比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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……これが、強さ。……本当の……本物の……絶対に、揺らがない強さ

 Side東条――とある60階建てビルの通り

 

 

 それは岩のように硬い雰囲気を持つ男だった。

 

 服装自体は、この池袋の街に相応しいラフなスタイル。

 スタンダードなジーパンとTシャツにジャケット。左手には手甲を覆うミリタリー柄のグローブ。そして髪をすっぽりと覆い隠す帽子を被り、更に顎髭を生やしている。

 

 だが、その表情は、まるで岩石のように硬い。

 

 見た目は完全に人間だ。

 だが、登場の仕方があまりにも異様だった。

 

 故に、由香は怯え、笹塚は銃を構えている。

 

 明らかに、この男は、異様で、異常で――異形な、何かだ。

 

 故に、東条は笑い、目の前の男を獰猛に見据えている。

 

 岩のような男は、ちらっと目線を女吸血鬼に向けると、硬く引き締められたその表情に初めて小さく笑みを浮かべた。

 

「……ほう、この女に勝ったのか」

「いいケンカだったぜ――そんで」

 

 東条はバキバキと指を鳴らし、猛獣のような笑みと共に挑戦的な目を男に向けて、闘気を放ちながら言った。

 

「次は、オメーがオレとケンカしてくれんのか」

 

 その言葉に、男は――

 

「――ふっ」

 

 と笑い、とん、と小さく跳ねて――ドンっ!! と加速する。

 

 瞬時に肉薄する。

 その唐突な開戦に対し、東条は既に拳を振りかぶっていた。

 

 そして両者の顔面に、それぞれの渾身の一撃が炸裂する。

 

 東条と男は、頬にお互いの拳が突き刺さった状態で、それでも尚、獣のような――化け物のような、獰猛で、好戦的で、野生的な笑みを浮かべていた。

 

 黒い球体の部屋の戦士――東条英虎と、黒金組幹部――岩倉の、壮絶な殴り合いが、この瞬間、幕を開けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 強さとは何だろうと、あの日から由香はよく思考する。

 

 日がな一日中――登下校中、授業中、休み時間、就寝前――時間を持つ度に、時間を持て余す度に、自問自答を繰り返す。

 

 一人の時間が増えたからか、会話相手がいなくなり、自分の中に閉じ篭っての思考に耽る時間が長くなったからか、由香はいつからか、こんなことばかり考えるようになっていた。

 

 それは思春期だからといってしまえばそれまでだし、我ながら恥ずかしいことを考えているという自覚はあるけれど、それでも由香はこの一年間、夢中でそれを考え続けた。同年代の女の子達が恋やらお洒落やらに興味を示し出す中、由香は強さとは何かという少年漫画の主人公のような哲学について考えを巡らせていた。

 

 自分は、かつて強かった――というよりは、強がっていたのだろう、と思う。

 

 見栄を張っていた。というよりは、弱く見られたくなかった。弱く在りたくなかった。

 

 惨めなのが、嫌だったのだろう、と思う。

 

 弱い存在だと思われるのが嫌だった。下につきたくなかった。一番下になるのが嫌だった。

 

 だから、自分より弱い誰かを、下に置いて上に立とうとした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ドガンッッ!!! と、お互いの拳の威力によって、東条と岩倉の顔が後ろに仰け反った。

 

 だが、それでも二人は、にやりと凶暴な笑みを浮かべる。

 

「ふんッ!」

 

 東条はすぐさま体勢を立て直し、豪快にそのパンチを岩倉に向かって再度、放つ。

 

 そして、それを岩倉は――最小限の動きで躱してみせた。

 

 由香には、この二人の動きは速過ぎて、やはり良く見えなかった。

 

 だが、東条の攻撃が躱されたのと――その隙に懐に潜り込んで、東条のどてっ腹に岩倉が一撃を入れたのは分かった。

 

「――え?」

 

 由香は思わず呟く。

 

 これまで圧倒的な強さで敵を倒してきた東条が、まともに一撃を喰らうのを見るのはこれが初めてだったから。

 

