群青のランサーが、真紅の目を眇めて、蒼のセイバーを詰る。
「貴様、それでもセイバーか。武器を隠すとは卑怯者め!」
対するセイバーは、涼やかな声で一蹴した。
「ほう、これが剣とは限るまい。槍か斧か、あるいは弓ということもありうる」
「ぬかせ、セイバー!」
再び交錯する、真紅の槍と見えざる剣。色合いの異なる青が、月光の下で舞闘を再開した。士郎は息を呑み、美しき従者の剣戟に見惚れた。凛もひたすらに見惚れた。しかし、もっとも顔を輝かせたのは、その隣のアーチャーだった。
「ああ、これだ。こういうのが見たかったんだよ」
崩れた足場から飛び離れ、再び両雄は対峙したが、新たなサーヴァントの気配にランサーが頭を巡らす。
「うるせぇぞ! って、てめえらは……」
「どうぞ、私のことはお気になさらず。お二人とも続けてください」
ランサーは顔を引き攣らせた。彼が反応したのは、アーチャーの暢気な声ではない。
腹に響く重低音とともに近づいてくる、暴力的なほどの死の気配を纏った鉛色の巨人。
肩に冬の妖精を乗せたバーサーカー。
ランサー クー・フーリンにとって、最悪の相手だ。先日、小手調べで挑んだものの、あやうく座に直帰させられるところだった。なにしろ、彼の宝具ではかすり傷一つ付けられなかった。
ランサーは装束の色ほどに青ざめた。夕闇がそれを隠してくれたのは、夜の女神の寵愛なのか。彼の脳裏によぎるのは、『詰み』という単語だった。
残りの面々は、令呪の縛りにより、引き分けて撤退せねばならないセイバー。誓約によって、夕餉の誘いに応じなくてはいけないアーチャー。最弱のアーチャーを倒すと、ステータスが著しくダウンし、残る二者を振り切ることはできない。
どちらかか、あるいは双方の攻撃で死ぬ。彼らはランサーの事情など知ったことではなく、追撃の手を緩めるはずがなかった。
「畜っ生! せっかく命を掛けたギリギリの戦いがしたかったのによ!」
「では、貴公は聖杯を欲しないのかな?」
「俺は国や時代を超えて、英傑と武を競うために召喚に応じただけだ!
あんな根性の悪い代物、こっちから願い下げだぜ」
「なるほど、貴公は実に賢者でいらっしゃる。
せっかく国や時代を超えたんだから、この立場でしかできないことをしたいものだ。
例えば、皆で酒食を共にするとか。どうだろう、士郎君にイリヤスフィール君。
実は明後日、凛が招待済みなんだが、君達もスポンサーになってくれないか?」
「ああ、俺はいいぞ」
気のよい少年は、一二もなく了承した。もう一人のほうは、真紅の瞳を瞬かせた。
聖杯戦争のマスターとなるべく育てられた少女だ。高名な英雄の伝承は、ひととおり承知している。
槍兵としての条件を満たす英霊は案外少ない。槍と白兵戦の名手で、高い敏捷性を誇っていること。それに加えて、赤い槍と夕餉の誘いがキーワード。
「ふうん、そういうことね。ごめんなさい、ランサー。
あなたのいないところで失礼を申し上げたわ。
あなたは紛れもなき大英雄よ。
ぜひ、わたしの招待も受けてくださらない?」
絶体絶命のピンチに思わぬ形で手が差し伸べられたわけだが、ランサーは虚ろに笑った。ガーネット色の瞳の焦点も、少なからずずれている。
「は、ははは……。
バーサーカーのマスターにまで、俺の正体はお見通しってことかよ。
ところでバーサーカーのマスターよ。失礼ってのはどういうこった?」
「世の中には、知らない方がいいことがあります」
沈痛な表情で首を振るアーチャーには、ランサーに口を噤ませる何かがあった。凛は目を瞠った。たしかに彼は、ランサーと同盟を結びたいと言っていた。明後日の夕食を待つことなく、さっさと動きを始めたようだ。
「アーチャー! この機を逃すつもりか!」
「セイバー、今、我々は監視役に停戦を申し入れてきた。
ランサーが脱落すれば、確かに停戦条件は整うが、私の願いは叶わないんだよ」
「あなたの望みとは……」
『平和な時代を見て、伝説の英雄と会う。できれば話も聞いてみたい』
昨晩聞いた限りではそうだった。セイバーは白皙の顔を紅潮させた。
「あ、あなたは聖杯戦争をなんだと思っているのです!」
「その定義はさておくとして、彼からマスターに伝えてもらったほうが、
教会からの通知よりも確実に伝わるだろう。
あるいはもう知っているマスターなのかもしれないがね」
ランサーは、最後の一言にほんの少し表情を硬くした。
「では感謝をしよう、アーチャーのサーヴァント。
我が主への伝言、しかと承った。
だが、俺のマスターが聞くとは限らんぞ」
「私は別にかまいませんよ。
我々三名でお相手するまでですからね。
貴公の望みは叶わずに敗退を余儀なくされ、
結果的に、貴公のマスターの意見は必要がなくなります」
あかいあくまのアーチャーは、ランサー自身が評したように、黒い毒舌の矢を放つのだ。
「私としては、貴公がマスターを説得することを切に願うわけです」
集中砲火を浴びたランサーの額から鼻筋の美しい稜線が、衝突事故車のフロントノーズと化した。その凝視に込められた諸々の感情は、アーチャーの眉を下げさせた。
「その、そんな顔をしないでくださいよ。
まるで私がいじめたみたいじゃないですか」
「いじめてるだろうがよ! なんつー無理難題を吹っかけやがる」
「ははあ、ひょっとしてマスターと気が合わないんですか?
