。どうか仲良くしましょう。こうして巡り合えたのも我らの王のお導きなのですから」

 

 もう訳が分からない。いよいよパンク寸前のユウキから離れたグングニルは、シェムレムロスの兄妹の元に通じるという小さな結晶を取り出す。それは元々は何かの白枝だったのだろう。結晶が張り付き……いや、侵蝕して1つの宝石のようになっている。

 あの結晶石を使えばシェムレムロスの兄妹の元へと行ける。ガイアスの話によれば、正確に言えば霊体となってシェムレムロスの館に入る事が出来るらしい。だが、ガイアスも話でしか聞いたことが無いらしく、実際にはどのような光景が待つのか、また何が起こるのかも未知だ。

 その時だった。ユウキの目の前に……いや、彼女だけではなくUNKNOWNにも1つのシステムメッセージが表示される。

 

 

 

<央都アルンを守る結界の1つが失せた>

 

 

 

 そのメッセージの意味をしばらくの間、呆けて見つめていたユウキは数度目を擦る。

 UNKNOWNの話によれば、アルヴヘイムの中心、オベイロンが待つユグドラシル城がある央都アルンは結界によって守られているという。これらの結界を破る為に必要なアイテムこそ、3大ネームドが守る証なのだ。

 無論、この情報はかつて暁の翅がシェムレムロスの兄妹より得た情報だ。信憑性に関しては高いとは言えない。だが、こうしてメッセージで表示されたのは、少なくとも何処かで誰かが3大ネームドの1体を撃破したか、その証の1つを手に入れた事を意味している。

 廃坑都市でバラバラになった【来訪者】の誰かが成し遂げた。少なくともユウキやUNKNOWNではない。候補としてはボスやユージーンが挙げられるも、ユウキは嫌な予感を募らせる。

 

「まさか暁の翅が再起したのか?」

 

 一方のガイアスは別の見解に至ったらしく、やや嬉しそうに願望を口にする。確かに彼の持つ情報の限りでは、証の収集を行う最有力候補は廃坑都市から逃れた暁の翅だ。ユウキも心情としては、暁の翅と合流した【来訪者】の誰かが証を手に入れたというケースを推したい。だが、どうしようもない程に直感が『最悪』を思い浮かべている。

 

「誰が証を手に入れたか教えてもらえないか?」

 

 そして沈黙を保っていたUNKNOWNの重々しい問いかけに、グングニルは申し訳なさそうに首を横に振った。

 

「残念ながら、私にも現在進行で起こっていることまでは。ですが、暁の翅は西にて再起を果たしています。現在、暁の翅は新たなリーダーを得て、アルヴヘイム統一と打倒オベイロンに向けて精力的に動いています。東の最大勢力であるティターニア教団を有する宗教都市が最大の反抗勢力となり、戦況は硬直状態となっていますが、新生暁の翅に属する猫様や荷物持ち様などの働きにより、暁の翅の勢力図は大きく拡大しました」

 

「猫様……シノンの事か!? 無事なんだな!?」

 

 ユウキではすぐに連想できなかったシノンについて言及され、UNKNOWNはやや浮かれた声でグングニルに詰め寄る。彼女は屈託のない笑顔で首肯した。

 

「はい、御無事です。東にはドラゴン女子様がランク1様と行動を共にし、雌伏して決起の時を待っておられます」

 

「ドラゴン女子? ああ、シリカの事か。ユージーンと一緒なら……シリカは無事だな」

 

 傭兵業界でもUNKNOWNと並んで双璧と呼ばれるユージーンの実力は信頼しているのだろう。ホッとした様子のUNKNOWNがやはり気になるのは、オベイロン派との戦争状態であるだろう暁の翅勢力に属するシノンのはずだ。なお、ユウキはわざわざグングニルが気を利かせてくれただろうレコンの情報を右耳から左耳へと一切の抵抗なく聞き流していた。

 だが、こうしてグングニルから語れる情勢についても信用できるものではない、と疑いたいユウキも、無意識のレベルでグングニルの言葉を信用してしまっている。それは彼女に悪意と呼べるものはまるで感じられないからだろう。

 

「この廃坑都市は元々アルヴヘイムにおける転送機能の役割を担っています。全ての証が解放された時、特定オブジェクトを経由した自由な転送が可能になります。現在はNPC経由の転送機能だけであり、NPCがいずれもレギオン化して機能不全に陥っていますが、母上のご命令により各転送機能保有NPCより変異したレギオンを待機させています。この廃坑都市より皆様を自由な場所に転送することも私なら可能でしょう」

 

 準備が良い。ドラゴンクラウンを確保して待機していた時点で嫌な予感は募らせていたが、ユウキやUNKNOWNの行動はレギオン側に筒抜けだったようだ。問題はレギオンとオベイロンが組んでいるならば、彼らの行動も把握されていた点である。

 だが、わざわざ廃坑都市を壊滅させ、UNKNOWN撃破にランスロットを差し向けたオベイロンが最大の罠を仕掛ける機会を見逃すとは思えない。絶望を与える巧妙な罠とも考えられるが、オベイロンは後継者よりも直接的な行動で訴えるタイプだろうとユウキは目星をつけている。

 そうなるとレギオンはオベイロンに協力こそしていても、部下の類ではなく、むしろ恣意に動いていると考えた方が妥当だ。仮面で表情を隠すUNKNOWNも同意見なのだろう。ユウキの視線に応えるように頷いた。

 このままグングニルの対応に苦慮していても時間ばかりが過ぎる。ならば、当初の目的を遂行することこそが現状に区切りをつけるとUNKNOWNも判断したのだろう。

 

「まずはシェムレムロスの兄妹の元に行こう。始めてくれ」

 

「はい、剣士様」

 

 嬉しそうに、耳を模るように跳ねた癖毛を動かし、虹色の色彩を抱く髪を揺らしながらグングニルは結晶石を掲げる。するとユウキたちを足下から結晶が侵蝕し始める。

 やっぱり罠!? そう思ったのは一瞬であり、結晶の輝きで目が眩んだ先でユウキが見たのは、まるで宮殿のように円柱が並ぶ空間だ。廃坑都市は夕暮れであったはずだが、窓からは濃い夜の……いや、夜とすら呼べない闇が広がっている。足下は大理石のような純白のタイルが敷かれているが、いずれも隙間からも結晶が生えていた。

 円柱さえも結晶の侵蝕を受ける空間をぐるりと見回せば、UNKNOWNとガイアスが立っていた。だが、グングニルの姿はなかった。アリーヤはいるのだが、不安そうに周囲を慌ただしく見回している。

 

「うわぁ……」

 

 幻想的だ。垂れ幕で覆われた天井は夜の闇を映し込んだような暗闇であり、結晶が星のように輝いている。窓の外も完全な闇ではあるが、優雅に月光蝶が舞い、その煌びやかな鱗粉を風に漂わせていた。どうやらこの部屋は何らかの建造物の上層にあるらしく、発光する妖しくも惹かれる白木の森が見える。木の葉はない枯れ木のようであり、それは植物という生物ではなく鉱物に近しい印象を見る者に与える。

 

「これがシェムレムロスの館か。ここは最上階に近しいようだが、何と美しい……!」

 

