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この作品には原作設定の拡大・独自解釈も含まれます。申し訳有りませんが、原作設定の絶対的な遵守をお求めの方、ご自分の解釈を非常に大切にされている方のご要望にはお応えしかねる場合があります。該当される方はご自身の責任における判断で閲覧されるかどうかお決め下さい。よろしくお願い致します。
「ううん、記憶が飛んだか……なるほどねえ」
宙に浮かぶ大量のスクリーンの前、白衣の男は難しい顔で呟いた。スクリーンの一つには、スポンサーから送られてきた報告書が表示されている。
「ドクター、これは成功ですか? 失敗ですか?」
問うてきたのは、ドゥーエと呼ばれる彼の造りだした姉妹の上から二番目の娘だった。
「……ううーん、どうかねえ」
薄笑いを浮かべながら、ドクターと呼ばれた男、ジェイル・スカリエッティは煮え切らない答えを返す。
「そもそも私は、大して手を貸していないからねえ」
「精神汚染のロストロギアに細工をして、暴走させて出力を跳ね上げたでしょう。トドメを刺したのは、間違いなくドクターかと」
「まあ、それはそうなんだけどね。だけど、特武官を無力化したいと願って、それまで色々手をつくしてきたのは、私ではなく管理局のお歴々だ」
四年ほど前に管理局へ入った高町恭也。こと戦闘においては圧倒的な力を有していた彼は多忙にして危険な任務を多数こなさなければならない管理局において、概ね好意的に迎え入れられた。
しかし、そうではないものも少ないが確実におり。
それが事もあろうに時空管理局のトップもトップ、中枢も中枢、最高評議会であったのは間違いなく彼の不幸だろう。
「そんなに脅威ですか、高町恭也は。ただ強いというだけで、そんなに怖いものでしょうか。例えば犯罪者ならば、一番厄介なのは技術型とされていますわ、ドクターのように」
ドゥーエの言うとおり、単純に戦闘力が高いよりも、優れすぎた技術を持っている方が犯罪者としては警戒される。それは、社会に対する影響力が大きいからだ。
「そうなんだがね、高町恭也の強さは異質だから、それが問題なのさ」
「異質?」
「ああ。例えばもちろん、もし管理局全体を敵に回せば彼とて勝ち目はないだろう。しかし、彼の持つ強さの恐ろしさは、そういう計り方をするべきではないんだ」
「では、それは?」
「簡単に言えば、一点突破さ。彼はその気になればどんな権力をもった人間でも、おそらくは殺しにいける」
後ろめたい事のある権力者としては、実に嫌なタイプだろうと思う。
「管理局全体は無理だろうが、それでもかなりの規模・練度の軍勢を相手にしたって、それが殲滅ではなく突破なら彼に大いに分がある。そして要人警護側の敗北条件は、自分たちの全滅ではなく防衛線を突破される事だ」
スカリエッティをして、彼の襲撃を防ぎきる防衛ラインの構築というのは無理難題だ。
「それに警護なんてものは、どれだけ厳重にしたくとも限界がある。常に最高の厳戒態勢をとり続けるのは現実的には不可能だからねえ。攻める側の方が有利なんだ。君はよく知っているだろう?」
「ええ、それはその通りだと思いますわ」
ドゥーエは潜入任務がその本領だ。
得心した顔で頷いた彼女に続ける。
「機動力と突破力にこの上ないくらい優れ、なおかつ魔導師対策として絶対の優位性を保つはずのAMFも、彼にはさしたる効果を上げられない。そんな特性を持った上で、地はあれほどの力量だ。どうやって止めるんだという話だ」
「なるほど……確かに、異質ですね」
例えば最高評議会の者達が座する一室までの道は超高濃度のAMFで満たされており、その中は禁忌となっているはずの質量兵器で武装されている。
しかし、高町恭也はそれをものともしないだろう。おそらく、場所さえわかってしまえば二、三時間で制圧は終わる。
そもそも、AMFの効きが彼には悪い。AMFは空間の魔力結合を阻害するもので、当然対象魔法の空間を占める割合が多ければ多いほどその効力を高く発揮する。すなわち、魔法が発動している時間と、及ぼす物理的な範囲の広さに効力が比例するのだ。長く、広く効果を発揮するものほど強く減衰されると言っていい。
高町恭也の使う魔法は、しかしながらその真逆を行っている。彼の得意とする魔法は基本的に、自分の身体と刀というごく限られた範囲内にだけ効力を発揮する。その上、さらに悪いことに魔導師の体内とデバイスの内部は、それぞれAMFの効きが悪い。
しかも、常に発動させている身体強化はともかく、斬撃強化はまさしく一瞬だけのものだ。減衰が始まるより先に、効果を終えて消え去っている。
これでは、AMFは本当に大して意味が無い。
そもそも、もし仮に彼の魔法を全て完全に封じるほどのAMFを展開できたとしても、それでもなお戦闘能力は陸戦AA-程度はある。質量兵器で武装した特殊部隊100人で襲いかかっても、仕留める事はまず不可能だろう。
高町恭也という戦力は、魔導師の常識では抑える事が出来ないのだ。
「怖いんだろうねえ、彼らは。いざとなれば自分たちの喉元を簡単に食い敗れる獣が。なにより、飼い慣らすのが難しい。彼は金や名誉に執着しない類の人種だ。従うのは自分の信念のみ、扱いづらい事この上ない。管理外世界出身という事で、思想や信条、信仰なんかがそもそも測りづらいしね」
「……ああ、それで疑心暗鬼になっているのですね。自分たちの何かがもしかしたら、彼に反乱を考えさせるかもしれないと」
「かなり後ろ暗い事をしている彼らだ、何か、になるかもしれない事の心当たりならそれなりにあるからね。私達なんて存在でもってそれを証明してしまっている」
無限の欲望というコードネームでスカリエッティを開発したのは、誰ということもない、こちらを犯罪者として追ってきているはずの管理局である。正確には、その上層部のさらに一部、最高評議会だ。
「とまあ、彼らとしてはだからなんとか無力化出来ないものかと躍起になっていたみたいで。……ふふ」
「ドクター?」
たまらず笑いを零したこちらに、ドゥーエが不思議そうな顔をする。
「いや、なに、伊達に長く巨大組織の裏側で人を操り続けていないなあと思ってね。実に芸術的だったよ、彼らのやり方は」
「どういう事ですか?」
「ドゥーエ、君は高町恭也のこれまでの出撃データを見たかい?」
「もちろん。全てに目を通しましたわ」
「では聞くが、人があんなに自己犠牲的に動くものと思うかい? 自分が壊れるまで、否、壊れてもなお、誰とも知らぬ人間のために戦い続けると思うかい?」
「愚かしい人間たちの考えはよくわかりませんが、ない事かと」
その答えに、スカリエッティは頷く。
「そう、普通はありえない。高町恭也とて、それは例外ではなかった。元々自己犠牲的な側面はあったし、弱者を護ろうという志も持っているようだったが、それでも彼だって、さすがにあそこまでの人間ではなかった」
「ですが、現にあの男は……」
「そう、ところが彼は誰とも知らない人間達のために剣を振るい続けた。そこなんだよ、ドゥーエ。最高評議会のお歴々の素晴らしい手腕が輝いたのは。……ふふ、ふふふ」
思い出しながら、また笑みを浮かべる。
自分も、自分の頭脳と技術にはこの上ない自信を有しているが、あれは真似出来ない。
「彼はたくさんの人間を救った。一回の出撃でそれこそ万、十万、場合によってはそれ以上の人間を結果的には救った事もある。しかしそれは裏を返せば、例えばその中の1%の命だけは救えなかった時に、100人、1000人の死がのしかかるという事でもある」
「まあそうですが、それは仕方がないのでは? その人間の責任とは言い切れないでしょうし」
「そうだね。そう思って割り切れる者もいるのだろうし、民間人は別として覚悟のある局員がその任に殉じたのなら割り切るべきだと考える者もいるだろう。高町恭也もそうだったかもしれない」
そうだった。
つまり、過去形だ。
「しかしね、その戦闘終わりに、例えばデータをまとめている人間が、任務状況を振り返りながらこう言ったらどうだい? "あの時の判断は、もしかしたら他に最善があったかもしれませんね。もしあそこでこうしていたなら、犠牲者はさらに少なくてすんだかもしれません"、なんてね」
「……それは」
「その少なくてすんだかもしれない人数というのが、戦場によってはさきほども言った通り、1%でも100人、1000人だ」
「重いと、感じるものなのでしょうか、人間はそれを」
「一回や二回なら、それでも割り切れる者なら割り切るのかもしれない。だが、それが三回四回どころか、三桁の数で延々と続いたのならどうだい? 延々と、延々と、あそこはああしていた方が、あそこでああしていたのなら、そうすればもっと人は死ななかったと、そう言われ続けたのならどうだい? ……果たして変わらずにいられるかな?」
人間は、良くも悪くも変わる生き物だ。そして高町恭也とて、どれだけ人間離れしているようと……。
結局、人間なのだ。
「人を救えば救うほど、自分の一太刀の重さを思い知らされる。あんなに強い貴方の太刀があそこでああいう風に振るわれていたのなら、そんな言葉を浴びせられ続ける。穏やかに、緩やかに、だからこそ消せない確かさで降り積もっていく、それは澱のようなものだ。やがて彼の心の奥底に溜まり、泥沼を作り出す」
「……それを狙ったと? しかし、そう上手くいくものですか?」
「上手くいくよう、彼へ治療や栄養補給を行う際に、思い込みやマイナス思考を強くするような薬剤を少しずつ混入させて投与させるなんてことを、手駒を使ってしていたという話だ」
針なしの注射による栄養補給は、吸収効率が優れており、早くすむという名目で提案したらしいが、本当の狙いは食事に薬を混ぜ込ませたら不審な顔をされたからだという。
今は失っているようだが、高町恭也は味覚も鋭かったらしい。
「それから、彼が寝る際に使用している継続睡眠装置なんて代物にも、薬剤と同じく思い込み、マイナス思考を強める催眠効果を発生させるよう改造を施してあるとも聞いたね」
そんな面白いものなら作らせてくれてもよかったのにと若干の不満はあるが、局内の支給品に改造を施すという手順に自分のような外部にいるものを噛ませることは、少々難しかったのだろうと理解もしている。
