車を出すというイリヤの申し出に、凛は条件をつけて頭を下げた。
「ありがとう。でも、もうちょっと目立たない車を借りてきてくれない?」
施術の予定は午前二時。凛の魔術のベストタイムにあわせて行うつもりだ。そんな深夜にリムジンが走っていたら、やはり注意を引くだろう。
「ええと、白い四角い車がいいのかな?」
「イリヤねえ、どこでそんなの覚えてくるの?
でも、確かにそういうのがいいわね。
みんなが乗れる大きい車にしてくれる?」
一緒に行くと言い張る士郎には、断ろうとして考え直した。大丈夫だとは思うが、万が一キャスターが手出ししたら、対抗できるのはセイバーしかいない。
そして、時計塔と言峰協会に催促の連絡をした。前者はしどろもどろで、後者は留守番電話のメッセージが虚しく響くのみ。
「あの腐れ神父、居留守使ってんのかしら。
ふん、そっちがその気なら、こっちだってやってやるわよ」
なにをやるかと言えば、上への告げ口である。聖堂教会の日本支部の電話番号だって、番号案内が即座に教えてくれる。凛が告げたのは、簡単な一言だった。
「すみません、冬木の遠坂と、ドイツのアインツベルンです。
そちらから派遣されている言峰神父、ぜんぜん働いてくれないんですけど。
ちょっと、上から注意していただけません?
でなければ、ちゃんとした人に替えて下さい。
市民の安全もかかってるんですからね」
それほど効果は期待できないが、打てる釘は打っておかないといけない。日本屈指の霊地を治める遠坂と、第三魔法を追う千年の大家アインツベルンの名を、無視することはできないだろう。
「冬木教会の運営もちゃんとしているのかしら……。
わたしの両親のお墓も、あそこにあるんです。
そちらの教会は、どこの役所が担当してるんですか?」
と、プレッシャーをかけることも忘れない。凛はひとりごちた。
「この前の戦争は、凄い状態だったみたいなのに、なんとか隠し切れてる。
でも、今回は……」
第四次聖杯戦争は、マスターもサーヴァントも化け物揃いだったという。こちらはセイバーの言だが、海棲生物に似た魔獣を召喚するキャスターは、完全に常軌を逸していたそうだ。秘匿もなにもあったものではなく、大勢の子どもを攫い、魔獣の餌にした。
真名はジル・ド・レェ。童話『青髭』のモデルとなった、堕ちたる英雄の成れの果て。最終的には、三騎士と騎兵のマスターらが連携し、討伐にあたる。決戦は未遠川の中洲。そそりたつ塔のような巨大な魔獣が召喚された。
一般人にも少なからず目撃者が出たはずだ。だが、郷土史にそんなオカルトじみた記述はないとアーチャーは言う。ほぼ同時期に起こった、未遠川流域の化学工場薬品漏れ事故がそれだろう。数十人の中毒者は出たが、いずれも軽症というものだ。薬品には幻覚作用があり、魔物を見た者もいたとあった。
「やれやれ、随分おかしな中毒だね。そんな薬品、日本で製造できるのかい?」
と、アーチャーは黒髪をかき回したものだが。つまり、言峰綺礼の父、璃正神父は、監視役兼隠蔽工作係を完璧に務めていたわけだ。
「まったく、それに比べると息子のヤツは……」
ぶつぶつと不平を呟く凛に、穏やかな声がかけられた。
『……凛、その先代と彼は、いつ代替わりをしたのかな』
「アーチャー! だ、大丈夫!? ……あ」
思わず振り向いたが、そこに黒髪の青年はいなかった。非常に明瞭な心話の欠点である。実際の声と同じように聞こえるのだ。
『いや、さっぱりだめだ。長いこと起きているのは無理そうだよ』
「そう……」
『ところで、言峰神父の父上は?』
「亡くなってる。……たしか、お父様の葬儀の時は、あいつが聖句を唱えたわ。
でも、はっきりと覚えてないけど、かなりのおじいちゃんだったような……」
『そうだね……。
人三倍ぐらい頭脳明晰で、意気軒昂でも、急に亡くなる老人はいるからね。
だが、璃正神父の死去した時期はいつなのか。
聖杯戦争と重なるようなら、重大な意味を持っているかもしれない』
「え……?」
『聖杯戦争がもたらした、もう一人の死者、
もう一人の孤児ということにはならないか?』
凛は目を見開いた。親の死が子どもに与える多大な影響は、嫌というほど実感している。それが綺礼にも当てはまるのだとしたら……?
