悪徳の都に浸かる   作:晃甫

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 BLACK LAGOONの二次小説が少ない。だったら自分で書けばいいじゃない。


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001 悪徳の街に彼らは立った


 世界にこんなにも荒んだ場所があるなんてことを、俺は知らなかった。

 日本で生まれ育ち、そしてその生涯を終えられた事がどれほど幸福だったのかを、俺は知らなかった。

 

 ――――波野(なみの )理一(りいち)

 それが、俺の前世から受け継いできた名前だ。

 

 前世から受け継いできた、と言うように俺には前世での記憶がある。所謂『転生者』というやつだ。

 とは言ってもよくあるテンプレ的な神様との対話だとか、不慮の事故で天命を全うすることなく死んだとかいうことは全くない。ごく普通の一般家庭に生まれ、ごく普通の大学を出て、ごく普通の会社で働きながら愛する人を見つけて一緒になった。ごく有りふれた人生をそれなりに楽しんで、最期は家族全員に看取られて老衰で逝った。どこに居る人間でも体験するような、そんな普通の人生だった。

 ああ、これで先立った妻に会いに行ける。そう考えていた事まで鮮明に思い出すことが出来る。

 

 だからこそ、初めは自分の置かれている現状を正確に理解することが出来なかった。

 

 気が付くと、全く見覚えのない土地に立っていた。

 映画やドラマで急に場面が切り替わるかのように、七十九年の生涯を閉じたと思った瞬間だ。たった一瞬で、全く見知らぬ土地に放り出されていた。

 その時の自身の心境を一言で表すなら『これなんて夢?』である。漫画なんかでよくあるように頬を抓ってみても痛みはしっかりと感じる。空一面に広がる青空はとても夢や幻なんかには見えない程に綺麗で美しい。風に乗って感じる草木の匂いも、この現状が紛うことのない現実であることを示していた。

 通常、こんな意味不明の事態に陥ってしまえば半狂乱になりそうなものだが、不思議なことにそうはならなかった。

 理由は大体分かっている。俺は一度、死んでいるからだ。前世で一度死を経験している者にとってみれば、今更何が起ころうがそう取り乱したりはしないらしい。この世で最も忌み嫌われるものを経験しているからだろうか。自分の場合は寿命なので、受け入れざるを得なかったという方が正しいが。

 兎も角、前世のあの時点で俺は既に死んでいる。何がどうしてこの状況になったかはさっぱりだが、これはロスタイムや延長戦のようなものだと思えた。

 本来であればそこで終わっていた筈の命が、どういう訳かこうしてまだ続いている。

 

 よくよく自分の身体を確認してみれば肉体もよれよれのジジイではなく、若々しい張りのある肉体だった。正確な年齢までは分からないが、恐らくは二十代前半から半ば辺りだろう。鏡がないので確認できないが、触っただけでもはっきりと分かる豊富な毛髪がいい証拠だ。まだ禿げていない。これは大事なことだ。

 神様なんてものの存在はこれっぽっちも信じちゃいなかったが、これは生涯真面目に働いて生きてきた俺への神様からのご褒美なのかもしれない。

 ふさふさと風に靡く髪の毛を弄りつつ、居るかどうかも定かでない神とやらに心の内で感謝した。

 どうせなら、楽しく過ごしていきたいものだ。

 

 

 

 ――――そう思っていた時期が、俺にもありました。

 

 

 

 オカシイ。

 異変に気付いたのは、この見覚えのない地に立っていた日から何日か経ってからのことだった。

 まず前世で有ったものが存在しない。スマホや電気自動車なんてものはその概念すら存在していないらしい。あるのは画面の存在しない最初期の携帯電話と市街地の至るところに設置された見慣れない形の公衆電話。それに排気ガスを撒き散らす年代物のディーゼル車。公衆電話なんてとっくに絶滅したと思い込んでいた俺は唖然とした。

 そして地名。こちらも俺が前世で記憶しているものとは微妙に異なっていた。仕事とは関係なく世界の地名にも明るかった俺でも聞いたことのないような地名が幾つかあったのだ。

