33:聖杯探求
「どういうことよ?」
門を潜り、玄関に入ると同時に、凛は実体化したアーチャーを問い詰めた。
「魔女というのは、本質的には女性の味方なんだよ。
彼女たちの原型は、キリスト教に迫害された土着の宗教の癒し手だから。
薬師にして毒使い、産婆にして堕胎医でもある」
癒せる者には癒しを、癒えぬ者に永遠の安息を与える、生死のあわいに立つ女。月と水に象徴される、変容する女神の末裔たちだ。
「だから、心優しい不幸な女性に味方してくれるんだ。
シンデレラにドレスやガラスの靴、馬車を贈ったように。
オーロラ姫の死の呪いを、百年の眠りに軽減したように。
誠意と対価をもって交渉してごらんよ。
君の魔術の師として、大きな実りをくれるかもしれない」
「あんなことした相手なのに、そんなことできると思うわけ?」
「試してみる価値はあると思うよ」
未来の黒髪の魔術師は、現代の黒髪の魔術師に微笑みかける。
「女性の持つ世間の知恵は、それだけで一つの魔法だよ。
今の凛に必要なのは、魔術ではなくそちらの方だと思うんだ」
「魔術でなくてって、なによ、それ」
色をなしかけた凛に、アーチャーはやんわりと微笑んだ。
「家同士は不干渉でも、周囲の人はその限りじゃないってことさ。
桜君が遠坂家の娘だったことは、大人たちは知っているわけだから。
学校にだってちゃんと伝達されてる」
「えっ!?」
凛の吊り気味の目が丸くなり、間桐桜との相似が現れた。
「戸籍に載ってるんだから、行政側には秘密でもなんでもない。
学校が知らないんじゃなくて、事情を配慮して口にしないだけさ。
それが守秘義務ってことだから」
あまりのことに言葉が出てこない。そんな凛に、アーチャーは語り掛ける。
「だから、君たちのお母さんが健在だったなら、
学校の先生や他の子の親から、桜君の様子を聞けただろう。
間桐家が利用する店の人なんかからもね。
桜君が幸せそうでなければ、必ず手を差し伸べたと思うよ」
学校や衣食住は魔術では賄えない。それに関わる人々を通じて、桜を思いやり、助けることができる。高校生が陥りやすい盲点をアーチャーは指摘する。彼の知る白い魔女ならば、必ず取っただろう手段を想像しながら。
「キャスターと交渉したいのは、そのためでもあるんだ。
彼女は、私のことを若いマスター達と変わらぬ容姿をしていると言った。
これが示すことは二つ。一つは彼女は、私より年長の容姿をしているということ」
「もう一つは?」
「彼女のマスターが、君達のように若年ではないということだ。
この日本で、成人と未成年の差は大きい。
聖杯戦争にあたっては、成人の同盟者がいることは必ずプラスになる」
凛はアーチャーを凝視した。
「前回の戦争で、セイバーが活躍できたのは、
成人のマスターの戦略によるところが大きいと思う。
彼らもまた、戦争を予期して、充分に戦いの準備を整えたはずだ」
魔術師殺しと呼ばれた衛宮切嗣ならば、その準備は入念なものだったことだろう。千年の名門のアインツベルンと、六代二百年の遠坂では比べるべくもない。戦闘に特化した者を、婿に迎えるなどという発想も、一子相伝を旨とする魔術師のものではなかった。
「だから、お父様は負けたのね」
アーチャーが繰り返すのは、戦争は事前の準備を尽くした者が勝つということだった。可能な限りの準備を整えたとしても、優劣は発生する。それは強さの差に直結し、戦術で埋めるのは容易なことではないと。
「いいや、それも違う」
アーチャーの黒い瞳は、あくまで静かだった。
「前回の戦いでは、聖杯で望みを叶えた魔術師はいないだろう。
聖杯の取得に関するなら、全員が負けているということになる。
それまでの三回と同様に」
凛は頷くしかなかった。
「この聖杯戦争は、根本から誤っているのではないか。
聖杯は探求するものであって、戦いで奪い合うものではないと私は思う。
魔術師が学究の徒というのなら、なおのことだよ」
学者になりたかった軍人の言葉は、戦おうとする魔術師には重く響いた。
「だから、あなたは探求を選ぶの?」
