59:真名
アーチャーの助言に従って、士郎とイリヤとセイバーは病院へと向かったが、慎二と桜を見舞うことはできなかった。
「面会謝絶、ですか……」
告げられた言葉を鸚鵡返しにする士郎に、三十代なかばぐらいの看護師がすまなそうに答えた。
「ごめんなさいね、せっかくお見舞いに来てくれたのに。
どちらの患者様も熱が高くて、身内の方以外は遠慮させていただいています」
「そ、そんなに具合が……!?」
士郎は青褪め、イリヤはドイツ語で呟きを漏らした。
【やりすぎよ、リン……】
臓硯が死ぬような風邪を装ったとは言っていたが、これは少々……。桜のほうは、熱にうかされた悪夢で終わらせようとしたのかもしれないが、慎二に対しては激怒していたのだろう。
ライダーの結界が阻止できて、本当によかった。穂群原に、ガンドによるアウトブレイクが起こらずに済んだ。よせばいいのに惨状を想像して、士郎の顔がますます青くなった。
遠坂は同じことを数百人単位にできるんだ。本物の魔女だ。なんて、おっそろしい……。
士郎の顔色を誤解した看護師は首を振り、安心させるような笑みとともに教えてくれた。
「いいえ、感染予防ですよ。二、三日もすれば、お見舞いも大丈夫よ」
「そ、そうですか。よ、よかった……。あの、俺、衛宮士郎っていいます。
二人に大変だけど頑張れって、伝えてもらってもいいですか」
士郎の言葉に、彼女は頷いた。
「はい、伝えますね。よかったら、これに書いていただけますか?」
渡されたのは、可愛らしいメモ用紙。士郎は考え考え、桜と慎二へのメッセージを書いた。桜には看護師に伝言したようなことを。慎二には、それに一言付け足しした。
『治ったら、一緒に歴史の勉強をやらないか? いい先生がいるから。
衛宮士郎 TEL0*0-****-****』
ペンを握る手元を見つめるセイバーに、緊張の色が走った。
「シロウ……。気配がします」
霊体化しても、サーヴァントはサーヴァントを感知できる。
「ラ、ライダーか?」
声を低める士郎に、金沙の髪が頷く。士郎はさらに声をひそめた。
「じゃあ、聞いてくれ。ライダーたちも協力してほしい。
まだヤバイのがいるかも知れないんだ。
桜たちは、遠坂とキャスターたちが守るから」
士郎の提案を、ライダー主従が受け入れるかどうか。同盟に応ずる公算は高いとアーチャーは言っていたが。
「そいつは、ひょっとすると桜の父さんの仇かも知れないって。
ライダーも気をつけてくれよ」
囁いて、士郎は神妙に病室のドアに頭を下げた。
「遠坂は妹を助けることができたんだ。
ランサーとキャスターが手伝ってくれたんだけど。
ライダー達が協力してくれたら、きっと何とかなる。頼む……」
踵を返した小柄な少年を、霊体化した長身の美女はじっと見つめた。サクラの想い人である『先輩』。彼も、サクラを助けてくれた一人だった。シンジを救ってくれた一人でもあった。
ライダーの襲撃を、アーチャー主従が見事に対処したからだ。結果、ライダーは吸血鬼事件を続けることも、学校の結界を発動させることもできなかった。その間に囚われの姫君と兄は、二人の魔女とその従者に救われた。まるで、幸福なお伽話のような結末。
ライダーは眼帯の下で目を伏せた。灰色の水晶のような美しい瞳を。メドゥーサには訪れなかった救いの手は、神ではなく桜を取り巻く人々が差し出したもの。だが、それは桜に告げないでと凛は言った。
『桜を助けたのは私だけれど、殺したのも私よ。
臓硯は死んだ、教えるのはこれだけでいいわ』
あの少女は、名にふさわしく生きていくのだろうか。魔術師の矜持に胸を張り、されど孤独に。
でも、サクラは姉の手助けに気づいている。熱からひととき意識を取り戻したとき、パジャマに目を落として呟いたのだ。
「……姉さん……」
赤地に黒猫がプリントされたパジャマは、サクラの物ではない。その配色と図柄、さらに残った魔力の痕跡で、そうと気がついたのだろう。
『協力してもいいですよね、サクラにシンジ。でも、すこし羨ましいです』