 

 この時点で自身が見ず知らずの外国の地に立っていることは理解できていた。

 何せ街を歩く人間は黒人白人ばかりで日本人らしき人間は全く見当たらない。話す言語も基本的に英語。日本語は全く通じなかった。英語が話せたことが救いで、なんとかこの街の名称などの基本的なことを聞くことが出来たのだ。

 その話によればこの街の名は――――ロアナプラ。

 

 …………。 

 無意識のうちに頬を冷や汗が伝った。

 この名称、どこぞの漫画で読んだことがあった。確かそう、主人公の日本人がとある事情から海賊紛いの仕事を一緒にこなすようになるという話のガンアクション。アニメ化もされていたあの漫画。

 つうか、『BLACK LAGOON』だ。

 読んだのはまだ若かった頃なので詳しい記憶は曖昧だが、間違いないのは平然と殺人なんかが行われる裏の世界を描いた漫画だったということだ。登場キャラたちは皆一癖も二癖もあるような連中ばかりで、必ず銃を携帯している程の危険地帯。それが物語の中心地、ロアナプラだったのである。

 やべ、そう考えたら周りの連中が全員殺人者に見えてきた。というか皆俺の方を見ている。当たり前か、今の俺の格好はサラリーマン時代に着用していたスーツというこの場に酷く合わないものなのだ。このままではいつ強面の奴らに声を掛けられるかたまったもんじゃない。

 

 取り敢えず今はこの場を離れることが先決だ。

 なんで漫画の世界に転生してしまったのだとか、神様特典的なものは何一つないのかとか、言いたいことは色々とあるがそれもこの先命が続けばの話。このまま何もすることなく生きていけば間違いなく近いうちに死ぬ。此処はそういう場所なのだ。延長戦で与えられた命にまだどこか違和感を感じるが、ただ死ぬのは嫌だ。折角漫画の世界に来たというなら、原作キャラの一人や二人に会ってみたいとも思うし。

 

 取り急ぐべくは寝床と金だ。

 この二つが無ければ始まらない。 

 

 寝床に関しては最悪の場合野宿でも構わない。治安最悪のこの街の外で夜を明かすというのは正直非常に不安だが、女子供というわけでもない。変なチンピラたちに絡まれたりしない限りは大丈夫だろう。それよりも問題なのは金銭である。タイの通貨なんてものを持っている筈もなく、おまけに良心的な人間なんてものもこの街に居るとは思えない。

 これはまずい。そこいらの路地裏で野垂れ死んでいる未来が容易に想像できた。

 何も持たない、正真正銘手ぶらからのスタート。

 俺こと波野理一という青年は、本当に何もないまっさらな状態でこの世界で生きていくことを余儀なくされた。

 

 さて、前置きが少しばかり長くなってしまったが、これが俺がこの世界にやって来た経緯である。

 今一度言っておこう。

 俺の前世での名前は波野理一。この世界での呼び名は――――。

 

 

 

 

 

 1

 

 

 

 

 

 ロアナプラという街は、一言で言えば犯罪都市。

 そうロックは黒人の大男に言われていた。

 

 度重なる不運。彼は今の自分の置かれた立場をそう思うことしか出来ないでいた。特別何かに秀でていたわけではない。父や兄が官僚だったこともあって一浪の末に国立大学に入学。その後一流企業に就職したが毎日をただ怠惰に過ごしていた。これといった目的があって入社したわけでもない。ただ、体裁を保つため。

 それがいけなかったのだろうか。

 ロックこと岡島緑郎は考える。

 

 視界いっぱいに広がる大海原をぼけーっと眺めながら、彼は渡された煙草を吸った。

 

「……って、やっぱりおかしいだろこんなの!」

「騒ぐなよロック。今更どうしようもねぇんだ」

「大体あの女が俺を人質にするとか言い出すから!」

「オーケー、だったらレヴィに今すぐ引き返せと言ってきな。風通しが良くなるぜ」

 

