70:とある英霊の物語
「そして、次のピースも揃ったよ。なんとか勝算が立てられそうだ。
さあ、始めるとしよう。では頼むよ、士郎君」
「へっ?」
アーチャーに名を呼ばれた士郎は、間抜けな声を漏らした。赤い外套の偉丈夫が眉間に皺を寄せ、士郎の誤解を正す。
「たわけ、貴様ではない」
彼と士郎は初対面同然である。なのに、この言いぐさはなんだ。士郎はさすがにカチンとした。
「なんで、おまえにそんなこと言われなくちゃならないのさ!」
士郎の抗議には応えず、鋼の色が喪服の青年に視線を転じた。
「あなたも存外に人が悪い」
のほほんとした顔で、爆弾を投げ入れるのだから。アーチャーことヤン・ウェンリーは、微かな笑みを浮かべた。
「隠していては、ためにならないと思ってね。
セイバーが言ってくれたように、君も自分の言葉で伝えるべきだ。
それとも、私のマスターが言ったほうがいいかい?」
ランサーの宝具をも凌ぐ、急所を捉えた一撃だった。アサシンことエミヤシロウは溜息を吐いた。
「……それは勘弁していただきたいものだな」
言いながら俯くと、前髪をかき乱し、再び顔を上げる。凛を除く少年少女たちが、一斉に目と口を満開にした。姓に名、あるいは年齢差を示す呼称で、口々にアサシンを呼ぶ。最も驚愕した者が、一人称を口にした。
「お、俺……!?」
士郎よりずっと丈高く、逞しく、男性としての理想ともいえる体格。浅黒い肌と対照的な銀色の髪と瞳。しかし、秀でた額に前髪がかかると、少年の面影が明らかになった。
「そうだとも言えるが、違うとも言える。
私は衛宮士郎の可能性の一つだ。
『正義の味方』を目指した、魔術使いの成れの果てだ」
自嘲の滲む口調に、エミヤの旧友の眉間に皺が寄った。
「で? サーヴァントとして呼ばれたってことは、
聖杯戦争に勝利して、英雄になったってわけか?
僕たちを見て、さぞや馬鹿にしてたんだろう!?」
「兄さん!」
義妹の制止にも、慎二の糾弾は止まなかった。
「だってそうだろ? 聖杯戦争で死んでたら、そんなにでかくなりゃしない!」
「うー……」
士郎は複雑な心境になった。琥珀を眇め、サーヴァントとなった衛宮士郎を眺め回す。やや小柄な自分よりも優に頭一つは高い。
過去の自分を見下ろすエミヤの内心も、混沌としたものだった。しかし、重ねた年齢の分だけ、エミヤには余裕があった。
「確かにな。そう思われるのも仕方がなかろう。
しかし、私が経験した聖杯戦争は今回とかなり異なっている。
まず第一に、私の時のアーチャーはこの人ではない」
磨り減って薄れかけた記憶の中に、未だ残っている鮮烈な色。月光の下、校庭で激突する赤と青。迫り来る青い死神が、真紅の槍で心臓を突き刺した。それは衛宮士郎が死んだ日の記憶。
そして、蘇った日の記憶。鮮血に塗れた目覚め。転がっていた宝玉は、己の血よりも赤いルビー。
家に帰り着いて間もなく、再び来襲した青い騎士。絶体絶命の危機に、風が鈴の音とともに舞い降りた。銀と蒼、黄金と聖緑の、夢幻のごとく美しい少女であった。
鉛色の巨人を従えた銀雪の妖精。赤く歪んだ結界を跳梁する、長い紫の髪。夜空に舞い上がる黒の魔女。捩れた剣の矢を射る、赤い弓手の広い背中。
士郎の目が見開かれた。
「全然違う……。俺はあの日、弓道場の掃除して、普通に家に帰ったぞ」
イリヤが気まずい顔になった。
「うん……。死にそうにはなったけど……。
それは、わたしとバーサーカーのせいだし」
ランサーは腕組みした。彼の表情も冴えない。
「おうよ。一戦交えるどころか、すぐさま俺の正体を見抜きやがった。
ゲッシュを持ち出されてはな……。こいつが弱いと油断した俺が悪いんだが」
残念そうなランサーに、ヤンは眉を下げた。
「あのですね、私があなたと戦えると思いますか?」
「おまえの宝具は中々のものじゃねえか」
「秘匿を旨とする聖杯戦争で、あんな代物を学校で使えますか。
学校というところは、どこに人目があるかわからないんですよ」
ヤンの言葉に、エミヤは眉間を揉んだ。同じく凛も。
「ええ、本当にそのとおりよ。
私のアーチャーがエミヤシロウでなかったから、
ランサーが士郎を殺さなかったから、今の状態になったと思うの」
「炎を生き延び、養い親に宝を託され、理想を受け継いだ。
英雄に与えられた死、魔術による蘇生。
そしてセイバーを召喚し、共に戦い、やがて戦士へと至る。
それは英雄譚というのよ」
キャスターが、歌うように赤き従者の物語を紡ぐ。
「惜しいことね。
おまえがいま少し過去に生まれていたなら、星に認められたことでしょう。
