「ね、ねえ、アーチャーのマスター。
その男は一応、私のサーヴァントなのよ。
あまり、苛めないでほしいものなのだけれど……」
仁王立ちした華奢な赤い背に、遠慮がちな声が掛けられた。肩越しにキッと視線を向けた凛に、キャスターは宥めるように手を広げた。招待主に粗相をして怒りを買った召使いを、庇う女主人そのものである。
「ほら、本人も反省しているようだから、ほどほどに……」
黒いミニスカートの下の、ほっそりと美しい脚線の後ろに、銀髪を乱した赤い偉丈夫が、萎縮しきって正座していた。
「苛めてなんかいないでしょ?
これは、ちゃんとした聞き取り調査よ。
なんで守護者になったのか、聖杯戦争の召喚に応じた理由はなにか」
キャスターはふいと視線を逸らした。二つ目の質問こそ、アサシンには最も手痛いものだろう。彼女自身がそうであるように。
凛は、アサシンことエミヤシロウに事実を述べさせ、時に質問を加え、できるかぎり淡々とした口調を心がけて応対した。まるで裁判官の態度である。士郎とイリヤのいざこざを裁定したアーチャーを真似たものだったが、自分の知る遠坂凛との差異が、一層エミヤを打ちのめした。
「つまり、あんたはお父さんの理想を継いだ。
正義の味方となるべく、投影魔術を駆使して人助けをした。
より多くの人を助ける選択を繰り返しながら。
ついには、自分の死後を質に入れて世界と契約し、
こきつかわれて人を殺し、もう嫌だってわけね。
だから、元から断とうと考えたと」
しかし、凛の冷静さはすぐに底をついた。エミヤの言葉を要約するうちに、翡翠の瞳に稲妻が宿り、握り拳がぶるぶると震え、黒髪が魔力で踊りだす。おとなしやかな本物のメドゥーサが、顔色を失くすような迫力であった。
「い、いやっ、お、落ち着いてくれ、遠坂!
それはもう諦めた! ここの衛宮士郎は私ではないからな……」
凛の眉宇がぴくりと動いた。踏み出す足が落雷の響きを上げる。
「それは、ここじゃない士郎だったら殺すつもりってこと!?
ふっざけんじゃないわよ!」
エミヤには返す言葉がなかった。キャスターも掛ける言葉を失った。
「馬鹿は死ななきゃ治らないってのは嘘ね。あんたは死んでも馬鹿よ。
どうしてそういう方向に考えるの!」
「……エミヤシロウという英霊を消し去るには、他に方法がないだろう」
自分殺しという矛盾を発生させ、世界の修正を起こす以外には。弟子の未来像に、凛は眉間に皺を寄せた。これほどの絶望を抱くまで、世界はどれほど彼を酷使したのだろうか。
「あんたがお父さんの理想を継いだのも、人助けをしてたのも並外れたことよ。
世界が契約を求めるというのはそういうことだわ。
でも、あんたは一番大事な人間の価値を認めず、救ってもいない。
それがわたしは悔しいわ」
「一番大事な人間……?」
「わからないの?」
エミヤは自嘲の笑みを漏らした。
「すまないが、心当たりが多すぎてな。イリヤも桜もセイバーも俺には救えなかったよ」
凛は褐色の鼻梁に指を突きつけた。
「ほんとにもう、どうしようもないヤツね。
あんたが一番大事にし、味方しなくちゃいけなかったのは、
衛宮士郎、あんた自身よ」
正義の味方ではなく、誰かの味方でもなく、第一に己自身の味方であれ。
「……なんだと」
細い指が、鼻先から広くなった胸郭へと降りる。
「英霊エミヤにとっては、もう遅いんでしょうけどね。
衛宮士郎には、まだチャンスがある。
あんたの手で、あんたになるかもしれない存在を消したらどう?」
「遠坂?」
先ほどまでと正反対のことを言い出す凛に、エミヤは呆気にとられた。凛は微笑みを浮かべた。
「イリヤに桜にセイバー、みんな救えばあんたにはならないんでしょう?
これだって、矛盾の発生じゃないかしら」
銀灰色が瞠られる。
「無限の並行世界のなかで、あんたにならない士郎を育て続けるのよ。
いつになるかはわからないけど、英霊エミヤは消えるかもしれない」
「……雲を掴むような話だな」
「たしかにね。けど、殺し続けるよりは建設的だと思わない?
