悪徳の都に浸かる   作:晃甫

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025 FUJIYAMA GANGSTA ADVANCE

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 ――――国際刑事警察機構。通称ICPOは、フランスのリヨンに本部を置く国際犯罪防止を目的とした国際組織である。

 加盟国の数は国際連合に次ぐ190カ国であり、名実ともに世界最大の犯罪抑止力であることに異論はない。

 そんなICPOであるが、主な活動は各国の警察と連携を図り情報伝達ルートを確立させることである。国際犯罪者に関する情報のデータ化とフィードバックが主な役割で、司法警察権は各国の主権事項に属すため、個人が世界各地を飛び回るようなことは基本的に無い。逮捕権を有していないのだからそれも当然と言えば当然だ。

 

 しかし、そんなICPOの中には極一部の例外が存在する。

 その一人が今警察庁受付で飄々と立つ男、ヨアンだ。

 国外での逮捕権を持たない通常ICPO職員とは異なり、内政干渉を許された例外中の例外。本部所属の数人にしか与えられていないこの外交特権を越える権利を、金髪の男は有していた。

 

 ICPOの手帳を見せられた受付の女性は目の色を変え、直ぐ様内線を繋ぐ。受話器の向こうでも突然のICPOの訪問に驚いているのか、慌てるような声が受話器越しにヨアンの耳に届いた。ヨアンはそんな光景を目にしても表情を一切変えず、穏やかな笑みを浮かべたまま警察側の対応を待っている。

 程なくして受話器を置いた受付女性が立ち上がり、エレベータ前へと案内する。

 

「六階が組織犯罪対策本部になります。担当の石黒がその後対応させて頂きます」

「そう、ありがとう」

 

 女性に一言礼を述べて、ヨアンはエレベータへと乗り込んだ。

 扉が完全に閉まり上昇時特有の浮遊感を感じ始めたところで、これまでと打って変わって眉間に皺を寄せ、盛大に溜息を吐き出す。

 

「はぁ、どうしてこう日本人はどいつもこいつも能天気なツラしてんだろうな」

 

 平和の国日本などと呼ばれているようだが、ヨアンからすれば危機意識が極端に低いだけの猿の集まりにしか見えない。そもそも許可が無ければ銃の所持が認められていない事がおかしいのだ。日本であっても犯罪は毎日尽きることなく発生しているというのに、どうして一般人には自分の身を守る武器の所持が認められていないのか。

 

「ま、他所の国の事情にとやかく言う気は無いけどよ」

 

 言いながらヨアンはスーツの内ポケットから折りたたまれた数枚の書類を取り出す。それはICPOが取り上げた国際的犯罪者のリスト。簡潔に言えばブラックリストだ。ICPOのデータベースでは世界中の凶悪犯罪者たちが毎日ピックアップされており、そこに掲載された人間は高額な懸賞金と共に各国で指名手配されるのだ。

 国際的犯罪者と一口に言っても、その中には明確な序列が存在している。世界各地でテロ活動を行う人間と、国内で幾つかの犯罪を犯して国境を越えた人間とでは悪党としての質が全く違うのだ。

 ICPOではそうした犯罪者たちを幾つかのランクに区分けして登録している。

 やむを得ず国を出ることとなった犯罪者。国内の捜査の眼を掻い潜って高飛びを成功させた人間たちがCランク。ブラックリストに登録されている犯罪者の六割がこのランクにカテゴリされる。

 また国際規模となる犯罪、テロ活動などに加担した犯罪者はCよりも危険度が高いと判断されBランクにカテゴリされる。これは全体の二割程度だ。

 そして国際的犯罪の中心核、また国際的犯罪組織の重鎮はAランクの危険人物としてブラックリストに掲載される。このAランクにカテゴリされる人間は世界で二桁に収まる程少なく、滅多に表舞台に出てくることは無い。

 

 エレベータが停止したことを確認し、左右に開かれた扉を出てまっすぐに目的の部屋へと向かう。どうやらこの階には組織犯罪対策本部の部署しか設置されていないようで、木版に大きく書かれた日本語がヨアンの眼を引いた。