すまじきものは宮仕えとはよく言ったものですが、
死んだ後までこき使われるなんて、お互い辛いですよね」
「どういう意味よ、アーチャー……」
「いや、生前に比べると遥かにいいかな」
「おう、ちょいと若いが、てめえのマスターはいい女だよな。
それに比べると、チッ、まったくツイてねえぜ!」
「ま、それもそうですが、彼女は安全圏から、
愚劣な主戦論で煽動を行うマスターではない。幸いにもね。
生前の上司というか、国のトップがそうだったので、生理的に駄目でしてね。
握手された時には、心にジンマシンが出るかと思いましたよ。
給料もベッドも枕もありませんが、それもないのが救いです」
「うっさいわね。ベッドと枕は用意するわよ」
アーチャーの影から、ドスの利いた声が響く。それはアーチャーとバーサーカー以外の面々に、身を竦ませる迫力に満ちていた。しかし、黒髪の青年は微笑みを浮かべた。
「これで私の問題は半分解決しました。貴公に感謝します。
なので、貴公も頑張ってくださいね」
贈られたエールにランサーは思わず半歩よろめいた。精神的には槍に取りすがり、地面に膝をついた状態だ。
「そんな目で見ないでくれねえか……」
さまにならない敬礼と、労わりと同情に満ちた眼差しに、心が音を立てて真っ二つに折れそうだ。生前を語るアーチャーの言葉は、まさにランサーの現在進行形の心境だった。
握手なんぞしないで済むのはまだしもだが、死後までなんでこんなに不運なんだ。
あれか、幸運のステータスのせいか!? ランサーは聖杯を呪った。もう何度目だかわからないほど。
「あら、どうしたの、バーサーカー?」
小さな主の隣の巨大な顔が、唸り声と共に何度も頷いているように見える。
「それはほら、彼の場合は生前大いに苦労しただろう?」
「ふうん。バーサーカー、今もそう?」
今度は左右に顔が動く。ヤンは黒髪をかき混ぜた。さすがはヘラクレス、理性はともかく、知性が残っているような気がする。これなら、質問の形式次第では答えてくれるかもしれない。
やる気が出てきた。こんなろくでもない争いにはさっさと決着をつけ、自分の願いを叶えるのだ!