そのほうが、幸せになる人は多いんだから。
少なくとも、あんたが言った三人と、その世界の士郎は幸せになる。
……ところで、わたしの名前がないのが気になるんだけど」
「遠坂は、俺が助けるまでもなく、雄々し……」
言いかけて、エミヤは単語を選び直した。翡翠の輝きが鋭さを増したからだ。
「いや、凛々しく難局に立ち向かい、乗り越えて行ったからな」
彼が相対しているのは、キャスターを叩きのめし、バーサーカーをも一回殺せる魔術師だ。機嫌を損ねるべきではなかった。
「ふん、まあ、そういうことにしておいてあげる。
わたしだって、士郎が幸せになってくれたほうが嬉しいわ。
あんたはわたしの最初の弟子で、……友だちなんだから」
凛は、エミヤに右手を差し出した。
「あんたも協力しなさいよ。
正義にも色々あるでしょうけど、
頑張った人間が幸せになるのは、間違いなく正義だわ。
その数が増えるのだって、正義だと思うわよ」
銀灰が再び丸くなり、次に笑いの形を作った。
「くっ、ははは……」
大きくなり、肌の色を変じた両手で、エミヤは凛の右手を包み込んだ。
「まさに君は賢者だ。だからあの人を呼べたのかもしれんな。
……そうだな、この世界でも果たせる願いはあった。
桜は君たちが助けた。セイバーのことも何とかなるだろう」
あのヤン・ウェンリーが気に掛けてくれるのだから。
「……ならば、俺はイリヤを助けてやりたい」
*****
そして、遠坂凛はアーチャーことヤン・ウェンリーとの手筈どおりに動き出した。言峰教会と聖堂教会の日本支部には、停戦が成立した旨を打電する。
『七者の協定成立、連絡されたし』
時計塔には、ファックスが入り次第、文書で連絡することにする。言った言わない聞いていないを防ぐ措置だ。電話会社には遠坂家の電話の通話記録も残る。一応の保険だ。アーチャーからの受け売りの説明に、キャスターは菫の瞳を丸くし、彼女の従者は灰色の目を点にした。
「……君は本当に遠坂なのか!?」
「あんたが士郎であるようにね」
エミヤは言葉に詰まった。やはりというべきか、エミヤの知る遠坂凛とは違う。ヤン・ウェンリーの影響をこれでもかと受けている。そういえば彼は、変幻自在かつ柔軟な防衛戦を得意としていた。
「これで、現時点で停戦が成立したっていうタイムスタンプになる。
今後誰かが殺されても、犯人探しは楽になるってことよ。
第八の連中がいくら強くても、同時に三か所の口は塞げないわ」
第二の霊地、遠坂の魔術工房には、凛に生きていてもらわねば困るキャスター。アサシンはどちらの魔女にも頭が上がらぬ。間桐兄妹とライダーは、襲撃の秘匿が難しい病院に。
「しかし、それだけでは弱かろう。教会なら病院を抱きこむこともできる。
言峰だけでも桜や慎二を殺すには充分だ」
エミヤの言葉に、凛は人の悪い笑みを浮かべた。
「あいつはランサーのマスターだったから、ライダーの正体は知ってると思うわよ。
きっと、会食に聞き耳を立ててたはずだもの」
アーチャーに促され、凛自身がランサーに教えた。今にして思えば、彼はかなり早い段階から、ランサーのマスターに目星をつけていたようだ。
「彼女の真名はメドゥーサ。眼帯をしていても、物凄い美人だわ。
髪の毛だって蛇にはなってなくて、アメジストを紡いだみたい。
人生の最盛期の肉体と、戦闘力が同居してるんでしょうね」
「なにが言いたいんだね」
「と、いうことは、彼女
彼女
おいそれと手が出せないと思わない?」
ヤンがランサーにライダー討伐の協力を願い出たのは、彼ぐらいしか対抗できる者がいないからだ。死の魔眼を持つ、ケルトの魔神バロール。バロールを斃したのは、クー・フーリンの父、光の神ルー。メドゥーサ討伐における、祖父ペルセウスと孫ヘラクレスの関係に酷似している。ケルト版ヘラクレスというのは伊達ではない。
魔眼を持つ者に対しての相性は極めてよいだろう。そのランサーは、もう言峰のサーヴァントではない。
「もちろん、知らなくても一向にかまわないわ。
ひと睨みで石になって、あいつのお父様殺しも確定ってわけ。
そしたら、冬木港に沈めてやるんだから」
エミヤは目を伏せ、眉間を揉んだ。
「君たちの奸智にはつくづく恐れ入るよ」
