41
ヒラノボウル、と大きく書かれた寂れた看板が見えたことで、俺は目的地に到着したことを確認する。見上げた空には分厚い雪雲が覆われており、月や星の光は一切地上に届いていない。周囲に明かりになりそうな街灯なんかも見当たらないため、ここら一帯が闇そのもののようだ。そんな中にあるためだろう、ヒラノボウルとペンキで書いたその看板だけがうっすらと光を放っており、そこだけが別の空間のように感じる。
雪は今のところ降ってはいないが、この空模様ではいつ降り出しても不思議ではないだろう。コートを羽織っていても突き刺すような肌寒さは拭えず、白い吐息は空気中へと消えていく。
「ところでおじさん、作戦は用意してあるの?」
俺の隣りを歩くグレイが不意にそう問い掛けてきた。
よくよく考えてみれば俺は彼女に大まかな概要しか説明していなかったなと思い至る。具体的な作戦内容は一切口にしていないので、当然グレイはどう動いていいのか疑問に思っていることだろう。
「まぁ、無ければ好きに動くだけだけど」
前言撤回。疑問に思うどころか自らの行動指針を既に固めていやがった。
「この中には少なく見積もっても三十人の武装した人間が居るだろう。俺たちの目標は鷲峰雪緒のみ、それ以外はどうなっても構わない。乱戦になるのは確定事項だな」
「あのお姉さんは無傷のほうがいいのかしら」
「それが出来れば一番いいんだが、状況が状況だけに無傷ってのは難しいかもしれないな」
彼女の身柄を確保することが今回の最優先事項である。俺としては彼女にはきちんと自分の気持ちと向き合って行く末を決めてもらいたい。簡単に悪の吹き溜まりへと堕ちるなど冗談じゃない。現在の立場を彼女が本心から望んでいるというのなら俺も止めはしない。他人の決めたことに口を挟むほど無粋ではないつもりだ。
しかし仮に、現状が彼女の望むものではないのだとすれば。
元は陽の当たる世界の住人である少女一人を帰してやる手助けくらい、してやってもいいのではないかと思う。自分にはこの道しか残されていないのだと決め付けてしまっている一人の少女に、別の道を提示するくらいのことはしてやってもいいのではないかと思うのだ。バラライカに言わせれば偽善者などと言われるのかもしれない。俺もその自覚はある。放っておいても一切の関係はないのだから。
結局のところ、これは俺の自己満足でしかないのだ。
日本でバラライカと敵対することになったのは完全に予定外であり、俺としてもある程度のリスクは背負わなければならない。その原因を作った香砂会と鷲峰組への八つ当たりという側面もある。
だから、まあ。
「せいぜい好き勝手にやらせてもらうさ」
そう口にして、グレイと共に正面入口へと向かっていく。
と、そんな時だった。
「ウェイバーさん!」
何処か聞き覚えのある男の声が俺の名を呼んだ。その声に反応して振り返るが、辺りに光源となるものが乏しいことと少しばかり距離があったことで相手の顔がよく見えない。いかんな、最近は視力が落ちてきたかもしれない。そんなことを考えながら、俺は眉間に皺を寄せて声の主をじっと見つめた。ここでようやくその人物の顔を認識する。
「ロックか」
そこに居たのはロックだった。後ろにはレヴィと、鷲峰組の松崎銀次の姿もある。どうしてロックたちと銀次が行動を共にしているのか疑問を覚えるが、ロックが俺の目の前にまでやって来たことで一度その思考を打ち切る。
「ウェイバーさん、どうして貴方がここに?」
