77:再起
部屋から移動する手間を惜しみ、サーヴァントの男性陣が家具を脇に寄せ、女性陣はふらふらになったマスターらを横たえた。我に返った桜が、水と薬を準備する。
「先輩に姉さん、イリヤちゃん。お薬、飲めそうですか?」
一同は無言のまま、身じろぎもしなかった。覚えのある症状に、アーチャーは頬を掻いた。
「ああ、そんなに心配しなくていいよ、桜君。
ひどい乗り物酔いみたいなものだ。ま、ちょっと待つしかないね」
キャスターが柳眉を逆立て腕を組む。
「ちょっと、今はそんな場合ではないのではないかしらね。
この瞬間に、転移してきたらどうするの!」
かといって、彼女は転移で綻びた結界の制御に手一杯だ。
「ランサーにアサシン、なんとかしなさい!」
魔女の下僕ふたりは、とばっちりに困り顔になった。
「そうは言うけどな、チョウヤク酔いになんてものに効くルーンはねえぞ」
「私も治癒魔術は苦手でな。師にも匙を投げられたものだ」
「この役立たず!」
なかなかひどい言い草だが、キャスターも相当に焦っている。そうと察したエミヤは、宥め役に回った。
「落ち着きたまえ、マスター。
我々が費消する魔力は君に依存している。
この連戦で一番負担が大きいのは君だ。
彼が待っても大丈夫だと言うのなら、従ったほうが賢明だぞ。
そら、もう五分は過ぎた」
彼の言葉に、鞘を使おうとしていたセイバーは動きを止めた。士郎にも負担を強いることになる。逆効果だ。
「ええ、今は彼らはここには来ないでしょう」
アーチャーは、一同に説明を始めた。
「私は、彼らが転移して襲撃する可能性は低いと見ます。
言峰主従は予想以上に非凡な戦術家でした。
あそこはこちらの戦力が多くとも、全員が全力を出せる場所ではない」
そして溜息をつくと、ずれたベレーの位置を直した。
「正直、あれは誤算でした。
今回の調査は、大聖杯の場所を確定するだけの予定でした。
皆さんを危険な目に遭わせて申し訳ない」
そこで頭を下げたはいいが、今度はベレーが床に落ちた。アーチャーは恐縮しながら拾い上げ、付いてもいない埃を払いながら続けた。
「大聖杯の汚染が、あれほど深刻だとは思っていなかった。
『この世全ての悪』は弱いサーヴァントだったと聞いていたのですが」
サーヴァントの時は弱くて役立たずで、斃れてから大聖杯を汚染するとは本末転倒だ。アーチャーがそう慨嘆すると、専門家からの指摘が飛んだ。
「逆ではないの? 聖杯の分を超えて、悪神を呼ぼうとしたから、
聖杯は悪の概念をサーヴァントの殻に押し込めた。
その結果、生贄の人間分の力しか持てなかった。
死してその殻が外れ、概念としての力を取り戻した。
こんなところではないかしらね」
「耳の痛い話だなあ……」
現実にもよくある話だった。死者が思想と結びつき、象徴となる。ヤン・ウェンリーが、衛宮切嗣が、養子たちに影響を与えているように。
ランサーが伸びをしながら言った。
「ま、しょうがねえんじゃねえか。
御三家の嬢ちゃんたちと坊主も知らなかったんだろ?」
慎二は項垂れた。凛とイリヤは横になったまま、悪い顔色が一層冴えなくなった。
「だが、言峰綺礼は知っていたのではないでしょうか。
あの場所の性質を。だから彼らは、令呪を引き替えにしても攻めに来た」
ランサーとセイバー、キャスターは頷いた。なお、バーサーカーは速やかに霊体化している。イリヤの魔力の浪費防止のためだ。
「だが、ここは違う。全員で掛かることができる。
あの汚水もないし、ライダーの目は人間にとっては致命的です」
純白の天馬に騎乗する、煌く髪の魔眼の美女。あまりにも有名なライダーの素性を、逆手に取った牽制である。討ちとれるなら最上、それが無理でも布石として無駄にしない。アーチャーの策の柔軟性に、慎二は舌を巻く思いだった。
「……だから、奴らはおまえたちが留守でもこっちに来なかったのか」
「今の彼らは、別行動を取ったら負ける。
いくら言峰神父が強くとも、サーヴァントには敵わない。
彼が死んだら、英雄王は新たなマスターが必要になる。
それには私たちを斃し、令呪が残る御三家の誰かと契約するしかないんだ」