国だの軍だの、縛るものがなくなり、欲望に忠実になったヤン・ウェンリーである。
彼の前に位置する夕日色の頭も、せわしなく上下動していた。アーチャーはさりげなく半歩位置をずらし、背後にいる黒髪の美少女の視線から少年を隠してやった。男性陣に塩味と酸味と苦みの混じった合意が形成され、厭戦ムードが漂いだす。
「まあ、じゃあそういうことで。貴公の健闘を重ねて祈ります」
「お、おう。じゃあ俺もそろそろ失礼するわ。では、明後日の夕餉の席でな」
「待てっ、ランサー!」
仕えられる側であったセイバーが、我に返って一歩踏み出したときには遅かった。最速のサーヴァント、槍兵。ゲリラ戦の名手たるクー・フーリンは、戦闘からの離脱にも長けていた。風を巻いて、さっさと闇の彼方へと姿を消したのであった。
「みごとな退却だなあ。私の後輩もなかなかだったが、さすが年季が違う」
暢気な発言に、セイバーは見えざる剣を彼の喉元に突きつけた。皮一枚分の切り傷が刻まれ、わずかに血が滲み出す。
「アーチャー! 貴様、裏切る気か!」
「騎士の一騎打ちに水を差した非礼はお詫びしよう。
だが、停戦は君のマスターも合意したことだ。
彼には自身のマスターへの伝達をお願いしたんだ。
教会が手配するよりも確実だからね。
その上で、挑んできたら斃せばいい。だがね」
アイボリーのスカーフに、何滴かの血が染みを作る。ほとんど無彩色のアーチャーとの対比が強烈で、凛は拳を握りしめた。だが、彼はまったく臆することなく、静かな口調で続けた。
「ここは死者が眠る場所だ。私のマスターのご両親もここにいる。
幽霊の私が言うのも変かもしれないが、その眠りを妨げるのはね。
お墓が荒れたら、一番悲しむのは遺族だ。
これ以上、ここで戦うのはやめてくれないだろうか」
両者が激突した場所は、芝生が抉れ、土がのぞいている。だが幸いそれだけだ。墓石が欠けたり、倒れたりはしていない。セイバーは唇を噛むと、腕を下げた。
「ありがとう、セイバー。では、みんな帰ろうか。
ここでは話しにくいこともあるし、
魔術師としての意見も聞かせてほしいんだ。
ところでセイバー、あのメイドさんの服はどうしたんだい?
武装の下に着てるのかな?」
顎に手をやり、小首をかしげるアーチャーに、セイバーは我に返るとあたふたとした。
「あの、そ、それは……」
霊体化できないセイバーだが、その衣装や武装は魔力を編んだものだ。魔力を解くことにより、それらは消える。では再武装するとどうなるのか。
衛宮士郎が使える数少ない魔術が強化だ。これは物質に魔力を通すことによって、材質の強化を図るものだ。しかし、魔力の注入に失敗すると、その物品を逆に壊してしまう。
人間であってさえこうなのに、サーヴァントの桁違いの魔力を急激に叩きつけられて、普通の服に耐えきれるわけがない。夜目の利く士郎が、墓地に散らばる白い花弁のようなものを認めた。
「なあ、ひょっとして、あれがそうじゃないのか……。
ど、どうしよう! セイバーの服装問題ふたたびだ!」
セイバーの壮麗な戦装束は、一般家庭を訪問するのにふさわしくないが、街中を歩いたり、バスやタクシーに乗るのにもこれまたふさわしくない。
「ねえ、セラ呼ぶ? きっと怒るけど」
セイバーがびくりと金髪を揺らした。
「あ、あの」
おさまりの悪い髪がはみ出したベレーが軽く下げられる。
「よろしくお願いするよ、イリヤ君。
ちょうど勤め人の帰宅時間だ。
みんなで深山町まで歩いたら、どれだけの人の目に触れることか。
リムジンだって、目立つことだろうがね」
凛はアーチャーの袖を引いた。
「ねえ、わたしとイリヤは別行動でもいいでしょ。普通にバスで帰れば」
この面々に混ざって、辟易しているのは凛も一緒だった。
「バス停なんかでサーヴァントに襲撃されたら、
バーサーカーと私でどうにかなると思うかい?
ここなら迎撃できるから、迎えを待った方がいいんだよ」
「うっ……」
破壊力抜群だが、手加減とは一切縁のないバーサーカー。非力で射撃の下手なアーチャー。これは厳しい。主に凛の生存確率が。言葉に詰まった凛は、士郎と顔を見合わせた。
「な、なあ遠坂。学校の部活、今日も短いと思う。
ここから歩くとさ、橋のとこですれ違うんだ」
そして、高校生の帰宅時間でもあることに気付く。未遠大橋の歩道は、自転車道も兼ねている。彼らの歩む傍らを、学校の生徒達が走りぬけていくわけで……。
「あの橋、歩くと十分はかかるんだ。みんなに見られる。
なあ、セイバー、家までの道、わかるか?」
「ええ、大体は……。まさかシロウ、私に一人で帰れと!?」