ランサーによる死は、坊やがこの男になる契機だったはずよ」
現在と未来の衛宮士郎が愕然とする。琥珀と鋼色の凝視に、神代の魔女は優雅に肩を竦めた。
「死んだはずなのに生き返り、セイバーが顕現した後は、
鞘の加護で限りなく不死に近い。
年端も行かぬ若者が、向こう見ずになるには充分でしょう?」
「でも、俺は戦ったことなんてないんだけど」
士郎の反論に、エミヤが片眉を上げた。
「だから貴様はたわけだというのだ。
それが誰のおかげか、少しは考えてみろ」
士郎はムッとした。これが自分の未来図だなんて思いたくない。実際、自分そのものの未来ではないんだろう。アーチャーとランサーは校庭で戦っていないし、だから士郎もランサーに殺されていない。バーサーカーにはやられたが、セイバーとランサーの戦いで、セイバーは負傷していない。ライダーとランサーにはアーチャー主従が対応している。決して強いと言えないアーチャーが、強力なサーヴァント二騎と戦って負けていない。
「あ……。そっか、アーチャーのおかげなんだ……」
もう一人の衛宮士郎が語る、華々しい聖杯戦争に憧れないといえば嘘になる。しかし、その頻度で連戦したら、へっぽこな自分とセイバーが潰れるのは目に見えていた。黒いアーチャーより、ずっと強い赤のアーチャーと凛の主従と同盟したとしても。
「あれ? 待ってくれ。その聖杯戦争のアーチャーは、赤い服……。
まさか……」
褪せた白い髪が、微かに下がった。
「恐らくはそうだろう。今の状態が配役違いで起こっていたわけだ。
ちなみに私が遭遇した柳洞寺のアサシンは、佐々木小次郎と名乗っていたぞ」
全く同時に、三つの斬撃を繰り出す、魔法の領域に到達した剣術の天才だった。それを聞いたランサーが、口惜しそうに呟く。
「てめえも面白い戦いをする奴だが、そいつとも手合わせしたかったぜ……」
「大変な強敵だったがね。剣の腕は、セイバーをも凌いでいただろうな。
その剣技だけで、ランサーとバーサーカーに門前払いを食わせたのだから」
アーチャーまで羨ましそうな顔をした。是非、観戦したいと思ったに違いない。呑気な連中に、間桐家最後の直系は額に青筋を立てた。
「おい……。この聖杯は、西洋や中近東以外の英霊を呼べないんだぞ。
佐々木小次郎だって? 日本人で、しかも架空の存在だろ。
この衛宮だって似たようなもんさ。ルール違反だぞ!」
睨み付ける慎二に、キャスターは嫣然と微笑んだ。
「魔術師がサーヴァントを呼ぶのがこの戦争のルールではなかったの?
未来の存在を呼んだことを非難するなら、アーチャーのマスターも同罪よ」
当のアーチャーのマスターは、アサシンの語る遠坂凛に複雑な気分だった。
「こいつを呼びたくて呼んだわけじゃないけど、
でも弱いからこそ、いいこともあったのよ」
凛は服の上から、家宝のペンダントを握り締めた。
「わたしは、士郎を死なせずに済んだのね」
このペンダントが壊れ、修理に出していたから、万暦赤絵の壷を触媒にヤン・ウェンリーが召喚された。彼はランサーと戦わず、士郎は死なず、ペンダントは違う者を蘇らせた。卵が先か、鶏が先かという問いのようだが、このペンダントは英霊エミヤに繋がっていなかったのだ。
「その遠坂凛の気持ち、わかるわ。
士郎を死に追いやったことを、ずっと負い目にしてたと思う」
「ああ、きっとそうだろう。
俺の知る遠坂は、素直じゃないくせに、俺のために命を賭けてくれた。
自分のサーヴァントを犠牲にしてまでな」
長身で逞しく、端正な容貌の英霊エミヤの言葉は大層な破壊力だった。彼が語っているのは、凛ではない凛だ。頭では理解していても、感情が追いつかず、凛の頬に一月早く桃の花が開花する。
それを見た慎二は、波打つ髪を振り立てた。
「ああ、もう、おまえの惚気はいらないんだよ!」
残りのマスターの反応は、三者三様であった。イリヤは、士郎の袖にぶらさがるようにして訴えた。
「やだ、シロウってば、オンナタラシになっちゃってる……。
ぜったいにあんなふうになっちゃダメなんだから!」
「安心してくれ。俺は絶対にああはならないから」
未来の自分だというアサシンを睨みながら請け負う士郎に、桜が血相を変えて詰め寄った。
「先輩、本当ですか? 本当ですね!? 約束ですからね!」
「お、おう」
「よかった……」
胸を撫で下ろした桜は、主従であったかもしれない二人に冷ややかに告げた。
「姉さんとアサシンさん、そういうのは後にしてください。
あと、できるだけ、わたしの見えないところでやってくれませんか」