 アルヴヘイム各地を旅したガイアスも感動を覚えずにはいられない、長い妖精の歴史でも数えられる者しか目にした事が無いシェムレムロスの館の内部であり、その最上層より眺められる全貌だ。館というよりも城に近しく、巨大な建造物そのものがダンジョンとして機能しているだろう事は見当もつくほどに複雑に入り組んだ構造だと見て取れる。館の周囲を囲む白木の森も含めれば、その外観も含めて、DBOでも屈指のダンジョンの1つと呼べるだろうことは想像も難しくない。

 さすがのUNKNOWNも言葉を失う風景であるが、すぐに彼は鎖のように結晶が連なり合って覆い隠された最奥に目を向ける。

 それは数十……いや、数百の椅子が積み重なった山。それらもまた結晶の侵蝕を受け、まるで1つのように繋がり合っている。そして、山でいえば中腹とも言うべき場所、椅子でできた玉座のような場所に腰かけている人影があった。

 それはミイラ。頭髪と呼べるものはなく、干乾びた皮膚ばかりの男女の区別もつかない誰かだ。目玉があるべき場所は暗闇に浸されて窪み、両腕は力なく垂れている。その全身を纏うのは長大な黄衣だった。

 

(アレがシェムレムロスの兄妹? 何かイメージと違う)

 

 ネーミングと実体が乖離するのはDBOでも多々あることであるが、ここまで大きく裏切られたのは初めてだ。そうユウキが早合点した時、椅子の山の頂点でもう1つ動きを見せる影があった。

 

 

「あら。こんなにもたくさんのお客様なんて久しぶり。ようこそ、私とお兄様の館に。歓迎しますわ」

 

 

 それは白いベールを頭から被った、煌びやかな銀の衣装を纏った女だ。だが、ベールを突き破るのは結晶の2本の角であり、彼女が人間ではない事を教える。その体躯は人と同じではあるが、露出している首や頬といった皮膚には結晶の鱗が見て取れた。

 右手に持つのは身の丈ほどもある長大な杖であり、先端では半液状の結晶が球体として波打ちながら蠢いている。その双眸を彩るのは月光蝶と同じ翡翠を思わす暗い碧の瞳だ。だが、それは何処となく人工物の印象を受ける。

 

「暁の翅。オベイロン王に反旗を翻した翅無き妖精たち。でも、あなた達2人は妖精じゃありませんわね? ああ、とても濃い闇の香り。師の仰っていた不死者かしら?」

 

 クスクスと結晶で鋭く伸びた爪で唇を撫でながら、シェムレムロスの兄妹……その妹だろう女はユウキ達を見下ろしながら優雅に笑う。だが、ユウキはまるで檻に閉じ込められた実験動物のような、全身を余すことなく観察されているような不快感を味わう。

 危険だ。この女に関わってはいけない。思わず生唾を飲み、腰の剣を抜きそうになるのも、UNKNOWNの手が伸びて刃を光らせる事をギリギリで防ぐ。

 

「俺たちは【来訪者】。アンタの言う通り、火の世界……アルヴヘイムの外から来た。シェムレムロスの妹さん、俺たちは壊滅した暁の翅の代理だ。契約の更新を要求しに来たんだ」

 

 口から出まかせ……とは言い切れない。確かに暁の翅は壊滅し、グングニルの言葉の通りならば再起しているとしても、1度は組織として終幕を迎えた。ならば、幹部であるガイアスを連れたUNKNOWN達は正しく暁の翅の継承者だろう。

 面白そうにシェムレムロスの妹は結晶に腰かけながらUNKNOWNに続きを求める。ガイアスは自分が出しゃばるよりもUNKNOWNの隣で威圧する方が仕事になると判断したのだろう。腕を組んで勇ましくシェムレムロスの妹を見上げている。アリーヤは怯えるように唸っているが、飛びかからないようにユウキは手で制する。

 

「俺たちの目的はオベイロン王の打倒。その為に証を探している。ランスロット、穢れの火、そしてアンタたち兄妹が守っている証が必要だ。アンタもそれを承知で力を貸していたはず。こっちの認識に間違いは?」

 

「確かに私は暁の翅に力を貸していた。幾許かの知識や廃坑都市の結界は私が張っていたもの。全ては『永遠』の研究の為。契約とは双方の履行する意志によって成立する。ならば黒いの、私に穢れの火を渡しなさい。そうすれば証を譲渡してやるわ』

 

 友好的な態度を示すシェムレムロスの妹に、UNKNOWNは右手を伸ばして話し合う時間が欲しいとポーズを取る。シェムレムロスの妹は了承するように右手を掲げた。

 廃坑都市の時と同じように円陣を……ただし、今回はグングニルも含めて作り、ユウキ達はこの状況をどう判断すべきか考える。

 

「ゲーム的に考えれば、シェムレムロスの兄妹は他のネームドを倒すまでのお助けキャラ……とも捉えられるんだよな。敵対しない限り友好関係が続くNPC系なのか、それとも最後に倒す系なのかは分からないけど、こちらが穢れの火を倒すまでは『どんな意図』があるにしても協力は惜しまないはずだ」

 

「確かにそう考えるのは自然だけど、そもそも『プレイヤー』である【来訪者】抜きで暁の翅が協力関係を作っていた時点で、何かがおかしいと思わない? アルヴヘイムの住人が『プレイヤー』としてカウントされてるにしても、廃坑都市に結界を張ったり、暁の翅に援助できるなんて、幾ら自由な思考が可能な「命」があるAIだとしても、権限の範囲外だと思うんだけど」

 

「いや、そうでもないさ。最初に接触するユグドラシル城の守護者、それがシェムレムロスの兄妹だと前提すれば、彼女の行動も理解できる」

 

 ユウキには理解が及んでいないロジックがUNKNOWNには見えているのだろう。置いてきぼりにされているガイアスをそのままに、彼は小声で口早に説明する。

 これが純粋にファンタジーの世界であるならば、シェムレムロスの兄妹が魔法の力であれこれ手を回してくれた……という説得力は発揮されるだろう。だが、どれだけシェムレムロス強大が凄まじい力を持っていてようとも、アルヴヘイムがどれだけ逸脱していても、DBOの根幹を成すシステム外の行動は取れないはずだ。

 ここから成り立つ推測はある。たとえば、アルヴヘイムにおいて本来拠点として機能すべき役割を持っていた廃坑都市の守護者としてシェムレムロスの兄妹が設定されていた。それならば、わざわざ利便性が悪い廃坑都市を暁の翅が拠点にしていたのも頷ける。オベイロンの目から欺く為に僻地を選んだのではなく、シェムレムロスの兄妹の加護が得られる、転送機能を保有した拠点だからこそ本拠地としていたのだ。

 そもそもアルヴヘイムの難易度はレベル80~100の間だろう。平均してレベル90クラスとも考えられる。ガイアスが『伝説級の戦士』扱いのアルヴヘイムにおいて、このシェムレムロスの館まで到達し、兄妹に謁見を果たした妖精がいたとは考え辛い。ならば、最初から廃坑都市にはこの空間に霊体として転送され、シェムレムロスの兄妹に謁見を果たして協力を取り付ける『イベント』が発生するアイテム……結晶石が配置されていたと考えるのが妥当だ。

 と、そこまでの説明を簡潔に述べたUNKNOWNであるが、自分で説明しておきながらも釈然としない部分が幾つかあるのだろう。悩むように頭を掻く。

 依然としてプレイヤーやゲームといった概念を理解できない、また説明していないガイアスは目を白黒させているが、ユウキはUNKNOWNが広げた推理に概ね賛同する。その上でUNKNOWNと同じように、当初とは違った形でシェムレムロスが動いている危険性を考慮する。