 岩倉はそのまま東条の顎に向かってアッパーカットを打ち出す。

 由香は思わず叫びかけた。

 

 だが――そのパンチを、東条はヘッドバッドで受け止めた。

 

「――マジか……」

 

 拳銃を構えながら、笹塚が呟くのを由香は聞いた。

 

 東条の変わらぬ凶悪な笑みを受けて、岩倉は額に一筋の汗を流しながらも、自身も笑みを浮かべて一歩下がる。

 

 そして――間髪入れずに再び距離を詰めた。

 

 この時、傍から見ていた笹塚は、岩倉の構えを見てこう思っていた。

 

(……ボクシング、か?)

 

 両拳を顔の近くに置き肘を立てるような構えと、とん、とんと細かく小さくリズムをとるようにジャンプしているそのスタイルを見て、笹塚はそう考えていた――故に、この後の岩倉の挙動に虚を突かれることとなった。

 

 この岩倉という男もまた、東条英虎と同じく、小奇麗なルールなど持たない、喧嘩を生業とする男だった。

 

「っ!?」

 

 突如岩倉は跳躍のリズムをずらし、フェイント気味にハイキックを放った。

 

 しかし、東条はそれをまったく動じずに受け止める――逆に虚を突かれたのは岩倉の方だった。

 

「おらっ!!」

 

 東条はそのまま岩倉を片手で強引に投げ飛ばした。

 

 岩倉は為す術なく、どこかのテナントの中に吹き飛ばされ、内装を豪快に破壊しながら叩き込まれる。

 

 東条は相変わらず野性的な笑みを浮かべながら、コキリと軽く首を鳴らした。

 

(…………すごい、すごいっ! やっぱり、この人は“強い”っ!)

 

 由香はその光景に、頬を染めて陶然としながら、ごくと唾を飲み込んだ。

 

「……………………」

 

 笹塚は、そんな由香を無感情のような無表情で見下ろしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 誰かを下に置けば、相対的に自分が強くなると思っていた。

 

 そして、現に強くなったように感じた。

 誰かを一方的に貶めることが出来る。それは強さの証だと思った。

 

 だって、どう考えても間違っている行為が、正しい行いであるかのようにまかり通った。

 

 誰も何も言わなかった。同意して、同調してくれた。

 

 傲慢な理不尽が、その世界では適応された。

 

 由香(じぶん)はその王国の支配者で、由香(じぶん)が作り出した腐りきった政治(ルール)が、当たり前の正義であるかのように執行され続けた。

 

 間違いなく湯河由香の天下だった。自分はこの王国での絶対なる強者。これこそが、強さの証だと思った。

 

――半分は見逃してやる。あとの半分はここに残れ。誰が残るのか、自分たちで決めていいぞ

 

 だが、その王政は、ある日、唐突に終わりを迎えた。

 

――……由香がさっきあんなことを言わなければ

――由香のせいじゃん

――そうだよね……

 

 由香は革命を起こされ、由香の王国は崩れ去り、最下層へと都落ちした。

 

 由香の作りだした強者の位置は、由香の手にしたその強さは、その日を境に無意味になって、無価値になった。

 

 轟々と燃えるキャンプファイヤーが、まるで燃え堕ちた王国の成れの果てのようで。

 

 その炎の隙間から覗いた、自分とはキャンプファイヤーを挟んで反対側の、人混みから離れた位置から同じように炎を見ていた――一人の腐った男子高校生の双眸と目が合った時。

 

 由香は恐怖で息を呑み、一目散に何処かへ逃げ出した。

 

 

 ひとりぼっちで、人混みから逃げた。

 

 

 絶対であるはずの強さが覆り、由香はその日から弱者になった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 岩倉がその服を埃や血で汚しながら、ゆっくりと破壊されたテナントから姿を現す。

 

 既にその表情から笑みは消えていて、岩石のようにこの戦場に落下してきた時と同様に――いや、その時以上に硬い無表情で、再び東条と相対する。

 

