壁に×印をつけるだけの簡単なお仕事   作:おいしいおこめ

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13 湖の娘は塔から出られない

 それは、「スカーレット・ピンパーネル」の公演期間も後半に差し掛かろうという時期だった。

 私は、その男がいつ、私の描いたバツ印だらけの壁の前に立ったのか、全くと言っていいほどわからなかった。

 

「気持ち悪い。どうしてお前みたいなのが生きてるの?」

 

 その男は私に、忌々しげにそう言った。

 ヘッドホンで耳を塞ぎ、直線的な形のゴーグルでその目を隠した、まるで世界を拒絶せんとでもいう男。これで口でも塞げば日本の叡智サンザル――見ざる聞かざる言わざる――である。

 もちろん私は初対面、こんな変な格好の男に知り合いはない。……つまり今先程私は、初対面の男に「気持ち悪い」と言われたわけか。辛い。私が何をしたというのか。

 

「煩いのに聞こえない、これは何?」

 

 男の言うことは、私にはよく分からなかった。ただ困惑することしかできない私に、男はぽつと漏らした。

 

「まるでC.C.の紛い物じゃないか」

「しぃ、つー…?」

 

 復唱した、その言葉の響きに。“何か”の奔流が私を襲った。

 

冷たいベッド。

――ステンドグラスと、奇蹟を騙る/*(発音不可)*/の魔女。

――――たく※んの電※コードが※えて、白衣の、血が、

――――――アメ※ス※の瞳と、王の英※を※※して、殺※れる。聖女に、

――――――――猫、※え、※※な、※

 

「、ひっ」

 

 悍ましい。惨たらしい。それは忌々しくも醜悪たる“何か”で、触れてはいけないモノだった。

 その“何か”に私の心は掻き乱されてもみくちゃにされて恐ろしくて仕方なくて逃げたくて逃げなくてはいけなくて捕まったらきっと私は私でなくなってしまうのだろうと、私――…――「 私 」?

 

〈エレイン!〉

 

 はっ、とアーサーの呼び声に、頭の中が晴れたような心地がする。いつの間にか、私はもう壁の前にはいなかった。自分が肩で息をしているのに、そういえば無我夢中に逃げ出したのだったかと思い出す。……逃げる? 何から?

 

〈今にも死にそうな顔をしていた〉

 

「珍しく合ってる気がするわ、それ」

 

 アーサーの言葉にそう返して、けれどもどうしてそんな羽目になったのかは思い出せなくて。

 

「……男。ヘッドホンにグラサン、いやゴーグル?」

 

〈何がだ?〉

 

 アーサーの疑問の声に、私も首を傾げる。何だったのだろうか。

 もう、よく、思い出せない。

 

「あっ! 壁っ! 印っ!」

 

 今日の分がまだつけられていない!

 私はアーサーを抱きかかえて、今日の×印をつけるべくまた、例の壁の場所へ向かった。

 私がそこで見たと思った男は、最初からその存在が私の思い違いであったかのように壁の前から姿を消していた。

 

 

 

×

 

 

 

 

 どうしてだろうか。学園に久しぶりに姿を見せたルルーシュ氏は、救いを求めてでもいるかのような、どこか危ういところがあった。

 ……いや、私がそう勝手に思っているだけで、表面上彼の言動は至っていつも通りだった。あまりに彼が“いつも通り”過ぎたから、それが私には、彼が意識して“いつも通り”でいようとしているだけに見えて。

 そう思って見た彼の横顔は、まるで大事なものを失ってしまったときのように、寂しい顔をしているから。私までが寂しく、悲しい気持ちになってしまった。

 ああ、酷い。あまりに酷い話じゃないか。私はこんなにも、彼が救われることを望んでいるのに、この私では彼に寄り添えないというのだから。私では、彼を埋められないというのだから。それが、こんなにも悲しい。

 

 だからせめて、自ら孤独の道を歩まないでほしいと、私は自分勝手にも彼に望んだ。

 ……これで全部私の杞憂だったら恥ずかしいな。いや、それで済むならそれに越したことはないのだけれど。

 

 

 

 

「他人ごっこ?」

 

 アナの言葉に、私は思わず訊き直した。私のサンドイッチボックスからえびアボカドサンドを攫って行ったアナは、ふふんと鼻を鳴らすとそれに齧り付く。食べてないで早く話してほしいのだけれど。

 

 事の起こりがいつだったのかは分からない。ただ、私が気付いたころには、シャーリーのルルーシュ氏への態度は明らかにおかしいものになっていた。ルルーシュ氏を相手にして、まるで、他人の。知らない人を相手にするような、そんな反応をシャーリーはした。

 体温が失われていくようだった。ルルーシュ氏のあの寂しい横顔がちらつく。そんな、まさか、ねえ?

