凛が衛宮邸に帰ってきたのは、それから一時間ほどの後だった。布団の上で寝息を立てている妹に安心し、従者には呆れたが、実体化できるほどには回復したということでもある。イリヤらを交えて打合せをしているところに、士郎とセイバーが帰宅した。
「あら、早かったのね」
「高校入試の準備があるから、もともと二時間の予定だったんだ。
ところで、なんで、石がいきなり貼りついてくるのさ!?」
「ふぉ?」
みかんを頬張っていたランサーが、間抜けな声を上げた。
爽やかな芳香の果実を飲み込むと、顎に手をやり首を捻る。
「いや、俺が聞きてえんだが。ちっちゃい嬢ちゃんの遺言探しさ。
そのルーンは、嬢ちゃんの血に連なる者の魔力に反応するようになってんだよ」
「へ? 俺、隠してなんかないぞ!
それに、この服も荷物も、ちゃんとイリヤたちに見てもらったもんだ」
「じゃあ、坊主。ここに荷物を置いて、素っ裸になれ」
こともなげに言われて、士郎は目を剥いた。ランサーがうんざりと手を振った。
「脱ぐのはここじゃなくていい。野郎の裸なんざ、俺だって見たくもねえ。
その石が貼りつくのがどっちか。それに意味があるのかもしれん」
「うう……。わかった」
どっちみち、制服から着替えるのだからと士郎は自分を納得させた。
風呂場で一式脱ぐと、外で待機していたランサーに声を掛ける。
「今度は体にくっついてきたんだけどさ……」
「なんだと? 坊主、ちょっと見せてみろ」
止める間もあらばこそ、ランサーがずかずかと入り込んできた。
「ちょっと待ってくれーーっ!」
ランサーは、慌てふためく士郎の体を一瞥した。
「魔術刻印たらいうのはないみてぇだが。……なあ、坊主。
聞いたんだが、おまえ、火事の生き残りだったんだってな」
「ああ、そうだけど、それとどういう関係があるのさ! いいから出てってくれよ!」
ランサーは、探索のルーンを刻んだ石を摘むと、風呂場から出ていった。
「おかしい。俺の腕が落ちたとは思えん」
サーヴァントは肉体と技量の最盛期で召喚される。
「なあ、坊主、おまえはいくつだ」
扉越しに掛けた声に、むっつりと応じる声は、まだ少年の高さを残している。
「十七だ」
「じゃあ、おまえの養い親は?」
「……生きてたら三十九、かな……」
「ということは、おまえの実の親でもおかしかないが」
がらりと扉が開き、服を着て、血相を変えた士郎が飛び出してきた。
「違う! それだけは違う! 俺の父さんは……」
黒煙と炎に燻され、薄らいだ記憶。
「よく覚えてないけど、ちゃんといたんだ!
じいさんじゃない、それは間違いない!」
食ってかかる士郎に、ランサーは胸の前に両手を挙げた。
「悪かったよ。余計な世話だった。
俺には、知らぬ間に出来てた息子がいたもんだからよ」
「あ……そか、うん。……ありがと」
クー・フーリンの伝説を思い出す。彼は、ある少年に戦いを挑まれて斃し、息子を失ったことを知るのだ。
「とにかく妙だ。同じセイバーを召喚したこともそうだが、
肌に火傷の痕が一つも残っちゃいねえ。
火の中から助けられ、無傷というのはまずありえん。
特に喉が焼け、胸を病むもんだが、おまえの声にそんな様子はないしな……」
士郎は琥珀の目を見開いた。
「あ、そうだ。すっかり忘れてたけど、アーチャーも似たようなことを言ってた」
「あいつが?」
ランサーは眉間に皺を寄せた。
「俺、バーサーカーに吹っ飛ばされてさ」
深紅の目が皿のようになった。
「は、はぁ!? 殺しちゃうことだったって、手ぇ出してたのかよ!」
「あんまり覚えてないんだけど、グシャって感じの音がしたっけ……」
