ゆめにっき   作:フリッカリッカ

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空を飛ぶ夢

空を飛ぶ夢

 

 自由を。

 あの大きな自由、空に広がる無限の世界を。

 私は望んでいた。この自由を手にすることを。誰にも頼らずに一人で自由を手にするという夢。そう――――。

 空を飛ぶ夢を。

 

 小さな工場で奴隷のように働かされていた私は、そこで得られるなけなしの金で病気の妹を何とか養い、その日をおくるのもぎりぎりなライフラインを保っていた。もう、綱渡りみたいなものだ。何か仕事でやらかしてしまえばその日の給料は普段の半分。そうなれば私はその日何も食べずに妹に付きっきりで看護に当たっていた。

「おいぃ!! ソーダ! ぼさっとしてねぇでさっさとこの廃材あっちに運んじまいなァ!!」

 働き先の親方(私はボスと呼んでいる)が私の余り自慢できない恥ずかしい名前を叫び、ツーリング(ここで言う自転車のようなもの)のクズを蹴り飛ばしていた。

「イエッサー、五秒以内に!」

 私はすっかり板に付いてしまったこの仕事独特の返事を反射的に行い、本当に五秒以内に廃材を焼却炉へ運んだ。こうしなければ給料が半分になってしまう。恥ずかしくても妹のためにやるしかない。

 そして、バカみたいな灼熱の中で何時間も働いた私にようやくボスが「今日はここまでだ。ご苦労だったなァ」と二枚の紙幣を渡してドス、ドスと部屋の奥へと戻っていった。これで、仕事の終わりである。私は体に溜まった疲れを吐き出すように長いため息を一つついた。

「よっ、ソーダ。調子はどうだ?」

 そこにボスの息子のルーカンが近付いて隣に腰を下ろす。短い短髪が汗に濡れて光っている。

「どうもこうも、サイアクよ。アンタんとこの親父さん、もうちょっと労働条件軽くして欲しいわ」私はルーカンに無理なお願いを出す。もちろんルーカンは「それは無理だ。俺の親父はおっかなさ過ぎる」と笑いながら言った。

「でよ、ソーダ。相談なんだが」

 ルーカンはギャグのつもりで言ったつもりはなさそうだが、私には少し耳に障る言い方だ。と、私がむっとしていると。

「お前。妹と夢、どっちか一つに早く決めろよ。じゃねーとお前が死んじまうぞ」

 ルーカンは真剣な顔をして私に迫ってきた。そして言葉を続ける。

「つーかお前と妹、うちに来いよ。うちならそれなりに家も広いし、金もある! 親父はまぁ、アレだけど俺が何とか説得してやるから、な?」

 その言葉は嬉しかったが、逆に惨めな気分にもなった。今まで一人立ちして生活を保てていたのが唯一の世間に自慢できたことなのに、それを頭から否定された気分だ。また、理由はもう一つある。だから私は強がって、無理に笑顔を作って言った。

「無理よ。私は妹も夢もあきらめない。アンタんとこ行ったら、私の夢は叶えられなくなっちゃうじゃない」

 

 私はそれからルーカンと一緒に居づらくなって、すぐに働き先を後にした。仕事が無事終わって手に入れた二枚の紙幣を握りしめ、行きつけの安い食料のある裏市に行くために路地裏に入った。すると。

「・・・・・・え」

 路地の真ん中に綺麗な服を着た同い年くらいの少女が倒れていた。ここは普段人通りが少ない。また、少女のその小さな白い手には汚い継ぎ接ぎで何度も直された後のあるウサギのぬいぐるみが抱かれている。

「・・・・・・行き倒れ?」

 私はその少女のそばに座り込み、その体を揺する。返事はない。どうやら死んでいるようだ。

「・・・・・・」

 しばらく考えて、私は少女の着ていた衣服に手を伸ばす。柔らかい、そして美しい刺繍が施されていた。布屋に売れば結構な金になりそうだ。

「死人に口無し、と・・・・・・」

 私は少女が全く起きないことを再び確認して、その衣服に手をかけると・・・・・・。

「待ってよ」

 ウサギのぬいぐるみに逆に手をかけられた。

「助けようとは思わないのかい? やれやれ、ひどい心の持ち主だ」

 ウサギが、ぬいぐるみが。

 何か喋っている。

「きゃあああああああああ!」

 それだけでインパクトは十分すぎるほどだった。

 思わず悲鳴を上げてしまう。今まで生きてきてこんな超不思議生物に会ったことなんて一度もない。というかこれ、生物なのか?