御三家のマスターは、凛と桜とイリヤだ。慎二は再び唸った。
「なるほどね。自殺行為だよ。親の仇に絶対命令権を握らせるなんてさ」
アーチャーの推理のあらましは、士郎から聞いている。言峰主従は、遠坂時臣とアイリスフィール・フォン・アインツベルンを殺害した疑いが濃厚だ。少女たちのサーヴァントを斃しても、新たな契約を結んだ瞬間に自害を命じられるだろう。
「そういうことだよ。
今ここに乱入しても、彼らにとっては先程よりも不利だ。
セイバーとランサーには、彼らも知る切り札がまだある」
名指しされた二騎士は顔を見合わせ、セイバーが代表して口を開いた。
「我々の手の内は知られてしまっているのに?」
「そのとおりだ。腹が立つがな」
ランサーも渋々頷いた。しかし、アーチャーの意見は違う。
「私なら、知っているからこそ慎重になりますがね。
あなたがたを両方を相手にするのは、あそこだから可能だった。
連戦したのは、そういう理由かもしれない。決め付けるのは危険ですが」
ヤンはベレーをかぶり直した。
「とにかく、彼らにとっても絶好のチャンスだったんです。
機を逃した以上、四つ目の令呪を使うのは無意味ですよ。
あといくつあるのかわかりませんが、貴重で有限な資源なんですから」
この説明で、サーヴァントたちと慎二の肩から力が抜けた。床に転がった凛と士郎、イリヤの耳に入っていたかは定かではない。桜が甲斐甲斐しく薬を飲ませ、クッションの枕をあてがい、毛布を掛けている。ちょっとした野戦病院だ。ベッドで休ませてやりたいが、襲撃の警戒中では不可能だった。
「……ただ、我々も同様なのが辛いところですが」
桜がコップを片付けに行ったのを見計らい、アーチャーは溜め息混じりに付け加えた。それを合図に、次に向けての作戦会議が始まった。
「令呪が第三次から導入されたなら、二十一マイナスnが教会の保管数。
そして、英雄王自身の令呪が一個以上。なお、第四次での使用数は不明。
今日の攻防で使われたのは、敵が二つないしは三つ」
こちらがわは、セイバーとキャスター、バーサーカーで計三つ。アーチャーとランサーが一つ、ライダーが二つ、既に使っている。残りは十四画。だが、使えるのはそのまた半分だ。
「ともあれ、誰一人欠けずに帰還できたし、相手の能力も見ることができました。
大聖杯の実態がよろしくないこともね。
さて、慎二君、君は何かを見つけたようだね。いい情報かい?」
味方の令呪の数を増やせるとか、敵の令呪の制御を乗っ取れるとか。開発者の間桐として、このぐらいの特権は持っていてもおかしくない。そう言うヤンに、慎二は渋い顔で首を振った。
「そんなうまい方法があるなら、前も今度もジジイが参加したと思うね。
今回はみんなガキだけど、この前のマスターだって、
若いか余所者ばっかりじゃないか」
余所者はともかく、若いという言葉にヤンは引っかかりを覚えた。
「じゃあ、前回、間桐家からも誰かが参加したのかな?」
打てば響くような反応に、慎二は臓硯の戸籍謄本を差し出した。
「ああ、そうさ。
爺が死んで、弁護士に遺産相続の手続きをしてもらってたら、
怪しい奴が見つかったんだ」
アーチャーは、差し出された戸籍を流し見した。書類上、臓硯には未婚の次男がいることになっている。
「間桐、カリヤ、と読むのかな? 君にとっては叔父さんだね」
「といっても、僕は顔も見たことがない。
僕の知ってるかぎりだけど、電話や手紙も寄越したことがないんだ」
慎二は、眉を寄せて腕組みをした。
「いくらなんでもおかしいだろ?」
「……カリヤくん?」
床に転がり、蒼白な顔のままの凛がポツリと呟いた。
「なんだよ、遠坂。知ってるのか?」
「なまえ、だったのね。苗字じゃなかったんだ」
「凛?」
慎二とアーチャーは顔を見合わせ、凛に視線を転じた。
「お母様がそう呼んでたの。小さい頃からのお友達だって……」
慎二は戸籍を凝視した。そして、凛に視線を移し、ここからは見えない台所に顔を向ける。コップの片付けにしては、ずいぶん時間がかかっている。きっと夜食でも作っているのだろう。サーヴァントたちのために。
