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「……寝すぎたな」
ベッド代わりにしていたソファから重たい上体を起こし、左右に首を鳴らす。
遮光カーテンも閉めずに眠りこけてしまっていたらしく、窓の外は既に暗い群青色の空が広がっていた。
腕時計に視線を落とす。午前四時。いや、寝過ぎだろう俺。かれこれ十時間以上寝てるじゃないか。
これだけ深い眠りになってしまったのには当然ながら理由があった。先日のカリビアン・バー襲撃時、メリーに縋られそのまま彼女の寝床で昼過ぎまで眠った俺はその足で仕事に向かい、用件を済ませると再びカリビアン・バーに舞い戻った。これは襲撃された際に破損した店内の損害額を見積もってもらい、その分を弁償するためだった。
が、どういうわけか俺はニコニコ顔のメリーにカウンター席に座らされ、またしても酒を呷る羽目になったのだ。
いやいや今日はそういうんじゃない、と彼女に言っても全く聞いてもらえない。どころか嬉々としてボトルを開けだす始末。店が襲撃されてまだ一日も経っていないというのに、この街の女どもはどこまで強かなのだろうか。
そういうわけで深夜まで大量のアルコールを摂取し続けた俺は強い睡魔に襲われ、またもやメリーの部屋に一泊。俺が彼女の部屋に上がった際にやけにベッド付近が整えられていたのは一体何の意味があったのだろうか。余りの眠さに彼女に一言告げて直ぐにベッドに倒れ込んだために、その辺りまでしか部屋での記憶はない。
陽が昇ってメリーの家を後にし、昨日と同じように依頼を一件こなし夕方に自分のオフィスへと帰ってきた。覚えているのはここまでだ。恐らくは酒と疲労のせいでここまで眠ってしまっていたんだろう。流石に二日続けての深酒は身体の方が保たなかったみたいだ。
「あー、酒ヤケで喉痛え」
いつもとは違う喉の違和感を不快に感じつつ、洗面所で顔を洗う。
近くにあった適当なタオルで顔を拭いていると、不意にポケットが震えた。バイブ設定にしてあった携帯だ。タオルを脱衣カゴに放り投げて、携帯を耳に押し当てる。
「もしもし」
『やっと繋がったか、まさか寝てたんじゃないだろうな』
「だったら何だよ」
『いや、一先ず連絡が付いて良かった。彼女には放っておけと言われたが、やはりお前の耳にも入れておこうと思ってな』
声の主は三合会タイ支部統括、張維新。
正直言ってコイツが俺に連絡を寄越すときは決まって厄介事を引っさげているので、非常に嫌な予感がしてならない。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、張は平然と爆弾を投下してきた。
『バラライカが遊撃隊を率いて人狩りに出た』
「……は?」
『今から十時間ほど前にヴェロッキオ・ファミリーが襲撃を受けてな。奴らのオフィスは壊滅、ヴェロッキオも三枚に卸されてたよ。お前なら既に勘づいてるだろうが一応言っておけば、今回の一件の元締めはイタリアン・マフィアだった』
魚かよ、というツッコミはしない。
『バラライカは直属の部下を殺されたことにいたくご立腹だ。三合会はホテル・モスクワと共同歩調を取ることに合意したが、お前はどうするつもりだ?』
「どうするって言ってもなぁ」
張の言葉から推測するに、バラライカは部下を殺したイカれた殺人者を粛清するということなのだろう。聞けば今現在のロアナプラは外もおちおち歩けない程の緊張状態らしい。ていうか俺が寝ている間にそんな大それた事になっていたとは。
『お前が見逃したってことは見所のある奴なんだろう。俺も一度銃を交えたがありゃきちんと育てりゃ相当の手練になる。でもな、バラライカはそれを認めない』
「…………」
いや、サハロフにも言えなかったけど俺はその襲撃者とやらを一切見ていない。故に見逃すとか粛清するとか以前に誰かすら知らないのである。張やバラライカが話しているステージに、俺はまだ立ってさえいないのだ。こんな状態でどうする気だと聞かれても返答に困るのは当然だろう。
しかし俺の無言をどう受け取ったのか、張は受話器越しに大きな溜息を吐き出した。
