「凛、イリヤ君、短い間だったがありがとう」
黎明を迎える前の空に、白く輝く有明の月。泣き腫らした目の少女たちに、アーチャーは軽く頭を下げた。
「お願い、行かないで!」
イリヤは彼に飛びついた。
「おっと……」
アーチャーは衝撃でよろけかけたが、なんとかイリヤを受け止めた。生前の十倍の力があるなら、小揺るぎもしなかったろうに。
凛は悲鳴を飲み込んだ。サーヴァントとしての身体機能を失い始めている。彼は最後の力で船を呼んだのだ。
黒いベレーの遥か上方に、二重写しになった仮想の夜空。そこに彼の船が姿を現していた。英雄王との決戦の際は星にしか見えなかったが、濃緑をベースに鋼色を配した、直線的な形をしている。いかにも兵器らしく、無骨だが研ぎ澄まされた機能美があった。
イゼルローン駐留艦隊旗艦、ヒューベリオン。この一隻が、ヤンが出せる最後の宝具だった。
「大丈夫かい? 突き抜けなくてよかったよ」
「ご、ごめんなさい」
「いや、平気さ。でも、今のままじゃ体を治せないだろう?
認知の裁判をやるためにも、元気でいなくちゃならないよ」
アーチャーの説得に、翡翠と琥珀が点になる。
「あ、本当にやるの、それ……」
「そんなことしなくても、イリヤは俺の家族だ!」
勢い込む士郎に、アーチャーことヤン・ウェンリーは微笑んだ。
「でも、そうして始めて、君たちは本当の家族になる。
法律上というか、戸籍上のね。こいつは重要だよ。
お父さんのことを、もっと深く調べることができるんだ」
黒いジャンパーにしがみつく銀髪が、向きを変え、黒髪の青年に問いかける。
「南の島にいる、キリツグのお父さんとか?」
「そう」
温度を失い始めた手が、銀髪を撫でた。
「探してごらん。切嗣さんの過去を。
士郎君に託した彼の理想の意味を。君に伝えられなかったことを。
どうして、彼はそういう願いを抱くに至ったのか。
それをよく知ることで、
士郎君の目指すものも明らかになっていくのではないかな?」
未来の魔術師が、若き魔術師たちに謎をかける。
「その中で、第四次聖杯戦争も明らかになっていくはずだ。
イリヤ君のお母さん、凛のお父さん、慎二君の叔父さん。
士郎君の本当の家族のことも」
「あ……」
揺れる琥珀に、黒曜石は静かだった。
「私たちに出来たのは、当面の危機を除くことだけだ。
実際のところ、大事なことはなにも解決していないのさ」
「そんなこと……!」
「あるんだよ、凛。聞いてくれないか?」
反論しかけた凛を、珍しくヤンは遮った。
「君は後見人を失った。彼は前回の聖杯戦争の重要な証人で、
聖堂教会の監視役でもあった。
この戦争の後始末が君たちの肩にかかってくるんだ」
そう言うと、ヤンは指折り数え始めた。
「とりあえずは、聖杯戦争に関連する賠償だね。
キャスターとランサーの本当のマスターや、
キャスターとライダーが起こした事件の被害者たちの救済。
聖堂教会や魔術協会、時計塔なんかとも折衝しなくちゃならない」
一本、二本と指が折られ、中指が曲がる。
「それから、間桐翁と言峰神父の死によって、遺族には重荷がのしかかってくる。
こうした償いは、私たちにはできないんだ。
存在するはずのない幽霊だから、法に拠ることはできない。
賠償しろと言われても、私に財産はないし」
ヤンは肩を竦めた。
「あの宝具の数々も、英雄王と一緒に消え去ってしまったものなあ。
残念だったね、凛」
「うっさいわよ! ……この金食い虫。
そんなの、これからいくらでも元を取ってやるわよ」
凛の憎まれ口は、機先を制されたからだ。『あんたが残ってなんとかしなさい!』と喉元まで出かけていた。凛がそんなことを口にしたら、彼に名を二度呼ばれることになるだろう。そんなの、プライドが許さない。
「うん、その意気だ」
強がる元マスターに、アーチャーは微笑んだ。この子は逆風に翼を広げ、高みへと昇るのだろう。見届けることができないのは残念だけれど、せめて言葉を残そう。