 対して東条は、更に深くその猛虎のような獰猛な笑みを深め、片足を引き、構えを取る。

 

 岩倉もボクシングのような構えを取って、ゆっくりとお互いの拳が届く間合いまで近づき――

 

「――ふっ!」

 

 鋭く拳を放つ。対して東条は、それを――避けずに、食らった。

 

 小手調べのジャブだったのか、まさか避けないとは思わなかったのか目を見開く岩倉だったが、東条はその獰猛な笑みを崩しておらず――

 

――強烈な拳を岩倉の腹に叩き込む。

 

「っ!?」

 

 岩倉は思わず腹を押さえてよろめいた。そして、ここで初めて、岩倉は険しい表情で東条を見上げた。

 

 東条はその敵意すらも堂々と受け止めて、強者の笑みを浮かべて岩倉を見下ろしている。

 

(……ああ、強い。……あの人は――東条さんは、本当に強い……)

 

 由香はその戦いを見て、陶然と見惚れ、胸の鼓動の高鳴りを覚えていく。

 

 負けじと岩倉は渾身の拳を東条に叩き込む――が、東条はそれを真っ向から堂々と食らい、そしてお返しとばかりに一発のパンチを返す。

 

 岩倉は大きくよろめき、東条は揺るがなかった。

 

(……これが、強さ。……本当の……本物の……絶対に、揺らがない強さ)

 

 これが、強さなのだと、由香は思った。

 

 紛い物の強さとは、偽物の強さとは、簡単に揺らいでしまう――由香は己の転落から、そう痛感していた。

 

 誰かを下に置いても、自分が上に立ったことにはならない。強くなったわけで、決してない。

 

 自力で上に立ったわけではない者は、同じように誰かに引きずり降ろされ、下に置かれた時、上に這い上がることが出来ない。自力で登ったことがないから。登れるだけの、強さがないから。

 

 強さを持たない、弱者だから。

 

 だが、だからといって、自分の上に立つ者が、皆本当に強いのかと言えば、由香はそう思えなかった。

 

 かつての自分のようにあの日から自分に理不尽を強いるクラスの者達は担任の先生にはへこへこするし、その担任の先生だって学年主任や教頭や校長にはへこへこする。

 

 なら、強さとは年齢なのか? 立場なのか? 権力なのか?

 

 それも違う――と由香は思う。

 

 テレビを点ければ、その偉い権力を持った大人達が、大勢のカメラの前で頭を下げている姿など連日のように放送されている。

 

 強者の転落など、世界には溢れている――かつての自分がそうだったように。

 

 ならば、強さとは何だ? 決して転落しない、転覆しない、本物の強さとは何だ?

 

 どんな理不尽も通用しない程の、圧倒的な理不尽(つよさ)とは――何だ?

 

(……分かった……遂に……やっと……見つけた)

 

 あの時、由香は、目の前が絶望で真っ暗になった。

 

 かつて王国の支配者の座を追われ、己の偽物の強さを暴かれた時でさえ――破壊された時でさえ、これほど目の前が真っ暗にはならなかったと思う。

 

 いきなり放り込まれた、無機質で不気味なワンルーム――黒い球体の部屋。

 

 そして有無を言わさず送り込まれた、放り込まれた、漆黒の巨大な騎士との戦争。

 

 理不尽――およそ考え得る限り、中学一年生の貧困な想像力で辿り着ける限りで最大で最悪の理不尽な一夜。

 

 分からなかった。何も分からなかった。分かるのは、今、自分が遭わされているこの現状が、とにかく、とんでもなく理不尽なものであるというだけ。

 

 自分よりも遥かに年上な男達も、悲鳴を上げ、恐怖に怯え、理不尽を嘆いていた。

 

 そして何か訳知り顔で、他の連中よりは比較的に落ち着いている数人の経験者達も、経験者故か、一様にその表情は硬く、一つ一つの不測の事態に――イレギュラーに慌て、混乱しているようだった。

 

 そんな中で、この男だけが悠然としていた。堂々としていた。

 