姉に想い人、その両方に助けてもらえるなんて。でもなぜ、ランサーやキャスターも仲間なのだろうか? 今更だが、首を傾げるライダーだった。
でも幸いといえよう。アーチャーことヤン・ウェンリーは、稀代の戦略家にして戦術家である。ライダー陣営を弱敵と見定め、マスターの才能を立てる形で撃破し、その功をもってキャスターの懐柔にかかったのだから。
それだけではない。学校を軸に士郎を取り込み、芋蔓式にイリヤも引っ張りこんだ。わらしべにされた結果の長者だとは、知らないほうがいいことだろう。
*****
病院を出た士郎は、図書館へと向かった。
「図書館なんて久しぶりだな……」
アーチャーの提案がなければ、来ることがなかっただろう。セイバーは、アーチャーの提案にじっと考え込んでいた。祖国の歴史を知るには、みずからの正体を明らかにすることになる。士郎とセイバーの関係は、彼の養父に勝ること百倍だが、士郎と敵であるはずのアーチャーとの関係は更にいいのだ。
受容的で理性に富んだアーチャーは、父のように兄のように士郎に接している。どうやら、彼の里子は士郎に似たところのある少年だったようだ。士郎に知られれば、きっとアーチャーにも伝わる。サーヴァントの真名を知り、利用することの巧みさにかけては、アーチャーに並ぶ者はいない。
それが怖ろしい。でも知りたい。相反する心に、セイバーはブラウスの胸元を握りしめた。
「あの、お願いしたい本があるんですけど……」
セイバーの煩悶を知らず、士郎は司書の女性にアーチャーから頼まれた本のジャンルを告げている。
「あら、今は高校生もそういう勉強をやるの?」
初老のふくよかな司書が、柔和に目を細めた。
「え、高校生もって、何がですか?」
「小学校の五、六年生で、地域を調べる学習があるのよ。
よかったわね。ちょうど、それに貸し出されていた本が戻ってきたところよ」
「はあ、ありがとうございます」
そのやり取りに、セイバーは目を瞠った。こんなに簡単に、調べたいことがわかるのか。俯いた頬に、視線を感じる。大粒のルビーが、じっと見つめていた。
「セイバーが言いにくいんなら、わたしが借りてあげてもいいわ」
「イリヤスフィール……」
冬の少女は、律儀に約束を守ってくれていた。しかし、知っている。広めようとしないのは、イリヤには意味がないからだ。ヘラクレスの力をもってすれば、弱点を衝くまでもなく、セイバーをねじ伏せるのはたやすい。
「セイバーが気にするのは、キリツグがいいマスターじゃなかったから?
でも、シロウはキリツグじゃないし、わたしもお母様じゃないわ」
夫に対して従順で、優しい妻だったアイリスフィール。セイバーに対しても、慈愛に満ち、夫にとりなそうとしてくれた。イリヤはそう聞いている。
でも、あと一歩足りなかった。キリツグに意見をし、ボサボサの襟首を引っ張ってでも、話し合いの席につかせるべきだったのだ。アーチャーのように、普通の人間のように。でも、それが作られた母の限界。
しかし、イリヤにはできる。父から受け継いだ人間の部分が、設計図以上の成長を可能にする。だから、おとうとのために意見するのだ。それがお姉ちゃんの役割だろう。
「だから、シロウにはちゃんとつたえてね。……セイバーから」
そう言うと、カウンターに伸び上がるようにして、士郎と司書に告げた。
「ねえ、シロウ。わたしにも本を借りてもらえない?」
「ああ、いいぞ。どんな本がいいのさ」
「いつかよみがえる王様と、その国が今どうなっているのかが知りたいわ」
「へ?」
怪訝な顔になったのは赤毛の少年一人で、司書の女性は得たりと頷き、手元の端末を操作した。
「あのね、お嬢ちゃん。その王様と王国の本は沢山あるの。
絵本から、博士が読むようなものまでね」
「じゃあ、両方がいいわ。一番かんたんなのと、一番むずかしい本」
「難しいほうは、とっても難しいわよ」
イリヤは鹿爪らしい顔で腕組みをし、士郎を見上げた。
「アーチャーなら読めるよね」
「でもな、解説が高校生レベルじゃなくなると思うぞ。俺、ついて行けないよ……。