『バラライカは立ち塞がる者全てを排除すると言った。ウェイバー、例えお前でもだ』
「……そうかい」
バラライカの前に立ち塞がるとか冗談じゃない。おまけに遊撃隊も動いてるって状況でだぞ、どんな死にたがりだよそりゃ。
『声音から察するにもう行動指針は決まってるようだが、俺から一つ言わせてもらう。……もう以前のような戦争はゴメンだぞ』
そら決まっている。一晩中ここで大人しくしているさ。無闇矢鱈と首を突っ込んでトバッチリを食らうのはゴメンだ。自分の身くらい自分で守る。
張の言う戦争は恐らく十年前の俺と張、そしてバラライカのいざこざのことを言っているんだろう
当時の俺はロアナプラにやって来たばかりで右も左も分からず、張とバラライカはこの街で勢力を拡大しようと血気盛んだった。その頃は黄金夜会なんてシステムは存在せず、力ある人間だけが生き残る弱肉強食が最高にして唯一のルールだった。現在の黄金夜会のメンバーたちが法の通用しない無法地帯で啀み合っているとなればどうなるかは簡単に想像出来るだろう。血腥い殺し合いだ。
正直俺はそんなものには微塵も興味が無かったので安全地帯で暮らそうと画策していたのだが、どういうわけか最前線へと送り込まれていたのを今でも覚えている。
何か見えない力でも働いてんじゃないのかと疑うほどにあっけなく、簡単に、俺は張とバラライカの前に立ってしまったのである。
そこから先は命の取り合い。俺は必死に自分の身を守るために走り、隠れ、時には無謀なことも行いなんとか生き延びることに成功したのだ。
俺に言わせればあれは戦争ではなく、俺に対する一方的なリンチでしかないと思う。
ここでいやあれはリンチだろ、と言えればいいのだが、張の声色にそういった類のものは含まれていないようだった。なので調子を合わせ、軽口でも叩くように返す。
「だったらそうならないようにきちんと手綱握っとけよ」
『お前のか? 馬鹿言うな、こっちの腕が千切れちまうよ』
「バラライカは今どうしてる」
『聞いた話だとサウスストリート南西の噴水広場。そこでアイツらを仕留めるようだ』
「そうか」
『……くれぐれも暴れてくれるなよ』
「愚問だな」
そんな危険なことする筈ないだろう。
バラライカの恨みを買っても困るだけだ。
張との通話を終えて、携帯をソファに放る。
窓の外から見えるロアナプラは、酷く閑散としていた。出歩く人間も周囲には見られない。この分だと街全体がそうなっているのかもしれないな、誰だってホテル・モスクワの怒りを買うような真似はしたくないだろう。俺だってそうなのだから。
となれば大人しく朝が来るのを待とう。そう決めて再びソファに寝転がった時、唐突にそれは俺の耳に届いた。
カツン。
「…………?」
カツン。
もう一度。今度は俺の聞き間違いではない。誰かがこの建物の階段を昇ってくる。
今のこの街の状態で、こんな夜更けに? 幾ら何でもおかしい。ソファから立ち上がり、オフィスの入口をじっと見据える。
一定の間隔で聞こえていた足音はやがて止まる。
――――そして、扉がゆっくりと開かれた。
17
「愚問だな、か」
通話を終えた携帯電話を懐にしまいながら、張は静かにウェイバーの言葉を繰り返していた。
ホテル・モスクワが行動を開始して約六時間。これまで全く動きを見せないウェイバーの動向を掴むために連絡してみたが、どうやら彼は彼の方で既に行動指針を決めていたようだ。
「バラライカと対立するのも構わないか。アイツらしいと言えばアイツらしい」
バラライカの部下であるメニショフを殺したあの双子に、どうあっても生存の道は無いだろう。彼女は彼女の身内が殺されることを決して看過しない。それ相応の復讐でもって彼らを殺すだろう。本気になった彼女と遊撃隊なら、その程度のことは片手間でもやってのける。
一方でウェイバーはその双子を一度見逃していた。その現場で殺されたのがメニショフなのだが、ウェイバーが居合わせなければサハロフも死体として転がっていただろうと張は予想する。