 と、そこで突き当たりからグレーのスーツを着た中年の男と若い男が出てきた。二人はヨアンの姿を確認するなりこちらに早足で向かってくる。

 ヨアンの前にまでやって来た二人はそこで足を止め、中年の男が口を開いた。

 

「えーと、ボンジュール?」

「日本語で構わない、幸い言語には明るくてね」

「そ、そうですか。私はこの組織犯罪対策本部副室長、石黒と言います。こっちは高木です」

 

 石黒と名乗る頭髪の薄い男に紹介され、隣の若い男が敬礼と共に声を上げた。

 

「対策本部の高木と言います! ICPO本部の方にお会い出来て光栄です!」

「ヨアンです、よろしく。早速ですがお聞きしたいことが幾つか。ここ数日東京都内が慌ただしいことはご存じですよね」

「ええ、ボウリング場の乱射事件や香砂会襲撃事件など過激な案件が多いですから」

「結構」

 

 言ってヨアンは先程の資料を取り出す。数枚あるものの一番最後の資料を、石黒と高木の二人に見せる。

 

「この男をどこかで見ていませんか? 例えば事件現場の周辺とか」

 

 資料に掲載された一枚の写真。かなり遠距離で撮影されたものなのか無理やり拡大され輪郭もボヤけてしまっているが、どうもそれは日本人のようだった。

 グレーのジャケットに黒色のパンツ。周囲の対比物を見るに身長もそれなりに高そうだ。そんな男の写真を眺める二人に向かって、ヨアンは静かに告げる。

 

「男の通称はウェイバー。世界各地で起こる大規模事件の渦中に必ずと言っていいほど現れる死神。ICPOのブラックリストに九人しか存在しないランクSの大悪党です」

 

 

 

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 松崎銀次は鷲峰組に対して、俺が思う以上の恩を感じていたんだろう。いや、正確には鷲峰組ではなく、板東という男個人に対してか。

 雪緒の話によればこの辺りを縄張りにするゴロツキだった銀次を先代の組長と板東が拾ったことが始まりだったようだ。以来白鞘を握り、組のため、ひいては二人のために戦い続けてきた。

 そんな銀次を間近で見てきたからこそ、雪緒はきっと銀次に身を任せようと思ったのだ。男の俺から見たってあの生き様は素直に格好良いと思えるものである。あそこまで自分の芯を貫き通せる人間は多くない。自身よりも他人に重きを置ける人間が、この世界に何人いるだろうか。口にするだけなら簡単だが、それを実際に行動に移し、成し遂げてきた人間がどれだけいるだろうか。

 その点で言えば、松崎銀次は俺なんかよりも余程強く気高い人間だった。

 自らの忠義を守り通すために、その全てを擲つ覚悟を持っていた。

 

「ま、だからこそ頑なになっちまうんだろうけどな」

「? 何の話をしているのおじさん」

「男ってのはどうしようもなく頑固だって話さ」

 

 鷲峰組屋敷の縁側に腰掛け正面を向いたまま答える俺に、グレイは不思議そうな顔色を浮かべる。少女に関してはまず頑固者という言葉の意味を知っているのかどうかすら怪しいところではあるが、少女の関心はそんなところにはないらしく、ぷらぷらと黒のストッキングに覆われた両足を揺らして「ふーん」と返すだけだった。起きたばかりだから意識が完全に覚醒していないのかもしれないが、今この場面だけを見ればこの少女が大量殺人者などと誰も思わないだろう。なんの気なしに横に置かれたMP7がそれを台無しにしているが。

 

「サングラスのおじさん、行っちゃったのね」

 

 不意にそう呟くグレイに、俺は無表情のままに答える。

 

「ああ、アイツを止める権利は俺には無かったからな」

「どういうこと?」

「アイツは自分の筋を貫き通す道を選んだんだ。半端者な俺なんかとは違って」

 

