「遠坂がライダーを凍らせたときに、桜が令呪を使ったんだ。
放っといて次を捜せばいいのに、判断が甘いんだよ。
でも、僕はしめたと思ったね。だから、対魔力の底上げに反対した。
令呪が残り一個になっちゃうってさ」
間桐臓硯は深謀遠慮の人であって、臨機応変の人ではない。これは、アーチャーことヤン・ウェンリーと似ている。だが、ヤンには非常事態に対応してくれる有能な幕僚が何人もいた。
臓硯には誰もいなかった。長く生き過ぎ、次世代育成を怠った報いだろう。酒浸りの息子、魔術師気取りと魔術師未満の孫は知識に乏しかった。特に魔力を搾取するため、虐待そのものの鍛錬を施していた桜のほうは。
「なにより、遠坂の術を甘く見てたんだな」
「相応に元手がかかってるんだよ」
「知ってるさ。あいつも馬鹿なんだよ。
魔術なんかやめれば、左団扇で暮らせるんだぜ」
「エネルギー補給用のが、五十万もするんだもんなあ……。
俺、知らなかったから、トイレに流しちまったけど」
隣室の凛をやきもきさせながら、男三人の会話は脱線を交えて続く。
「遠坂の魔術を解く方法は三つだ。
一番簡単なのが、令呪による対魔力の底上げ。でもこれは僕が反対した」
「他にはなんだい?」
「二番目は正攻法さ」
水と風の二重属性が、宝石の結晶のように精緻で堅牢に編まれた術に、魔術師として挑戦する。
「ジジイは、姉を貰えばよかったってほざいていたけどさ。
遠坂を養女にしても意味ないぜ。おまえが言うように教育が悪いんだから」
「ははあ……確かに、研究者が実践者である必要もないからね。
君は魔術という学問に向いているのかもね」
「へっ!?」
間抜けな声をあげる士郎の隣で、慎二も唖然とした。
「E=mcの二乗を見つけたアインシュタインが、原爆を作ったわけじゃない」
「……おまえ、いつの時代の人間なんだよ」
慎二はアーチャーを追及した。
「聖杯の加護は、かなり手広く深く現代知識をサポートするけど、
ライダーはそんなこと考えつかないさ。
生前の知識に左右されるんだぞ。
しかもおまえ、光の矢を撃つそうじゃないか」
士郎も頷いたが、アーチャーは気だるそうに首を振った。
「それは、後にさせてもらえないかな。そろそろ時間切れになりそうだし」
「く、じゃあ、簡単に続けるぞ。結局、ジジイには歯が立たなかった。
ライダーの消滅までに、解呪の式を組み立てる時間はなかった。
そんな術が使えるなら、桜にもっとましな魔術が教えられるさ」
令呪を開発した頃の臓硯ならば、とっくに桜を間桐の色に染め替えていただろう。
「それではどうやって?」
「一、二が駄目なら、三番目の力押ししかない。
それもライダーが消えず、遠坂の魔術が薄れるぎりぎりまで待ってだ。
でもアイツに、遠坂の魔力に対抗できるパワーはない。
桜にやらせるしかなかったのさ」
士郎もアーチャーに続いて疑問をぶつけた。
「慎二、ちょっと待ってくれ。じゃあ、桜も魔術師っていうことだよな。
でも俺、桜から魔力を感じたことなんてないぞ」
慎二は唇を歪めた。
「そうさ。蟲をたからせて、ジジイが横取りしてるからな」
兄貴分と姉は息を呑み、アーチャーは溜息を吐いた。
「時臣氏の保護策が、裏目に出てしまったわけだ。
彼としては、娘が君の結婚相手として乞われたと思っただろうからね。
当然、無体はすまいと考えるよ」