「ちょ、おち、落ち着いてよ。とりあえず、話を・・・・・・」

「化け物!!」

 私は思いっきりウサギの耳を掴んで地面に叩きつけた。だが、思っている以上にウサギはふかふかしていて、ボスっという音がしただけだった。

「いったいな! 痛くないけど、いきなり叩きつけるなんて失礼だな! 親の顔が見たいよ!」

 ウサギの台詞に私はカチンと来て、怒鳴った。

「うっさい! 親は勝手に死んだ!」

 しかし、ウサギは「やれやれ」と首を横に振って言う。

「じゃあ、写真でも何でもあるじゃないか。それに、親の死を『勝手に』なんて言うんじゃあ無いよ」

 嫌みったらしく言うウサギの言葉のある単語に、私は首をひねらせた。聞いたことのない言葉だったのだ。

「シャシン? 何それ?」

 ウサギは虚を突かれたかのように、口をポカンと開けようとした。だが、口は黒い糸で縫いつけられていて開かなかった。

 

「ははぁ、なるほど。つまり、ここは僕らの時代とは少しばかり前なんだね」

 レニ、と名乗ったウサギのぬいぐるみは知ったようなことを言い出した。私は「アンタの話が本当ならね」と付け加える。

 この喋るぬいぐるみと寝ている少女は、夢の世界から来たらしい。おそらく、進んだ文明を持つ他国からやって来て、夢のうんたらは宗教的な何かだろう。この世界ではそんなことは珍しくもない。

「にしたって、古くて狭い部屋だね。一人暮らし?」

「前者はその通りだけど後者は違うわ。妹が奥の部屋で寝ている」

 ふーん、とレニは興味なさそうに適当に首を振った。じゃあ、何で聞いたんだ。

「ところで。君の名前は? 見るからに名前はあるようだけど」

「逆に、見かけで名前がないって判断したことがあるの?」

「ないよ」ぬいぐるみは鼻を鳴らした。

「・・・・・・私の名前はソーダ。そっちの寝てる子は?」

 私は余り好きではない自分の名前を告げる。するとレニは耳を折り曲げて再び鼻を鳴らした。しばきたい。

「まぁ、この子は・・・・・・」

 レニが口ごもりながらソーダの普段寝ているベッドに横になっている少女に目を向けると、いつの間にか少女は上体を起こして私を見ていた。

「私は・・・・・・キキョウと呼んで。助けてくれてありがとう」

 キキョウは小さく綺麗な声でそう答えた。聞きなれない名前である。

「・・・・・・」レニはキキョウという少女の方をちらりと見て、「じゃあ、キキョウ。とりあえず、今の状況なんだけど――――」と言ったところで、キキョウは「分かってるわ」とすぐに切り返した。

「夢の中だと眠りが比較的浅いから、話の内容なら大体耳に入ってる」

「へー、初めて聞いたよ。何で今まで黙ってたんだい?」レニはキキョウに近付いて肘で小突く。

「だって、真っ先に私を起こすじゃない」

 レニはそう言われて「ははぁ、一理あるね。なるほど」とバカみたいに頷いた。なにを二人が言ってるのか分からない上に、レニのこの白々しさに私は少し腹が立つ。

「で? 何しにきたのよ、アンタら」私は痺れを切らすように問いかけた。

「ソーダ、と言ったわね? 私たちは流浪の民みたいなものだから・・・・・・。気にしないで。時期が来たらすぐに居なくなるから」

 キキョウは私のベッドから降りて何も持たずに出口のドアノブに手をかけた。ウサギのぬいぐるみもそれに続く。

「ちょ、どこ行く気よ? 一体何なのよ、答えなさい!」

 私は出ていこうとする少女たちを呼び止めた。しかし、キキョウはドレスを翻すように振り返り、口に人差し指を当てたまま「ごめんなさい、気にしないで」と言って。

 外へと出ていった。

「・・・・・・訳分かんないわ、全く」

 私は首を捻りながら少女の言葉を反芻した。

「気にしないで、か・・・・・・」

 しかし、「時期が来たら」と言っていた割にすぐに居なくなってしまったな、と私は何だか騙されたような感じになり、妹の寝ている部屋へと向かった。

 

 少女と奇妙なぬいぐるみはしばらく談笑しながら町の中をグルリと一回りした。町の広さは大きいが、栄えているところと寂れているところの差が激しく、人通りも中心部に集中していた。もちろん、古いビルが立ち並び、昼間なのに夜であるかのごとく、日の差し込まない路地にも人はいた。ソーダの着ていた服よりも、もっとくしゃくしゃでぼろぼろな、布とも言えないようなぼろ布を体に巻く人間たち。それらの前を少女とレニが通るたび、奇異な視線を当てられる。パジャマとはいえ、それなりに高価なのだ。周囲の貧相な視線が少女の高貴な服装に注目しないはずがない。また、その好奇心が生み出す視線は背後を付きまとう喋るぬいぐるみにも当てられる。レニはその視線を居心地悪く感じ、先ほどから貧困層の連中に聞こえるような声で悪態をついている。それがまた視線を集めることになるということを、レニは気付いていないのか、と少女が思うのは当然のことだった。

(にしても、疲弊してる)

 キキョウは一度目の視察でそんな感情を抱いた。誰もが疲れている、と思った。それは、スラムにいた人々もそうだが、中心街にいた人間たちにも言えることだった。少なくとも、自分たちよりかは確実に。

「レニ」少女は小さく名前を呼んだ。

「なんだい?」

「私って、最近疲れてる?」

 すごく、アバウトな質問だと少女は思う。自分の疲れの度合いなど自分が最も知っていることなのに、何を聞いているのだ、と。

 しかし、レニの答えは迷いが無く。

「うん」と短く答えた。

 その短絡的な答えが、少女の求めていた答えなのか。それとも、全く予想していなかったものなのかは分からない。ただ、少女に言えることは一つ。

「そうね」

 さっきの動物の夢で彼女は確かに疲れていた。

 