「どんなに辛いことがあっても、
君たちが力を合わせ、知恵を絞ればきっと乗り越えられるさ。
過去を探し、知り、今がよりよくなるように考えてごらん。
その先の未来は、君たちのものだ」
「アーチャー……」
しゃくり上げるイリヤの髪をもう一度撫でて、手が離れた。そして、イリヤから彼の体温が離れる。弾かれたように顔を上げるイリヤに、見つめる凛と士郎に、アーチャーは敬礼した。
「君たちの人生の航海の無事を祈る。……今まで、ありがとう」
ヤン・ウェンリーとしては、みんなに伝えられなかった言葉を。
それが最後の言葉だった。染み入るような笑みを残し、黒と白が薄らいでいく。
「そ、そんな、ちょっと、待ちなさいよ」
伸ばした凛の手は空を切った。
「……わたしこそ、なんのお礼も言ってないのに!」
「俺もだ、遠坂」
別れの言葉も言えなかった。天空の船は、音もなく飛翔を始めた。
「あんなに急いで、みんなを乗せてくのにギリギリだったのかな」
船の窓に、青と紫と白の髪、鉛の腕に抱かれた黒い影がちらりと映り、士郎の目にもすぐに見えなくなった。船はみるみるうちに遠ざかり、光の矢となって瞬かぬ星の海を突き進む。光速を超え、士郎たちの視界から、『世界の内側』から消えた。
彼らの船出を寿ぐように、永遠の夜は曙光の空へと姿を変える。
「美しい夜明けですね……」
アーチャーの別れを見守っていたセイバーは、昇る朝日に金の睫毛を瞬いた。二月の下旬、朝の訪れは早くなった。冬はもうすぐ終わり、春が巡り来る。豊穣の女神の娘が、空け
そんな当たり前のことも、セイバーは忘れていたように思う。もう、きっと忘れはしない。
「……シロウ、リン、イリヤスフィール。
私もお別れです」
「セイバー……」
言葉に詰まる士郎に、青いドレスと銀の鎧も凛々しい騎士の王が一揖した。
「私はここで、聖杯よりも尊いものを得ました。
真実を明かし、語らえる友です。
あなたたちがいたことで、私は孤独ではなくなりました」
女であることを隠し、王位に就いたセイバーには、どちらも得られなかったものだ。
「選定の剣を抜いた時、そうしていればと思わなくはありません。
ですが、真実を明かしていたら、私は王になれなかった。
十年どころか、最初の争いで命を落としたことでしょう。
偽りでも、わずかな間でも、国を守ることができた。
それは、決して無駄ではなかったと思います」
「……うん」
セイバーは再び空を見上げた。
「ですから、後悔することははしません。
残りの時間を精一杯に生きます。たとえ、短い時間であっても」
セイバーが浮かべた笑顔は、それまでで一番美しかった。
「ありがとう、シロウ。リン。イリヤスフィール。
答えを得ました。
私の願いは、大勢の人の手を経て、ここに到るのです。
皆が笑顔の争いのない国を。その理想は間違いなどではなかった。
ただ一人、剣で成し遂げられると思ったことが、誤りだったのだと」
セイバーの髪が、鎧とドレスが、そして聖剣が、輝きながら、静かに解けていく。
「シロウのいう『全てを救う正義の味方』という理想は尊いものです。
シロウだけではなく、皆がそうなればきっと届きます。
……別に、正義の味方が大勢いても構わないのでしょう?
イリヤスフィールの好きなテレビのように」
「セイバー……」
声を揃える姉弟に、セイバーは珍しくいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「私の轍を踏まないよう、シロウたちは仲良くしてくださいね。
さようなら、友よ。
あなたたちと出会えたことが、聖杯にも勝る宝です。
本当にありがとう……」
「俺も、ありがとう……。俺、頑張るから。きっと頑張るから」
それは煌めく夢の終わり。生あるものは再び歩み出す。長いか、短いかの違いはあろうとも。過去を訪ね、今を生き、やがて未来へと続く。
そして始まる、新たな物語。