Persona4 : Side of the Puella Magica 作:四十九院暁美
6月12日。
見滝原市と八十稲羽市の中間に位置する大都市、
暁美ほむらはの道路に面した駅前の通りで、とある人物が来るのを待っていた。本当なら件の待ち人は既に目の前の小さな駐車スペースに来ている筈なのだが、残念ながらどこかの店のレシートが風に吹かれてかさかさ音を立てて通り過ぎるばかり。人々が行き交う通りを見ながら約束の時間はいつだったかと、ほむらが愛用している天使の意匠が施された白銀の懐中時計の蓋を開けて確認すると、既に約束の時間を10分程過ぎている。溜め息と共に懐中時計の蓋を勢い良く閉じて乱暴にズボンのポケットにしまうと、ほむらは小さく伸びをして曇天の空を見上げた。
初夏という事もあってほむらの服装は、黒を基調とした裾が短めのタンクトップにチャックを開けたまま着ている青磁色をした長袖のパーカー、青いジーパンにスニーカーという軽装だ。風に揺れるタンクトップとスカートの隙間から覗くほっそりとしたウエストラインを強調するかの様な服装は、その端麗な容姿も加わって道行く人々 (主に男性) の注目を少なからず集めていた。特に視線が集まるのは彼女の臍と、その下にある左右のライン――鼠蹊部だ。陶磁器のように白い肌にぽつんと居座る臍は少々幼い造形ながら形が整っており、臍を中心にして上下に伸びた線は一種の美麗な文様の如き優雅さを持って人々を魅了する。また本来なら見えない筈の鼠蹊部は少しずり下がったズボンからその始まりを覗かせ、見る者にズボンと地肌の合間にできた隙間を殊更に強調する。ともすれえば、その部分に指を挿し込んでズボンをパンツごと引っ張りたいという変態的な思考を僅かながらに思い起こさせる魔性すらあった。
時計を確認してから更に10分が過ぎても、待ち人は未だ来ない。曇り空から時折射す麗らか陽射しにほむらが若干の眠気を誘われ始めた頃、紅いライダーヘルメットを被った少女が真っ赤な燃料タンクと、ヘルメットを入れる為に取り付けられた2つの大きなサイドバッグが特徴的なオールドルックのバイクと共に、ヘルメットから溢れた髪を靡かせながほむらの目の前にある駐車場に止まった。少女は被っていたヘルメットを脱いで頭を振って髪を解すと、優しくもどこか悪人めいた笑みを浮かべてほむらに声をかける。外見に反して幼さなの残る高めの声だった。
「よお、ほむら。待たせたな」
「待たせたな、じゃないでしょう杏子。遅刻よ」
ほむらは溜め息と共に、呆れた様に笑いながらその声に応えた。バイクと共に派手な登場した少女は、ほむらの旧友 "
深い藍色のVネックシャツに黒い長袖ジャケット、ブラウンのジーパンに黒い長ブーツを履いたその姿は非常に格好が良いもので、特筆すべきはその立ち姿である。男性的な服装で髪の長さを除けば殆ど男性のような姿だが、よく履いている細身のジーパンは筋肉で少し太めの男らしいな足のラインとまだ成長しきっていない少女のように丸みを帯びた尻の造形を浮かび上がらせている。このように女性的な美しさと男性的な凛々しさを完璧なバランスで保つその姿に、街行く人々(主に女性)の視線を否が応でも集めてしまうのは致し方のないことだと言える。
「悪い悪い、結構道混んでてさ。……あれ、お前ちょっと見ない間に随分と顔色が良くなったな。なんかあったのか?」
杏子はバイクのサイドスタンドを下ろしギアを1速に入れると、自身もバイクから降りてヘルメットを小脇に抱えたままほむらの側に寄った。
因みにだが、171cmと女性にしては高身長の杏子に並ばれると小柄な様に見えるほむらだが、164cmと女性としては高めの身長である。
「ええ、ちょっと色々あってね」
「ふーん。ま、その話は後で聞かせてもらうとして……取り敢えずなんか食いに行かね? あたしまだ昼食ってないから、腹へってんだよね」