「で? どうして戻ってきてるのよアンタら!」

 私の部屋で私の怒鳴り声が響く。標的はもちろんうさんくさい少女とちんちくりんなぬいぐるみ。ノックも無しに家に上がり込んでいたからなおさら怒鳴る。

「どうしてって、疲れたのよ」キキョウは当然のように答えた。

「夕方に流浪の民とか訳分かんないこと言ってたじゃない! それが何? 何でばっちり戻って来てるのよ?」

「君だけは元気だね、ソーダ。まるで弾けるように」

 レニが私の名前をバカにしながら言う。燃やしたい。

「とにかく、ここは私と私の妹の家なの。借り住まい! 泊まりたいんなら余所に行きなよ! ここは宿屋じゃないわ!」

 私は堂々と私のベッドでくつろぐ二人に向かってもう一度怒鳴る。だが、一人と一匹はけろりとした表情で「大丈夫」と声を重ねた。

「屋根さえあれば、どこでもいいから」レニは耳を振りながら言った。

「宿屋行け!!」

 そのとき、私の後ろの扉の向こうからかすかな声が聞こえた。

「・・・・・・お姉ちゃん」小さく震える声。それを聞いた私は急いで声のした部屋の中に入る。それを察したのか「・・・・・・先客がいたみたいだね」と、ぬいぐるみが呑気に言う。

「違うわよ、妹よ」私は早口に説明した。

 すると、ベッドで寝ていた私の妹のハッカは力のない手で私の腕を掴んだ。「どうしたの?」と聞くとハッカは弱々しい声で言う。

「泊めて・・・・・・あげようよ。私は、大丈夫だから」

 どう見ても大丈夫じゃない。日が経つにつれてどんどん妹は疲弊していってる。毎日ベッドで寝ているだけなのに、どうして――――。

「病気かしら」

 キキョウがいつのまにか隣に来ていた。そして、ハッカの広いおでこにその冷たそうな手を当てて「・・・・・・久しぶりね」と呟く。

 耳を疑った。

「は? え? 何が久しぶりなの? ハッカのこと知ってんの?」

 私はキキョウを問いつめる。どうして、この訳の分からない人間じみた人形を持ち運ぶ、人形じみた人間が妹のハッカに触れて「久しぶり」と言うのか。場合によっては・・・・・・。

「知らないわ」キキョウは即答した。

 何だ今の私の焦り具合。恥ずかしい。私は頬を真っ赤に・・・・・・とまではいかないが、それでもほんのり赤く染めた。

「じゃ、じゃあ何でそんなこと!」

 私は何故か焦って聞いた。さっきの焦りがまだ残っているのだろうか。

「・・・・・・」

 レニが珍しく黙っている。こんなとき、このぬいぐるみなら笑えない冗談を言うところだがキキョウの顔をじっと見ているだけだ。

「そうね」キキョウはしばらく無言で物思いにふけった後、こう切り出した。

「久しぶりに、ヒトに触れたわ」

 聞いて後悔する。私が恥ずかしさや焦りを感じていたことがもの凄く幼稚に思えて、悲しくなった。穴が無くても二メートルくらい掘ってから入りたい。

 そして、しばらくの沈黙の後ようやくレニがいつものテンションで言った。

「じゃ、ソーダの家に泊まらせてもらうけど。ボクとしては一泊二日朝食付きのコースを無料で頂きたいなぁ」

 もちろん直後に全力でしばいた。痛い!と言いながらぬいぐるみは叩かれて壁に叩きつけられる。もふっという気の抜ける音しかしなかった。

 それからしばらくの間、質問が飛び交った。聞かれたことはなるべく包み隠さず答えた。この国は今、作物がとても凶作に陥っていて値段が高く私たちみたいな貧困層には苦しい生活だということ。一般的な乗り物はツーリングと呼ばれる自転車のようなものだということ。仕事のことなど、色々。そして、質問回答者がハッカに移ったときだ。

「ハッカちゃん、体調は大丈夫? 病気なの?」と、まずキキョウが聞いた。

「・・・・・・うん。お医者さんには・・・・・・まだ看てもらってない」

 ハッカは弱々しく答える。その答えにキキョウはチロリと私の方を見たので、誤解されないように言う。

「・・・・・・家を見ても分かるように、貧しいのよ。医者に見せるお金なんて、余るはずもない」視線を逸らす私にレニが言われたくない言葉を言い放った。

「君の食料費とか、削ればいくらでも出てくるだろうに」

 分かってる、そんなこと。ただ、それが出来ない。削れるだけ削ってるけど、これ以上は削られない。

 レニは私が怒るところを期待していたのだろうか、耳を折り曲げて小さく息をついた。

「・・・・・・うさぎさん、お姉ちゃん虐めないで」と、ハッカは少し口調を強めた。それにレニは意外だったのか、それともワザトか。

「優しいんだね、ハッカちゃんは」と、言った。

 ハッカはそれに何と答えればよいか分からず、首を横にふるふると振ってしまう。それに少しだけ、イラッときた。

「・・・・・・自分の病気に責任を感じるのはお門違いよ、ハッカ。私が仕事でヘタしなきゃ大丈夫なことよ」

「でも、お姉ちゃんは私のために一生懸命働いてる・・・・・・!」

 そのハッカの言葉が余計、私を苛立たせる。妹に心配される姉なんて・・・・・・これじゃあ、まるで立場が逆だ。

「・・・・・・」黙って私がその場を立ち去ろうとすると、

「どこに行くのソーダ?」キキョウが私の腕を掴んで呼び止める。

「散歩!」

 私は強く腕を振ってキキョウの手を払いのけ、ズンズンと部屋を出ていく。レニが両手を「やれやれ」という風に腕を上げて耳を折る状況が容易に想像できる。

 そして、そんな自分にまた腹が立った。

 夜はずいぶん更け込んでいた。

 

