26:万能の釜
『う……うわぁ……』
凛の脳裏にアーチャーの呻きが伝わる。サーヴァントの出現に驚愕したわけではない。士郎の断りも、凛の挑発も、彼がアレンジしている以上、それ自体は想定内であった。
現れたライダーは、長身で女性美の極致のような肢体の持ち主だった。一点のしみも傷もない、乳白色の肌。ほっそりと長い首は、華奢ながらも優美なまろみを帯びた肩へと続く。くっきりとした鎖骨のくぼみの下には、双つのたわわな果実が実る。半面、細くくびれた腰から足へと続く曲線は、小さな円周に反比例する高さをもつ。そこから連なる手足も、長さといい、細さと滑らかさを兼ね備えた肉付きといい、男ならば魅了され、女ならば羨望することだろう。
彼女の体を縁取るのは、膝を超え踝あたりまである、紫水晶を紡いだような美しい髪。卵形の輪郭におさまった彫像のような眉目は、半ば隠されているが、絶世の美貌と表現しても不足なほどだ。彼女の容貌に、ケチをつけられる人間などいないだろう。
問題があるのは、体形を克明に描写できるような服装である。万事に鈍感なアーチャー ヤン・ウェンリーでさえ、動揺するような代物だった。
黒と紫のベアトップのワンピースは、素肌に貼りつくようなデザインで、上下とも実に際どい位置までしか布地がない。その露出を埋め合わせるかのように、腿までのブーツと、上腕まであるレザーグローブを身に着けている。色はいずれも黒。双方に紫のベルトがあしらわれ、首にも紫のチョーカー。そして顔を半ば隠しているのが、仮面のような紫の眼帯。
『未成年の前では、口に出せない職業の人にしか見えない……』
口に出されなくても、彼の思考が駄々漏れの凛はどうすればいいというのだ。
『アーチャーには完全に同意だけど、仕事着ならある意味マシじゃない?
本人の服の趣味がコレなら、超美人なだけに痛すぎるわ。
痴女よ、痴女』
凛の内心を読み取ったのか否か、うちひしがれた様子のアーチャーが実体化した。
「……ひどい、あんまりだ。私の夢を返してくれ。
全っ然、召喚に応じた意味がないよ。凛、もう帰ってもいいかい?」
「馬鹿言わないで。どこに帰る気よ? 『座』とか言ったら殴ッ血KILLわよ」
図星だったらしく、アーチャーは口を噤んだまま、実に嫌そうな表情で間桐の主従に向き直った。だが、どちらとも目を合せようとしない。
「は、どうしたんだよ、遠坂。ずいぶんしょぼいヤツじゃないか」
黒い瞳が、ライダーのマスターに恨みがましい視線を向けた。
「あなたね、そんなにショックを受けることないじゃない。
召喚者のイメージに左右されるのかもって、推理してたんでしょ。
間桐くんらしいじゃないの。……この変態。最っ低!」
凛の口調に電撃が加わり、騎乗兵の主従を打ち据えた。次いで視線の風刃が、少年の心を切り刻む。腐ったゴミを見る目だった。
「なっ……僕が変態だって……!?」
無言のライダーは、眼帯の下で涙ぐんだ。岩塊を頭上に落とされた気分だ。
「それ以外の何だって言うのよ! どこの英雄がそんな格好してるのよ!?」
「えーと、マスター。ランサーが、ほら」
「あっ……そうね。うっかりしてたわ。彼の方がまともだもの」
まったく、さっぱり、ちっとも慰めにならないフォローと、同性からの厳しい査定は、ライダーをいたく傷つけた。
あれよりはマシだと思っていたのに!