「二百年も成功しない理由を考えなくては、いつまで経っても成功はない。
ゆで卵をいくら温めたって、ひよこは孵らない。
卵の状態を調べなくてはならないが、割るわけにはいかないだろう」
「それで、キャスターに見てもらうってこと?」
アーチャーはこくりと頷いた。
「それも方法の一つだが、残りの家には頑固な老人がいるんだろう。
若い君が、改善なり廃止なりを訴えても、そんなに簡単には通らないよ。
土地の管理者の遠坂ならば、首をすげ替えても構わないということになりかねない。
桜君にはその権利と資格があるんだ」
凛の背筋を寒風が吹き抜けていく。限りなく冷徹に、そして辛辣に『敵』の思考を読み解く。彼のスキルの軍略や心眼(真)のランクの高さは、そういうことなのだ。
「そのことを忘れてはいけない。
サーヴァントを使えば、完璧なアリバイを用意して殺人ができる。
宝具や魔術なんかなくても、人を殺すのは簡単だ」
棒立ちになった凛に、アーチャーは表情を緩めた。
「だがまあ、聖杯戦争の勝者は一組なのだから、勝てなかったら存続を望むだろう。
やみくもに君を殺すとは考えにくい。年寄りは保守的だからね。
二百年も見切りをつけずにいるぐらいだ。
もっとも、私に人様のことをいう資格はないがね」
しかし最後のほうは、自嘲の笑み交じりだった。凛の胸がチクリと痛んだ。彼は言っていた。百五十年も戦争が続き、誰も平和を知らない世界に生きていたと。
「しかし、君のような少女が、そういう年寄りを納得させるのは難しい。
だが、方法がないわけじゃない。
権威主義者は、往々にしてより高い権威に弱い。
それにはキャスター以上の適任者はいないよ。
私のような門外漢が、好き勝手を言うよりもずっと効果的だ」
「そんなにうまく行くかしら」
「だから複数の方法を考えて、準備をしておくわけだよ。
その手紙だってきっかけになるかもしれない」
「もう戦争どころじゃなくなってきたわね。聖杯は探求するもの、かぁ……」
溜息を吐く凛に、アーチャーは首を振った。
「その探求の果てに、聖杯戦争の解明がなされるとしたらどうだい?
二百年成功しなかった原因を究明し、改良を行い、次代に繋ぐ。
魔術師にとってそれも一つの栄誉じゃないか」
静かな笑みを浮かべた黒い瞳を、凛は凝視した。
「栄誉どころの騒ぎじゃないわ。快挙よ。
時計塔の入学試験どころか、王冠の位階に到達できるぐらいの!」
「戦いや勝利の方法は一つじゃない。
戦争は血を流す政治だが、交渉や政略は血を流さない戦争だ。
そっちのほうがずっと優雅だ。君の家訓にもふさわしいじゃないか」
アーチャー ヤン・ウェンリーは、闘争ではない勝利を求めていたのだ。
「千年前、二千年前の国家の滅亡は、現代には関係ないことが多い。
だがそのころに発見された公式や法則は、今日でも使われている。
魔術は学問なんだろう。学問的な勝利じゃ駄目かい、凛?」
「あなたの時代でも、アインシュタインの公式が使われるように?」
「そうだよ。何百年も昔の国家の興亡は、歴史書に語られるだけだが、
民の嘆きや王の苦悩が、憲法や民主主義を生み出していった。
戦火への反省が、平和の礎となり、双方が現代の日本を形作っている。
こいつは士郎君にも言ったが、過去から現在、未来はつながっているんだ。
過去の聖杯戦争の検証なくして、今回の聖杯戦争をやっても成功しないだろう」
凛は再び頷いた。六十年の間隔は、聖杯戦争への研究や反省、準備の時間でもあった。
今回はたった十年。凛がいかに魔術の才能に恵まれていても、遠坂の魔術を継承するだけで精一杯だった。第四次戦争がどうなったのか、何が起こったのか。父の死の真相すら、調べるには到底間に合わなかった。
「ええ、そうね。ましてやあんたがサーヴァントじゃあ、戦っても勝てないもの」
「そいつを言われると申し訳ないが、そもそもこのシステムが完成しているのどうか。
単に、屋根の雨漏りや扉の建て付けの問題ならまだいいが、
屋根や扉がないんだとしたらどうする?」
「そこからぁ!?」
