「……ごめん、凛」
とても悲しそうな声で、黒髪の青年は呟いた。
「やはり、死なせてしまったよ」
うつ伏せに倒れた言峰には、外傷らしきものは見当たらなかった。だが、横顔から覗く目は、見開かれたままで聖剣の輝きにも反応していない。逞しい胸も背も微動だにせず、それは絶息していることを意味した。
「……あなたが?」
セイバーの問いに、黒い睫毛が伏せられた。
「そういうことになるね。
あれだけの宝具を連続して撃ったら、マスターが無事では済まない」
「なっ!?」
洞窟の上部が吹っ飛んだのを見て、遮二無二に飛び込んだセイバーである。その前後の凛の様子はどうだっただろうか?
一気に血の気が引いたが、近づいてきた三つの足音に振り返り、ほっと胸を撫で下ろした。黒髪を揺らす赤いコートの少女と、赤毛に褐色の制服の少年。銀の髪の少女はライダーが抱きかかえていた。
「リンは無事なのに……」
アーチャーの睫毛が上がり、薄っすらと笑みを浮かべた。
「うん、私はずるをしたからね。その一方で、彼らの抜け道は塞いだ。
こうなることも期待して。……ひどい話だろう?」
消沈した言葉に隠された凄みに、セイバーは絶句してしまった。アーチャーは言峰主従との決戦に際して、教会という霊脈を奪い、生贄を解放し、預託令呪を剥ぎ取っていた。魔術的な兵糧攻めを行い、英雄王を全力の戦闘に駆り立てた。
サーヴァントが手強いなら、マスターを狙う。聖杯戦争の定石だった。
「どういうことですか……」
「『受肉』がどういうことかはわからないが、サーヴァントはサーヴァントだ。
マスターは令呪を持っている」
セイバーは沈痛な面持ちで頷いた。四次の槍兵を思い返したのだ。
「だから、あなたは降伏を促したのですね。
普通ならば、サーヴァントと己の命を引き換えにしない」
「そうだ。言峰神父も戦闘に巻き込めば、自分の命を選択するだろうと」
ギルガメッシュを自害させれば、私刑は行なわず、司直の手に委ねる。アーチャーが何度も繰り返した勧告だ。
「だが……」
アーチャーは言葉を切ると、倒れた言峰を見下ろした。
「彼はそうしなかった」
「あなたのせいでは……」
黒髪が左右に振られた。
「それもありうると私は知っていた。
四次アサシンを使い潰した言峰神父が、英雄王は十年も厚遇している。
英雄王も従っていた。
半月も経たずに、凛の父から乗り換えた彼がだよ。
それなりに気が合う、特別な存在だったのだろう」
醜悪に美を感じるという言峰だが、英雄王には美に美を感じ取ることができたのではないか。特異な価値観を肯定する物差しだったのかも知れぬ。
「こうなってしまっては、知る術もないが」
アーチャーは疲れたように屈み込み、言峰の瞼を閉じようと手を伸ばした。その指先が言峰の顔面をすり抜ける。
「アーチャー……!」
「やっぱり駄目か。ご覧の有り様で、蘇生の処置ができなくてね。
……蘇生のリミットは過ぎてしまったかな」
洞窟の天井が吹き飛んでから、10分近くが経過していた。蘇生の成功率は5分を過ぎると急速に下がり、10分で0%になる。救命処置をしたくても、エーテルが綻び始めたアーチャーには手の施しようがなかった。
「君の鞘で、どうにかならないかい?」
セイバーの髪が左右に揺れた。聖緑が切なげに伏せられる。
「この鞘は、持ち主を死から遠ざけます。
ですが、死者を蘇らせることはできません」
アーチャーは微かに頷いた。セイバーの言葉の二つの意味を、アーチャーことヤン・ウェンリーは覚った。言峰の蘇生は無論、死者であるヤンを癒やすこともできないということだ。死んでから宝物を手に入れることはできない。
「……勝手なことを言って済まなかったね。
殺しておいて、蘇生させようなんて偽善の極みだが、
それでも言峰神父には生きて償って欲しかったんだ」
深紅を眇めたランサーは、忌々しげに吐き捨てた。
「この外道に慈悲は不要だ。
おまえがやらなければ、俺が心臓を抉ってやったものを」
アーチャーは首を振る。
「慈悲などではありません。
教会の地下の子どもたち、凛や桜君の父、イリヤ君の母のこと。
償うべき罪と、明らかにすべき過去の、唯一の手がかりだったんです。
彼の死で、真相は永遠にわからなくなってしまった。
私の力不足だ。ごめん、みんな」
言葉もない士郎たちに、黒髪が深々と下げられた。
「戦うことはできても、本当の意味で君たちの助けになることはできなかった。
私は本当に役立たずだ」