ふむ、と内心で一つ考える。ロックとレヴィは現時点でバラライカ側、鷲峰組側の人間だ。壊滅したとは言え香砂会側である俺と繋がっているのは色々と問題がある。
俺はこの場に仕事を遂行しに来た。そう答えてしまうのが両者にとって無難なものだと断じて、ロックに視線を向け口を開く。
「鷲峰雪緒を拐いに来た」
俺の本心までを教えてやる必要はない。俺には俺の、ロックたちにはロックたちの目的があるのだろうし、ここで無理に協調する必要はない。
そんな風に考えていると、ロックの背後に立っていた銀次がやや身を低くし、次いで一瞬のうちに白鞘を抜き放った。そのまま寸分の狂い無く俺の首元へ添えられる白刃。正直な話、その姿が五右衛門と一瞬被って見とれてしまっていた。不甲斐ない話ではあるが、横のグレイが瞬時に反応して銀次に銃を突き付けていたので俺の首が飛ぶことは無かった。いや助かった、流石に刃を迎え撃つなんてこと出来はしないだろうし。
この銀次の行動が目線や抜刀までの速度から牽制の意味合いが込められたものであることは分かっていたが、そうであっても心臓に悪い。レヴィやロックの前で無様な姿を見せたくはなかったので、お得意のポーカーフェイスで無表情を貫いていた。
「……アンタ、香砂会に雇われてんだってなァ。お嬢拐ってどうするつもりですかい」
事と次第によっちゃァ切り捨てる。そんな意思が銀次の瞳から見え隠れしている。
まぁ、ロックにも言わなかった俺の狙いを更に繋がりの薄い人間に言うはずもないんだが。銀次と至近距離で睨み合い、無表情のまま告げる。
「お前にそれを伝える必要があるか?」
「生憎とあっしらもお嬢を捜してましてね。渡すわけにゃァいかんのですよ」
それは鷲峰組としてか、松崎銀次個人としてか。俺にしてみればどちらでもいい話だが、一応向こうの不安要素などは取り除いておくべきだろう。香砂会からの圧力を弱めることを目的として行動しているというのであれば、それはもう骨折り損にしかならないのだから。
「アンタらを押し潰そうとしてた香砂会はもう無いぞ」
「ちょっと待って下さい。もう無い? 香砂会が? それって……」
会話に入ってきたロックが要領を得ないと言わんばかりの表情で問い掛けてきた。もう何時間も前のことだ、既に情報発信されていてもおかしくないはずだが、警察が情報規制でも敷いているのだろうか。
ロックの質問に、MP7を銀次に突き付けたままのグレイが答えた。
「言葉通りの意味よ、お兄さん。私たちがみィんな片付けてあげたわ」
私たち、というよりはほぼグレイ個人の所業であったりするが、そこには口を挟まない。子供にばかり仕事をさせる鬼畜な男だと思われたくはないのだ。
「香砂会の屋敷が襲撃されたことはラジオで聞きました。でもまさか壊滅だなんて……」
やはりラジオなんかでは情報が流れているらしい。しかしその詳細までを報道してはいないらしく、ロックの言葉を聞く限りかなり曖昧な表現で誤魔化しているようだった。確かにあの現場の様子を事細かに報道した場合、その殆どが規制されるべき言葉で埋め尽くされてしまう。
「……ウェイバーさん。雪緒ちゃんの誘拐は、貴方の意思ですか?」
どう報道すれば規制に引っかからずに正確な情報を伝えられるのか、なんてどうでも良いことを上の空で考えていると、不意にロックがそう尋ねた。彼の瞳にはある種の確信があるようにも感じられる。レヴィめ、何か吹き込んだか?