皿は瞼によって半分に欠け、形のよい額にも縦皺が寄る。
「……坊主、そりゃおかしいだろうがよ。
俺は、手を出す前に仲裁が入ったんだと思ってた。
ただの人間が、あのデカブツにぶん殴られたら、
血とはらわたをぶちまけて、ほれ、昨夜のピザみたいにペタンコになるぜ」
ランサーの具体的な描写に、士郎は顔を顰めて赤毛を抱え込んだ。
「そ、そんな喩えやめてくれ! ピザが食えなくなっちゃうじゃないか……。
ああ、聞いてるだけで痛くなるようなことを言われたっけ」
蒼い髪が頷きを返す。
「そうだろうな。どんな怪我だ」
「ええと、背骨とあばらが折れて、それで肺に穴が開いて、血が溜ってただろうって。
ショックで心臓が止まるか、苦しみぬいて自分の血で溺れ死ぬ。……十五分以内に」
アーチャーの淡々とした説明は、不思議と凄惨さを感じさせなかったが、復唱するとものすごい状態だ。男二人は、強張った顔を見合わせた。
ランサーは数多くの戦いを経験し、数え切れないほどの敵を討ち取った。急所をやるか、やられれば死ぬ。それは百も承知。しかし、医学的な知識は持っていない。
「そういう言い方されると、くるもんがあるな……。さんざっぱらやってきたけどよ」
「応急処置してくれたのはアーチャーだから、嘘はついてないと思う。
でも遠坂は、今までに擬似的な不死になったマスターはいたって言うし」
ランサーは頭を掻き毟った。
「訳がわからん。このゴタゴタした中で、あいつ、よくもやってられたな。
ライダーのマスターの厄介事の前に、ちょいと片付けるつもりが、
謎が深まるばかりじゃねえか」
「遠坂たちにも聞いてみようか……」
士郎の言葉にランサーも頷くしかなかった。
「お、そうだ。あの土蔵のガラクタのことも、ちゃんと教えとけよ」
「へ?」
「師匠なんだろ、管理者の嬢ちゃん。隠すと身の為になんねえぞ」
ランサーの忠告は的中した。ラインから伝わる絶叫で、アーチャーが目を覚ましたほどだ。
『……なんだい、そんなに慌てて……敵襲でもあったのかい?』
心話なのだが、いかにも寝起きといった様子だった。
『ちょ、ちょっとね。士郎の魔術がらみの件よ。いいから寝てなさい』
歴史から魔術を推理するアーチャーでも、こんな異端は考察しようもないと思うから。
『じゃ、お言葉に甘えて……。
ところで凛、あんまり士郎君を怒ったり、責めてはいけないよ。
彼には、知識が決定的に欠けているんだからね』
知識はあっても、模型の車しか持たないのが間桐慎二。本物の車を持っているが、知識が足りないのが衛宮士郎。個としての危険性は、どちらがより高いか。暴走しそうな方に決まっている。
『同い年の美少女に怒られて、それを受け入れられる少年はいないよ。
正論で論破するのではなく、できたことを受容して評価し、
できないことの知識と方法を教えるのが先生の役割だ。
君にはきっとできるさ』
こんなことを言われたら、頭に上がった血も下がろうというものだ。凛は溜息を吐きながら、士郎の弁明を聞き取り、彼の思い込みを正した。
「あのね、士郎。これは投影とはいえない。投影は魔力で作る鏡の像のようなものよ。
こんなふうに、他人にも触れるようにはならないし、すぐに消えるわ」
「そうなのか?」
「そうよ。これはそんなに生易しいものじゃないわ。
魔力ひとつで、無から有を生み出せる。
現実を塗り替える、魔法の一歩手前と言ってもいい。
あんたはこれに特化した魔術師なんでしょうね。
ある意味で、わたしよりずっとすごいわ。経済的にもね」
「は? あ、ああ、そりゃ、遠坂と比べればなあ」
「違うわ。宝石はあくまで触媒、流動する魔力を留めるための入れ物よ。
