「アーチャー? 遠坂と一緒じゃなくてよかったのか」
「単独行動スキルの恩恵だよ。戦うべき敵も、ひとまずいなくなったからね」
魔力温存のために、司令官代行の美丈夫には引っ込んでもらったが、アーチャーは遠坂邸から締め出しを食っていた。
大した理由ではない。衛宮家で療養中だったアーチャーを、遠坂家に帰すことをみんな失念していた。凛の結界は霊体での侵入を拒み、実体になると鍵を貰っていないアーチャーにはどうしようもない。それを忘れて凛は登校してしまい、目を覚ました彼はここで困っていたのである。
「そ、そか……。じゃ、俺と一緒に学校に行こうか?」
「君は、ほんとうに真面目だねえ……。
でも、今日はやめておいたほうがいいと思うよ。色々なことがあったしね」
優しい口調だった。そういえば、士郎は彼と一対一で話をしたことはなかった。アーチャーの隣には、いつも凛がいたからだ。
「うん、そうだな……。慎二の爺さんのことは覚悟してたけど、やっぱちょっとさ。
俺、なんにもできなかったから」
「でも士郎君、君がいたから救われた人がいるんだ。
たとえば君とイリヤくんのおとうさん」
「……違う。俺が助けてもらったんだ」
「でも、彼は魔術以外にも君に色々なものを遺せたよ。
思い出や君への言葉、藤村家の人たち、この家もね。どれも、とても貴重なものだ」
黒い瞳が優しく細められた。
「正直、羨ましく思うよ。私はむろん、五百年生きても遺せなかったものだ」
「アーチャー……」
アーチャーは知っていた。それも当然だろう。彼のサーヴァントが一部始終を見ていたのだから。
「君の存在は、多くの人を繋いでいるんだ。
君がいなくては、桜君や慎二君に手が届かなかっただろう。
イリヤ君たちと協力することもできなかっただろう。
どれも凛だけではできないことさ」
「そうかな……。俺にもっと力があったらいいのに」
士郎は拳を握った。機械いじりをしたり、弓道や剣道をやった手は、やや小柄な身長に似合わず、大きくてしっかりしている。
「力ならあるよ。君の真面目さ、人の役に立ちたいと願う献身、それが培った人望」
「魔術じゃなくて?」
アーチャーは魔術については何も言わなかった。黒い瞳が静かに微笑んだ。限りなく優しいが、底知れぬ悲しさを含んだ笑みだった。
「その魔術が君の友人たちに何をしたかい?」
士郎の目が見開かれて揺らぎ、声もなく口が開閉した。
「そして、衛宮切嗣の娘にも苦しみを与えている」
「イリヤに?」
「亡くなった父を憎み、義理のきょうだいを憎む、その原因となったもの。
当主が高みの見物をして、あんな少女を送り込んで羞じないもの。
第三魔法に対する妄執だよ」
それは聖杯戦争を始め、冬木を危険に晒し、多くの孤児を生んで、再び戦いに駆り立てようとしている。
「凛はきっと、自らの足で目標に至るだろう。
間桐がなくなった今、御三家筆頭のアインツベルンから順当に目的を果たせばいい。
うまくいかなかった場合のために、キャスターやライダーに協力してもらってね」
「うん。でもなんでさ?」
「イリヤ君が、どういう方法で願いを叶える気なのかはわからないからねえ。
多分、そんな方法は取らないと思うが、歴史の改変によるものだと困る」
「へ?」
アーチャーは珍しく眉間に皺を寄せ、独語するように呟いた。
「セイバーが、自分の国を救うというのは、歴史の改変にあたるんだよ。
それが可能なら、アインツベルンも魔法を失伝していないことにできるんだ。
千年前に遡り、第三魔法を保護する。冬木の聖杯戦争自体が起こらなくなる」
「そんなの無理だろ。今だって聖杯戦争やってるじゃないか!」
黒髪が左右に振られた。
「成功するのは第六次でも七次でもいいんだ。
歴史のターニングポイントの改変で第三魔法が存続し、
聖杯戦争は行なわれず、今の我々はその時点で存在しなくなる。
こいつがタイムパラドックス」
穏やかな抑揚の声が告げたのは、一つの世界の滅びの形だった。
「は!? タ、タイムぱらどっくす!?」
「あるいは、そこで新たな世界が分岐する並行世界の誕生かな?
