アーチャーに腕を引かれた凛は、一気に階段を駆け降りた。
「ちょ、ちょっと、こんな逃げ方しても追い付かれるだけ……」
二階にある自分の教室まで、先導されるがままに戻ったが、霊体化して建物を突きぬけられるサーヴァントにとって、なんの意味もない。少し息を切らした凛に、アーチャーは頭を振った。
「彼の正体は私の推測どおりのようだ。恐らく追ってはこないさ。
彼は非常に頭が切れる理性的な戦士だ。
私のように簡単に除ける弱者との約束を破り、
重大なハンデを負うような馬鹿はやらないと思うよ」
「あ、あなたっ、な何言ってるのよ」
「私が犬と言ったら怒っただろう。
彼はク・ホリン、いやクー・フーリンと発音した方が有名かな。
光の御子、クランの猛犬、アルスターの赤枝の騎士。
祖国の為に七年間ひとりで戦い抜いた英雄だ」
猫を思わせる翡翠色の瞳が、大きく見開かれてOの字を形作る。
「どうしてわかったのよ」
「彼は、千六百年後も英雄として語り継がれているんだ。
私の国は、専制国家から逃げ出した、奴隷だった人々が築いた国でね。
五十年をかけて、一万光年を逃亡し、新たな居住惑星を見つけたんだ。
そして、建国して五十年後から、滅びるまでの百五十年間敵国と戦い続けた。
宇宙を戦場にしてね。そこを征く戦艦には、神話や伝説の英雄の名前がつけられた。
第三艦隊の旗艦は彼の名前だったんだ。だから、私は知っていたわけさ」
アーチャーは髪をかき混ぜながら苦笑した。凛のほうは、途方もないスケールの話に相槌を打つことも忘れて聞きいった。
「私はいやいや軍人になった落ちこぼれでね。あんまり仕事熱心じゃなかったんだ。
だから、こっそり戦術コンピュータの中の戦史ライブラリを読み漁ってた。
で、旗艦ともなると命名の由来、その神話や伝説などの説明が添付されているんだよ」
「じゃあ、あのランサーの名前は、千六百年後まで伝えられているのね」
「そうだよ。我々の戦争は、侵略する暴虐な専制国家から、
国を守るためのものだという建前だった。
抵抗の象徴たる、ク・ホリンというのはぴったりな名前だろう。
ギリシャ神話系の艦名が多いなか、珍しい響きでもあったんだ。
私は興味を持ってね、彼の伝承はちょっと詳しく調べたのさ」
凛は頷いた。召喚された当初から思ったのだが、このアーチャーはなかなか巧みな語り手だ。彼の話は面白く、わかりやすい。相当に頭がいいのだと再認識する。
「なにが幸いするかわからないものだね。伝説によると彼にはいくつかの
ケルト人は自らに不利な誓いを立て、周囲に公表することにより、神の加護を得るという信仰があったんだ。
これを破ると、加護を失って破滅する。
クー・フーリンの主な誓約は、一つ、目下の者からの夕食の招待を断らない。
二つ、犬を食べないだったと思うよ」
「だからあなた、あんなこと言ったのね。でもそれ、単に意地汚いだけじゃないの?」
凛の感想に、アーチャーは苦笑しながら首を振る。
「いやいや、とんでもない。彼の母は王の妹だよ。つまり彼はアルスター王の甥だ。
彼より目上の者の方が少ない。要するに、どんな相手からの招待も拒めないんだ。
敵からのものでも、それこそもう一つの誓約を破らせようとする相手でもね。
実際、彼の敗北と死の遠因はそれなんだ。でも破ると、重大なペナルティーが科せられる。
会食の準備を頼むよ、凛。犬料理を用意してくれなんて言わないからさ」
凛の口もOの字を描いた。このアーチャー、優しそうに見えてとんでもなく人が悪いんじゃないだろうか。言う事が時折、本人の髪や目よりも真っ黒になる。
「あたりまえよ! 嫌よ、犬料理だなんて。私も絶対に無理!」
「うん、私もだよ。
食べたいメニューじゃないし、できれば同盟、
無理なら不可侵条約を結びたい相手だからね」
凛は安堵の吐息を吐いた。そうすると、疑問が頭をもたげてくる。
「あれが、同盟を結びたい相手なの?」
「四件の事件に無関係で、しかも他のサーヴァントの情報を持っている。
彼の能力をもってすれば、私たちが気がつく前にあの世に送れたのに、
わざわざ戦いの口上を述べたんだ。堂々たる武人らしい好漢だと思うよ」
「だから、集団昏倒と結界は違うっていうわけね。でも吸血鬼の方は?」
「そっちは容姿もキーになる。
君は魔術師だから、彼を見たらサーヴァントだ、対決すべしと考える。
だが、考えてもごらん。夜道を一人で歩いているところに、
あんな怖い外見の青年が現れたら、即座に逃げ出したくはならないのかい?」
「あ、言われてみれば、たしかにそうだわね……」
被害者には女性も含まれていた。危険な香りのする美貌をした、長身の外国人青年。これだけでも警戒に値するが、加えてあの格好だ。脳裏の警鐘が、最大音量で鳴り響くこと間違いない。
「当然、相手に背を向ける。追いつかれて昏倒させられれば、
転んで顔や手足に怪我をする。意識を失って倒れると、顔の怪我は避けられない。
逃げないで抵抗しても、やはり負傷するよ。防御創ってやつだ。
だが、新聞によると首筋の傷しかないそうだ。だからこそ警察は悩んでいるわけさ。
大人一人を昏倒させて、傷一つで済むっていうのが逆に普通じゃないんだよ」
これは、目から鱗の指摘だった。魔術を知らない人間の常識論と、軍人としての人間の動きの限界や、肉体の脆さへの知識。理にかなった推論であった。
「納得したわ。でも、マスターが問題じゃない」
「マスターは自分に似たサーヴァントを召喚するって、君は言っただろう」
凛は、鋭い目つきで非力で冴えないサーヴァントを睨んだ。
「あなたと私のどの辺が似てるか、じっくり話をつけましょうか」
怠け者で、髪はぼさぼさで大人しいふりした毒舌家。似ていると言われるのは心外だ。ミス・パーフェクトとまで言われた自分と、彼のどこに共通点があるというのか。アーチャーはまた髪をかき回して、机に腰掛けた。
「話は最後まで聞いてほしいな。
つまりね、彼に似た性格のマスターなら、冬木の管理者たる君の提案を無碍にはしない。
だが、彼に似ていないマスターならば、ああいう性格の彼とは長続きしない。
私は後者の可能性が高いと思うんだ」
「ええ? 仲が悪いってこと?」
「そう。彼は他の四騎のサーヴァントを知っている」
凛は頷いた。
「つまり、偵察なり、交戦なりをしていると思わないか?