 結局、今回の一件に関しても俺は非情に徹することが出来なかったのだから。

 いやまぁ、其々の利用価値を天秤に掛けての行動と言ってしまえばそれで説明はつくんだが。しかし銀次をそのまま行かせてしまったことも雪緒の事を考えれば止めるべきだったのだろうし、双方の板挟みにあってしまっている感は否めなかった。

 雪緒の意思と銀次の覚悟、そのどちらを優先させるか考えた結果、済崩し的に俺は銀次を優先させたわけだ。総代となった少女には未だ男が何処へ言ったのか説明していない。

 言えば間違いなく詰め寄られるだろうな。もしかしたら自分もとか吐かしてバラライカの元へと向かうかもしれない。それだけは止めなければならない。銀次の覚悟をそんな形で無駄にしたくはない。

 

「これからどうするの?」

「そうだな、今日の夜には日本を発つ予定だ。張に言って飛行機の手配はしてもらってある。チケットもきっかり人数分な」

 

 わざわざ火中の栗を拾うような真似をするつもりはない。俺は俺らしく、ひっそりとこの地を後にしようと決めた。

 しかしながら雪緒には何て説明をしたものか。そう考えて、すぐに思考を切り捨てる。こういうのは幾ら理屈を並べたところで納得できるものじゃないのだ。なら大人しく、潔く。

 

「……ビンタの一発を受けるとするか」

 

 澄み切った青空を見上げて、そう零した。

 

 

 

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 香砂会襲撃事件。ボウリング場乱射事件。

 ここ数日都内を賑わせた事件を挙げろと言われて真っ先に出てくるのがこの二つの事件だろう。それぞれの事件で死傷者は二十名以上、現場は未だ封鎖され、警察の捜査が尚も続けられている。

 それらの事件現場の写真、より詳細を述べれば殺害された人間たちの亡骸が撮られた資料を何枚もホワイトボードに貼付け、ヨアンはそれを無言で眺めていた。

 そんな思考を巡らせるフランス人の様子を後ろで訝しげに観察しているのが対策本部の石黒と高木だった。腕を組んだまま動かないヨアンの背後で、ひそひそと顔を近づけ会話を交えている。

 

「石黒さん、さっきからあの人全く動かないんスけど」

「あのウェイバーとかいうのを知らないって言ったのがまずかったかな。でもあんな奴見たことないしなぁ」

「俺もですよ。そんな凶悪犯なら一目見れば絶対分かる筈ですし」

 

 そう言う高木は実はその凶悪犯と仲睦まじく会話していたことに全く気付いていないのだった。

 

「……違うな」

 

 と、ここでようやく真一文字に引き結んでいたヨアンが口を開いた。

 

「違う、といいますと?」

「こっちの香砂会襲撃事件。少なくともこいつはウェイバーの仕業じゃない」

 

 断定するようなその口ぶりに、思わず高木が問い掛ける。

 

「どうしてそう言い切れるんですか?」

「ウェイバーが愛用してるのはリボルバーだ。だが使用された弾丸は別のもの、更に言えば奴は刃物なんて使わない。別の人間の犯行だな、周囲の状況を見るに警戒網を敷いていたようだがあっさりそれを突破していやがる。コイツもコイツでそれなりの手練みたいだ」

 

 逆に、とヨアンは続ける。

 

「こっちのボウリング場乱射事件。これにはウェイバーが絡んでる可能性が高い。殺害された人間の中にリボルバーの銃痕がある。その全てが頭部と心臓、恐ろしく正確な腕を持ってる」

 

 リボルバーの使い手でここまでの所業をやってのける人間を俺は一人しか知らない。そうヨアンは言う。

 

「なら直ぐにそのウェイバーという男の捜査手配を……」

「馬鹿言うな。何の為に俺がフランスから来たと思ってる」

 

 石黒の提案をヨアンは即座に切り捨てた。どうも要領を得ない石黒と高木は眉を顰めるも、ヨアンはそんな二人を一切気にかけることなく一息に言い切る。

 

「アンタらが束になったところで捕まえられねェよ。なんせ奴は米国の特殊部隊の包囲網をいとも容易く突破するような人間なんだからな」

 