これは凛の研究テーマのようだが、観測できないから意味はないか」
士郎の目が点になった。慎二がアーチャーの知識を不審に思ったわけである。発言が歴史からSFへと飛んだ。
「なあ、アーチャー、昨日慎二も言ってたけどさ、
アーチャー、いや、ウェンリーはいつの時代の人間なのさ」
「私はE式姓だから、ウェンリーが名前だよ。名字ならヤンのほうだ」
「あ、うん。ってイーシキってなんだ!? いやいや、誤魔化されないぞ」
反射的に頷いてから、士郎は意味不明な単語に引っ掛かりかけた。だが疑問符を赤毛から振り落とし、黒髪のサーヴァントを追及する。
「まあ、隠すほどでもないっていうか、言っても意味ないと思うんだ。
正直に言うと、私は未来の異世界の異星人だから」
「な、なにふざけたことを言ってんのさ!」
「あー、やっぱり信じられないよなあ……。
嘘じゃないんだが、かといって、この軍服じゃ証明にならないからなあ」
そのつもりはないのに言葉を重ねると、さらに煙に巻く有様だ。この軍服が実在しないことを証明するには、膨大な資料を必要とする。
「大聖杯がサポートするのは、現代までの知識だからね。
時の輪の外の我々を呼べる術なのに、そっちには限界があるんだ。
ま、仕方ないけどね」
「はい?」
「現在から過去は知ることができる。でも、過去には戻れない」
士郎はとりあえず首を縦に振った、
「現在から未来へは向かうことができる。しかし、未来は窺えない。
これは宇宙を支配する法則だ」
「あ、ああ」
「だが、魔術の話を聞くと、根源というのは世界の外側にあるという。
この宇宙の法則外の極ということかな。
我々英霊は、この宇宙と、根源との間に位置する。
だから時から切り離されている。そういうことでいいのかな?」
士郎の首が動きを止めた。
「ご、ごめん、俺、魔術使いだからさ……。そういう勉強ってやってないんだ」
アーチャーが首を傾げ、困ったような表情で黒髪をかき回ぜる。
「ああ、そんなことを言ってたね。ごめん、忘れてたよ。
この理屈で正しいのかどうかもわからないけど、
生まれてもいない私のコピーを、呼べるのはそういう理由じゃないかと思うのさ」
「生まれてもいないって、アーチャーは死んで……あぁ?」
鸚鵡返しをするうちに、士郎の頭はこんがらがってきた。
「うん、確かに私の人生は終わってる。千六百年ほど先の話だが」
そして、ついに凍結停止した。士郎にはお構いなしに、ヤンは学究的な呟きを発した。
「世界の内と外。
外の我々は並行世界と時間を超えて存在し、内側には複数の並行世界がある。
ここもその一つだから、私の世界とは歴史の経緯が異なるんだ」
士郎の目と口がぽかりと開いた。
「この世界では、東西冷戦が終結している。二大大国は成立していない。
西暦2029年に、そういう形での全面核戦争は起こらないだろう」
今度は上体がふらりと揺れ、畳に手をついて支える。
「え、ええ、えええ。ちょっと待て、待ってくれ……」
「まあでも、
民族や宗教のテロ戦争で核が使われたりするかもしれないから、
世界の滅亡回避はまだ保留だけどね」
暢気な顔をして、恐るべきことを告げる、自称未来の異世界の異星人。士郎は目と口を全開にして、アーチャーの大人しげな顔を凝視した。
「信じる信じないは君の自由だが、私の名はヤン・ウェンリー。
いまから千四百年後に建国し、その二百年後に滅びた旧自由惑星同盟の退役元帥で、
エル・ファシル独立政府革命予備軍の司令官だ。
住所はここから七千光年ほど離れた、オリオン腕とサジタリウス腕をつなぐ、
イゼルローン回廊中央部のイゼルローン要塞」
士郎の脳細胞が、ついに限界を迎えた。理解不能、切断、暗転。慌てふためく名を呼ぶ声を遠くに聞いて、士郎の意識は黒く塗りつぶされていった。
*****
士郎の名を呼ぶ声に駆けつけたセイバーに、ヤンは絞られそうになった。
「何をした!」
「ええと、自己紹介を少々」
「馬鹿な! 己を明かすとは、私を侮っているのか?