「そうだ」
「香砂会からの依頼では無いんですか?」
ああ、そうか。一度受けた依頼は必ず完遂しろって部分をレヴィから聞かされているんだな。口を酸っぱくして言ってきたことを、教えた人間である俺が破るわけがないと。そうロックは考えているんだろう。壊滅させたとは言え一度は受けた依頼である。それを無碍にするわけにもいかないと、そう俺が考えていると判断したのだろう。
中々に見事な推理力である。が、ロックは根っこの部分で勘違いをしている。
俺は香砂会の依頼を完遂するためにここに来たのではない。そうしないために来たのだ。屋敷を襲撃したのも依頼の遂行のためでなく、依頼そのものを無かったことにするためだ。
俺とロックでは考えが少しばかり食い違っている。しかしそれをわざわざ訂正してやる必要も感じない。
「ウェイバーさん、僕たちは雪緒ちゃんを元の居場所へ帰してあげたい。彼女は望んでこちら側の世界へ来たわけじゃない。周囲がそうさせてしまったんだ。でも今ならまだ間に合う、今ならまだ引き返せる」
「…………」
これには少しばかり驚いた。薄々そうではないかと感じてはいたが、ロックは鷲峰雪緒を救い出すつもりでいたらしい。つまりは俺と
「貴方も本当は彼女を解放しようとしているんじゃないですか? 誘拐なんて大義名分を掲げちゃいるが、実際のところは……」
「ロック」
最後まで言わせず、俺はロックの言葉を遮った。
やはり俺とロックでは、考えが少しばかり違うようだ。その違いはほんの僅かなものだが、この世界で生きていく上では谷よりも深い差となって現れる。この違いが目的の違いによるものなのだということは言うまでもない。ロックは彼女を元の居場所へ帰してやりたいと言った。そこに、鷲峰雪緒という少女の意思は介在しない。
そもそも。
「勘違いしちゃいけないぜ。元の居場所、向こう側の世界。そんなものの線引きは存在しない」
俺の言葉にロックは尚も言葉を重ねようとするが、それよりも早く俺は続けた。
「仮にロックの言う『こちら側』と『あちら側』の世界があったとして、こっち側の世界の住人であるお前が彼女を助ける必要がどこにある」
ロックという男は、未だ悪党であるという自覚が薄い。ロアナプラより見てきた俺の個人的な意見だ。レヴィやダッチなんかはその辺りの自覚がある分、こういった表側へ深く関わろうとはしない。悪党とはそういう生き物なのだと理解しているからだ。
俺だって当然そうである。今でこそ雪緒の返答次第でロックと似たようなことをしようと考えていたりするが、それにしたって何の見返りもない慈善事業ではない。動くには相応の対価が必要であり、だからこそ悪党たらしめる。
「俺たちは悪党なんだよロック。人助けなんて柄じゃない」
悪党であることを認めることと納得することは別問題。そんなことは分かっている。だがロックは悪党というには些か善性が強すぎる。このままでは必ず何処かで破綻する。そうならないためにも、ロックは今のうちに受け入れなければならない。
悪党とは世間からは決して認められない、醜悪な存在であるということを。
現時点でそれを受け入れられないのだろうロックは、握った拳を震わせて悲痛に叫ぶ。
「あの子には未来がある! 真っ暗な闇の底に堕ちることを止められるなら、俺はそのために立ち上がりたい!」
言うことは立派だ。言葉だけを聞けば正しく聖人君子のそれだろう。
自らの力のみを行使するのだとしたら、と付け加えるが。
「結局はレヴィやサングラスに頼るんだろう? お前は正義を語っちゃいるが正義の味方なんかじゃない。自分の力を行使せずに他力本願で何かを望む。随分な正義もあったもんだ」
「……っ」
ロックには純粋な戦闘能力が決定的に欠けている。良く言えば軍師タイプだろうが、頭脳戦だけで生きていけるほど甘くはない。
「お前は正しいことを言っているんだろうさロック。人助けしたい、立派なことだ。でもお前は強くない、自分の意思を押し通そうってんなら、少なくともやり遂げるだけの強さが必要だ。正義は必ず勝つんじゃない、勝ったやつだけが正義を語れるのさ」