「なら、行きつけのピザが美味しいお店があるから、そこに行きましょう」
「おしきた。バイクの向き変えっから、ちょっと待ってな」
ゴールデンウイーク以来の再会という事あって話したい事は山程あったが、流石にずっと立ち話と言うのは落ち着きが悪いので2人は話を程々で切り上げ店に向かう事にした。
杏子はサイドバッグからヘルメットを取り出してほむらに投げ渡し、自身もヘルメットを被り直すとバイクに跨り車体を大きく傾け、アクセルを開けると右足を軸にしてバイクをその場で180度回転させる。所謂、アクセルターンと呼ばれるテクニックだ。
杏子はヘルメットの中でどうだと言わんばかりに鼻を鳴らすと、アクセルを吹かしながら肩越しほむらを見て「さっさと乗れ」と意思表示をした。ほむらにとってこの衆目の中でバイクに乗るというのは中々に恥ずかしいものだったが、仕方がないと割り切ってヘルメットを被るとシートに跨り、杏子の腰に手を回す。ほむらがしっかりと自身に掴まった事を確認すると、杏子は目的地に向けてバイクを走らせた。
イタリアンレストラン "Vento Noble" 。
イタリア語で "気高き風" と名付けられた人気が少ない閑静なオフィス街の路地に居を構えるその店は、古き良き時代の西洋建築を思わせる青い三角屋根が特徴的な趣のあるデザインの店舗だ。
店前に設けられた小さな駐車場にバイクを止めた2人は、店内に入ると控えていた店員に案内され窓際の席に座った。昼食には遅い時間だった所為か、2人以外の客は数える程度しか居ない。
「中々シャレた店だな」
上着をイスの背もたれに掛けつつ、杏子は店内を見渡してそう言う。
装飾は外見に違わず古めかしく、店内に配置された若干くたびれた様に見える木の丸テーブルとイスはその雰囲気に良く合ってる。経営者のセンスの良さが窺えるインテリアだ。
「落ち着きのある良い店でしょう?」
店員からメニューを受け取ったほむらは、杏子が見やすい様にテーブルに広げた。シンプルながら品のあるレイアウトで作られたメニューに載っている料理の数々は見知った料理もあれば聞いた事の無いものまで、様々なイタリア料理の名前が書かれている。
「へぇ、結構な数揃ってんのな」
杏子はメニューを流し見しつつ、魔法で自分たちの席を囲う様な大きめの結界を張った。この結界は杏子の固有魔法――幻覚魔法によって認識阻害効果が付加されており、ほむらと杏子の姿はこの結界を通して見ると楽しげに世間話をしている2人組みに見えるようになっている。
「コーラと、ブラックコーヒー。ピザは……あー、マルゲリータとミラノサラミピザと……カプリチョーザに季節の野菜ピザ。全部Lサイズで。ついでにサイドのカプレーゼってのも頼むか」
「あら、パスタは頼まなくても良いの?」
「パスタは最近マミがやたら凝っててな……。ほぼ毎日食わされてっから流石に……」
「それは、お気の毒様」
店員に料理を頼むと、ほむらと杏子はお互いの近況を話し合った。八十稲羽は相変わらず田舎で読書くらいしか暇つぶしが無い、マミは学校で毎日忙しそうにしている、などなど。会えなかった間の時間を埋めるように、2人は料理が来るまで話し続けた。
「お、きたきた」
料理が運ばれてくると2人は目を見合わせて笑い合い、共に食前の祈りを心中で捧げる。今は違うが元は神に仕えた身である杏子もまた、ほむらと同じく食前に祈りを捧げる事が習慣として根付いていた。
「いただきます」
「いただきます」
祈りを終えると2人同時にそう言って、食事を始める。黙々と料理を平らげていく2人は、先程の様な会話をしない。食事中に話したり、話しかけたりするのは2人にとってあまり好ましい事ではないからだ。
ふと気が付けばカプレーゼも無くなり、4枚もあった大きなピザは既に1切れを残すのみとなっていた。
