遠坂凛の日常は、表向き平穏に流れていた。水に浮かぶ白鳥のように、見えないところで足掻きながら。
衛宮家の認知騒動にも、間桐家の不幸にも、凛には何の権利もない。裏でがちがちに結びついていようとも、聖杯戦争の真っただ中であろうとも、学校にちゃんと通わなくてはならないし、課題だってやらなくてはいけない。
後見人の言峰の不祥事について、担任の葛木教諭に相談したのは正解だった。実妹の桜を頼る形で、間桐家に避難したのもだ。
病気療養に忌引きで、学校を休んでいる慎二と桜にバックアップしてもらうことができたのである。今にして思えば、凛の認識は大甘だった。サーヴァントと二人で、二週間も戦い続けるのは不可能だ。パートナーがアーチャーではなく、セイバーやランサーであったとしてもだ。後方支援があってこそ、戦線は維持できるのである。
――あいつらは、綺礼と英雄王はどうしているんだろう……。
彼らの環境が、自分たちに勝っているとは思えない。綺礼は児童監禁虐待を暴かれ、英雄王は通り魔になるように仕組まれた。帰りのホームルームでも、彼らに関する注意喚起がなされ、警察からのチラシが回ってきた。
凛はチラシに目を落とした。詳細な捜査状況が載っているわけではない。高校生にまで配っていることが、警察の苦境を示すものだろう。始めから期待はしていなかったが、内心で溜息を吐く。
そして、鞄に入れるため、チラシを折ろうとして裏面の印刷に気付いた。チラシが行き渡るのを確認して、教壇の葛木が口を開いた。
「今配ったのは、警察からのお知らせだ。裏まできちんと読んでほしい。
先日の通り魔事件に関することだ」
教室に紙をめくる音が満ちる。
「学校側の対応としては、当面の間、放課後の部活動を休止する。
場合によっては、高校受験、年度末考査以降も延長となるかもしれん。
早急に帰宅し、寄り道をしないようにな。
休日の際も、遅くまでの外出は控えるように」
まばらに肯定の声が上がったが、承服しかねる面持ちの生徒のほうが多い。
「今週末から受験休みが重なるから、外出を予定している者もいるだろう。
それに載っている行方不明者は、外国人の女性旅行者だ。
先日の通り魔事件の被害者も、旅行中で手荷物を持っていた。
そういう人物を狙う犯人かも知れないとのことだ」
凛はまじまじとチラシを見つめた。似顔絵が載っている。あまり達者な筆致ではないが、それでも美人だと思える顔だった。短髪にきりりとした目鼻立ち、左目下には黒子。耳元の大振りなピアスは滴を思わせる形で、凛にも見覚えがある。
絵の下には、身長と服装、髪と瞳の色が記載されていた。読むかぎりでは、ワインレッドの髪と鳶色の瞳に、長身でスタイル抜群の男装の麗人らしい。
「だが、誰もが被害者になる可能性がある。そんな不幸は、皆も望まないだろう。
遅くなったら、家の方に迎えに来てもらうか、タクシーを利用するように」
「ええーっ、タクシーですかぁ!? そんなの高くて乗れないですよぉ」
女生徒から不承の声が上がった。次々に追従と頷きの輪が広がる。だが、葛木は落ち着いたものだった。
「小遣いを惜しむなら、なおさら早く帰ることだな。
もっとも、先日の通り魔はまだ夕方だったが」
「うー……」
「バス停で、バスを待っていたところだったそうだ」
「えええー」
学級にざわめきが広がる。一般的な高校生にとって、これほど危機感の募る状況はそうはない。
「ほんの短い時間、短い距離でも安心できんということだ。
この行方不明者も、タクシー会社からの情報で明らかになったそうだ」
凛は驚きに目を見張った。無名のタクシー運転手も、決して無力ではなかった。美しく目立つ女性客を覚えていて、彼女が見当たらないことを気にしてくれたのだろう。その通報に、警察は奇禍に遭ったライダーとの相似を見たのだ。
まさか、これもアーチャーの狙い? 考えすぎかも知れない。だが、そう考えてしまうのがアーチャーの怖さだった。
凛の思いを知る由もなく、葛木は言葉を継ぐ。
「君たちも、これらの件で何か知っていることがあれば、
学校や警察に相談してほしい。私からの連絡は以上だ」
間桐家に帰った凛は、そのチラシをランサーに見せた。
「ねえ、この人、あなたのマスターでしょ?」
「あぁ!? ……そうだ。だが、なぜ……」
「条件がライダーと似てるのよ。外国人で、旅行者で、物凄い美人」
ランサーの赤い瞳が丸くなった。
「や、それは……。いや、そういえばそうなるのか?