「考えてもみなかったわ。そういえば、すぐに敗退したって言ってたけど、
どのサーヴァントのマスターだったのかしら……?」
確定しているのは、剣士と槍兵、騎乗兵のマスターだ。最後の一人を除いて故人。疑問符つきだが、弓兵のマスターは凛の父時臣だと思われる。こちらも故人。キャスターのマスターは不明だが、話のように無茶な使役をしたら、恐らく生きてはいまい。
残りは二枠。
『ああ、そうさ。言峰神父は、どちらのマスターだったのか。
それを、プロフェッサー・ヴェルヴェットに聞いてほしいんだよ』
「綺礼とセイバーじゃなくて?」
『口ではなんとでも言えるからね。第三者の証言が欲しい。
それに、セイバーと切嗣氏は別行動のうえ、ろくに会話もしていない。
彼の情報は彼女に、彼女の情報は彼に届いていないということだ。
ライダー主従だけが、行動と情報を共にしていた。だから聞きたいんだ』
「今さら、前回のことを聞いてもねえ……」
考えることがどんどん増えていくのに、凛は難色を示した。
『いや、今回も重要かも知れない。人は成功体験を繰り返すものだからね』
「成功、体験?」
ヤンは胸中に抱いた疑念には触れず、目下の困りごとを口にした。
『第四次から生還したというだけで、大したものじゃないか。
参加者ならば、父の見事な対応を見ていたはずだ。
それを思い出して、きちんと監督役の任を果たしてもらわなきゃ』
凛の額に青筋が立った。
「まったく、そうよね!」
『ごめん、そろそろ……ところで凛、シェーンコップから聞いたよ。
私は魔術はまったくわからないが、君の選択を支持する』
「アーチャー、……わたし……」
言いさして、拳を握り締める。
『……凛。私は不確かな聖杯のために戦うことには反対したよ。
しかし矛盾するようだが、戦いを選択すべき時もあると思う。
よく考えて
とにかく、いまは桜君の寄生虫退治を一番に考えるといい。健闘を祈るよ』
なんの健闘なのか。問い返そうとして、口を噤、む。この髪も目も腹の中も黒いサーヴァントは、凛の目論見なんてお見通しなのかもしれない。
「うん。わたしも回復のためにちょっと寝るわ」
衛宮家の離れを貸してもらい、凛は布団に横になった。今夜のために、魔力補給の宝石を三つも飲み込んで。そして、胸元をそっと押さえる。
「お父様とご先祖様、力を貸して」
――『彼』に新しい家族ができた。亜麻色の髪と大地の色の瞳をした、繊細な美少年だった。まだまだ小さく、細っこく、引っ張っているスーツケースの方が大きく見えた。重さは余裕で少年を上回ることだろう。初めてできた、ただいまを言う相手。父と一緒に船で暮らしていた『彼』は、これまで地上に家を持ったことはなかった。
それからは、戦いに行くたびに帰ることばかり考えていた。亜麻色の髪の美少年は戦災孤児で、『彼』が面倒を見ることになったのだから。実際、面倒を見てくれていたのは、少年のほうだったけれど。
あの子を独りにしなくて済むように。せめて、保護者としての期間が終了するまでは。人の欲には限りがない。いつしか、自分が生き延びることではなく、あの子を戦場に出したくないと思うようになった。
三個艦隊を二万隻で各個撃破した、かの天才との対戦。迫り来る敵艦隊は、紡錘形の矢。自ら陣形を開いて通し、右後背に食らいつく。敵も、『彼』の指揮する艦隊の背を追う。星の海に出現する、
そんなものにかかずらっている暇はなかった。一人でも、自軍の生存者を助けなければ。そして『彼』は知る。士官学校の最初の友人を永遠に喪ったことを。
だから探した。これ以上の戦火を止める方法を。虚空に君臨する白銀の女王。彼女を射止めて、講和を結ぶことはできないだろうか――。
*****
日付が変わった一時間半後、凛たちは柳洞寺の山門の前に降り立った。
凛は妹を背負った士郎に頷くと、柳洞寺の階段を登り始めた。先導するのは剣と槍の騎士。背後には白い騎士。鉛色の狂戦士は、主人を左腕に抱き上げて、
セイバーが彼に鋭い視線を向ける。彼は秀でた額に手をやり、目頭を揉んだ。