「うーん、何だかまわりくどいですわね。いっそのこと検査や治療と称して、一気に思い切り洗脳かなにか……は、難しいのでしたか」
「任意の人格への塗替えというのは、色々条件があるからね。少なくとも、精神の核であるリンカーコアが正常に動いている間はほぼ不可能に近い。それに、一気に造り替えた人格というのは、何かの拍子にまた元のものへと戻ってしまうことがある。安定性に欠けるんだよ。それはお歴々の好みじゃない」
「なるほど……。しかし、責任を感じさせるような言葉を囁く者達を、あの男の周りに何度も何度も配置したというのはさすがにお歴々とはいえ、厳しかったのでは?」
「違う違う、これが上手いところなんだよ、ドゥーエ」
ひらりひらりと、スカリエッティは薄笑いを浮かべながら手を振った。
そう、そんな単純な力押しの、美しくないやり方ではなかったのだ。
「君の言う通り、いかな高い影響力を持つお歴々とはいえそんな事をこなすのはなかなか厳しいだろうし、何よりどうやっても不自然さというのが出てしまう。それでは駄目なんだ。自然に、普通に、なんの気なしに、次回を、大きな言葉で言えば世界をより良くしようという善の心根でもって言われるからこそ、彼のような人間の心には響くものさ」
人の善意を、前向きな志を、正義といっていいだろう気持ちを、実に実に醜悪に利用するものだ。
さすがは自分の製造者達といったところだろうか。
「最高評議会の面々がしたのはささやかな事さ。しかも実に正当な、ね。その任務の時々で、あの男の周りにつく事になった人間へ、時にはオペレーター越しに、時には整備部越しに、時には上官越しに、様々なルートを介してさり気なくこう伝えるんだよ……」
こちらの言葉に耳を傾けるドゥーエの顔には、さすがは自分に最も似ていると言っていい娘、実に愉しそうな笑みが浮かんでいる。
「"管理局は、強大な力を持った特武官に大きな期待をしている。しかし彼の局員としてのキャリアはまだ短い。ゆえに、どうかアドバイスをしてやってくれ。心苦しいだろうが、彼の成長に繋がるようなアドバイスを頼むよ。―――世界のための刃を研ぐと思って、ね"」
「……く、ふ、ふふふふっ」
「これに他意なく従った局員達の言葉をただただ、何度も何度も、失敗がすなわち人の死であるような戦いの後に、薬剤やらで恣意的にマイナス方向へ思考を誘導された上で言われ続けてみたまえ。責任感は徐々に徐々に肥大化していき、元々有していた自分を顧みない性質は、より破滅的な色合いへと変化していく。……傑作だろう? 結局高町恭也をあんな人間に仕立て上げたのは小さな小さな善意の積み重ねだ! 私にこれは出来ないよ! いやはや恐れ入る!」
「ふふ、ふふふふふははははははっ! まったくですね!」
最高に面白い話を聞いたとばかりに、ドゥーエは笑う。嘲笑うと言ってもいいだろう。
実にスカリエッティ好みの笑顔だった。
この話の実に愉快なところは、管理局において彼を排除しようと本気で思っているのはあくまで最高評議会だけという点である。
高町恭也に、いわば緩やかな思考誘導を施したほとんどの人間たちは、世界のためを、そして言うなれば彼のためを思って行動しただけなのだ。
「では、ふふっ、ドクター。彼らはそれだけを地道にやっていったのですか?」
「基本的にはそうさ。異様に長生きだからかね、根気がある。少しずつ少しずつ、年単位の時間をかけた。その目的に適う数と質の戦場に彼を送り出してね」
高町恭也が特武官などという役職に着いたのは、彼らの思惑あってこそだ。もっとも、就任させた時にはまだ飼い慣らすことも考えていたようだが。
彼の素行や素性を観察した結果、ほどなくしてそれは不可能だと判断したらしい。
そしてその時には同時に、手を噛まれたらどうなるかというのも、その実力を目の当たりにして理解したのだろう。
「この出撃頻度はさすがにおかしいな。長い休暇をもらうか、場合によっては管理局を辞める事も考えるか……などと思う頃にはもう遅い」
「あそこで自分がああしていたら、そんな思考を人が死んだ数と共に、薬で偏った頭で幾度となく巡らせ続けたら、まあ、もう無理でしょうねえ」
「そう、無理も無理さ。逃げられない。自分がもし管理局を辞めたりしたら、悲劇の現場に居合わせた1%どころか100%の人間が死ぬかもしれない。全く知らない人間達だが、しかし……なんて考えに、心の中の泥沼に、足をとられるようになっているだろう」
「自分がそういう風に変えられたとも気付かずに、ですか。いえ、薄々感づいてはいても、というところでしょうかね」
「そう、嵌った時点で逃げ場はない。そしてまたずぶずぶと戦場へ沈み、その度に善意で囁かれ、人格を変質させられ続ける。そんな事が三年半も続けば、実に憐れなタガの外れた自己犠牲人間の出来上がりだ」
「なるほど……勉強になりますわ」
うんうんと、ドゥーエは満足気な顔で頷いている。
「人間というのはやはり愚かでね、彼がそうして苦しみを抱えているという事を、周りの者達のほとんどはしかし、想像できない。なぜなら、彼があまりにも常軌を逸した実力と功績を示し続けるからだ。自分達とは『違う』人間だから大丈夫なんだろう、ってね。彼が痛みや恐怖を感じる事さえ、もはや想像出来ないのだろう」
だから、わからない。"貴方ならこんなやり方もあったと思います、そうすれば次はもっと犠牲は抑えられるかもしれません"なんて、そんな自分達の悪気ない、否、彼がより多くの人を救えるようにと願う善意ですらある言葉が、特武官の心を軋ませている事に気づくことができない。
自分たちと同じ人間とはとても思えないから。そんなある意味で仕方のないだろう意識が、彼らをそうさせる。
あくまで、世界のための刃を研いでいるだけのつもりの彼らに、その刀身を削っているという自覚はないのだ。
「しかし、とはいえ壊すのはもったいないと思わないのでしょうか? 自分達の完全なコントロール下には置けないとは言え、あれだけの実力ですよ?」
「なにを言うのかね、もったいないからこそじゃないか。身体は傷なく、心だけが上手いこと壊れてくれれば、それは素体の状態としては最高だ。つまり彼らの最終的な狙いは、あの実力を持ちながら自分達に忠実な人造魔導師を作り出すことさ」
ちなみに表向きには彼は殉職した事にして、管理局に批判が向かないよう情報を統制した上で"その命を平和に捧げた英雄"というシナリオで世間に対し美談として公開する準備まで出来ているというのだから、本当に用意周到である。
「……貪欲ですわねえ」
「だからこそあの地位に収まり続けているのさ」
欲望がどれだけ優秀なエンジンかというのは、それこそスカリエッティはよくよく知っている。
「まあだけど、そんな最高評議会のお歴々は決して悠長に構えていたわけではなかったようだけどね。特に異様な回復力を持つ魔法を習得したときには、大いに肝を冷やしたらしい」
あの戦闘力にそんな回復力まで付いてしまってはもう、本当にどうしようもない。もし反乱を企てられたら間違いなく身が危ない。それこそ、自分たちのこの計画をもし知られたりしたら、終わりだ。
そう判断を出した彼らだが、しかし結局はより出撃頻度と難度を高めるという、今までの策を強化する方針しか採れなかったのだから、いかに手を焼いていたかわかろうと言うものだ。
手勢の戦力で闇に始末することは、どう計算しても不可能だったのである。
「それで、半年ほど前のとある事件で、なんとかそれまですり減りながらも耐えていた心をぼっきり折る事が叶ったみたいだが」
「【とりかご事件】でしたか」
「そう、それだね」
今までそれでも途方もなく強い精神力で耐えてきた高町恭也は、しかし、そこでついに折れた。
「だが、最高評議会にとって誤算だったのは、高町恭也がそれでなお、動き続けた、働き続けたという事だ。まさか折れてなお、まだ戦い続けるとはね」
「そこでドクターにお声がかかった、と」
「そう、完膚なきまでに砕け、とね」
そこで先日、元々暴走寸前だったロストロギアに細工をして、その出力を跳ね上げる仕事をしたのだ。精神汚染系のそれは、見事に役目を果たしてくれたらしい。
「廃人になると見越していたんだがねえ、記憶を飛ばすことで防御するとは、いやはやあっぱれだ」
「それで、どうされるのですか?」
「どうされるもなにも、お歴々がここまでお膳立てしてくれたんだ。わかるだろう?」
「確保、ですか」
にいいい、と。今までとは明らかに熱量の違う笑みを浮かべて、スカリエッティは言った。
「アレ以上の素体が、素材が、果たして広大な次元世界とてあるものか。たとえ聖王が遺伝子だけでなく、肉体としてそこにあったとて及ばない。あれは、そういうものだよ」
「キョーヤ! もっかい! もう一回!」
「わかったわかった、そら!」
緑に光る芝生の上を、ピンク色の円盤が走って行く。それを追うのは犬耳の女の子、人型モードを10歳で固定したアルフだ。
跳躍した彼女は空中でフリスビーをキャッチ、シッポをブンブン振りながらそれを投げた男性――恭也の下へと戻った。
「……身体は、もう随分ええみたいやな」
三階に位置する恭也の病室から眼下の中庭の光景を見ながら、はやてはそう呟いた。
「シャマルも太鼓判を押してたね、後遺症もない、大丈夫だって」
同じく窓の下を眺めるフェイトが言うとおり、シャマルの診断でももう身体は問題ない。
身体の方は、問題ないのだ。
「けど、心の方は問題大あり。……記憶喪失、か。お話ではよう聞くけど、身近に起こると……堪えるなあ」
大好きな人の大好きな声で、知らない人間と話す口調をされるとこんなにも痛いんだと知った。
あれから一週間が経って。目を覚まし、身体も癒やした恭也はしかし、記憶は飛んだままだった。
病名で言うならば、全生活史健忘というものになるらしい。日常生活で使うような一般的な知識は保持したまま、半生の中で積み重ねた体験等のエピソードを思い出せなくなっている状態だ。
恭也の場合は、自分の素性、人間関係、過去の思い出等が軒並み真っ白である。
「……戦闘能力は、かなり落ちてるはずなんやな?」
「間違いなく。日常生活の知識があるなら、反復練習で得た技術である剣術や魔法は忘れていない可能性が高い。身体に染み付いても、いるだろうし」