どんな理由からウェイバーが双子を見逃したのかは分からない。一見して善人にも見えるウェイバーだが、その内側は張も顔負けする真黒さである。
ウェイバーは線引きをしている。自分が親愛を向ける人間と、それ以外の人間。彼の中にはこの二種類しか存在しない。そして彼が親愛を向ける人間なんていうのは片手の指で数えられる程しか存在しないだろう。
彼は決して自分の内側を見せようとはしない。戦闘になった際、微塵も表情を変化させないのがその象徴だ。人の生き死にに関して、ウェイバーは驚く程ドライな思考を持っている。
しかしそんな思考に反して、彼の引鉄は驚く程に重い。
まず銃を抜くというシチュエーションになること自体が稀である。
だがもしもそうなった場合、彼はほぼ例外なく相手を屠ってきた。因みにその例外なのが張とバラライカなのであるが、今回新たにこの例外に件の双子がカテゴリされることとなった。
解せない。単純に張は思う。
一度目の襲撃でウェイバーが双子を殺していれば、ここまで大きな事態にはならなかった筈だ。バラライカは復讐の矛先を失うことになるが、それでも手を下したのがウェイバーだとすれば最終的に納得するはずである。そもそもメニショフが死亡することすら未然に防げたかもしれないのだ。
(いや、仮定の話を幾らしたところで詮無いことか)
過ぎたことを考えても意味はない。
重要なのは、このままではウェイバーとバラライカが衝突するかもしれないということだ。
ウェイバーは言った。愚問だ、と。それはつまり張が危惧していた事態に発展する可能性があることを示唆していた。
(奴は俺の質問の意味を正確に理解した上でああ返した。ということは、俺の忠告は無駄になりそうだな)
わざわざバラライカの居場所まで聞いてきたのだ。彼がその場へと向かうのは容易に想像できる。
実際のところはウェイバーは『ああ良かった。このオフィスからは遠いしトバッチリ食らうこともないだろ』と安堵の息を漏らしていたりするのだが、今の張が知る由もない。
ともかく、ウェイバーが動くのであればどうするべきか。
ホテル・モスクワと三合会は共同歩調を取ることに合意している。よってバラライカの邪魔をすることは出来ない。かと言って、ウェイバーと対立するような真似も張はしたくなかった。
「なあ彪。お前ならバラライカとウェイバー、どっちとやり合う」
「どっちも御免です」
「だよな、俺もだ」
こりゃ今回は高みの見物決め込んだ方が身のためだなと呟いて、張は煙草に火を点けた。
18
俺の目の前に現れたのは、血濡れの少女だった。
プラチナブロンドの銀髪と喪服のように真黒な服は所々紅く染まり、額からは出血しているようだ。
さて、ここは病院ではないんだが、緊急なら近くの医者に駆け込んだほうがいいだろう。そんな風に考える俺だったが、くすりと嗤う少女の次の言葉に思考が止まる。
「また会えて嬉しいわ、おじさん。この前の続きをしましょう?」
この前とは一体いつのことを言っているのか、てんで見当がつかない。
明らかに初対面の筈だが、どうやら向こうは俺のことを知っているようで、気安い口調で言葉を紡ぐ。
「おじさんを殺せば、一体何人分の命になるのかしら。ああ、今からゾクゾクしちゃう」
背後から姿を現したのは少女が持つには余りにも似つかないBAR。
まさか、と思うのも束の間。少女はその銃口を俺に向けて。
「さぁ、私と踊りましょう?」
銃弾がオフィス内で爆ぜる。
ソファを盾に転がるように身を屈める。窓ガラスは砕け、机やソファには弾痕が次々に刻まれていく。
事ここに至って俺はようやく理解する。バラライカの追っている殺し屋、それがこの少女だと。子供が殺し屋なんて、などとは思わない。年端も行かぬ小さな子供がアサルトライフル片手に紛争地域に送り込まれるくらいなのだ。殺人に年齢は関係ない。
「……はぁ、全く嫌になる」
ロアナプラで過ごした十年で、殺人というものに慣れてしまった俺でも流石に子供を殺すことには思う部分もある。
それこそレヴィを家に置いた時のように、生前の子供や孫と重ねてしまうことだって一度や二度では無かった。