 にやりと笑うその大男にロックは言い返すことが出来なかった。

 風通しが良くなる、という言葉が冗談でないことを既に体験しているからだ。あの女なら平然とやるだろう。人を殺すという行為に何の躊躇いも持っていないようなあの女なら、いとも容易く。

 

「…………」

「分かったら港に着くまで大人しくしてな。何もしやしねぇよ、仕事さえ無事に終われば後は関係ねぇ。晴れて俺たちともオサラバさ」

「はあ……、なんでこんなことになっちまったんだ……」

 

 そもそもの発端は、時を少しばかり遡る――――。

 

 旭日重工。

 その資材部東南アジア課。それがロック、岡島緑郎が勤めていた職場だった。日本でも大企業と呼ばれる一流企業の一つだ。

 特に何のやりがいもなく働いていた彼のその日与えられた仕事は、支社長であるボルネオという男性に一枚のディスクを届けること。目的地である支社へは船を使わなくてはならなかった為、彼は何の疑いも抱くことなく、用意された船へと乗り込んだ。

 

 その数時間後、彼の乗った船は海賊紛いの二人組にあっさりとジャックされた。

 今思い返してみても、その手際は見事としか言えない。どうやら船の側面に小型のボートをつけていたらしいその二人は流れるような動作で乗組員たちを拘束して集めた。当然、その中には自身も含まれていた。

 そしてどうやら、二人の目当てのブツは自分自身が持っているらしい。

 

「ヘイ日本人(ジャパニーズ )。テメエが旭日重工の社員か?」

 

 英語で話しかけられたが、仕事柄英語を始めとする言語には堪能だった岡島はどもりながらも眼前の女へと返答した。

 

「あ、あぁ。そうだけど……」

 

 チャッ、と。

 目の前の女はごく自然な動作で、ホルスタから銃を抜いて岡島へと突き付けた。

 

「オーケィ。ディスクか何か持ってんだろ、出しな」

「な、何でお前らに渡さなくちゃいけな――――」

 

 最後まで言葉を言い切る前に、冷たく固いものが額に宛がわれた。ゴリ、と捩じるようにしながら女は言う。

 

「日本人、悪いがこれはお願いでも提案でもねぇ。命令だ、do you understand?」

 

 日本に居たままでは決して見ることは叶わなかったであろうその武器を前に冷や汗が止まらない。

 彼にしてみれば自分はただ与えられた仕事をこなそうとしたに過ぎない。だというのにどうしてこんな目に遭わなくてはいけないのか。正常な思考が定まらないまま、岡島は命惜しさに厳重に保管していた一枚のディスクを手渡した。誰しも命は惜しい。たとえこの失態によって職を失おうが、我が身が一番大切である。

 女は渡されたソレを一瞥し、銀に光る銃をホルスタへと戻した。

 

 ホッ、と胸を撫で下ろす岡島だが、次の瞬間には甲板を勢いよく転がっていた。

 銃弾をぶち込まれたわけではない。女の拳が鼻っ面に叩き込まれたことによる衝撃だと理解したのは、鼻から垂れる血が甲板を汚してからだった。

 鉛玉を食らわなかっただけマシなのかもしれないと思ったのは、このすぐ後のことだ。

 

「おいダッチ。コイツどうする?」

「どうしたもこうしたもねぇ。他の乗組員と一緒に縛って放置だ。運が良けりゃフィリピン海軍かなんかが助けてくれるだろうさ」

「態々縛り直すのも面倒だ。膝の辺りを撃っちまった方が早い」

「必要ねぇ。これだけありゃあ十分だ」

 

 どうやら他の乗組員たちを縛り終えたらしい黒人の大男が女の手からディスクを受け取る。

 ダッチと呼ばれたサングラスの大男は乗組員たちに追跡はするなと告げると、そのままそそくさと自らの船へ戻っていった。

 ああ、ようやくこの悪夢から解放される。今度こそ安堵した岡島だったが、どうも彼の不幸はこんなところで終わってはくれないらしい。

 