フリスビーを投げる恭也の動作は実に流麗だ。そのキレは、確かに高町恭也のものである。
「だけど、体験の記憶がないっていうのは、技術を使えてもそれで何が出来るのかわかっていない事になる。……実戦では、危なすぎる」
「戦闘が出来る力は出せても、戦術も戦略も使えんちゅう感じか……」
「うん。もちろんそれでも一般人と比べればはるかに強い事は強いけど、今の恭也さんなら、戦い慣れてる陸・空戦AAランク以上の魔導師であれば取り押さえられるレベルだと思う」
AA以上のランクを有した魔導師は、決して多くはないがひどく珍しいというほどでもない。
人材として、集める事が困難とは言えない。
現状を好機と捉え、何かしでかしてくるものがいないとは残念ながら言い切れない。その前例を作ったスカリエッティも、未だ捕まっていないのだ。
「恭也、そろそろ休んだらどうだ? アルフも、菓子を用意してあるぞ」
「本当かい!? キョーヤ、休もう!」
「ああ、そうだな。すみません、シグナムさん」
だから、恭也の傍には常に護衛が付いている。今ならばバスケットを手に声を上げた彼女、シグナムと、
「すみませんなどと、我らにそんな言葉は不要だ、騎士恭也。ほら、汗を拭こう」
タオルを手に柔らかな笑顔を浮かべるリインフォースだ。
「い、いえ、リインフォースさん、自分で出来ますから」
「すまんな、恭也。そいつはお前の世話がしたくて仕方がないんだ。付き合ってやってくれ」
「将の言うとおりだ、ほら、こっちへ」
「シグナムさんまでそんな……いえ、ですから本当に……」
「おうおう、ええなあ」
「リインフォース、嬉しそうだね」
「ま、恭也さんのお世話が出来て嬉しいっちゅうのは確かやろうなあ」
だが、穏やかな表情とは裏腹にリインフォースは一瞬たりとも気を抜いていない。シグナムも同じだ。
もし恭也に襲いかかる者があれば、彼らは間断なく応戦に入り、容赦なく挽き肉にするだろう。
魅月の修復にあたっており、直接の戦闘能力の(あくまでヴォルケンリッターズの中では)低いリンツを除いた五名の内、常に最低二人が警護に付くようなローテーションが組まれている。
これに加え、大抵はなのは、フェイト、はやての三名の内の誰かは傍にいる。
過剰戦力もいいところと言われそうな布陣だが、スカリエッティの前例がある以上、そんな暢気な事を言うつもりはない。
「……シャマルさんがさ、言ってたんだ」
「……なのはちゃん」
感情を押し殺した抑揚のない声で呟いたのは、自分やフェイトと同じ窓際ではなく、ベッド近くの椅子に座ったままのなのはだった。
「もしかしたら、本当にもしかしたら、……どこかの戦場に連れて行けば、おにいちゃんなら記憶を取り戻すかもしれないって」
「なのは! そんなっ……」
「もちろん、そんなつもりはないよ。シャマルさんも自分の目が黒い内はさせるつもりはないって言ってたし。ていうか、……さ」
立ち上がり、彼女も窓際へ来る。日が差しても、その顔には影があるままだった。
「楽しそうだよね、おにいちゃん」
「のんびりは、出来とるとは思うけど」
「うん、だからさ。だから、……思い出さない方が良いのかもね。今のまま、このまま」
「……なにを、なのはちゃん」
「……ねえ、はやて」
「なんや、ちょおフェイトちゃんからも言ってやって」
「……何も、しなければ。何もしなければ恭也さんって、今のまま、記憶を失くしたままでいられるのかな」
「……待った待った、二人とも何言うてるんかわかっとる?」
はやての言葉に、なのはとフェイトはどこか虚ろな目で頷く。
「……大切な思い出は……絶対、たくさんたくさんある。だけど、でもさ、はやてちゃん。それでもその上に、あんな記憶が乗っちゃってたら、……全部、潰れちゃう。……おにいちゃんごと、潰れちゃう」
はやてだって、中庭の上に広がる穏やかな光景を見ながら言ったなのはの言葉を、理解出来ないわけじゃない。
「あんな記憶を背負わされて、それで生きていくよりも、いっそ綺麗に真っ白、ならしたままでこれからを生きた方が、いいんじゃないかな……」
わからない、わけじゃないけれど。
「それを、なのはちゃんが言うんか……?」
「……私、だからだよ」
恭也から思い出が消えて、それで一番傷つくのはこの中では少なくとも間違いなくなのはだ。長く恭也と過ごしてきた彼女は、それだけ多くの思い出を抱えているのだから。
「フェイトちゃんも、同じ意見なんやな?」
「……うん」
フェイト・テスタロッサ・ハラオウンという少女は、驚くほど濃密な時間を高町恭也と過ごしている。そしてその記憶を自分の人生における拠り所としている事は、彼女を深く知る人間ならば誰もが察している。
なのはと同じく、恭也から思い出が消えれば彼女は身を裂かれるよりもなお、きっと辛いはずだ。
「……くぉの、馬鹿共が!」
「った!」
「わ……!」
二人に思い切り頭突きを喰らわせて、はやては吠えた。
「そりゃあ確かに! 確かに恭也さんは悲しい思いも! 苦しい思いも! 辛い思いも! 痛い思いも! 嫌っちゅうほどさせられた! 少なくともここ半年に限ったら本当に、地獄みたいな日々を送っとったはずや! せやけど!」
噛み付くように、揃って不景気な顔を並べた親友二人に言葉をぶつける。
「せやけど! それでもあの人は逃げなかったんやろ! それを、自分に許さなかったんやろ!」
「……そ、れは」
「……」
「記憶が消えたのは、逃げたからやない。最後の最後まで踏ん張ろ思ったから、根本からぽっきり折れて砕けてもうたんやろうが。せやのに、このままでええなんて事にしたら、あの人の意思に関係なく、その時本当にあの人は逃げた事になる」
それで良いのか、それが良いのか、あんたらは。
睨んで問うと、
「…………ごめん、馬鹿な事、言った。…………逃げたかったのは、私だ。…………辛そうな、おにいちゃんを、見たく、なくてっ」
ずるり、なのはは窓際に背を預けるように崩れ落ちた。
「幸せに……」
掠れるような、しかし確かな声を零したのはフェイト。
「幸せに、なって欲しいんだ、あの人に……逃げたって事にしたって、それで良いなら、そうしてあげたい」
「……うん。それで、ええならな」
「……駄目なんだよね、そういう人じゃ、ないんだもんね。そんなの、よくよく知ってるのに、ね」
窓の外、アルフと戯れる恭也を見つめるフェイトの背中は、少し震えている。
「ごめん、はやて。甘えた事言って、ごめん」
「……正直、言うとな」
力を抜いて、はやては肩を落とした。
「正直、二人がそう言い出さなかったら、多分私が同じ事言ってた。このままでええんちゃうか、って」
そうしたらきっと、自分と同じような事を二人は言ってくれただろう。
今回は自分が偉そうに吠えたものの結局、誰が言うかの問題だったのだ。
「キョウヤ、今日の飯は上手い魚が出るらしいよ!」
「そうか、楽しみだ。……いいのだろうかな、一応入院患者だと言うのに、食堂で自由に食べて」
「シャマルが良いって言ってんだ、いいんだよ」
「まあ、ありがたいがな。なんだか何を食べても新鮮に思えるんだ。一日の楽しみだよ、食事は」
夕暮れが差し、フリスビー遊びを切り上げたアルフと恭也は仲良く手を繋いで食堂に向かっている。
その後ろにつきながら、シグナムは小声で隣に話しかけた。
「……味覚は、戻っているようだな」
「ああ。……そもそも我らは、それを失っていた事にも気づいていなかったのだがな」
リインフォースは苦々しげにそう返してきた。
記憶を失う前の恭也が半年ほど前から味覚を失くしていたというのは、シャマルが調べ上げた情報である。
記憶を失った今、味覚が戻っている事を見るに心因的なものだったのだろう。
「記憶を失う前の本人は、戦闘に関係のない感覚だから削れたのだろうと話していたらしいが……どう思う」
「恐らくは、間違いだ」
リインフォースの答えには、シグナムも同意だった。
「基本的には禁欲的である騎士恭也が、珍しく自らを楽しませるのが食事だった。それを考えれば」
「無意識だろうが、自罰のためか」
「……その高潔さが、私はたまらなく悲しい」
リインフォースは高潔さなどと表現するが、シグナムはストレートに愚かしさと言ってしまいたかった。他人に差し伸べる優しさの、どうして千分の一でも自分に与える事が出来ないのか、あの男は。
そしてそんな男を取り巻いていた状況の劣悪さには、どう控え目に言っても吐き気がする。
特武官、高町恭也。
彼がどうやって心を壊され、記憶を失う事になったのか、全てではないだろうがおおよそは、はやてとシャマル、そして事情を調べ回る事に最適とも言える立場と特殊能力を持つ協力者、ヴェロッサ・アコースの尽力により判明している。
それを自分達、そしてなのはやフェイト達に説明をした時の湖の騎士の表情を、決して忘れる事はないだろう。はやてという主を得た事で、誰より穏やかな気質となった彼女が浮かべた、往年のものよりも苛烈な、怒りの表情は。
『原因は、主に三つあるわ』
刃物のような声音で、彼女は説明を始めた。
『一つは当然ながら、ひどく凄惨な戦場へのあまりに濃い出撃密度。それは時間をかけてゆっくりと、あの人の心を蝕んでいった』
次元世界は広大だ。管理外のものも含めれば、相当数の世界が確認されている。悲劇はいつでもどこかしらで、いくつも起きていると言っていい。管理局は恭也に対し、特に一年ほど前からは遠慮容赦なく、そんな凄惨な現場を確認した傍から出撃命令を下し続けた。
『……元々責任感は強かった恭也さんだけど、あそこまでの任務を受け続けたのは明らかにおかしい。自分の一つのミスがたくさんの人の死に繋がる戦場に出続けて、たぶん、心を変質させてしまったんだと思う』
責任感が肥大していった結果、異様な自己犠牲に育つというのは、道筋としてはわからないでもない。
わからないでもない、が。
『だけど、……どこかおかしくもある』
きな臭いものを感じるのも確かだ。
シャマルも、何かあるかもしれないと零した。
『二つ目は、そんな中、半年ほど前に起きた事件。……【とりかご】事件と、そう呼ばれているわ』
とりかご。
そう呼ばれるロストロギアがあった。見た目は赤く大きなまさしくとりかごといった物で、しかし中に入れるのは鳥ではない。
10代の少女が、もっとも材料として優れていたらしい。