「ごめんなさい・・・・・・」

 狭く、ぼろぼろな部屋で小さくハッカは漏らした。

「お姉ちゃん、本当はとっても優しいんです。こんな私みたいなのに、いつも時間割いて・・・・・・。ご飯も、自分は全く食べずに私にだけ。私がどうして食べないか聞くと、先に食べたって言うんです。本当は、三日に一度くらいしか食べてないのに」

「ダイエットかな?」レニがこの場にそぐわない台詞を吐いたのでパジャマ姿の少女が、うるさい、黙ってて。と、きつく注意した。

「私、お姉ちゃんには幸せになって欲しいんです。私にかまけてないで自分の思うとおりに生きて、自分の夢も叶えて欲しいんです。今のお姉ちゃん、自分を押し殺してて怖い」

 ハッカはきっぱりと自分の言葉を、口にした。それこそが、今ウサギのぬいぐるみの耳を持って引っ張っている少女が聞きたかった言葉である。そして少女はハッカに、じゃあ、と。

「じゃあ、その夢。教えてくれる?」

 ハッカは小さく頷いた。

 

 妹と夢の世界から来たと嘯く二人を家に置いて私は夜の貧民街をふらふら歩いていた。

「よぉ、どうしたソーダ? 機嫌悪そうだな?」

 一人の仕事仲間の四十代くらいの男が声をかけてきた。私はそこまでこの人は嫌いではないのだが。

「別に。おじさんには関係ないじゃん」ぶっきらぼうに答える。

「おいおぃ、若い子に冷たくされるなんて、おじさん悲しいぜ? それより、ホラ。約束の品だ。こんなモン、何に使うか知らないけど、親方にバレたら事だぜ? ただ、金は頂くけどな」

 おじさんは二枚の合金属の板と大きめの歯車をいくつか私に手渡した。

「あ、あぁ。ありがとう」と、私は早口に言ってそれらを受け取る。

 それを見たおじさんはスカッとする笑顔で答えた。

「ああ、またなんかあったら言えや」

「うん。いつもごめんねおじさん。ボスがケチなせいで」

 私が嫌味に言うとおじさんは

「ケチか! はっはっは、そりゃ嫌われてんなァ! ――――ただ親方はお前のこと、案外気に入ってたりするんだぜ?」

「・・・・・・ボスが? そんなわけ・・・・・・」

 私が否定しようとすると、おじさんがすかさず言う。

「お前見てるとな、なんか気分が晴れるらしいんだよ。まぁ、俺もそうなんだが。普通は新人にあんなに注意したり指示したりしねぇんだぜ?」

 驚いた。口うるさいジジイかと思ってたが、本当は寡黙な人だと言う。それが、どうして私だけに・・・・・・。

「ソーダ、お前って一生懸命だしな」

 おじさんが唐突に話し出した。

「一番俺らの中で真面目にやってるだろ? 親方に怒られても、俺の仲間に冷やかされても、給料下げられても嫌な顔せず、根詰めてるじゃねえか。親方もお前のその真っ直ぐな感じが気に入ってんだろ」

 多少の嫌味が含まれていたような気もするが、私はおじさんの話を黙って聞いていた。

「そういや、親方んとこの息子にルーカンっつー誠実そうな奴がいたよな? あいつもお前のこと相当気にかけてるから、出来るだけ気持ちには答えてやれよ?」

 ルーカンの名が出るとは、意外だ。しかし、何だかおじさんの口調が変で、怪しい感じがしたため横目になって聞く。

「それ、どういう意味よ?」

「そういう事だ。せっかくルーカンが快くお前と妹を親方の家にいてもいいって提案してきたのに、ケったらしいじゃねえか。もったいねぇな。何でだよ?」

 いつそれをおじさんが聞いたのは知らないが、私はルーカンに答えたように、同じ事を繰り返した。

「だって、私には夢があるもの。ルーカンとボスの家にいちゃ達成できない夢がね」

 それを聞いたおじさんは「夢、ねぇ」と少し考えて感慨にふけっていた。「自分もそんな時代あったかな・・・・・・」などとブツブツ呟いている。そして唐突に首をこちらに回して言った。

「それって、どんなだ?」

 私は町の上に浮かぶ夜を見上げて、ハッキリと答える。

「空を飛ぶ夢」

 

 しばらくの後、おじさんに再び礼を言い私は二枚の金属板と大きな歯車を持って、家へと向かって歩く。わざわざ中心街ではなく貧民街を通って帰るのは何故だろうか。ただ、中心街は息が止まるくらい居心地が悪い。

 いくつかの真っ暗な角を曲がり、古くて狭い我が家に着いた。しかし、家に入ってすぐの私のベッドのある部屋には誰もいなかった。二人はまたどこかへ行ってしまったのだろうか、と思い妹の部屋を覗くと。

