『やはり出ましたね……』
予想していた強敵の出現。ライダーは胸中で呟くと更に姿勢を低めた。クラウチングスタートで、斜め前に飛び出す。射出された剣は、ライダーの背をすれすれを飛び、深々とアスファルトに突き刺さった。
剣を回避したライダーは、飛び込み倒立前転から跳躍し、電柱の横木へと短剣を投じる。狙い過たず鎖が絡み、ライダーの身体は宙へと躍った。長く美しい脚の下を、第二波が横殴りに吹き抜けていく。
剣雨をすり抜ける空中ブランコは、一瞬の遅滞も許されぬ。振り子の頂点で、左手の短剣を別の電柱へ投げつけた。道路標識と街灯と街路樹を踏み切り板に、強引に運動ベクトルを変える。
三発目の剣群は誰もいない空を射抜き、辛くも逃れたライダーは、バス停のベンチの背後に降り立った。
襲撃者の眉根がわずかに寄り、ライダーは小さく息を吐き出した。
『……遅い?』
一昨日の追跡劇の時より、速度が落ちているように思える。魔力の枯渇か、ライダーを嬲る気なのかは定かではなく、それを確かめる余裕もない。白いジャケットの背後から、黄金の波紋を従えた、白銀の切っ先が突き出る。無尽の財を誇るに足りる数が。
「よくぞ避けた。だが、これは――」
美青年の口上を遮ったのは、飛来してきたベンチだった。ライダーがその脚力で蹴り飛ばしたのだ。
「小賢しい!」
サーヴァントにとっては、直撃してもなんの痛痒もない。だが、ギルガメッシュは剣を揮い、ベンチを一刀両断にした。哀れなベンチだった物は、青年の左右に落下し、けたたましい金属音を立てる。一拍遅れで、それを上回る電子音が夕食時の住宅街を席巻した。
ベンチでの蹴撃は、英雄王の注意を逸らし、防犯ブザーを押す一瞬の隙を作るためだったのである。ガラガラと周囲の家の窓が開く。玄関の扉も開く。大勢の住人が、目を丸くして美女と美青年を注視していた。
「だ、誰か、助けてくださいっ!」
「なっ……!」
助けを呼ぶ知的な眼鏡美人と、長い刃物をぶら下げた金髪の若い男。世間がどちらの味方をするかは明白である。
慌てふためき、近所に大声で助けを呼ぶ中年男性、室内に取って返して、電話を掛けようとする夫人。玄関先にあった傘を握り締め、右往左往する老人。二階の窓から見下ろしているのは、中高校生だろうか。何人かが携帯電話を金髪に向け、フラッシュを瞬かせる。
「おのれ!」
目撃者全員を根絶やしにするのは、ギルガメッシュにとって難しくない。いっそと考えた瞬間に、冷たく研ぎ澄まされた殺気が彼を貫いた。常人の数十倍の視力が捉えうるぎりぎりの端、二つのマンションの屋上から、群青と真紅が睥睨している。
王の財宝にも弱点はある。所持者であって、担い手ではない彼の限界というべきか。それが超遠距離への精密な攻撃だった。ランサーの槍、アサシンの弓術、いずれにも及ばない。
ライダーや目撃者を皆殺しにはできよう。だが、皮肉なことに、騒ぎ立てる住民たちがギルガメッシュの盾になっているのだ。住民を殺した瞬間に、連中は一切の遠慮を捨て、最大限の攻撃を叩き込むのは明白だった。
「ち!」
舌打ちしたギルガメッシュだったが、このまま退散する気などなかった。十人や二十人、殺したところで何ほどのことか。ランサーとアサシンの宝具を防ぐのは容易い。
まずは、目障りな蛇を誅してやろう。
彼は右手を高々と上げた。
「王の……」
蒼白い閃光が奔った。ギルガメッシュの肩先を掠め、夜のどこかへと消え去る。傍目には懐中電灯の光条にしか見えなかっただろうが、対峙している二人には見覚えのある色だった。
ライダーの美貌に生色が蘇り、ギルガメッシュの秀麗な面は怒りで歪んだ。
「卑怯者め! 出てくるがいい!」
黒髪のアーチャーが応えることはなく、代わりに響いてきたのはパトカーのサイレンだった。
一瞬の隙を衝いて、ライダーは近所の家に飛び込み、住人たちもあたふたと家に引っ込んだ。ランサーとアサシンは狙撃の姿勢を崩していない。
言峰が令呪を使う気配はない。教会という後ろ盾を失って、これほどの人数の情報操作が不可能なせいか。潜伏せよという指示を無視した懲罰かもしれないが、ギルガメッシュには踵を返して、駆け去る以外の選択肢は残されていなかった。
「――捕まえた」
路地の影で、魔女が口の端を吊り上げた。だが、忘れ物を届けに来た従姉のふりで、奇禍に遭った従妹を慰めるのだった。
駆けつけた警察は色めきたった。被害者の美貌のせいだけではない。殺人未遂犯は、どうやったのか見当もつかないが、アスファルトや電柱、民家の塀に傷を付け、ベンチまで両断している。(ベンチの位置まで違うのも謎といえば謎だったが。)
それは、深山町の一家殺人の不可解な手口に合致するのである。
「今日中に家に戻って、明日から大学に行くつもりでした。
電車の指定券も取ってあるんです。もう帰ります!