まあ、たしかに別嬪といえば別嬪だがなあ……」
ワイルドすぎたマスターと、淑やかなライダーが似てるとは咄嗟に考えつかなかった。だが、条件範囲を大きくすれば、ライダーと彼女の特長は重なるのだ。
「きっと、金ピカの被害者じゃないかって思われてるんだわ。
犯人は、好みのタイプを狙うっていうもの」
実際の加害者は英雄王ではない。だが、当たらずしも遠からずだ。
「アーチャー、出てらっしゃい! あんた、これを狙ってたわけ!?」
金切声を上げた凛の前で、空気がモノクロに色づいた。
「いや、これはむしろ必然だろう。
こんな人口密集地で、秘密裏に戦うほうが無理ってものだ。
だから、二百年は長いって言ったじゃないか」
溜め息交じりに毒を吐かれ、凛は言葉に詰まった。
「外から冬木に来た人間は、まず駅に降りるだろう。
ライダーに、そうしてもらったように」
だが、否定していない。凛は眉を吊り上げた。
「やっぱり狙ってたんじゃない!」
「狙うというか、そうならざるを得ないのさ。
自然を装うなら、おのずと手段は限られる。
外国人の美女が襲われる事件が起これば、結びつけて考える人が出てくるんだ。
吉と出るか、凶と出るかは分からんがね」
アーチャーはそう言って、凛の手からチラシを取り上げた。余白になにやら書き込み、ファックスに乗せようとして、逡巡を見せた。
「あれ、どっちだっけ?」
首を傾げるアーチャーに、桜が応じた。
「アーチャーさん、送りたい方が下ですよ」
「ああ、ありがとう」
アーチャーはメモを片手に、ファックスのボタンを押した。
「あの、どこに送るんですか?」
「時計塔にだよ。彼女はあちらの職員だからね。
救助なり、応援なり、寄越してくれてもいいと思わないか?」
「本当にそうですね。
ランサーのマスターさん、早く見つかるといいのに……。
ランサーさんも、心配ですよね?」
「お、おう、そうだな……」
それは大いに同意するが、正直望み薄だとランサーは思っていた。
「そいつは置いといてだ、いつの間に仲良くなってんだ?
嬢ちゃんの妹とアーチャーは」
ランサーは声を潜め、凛に囁きかけた。
「……いつの間にかよ。慎二とも結構、うまくやってるの」
ランサーの言うとおり、いつの間にか、凛と桜、慎二たちは打ち解けていった。サーヴァントたちと一緒に。
食卓を囲んで、キャスターの料理を皆で論評する。アーチャーとライダーが地図を睨む傍らで、キャスターが魔導書の解読を担当し、凛は頭を絞り尽くす。そして、学校の課題に唸る高校生たちに、アーチャーが講師を買って出た。
こんな触れ合いは、凛たちが始めて知るものだった。知って気付いたのだ。今までがいかに孤独であったのか。魔術師としての生き方以外、なにも知らないに等しかった。
士郎の『正義の味方』願望を批判しようとしたのは、いかにおこがましいことだったか。凛は、先人たちの願いをただ受け継いだだけで、自ら考えてはいなかった。
自らを取り巻く環境としての世界を変えるには、魔法は不要だ。他者と交わることで、自分が変わり、世界も変貌していく。輝き、時に影を帯びて、幾層にも色彩を重ね、厚みを増す。
たとえ拙くとも、それは凛だけの世界。そんな世界を、皆が持っている。それぞれに全く異なるものを。
凛には、これがアーチャーがこだわった思想のように思えるのだ。誰かの唯一を認めながら、自分の唯一も認められる、そんな世界を、と。
「士郎とイリヤもそうだけど、セイバーもよ。
最近、学校の授業を楽しそうに受けてるみたい」
一時の触れたら切れそうな切迫感が消え、セイバーの表情はずっと柔らかになった。士郎のクラスの面々も、セイバーの存在に慣れ、女子に可愛がられているらしい。