 それが、私にとっていいことなのか、悪いことなのか。私には分からなかった。アナは「ライバルが減ったんじゃない?」なんてお気楽なことを言っていたが、シャーリーのあれは、そんな単純な『退場』とは違うだろう。消えるならば、彼の中に残らないでほしかった。こんなもの、どう対抗しろというのか。諦めろと言われているようで、乾いた笑いしか出てこなかった。

 

 サンドイッチを咀嚼し飲み込んだアナが語ったのは、シャーリーとルルーシュ氏は痴話喧嘩をしていて、シャーリーはルルーシュに他人のふりをしているということだった。「痴話喧嘩だって、残念ね~」と、アナが苦笑する。……ふり? ごっこ? まさか。あれが演技なら、私はシャーリーを何が何としても演劇部に入れた後、演劇部を辞める。あまりに、迫真が過ぎる。

 

「あれじゃ、本当の他人みたい。……なかったことに、した、みたいな」

「なに? 『私たち、無かったことにしましょう』って?」

「そういうのじゃなくて。本当に、忘れてるんじゃないかな」

 

 私の言葉に、アナがきょとんとして言った。

 

「どうしてそんなこと分かるのよ」

「だって、シャーリーのあれは、恋をしている人間の目じゃないもの」

「うわ。恋する乙女は言うことが違うわあ~」

 

 そう言って、アナは笑って肩を竦めたけれど、私には笑えなかった。ルルーシュ氏とシャーリーは、二人は、私の目からすれば他人にしか見えなかった。他人が知り合いになることはあっても、知り合いが見ず知らずの他人になることなんて、おかしいのに。

 

 急に、恐ろしさを覚えた。彼らの仲が、変わってしまった? 変化というよりもこれでは消失といったところだが、どちらにせよ、以前のままでないことは確かだ。それが、私には恐ろしくて仕方ない。

 私はルルーシュ氏を諦められない気持ちを持ちながら、ルルーシュ氏とシャーリーの仲を認めていた。シャーリーが相手だから、仕方ないと思っていた。それが、私の信じていたものが、なくなってしまった。――じゃあ、ルルーシュ氏はどうなる?

 私には、何ができる? ……私が、何かできる? こんなの、自嘲するしかなくて、そんな自分に泣いてしまいそうだった。

 

 

 

 ×

 

 

 

 スザク君がユーフェミア殿下の騎士様になった。大出世だ! おめでたい。

 叙任式の生中継を観ていると古傷の痛むような思いがして、アーサーと一緒にテレビの前で呻きもがいてしまったけれど。円卓、忠誠、騎士、ウッ頭が。いや、あれは『アーサー』のことであって、私の事ではないので。

 

 スザク君の騎士叙任を祝して、学園でも「おめでとうパーティ」なるものが開かれた。企画はルルーシュ氏の妹様なんだそうな。

 ピザだ! ピザ! たくさんの人に囲まれ祝われるスザク君に近づいてお祝いを言うというのはちょっとハードルが高かったので、私は遠巻きに見てピザを頬張っている。既に本人にお祝いは述べて、アップルパイをホールで贈りつけ済みなので、この場では許してもらおう。

 ちょっと調子に乗って詰め込んだせいか、早々お腹は膨れてしまった。……ウエスト周りが苦しい。

 悔しいが、制服のベルトを緩めようか。そう思ってホールを抜け出て人目のない場所を探していると、上から声が降ってきた。

 

「もしかして、君のお兄さんはチャールズというんじゃないかい?」

 

 驚きその場を飛び退いて、声のした方を見ると眼鏡をかけた白衣の男性がそこに立っていた。穏やか、ともどこか違う目。私に話しかけるその様子は自身の知的好奇心に身を任せているようで、けれどもその根底には何かを見通すだけの冷静さがあるような気がした。白衣、というのが嫌なものを思い出しそうになる。研究者の類に思えるけれど。

 彼の隣には生徒会のニーナさんの姿が。ダブル眼鏡だ。パーティ会場ではそういえば確かに彼女を見なかった。

 

「軍の、研究開発員の方ですか」

 

 私は眼鏡の彼を見上げ、問いかける。彼は嬉しそうに唇で弧を描いた。

 

「ぴんぽーん、大正解~。君は彼の妹ちゃんだね?」

「チャールズ・アーキンは私の兄です。あの、兄とはどうして?」

「ちょっとした実験に協力してもらったことがあってね。凄く極端な数値を見せてもらったから、印象に残っていたんだよ」

 