「遠坂と桜のお袋さんが……?」
士郎の記憶に引っ掛かるものがあった。首を振り、吐き気を堪えながら口を開く。
「うー……。雷画じいが、美人だったって言ってたぞ。
すらっとして、遠坂に似てたって。あ、遠坂のほうが美人だとも言ってたけど」
凛の蒼白い頬に、うっすらと朱が差す。慎二は髪をかき混ぜると、ソファに乱暴に腰を落とした。
「……衛宮。僕はおまえの、そういう天然なあざとさが嫌いなんだよ。
桜といちゃこらしてんなら、ちょっとは節操を持て!」
士郎は慌てて起き上がった。
「なっ、違うぞ!? 桜は俺の家の手伝いに……」
「そんなんで毎日行くもんか! この鈍感野郎め。爆発しろ。そしてもげてしまえ」
「まあまあ、慎二君、落ち着いて」
おかんむりの慎二をアーチャーが宥め、士郎のほうはきょとんとしている。もう一人のエミヤはいたたまれない気持ちになった。魔術への劣等感で歪んでいなければ、間桐慎二は癖があるけどいい奴だった。諫言をしてくれる同性の友人とは、なんと貴重な存在だったのだろう。
「だけど、盲点だった。当然考えるべきだったんだ。
僕らが同年代であるように、僕らの親も同年代だってことをね。
叔父と遠坂の母親が幼馴染でも、なんの不思議もない。
立派に参加の動機になるじゃないか……」
怪訝な顔の凛と士郎に、慎二は指を突きつけた。
「遠坂が母親より美人ってことは、父親の遺伝だろ。
ハンサムで金持ちの遠坂家の当主と、家から出奔した間桐の次男坊。
普通は絶対に前者を選ぶんだよ!」
キャスターが感心したように頷いた。
「よくわかっているじゃない、巻き毛の坊や。
私も神に操られなければ、そうしていたでしょうにね」
「でも、お母様はふ、二股を掛けるとか、そういう人じゃないわ!」
「ですがリン、自分の意志に関係なく、相手に想われることもままあります」
そう言ったのは、ライダーだった。
「愛であれ、憎しみであれ。でも、それだけとは思えません」
キャスターの母方の従妹で、臓硯の訃報に駆けつけたというのがライダーの設定である。今は、黒いセーターにパンツ、メタルフレームの眼鏡という飾り気のない格好だ。眼鏡はキャスターのお手製で、石化の魔眼を封じ込める。
おかげで灰水晶の瞳を見ることができる。それにしても、実に美しい女性だ。海神の寵を受け、戦女神に嫉妬されるのも無理もない。そんなメドゥーサならではの言葉だった。
「シンジの叔父なら、この家の魔術を知っていたのではありませんか?
だから出奔した。そこに、愛した女性の娘が引き取られた。
黙って見ていることができるでしょうか?」
慎二は鼻を鳴らした。
「最初から逃げなきゃ済んだ話だけどな」
「ひ、否定はできませんが……」
「だけど、逃げる気になっただけでも立派かもしれないけどね。
親父も、僕も、桜もジジイに飼い慣らされちまってた。
この叔父も、結局、ジジイから逃げきれなかったんだろう」
慎二はもう一枚の書類を差し出した。これもまた、士郎が最近見たばかりのものだ。
「あれ、これ、戸籍の附票だよな?」
士郎の反応に、慎二は眉を上げた。
「よく知ってるじゃないか」
「じいさんの戸籍を調べてて、これも雷画じいに見せてもらったんだ。
でもなんで線が引いてあるんだ? しょ、職権消除? へ?」
「その住所にいないって届出があると、
役所が調べて住民登録を消されちゃうんだってさ。
要するに、失踪中ってこと」
士郎と凛は顔を見合わせた。
「それが十年ちょっと前。これで辻褄と人数が合う」
慎二の指が附票を弾いた。そのまま指を折る。
「遠坂の父親がアーチャー。衛宮たちの父親がセイバー。神父はアサシン。
ランサーとライダーが時計塔からの参加者で、
キャスターのマスターは、冬木の連続児童誘拐殺人犯。
残るのはバーサーカー。……そいつが間桐からの参加者だ」
「ちょ、ちょっと、今はそんな場合じゃ……」
反論しかけた凛を、慎二は制して続けた。
「いいから聞けよ。
そのバーサーカーが、セイバーのマスターの奥さんを攫ったんだろ?