 

 

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「……お前ェさんがどうしてこんな所にいやがる」

 

 人通りの滅多にない寂れた通りを抜けた広場で銀次は立ち止まり、静かに問い掛ける。

 松崎銀次と鷲峰組構成員数名は、皆一様に正面に立ちはだかる包帯だらけの男を睨み付けていた。

 鷲峰組からの視線に晒されながら、しかし包帯だらけの男に怯んだ様子はない。どころか額に青筋を浮かべて奥歯を噛み砕かんばかりの勢いで口元を歪めている。

 顔面にまで包帯を巻き、腕や足をギプスで固めた男、チャカは恨めしそうに銀次を睨みつけて。

 

「てめェをぶっ殺しゅひゃめにきみゃってんだろォがぁッ!!」

 

 顎を砕かれまともに話すこともままならない状態で、チャカは懐に忍ばせていた拳銃を抜く。その動作に銀次の背後に立つ組員が臨戦態勢に入るも、銀次がそれを手で制した。

 

「……やっぱりお前ェは、あっし自ら引導を渡してやらねェといけねェな」

 

 するりと白鞘を抜き放ち、徐に右脚を一歩踏み出す。研ぎ澄まされた白刃をチャカへと向け、銀次は短く一言。

 

「好きなように抜きな」

 

 それが引鉄を引く合図となった。

 激情に駆られるまま引鉄に指をかけるチャカに対し、銀次は眼前で白鞘を一閃。数瞬後、真っ二つとなった弾丸が銀次の左右に落ちる。

 

「なっ……」

 

 呆気に取られたチャカの懐に一足飛びに潜り込んだ銀次は、そのまま白鞘で斜めに切り上げる。

 血飛沫が舞う。

 拳銃を握っていた右腕の感覚が消失していることにチャカが気が付いた時には、既に切り返された刃の次撃が振り下ろされる。

 血染めの包帯が解かれ地に落ちる。

 左肩から右腹部にかけて切り裂かれ、地面に大きな血溜まりを作っていく。立っていられなくなったチャカは膝を突き荒い息を吐き、銀次をジロリと睨み付けている。

 

「先に地獄で待ってな、続きは後でいくらでもしてやらァ」

 

 それがチャカの聞いた最後の言葉となった。

 真横に振るわれた白鞘が、チャカの首を切り落とす。

 予め用意しておいた手ぬぐいで刃に付着した血を拭い、チャカの切断した首に掛けるように落とした。

 

「急ぎやしょう、ここもいずれ騒ぎになる」

 

 目的の港までそう距離はない。

 マリア・ザレスカ号。ホテル・モスクワが根城とする貨客船。そこに居るであろうバラライカを討ち取る。それだけが銀次の、鷲峰組組員たちの目的であり使命。例えこの戦いで命を落とすこととなろうとも、その全ては組の為に。

 修羅の道を突き進む男たちに、引き返すという選択肢は存在しない。

 銀次はサングラスの奥に光る瞳をより鋭くし、ただ真っ直ぐに目的地へと向かう。

 

 

 

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 東京という街にはどれほどの人間が詰め込まれているのだろうか。警察庁を出たヨアンは目の前を行く人々を見ながらそんなことを考えていた。

 始めからあまり期待はしていなかったが、日本の警察というのはヨアンが思っていた以上に無能だった。先程会った石黒と高木という二人もその例に漏れない。極秘情報であるICPOのブラックリストまで持ち出して説明してやったというのに、どうしてあそこまで脳天気に構えていられるのだろうか。

 思い出して苛立ちを感じ始めたヨアンだが、そこでポケットに突っ込んでいた携帯が震えていることに気が付いた。乱暴な手つきで携帯を手に取り、通話ボタンを押す。

 

『やーっと出た。何回電話したと思ってるのよ』

 

 怒っている。携帯電話を持つ女性が笑顔を貼り付けたまま内心で激怒していることを一瞬で見抜いたヨアンは、固まったまま額に大粒の汗を滲ませた。

 