 世界は狭い、とでもいうのだろうか。それよりも『実験』という単語に私は身の竦む思いがした。

 

「君の写真を見たときの、彼の変化は著しかった」

 

 彼の手が私の前髪を掻き上げた。顔が近づくことにどきりとする。

 

「額の痣は消えたんだねえ」

 

 痣、なんてあった覚えは、だってあれは痣ではなくて、文様、だけれどあれは不完全の証で――。

 

 ……証? 何のことだろうか。自分が数秒前に考えたことが、よく理解できない。

 

 思考の海に沈みそうになっていたところで、私を見据える二つの瞳に、はっと息を呑む。私の苦手な、忌むべき種類の瞳に似ていると思った。その視線から逃れるように、私は顔を逸らす。

 

「怖がらせちゃったかな?」

「いえ、驚いただけです」

 

 ただし、その驚きようは私の中で結構な大きさだったが。軍の方だというから、スザク君に用事だろうかと予想する。彼とニーナさんはホールへ去って行った。私も本来の目的を忘れて戻りかけた。ベルト、ベルト。

 

 私がベルトを緩めてホールに戻ろうとしたところで、先ほどの眼鏡の彼と再会した。後ろにはニーナさん、ではなくスザク君。私の予想は当たっていたらしい。スザク君に手を振って、私はホールへ向かう。

 パーティの主賓の抜けた会場は、しかし、騒がしさを失ってはいなかった。むしろ余計に騒がしくなっている気がして、私は首を傾げる。こういう時アナがいてくれれば理由が一発で知れるのだが、彼女の姿はこの人の群れの中ではすぐには見つけられそうになかった。

 

 お腹はいっぱいなのに、ピザが目の前にあると手を伸ばしてしまうのだから不思議だ。私はピザをちまちまと齧りながら、その辺の人の話に聞き耳を立てる。会場が騒がしい理由は割とすぐに分かった。

 あの眼鏡の彼は、スザク君を会場から連れ出す時に、スザク君の受ける軍務が、機体ランスロットとユーフェミア公女殿下と共に客賓を迎えるものだと明かしたらしい。……その軍務内容が事実なのだとすれば、私はあの眼鏡の彼の正気を疑うのだけれど。

 眼鏡の彼についても、幾らか話は拾えた。名はロイドというらしい。スザク君の上司で、伯爵位を持つお貴族様。そして我らがミレイ会長の婚約者。インパクトの強い情報が混在しすぎではなかろうか。

 

 オレンジジュースの入ったグラスを傾ける。詰め込んだピザが苦しいが、美味しかったのだから仕方がない。口端についたピザソースを指先で拭って、暫く会場に視線を彷徨わせたが、一人でいる自分が寂しい存在だと思わされるだけだった。圧倒的にやることもなかったので、会場を去る。

 これじゃあ、ただピザを食べて帰っただけだと気付いたのは、自宅リビングのソファで、重たいお腹を下に寝そべってからだった。

 

 

 

 ×

 

 

 

 寂しさを埋める術を知らない子供だった。他人にそれを求めることも苦手だった。

 

 悪意に晒されることは、『善意で』引き取られた先での生活で慣れていた。正常な感覚が麻痺していたともいえる。やがて私は、物言わず心動かぬようになった。

 

 《器、王に正しき栄えを齎さん》

 

 私を空っぽだと判断したその人は、私のことを『器』と呼んだ。私が空であることは、その人の『実験』に都合がよかった。その人のことが、私は恐ろしくて仕方なかった。私を見るその人の瞳が、私は苦手だった。

 私は空ではなかった。ほんの僅かでも残っていた。そのことに、誰もが気付かなかった。

 

 

 私の目が覚めたのは、夕日も赤く染まる頃。……スザク君のおめでとうパーティから帰宅して、ソファで寝転んでいるうちに、そのまま寝てしまっていたらしい。

 懐かしくて、忌まわしい、嫌な夢をみたような気がする。するのだが、思い出せるのは夢で抱いた感情ばかりで、内容は綺麗さっぱりと忘れてしまっていた。何かもわからないものに、不快感ばかりが募り、気持ちを澱ませる。

 不意に、ソファの下の影が動いた。驚く私を余所に、その影はにゃあんと鳴く。アーサーだった。

 

「驚かせないでよ」

 

 呆れとも怒りともとれないもやもやとした気分を抱きながら、私は部屋のカーテンを閉めた後に部屋の電灯をつける。

 

〈そのつもりはなかったのだが〉

 