どうして、アーチャーのマスターに協力するんだよ。
元恋敵かもしれない相手だぞ」
「あっ!」
凛とセイバーは同時に声を上げた。サーヴァントという『点』しか見ていないと気づかない。しかし、サーヴァントの背後にはマスターがいる。今回の面々と同じく。
遠坂と間桐、冬木にある二つの魔導の家。双方に同年代の魔術師が生まれ、性を同じくし、同じ女性と異なる関わりを持つ。夫と幼馴染。一方は恋の勝者。他方はその立場をよしとしたのだろうか。
慎二なら、よしとはできない。
「敵対するかどうかは別として、協力しようとは思わないね。
この家に戻って聖杯戦争に参加するってことは、
聖杯を手に入れようとしたからだろう」
間桐の魔術を知る慎二の言葉には、重いものが篭められていた。
「聖杯が欲しいんなら、あのアーチャーと組んでも、
絶対に自分の物にはならない。
六騎がかりでも倒せなかった奴じゃないか」
その言葉にランサーは嘆息した。
「そりゃ、俺たちも全力が出せなかったからな。
それを含めて、連中が一枚上手だったってことだが」
強大な宝具を所持し、追加の令呪という反則まで使える。五次の面々が結集してなお、引き分けに持ち込むのが精一杯。調査部隊は一人を除いて悄然とした。だが、残る一人は、あっさりと言い放った。
「つまり、普通でない方法を使えば、その限りではないということでもある。
組んだ上でのマスター殺しだ」
ヤンの疑いは、先ほどの一戦でほぼ証明された。言峰綺礼は、遠坂時臣の死に関与していると断定してよかろう。
「まともならできないけどな」
元恋敵――相手の眼中になくとも――は、愛した女の夫で、義理の姪の父だった。彼を殺して、聖杯を手に入れても、人の心は決して手に入らない。そこまで考えて、慎二は自嘲の笑みを漏らした。
「でも、僕には人のことは言えないよ。
聖杯戦争に首を突っ込めば、まともじゃなくなる。
それこそ、どんな望みでも叶うってのが謳い文句だ。
ジジイのいない、遠坂の親父のいない世界にだってできるんじゃないか?
間桐雁夜夫妻と、娘たちのいる世界にも」
「そうかもしれないね」
人の心の働きには、計り知れないものがある。ヤン・ウェンリーは知っていた。
ある女性は、痴情の縺れで、二百万人以上の帰還兵を道連れに恒星に飛び込もうとした。
ある青年は、姉を奪われた怒りで古い王朝を滅ぼし、友を失った悲しみを戦いで癒すかのように、二つの国を滅ぼして、宇宙を統一した。
従ったほうが楽なのに、名君が率いる圧倒的な大軍と戦うことを選んだ者たちもいる。
「聖杯を入手すれば、あるいは叶うのかもしれない」
士郎は思わず叫んだ。
「でも、自分のいいように世界を変えるなんて、世界を滅ぼすのと一緒だ!
自分の思いどおりにならない人は、いらないってことじゃないか!」
「馬鹿だな、衛宮。それができれば、ケンカや戦争なんか起こらないね」
ばっさりと切り捨てられて、士郎は一瞬カッとなり、次にハッとした。それこそが、じいさんの願いだった。誰をも切り捨てぬ正義の味方。すべてを救って、みんなを幸せにする。未だ人が辿りつかぬ、遥けき理想。
「神様にだって不可能なことだぜ」
光神の息子と海神の孫娘たちは、一斉に頭を上下動させた。群青、貝紫に青銀。空と海を映した、人ならぬ色彩は、彼らが神の系譜に連なるからかもしれない。彼らは神の血を受け、その生においても神々と深く関わっている。
どうにか結界の修復が終わったキャスターは、長い睫毛を伏せて愚痴をこぼした。
「死してなお、『神』のとばっちりを受けるだなんて、まったく嫌になるわ。
聖杯が降臨したとして、あれをどうにかしなければ、
きっと役には立たないでしょうね」
イリヤが青褪めた。
「願いがかなわないの!?」
「どう叶うかが問題なのよ、アインツベルンのマスター。
人の分を超えた願いを神が聞き入れると、破滅の元でしかないわ。
ミダス王は黄金を欲し、触れるものを黄金にする指を得た」
キャスターもまた、優れた語り部であった。妙なる声が、歌うように神代の物語――彼女にとっての史実――を紡ぐ。
「触れるものはみな黄金になるのよ。家族も民も、水や食べ物までも。
王は無数の黄金に囲まれて、孤独の中で飢えて死んだわ」