それにアーチャーも、間桐と組むんならそんなに顔を出せないだろうし」
セイバーもこくこくと頷いた。
「やっぱり、高校生ぐらいのにしておこうかしら」
「……それがいいと思う」
「私からもお願いします」
二人の同意に、司書は頷いた。
「では、少しお待ちくださいね」
それから二十分後、どっさりと本を抱えた三人は帰路についた。
「イリヤの読みたかった本、そんなにあったのか……」
冬木に関する資料は三冊。残る七冊はイリヤのリクエストだった。
「むー、ちがうわ。ひとりの王様なのに、本がこんなにあるなんて思わなかったの」
家に帰り着いたイリヤは、遠坂邸で待機中のアーチャーに、電話でその不満をこぼした。
『歴史に異説はつきものなんだよ。だから、複数の資料を読み比べるんだ。
共通する部分があり、異なる部分がある。
その違いがどうして生まれたのか、埋もれた事実が見つかることもあるのさ』
「じゃあ、どうすればいいの?」
『さっき言ったように、資料を読み比べるんだよ。要点を書き出したりしながらね』
「ええー!?」
『第三次と第四次聖杯戦争の状況は、そうやって調べて推測したんだよ』
遠坂家に残された文書と、新聞記事の縮尺版のコピー、そして複数の郷土史。
「アーチャーって、ほんとうに歴史が好きなのね……」
イリヤから告げられた素人歴史家からのアドバイスは、士郎とセイバーにも悲鳴を上げさせた。
「無理! それ無理!
そんなのできたら、俺、テスト勉強に苦労してない!」
「よもや、これもあの男の策では……」
セイバーは目の前の本の山を睨みつけた。
「私を煙に巻き、聖杯戦争の遅延を図っているのか……」
あるいは、さっさと告白してしまえということかもしれない。だとしたら悪魔も顔負けの奸智である。
「なあ、先に一冊で済むほうからにしないか……」
士郎が手にしたのは、『グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国史』だった。厳密にはイギリスという国は存在せず、日本の法的には上記の国名が正式だ。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという四つの国が、王または女王の下に統治されている。
「……あのさ、イリヤ。これ、ほんとうに高校生向きなのか……?」
厚さが五センチぐらいありそうな本だ。開いてみると活字は二段組。ふたたび、アーチャーに助言を求めるイリヤだった。
『一冊で収まっているんなら、確かに高校生向きだよ。
詳細なものだと、何十巻もあるんだからね』
「一冊でも、ぜんぶ読んでる時間はないの!」
『じゃあ、まず、セイバーの時代を読むんだ。
そこから飛ばして、現代の体制が生まれていった過程を調べるといい。
後者は、士郎君の世界史の参考書あたりに、ダイジェストがあると思うよ』
「――だって」
「それが楽になったって、言えんのかなあ……」
嘆息した士郎は改めて本を眺めた。
『グレートブリテン島および北アイルランド連合王国』
「セイバーはイギリスの英雄だったんだな。で、どの国なのさ……?」
イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド。候補が四つもある。
「私の時代では、ブリテンと呼んでいましたので……」
「じゃあ、その時代はいつなのさ?」
セイバーはついに意を決した。
「……シロウ。私の真名はアルトリア。アルトリア・ペンドラゴンです」
琥珀がきょとんと見返す。
「うん?」
「しかし、私は男として生きていた。アルトリウス・ペンドラゴンとして」
「あるとりうす? 俺、聞いたことないけど」
セイバーは睫毛を伏せた。
「愛称はアーサー。これならばわかりますか……?」
剣士となりうる英雄。名はアーサー。
「へ、え、ええーーっ!? あ痛え!」
慌てた士郎は立ち上がりかけ、座卓の天板に膝をぶつけてしまった。
「アーサーって、アーサー王!? 円卓の騎士のアーサー王なのか!?」
「はい……」