このロストロギアは、中に囚えた少女達をグチャグチャに破裂させ、生命エネルギーを吸収して力を蓄えるという性質を持っていた。その吸収効率は凄まじく、蓄えたエネルギーも他の用途へ簡単に転用できるとして、かつて悪魔の兵器として使われていたものだが、それがとある世界の犯罪組織の手に渡った。
当然と言うべきだろう流れで、彼らはその世界の近隣諸国から少女達をさらい、とりかごの『餌』にしてエネルギーを蓄えた。それを魔導砲台や魔石爆弾へ転用し、暴虐の限りを尽くして悪名を轟かせ、結局管理局と敵対、多くの者が縄に付いたが。
『組織の長が、捕まるくらいならってとりかごに蓄えられたエネルギーを使って自爆を試みたらしいの。予想された被害は、その世界の壊滅』
何百人もの少女たちからとりかごが蓄えたエネルギーを暴走させ、増幅用の魔石に籠めて爆発させれば、比較的小さめだったその世界を呑み込むだろう規模になるというのが解析班の予想で。
組織のアジトに突入して止めようにも、膨大なエネルギーに物を言わせた防衛機構が働いており、その場に居る局員達ではもう間に合いそうになかった。
そんな状況で、特武官として高町恭也が呼ばれた。
任務はアジトへ突入し、エネルギーが蓄えられた魔石に転移装置をセット、被害を受けるものが何もない空間へ送って爆発させるというもの。
臆することなく恭也は単身、アジトへ突入。猛烈な勢いで進み、魔石を目指すもタイミングとしては呼ばれた時点で本当にギリギリで。
アジト内、東西に伸びる分かれ道で恭也は選択を迫られた。
『とりかごの中にはまだ捕らえられた女の子達がいて、でもそのとりかごと爆発用の魔石は、アジトのそれぞれ両端にあった』
とりかごがまた作動して少女たちを肉片に変えてしまうまでに、救出する事は恐らく出来た。退避させる事も、出来たかもしれない。
しかしそうなると、魔石の起爆に間に合わない。その逆も、しかり。
少女たちを取るか、世界を取るか。
特武官が下した決断は、後者だった。
『だって、それは、そうじゃない。……数人の女の子達と世界一つが両天秤にかけられたなら、それはやっぱり、世界をとらなきゃいけないじゃない』
女の子と世界、お話でよく天秤にかけられて、しばしば女の子がとられたりもするが。
実際にその二択であれば、世界を取らなければならないのだ。
『目の前、あと一歩だったらしいわ。魔石を転送し終えて、急いで反対側のとりかごが設置された部屋へ走って、入れられた女の子達を見つけて助け出そうとした、その瞬間だったみたい』
助けが来た事に、絶望に染まっていた顔へ笑みを咲かせたその時、彼女たちは肉片と化し。
さらにその後に待ち構えていた現実が、恭也の心にとどめを刺した。
『……誰も、悲しまなかったらしいの。女の子達が死んでしまった事に、誰も悲しまなかったって。間に合わなかった恭也さんを責める事もなくて』
彼女達は近くの国の孤児院から攫われてきた娘で、その時に孤児院の大人達は皆殺された。だから、彼女達の死を知らされて悲しむ人は一人もいなかった。
それは人間として、その悲劇に常なら心を痛める事もあろうが、当時その世界、特にアジト近辺の、状況を知らされ避難勧告が出されていた国々はお祭り騒ぎだったらしい。
世界の危機が去ったのだ、幾人かの子供が死んでしまったなんてニュースは、大きな大きな吉報に隠れ意識さえされなかった。
目の前で起こった悲惨過ぎるはずの死は、悲劇としてさえ認識されず。
誰も悼まない女の子達の命を救えなかった事が、何より恭也の心を苛み。
肥大した責任感は、最後の最後、誰にも責められないという圧力でもって破裂して。
砕けかけた彼の精神を、その時、完全に壊した。
『味覚障害に記憶障害、そんなものを抱えながら、恭也さんはそれでもその後も働き続けて、戦い続けて、そして、原因の三つ目に当たってしまった』
暴走した精神汚染系のロストロギア。その鎮圧に駆り出されて。
事態を収拾する事には成功したものの、代償に、ついに彼は限界を迎えた。
『……断言するけど、これは恣意的なものよ。管理局のメンタルケア制度は、こんな高負荷任務へこれほどまでの頻度で出す事を許していないはずなの。それなのにこうなったというのは、現状を願った誰かが、確実にいるという事』
それも恐らくは、管理局の極めて上層部に、と。
そう彼女が結んだからこそ、シグナムとリインフォースはこうして局内の医療施設の中だというのに、恭也にぴたりと張り付いているのだ。
特別な娘、なんだと思う。
「おにいちゃん、はい、サラダ」
「ありがとうございます」
「……また敬語っ」
「あ、すみませ……すまん」
言い直したこちらに、彼女、高町なのははよろしいと笑顔を見せて、取り分けてくれたサラダを置いた。
この栗色の髪の可愛らしい女の子が自分の妹なのだという事は、聞いている。鏡で見た自分の顔とは随分似ていなくて、見た目だけでは正直血の繋がりがあるのかどうかは判然としない。
「後はお魚のてんぷら……これとこれと、あとこれも。おにいちゃん、もっと食べる?」
「それくらいで大丈夫で……大丈夫だ」
だが、とにかくこの娘が自分、高町恭也にとってひどく特別な女の子なのだという事は、よくよくわかる。
「今のはセーフとしておいてあげます。妹の寛大さに感謝してね? ……わっ、おにいちゃん!」
無意識、得意気に笑う彼女の頭を悪戯にぐりぐりと片手でかき回す。なんとなく、そんな行動が自分にとってとても自然で。
「もう!」
「すまんすまん」
どんな表情でも、それこそ今のようにむくれた顔だって、彼女はひどく愛らしく、愛おしい。仕草の一つ一つ、言葉の一つ一つがたまらなくこちらの琴線に触れる。
この娘を傍に感じていると、それだけで満たされた気持ちになる。じんわりと暖かい熱が身体の奥に湧いてきて、生きているんだという気持ちになる。
きっとこの娘が望むなら、自分はどんな事でもするんだろうと思ってしまう。
これが一般的な妹に対する感覚なのかはわからないが、とにかく、高町なのはという女の子が自分にとって特別なのは疑いようもなくて。
「……恭也さん、お茶です」
特別というなら、この娘も、なのかもしれない。
ひとしきりなのはとじゃれた後のこちらに、備え付けの水差しから暖かい室温に合わせて冷えたお茶を注いでくれたのは、なのはとは反対の隣に座る金髪の女性。
「ありがとうございます、フェイトさ」
「…………」
「……ありがとう、フェイト」
「はいっ」
こちらが敬語で話しかけようものなら途端に泣きそうな顔をするので、罪悪感がひしひしと刺激される。
妹は女の子という形容がまだ嵌るが、対して同い年らしい彼女はもう女性と言うのが自然な雰囲気で。
そして女性とただ言い表すだけではどうしたって不足だと言えるほど、完璧と称したっていいくらいに美しい。
しかし、彼女が自分にとって特別だと感じるのは、その規格外なまでの美しさ故ではない。
「恭也さん、お身体の具合はいかがですか?」
「もう、かなり良くなった。今日はアルフとフリスビーをして遊んだんだが、不調は感じない」
「そうですか、それは良かったです」
完全に馬鹿な妄想だというのは、わかっている。
わかっているのだが、なぜだか彼女は自分の全てを受け入れてくれるような、そんな気がするのだ。
纏うその雰囲気は、作り出す空気は、優しく甘くまるでこちらを包むようで。
「食欲もあるようで、何よりです」
「……こんなに俺は健啖家な人間だったのか? 少々食べ過ぎなような気も」
「いつも、よく食べていらっしゃいましたよ。見ていて気持ちが良いくらい」
彼女がその柔らかな笑顔を向けてくれる度に、余計な力が抜ける気がする。
とにかく、安らかだ。彼女が傍にいると、どうしてこんなに安心するのだろう。生きているんだと感じさせてくれるなのはに対して、彼女は、生きていていいんだと思わせてくれる。
聞けば、彼女は弟子だという。自分はこんなに優しくされるほどにいい師だったのだろうか。いまいち、信じられない。
「キョーヤは本当にいい食いっぷりでさ、釣られてアタシも食べ過ぎるんだ」
アルフが、そう言って朗らかに笑う。
良くしてくれるのは、なのはやフェイトだけではない。
今、対面に座るアルフも自分のリハビリに付き合ってくれるし、リインフォース、シグナム、ここにはいないがヴィータ、シャマル、ザフィーラの誰かしらはいつもそばに居て何かと世話を焼いてくれる……だけでなく、少しピリピリとした空気を放っているので、きっと護衛もしてくれているのだろう。自分が狙われるような人間なのかどうかは、よくわからないが。
たまに遊びにくるリインフォースの妹だというリインフォースⅡという小さな女の子も、驚くほどに暖かい。
「なあフェイト、はやては来ないのかい?」
「はやては技術部と話があるとかで、来れないって」
アルフの問いにフェイトが答える。ヴォルケンリッターというらしい彼らの主、八神はやては、少し話しただけでその利発さがよくわかる少女だった。
話すテンポが速いわけでは決して無いが、その実頭の回転が異様に速く、それでいてそれを感じさせないおっとりとした雰囲気を持っていて。
彼女が部隊指揮などを取る立場にある人間だと聞いた時は、その若い年齢と可愛らしい見た目があってもなお、とてつもなく納得させられたものだ。
どうやらなかなか多忙な身らしくいつも仕事を抱えている風なのだが、それでも恭也の下へ頻繁に会いに来てくれて、さりげなく、しかししっかりとこちらの調子をチェックしてくれている。
歳下の女の子にこう思うのも情けないが、とても頼りになる人物だ。
「騎士恭也、箸が止まっているが……なにか嫌いなものでも?」
「ああ、いえ、そういうわけでは」
「そうか。だが、食事はしっかりととらなくては。私で良ければ手になろう。ほら、ええと、……あ、あーんと言うのだろう? こういう時は」
リインフォースがその白い肌にひと刷毛の朱を乗せながら、芋の料理をフォークで取り、こちらの口元へ寄せてくる。現実感がないほどの美人にそんな事をされると、さすがに少々気恥ずかしいものがあった。
「ストップストップ、ストップだよ、リインフォースさん。そういう役割はね、私がいるから」
「む、そうか? だが、何もなのはだけしかしてはならないという決まりがあるわけではないだろう? 私も騎士恭也のお世話がしたいのだ」