棒を呑んだように硬直したイリヤに、彼女は存外に優しい口調で語りかけた。
「聖杯が、単なる魔力の坩堝なら、思うとおりになるかもしれないわね。
でも、大聖杯の汚染は、悪神が巣食っているようなもの。
無色の力ならいかようにもできても、神への願いとなればそうはいかない。
神が叶える願いは一つだけなのよ」
「そ、それは、聖杯だって同じことでしょ?」
イリヤの反論に、魔女は首を振り、小さな銀の頭を撫でた。二人の髪の色が似ているため、歳の離れた姉妹にも見える。
「いいえ、全然違うわ。触れるものを黄金にするという願いには、
人や食事は黄金にしない、という願いは含まれないのよ。
不老不死を欲したら、死なず老いない石になるかもしれないでしょう」
キャスターの意見にアーチャーはこくりと首を傾げ、理系の学生のようなことを言った。
「不滅というなら、原子に分解されるんじゃないですかね。
質量保存の法則的に」
悲鳴の大合唱が聞き慣れた声で奏でられ、驚いた桜は再び台所から駆け戻った。
「今度はどうしたんですかっ!?」
義妹の問いに、慎二は震える指を問題発言の主に向けた。
「こ、こいつ、地味な顔して超えぐいぞ!」
アーチャーはちょっと傷ついた顔をした。
「私の顔は関係ないだろう……。えぐいのは聖杯戦争そのものだろうに」
「それを汚染したのが『この世すべての悪』じゃないか?
ジジイがそれを知ってたなら、参加しなかったのも納得できるんだよ」
慎二の推理に、アーチャーは髪をかき回した。
「なるほど、たしかに筋が通っているよ。
それにしても、『この世すべての悪』なんて、
そんな都合のいいものはないんだけどね。
ゾロアスター教の最高神、アフラ・マツダはインドでは悪神のアスラ。
アンリマユが従える悪魔ダエーワは、やっぱりインドの善神デーヴァ」
高校生たちは呆気に取られた。
「私は、正義の対義語は、悪ではないと思うんだ。
強いて言うなら、逆方向の正義だと思っている。
ペルシアでは、確かにアンリマユは悪神だ。
でも、ちょっと東西にずれれば、神として信仰を集めている」
インド発祥の神デーヴァが、ペルシアでは悪魔のダエーワになる。そして、さらに西に行くと再び神になる。デウスの語源でもあるのだ。
「インドとペルシアが、いかにユーラシア大陸で覇を競い合ったかということだがね。
ペルシアの脅威に晒されていた欧州の人には、強大な敵の敵として崇拝されたのさ。
実に逆説的だが、ペルシアがあるかぎり直接侵攻は受けないからね」
呆気に取られるのも無理はない。まるで世界史の授業だ。それも、かなり面白い内容の。
「だから私には、絶対的な悪だとは思えなかったんだ。
しかし、キャスターの説を聞くと、なるほどとも思う。
思想や信仰を根絶やしにするのは不可能に近い。
ゾロアスター教そのものは薄れても、別の宗教に吸収されて……」
言いかけて、ヤンは顎に手を当てた。――別の宗教。あるではないか。アスラもデーヴァも吸収して、等しく信仰の対象とした宗教が。日本で最も広く信仰されている仏教だ。あの洞窟の真上にも、その拠点の一つが鎮座している。『この世すべての悪』が、大聖杯内に留まっているのは、それが理由かもしれない。
「……サーヴァントを召喚し、維持するのは大聖杯でしたね。
そちらを何とか出来ないものでしょうか。
英雄王に、魔力が行かないようにするとか」
キャスターが首を横に振る。
「あれは魔力で飽和寸前。いつ暴走してもおかしくないわ。
英雄王への供給路を切れば、その分魔力の飽和も早くなってしまう」
灰水晶の瞳が瞬いた。薔薇色の唇が開く。
「……では、更に大元から供給を減らすのはどうでしょうか。
地脈から魔力を吸い上げられないように、大聖杯の手前で邪魔をする」
一同はギリシャ神話きっての美女の顔を、まじまじと凝視した。
「私が学校に張った結界は、中の人間を融解させ、魂を回収する宝具でした」
桜が息を呑み、義兄と従者に視線を往復させた。
「そ、そんな結界を学校に……」
ライダーは立ち上がると、優美な長身を二つに折った。
「サクラ、そして皆さん、申し訳ありませんでした。
でも、シンジもシンジなりに戦おうとしたのです」
「……悪かったよ。遠坂たちのせいで、不発に終わっちまったけど、
先に武器を突きつけたのは僕らだからな」