彼の言葉に凛はぞっとした。アーチャーは自分のことを過去形で語っている。薔薇の騎士を召喚した時と異なり、霊体化もせずに。
これは遺言だ。激闘の果てに、彼の命数が尽きかけている。
「だったら、だったら、ちゃんと最後まで働きなさいよ!」
命令したじゃないの。それとも、私の命令が聞けないっていうの!?」
凛の剣幕に、士郎ならば竦み上がったろうが、アーチャーは苦笑いして肩を竦めた。
「令呪もなしに、そんな無茶な命令は聞けないよ」
その間にも、どんどん姿が薄れてゆく。『この世全ての悪』と二つの令呪の補助があったとはいえ、彼もギルガメッシュに匹敵する宝具を続けざまに使ったのである。
凛が無事なぶん、彼の負担はより大きかった。魔力を使い果たし、消滅しようとしている。
凛はアーチャーに駆け寄った。
「そんな勝手なこと言って、許さないわよ!」
凛は最初の夜と同じく、頼りない腕を掴もうとしたが、その手はすり抜けてしまった。煙に手を突っ込んだように。そして、かき乱された煙のようにアーチャーの右手が消えた。
「う、嘘……」
凛は息を飲み、アーチャーは目を丸くした。苦笑を漏らしながら、右腕を軍服のポケットに突っ込む。
「……たしかに、私は幽霊なんだなあ」
「ば、馬鹿、呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ!」
凛はコートのポケットをまさぐった。十年ものの虎の子は、ライダー戦で三つ、桜とアーチャーの回復に一つずつ、ギルガメッシュへの襲撃に三つ。全財産と言いながら、あと二つを残していた。
「これ飲んで!」
突きつけられた宝石に、アーチャーは首を振った。
「悪いが遠慮しておくよ。きっと、すり抜けてしまう。
これからのために取っておきなさい。
魔術師の勉強に留学したいんだろう?」
「それはそれ、これはこれよ!
わたしが勉強に打ち込むには、聖杯戦争にカタを付けなくちゃならないの。
さんざん引っ掻き回したんだから、ちゃんと責任取ってよ」
宝石片手に詰め寄る凛に、アーチャーは首を振った。
「年長者として、ひとつ忠告させてもらうおうかな。
幽霊よりも、今を、家族と友人を大切にというのは、
君たちにも当てはまることだ。
私の心配よりも、言峰神父を心配すべきじゃないかい?」
「う……」
黒い視線が下に落ちた。士郎はビクリとした。消え行くアーチャーを前に、言峰の死は意識の隅に追いやられていた。
『全てを救う』のが正義の味方なら、真っ先に救うべきは言峰だったろう。
だが、イリヤが攫われ、殺されそうになって、士郎は思い知った。全てを救いたいなら、戦いを選択するのは間違っている。救うという選択肢は勝者にしか与えられない。しかし、勝利は相手を打倒しなくては得られない。人類が生まれ、存続するかぎりはついて回る矛盾。
戦いを選んだアーチャーは、言峰ひとりと士郎たち五人を比べ、後者の未来を選択した。
『全てを助ける正義の味方』にはほど遠い、将としての当然の選択。セイバーが、衛宮切嗣が、エミヤシロウが行い続けた選択でもあった。ぎりぎりまで説得に努め、翻意を促したのは、士郎に知らせたかったのだろうか。
士郎の理想は、戦いの中では手に入らないと。
「やった私が言うのはなんだがね」
アーチャーは、左手で髪をかき回そうとしてやめた。髪が消えるのは嫌だったし、そんな動作も億劫になるほどの脱力感に襲われ始めていた。
「途中で放り出すのは心苦しいが、そろそろ無理そうなんだ」
「そんなのダメよ!」
ライダーに抱かれていたイリヤが、声を張り上げた。取り込んだギルガメッシュの魂は重く、駆けつける途中で座り込んでしまったほどだ。一人で置いてはおけないと士郎が背負ったが、洞窟を進むにはいかにも危なっかしい。見兼ねたライダーは代わりを申し出た。
『兄貴分の義理の妹は小姑である』
聖杯の囁きもあってのことだ。サクラのために、イリヤも敬するべきだ。遠縁の美女の話を聞くと、恋愛は当事者の周囲をいかに取り込むかが大事らしい。シンジと一緒にやってしまった悪行の数々を、ここで挽回しておきたい。
そんな思惑を知ってか知らずか、イリヤはライダーの申し出を受け入れてくれた。ライダーと触れ合ったことで、皆の誤解も解けていた。服装こそ扇情的だが、愛情深く、生真面目で天然、そして受動的な性格。
マスターを大切に思うがあまり、慎二の無茶な命令にも従ってしまったのだ。悪いのは慎二だが、間桐の事情を知れば彼も被害者だった。