「お前、食い過ぎだろ。ちったぁ控えろよ……太るぞ」
「生憎だけど、医者からもっと食べた方が良いって言われてるの。……分かったら早くその手を退けなさい」
お互いに最後の1切れに手を伸ばした状態で睨み合うと、口撃を行い相手を牽制した。
「久々にやるかァ……?」
「ふん。上等よ……来なさい」
杏子が首を鳴らしながら挑発すると、ほむらもそれに応えて指を鳴らした。まさに一触即発、場の緊張は既に極限に達していた。
何故、この2人はピザ1切れの為にここまで争っているのか。そこにはほむら、杏子、そして今はこの場に居ないがほむらのもうひとりの仲間であるマミの3人に共通する独特の心理が関係していた。
3人に共通する心理として、まず挙げられるのが "生" への執着だ。これは魔法少女全般に言える事であり、 "死" というものを常に身近で感じているが為の謂わば当然の執着でもある。生きて帰れる保証の無い戦闘を糧を得る為に毎日の様に行い、休息も無ければ安息も無い日々に身を置いていれば、否が応でも常に "死" を意識してしまう。もし、その意識が行き過ぎて "死" に呑まれてしまえば最期、生死の境は悉く消え去り、日常に身を置けば自分が今生きているのか死んでいるのかさえ分からなくなる。生きる為の戦いが、死ぬ為の戦いになってしまう。故に、魔法少女は皆 "生" に執着する。彼女たちは生きていると実感する事で自分を保ち、日常を保っているのだ。
「……じゃん!」
「けん!」
「ポン!」
「ポン!」
次に、凄絶な経験からくる死への恐怖。彼女たちの過去はどれも凄絶極まるもので、特にほむらは凄惨と言っても差し支えない。その過去の中で彼女たちに最も強い心的外傷を与えたのが、間接的または直接的に親しい者を "殺してしまった" という体験である。
マミは幼い頃、大きな事故にあった際キュゥべえにただ生きたいと願った。大きな傷を負ったマミは救助を待っていては最早助かる見込みは無く、ただ身体が冷たくなっていく感覚に怯え死を待つばかりだった彼女前にキュゥべえは現れ、マミに契約を迫る。死の恐怖に怯えるマミは願い、その結果自分は助かったが願いの範囲に無かった両親は帰らぬ人となってしまった。
杏子は神父であった父の話をみんなに聞いてほしいとキュゥべえに願った。熱心な宗教家であった杏子の父は、自らが信じる教えを毎日のように人々に説いていた。だがそれに耳を傾ける者は誰も無く、家は貧困に喘ぐばかり。それでも杏子の父は教えを説き続けた。そんな父を尊敬していた杏子はそんな父の役に立ちたいと思いキュゥべえに願い、その力によって人々は父の話に関心を示すようになるが、ある時偶然にも杏子が魔法少女に変身した姿を見た父は狂ってしまい、果てに住んでいた教会に自ら火を放って無理心中を図る。杏子は生き残ったが、残念ながら父も母も幼い妹でさえも焼け死んでしまった。
ほむらは初めて出来た友達である "
このような過去を持っている故に彼女たちの深層意識には、私が死んだら彼ら彼女らと同じ場所に逝けるのだろうか、私が死んだら彼女らは私を受け入れてくれるのだろうか、という不安が微かに渦巻いている。その不安は空を舞う塵芥よりも微細でありながら、彼女たちの "生" に対する執着を殊更に強くしている。
「しゃおらァッ!」
「くっ!」
そしてその強い執着は、食べるという行為に "生" を見出した。自らの "生" を手っ取り早く実感できるものが、彼女たちにとって食事だったのだ。
「へへっ、やっりぃー。残念だったなぁほむら」
「私の……ピザが……」
杏子は最後のピザを掴むと、ゆっくりとほむらに見せ付ける様に口に運びよく噛んで味わうのだった。