 揺らいでいなかった――本物の強者だった。

 

 東条英虎。

 

 これが強さだと思った。彼こそが――この人こそが強者だと思った。

 

 

 本当の、本物の、強さだと思った。

 

 

(……きれい)

 

 その在り様は、この世界の、この下らない世界の、どんなものよりも美しいように思えた。

 

 由香は、一筋の涙を流した。

 

 敵の拳を食らいつつも、一切その笑みを崩さず尚も深め、全く揺るがず、一瞬も怯まず、その大砲のような拳を敵に叩き込み続ける、その男の戦い様に――強さに、由香は目を、心を奪われた。

 

 本当の強さは、絶対に揺るがない。絶対の強さは、此処にあったんだと。

 

「――あああああッッッ!!!」

 

 岩倉が初めて大きく吠え、渾身の拳を東条の腹に叩き込む。

 

 そして、東条はそれを受け――その岩倉の右腕を、右手で掴んだ。

 

「っっ!?」

 

 岩倉は思わず見上げる。

 

 東条は、不敵に――猛者の笑みを、浮かべていた。

 

「ふんっ!!!」

 

 東条の強烈な左肘の一撃が、岩倉の首裏に叩き込まれた。

 

「が、はっ――」

 

 そして、遂に――岩倉が、膝を着く。

 

 地面に向かって喀血し、苦痛に悶える。

 東条は岩倉の腕を離して、その様を上から見下ろした。

 

 悠然と佇む強者と、屈服する弱者。

 

 由香はその光景を見て、自身の想いを確信する。

 

「っ!! おおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!」

 

 そして、弱者はその構図の転覆を図る。

 

 残された力を振り絞り、革命(ジャイアントキリング)を果たそうと逆転を試みる。

 

 だが、本物の強者には通じない――本当の強さとは、決して揺るがない。

 

 起き上がり、立ち上がった岩倉の顔面を、東条の拳は捉えた。

 

 まるで弱者の希望を容赦なく打ち砕くように、弱者が強者に屈する――そんな当たり前の現実を、不変の摂理を、愚かな弱者に思い知らせるように。

 

 東条のその一撃は、これまでで最強の一撃は、岩倉を遠く、遠くまで吹き飛ばした。

 

 何度も地面を転げ回り、街灯やテナントを吹き飛ばしながら、岩倉は視界の外に消えていった。

 

「…………」

 

 その、余りにも圧倒的な戦闘の結末に、笹塚は拳銃を下して、口を開けて、煙草を落として佇んでいた。

 

 東条は威風堂々と立ち、そして、由香は――

 

「…………ぁ――」

 

 

――その時、突然、地面が盛り上がった。

 

 

「っ!?」

「な、何!?」

 

 陶然としていた由香は、その唐突な災害に対し何も出来ず、笹塚に抱きすくめられるように庇われた。

 

 その発生源は由香から――そして東条からも少し離れていたようで、由香や笹塚の元へは衝撃しか届かなかったが、逆に言えば、それだけ離れているのに衝撃が届く程に、その災害は凄まじいものだった。

 

(い、いったい、何が――――っ!?)

 

 由香は笹塚越しの視界に、それを捉えた。

 

 

 盛り上がった地柱が弾け飛び――中から“怪物”が生まれた。

 

 

 ズン、ズン、と重々しい足音が響く。

 

 舗装されたアスファルトを破壊しながら、あの東条よりも巨体となったその怪物は、道のど真ん中を悠然と歩き、向かってくる。

 

「…………ほう」

 

 東条はそれに対し、到着を堂々と待ち構え、ゴキゴキと指を鳴らし、戦意を露わにする。

 

 その怪物は、岩の巨人だった。

 

 全身をまるで外骨格のように岩で覆われた巨人。

 

 頭に二本の角を生やし、膨れ上がった筋肉の様相まで岩で表現している。まるで一種の彫像のような怪物であった。

 

「…………何………あれ………?」

 

