夢を見た。
中学生のヒキオが周囲から見えないモノと扱われている。
凍った世界で彼は口を閉ざし、自らを隔離した世界で”何か”を諦めた。
下を向くわけでもなく、目を閉じるわけでもない。
彼は世界を白と黒の2色だけに分けていた。
自分に利益があるのならば白。
不利益があるのならば黒。
教室の喧騒がまるで聞こえていないように、ヒキオは感情に起伏を示さない。
手を伸ばしてあげたい。
頭を撫でてあげたい。
ぎゅっと抱きしめてあげたい。
それでも私の身体は言うことを聞かずに、遠ざかる小さな彼をただ見ていることしかできなかった。
ずっと、遠くに……。
……………
……
…
.
.
「ーーっ!」
目が醒めると部屋の気温は震えそうな程に寒いのに、心地の悪い汗が一粒額から零れ落ちた。
なぜだろう、目に力を入れていないと涙が溢れてしまいそうになる。
「…ひ、ヒキオ…?」
目覚まし時計はまだ8時を示している。
私は不安な気持ちに煽られながら、キッチンから聞こえているであろう音を目指して寝室を飛び出した。
「ヒキオ!!」
「っ!?…な、何だよ…?あんまり朝早くから大きな声を出すなって」
「あんたは…っ、1人じゃないよ!!」
「……は?」
既にパジャマを着替えていたヒキオは、フライパンを片手に持ちながら私を呆れたように見つめる。
あ、卵焼きだ。
良いにおい……。
「……お腹減ったし」
「え!?…そ、そうか。もう出来るから顔洗ってこいよ」
「はーい」
ーーーーーー。
「「いただきまーす」」
暖かい卵焼きを一口頬張りながら、私はヒキオに今朝見た夢を話す。
「なんかさー、変な夢見たし」
「あ?夢?」
「ん。あんたが教室で1人っきりになっちゃうの」
「正夢じゃねぇかよ」
牛乳を飲んだ後にできた白い髭をぺろりと舐めながら、ヒキオは私の話に食いつくこともなくテレビに目を向けた。
テレビから流れる政治やら外交やらの難しい内容に、私は無意識にチャンネルを変える。
「…中学生くらいのあんたが世界の全てを諦める夢」
「え、なにそれ。カッコイイな俺」
「ヒキオ。中学生の時ってどんな感じだったの?」
「んー。高校の頃と大して変わらんと思うが……」
ヒキオは卵焼きの最後の一口を口に放り込むと、カチャカチャと食べ終えたお皿を重ね、キッチンに向かった。
アホ毛をゆらゆらと揺らしながら、あまり関心のないように私の話を聞き流す。
高校の頃と変わらない……。
あんまり可愛げのない中学生だったようだ。
「おーい。食い終わったら持って来てくれー」
「んー。あーしも一緒に洗う」
もしも。
もしも私がヒキオと同じ中学校に通っていたら……。
あのモノクロの世界からヒキオを救い出すことができたのだろうか。
ふと気がつけば、お皿を洗うスポンジを泡泡にしたヒキオがぼーっとしていた私を不思議そうに見つめていた。
「寝てんのか?」
「ね、寝てないし!」
「はは。寝癖、付いてるぞ」
そう言いながら、ヒキオは小さく笑い、私の頭を撫でてくれる。
柔らかい手つきがサラサラと。
私が好きになったヒキオの手。
「むー。あんたもアホ毛が立ってるよ」
「これは俺のチャームポイントだ」
「ポイント…。そろそろお手伝いポイントが100点になるし」
「は?何その可愛いポイント」
「あーしがヒキオのお手伝いをしたときに溜まるポイント」
「そんなポイント制があったのか……」
「うん。これ洗い終わったらちょうど100点ね」
「なんか取って付けたような加算点だな。……100点になるとどうなるんだ?」
「願いが何でも叶う」
「え、まじで?俺もそのポイント貯めようかな」
ふわりと浮かぶ柔らかな会話にうつつを抜かしながらも、私はヒキオが洗い終えた食器をタオルで拭いていく。
裾をめくって覗いた手首は女のようにか細い。