「今キャスターから連絡を受けた。ここでやるようにとのことだが……」
頭痛を堪えるような表情と口調だった。
「また顔ぶれが増えているな。まったく、なんだね、君たちは。
戦いもせず、いったい何をするつもりかね」
「それには同感だが、貴様に問われる筋合いはない」
「これは失敬。だが、その少女は……?」
銀灰色の目を眇め、門番はさりげなさを装って問いかけた。
「無辜の民を巻き込むのに反対したのは、管理者であったはずだが」
「その管理者が判断し、キャスターの招きで来たんだからいいでしょ。
ねえ、キャスターのサーヴァントのサーヴァントさん」
ずばりと切り込まれた言葉に、彼は溜息を吐き、深紅に鋼の視線を突き刺した。遠坂へ出向中の同僚は、右手を忙しなく振った。
「誤解すんなよ。俺のせいじゃねえぞ。アーチャーの野郎の宝具のせいだ」
なにしろ、今もその一部が顕現している。当の白い騎士は深い響きの声で、マスターのマスターに問い返した。
「さて、閣下のマスター。何を始めるつもりかな?」
「じゃ、士郎、桜を下ろして」
「あ、ああって、ここに!?」
「相手がそう言うなら、仕方がないでしょう」
山門の床に、少女の体が横たえられた。凛は妹の真っ直ぐな髪をそっと撫でた。
「ちょっと冷たいけど、我慢してね、桜。すぐに済ませるから。
ではキャスター、お願いしたいんだけれど」
山門の奥に蟠った闇が、黒いフードに紫のローブの女性に姿を変えた。
「口上は後ほどにさせてもらうわ。私、蟲は大嫌いなのよ」
黒絹に包まれた細い指が、桜の体に触れた。
「……よくもまあ、こんな醜い術を考えたものだこと」
吐き捨てると、彼女はフードを脱ぎ捨てた。蒼銀の清流に縁取られたかのような、清艶な美貌が露わになる。地に落とされたフードは、ふわりと広がって桜の姿を隠した。わずかに覗くのは、手の甲のみ。士郎はキャスターに詰め寄ろうとした。
「な、なにすんのさ!?」
菫色の瞳が士郎を見上げた。
「女ならば、男に見られたくないものだからよ」
反論を許さぬ声であり、表情であった。そしてキャスターは、稲妻のように折れまがった短剣を抜き放った。
「
振り下ろされたのは、桜の手の甲。十二分に手加減をされて、浅い傷を刻んだのみだったが、黒絹に覆われた体が大きく痙攣した。見えるのはそれだけ。しかし、士郎が動揺するには充分すぎた。
「ちょっ……、なにすんだよ! やめてくれ! 桜っ!」
主の命に、セイバーが一歩を踏み出そうとする。白と群青が迅速に動いた。士郎を斧の騎士が、セイバーを槍の騎士が羽交い絞めにする。赤い騎士には、鉛の巨人が顔を向ける。
「静かになさいな、坊や。これは序の口よ」
キャスターは流麗な動作で屈みこむと、フードを拾い上げた。ぐったりとした桜の周りの地面は、かすかに白煙を上げていたが、ほかに目立つ異状はない。
なにも知らない士郎は、大きく息を吐いた。魔術師の少女たちは、逆に息を飲み込んだ。あの布は悲鳴さえ飲み込み、駆除した蟲を焼き滅ぼしたのだろう。桜にはまったく影響を与えずに。
「さあ、小物は取り除いたわ。
後は、管理者のお手並みを拝見といきましょう。
私を門下とする気なら、一門の主に相応しい力を見せてちょうだい」
凛は無言で頷くと、うなじの後ろに手を回し、ペンダントの留め金を外した。
キャスターを背後に庇ったアサシンが、ごくわずかに鉄灰色を揺らがせた。
それは、ようやく宝石店から退院してきた遠坂家の家宝。親指と人差指で作った円ほどもあるルビーのペンダントだ。最上質の鳩の血色で、カットは見事なトリリアント。宝石の枠も鎖も重厚な細工の白金。若い女性というよりも、王侯貴族の装身具というにふさわしい。
しかし、このペンダントの真の価値は、歴代の遠坂の当主が、二百年近くに渡って蓄積してきた魔力にある。
「じゃあ、ランサー、あなたにお願いしたいのは……、
その槍で、確実に臓硯の心臓を貫いて」
士郎は愕然と凛を見詰め、ランサーはむっつりと舌打ちし、セイバーから離れた。