セイバーの詰問に、琥珀色の瞳がふいと逸らされた。コスプレ美少女をこっそり囲うから、公然と連れ歩くにレベルアップしてしまう。いや、人間の屑からケダモノへのレベルダウンか。
それはイヤだ。屑でもいい、せめて人間でいたい! 士郎も必死だった。
「そっか……」
そこで士郎ははたと気づいた。一時は別行動しても、鎧甲冑の美少女が衛宮家に戻ってくるのは変わらないのだ。
「や、やっぱ、一緒に帰ろう。ごめん、イリヤ、俺からも頼む」
昨夜からの騒動の末、士郎は他人を頼ることを覚えた。それは凛も一緒だ。
「ええ、わたしからもお願いするわ。
わたしたちにも外聞というものがあるのよ。
メイドはまだありだけど、鎧の騎士はないの。現代には」
すかさず拝む少年と、頭を下げる美少女だった。アーチャーは凛の発言に、顔の前で手を振りながら応じた。
「二百年前だってどこにもいないよ」
「へ、そうなのか。なんでさ?」
「銃の台頭で、鎧が意味をなさなくなってしまったんだ。
四百年ほど前に、セイバーのような鎧の騎士は姿を消した。
ま、この国にはほとんどないようだし、
我々サーヴァントには、一般の銃器が効かないのは幸いかな」
セイバーもドレスの色ほどに蒼褪めた。このアーチャーは、作為もなく心臓を抉るような発言をしてくるのだ。彼女の思いは、アーチャーの知るところではなく、新たな難題に髪をかき回した。
「しかし、これは課題だね、セイバー。
襲撃者の前で服を脱ぐわけにはいかない。
君が戦うには、なんとか士郎君に同行し、同時に服の準備も考えないと……。
地味に難しいなあ。君がたいへんな美人なだけに、どう考えても目立つし」
腕組みして嘆息するヤン・ウェンリーだった。セイバーは歴史マニアの心を潤してくれる存在だが、やはり伝説は遠くにありて思うもの。近くば寄って目にも見よとなると、眩しすぎて困る。目にも痛いが、きっと財布にも痛そうだ。
「服なら、わたしのをあげるわ。
貰いものだけど、似合わないから着てないし、
毎年、同じのを贈ってくるから何着もあるのよ」
「悪いな、遠坂。なにからなにまでありがとな」
「アーチャーのマスターに感謝を」
セイバーは結いあげられた金髪を下げて、その顔色を隠した。
「ただね、問題が二つあるの。贈り主があの綺礼なのよ」
「服に罪はないよ。サイズが合うならいいじゃないか」
凛のサーヴァントは理性的かつ節約家だった。彼のマスターは首を振った。
「それとね、下着はないの。衛宮くん、そっちは調達しないとならないわよ。
セイバー、あなた、下着も借りていたでしょう。
あの布切れのどれかに、それも混じってるんじゃないの?」
指摘を受けた剣の主従は顔を見合わせ、異口同音に叫びを上げた。
「ええっ!?」
それから迎えが来るまで、ゴミ拾いに勤しむことになった士郎とセイバーであった。夜に墓参りをする人間はいないと言っていい。だから外灯もほとんどない。ゆえに、夜目が利く士郎が指示して、セイバーが小さな布切れをせっせと集めて回る。
隠匿を教会にやらせて、下着の切れ端をあの胡散臭い言峰に拾われたいのか。アーチャーの主従や、バーサーカーのマスターに手伝ってもらいたいのか。そういうことである。
それを遠巻きにした凛とヤンは、微妙な表情で囁き交わした。
「アーチャーごめん。前言を訂正する。
あなたが来てくれてよかったわ。服の誤魔化しがいらないし」
「そうだね。私も花も恥じらう乙女に、千切れたパンツを拾われたくはないよ」
「あんた、わたしがあえて言わなかったことを……」
「しかしまあ、不備なく召喚してくれてありがとう。
それにしても、前回の召喚時の彼女はどうだったんだろう。
イリヤ君は知らないかな」
イリヤは首を横に振った。
「セイバーとお母さまは、一緒に飛行機で日本に行ったみたい。
でも、サーヴァントとしてどうだったのかは、よく知らないの」
二つの黒髪が傾げられた。それは判断材料にはしがたい。アーチャーの考察を発展させるなら、その行動だって陽動とも取れる。
「言峰神父も前回の参加者だと言っていたね。
凛とイリヤ君のお父さんと、これで三人。
あと四人は参加者がいるはずだが、一人も生存者がいないんだろうか?」
凛ははっと顔を上げた。
「外来の魔術師の参加を取りまとめるのは、魔術師の学びの府、
ロンドンの時計塔よ。何か知っているかも」
「連絡が取れそうかい?
今回の参加者も斡旋してるなら、そちらからも呼びかけをしてもらおう」
「そうね、取ってみるわ。
わたしは卒業後に時計塔に進学し、
そこの名物講師を師と仰ぐのが当面の目標だったの。
聖杯戦争が始まるまではね」
「たった十年で再開したイレギュラーか。……くさいね」
最後の呟きは、近づいてくる重厚なエンジン音にかき消された。