あれがなければ、世界の修正で消滅してしまう。
魔力そのものは私の血が対価。でもあんたの魔術には、対価も触媒もいらない。
これは驚異的なことよ」
「お、おう、サンキュな」
いつも辛口の師匠の、最大級の賛辞に士郎は赤くなった。
「でも、だからこそ、この魔術は使ってはいけないの」
「な、なんでさ!?」
賛辞から一転の禁止令に、士郎は腰を浮かせた。
「こんなのばれたら封印指定だから」
「ふういん、指定? なんだよ、それ」
凛は目を伏せて、語句の意味を説明した。封印指定とは、魔術師にとっての名誉の終身刑宣告だ。極めて特異な魔術の保持者を、保護するというのが名目。実態は、よくて幽閉されてのモルモット、悪くするとホルマリン漬けの標本。あまりのことに、士郎の顔が青褪めた。
「でなければ、聖堂教会に囲い込まれるか、殺されるわよ」
「な、なんでさ!?」
驚愕する士郎、頷くイリヤ、腑に落ちない表情の二騎士。キリストと同年代のランサーはともかく、セイバーも服装より古い時代の英雄ということか。密かに凛は心にメモした。
「これがガラクタじゃなく、パンでも出してごらんなさい。
キリストの再臨呼ばわりされても不思議じゃないわ。
先に教会が目をつけたなら、洗脳されて連中の道具。
それ以外なら異端として処刑されるってわけ。この魔術を使うのは止めなさい」
「い、いや、食い物とかは出せないよ。
ストーブなんかも、外側だけのがらんどうだし。
そんなすごいもんじゃないと思う」
「あの刃はどうだ?」
胡坐を組みなおしたランサーが、端的な問いを放った。
「あ、うん。俺の投影、一番刃物がうまくできるんだ」
ランサーはがりがりと蒼い髪を掻き毟しり、立ち上がった。
「俺も坊主の師匠に賛成だぜ。俺たちサーヴァントはこの世の理から外れた存在だ。
だから、こういう真似ができる」
その手に魔力が集う。渦を巻いて収束し、真紅の槍の形を結ぶ。膝立ちで身構えかけたセイバーを、ランサーは手で制して続けた。
「だからこそ、マスターは令呪で我らを縛るわけだ。
サーヴァントを信じないということだ。当然だな。
寸鉄を帯びずに招き入れられた席で、いきなり武器を出して振るえる」
狭い室内にも関わらず、ランサーは巧みに槍を一閃させた。穂先が静止したのは、士郎の鼻先だった。士郎の喉が大きく上下動した。
「坊主の魔術は、これと同じだ。いや、もっと悪い。
俺たちは令呪で縛られたサーヴァントだが、おまえは人間だ。
なにも縛るものがない。おまえの心以外はな」
真紅の槍が掻き消えた。
「そんな人間を誰が信用する?
おまえの魔術は、刺客にうってつけの力だぜ。まさしく魔道だぞ」
「あ……」
セイバー主従は言葉が出なかった。不可視のセイバーの剣にも突きつけられた切っ先だったから。
「今の世で刃を持ち出して、何をする気だ?
一週間も過ごせば、さすがに俺でもわかる。
この世は、槍の一棹、剣の一振りで変えられるような易いもんじゃねえ」
凛は目を伏せた。翡翠の瞳は、夕暮れの針葉樹林へと色を変える。はるか古代の人間と、未来の人間が同じようなことを言うとは。
「やっぱり、英雄になる人は似たようなことを言うのね……」
言葉の綾は、男より女のほうが察しがいい。雪の妖精改め、黒い魔術師の使い魔が首を傾げる。
「アーチャーもなにか言ったの?」
「戦争の才能は、一番の非常の才だって。
自分は平和な時代に生まれていたら、二流の学者で終わってた。
この日本でも、平凡な人の中に眠っているかもしれない。
でも、眠ったままのほうが、ずっと幸せなことだとね」