ランサーは顎をさすった。
「いっそ、あいつらが諦めりゃいいんだがなぁ……」
「そうね……」
だが、凛は知っていた。言峰綺礼という男を。彼は、他人の心の傷を切開し、痛みを収集することに喜びを感じるのだ。これ以上ない機会を前に、引き下がるだろうか。
誰もそう思っていないからこそ、凛は令呪の解析を続け、士郎はエミヤとの鍛錬に励んでいる。 その中で、アーチャーはなんとか時計塔に連絡を取り、じっと何事かを考えていた。
そして、ついにその日は訪れた。
「――こちらアサシン。連中が金貨に手を出したぞ」
それは街に出掛けたイリヤたちが帰宅し、士郎らが学校から戻ってくる前の時刻に起こった。イリヤとセラたちが車から降り、エミヤは駐車場に車を置きに行く。その空白を裂き、白刃が飛来した。
最速で反応したのは、イリヤの忠実な従者だった。鉛色の巨体が顕現し、斧剣を縦横に揮い、十を超える剣を弾き飛ばす。しかし、それは全体の半数あまり。残る剣の矢から主人を庇うため、彼はその体を盾にした。両腕に剣が突き立ち、やがて断ち切られ、がら空きになった胸郭に数本が埋まる。すさまじい出血はすぐに霧散し、同時に従者の姿も掻き消えた。
「やっ、いやあぁ! バーサーカー! ――くっ……」
悲しみと苦しさに顔を歪め、小さな体が倒れかけた。それを逞しい黒い腕が抱きとめる。礼を言いかけてイリヤは気付いた。白手袋をつけた執事の腕ではない。視線を巡らすと、昏く淀んだ瞳と目があった。抱え上げられたイリヤは、細い手足をばたつかせて、必死の抵抗を試みた。
「いやっ、放して! あっ」
執事を超える体躯の言峰にはなんの効果もなく、当て身を食らわされて気絶する。
「行くぞ」
ギルガメッシュに声を掛けて身を翻す。異変に気づいたか、革靴の音が速度を早めて近づいてきた。低い声が切れ切れに聞こえる。あの固有結界の詠唱をしているのかも知れない。されば長居は無用、執事に扮したアサシンはギルガメッシュの天敵だ。
エミヤが飛び込んできたのは、まさに一足遅れだった。衛宮家の屋根を越えていく、黒髪と金髪の主従。黒い肩に揺れる銀髪。追いかけようとして、牽制に打ち込まれた剣を投影した剣で弾き飛ばし、貴重な一瞬をロスしてしまった。もう足では追えない。黄金の舟が現れ、悠々と夜空へ漕ぎだしたからだ。
「予想より早かった。連中も焦っているということか」
エミヤは懐から携帯電話を取り出した。ワンコールで出た相手に、早口に告げる。
「――こちらアサシン。連中が金貨に手を出したぞ」
***
それからきっかり三分後、エミヤの携帯電話にメールが着信した。
発信者は遠坂凛。
【あるふあ くりあ】
その二分後に間桐桜から【ブラボー クリア】の報告が届く。
「遠坂邸と間桐邸は無事だったか」
これはアーチャーことヤン・ウェンリーの予測のとおりだった。聖杯戦争は三つを揃えないと真の勝者にはなれない。
一つ目は、自分のサーヴァントを最後まで勝ち残らせること。二つ目は、聖杯の器。
そして三つ目が、聖杯降臨の霊地。柳洞寺地下の大聖杯、遠坂家、教会のいずれか。
しかし、器があっても中身がなければ話にならない。中身となるのは敗退したサーヴァント。残り時間は少ない。サーヴァントを倒すなら、器と霊地を抑えてしまったほうが合理的だ。
「彼らがいかに強かろうとも、手足は二本ずつしかないからね」
イリヤに起こされた後、バーサーカーの宝具を教えてもらうに及び、急遽、作戦会議が開かれることになった。
「できることは限られるのさ。
いっそ器を渡してしまい、我々は防衛に徹して終戦を待つというのも手だが」
「……渡せないの。聖杯の器はわたしだから」