 ぐいっと。

 先程収められていた筈の女の銃口が、彼の首元に突き付けられていた。

 

「……え、」

「何呆けた声を出してやがる。お前も一緒に来るんだよ」

 

 そんなわけで無理矢理船に連行されて以下略。

 

「……何で拐われなきゃいけないんだ……」

「まだ言ってんのかロック。男なら潔く受け入れやがれ」

 

 時は戻り、再び甲板の上。

 三本目の煙草に火を付けたダッチを横目に、ロックというあだ名を付けられた青年は途方に暮れていた。これからどうなるのだろうか。旭日重工が自身を擁護してくれるとは思えない。会社のためにトカゲの尻尾切りにされるなんてことは容易に想像出来た。

 事実、先程繋がった通信では上司に直接『南シナ海に散ってくれ』と告げられたのだ。この時点でロックに人質としての価値は失われた為、ガンマンの女、レヴィが始末しようとした所をダッチが宥めて今に至る。

 

「くそ、くそ……。あいつら、俺のことなんて何とも思っちゃいない」

「スケープゴートにされたのは同情するがなロック。今は取り敢えず落ち着けよ」

「落ち着く? これが落ち着いていられるかよ! 俺のこの先の人生が全く見えなくなっちまったんだぞ! 死んだことにされるんだ!」

 

 今思い返してもショックで受け入れることが出来ないでいるロックに、ダッチは数秒沈黙して。

 

「良し、飲むぞ」

 

 …………。

 

「へ?」

「ムカつくことがあったってんなら飲んで忘れるのが一番だ。こうして出会ったのも何かの縁。酒くらいは奢ってやる」

 

 いつの間にか酒を飲む流れになっていた。

 いや、ロックとしてもこの何とも言えない気持ちを流すためにも飲むという選択肢は大いにアリだが、如何せん周りの連中が胡散臭すぎる。

 大男の黒人に超絶短気な女ガンマン。おまけに自称天才ハッカーときたもんだ。

 正直、こんな面子に囲まれて飲む酒の味が分かるかどうか怪しかった。

 

「……もうどうにでもなれ」

 

 半ばヤケを起こしながら、ロックは諦めの溜息を吐きだした。

 こうなってしまったことはもう仕方がない。まずは腰を落ち着けてこれからの事を考えよう。そう結論づけて、ロックはカモメの飛び回る空を見上げる。

 こうして彼を乗せたままの魚雷艇は、犯罪都市ロアナプラへと戻っていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 2

 

 

 

 

 

「で、何しに来たんだよ」

「あら、随分と機嫌が悪そうね」

「お前が来るとロクなことにならないからだ」

 

 ロアナプラの一角に佇む小さなオフィス。その室内に置かれた椅子に座る俺の前には、数人の人間が立っていた。

 目の前で妖艶に微笑む女に、俺は不機嫌な表情を崩さないまま答える。

 この無法都市に放り出されて早十年。なりふり構わず生きてきた結果、この街でそれなりの地位を手に入れていた。

 いや、うん。俺には行き過ぎた扱いだとは思うのだけれど、この街では地位が高くて困ることはない。貰えるものは貰っておくのが信条である俺としては、例えそれが偽りの評価であっても受け入れておくべきだと考えてのことだ。バレた時が怖いけど。

 

 さて、今俺の目の前に立つこの女は俺の友人というかビジネスパートナーというか、いつのまにかこうして仕事を依頼されるようになった。それ以前は鉛玉を相手にブチ込むために本気の殺し合いなんかもしたが、ほんとどうしてこうなったんだろうか。

 堂々とした振る舞いを崩さない女。名をソーフィヤ・イリーノスカヤ・バブロヴナ。

 この街での通称は、バラライカ。

 そう、あの『火傷顔(フライフェイス )』である。

 