凛も、自分のサーヴァントであるヤン・ウェンリーの戦功をしかとは知らない。彼がすべてを語ってはいないからだ。しかし、いままでの言動からも、彼が非凡な軍人であったことはわかる。
「あいつ、自分の奥さんや里子との出会いは、戦争があったからだって言ってたわ。
自分がきっかけで、奥さんたちは軍人になったって後悔してた。
戦いの中で、強烈な体験をすると、それで人生を決めてしまうこともあるって」
イリヤも士郎も目を皿のようにして、アーチャーのマスターの告白に聞き入った。セイバーは無言だったが、ランサーだけは呆れたように鼻を鳴らした。
「ふん、普通は誇ることじゃねえか。そこまで惚れこまれるとは、戦士の誉れだ」
唐突に響きのよい拍手が上がった。
「すばらしい。是非、貴官からあの頑固者にそう言っていただきたいものですな」
凛の背後に、灰褐色の髪と瞳の美丈夫が実体化していた。
「戦争が大嫌いで、政治の腐敗も大嫌い。
自分が頂点に立てば、両方が一気に片付いたんだが。
国家存亡の危機はなくなり、敵の首領はいなくなり、世界だって手に入ったものを」
セイバーは思わず叫んでいた。
「なぜだ! なぜ、彼はそうしなかった!?」
「我が国のトップに停戦しろと命じられたからだ」
彼の口元には笑みがあったが、目には殺気に似た光があった。
「馬鹿な!」
「ああ、俺もそう思う。無視しろと勧めたんだが、聞きやしなかった。
腐敗し、堕落しきった煽動政治家でも、民意で選ばれたトップだ。
そんな奴でも、国民の多数決で決まった。あの人は票を投じてはいないだろうがな。
だが、国民の一員として、選択の責任を取るべきだ。そういうお人なんだ」
「なんだと……」
「最低の民主共和制でも、最高の専制より勝るというのがあの人の持論だからな」
「良き王が国を治めることの何が悪い!?」
詰問するセイバーに、シェーンコップは真面目に頷いた。
「ほう、貴官もそう思うか。俺もそう思って、あの人に勧めたが断られてな。
それこそ、あの人には独裁者としての才能もあったんだがね。
才能があるのに、やる気がなさすぎるのが問題だな」
否定されるどころか肯定されて、セイバーは二の句が継げない。
「そんな命令は無視するのが正義だと俺は言ったんだが、
なにしろ厄介なひねくれ者だ。
自分に酔うには賢すぎるし、自分を騙せるほどには賢くない。
あれは見ていて歯痒いものだった」
しみじみと首を振る。みんなの顎が落ちた。先日の舌戦のリベンジだろうか、部下にまでえらい言われようだ。
「あちらの皇帝ぐらい、一番になりたがる性格ならよかったんだがな。
正義の対義語は、また別の正義。彼の養子はそう聞かされたそうだ」
「なっ……そんなの正義じゃないだろ! 人を助けるとかが正義だ!」
「そうさ、赤毛の坊や。味方を助けるのは正義だし、司令官の仕事だ。
国民を守るのが給料のうち。そのために味方を死なせ、敵を殺すことになる。
仰ぐ旗が違うだけの、同じ人間をな」
セイバーは顔を強張らせ、ランサーは理解不能といったていで髪を掻き毟って反論する。
「敵は敵だ。さもなくば戦えまい」
灰褐色が再び頷く。
「まったく、貴官らとは意見があうな。だが、あの人の意見は違うんだ。
司令官としての正義は、戦争がなければ不要な仕事だ。
停戦すればそれ以上の戦死者は出ず、降伏であっても平和は平和だろう?」
シェーンコップは、優雅に腕を組み、高い位置から士郎の瞳を覗きこんだ。言葉に出さないその意味。大災害が起きなければ、衛宮切嗣は□□士郎を助けることはなかった。では、なぜ大災害は起こったのか。それがアーチャーが調べようとしていることだ。
第四次聖杯戦争との関連。
いつ、どこで、だれが、なにを、どうしてそうなった?
