遠坂家は、坂の上の由緒ある赤煉瓦の洋館だ。一方、衛宮家はもっと下、深山町の中心に近い武家屋敷だ。
どちらの建物も、アーチャー、ヤン・ウェンリーにとってとても興味深い。特に衛宮家のような建築様式は、千六百年後まで実用としては伝わっていない。文献や画像に残ったものの復元のみだ。漆喰の白壁とコントラストをなす、美しいなまこ壁。見事な数寄屋造りの屋根は母屋、ふたつの切妻屋根は土蔵と道場。
『いやあ、りっぱなお宅だねえ。
凛の屋敷も実にいいが、こういう建物は復元されたものしかお目にかかれないよ』
『感心するのはいいけど、この家は魔術師の工房としては、
開けっぴろげもいいところよ。魔術への防御は無力だわ』
『まあ、その辺はイリヤ君もセイバーもいる』
『……殺し合いをしてなきゃね』
『それはないから大丈夫だよ。
バーサーカーは、あの武家屋敷の屋内では出現させられない。
昔ながらの建物だから、君の家に比べると天井が低いんだ。
彼は落っこちてくる建材から、マスターを守らなきゃならなくなる』
そんなこと、凛は気にも留めなかった。
『じゃあ、セイバーが有利じゃないの』
『いやいや、そうでもない。イリヤ君は聖杯の担い手だと言っただろう。
聖杯を欲するセイバーにとって、すぐさま殺害できないマスターだよ』
もう、どこまで人の悪いサーヴァントなんだろうか。
『あんた、ほどほどにしないとセイバーに殺されるわよ』
『そいつも彼女にはできないんだ。私は彼女と違って、霊体化できるからね。
彼女の剣を逃れて、士郎君を殺すことができるわけだ。
彼女がすかさず仇を討っても、君は殺せない。
君には新たなマスターになってもらいたいだろうからね。
セイバーにイリヤ君を排除できない以上、君は生き残れる』
昨晩、室内に誘導したのは、親切心ばかりではなかったと自白したも同然である。
「もういや。どうしてこんなに腹黒いサーヴァントが来ちゃったのかしら」
「そりゃ、触媒があったからだろうねえ。巡り合わせと思って諦めてくれ。
私にとっては君が生き残ればいいのであって、彼らを斃す必要もない。
そのためには、相手の弱点に、自分が勝る点をぶつけるしかないからね」
この根性悪のリアリストめ。凛のこめかみに、何度目かの青筋が立ちかけた。だが、必要ないということは、できなくはないということじゃないの?
衛宮家の門をくぐってから実体化したアーチャーは、穏やかに笑うのみだったが凛は確信した。
できるの、こいつに? いや、できるか、こいつなら。強力だが超箱入り娘のマスターと、狂気のサーヴァント。お人よしで無知なへっぽこマスターと、清冽で一本気なサーヴァント。四人が束になっても、このひねくれた頭脳の持ち主に追いつくとはちょっと思えない。こいつの口の悪い先輩の言葉を裏返せば、『首から上は役に立つ』ということに他ならない。
凛は頭が痛くなってきた。首を振りながら、玄関の呼び鈴を押す。しかし、応えはない。
「どうしたのかしら?」
「土蔵の血痕でも落としているのかな」
なにげない一言だったが、凛をげんなりさせるには充分だった。昨晩、サーヴァントの非道を聞いて、聖杯戦争への参加を表明した衛宮士郎は、セイバーの同居問題が一段落するや否や、行動を開始しようとした。それに首を振ったのがアーチャーであった。
「士郎君、君は大怪我をしたばかりだ。
不可解極まりない現象によって、完全に治癒したから実感が薄いのかもしれない。
でも、その奇蹟を頼みにして無謀な真似はしないでほしい。
あれに再現性があるのかも不明だからね」