「いずれにせよ、遠坂とアインツベルン、衛宮の三家は停戦を選択したわ。
あんたの選択肢は二つよ。私たちに同意するか、残りの陣営をまとめて
戦争の継続を教会に訴え出るか」
「ちょ、本当だったのかっ? 衛宮の言ってたことは」
「そうよ。士郎の言葉は遠坂の言葉と同じ。
今からでも我々に与するならばよし。敵対し、向かってくるなら叩き潰すわ。
停戦を呼びかけたけれど、防戦をしないとは言っていないわよ。
わたしたちに喧嘩を売る気なら、覚悟することね」
小気味よい啖呵のマスターの隣、黒髪のサーヴァントは表情を曇らせたままだ。
「よく考えるといいわ。わたしだって間桐の長男を殺したくはないもの」
「そんな弱っちいヤツに、ライダーが倒せるもんか」
この言葉に、ようやく凛のサーヴァントが口を開いた。
「君自身を倒すのと、彼女を倒すのはイコールではない。
サーヴァントの力はマスターの力ではない。
私のマスターの言うとおり、よく考えることだ。
私はテロリストとは取引するつもりはない。司法取引も望ましくはないがね」
慎二とさほど違わぬ年齢に不似合いな、すべてを見通すような漆黒の瞳だった。
「君ははじまりの御三家の一員だ。
聖杯戦争を継続したいなら、我々以外の陣営に呼びかけをしたまえ。
あと二日以内にね。不可能なら停戦になる。
よく考え、ただし早急に判断することだ。
じゃあ、凛、失礼しようか。授業が始まるよ」
「そうね。そんなに休んでもいられないもの。お先にね、間桐くん」
颯爽と長い髪を靡かせて屋上出入口に向かう凛の背後を、実体化したままの青年が警護する。少女がドアを閉めると同時に、姿を消した。歯噛みをする間桐慎二に、ライダーは眼帯の下から冷たい視線を送る。
「畜生、衛宮に遠坂、僕をバカにしやがって……!」
「シンジ、停戦に応じたほうがいいでしょう」
「黙れ! オマエの意見なんか聞いてない!」
あの黒髪の主従となんという差だろうか。自分の真のマスターは、青年の主にも劣らぬ資質の持ち主で、同じぐらいに愛らしく美しいのに。
――やはり、この姉様たちのおさがりは、私のような大女には似合わないのですね……。
また目元に熱いものが込み上げてきた。
「……そうですか」
一言呟くと彼女も霊体と化す。
だが、アーチャーの仕掛けた罠はこれで終わりではなかった。放課後になって、衛宮士郎の言う『親父の隠し子』が、付き添いを伴って乗り込んできたのだった。
目に見える者として、金銀の髪をした美しいメイドがふたり。そして、目には見えぬ鉛色の巨人を連れて。
呼び出された衛宮士郎は、藤村教諭と共に校長や教頭の前で、冷や汗をかきながら養父のことを告白することになった。
必然的に、呪刻の調査を行うのは凛とアーチャーになる。アーチャーが作成した予想図は、実際の呪刻の位置とほぼ一致していた。これにより、非常に効率的にチェックと妨害が進んでいった。
今日も、昏倒事件や通り魔事件のため、部活動は五時までに短縮。その間には人がいなくなる、特別教室周りを中心に回る。
「ちょっとぉ、いつまで不景気な顔をしてるのよ」
「いや、あのライダーの恰好はたしかに衝撃的だったよ。
だがあれで吸血鬼事件の犯人でもあることがわかってしまった。
できるだけ、サーヴァントも排除はしたくなかったんだが、
そうも言っていられないかな」
げんなりした表情の従者に、主も同じ表情になった。
「英雄として話を聞きたいから?」
「いいや、これまでの四回、望みを叶えた者はなく、斃れたサーヴァントは存在する。
『聖杯』というのなら、特別な器に満たされた中身が重要なんだ。