私は停戦には応じたが、聖杯を諦めるつもりはない」
金髪を逆立てんばかりの剣幕に、ヤンはそろそろと片手を挙げた。
「あの、私は聖杯はいらないし、君を侮ってもいないよ。
侮るまでもなく、私は君には勝てないし」
「違いねえや」
野次馬のランサーが頷いた。
「令呪もなく宝具を出せば、セイバーが手を下すまでもなく消えるぜ。
出さなきゃ、一撃で死ぬだろうがな」
「後者のほうが明らかに楽だなあ。主にマスターが。
あんまり痛い死に方はしたくないから、時が来たらあなたがたにお願いしますよ」
志の低いことを言い始めるヤンに、ランサーは呆れ顔になった。
「おまえなあ……。俺たちは確かに亡霊だが、誇りのないことを言うなよ。
あの騎士が嘆くぜ」
「いや、私はあなたのように、誇れる生き方をしてませんからねえ」
「そいつを聖杯でどうにかしようとは思わねえのかよ」
セイバーも険しい顔で頷く。ヤンは顔の前で手を振った。
「いやいや、いくら聖杯が、世界の内側で万能といってもねえ。
物理的に無理なんですよ」
「どういう意味だ」
エメラルドが黒曜石にぶつけられたが、堅牢さで勝るほうは小揺るぎもしなかった。
「世界の内側というのが、なにを指すのかが問題でしてね。
いまのところは、人的領域イコール地球だからいいんです。
しかし、私の生きていた時代ですと、人間の住む領域は一万光年に広がってます」
二人の騎士の目と口で、計六個のOの字が書かれた。
「で、私が死んだのは、この地球から光の速さで、七千年余り離れた場所です。
そこに願いを届けるのに、千六百年の時間しかない」
「は、はあ? ちょっと待てよ! じゃあ、てめえは……」
「……まさか、未来から来たと!?」
ヤンは頷いた。
「私の宝具が一応の証明です。ランサーが刃を交えたのは、炭素クリスタルの斧。
今の技術では作れないはずですよ」
蒼い髪の騎士の顎が再び落ちた。
「そして、この世界は、私の世界とは歩んだ歴史が明らかに違う」
「……どうしてそんなことが言える!」
「私の世界だと、あと二十年ほどで全面核戦争が起きるんだ。
北方連合国家と三大陸合衆国という、二つの大きな国の間でね。
でも、そんな国はどこにもなく、これから二十年で建国するとも考えにくい」
セイバーが息を吸い込み、ランサーの喉仏がゆっくりと上下する。ヤンはひょいと肩を竦めた。
「七千光年の距離と千六百年の時間、そして世界の壁。
これをクリアして、願いを叶えるには、聖杯が何個必要になることやら。
叶えられる願いを増やしてくれ、という願いはだいたい却下されますがね」
そして、伸びた士郎に黒い視線を送る。
「といったようなことを言ったら、士郎君はオーバーヒートしてしまったようでして。
未来云々だけでも、誇大妄想狂の発言にしか聞こえないでしょうからね」
眉を下げるヤンに、ランサーも鼻に皺を寄せた。
「俺にもそう思えるぜ」
「このうえ、私の国と敵国は、
百五十年も星空で艦隊戦を繰り広げていると言ったら?」
「アホぬかせ!」
「でも、本当なんですよ。残念なことに」
黒髪の青年が浮かべたのはほろ苦い微笑だった。漆黒が聖緑に向けられる。
「一瞬で一万光年先に言葉を届け、宇宙船は一日で百五十光年の距離を飛び越える。
しかし、不老不死どころか不老長寿、
死後十分以上の死者蘇生も実現していないんだ。
できたら私はここにいないだろうね。
人である以上、生物としての限界は超えられないんだよ、きっと」
セイバーには答えられなかった。人の限界を超えたものの末路は、この深更に見たばかりだった。しかし、あの鞘は違うはずだ。
「私としては、伝説の英雄と語らい、この平和な世界に触れるのが夢なんです。
私は、平和な世界で歴史学者になりたかったんですから」
やや特殊だが、聖杯戦争も戦争だ。戦史研究はヤンの一番の得意教科だった。研究期間が短いのは難点だが、特殊な文化を調べるのは文句なしに面白い。
「ケルトの大英雄と酒を酌み交わし、
ギリシャ神話の大英雄には肩車をしてもらいました。
神話の美女とも、一応の面識ができましたしね」
正直言うと、ギリシャの魔性の美女二人には、あんまり関わりたくないが。
「そして、セイバーは私が理想に描いた女騎士です。
アサシンとは話をしていませんが、会話に困る種類の相手ですから、
これは仕方がないかな。だから、よりよい方法を見つけたら、
自分で退場してもかまわない。マスターたちが、幸福になれる方法を」
黒い瞳がセイバーを見つめた。澄み切っているのに、底の覗けぬような深淵だった。
「だから私は、アインツベルンに助力し、
さっさと聖杯戦争を成功させてもらうのが一番だと考えている。
君の願いを叶えるには、イリヤ君を助けるのが早道ではないかな」
「なぜですか」
「バーサーカー、いやヘラクレスは神の一柱だ。
なのに、ここに来ているということは、
人として果たせなかったことが目的ではないかと思う」
「それは……」