「あの爺は、子孫なんかどうでもいいのさ。
もう五百年も生きていて、まだまだ生きる気でいやがる。
聖杯を手に入れて、不老不死になるんだとさ。
はっ、笑っちまうね。ミイラみたいな姿でどんだけ生きる気さ。
……そうはさせるか」
慎二は、目をぎらつかせた。
「ライダーなんか放っとけと言っても、桜は聞きやしない。
じゃあ、僕はおまえがやれって言ってやった。
他にできるヤツはいないしね。爺も仕方なく、蟲を体から出した。
一番の大物は残ってるけど」
士郎とアーチャーは異口同音に疑問を口にした。
「大物?」
「桜の心臓にいる、爺の本体だ。あいつはとっくに人間辞めてる」
隣室の凛は必死で悲鳴を堪えた。でも、そんな日常を妹は十年も続けていたのだ。
「じゃあ、今、その……」
口ごもる士郎に、慎二は肩を竦めた。
「まだいるさ。でも、遠坂の魔術を押し流すために、
桜はフルスロットルで魔力を流した。
で、中途半端に成功したけど、全体としては失敗だったというわけさ」
凍結を解除することに成功したが、魔力を失って消えかけのライダー。桜にはもう魔力を供給する余裕はない。
「遠坂の魔術を押し流した余波に焼かれてジジイは半死半生。
僕も、桜とライダーに血を抜かれたけどね」
「まてよ、慎二の親父さんは!?」
慎二の父には、少ないながらも魔術回路がある。
「桜のヤツ、衛宮に言ってなかったのか?
親父はライダーにびびって、家から逃げ出したんだ。
酒飲んでたから、道でこけて、下まで転げた」
事もなげな口調だが、それは一大事ではないだろうか。
「大丈夫なのかよ。慎二んちの前、急な坂じゃないか。
あれ、下まで百メートルはあるだろ……」
心配そうな士郎に、慎二は肩を竦めた。彼は酒びたりの父を軽蔑していた。なのに魔術回路があるから、自分より優れているというのだ。ではなぜ、修行もせず、養女に屈辱ごと押し付けるのか。同情する気も起きなかった。
「あっちこっちの骨を折って入院中だよ。頭の骨も。
肝臓とすい臓も壊れかけ。はっきり言うと、意識不明の重体さ」
「え、ええーっ!?」
「当然、魔力だの体液だの供給するどころじゃない」
魔術回路のない慎二の体液は、ぐっと魔力が落ちる。となれば、質より量。かなりの血を抜かれて、ふらふらになっていたが、なんとか動けるのは彼だけだった。今朝もどうにか食事の出前の連絡をして、到着を待っているところに、士郎たちが来襲したのだった。
出前だと思って玄関を開けたところ、蒼い影が鳩尾に拳を埋めた。そこからの記憶は慎二にはない。そう言われて士郎は目を泳がせた。視線の先には、黒い瞳が困ったような表情を浮かべている。
「ランサーをどうにかしなくちゃと思ってさ……」
「うん、いや、あれは私のミスだ。
キャスターが尾行してくれたらいいなと思ってたんだけど、
考えてみれば彼女、積極的で情熱的、かつ果断な性格だったよなあ……」
惚れた男のために、国宝を守る竜を眠らせ、追手の足どめに異母弟を切り刻み、海に撒き散らすほどに。生前そこまでしたのに、得られなかった誠実な伴侶と安住の地。手に入るなら、もたもた待ってはいない。おとぎ話で先手を打つのは、いつだって魔女ではないか。しかも、お姫様として幸せになるチャンスなのだから。
「もっと、時間はかかっても穏健な方法を考えていたんだよ。
君たちにはすまないことをした」