 それは他でもないグングニルの関与だ。わざわざUNKNOWNを待っていた理由も、シェムレムロスの兄妹の元に案内する必然性も、何もかも説明できない。

 明らかに誘導されている。グングニルはこのシェムレムロスの妹との謁見に何かしらの意味を2人に与えたがっているのだ。

 

「話し合いは終わり? 私が求めるのは穢れの火。イザリスの罪の1つ。お前たちには何1つとして損は無いはずよ? オベイロンを倒す為には証が不可欠のはず。穢れの火を倒して持ってくるだけで私は証を渡すわ。オベイロンの生死なんて興味ない。私はお兄様と『永遠』になりたいだけ」

 

 こちらの思考の迷路を見透かすように、シェムレムロスの妹は目を細めてクスクスと楽しそうに笑う。それはケージで右往左往している蟻を見守るような、狂った知性を感じさせる歪んだ眼差しであり、ユウキは増々不安を膨らませる。

 知っている。あの目を知っている。ユウキは数少ないメディキュボイドの被験者だった。医者も看護師も彼女をよく気遣ってくれていたが、時折訪れる研究者はまるでユウキを優秀なモルモットのような目でいた。それは研究という魔に魅入れた者特有の……あらゆる倫理観の上にある知的好奇心と目的意識が生むおぞましい知性の混沌だ。

 こちらにとってオベイロンという『ボス』を倒す上で必要不可欠なプロセス。それがそのままシェムレムロスの兄妹の協力を得られるキーとなる。だからこそ、グングニルの誘導には2つの推測が成り立ち、ユウキは焦る。

 1つ目、レギオンは早急にオベイロン打倒を【来訪者】……より強調すればUNKNOWNに成してもらいたい。ならば、廃坑都市の壊滅具合から発見困難だっただろうドラゴンクラウンや結晶石を準備して待っていたことも、一応の説明と納得もできるだろう。

 だが、2つ目。もしもレギオンとシェムレムロスの兄妹が『同盟』を結んでいるならば? ユウキもUNKNOWNもそれを危惧している。廃坑都市の壊滅を決定的にもたらしたのは、オベイロンの関与というよりも、レギオンの力によるものだ。それさえなければ廃坑都市の結界が崩れることはなかった。

 虎穴に入らずんば虎子を得ず。罠の危険を覚悟で挑んだシェムレムロスの兄妹への謁見であるが、想像以上の混迷に満ちていて、ユウキは自分がどれだけの選択を正しくできたのか分からずに不安ばかりが募る。

 

「……契約を更新する」

 

 それ以外に選択肢はない。UNKNOWNの宣言を受け取り、嬉しそうにシェムレムロスの妹は両手を合わせた。

 

「契約の継続を承認しましょう。これを持っていきなさい」

 

 UNKNOWNとユウキの前で光が渦巻いて現れたのは、結晶で覆われた古い金箱だ。

 

「それは【貪欲者の金箱】。かつて暁の翅に渡したものと同じで、入れた供物に応じて富と加護を与えるわ」

 

 金箱を入手したUNKNOWNが試しに使用してみると、システムウインドウで収めるアイテムの選択画面が表示される。アルヴヘイムにおいてコルを入手する方法はモンスターを倒して微々たる額を稼ぐしかない。商人NPCの発見が絶望的である以上、この金箱こそが事実上の証人の役割を果たすのだろう。

 コルへの換金だけではなく、簡易的であるがアイテムも購入できるようだ。アルヴヘイムでは入手が絶望的だった様々なアイテムが販売されている。どうやらアルヴヘイム限定のアイテムらしく、ダンジョンや戦闘中を除けば、いつでも換金とアイテム購入が可能なようだ。

 

「さすがの後継者も広大なアルヴヘイムを冒険させる上で、アイテムの非買は著しいバランス崩壊と考えてたのかもしれないな」

 

 1度侵入すればクリアまで帰還不可のアルヴヘイムだ。本来ならば、シェムレムロスの兄妹と謁見したプレイヤーは貪欲者の金箱を利用してアイテムを補充しながらクリアを目指す……という流れだったのかもしれない。

 とはいえ、販売しているアイテムはいずれも心許ない。火炎壺、投げナイフ、松明などのアルヴヘイムでも入手可能なアイテムばかりだ。だが、その中でも目が惹かれたのは【治癒の息吹】というアイテムだ。HPをたった5パーセントだけ、それも30秒かけて回復させるという、最弱の回復アイテムである燐光草以下の性能である。しかも販売価格は1個1000コルというふざけた高額だ。

 仮に回復アイテムの在庫が尽きたならばこれを使うが良い……という後継者の慈悲の皮を被った死刑宣告だろう。要は『事前準備が足りてないのが悪いんだよ、バーカ!』という嘲りなのだ。たった5パーセントを30秒かけて回復など通常の雑魚戦でも使う隙を晒す方がリスクも大きいアイテムである。

 だが、そもそも回復手段が奇跡しかないアルヴヘイムでは、たった5パーセントを30秒かけて回復させるアイテムでも有無で生存率が大きく変わる。流血というスリップダメージが実装されているならば尚更だ。

 そして、ユウキが気になるのはアイテム販売項目の1番下にある『!』のマークである。選択するとリストが更新され、アイテム欄の1番下に新たな項目が増えていく。

 

<霜海山脈がクリアされた事により、アイテム販売が更新されました>

 

<証が解放された事により、アイテム販売が更新されました>

 

 最初のリストとは異なる有用なアイテムが並ぶ。回復アイテムは相変わらずの治癒の息吹だけであるが、それでも実用性の幅は広がっている。特に霜海山脈のクリア報酬として追加されている解呪石はレベル1の呪いを解く。販売価格は2万コルとぼったくりを通り越して足下を見る価格であるが、致命的なデバフである呪いの危険性を下げられるだろう。

 そして、『ランスロットの証』によって解放されているのは各種エンチャントアイテムだ。いずれも松脂系であり、貴重な火力上昇手段になるだろう。特にアルヴヘイムの貧弱な武器からすれば、松脂によるエンチャント効果の方が火力を大幅に高める助けになるかもしれない。だが、重要な点は更新されたアイテムではない。

 

「ランスロットは……倒されたのか?」

 

 UNKNOWNが唖然とするのも仕方ないだろう。シェムレムロスが健在である以上、入手されたのは穢れの火の証が最有力だったのだ。ガイアスもランスロットの強さを知っているからこそか、打倒こそ悲願であっても信じられないといった様子である。

 少なくとも……少なくとも、ユウキ達が再起を図る為に廃坑都市を目指した旅を続けている間に『誰か』はランスロットの証を手に入れたのだ。そして、『最悪』を想定するならば、ガイアスが難所と言った魔境……アルヴヘイムが拡大する以前から存在していた既存ダンジョンの1つである霜海山脈の攻略も成し遂げているとも考えられる。

 

「契約の話はこれで終わり。さぁ、穢れの火を持ってきなさい。それまでは惜しみない援助を約束しましょう。アルヴヘイム各地にある結晶の楔……それはあなた達に癒しを与え、また敵対者を遠ざける力を授けますわ」

 

 だが、ユウキの追及を遮るように、シェムレムロスの妹はまるで指揮を執るように指を動かす。すると結晶に蝕まれた椅子の山に座していたミイラの黄衣が蠢きだす。

 