ピザを食べ終わると店員に食器を下げてもらい、新たに飲み物を頼んだ。しばらくして頼んでいた飲み物がテーブルに置かれ、店員が結界の外に出て行ったのを確認するとほむらは纏う空気を一変させる。
「さて……ふざけるのはこれくらいにしましょうか」
「……ああ。そろそろあたしも、ガチな話をしたいと思ってたんだ」
ほむらの言葉を受けて、杏子も緩んだ空気を霧散させる。和気藹々とした雰囲気は、一瞬にしてぴんと張り詰めたものに変貌した。
「それで、お前のあのメール。ありゃ本当か?」
「ええ」
まず最初の議題となるのは、先日ほむらから送られてきた "杏子からかけられていた記憶の封印が解けた" という旨のメールだ。
「いつから解け始めた? 分かんねーなら答えなくてもいいけど……」
「いえ、分かるわ。解け始めたのは、高校1年の冬だった。朝起きたら、突然まどかの名前が頭に浮かんで、そこから少しずつ……」
「夢はまだ見るのか?」
「いいえ。今はもう、折り合いが付いたから」
「……そっか。いやー良かった良かった。ま、今日会った時からして大丈夫そうだったし、予想はしてたけどな」
杏子はおどけた様にそう言うが、その声に深い安堵の色が浮き出ている事に気が付いたほむらは、あえて杏子に礼を言った。
「ありがとう。心配してくれて」
「はぁ? んな心配とかしてねーし。ただちょーっと気になってただけで、深い意味はねーよ」
首筋に手をやりながら眼を逸らす杏子に、ほむらはくすくすと笑いながら言う。
「相変わらず、感謝されるのは慣れてないみたいね」
「うっせ、ほっとけ。……んで、記憶は大丈夫か?」
記憶は大丈夫かとはどういう事だろうか、とほむらは首を傾げる。その様子を見て、ほむらの疑問を感じ取った杏子は言葉を付け足した。
「徐々にとはいえ、魔力で強制的に封印していた記憶を思い出したんだ。どっかで代わりに別の記憶を忘れちまったとか、何かそういう記憶障害が起きてる可能性があるだろ」
杏子はほむらに、何かしらの記憶障害があるのではないかと疑っていた。普通なら、ただ記憶を思い出すだけで記憶障害が起きる事はない。だがほむらの場合、魔力によって強制的に記憶を封印したという特殊な事例である。残念ながら、普通などという言葉は当てはまらないのだ。
「……確かに。言われてみれば、何か違和感を感じるわ」
ほむらが今までの記憶を思い返してみると、どこかおかしいと感じる事は何度かあった。まどかの記憶は何もおかしくはないのだが、それ以外の部分上手く思い出せず場面が飛び飛びだったり、何かが違うと感じる場面がある。その事に、ほむらは思わず眉を顰めた。
「やっぱりか。取り敢えずあたしが確認してやっから、ちょっと頭こっちに寄せろ」
「……貴女、いつから人の記憶を弄れる様になったの?」
「ある日気が付いたらポン、と出来る様になってた。あと、弄るじゃなくて修復な」
ほむらは杏子を訝しげな眼で見た。新たな魔法というのは、一朝一夕で習得出来るものではない。かなりの修練を積まなければならない上、それをものに出来るかどうかは分からないというリスキーなもので、杏子の言う様な事はまず起こり得ない。つまるところ、ただの見栄である。
「んだ? なーに躊躇ってんだ」
ほむらはこのまま杏子に記憶を見せても良いのか迷った。改変前の記憶を見せても良いのか、と。
しばらくの沈黙の後、杏子は何か合点いったかの様な声をあげる。
「――ああ、成る程。そこからなのか」
「……そこから?」
その言葉に疑問を覚えたほむらは、どういう事なのかと杏子に訊く。返ってきたのは、ほむらにとっては衝撃的なものだった。
「お前、この世界が改変される前の記憶を見せて良いのか迷ってんだろ」
思わず眼を見開くほむらに、杏子は予想通りだと頷いた。
「やっぱりな」
「な、なんで――」
「なんで知ってるのか、て? そりゃあ、お前が話してくれたからさ」