「ほら恭也、食え」
いやいや、いやいやいやと、なのはとリインフォースがやり合っている間にシグナムが芋をスプーンで掬って前に差し出してくる。あまりに自然なその仕草に、思わず普通に口にしてしまう。
「あ、あ、ああ! シグナムさん!?」
「騎士は果断速攻が信条だ、覚えておくといい」
「シグナム、貴女は本当に事あるごと、しれっと美味しい所を持っていって……」
「やる勇気さえ出せなかった臆病者には、少なくとも文句を言われる筋合いはないな」
「う……」
シグナムにやっつけられたフェイトが縮こまる。
「……なあ将、主はやてに仕える我らヴォルケンリッターズ、誰がその中核にして序列一位か、はっきりさせる必要があるようだな」
「ほう、構わんぞ」
柔らかな物腰に優しい雰囲気の印象的なリインフォースだが、ここぞと言う時の迫力は、その整った容姿も相まって強烈極まりない。生半な者では誇張なく、本当に腰を抜かすだろう。
対してシグナムもさるもので、柳のようにそれを流しながらも叩き返す瞳は鋭い。
「はい、おにいちゃん」
「ん、むぐ」
声になのはの方へ向くと、丁寧ながらも手早く口に魚の煮物を突っ込まれる。それは今日の献立の中で一番恭也の好みだったものであり、さすが家族ゆえの洞察力と言うべきか。
「あっ、なのは! ずるいぞ!」
「シグナムさんと喧嘩するんでしょ? やってきてやってきて、ここじゃないどこかで好きにやってきて。そしておにいちゃんと私の時間を邪魔しないで。あ、おにいちゃん、口元にソースが」
「付いてない! 付いてないでしょ!」
恭也へ顔を近づけて来たなのはを、反対隣のフェイトが身を乗り出して慌てて抑える。
「フェイトちゃんの側からじゃ見えない位置にあるんだよ!」
「嘘だ! 私が隣で見ていた限り、口元が汚れるような動作はなかった!」
「……ストーカー女はこれだから」
「ス、ストーカーじゃない! ちょっとよく見てるだけだよ!」
彼女達の傍は、姦しくも春の日向のような穏やかさと暖かさがあって。
過ぎていくのは、どこまでも安らかな時間で。
「……いいんだろうか」
ぽつり、自分の口からまろび出たのはいやに空虚な声だった。
「キョウヤ……?」
「…………こんなに幸せで、いいんだろうか」
ここじゃない、そんな気がするのだ。
自分は、穏やかで暖かで幸せな、こんな場所に居るべきではなくて。
もっと他に、行くべきどこかがあるような。
「やるべき何かがあるような、そんな気がするんだ……。何か、しなければならない事が、俺には」
「ないよ、そんなの」
「……なのは?」
柔らかいけれど、芯の強い口調で言った栗色の髪の女の子は、恭也の手の上に自らのそれを重ねた。
「それがもしあったのだとしても、おにいちゃんはもう十分頑張った。十二分に頑張った。だからこれ以上、あれ以上、やらなきゃいけない事なんて、ない」
「……そう、なのか?」
「うん、そうだよ」
そう、なのだろうか。
ずっと背を焦がすこの気持ちは、何処かへ駆り立てるようなこの衝動は、忘れてしまっていいものなのだろうか。
(俺は……)
恭也はしかしどうしても、そうする事は出来ないような気がした。
「はやてさん、よろしいのですか? 本当にものすごい負荷がかかりますよ?」
「構いません、確実性と安全性さえ保てていれば。それは大丈夫なんですよね?」
「は、はい。誓って、一度だけなら、万全に。……ですが、二度は無理ですよ? 一回やったら即メンテコースです」
「一回出来れば十分です。……そう、信じています」
言葉の後半は小さくて、目の前の白衣の女性――管理局第四技術部主任、マリエル・アテンザ技術官には届かなかったろう。
シュベルトクロイツの製作者であり、リインフォースⅡの創造にも多大な協力をしてくれた彼女の下へはやてが訪れたのは、やはりデバイス絡みの事だった。
白を基調とした彼女の研究室の中、作業台の上へはやての書が置かれている。
「……既存機能の拡張とは言え、古代ベルカのデバイスの改造なんて面倒な仕事、急に頼んでしまって、本当にすみません」
「いえいえ、やりがいのある仕事は好きですから。でなきゃこんな所に勤めてませんよ。それに……特武官のためなんでしょう?」
「……はい」
「彼には、私も友人が命を救われています。いつか恩を返せたらと思っていましたから。……彼は、今は?」
「うちの子達や妹さんとお弟子さん、その家族と、仲良くご飯を食べとるはずです」
「はやてさんはそちらに行かずによろしいんですか?」
その質問に、はやては苦笑を浮かべて答える。
「狸女には狸女なりの、愛情の示し方ってもんがあるんです」
帰ってくる場所そのものになったり、傍にいて支え、癒やしたり。
そういう存在になりたくないと言えばもちろんどうしたって嘘にはなる。
なるがしかし、わかっているのだ。それにははやてよりもずっとずっと、相応しい人がいる。
だから。
せめて自分は、影から護ろうと思う。
回せるだけの手を回して、動かせるだけの足を動かして。
彼が生きていける環境を作る事に、心を尽くそう。
「お、大人な発言ですね……!」
「いえいえ、狸ゆうてもまだまだ仔狸ですよ」
そんな覚悟を決めているくせに、やっぱり正面から愛してもらえる可能性も捨て切れないくらいには、子供なのだ。
「まあ、それはいいとして。……マリーさん、シャーリーと一緒にお頼みしてるもう一方はどうです?」
「……そちらは」
途端、マリエルはその童顔に険しい表情を浮かべた。
「目処すら、立っていません。申し訳ありません」
「マリーさんが謝られる事ではありませんが、……やっぱり、難しいですか」
「はい……。どうしても馴染みの薄い古代ベルカ製という事もありますし、そもそもその中でも、彼女は奇跡的なバランスの上に成り立っている機体のようでして……」
基礎フレームから大破した古代ベルカ製デバイス・魅月の修復。それは一級のマイスター達にも難しい注文らしかった。
「一切無駄のない実用一辺倒な、そしてだからこそひどく芸術的な、あのあまりに高い完成度を取り戻すのは、……なかなか並大抵の事ではなくて」
「……Mondシリーズ、なんてリインフォースなんかは言うてましたけど」
「私も協力を頂いている教会の方にお聞きして初めてその名を耳にしたんですが、凄まじいものがありますね」
Entzuckend Mond。それは魅月の元々の名だが、同じようにMondを冠するデバイスが他にも幾つかあったらしい。
あったらしい、というのは現在管理局や聖王協会が把握している限り、現存はしていないからだ。
Mondシリーズと呼ばれたらしい彼ら、Mondの名を冠したアームドデバイス達。
使用者の武技の腕前に強く依存するコンセプトを非常に高い技術で貫いた、それでいて変形機構も持たない実に玄人好みの仕様は派手に語られる事こそないものの、かつて彼らを十全に振るった騎士達は例外なく比類なき実力を誇ったという事もあり、知る人ぞ知る伝説のデバイスシリーズ、らしい。
魅月はどうも、その最後発の二振りだと言う話だ。
「幸いなのは、彼女の人格というべきデータを格納しているメインコアの中枢部には傷がなかった事です。とにかく引き続き、手を尽くしてみます」
「お願いします、どうか」
恭也がこれから先、戦場へまた赴くことがあるかないか。
そういう事と、もはやそれは関係がないのだ。
魅月という愛機は彼にとって、なくてはならない存在のはずだから。
「どうされました? 恭也さん」
食事を終えて戻ってきた病室のベッドの上、自分の左手をじっと見つめる恭也へ、シグナム・リインフォースと護衛当番を交代したシャマルは問いかける。
我ながら、白々しいなと思いながら。
「……いえ、なんと言いますか、なにか物足りない気がして」
「物足りない、ですか」
「ええ。小指が……その、寂しいというか。……指輪の痕が、よく見たらあって」
彼は右手で左手の小指、その付け根あたりをそっとなぞる。
「男が指輪を日常的に付けていて違和感のない指と言うと、俺の価値観ではこの隣くらいしかないはずなんですが……いや、記憶がないのに価値観なんておかしいでしょうか」
「そんな事は。……恭也さん、ちなみに、寂しいだけですか? 何か、他の感情が湧いてきたりはしませんか?」
「……そうですね、普段から感じている焦燥感が、この指を見ていると少し強くなります」
「そう、ですか」
(魅月には申し訳ないけれど、今はまだ時期が悪いわね……)
今の恭也の精神は、記憶を失った事で奇跡的にバランスが取れ、なんとか安定している。だからと言ってこのままでいいわけでは決してないだろうが、無闇に突くのは危険が大きい。
魅月は間違いなく恭也にとって替えの効かない無二の相棒だろうが、その役割が役割なだけに戦場の記憶を想起してしまう可能性が非常に高い。
そこまで踏み込むのは、もっと時間をかけなければならないだろう。
「……恭也、そろそろ消灯だ。寝るといい」
「ああ、もうそんな時間ですか。わかりました」
人型モードのザフィーラが、彼らしい無骨な言い方で話を変えた。素直に頷いた恭也に訝しんでいる様子はない。主人であるはやてと共に腹芸を使う事の多い自分が、なんだか少し虚しくなった。
「それでは恭也さん、また明日」
「隣に詰めている、何かあったらすぐに呼ぶといい」
かけていた椅子から立ち上がり、壁によりかかって立っていたザフィーラと共に出口へ向かう。
「はい、ありがとうございます」
やはりどこか他人行儀が抜けない彼だが、それでこちらが硬くなっていてはどうしようもない。柔らかく笑みを返し、部屋の灯りを消してシャマルはザフィーラと共に廊下へ出る。
「シャマル、恭也はどうだ」
ドアを閉めると、ザフィーラが小さな声で問うてきた。
「……そうね、魅月について言っていた時もそうだけど、時折記憶を呼び覚ましそうな気配を見せる事はあるわ。記憶喪失という症状の事だけを問題にするのなら、治るのはそう遠くないでしょうね」
「それ以外の、それ以前の事については、どうだ」
「根は、深いわ。今の状態に陥った原因が連続した辛い戦いだっていうのはそうなんだけど、さらにその原因っていうのが存在しているの」
落とすように言いながら歩く廊下は、暗く静かだ。この階に入っているのは恭也だけである。警護をしやすいように多少無理を言って、そういうところを使わせてもらっている。