だが、そんな甘さが通用するほどこの街は優しくない。背を向ければいつ撃たれるか分からない、生と死が常に隣り合わせている場所がこのロアナプラなのだ。この街に流れ、殺人を犯している以上は目の前の少女もまた俺の敵以外になりはしない。
ジャケットのボタンを外し、いつでも銃を抜ける状態をつくる。
「なぁ、お嬢ちゃん」
銃撃は止まない。
そんな中にあって、口を開く。
「お嬢ちゃんは、何の為に人を殺すんだ?」
銃声の中で呟かれた言葉に、しかし少女は反応した。
「何の為に、ですって?」
「ああ、お嬢ちゃんを雇ったヴェロッキオはもう居ない。ターゲットを狙う理由なんてのはもうないだろう?」
蜂の巣にされひっくり返ったソファの陰に身を潜めたまま問い掛ける。
俺の問いに、少女はくつくつと嗤いを漏らして。
「おかしなことを聞くのねおじさん。そんなの決まってるわ、そうしたいからよ。他にはなぁんにもないの、そうしたいからそうするのよ」
「…………そうかい」
これまでの俺の経験上、子供が殺人者になるには二通りのパターンがある。
生まれながらの生粋の殺し屋か、大人がそうなるように仕込んだかだ。出会った中には生粋の殺し屋もいるが、子供達の大半は陽の当たらない暗い闇の底で大人たちによって殺しを仕込まれていた。
そして今の返答を聞いて確信する。この子もまた、醜い大人たちの玩具にされ変えられた被害者であるということを。
「殺したいから殺すのか……」
「ええ、そうよ。だって私たちは
「私、たち?」
「あの時の酒場にもうひとりいたでしょ? 私の兄様が」
どうやら殺し屋は二人いるらしい。張め、そうならそうと教えてくれれば良かったのに。
「その兄様とやらは、一緒じゃないのかい」
「ターゲットは二人ですもの。二手に分かれたほうが効率的でしょう?」
「そりゃご尤も」
となると兄様とやらはバラライカの方に向かったのか。場所は先程張に聞いているが、行く気は更々無い。お冠なバラライカの近くになど寄りたくはないし。
「さぁおじさん、かくれんぼは終わりよ。このままだとあの女も戻ってくるわ」
「あの女?」
「肩に刺青のある口が悪いお姉さん」
レヴィかよ。なんであいつがこんな所をウロチョロしてるんだ。
「おじさんの家の前で待ち伏せしてたの。私を追ってきた人たちをそのまま彼女に押し付けたから、今頃この近くを走り回ってるんじゃないかしら」
追ってきた人、というのは十中八九遊撃隊のことだろう。バラライカに立ち塞がる全てを排除せよと命令されているので、大方この少女の近くにいたレヴィまで標的にされたのか。まぁレヴィのことだから、そう簡単にくたばるとは思っていないが。
「不思議ね。あれだけ追いかけられたのに、この建物の中に入ったら追撃がピタリと止まったわ」
「ま、黄金夜会のメンバーのオフィスを襲撃とかしねーだろうよ」
流石にその辺の常識は持ち合わせているだろう。
いや、よく考えたら遊撃隊なら普通に入ってきそうだな。なんで侵入してこないんだ、標的が目の前にいるってのに。
そこまで考えたところで、BARの銃弾が俺の真横を飛んでいった。盾として使っていたソファは風通しが良くなってもう使い物になりそうにない。
室内に遮蔽物は無いに等しく、少女との距離は約五メートル。
……普通に、詰んでないかコレ。
内心で軽く絶望するが、少女はそれさえも待ってはくれないようで。
「おじさんを殺したら、そうね。まずは全身を綺麗に洗って、一晩中愛でてあげる。結構顔は好みよ、それから皮膚を上から順番に剥いでいくの」
顔の皮膚でマスクを作ってみようかしら、などと少女は無邪気に嗤う。内容は一ミリたりとも笑えないが。
状況はかなり追い込まれていると言ってもいい。
が、それを顔には出さない。一切出すことなく、俺は粗大ゴミと化したソファの後ろから立ち上がる。悠々と、さもそれが当然であるかのように、ある種尊大に振舞ってみせる。
これが虚勢だと悟られぬよう、小さく口元を綻ばせる。
「おじさん舐めてると痛い目みるぞ。やるなら本気で来なお嬢ちゃん」
「前回の失敗からよおく学んだわ。全力で殺してあげる」
「そりゃ有難い」