慎二も歯切れ悪く謝罪をし、癖毛の頭を下げた。
「ああ、だがもう済んだことだ。今さらそれがどうしたってんだよ」
ライダーとヤンの一戦の間接的な被害者は、実はランサーである。双方が壊した校舎の修理を、言峰綺礼に命じられたからだ。それは口に出さず、彼は疑問を口にした。
「あれは地脈の力を吸い上げて発動し、その地を枯れさせるのですが、
人がいないところで使っても、地脈に与える影響は同じです」
「使えそうじゃねえか!」
膝を打つランサーに、黒髪の魔術師たちは首を捻った。
「でもあの結界、発動までに結構時間がかかったわよね」
「だから我々も邪魔することができたんだが、聖杯戦争の残り時間では……」
ライダーは、仮の主をちらりと見た。
「あの、それはシンジの魔力が足りなかったせいです。
仕掛ける範囲も広すぎましたし……」
だから吸血鬼事件を起こすことにもなったのだが。
「その、重ね重ね、すみません……」
萎れる美女に桜は首を振った。
「ううん、兄さんとライダーだけのせいじゃない。
お爺様の命令だったけど、わたしの呼びかけに、ライダーは応えてくれたでしょう。
わたしもちゃんと責任を取らなくちゃいけなかったのに」
今までマスターであることに目を背けていた桜も、足を踏み出したのである。
「ごめんね、ライダー。兄さんも。それから先輩と、……姉さんも。
ほんとうにごめんなさい」
際限なく謝罪合戦に突入してしまいそうな雰囲気に、ヤンは咳払いをしてみた。
「まあ、それは当事者同士で、後で気が済むまでやればいいよ。
じゃあ、本題を進めようか」
「あ、す、すみません。話が途中でした。
サクラが私の主となってくれましたから、魔力は充分足りています。
結界の大きさを調節すれば、もっと時間も短縮できます」
ライダーの宝具『他者封印・鮮血神殿』は、人体を融解させ、魂を回収するという危険な宝具だ。しかも、ひどく霊脈を痛めつける。その欠点を逆用できないかという提案だった。
「……なるほど、霊脈のうち無人の場所を狙う、ね」
アーチャーはベレーをかぶり直した。
「これは妙手かもしれない」
そういって席を立ったアーチャーは、一冊の本を手に戻ってきた。
凛の荷物に加えてもらった、図書館から又借りした本だった。
ページを開き、挟んであった紙を凛に差し出す。
「ところで凛、霊脈とやらとこれは一致するのかい?」
アーモンド形の瞳が大きさを増す。
「えっ……。う、嘘!? なによ、これ!? あんた、魔術なんて知らないって……」
それが雄弁な回答であった。
「こいつは、冬木の地図に断層図を書き込んだものだよ。
ほら、冬木の霊地は、高台に集まっているだろう?
水の流れとは逆にね。下から上に上がるものというと、
ほかには地殻変動ぐらいしか思いつかなくって」
凛の口がぽかりと開いた。
「士郎君は霊脈をよく知らないし、イリヤ君は地学を学んでいないそうだ。
でも、君は両方の知識があるからね。……どうだい?」
「う、うう……」
凛は眉間に皺を寄せ、アーチャー手製の地図とにらめっこをした。
ぶつぶつと呟きを漏らす。
「ええと、ここが私の家でしょ。こっちがこの家で、これが教会……。
や、やだ、大体合ってるかも……。っていうか、こっちのほうが詳しいような……」
「ならよかった。これで手間が省ける」
アーチャーの指が、円蔵山を横切る赤い線をなぞった。
「主にはこのライン。まあ、山の近辺はあの主従も警戒していると思う。
だから、これに繋がるラインを探したい」
赤線を離れた指が、山の周辺で円を描く。
「この範囲内の断層で、あの洞窟と同じ石灰岩質の土壌で、
かつ人家のない所が有望なんだが」
冬木在住の魔術師(自称を含む)らの目と口は開きっぱなしになった。
「……地図を読むのが給料のうちって、本当だったんだな」
感心する士郎に、アーチャーはばつが悪そうな笑みをこぼし、黒髪をかき回した。
「いや、ごめん。あれは全部が本当じゃないんだ。地図じゃなくて星域図だから」
慎二はたまらず叫んだ。
「そういう問題じゃないよ! なんだよ、もう。
門外漢に、科学的に丸裸にされちまうなんて、
神秘は秘匿するって何だったんだ!?」
「しかしね、慎二君。
科学や医学は魔術から派生していったものだろう?