「恭也さんは、そもそも自分を愛する事がきっと致命的に苦手。慈愛に溢れた人だけど、自愛する事だけはうまく出来ないみたい。それでもあそこまでの自己犠牲は持ちあわせていなかったけれど、それが問題の根っこにあるのは間違いないと思う。それを解決とまでは言わなくとも、改善出来なければ、もし記憶が戻って精神を持ち直したとしても、同じ事をまた繰り返してしまう可能性すら、ある」
「……何か、俺達にしてやれる事はないのか」
「根本的な解決は、……私達には無理、かしらね。……それが出来るのはきっと、彼の心の奥底に触る事が出来る人だけ」
それは、誰だろうか。
そんな考えを巡らせた、その時だった。
「……っなに!?」
「爆発音……、む、火の手も上がっているか」
窓の向こうから広がった轟音に、慌ててその方向を見てみれば暗い夜の帳の中に赤い炎が踊っていた。
こことはそれなりに距離があるため、今すぐにどうこうという事はないだろうが、だからと言ってのんびりとしていられる精神をシャマルもザフィーラも持っていない。
歩いてきた廊下を全速力でとって返し、恭也の病室のドアを開け放とうとすると、それは向こうから開いた。引き戸なので激突はしないものの、それなりに驚く。
「恭也さん! ご無事ですか!?」
「俺は何とも。それより、さっきのは……」
「事件か事故かはわかりませんが、多少は物騒な事態が起きたみたいです。それなりに遠くとは言え何があるかわかりません。危険ですので、一緒に避難を……恭也さん?」
眼の前に居る彼の瞳は、しかしこちらを見ていなかった。
視線を追えば、その先には闇の中に灯った赤い光。
背中が粟立ち、まずいと思ったものの間に合わなかった。
「……行か、なければ」
「な、何を言って」
「俺は、行かなくては……そうだ、俺は、―――助けなければ」
「だ、駄目です!」
「……恭也、落ち着け!」
廊下へ出ようとする彼をザフィーラと共に必死で押しとどめる。彼が魔法を使っていない事もあって、なんとか力比べではこちらに分があるようだった。
とは言え、それはただの対症療法に過ぎない。
「俺は、助けなければ。人を、助けなければ。この手で、護らなければ。俺は、俺は……」
「駄目ですよ! 落ち着いて下さい! 貴方は少なくとも今! 避難をしなければならない人なんです!」
「違う、ちがう、おれは」
「恭也! 聞け!」
恭也の肩をその大きな手で掴み、ザフィーラが吠える。
「お前は病み上がりで、今現在、的確な判断が出来るほどの記憶を持ちあわせてもいない。そんな人間が現場に行った所で悪戯に事態をかき回すだけだ」
「……っ」
揺るがない芯を有するどっしりとしたその声音と、シャマルからすれば少々聞かせたくのない危うい言葉も混じっているものの理路整然とした論に、恭也の瞳に少しだけ理性が戻る。
「……そう、かもしれない。だが」
「俺が行く、それで納得してくれ」
ちらりと、ザフィーラがこちらを見てくる。護衛の二人体制が崩れる事にはなるが、この状況では仕方ないだろう。シャマルが頷くと、彼は続けた。
「これでも腕には覚えがある。任せておけ」
「ザフィーラは私達ヴォルケンリッターの中でも、護りの役割を担っています。彼が行けば大丈夫ですよ」
現場の状況などわからない今、それは何の根拠もない言葉だが、だからこそ自信満々にシャマルは言う。
「ザフィーラさんが……」
「任せろ。お前は今、避難するのが最善だ」
「……俺は」
現場に行ってまともに役に立つのか、記憶を失っている彼はそこに自信は持てないらしい。ザフィーラの言葉に、なんとか納得を見せたような表情で。
二度目の爆発音が響いたのは、そんなタイミングだった。
「……一度目より、大きいか」
「みたいね……一体何が――恭也さん!?」
ザフィーラとシャマルの身体をすり抜けて、恭也が窓に向かって走る。記憶はなくともさすがの身のこなし、抜かれてからようやく気付くような有り様だ。
だが、行かせるわけにはいかない。
「待ってください!」
窓や廊下にシールドを張って、すんでのところで行く手を遮る。
「……通して、ください。おれは!」
こちらを見やった彼の瞳は、わかりやすいほどに危うい。間違っても炎燃え盛る現場へ連れて行っていいものではない。
(……どうする、いっそ気絶させて。……いえ、どういう形であれ攻撃を加えるのは避けたい、刺激としては不用意に過ぎる)
高速に回転するシャマルの頭が、最適解を出さんと唸るそんな時、状況はまたしても変化した。
「高町さん! シャマルさん、ザフィーラさんも!」
廊下の向こうから、ナース姿の女性が駆けてくる。
この医療センターで働いている局員の一人で、同じ医療に携わるものとして前々からシャマルと親交の深かった彼女は、恭也の担当の一人でもある。ここに恭也を預けた理由の何割かには、彼女が居てくれるからというのもあった。
「ご無事ですか! 迎えに……ど、どうされたんですか?」
ほどなくしてこちらに辿り着いた彼女は、シールドで行く手を阻まれている恭也の姿に目を丸くする。
「……迎えというのは?」
「警護隊が守っている即席の避難所に。そこなら安全ですので」
シャマルの問いに、彼女は間断なくそう答えた。
はやてとシャマルが念入りに恭也の入院先にと選定しただけあって、ここの施設はかなり警護がしっかりしている。配置されている人員は手練揃いであり、彼らが守っているのであればその避難所というのはおいそれと手出しはされないだろう。
今迎えに来ている本職は看護師の彼女も、いざとなればかなり戦える人物である。何年も戦場の前線に身をおいてきた歴戦の局員だ。
(……なら、こうするしかない)
何より今、逼迫しているのは彼の精神状況。それこそが一番カバーせねばならない点のはずだ。
胸の中、最善と信じる決断を下した後は早かった。
「恭也さん、現場には私も行きます」
「……シャマルさん?」
「揃えば無敵と呼ばれる私達ヴォルケンリッター、全員とは言いませんがその内二人でも駆けつければ大抵の事態は何とでもなります。私は知っての通り、医療魔法も使えますので怪我人が居てもすぐに治せます」
意識して揺れない声を作り、何とか納得してくれと願いながら言葉を向ける。
「最大限の努力をする事をお約束します。……ですが、もしその場に恭也さんがいらっしゃいますと、私達は貴方の警護にどうしても気を取られてしまう。ですので、どうか彼女と一緒に安全なところへ避難して頂きたいのです」
ザフィーラと看護師の女性に目配せすると、彼らは頷きを返してきた。
「恭也、それが今この場における最善手だ。被害を最も少なくする方法と言ってもいい」
「ザフィーラさんは強い防御魔法を使えますし、シャマルさんは医療魔法も、何だったら現場指揮も執れます。お二人に十全にその力を振るって頂くためにも、どうか私と一緒に」
記憶を失った上に精神の安定を欠き、混乱してはいるものの、基本的に高町恭也という人間は理性的である。特に非常事態であればあるほど熱願冷諦、最善を尽くそう熱く願い、それゆえに冷静に物事を観るタイプだ。
その本質に賭けたシャマルの策は、功を奏した。
「……わかりました」
項垂れるように頷いた彼を、くれぐれも頼むと言って預けると看護師の女性は意思の強い瞳でこちらを見返し、しっかりと返答してきた。
彼女が来てくれて、本当に良かったと思う。
もし迎えに来たのが名前も顔も知らない人間であったなら、いかに実力があったとしてもこんな手は取れなかった。
それなりに付き合いの長い、信頼の出来る人間が来てくれた事に感謝の念を浮かべつつ、シャマルはザフィーラと共に炎の踊る現場へと向かった。
「こちらです、高町さん」
「……はい」
頼りない足取りで後ろを付いてくる彼の、その手を時折引きながら辿り着いたのは一階に位置する中庭に面した部屋。リハビリに使われるそこは、それなりの広さを誇っている。
「……避難所、なんですよね? 誰もいませんが」
「いえ、そんな事はありませんよ」
ガランとした室内の様子に首を傾げる彼に微笑んで、指を鳴らす。
「ほら、あそこに実は二人居ます」
すると、部屋のそれぞれ向かって右の隅と左の隅が陽炎が起きたかのように揺らめき、そこへ二つの人影が現れた。
「……どういう」
「最初に言った通りですわ、高町恭也様」
言いながら顔に手を当て、そして仮面を解除する。露わになる本当の顔は、先ほどまでとは明らかに別のものだ。
それに、変化したのはそこだけではない。髪や体の骨格、声まで変わりきって、今や、服装以外は完全に別人である。
「改めて自己紹介を。お初にお目にかかります、Dr.スカリエッティが次女、ドゥーエと申します。ああ、向かって右が妹のトーレ、左が同じく妹のクアットロですわ」
ドゥーエの紹介に、トーレは腕を組んだ姿勢で泰然としており、クアットロは神経質そうに親指を噛んで時折辺りを見回している。
「貴方をお迎えに参りました」
「……貴女方がどなたかは存じ上げませんが、身を預けるには不適切に思えますね」
「あら、連れないことを。大丈夫です、ドクターは優しくして下さいますよ」
優しく、素体として弄り回して貰えるだろう。そうしたら晴れて自分達のお仲間だ。
この状況は、言うまでもなくスカリエッティが企図したものである。美しくないという理由で人死にこそ出していないが、爆発騒ぎもナンバーズの姉妹たちが起こしているものだ。
チンクをリーダーにした彼らが恭也の護衛に付いているヴォルケンリッターを引き離し、眠らせた看護師と入れ替わったドゥーエが手引きをして高町恭也を連れ去る、そんな作戦は今のところ順調である。
「逃げさせては、くれませんか」
「ご自身がそれを許されないくらい魅力的な男性であったことを、後悔なさって下さいな」
あとは、目の前の高町恭也の意識を奪い、確保して強制転移装置を発動させれば任務は完了だ。
ナンバーズなど登録済みの者は別だが、リンカーコアが活動していると干渉を起こすため、それがない人間かあっても代わりに意識がない人間にしか効力を発揮しないあの装置は、とは言えやはり便利は便利だ。
「トーレ、クアットロ。私がこのまま意識を落としてしまうわ」
「……おい、予定と違うぞ」