ほむらは杏子に、改変前の世界の事を話した事は無い。そもそも、そんな場面はほむらの記憶には存在し無かった。にも関わらず、杏子はそれを知っている。記憶障害が起きている決定的な証拠だ。
「……覚悟はしていたけれど、これは少しキツイわね」
そう独り言つほむらに、杏子は得意げに言う。
「大丈夫だ、ほむら」
「大丈夫って……何が」
怪訝な眼でほむらが見ると、杏子は力強い笑みを浮かべる。
「今からあたしが直してやっから、お前は何も心配すんな」
自信満々にそう言うと、杏子はテーブルに身を乗り出しほむらの額に右手でそっと触れる。突然の事に戸惑うほむらは声をあげるが、杏子はまるで意に介さずに魔力を練り上げ始めた。
「え、ちょっと――」
「んじゃ、いくぞ……っ!」
瞬間、ほむらの視界が紅に染まると同時に様々な記憶が脳裏を流れ出す。浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返して記憶の修復、修正が行われていく。記憶の齟齬が無くなり、全ての辻褄が合わさる。
――何があったとしても、私たちは暁美さんの味方だから。辛くて、苦しくて、悲しくて、どうしようもなくなったら……少しだけ。ほんの少しだけでも良いから、私たちを頼ってほしいな。
――お前は何でも独りでやろうとし過ぎなんだよ、ちょっとはあたしたちを頼れ。マミも言ってただろ? あたしたちはいつでもほむらの味方だ、って。何があったとしても、あたしたちはお前を嫌ったりしないから。……そんなの決まってんだろ。ほむらは、あたしたちの仲間だからな。
――暁美さん、私と一緒に暮らしてみない? その、貴女の不安を少しでも和らげてあげられたらって思って。それに、悪い夢を見て目が覚めた時は、側に誰かが居ると安心するでしょう? ……ええ、もちろん。暁美さんがしてほしいなら、いつでも抱き締めてあげる。ほら。こんな風に、ね?
――夢、か。あたしも偶に見るよ。そ、お前と同じ。割り切れたと思ってたんだが、上手くいかないもんだな……。ん、あー悪い。何の話だったっけ。ああ、 "夢を見た事を忘れる暗示" だったか? 出来ない事はないけど、あんまし期待しない方が良いぞ? 何で、って……そりゃあ、既にあたしが試したからさ。
「っ……し、こんなもんか」
杏子が額から手を離しても、ほむらはしばらく呆然と空を見つめていた。
全てが噛み合った記憶は先程までほむらが覚えていたものより遥かに鮮明で、自分の記憶が酷く歪んでいたという事実をほむらに突き付ける。
しかし、それをきっかけにほむらは徐々に平静を取り戻していく。身体を渦巻いていた熱は消え、頭は冷静を取り戻していった。
「……杏子。ありがとう、本当に」
心からの感謝を込めてほむらが礼を言うと、杏子は鼻を鳴らして笑みを浮かべるとそれに応えた。その声色は、妹を気にかける姉の様な優しいものだった。
「全く、世話のかかるヤツだぜ。お前は。それで、気分はどうよ」
「なんて言えば良いのか分からないけど……悪くないわ」
杏子の問いに、ほむらは気力に満ちた笑みで答えた。誰もが見惚れる、力強い笑顔だ。
「そいつは結構。じゃ、そろそろ次にいっても良いよな?」
杏子はほむらの調子を確認すると、次の議題を持ち上げる。両肘をついて眼前で両手を組むと、杏子はほむらを睨む様に見つめて言った。
「 "八十稲羽地方からキュゥべえが消えた" 。こっちのキュゥべえがギャーギャーと騒いでる。アレが言うには、何かバカでかい特殊な結界の様なものに阻まれてるらしい。そのせいで個体はおろか、テレパシーすら送れんのだとよ。ここにキュゥべえがいないのも、それが原因だ」
「結界……」
ほむらは "結界の様なもの" というものに、ひとつだけ心当たりがあった。そう、あのテレビの中の世界だ。