こわばった顔で頷くセイバーに、士郎は膝をさすりながら、さっきぱらぱらと読んだ絵本の知識を披露した。
「アーサー王なら聖杯を手に入れてるぞ」
「な、なに!? そんなはずは……」
アーサー王伝説は諸説ある。最も有名なのは、円卓の騎士が聖杯の探求をするエピソードだろう。聖杯を持ち帰った者に差はあるが、それによって王の病は癒え、彼の統治は五十年に渡って続く。
セイバーは手を握りしめた。
「ここは、私の世界ではないのか……?」
士郎は赤毛をかき回し、眉を寄せた。
「もしかしたら、アーチャーが言ってたタイムパラドックスが起こってんのかも」
この聖杯戦争で、セイバーが聖杯を得て、元の時代のやり直しに成功する。これはその書き換えられた歴史ではないのか。だとしたら、資料から確かめる術はない。
「厄介だな。なんか他に……」
「私が最後に戦ったのは、モルドレッドでした」
「それは一緒だな。ほら、ここ」
絵本のアーサー王は、カムランの丘で、王位を狙うモルドレッドと対決している。士郎はそのページを開くと、セイバーに見せた。エメラルドが食い入るように、活字を追う。アーサー王と異母姉の間に、モルドレッドが誕生していた。しかしセイバーは、眦が裂けんばかりに目を見開いた。
「私は、父ウーサーの子だからアーサー。
モルドレッドの母は、わが姉モルガン。だからモルドレッド。
これでは目印にならない……」
セイバーの言葉に士郎はぎょっとした。
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ。
セイバーが女で、相手も女ならどうやって子どもができるのさ!?」
「それはモルガンの魔術によって……。
正しくは、私の因子によって作られたホムンクルスなのです」
「ホムンクルスって、錬金術の人造人間のことか!?
そ、そんな、ムチャクチャな……」
イリヤが目を見開いた。
「そんな、まさか、そんなことがあるかしら……」
「どうしたのさ、イリヤ」
性を偽り、ホムンクルスを生む魔術。不老不死をもたらす守護の鞘。前者は魔術師マーリンと妖女モルガン・ル・フェイ、後者は湖の貴婦人によってもたらされた。
そして、マーリンは湖の貴婦人の血を引き、彼女の愛人でもある。モルガンもまた、湖の貴婦人のひとりとも語られている。
そして、ドイツには有名な水妖伝説がある。ラインの流れに、船人を惑わす歌を響かすローレライ。愛と引き換えに、世界の支配者となれる黄金を守るラインの乙女たち。
人の考えることに大きな差はないというが、無視できない類似だ。
「……もうちょっと考えさせて。でもね、セイバー。
サーヴァントは英霊のひとかけらをコピーしたものなの」
「はい」
「もしかしたら、並行世界のどこかで、
聖杯で願いを叶えたセイバーがいるのかもしれないわ。
その結果、アーサー王の伝説がその本みたいになった。
シロウ、タイムパラドックスってそういうことでしょ?」
「あ、ああ。うん。イリヤ、説明うまいなぁ」
イリヤは誇らしげに笑って、胸を張った。それに助けられ、士郎は続けた。
「セイバー、俺が言いたかったのはそういうことなんだ。
別のセイバーが願いを叶えて、この世界の過去が変わってることも
ありえるんじゃないか?」
サーヴァントの本体である英霊は、世界の外の座にいまし、サーヴァントの体験を記録として追認できるらしい。しかし、本体を離れたサーヴァントは、複数のコピーがいても他者を認識できない。
並行世界があるなら、聖杯戦争も並行して起こっていることになる。ここと違う経緯を辿ったセイバーの存在を否定できない。凛やイリヤのように強大なマスターに召喚され、聖杯を手にいれ、願いを叶えていても不思議はないのだ。それを踏まえての二人の発言だった。
緑の瞳が大きく見開かれ、白い手がわななきながら濃紺のスカートを握りしめる。白絹のブラウスもかくや、という顔色になった少女は、血を吐くような声で叫んだ。
「そんな、そんなはずはない! 歴史は変わってはいない! 私にはわかる!」
「なんでさ?」
「私はまだ生きている!」