直接的には十年前に始まった、二百年かけて生み出された悲劇。願いを叶える手段としての聖杯戦争が、いつしか勝利を目的とするようになっていた。不老不死あるいは根源への到達。人としての究極の幸福を追求していたはずが、当事者たちの幸福を顧みなくなった。
「な、なんでさ?」
「シロウには黙ってたけど、聖杯の器はわたしなの」
「は?」
琥珀が真ん丸に見開かれた。
「わたしのお母様はホムンクルス。わたしも半分はそう。
聖杯になるために作られたの。
アーチャーたちは気がついていたみたいだけど」
他者を食らった臓硯と、ホムンクルスを作り使役するアハト翁は本質的に同じだ。聖杯戦争を是とし、未来の勝利を期して、幼い娘を養女に出した遠坂時臣も。御三家は同じ轍を踏み、行き先は異なれど破滅へ進んでいたのである。
「イ、イリヤが器って、一体どういうことさ!?」
もつれる口を必死に動かし、士郎は血の繋がらない妹を問いただした。
「シロウ、説明は後よ。とにかく、さっき、わたしは金ピカを取り込んだの」
「それで具合が!?」
銀髪がこっくりと上下動した。
「あいつをやっつけたアーチャーが来たら、わたし……、どうなっちゃうのかな……」
潤みを帯びたルビーが、ライダーの胸元から士郎を見上げていた。目を逸らすのも、凝視するのも難しい位置だ。凛は雪の妖精を横目で睨んだ。あざとい。あざとすぎる。
案の定、搦め手に弱い士郎は真っ赤になった。自然、質問もしどろもどろになる。
「あ、え、その、どうなるのさ?」
「わからないけど、わたしのなかでケンカしない?」
衛宮姉弟に視線を向けられて、薄れかけたアーチャーも目をぱちくりさせている。
「いや、それは何とも言いがたいんだが……」
今わの際に訊かれても、ヤンとしても困惑するしかない。
「ふうん、わからないんだ。わたしたちの未来を望むって言ったくせに、無責任よ。
アーチャーが死んだら、わたしもすぐ死んじゃうかもしれないのに!」
金ピカこと英雄王ギルガメッシュは、その強大さにふさわしい魂の質量の持ち主だった。『この世全ての悪』を取り込み、彼に拮抗したアーチャーの質量はいかばかりか。
聖杯の器として調整を重ねたイリヤだが、これほどのサーヴァントが揃うとは想定外だった。勝者と敗者を間を置かず取り込んでも大丈夫か。
エミヤは、何度目かの驚愕を味わった。彼の知る義姉は、儚げな雪のように、器という運命を、従容と受け入れて死んでいった。
こんな風に真実をぶちまけ、なりふり構わず未来を望むことなどなかった。それは希望を知ったからだ。愛するものを得たからだ。
この世界の士郎は、かつてのエミヤに比べてもずっと弱い。だが、イリヤに生への執着を与えることに成功している。衛宮切嗣の子どもとして、共に父の真実を探し求めようとしたからか。
声もない同僚にランサーは髪をかき回し、専門家にお伺いを立てた。
「ちっこい嬢ちゃんはこう言ってるが、どうなんだ、キャスター」
『器本人にもわからないのに、私が知るわけないでしょう』
そっけないが、至極当然の言葉だ。だが、付け加えられた一言で皆が血相を変えた。
『ただ、お嬢ちゃんが心配するように、
異質な魔力同士、衝突する可能性がないとは言えないわね。
それよりも、『この世全ての悪』を取り込んでしまうのではないの?』
「おいおいおい! そりゃまずかねえか!?」
「――あ。そこまでは考えていなかった」
「だ、駄目だ! 死んだら駄目だぞ、アーチャー!」
慌てる士郎を尻目に、セイバーが進み出た。ぽかんとしているアーチャーを羽交い締めにする。サーヴァントであるセイバーは、凛と違ってすり抜けなかった。
「な、何をするんだ!?」
「今です、リン!」
「ええ。全財産、持って行きなさい!」
驚き喚いたその口に、凛は宝石を突っ込み、治癒魔術を掛けた。すり抜ける前に魔力にしてしまおうというわけだ。効果は覿面、アーチャーの輪郭がしっかりとした質感を取り戻す。
ただし、アーチャーはふたたび咳き込むことになった。砂状になった宝石を、うっかり吸い込んでしまったので。
「ちょっと乱暴すぎるぞ、二人とも! もうちょっと、こう、優しく……」
手を握り合う凛とセイバーに、士郎は抗議した。咳き込むアーチャーの背をさすりながら。相変わらずの薄い背だが、士郎の手がすり抜けることはなかった。
「消えかけてたんだからさあ……」
「アーチャーが考えなしなのが悪いのよ!