「だって、一回目と二回目は、戸籍からじゃ参加者の目星もつかないんだよ。
地下室と書斎の文献、時間があるんなら
片っ端から読ませてもらいたいところだけど」
双方の書棚をぎっしりと埋め尽くした、遠坂家歴代当主の文書。父や祖父の遺した物は、いままで魔術の修練のために何度も読み返した。曽祖父以前の文書は、すべて達筆すぎる毛筆で、現代人の凛には解読不能だった。聖杯の加護のあるアーチャーに、解読してもらえるなら願ったり叶ったりだが……。
「わたしだってあんたに頼みたいわよ。でも、そんな時間はないものね……」
遠坂が根源への道を目指してより六代二百年。だが、遠坂家の歴史はさらに古い。平安貴族の流れを汲むという名家なのである。魔道を志す前の先祖の文書も、地下室に保存されている。膨大な量だ。せめて該当者にあたりをつけないと、お手上げというほかなかった。
『太平洋戦争の終戦以前は、家を継ぐのは長男。
次男、三男や娘が優れた魔術師でも当主にはなれない。
かといって、昭和三十年以前の乳幼児死亡率や感染症の脅威を前に、
一人っ子にすべてを託すのは危険すぎる』
社会情勢からのアーチャーの分析で、遠坂家の当主イコール魔術の継承者と言い切れなくなったからだ。
「ほんとに厄介よね……。
第一次と第二次は失敗したらしいから、余計に伝わってないのよ」
「できることからやるとしようか。さあ、キャスターからの返事を読んでみよう」
「ええ……」
浮かぬ顔のマスターに、アーチャーは微笑みかけた。
「それにしても、死んでから歴史研究ができるなんてね。
念願だった、大学に入ったような気分だよ。召喚してくれてありがとう」
普段と異なる笑顔だった。知的好奇心に輝き、喜びに満ち溢れて若々しい。
「じゃあ、感謝しなさい! ちゃんとわたしたちの勝利を掴むのよ」
凛はそう言い放つと、玄関に施錠するためにアーチャーに背を向けた。危ないところで間に合った。本当はえげつない性格のおっさんの癖に反則だ。
今のはちょっと、いやかなり……。
紅潮した頬を隠すためと、キャスター対策に念入りに結界を張り直す。落ち着きなさい、遠坂凛。不毛すぎるから!
まったく気付いた様子のないアーチャーに、安堵が半分、いらだちも半分。優雅にそれを押し隠し、凛は毅然と顎を上げるとアーチャーを伴って居間へと向かうのだった。
そこで二人はキャスターからの手紙を開封し、腕組みして唸り声で合唱をすることになった。魔女の手紙はとんでもない代物だった。
凛の目には美しい筆跡の日本語に、アーチャー ヤン・ウェンリーは読むと、流麗な自由惑星同盟公用語に見える。聖杯の加護は、口語のみならず文章にも及ぶ。
それでもヤンは、現代ドイツ語とほぼ等しい銀河帝国公用語で手紙を書いておいた。ルドルフ・ゴールデンバウムの復古主義が、こんなところで役立とうとは。ヤンは帝国語の発音が苦手だが、読み書きに不自由はない。敵国の本であろうが読み漁る活字中毒のおかげだ。
時代も国もわからぬ相手に出すなら、英語の発展形である同盟公用語よりも、現代ドイツ語のほうがましだろうという心胆であった。
冬木の聖杯は日本の英霊を召喚できない。だが、キャスターは未知の異なる言語に変換される術式を編み出しているのだ。
「未来の言葉にも対応してるなんて……。
聖杯のシステムを解析して、転用してるってことよ。
とんでもない魔術師だわ。
とにかく、わたしと、士郎とイリヤ、あんたの訪問は許可。
でも、セイバーとバーサーカーは、山門から進入禁止。
柳洞寺はもともと天然の結界で、霊体は山門以外からは入れないの。
のこのこ行くのは危険すぎるわ」
「凛、もうひとつおまけがある。消印の時間をみてごらん」
便箋にのみ注意を払っていた凛だが、封筒を見て慄然とした。
「嘘でしょう……。
この時間じゃ、まだライダーと戦闘になってない。
『弓の騎士と主の健闘を讃えて』なんて書けないはずよ!」
「戦いの様子を監視していたとしか思えないだろう。
複数の条件づけで、文章を最適な形に変化させるのかな?