アーチャーは居間から出ると、士郎の部屋へと戻った。再び戻った時には、ゴミ袋を提げていた。半透明の冬木市指定のゴミ袋の中に、キャメルベージュと、黒ずみはじめた赤の物が詰まっていた。
「士郎君、持ってごらん」
促されるがままにゴミ袋を手にし、その正体に気がつく。衛宮士郎の手に震えが走り、強張って手を離すことができなかった。視線を外すこともだ。それは、変わり果てた自分の制服だった。血に濡れた分、朝着た時より重みを増し、袋の中からは、眩暈がするほど濃厚な鉄錆びた臭いが立ち上る。
「これが君の流した血の量、命の重さだよ。
たったこれだけの重さだが、それで人は死ぬんだ。ちなみに、私の死因でもある。
私たち軍人は、まず自分が生き残ることを優先しろと教えられる。
さもなくば人は救えない。死体が二つになるだけだということだよ」
穏やかな表情で放たれた、強烈な牽制球だ。そこで止めておいてくれればいいのだが、士郎の手からゴミ袋を離させると、凛とイリヤにも向き直った。
「さあ、君達もこれを持つんだ。そして、考えることだ。
聖杯戦争の勝者とは、この数十倍の重さを六個分背負う。
冬木の大災害のようなことになったら、更に百倍、千倍にもなる。
聖杯をもってしても、その罪は雪げはしない」
全てを見通すような漆黒の視線に、凛もイリヤも抗うことはできなかった。決して満杯ではないゴミ袋は、とてつもなく重かった。
言葉を失くした一同に、アーチャー、ヤン・ウェンリーは告げた。
「せっかく平和な時代に生きている君たちが、そんな罪に汚れて欲しくないんだ。
ろくでもない戦いだから、犠牲なく勝たねば意味がない。
犠牲となるのは、死人であるサーヴァントだけで充分だ。それが私の考えだよ。
それからね、凛、一つ訂正があるんだ」
決して激しくはない、静かな口調だった。
「な、なによ」
「この前、私は英雄じゃないっていっただろう。
ある点においては、たしかに英雄なのかもしれない。
この時代より、すこし前の映画の台詞だったかな。
『一人を殺せば殺人者だが、一千万人を殺せば英雄だ』というやつ。
その意味でなら」
それはセイバーにも、息を飲ませるに充分な告白だった。
「私に言えるのは、今はそれだけだよ。考えて、判断するのは君たち自身だ。
しかし、私は軍人でもある。
司令官たるマスターと無辜の民間人を守るためには、
敵兵とその司令官を排除することも選択する。
われわれ遠坂と敵対するなら、そのことは考慮してもらおう」
呆れるほどの交渉術だった。血まみれの制服と自らの死因でインパクトを与え、情理を説いて安心させたところに、生前の事績の一端を示して恫喝する。
彼の能力からすると、とんでもないはったりだが、アーチャーというのが肝である。アーチャーとは、強力な遠距離攻撃の宝具を所有するクラスだからだ。彼自身の能力は極めて低いが、他のマスターにとっては、いまだ詳細を明かさぬ宝具は脅威。加えて、この頭脳。敵対よりも同盟を選びたくなるというものだ。
「じゃあ、ちょっと回ってみましょうか」
だが、そこまでいく必要はなかった。手前の道場から、竹刀の打ち合う音が聞こえてきたからだ。
「あ、こっちだったのね。お邪魔するわよ」
一声掛けてから、上がりこむ。ついてきたアーチャーは、物珍しげに中を見回した。
「感動だなあ。本物の道場だ」
しかし、剣士らの服装は、ツナギの作業服にメイド服。打ち合いというより、衛宮士郎はセイバーに防戦一方だ。それは当たり前か。
「セ、セイバー、ちょっとタンマ!」
「そう言われて待つ敵はいませんが、いいでしょう。
シロウ、一休みとしましょう」
アーチャーは頭をかいた。
「それにしても、士郎君、本当に平気なのかい?