直後、俺は両手にリボルバーを握った。これまで何年もかけて練習しただけあって、銃を抜く早さに関してはこの街の中でも随一だと自負している。
その余りの早さに眼を丸くする少女に向かって、声のトーンを一つ落として呟く。
「無抵抗な子供殺すのだけは、気が引けるからよ――――」
19
「そうか。いや、今は手を出すな。ウェイバーか標的が出てくるまで待機せよ。無闇に火種を大きくすることはない」
バラライカは煙草を加えながら、噴水の脇に腰掛けていた。
腕時計に視線を落とせば午前四時半。直に夜も明けるだろう。それまでにこの件に決着をつける。彼女はその場から微動だにせず、ただその時がやってくるのを待つ。
バラライカの座る地点から半径二百メートルの範囲に渡り、彼女の部下がそれぞれの狙撃位置で待機している。狙撃手は既に体勢を整え、いつ敵が現れても狙撃できるようスコープ越しにバラライカを収めていた。
と、そのスコープに人影を捉える。思わず狙撃手の指にも力が篭る。が、無用な力みは作戦の失敗に繋がるとすぐに思い直し、指にかかる力を抜いた。
現れたのは、銀髪黒服姿の少年だった。
噴水を囲むように植えられた木々の合間から現れた少年は、ゆっくりとバラライカの元へと向かっていく。
「流石だねおばさん。気付いてたんだ」
「隠れる必要なんてないわよ。私は逃げも隠れもしない」
少年、ヘンゼルはにこやかに微笑み、バラライカは無表情のまま煙草の煙を吐き出した。
「部下だって優秀なわけだ。追いかけっこしてた割には一人も殺せなかったよ」
「一つ、聞いておきたいことがあるわ」
「なあに、おばさん」
「メニショフ伍長を殺したのはどっちだ」
その問いに、ヘンゼルは事も無げに答えた。
「僕さ。もう一人は姉様が殺そうとしたけど、あのおじさんに邪魔されちゃったからね」
「……そうか」
一つ息を吐いて、バラライカは静かに瞼を下ろす。
それの意味が分からないまま、ヘンゼルはまた一歩彼女へと近付く。
「さあ、どうしようかおばさん。折角だし何かお話でもする? 僕が殺したあの男の話とか」
「…………」
「普通なら死んでるところだけど、あの男は随分もってたね。ゆっくりと首に斧を入れていったんだ。喉が切れて血のあぶくを吹きながら最後まで叫んでたよ。『大尉! 大尉!』って」
「……ふうん、そう」
その反応が意外だったのか、ヘンゼルはきょとんとした表情を浮かべる。
「冷たいんだね、おばさん」
言って、背後にしまっていたらしい戦斧を取り出し真横に振るう。
「でもね、おばさんもじきあの男のようになるよ。時間が余り無いのが残念だけど」
微笑を浮かべたままのヘンゼルに対し、バラライカは表情を崩すことなく淡々と告げる。
「本当に残念だわ。坊やには悪いけど、貴方、ここでお終いなのよ」
脚を組替え、平坦な声で言う。
対し、ヘンゼルは意味が分からないとでも言いたげな表情だ。
「でもその前においたのことは謝ってもらわないと。もう一人のせいでウェイバーに大きな借りを作ることにもなったし、坊やから纏めていただこうかしら」
真っ直ぐにヘンゼルを見つめたまま、バラライカは続けた。
「ねえ坊や。取り敢えず、そこに跪きなさいな」
「……そんなこと言って――――」
「跪け」
直後。数百メートル離れた建物の屋上から放たれた一発の弾丸が、正確にヘンゼルの右膝を撃ち抜いた。
突然の銃撃に理解が追いつかないまま、力を失った右脚は縺れ、支えを失ったヘンゼルは地べたに這い蹲るように頭を垂れる。
「それでいい」
新しい煙草を咥えたバラライカに、ヘンゼルは右手に握っていた戦斧を大きく振りかざす。
が、その腕もまた狙撃によって吹き飛ばされる。ガラン、と音を立てて近くの地面に落下する斧と、それに付着するかのような右手首。少年の右半身は、完全にその機能を失いつつあった。
「おしまいなんだよ、坊や」
右手と右脚を潰された痛みからか、ヘンゼルはバラライカを見ようとしない。
それをさして気にもせず、彼女は言葉を続けた。
「もう少し理性が働けば気付いたはずだ。自分が餌場に飛び込んだこと、盾突く相手を間違えたことに」