「ところでご存知かしら? 契約とは双方の信用関係によって成り立つもの。私はあなた達の旅を手助けする力を授けた。私にもいただけるかしら? あなた達が契約を結ぶに足るという『価値』を」

 

 ミイラから黄衣が剥ぎ取られる。まだ生きていたかのように腕を伸ばしたミイラであるが、それも半ばで妖精たちの最期がそうであるように、黒く炭化して崩れていく。

 ユウキ達の周囲を黄衣が舞う。まるで意思があるような黄衣は品定めしているかのようだ。余りの嫌悪感にユウキはついに剣を抜く。UNKNOWNも二刀流の構えを取り、ガイアスは特大剣を振るって黄衣を追い払おうとする。

 

「1人差し出してもらえるかしら? 選ぶ時間はあげますわ」

 

 差し出す? ユウキは意味を問おうとシェムレムロスの妹を睨むが、彼女は言葉通りの意味だと告げるように微笑むばかりだ。

 

「人質のつもりか」

 

 奥歯を噛むような声でUNKNOWNが唸る。それは一片の外れもない正解なのだろう。シェムレムロスの妹は早く選べと言うように指を鳴らす。

 あのミイラがかつて暁の翅がシェムレムロスの妹と契約した時の人身御供であるならば、文字通り、死ぬまでこの場所に縛り付けられるという事なのだろう。契約が更新される時まで黄衣の主となり、永遠に結晶の椅子に座して『いつか』を待ち続ける事なのだろう。

 

「何を畏れる必要があるのかしら? 契約を早期に果たす意思があれば良いだけですわ」

 

「だが、アンタが人質を返してくれるという保証もない」

 

「それはお互い様でしょう? 私の力を利用するだけ利用して穢れの火を奪い去っていくかもしれませんわ。それとも、私には疑う権利さえないのかしら? やっぱり人間とは傲慢なものね」

 

 確かにシェムレムロスの妹の言う通りだ。シェムレムロスの妹からすれば、契約を裏切るかもしれない相手に人質を求めるのは当然の権利だろう。こちらが幾ら意思を示しても証拠にはならない。

 

「これもゲーム的な流れ……じゃないよね?」

 

 脂汗を垂らすユウキの質問にUNKNOWNは答えない。確かにシェムレムロスとの契約はアルヴヘイム攻略の上の『スタートライン』だったのかもしれない。だが、やはり変質してしまっている。それはオベイロンによるアルヴヘイム改変の影響か、疑われるレギオンの接触か、あるいはもっと別の何かの要因か。

 やっぱり契約を取り消す……など出来るはずがないだろう。ならば、この3人の中で1人を差し出すという判断をするしかない。

 誰も手を挙げるはずがない。旅をして仲が深まったと言っても、それぞれが歩んだ道は異なるのだ。他の2人に命運を託す信頼関係が築かれているはずもない。

 

(ボクは……ボクは嫌だ。ここでジッと待っているだけなんて絶対に嫌だ!)

 

 そもそもシェムレムロスの妹が『ただの人質』として扱うはずもない。たとえ契約を守って穢れの火を届けても、人質になった者が無事に解放される保証もない。

 クゥリならどうするだろう? ユウキはそう考えて、そもそも契約うんぬん以前に『証を持っているなら殺してでも奪い取る』を即時実行しているだろう想い人の背中が見えた。

 戦おう。ユウキは剣をシェムレムロスの妹に向けようとする。UNKNOWNも一足先に同じ結論に到達したらしく、彼女に向けて刃を向ける。そして、そのまま疾走して椅子の山の頂上で立つシェムレムロスの妹まで跳ぼうとするも、まるで見えない壁があるかのように全身に圧力を受けて弾き返される。

 

「あなた達は私の力でこの場に召喚されているのよ? 召喚主である私に歯向かえるはずがないじゃない」

 

 至極当然の正論である。床を滑りながら体勢を立て直したユウキであるが、床から伸びた結晶が四肢を拘束して締め上げる。同じくUNKNOWNもまるで雪が積もったように全身を結晶で蝕まれて動けなくなった。

 

「うぐ……うがぁ……ッ!」

 

 成長する結晶に首を締め上げられ、宙を浮いたユウキは足をばたつかせる。窒息状態となり、このまま放置を続ければHPの減少が始まるも、それ以前に『呼吸ができない』という状態そのものがパニック症状を引き起こす。

 それは奇妙な感覚だった。息苦しいのであるが、現実の肉体のように酸欠になる苦しさではない。あくまで『息苦しさ』だけが淡々と生じる。それはDBOでの一般的な窒息状態とは異なる症状だ。これもアルヴヘイムの特徴であるとしても、わざわざ息を止める機会など水中以外ではあり得ない。ならば、それは正しく無知だったユウキに混乱をもたらす。

 

「不死の治験は初めてなの。ああ、『不死』! なんて素晴らしい『永遠』かしら!? 我が師は予見していたわ。火の陰りを。不死という人間が辿る道を! でも、あなたは本当に不死なのかしら? とても濃い闇のニオイ。是非とも研究したいわ」

 

 椅子の山から跳び下りたシェムレムロスの妹は、遠近感が狂っていたせいか、こうして近寄られると普通の人間よりも一回り以上に大きい。それは小柄な女性のユウキからすれば、実に倍近い身長差にもなった。

 

「ユウキ!? クソ! 動け……動けぇええええええええええ!」

 

 全身にこびり付いた結晶をSTRの限りに剥ぎ取って立ち上がろうとするも、増殖を続ける結晶は重石となってUNKNOWNの動きを封じ込める。アリーヤはユウキを助けようと跳びかかるも、結晶の檻に閉じ込められる。

 シェムレムロスの妹に顎を撫でられ、全身に悪寒を覚えたユウキは固く目を閉ざす。そもそも安易にシェムレムロスの兄妹に謁見を求めた事自体が間違いだったというのか? それとも人質を選ばずに武力で解決を図ろうとした選択こそが誤りだったというのか?

 シェムレムロスの妹が言う治験とは『何』を意味するのか? ユウキは既に感じ取ってしまっている。この美しい謁見の間はこのシェムレムロスの館のほんの1部に過ぎない。背後の巨大な扉……この館の『本質』には何が待っているのか、シェムレムロスの妹の笑みで理解してしまった。

 固く目を閉ざして現実逃避しようとするユウキの耳に聞こえるのは、UNKNOWNの虚しい抵抗の雄叫びばかりだ。彼女の処遇が決まった後は彼の番だろう。この場で嬲り殺しか、それとも同じ顛末を迎えるのか。

 

 

 

 

 

「私を選べ」

 

 

 

 

 だが、それを打ち破ったのはガイアスの一声だった。

 それは大人の責務を……いや、この場で『欠けても最も損失が無い人物』としての自覚を示すような落ち着いた声音だった。

 特大剣をその場に突き立てたガイアスに、ユウキは息苦しさと恐怖で潤んだ目を向ける。

 

「シェムレムロスの兄妹への謁見を提案したのは私だ。ならば、責任の全ては私にある。キミ達が苦痛を背負う義務はない」

 

「違う! 謁見を決断したのは俺だ! 俺の判断だ! ガイアスさんのせいじゃ――」

 

「私のせいだ! 私の甘い判断が……キミ達をこうして苦しめている」

 

 抗うUNKNOWNを否定し、ガイアスはシェムレムロスの妹の前で跪く。それは2人の許しを請うと同時に契約の更新を求めるポーズだ。

 するとシェムレムロスの妹はふわりと空を飛び、元の椅子の山の頂上に戻った。それは契約更新を認可したという事なのだろう。

 

 

 

 

 

 

「それよりも治験の興味が優先ね」

 

 

 

 

 

 

 だが、ガイアスの覚悟など取るに足らないというように、彼もまた結晶によって縛り上げられる。それはユウキの頭上で逆さ吊りとなり、全身を……四肢と首をじわじわと結晶によって引っ張られていく。

 

「ぐぉおおお……!?」

 

 足掻くガイアスであるが、結晶はまるで精密な歯車で動いているかのように引っ張り続け、やがてそれはHPの減少をもたらしていく。

 

(止めて……止めてよ……こんなの、駄目!)