 由香は、ガタガタと震えながら呟く。

 ただ単純に姿形が恐ろしくなったというだけではない。造形で言うなら、先程の女吸血鬼の不気味なラミアのようなそれの方が何倍も悍しかった。

 

 だが、違う。

 この怪物は――違う。

 

 あのラミアのような危うさはない。不安定さがない。

 

 この怪物は完成している。綺麗な形で――怪物として。

 

 揺るぎない――確固たる自身を持っている。

 

 己の強さに対する、揺るがない自信を。

 

 怪物は嗤う。見下すように、顎を上げて、東条を嗤う。

 

 対して東条も、その怪物に対し、不敵な笑みで応えた。

 

(………そ、そうよっ! 負けるわけないっ! あんな怪物に、東条さんは負けないっ!)

 

――本当の、本物の強さは、絶対に揺るがないっ!

 

 そんな由香の葛藤を余所に、東条と岩石の巨人は激突した。

 

 岩の巨人――擬態を解除し、本来の姿を、怪物の本性を露わにした岩倉の拳と、東条の拳がぶつかり合う。

 

 びし、と何かが、罅割れる音。

 

「やっ――」

 

 由香が歓声を上げかけた――その瞬間。

 

 

 東条の巨体が、宙を舞った。

 

 

(――――――え)

 

 ガシャァァンッッ!!! と、これまで何体ものオニ星人に対して、東条が行ってきたのと同じように、東条の身体がどこかのテナントの中に吹き飛ばされた。

 

 轟音と共に、何もかもを破壊して、紙切れのように吹き飛ばされた。

 

 有象無象の弱者のように――東条英虎が、敗北した。

 

(………………うそ)

 

 キャァァァァアアアアアアアア!!!!! という、一般人のギャラリーの叫び声が響く。

 

 これまで圧倒的な力で未知なる怪物を圧倒してきた戦士の敗北に、民衆の恐怖は最高潮に達した。

 

(……………うそ、うそようそようそようそようそようそようそようそようそよ)

 

 逃げ惑う一般人と避難を促す笹塚の声を聞き流しながら、由香は目の前の現実を受け止められずに、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side??? ――とあるアミューズメント施設の中のゲームセンター

 

 

 神崎有希子は、あの池袋大虐殺の号砲が放たれた瞬間に湧き起こった混乱の中、必死に、必死に逃げ回って、気が付いたら、かつて通い慣れたこのゲームセンターに逃げ込んでいた。

 

 駅から大分離れてしまったと初めは絶望的な気分になったが、思い返せばあの時、駅の出口を封鎖するように怪物達が陣取っていたし、そもそもこんな状況では既にまともに電車など動いていないだろう。これが計画的な犯行だとしたら、そこは真っ先に潰されるはずだ――と、こんな場所まで逃げてきてしまった自分の行動を、無理矢理にでも正当化するように、神崎はそう己の中の焦燥に結論を出した。

 

 だから逃げた。逃げて、逃げて、逃げた。

 

 色んなものを見た。色んなものが聞こえた。

 吹き出す鮮血。声帯を引き千切っているのではないかと思う程の痛々しい絶叫。そして、化け物の不気味な笑い声。

 

 そのどれもが怖くて。何もかもが恐ろしくて。だから逃げて逃げて逃げて。

 

 途中、ヒールによってバランスを崩して、アスファルトに思い切り倒れ込んだ。

 

 その瞬間――化け物の鋭過ぎる爪が、神崎の帽子を引き裂いた。

 

『――――ッッ!!??』

 

 もし、転ばなかったら――その想像を思い巡らしてしまい、神崎はぶわっと涙を溢れさせた。

 

 歯がガチガチと音を鳴らし、膝がガクガクと無様に震えていた。

 

 それでも、とにかく逃げたくて逃げて逃げて怖くて怖くて嫌で嫌で嫌で。

 

 神崎は必死にヒールの靴を脱ごうと地面を這いながら、その趣味じゃない派手でお洒落な服を汚し痛めながら足掻く。

 

 その時――神崎の横を逃げ去ろうと横切った名も知らぬ誰かが殺された。

 