悪党が何を宣ってんだかと内心で自嘲する。だが強さが必要だというのは間違いない。いかなる状況にあっても唯一信頼できるものが己の強さであり、剛力こそが全てと言って過言ではない。
こうした思考の部分が、俺とロックの目的の違いに反映されているのだろうなと思う。悪徳の都に浸かり切った俺と、そうでないロック。あんな犯罪都市で過ごしていれば、それも当然かと納得する。
「なんだか説教臭くなっちまったが、まぁそういうことだ。別に俺を憎んだって構わない、俺は悪党だからな、全ての憎悪を背負って生きてるのさ」
「……ウェイバーさんは、雪緒ちゃんがどうなってもいいんですか」
「そこに俺の意思が介在する必要はない」
必要なのは俺ではなく鷲峰雪緒の意思だけだ。
「ボス」
話は終わりだと判断して歩きだそうとしたところ、唐突にレヴィが俺へ声を掛けた。何事かと彼女へ視線を向ければ、軽い調子でレヴィは言う。
「ボスの目的はアイツなんだろ? 目当てはあたしらもおんなじだ。ゴミ掃除にゃあ人手は多い方がいいだろう?」
共同戦線と行こうぜボス、とレヴィは口角を吊り上げる。
単純に効率だけを考えれば人手は多いに越したことはない。ここに居るのはロックを除けば一定以上の実力者ばかりだし、時間もかなり短縮できるだろう。デメリット以上にメリットの方が大きいという結論に至って、小さく頷いた。
俺の傍を離れたグレイが何やらレヴィと口論になっているが、二人の表情から察するにいつもの啀み合いだろう。
いつまでもこの場に留まっているわけにもいかないので、一度小さく息を吐き、瞼を下ろす。
「じゃ、行くとしようか」
42
これは正しく荒れ狂う暴風だ。裏口から回ったロックがこの光景を目にしていたら、そんな言葉を口にするに違いない。
飛び交う弾丸が人体の各所に撃ち込まれ、真っ赤な液体を噴出させる。床一面に広がっていく血溜まりは、一体何人分のものなのだろうか。
「ハハッ、やべえな! こりゃ本気いれねーとやべーわ!」
片手で雪緒の腕を掴み、残った手でリボルバーを握るチャカは、眼前の光景に興奮を隠せないでいた。普通に日本で生活してただけならまずお目にかかれないであろう乱戦。相手は百戦錬磨とでも表現するような猛者ばかりである。そんな人間どもを相手にすることが出来ると思うと、ヤニで黄色くなった歯を見せずにはいられなかった。
「オラお前らも隠れてねーで男見せろや!」
「で、でもチャカさん! あいつらマジでやべーっすよ!」
「んなの見りゃわかんだろーが。それともここで蜂の巣にされっか?」
チャカにリボルバーを向けられ、涙目になりながら男は四人に向かって銃を闇雲に撃ち続ける。狙いもロクに定めず放った弾丸が四人を撃ち抜く筈もなく、周囲にいた仲間である男たちの何人かに命中するだけだった。
「そんなんじゃダメよ、よぉく狙わないと」
ワルツでも踊るような上品さを漂わせながら、銀髪の少女は嗤う。
その直後に一斉掃射。涙目になっていた男を含め、その付近に立っていた男たちが問答無用で血達磨にされる。
「おいガキ! あたしに当たったらどうすんだ!」
「あら、それならそれで構わないのだけど」
MP7の掃射地点の近くに居たレヴィが声を荒げるも、当の本人はどこ吹く風とばかりに反省の色が見られない。
「チッ、どいつもこいつも共闘なんて柄じゃねェのは分かってたけどよ」
言いながらレヴィは襲いかかってきた男三人に鉛玉をブチ込む。背後でナイフを振りかざしていた別の男は更に後ろに立っていた銀次の白鞘によって胴体を分断された。
その様子を横目に見ながら小さく口笛を吹く。銃しか使用しないレヴィにも、銀次の突出した腕は理解できた。ウェイバーに刃を向けたことに関しては極刑ものだが、本人が気にした素振りを一切見せていないためにそのことに関して咎めはしない。今は精々その腕前を見せてもらおうじゃないかと、男の背中に視線を向ける。
そしてその銀次の視線は、ウェイバーへと向けられていた。
ウェイバーはレヴィやグレイのように派手に動き回ってはいなかった。ただ向かってくる敵を迎撃しているだけ。しかし、その速度が異常だった。
(動作が目で追えねェってのは、一体どういうことだ……?)