それが魔力。六十年かかるインターバルが、六分の一になったっていうのは、
オーバーフローを起こす手前じゃないのかと思うんだよ。
だからサーヴァントの犠牲という供給をしたくないんだが」
アーチャーの発言は、色々な意味で問題だった。
「その魔力が残存しているから、
インターバルが六分の一に短縮されたのではないか。
聖杯は『さかずき』なんだ。入れすぎればこぼれる。その悪影響も心配なんだ。
サーヴァントには肉体がある。
魔力によって形成されているが、結局はエネルギーだろう。
E=mcの二乗が適用されないのかと疑問に思うのさ」
やや吊り気味の翠の目が真ん丸になる。
「え、なにそれ、アインシュタインの公式よね。何よ、急に」
「物質は質量に光速の二乗をかけたエネルギーに変換されるという公式だが、
単なる公式じゃないよ。現代社会を支えている重要なものだ。
だが、その前には不幸な使われ方をした。何か知っているかい?」
二羽の黒揚羽が、連なって左右に動く。
「では、マンハッタン計画という言葉を聞いたことがあるかな。
平たく言うなら原子爆弾の開発だ」
人のいない教室を、沈黙の天使が旋回する。
「本来の私は霊体だが、実体化すれば、176センチ65キロの質量を持っている。
バーサーカーの身長は二メートル半、体重は三百キロはくだらないだろう。
残る五騎のサーヴァントも、相応の体格を持っている。
これだけの質量に変換できるエネルギーたるや、凄まじいものになる。
君は、この国に落とされた原子爆弾の核物質の量を知ってる?」
凛は息を呑み込んで首を横に振った。
「ヒロシマ型のウランは50キログラム、
ナガサキ型のプルトニウムは6キロちょっとにすぎないんだ。
それも、全ての核物質が反応したわけじゃない。
エネルギーに変換されたのは、およそ1グラムだと推定されている」
寒気がしてくるような講義だった。ヤン・ウェンリーは戦史では学年一の優等生だったのだ。
「サーヴァントは魔力で形成されているが、
それでも一定の物理法則には縛られている。
宙に浮いたり、あちこちに瞬間移動したりはできない。令呪なしではね。
この物理法則にも、当てはまらないとは言い切れない。
我々のエネルギーを合計すれば、どのぐらいの破壊力になると思う?」
凛には答えられなかった。
「第三次の戦争が終了するまでに、
何騎かのサーヴァントは脱落しているんじゃないか。
そして、前回は少なくとも五騎だ。もう器が一杯ではないのかな。
エネルギーとは、多ければいいというものでもない。
きちんと制御することのほうが、ずっと重要なのさ。
十年前の大災害は、溢れた聖杯の中身のエネルギーによるものかもしれない」
歴史学や社会学の次は、軍事知識と物理学。このアーチャーは、多彩な弁舌の矢を放つ。
「だから私は、それが判明するまでは滅多なことをしたくない。
聖杯戦争の孤児である君たちが、新たな加害者となってはいけないんだ」
「ちょ、ちょっと、どうしてそんなことを思いついたの!」
「いろいろと考えたんだよ。聖杯とは何なのだろうとかね。
キリストの血を受けた杯、あるいは万能の願望機、魔力の釜。
では、魔力とは何か。それで形成されたのが我々サーヴァントだ。
物質でないなら、さっきの公式は適用されないが、まだ厄介な疑惑がある。
目に見えぬものがエネルギーを持ち、目に見える姿になると言うと、
君は何を連想する? 身近にあるもので」
凛は一瞬眉を寄せたが、すぐに答えた。ここは調理室、答えは実習机についている。
「やっぱり、ガスの炎とかかしら」