「あ……」
「小官からは以上です。もうひとつ、こちらは閣下から。
前回を知る者に、情報の催促をするようにと。時計塔の方から先に」
「あっ、忘れてた。時計塔と教会に催促しなきゃ。
でも、綺礼じゃなくて?」
凛の疑問に、シェーンコップは肩を竦めた。映画の一シーンさながら、嫌味なほど様になる姿だった。
「生存が判明している前回のマスターの中で、
今回の戦争に関係ないのは彼だけだからと」
「そうね」
頷く凛に、美丈夫はにやりと笑った。
「もっとも、こいつは言い訳で、実のところは嫌がらせだな。
自分が苦労している最中に、あちらはエジプト旅行。
素人歴史家が嫉妬するのも無理はない。
教会には、停戦の過半数を超えたことは黙っているように。
ただし、催促だけは続けるようにと」
「そっちはどうして?」
「さあて、またぞろ、腹黒いことを考えているんでしょうな」
ランサーの口の中に、昨晩の赤ワインの味が蘇った。同色の瞳を逸し、飲んだ時と同じ表情を作る。琥珀と真紅が同時に瞬きした。
「さて、こんどこそ失礼します」
実に決まった敬礼を残し、彼も虚空に消える。
「あ、そうそう、一家殺人の件だけど」
アーチャーからの宿題を口にする凛に、士郎は勢い込んだ。
「何かわかったのか!?」
「いいえ。あいつの言ってたことを参考に、ちょっと不動産屋に頼んできただけよ」
「この前のドラマだと、ケイサツがタンテイに教えてくれたのに」
イリヤの言葉に凛は苦笑して首を振った。
「無理無理。遠坂も地主で、アパートやマンションを持ってるの。
あんな事件が起こって、うちの物件は大丈夫か、
防犯の改修をしたほうがよくないかって」
「それとどう関係があるのさ?」
凛は右の親指と人差指で丸を作った。
「それにはお金がかかるわけ。家賃を上げることになるの。
防犯には賛成でも、家賃の値上げは簡単に賛成してくれないものよ」
きょとんとするイリヤと、頷く士郎が対照的だ。
「うん、わかるぞ。高いもんな、カメラ付けたり、鍵を替えたりするとさ」
「十年前に連続殺人も起こってるのに、冬木の大災害にかき消されてしまった。
だから、万一に備えたほうがいいと言ってきたわ」
「でもさ、アーチャーが調べろってことは、
あの犯人はサーヴァントかもしれないんだろ?
だったら、あんまり効果がないんじゃないか?
そりゃカメラには映るけど、部屋の中に入ってから実体化できる。
他人の部屋に、監視カメラなんてくっつけられないし」
プライバシーの侵害だと大問題になるだろう。
「どちらかというと、緊急ブザーね。警備員がすぐに来るように」
士郎は目を瞬いた。
「遠坂らしくないぞ。あれがサーヴァントの仕業なら、そんな余裕ないじゃないか」
「ええ、そうよ。子どもやペットのいる家なんて誤作動ばっかりになるわ。
警備会社って、出動された家がお金を払うのよね」
「なんでさ。それじゃ、不動産屋も借りてる人も嫌がるだけだ」
「それが目的だからよ」
腹黒というのは伝染するのか。衛宮士郎とランサーは慄いた。
もうひとりの資産家の令嬢は、それに惑わされずに事実を指摘する。
「家主のリンも損するのに?」
「ええ、だから不動産屋はそんなのやりたがらない。
わたしを説得して、考えを変えさせるのが一番早いわ」
「えー、どうやってぇ?」
「あいつは、情報は横のつながりを断つのが難しいって言ったわ。
不動産屋がまさにそうなのよ」
遠坂家が委託している不動産屋は、もともと家臣筋にあたる家だ。
その点でも、遠坂家の若き当主を無下には扱えない。
「ほかの業者から色々聞いたりして、あの事件の情報が入ってくると思うのよね。
サーヴァントの仕業でないことを除外できるような。
もうちょっと、何かわかるんじゃないかしら」
「ちょっと待てよ。キャスターとライダーの仕業なら、もうカタがついてんだろ?」
