凛が電話してからほどなくして、衛宮士郎とイリヤスフィール・フォン・アインツベルン、二人のメイドもやってきて、戦いの痕跡に目を瞠った。
「なんだ、これ? どうしてこんな跡が付いたんだ」
「アーチャーの宝具よ。教室の戸口を壊したのはライダーだけど」
「服が昔っぽくない英霊だったからなあ。ひょっとして銃の跡か?
でもなあ、天井まで傷がついてるぞ。
俺じゃ、あんなところまで板の張り替えはできないし……」
顎に手を当てて思案する士郎に、凛とイリヤは目を丸くした。
「え、修復の魔術は使えないの?
こういう無機物の扱いって基本じゃない。
せっかくスイッチができたんだから、使ってみるいい機会でしょう」
「そうよ、ヘンなの。
シロウのししょーの命令なんだから、魔術でやりなさいってことよ」
「へ? だから俺、解析と強化ぐらいしか使えないんだ」
二人の少女は顔を見合わせた。
「ねえ、衛宮切嗣さんのお嬢さん。あなたのお父さん、どんな魔術師なのよ?」
「だからわたし、よくしらないもの。
リンこそシロウのししょーでしょ。いまから教えればいいじゃない」
「冗談。呪刻の処置とアーチャーのせいでそんな余力ないわ。
だから士郎を呼んだのに、あてが外れちゃったなぁ。
機械いじりは得意だって聞いてたけど、この穴はそういうわけにはいかないし」
「いや、その、故障したとこを調べるのには解析の魔術を使ってたんだけどさ……」
士郎は頭を掻いた。
「これは解析はいらないけど、こんなにあちこちの壁や天井の張り替えなんて無理だ」
凛は溜息をついた。
「あんたね、その解析の度に命がけで魔術回路を生成してたわけ?
それで、あんなにあれこれ修理してたの? 馬鹿じゃないの」
「な、馬鹿ってなんだよ、遠坂!」
「リン、シロウを愚弄するとは、聞き捨てなりません!」
金髪のメイドが眉を逆立てる。凛は、弟子の従者に取り合わなかった。
「セイバーは黙っててちょうだい。これは魔術師としての問題だから」
彼女の前の主にこそ言ってやりたいが、いない相手にぶつけても仕方がない。魔術師は血を流し、死を許容するものとはいえ、限度がある。士郎には、みっちりと危険を教えていかなくてはならなかった。
「……ねえ、士郎、あんたの命は、おとうさんに助けてもらったものよね」
「あ、ああ」
「それを古いエアコンやストーブと、引き替えにしていいのかって訊いているのよ。
失敗したら死んでいたって、わたしが昨日言った意味わかってるのかしら。
あんたが修理中に変死していたら、どうなったと思うの?
本当に誰かの役に立つのか、よく考えてみなさい」
士郎は琥珀の目を見開き、師である黒髪の美少女を凝視した。言葉もない少年に、凛は頭を振った。
「出来ないなら、この修理はやめにしましょ。
教会に停戦勧告をせっつきながら、直させるようにするから。
それがあいつの役割なんだしね。
これまでサボってた分、こき使ってやるんだから」
今度は後見人に電話をし、用件を一方的に伝えると通話を切る。
「じゃあ、帰りましょうか。もう、本当に燃費が悪いんだから」
「って、勝ったのか、遠坂?」
士郎の前にあかいあくまが出現した。
「ふーん、士郎。
あんた、アーチャーが負けて、わたしが平然としてるような人間に見えるんだ?」
物凄い重圧がへっぽこ見習いを直撃。士郎はシンクタイム0の弁解を余儀なくされる。
「え、や、そんなことない、そんなことないぞ!