こんな物騒なところ、これ以上いたくありません!」
駆けつけた警察に、ライダーはイリヤが準備した乗車券を突き出した。パスポートと外国人登録証もだ。こちらはエミヤの投影による贋作だが、夕暮れの中でちらりと見せるだけなら充分だろう。そして、小さく嗚咽を漏らしながら手に顔を埋める。
いかにもか弱そうなうら若き美女の涙に、住民から同情の視線が集中した。警察に浴びせられるのは非難の眼差しだ。昨今の警察の不手際に、みなが辟易していた。
「このお嬢さんの言うとおり、家に帰らせてあげたらどうですか」
「そうだ、そうだ。まったく弛んどる」
「不良外人をのさばらせておくくせにに、真面目な学生さんには強く出るんだから……」
「なんで被害者に更に迷惑をかけるんだ。冬木の恥じゃないか」
それを宥めてすかし、集まったのは、長身で細身、年齢は二十歳前後、金髪に赤い瞳の美青年だという目撃証言。髪と瞳は染色などかもしれないが、顔立ちからして外国人と思われる。
住民が撮影した携帯電話の写真は、夕闇と距離に阻まれてあまり鮮明ではなかったが、証言の補完には充分であった。女性襲撃の現行犯、一家三人殺害の有力な容疑者の浮上に、警察は早急に公開手配に踏み切った。
同報無線で注意を報じ、夜のニュースが緊急速報で画像を映す。
アーチャーは、英雄王も捜査線上に乗せたのである。言峰と英雄王の共犯関係は、警察の知るところではないし、立証も不可能だ。英雄王がいる限り、いくらでも物資が調達できる。彼らの補給を断ち、戦場に引きずり出すには、その抜け道を塞がなくてはならない。
ならば、彼によると思われる一家殺人に酷似した事件を再現させる。囮役は、街中での宝具や魔眼の開放が難しいライダー。魔物としての身体能力は大したものだが、元が姫君である彼女は武芸の達人ではない。
だが、ライダーの真価は別にある。アーチャーの射撃は確かに下手だが、閉所でのブラスターの飽和攻撃で、致命傷を負わせることはできなかった。武器の格が低かったせいもあるが、ほぼ光速の射線を逃れるのは、サーヴァントの身体能力だけでは不可能だ。
アーチャーことヤン・ウェンリーは、彼女に似た能力の持ち主を知っていた。スパルタニアンを駆る宇宙の撃墜王たち。彼らと同じく、ライダーには卓越した空間把握能力があるのではないか。だからヤンの射線を見切り、変則的な動きを駆使してすり抜けられるのだろう。
『小官ならば、そんな余裕は与えません。一発で眉間を撃ち抜きますな』と毒舌な部下が皮肉るに違いないだろうが。
あの動きを、もっと広くて高低差を稼げる空間で、ずっと遅い剣の矢に対して行なえば?