「いいのか? そいつの心臓だけに中るわけじゃねえぞ」
キャスターの魔術により、桜の魔力を横取りして隠蔽していたものが消え失せた。ゆえに、少女の中の異質な魔力は、クー・フーリンの目には明らかだった。
豊かな胸の谷間のやや左寄り、筋肉と骨のさらに奥。眠る少女の心臓の内側にそれがいる。才能豊かな赤い少女に、それがわからぬはずがなかろうに。
ランサーの仄めかしにも、凛は動揺しなかった。
「ええ、そんな無茶言わないわ。ベニスの商人じゃあるまいし」
「仕方ねえな。寝てる娘を刺すなんざ、我が槍の穢れだが……」
言いながらも、彼の手にする深紅の槍は、魔力を収奪しながら脈動する。
「――その心臓、貰い受ける。
ランサーの手を飛び立った赤い槍は、ありえぬ極短の弧を描いて、石床の上の少女の胸に突き立ち絶息させた。絶叫しかけた士郎の口を白い籠手が塞ぎ、低い声が囁く。
「まあ、待て。あの人の教え子なら、勝算のない戦いは絶対にしないさ」
そんなことなど聞けるものか。士郎は、鋼の腕の檻から、遮二無二脱出しようともがいた。セイバーは拳を握って俯いた。もはや、この剣でできることはない。必要なのは、失われた鞘の方だった。
ランサーが槍を抜き取る。一瞬で心臓を貫いたので、存外に出血は少ない。抜かれた槍の穂先に、白っぽいものが蠢いていた。凛は一瞬だけ凄まじい視線を送ったが、桜の傍らにしゃがみ込んだ。
妹の顔は、安らかに眠っているように見えた。
「ごめんね、桜。あんたを殺したのはわたしよ。この罪は一生忘れないわ」
だが、秘密として墓場まで持っていこう。魔術は秘匿、それがルール。この蘇生の魔術も。家宝に蓄積された魔力を、最大限の術として構築すべく、左腕の刻印が煌々と輝きを放つ。心臓にナイフを突き刺すような痛みに耐えながら、遠坂家六代目の魔術師は、槍に貫かれた心臓の治癒を行なった。
ゲイボルグはただの槍ではない。付けた傷は癒えぬという魔槍だ。魔力と桜の心臓を対価に、そっくり新しい臓器に置き換える大魔術が必要だった。立春は過ぎたとはいえ、厳寒期の深更、気温は氷点に近い。しかし凛の頬は紅潮し、額には汗が滲み、頬の曲線を伝って地へと落ちる。
衛宮士郎は、その光景もただただ凝視していた。蒼い槍兵の槍は心臓を穿ち、それを癒したのは赤の少女。時、場所、人を変えて、宝玉が繋ぐ縁だ。
宝玉は、『彼』の命の恩人の証拠。いまここにあるということは、衛宮士郎は槍兵によって死ななかった。凛が引き金となることもなかった。彼と彼女は、かわりに間桐桜を殺したのだ。
そして、蘇らせた。『彼』が招かれたのも道理、ここに円鎖は帰結する。この世界の衛宮士郎に届かなかった手、差し伸べる必要のなかった手だった。
しかし、間桐桜には届いた手。それは桜が最も欲していたものだ。幾多の世界のどこかで、守護者として殺した妹分が――。
『彼』は、鷹の目を伏せた。この視力をもってしても届かず、鍛え上げ、強化した腕でも救えなかった相手でもあった。
顔色を取り戻した桜が、豊かな胸をゆっくりと上下動させ、健やかな寝息を立てはじめる。琥珀と銀灰が凝視する中で。体全体で深呼吸をした凛に差し出されたのは、黒に包まれた繊手だった。凛は無意識にその手をとった。手を握られたキャスターは、ふっと笑みを浮かべた。
「お見事ね。今の世の魔術もそう捨てたものではないわ」
「おだてても、何にも出ないわよ。これは、六代ぶんの大盤振る舞い。
あと五代は無理ね。さあ、桜を家に帰さなきゃ」
スカートの裾とニーハイソックスの埃を払い、士郎を手招く凛に、響きのよい声が掛かった。
「待ちたまえ、忘れ物だ」
赤い騎士が、ルビーのペンダントを差し出していた。
「もう、空っぽなんだけど……」
「そうかね? これは大層美しい。君にしか似合わぬだろうよ」
士郎とランサーが同時に顔を顰めた。
「っかーっ、この気障野郎」
赤毛が頷き、白い兜はそれに首を振った。
「おやおや、坊や、褒め言葉を喜ばん女性はいないぞ。門番殿を見習うべきだ」
「や、無理。聞いてるだけで痒くなる!」