 自分を殺すかもしれなかったその鋭過ぎる爪で、背中をバッサリと切り裂かれた。

 

 この数分で、何度聞かされたか分からない、何度聞いても頭がおかしくなりそうな――殺される者の断末魔。

 

 失われる命の理不尽に対する怒りが、嘆きが、満ち満ちている、恐怖の叫び。この恐怖への、叫び。

 

『~~~~~~っっっっ!!!』

 

 神崎は、唇をこれでもかと噛み締める。必死に必死に悲鳴だけは堪えて。

 

 逃げる為に。逃げる為に逃げる為に逃げる為に生きる為に逃げる為に逃げる為に。

 

(逃げなきゃ……逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ)

 

 神崎有希子は逃げ続ける。

 

 恐怖から。理不尽から。化物から。父親から。堕落から。失敗から。過去から。未来から。

 

 逃げる逃げる逃げる逃げる逃げる逃げる。

 

 それが、神崎有希子という少女。

 

 世界が変わっても、地獄へと変わっても、何も変われない少女だった。

 

 神崎は、背後から轟き続ける断末魔から背を向ける。

 

 ようやく足から外せたヒールを何処かへと投げ飛ばして。擦り剥いた膝の痛みなど都合よく度外視して。

 

 足をもつれさせながら立ち上がり、そして逃げた。

 

 背後で人が死ぬ音。殺される叫び。断末魔の絶叫。化け物の高笑い。

 

 それらの全てから、神崎有希子は逃げて逃げて逃げた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、神崎有希子はこのアミューズメント施設に辿り着いた。

 

 自分と同じように都合よく考えたのか、それとも自分と同じように怪物のいない方へいない方へとただ逃げてきたのかは分からないが、この建物内には一緒に逃げて来た数人の人間達と一緒に突入した。

 

 そして、そこには――自分達以上の人数の死体が転がっていた。

 

『ひっ――』

 

 誰かが思わず悲鳴を漏らす。神崎は悲鳴を漏らすことはなかったが、顔面を蒼白させ、こみ上げる吐き気を堪えるように口を手で塞いだ。

 

 咄嗟に建物の外に出ようと足が動いたが、そんな時――

 

『ギャァァァァアアアアアアアアアア!!!!』

 

 外から誰かが襲われる声が聞こえ、再び足が止まった。

 

『う、上だ! とにかく上へ上がろう!』

 

 誰かがそんなことを宣う。それは全く根拠がない発言で、もし上に怪物が待ち構えていたら、自分達は逃げ場のない場所に追い詰められてしまうことになるのだが――このとき彼等は、すぐ外にいる今まさに殺されようとしている人間と、確実にその人間の傍にいて人間を殺しているであろう怪物から、少しでも離れたい、逃げたいという気持ちでいっぱいだった。

 

 彼等は上へ上へと止まったエスカレーターを駆け上がり、神崎もその一行に続いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、現在に至る。

 

 幸いというべきか、この建物内には既に、怪物はいないようだった。

 代わりに見つかるのは、人間の死体、死体、死体。

 

 当然ながら、神崎は池袋駅東口からこのゲームセンターに歩き慣れた最短ルートで辿り着いたわけではない。

 

 行く先々で怪物が人間を襲う殺害現場に出くわして、必死に叫び声を堪えながら、少しでも遠くにという一心で、まさしく奇跡的に到達した場所だった。同行者も逃亡しながら少しずつ増えていった。

 

 おそらく怪物達は虐殺を始めた後、真っ先にこのゲームセンターのように人が多く集まっているであろう場所を狙ったのだろう。

 

 そんなことを、同行者の誰か――上に逃げようと進言した男――が言った。

 

『だ、だから、ここはきっと、奴等にとって“用済み”の場所なんだ! まさか奴等も一度人間を殺し尽くした場所に、まだ人間がいるだなんて思わない! だから、この場所に隠れて、た、助けを待とう! き、きっと、警察とか、自衛隊とかが動いてる! 逃げ回るより安全な場所で待っていた方が、奴等と遭遇する可能性は低い筈だ! 生き残れる可能性は高い筈だ!』