今死んだら、これまでのことがご破算じゃないの!」
「む……」
「『この世全ての悪』をどうにかしないと、イリヤが死んじゃうかも知れない。
最悪、また災害が起こるかも知れない。どうするのよ!」
そう言われると、士郎にも反論の術はない。
アーチャーはなんとか息を整えると、弁解めいた言葉を口にした。
「一応、私も考えてはいたさ」
「何をよ?」
「何度も降伏を勧めただろう?
もともと、戦うつもりで出したわけじゃなかったんだ。
『彼』も乗せて、帰るつもりだったんだよ」
そう言って、形を取り戻した右手で髪をかき回す。
「帰るって、どこに!?」
「『英霊の座』だよ。
固有結界は、世界を術者の心象で塗り替えるんだろう?
私の『世界の内側』ならば、『世界の外側』に行けると思う。
『世界の外側』が、いわゆる亜空間ならば、さっきの船で行けるんだ」
「宇宙船でって、まさかワープする気だったの!?」
アーチャーは疲れたように頷いた。
「そう。そのために艦隊が必要だったんだ。正確に言うなら、副司令官の手腕がね。
説得に失敗して、戦わざるを得なくなってしまった。
英雄王があまりに手強くて、逃げ出す余裕もなかったんだよ」
「ええっ!?」
凛は言葉を失った。虎の子で一時的に延命しても、なんの解決にもなっていない。要塞と艦隊ほどではないにしろ、全長一キロ近い船を顕現させる魔力なんて、どうやって工面すれば――。
立ち尽くす弓の主従の足元を、黒く細いものが這っていく。それはアイボリーと黒に包まれた足に辿り着き、呟きを漏らした。
『……ツレテイッテ。オイテイカナイデ』
ヤンは屈んで手を差し伸べた。
「おや、もう一人いたのか……。君も力を貸してくれるのかい?」
黒い影はするりとアーチャーに溶け込んだ。ランサーが呻く。
「増えてるぞ、おい! 状況が悪化してねえか!?」
エミヤは力なく首を振った。
「頼む、言わんでくれたまえ。……そんな事実を」
おたおたする男どもに、女主人がぴしゃりと言い渡す。
『アーチャーが平気なら、さしあたって問題はないでしょう。
彼をどう生かしておくか、そちらのほうが難問よ』
ライダーの胸で、しろいこあくまがにっこりと笑った。
「そんなの簡単よ。わたしのサーヴァントになればいいんだわ。
魔力なら金ピカのがいっぱいあるもん。
それでアーチャーが元気になれば、サイコーのフクシュウじゃない?」
「イリヤ君、イリヤ君。そんな言い方、誰に教わったんだ……」
ものすごく傷ついた顔をして、アーチャーは問いかけた。答えは言葉ですらなく、向けられた全員分の視線(眼帯越しも含む)だった。黒髪の青年は肩を落とすと、どうにか反論を捻り出した。
「君にはバーサーカーがいるじゃないか」
「でも、ほかにマスターになれる魔術師はいないわ。
リンは令呪がないし、シロウは魔力が足りないもの。
ねえ、ライダー、アーチャーがサクラのサーヴァントになってもいい?」
ライダーは、腕に抱いた少女に首を振ってみせた。
「あの、それは無理です。サクラは魔力を搾取されていましたから、
まだ本調子ではなくて。とはいえ……」
『あの子が万全でも、アーチャーまで養うのは無理よ』
間桐家の家庭教師は手厳しい。
兄と妹に魔術を教え始めたキャスターは、二人の力量を把握していた。
無論、己の魔力についても。
「ねえ、キャスターはどう?