そのくせ、強く強く私を抱きしめてくれるときには何も考えられなくなるくらいに心地が良い。
分担された作業をせっせと終わらせ、最後の1枚を拭き終えると私はヒキオに向かって飛びかかった。
「とうっ!!」
「あ?おぅ!?……お、おまえ、急に何を…」
「あーしの大好きなにおい……。ねぇ、ぎゅっとして?」
「……はいはい。ぎゅ…」
「んふふ。あったかい…。頭も撫でてぇ」
「…これが100ポイントの願い事か?」
「違うし!」
「違うのかよ」
猫をあしらうように、ヒキオは私の頭を雑に撫でながらリビングのソファーまで移動していく。
その間も必死にしがみ付いて離れなかった私。
これは必死ポイントに加点だな。
「……いつまでくっ付いてるの?」
「とろけるまで」
「怖い……。んで?願い事ってのは?今夜の夕飯をハンバーグにしろってか?」
「ハンバーグはまた今度でいいし!願い事はねぇ……、その….」
「?」
中学生の頃のヒキオを教えて
と言おうとした。
……言おうとした時だった。
コトン、と。
部屋の片隅に置かれたヘッドホンが床に落ちる。
……ヘッドホン。
そういえば、ヒキオと見たアニメで、ヘッドホンを付けて過去に飛ぶ話があったな。
「こ、これだし!」
「あ?」
私は慌ててヘッドホンを頭に付ける。
「……時間は、ヒキオが中学生だった頃……!!」
「え、なに?どうしたの?」
身体に電気が走る。
それは電子的な光か、それとも身体を巡るインパルスか。
淡く光ったその輝きに、リビングは大きな音を立てながら包み込まれていった。
ーービリビリっ!!
「飛べしーーー!!」
ーーーーー☆
【運命の時間軸】
一瞬の気怠さと重たい瞼。
真っ暗だった世界がゆっくりと明かりを取りもどすように、私が目を開けるとそこはどこか見知らぬ学校の屋上に立っていた。
太陽の光から目を背ける。
履き古した上履きはカカトが完全に潰れていた。
「……学校…?」
学校ならでは特徴をふんだんに備えた周りの風景だが、そこは少なくとも総武高校ではない。
「優美子ちゃん!ほら、あいつが来たよ。隠れて隠れて」
「は?」
突然に後ろから掛けられた声には幼さが残っている。
後ろを振り向き声の正体を確認すると、それは本当に幼い…おそらく中学生くらいの女の子だった。
「ぷぷ。あいつ、優美子ちゃんに告白されると思って本当に来ちゃったんだ」
「…?」
イタズラが好きそうな……、なんて言うのは可愛すぎる表現か。
それは罪を知らない無邪気が故の悪意。
その悪意に満ち足りた彼女達は、理解が追いついていない私を屋上の隅に置かれた排水ポンプの裏に引っ張りながらこそこそと笑い合っていた。
……。
……私はこの悪意を知っている。
そして、その悪意を向けられた人の苦しみも聞いている。
「「「偽ラブレター作戦大成功〜」」」
私が今の状況に戸惑っていると、彼女達の声が屋上中に轟いた。
それはとても楽し気でなんの悪気も無い。
彼女達にとって悪意を向けることは快感であり快楽であるのだろう。
そんな彼女達の道楽に利用された哀れな男子生徒を気の毒に思いつつも、私はその場を後にしようとした。
そこに佇む彼は表情一つ変えやしない。
痩せ気味で猫背なその男の子の姿に、私は思わず目を奪われてしまう。
ポケットに両手を入れながら、少し俯き気味に彼女達の笑いものにされている彼。
ワンサイズ大き目の制服に身を包む姿と幼さを残した瞳は可愛いらしい。
「……っ!?」
アホ毛をゆらゆらと。
それは関心の無さを表すパロメーターのように左右に揺れ続ける。
「満足か?それならもう帰っていいよな?」
絶句する私は彼と目があった。
途端に、何かが胸を熱く締め付ける。
「……ひ、ヒキオ?」
お空に近い場所で、強い太陽光の暑さを春風が紛らした時に。
中学生のヒキオが私の前に現れた。
飛べしーーーーー!
がお気に入り。