だって、姿が見えないからさ、その、てっきり……」
そして微妙に墓穴を掘ったが、凛は鼻を鳴らして否定するだけでにしてやった。そこらの学生みたいなアーチャーが、戦って勝つとは確かに思えないだろう。
「あいつの言葉を借りるなら、負けてはいないってこと。
わたしも、アーチャーがあんなにやるなんて意外だったけど。
こっちはわたしの魔力と預金残高以外はノーダメージよ」
「やっぱりね」
イリヤの言葉に、士郎とセイバーは首を捻った。
「どうしてですか、イリヤスフィール……様」
セラの鋭い一瞥に、セイバーはびくりとして敬称を付け加える。今のセイバーの社会的な肩書は、アインツベルンの使用人。何かの折にボロを出さないように特訓中だ。
「アーチャーはとっても賢いからよ。
勝てない戦いはしないっていっていたけれど、
勝てる戦いならするってことじゃないの? ねえ、リン」
「そういうことらしいわね。
生前は負けたことがないから『不敗』とも呼ばれていたそうよ。
でも一撃食らわせたのは、わたしのほうよ。だから大損だわ」
『命あっての物種だろう』
被服室に置いてあった鞄を手にすると、凛は肩を竦めた。
「アーチャーからの伝言。
秘匿する戦いなら、公開する状況にすれば避けられる。
サーヴァントの出現を防ぐには、衆目こそが最強の味方。
ちょうど部活の子の下校時間だから、一緒に帰れですって」
渋面になる凛だった。この濃い面子に混ざりたくなかったのだが、いたしかたない。
凛の新たな下校仲間は、次から次に明かされるアーチャーの波乱万丈の人生に、呆然とするしかなかった。
「何者なのさ、アイツ……」
士郎が思わず漏らした呟きは、セイバーとイリヤたちにも共通する疑問だった。それは、穂群原高校の生徒たちが、金銀の髪の美少女と美女にも送る言葉だったが。今日も肩身の狭い衛宮士郎と、それに加わった遠坂凛である。姿を消してるアーチャーが羨ましい。
「でもさ、遠坂。うまいことアイツに逃げられてないか……」
「アーチャーをここで現界させて、なんて説明するのよ。
三日前に初めて知った亡き大叔父の孫が、イリヤたちと知り合いだとでも?
不自然すぎるわ。却下よ、却下」
「は? じゃあ、一年が見掛けたって美綴が言ってた、
遠坂のイケメンな彼氏って、もしかしてアーチャーか!?」
強烈な翡翠のビームが放たれた。
「なんですって!? なんでそんなことになってるのよ……。
わたし、親戚だって綾子に言っておいたんだけど」
右手の通学鞄の取っ手から不吉な軋みが上がり、逆の握りこぶしがぶるぶると震えている。士郎はびくりとした。
「えーっと、ホラ、遠坂とアーチャーは仲がいいし、
アイツ背も結構高いし、優しそうで頭よさそうだろ。
顔もよく見ればちょっとハンサムだし……」
そこまで言った士郎は気付く。あれ、お似合いじゃないか。
ランサーのように飛び抜けた美丈夫ではないが、なにげにハイスペックな物件である。同年代ではなく、父親的な立ち位置にいるから認識しにくいが、穂群原にいたら、知る人ぞ知る感じの人気がありそうだ。少なくとも得意教科はトップクラスだろうし、軍事訓練についていけるなら、学校の体育が全然ダメということもないだろう。部活は郷土史研究部とかだろうけど。
だが当人に言わせると、背もとりたてて高くはないし、体格が貧弱で実技は苦手、一向にもてなかったそうだ。どんだけ男に厳しいのか。それが戦時国家ってことだろうか。
平和の尊さを、士郎はまざまざと実感した。日本だって、ほんの六十年前はそうじゃなかった。昨晩のアーチャーの講義に色々と考えてしまうが、今すぐ必要なのは自らの安全と平和であった。
「ええと、そうじゃなくて、遠坂の隣にいても
不自然じゃないってことじゃないのかな!