「複数形で言うのはやめてよ」
そして、魔術的には無防備な衛宮家には、三騎士と狂戦士。一人を除いて、最強の布陣である。
「明日になったら、キャスターには間桐に行ってもらうから、お願いね。
そろそろガンドの効力も切れるから、桜たちも退院できると思うし」
「……ガンド!? 何でまた桜たちに……」
「蟲ジジイを始末するためのアリバイよ。
ライダーは、桜に同情して召喚に応じてくれたから、
慎二の言うことを聞いていたの。
……アイツもアイツなりに、桜のことを何とかしようとしてたのよ」
エミヤが愕然とすることばかりだった。
「慎二がやろうとしたことは間違いなく悪事だけど、未遂で済んだわ。
わたしのほうが悪人よ。桜と臓硯をランサーに殺させたんだもの」
「でもね、お嬢ちゃん、いいえ、冬木のセカンドオーナーとお呼びすべきね。
あなたの選択は、あの状況ではもっとも優れていた。
あの蟲を殺さねば、あなたの妹もいずれ死んでいたわ」
キャスターはそれ以上は言わなかった。あの娘の心身を癒すことも、名目とはいえ家庭教師の役割になりそうだから。
「ええ、臓硯については後悔してない。
生き返らせたからいいってものじゃないけど、
桜に私の手が届いたことはよかったと思う。……勝手よね」
凛はセーターの上から家宝のペンダントを握り締め、自嘲の笑みをこぼした。
「嫌いな人間を殺しても、愛する人間が幸せになるなら嬉しいんだもの。
これじゃ、永遠の平和なんか訪れるはずがないわ。
だって、人類全員がみんなを平等に愛するってことじゃない?
そんなの神様よ」
凛の言葉に、キャスターはほろ苦い表情で首を振った。
「あら、神こそが最も嫉妬深く、残酷で不公平なものよ。
その神を越えるような願いを、聖杯ごときが叶えるとしたら、
さぞや歪なものになることでしょう」
凛は目を瞬いた。
「あら、あなただって聖杯に願うんじゃなかったの?」
銀青の髪が、肩の上でせせらぎに似た音を立てる。
「とんでもない。聖杯は魔力の釜でもあるのでしょう。
私は、現世に留まるために欲しかったの。
サーヴァントの受肉というのが、不完全な第三魔法なのでしょう」
「そのほうがいいんじゃない?」
再び、微かな瀬の音。
「最初はそのつもりだったけれどね。
私も未来の魔術師に倣って、第三魔法について考えてみたのよ。
不老不死、あるいは死者の復活。我らサーヴァントの受肉は後者ね。
おそらく、この姿で受肉し、ずっと変わらないことでしょう」
「それがアインツベルンの理想でしょう?
人生の最盛期の肉体と頭脳を、劣化させずに永久に保ちたいって。
サーヴァントをその状態で呼ぶのも、きっと応用じゃないかしら」
凛のアーチャーがまさにそうなのであった。身体能力がまだましな学生時代の肉体に、頭脳や経験は三十三歳の頃のもの。あどけなさを残した少年と青年の狭間の姿で、中身は食えない策略家だ。
しかし、藤村大河と同年代のキャスターには、そこまで大きな乖離は見られないのだが。
「だから困るのよ。今の世は神の眷属が姿を消した。
この姿のまま、この街で何十年も過ごすのは難しいわ」
凛は頷いた。核戦争からの避難などよりも、そちらの方が想像がたやすい問題だった。
「結局、聖杯の解析をしなきゃってことね。冬木から引越しもできないもの」
「ええ。でも、もう放浪は沢山よ。
裏切りの魔女だの、激情の王女だの、そんな二つ名も欲しくはない。
ここで静かに暮らし、あの方を看取ってから、私も逝きたいの」
凛はまじまじと美貌の王女を見つめた。
「……あ、そういう形で生前の未練を晴らすってのもありよねえ」
歴史家志望の名将が、平和な時代で英雄に会い、歴史の研究を楽しんでいるように、激情と陰謀で悪名に塗れた人生を送った彼女が欲するのは、平穏な日常なのだろう。
「受肉が第三魔法の応用なのだとしたら、
それを上回る神秘でないと姿を変えられない。
神秘が薄れた今となってはとても難しいわ。
このエーテル体ならば、研究して術式を編めば、
相応の外見に変じられると思うから」
「ちょっと待って。じゃあ、前回のアーチャーが受肉しているとしたら、
そいつは十年前の姿をしているってこと?