「ほら、あれだ。フランスと日本って距離があるから中々電波が……」

『これ衛星繋いでるんだけどね』

「…………」

 

 無言になったヨアンに対して、フランスに居る筈の女性は大きく溜息を吐き出した。

 

『まぁこのことについては後でとっちめるとして、どう? 何か有力な情報は掴めた?』

「おう、そうだクラリス。少し当たって欲しいデータがあるんだが」

 

 ヨアンは対策本部で閲覧した資料写真を思い出しながら、その情報を正確に口頭で伝える。

 

「ブラックリストもしくはここ数年の犯罪データでMP7と長物を使用した殺人者を捜して欲しい。もしかするとウェイバーと繋がってる可能性がある」

『ちょっと、MP7なんて世界中に出回ってるじゃない』

「だから長物所持って条件も付けてるだろ。世界最高のWHHであるクラリスにとっちゃ朝飯前だと思うんだが」

『おだてたってダメよ。今度フルコースご馳走してもらうからね』

 

 そうは言う彼女であるが、通話口の向こうでは既に作業に取り掛かっているらしい。キーボードを叩く音がヨアンにも聞こえてくる。

 作業は続けたまま、クラリスと呼ばれる女性は会話を続行させる。

 

『それで、ウェイバーは日本に居そう?』

「居るな。まず間違いなく都内に。日本の警察には空港の警備を厳重にするよう進言したが、期待はしていない」

『デルタから逃げ切った彼を極東島国の民警が捕まえられるとは思わないわよ』

 

 数年前に発生した国際テロ事件を思い出しているらしく、クラリスの口調はどこか苦々しい。ヨアンもその事件は今も鮮明に覚えていた。隣国をも巻き込んだテロ騒動の渦中、唐突に現れたウェイバーは最高警戒状態のデルタフォースをたった一人で相手にし、あまつさえ生き残り行方を眩ませたというのだ。神出鬼没どころの話ではない。ICPO上層部の中には、ウェイバーのことを煙のように掴めないという意味合いを込めてヒューメと呼ぶ人間も少なくない。

 そんな人間をヨアンが追っている理由。

 正義感に突き動かされて、という単純なものでは当然ない。

 

「俺はこれから事件現場に向かう。また何か分かったら連絡してくれ」

『その時はワンコールで出ること』

「わかったよ」

 

 そう言ってヨアンは携帯をポケットへと押し込み、突き刺すような寒さの中を歩き始めるた。

 始めは香砂会屋敷、続いて足立区のボウリング場。ウェイバーに関する情報を集めるために、ICPO本部が戦禍の直ぐ傍で動き始める。

 

 

 

 58

 

 

 

 ソレが鷲峰組の玄関に届けられたのは、陽も沈みかけた午後五時頃のことだった。

 何度か玄関の戸を叩かれたことで雪緒が小走りで向かい、何の警戒もすることなくその戸を開いた。

 開かれた戸の先に立っていたのは、大柄なロシア人だった。遅れて玄関までやってきたウェイバーはその男に見覚えがあった。帽子を被り変装しているが、バラライカの部下でありホテル・モスクワの構成員だ。その男はウェイバーの存在に気付くと一度帽子を被り直して。

 

「大尉殿が渡すようにと、獰猛な獣は中々楽しめたとのことです」

 

 そう告げて、男は持っていたソレを雪緒に渡して踵を返し立ち去る。

 受け取ったソレに視線を落として、雪緒は言葉を失った。丁重に布で覆われた細長くずっしりとした重さを持つソレは、間違いなく銀次が使用していた白鞘だったからだ。

 刃は半ばから折れ、握りの部分には赤黒い血がべっとりと付着している。

 雪緒が言葉にならない絶叫と共に膝から崩れ落ちる。その雪緒の叫びを耳にしてやって来たグレイは、少女の背中をただ黙って見ているだけだった。

 