 彼女との出会いは俺がこっちの世界に来た十年ほど前に遡るが、それを今説明したところで何の意味もないので割愛させてもらう。

 とにもかくにも、俺はこうしてこのロアナプラを牛耳る人間の一人とコネクションを持つことに成功した。これは非常に幸運なことで、彼女の後ろ盾があるというだけでこの街ではかなり過ごしやすくなるのだ。

 おんぶにだっことか言うんじゃねえぞ。

 

 綺麗な金髪を靡かせながら、バラライカはさっさと本題を切り出した。

 

「旭日重工の件は知っているかしら」

「まあな。一応耳には届いているよ」

 

 俺の返答に、彼女は満足げに頷いて。

 

「流石、それなら話は早いわ。どうも連中、E・O社を雇って機密保持を目論んでるみたいなの。このままだとダッチたちが心配だわ」

「……それで、俺にどうしろってんだ?」

「言わなければ判らない程バカではないでしょう?」

 

 ブルーグレイの瞳が、俺を真っ直ぐに見据える。

 俺なんかが対処するよりも、彼女が出張る方が余程早く片がつくんじゃないかと思うんだが、どうやら彼女もそこまでして派手に動きたくはないらしい。旭日重工との商談もこのあとに控えているそうなので、あまり派手にやりすぎると面倒事になるのだとか。

 

「アナタなら上手くやるでしょう?」

 

 ニコッと。

 何も知らない人間が見れば見惚れてしまうような笑みを浮かべるバラライカ。

 しかし彼女の本性を知っている人間が見れば、その笑みの裏で何かを企てていることは明白だった。かと言って、ここで無理だと依頼を断ることも出来ない。彼女の信頼を失うということは、そのままロアナプラでの信用を失うことに直結するからだ。

 

「分かったよ。ダッチには俺から話をつけておく。必要があればE・O社を迎撃する。それで異存は?」

「無いわ。貴方に限ってミスを犯すなんてこともないでしょうし」

「随分と買ってくれてるみたいだな」

「当然でしょう? 私と互角に遣り合える人間なんて、この街には片手の指にも満たないもの」

 

 それだけ言い終えると、彼女は同志数名を引き連れてこのオフィスから出て行った。

 E・O社、エクストラ・オーダー社と言えば傭兵の派遣を行っている会社だ。あまりこの街に関わる事案には首を突っ込んではこなかったのだが、今回は旭日重工からの依頼ということで詳細は聞かされていないのだろう。E・O社の中には生粋のジャンキーも少なくないので、自ら首を突っ込んできたという可能性もあるにはあるが。

 

 煙草を一本懐から取り出して咥える。

 肺いっぱいに取り込んだ煙を吐き出しながら、椅子に掛けてあったグレーのジャケットを手にとって立ち上がる。先ずはダッチに会いに行こう。この時間なら多分イエローフラッグにいるだろうし。そこで話をつけておけばいいだろう。久しぶりに俺も飲みたい気分だしな。

 

 そういやあ、この件があった時って主人公サマがこの街にやって来るんじゃなかったか?

 参ったな。何年もこの世界に浸ってるとそこらへんの知識も曖昧になってくる。

 十年という年月の長さを改めて実感しつつ、軽い足取りでオフィスの階段を下りていった。

 

 

 

 

 

 3

 

 

 

 

 

「ひどい」

 

 そう溢したのは、本日めでたくロアナプラ初上陸となった日本人、ロックだった。

 ダッチに連れられるがままやってきたイエローフラッグという名の酒場。飲む、と聞いて単純に居酒屋なんかを想像していたロックにしてみれば、目の前の光景はその居酒屋からはかけ離れすぎていた。

 まるで西部劇に出てくる荒れ果てた酒場みたいだ、とはロックの率直な感想である。

 

「ひどいぞこの酒場は。まるで地の果てだ」

 

 そんなロックの言葉に反応したのは、彼の隣の席でグラスを傾けていたダッチだ。

 