科学で魔術を解明するのも、不可能ではないと思うんだよ。
形は違えど、世界の謎に人間が挑戦しているんだから。
それに所詮は人間、考えることにそんなに差はないものさ」
そんなことを、このサーヴァントに言われて誰が頷けようか。
「……絶対に嘘だ」
「嘘じゃないよ。人の個人差は大きいが、人間の集団の差は小さい。
そして、個人では集団に勝てないんだ。
君たちマスターが打破すべきは、英雄王ではなくそのマスターだ。
慎二君を含めて、力を結集することが鍵だと思う」
この言葉を皮切りに、高校生と元高校生は、冬木の地形という宿題を解くことになった。いかに聖杯の加護があっても、地元民の土地勘には敵わないということで。疲労困憊した士郎と凛とイリヤ、今後の要となる桜に休息をとらせ、忌引中の間桐慎二とアサシンがその作業にあたった。
この組み合わせは、ライダーの護衛役として、アサシンこと衛宮士郎が最適だからである。数キロを見渡す鷹の目と、その目に映す範囲を射程とする弓術。盾の宝具を持つ英雄王に決定打とはならないが、逃げるための時間は稼げる。
「騎馬というのは、兵力の高速移動のためのものだ。
それを活かすには、弓矢なり、槍なりがないと。
アサシンにはそれがある。
いまの言峰主従が最も警戒しているのは、恐らく君だ。
英雄王と酷似した宝具を持っているアサシンなんて、私なら一番おっかないね」
そう説明されて、エミヤは心中で唸ったものだ。
「……なんか、うまく乗せられたような気がするな」
慎二は本をめくりながら、癖のある髪をかきあげた。
「アーチャーもちゃっかり霊体化しちまったし」
しかも、桜が用意した夜食をしっかりと味わってからだ。他の面々に比べると、かなり控えめな量ではあったが。
「それは仕方がなかろうよ。彼は非常に魔力を喰うサーヴァントだ」
「確かにね。ついでに遠坂の財産も食い潰してる」
アーチャーの召喚に際して、凛は財産の半分を注ぎ込んでいる。そして英雄王との交戦にあたって、アーチャーは宝具を準備していた。つまりは凛の魔力である。これ以上令呪を費消できないので、他の方法で魔力を調達した。
十年物の宝石の五個目は、アーチャーの口に突っ込まれることになった。
「あんたがつべこべ言うから、ダイヤを選んだんだからね。
二番目に高いのよ。もっと感謝しなさい!」
腰に手をあて、顎をそびやかす黒髪の美少女に対し、黒髪の青年は礼は言わなかった。宝石が変な所に入ったようで、激しく咳き込んでいたからだ。気の毒な話である。
彼の生前を知るエミヤにしてみれば、冷や汗ものの一幕であった。ヤン・ウェンリーは遥か未来の英雄で、今は無名というか架空の存在に近い。早すぎる晩年を迎えても、威厳など欠片も所持しない青年だったが、サーヴァントになって若返り、さらに頼りなげな容貌になっている。一国の元帥閣下に対して、凛はずいぶんと手荒く接しているが、世が世なら即座に銃殺される狼藉だ。
「もっとも財産といえば、うちもまずいことになってるけどな」
失踪中の叔父、間桐雁夜は生きてはいまい。慎二はそう確信していた。『祖父』間桐臓硯の戸籍を取ったところ、彼の生涯に三人の臓硯が存在する。彼の祖父、彼の父、彼自身として。家系調査を念入りに行なえば、さらに多くの臓硯が見つかるに違いない。
戸籍上では当主が死んで、跡取りが名前も継いだことになっている。臓硯が五百年もの生を生きてきたということは、慎二も知っていた。だが、それを可能にしたのは、肉体を蟲の群体に置換するという魔術だった。それだけでも充分におぞましいが、蟲の材料は他人の肉体。
真実を知った慎二は、彼らが天寿を全うしたのか疑わしくなってきた。蟲の群体なら、容貌も変えられるのではないか。行方不明の叔父なんて、入れ替わりにうってつけだ。だから臓硯が放置していたのかとも思われる。
父 鶴野の病状も回復の兆しがなく、遺産の処理はさっぱり進まない。この叔父がいてくれれば、どれほど心強かったことだろう。
「でもきっと、爺に乗せられちまったんだろうな。僕みたいにさ」