右手に固有武装であるピアニッシングネイルを起動させ、戦闘態勢を取ったドゥーエに、トーレから苦言が飛ぶ。
「見る限り大丈夫そうじゃない? 予定は予定、他に素早く事を成せる手段があるのならそちらを取るべきよ」
「……おい待っ」
「お休みなさい特武官殿!」
スタンの電流を右手の爪に生じさせ、一息で踏み込み、胸もとにそれを打ち込まんと腕を伸ばして。
「……っ!?」
刺突が空を切ったと認識したその時には、脇腹を強烈な衝撃が襲っていた。そのまま吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「馬鹿姉が!」
彼に蹴られたのだという事を理解した時には、目の前には立ち塞がるように構えを取ったトーレがいた。
「……―――身体が、動く。俺は、やはり、そのための生き物なのか」
その向こう、どこか熱に浮かされたような口調の高町恭也が見え、ドゥーエの背は今更ながらに粟立った。
「敵というなら、排除させてもらおう。……そんな事しか、俺は出来ない」
黒く、濃く、重く冷たい、空間すら歪んで見えるほどの殺気。彼を誘き出したはずのこの部屋がまるで、自分たちが狩られるための檻にも思えるほどの。
戦闘圏内を300mに限るのであれば、間違いなく次元世界群で現在、最強と言っていい。
そんな風に評していた自分たちの主の言葉を、疑っていたわけではない。わけではないが、記憶を失っている事でその戦闘能力は格段に落ちているはずだという論を重視していたし、実際会話を交わしてみてこれならいけると踏んだのだが。
「記憶が戻ればその分戦闘能力は上がる……あの爆発を見て触発でもされたんだろう、事前調査の結果よりも危険だ」
「そのようね……助かったわ、トーレ」
「次はないぞ」
「わかってるわ」
「お、お姉さまったら、ら、ゆ、油断したら、だ、だめですよ、だ、だってこいつは、あ、あいつの、あれの、兄なん、なん、ですから」
クアットロの口調は非常に怪しいが、これはもう数年も前からこうなってしまっているので今更どうこうというものじゃない。
情緒不安定な彼女をこの場に連れてくるのは不安があったが、それでもここまで侵入りこむためにはその隠蔽能力と電子戦技術がどうしても必要だったのだから仕方ない。
「し、慎重に、い、いきましょう」
「……そうね」
身体を起こし、腕に巻きつけた装置のスイッチを入れる。
「トーレ、クアットロ! 予定通りに!」
「……なにを、っ!」
囲うように展開したこちらに警戒の眼を向けてきた彼が、その瞳を揺らす。
「…………っ!?」
ふらりふらりと身体を大きく振って、頭を両手で抑え始めた。ほどなくして床に膝を突き、荒い呼吸で肩を上下させる。
「効いているわね……!」
ドゥーエ、だけでなくトーレとクアットロも合わせ、三人が起動させて今、高町恭也へ向けているのは精神汚染波の発生装置だ。
件の精神汚染系ロストロギアを弄った際に得た知見を元に、スカリエッティが開発したものである。健全な精神を持つものには大して効果は上げられないが、心に傷を持つものにはそれなりにえげつない影響を与える。
常ならこうはいかなかったろうが、今の特武官には効果抜群。
「あ、が、あ……ぐッ!」
まともには戦わずに、これで苦しめて意識を奪えというのがスカリエッティの指示だ。
「が、あ、あ、ぐううううううぅ……! あああああああああああ!」
「いい悲鳴ですわ! さあ、眠って楽になりなさい!」
「ううううううう……!」
瞳孔を開き、苦悶の声を絞り出す高町恭也はいかにも限界に見えるが、しかしなかなか意識を落としそうで落とさない。
さすがと言うべきだろう、壊れていてもなお強靭な精神だ。
「仕方ない、出力を上げるわよ」
「いいのか? 本当に廃人になるぞ」
「何か問題が? ドクターは元からそのつもりだったのだし」
「……了解した」
武人気質というべきなのか、トーレは手段を選ぶ事がある。ドゥーエに言わせてしまえば、甘っちょろいのだ。
妹達に悪影響を及ぼさなければいいのだけど、そんな事を思いながら装置の出力レベルを最大まで上げる。
「――――ッ!!」
身体を強張らせ、声の出ない悲鳴を上げて苦しみに染まりきった表情の高町恭也は、どう見てもそろそろ終わりが近い。
「……憐れなものねえ」
ため息を吐いて、ドゥーエは零す。
「報われて幸せになるべき人間なんでしょうけど、それがこんな最後ですものね」
「あ、ぐ、があああああああああああああッ!」
やっている自分たちが言うべき台詞ではないのだろうが、なんとも不憫な男である。
人をさんざ救っておきながら、自分はこんな闇の中、絶望にすり潰されて終わるなんて。
「優しい事も強い事も、人間的にはプラスの部分なんでしょうけど、それが過ぎるとこんな結末を迎えるものなのね。やっぱり、人間というのはアレな生き物ね」
「ドゥーエ、少し黙れ」
「あらトーレ、なにか気に障った?」
「いらん侮辱を浴びせる必要はないだろう。こいつはこれから、私達の仲間になるんだ」
「戦闘に使えそうな記憶以外は全部消しちゃうんだから関係ないわ」
「……」
ドゥーエの言葉に、不機嫌そうにトーレは押し黙った。全くもって度し難い妹である。同じ主に生み出されてどうしてここまで違うのか。
いや、違うからこそ生み出された事に価値があるのだろうか。主は、そんな考え方をする男だ。
「…………た、す………………け」
「……あら。ふふ、あらあら!」
高町恭也の口から零れた言葉に、ドゥーエは思わず顔を綻ばせた。
「助けを求めるなんて! 貴方にもそんな感情があったのね! ふふ、でもざぁんねん!」
絶望を念入りに擦り込むように、はっきりと言ってやる事にする。
「来ないわよ! 助けなんて! 貴方の妹も弟子も、こことは離れた場所に居る事が確認されているわ! 記憶関係で腕利きの医師にご相談に行っているの、貴方のためにね! 夜天の王は騎士達と一緒に聖王協会! お友達の艦隊提督と書庫長は無限書庫で健気に資料をお探し中らしいわよ! ついでに言うならワンちゃんも弟子の所に帰っている! そして警護についていた二人は、私の妹達と交戦中!」
タイミングとしては、完全に狙ったものだ。彼を囲む戦力は異様に高い。まともに相手をするのはナンバーズと言えどいかにも避けたく、こんな状況になるのを待っていたのだ。
はっきり言ってここまでの好条件が揃ったのは、千載一遇といっていいくらいの幸運だろうが。
「た、……す…………け」
「あっははははは! 来ない来ない! 助けなんて―――」
「た、すけ、………な、けれ…………ば」
「……は?」
哄笑を途中で思わず止めて、耳を澄ましたドゥーエはもう一度、それを聞いた。
「たす、け、な、ければ……おれ、は……まもら、な、け、れば」
ざ、と。
下がったのは自分の足だった。一歩、確かに下がらされた。
精神を擦り潰されんとするあの男が、まさかこちらに戦意や殺気を向けたのではない。ドゥーエに警戒や恐怖はなく、ただ単純に、慄いたのである。
「……よくもまあ、ここまでの人間が出来上がるものだわ。お歴々の手腕を讃えるべきか……大元の素質が大きいと見るべきか。どうにせ、貴方、本当に不憫な男ね」
「ま、も、ら、……な、けれ、ば」
「面白いけれど、あんまりグズグズもしていられないの。……さっさと眠りなさい!」
装置にエネルギーを大量に叩き込み、限界以上を出力する。
「あ、あ、……………あ」
「お休みなさい、次に目覚めたら新しい自分が待って……」
高町恭也がその意識を遂に闇へ落とさんとして、この任務も無事終わりだなと思いかけ。
甲高い音を立てて盛大に窓が割れ、横殴りに襲った衝撃にドゥーエの身体が高町恭也に蹴られた時のように吹き飛んだ。
「何だっ!? 何者だ!?」
「だ、だ、誰!?」
臨戦態勢を取ったトーレとクアットロの誰何に、窓から押し入った身を鮮やかな体捌きで着地させた彼らは、鈴を慣らすような声で応じた。
「あんたらに名乗る名はないよ、ただね」
「彼には私達、ちょっとじゃ済まないほどの負い目があるの」
ショートカットの方が素早くトーレの前に立ち塞がり、ロングヘアーの方が魔法を行使、煌めく結界で高町恭也の身体を覆った。
「く……やってくれるじゃない!」
先ほど、こちらの身体を襲った衝撃波はロングヘアーの放った魔法だろう。ドゥーエは吐き捨てるように悪態を吐く。
「……猫ちゃんが、随分と勇ましい!」
「猫ちゃん扱いとは、そんな事を言われたのは何年ぶりかね」
不敵に笑うショートカット。その後ろのロングヘアーは対照的に表情一つ変えない。
人によっては愛らしいなどと言うだろう猫耳なんぞを持つ彼らだが、その身のこなしにも奔る魔力にも尋常ではない力量が伺える。
「ほう……これはまた大物が出てきたものだな」
「なあに、ロートルだよ。ただ、若いもんにはまだまだ負けるつもりはないけどね」
「トーレ、こいつらは……」
ドゥーエの問いに、トーレはどこか嬉しそうに答える。
「かつて管理局に所属する中で最強の一角を担っていた使い魔姉妹と聞いている。主人はグレアム元提督だ」
「……あの闇の書事件の」
仮面の男として暗躍していた、あの二人組み。
名は確か、ショートカットがリーゼロッテ、ロングヘアーがリーゼアリア。
「爆発騒ぎの状況を確認して、ヴォルケンリッターが来たから大丈夫かと戻ってくればこれだ。ったく、悪党ってのはどうしてこう抜け目のない」
「貴女方こそ、主人の出身世界で穏やかに余生を過ごしていたはずでは?」
「だったんだが、可愛い弟子に頼まれてね。それに、彼のためと言えば私達にも否やはない」
つまり、元から護衛についていたと言う事だろう。それもおそらく、他の人間には知らせず気付かれず。
絵を描いたのは可愛い弟子こと、クロノ・ハラオウンか。義妹と共に高町恭也に並ならぬ執着を見せると聞くが、なるほど納得である。
「それで、私達の相手をして下さるわけか。光栄だ」
「トーレ、やる気?」
「高町恭也を奪取するためには必要だろう?」
トーレの言はもっともではあるが、この二人はまともに相手取って良さそうな敵ではないように思える。
ナンバーズの中でトップの近接戦闘能力を誇るトーレはいいだろうが、ドゥーエはそこまで戦いに特化したタイプではない。自分の身を守るくらいの事は出来るが、暗殺と潜入こそが本領だ。クアットロなどは幻惑使いの支援系であり、直接戦闘にそもそも、あまり向かない。