「・・・・・・いるし」

 和気藹々と話していた。ハッカも楽しそうに笑っている。

「あ・・・・・・おかえりなさい、お姉ちゃん」

 口元が若干ひきつった私の顔を見たハッカが、慌てて言うと。

「あら、おかえりなさいソーダ」

「おかえりー、お姉ちゃーん」

 と返事が二つ後を追ってかけられる。

「とりあえず、誰がお姉ちゃーんだウサギ。耳掴まれたら手足短すぎて何にも出来ないくせに」

 レニを見下しながら私は言う。

「苛立たせることは出来るけどね」と、的を得た回答が来たが無視。

「さ、寝なさいハッカ。もう外は真っ暗よ」

 いつもより少し時間は早かったが、二人がいつまでもハッカと話し込みそうだったので、ここで切り上げさせる。

「・・・・・・はい。じゃあ、キキョウさん、ウサギちゃん。お話してくれてありがとう! おやすみなさい」

 ハッカは別れを惜しむように言った。笑顔で手も振ってくれる。

「おやすみなさい」「おやすみ」

 キキョウも手を振り、レニも耳をピコピコ折り曲げて言った。そして、ハッカの部屋から二人を追い出し、私も「おやすみ、ハッカ」と額を撫でる。

「うん、おやすみお姉ちゃん」気持ちよさそうに答えるハッカ。それを見届けて私は部屋の暗い照明を落とした。

 自分の部屋に戻ると、キキョウがじっとこちらを見ているのに気が付いた。私は驚き、一瞬固まるがすぐに我に返って。

「何よ? 妹から何聞いたか知らないけど、軽蔑するなら勝手にすればいいじゃない」

 もちろん、妹がそんなことを言うはずがないのだが、自虐的になってしまう。

「いいえ。そもそも、善悪で私たちは夢は見ないもの。だから軽蔑も敬いもせずに私たちはあなた達をただ見るだけ」

 キキョウはまた訳の分からないことを言ってレニに話を渡す。

「まあ、君のことを妹さんから聞いたのは確かだね。聞いたよ、夢の話。空飛ぶんだってね?」

「・・・・・・ええ、そうよ。笑いたきゃ笑えば? 私はいつも大まじめだから」

 それを聞いたレニが「やれやれ」と首を横に振った。そして、色の変わらないボタンの目で私の目を見据えて言う。

「だから見るだけだって。だけど、見るんだったら楽しい方がいいだろう?」

「最近の夢は暗いのばかりなのよ。そろそろ、感動のエピソードもあってもいいころじゃない?」

 二人はそう言って、にやりと口を歪ませた。

 もちろん、私には二人が何を言っているのか、何を思っているのかなんて皆目見当も付かない。少なくとも、今は。

 

 二人は私の恥ずかしい夢を全て妹から聞いていた。なんと口の軽い妹なのだろう。他人から自分の夢を語られるのは初めての経験だが、言いようのない恥ずかしさだ。

「恥ずかしくないわ。むしろ、尊敬する」

 キキョウは目を閉じて言った。「私にはそんな大きな夢なんてないもの」と続ける。

「・・・・・・じゃあ、どうするの? まさか手伝う訳じゃ・・・・・・」

 私が少し冗談気味に笑いながら言うと、キキョウはおろか、レニさえも真面目な顔をして頷いた。

「ええ」

「時間もないんだろう? 今日入れても三日もないじゃないか」

 レニは、リミットまで知っていた。これは、誰も知らないことなのに。

「何で三日後って知ってるのよ? そこまでハッカに言った覚えはないわよ!」

 確かに、期日は残すところ三日。しかし、それは私が勝手に決めた期日なのだ。他の誰が知っているはずがない。

 するとレニは涼しい顔をして言う。

「だって、三日後は君の妹のハッカちゃんの誕生日らしいじゃないか。本人が喜びながら言ってたんだから、間違いはないね」

 だからといって、それが期日になるとは限らない。何より私の夢だ。もし誕生日で叶えるなら、普通は自分の誕生日に期日を設けるのが普通の発想だ。と、そこまで思ったところで、

「ええ、普通の発想ならね」とキキョウが言葉を遮った。

「でも、ソーダの夢はハッカの夢でもあるんでしょう? あなたの夢は空を飛ぶこと、彼女の夢はあなたの夢が叶うこと」

「ハッカ・・・・・・結構喋ったのね」

 私は呆れて言う。初対面の二人にここまで話していいのか、と。いや、ハッカは基本無口だ。つまり、キキョウとレニが初対面でもそこまで話せるほどの関係を築いたのだ。コミュニケーション能力というか、聞き上手なのだろう。

「そして、この床」

 と、レニが足踏みしながら言う。ぬいぐるみを床に投げたときのように、乾いたぼすっぼすっ、という音がする。

「カーペットでうまくカモフラージュされてるけど、この下空洞だよね? 他の所と足音が・・・・・・ホラ、違う」

 全くもって、驚くくらいに正解なのだが、レニの足音はどれもこれもぽすぽす、という気の抜けた音で一緒だった。どういう顔をすればいいのか分からない。

「何だいその微妙な顔は?」

 微妙な顔をしていたらしい。レニは不機嫌そうに耳を折り曲げた。

 それから、まだ私と妹しか知らない秘密の地下室に会ったばかりの少女とうさぎのぬいぐるみを上げることになった。

「上げるというか、下りてるんだけどね」

 地下室とは言っても名ばかりで、実際には借り家の床板をはずし、土台の三畳程度の広さを六メートル掘り下げただけである。よって階段など気の利いたものはなく、粗末なロープが一本垂らしてあり、それをレニが言う通り上り下りするのである。