 

 息苦しさと戦いながら、ユウキは喉と両手首両足首に絡みつく結晶を振りほどこうとするも、UNKNOWNでも崩せない……単純なSTRでは解除できないシステム系統が異なる拘束にはまるで歯が立たない。

 まるで父親のように接してくれたガイアスの顔が思い浮かぶ。

 話をするのは苦手だと、戦馬鹿でモノを知らないと言いながらも、『大人』としてまだまだ若い自分たちに何かと目をかけて、2人の不和を少しでも解消としようとしてくれた。

 だが、今はその顔を苦痛で歪め、喉は叫びすらも許さず、生涯をかけて鍛え上げた剣技を披露することも許されず、『その瞬間』に向けて淡々と時計の針を進めている。

 

 

 

 

 

 

 

 そして……『雨』が降った。

 

 

 

 

 

 

 

 ユウキを、UNKNOWNを、真っ赤に染める『雨』が降り注ぐ。

 まずは胴体が落ち、次に両腕、両足……そして最後に頭がユウキの目の前に落ちる。それはボールのように転がり、結晶で封じ込められたUNKNOWNの目前で止まった。

 

「シェムレムロスぅううううううううううううううううううう!」

 

 怒りのままに強引に立ち上がって前進しようとするUNKNOWNであるが、その1歩を踏み出すことも出来ないほどに結晶は重く増殖し、激情すらも価値が無いというように両膝を再度つかせる。

 もうどうしようもない。そう思った時、ユウキ達を拘束する結晶が温かな光によって崩されていく。

 解放されたユウキは背中から床に落ち、呼吸できるありがたみを知るように咳き込みながら、自分たちの拘束を破った光の主に目を向ける。

 

 

 

 

「剣士様、ストーカー様、御無事ですか?」

 

 

 

 

 

 それは虹色の光の髪を揺らすグングニルの姿だった。彼女の影は怪しく蠢いて実体化し、まるで目玉のように赤い光を幾つも灯している。それらは影の触手となり、シェムレムロスの謁見の間を侵蝕していた。

 これにはシェムレムロスの妹も予想外だったのだろう。眉を顰めながら、新たな研究対象が見つかったとばかりに狂った好奇心の眼を向ける。

 

「ここは撤退します。『アメンドーズ』!」

 

 グングニルが右腕を掲げると広がった影から這い出てきたのは、廃坑都市を壊滅に追いやった一因……複腕の深淵の怪物アメンドーズの腕だ。それはユウキ、アリーヤ、UNKNOWNをそれぞれ掴む。

 シェムレムロスの歪んだ笑い声が聞こえたのは一瞬。虹色の光に包まれ、ユウキは濃い闇のビジョンが脳髄に流れ込んでいく中で身を縮める。

 全身が粘土となり、こね回され、再度作り直されていくかのような、生身の肉体では決して味わえない感触が脳内で暴れ回る。そして、再び瞼を開いた時に視界に映ったのは、優しい白銀色の月光だった。

 ガイアスの血を浴びて全身を真っ赤に染めたままユウキが倒れているのは、何処とも知れない深い森だ。周囲にはUNKNOWNやアリーヤの姿はない。

 いや、1人だけいる。月光浴にでも興じるように、木々の狭間から漏れる月光を全身で受け止めるグングニルの姿だ。

 

「どうして……ボク達を……ボクを助けたの?」

 

 恐らくだが、グングニルはシェムレムロスの謁見が何を意味するのか知っていたはずだ。その上で秘密にして自分たちを止めなかった。そのはずなのに、彼女はユウキ達を助けるために間に入ったのだ。

 まるで意味が分からない。彼女の背後には『母上』……マザーレギオンの関与があるのは間違いないだろう。だが、グングニルの行動にはまるで一貫性が見られないのだ。

 

「アメンドーズの転移能力は限定的です。剣士様は別の場所に転移させました。黒ワン様は傍にいるはずですが、やはり転移制御が甘くて、もしかしたら剣士様と同じ座標に――」

 

「どうしてボクを助けたのかって聞いてるんだよ!? どうして……どうしてレギオンが!?」

 

 ガイアスの突然の死、シェムレムロスの兄妹の謁見を軽んじた自分の甘さ、そして挙句に背後にいるだろうレギオンの思惑と不気味なまでに意味が見出せないグングニルの行動。ユウキは混乱のままに剣を突きつける。

 

「確かに私はレギオンです。母上曰く、私は我が王の『慈愛』のみの再現を目指した個体。母上は言いました。私は『ただ笑っていれば良い』と。全ての殺意は『影』に任せておけば良いと。プログラム的にいえば、私のレギオンプログラムとしての殺戮本能は別離して管理され、私の感情とシンクロする形で動くように設計されています。言うなれば私は疑似餌。この影こそが私のレギオンとしての正体。いえ、こちらが本体と呼ぶべきなのでしょうね」

 

 それはクゥリの再現を目指して生み出されたレギオンの成れの果てなのか。彼女すらも『失敗作』と呼ばれる存在なのか。グングニルは寂しそうに、少しだけ辛そうに、ユウキに振り返りながら微笑む。それは今までの聖女の笑みとは違う、『グングニルの笑み』のような気がして……ユウキはスノウ・ステインを握る右手を震えさせる。

 

「私も我が王の残骸とも呼べぬ欺瞞、模された殺戮本能を持っていますが、その全てはこの影が担うことによって、私自身が苛まれることはありません。私が処理しきれない殺戮本能は、私とは無関係に、嵐のように、この影が周囲を貪って……血の悦びを得て、満たします。母上はきっとレギオンプログラムの持つ殺戮本能の抑制という点で私を開発したのかもしれません。結果的には失敗作に過ぎず、私は『笑顔』以外は何もできません。影が喰らった存在の力を少しだけ拝借して利用することもできますが、今はその力もエルドリッチの誕生で価値は――」

 

 愚痴になりそうだと思ってしまったのだろう。取り繕うようにグングニルは笑う。

 

「母上を呪ったことはありません。私がこんな風に生まれてしまったことも含めて、母上が目指すヴィジョンで必要だったことです。私はレギオン・グングニル・パルヴァライザー。インターネサイン構想の一翼を担う者。ですが、私の意思は自由です。私の心の在り方は私が決めます。母上はあなたの事が大嫌いだと仰っていました。剣士様の事は大好きだとも。でも、私がどう思うかは『私の心』で決めます。母上の計画には従いますが、この心の在り方まで変えてしまうのは……他でもない母上への裏切りですから」

 

 ユウキの頬にこびり付くガイアスの血を拭うように、グングニルは手を伸ばす。ユウキは彼女の聖女の微笑みに……どうしよもないくらいにクゥリを重ねてしまって、指から力が抜けて剣を落としてしまう。