ウェイバーの握るリボルバーはダブルアクションのようで、連射性能に優れていることはなんとなく分かる。だがいつ照準を合わせ発砲しているのかが分からない。気付いた時には相手は床に転がっているのだ。銃声は聞こえる。故に発砲したことは確かなのだ。なのに、引鉄を引く瞬間が見えない。早業などという表現では生温い、達人の域をも越えた神業。今は共闘体制故にその銃口が自身に向くことはないだろうが、もしも敵対したらと思うと背筋が震えた。
その震えは恐怖から来るものではない。
狂気にも似た歓喜から来るものだった。
銀次の内側に流れる血が騒ぐ。肌がざわつき、否応無しに口元が吊り上がる。
もしも状況が許してくれるのであれば今すぐにでも刃を交えたいところではあるが、今はそれどころではない。己の命よりも大切な少女を奪還すべく、銀次は己の野生を押し殺して白鞘を振るう。返り血がコートを汚すことも厭わず、ただ真っ直ぐに少女の元へと。
「く、来るな! 来るんじゃねえ!」
「ちょ、ちょっと待った! ギブだギブ!」
耳障りな男たちの声がレヴィの鼓膜を震わせる。酷く不快に感じるその声の出処を始末すべく、レヴィはカトラスを構えたまま笑みを浮かべて歩み寄る。
「ハッ、ギブだってよ。何かくれんのか?」
男の話に付き合うはずもなく、眉間に鉛玉を食らわせる。
気が付けば場内のチンピラたちは粗方掃除し終えており、背中を向けて逃走を図る男たちが十人ほど残っているだけだった。そんな男たちの背中を眺めながら、レヴィは軽い調子で言う。
「まるで
床を彩る鮮血など気にもせず、レヴィはぐるりと辺りを見渡した。ウェイバーとグレイ、そして銀次も無傷のまま殲滅をほぼ終えている。敵勢力は九割九分壊滅したと言っていいだろう。ただし、雪緒の誘拐を企てた張本人とその連れの男の姿が見当たらない。雪緒を連れて奥へと向かったのだろうと推測された。
「……さて、お互いの利害が一致しているのはここまでだ。ここからは勝手にやらせてもらうが、構わないな?」
「オーケーボス。こっちもこっちで勝手にやらせてもらうさ」
ウェイバーの発言に手をひらひらと振って答えるレヴィ。その様子を確認して、ウェイバーとグレイは奥へと進んでいく。当然、銀次も奥へと向かう。
両者の目的は同じようで異なっている。どちらが先に雪緒を発見するかで、彼女の今後は大きく左右されることとなるだろう。
全てに決着をつけるべく、ウェイバーと銀次は捜索を開始した。
「…………」
と、ウェイバーの後ろに着いていたグレイの歩みが唐突に停止した。数秒沈黙を保ったグレイは、やがてある一点へと視線を向ける。
ウェイバーの後に続いていたグレイが不意にその足を止めたのには、当然ながら理由があった。一直線の長い廊下の壁に設置された自販機に背中を預ける金髪の男が、下卑た笑いを浮かべている。元香砂会組員、千尋。背中にまで届く金髪を揺らして、彼はグレイの方へと身体を向けた。それを遠目から確認していたグレイは別段警戒するでもなく、散歩でもしているかのような気軽さで彼の元へと近付いていく。
「やぁ、待ってたよ」
彼我の差五メートルとなって、千尋は興奮を隠せずそう零した。
グレイという少女をこの目で見てから、どう壊してやるかということばかりを考えてきた。薬、道具、シチュエーション。顔立ちの整った幼気な少女を己の手で壊す。そう考えただけで千尋は絶頂が止まらない。ズボンのポケットから取り出した注射器をグレイに見せつけるようにしながら、千尋は上擦った声で呟いた。
「君みたいな女の子とヤれるのを待ってたんだ……。先ずは薬漬けにして、それから秘所を開発しよう。大丈夫、痛いのはきっと最初だけだから。次は四肢を切り落として……最後は磨り潰して犬の餌にしてあげるよ」
言って、注射器の入っていたポケットとは逆のポケットから真黒なロープを取り出した。
「ま、なんにせよ捕獲するところから始めよう。こいつはチタン製だ、ちょっとやそっとじゃ千切れないぜ」
下衆と表現するに相応しい男を前にして、グレイはその表情を一切変化させなかった。恐怖は勿論、怒りなどの感情も見られない。ただ無表情に、正面の男を見つめている。