「ご名答。私が連想するのとはやや異なるが、炎もプラズマの一種だ」
「ぷ、ぷらずま?」
「私の時代だと、そいつは核融合炉で生成される。太陽の中心核と同じ環境でね」
凛にはまったく理解ができなかったが、現代においては研究の端緒がついたかどうかという、次世代エネルギーである。簡単に言えば、太陽の中心核とおなじ環境を作るのだ。十億度を超える超高温の世界。そこで水素原子が融合し、ヘリウム原子が生成される。その高温を生みだすのがプラズマである。これを封じ込め、コントロールするのが核融合炉だ。
「プラズマが生み出す超高温によって、
核融合が起こり、莫大なエネルギーが発生する。
それを収める容器は尋常なものじゃない。
超伝導によって強力な電磁場を作り、十億度に達する熱を封じ込めるんだ」
「聖杯が、その、核融合炉みたいなものだってこと……?」
「いいや、聖杯じゃなくて、その器が」
膨大な魔力を受け止めることになる器とは、どんなものなのだろう。セイバーが一瞬目にしたのは黄金の杯だったという。だが、聖杯は霊体であるとも聞いている。単純に金属の器に入れられるのか。
儀式の最も重大な秘密を握っているのはアインツベルン。他の者が戦いに勝っても、儀式が成功しない理由だ。ヤンはそう睨んでいる。
「『
アイリスフィールとイリヤスフィール。
キャスターは、イリヤ君たちをピュグマリオンの末裔の作だと言った。
正直、嫌な予感しかしない」
「なっ……。あんたじゃないけど、順を追って話してちょうだい。
キャスターの話って何よ!?」
「キャスターとつなぎが付いたんだよ。
彼女は結界と通り魔と一家殺人は、自分とアサシンが犯人じゃないと言った。
その時に、そんな話が出たんだ」
凛はほぼ頭ひとつ上にあるアーチャーの顔を睨んだ。
「あんたね、そういうことは先に言いなさい!」
「士郎君とセイバーには、今は余計な情報は与えないほうがいい。
ああいう、正義感と義務感が強いタイプは、ひたすらに邁進する恐れがある。
イリヤ君という、心を繋ぎ止める錨の存在に馴染むまで時間が必要だ」
「もう、そうかも知れないけどね。わたしには言えるでしょう」
「君もけっこう、態度と顔に出るからねえ。
事後報告ですまないが、ライダーのマスターに会うには伏せておく必要があった。
さて、吸血鬼事件だが、ランサーが犯人でない理由は言っただろう」
凛は不承不承に頷いた。
「ええ、あんな容貌の若い男が夜道に現れたら、みんな逃げ出すってことでしょ」
「こいつは仮説のひとつとして聞いてほしい。
あの格好は確かにすごいが、私やセイバーと同じことができないわけじゃない。
たとえば、ロングコートを着て、眼帯の代わりにサングラスをかける」
「夜にサングラス?」
「まあ、包帯でもいいさ。そして手に白い杖を持つんだ」
凛は目を見開き、口を両手で押さえた。
「あんなに美しい、目の不自由な外国人女性が夜道を歩いていたら、君ならどうする?
男が鼻の下を伸ばすより、同性のほうが心配して声をかけ、大丈夫かと尋ねないか?
そこでつまづいたふりでもすれば完璧だ。
助け起こそうとしたところを……」
「襲うってわけね」
「漠然とだが、新都の吸血鬼は美しい、
人を誘惑できる存在じゃないかと思ってはいたんだ。
若い男女が共に被害者だし、これだけ報道されているのに、
通り魔とは思いつかないような容姿なのでは、とね」
「たしかにね。ランサーやバーサーカーじゃみんな逃げるわ。
あんたからは逃げないでしょうけど、寄ってくるかといえば」
「セイバーやライダーのような存在だろう?