 照明は無理矢理家から電気を引っ張っているので暗いことはないが、それでも上よりかは暗く、狭い。三人、いや二人と一匹が入るには少々窮屈だ。

「これが、例の空を飛ぶ予定の物? 意外に小さいわね」

 キキョウが部屋に降り立つと部屋の真ん中にある物体に手を触れた。

「予定というか、模型よ。いきなり本番で飛んで怪我したら大変じゃない。だから、フライトのテストはこのサイズで行うの」

 私はその三十センチほどの模型を手に取る。これはまだ飛ぶことが出来ない。

「何だか町で走ってた自転車みたいなのに似てるね。もしかして、あれを基にして?」レニは模型をまじまじと見ながら聞いた。

「ええ。私の仕事先がこのツーリングの製造をしてるから、部品は手に入りやすいの。部品は主に使い終わった廃材だから、盗みにはならないわ」

 私は先ほどの外出で手に入れた金属板と大きな歯車を取り出す。

「これと、そこにある本物のツーリングとその他の廃材から本物の空を飛ぶ物を創るの。まだ、模型じゃ飛ばないけど・・・・・・。私が一生懸命ペダルをこいで、飛べるように設計してる。だから、あんた達がやることはもう・・・・・・」

 と、私が言いかけたところで。

「早く出来るに越したことはないんでしょう?」

「フライトのテストの回数は多過ぎることはないしね」

 分からない。どうして二人がそうまでして私に尽くしてくれるかが、分からなかった。

「理由が欲しいのなら、言おうか?」

 キキョウが何故か震える私を見て言った。

「二泊三日、一日三食付き。ありがたく受け取るわよ」

 ・・・・・・あんた達のどこが流浪の民なんだ。

 

 しかし、二人の助けは思っていたよりも作業効率を高めた。一人で最低三日はかかる行程を半分。つまり、一日半で終えることが出来た。

「じゃあ、私買い物行ってくるから! 食べたい物あったら言って!」

 私は最終調整を終えて地下室から出る。そして、奥の寝室でくつろぐ二人とハッカに夕飯のリクエストを聞いた。

「ボクはステーキがいいな」

「私にはピザとか、その辺」

「私は・・・・・・あこがれのオムライス・・・・・・」

 とにかく、家計に厳しい意見ばかりが出たので私は聞いたことを後悔した。というかピザって何だ。分からない。

「あぁー・・・・・・。うん、じゃあ行ってきます」

 少し苦笑いをしながら私は家を出た。もちろん、いつもより少し贅沢なご飯の材料を買いに。

 ソーダが家を買い物で去ってしばらくが経った。キキョウが作業によって油に汚れた手を洗っているときに、玄関のドアを叩く音がした。レニと会話を楽しんでいたハッカが「まだお姉ちゃんは帰ってこないだろうに」という風に眉をひそめる。

「ウサギちゃん、ちょっと待ってね」

 ハッカはレニにそう言ってベッドから降りた。

 そして、慌ただしく玄関に出ると珍しい来客が。

「・・・・・・? ハッカちゃんかい? どうして・・・・・・ソーダはいないのか?」

 ソーダの仕事先の親方の息子であるルーカンが立っていた。ルーカンはきょとんとした顔でハッカに尋ねる。

「あ、あの。お姉ちゃんは・・・・・・」

「ソーダなら今いないわ」

 ハッカがおろおろしながら答えようとすると、後ろからキキョウが答えた。柱に背中を寄りかからせ、手を組みながらルーカンを見る。

「何のようかしら? あの子に伝言があるなら伝えるわ」

 ルーカンは誰だ、という風な視線をキキョウに向ける。が、すぐに首を振って、

「いや、今は気にしない・・・・・・。それより、ソーダに頼みがあってきた」

「頼み?」

 キキョウは聞き返す。

「ああ・・・・・・。ソーダの夢を、止めてくれ。ここ最近、ずっと俺が止めるように言っても聞きやしない」

 ルーカンは早口に言った。ハッカが「え? え?」と言う風にキキョウとルーカンを交互に見る。そして、キキョウが少し間を置いて口を開いた。

「そう。じゃあ、ほっとけばいいのよ。無理だと気が付いたら、きっとあきらめるわ。あのタイプじゃ止まるに止まれない」

 しかし、ルーカンは食い下がらない。むしろ一歩前に出るような感じで強く言った。

「それじゃあ駄目だ! アイツは無理だと知っていても絶対にする。そういう奴なんだ! そして、今回も・・・・・・! 失敗したら事故じゃ済まない。ヘタしたら・・・・・・」

「知ってるわよ」

 キキョウは熱くなるルーカンを冷静に制す。「あの子はそうなることを前提に飛ぼうとしてる。それに」と、そこまで言ってキキョウはハッカを見た。ハッカはよく状況を理解していないようで、いきなり視線を向けられて困っている。