不審そうなランサーに凛は答えた。
「あと一つあるのよ。死者が出てる、深山の一家殺人がね」
「あの野郎が皮肉ったあれか」
一家三人が滅多刺しで殺された事件。もっともランサーは、
槍の名手がそんな無様はしないと、あっさりと容疑から除外されたが。
「新聞の報道では、居間で三人が亡くなっているのが発見された。
三人には刀や槍などによると思われる複数の刺し傷があり、死因は出血多量。
これが人間業じゃないって言うのよ」
亡くなったのは、四人家族の両親と小学生の長男の三人。中学生の長女は学習塾に出かけていた。難は逃れたものの、第一発見者は彼女だったという。床のみならず、壁から天井まで血飛沫で塗装された居間に、倒れ伏す両親と弟の。新聞記事からアーチャーが読みとった悲劇だった。
「普通の人間は、両手で違う種類の刃物を持って戦ったりはしない、
一つの部屋で三人を滅多刺しにもできないってね」
「なんでさ?」
「刀は片刃、槍は両刃、それがわかるのは人体を貫通するような深い傷があったから」
息を呑む士郎と裏腹に、二人の騎士はぐいと身を乗り出した。
「……なるほど」
「同じ部屋で連続殺人をするには、一撃必殺の攻撃が必要。
そうでなければ逃げられるから。だったら一種類の武器で足りるわよね?」
違う種類の刃物で滅多刺しという殺害方法と矛盾する。
「でも、大量の出血をしたってことは、即死じゃないってことだって。
誰かが悲鳴ぐらいは上げるんじゃないかって言うのよ」
士郎とイリヤは目を瞬いた。前者が恐る恐る口を開く。
「そ、即死じゃないって、いったい……」
凛はなんともいえない表情になった。
「……心臓が動いているから血が飛び散るんですって。
死んでから刺しても、そんなに血は出ないそうよ」
少年少女の顔から、潮が引くように血の気が失せた。
「なのに上の子が帰ってくるまで、近所の人は気がつかなかったのよ。
家族三人を生きながらに、ほぼ同時に滅多刺しにするなんて、
一人ではできない。けれど、複数犯ならそれだけ痕跡を残すでしょう」
セイバーの顔も蒼白になった。
「……まさか」
凛はあえて明言を避けた。
「時間的にアーチャーとセイバーにはできない。
ランサーとライダーは武器が違う。あ、バーサーカーもね。
そして、あのプライドの高いキャスターが請け負うのなら、
彼女とアサシンもやっていないとね」
ランサーは呆れたように首を振った。
「筋は通るな」
「誰がやったのかはわからない。どうやってやったのかもわからない。
それは、犯人側のことだからよ。
でも、なぜ殺されたかは、被害者を調べればわかるかもしれないでしょ。
この殺人だけは連続の事件じゃないわ。なにか、殺される理由があったのかも」
「サーヴァントにか……」
ランサーの眉宇が曇る。
「多分ね。でも、すぐに尻尾を出すとは思えないわ。
これはライダーのように、魔力で切羽詰った犯行じゃなさそうだもの」
つまり、調査に数日は期間がいるだろうということだ。
セイバーは膝の上でスカートを握りしめた。
「これでは何も変わらない! 聖杯は、聖杯はどうなるのです!」
結ばれた小さな拳は色を失い、小刻みに震えている。
胡座をかき、頬杖も突いたランサーが、ぽつりと問うた。
「セイバーのサーヴァントよ。そういや、おまえの望みは聞いてなかったか。
死んだ後まで、目の色変えて、何を欲する」
「私は国を救いたいのだ!」
「ほぉ、国とはね……。死んだ後まで忠義なことだ」
無言で眉を吊り上げるセイバーに、ランサーはため息を付いた。
「俺たちが現世にいられるのは、あと一週間少々というところだが、
今日明日に聖杯を手に入れなくても、そう変わるとは思えねえがな。
それにしてもおまえら、こんな話ばっかりしてたのか? ついてけねえ……」
