1:召喚
結局、ペンダントの修理は召喚には間に合わなかった。修理に出した時点では、単独の連続犯と思われたサーヴァントの凶行が、続く数日で複数による連続犯と化したからだ。
一番早く発生していたのは、連続集団昏倒事件だった。連日もしくは一日おきのペースで、隣接した数世帯で気分が悪くなったり失神する人が続出した。複数の人が悪臭を訴えていたため、世間はガス管の損傷による中毒事件と思っているが、これは人間の精気を搾取する仕業に違いない。しかし悪臭という小道具を使い、症状は重くても一両日で退院できる程度に止まっている。一応『魔術は秘匿する』という原則を守り、後遺症もない洗練されたやり口ではある。このあたりで治まっているなら、まだ目こぼしのしようもあったのだが。
次に発生したのが、若い男女が意識不明で発見される傷害事件。いずれも首筋に咬み傷があり、『新都の吸血鬼事件』という通称の下、様々な憶測が流れている。こちらは前者に比べると、人数は少ないが症状がより深刻だった。いくら冬でも温暖な地とはいえ、一月下旬の夜間に、失血のうえ朝まで放置されればただでは済まない。死者はまだ出ていないが、それも時間の問題だった。特に冷え込んだ夜に襲われた青年は、凍死寸前で発見され、意識が戻っていないと聞いた。
さらに、四人家族のうち三人が刀や槍と思われる凶器で惨殺されていた。学習塾から帰ってきた女子中学生は、変わり果てた両親と弟の姿に直面することになった。ただならぬ絶叫に隣人が駆けつけてみると、正視できない惨状が広がっていた。少女はショック状態で、事情聴取も不可能だという噂だ。
とある正義の味方志望者が抱いていたのと、比べものにならない焦燥感が凛を苛んでいた。もはや、管理者として手をこまねいてはいられない。このままだと、最悪十年前の災害の再現である。サーヴァントにはサーヴァントでしか対抗できない。サーヴァントの七つの枠――
懸念されるのは触媒がないこと。その場合、マスターに似たサーヴァントが召喚されるという。これはかなりの賭けであったが、五つの魔術属性を備えた自分にもそれなりの自負はある。それに、今まで溜めてきた魔力の籠った宝石の半分をつぎ込み、最大限の努力を払って準備をした。慎重に召喚の魔法陣を描き、時の訪れるのを待つ。柱時計が柔らかい音を2回鳴らすのに合わせて、魔術刻印と魔術回路を駆動させる。
そして、凛は高らかに呪を紡いだ。魔法陣が発光する。次いで、サーヴァントを構成するエーテルが集い、銀河のごとく緩やかに渦を巻き、輝き始める。
「――告げる。
汝の身は我が下に、わが命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
魔力を肉体が駆ける苦痛と、魔力を容赦なく奪われていく脱力感が襲う。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者」
しかし、これほどの高揚感があったろうか。本来の周期なら五十年後。その時凛は67歳。おそらく参加者とはなりえなかった大儀式である。
「我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」
たとえ、若すぎるとしても。これが父の死による運命の悪戯だとしても。
「我に従え!ならばこの命運、汝が剣に預けよう!」
――遠坂凛は、魔術師の恍惚をこの時確かに感じていたのだ。
刹那。膨大な白光が音もなく発生し、途轍もない圧力が凛を貫いた。余りの眩しさに目を瞑っても、はっきり分かる。召喚されたものとの間に、魔力のラインが形成され、現世に繋ぎ止めていく。エーテルが巻き起こす風が、凛の黒髪を浚って吹き抜けた。
「この手ごたえ! 釣り竿で鯨を釣ったようなものだわ。
間違いなく最高のカードを手に入れた!」
確信した。魔法陣の上、収斂する光は人の形を取り始める。この強烈な魔力は、千人の魔術師を集めても及ぶところではない。人の身でありながら、偉業によって英雄となり、精霊にまで昇華した存在。それが今ここに顕現する。光と風が治まり、凛は目を開けた。もの柔らかな声が語りかける。
「ええと……。君が私のマスターなのかな?」