 覚悟していた。していた筈だった。

 この道を進むと決めた時より、いつ命を落とすかも分からないことくらい、承知している筈だった。

 止めどなく流れる涙で視界を滲ませながら、雪緒はその覚悟が半端なものでしかなかったことを悟る。

 他人の死がこれほどまでに痛みを伴うものだと知らなかった。組員の多くが殺されてしまっていたにも関わらず、銀次という家族以上の絆で繋がる人間が死亡したことで、初めて雪緒は本当の死というものを理解した。

 

 どうして。

 どうして。

 

 何故銀次を始めとした組員たちが殺されなければならないのか。

 自業自得と切り捨ててしまうには、余りにも理不尽に感じられる。

 雪緒はこれほどまでに己の無力さに腹を立てたことは無かった。総代を継承し、組の命運を背負ったつもりでいた。しかしそれは名ばかりのハリボテでしかなく、実際に全ての責任を背負っていたのは松崎銀次に他ならなかった。

 それを嫌でも痛感して、雪緒の瞳から大粒の涙が溢れ出す。

 雪緒を見つめるウェイバーは、何も語らない。あるいはこうなることを予想していたのかもしれない。

 ただの鉄屑に成り下がったかつての白鞘を抱き締めながら、少女はその場で泣き続けた。

 

「……お茶でも淹れよう」

 

 そんな風にウェイバーが口を開いたのは、雪緒の涙も枯れ果てた頃だった。

 雪緒はもうどのくらいの時間この場で泣き続けていたのかすら分からない状態であったが、多少の冷静さを取り戻す程度の時間が経過していたのは不幸中の幸いだった。男の言葉に何かを反論することなく、折れた白鞘を両手で抱いたままゆっくりと立ち上がる。

 

 御盆に三つの湯呑をのせたウェイバーが茶室に戻ってきた時には、雪緒もある程度心の内で整理がつき始めていた。

 自身の手前に置かれた湯呑に視線を落として、少女は目の前の男に問い掛ける。

 

「……貴方は、銀さんがバラライカのところへ向かったことを知っていたんですか」

「知ってたよ」

 

 男は迷う素振りすら見せず、そう言い切った。

 

「今朝あの男には予めこの事を聞かされていた。君には伝えないで欲しいとも。こうなる事が分かっていたから、最後まで君には知られたくなかったんだろうな」

 

 制服のスカートの裾をぎゅっと握り締め、雪緒は俯いたまま更に問を投げた。

 

「……銀さんは、なんと言っていましたか」

「侠に生きる自分たちには仁を貫くことが何よりも大切なんだとさ」

 

 成程、銀次らしい。素直に雪緒はそう思った。

 板東の仇討ち、彼の行動の根幹はきっとそれだろうと当たりもつける。雪緒の生まれた頃から鷲峰組の為に動いてきた男だ。そんな人が、板東を殺した人間をむざむざ放っておくような真似は決してしないだろう。例えその相手が大国ロシアが生んだ恐るべき軍隊だったとしても。

 

「君に伝えなかったのはあの男の最後の願いだったからだ。この事を知れば必ず君は同行しようとする。それを良しとしなかった」

 

 淡々と、ウェイバーはありのままを話しているようだった。ボウリング場で感じた得体の知れない恐怖も、今は感じない。

 

「君には生きて欲しかったんだと思う」

「……勝手ですよ」

 

 結局最後まで肩を並べて戦うことは叶わなかった。銀次に背中を守られたまま、少女はのうのうと生き延びようとしている。

 

「銀さんも居ない、組のみんなも大勢失ってしまった。もう私には、何も残ってない……」

 

 当初の目的であったバラライカへの復讐でさえも、最早どうでもよくなってしまっていた。銀次に同行したかった。義の世界に生きる者として、最後まで気高くその意志を貫き通し死んで行きたかった。

 諦めにも似た複雑な感情が雪緒の胸中で渦巻き、それは泣けばいいのか怒ればいいのかも分からない、無理に作った泣き笑いのような表情を雪緒にさせていた。

 

 と、ここで口を開いたのは雪緒の正面に座るウェイバー。ではなかった。

 今の今まで無言を貫いていた、銀髪の少女である。

 