「私の世界の小型戦闘艇は、仮想の球面を想定して動けと教えられます。
教わったって、そうそう出来るもんじゃありませんけどね。
私なんて、何度シミュレーションで撃墜されたことか……。
だが、あなたなら出来そうです。
高低差を生かして、できるだけ変則的な動きをしてください」
そして、ヤン・ウェンリーは囮を孤立させるようなことはしない。キャスターが住民の防御を担当し、ランサーとアサシンを遠距離からの援護役につけ、自分も霊体化して現場を見守っていた。
凛は、『負ける戦いはしない』という言葉の意味を思い知った。自らが負ける要素と、敵の勝機を計算し、双方を限りなく減らして戦いに臨む。そのためには、あらゆる手段で自分に有利な舞台を構築する。
「あいつ、ドSだわ……」
信号待ちの車中で、凛は呻いた。
「勝てない戦いはしないって、ガチで勝ちに行くって意味だったのね」
約束された勝利の剣の主は来し方を思い返した。
「……私も勝利のために手段を選ばないと非難されたものですが、
彼ほどではなかったと思いたいです」
ここも三段重ねの包囲網の一角だ。セイバーたちの待機場所として準備されていた。目立たないように間桐家の車を借り、運転手はセラ。逃亡したギルガメッシュを追ったが、夕方の交通量の多さにすぐに断念せざるを得なかった。
「それでいながら、あれほど部下に慕われる。不思議ですね」
「わたくしには解る気がいたします。
先日も今日の戦いでも、皆様は誰一人傷ついていません」
「未来のシロウはボロボロですが」
セイバーは苦笑した。
「でもセイバー、戦いのせいじゃないわよ。
ライダーの自転車よりも、シロウとのシュギョウが一番きてると思うの。
次がタイガのアタックかな」
そう言う冬の妖精も、なにかと大きな義弟を構い、困らせているのだった。
そんなエミヤシロウにとっては、戦いのほうがなんぼか楽であった。車での追跡は信号に引っかかり、数百メートルで失敗。もっとも、英雄王が地上を駆けていたのは、ほんの最初のうちだけだった。野次馬の視界から遠ざかるや否や、屋根へと飛び上がり、飛び移っていく。追跡を続けていたとしても、すぐに見失ったことだろう。
高所にいたエミヤは、もっと長く英雄王を視界に捉えていた。
「やはり、遠坂が候補に挙げた家のほうに向かったぞ。
途中で屋根から降りたがね。狙撃すれば、片が付いたものを」
携帯電話で告げるエミヤに、ヤンは答えた。
「それでは駄目さ。
英雄王は最強のサーヴァントだが、言峰綺礼を冬木に繋ぐ鎖でもある。
捕縛する前に鎖を断ち、彼を自由にしてやる必要はない」
父と教会、遠坂時臣に英雄王。言峰綺礼にはいつだって大きな後ろ盾があった。しかし、立派な黄金の盾も、逃げ隠れるには目立つ重荷とならないか?
「まだ残り時間はある。あと、五日かそこらだがね。
だが、たとえ数日でも、時間を稼ぐに越したことはない」
「――なぜと伺っても」
「結局のところ、サーヴァントはマスターに依存する。
腹が減っては戦が出来ぬとは至言だよ」
兵糧と魔力供給を断つ。味方が行なうのはその逆だ。強大な敵をできるかぎり弱体化させ、弱小な味方との差を少しでも埋める。ヤンの魔術の種は、兵法の基本にある。
「四件の未解決事件のうち、最も凶悪で急を要するのが一家殺人だ。
有力な容疑者が発見されれば、要所要所に手配書が出る。
あれだけ特徴的な容貌の持ち主だ。人前に出たらすぐに通報されるさ」
「だが、ギルガメッシュは霊体化できるかもしれない」
「ああ、その可能性は否定はできないね」
携帯電話から、淡々とした声が流れてくる。まるで、不変の公式を述べるような。
「だがねえ、姿を消せば買い物もできないよ。荷物が持てないじゃないか」
「は?」
エミヤは色褪せた瞳を丸くした。
「アインツベルンの城から、どのくらい物資を持ち出せたかにもよるが、
永遠に保つわけではないだろう。
いずれ、何らかの方法で補給をしなくてはならない。
これは主に言峰神父への対策だが」
「では、ギルガメッシュには!?」
語気を強めたエミヤに、穏やかな答えが返される。
「忘れたかい?