この場で唯一の黒髪の主が、華奢な肩を竦めた。
「悪かったわね。はっきり言って、アーチャーのせいなんだけど、
あいつ、細かいことをグダグダ考えるのよ。でも役に立つこともあるわ。
キャスターとの停戦が、こんなふうに転がるなんて思わなかったけど」
「……本当に俺はついてねえ」
「それはお互い様よ。ランサーがフラフラしてるからじゃない。
機動性に長けて、隠密行動も得意、それに必殺の宝具。
実質的にあなたがアサシンよね」
虚を突かれたランサーは、一転して沸騰した。
「言われてみりゃそうじゃねえか! あの野郎、くだらねえ命令をしやがって!」
凛は心中で首を傾げた。コルキスの王女メディアにしろ、光の御子クー・フーリンにしろ、簡単に触媒が用意できるような英雄ではない。おそらく、時計塔から斡旋された二人が彼らのマスター。
ランサーのマスターは、女性のほうではないかとアーチャーは言っていた。『マク』は~の息子を意味する、アイルランドやスコットランド系の姓の接頭語だそうな。郷土の英雄を呼ぶのは頷ける話だ。しかし、ランサーは野郎と言った。彼には彼で複雑な事情があるのかも。それは口に出さず、凛は彼をなだめた。
「でも停戦が成立してたから、キャスターに殺されずに済んだのよ。
よしとしてちょうだい。……あなたも、けっこう楽しんでるでしょ」
翡翠の視線が向かったのは、反対色をしたみかんの皮の山。
「や、食っていいって言われたし!」
慌てたランサーを家主が取りなした。
「ああ、遠慮なく食ってくれ。むしろ助かる。
このまえ、藤ねえが二箱も持ってきたからさ。
食いすぎると肌が黄色くなるって、自分じゃあんまり食わないくせに」
「……サーヴァントもそうなるのかよ?」
「そりゃわかんないけど、一日五個を一週間とかじゃなきゃ平気だよ」
ランサーは、みかん籠に伸ばした手を引っ込め、セイバーに歩み寄りを口にした。
「そうなのか……。でもうめえよな、この果実はよ。
真夏の夕日の色をして、乙女のように甘酸っぱくて薫り高いわな」
詩人の国の大英雄は、詩的な表現でみかんを讃えた。
「冬にこんなもんが食えるなんて、常若の国も及ばねえだろう。
セイバーよ、おまえの国のことは知らんが、俺の国の冬は厳しかった。
女子供や年寄りが、病まず飢えず凍えぬ冬なんざ、夢まぼろしだった」
ランサーは窓の外に視線を転じた。風は穏やかで、空は青く、陽光が降り注ぐ。冬なのに、薫り高い花が咲いている。すべてが彼の故国と逆だった。
「だが、ここじゃ当たり前だ。
もうちっと、楽しむのも悪かないんじゃねえか。なあ?」
無言の少女騎士に、凛は声をかける。
「ねえ、セイバー。これにはちゃんと理由があるのよ。
桜を助けて、ライダーも引き入れて、聖杯の調査に協力してもらう。
もちろん、イリヤとランサーにもね」
赤い瞳の二人が、そろって自分を指さし、口々に一人称を発した。
「複数の魔術師が調べれば、不備があるかどうかわかると思うの。
並行して、士郎とアーチャーと、……慎二が前回の聖杯戦争と災害を調べる。
魔術に不備がなく、災害に無関係ならば、聖杯戦争を再開すればいい。
でも、もし不備があるなら、直さないと使えないわ」
セイバーが躊躇いがちに口を開いた。
「直るものなのですか?」
「それを調べるのがこれからよ。でもね、セイバーとイリヤ。
これだけのメンバーで調べて、駄目なら諦めることも考えたほうがいいと思う」
凛は、アーチャーから柳洞寺で聞いたことを繰り返した。隠れキリシタンだった遠坂の先祖は、生きて神にまみえたいと願って、根源を目指す魔術師となったのではないか。
その彼が、聖杯戦争に喜んで参加したのか。神の御業、死者の復活を冒涜するかのような行為だ。参加することによって、邪魔しようと目論んでははいないだろうか?