「……そう、ね」
しかし、数の上では一応は三対二。そして何より、奴らは高町恭也を防衛しながら戦わなければならない。
張られた結界のせいで汚染波は届いていないようだが、どうやら高町恭也の意識はもう落ちている。あれを突破して装置を起動させればこちらの目的は叶う。
そこまで分が悪い戦いではない、か。
「何か勘違いしているみたいだけどね」
改めて戦闘態勢を取ったこちらへ、リーゼロッテが肩をすくめながら言った。
「三対二だと思ってんならお気楽だとしかいいようがない」
「私が準備をしていた事に気が付かなかったのかしら?」
リーゼロッテに続いて、押し黙っていたリーゼアリアがそう言うと、地面に青色の紋様が浮かび上がった。
四角形を基調としたミッド式の魔法陣、反応からして、それは。
「……転送陣、いや、召喚陣か!」
トーレが言ったのと同時、そして人影が光と共に現れる。
「―――法の裁きは、受けてもらう。が、その前に」
発動された陣で跳んで来たその男は、身を纏うバリアジャケットにも負けないドス黒い殺気を放っていた。
「四肢か、悪ければ首をもがれるくらいの事は、覚悟しているんだろうな……ッ!!」
「……クロノ・ハラオウン!」
現れたのは管理局の現艦隊提督にして、元執務官。
「アリア、ロッテ、ありがとう……。この礼は必ず」
「いえ……もっと早く助けに入れれば。ごめんなさいね」
「責めるべきは目の前の犯罪者共だ」
「……クロ助、突っ走らないようにな」
マグマじみた憤怒を感じさせる声音にリーゼロッテが心配そうに言う。
「大丈夫さ、師匠が厳しかったものでね。心が熱くとも行動は冷静に、それくらいは弁えている」
「……ちっ」
思わず舌打ちを零す。言葉の通り、彼の一挙手一投足には隙がない。感情に呑まれず自分の行動をきちんと制御しているその様が、逆に深い怒りを感じさせた。
クロノ・ハラオウン。歳の若さに反して歴戦の勇士であり、エース・オブ・エースと名高い高町なのはや特武官の直弟子と知られるフェイト・テスタロッサ・ハラオウンに勝るとも劣らない、若手局員きっての実力者。
戦闘スタイルは苦手距離、魔法のない完全なオールラウンダー。地力で劣ってしまった時、最も付け入る隙のないタイプだ。
「前にも見た顔が居るな。あの時は相手をしてやれなかったが、今回は違う」
手には既に展開済みの杖型デバイス。インテリジェントではない、純粋なストレージタイプだろう。堅実な選択がいかにもらしい。
「逃げる事はかなわんだろう、ドゥーエ、クアットロ、やるぞ」
「……仕方ないわね」
言いながら、ヴォルケンリッター二人組みを相手にしている妹達に救援を要請する通信を用意。
まだ最終調整中の機体以外は、現場に来ている。もう陽動の必要はないのだし、こちらに合流してもらって乱戦に持ち込めば勝機はある。
「……こちらの増援が僕だけだと思うなよ? 連絡は付けてあるからな、おっつけ、なのはやフェイト達も来る。まあ、それまで長引かせるつもりもないが」
こちらの考えを読んだのか、冷徹な口調でクロノ・ハラオウンがそう言って。
「せっかちな男は嫌われますわよ?」
「ゴミの処理を手早く済ませて何が悪い?」
キリキリと空気が引き締まっていき、まさに戦闘が開始されんとする、
「ひ、ひ、……ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃ!」
その時だった。
「な、なんだ?」
クアットロの上げた突然の悲鳴に、リーゼロッテが戸惑いの声をあげる。
「なんだって言うの……?」
「……なんのつもりだ?」
面食らっているのはリーゼアリアもクロノ・ハラオウンも同様らしく。
「ひいぃぃぃ! あ、あ……い、い、いやああああああああああああああああああ!」
それが怒号や気勢の類であったなら、彼らが気を取られる事などなかったろう。
だが、限界まで追い詰められたかのような悲鳴に籠められた、嫌になるくらいの狂気が彼らに警戒と、そして僅かな動揺を生んだ。
「く、クアットロ? なんなのよ?」
動揺したといえば、それはドゥーエも、声は漏らさなかったようだが怪訝な顔のトーレも同じなのだが。
「来るの!? 来るの!? あいつが! あいつが!? だ、だ、だから、だからやめようっで言っだのに!! あいつがッ! あいつが来るから! やめようっで言っだ! 言っだのに! やだ! いやだ! いやだああああッ!」
「クアットロ! 落ち着、……ちょ!?」
スマートさの欠片もないドタバタとした動きで、こちらの腰元に飛びついてくるクアットロ。
「待っ、なに!?」
「クアットロ、お前どうし……ぐおっ!?」
さらに彼女は細身ではあるドゥーエを火事場の馬鹿力とでも言うべき膂力で抱え、そのままトーレへ突撃を敢行。
「お、お前らが! お前らがごんな任務受げるがら!! 受げるがらああああアアア!」
クアットロの怒りというべき感情の籠められた叫びが、暗い室内に響く。
「仲間割れか……?」
「どうかしら……でも、あの悲鳴にあの表情、尋常じゃないのは確かよ」
「……ああいう奴は何してくるかわかんねえ。クロ助、アリア、高町恭也の防護を固めろ」
歴戦がゆえに敵方の三人は、実に慎重に警戒を強めて。
「ううううううううううううウウウウウウウ……!!」
狂気に染まりきったクアットロは血走った眼で彼らを睨む。
ドゥーエでさえ吐き気がするくらいのその顔に、いよいよ彼らは警戒を高めに高め、何より背にかばう高町恭也の防護を固めて。
ゆえに、それは成された。
「……―――もういらないおうちかえるううううううううううううううううううううううううううううう!」
「な!?」
「っ待ちなさい!」
「くそ、おい待て!」
クロノ・ハラオウン、リーゼアリア、リーゼロッテという紛れも無い名うて達の前、ナンバーズ三人の身体を素早く転送光が包む。
(……た、助かったなんてこんな不格好なやり方には言いたくないけど!)
しかし、錯乱したクアットロの狂気じみた言動のおかげと言うべきだろう。
こうして、ドゥーエ達は逃げおおせる事に成功した。
「恭也さん! 恭也さん!」
床に倒れ込んだ恭也へ必死に声をかけるクロノは、自分の顔に血の気が全くない事を自覚している。
「……どうやら、精神系の攻撃を喰らっていたみたいで」
「外道が……」
アリアが気まずそうに、ロッテが吐き捨てて言う。
「くそ、なんで、………………なんでこうなるんだ」
この世界は、こんなはずじゃなかったという事ばかり。常々思っているが、今日ほど噛み締めた日はない。
この人は、こんな仕打ちを受けるはずの人じゃない。
誰かをひたすら救って、助けて、護って。そんな人に訪れる結末がこれじゃあ、本当に、この世に生きる価値なんてなくなってしまう。
「くそ、くそ、……くそッ!」
「……ごめんな、クロ助」
「本当に、ごめんなさい。私達が離れなければ」
「……二人の判断は、間違っていない。僕が、最初からちゃんと知らせていれば」
状況はリーゼアリアから聞いたが、二人は爆発が起こり、シャマルとザフィーラが恭也の下へ戻ってきた事を確認し、現場へ様子を見に行ったらしい。
その後にシャマル達も現場へ向かってしまったわけだが、彼らがリーゼ達と最初から連絡を取り合っていれば、防げた事態ではあった。
「なんで、本当に、どうして……どうしてこうなるんだ」
どんな角度から敵が襲ってくるとも限らず、どこから情報が漏れるともわからない。だからクロノは、誰にも知らせずロッテとアリアに護衛を頼んだ。
敵を欺くにはまず味方から、というわけではないが、万全を期したかったのだ。
しかし見事に裏目に出て、割りを食ったのは自分ではなく。
「……―――くそォ!!」
自分の不明が死ぬほど恨めしくて、唇を噛み締め床を叩き。
「…………クロ、ノ?」
その言葉は、聞こえてきた。
「……え?」
「……クロノ、おれ、は」
ゆっくりと上半身を起き上がらせる彼は、どこかぼうっとした瞳でこちらを見ていた。
「きょ、恭也さん……? 恭也さん!」
「クロノ、……教えて、くれ」
彼の意識が戻った事に狂喜乱舞する心とは別に、冷静さを失っていない部分が違和感を覚る。
「俺は、俺は……クロノ、俺は」
否、正確に言えば、覚ったのは違和感の無さだ。
「恭也さん……もしかして」
クロノと、彼は自分をそう呼んだ。記憶を失ってからは、クロノさんと呼んでいたのに。
(……記憶が、戻っている?)
「魅月が、いない。どうしてだ……? いや、だが、それでも俺は」
間違いない、戻っている。
記憶を失った状態の彼に、魅月の事は誰も何も教えていないはずだ。それなのに彼女の名を口にするというのは、明確な回復の証だ。
それが現状、手放しで喜べるものじゃないという事は百も承知だが、それでも、心はやはり湧いてしまう。
「恭也さんっ、恭也さ」
「クロノ」
意識と記憶、二つが戻った事にどうしたって舞い上がるこちらの肩を、彼は掴んで。
「俺は、次は、どこで戦えばいい……?」
「……え?」
「俺は、次は、誰を、まも、れ、ば、いいん、だ……」
呆気に取られるクロノの前、恭也はそう言った後、糸が切れたように崩れ落ちる。
慌てて抱えた腕の中、彼の意識はまた闇に溶けていた。
なんであんなに歪んじゃったのか、その理由が明らかに。
心ぶっ壊れた状態の理想的で綺麗な素体が欲しかった人達の思惑により、怪しいお薬と怪しい装置で思い込みとマイナス思考を強くされながら、どうしたって人死にが出続ける現実とそれを思い知らせてくる期待をかける周囲の言葉に少しずつ少しずつ軋まされていったという感じでした。
これで変わらない人間なんて、壊れない人間なんているだろうかと思います。
こういうのを後書きで言うのってどうかなあとはやっぱり思うんですが、こんな事になってるけど、リリカル恭也シリーズもですが、このHeartでも最後は明るい方へ向かう終わり方になるので、どうかご安心頂きたい。そしてそれはやたらと暗いこの話と一つ前の話があるからこそ、であって。
リリカル恭也Heart、次回で最終回です。最終話がシリーズ史上かつてない長さになったので、前後編に分けて投稿します(というか、このハーメルンさんでは投稿フォームに入りきらなかった)。