ライダーの施術は、大聖杯をなんとかするための準備だよ」
「……そういえば」
エミヤは眉間を揉んだ。肝が冷えっぱなしのサイクリングのせいで、頭から吹っ飛びかけていた。
「君たちの頑張りのお陰で、早く準備が整ったからね。
キャスターには、英雄王への対抗策を考えてもらいたかった。
だが、さすがの彼女も、所在のわからない相手では、対策の立てようがないらしい」
「そちらが目的でしたか……」
罠の中に罠があり、逃げ道に最大の罠が口を開けている。悪辣極まりない。
「無視されたら困ったが、乗ってくれてありがたいね。
蛇は地母神の象徴なんだ。若返りの薬を蛇が盗み食いしたっていうのはね、
女神が許さなかったという意味だ」
「は?」
再び間抜けな声を上げるエミヤに、ヤンはギルガメッシュ叙事詩の一節を語ってくれた。
ギルガメッシュが友と一緒に退治した天の雄牛は、女神イシュタルが遣わしたものだ。美と豊穣、大地と金星を司る地母神で、蛇は彼女の眷属。不老不死の喪失は、女神の意志が働いているのだろう。
「不老不死の探求と喪失には、別の話があるんだ。
冥府に落ちた宝を探しに行った友が、
禁忌を破って冥府から戻れなくなってしまうというね」
「はあ……」
いきなりの歴史講義に、エミヤに答えに詰まった。
「すべての財宝の原典を持つなら、
不老や若返りの薬に相当する物は持っているはずだ。
王女メディアには可能な術なんだから」
あくまで落ち着いた声に、エミヤは慄然とした。
「ということは、『聖杯』とは……』
「アインツベルンの第三魔法を成就する術だ。
完全な不老不死、あるいは
後者が『この世界の内側』で叶えられるのだとしたら?」
「いや、しかし……。あなたの推理が正しいとしても……」
「私の推理の正否は問題じゃないさ。
彼にそう思わせて、言峰神父との足並みが崩れればいい。
ちなみに、メディアは若返りの術の使い手だし、
メドゥーサの血は、死者蘇生の薬の原料でもある」
そんな二人が、なにやら動き回っていたらどうだろう。
「英雄王には、彼女たちを無視できなかろうと思ってね。
ああ、これも一種のハニートラップになるのかな」
「ははは……」
惚けた言葉に、エミヤは引き攣った笑いを返すことしかできなかった。
――悪魔だ。悪魔がいる。
エミヤの抱いた感想は、この世界の士郎と全く同じだった。戦場の心理学者の異称にふさわしい、容赦もえげつもない戦術。英雄王に、異常性犯罪者のレッテルを貼り付けたに等しい。
「……ギルガメッシュが知れば逆上するぞ」
「そりゃするだろうねえ。だが、マスターはどうかな?」
霊地から追われ、警察が警戒している中で、生贄の調達は難しい。食料などの生活物資も無限ではない。店先に二人の手配書が、並べて張られるようになるだろう。
「私だったら連戦は避ける。決戦に向けて力を温存するよ」
「言峰が? 我々の消滅を待つ可能性が高いと思うが」
「私が彼ならそうは思わない。英雄王が犯罪者として追われている状況ではね。
我々と英雄王が戦い、共倒れになるのがもっとも望ましい」
エミヤは息を呑んだ。
「聖杯戦争はもうじき終わるが、児童監禁や連続殺人の時効まで、
この街で逃げ隠れ続けられるものじゃない」
マスターの命を担保するのがサーヴァント。サーヴァントは冬木の聖杯に縛られる。英雄王が存在している状態で、言峰は市外に逃亡できるのだろうか?
「言峰にとって、ギルガメッシュが負担になるということか?」
「たしかにジョーカーは最強の札だ。ポーカーならね。
だが、やりようによっては、ゲームをババ抜きに変えてしまうこともできる。
彼らは強敵だが、限界も存在するんだ」
それを見極め、的確に攻撃していけばいい。
「呉越同舟は長続きはしないものだよ。
今回は令呪の発動もなかったし、意見が対立しつつあるのかもしれない。
もっと両者の足並みを乱したいところだね。
そしていざ決戦という時に、あちらさんが空っけつだといいんだが」
キャスターの魔術の首尾を確認すると結んで、電話が終わった。
「おい、何ぼやっとしてる」
隣のマンションから飛び移ってきたランサーの声で、エミヤは我に返った。
「いや……。世の中、上には上がいるものだと……」
まったく世の中、なにがあるかわからない。エミヤシロウが言峰主従を哀れに思うことがあろうとは。
「十倍の敵と戦っても、彼が『負けない』意味がわかった。
……恐ろしい人だ」
同報無線をご存知でしょうか?
屋外に設置された無線による放送設備のことです。
筆者の住む町では、災害情報や行方不明者のお知らせ、振り込め詐欺の注意喚起などを放送しています。
ギルガメッシュの事件については、こんな感じで放送されることでしょう。
「こちらは広報ふゆき、冬木市役所です。
警察署よりお知らせします。
先ほど、刃物を持った男による殺人未遂事件が発生しました。
犯人の年齢は20歳前後、身長は180センチ前後で痩せ型、
金髪で白いジャケットを着ています。
外にいる方はすぐに帰宅し、戸締まりに注意しましょう。
お心当たりの方は警察署までご連絡ください。繰り返します(リピート)」