口ごもりながら伝えたイリヤに、アーチャーは目を伏せた。
「ごめん、言いにくいことを言わせてしまったね」
いつものとおりの優しく落ち着いた口調だった。アーチャーは驚いていない。イリヤは逆に動揺した。
「え、ど、どうして……?」
「なんとなく、そうではないかなと思っていた。
でも確信が持てなかった。教えてくれてありがとう」
確信が持てないまま、アーチャーは戦いを避けた。第三魔法『魂の物質化』が不老不死を指すなら、『天の杯』とはなんなのか。『無限の魔力の釜』がそれに当たるのではないか。
千六百年後の未来には、近い物が存在する。水素の核融合反応によって動力を生み出す核融合炉。それは恒星とメカニズムを等しくする。恒星を『不老不死』『無限の力の釜』と呼んでも差し支えなかろう。むろん星にも寿命はあるが、たかだか一万年少々の人類史と比べるのも愚かだ。
もっとも、ヤンの時代の核融合炉は、燃料の補充が必要だったから、厳密には無限ではない。人間の手では、恒星並みの質量や寿命のあるものは作れない。だが、不完全な極小の星でも、人間が手にするためには様々な技術が必要だったのである。
核融合反応に必要な、十億度の熱をプラズマによって発生させ、熱が漏れないように強力な電磁場で封じる。英霊を燃料兼プラズマ、器を核融合炉と考えると、器にこそ尋常でない性能が要求される。
用意するのは、錬金術の大家アインツベルンの役割だ。錬金術は
周囲にそれと知られずに、小柄な少女が携帯できる大きさだろうかというのが、ヤンが最初に抱いた違和感だった。
その小柄な少女は、桁外れの魔術回路と魔力を持っていた。バーサーカーのマスターの、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。第四次聖杯戦争に参加した母と酷似した、白銀の髪に真紅の瞳の持ち主だ。父は黒髪黒目なのに、傍系らしきメイドたちが同じ色彩を持っている。
髪や目は濃い色が優性遺伝するのに、いくらなんでも不自然だ。ヤンはさらに訝しんだ。
そして考えた。神話や伝説で、不老不死そのものを得た者はいない。しかし、死者蘇生のアスクレピウスに、山羊を若返らせた王女メディアなど、違うアプローチを取れそうな英雄はいる。
素人のヤンでも思いつくのに、二百年もその手段を考えないのは、アインツベルンの第三魔法とは、個体としての不老不死とは違うのか。永久機関としての不老不死ではないのか?
ならば、まさしく魔法だ。地上に意志ある恒星が現れるのだから。
「……ほんとうに、あなたは賢いのね」
疑いながらも、イリヤが口にするまで面と向かっては何も言わなかった。
「まあ、私は宇宙で長く生活をしていたからね。
宇宙船の心臓が、その核融合炉なんだよ」
彼は、父の船の事故の原因は、核融合炉の故障だったと続けた。
「それだけじゃなくて、こっちにはピュグマリオンの同時代人もいるし」
イリヤは口を開閉させた。彫像の美女を恋して、神に祈り、人にしてもらったギリシャ神話の登場人物だ。さりげない暗喩で、一番言いにくいことを言わずにすんだのだが、イリヤがホムンクルスということまで、彼に察知されていたわけか。
「アーチャーが味方でよかった……」
「こちらこそ、同盟のお礼を言わなくちゃならないよ。
もう一つ言っておくよ。君は器じゃなくて人間だ。それが強みになる」
「え?」
「近いうちに彼らは動かざるを得ない。
聖杯戦争の勝者となる賭けに出たほうが、まだしも分がいい」
今はジリ貧になっている状態だろう。水や食料は嵩張って重い。拠点を転々とすると、どうしても目減りするものなのだ。
「士郎君たちを呼んでもいいかい?
