「あ、あの……。わたしはテスト勉強しなくていいんでしょうか?」
桜は眉を寄せ、対面に座すキャスターを見つめた。青みがかった銀の髪、長い睫毛にけぶる瞳は深い菫色。華奢な肩が優雅に竦められ、形良い朱唇に微苦笑が上る。
「貴女には、勉強よりも大事なことがあるのよ。これをご覧なさいな」
繊細な指先が差し出したのは、冬木市民病院のロゴの入った大判の封筒だった。
「え……?」
桜は、面食らいつつ封筒を受け取り、キャスターに視線で促されるまま、中身を取り出した。
それは『診断書』と書かれた一枚の紙だった。表面には桜の名前の下に、病名が列挙されている。治癒とあるのは、上気道感染症。経過観察が貧血と心筋炎。
それから、疑いを付けられた、聞いたこともないような病名の数々。
桜は唖然とした。
「な、なんですか、これ!?」
「……貴女を蝕んでいたものの名残よ」
桜の喉が鳴り、見る見るうちに顔色が褪せていく。キャスターは下手人を呪った。こんな貧乏くじを引きたくはなかった。
だが、彼女以上の適役もいなかった。アーチャー主従に頼まれたのだ。対価と引き替えに。
「貴女がどんな目に遭わされていたのか、私は大体分かっているつもりよ。
貴女の義兄と姉もね、恐らく想像はついていることでしょう」
蝋細工のような顔の中で、水気を含んだ薄墨色の瞳が揺れていた。
「身内だからこそ、面と向かうことを憚るものよ。
弱さではなく、貴女のために。
貴女は第一に治療が必要な病人なの。
いまは、体を治すことだけを考えなさい」
瑞々しい頬を伝い、零れる涙にキャスターは目を細めた。自分が最後に泣いたのは、いつだっただろう。
たしか、玉座を狙って叶わず、子どもたちを失った時に枯れ果てるほど泣いた。夫に捨てられた時には、泣いただろうか、怒っただろうか?
「でも、どうして、キャスターさんが……」
「あら、私は貴女たちの世話役でしょう?
それもあって、貴女の姉に頼まれたのよ」
その時のことを思い出し、キャスターはくすくすと笑った。
同盟に与している、アーチャー ヤン・ウェンリーと、ランサー クー・フーリン。
キャスター メディアとバーサーカー ヘラクレス。
容貌も性格も全く異なる彼らにも、共通点がひとつあった。全員が生前は既婚者だということだ。
「国際結婚に必要なのは、パスポートと婚姻要件具備証明書ですね。
パスポートが準備出来たら、外国人登録をしないといけません。
あと、就労ビザも必要です。これもアインツベルンに頼みましょう」
『国際結婚のQ&A』を片手に、アーチャーがつらつらと説明してくれたのだが、策謀を謳われた彼女でも、青褪めるほど大量の書類を必要とした。
想像以上に煩雑で、とても魔術で誤魔化せない。なにしろ、婚姻届などの書類は三十年近くも保管され、戸籍のデータは役所のコンピューターに登録するという。
パスポートにはICチップが組み込まれ、十年前はともかく、現在偽造はほぼ不可能。役所と法務局、双方の審査をくぐり抜けるのは、まず無理だ。
当事者にとっては一生の一大事でも、役人には見慣れた毎日の仕事。すぐに見抜かれてしまう。真っ当に、本物を用意してもらったほうが早い。架空の人物用だけれど、アインツベルンには前例があるだろうと。
「た、大変なのね……」
曇りがちな菫の瞳に、漆黒が穏やかに微笑みかけた。
「この日本は人間の身元に関しては、世界最高レベルできっちりしてます。
国際結婚が最も難しい国だと思いますよ。
でも、システムが確立しているからこそ、手順に従って粛々と進めればいい。
役所だって、相談に乗ってくれますよ。だから大丈夫です」
「ありがとう……。本当に助かるわ」
神代最高峰の魔術師も、現代社会のシステムには歯が立たなかった。メディアの望みは、最愛の人と平穏に暮らすことであり、悪目立ちは断じて避けたいのだ。
愛の女神の加護持つイアソンに、引っ掛かってしまった生前の若き日よ。エロスの矢に射られると、人は恋に盲目になる。
もうあんな失敗はしない。神のいないこの時代は、本人の魅力が全てだ。だからちゃんと判断ができる。 顔でも地位でもなく、男は中身が一番大事なのだ。
歳若い美少女に、外見上はうら若き美女が力説した。
「肝に命じておきなさい、管理者のお嬢ちゃん。
いくら見目よく、武勇に優れていても、数多の女に手を出す男は最低よ。
ヘラクレスの末路を考えてもごらんなさいな」
パンツに毒を塗られて、苦しみ抜いての焼身自殺。これは彼に射殺されたケンタウロスの復讐が招いたことだが、浮気をしなければ、騙された妻が毒を持ち出すこともなかったわけで。
「あの坊やにも気をつけなさい。私の夫だった男と同じで、父を知らぬ者よ」
「ええーっ、士郎が? あいつ、ものすごいファザコンなんだけど。
アーチャーもだけど」
「子どもが男になる時にこそ、父親が必要なのよ。
坊やには今はいない。アーチャーには十五までいたのでしょう。
その差はとても大きいわ」
じつは王女メディア、教育ママのはしりでもある。息子の一人をギリシャ神話最高の賢者、ケイロンに師事させているのだ。
「よき師がいればいいのだけれど、坊やの師はどうかしら?」
凛は不承不承に頷いた。
「確かに……。藤村先生はいい人だけど、いい先生かって言うとね……。
あいつの家に出入りしてるの、その藤村先生と桜だけみたい。
朝ごはんと夕ごはんをみんなで食べてるって……。
時々はどちらかだけみたいだけど。よく考えなくても変よね?」
「とても危ういと思うわよ。自分の身に置き換えてみなさいな」
葛木教諭と、衛宮士郎(または柳洞一成や間桐慎二)が凛の家に朝夕出入りするようなものか。
「あ……。完全にアウトね」
それも、ど真ん中直球を三振する勢いだ。
「でしょう。どちらも嫁入り前の娘なのに、噂になっていない。
続けていたということはそうでしょう?」
凛はまたも頷く。
「ということは、あの坊やは本当に孤独なのよ。
たった二人、黙っているだけで気づかれず、
他に意見をする者がいないということよ」
メディアは、凛の肩に両手を置いて言い聞かせた。
「いいこと、そういう男を選ぶと、とてつもなく苦労をするのよ!
王位のために、冒険するような履き違え方をする。
譲位する気はないから、野垂れ死ねという思惑が汲み取れないの。
だから、師匠としてきっちりと教育しないと駄目よ」
凛は三度頷いた。今度は力強く。
「ええ、そうする。だからキャスターも、桜のことをよろしく頼むわ。
士郎とうまくやれるように。ついでに慎二も調教してやって」
二人の魔女はしっかりと右手を握り合い、ここに最凶タッグは成立した。
視界の隅で赤い外套の大男が悶絶していたが、彼女たちの知ったことではない。
キャスターは微笑んだ。
「私の失敗から忠告するけれど、一方的に尽くす関係は、いずれ破綻するわ。
尽くしているように見えて、縋っているのだもの。
体を治して、負い目を捨てて立ち上がり、相手と一緒に歩まなくては。
私もそうでありたいと思っているのよ」
シンデレラにドレスと靴を贈る魔女のように。
あるいは、ガラスの靴にぴたりと足が合ったシンデレラのように。