「それに、これはこの子たちの夢なの。あなたの夢でもないし、ましてやこの子たちはあなたのでもない」

「・・・・・・!」ルーカンは声も出せなかった。

「素敵でしょう? あなたの夢でも、ものでもないのに、あの子はあなたや他のみんなの為に飛ぶんだから」

 

 そして、約束の三日後。完成した改造済みのツーリングを借り家の隣にある比較的高い建物の屋上へと持ち運ぶ。もちろん、許可など取っていない。

「ふぅ。なんとか運べたけど、どうするんだい?」

 レニは汗の一滴もない広い額をこれ見よがしに何度か右手で拭い、それから手を腰に当てながら私を見た。私はツーリングを運び終えた後、すぐに風の観測などの諸作業に取りかかっていた。と、キキョウが私の代わりに答える。

「ジャンプ台を運ぶんでしょ。さっき話したばかりじゃない」

「あぁ、それは昨日の晩ご飯のこと考えてたから」

「どうして昨日のこと考えてたのよ。脳の活性化をはかってたのかしら?」

「活性する脳もないけどね」

 そんなことを言い合いながらレニとキキョウが屋上から出ていった。

ちなみに、私は落ち着きながら作業をしているが、先ほどから一切言葉を口にしない。なぜなら、

(・・・・・・うぅ、ヤバイ。なんか、気分悪い・・・・・・)

 この上ないくらい緊張していた。

(よく考えれば空を飛ぶって人間業じゃないよね・・・・・・。そもそも私たちがこの地球で暮らせるのは地面しかないわけで、空なんて未知の領域だよね・・・・・・)

 私は心の中で自問自答を続ける。足も少し、今更ながら震えてきた。

「ソーダ」

 ハッとして振り向くと、キキョウが呆れ顔でソーダを見ていた。

「な・・・・・・何よ。今集中してんの!」

 それに、あんたは今屋上から出ていったばかりでしょう、と付け加える。

「レニに全部任してきた。それより、大丈夫かしら? 顔色悪いわよ」

 顔色も悪いらしい。自分では気が付いていなかったが、実は。

「今更、怖くなったの?」

 指摘された。図星。頷くしかない自分がいる。

「怖いのね。まぁ、それが普通よ」キキョウは私にそう言った。

「でも、私はこの夢を・・・・・・」

「命が惜しいなら」キキョウは言った。私の言葉を遮って、きっぱりと言った。

「命が惜しいなら、止めるべきよ。今までのテスト飛行はろくに成功してないわ。――――無理に今日、する必要はないわよ」

 確かに、今までのテストでは一度しか目標の距離に届いていない。可能性で言えば数パーセントの世界だ。私は今から飛び降り自殺をするようなものである。だが、

「・・・・・・もう、引けないわよ」

「――え?」キキョウは目を開く。

「もう、みんなに言っちゃったし、下には見物の人も何十人、何百人ともいるし! アンタたちももうすぐ帰っちゃうし・・・・・・。何より、ハッカが・・・・・・ハッカはもう・・・・・・」

 ハッカの容態はここに来て一気に悪化してきた。もう自力じゃ立てないほどに。いつも、苦しそうに息をしているのだ。

「疲労が原因にあるとしたら、それは治療じゃどうしようもないじゃない! あれだけ寝てても、もう疲れたしか口にしないのよ! ・・・・・・私たちに出来ることなんて、ほとんど無いの。だから、せめてハッカの夢は叶えてあげようって・・・・・・」

「だったら、もう何も言わないわ。これはあなたの夢であり、妹の夢でもある。私の夢じゃないんだから、そこまで言われれば私の助言は意味は為さない。だからせめて、自分に後悔しない選択をしなさい」

 キキョウは微笑んでくれた。彼女が笑う姿は余り見たことがないが、それでも一番心のこもっていた微笑だった。

「・・・・・・うん、ありがとうキキョウ」

 まだ、気持ちは整理できてなくて、恐怖心も拭えてないけど。それでも元気は出た。

「もう大丈夫、きっと飛べる」

 気持ちはもう、固まった。

 

 さて、屋上から下を見下ろせば人が手のひらに収まるくらいの大きさでしかなかった。今私と同じ高さにいるのは、この改造ツーリングと鳥と雲だけ。実際にはキキョウも隣にいるのだが、彼女はどうやら下に降りるらしい。

「じゃあね、ソーダ。飛べるといいわね」

 まるで、今生の別れのように不吉な臭いを漂わせた言葉を最後に、キキョウは下へと降りていった。

 そして、日が真上に昇ったとき。私は出来るだけ車体と自分を軽くするために、関節にサポーターと頭にヘルメットだけを装着してツーリングに乗り込む。もし、落ちてしまえば痛い、じゃ済まないだろう。

 ツーリングの動力は左右に伸びる翼が風を受け、ペダルを漕いで螺旋状に後輪の左右に取り付けたプロペラで少しでも車体を浮かせる。車体の部品はほぼ空洞になっており、軽さと機動力を重視した設計だ。その分、強風が吹けば風に流されやすく一気に墜落の危険性がある。

「勢いよく空へ飛び出して、ギアチェンジしてプロペラへと切り替えて・・・・・・後は風を読むだけ・・・・・・」

 たったそれだけで、理論上空を飛べてしまう。なのに、テスト飛行では成功確率はゼロに等しかった。

 失敗すれば、笑い者。私だけではなく、おそらくハッカも同じ扱いを受けるだろう。

 だけど。

(だけど、それでもやらなくちゃいけない)