これから起こりうることと、対処法を説明したい」
***
まずは、相手が狙えそうな状況を見せつける。
「私が彼らなら、君たちの行動パターンをしばらく観察する。
我々の活動期間のなるべく後までね。
旗色が悪くなったら、逃げて時間を稼げるだろう?」
イリヤは頷いた。
「その上で、イリヤ君が在宅し、セイバーとアサシンが揃っていない時を狙う。
一番いいのは士郎君たちが学校から戻る前で、アサシンが離れる時だ」
この条件が成立するのは、土日よりも平日だ。
「英雄王がバーサーカーと対決し、その隙に言峰がイリヤ君を確保。
アサシンの剣と射術から逃れるためのは、黄金の舟を使うだろうね」
「あの舟ですか? こんな街中で?」
驚くエミヤに、ヤンはくすりと笑った。
「君はゆっくり夜空を眺めるかい? 帰宅や夕飯の準備で忙しい時間に」
「いや、それは……」
「それに、黄金の輝きも光あってこそさ。
人家より高く浮いてしまえば、一般の人にはほとんど見えなくなってしまう」
「む……、たしかにそうかも知れません」
エミヤは生前から鷹の目を持っていたから失念していたが、サーヴァントの身体能力は常人の数十倍だ。五感も相応に強化されていて、生前より遥かに夜目が効く。アインツベルンの森で、ヤンはその違いにびっくりしたものだ。生前の自分だったら、暗い森を飛ぶ照明のない舟などろくに見えなかったろう。
「行き先は、イリヤ君を隠しておける霊地か拠点。
警察に封鎖された教会は除外していいと思う。
近くて拠点となりうるのが間桐邸だが、キャスターの陣地だから順位は低いかな」
アーチャーの脳裏に、マスターの引き攣った声が響いた。
『……ちょっと待ちなさい。わたしの家はどうなのよ!?』
『だと楽なんだがねえ……』
『なんですってぇ!』
メールの様子を見るとそれは回避されたようだ。事が起これば、最も近い遠坂邸に襲撃を連絡する。凛から各人にメールを送り、舟の予想到達時間にも安否連絡をする。あの機械音痴が、三分で二件もメールを送れたのは、ヤンよりも桜のおかげだろう。
エミヤは屋根へと跳躍した。遠坂邸と間桐邸は無事。新都の方へと目を凝らす。教会を目指すなら、舟は未遠川の橋の上空あたりか。だが、船影はない。エミヤからもメッセージを送る。
【チャーリー クリア デルタ アテンション】
投影していた執事服を解き、紅い外套へと変じる。エミヤの懐で携帯電話が三回振動し、沈黙する。それはデルタ地点の斥候が敵を発見したことを意味していた。
「結局あの人の手の内か。イリヤ、今行くからな」
屋根をひた走り、目指すは
要塞化された間桐邸に凛が避難し、遠坂邸を空にしたのは誘いに見えたのだろう。あのふたりは、遠坂時臣の弟子とサーヴァントだった。歴史ある壮麗な邸宅は、悪辣で強力な魔術の罠の複合体だと知っている。その知識が彼らを警戒させ、知らず知らず誘い込まれてしまったのだ。
無策は見切られ、対応を練ると術中に嵌る。銀河帝国軍の諸将らを恐れさせた、魔術師の思考誘導だった。
魔術儀式はさっぱり分からなくても、戦争に関してはヤン・ウェンリーはプロ中のプロである。限られたリソースは決して無駄にはしない。
「そりゃ、やっぱり神父と王様は本職じゃないからね」
間桐慎二は胸中で呟いた。魔術師でなくても出来ることは多々あり、それが幸いすることもある。魔力がないから見張りをしててもばれないのだ。高性能の双眼鏡と、暗い色の毛布と、大量のカイロがあれば事足りる。凛と桜にメールを送り、アサシンの携帯を三度鳴らして切った。これで増援が来るはずだ。
黄金の舟が、木々の海へと潜っていくのを確認し、慎二はそろそろと立ち上がった。
「さてと、僕は今のうちに逃げるとするか。
戦場でドンパチやるだけが戦いに非ず、か。
僕らは僕らの役目を果たすとしよう」
それは、戦力にならないことを気にした桜にアーチャーが掛けた言葉だった。
「私たち軍人だって、全員が戦闘に参加するわけじゃない。
白兵戦部隊や宇宙艦隊を支えるのは後方なんだが、
突き詰めるなら、軍人でない市民全員だ。
後方を落とされたら、前線が勝っていても負けなんだよ。
そうなることのないようにするのが我々の役割で、
我々を支えるのが桜君たちの役割。そこに上下はない」
言ってから、彼は黒髪をかき回した。
「いや、むしろ、後方の人が偉いかなあ。
だって、軍人の主人は国民だからね。
軍人だって国民だけど、私はわざわざその道を選んだんだしなあ」
惚けた口調だったが、マスターとしての凛と桜の違いを端的に述べていた。
「とにかく、自分に出来ることをすればいいのさ」
慎二と桜は、最後の砦として、間桐邸の防御を固めなくてはならない。滅んで欲しかった化け物は消え、守るべき者がいるのだから。
「おまえも本当に大事なものをを守れよ、衛宮」