だが、あの世界はペルソナ能力に目覚めた人間がテレビという媒介を通さなければ侵入する事は出来ない、特殊極まる場所である。キュゥべえが侵入する事などまず不可能だろう。
「お前の記憶に随分と面白いもんがあったが……アレが関係してんのか?」
「どうかしら。少なくとも、関係があるとは言い難いわね」
あの世界に落とされる直前、キュゥべえは近くに居ただろうか。
ほむらは何とか思い出そうとするがおそらく意識を失っていたのだろう、この部分の記憶だけが完全に抜け落ちていてキュゥべえが居たかどうかは分からなかった。それに、もし居たとしてもそれが八十稲羽市からキュゥべえが消えた事に関係しているとは考え難い為、残念ながらキュゥべえに関しては完全に詰みである。
「ありゃ何だ? テレビの中に異次元があるなんて聞いた事ねーし、シャドウとかペルソナとか、なんか得体の知れない能力があったなんて知らねーぞ」
「テレビの中に広がるあれは、私にも分からない。人為的に創られたものなのは確かだけれど、誰が何の為に創ったのかは……」
「ふぅん? じゃあ、シャドウとペルソナってのは何なんだ?」
その問いに対してほむらは、悠が言っていた事をそのまま話した。杏子はほむらの話を聞き終わると眼を閉じて考えを巡らせるが、どう見てもキュゥべえとの関連性が見えてこないのですぐに考えるのをやめた。
「あー訳分かんねー、なんで消えたんだ? アイツら。つーか、ソウルジェムが変型するってマジかよ」
「本当よ。ほら」
ほむらソウルジェムを指輪からブレスレットに変えると、杏子が見易い様にテーブルの真ん中に左手を置く。格好を崩してほむらのソウルジェムを見た杏子は、驚きつつもほむらのソウルジェムにおそるおそる触れると呟いた。
「……マジかよ。どういう事だオイ」
「仮説なら、ひとつだけある」
信じられないと眼を見開く杏子に、ほむらはひとつの仮説を話し始める。
――魂は肉体という器から湧き出る液体、精神は魂が湧き出る量を調整する弁の様なもので、絶えずその量を器の大きさや形に合わせて変えている。しかし、魔法少女はソウルジェムという形で魂が湧き出る量をある程度の範囲で固定している為、その変化についていく事が出来なってしまった。その結果、目減りしてしまった部分がソウルジェムの "穢れ" として表れているのだろう――
ほむらはこのソウルジェムと穢れに関する独自の考察を持ち出し、ソウルジェムの変型はペルソナに目覚めた事によって起きた精神の変化 (成長と言っても良いだろう) が原因ではないか、という説を杏子に話した。
「自分の影を認め受け入れた事で私はペルソナに目覚め、その結果ソウルジェムは変型して異常なまでに汚れが発生し難くなった。つまり、ペルソナとは新たに生まれた肉体とは別の器――精神という第2の器なんじゃないか、私はそう考えてる」
「ソウルジェムの形が変化したのはこれ自体がペルソナって器になったから、って事か?」
「ええ、おそらく。そして、精神という器から湧き出る魂の量は固定化されていないから、目減りもしない。しかも、他の器に注ぎ足す事も出来る」
「だから穢れが発生し難い、か……成る程ねぇ」
杏子はほむらの仮説を聞いて、思わず感心した様に頷いた。
確かに、極々微少ではあるが杏子とマミのソウルジェムに生まれる穢れの量は、中学生の時に比べて多くなっている。杏子とマミが気が付いたのはつい最近で、2人がこれはどうなっているのかとキュゥべえを問い質すと、ほむらが言っていた肉体と魂の関係と概ね同じ事を話していたのだが、杏子にとってキュゥべえの説明は小難しい上に回りくどい表現ばかりの説明だった為、頭には大量のクエスチョンマークが浮かぶばかりで理解する事は出来ないでいた。
杏子にとってほむらの説明はキュゥべえと違い非常に分かりやすいもだった。
「杏子、私は――」