昨晩、肺の損傷と大量の失血をしたんだから、無理しちゃ駄目だよ」
「ありがとな、アーチャー。ほんとに何ともないんだ」
「ならいいんだが、不可解な現象だよなあ」
不可解現象の粋たる、サーヴァントにそんなこと言われても。士郎は思わず頬をかいた。
「いや、サーヴァントに言われるのもヘンだと思うぞ」
「ほら、私は幽霊だからある程度の不可解はありだと思うんだ。
しかし、君は生身の人間だからね。
あの怪我が治るというのは不思議でしょうがない。
だが、治ってくれてよかったよ」
和気藹々と話す男性陣。一見、学校生活の一幕である。
「衛宮くん、ちょっとは緊張感持ちなさいよ。
セイバーと二人、何やってたのかしら」
「結局、イリヤのメイドに邪魔だって追い出されちゃってさ」
「ふうん。あの子はどうしたのよ」
「離れにいる。ちょっとの間は見てたんだけど、寒いのは苦手なんだって。
土蔵の掃除して、昼飯食べて、稽古をつけてもらってたんだ」
コミュニケーションを図るにはいい方法だとは思うが、護身術にするには問題があった。一応、凛の弟子になったのだし、師匠として言ってやらなくては。
「衛宮くん、サーヴァントは普通の武器では傷つけられないの。
その竹刀で叩いても意味がないし、普通なら掠りもしないわよ」
「強化の魔術を掛けても駄目か? 俺、強化と解析はできるんだよ」
「また随分、マニアックというか偏った魔術ねえ。
魔力を帯びたものなら通用はするけどね。
ちょうどいいわ、その竹刀に強化を掛けてみて。
で、わたしのアーチャーと戦ってみれば?」
「おいおい、凛」
困り顔のアーチャーに、凛は心話で告げた。
『はっきり認識させたほうがいいでしょう。
相手は霊体化できないセイバーじゃないって』
「トレース・オン」
その傍らで、士郎は魔術発動の言葉を呟き、魔術回路に魔力を通していく。脊椎に鋼の棒を縦に突き通していくような痛み。
それが、世界に働きかける代償。竹刀の構造を解析し、構造の隙間に魔力を流していく。いつもは一割に満たない成功率だが、ことのほかうまくいった。いや、これまでにないほど上出来だといっていい。
魔術の成就に満足している士郎に、遠坂凛は愕然とした表情になっていた。
「……凛。すごい顔だよ。あたら美少女がもったいない」
アーチャーがおずおずと取り成すが、空間を真紅に染め上げるかのような怒気が立ち上っていた。
「……アーチャー、遠慮はいらない。とにかく、ぶっちめてやって。
その後で、とっくりと教えてやるから。……師匠としてね」
「そういう制裁には、私は反対だよ」
「違うわよ。師匠のレッスンその一よ」
アーチャーは浮かない顔になった。それでも、ここはマスターの仰せに従ったほうがよさそうだ。凛の心話に込められた怒り。
『ものすごく危険なことをやってるのよ。
これが衛宮切嗣が教えたことなら、理由を問い正さなくちゃいけない。
そして、二度とやるなと言って、正しい方法を教えなきゃ。
今まで死なないでいたのが奇蹟なんだから!』
魔術師としての矜持と、それ以上に少年を思いやる真情だった。凛の形相を気にせず、士郎は竹刀を素振りし頷いた。
「準備できたぞ」
アーチャーは溜息を吐いた。
「私は格闘術も苦手だったんだがなあ……。
なんで死んでからまで、こんな目に……」
「つべこべ言わないの。大丈夫、今は十倍は強くなってるから」
凛が叱咤激励しても、アーチャーの顔は晴れなかった。挙句、言い訳がましいことを口にした。
「ええと、士郎君。まず最初に言っておく。
私はこんななりだが、一応正規の訓練を受けた戦時国家の軍人だ。
君より身長も体重も勝る。
これだけでも、平和なこの国の学生に勝てる要素は少ない。
それでもいいんなら、気は進まないが相手になろう」
「俺はいいぞ。じゃあ、よろしく、アーチャー」
道場の中央で対峙した青年に、士郎は頭を下げた。
「うん、まあ試合だからほどほどによろしく」
セイバーがどんな剣術を仕込んだのかはわからないが、これでジャンヌ・ダルクの線は薄くなった。
村娘だったジャンヌは、陣頭に立つが旗持ちを好んだ。しかし、神の啓示を受けても、村娘は村娘だ。学んでもいない剣術などできるはずがない。矢を受けて、泣き叫ぶほど取り乱したとも伝え聞く。
そして、当時の戦争のマナーを頭から無視した。使者を送って日時を取り決めたり、一騎打ちの口上を述べたりする、そういうことを。だからこその快進撃であり、それゆえに戦後に迫害され刑死したのだ。政権を奪取したシャルル七世はともかく、王を支える保守派にとって、脅威だったというわけだ。