赤と白の騎士らは青い連中を鼻で嗤った。紅白筋肉ダルマに士郎はカチンと来たが、口を開くまえに銀の短髪が振られる。
「寺の参道に、こんな値打ち物が落ちていたら大騒ぎになる。
もっとも、すぐに持ち主は明らかになると思うがね。
それは君たちとしても望ましくはなかろう」
「う……ありがとう」
褐色の手から、白い手に渡る赤い宝玉。互いを包む赤と黒。なんとなく似た外見の二人だと士郎は思った。
「ケッ、お二人さんよー、こんな状況で世界を作ってんじゃねえよ。
こいつをどうすりゃいい!?」
ランサーが柄の悪い口調で、ドスの効いた声を上げた。ゲイボルグの切っ先に貫かれ、なおも蠢く蟲。
「なんてしぶとい……」
「嫌だわ、気持ちの悪いこと」
呻く凛に、キャスターは心底嫌そうに眉をひそめた。艶やかな唇を開き、呪文を唱えようとする。蟲に小さな手が伸ばされた。槍の穂先から、ひょいと蟲を外してしまう。
「お、おい、イリヤ!?」
真紅の瞳が摘み上げた蟲へに向けられた。
【可哀想なゾォルケン。待ちすぎて、変わってしまったのね】
普段の舌足らずなイリヤの発音ではなかった。もっと落ち着いた、流麗な響きの声。
【まるでエオスの恋人のよう。彼は蝉になり、貴方は蟲になった。
でも、彼は悪をなさず、貴方は悪をなした。
貴方が求めた世界の平和は、苦しむ弱者を救うためだったのに。
この少女や、貴方の孫のような人々を】
冒し難い威厳に満ちた眼差し。蟲は身じろぎし、耳障りな鳴き声を立てた。いや、それは声だった。
【ユ……ス……ティーツィ……ア?】
【それを忘れてしまったのなら、もうお眠りなさい。
今ならば、今だけは、私が悼んであげることができる】
それは、蟲、いや間桐臓硯が、二百年前に失ったもの。冬木の霊脈に融けた冬の聖女に他ならなかった。蟲の動きが止まった。
【さようなら】
白い手が強く握り締められた。それが間桐臓硯の最期であった。五百年の果てに何も遺せず、子孫には憎まれ、生あるものには悼まれぬ死。それでも、彼が奪った命には到底足りぬであろうが。
「イ、イリヤ……」
士郎は恐る恐る声を掛けた。銀の睫毛が瞬き、きょとんと見上げる。
「なあに、シロウ?」
「や、その、大丈夫か? そ、その……」
口ごもる義弟に、イリヤは手を開いて見せた。
「これのこと?」
士郎は思わず目をつぶってしまったが、凛の驚きの声に慌てて瞼をこじ開けた。
「あ、あれ?」
小さな掌にあったのは、潰れた蟲ではなく、小さな金属片だった。
「あとでね、シロウ。ここは寒いんだもん」
「そうよ。桜を一度、間桐の家に帰すから、今は時間がない」
朝になったら、士郎が迎えに行くのが筋書きだ。
「そうね。それでは改めて、お礼を言わせていただくわ。
ありがとう、キャスターとランサー。じゃあ、失礼します」
深々と一礼し、階段を降り始めた凛に、キャスターの声が掛かった。
「私の宝具は、魔術の契約を断つものよ。
当然、サーヴァントの契約も含まれているわ」
「じゃあ、ライダーは……」
「今ははぐれサーヴァントということね。急いだ方がよくてよ」
単独行動ができるライダーが、令呪の枷を外されるのは危険だ。メドゥーサは、悪行により名を為した反英雄に近い存在である。何をするかわかったものではない。
「お、ついに戦いか? 俺も混ぜろや」
「あんた、まだついてくる気!? それは最後の手段よ。
メドゥーサも重要なファクターだって、アーチャーが言ってるの。
いい? 勝手に戦ったり、殺したりしちゃ駄目だから」
うきうきとするランサーに凛は釘を刺し、主と同僚の眼差しは、白々と霜が降りるようなものだった。
「嫌だわ、この野蛮人」
「それには私も賛同するな。君の任は遠坂主従の護衛だったはずだろう。
管理者の方針に従いたまえ」
「俺だって、好きでやってんじゃねえよ!」
「ほう。私も少々退屈してきたところでな。言ってくれれば、いつでも代わるぞ」
「それこそ願い下げだぜ」