「わぁってるよ、みなまで言うな。そっちに行くとしたら、マミの就職先が決まってからだから……あー、だいぶ先になるな」
高校3年生のマミにとって、就職活動を控えた今の時期は何かと忙しい。マミが杏子と一緒に八十稲羽市に遊びに行ける様になるのは、早くとも長期休暇のある年末頃になるだろう。
「……そう。なら、マミに "早く就職先を決めろ" って伝えてちょうだい」
「おう、しっかり伝えといてやるよ」
ほむらと杏子は目を見合わせて笑みを浮かべた。2人がマミをからかう時によくする、若干たちの悪い笑い方だ。
くつくつと笑い合っていると、不意に杏子が思い出したかのように窓から外を見る。ほむらもそれにつられて外を見ると、既に街は夕闇に染まっていた。
「もう、こんな時間か」
感慨深げにそう言って、杏子は上着を着て立ち上がるとバイクのキーを見せてほむらに笑いかけた。
「電車、そろそろ来る頃だろ。駅まで送ってくぜ?」
◇
沖奈市から帰ってきた私は、自室でコーヒーを飲みながらつらつらと考え事をしていた。考え事と言ってもそれ程深いものではなく、ただ今日の事を振り返るだけの様な酷く浅いものだが。
ゆらゆらと湯気が立ち上がるコーヒーを見ていて、ふとある事を思い出した。それは、夢を見る原理についてだ。夢というのは脳が記憶の整理を行っている時に見るもので、寝ている合間に総合してしておおよそ120分から160分もの間、私たちは夢を見ているらしい。だが、私たちが覚えているのはその中のほんの数分だけで、しかもそれは起きて5分も経てば忘れてしまう。何故、夢を忘れてしまうのか。それは、記憶は感情を伴うような強い印象がなければすぐに薄れてしまう傾向にあり、印象の薄い夢は起きて少し時間が経てば薄れてしまうからだ。
ここで気が付いたのだが、杏子にかけてもらった "夢を見た事を忘れる暗示" とはつまり "寝るという行為をスイッチにして、寝ている間だけ感情を無くす" という効果の暗示だという事だ。どんなに酷い悪夢を見てもそれに対して感情が伴わなければ目覚めた瞬間、もしくは目覚めて少しすると夢を見た事など綺麗に忘れてしまうだろう。
よくよく考えてみれば、随分と複雑な暗示だ。暗示は単純であればある程その効力が強くなるのだから、こんな複雑ではそう簡単にかかる事が出来ないのも仕方がない。効き目が薄いのも頷ける。
「ほむら。そろそろお風呂に入りなさい」
不意に、母さんの声がドア越しに響く。どうやら、結構な時間を考え事に費やしていたらしい。部屋の壁にかけられた時計を見れば既に22時を回っていて、風呂に入るには少し遅い時間だった。
「今行くわ。母さん」
私はそう答えると、温くなったコーヒーを飲み干して部屋を後にした。
6月13日。
今日から衣替えで、八十神高校指定の制服は黒を基調にした長袖のものから、白を基調とした半袖のものになる。タンスの奥底にしまった服を引っ張り出して、手早く夏用の制服に着替えると私は部屋を出た。
リビングへと続く階段には食欲を唆る良い匂いが充満していて、腹の虫が今にも暴れだしそうになる。欠伸を抑えながら、踏む度にぎしぎしと音が鳴る階段を降りてリビングに続く廊下に出ると、スーツ姿の父さんが仕事に出て行くところだった。
「ほむら、おはよう」
「おはよう父さん。仕事、頑張ってね」
「! ああ、頑張ってくるよ。いってきます」
「いってらっしゃい」
父さんを見送った後、リビングのドアを開けると母さんがぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、カウンターで仕切られたキッチンとダイニングを忙しなく行き来していた。どうやら、朝食の準備をしているらしい。
「おはよう、母さん」
「あら、おはようほむら。今、ご飯持って行くから座ってて」
「うん。ありがとう」