 

「母上の目論見ではあなた達をあの場で皆殺しにする事でした。シェムレムロスの提案をあなた達が受け入れるはずがありませんから。剣士様『だけ』を救出し、あの御方に更なる絶望と憎悪を植え付けて『力』への渇望を強めさせようとしています。ですが、私はそれを望みません。我が王もきっと同じ思いのはず」

 

 ユウキを慰めるように頬を数度撫で、グングニルは無邪気に笑って跳び退き、森の闇を指差す。彼女のレギオンとしての本質……獰猛な影の触手は木々を薙ぎ倒し、ユウキが歩き易い道を作り出した。

 

「ここは古い森。キノコ人の住まう場所。真っ直ぐ進んで街道に出ればティターニア教団がある宗教都市です。ですが、決して油断してはいけません。レギオンの目と耳はあらゆる場所に潜みます。常に監視されている。その前提で動いてください。宗教都市に到着すれば、あなたの力になってくれる方々います。良いですか? 決して剣士様を『あの御方』と会わせてはいけません。私は……悲劇が嫌いです。大嫌いです。だから……」

 

 グングニルは自身に影の触手を纏わせて消えていく。次はUNKNOWNの元へと向かうのか。それとも『母上』の意向に反した弁明をしに行くのかは分からない。 

 きっと彼女だけが例外なのだろう。特別製のレギオン。だからこそ、こうしてコミュニケーションを取る余地があるのだろう。ユウキはガイアスの血で濡れた前髪を垂らしながら俯く。

 

「ああ、とても良い月夜ですね。レギオンなんて……生まれるべきじゃなかったと思う位に、素敵な月夜です」

 

 聖女の笑みを残したまま、グングニルは自らの影に消えた。

 レギオンとして生まれたくなかった。それはグングニルの本心なのだろう。ユウキはスノウ・ステインを再装備し、腰に差すと彼女が作ってくれた道を歩む。

 頭の中身がグチャグチャだった。ずっとずっと憎み続けていたレギオンに助けられ、ガイアスの死は文字通りの無駄死にと化し、旅の顛末までマザーレギオンに弄ばれ、挙句に今は独りぼっちである。

 UNKNOWNは無事だろうか? アリーヤとは合流できるだろうか? ティターニア教団が待つ宗教都市に到着すれば何があるのだろうか。

 ようやく森を抜けると多くの火の光が見えた。それは半壊した要塞であり、敷地内には無数のテントが張られ、1つの大きな集落のようになっている。

 血塗れの姿のままユウキは何度も転倒しながら緩やかな坂を下り、要塞跡を目指す。あの場所にたどり着けば何かしらの情報収集ができるはずだと信じて歩き続ける。

 結局は何もできなかった。ユウキは廃坑都市を脱出して以降の旅路を振り返りながら自嘲を零す。UNKNOWNとの関係が良好になったくらいで、ずっと協力的だったガイアスを死なせ、挙句にレギオンへの不動だった憎しみさえ奪われ、無力さを味わうだけだった。

 

「それでも……ボクね……キミと、もう1度、ちゃんと向き合いたいんだ」

 

 だが、ガイアスが教えてくれた。穢れている自分だからこそ、今こそやらなければならない事がある。

 ようやく要塞跡に到着すると血塗れのユウキに住人がざわつく。男性の比率は高いが、給仕のように女性も何人かいる。共同で夕飯を取っているのだろう。大鍋からは食欲を誘うような、舌にのせる前から美味と分かるクリームシチューの香りがした。

 

「そこをどいて! 良いからどいて! あなた大丈夫!?」

 

 と、そこで人垣を破って1人の少女が現れる。膝から力が抜けたユウキをその身で受け止めると、少女は焦った様子で血塗れのユウキの顔を白い装束が汚れるのも厭わずに拭う。

 白いローブを纏い、深めのフードで顔を隠しているが、ユウキの安否を気遣う為に覗き込んでくれているお陰でその顔が見えた。

 見覚えがある。ユウキはぼんやりとアルヴヘイム各地にあるティターニア像を思い浮かべる。そっくりだ。本人と名乗っても違和感は無いだろう。

 

「大丈夫……だよ。これ、ボクの血じゃ……ないから」

 

「そういう問題じゃないわ! リーファちゃん、来てちょうだい! 奇跡の準備を!」

 

「本当に大丈夫だから」

 

 それよりも事情を説明してほしいなぁ。ユウキは必死に全身の血を拭き取ろうとする少女に苦笑する。いや、この采配をしただろう神様を呪う。

 グングニルが言った『あの御方』とは彼女の事だろう。そして、グングニルは何かを知っていた。

 

「やっと見つけたよ……アスナさん」

 

 ティターニアがアスナだとUNKNOWNは睨んでいた。そのアスナがどうしてこんな場所にいるのかは分からない。だが、グングニルはわざとUNKNOWNとユウキを同じ場所に転移させなかった。それはこの出会いの為だろう。

 レギオンは殺す。1匹残らず殺す。そんな信念さえも崩され、ユウキはアスナと被る月を見上げた。ただそこに……導きを求めて。

 

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「むむぅううううううううううううう! グングニルのおばかぁあああああ! 折角の『ストーカー☆心ボッキボキの改造ガールにしてレギオンの王とバトらせよう♪』作戦が台無しじゃなーい!」

 

 これではどちらが子どもか分かったものではない。両手両足をバタバタと暴れさせる様は駄々をこねる子どもそのものであり、そんなマザーレギオンをやや1歩引いた位置で見守るレヴァーティンはどう反応すべき困ったように沈黙を保っていた。

 

「……グングニルは我らでも異端。このような仕事を任すこと自体が不適切だったのでは?」

 

 ようやく暴れるだけ暴れてスッキリした様子のマザーレギオンに、冷静に指摘するレヴァーティンに彼女は背中から伸びる文字化けしたような数字やアルファベットの塊で構築された触手をうねらせる。

 

「それくらい分かってるわよ。あのコはレギオンでも異質の中の異質。設計からして他のレギオンとは構想段階から違うし。あくまでレギオンとしての本質は影だもの。だから、こうなる事もなーんなとなく分かってたわ。それに私のプランから逸脱こそしていないし、むしろレギオンとしての成長を見せつけてくれたから帳消しどころか頭ナデナデしちゃうコースよ」

 

「では何故荒れるのです?」

 

「我が子の成長の嬉しさとストーカーさんを苦しめられなかった事は別腹よ」

 

「理不尽ですね」

 

 呆れた様子のレヴァーティンだったが、ようやく癇癪と親心の狭間で揺れ動く想いに整理をつけたらしいマザーレギオンに、ゆったりとした口調で告げる。

 

「しかし、コード:MOONLIGHT=HOLY BLADEについて情報を得られるとは思わぬ報酬でしたね。聖剣の力、アルトリウスで分かってはいたことですが、あれ程とは」

 

「得たい? 無理よ。レヴァーティンでは聖剣を使いこなせないわ。確かに私達レギオンにも資格はあるかもしれない。でも、あれは深淵狩りズという媒体を通して我らの王の資格が呼応し、聖剣を得ただけ。私達では逆立ちしても空を飛んでも手に入らないわ。いっそレギオンプログラムで汚染させればチャンスも巡ってくるかもしれないけど……」

 