だが、セイバーには時間的に不可能な犯行だ。
そしてキャスターとアサシンではないなら、そういうことになる。
キャスターの言葉が真であると仮定したうえで、
物的証拠も目撃証言もない、状況証拠と消去法による不完全なものだがね」
猫背気味で元気のない足取りのアーチャーだが、頭脳と弁舌のほうは澱みがない。調理室を出て、隣の被服室へと移動する。予想図では、呪刻が集中している部屋だった。
そして予測どおりに、あるわ、あるわ。床と四方の壁に呪刻がびっしり。
「――セット」
凛は、廊下側の壁の呪刻に魔力を流した。そして、次の呪刻に歩を進めようとして、壁に貼られた『衣服の歴史』が目に入ると、疑問がむくむくと湧き上がった。
「それにしても、あれどこの英雄よ?」
「そんなの私が知りたいよ。ありえないだろう、あれは! 服飾史的にも!」
壁の資料を指差して、アーチャーは小声で喚いた。凛もまじまじとそれを読む。
「彼女が着ているのが革や絹なら、ああいう体にぴったりするデザインは、
その図表にある、ビクトリア朝あたりの服みたいにしないといけないんだ」
まだしも近いのが、後ろボタンの細身のドレスだろうか。スカートの長さが全然違うが。ブーツは男性の乗馬服が参考になる。こちらも腿までの長さはないけれど。
「あら、どうして?」
「脱ぎ着ができないんだ」
凛は、ビクトリア朝の紳士淑女の装いを注視した。そして、ライダーとの相違点に気づく。
「たしかに、こっちのは紐で編み上げにしたり、スリットを沢山のボタンで留めてる。
ああ、こういうのって脱ぎ着するためなのね。デザインだと思ってたわ」
「着脱の利便も、デザインに取り入れるのさ。
人間ってのは貪欲に工夫するんだ。どうせなら見栄えがいいほうがいい」
凛は素直に頷いた。
「うん、わかるわ。セイバーのドレス、今見ても素敵だもの。
着替えのときに鎧を解いたところを見たんだけど、
胸元からウェストが編み上げになってたわね。あんたの言うとおり」
「ゴムやファスナーみたいな便利なものがないからさ。
化学繊維の編地のような、伸縮性の高い布もね。
そのせいもあって、貴族には召使が必要だったんだよ。
この図の服だと一人じゃ着られないだろう?」
襟首から腰の下まで、びっしりと真珠のボタンが並んでいた。後ろ手ではめたり外したりは、たしかに無理があるだろう。
「へえ、贅沢というだけじゃなかったのね」
「セイバーの鎧も、本物ならば一人では着られないよ。
一方、私たちの時代の装甲服は自分で着脱できる。
技術の差が服装に現れ、歴史とも密接に関連するんだ」
壁の年表によれば、そうした素材が全部揃うのは、二十世紀中盤以降だった。繊維工業が発展し、平和が訪れて、石油や金属を豊富に使えるようになっての産物だ。
「たったの四、五十年前に、こういう高度な結界の魔術を使える存在がいたのかい?」
凛は無言で首を振った。
「そうだろうなあ。コピーの不具合か、伝説と実態は異なるのか。
いずれにせよ、髪と瞳などに逸話を持つ、普通の人間ではない存在。
で、騎乗するものとの関連がなくてはならない。
ギリシャ神話の人名、首を刎ねるというのも、多分キャスターのヒントだ。
該当者がいなくはないが、なんでライダーなんだろう」
顎に手をあてて渋い顔をするアーチャーに、翡翠の瞳が再び丸くなった。
「うそ、そんなこと何から思いついたのよ?」
「ライダーが吸血鬼なら、歯が人間よりも鋭いはずだ。
そして、あの長い髪。個人差が大きいが、
人間の髪の寿命では、あんなに長くはならない」
「そんなことないでしょ。平安絵巻なんかどうなるのよ」
凛の反論に、アーチャーは凛の顎の下あたりの高さに手を置いた。
「そのころの女性の平均身長は、百四十センチあるかないかだよ。
そして、正座に近い姿勢で、膝で歩いたんだ。
身長から半分近い高さがマイナスになる」