「地の果て、ね。うまい喩えだなロック。ここは元は南ベトナムの敗残兵が始めた店でな、逃亡兵なんぞを囲ってるうちに気がつきゃ悪の吹き溜まりだよ」

 

 拳銃装備がデフォな酒場なんてのは聞いたことがないロックにすれば、何の装備も持たない自分が急に怖くなってきた。

 例えるならライオンの檻に迷い込んだハムスター状態だ。

 

「居酒屋のほうがいいや……」

「まあそう言うな。ついでだ、ちっとばかしこの街について教えておいてやろう」

 

 バーカウンターに腰掛ける二人の前に、新たなボトルが置かれる。それを片手で器用に開けつつ、ダッチは正面を向いたまま口を開いた。

 

「なに、難しい話は一個もねえ。教えるのはこの街で絶対に怒らせちゃいけねえ人間たちだ」

「それって、この街を取り仕切ってる奴らとかか?」

「いい線は行ってるが、そういうわけでもねえ。まぁ聞け」

 

 ダッチのボトルから注がれた液体を口に含んでロックは彼の方へと視線を向ける。その際、あまりの度数の高さに驚愕したのは秘密だ。

 

「先ずはバラライカ。このロアナプラの実質的支配者と言ってもいい。ホテル・モスクワの大幹部だ」

「ホテル・モスクワ……?」

「表向きはブーゲンビリア貿易って名前なんだがな。早い話がロシアンマフィアだよ」

「っ!?」

 

 マフィアなどというものに当然馴染みのないロックにはバラライカという人物を想像することは出来ないが、ダッチが怒らせるなと言うくらいだ。この街に滞在する僅かな間であっても、決して鉢合わせないようにしようと固く心に誓った。

 

「次にシスターヨランダ」

「シスター?」

 

 先程までマフィアが中心だった話で唐突に出てきたそのワードに、ロックは首を傾げた。

 シスターとは教会に仕える修道女だ。神に仕える身の人間が、この街で怒らせてはいけない人間に分類されていることに違和感を感じる。だがロックの予想とは異なり、この街のシスターという輩はそこいらの神の使いではないらしい。

 

「暴力教会なんて呼ばれている教会の大シスターだ。この街で唯一武器の販売を許された教会でもある」

「ぶ、武器の販売!?」

 

 教会がそんなものを取り扱っているなんていう事実に驚きを隠せないロック。ロシアンマフィアの次は危険極まりないシスターたちである。平和の国日本で人生の大半を過ごしてきたロックには想像できない世界だった。

 しかし彼の驚愕は、更に続くことになる。

 

「後は、そうだな。三合会ってのもあるが……、今言った奴らはまぁこの街の人間なら誰もが知ってる常識さ」

 

 グラスを呷って、ダッチはそこで言葉を切った。

 おもむろにロックへと顔を向けて、右手の人差し指をピンと立てる。

 

「一人だ。本当の意味で怒らせちゃいけねぇのはな」

 

 言葉の意味が分からず、ロックは首を傾げる。

 先程ダッチの口から語られたロシアンマフィアや暴力教会に、一人という単位は当て嵌らない。バラライカやシスターヨランダのことを言っているというのなら一応の筋は通るが、彼の口ぶりからするに彼女たちのことを言っているのではないのだろう。

 今日足を踏み入れたばかりのロックですら、この街が常識はずれな場所であることは理解している。通り過ぎる人間の全てが犯罪者に見えてしまっているくらいだ。

 そんな街で過ごすダッチをして、怒らせてはいけないという人物。ロックは無意識のうちに生唾を飲み込んでいた。

 

「一人……?」

 

 戦々恐々としながらのロックの問いかけに、ダッチは小さく頷いた。

 

「ああ、たった一人だ。この街を牛耳ってるマフィアどもよりも恐ろしいのはな。こいつさえ怒らせなけりゃ、とりあえずはロアナプラで生きていける」

 

 グラスに残った酒を飲み干して、ダッチは告げた。

 

「――――ウェイバー。そいつはそう呼ばれてる」

 

 

 

 

 

 

 

 


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