……俺だったら緊張して、とても彼氏には見られないと思う」
というか、今もとても緊張してます。ああ、そんなに怒気を放たないでください。士郎は必死の思いで、凛をなだめにかかった。
「いいなあ、リンは。バーサーカーと、街を歩いたりできないもの」
「……そういう問題でしょうか、お嬢様」
「だから、そんなんじゃないのよ。
昨夜の作戦会議の戸籍とか資料、一昨日にあいつの指示で集めたんだもの。
ぽんと、どっかから出てきたわけじゃないのよ。
戸籍は12,450円、住宅地図は18,900円もしたんだから。
わかる? 元手が掛かってんのよ!」
「すげ……。それだけの元手であれだけ考え付くのか」
「それで給料もらってたってのが口癖だもの」
セイバーは顔を覆って、時代が異なることへの嘆きを発した。
「な、なんと……あれほどの軍師を金のみで臣下にできるとは……。
その王にとって、どれほどの幸運か!」
「アーチャーは心にジンマシンが出るような奴だって言ってたけどなあ……。
そうだ、軍人は国家公務員とも言ってたよな。
公民の授業で言ってたけど、公務員は全体の奉仕者だってさ。
セイバー、アーチャーのご主人は王様じゃなくて国民だ」
「う、士郎、アーチャーから『よくできました』ですって。
綾子め、後で覚えてなさいよ。でも、あいつの変装、一応は成功しているのね」
アーチャーが、脳裏に語りかけてきた。
『凛、新たなる問題の発生だ』
「今度は何よ」
『私の容貌はライダーのマスター、間桐慎二が知っている。
君の大叔父の孫の容貌は、彼の友人や後輩が知っている。
両者の情報を統合したら、いずれ気付かれる。なんとかしなくてはならないよ』
凛は項垂れると深く溜息を吐いた。
「……もう、勘弁してよ」
このまま、坂を登れば2分で遠坂邸という交差点。ここから衛宮邸までは、10分も歩かないといけない。魔力の消費でクタクタなのに。
「どうしたんだよ、遠坂」
『それでも、まだ我々は勝っていない】
静かな思念が凛の心に響く。
「ライダーのマスターの対策会議が必要になったわ」
「なんでさ」
「ライダーのマスターが、アーチャーの推理の人物だったからよ」
琥珀が真ん丸に見開かれ、ついでに口まで同じ形になった。
「ウソだろ……」
凛は眼差しを鋭くし、顎の角度を上向きにした。
「そうとなったら、さっさとやっちゃいましょう。
今夜はわたし、自分のベッドで寝たいのよ。魔力の回復のためにね。
イリヤにセイバーも参加して。特にイリヤ、あなたは士郎の身内よ。
よく知らないからこそ、狙われる可能性が高いって、アーチャーが言ってるわ」
「わたしのバーサーカーには敵わないと思うけど」
凛はアーチャーの言葉をドイツ語で伝えた。
【だからこそ問題なんだ。
凛の妹の義兄、士郎君の友人をイリヤ君が手に掛けたら、
切嗣氏の過去を二人で探すどころではなくなる。
一方、彼にはイリヤ君に何の遠慮もない。
サーヴァントが手強いなら、君自身を狙ってくる。
ライダーだけを排除し、彼が報復できなくなる手段が必要になる】
雪の妖精は頬をふくらませた。
「もう、面倒くさーい」
またもアーチャーからの忠告が凛を経由してもたらされる。
【それ以上に、君のバーサーカーではライダーだけ排除するのが難しいだろう。
もし、彼女のマスターがそばにいたら、彼まで巻き込んでしまう】
「……彼女? ライダーも女のサーヴァントなの?」
「そうなのよ。アーチャーに、そういう報告をまとめてさせないと。
私がやるのかいですって!?
当たり前でしょう、そのほうがわたしが楽じゃない。
は? うっさい、超過勤務なのはわたしも同じよ!
報告しないなら、ベッドも枕も紅茶もナシよ。そう、素直でよろしい」
虚空を睨んで叱咤する凛は、危ない人にしか見えなかった。この豪華で異色の取り合わせが一種の結界となって、他の下校する生徒を寄せ付けなかったのは幸いといえよう。
「なあ、セイバー」
「なんですか、シロウ」
「霊体化できるのも、いいことばっかりじゃないよな。
セイバーが実体化しててさ、顔を見ながら話ができるのはいいことだと思う。
俺のせいで不便で悪いんだけどさ、姿が見えなければ見えないで、
アレだもんなあ……」
琥珀色の目が、ちらりと凛に視線を流し、瞑目して溜息を吐いた。わかっちゃいても見てて痛い。憧れの崩壊を嘆くのは、黒髪の青年だけではないのだ。
「……シロウに感謝を」
語るべきだろうか。自分の真名を。同じ衛宮の名を持っていても、この少年は先のマスターではない。
セイバーに芽生えた心の揺らぎだった。