そこから更に手を下げる。凛の腰ぐらいの位置まで。
「凛より二十センチ背の低い人の正座だ。君の髪の長さでも床に届くだろう?」
凛は頷いた。髪型ほど、女の子の好みが出る部分はない。凛も腰あたりまで伸ばしているが、これは手入れの都合もあってのことだ。とはいえ、伸ばしっぱなしにしても、髪の長さには限界があるらしい。
「でも、ライダーの身長は、私とそう変わらない。
色はさておくとしても、あの長さは人間にはありえないよ」
「……あんたってつくづく物知りねぇ」
凛の賞賛に、アーチャーは肩を竦めた。
「こんなの雑学のたぐいだよ。
歴史学者は、これぞというテーマを選び、注力しなくちゃ一流にはなれない。
広く歴史の流れを知りたいなんて考えると、どうしても水深が浅くなる。
もしも歴史学者になれたとしても、いいとこ二流で終わったろうなあ」
雑談の合間にも、地図の位置を彼が指し示し、凛がほぼ予測の場所に呪刻を見つけて魔力を流していく。
「英雄にはなれなかったってわけね」
「そりゃそうだ。戦争の才能ってのは非常の才の最たるものだ。
平和なこの日本で、平凡な生活を送っている人に眠っているかもしれない。
でも、そんなものを知らない時代や世界のほうがずっといいよ」
「わたしこそ、あんたの時代の想像なんてつかないわ」
凛は言葉を切って集中する。左腕の魔術刻印が、仄かな光を放ち魔力を流していく。
「これでよし。アーチャー、あと何個ある?」
「ここまでで四十個。残りは推定で最少が三十二。最大数は見当もつかない」
「ああもう、キリがないわね!」
ヤンは青丸の一つを赤で囲んだ。赤丸は十数個、二色の二重丸は二十数個。彼もうんざりするが、マスターをなだめる方に回った。これも参謀の役割である。
「だが、魔方陣を構築する基点の、複数の交点となりそうな部分は潰せたと思う。
術を起動させようとすると、かなり時間を食うようになってると……いいんだが」
「頼りないわね……」
「そんなこと言われても、私には未知の技術だからなあ。
この結界とやらのシステム、君にわかるかい?」
凛の柳眉が鋭角を描いた。
「悔しいけど、無理!」
「だからさ、こうやって地道にやるしかないんだ。
相手が諦めてくれると一番楽なんだが、君と誰かさんとの根くらべだね」
と言いながらも、それは望み薄だとヤンは思っている。一番頭にくるのは、この施術者だろう。あるいはそのマスターか。
アインツベルンのマスターと同席している衛宮士郎。彼または彼女の従者である金髪のサーヴァント。霊体化しているだろう、もう一騎のサーヴァント。彼らを取り巻く学校の管理職と担任教諭。
一方、姿を見せている遠坂凛と黒髪のサーヴァント。停戦の中核となっているが、サーヴァントの能力は軒並み低い。さて、どちらを狙う?
それは当然弱い方だ。ほいほいと襲撃を仕掛けてくるか。これを誘いと看過して、見え透いた手には乗らないか。いや、誘いと知りつつも倒せると踏んで、やはり戦いを選択するか。 言語化したヤンの第一希望は、もっとも可能性が低いと思うのだ。
教室内の呪刻を処置し、警戒しながら廊下の出入口の戸を開いたヤンは口の中で呟いた。
「ほうら、おいでなすった」
凛に室内にいるように心話を送り、彼は扉から半歩だけ体を出した。廊下の端に、長い髪の女性が佇んでいる。そこが、凛が仕掛けた霊体化防止結界のボーダーライン。
「何のご用かな、ライダーのサーヴァント。
ひょっとして停戦の申し出かい? あるいは、この結界の除去の協力かな?」
返答は、両手に現れた長い釘のような、鎖のついた短剣。
アーチャーもポケットに手を入れた。
「残念だ。どちらでもない、ということか」
ポケットから抜き出した手には、黒光りする銃。安全装置を解除して、立射姿勢をとる。
「では、これが最後の警告だ。投降せよ、しからざれば発砲する」