彼にとって一番の敵は、甥の初戦の相手の父だったことだろう。彼が愛する女を妻とし、彼女との間に生まれた娘を間桐に与えた。自分が切望しても得られぬものを、妬む相手が尊ばぬことほど腹が立つことはない。――慎二のように。
もしも臓硯が五百年も生きていた人妖でなかったら、叔父も穏当でありながら必勝の方法を取っただろう。実家には近づかず、臓硯の寿命を待つことだ。それが不可能だからこその絶望であり、無謀ではなかったか。
叔父は、魔術師として慎二の父よりマシだったのだろうが、狂戦士はもっとも魔力を浪費するクラスだ。慎二の推理を聞いたセイバーが、ぽつりぽつりと語ってくれたところによると、四次バーサーカーの真名は、湖の騎士ランスロット。セイバーの部下だったそうだ。セイバーの素性が、慎二を仰天させた。
「は!? じゃ、まさか、この子ってアーサー王か!?」
無作法に突きつけられた指に、セイバーはたじたじとなった。
「う……。……はい」
口篭りながら返された肯定に、慎二の細い顎が落ちた。
「……む、無理がありすぎるよ! そりゃ、王妃も不倫する……いやちょっと待て」
項垂れる金髪に続いて、藍色の髪も同じ角度になった。
「自分と似たサーヴァントを召喚する、か。嫌なシステムだな、おい……」
マスターとサーヴァントの共通項が、夫ある女性を欲した点なのか。心底に沈めた願望が、サーヴァントとして顕現したのかもしれない。『夫』よりも強くあれ、凌駕せよと。アーチャーの剣の矢をものともせず、セイバーを武技で圧したバーサーカー。
「でも、結局はセイバーが勝ち残ったんだよな。
――バーサーカーの魔力切れで。こりゃ、絶対に死んでるよ」
十年前のこの時期、慎二は海外に遊学中だった。
「衛宮、こいつは桜には言うなよ。
遠坂が知ってたってことは、桜も叔父に会ってると思う。
覚えているかわからないけどな。
でも、叔父のほうは、あいつのお袋が誰か知らないはずはないんだよ」
桜の存在も、彼の戦いの動機になりうる。
「やりようによっちゃ、遠坂の親父とも共闘できたんだろうけど」
「……イリヤの母を攫ったのが、その共闘だと?」
慎二は肩を竦めてみせた。
「いや、僕は違うと思うね。
もしも共闘するなら、前回のアーチャーとバーサーカーは、
ものすごく相性のいいコンビになるんじゃないか?
あのセイバーでも、きっと敵わないよ」
「確かにな。その厄介さはわかるぞ。
私の魔術は担い手の技量ごと、剣を複写するものだ」
「凄いじゃないか!」
色を失った赤毛が振られた。
「いや、模造品である以上、どうしても格は落ちる。
担い手の技量も、私の身体能力と魔術で再現できる範囲内だ。
ランサーの槍の贋作を私が振るっても、本物には勝てんということさ。
それをカバーするための種類と数というわけだ」
「おまえって、変なところが器用貧乏だよなー。
頑固で融通の効かない性格のくせに」
かつての友人の的確すぎる人物評に聞こえぬふりをして、エミヤは続けた。
「宝具の原典を用意できる者と、それを己の宝具の如く使いこなせる者か。
同時にかかられたら、確かに前回のセイバーでは負けただろうな」
衛宮切嗣とは、三回しか会話がなかったどころか、共闘もしていないというセイバー。この世界の衛宮士郎とは、語り、学び合い、家族のように触れ合っている。英雄王を前にして、士郎は令呪を使って、彼女に鞘を返した。
「今回は勝てるって?」
秀でた褐色の額に皺が寄った。
「サーヴァントの能力が、マスターに左右されるのは、
アーチャーやライダーだけの問題ではないということだ」
衛宮士郎のへっぽこぶりは、一朝一夕に改善できない。セイバーに鞘を返して、不死に近い再生能力も失った。彼女の奮闘は素晴らしかったが、なけなしの魔力も空っけつだろう。
「いま我々に必要なのは時間だ。
味方の魔力を蓄積し、敵の魔力を削ぐという点で、
ライダーの結界宝具は理にかなう」
一口メモ:
ペルシアとインドの攻防は、田中芳樹先生のもう一つの代表作『アルスラーン戦記』の舞台のモデルです。『アフラ・マツダー』と『アスラ』は、『戦士の中の戦士』と『猛虎将軍』の対比を考えていただければ分かりやすいでしょう。