出血は止まらない。このまま放っておけば間違いなく失血死するだろう。濃い血溜まりが少年を中心に広がっていく。
「始まりは強制的に仕込まれたのかもしれん。だがな、
「……うふ、うふふ」
唐突に嗤いを漏らすヘンゼルに、バラライカは僅かに眉を顰める。
「おばさん、おかしいや。何言ってるの? 僕は死なないよ。死なないんだ」
その嗤いは徐々に大きくなっていき、少年は血に塗れた顔を上げる。
「こんなにも人を殺してきたんだ。いっぱいいっぱい殺してきてる」
「…………」
「僕らはそれだけ生きることができるんだ。命を、命を増やせるの。だって僕らは永遠の命、永遠なんだ」
「それがお前の宗教か。素晴らしい考え方だ」
煙を燻らせ、彼女はヘンゼルを見下ろした。
「だが正解は歌にもあるとおり、『
さて、とバラライカは腰掛けていた噴水の脇からゆっくりと立ち上がる。
コツ、コツとヒールを鳴らし、ヘンゼルの目の前にまで近付く。
「私はお前の死を同志への手向けとする。故に殺し方には拘らない。このままお前が死ぬのをただ眺めるのもいいだろう」
メニショフを殺したこの少年を生かしておくなどバラライカは考えていない。そんな微温い考えなら、遊撃隊を引っ張り出したりはしないのだから。
「だが、そうすることであの男が動くのも困るのでな。早々に事を切り上げさせてもらおう」
言ってバラライカは懐からマシンピストルを取り出し、その銃口をヘンゼルの額に向けた。
「……ん、……っく、うえぇ……」
「泣くな、この馬鹿もんが」
吹き抜ける風が周囲の木々を撫ぜる中、一発の銃弾は少年の命を刈取った。
夜が明ける。
東の空が白み、地平線の彼方で陽の光が見え始めていた。
しばしその場に立っていたバラライカは、無線を取って連絡を入れた。
「軍曹、こちらは片が付いた。三合会に連絡を」
『了解。ですが、肝が冷えますよ大尉。引き金に指がかかりっぱなしだ』
「すまん。私の我儘に付き合わせてしまったな。片割れのほうはどうだ」
『依然動きはありません。二階の窓ガラスが割れているので交戦しているのだとは思いますが、数分前から銃声が途絶えたそうです』
「引き続き監視を続けろ。片割れだけが出てくるようなら即座に殺せ」
『了解、大尉はどうしますか』
「護衛を付けて事務所に戻る」
無線を切り、眼下に横たわる骸に視線を移す。
息絶えた少年の亡骸を見つめたまま、バラライカはポツリと呟く。
「……全く、因果な世界だよ」
20
ウェイバーが所有するオフィス内は、銃撃によって無残な姿に変貌していた。壁や窓ガラスは砕け、デスクとソファ、書類棚なんかも全て蜂の巣にされている。
だが、そんな室内にあって一人、一切の傷を負っていない人間がいた。シルバーイーグルを両手に握るウェイバーである。彼の皮膚に銃創はなく、衣服に空いた穴もない。襲撃前の姿のまま、彼はグレーテルの前に立っていた。
一方で、少女は信じられないものを見たような表情をしていた。
両手に握るBARの弾丸は予備のものも含めて全て吐き出し、隠し持っていたナイフも使った。だが、ウェイバーには一つの傷も付けることが出来ていなかった。
そんな男を目の前に、グレーテルはただ呆然としていた。
「弾丸を弾丸で弾くなんて、そんなこと出来るものなの……?」
「やってやれないことはない。不可能なんて言葉はやろうとしない奴の逃げ口上だ」
いやその理屈はおかしい、と安易につっこむことも出来なかった。
グレーテルの持つBARは自動小銃だ。当然リボルバーとは速射性能が違う。ウェイバーの持つリボルバーの装弾数は六発。二挺合わせても十二発。対してこちらは二十発、銃口初速も秒速八百メートルを超える。弾装の交換だってこちらのほうが遥かに早く行えるだろう。
であるにも関わらず、ウェイバーは平然とその上をいってみせた。
まず恐るべきは正確無比な早撃ち。そしてリロードの早さだ。通常リボルバーの装填にはスピードローダーなどを使用しなければ一発ずつ弾丸を込めなくてはならない。ウェイバーはその手のものを持っていなかったらしく、手込めで装填していた。が、その速度が異常だった。一挺を打ち切れば、もう一挺で撃っている間に片手でリロードを済ませてしまうのだ。器用に親指と小指でグリップを握り、残りの指三本で。