士郎は、強化した竹刀を中段に構えた。今までセイバーにしごかれて学んだのは、サーヴァントに攻撃するだけ無駄だということだった。相手の攻撃に対し、牽制と防御に徹する。手加減に手加減されたセイバーの太刀筋でさえ、目のいい士郎でもろくに見えやしない。
だが、急所を守るように武器を構え、衝撃を逃がして受け止めるようすれば、セイバーを呼ぶまで持ちこたえられるかもしれない。まだ成功はしていないが。
「じゃあ、失礼」
アーチャーが一歩踏み出した。彼は無手である。士郎は、リーチの差を生かすべく牽制の一撃を繰り出した。アーチャーの姿が掻き消え、ベレーに向かって繰り出した竹刀は空を切った。たたらを踏みかけた作業服の足を、出現したアイボリーのスラックスが払う。
「っつ!?」
文字どおりの意味で、士郎は足をすくわれた。硬く握り締めた竹刀が災いし、完全にバランスを崩した。手首を打たれて、竹刀がすっぽ抜け、床を叩いて転がっていく。
「うわぁっ!」
そのまま手首を決められ、なにがなにやらわからぬうちに視界が一回転する。
「よいせ」
緊張感のない掛け声とともに、士郎は床に押し付けられた。左腕は自らの体が重石となり、まったく動かせない。右手はアーチャーが掴んだまま、背後から首元を膝で押さえるように圧し掛かられた。実にあっけなく勝敗は決した。
「これで君は死んだ」
淡々とした声と共に、夕日色の後頭部に、銃の形にした指が押し付けられる。
「二回目だよ、士郎君。本当なら昨日で終わっていたが」
セイバーが聖緑の瞳を見開き、膝立ちになる。
「このように、幽霊ならではの攻撃法があるわけさ。
君のセイバーにはできないが、それ以外のサーヴァントには皆できる。
セイバーと離れないで済む、そういう方法を考えたほうがいいなあ」
そう言うと、ヤンは士郎の体を離した。
「う、その、疑って悪かったよ。アーチャー。あんた強かったんだな……」
物憂げな表情で両手を凝視しながら、黒髪の青年は頭を振った。
「最盛期の肉体でって、確かに本当なんだなあ。
体がちゃんと動くし、教科書のとおりにやれば、さっきみたいに決まってたのか……」
「へ? なんでさ」
「学生時代はとろくて腕力不足で、落ちこぼれもいいところだった。
これだけハンデのある君を拘束できなきゃ落第なんだがね。
その及第点を取るのに、ものすごく苦労したんだ。
それこそ、身長と体重の問題でね」
士郎は、真っ直ぐアーチャーの顔を見てから、頭のてっぺんに目をやった。
「や、充分だと思うぞ。俺より十センチぐらい高いよな。
いいなあ、羨ましい……」
「私の国は多民族国家でね。混血が進んでいて、私の身長が標準ぐらいなんだ」
「……げ、そうなのか?」
身長に悩む者には、絶望する国家である。
「大丈夫さ、君はまだ十七歳なんだろ。私もその頃は君より小柄だった。
きっと、まだまだ背が伸びるよ」
「あ、ありがとう、ありがとう……アーチャー……」
昨晩から降ってわいた美少女と美女達に囲まれて、ストレスが音速で蓄積していく士郎にとって、同年代に見える同性からのエールは、なによりの癒しであった。
「身長は人並みだが、筋肉はさっぱり。おかげでパワーとスピードがね……。
だが、今は当時の十倍で、その問題は解消してる。
あの頃、こうならよかったのに。まったく世知辛い話だよなあ」
「そ、そっか。なあ、俺にも教えてくれないか?」
「それは構わないんだが、これでも四年間で三千時間の授業の賜物なんだ。
あと十日に詰め込むとすると、百倍厳しい内容にしないといけないんだが、
それでもいいかな?」
アーチャーの静かな口調には、妙に迫力が籠っていた。
「え、ええと、どんな授業だったんだ?」
「君の年齢の時の授業は、十キロの装備で徒歩五キロ、
水中歩行三百メートルに、障害越えを二十五か所。
こいつを三時間以内に終了させるんだ。
さて、どれを百倍にすれば出来そうかい?
四項目を二十五倍ずつにするか、
制限時間を百分の一にするという選択もあるが、どうかな?」
腕組みをして、小首を傾げて士郎に尋ねる。その黒い目は全く笑っていない。士郎はせわしなく首を左右に振った。
「わかってくれたんなら結構。じゃあ、私のマスターからも話があるそうだ」
アーチャーがそっと位置をずらす。その陰から出現したのは――あかいあくまだった。