歳はアーチャーぐらいで、金髪に赤い目の大変な美形だったって
セイバーが言ってたわ。
それが十年もそのままだなんて、いくらなんでも目立たない?」
男性の場合、十代後半からの十年で一番容姿が変わる。翡翠とアメジストが互いを見つめ、傍らの偉丈夫に視線を転じた。
「この男はまた極端でしょうけれどね」
「ええ、わたしのアーチャーは、夢で見るかぎりだけど、
あんまり今と変わっていないし……」
結婚して一年も経たないうちに死んだと言っていたから、あれは三十歳を過ぎた記憶だと思う。金褐色の髪にヘイゼルの瞳の美女に、しどろもどろに求婚をしていた。
そして、たぶん結婚式だろう。似合わない礼装を鏡に写し、苦笑をしていた顔は二十代半ばにしか見えなかった。
「まあ、そうなの?
可愛らしさが消えるか否か、随分と差があるものだこと。
この男があの坊やなら、今の可愛いままがよかったのに……」
凛も彼女の意見に深く同意した。
「ほんとにね。アーチャーはまだ背が伸びるって言ってたけど、
頭一個分も違うなんて思わないわよ。
おまけに肌や髪ならまだしも、目の色まで変わっちゃって」
二人の魔女の俎上に載せられ、縦横微塵に切り刻まれて、エミヤは鳩尾をさすりながら溜息を吐いた。奇蹟の三十代と比べられては困る。
「いや、その、そういう比較はやめてくれたまえ」
「あんた、生前に聖杯戦争を経験してるんでしょう。何か覚えていないの?」
色褪せた髪が振られた。
「すまないが、私の記憶はかなり磨耗している。
そのうえ、サーヴァントとして参加したらしい記録も混ざっていてな。
どれが真相なのか、わからなくなってしまったよ」
凛の眉宇が曇った。
「やっぱり、カンニングは無理かあ」
再び、エミヤは頭を振った。灰銀の瞳に確信を込めて。
「だが、その黄金のサーヴァントの天敵はこの私だ」
「えっ!?」
「無数の宝具を所持するアーチャーだそうだな。
彼に対抗できうるのは、衛宮士郎しかいないだろう」
なんという皮肉だろうか。黄金のサーヴァントは、目の眩むような数多の宝具を所有するという。守護者に堕ちた衛宮士郎と正反対の英霊。
それが実父母の、養父とその妻子の、師匠と妹分の、そして自分のセイバーの仇だとは。借り物の理想に、紛い物の刃。しかし、それこそが究極の一では対抗できぬ、宝具の蕩尽に対する切り札。
「……そして、一つ思い出したよ。
あれを私にしないために、助けなければならない人々をな……」
エミヤは背筋を伸ばし、惚れ惚れするような一礼をした。
「我がマスターとアーチャーのマスターにお願いする。
早急に教会を攻めたい。私に力を貸してくれ」
人を救うことによってしか、自分を救えないエミヤの根幹は死しても変わらなかった。
「……わかったわ。で、誰を助けたいの?」
ほんとうに、つくづく、どうしようもない奴だと思う。この期に及んで、まだ人助けだなんて。しかし、救える誰かがいるのなら、それは決して間違ってはいない。情けは人のためならずって言うのなら、いつか、この士郎にも届くだろう。それを凛は願う。
鋼の瞳を一瞬伏せてから、エミヤは告げた。この少女の後見人に、あらたな罪状を積み上げることになっても。
「教会に、孤児たちが監禁されていた。彼らは私だったかもしれない存在なんだ」