そう吐き捨てて、青い騎士は背を向け、遠坂凛らの一行を追う黒紫の魔女は山門の内側に姿を消す。残された赤い騎士は、腕組みをし、山門へと凭れかかった。そのまま門に背を擦らせるように力なく座り込み、自嘲の笑いを漏らす。
「はっ、ははは、……なんてことだ。ここは、間違いなく俺の世界ではない」
ここの衛宮士郎は、一人で全てを救う美しい夢を見ていない。かわりに目に映し、手を取り合うのは、救うべき者ではなく仲間たち。飛び越えられぬバーにひたすらに挑むより、円陣を組み、同じ目標に手を伸ばす。正義の味方でもなく、ただ一人の味方でもない。多くを味方にし、互いに支えあい、一人を救う。
衛宮士郎は、遠坂凛の、間桐桜の、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの味方だった。彼女たちも同じことが言えるだろう。
「彼か。そうだな、彼しかいない」
新兵と敗残兵の寄せ集めを、短期間に精鋭の軍となさしめ、幾度の戦場を越えて不敗であった、黒髪の魔術師。彼の率いた軍は、激戦の連戦を重ねても、驚異的な生存率を誇った。その信頼が、困難な状況下においても、最高水準の士気を保ち続け、凄まじい戦果を叩き出すことになるのだ。
それほどの功績を上げたのに、彼は人間の有限性を知り抜いていた。人は、歴史の川を流れる木の葉のようなものだと。だから、大人は子どもを育て、守る責任がある。上官が部下を育てるのも同じ。それが伝わったからこそ、家族や部下は彼を支えた。彼が死した後までも。
彼が希求した平和が当たり前にあるここで、戦いに訴えるなど何事か。ヤン・ウェンリーはそう思ったに違いない。彼が停戦して調査という戦略を立て、智謀を凝らして戦術の限りを尽くしたら、対抗できる者など皇帝ラインハルトしかいないではないか。
そこまで考えて、銀灰色の目が虚ろになり、彼は目元を覆った。
「……駄目だ。誰一人として、あちらとうまくやれるマスターがいないぞ」
いやいや、現実逃避をするな。彼は銀髪をかき回すと、ぶるぶると頭を振った。守護者に至ってしまった自分の元を断ちたい。それが望みだった。しかし、どこをどう考えてもここは違う。自分がキャスターの門番をやっているのも、ヤン・ウェンリーが、遠坂凛のサーヴァントになっているのも。
「なんでさ……。なんで遠坂があの人を呼んでいるのさ……」
聖杯戦争というものの、要は魔術師同士の小競り合い、おままごとだ。それに三ツ星シェフを呼んだようなもの。材料も器具もなく、どうして料理が作れるだろうか。
本来のヤン・ウェンリーは三百万人の軍勢を率い、一戦で数百万人を屠る人間なのだ。サーヴァントとなって、個人的には強化されたが、総力としては著しく弱体化している。『戦闘』では、非力なサーヴァントでしかないだろうが、それでもなお、『戦争』では、このうえなく怖ろしい存在だった。
知らないということは幸いだ。知っていると、エーテル製の胃袋がキリキリしてくる。
「どう考えても、アレ以上の強敵だぞ……」
彼は、肺を空にするような溜息を吐いた。キャスターによる召喚は、ここから離れられない代わりに、強力な加護と魔力を与えてくれた。たとえバーサーカーが攻めてきても、相手が単騎なら退ける自信はある。しかし、ヤン・ウェンリーは何をやるかわかったものではない。
「いや、やらせなければいいのか。
敵にするから怖ろしいのであって、味方にできればこれ以上の相手はいない……」
これでは衛宮士郎と一緒だ。忌々しいが仕方がない。それに興味も出てきた。ヤン・ウェンリーの教えを受けるというのは、大変なことではないだろうか。今度は笑いがこみ上げてくる。
「これは面白くなってきた」
明らかに違う、だから殺しても意味がない。いや、生きて苦労をしたほうがいい。ヤン・ウェンリーの『娘』に振り回されろ。そうすれば、こんな馬鹿にはならないだろう。
「ならば、俺がやるべきなのは……」
もうひとつの未練を晴らすこと。今、ここなら手を伸ばすこともできよう。自分が救えなかった、地獄に落ちても忘れられぬ、懐かしく美しい面影に……。