アーチャーはセイバーの素性を知らない。彼が知るのはヘラクレスの悲劇。
「彼は、女神ヘラの差し向けた狂気によって、妻子を手にかけている。
その贖罪が、彼を十二の冒険に向かわせたんだけれどね。
狂気に身を落としても、子どもを守ることができるなら、
最大級の神への意趣返しにならないだろうか。
その点では、彼はライダーと似ているかもしれない」
セイバーの背筋に霜が生じた。バーサーカーの目的など考えてもいなかった。子殺しの贖罪は生前でも足りず、神への反旗を掲げたのだろうか。
「イリヤ君の勝利が彼の願いなら、協力すれば君に譲ってくれるかもしれないよ。
君にとっても、第四次の挽回とならないだろうか。
衛宮切嗣の、アイリスフィール・フォン・アインツベルンの願いに、
娘の幸福が含まれていなかったとは思えない」
「ならば、なぜ、私に何も言わなかったのだ!」
「それは私にはわからないよ。故人にしかわからないことだ」
ヤンは不毛な論争に突入する気はなかった。
「大事なのはこれからじゃないか。
アインツベルンが勝てば、あの子たちは姉弟として暮らせるかもしれない。
聖杯戦争の必要がなくなれば、凛は桜君を助け、それが慎二君をも救うだろう。
第四次の孤児たちが更なる輪を作り、傷を癒していくんだ」
それは、いま一人の死者、遠坂時臣の願いでもあるはずだ。
「これは聖杯がなくてもできることだと思うよ。
マスターが全員、生存していることが条件だがね。
これこそが、私のみっつめの願いだ」
青の騎士ふたりの、心を射抜く一撃だった。彼らとヘラクレスの共通点も子殺しだ。槍の騎士は我が子と知らず、剣の騎士は我が子と認めず、その手に掛けた。
「……なるほどな。そいつは上出来な願いだ。
俺も聖杯に用はねえが、一口乗せてもらおうか」
ランサーにラインを繋いでいるキャスターからも、賛意が伝わってくる。彼女もまた、子を失った母だった。
ヤンは顔を綻ばせ、彼に右手を差し伸べた。
「ありがとうございます」
目を瞠ったランサーも、右手を差し出し握手を交わす。
「だが、またおまえの部下とは戦ってみたいもんだがな」
「努力はしましょう」
「おまえに期待しても無理そうだからな。これは武人の手じゃねえ」
剣を取り、弓を射る者の手ではなかった。男性としても指が細く、掌が薄い。
「で、セイバーはどうする?」
「いえいえ、これは強制ではありませんからね。
彼女はあくまで士郎君の騎士です。
セイバー、君は自分の考えで行動してくれてかまわないよ」
無言のセイバーに、穏和な声がかけられた。
「ただ、ひとつだけお願いしたいのは、
生きている人間を優先してほしいということなんだ」
「ならば、私は……!」
いや、私も生きている! セイバーの口を衝きそうになった叫びだった。それを飲み込み、彼女は理解した。アーチャーが聖杯に目もくれない理由を。彼が考えているのは、マスターである少年少女らのことだった。凛たちに、遺してきた妻や養子、部下と友人、そして恵まれなかった我が子を見ている。
少年少女らの幸せはなんだろう。それに聖杯は必要なのか? 魔術師としてではなく、人生に必要なものは? アーチャーが出した答えは愛情と知識だった。
彼の目標にとっては、聖杯戦争など手段にすぎない。クー・フーリン、ヘラクレス、メドゥーサ、そしてヤン・ウェンリー。聖杯が教え、自身が語った彼らの共通点は、『家族の喪失』。これを軸に、今度はサーヴァントの同盟を作ろうとしている。タイムリミットまでに、聖杯を欲しない者は退場すればいいのだからと。大胆なまでの発想の転換だった。
「私は……」
「君の願いは国を救うことだったね。
とはいえ、ここでは既に過去のことになっているんじゃないかな?」
ヤンの言葉に、美少女がみるみる険相になった。右手に力が篭る。見えざる剣は厄介だ。ヤンは胸の前に手を上げ、セイバーの説得を試みる。
「ああ、その、すまないね。言い方が悪かった。
一種のカンニングだが、君の国のことを調べてみたらどうだろう。
現在がどうなのかも」
「なぜだ!」
「ここは私の知る、自分の世界の過去じゃないんだ。
君の時代から続く未来でもないかもしれない」
セイバーの口がぽっかりと開く。
「凛の研究テーマは、第二魔法『並行世界の運用』。
その魔法使いが聖杯戦争のシステム構築に関わっているそうだ。
世界の外側の英霊へ呼びかけ、コピーであるサーヴァントが内側に降り立つ。
しかし、その世界が、自らの世界と同一とは限らないんじゃないか?」
おっとりとした微笑みさえ浮かべて、黒髪の
「つまり、ここは君が英雄となった世界とは限らないわけさ。
たしかにそのほうが理にかなっているんだよね。
タイムパラドックスの危険を減らせるから」
ずらずらと述べ立てられる、訳のわからない言葉たち。セイバーにはほとんど意味不明だったが、結びの一言ははっきりとわかった。
「だとすると、ここで勝って願っても、骨折り損になるかもしれないよ」