聞けばすごく練習したなどという答えが返って来たが、それにもどう反応すればいいのか少女には分からなかった。
そしてもう一つ、グレーテルには理解できない点があった。
「……どうして私を狙わないの? ずっと弾丸ばかりを狙って」
「…………」
「私はどれだけ撃たれたって大丈夫よ、だって永遠の命ですもの。たくさんたくさん殺してきたもの、殺した分だけ、私たちは生きることが出来る」
「……なぁ、永遠に生きられるってのは、そんなにいいものなのかなあ」
不意に呟いたウェイバーは、グレーテルの顔を見ながら。
「永遠に生きてたら、知らなくていい、見なくていいもんまで見ちまうことだってある。それはお嬢ちゃんにとって、決してプラスにはならないだろう」
「おかしなことを言うのねおじさん。おじさんだって、死ぬのはイヤでしょう?」
くすくすと嗤うグレーテルに、ウェイバーは至って真面目に答えた。
「満足して死ぬってのは、悪いもんじゃない」
言葉の真意を測りかねて、グレーテルは首を傾げた。
まるで一度死んだかのような口ぶりだったためだ。
「お嬢ちゃんにとって殺しってのは生きるための手段なんだろう。それ以外を知らない奴に何を言ったところで殺しは止められない。自ら望んで堕ちるってのはそういうことだ」
ちくり、と少女の胸の奥で何かが痛んだ。
その正体に本人が気づかないまま、彼は話を続行する。
「殺すな、なんて虫の良いことは言わない。殺し屋だもんな。だからまぁ、――――先ずは俺を殺してみろよ」
やれるもんならな、とウェイバーは笑った。
意味が分からない。理解が追いつかない。目の前の男は、なんだって笑っているのだろうか。自分は彼を殺そうとしていた。今だって隙さえあれば靴底に隠した極薄のナイフで頚動脈を切ってやろうと考えている。
なのにどうして、そんな相手に対してそんな表情を浮かべることが出来るのだろうか。
チクッ、とまた少女の奥底で何かが痛む。
グレーテルは生まれてこの方、純粋な善意というものをその身に受けたことがない。記憶の始まりは灰色の世界。そこに暖かなものなど存在しはしなかった。
だから理解できない。ウェイバーが言う言葉の意味が。自身のことを思っての言葉だということが。
「殺し屋なんだろ? 俺が標的だってんなら、依頼はきちんとこなしてみせろよ」
「……もう手持ちの武器がないの」
「今じゃなくたっていい。これから先いつだって、俺の命を脅かすチャンスはあるだろうよ」
その言葉に何か言い返そうとして、しかし携帯のバイブ音にそれを遮られた。
ウェイバーは床に転がっていた携帯を拾い上げ、耳に押し当てる。
「もしもし。……ああ、居るが……そうか。いや、どうもその気になれなくてな、しばらく預かろうかと思ってる。……分かってるさ、あ? 借り? チャラ? よく分からんが、そういうことにしといてくれ」
どうやら話が一段落ついたのか、ウェイバーは通話を終えると携帯をポケットにしまいこんだ。
グレーテルへと視線を戻し、彼は少女へと事実だけを伝える。
「お嬢ちゃんのお兄さんは、死んだ」
「……そう、兄様が……」
永遠の命だと謳っていた割に、グレーテルは大きな動揺を見せなかった。
本当は知っている。分かっている。人間は永遠に生きられない。寿命で死ぬにせよ、他人に殺されるにせよ、最終的に人間は死ぬ。そんなことは分かっていた。
だが永遠の命だと言い張らなければ、二人でそう思い込まなければ。少女たちは壊れてしまっていただろう。受け入れざるを得ない、受け入れた世界で生きていくには、心の支えとなるものが必要だった。それが永遠の命。
殺した数だけ生きることが出来るという大義名分が存在すれば、殺すという行為に罪悪感を抱かなくて済む。自分たちが生きるためなのだから仕方がないと割り切ることができる。この世は弱肉強食、そうして世界は回っているのだと、双子は思うことに決めていたのだ。
そうやって共に過ごしてきた唯一の肉親が死んだ。