サーヴァントらは何も言わなかったが、視線に温さを増した者が三名、動揺を滲ませたのは一名。目を隠したライダーと、姿を消しているバーサーカーは不明だ。
慎二は激しく後悔した。こんな争いに首を突っ込むのではなかった。魔術師としての栄誉ある闘争どころか、きょうだい喧嘩とのろけ合戦じゃないか。
しかし、時すでに遅し。もはや頼れるのは自分のみだ。脳内に花を咲かせた連中を放置し、エミヤに迫る。
「もっと役に立つ情報を寄越せよな」
慎二の要求に、エミヤは咳払いをしてから口を開いた。
「とはいえ、私の経験した聖杯戦争とあまりに異なるのは理解できるだろう。
ライダーとキャスターの悪事は、こんなにすぐには終息せず、
ランサーのマスターもなかなか割り出せなかった。
イリヤは完全に敵で、遠坂と同盟を組んだのはそのせいだ」
「もったいぶらずに結論から先に言えよ。
まずは、アーチャーが疑っている、第八の主従が本当にいるのか」
エミヤは苦く溜息を吐いた。この友人が、鋭くて探し物が得意だったこともすっかり忘れていた。自分の世界の間桐慎二は、聖杯戦争で落命したのだった。
「私の場合はいたがね。
もっとも、我々の前に姿を現したのは、多くのサーヴァントが脱落してからだ」
アーチャーは頷いた。行儀悪く片膝を立て、そこに肘を付いて顎を支える。
「だろうね。そのほうが戦略的にも正しい」
卑怯だと言いかけた士郎は、機先を制される形になった。
「そうなのか……」
「戦いは易きに勝つのが基本だよ。
聖杯の中身が脱落したサーヴァントである以上、器が空では意味がない。
脱落者が増え、中身が満たされると同時に、競争相手も減っているわけだ」
エミヤは無言で頷きを返す。冷徹な言葉だが、黄金のサーヴァントはそういう考え方をする敵だった。
「ああ、当時の私にはわからなかったが、あなたの言うとおりだ。
遭遇した時点では、あの男の真名もわからなかった。
まもなく戦いとなり、連戦で消耗していたセイバーは相打って消えた。
彼女の願いも叶えることはおろか、心を救うこともできなかった」
口調が重苦しい。凛は眉を顰めた。
「ちょっと待ちなさいよ。あんた、
黄金のアーチャーを知っているような口ぶりだったじゃないの」
「当時の、と言っただろう」
黒い瞳が瞬いた。
「ではその後に、黄金のサーヴァントを知るチャンスがあったのかい?」
「生き残った私は、自分の魔術の研鑽に励んだ。
皮肉なことに、あの男の宝具が大いに参考になった。
無数の剣を……メロダックを、グラムを、ダインスレイフを持つ英霊だった」
ランサーの瞳も瞬いた。
「何だそりゃ? ずいぶんと無節操なこった。
山ほど剣を持ち歩いたって、戦場では邪魔なだけだろうによ」
「それは、あの男の本質が、戦士ではなく王だからなのだろう」
金の髪が頷き、エミヤの証言を裏付ける。
「ええ、そうです。自らを高名な王と称していた。
聖杯とて、己の財の一つだと言って憚らなかった。
ライダーには心当たりがあったようだが、私には……」
見当がつかなかったし、知りたいとも思わなかった。セイバーの王道を嘲弄したうえ、肉欲を向けてくる男だ。あの最悪な男が、現界しているのかもしれない。うそ寒くなったセイバーは自身を抱きしめた。
「で、誰なんだよ?」
単刀直入な問いを発したのは、またも慎二だった。
「世界最古の王、ギルガメッシュではないかと私は推測している」
エミヤの言葉に、ヤンは顎を上げた。
「……どうやら、ピースの一部が繋がったようだ」
無数の宝具を持ち、聖杯は自らの財と主張する黄金の王。
古代ペルシアの版図には、ギルガメッシュ王の治めた地が含まれるのである。メソポタミア文明は、王朝の交代を経て、長く繁栄した。やがてウルクは衰退し、バビロニアが取ってかわる。首都バビロンは、旧約聖書に奢侈と虚栄の象徴として、真紅と黄金の淫婦と表現されている。
「強いのも頷けるよ。古いほど神秘が強くなるんだろう。
数は力だ。凛たちのお父さんは、必勝の準備を整えていたんだね」
姉妹は顔を見合わせた。なんて皮肉。その努力でも時臣の命は守れず、今強敵となって牙を剥こうとしているのか。
「そんな呑気なこと言わないでよ。どうするのよ!」
語尾を荒らげたマスターに、黒いアーチャーは不器用に眉を上げた。
「どんなに強いサーヴァントも、頭は一つで手足は二本ずつだ。
マスターも同様だ。この人数を活かさない手はない」
それから、魔術師ヤンがベレーの中から取り出したのは、生前果たせなかった戦略構想の一つであった。