そこに立っていたのは、鍛え抜かれた体格の武人ではなかった。むしろ、武器を手にした姿など想像もつかない存在だった。黒髪黒目。身長はそれなりにあったが、まあ普通の範囲内。中肉というにはやや肉付きは薄く、全体に線の細さを感じさせる。服装は黒いベレーとジャンパーと靴。スラックスはアイボリーで、首元に同色のスカーフを巻いている。
「で……アンタ、何!?」
思わず凛がこう言ってしまっても、誰が彼女を責められようか。鎧に身を包んだ西洋の騎士どころか、服装はどう見ても現代人。しかも、顔立ちはどちらかというと東洋系である。まあまあ整っていてハンサムの部類には入るものの、いかにもおとなしそうで文系の青年というのが一番ぴったりくる。一瞬『キャスター』なのかとも考えたが、すでに召喚されている。クラスの重複は発生しないのだ。
「ああ、……私はアーチャー? みたいだね」
「なんてこと……財産半分つぎ込んだのに! セイバーじゃないなんて目も当てられない」
「まあ、その……悪かったねえ」
アーチャーはベレーを脱ぐと、申し訳なさそうにおさまりの悪い黒髪をかきまわした。
「人類の歴史上でも数少ない、豊かで平和な時代を見て、
伝説の英雄に会えるなんてちょっと面白そうだなと思って……。
気がついたらここだったんだ。
それが我々の殺し合いで、こんな年端もいかない子が参加者だとは。
せっかくの平和な時代なのに、なんて世知辛い話なんだ」
「ちょっと待ちなさいよ。年端もいかないってどういうこと?」
凛はきりきりと柳眉を吊りあげて、なんとも頼りないサーヴァントを詰問した。
「だって、君は15、6歳くらいだろう? 立派に子供じゃないか」
「明後日には17歳になります! それにね、あんたには言われたくないわよ!
あんただって私とそんなに変わらないじゃないの!」
「は?」
アーチャーは何を言われたかわからないという顔をした。
「……来なさい」
眼前の美少女が、据わり切った目で迫る。
「ええ?」
「いいから来なさい!」
凛は、魔法陣の上のアーチャーの手首をつかむと、地下室の片隅に置いてある姿見のまえまで引きずるように向かった。
「ええと、これは質問なんだけど」
「何よ」
「サーヴァントは言わば実体化した幽霊なんだろう?」
「英霊っていいなさいよ!」
「果たして鏡に映るのかな?」
もはや無言で、凛は鏡の前にアーチャーを突き飛ばしてやった。アーチャーの素朴な疑問はたちまち解消された。結果は『映る』。己が姿を見たアーチャーはあんぐりと口を開き、次いで傍らのマスターに向き直った。
「これは一体、どういうことなんだ!」
「私が知りたいわよ! サーヴァントは、全盛期の肉体で召喚されるって聞いてたのに」
「全盛期ってそんな……。
まあ、たしかに実技なら一番ましな時代かもしれないけど……。参ったなあ」
鏡の中に立っていたのは、どんなに高く見積もっても
「で、あんたの真名は」
もはや凛の口調からは、英霊に対する畏敬の念など欠片も伺えなかった。いずこかの英雄豪傑でもなく、現代人らしき青年が召喚されるなど、なんの間違いなのか。服装は軍服にも見えるが、左上腕部のエンブレムに記された国や地名など聞いたこともない。
「……そうだね、自己紹介はしようか。私はヤン・ウェンリー」
「ヤンっていうと、中国人なの?」
「多分、人種的なルーツはそうだと思う」
また微妙な回答に、凛の眉間に皺が加算された。
「じゃあ、ヨーロッパとのハーフ?」
「まあ、そういうことになるんだろうね。母の旧姓はルクレールといったから。
この時代ならフランス系になるのかな」
「いつの時代の英雄なのよ」
ヤンと名乗ったサーヴァントは、また髪をかきまわした。
「英雄なんてそんなものではないよ。でも……私は今から約1600年後の人間だ」
「せん、ろっぴゃくねんご!?」
「そう」
ふと、彼は凛の背後に目を向け、微苦笑を漏らした。
「万暦赤絵か。あれは親父の遺品で唯一の本物だったんだ。
まあ、この時代になかったら私にまで伝わらないものな。ところで、君の名前は?」
「……遠坂凛よ」
「いい名前だね。まあ、とりあえずよろしく」
「終わったわ……」