やがて、グレイは首を傾げた。
「お兄さんは私をどうしたいのかしら」
「決まってんだろ。俺好みのおもちゃにして遊ぶんだよ」
「へえ、
クスリ、とグレイは嗤う。その嗤いの意味するところが理解できない千尋は怪訝そうに眉を顰めるが、銀髪の少女はMP7を抱えたまま愉しそうに。
「――――じゃあ、私がお手本を見せてあげるわ」
43
背後でグレイが立ち止まったのは分かっていたが、それには何も言わず先を急ぐ。ちらりと後ろを見れば先程まで居た銀次の姿も見当たらない。大方別のルートで鷲峰雪緒の捜索に当たっているのだろう。敵は粗方始末したので、これといった障害も無さそうである。
一階と二階とを繋ぐ停止したエスカレータを昇り、二階フロアへと足を踏み入れる。一階はボウリング場の他にもプールやゲームセンターといったレジャー施設が軒を連ねていたが、打って変わって二階は従業員用のスペースとして使用されているようだった。華美な装飾などは一切なく、薄暗い照明と無機質な廊下が先に続いている。幾つもある扉の一つを開けば、そこは古ぼけたロッカールームだった。埃の被り具合から考えて、数年は使用されていないのだろう。黄ばんだシャツなんかが無造作に投げ捨てられている。
さて、ここで俺がどうして一階ではなく二階の捜索を行っているのかを説明しておこう。
基本的に自尊心の高い人間というのは高い場所を好む。他人を見下ろして優越感に浸りたいが為だ。先程見たところ、雪緒の腕を掴んでいた金髪の男は正にそのタイプだと言えよう。前世から数えて約九十年。他の人間と比べて出会っている人間の絶対数が多い俺は、人間を見抜く観察力には並々ならぬ自信があった。実際この観察力のおかげで死線を乗り越えたことも一度や二度ではない。その上であの金髪の男のことを判断するならば、まず真っ先に上へと向かうだろうと考えたのだ。
そしてどうやら俺のその見立ては正しかったらしい。
数メートル先にある扉の向こう側から、男女の声が聞こえてくる。口論にでも発展しているのか女の声は荒々しい。対して男の方は落ち着いているような印象を抱かせた。油断しているのか、はたまた隠し玉を持っていて本当に余裕なのかは定かでない。が、そのどちらだとしても俺がやることに変わりはない。イーグルに銃弾が装填されていることを確認し、声の漏れる部屋の前に立つ。
そして何の躊躇いもなく、その扉を蹴破った。
「……んだテメェ。レヴィちゃんにくっついていたおっさんじゃねえか」
まず視界に飛び込んできたのは殴られでもしたのか、下で見たときよりも大きなあざを頬に付けた鷲峰雪緒。そして俺と彼女の間に立つようにして額に青筋を浮かべる金髪の男だった。確か仲間にチャカとか何とか呼ばれていたような気もするが、名前などどうでも良い。どうせ直ぐに顔も思い出せなくなるだろう。
男は俺が雪緒を救出しに来たのだと思ったのだろう、苛立たしげに拳銃を構え、俺を撃ち抜こうと引鉄に手を掛ける。
「とりあえず死んどけよ」
が、その動作は余りにも緩慢だった。
直後、銃声。男の奥で発砲音の大きさに瞼を閉じる雪緒の姿が見えた。
「…………あ?」
銃声は一発。ただしそれは男が発砲したものではなく、俺のイーグルから放たれたものだ。弾丸は男の右肩に命中し、握っていたリボルバーを落とす。おかしいな、狙ったのは足だったんだが。まぁいい、武器を落とすために肩を狙ったということにしておこう。
「っ痛ェええ! こんの糞野郎がぁああああ!!」
出血に伴い赤く染まっていく肩を押さえながら男は蹲るように床に膝を着く。俺に見下ろされていることが気に入らないのか、蹲りながらも睨み付けるあたりは流石の自尊心だと言わざるを得ない。こういう男には徹底的に屈辱を与えてやるのが効果的だ。それによって更に激情に駆られ、行動はより単純になっていく。一歩男に近付いて、嘲笑と侮蔑を表に出す。
「お前もスタームルガー使ってるんだな。初心者にはオススメしないぞ、こいつは意外とデリケートだ」
「テメェ……!」