「根拠がね、なくもないのよ。間桐の家の霊地を提供したのは遠坂よ」
土地が合わなくて、魔術回路が枯渇する原因となった。子孫は先細りになり、遠坂桜は養女に行った。アーチャーの言っていた、婚姻による家門の乗っ取り。遠坂が先に仕掛けていたとは考えられないか。
「そうしてみると、聖杯の霊脈も怪しくない?」
イリヤは目を見開き、小さな手で口を覆った。
「御三家の中では、うちはどうしても下っ端よ。
二百年前では逆らっても勝てなかった。
だから、騙されたふりして、騙してたのかもしれないわ。」
士郎は、いままで師匠らが教えてくれたことを、自分なりに言葉にしてみる。
「なあ、セイバーたちは聖杯に呼ばれたんだよな。
でもイリヤは聖杯の器の担い手だって言ってるだろ。
聖杯は、二つあるのか?」
「そういうことね。魔術儀式の基盤が大聖杯。魔力の釜が小聖杯というわけ」
「じゃあ、大聖杯への燃料が霊脈で、大聖杯はそれを使って動くってことでいいのか」
黒と銀の絹糸が、こっくりと頷いた。
「よしよし、なかなか賢くなったじゃないの」
「おう、遠坂のおかげだ。サンキュな」
謝意を向けられて、象牙の頬がかすかに赤らんだ。
「じゃ、大聖杯を調べるのはやっぱ大事だ。セイバーも聞き分けてくれ」
「……シロウ。理由を訊いても?」
「大聖杯って、言ってみれば車のエンジンだろ。
ガソリンやエンジンが悪いと、ちゃんと動かないことには変わんないけどさ、
修理の仕方が大違いなんだ」
ガソリンが悪ければ、抜いて新しいものを入れればいいが、給油に六十年かかるなら、今回は無理ということになる。
「でも、綺麗にする方法を誰か知ってるかもしれない。
だから、こっちならまだいいんだけどな」
問題はエンジン自体の故障。
「いろんな故障があるけど、複雑なものだと大変だぞ。
オーバーホールよりも、新車に買い替えたほうが早くて安いこともあるんだ」
士郎は赤毛をかいた。
「でもこれは、世界に一台のクラッシックカーみたいなもんだろ。
無理に動かして、事故ったら元も子もない。
十年前の災害だって、そういうことなのかもしれないじゃないか……」
「シロウ……」
二つの声が同じ名を呼んだ。
「あ、ああ、ゴメンな。急に色々な事が起きたけど、一度に全部片付けるのは無理だ。
間桐からなんとかするってのは、そのままでいこう。
慎二は俺の友達だし、桜は妹分だ。一番先に助けてやりたい」
アーチャーの慎重な行動は、誰かを切り捨てる状況を作らないためだったんじゃないか。士郎はそう思う。できるだけ多くに手を差し伸べることと、救助に順番をつけることは矛盾しない。そして、全部を一人で、いっぺんにやる必要はない。線の細い背中が、それを教えてくれた。
凛は深々と頭を下げた。
「ありがとう、士郎。今夜の計画を教えるわ。
まず、桜をキャスターのところに連れてく。
桜の体も診てもらって、心臓の蟲も始末する」
「じゃあ、桜たちの祖父さんを……」
口ごもる弟子に、師匠はぴしゃりと言い切った。
「ねえ、士郎。アーチャーが法律にこだわるのは、それが人を守るからなのよ。
法を踏み外すと、法によって裁かれる。法に従う人を守るためにね」
「……うん」
「でも、あのジジイは蟲になって、それでさんざん悪事をしてきた。
……時々ある行方不明事件、あれはあいつがやってたの」
「な、なんで、どうしてさ!」
「キャスターが教えてくれたのよ。彼女の望みには害虫はいらないって。
……魔術には対価が必要なの。あんたの『投影』とは違ってね。
五百年生きる術の対価が、蟲に身をかえての人喰いだったのよ!」
士郎は虚しく口を開閉させた。
「いまさら人間様の法律に縋って逃れようなんて、それこそ虫が良すぎるってものよ。
それともあんた、あのジジイにも手を差し伸べるべきだと思う?」
「う……」
「それは正義じゃないとわたしは思うのよ。偽善じゃないかしら」
琥珀の瞳が揺らぎ、しかし言い返せずに俯いた。手を差し伸べるべきは、犠牲者の方だ。しかし、それには遅すぎる。目に見えないもの、手の届かないものはあまりに多い。この世のどこかで、今この瞬間にも罪は起こっているのだ。
養父が聖杯に願いたかったのは、これではないのかと士郎は思った。――誰をも切り捨てなくていい世界を。争いのない、悪のない世界。
そんな士郎に、凛は優しいほどの口調で告げた。
「あんたが悩まなくてもいいわよ。やるのはわたしなんだから。
ランサーに手伝ってもらおうとは思うけど」
「俺に?」
形の良い眉を上げる美青年に、凛は正座して手をついて一礼した。
「ええ、光の御子たるあなたに、伏してお願いします。
わたしの妹を助けて下さい。……その槍にかけて」