思わず床にへたり込んでしまう凛だった。未来からの英雄。ゆえに知名度補正はゼロ。先ほど掴んだ腕の細さから、相当にいやな予感はしていた。この線の細い文系青年を改めてマスターとして検分すると、筋力、敏捷、耐久いずれも最低ランクである。魔力こそ優秀だったが、保有スキルなど直接戦闘に向いているものは一切ない。
「私が伝説の武人と直接戦闘しても、瞬殺されるのが関の山だけどね。
前提条件にもよるけど、やりようがないわけでもないさ。
要は最後の瞬間に、君が生き残っていればいいんだから」
そう言うと、凛の前の床に胡坐をかいて座り込む。
「なに言ってるのよ、管理者として参加するからには勝つ、当たり前でしょう!」
「まあ、最初から負けるつもりで戦争する人間はそんなにいないからなあ」
あっさりと言い放つアーチャー。優しげな容姿で口調は温和だが、意外にも毒舌家のようだ。
「君は聖杯とやらに何を望むんだい?」
「遠坂の後継者として勝利は望むけどね。聖杯に願う望みはないわ。
目標はあるけどそれは自分の手で叶えないと意味がないし。
でも、いつか使いたくなる時がくるかもしれないじゃない。
貰っておいても損はないでしょう」
「世界をわが手に、なんていうんじゃなくて安心したよ」
「そんなの望まないわよ、馬鹿馬鹿しい。世界なんて自分をとりまく環境じゃない。
私はすでにその主人なんだから」
アーチャーはちょっと目を開くと小さく拍手した。
「うん、同感だ。人は自分以外の主人になるべきじゃないしね。
……
「そういうあんたはどうなのよ。聖杯になにを望むの?」
アーチャーの顔に、なんとも言えない表情が浮かんだ。懐かしさとほろ苦さの入り混じったものだった。
「私は歴史を学びたかったけど、学費がなくて断念した。
仕方なく、無料で歴史を勉強するために士官学校に入った。
四年生の卒業試験の実技ほど頑張ったことはなかったなあ。
……ああ、だからこの姿だったのか。
結局そのまま軍人になって、隣国と150年も続いている戦争に参加した。
私の世界で、長期間の平和を知る人間はいない」
凛は絶句した。150年も戦争が続く世界など想像もできない。
「そして色々あって、まあ結局私は死んだ。
私の生きている間に、長期的な平和はついに訪れなかった。
それを見ることができるというだけで、願いの半分は叶ったようなものさ」
このヤンという名のサーヴァントは、外見よりもずっと年長なのだと思わざるを得なかった。穏やかで抑制の効いた口調も、凛に対する態度も、同年代というより父親のそれである。
「本当はあなたいくつなの?」
「この姿の年齢は20歳前後だね。死んだ時は33歳だった。
ああ、せめてそっちで召喚されたらよかったのに」
それもまた衝撃だった。つまり彼は、この姿の13年後には亡くなっているということだ。
「どうしてなのか聞いてもいいかしら?」
「君の態度からして、この姿だと私は成人には見えないんだろう?」
「別に気にする必要はないでしょう」
「いや、他のマスターやサーヴァントと交渉する際に不利だよ。
やっぱり青二才の言うことを信じてもらうのは難しい。
ましてや私は頼もしい外見の持ち主じゃないし」
彼は肩を竦めた。
「でも私も君に聞きたい。まだ十代の君がどうしてこんな危険なことに参加するんだ?」
「……父が十年前に亡くなったからよ。
遠坂はこの儀式を組んだ三家のうちのひとつだから、参加権も優先されているの」
凛の言葉に、アーチャーは気まずそうに頭を下げる。
「ごめん、悪いことを聞いたね。とりあえず、これ以上の話は後にしよう。
もう休んだ方がいいよ」
サーヴァントの召喚には、大量の魔力を必要とする。飛び抜けた資質と魔力量を持つ凛だが、実は疲労の極にあった。
「……そうする。アーチャーはどうするの?」
「今の状況を知りたいな。新聞と法律関係の本があるなら読ませてほしい」
「新聞は居間にあるわ。法律の本は……あるならお父様の書斎よ。でも十年は前のだけど」
「別に大丈夫だよ。憲法や民法はそうは変わるものじゃないからね。
そうだ、筆記用具も貸してもらいたいな」
――かくて、いずこかの並行世界と異なる英霊が召喚された。時計の狂いがなく、あるべき触媒がなく、異なる触媒が存在したゆえに。屋根を突き破ることもなく、令呪を使用することもなく。蝶の羽ばたきが、大海の彼方でどのような風を起こすのか……。