だが、まだ脱落したサーヴァントはいないんだろう」
「だって、七人のサーヴァントが揃わないと戦争が開始しないのよ」
「そんなの建前さ。彼もほかのサーヴァントもとっくに活動を開始しているじゃないか。
新都の集団昏倒と吸血鬼、深山の一家惨殺、この学校の結界。違うかい?」
凛は不承不承に頷いた。たしかに自分は出遅れて、挙句にこんなサーヴァントを呼んでしまった。
「彼は強い。なにしろ、七年間もひとりで戦い抜いたゲリラ戦の名手だからね。
そういう武人が情報の重要性を熟知しているのは当然だが、
こうした一対一の戦いでは、叩きのめすことを優先すべきなんだ」
「え、どうして?」
「端的に言うなら、殺した相手の名前なんて必要ないってことさ」
「うっ……」
軍人の言葉は、魔術師という学究の徒の甘さを思い知らされるものだった。
「先手必勝は戦術的な大原則なんだ。だが、脱落者はいない。
勝てる相手だが撤退をしているとも考えられる。
その作戦の有用性は一部認めるよ。ただ、彼のような戦上手が好むとは思えないな。
伝承におけるクー・フーリンの基本戦術は一撃必殺、即離脱。
それを七年間、何回となく繰り返したんだ」
学者の講義のように鋭い分析が披露され、凛はアーチャーの顔を眺めることしかできなかった。これが並外れた『心眼(真)』と『軍略』の能力なのか。役に立たないとばかり思っていたが、素人歴史愛好家だという本人の趣味との相乗効果は恐るべきものであった。
「この会食は、彼の誓約を利用した謀殺が目的じゃないよ。
相手を量る試金石や、離間を招く
まあこっちは何とかの皮算用だがね。でも、一定の布石にはなるだろう。
食事を奢ってくれた相手に、ご馳走様でした、じゃあ死ねとは言いにくいじゃないか」
しごく穏やかに話を結び、アーチャーはおっとりと微笑んだ。大人しそうな、十八歳ぐらいの文系学生の容貌で。余計に凛は蒼褪めた。なんて悪辣。絶対、こいつは私になんて似てない。
「ま、取りあえずは帰ろうか」
「ちょっと待ってよ、休ませて。疲れちゃったわ」
自分の席の椅子に座りこんでしまった凛に、アーチャーは肩を竦めた。
「君が昨日買って、鞄の中に入れておいたものがあるじゃないか」
「は?」
「タクシーを呼びなさい。
温かい居間で、夕食を食べて、紅茶でも飲んで休んだほうがいいだろう」
「そんなのもったいないわ」
「金で片のつくことなら、つけるべきだ。まだ、残り十二日間も戦いがあるんだからね。
食べられるときに食べ、休める時には休む。でないと生き残れないよ」
彼には珍しい、断固とした口調だった。手抜きは大好き、怠けるのも大好き、サービスと給料はそのためにある!
しかし、彼は、末期を迎えた国の最後の一個艦隊を率いて戦い抜いた。やるときはやるし、体はやわでも心は鋼。そして幾度の戦場を越えて不敗。それがヤン・ウェンリーである。
なんといっても、ヤンだって歩くのは面倒だ。霊体化して壁抜けができても、空が飛べるわけではない。幽霊なら、宙に浮いて飛ぶとか、あちこちに瞬間移動できるとか、そういうことができてもよさそうなのに。
昨晩、色々と試してみた結果だが、つまらないなあ、というのが正直な感想だった。
「それにね、ランサーの尾行に怯えながら家まで歩く気かい。
神秘の秘匿というなら、第三者が入るだけで回避できる戦いだよ。
タクシーの運転手さんとかね。私は霊体化すればいいんだし」
凛は鞄を探ると、携帯を取り出して短縮ボタンを押した。これは昨晩、彼に特訓されたことだ。アーチャー、ヤン・ウェンリーは地味に奇蹟を起こしていた。知る者は誰もいないけれど。
「もしもし、深山の遠坂です。穂群原高校にいるんですけど、タクシーを一台回してください」