アーチャーのこと、スカウトしてたんでしょ?」
『あの晩の誘いのことならば、撤回させていただくわ。
まさか、こんなに底なしの大喰らいだなんて』
「は、はぁ」
魔女の矛先は、煮え切らないアーチャーに向けられた。
『四の五の言わずにお受けなさい。
貴方という殻が消えたら、『この世全ての悪』は概念に戻り、
魔力と共に聖杯の器に流れ込むのよ。
英雄王の魔力が渦巻いている中にね』
こうまで言われて、理解できないヤンではなかった。まことに不本意だったが。
「つまり私は、前回か前々回の、
もしくは相乗された害をもたらしうるってわけですか?」
『そうよ。さっさと再契約して、『この世全ての悪』と一緒に出て行ってちょうだい。
とりあえずはそこから!』
キャスターの言葉は二重三重に切実だった。 ここでヤンが消滅したら、冬木の地脈の中枢にどんな影響を及ぼすことか。よりにもよって、キャスターの神殿の真下でもある。
しかし、それ以上に切迫した問題があった。
『あんなに大きな音を出して、さっきからこちらの電話は鳴りっぱなしよ!』
洞窟を突き破った一撃は、冬の夜に轟音を響かせた。柳洞寺は深山町のランドマークだ。檀家はもちろん、警察に消防、市役所からの問い合わせが殺到している。
『寺に被害がないと言っても、あちらは納得しないようだわ』
「まあ、それが行政の役割ですが、いや、実に優秀だなあ……。
平和の豊かさとはこういうことか」
羨ましがるアーチャーに、キャスターは金切り声になった。
『呑気なことを言わないでちょうだい。
その優秀な面々が、半時間後には到着するのよ!
大聖杯が衆目に晒されて平気なの?
今の世は、魔力が乏しいからこそ秘匿しているのでしょう。
そこを踏み荒らされたら、私たちはどうなるのよ!?』
凛とイリヤは顔を見合わせた。
「そんなこと言われても、想定外だわ……」
「うん、よくわかんないよ。
一番ありそうなのは、みんなが消えちゃって、
わたしに取り込まれることかなあ」
「んなっ!? って、みんな金ピカと敵対してるじゃないか!」
洞窟の面々に動揺が走り、アーチャーに向けられた視線に非難の色が混じる。
「それによ、その神父もどうにかしないとならんぜ」
ランサーが、倒れたかつての主を顎で指した。
「下手すりゃ、坊主たちが追われる身になる。
おまえの悪知恵が要るんだよ」
逃げ場を失ったヤンはうろうろと視線を彷徨わせ、鋼色とぶつかる。褪せた白髪が深々と下げられた。
「私からもお願いする。私の世界のイリヤも聖杯の器だった。
器として作られて、人として長くは生きられなかった」
士郎は息を呑んだ。自分の未来の可能性が語る、たった一人の家族の末路。
「今思うと、何体かのサーヴァントを取り込んでいたからだろう。
あなたが拒む気持ちは分かるが、
イリヤのために、……衛宮士郎のために」
黒い瞳が瞬いて、優しげに細められた。
「……エミヤシロウのためにもなるかい?」
エミヤは頷いた。一番に自分の味方をしなさい。自分が救われて、誰かも救える。それが一番冴えたやり方。そう言ったのは、この世界の遠坂凛だった。
「そして、遠坂凛のためにも。あなたが消滅し、イリヤにもしものことがあったら……」
エミヤは言葉を濁したが、ヤンには分かった。凛は士郎に顔向けできなくなり、家族と友人という
それを防ぐのがエミヤシロウの願い。
黒い瞳が瞬き、ゆっくりと周囲を見回した。穴の開いた洞窟の天井、地面に倒れた言峰。彼の周囲にいる人々。黒髪の少女、銀髪の少女、赤毛の少年。
そして、サーヴァントたち。金髪の少女、銀髪の偉丈夫、青髪の美丈夫に紫髪の美女。鉛色の巨漢も現れた。みながヤンを凝視している。
ヤンは溜息を吐き、眉を下げ、髪をかき回した。イリヤの申し出を拒むと、言峰主従に切った啖呵を自らひっくり返すことになる。
「仕方がないか……。お願いするよ、イリヤ君」
イリヤは微笑み、凛と声を張り上げる。
「―――告げる!
汝の身は我の下に、我が命運は汝の弓に!
聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら、我に従え!
ならばこの命運、汝が弓に預けよう……!」
「……アーチャーの名に懸け誓いを受ける。
君を我が主として認めよう、イリヤ君」
かくて、イリヤの目論見どおり『リャクダツアイ』は成就したのであった。