 そう言い、アーサーは揺れる尻尾でてしてしとカーペットを叩く。その尻尾をふん捕まえてやろうかと右腕を伸ばしかけたところで、私はふと浮かんだ疑問を、独り言でも呟くようにアーサーに投げかけた。

 

「“あれ”は何の『実験』だったのだっけ」

 

 両親が死んだのが五歳。兄と離れていたのが五歳から九歳の頃で、『実験』は七歳からあの人が死んだと聞かされるまでの、一年と少しの間。

 その一年と少しの『実験』で、私が何をしていたのか。欠片も思い出せないなんて、気味が悪い。急に肌寒さのようなものを覚えた。

 

「私が失敗だったことは知っているの」

 

 私を『器』と呼んだあの人は、そう言っていた。奇しくもそれが、私が聞いたその人の最後の言葉になった。

 『実験』も終わって、引き取り先に返されて。それから間もなくして、兄が迎えに来て。ようやく両親の死を過去にできた私は、私を取り戻し始めた。そうして今に繋がってきた。

 

「覚えている。覚えているのよ。忘れてなんていない、忘れられるはずもないのに、“思い出すこと”ができないの」

 

 忘れっぽい性質の自分でも、確と覚えている。記憶は確かにあるのだ。私は、その『実験』がどういった内容で、何を目的としたものであるかを知っている。知っているのに、それが何なのかが分からない。

 引き出せない記憶に、私の中では奇妙な矛盾が起きていた。

 

「トラウマ、ってやつなんだろうなあ」

 

 人は、精神的に強い傷を受けるような経験をしたとき、自己防衛のためにその経験を忘れるということがあるという。これもその類、なのだろうか。

 どうせ思い出せないのなら、そんなものがあった事実ごと丸々忘れてしまいたかった。そこにあると知れてしまえば、思い出せない記憶にも手を伸ばしてみたくなる。

 

 ……手を伸ばして、みようか。

 それは、出来心のようなもので。実際、そこにあるものに、手を触れるだけなら難しくなかった。手繰り寄せようとしたところで、見えない何かが、私に圧しかかる。

 ――ああ、これは。不安だとか恐怖だとか呼ぶものだ。

 

 重くて、大きくて、陰鬱なそれは、私を磔にした。

 恐怖に竦む身体も、不安に押し潰されて止まりそうになる息も、どこか他人事のようで、けれども感じる胸の痛みが、息苦しさが、これは私自身のことなのだと訴えていた。びりびりと痺れを感じる手の指には、力も入らない。これ、痺れじゃなくて、震えなんじゃない?

 

 上下が分からなくなって、頭がくらくらした。乗り物酔いのようなそれに、胃がねじれてひっくり返ったような感覚を味わう。気持ち悪い。

 吐き気にえずきながら、私は食べ過ぎたピザに、どうか戻ってくれるなと祈った。

 

 ――思い出してはいけない、思い出さなきゃいけない、思い出したくない。思い出せない。

 何が、何だか分からないのに、辛くて辛くて堪らなかった。自分では消化できない感情が込み上げては、生理的な涙も手伝ってあふれ、零れ落ちていく。

 

 ざらりとしたものが私の頬を撫ぜ、伝う水滴を掬った。アーサーが私の頬を舐めたらしい。

 

〈思い出さなくていい〉

 

 アーサーのその言葉は、不思議とすんなり受け入れられた。決して強い調子ではなくて、どちらかといえば私をあやすようなその声に、逆らう気は起きなかった。……私も、その記憶を思い出さないことに、心の底では賛同しているということなのかもしれない。

 苦しかった息は緩やかに楽になり、吐き気もおさまっていった。私はアーサーの背を撫でる。手に触れた生き物の温度に少し安心して、また泣きそうになった。どうにも情緒不安定でいけない。これはさっさと寝て忘れて元気を出すに限る。

 

 ソファから身体を起こした私は、寝室に向かう。何も言わずともアーサーが着いてくるのは、私を心配してくれてのことだろう。

 今だけは、アーサーが私でもあるということを忘れてしまいたい。私を私が心配していることに、私が喜ぶなんて構図は滑稽だし、私が孤独な人間なのだと知らされるようで、どうにも寂しいから。

 

 ベッドに潜りこめば、睡魔はすぐにやってきた。重くなる瞼に意識まで沈みゆく。

 ……そういえば、アーサーはいつから私の側にいたのだっけ。ふとアーサーに訊きたくなるけれど、眠りの波に邪魔されて、口に出しかけたその言葉は不明瞭なまま、私は眠りに呑まれた。


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