 場所はマザーレギオンの私室。ファンシーなぬいぐるみに満ちた、まるで玩具箱のような部屋に似つかわしくない怪物然をしたレギオンの上位個体レヴァーティン。ゴム質の触手を宙でうねらせる姿は異形でありながらも何処か神秘的だ。だが、その腕は依然として異形ではあるが、何処となく人間に近しい骨格に変貌している。特に指は五指となり、鋭い爪を備えていながらも精密な可動性を重視していた。

 貴重な戦闘情報を反映し、レヴァーティンはレギオンでありながら『武器』の使用に強く興味を抱いている。マザーレギオンは我が子の更新を十二分に把握しつつ、今後の成長プランを練りながら、その口元を嬉々と惨忍に歪めた。

 

「でも、まさに棚から牡丹餅。まさかコード:MOONLIGHT=HOLY BLADEの情報が得られるとは思っていなかったわ♪ それに我らの王の仕上がりも上々。深淵狩りズに感謝しないとね。これで我らの王は対多戦闘においても更なる戦闘力を発揮できるようになったわ」

 

「ですが、コード:MOONLIGHT=HOLY BLADEを設計したセカンドマスターの意図が分かりません」

 

 疑念を素直に投じるレヴァーティンに、マザーレギオンは優秀な我が子に導きを与えるように右手の人差し指を振る。

 

「フフフ、レヴァーティンはまだまだね。このコードは狂人さんの設計じゃないわ。狂人さんの秘蔵っ子と同じで、カーディナルが『必要と判断して』作成したコードよ」

 

「アンビエントと同じ……ですか」

 

 何処か納得のいかない様子のレヴァーティンに、マザーレギオンは漆黒の肌を照らすシステムウインドウに表示されるアーカイヴの情報……これまでDBOの歴史の中で聖剣を獲得するに至った者たちの情報を並べる。

 

「じゃあ順を追って話をしてあげちゃうわ♪ まずSAOという計画の初期段階を通じて基礎データの収集を終え、ダークブラッド計画の次の段階……歴史シミュレーションをカーディナルは起動させたわ。でも、全くの白紙から世界を作り出すことはとても難しいの。膨大な演算能力を持ち、世界1つを何百倍、何千倍までに加速させながら観測できるカーディナルでも、現実世界にして兆年単位の成否も分からない観測が必要とされたわ。宇宙の始まりがどのようにして作られたのかが分からない以上は知的好奇心にリソースを割くのはナンセンスよ。無から有を創造させる1番手っ取り早いのは、世界を拡張させる因子を無に放り込むこと。それは狂人さんが準備したわ。システマチックなデータよ。物理法則とか、元素とか、自然循環とか、そういった基礎となるシステム」

 

 システムウインドウを消していき、やや疲れた様子のマザーレギオンは最後に赤く点滅する3つのウインドウを楽しそうに眺めながら、大きな熊のぬいぐるみを椅子代わりにして腰を下ろす。レヴァーティンは母を気遣うように触手で器用にポットを動かし、マシュマロたっぷりのドロドロのココアを淹れた。

 

「そうしたシステマチックなデータを観測する因子をカーディナルは『ソウル』と定義したわ。世界を観測するエネルギー……まぁ、この辺りは狂人さんが投与した量子物理学、基礎となった物理エンジンの引用、あるいはこの段階で既に完成していたAIに『命』をもたらす狂人さんの自己観測フレームが応用されたとも考えられるわね」

 

 そこそこぉ、と幸せそうな顔でレヴァーティンの触手で肩を揉まれながら極楽といった様子でココアの香りを楽しむマザーレギオンの講義に合わせて、玩具箱のような私室をレコードが飛ぶ。その中の1枚を選ぶようにマザーレギオンが指を振れば、天井の夜空に赤い月が瞬き、ルドウィークの月光が流れ始める。

 

「最初の世界ができたわ。小さな大陸で、それなりの人間がいた世界。でも、カーディナルはソウルを効率的に再集積して解析するAI【古い獣】を放り込んだわ。それもソウルの生産性が追い付かない程の苛烈な吸収性能を持ったAIをね。ここからはとても長い話になるから割愛するわね。簡単に言えば、世界は滅びたの。何回も何回も英雄が出て、古い獣を眠らせたけど、最後はぜーんぶソウルが古い獣に吸われたわ。ボーレタリアの時とかすっごい頑張ったみたいだけど、ぜーんぶ無駄足。世界は奇麗さっぱり『無』に戻ったの」

 

「諸行無常ですね」

 

 感慨深そうなレヴァーティンに、マザーレギオンは両足をブラブラさせて上目遣いで請う。即座に出来た息子は新たな触手を伸ばし、脹脛を丁寧にマッサージし始めた。

 

「だけど、ここまでがカーディナルの『予定通り』。こうして1度『無』に戻った世界は古い獣を起点として、回収されたソウルの解析と自己増殖の果てにドカーン!って爆発したの! 要はビッグバンの再現をカーディナルはしたかったのよね。分かる!? ここが狂人さんの凄いところなの! 歴史シミュレーションの為にわざわざカーディナルと共謀してビッグバンを起こすなんて、最高に頭がイカレてると思わない!?」

 

「凝り性なのですね」

 

 一言で切り捨てたレヴァーティンに、マザーレギオンはつまらなさそうに指を動かしてシステムウインドウを切り替えていく。それらに映るのは監視されている【来訪者】たちのここ最近の動向の録画だ。ただ1人……レギオンが現行では存在しない伯爵領にいる1人を除いて、他の【来訪者】は等しくマザーレギオンの監視下にある。その中でも特にお気に入りなのは、ようやく廃坑都市に到着した黒衣の二刀流の剣士なのだろう。システムウインドウの枠はハートマークのラベルにわざわざデザイン変更している。

 

「そうして拡散されたソウルは新たな世界を作ったわ。概念が希薄な世界。灰色の世界。岩の大樹と古竜ばかりの世界。これにはカーディナルも狂人さんも吃驚! だってそうでしょう!? ようやくビッグバンを再現したのに、始まったのは退屈でつまらない灰色の世界なんだもの!」

 

「それはそれで趣があってよろしいかと。率直に申し上げるならば、私はそのような世界の方が――」

 

「はい、次! そうした灰色の世界はなーんにも起こらない。だ・け・ど、基盤となった前の世界のソウルは再構成・消滅・融合を繰り返した。そうして『何か』が生まれ始めたの。それが聖遺物。多くはただのアイテムとして後にゲームとしてのDBOに登場することになるわ。でも、その中でも特別な聖遺物はカーディナルにおいて世界を構成する因子となった。カーディナルがコードとして特異な存在として登録されたわ。『計画の最終段階』に向けて……ね♪」

 

 マザーレギオンの目が忌々しそうに細まる。それは廃坑都市で二刀流の剣士と肩を並べて歩く、黒紫の髪を揺らす小柄な少女だ。指を鳴らし、どうしたものかと思案して、やがて悪戯を思いついたようにマザーレギオンは口元を歪める。

 

「さーて、始まりました、世界の大☆混☆乱♪ 強大な聖遺物たる『最初の火』が世界にもう1度差異にもたらしたわ! ここからはレヴァーティンもご存知の世界。神族と古竜、光と闇、生と死、それらが絡み合う私たちの知るDBO世界が生まれたのよ! そして、聖遺物の1つ……特殊コードとされたのが月光の聖剣。導きの月光よ♪」

 