「……泣いてるのか」
「え……?」
言われて、グレーテルは顔を上げる。恐る恐る自らの目元に指を添えると、透明な雫が零れていることに気が付いた。
無意識のうちに溢れ出した涙は、自覚したと同時に止めどなく流れる。グレーテル自身戸惑っている。どうして涙を流しているのか、理解できないからだ。
それが悲しいという感情であることすら、今の少女には理解が出来ない。
その事実に心を痛めているのか、ウェイバーは唇を噛んだ。
「おじさん、どうして私は泣いているのかしら」
「…………」
「分からないの。兄様が死ぬ筈ないのに、ねえ、どうしてかしら」
涙の理由は分からない。
分からないのに、体の奥底から溢れ出す謎の感情が涙となって頬を伝う。
小さく頭を振る。涙の理由を振り払うかのように。それに合わせて揺れていた少女のウィッグがズレ、そして床に静かに落ちた。
ウィッグを外した少女の髪の毛は肩に届く程の長さしかなく、幼さを一層強調させた。
「教えて、おじさん。教えてよ」
「……それは、お嬢ちゃんが悲しんでるからだ」
「悲しい?」
分からない。悲しいという感情を理解出来ない。
闇に堕ちることを受け入れてしまった少女には、そういった感情の一切が抜け落ちてしまっているようだった。
尚も呆然とするグレーテルを、ウェイバーは膝を折って優しく抱き締めた。
人の温もりが肌を通じて感じられる。その事が、少女を不思議と穏やかにさせた。
「……温かい」
BARを床に落とし、空いた両手をウェイバーの背中へと回す。
「人間って、温かいのね」
消え入りそうな声で囁かれた声は、凄惨なオフィスに溶けて消えた。
21
「おじさん、起きて。朝よ」
「ん、んん……」
ゆさゆさと身体を揺すられる感覚に、重たい瞼を持ち上げる。
視界一杯に映し出されたのはとある少女の笑顔。
数日前に俺を殺しにやって来た少女グレーテルである。因みに俺はグレイと呼んでいる。グレーテルって少し呼びづらいのだ。
紆余曲折を経て俺の事務所に住まうことになった彼女であるが、どういうわけか毎朝俺を起こしにやってくる。というのも俺を殺しに来ているだけなんだが、律儀に起こしてから殺しにかかるあたり根は真面目な子なんじゃないかと思ったりもする。
「さあ、今日も元気に逝ってみましょうおじさん」
「字が違うんじゃないか」
黒のワンピースを纏ったグレイは『そんなことないわ』と笑う。
そんな笑顔を見て孫が出来た時のことを思い出す。レヴィの時とはまた少し違ったその感覚に、自然俺は頬が緩んでいた。
バラライカと三合会が共謀した件は、グレイの兄を始末することで一応の決着を見せた。
バラライカにしてみればグレイも殺したかったに違いないが、俺がサハロフを助けた時の借りをチャラにすることで今回は引き下がってくれた。
そういう経緯もあって、兄を失い雇用主であるヴェロッキオ・ファミリーも壊滅状態の今グレイに行く宛などなく、俺を殺すという大義名分のもとこうして事務所に居候する形となったのだ。
本音を言えばいつ殺されるのか気が気でなかったりするんだが。
兄を失った悲しみを、グレイはまだ実感することが出来ない。
感情というものを正しく認識することが出来ていないからだ。無理もない、幼少からこれまで血腥い暗闇に身を置いていたのだ。いきなりこれまで封じ込めていたものが表に出てくる筈もない。
今はまだそれでいいと思う。
いつか、少女が殺し屋からただの少女へと戻れる、そんな日が来るのであれば。
その時は、きっと――――。
これにて双子編終了です。
原作との相違点は本文の通りです。ヘンゼルはメニショフを手にかけていたために殺され、サハロフを結果的に殺していなかったグレーテルはウェイバーの貸しもあり生存となりました。
というわけでウェイバー宅に居候が増えました。
次回は小話集です。
◆一方その頃明け方のレヴィさん◆
「くっそなんでアタシが遊撃隊に追い回されなきゃいけないんだーッ!!」
「大尉殿、ラグーン商会のガンマンですがどう対処しますか?」
『構わん。そのまま走らせておけ、そいつウェイバーが絡むと面倒なんだ』