激痛に顔を顰める男は、怒りに満ちた瞳で俺を睨み付ける。残念ながらその程度の怒りの形相では俺の表情を崩すには至らない。伊達に悪の巣窟で十年も過ごしてはいないのだ。
尚も食い下がろうとする男の顎を蹴り飛ばして部屋の隅へと転がす。そんな俺の様子を、雪緒は信じられないものでも見たかのような表情で呆然と眺めていた。
「貴方は、一体何者なんですか……?」
恐怖かはたまた戦慄からか、半ば無意識のうちに呟かれた少女の言葉に、俺はどこまでも無機質な声音で返答する。
「悪党だよ」
44
「……何やってんだお前」
「あら、もう向こうの片付けは終わったのかしら」
彼女にしては珍しく、げんなりとした溜息を吐き出した。ボウリング場に残っていたチンピラどもを殲滅し、ゆっくりとした足取りでウェイバーと銀次の後を追うレヴィが目撃したのは、罅割れた自動販売機に磔にされた金髪ロン毛の男と、その正面で柔かに微笑むグレイの姿だった。何か黒魔術的な儀式でも行ったのではないかと思わせるほど、辺りには血痕がびっしりと散らばっている。一体何をどうすればこんな惨状に繋がるのか、そう思わずにはいられない程に凄惨で異常な光景がレヴィの目の前に広がっていた。
「お兄さんが玩具になりたいって言うから、手伝ってあげてるの」
「いや絶対ェそんなことは言ってなかっただろ」
上機嫌なグレイの両手には男から奪ったらしい拳銃と自前のナイフ。どうやらその二つで男に拷問を行っている最中らしい。周囲の血痕から考えて既に死んでいてもおかしくない筈だが、どういうわけかまだ息があった。消え入りそうな程小さな呼吸音が、自動販売機の稼動音の中に混じって聞こえてくる。
男、千尋の全身は血に塗れていた。
両の掌にはナイフを突き立てられ、両膝と足の甲は拳銃で撃ち抜かれている。首にはチタン製だという真黒なロープを巻かれ、窒息しないギリギリのラインで締め付けられていた。
そんな瀕死の男を前に、グレイは艶やかな笑みを浮かべる。
「さぁ、次はどうしましょうか。簡単に壊してしまうのは勿体ないわ。そうだ、どこまでなら肉を削いでも精神を保っていられるか試してみましょう。昔の刑罰にあったわね、なんて言ったかしら」
ナイフを器用にくるくると回しながら、グレイは男の身体を上から下まで見渡して。
「よし、まずは太腿からね。大丈夫よ、私スライスするのは得意なの」
「ーーーーッ!!」
男の声にならない悲鳴が通路に轟く。しかしそれはグレイを悦ばせることにしかならず、クスリと微笑んだまま少女はナイフの刃を男の太ももに斜めに宛てがった。数瞬後、ぼとりと男の肉が鉄臭い液体とともに床に落ちる。
「あはっ」
痛みに顔を歪める男を見て、少女の嗜虐心が大きくくすぐられる。もっと、もっと。血に濡れた刃を、今度は逆の足へと走らせた。先程よりも大きめに削いだからか、男は口から泡を吹き出してショック状態に陥ってしまった。
「しまったわ、ギリギリの所で遊ぶのが楽しかったのに」
男の意識が無くなった途端、グレイは興味そのものが失われてしまったかのように冷酷な表情を見せる。散々痛めつけてきた男に対し、最期は何の躊躇もなく額へと弾丸を撃ち込んだ。完全に動かなくなった男にグレイは見向きもせず歩き始める。
そんな少女の後ろ姿を眺めながら、レヴィはその悪趣味度合いに若干、いやかなり引いていた。
45
銀次がそれを発見した瞬間、思考を埋め尽くしたのは安堵と危惧という相反する二つの感情だった。
雪緒を見つけることが出来た。そのことに安堵する。しかし雪緒の目の前にはウェイバーが立っており、何やら手を差し出している。更に少女の頬には先程見たときよりも大きな痣が出来ていた。細かい事情は分からない、知らない。そんなことはどうでも良いのだ。自身が危険だと判断した男が護るべき人の目の前に存在している。それだけで、男が刃を振るうに足る理由となる。
部屋の入口から一気にウェイバーの元へと跳躍し、居合切りの構えから白鞘が抜き放たれる。
「っ、銀さん!」
甲高い衝突音が、狭い室内に反響した。
銀白のリボルバーと白鞘が、互いを喰らうべく激突する。
・チッピー←脱落
チャカ←未だ生存