「お姉さん、死にたいの?」

 

 純粋に疑問を抱いているような声音だった。

 思わず雪緒は視線をグレイへと向ける。

 

「じゃあ、私が殺してあげるわ」

 

 すっ、と。驚く程なめらかな動作で懐から銃が抜かれ、その銃口が雪緒の顔へと向けられる。

 表面上、雪緒は何の抵抗も見せなかった。しかしグレイはその瞳の奥にある僅かな恐怖を敏感に感じ取って、僅かに口元を吊り上げる。

 

「なぁんだ。お姉さん、死にたくないんじゃない」

「私は」

 

 反論しようとして、出来なかった。

 生への執着がこの期に及んでも消えていないことに、雪緒は愕然とする。仲間がその命を組の為に擲っても、己は生にしがみつこうとしている。

 こんな今の自分のどこに総代と名乗る資格があるだろう。そこらに屯する女子校生となんら変わらない、口先だけの子供だ。

 無意識のうちに下唇を噛み締める雪緒を、黙って見つめていたウェイバーだったが、唐突にこう切り出した。

 

「君が今からでもバラライカの所へ向かうってんなら俺は止めない。俺は君に雇われてるだけの身で、意見できるような立場じゃないからな。雇用主の方針に逆らうような真似はしない。復讐だって立派な理由だ、復讐に囚われずに生きろなんて綺麗事は言わない」

 

 ただね、と男は付け加えて。

 

「前の夜にも言ったが、君には力が無い。先代から続く鷲峰組も松崎銀次も君自身の力には成り得ない。何の力も持たない奴があの女の元へ行ったって、悪戯に殺されるだけだ」

 

 そんな事、口にされるまでも無く理解していた。

 死を恐れている自分が情けない。何の力も持たないただの女一人では、現状を打破する打開策すら見えてこない。前にも後ろにも進むことが出来ない。それが何よりも辛く、悔しかった。

 そんな事を思っていたから、雪緒は次いで放たれたウェイバーの言葉に反応するのが遅れた。

 

「だからまぁ、うちで力を付けな」

「…………え?」

 

 呆けた声が出てしまった雪緒に、ウェイバーは続ける。

 

「松崎銀次が亡くなった、組員も残っているのは非戦闘員が三十名程。鷲峰組は事実上壊滅したと言っていい。このままバラライカに特攻仕掛けて散るなら止めたりしないが、あの男の意思を少しでも尊重してやりたいってんなら今は退くべきだ」

 

 幸いバラライカたちも直に日本を離れるだろうし、ウェイバーはそう言う。

 雪緒は始めウェイバーが何を言おうとしているのか理解出来なかった。

 

「……どういう、意味ですか……?」

「君さえ良ければ、うちに来ないかと言ってるんだ。どのみち日本には居られないと思うぜ、ICPOが動いてるんだ。もしも君の身元が割れれば奴のことだ、間違いなく重要参考人として拘束される」

「ICPO、ですか」

「俺のことをえらく目の敵にしてるのがいてな、他所へ行くたびに追い掛け回される。まぁ、そんなことはいいんだ」

 

 ウェイバーは一度姿勢を正し、雪緒をまっすぐに見据えて。

 

「アンタはもうこっち側の人間だ。望む望まないに関わらずな。だったら力が要るだろう。一先ずの目的はそうだな、松崎銀次の仇討ちってことで」

 

 ああ、そうか。

 雪緒は内心で悟る。目の前の男は銀次の意思と自分の身、その両方を守ろうとしているのだ。

 松崎銀次の願いは鷲峰雪緒という少女の身の安全。それはきっとウェイバーという男の元にいることで保障される。

 同時に少女に復讐という名目の元、生きる理由を与えようとしているのだ。闇雲にその命を捨ててしまわないように、一時的なもので構わない。生きて成し遂げようとする目的があれば、きっと少女は生への執着を捨てずにいられると。