うーん、こいつがまさしく玉虫色の言葉ってやつか。
やれやれ、ほんとに厄介な相手だ」
アーチャーのぼやきに頷くしかない。だが、彼はめげなかった。
「敵に回すにはね。味方か同盟者にできれば非常に心強い。正念場だよ」
「味方にできると思うの?」
「せめて、敵として襲われない程度にはしたいものだね。
明日は士郎君とイリヤ君は朝一で後見人に事情を聞き、午後に部活だったろう。
午前中の予定を早めに切り上げてもらって、私たちとお墓参りに行こう」
「私たちって、まさか……」
「簡単さ。君の大叔父の孫として行動するんだ。
曽祖父の墓参りと、ご先祖の納骨記録である過去帳を見せてもらう。
キャスターに挨拶しながらね。凛、お寺に連絡しておいてくれないか」
凛の目がまた妹似になった。
「え、敵地に乗り込んで調べる気なの?」
「当然だろう。有益なことは何一つわかっていない状態だよ。
聖杯の不具合がいつから発生したのか。
いや、そもそも、きちんと完成をみたシステムだったのか。
その差は大きい。前者ならまだしも、後者だったら大変なことだ」
屋根の雨漏りなのか、屋根がないのか。後者ならば屋根を乗せるだけでは駄目だ。壁を崩し、骨組みから直さなくてはならない。
「だから、設計図に相当するものを見つけたいんだよ。
今回成功するとはちょっと思えないが、現象が発生している今こそ、
目星ぐらいはつけておかないとね。
継続にしろ、改善にしろ、廃止にしろ、いつまでたっても結果が出ないよ」
聖杯戦争の廃止。聖杯に招かれたはずのサーヴァントとも思えない発言である。
「ちょっと待ってよ。廃止するって、あんた……」
「まあ、ちょっと聞いてくれないか? 二百年前の日本は鎖国していた。
二回目は明治。日本の人口は四千万人。この冬木もずっと人家が少なくて、
まだ電気も電灯もない。夜は暗く、牛馬が当たり前にいて、
夜に聖杯戦争をしても問題はなかった。人間が太陽にあわせて生活していたからだ。
だが、今はどうだろう」
人口は明治時代からの百年で、三倍に増加し、平均寿命は三十年以上も延びた。最も劇的な変化は、妊産婦や乳幼児の死亡率の激減である。平和により工業と経済が発展し、牛馬はいなくなり、人工の光で闇は薄れた。
「こんな市街地で、サーヴァントや魔術師が秘密裏に戦争するなんて、
土台無理な話だよ。さらに六十年後の社会なんて、予測もつかないだろう」
凛は怪訝な顔になった。紀元前の神話にも詳しい彼が、千五百年ほど前の事を知らないなんて。ずいぶんと矛盾している。
「アーチャー、あなたは千六百年後の未来から来たんでしょう。
知っているはずよね」
凛の反問に、黒い瞳がゆっくりと瞬いた。
「だがきっと、この世界から、私の世界へはつながってはいない。
君の研究テーマの、平行世界の運用と関係がないこともなさそうだがね」
様々な可能性を挙げる彼には、珍しい断定口調であった。
「どうしてそう言い切れるのよ」
「私の時代につながるのなら、世界はもっと二極化しているはずだ。
ちょっと調べてみたが、東西冷戦の終了の有無で世界が分かれたんだろう」
「あなたの世界は、冷戦が継続してたの?」
アーチャーは、お手上げのポーズを作った。
「恐らくはね。その頃の資料は極めて残存数が少ない。みんな焼けてしまった」
世界中の資料が焼失するとは、尋常ならざる状況ではないか。凛はアーチャーの顔を凝視した。
「私の世界では、西暦2029年に全面核戦争が勃発した。
生き残った人類も、生存をかけて互いにいがみ合った。
核の冬の中で、紛争が一世紀近くも続き、
2129年に
首都はプリンスベーン、当時の世界人口は十億人」
「う、嘘……」
「私の世界の歴史の事実だよ。
現代社会の情勢では、その時そうなるとは思えないが、いずれ戦争は起きる。
今までの人類史上、こんなに長く平和で豊かな時間はないんだ。
君達は、どんな宝石よりも稀有な時代に生きている」
アーチャーの面をよぎったのは、透き通るような微笑だった。
「第三次聖杯戦争は、第二次世界大戦の前夜に開催されたことだろう。
第六次聖杯戦争が、第三次世界大戦の最中でないと、断言できる者はいない。
私にもわからないんだ。異世界人だからね」
「……それでも、あなたは聖杯に願わないの?」
「何をだい?」
底知れぬ黒い瞳が、静かに凛を射抜いた。