私がイスに座りながらそう言うと母さんは少しだけ驚いた後、嬉しそうに笑いながら料理を持ってきてくれた。
きつね色に焼かれたトーストに、ベーコンのスクランブルエッグとサラダがテーブルに並べられると、私はいつも通り心中で祈りを捧げる。キリスト教徒でもない私はこんな事をしなくても良いのだが、東京の院内学級が所謂ミッション系のものだった為に習慣になってしまったのだ。私の家系は神道なのだが、この国では宗教の違いなど瑣末な事だろう。
――天にまします我らの父よ。願わくは御名(みな)の尊まれんことを、
「いただきます」
祈りを終えて挨拶も済ませると、朝食に手をつけた。
そういえば祈りで思い出したが、私は今まで両親に何か励ましやお礼の言葉を送った事があっただろうか。憶えている限りでは無かった筈だが、そうなると私は結構な親不孝者なのかもしれない。両親には身体の事で随分と迷惑をかけているから、今度からはもっとそういうところに気を使った方が良いのだろう。どうせならプレゼントなんかを送っても良いかもしれない。送るなら花束か、少し奮発して大きめの写真立てのような実用性のある物の方が喜ぶか……。
ふと気が付けば、朝食は既にトーストのみみ1切れを残すだけになっていた。どうも最近、長考してしまう事が多くなった気がする。蟠りが無くなった事で、心に余裕が出てきたのだろうか。それは良い事ではあるが、今回の様に食事の時に長考してしまうのは味が殆ど感じられなかったから、出来ればしたくないものだ。
「ごちそうさまでした」
「それじゃあ、お母さん仕事にいってくるから、学校頑張ってね」
食後の挨拶を済ませると、いつの間にかスーツに着替えた母さんが洗面所から出てきて、私にそう言う。
「いってらっしゃい。母さんも、仕事頑張ってね」
「もちろん! ほむらの為に、しっかり稼いでくるからね。いってきます!」
私がそれに応えると、母さんは酷く嬉しそうにそう言って家を出て行った。私に頑張ってと言われたのが余程嬉しかったらしい。この様子だと、父さんも表情には出てなかったが狂喜乱舞していたのかもしれない。
そんなくだらない事を考えつつテレビを点けると、朝の星座占いが流れていた。私の星座は6位となんとも微妙な順位で、ラッキーアイテムはクローバーらしい。占いを信じない私にとってはどうでもいい情報だ。つまらない番組ばかりが流れるテレビを消して大きく伸びをすると、椅子から立ち上がり身支度をする為にキッチン横の部屋に設けられた洗面所に向かう。そういえば、歯磨き粉がそろそろ無くなりそうだった気がする。買い置きはまだあっただろうか。
手早く身支度を終えた私が愛用の鞄を持って玄関から外に出ると、生温い風が優しく頬を撫でた。湿り気を帯びたその風は、若干ではあるが私の不快感を刺激する。まだ初夏だというのに早く秋にならないものかと思ってしまうのには、我ながらなんとも気の早い事だと呆れてしまう。
「おはよう暁美さ……あ、違、えっと……ほ、ほむらちゃん!」
家の鍵を閉めて小さく欠伸をすると、背後から聞きなれた声が響いた。ソプラノ音階の可愛らしい少女の声だ。
「おはよう、詩野さん」
緩慢な動作で振り向くと、予想通り花の様に朗らかな笑みを浮かべる詩野茜が立っていた。
今の彼女は、見て分かる程に全身から元気が溢れている。どうやら本来の彼女は、私の知る姿とは随分と違うらしい。まあ、愛家で私を異様に持ち上げていたところを考えるに、私と上手に接する為の距離感が掴めていなかったからあんな態度だったのかもしれない。愛家に誘ったお陰で彼女との距離が縮まった、そう考えると何か得した気分になるのは何故だろうか。
「学校、一緒に行こ?」
「ええ」
私は詩野さんの隣に並び立つと、一緒に学校に向けて歩きだした。いつもとは少し違う朝だが、こういうのも悪くはない。