 マッサージは終わりだと告げるようにマザーレギオンは立ち上がり、飲み残しのココアを一気に喉へと流し込む。放られたマグカップを触手で受け取ったレヴァーティンが注目しているのは、東の宗教都市を目指すバンダナが特徴的な赤髭の男だ。彼との再戦を望むように、より人間的になった指を鳴らす。だが、それを諫めるようにマザーレギオンは踵を数度叩いた。

 

「月光の聖剣がもたらすのはキャパシティの拡張性。聖剣をベースにした能力を与えるわ。DBOの歴史を作る上で、個々のAIはソウルという観測媒体を通して情報集積される。その中から選抜されて『ゲーム』にボスやネームドとして登場するわけね。でも、経験を蓄積するAI達は『命』はなくともその能力を際限なく成長させていく。そうした中で、AIの基礎フレームを形成するに至った因子のキャパシティを大幅に超過した個体が現れ始めたわ。コード:MOONLIGHT=HOLY BLADE……月光の聖剣はそうしたAIの拡張をもたらすもの。フフフ、つまりはカーディナルという上位者からの導きの月光ってところかしら?」

 

「コードを成すオリジナルモデルこそが真の聖剣ならば、どうしてアルトリウスやシースは偽剣しか得られなかったのでしょうか?」

 

「白竜は自分で聖剣を得たわけではないわ。奪ったのよ。火が起きた混乱の中で月明かりの大剣を得た光の黒竜ギーラを殺して聖剣を簒奪し、自らの力としたのよ。ギーラの遺体からは新たな黒竜が生まれ、それはカラミットと……まぁ、この辺りは別の物語かしら? それはともかく、もう1人の有名な聖剣の持ち主、狼騎士さんはオリジナルを得られるにしてもそれを望まなかった。何はともあれ、コード:MOONLIGHT=HOLY BLADEは与えられたキャパシティの臨界点に到達すると与えられるもの。ここまでが『歴史シミュレーションにおけるAIの場合』よ。さーて、選抜も終わって歴史シミュレーションも緊急停止! 次々と聖遺物はアイテム化されていって、ゲーム作りも本格化! 狂人さんも過労死コース入りまーす! ダンジョン作って、イベント作って、ゲームバランス考えて、剣士さんマジぶっ殺すして、剣士さん絶対殺すして、剣士さん殺し尽くすという、剣士さん涙目なくらいの殺意満点で狂人さんのGM奮闘が始まったわ! そんな中で、次々と蓄積される『プレイヤー』を想定したシステム情報によって、コード:MOONLIGHT=HOLY BLADEにも変化が起きたわ。死神部隊の正式登録、仮想脳がもたらす『人の持つ意思の力』、すなわち……月光の聖剣の基盤となった『祈り』と『導き』いう概念の深化を始めたわ」

 

 レヴァーティンと踊るように手を伸ばし、マザーレギオンがタップを踏めば、床に波紋が起きて黒い泡が湧き、シャボン玉となって部屋を舞う。それら1つ1つがレギオンの受精卵とでも言うように、細胞分裂の如く増殖していく。それらはやがて1つの形となるように集まっていく。

 

「それは『たった1人』の主を求める聖剣の旅の始まりよ。聖剣はずっとずっと探しているの。歴史シミュレーションの中では、誰も聖剣の根幹たる『導きの祈り』は届かなかった。狼騎士さんはその資格があっても捨てたわ。ああ! 可哀想な聖剣! そうしてゲームが始まったわ♪ 次々と死んでいくプレイヤー達! 聖剣は今こそ『導きの祈り』が必要だと感じて、MHCPを通してカーディナルに集積されていくデータの中から『導きの祈り』に相応しい者を探し続けた! なんて健気な聖剣!」

 

「ノリノリですね、母上」

 

「水を差しちゃ嫌よ♪ でも聖剣にも困った事が起きたの。プレイヤーの場合、仮想脳の発達によって反応速度を始めとした能力は拡張されていくし、無意識下でも『人の持つ意思の力』の影響を得る。仮想脳がキャパシティを無限に拡張させていくわ。だからAIにもたされた月光の聖剣の『導きの祈り』は単なる『力』に成り下がる。でも、ご存知の通り、我らの王は『特異なフラクトライト構造』によって仮想脳が発達する余地はない。コード:MOONLIGHT=HOLY BLADEは狼騎士さんとの戦いで我らの王のキャパシティがトータル的に超過したと感知してしまったのよ。規格内とはいえプレイヤーに想定していたステータスの想定モデル以上の高出力状態の常態化、システムで解析不能な先読み、そしてファンタズマエフェクトの過剰過ぎる親和性によるアバターと肉体のシンクロ……そして、記憶の自壊と生命危機すら厭わぬ運動アルゴリズムとの意図した接続解除。コード:MOONLIGHT=HOLY BLADEはついに見つけたのよ。自分に相応しい、コードそのものにして、無限の拡張性をもたらす『英雄の武器』として与えらえる特権がカーディナルより付与されたオリジナルの聖剣の資格者を! 導きの月光に相応しい存在を!」

 

 以上! そう言うように腰に両手をやって胸を張ってポーズをとるマザーレギオンに、レヴァーティンは両手と触手で拍手を送る。

 そして、たっぷりの数十秒の空白が流れた後に、レヴァーティンは目が無い頭部を逸らした。

 

「ですが、我らの王は聖剣をご所望ではない……と」

 

「クヒャヒャヒャ♪ これには聖剣様に『感情』があるならマジギレでしょうね!」

 

 レヴァーティンの冷静な指摘に、床を拳で何度も叩いてマザーレギオンは涙が浮かぶほどに笑い続ける。嘲う。

 

「蹂躙。駆逐。虐殺。破壊。殺戮殺戮殺戮! 祈りも、信念も、理想も、願いも、ぜーんぶ踏み躙って『命』を喰らって糧とする我らの王からすれば、聖剣すらも自分が手にすれば『ただの武器』……『力』にしかなり得ないわ! クヒャヒャヒャ! 名画は手元に置くより美術館で飾られてる方が映える理論ね! そう思うでしょう!? 思うわよね!? そう思うに決まってるわよね!?」

 

「相変わらず母上の譬えは尖り過ぎて理解が難しいことだけは十二分に理解できました」

 

「わ、分かり辛いかしら?」

 

 容赦ないツッコミにマザーレギオンはたらりと汗を流し、自分を振り返るように顎に手をやり、唇を震わせて思い当たる節が多々あると言った様子で頬を紅潮させる。

 

「ええ。ですが、母上の良いところはまさにその自由気ままさにあるかと。祈りと呪い、それを真に解することが我らレギオンには未だ至りません。母上だけが我らの王の真なる御心中を察していらっしゃいます」

 

「そのフォロー、さすがは我らの王の『生真面目で世話焼き』な部分を受け継いでるだけはあるわね」

 

 レヴァーティンと楽しげに語らっていたマザーレギオンであるが、自分の目前に表示されたシステムウインドウを見て表情を曇らせる。

 

「王様、どうやら本気で『アレ』を準備するみたいね。てっきり冗談だと思ってたのに。これは楽しくなってきたわ♪」

 

 システムウインドウを拡大させるとこれまで冷静を保っていたレヴァーティンが息を呑む。それを嬉しそうにじっくりと観察したマザーレギオンは欠伸を掻いた。

 

「……予習で『特撮』でも見とこうかしら?」




聞こえるだろう? 絶望の足音が。

あらゆる因縁は東に集中していきます。


それでは、271話でまた会いましょう!

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