黒い頭が下げられる。
「しかし、手早く済むならそれに越したことはない。ではその後はどうなったのかな」
促され、士郎は口を開いた。
*****
慎二を確保したランサーは、ライダーを呼び付けたのだ。
「なんだ、このガキ。死にかけじゃねえか。
出てこいよ、ライダー。マスターを見捨てる気か?」
空気が揺らぎ、紫と黒と白に彩られた。しかし、いかにも存在感が薄い。短剣を構えたところで、剣と槍の騎士と、バーサーカーの敵ではなかった。ランサーは舌打ちした。
「チッ、こっちも消えかけか。あいつら、殺る気でやってやがったな……。
よう、ライダー。おまえの本当のマスターを連れてきな」
ライダーは切れ切れに反論した。
「私の、マスターは、貴方が捕らえていますが」
「ふん、大した忠義だが、ただのガキに貴様ほどの英雄が呼べるものかよ。
いいから連れてきな。悪いようにはしねえよ。俺のマスターのお達しだからな」
ライダーがびくりと肩を揺らした。
「さっさとしねえと、死んじまうぜ」
紫の髪の美女は無言で踵を返すと、優美な肢体を宙に躍らせ、二階の窓に溶け込んだ。士郎は、セーターにジーンズの英霊に詰め寄った。
「ランサー、どういうことなのさ!」
「ま、見てろ」
ランサーは顎をしゃくった。二階の窓が開き、貝紫の影が飛び出す。両腕に、毛布で包んだ少女を抱いて。
「さ、桜……。桜、おい、しっかりしろ!」
彫像のように血の気をなくし、長い睫毛は硬く閉じられている。士郎の声にも反応がない。イリヤが小さな手をかざす。
「やっぱり、サクラがライダーのマスターだったのね。
きっとこれ、リンの攻撃のせいよ。
なんとかするにも、マトウの工房じゃできないわ。
シロウの家まで戻りましょ」
「げっ、この状態で!? イリヤ、ちょ、ちょっと待ってくれ。
完全に人攫いじゃないか!」
まだ朝の九時を回ったばかりだ。通行人が多すぎる。
「もう、シロウのヘッポコ。
秘匿する魔術って、こういうときのためにあるのに。
でも悪いのはキリツグなんだから、わたしがやってあげる」
イリヤは、長身の美男美女サーヴァントに手をかざした。全身に及ぶ巨大な刻印が光を放つ。バーサーカーを除く全員が目を瞠った。
「えいっ!」
それぞれが対魔力を持ち、人間まで抱えているのに、イリヤの術は完璧に作用した。姿を消さぬまま、見えているのに何も不審を感じなくなる。
「さすが、バーサーカーのマスターだな、こりゃ」
「いいから、いそいで。ライダーは別にいいけど、リンの妹が死んじゃう」
蒼い槍兵がぽかんと口を開けた。
「おいおい……。マスター四人がガキで身内かよ。あの野郎が戦う気をなくすわけだ」
そして、人攫いの一団は憚ることなく道路を往来し、衛宮家へと帰りついたのだった。士郎の説明を聞いたアーチャーは、まずは疑問を口にした。
「……その術、セイバーには使えなかったのかな」
「へ?」
「ほら、教会から帰る時に」
「あっ!? ああぁーっ! その手があったのか?
で、でも、セイバーの対魔力じゃ駄目じゃないのかなあ」
慎二は、波打つ髪をかき上げた。
「衛宮はつくづくヘッポコだな。治癒魔術の類いは弾かないぞ」
「へ?」
「冷静に考えろよ。対魔力が邪魔して、マスターがサポートできなきゃ不利だろ。
サーヴァントが大怪我した時に、敵の目の前で悠長に大魔術ができるか?