 町は衰退してきている。度重なる凶作や災害によって疲弊しきっている。そんな世の中だから、私たち労働者に希望も自由も見いだせない。

 だからこそ、飛ぶ意味がある。

 だって、私は――――。

「みんなの為だよね」

 ハッとなって後ろを振り返ると、そこには立てないはずのハッカがいた。

「ハッカ・・・・・・? アンタ、何で」

「お姉ちゃんが飛ぶのって、みんなの為だよね? いつも、自分一人の為とか、自己中な性格振りまいてるけど・・・・・・。本当は町のために一生懸命なんだよね?」

 ハッカは頬を濡らしながら訴えかける。何を伝えようとしているのか、分からない。そもそも、そんなつもりで私は飛ぶんじゃなくて・・・・・・。

「ウサギさんが言ってたよ・・・・・・! あの子は一番最初に町のことから話して、次に君のことを語ったんだ。それも、とても楽しそうにねって! だから、お姉ちゃんは命を懸けて町に希望を・・・・・・、自由の象徴である空を飛ぶんだって・・・・・・」

 大粒の涙がハッカの頬を伝う。私はただ呆然とその言葉を聞く以外出来なかった。

 ハッカは息を整えて、最後に一つ。

「お姉ちゃん・・・・・・。・・・・・・ぐすっ・・・・・・」

 えづきながら、最大の感謝を述べる。

「ありがとう・・・・・・」

 私は。

「私は・・・・・・」

 そこで、時が止まったような気さえした。心の中で様々な思いが渦巻いて、視界がどんどん滲んでいく。余りの衝撃に、それ以上口を動かせなかった。そして、何も出来ない体とは裏腹に心の中はものすごく活発で、足が、体が震えてきた。

 ――――分からない。

「あ、あれ・・・・・・? 何でだろう・・・・・・っ? この期に及んで、怖くなってきたの・・・・・・かな?」

 声も震えている。止められない。もう、自力じゃ自分を押さえられない。

「駄目、なお姉ちゃんだよね・・・・・・私っ。い、今から飛ばなきゃなんないのに・・・・・・。どうしてかな・・・・・・」

 顎を伝ってツーリングの車体に滴が落ちる。私は、泣いているのか?

「嬉しくて、涙、止めらんないよ・・・・・・!!」

 ようやく、私は気付いた。私は、生まれ育ったこの町が、家が、妹が。

 大好きで、仕方が無かったんだ。

「お姉ちゃん!」ハッカは叫びながら私に抱きついてきた。

「ハッカ・・・・・・!」しっかりと抱き止め、お互いに泣き合う。

 私は今、限りなく幸せ者だ。

 だって今からすぐ、大好きな妹と町のために、命を懸けて救いに行けるのだから。

 

 人通りの少ない路地裏に、少女とウサギのぬいぐるみが並んで歩いていた。ゴミの臭いが鼻につき、ハエが数匹飛んでいる。

「どう思う?」ぬいぐるみは少女に向かって尋ねる。

「何が?」

「いや、ソーダだよ。飛べると思う?」

「おそらく、無理ね」少女は答えた。「あれじゃあ、よくて滑空と言ったとこかしら」と付け加える。

 ウサギのぬいぐるみはその答えに耳を折り曲げて、むすっとして言う。

「君らしくないね。結果の出ないことにあんなに手伝ったことが」

 すると、少女はあら、と呟いた。

「変化は出たわよ。空は飛べなくても、町の人たちには少なくとも変化は出るわよ」

 結果と変化。そこに大きな差はない。

「ねぇ、本当に空を飛んだらどうなるかしら?」

 少女はぬいぐるみに尋ねた。ぬいぐるみは「うーん」とわざとらしく悩んで、言った。

「飛んでも、飛ばなくても同じだと思うよ。そりゃ、飛べたらすごいけどさ。飛ぼうとしたそのこと自体が評価されるよ」

 少女は「そうね」と言って空を見上げる。

「変化といえば、私にも変化はあったわよ」

 へぇ、それはどんな変化だい? と、ぬいぐるみは少女を見て言った。

「不思議と体が軽いの。まるで、疲労感を全て取ったみたいに」

 少女は腕を二回ほど回して微笑んだ。

「奇遇だね。ボクも何だか心洗われた気がするよ」

 そして二人はどこへともなく、煙のように消え去った。

 

 

 目が覚めると、既に日が暮れていた。

 よく考えればここ二週間は部屋から出ていない。

 家族関係も学校の関係も、少女にとっては無いも同然なのだ。

 体感で言えば五日経っているような気分ではあるが、実際には一日も経っていない。

 少し頭をぼーっとさせ、夢と現実に区切りをつける。そしておもむろに立ち上がり、自分専用の冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し二口だけ飲む。そして、またベッドへと戻る。不思議とお腹は減っていない。ソーダの家で沢山食べたからだろうか。

 いや、あれは夢だ、と少女は首を振る。

 私の物語だ。現実には関係ない。

 そして少女は布団を被る。隣にあるウサギのぬいぐるみを抱く。

 いつしか再び夢の中へと、少女は陥ってゆく。

 次の夢は一体何だろうか、と思いながら。


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