 雇用関係はたった一日だというのに、ここまで己の内心を見透かされているのかと雪緒は驚く。

 それと同時に、少しだけ嬉しかった。どんな人であれ、自身と関わりを持とうとしてくれることが。

 

 銀次の死は、そう簡単に乗り越えられるものではない。きっと長きに渡り、少女の胸の内側を締め付け続けることだろう。

 だがそれを当の銀次は望んでいなかった。全く勝手だと思うが、侠に生きる銀次らしい、頑ななまでに真っ直ぐな想いが込められていることは知っている。

 

 まさかここまでの展開を全て見越していたのではないかと疑いたくなる程だった。

 以前銀次の言っていた底が知れないという言葉を、雪緒は身を以て実感する。

 

「本当に、貴方は何者なんですか」

 

 目の下を赤く腫らしながら苦笑を浮かべる雪緒に、ウェイバーは少しだけ笑みを作ってこう答える。

 それは奇しくも、ボウリング場で聞いた答えと全く同じものだった。

 

「悪党だよ」

 

 

 

 59

 

 

 

『ラグーン商会だ。ロックか、もう一万年も会ってない気がするぜ』

「予定超えして悪かったなダッチ。今日の夜にはロアナプラに戻るよ」

 

 空港内に設置された数台の公衆電話のうちの一台を利用して、ロックはダッチと連絡を取っていた。ロックの後ろには壁に寄りかかるレヴィの姿もある。

 

『戻ったら直ぐ仕事が入ってる、UPOがまたぞろ銃を欲しがってんのさ。ベニーが会計をやってるがやっぱり手が足りねぇ』

「帰ったらすぐに取り掛かるよ、ベニーには済まないと伝えておいてくれ」

『オーライ、冷えたバリハイがお前を待ってる。楽しみにしてな』

 

 受話器を戻して一息つくロックのもとに、レヴィが軽い足取りでやって来る。

 

「フライトの時刻だぜ相棒」

「ああ、今行くよ」

「これで日本も見収めだな、サヨナラフジヤマだ」

 

 横に置いてあったスーツケースを引いて、ロックはレヴィの隣を歩き出す。

 彼らの横をすり抜けていく人々を見ながら、ロックは思う。ああ、彼らは自分たちとは違う世界を生きる人間なのだと。明確な線引きなど存在しない。ただ自覚があるかどうかの違いだ、そうウェイバーは言った。全く以てその通りだ。

 

「……俺には自覚が足りなかったんだろうな」

「ん? 何か言ったかロック」

 

 小さく呟かれた言葉にレヴィが反応するが、ロックは僅かに首を横に振る。

 

「いや……。帰ろうか、俺たちの場所へ」

 

 

 

 60

 

 

 

「くそっ、また空振りだ」

『いつものことじゃない』

 

 苛立たしげに言うヨアンに、クラリスは至って冷静にそう返した。

 香砂会屋敷、足立区のボウリング場といった事件現場に足を運んだヨアンであったが、これといった情報を手に入れることは出来なかった。まぁあの男が易々と手がかりを残しているとも思えないのだが。

 

「やっぱ外に出てくるのを待ってるだけじゃダメなんじゃねえかなぁ」

『……ちょっと、それ意味分かって言ってる? あの場所(・・・・)にはAランクの悪党がうようよしてるのよ?』

 

 そんなことは分かっている。あの街には把握しているだけでも十数名のAクラスの犯罪者たちが跋扈している。

 世界中から犯罪者たちが集まる悪党どもの吹き溜まり。

 

 タイの港街、ロアナプラ。

 

「いつまでも後手に回るわけにもいかないだろう。何のための本部権限だ」

『ヨアンみたいなのに権限渡した本部は間違ってると思うわ私』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 日本編完結。
 
以下要点。
・銀次特攻
・雪緒、悪党への第一歩
・ウェイバー三人家族になる。
・悪徳の街にICPO参戦フラグ。



・WHH
ホワイト・ハット・ハッカー
 ハッキング技術を役立つことに使用する人のことらしい。クラリスさん(カリオストロー)

 次回は小話集。四本構成です。

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