というより、衛宮、試してもいないのかよ」
夕日色が左右に振られる。間桐慎二は皮肉屋だが、それだけに思考能力に優れていた。
「そういうもんなんだ……」
「さもなきゃ、三騎士なんて持て囃されずに、はずれ扱いになるじゃないか」
琥珀と漆黒が互いを映す。
「イリヤ君も、けっこう人が悪いなあ……」
「うう、教会の時は仕方がないけどさあ」
イリヤにとっては、セイバーを信用する時間が必要だったのだから。
「そうだね。アインツベルンも、遠坂も、間桐も、家族問題が根幹にあるんだ。
歴史上、非常にありふれた戦いの理由ではあるけどね。
史上最高の覇者でさえ、家族を幸せにすることができたかどうか。
いや、違うかな。家族と幸せに生きるのは、世界征服に匹敵する難事業なんだろう。
いっそう聖杯戦争と切り離して考えるべきだよ。
では私はそろそろ失礼するが、君たちはランサーに話を聞くことだ」
「ランサーに? なんでさ」
「彼は、自分のマスターの命令だと言ったそうじゃないか」
今のランサーの主は……。
「キャスターが?」
「なんだよ、それ! あの青い奴は、衛宮のサーヴァントじゃなかったのか!?」
目を見開く少年たちに、薄れながらの言葉が続いた。
「悪いようにしないともね……」
「おい、ちょと待て! 汚いぞ、最後まで説明してけ!」
叫んだ慎二の背後の襖が開いた。
「うっさいわね。桜が起きちゃうじゃない」
「と、遠坂ぁ!?」
仁王立ちしていたのは、あかいあくま、いや真紅の魔女であった。後ろ手で襖を閉めて、慎二につかつかと歩み寄り、襟元を掴んで締め上げる。
「冬木の管理者として、あんたの所業を赦すわけにはいかないわよ。
学校の結界は、被害を出さないうちになんとかできたけど、
吸血鬼事件もライダーの仕業でしょう」
「ぼ、僕を殺す気か!?」
蒼褪めた慎二に、翡翠が凄絶な輝きを放った。
「簡単に楽にしてやるもんですか。あんたには償いをしてもらうわよ。
あのじじいを排除し、桜が間桐を継ぐ。そして、間桐を立てなおしてもらう。
遠坂の魔術の分家としてね!」
「ん、な――」
「でも、それは後のことよ」
凛が脱がずにいたコートから、一冊の本を取りだした。
「か、返せ!」
返答は、胸の中央に叩きこまれた肘打ちだった。悶絶して倒れ伏す友人に士郎は目を白黒させた。師匠の鮮やかな手並みにも今のはなんだか、非常に洗練された動きだ。セイバーには一蹴されたが、必ず殺す技というのは、こういうものなのであろう。
「し、慎二! 遠坂も何を……」
冷や汗まじりの士郎の問いに、凛は鼻を鳴らしたのみだ。
「やっぱりね。令呪の開発者ならではの裏技ってことね」
ページを開くと、桜の花弁を思わせる図形が載っている。
「令呪の委譲。魔術師じゃない慎二が、ライダーを従わせるんだもの。
なにかズルやってるとは思ってたけど、まさか無機物に移すだなんて。
とんでもない術ね」
しかし、それが弱点だ。凛の手が、ページの花びらをなぞる。
「――令呪に告げる。
ライダーよ、三騎士及び狂戦士のマスターを害することを禁ずる!」
ページが光を発し、図形が消失する。
「これで、残りは一個」
うずくまったままの慎二に、凛は屈みこんだ。美しい顔に、底冷えのする笑みを浮かべて。
「ライダーがあんたに牙を剥かない理由はなくなったわ。
桜の慈悲に縋る? まあ、あと一日は起きないでしょうけど」
凛は再び慎二の襟元を締めあげた。
「それとも、遠坂とアインツベルン、衛宮に下る?
ライダーはセイバーたちに見張ってもらってるけど、
隙の一瞬でもあれば、あんたぐらい殺せるものねえ?」
慎二の顔色が、赤黒く変色していく。士郎は必死に凛の手を押しとどめた。
「と、遠坂! 締めすぎだ!」
「ああ、ごめんなさい、間桐くん。これじゃ返事ができないものね。
で、どうするの?」
凛は花が綻ぶような笑顔を見せた。水仙も鈴蘭もトリカブトも、みな美しい花を咲かせる。致死の猛毒を根に蓄えながら。
「はいかイエスで答えなさい。それ以外は必要ない。あんたの命と同様にね」
慎二はがっくりと頭を下げるしかなかった。