 

 それは、まさしく薄氷の上を渡るかのように、危うい賭けに思えた――が、誰も異論は挟まず、そのフロアの隅の隅に固まり、じっと息を潜めて隠れることとなったのだ

 

 もっと言うなら、ここは三階で、まだまだ建物内を全て見回ったわけではなかった。安全確認を済ませていたわけではなかった――が、既に、神崎達は限界だった。

 

 ここまで命からがらの逃走が続き――逃避行が続いた。この建物内の探索も、徐々にもしここで怪物と遭遇したらという可能性にようやく気付いたのか、新しい階に顔を出すだけでも戦々恐々だった。

 

 そして、あちらこちらに転がる、凄惨な人間の虐殺死体。

 

 もう完全に、心が限界だった。そんな状態で出されたその男の希望論は、彼等の足を止めるには十分すぎる威力を持っていた。

 

「……………………」

 

 だが、当然のことながら、助けは来なかった。いつまで経っても来なかった。

 

 時間とすればまだ十分も経っていないのだが、惨殺死体に囲まれ、いつ怪物が現れるか分からないというこの状況で、ただじっと待つということが、つい数十分前まで平和な日本の一般市民だった彼等にとっては、耐え難い苦痛だった。

 

 まさしく、地獄だった。

 

 そして――

 

 

 ガシャァァンッッ!!! と、再び轟音が響く。

 

 

「ひぃっ!!」

「馬鹿ッ!! 大声を出すなッ!! 外で起こっている音だ!! この建物には踏み込んでこない!!」

 

 そう男が大声で怒鳴る。

 

 少し前から、建物の外で、このような轟音が鳴り響くようになっていた。

 

 男の言うように建物の外の出来事なのだが、こう頻繁に、そしてこれほどの轟音が続く為、既に精神的に限界な神崎達にとっては、一回一回がかなり大きなダメージとなる。

 

 結果としてお互いで不満をぶつけあい、ぎすぎすしていく。そして、そのことが再び多大なストレスとなる――という悪循環。

 

(……もう……どうすればいいの? ……どうして……こんなことに――)

 

 神崎は、そんな集団の端で体育座りをしていた。

 

 ショートパンツによって剥き出しの、膝小僧から血が流れている鉄臭い脚に顔を埋め、涙を堪える。そして周囲から漂ってくる、自分のそれとは少し違う嗅ぎ慣れない血の匂いに、現実(リアル)の戦争というのはこんなにも悲壮なものだと思い知った。

 

 これはもう、二度とGGOにログインすることはないかも、と力なく笑った時――

 

「――あー、おじちゃん、もう限界だわ」

 

 と、神崎の横に座っていた、穴が複数個空いた黒いキャップを被った目つきの悪い男が立ち上がった。

 

「……え――」

 

 神崎が顔を上げ、呆然とその男を見遣ると、男は苦笑しながら――

 

「ああ、いやね。煙草(ヤニ)が切れちまったもんで、ちょっくらお外に行ってくるわ」

「え、あ、その――」

 

 神崎は訳が分からない。

 

 今外に行くなど、正気の沙汰ではない。トイレに立つことすら不可能な状況なのに、ただ煙草を買うというだけで、平然と、それこそ近所のコンビニでも出かけるかのように気軽に、怪物が跋扈する外界へと向かう男に、神崎は何と声を掛けていいのか分からず、とりあえず立ち上がろうとして――

 

「や、やめときなさい」

 

 その男の後ろ――神崎の斜め後ろに座っていた派手な眼鏡とぐしゃぐしゃのわかめのような髪のおばさんは、神崎の服の裾を掴んだ。

 

「で、でも――」

「あの男は……ヤバいわよ。……狂ってる」

 

 おばさんはそう言った。

 

 確かに、この状況であんな理由で外に出るのは、前述の通り正気の沙汰ではない。

 現に彼が出て行ったことに気付いた他の連中達も「恐怖で頭がおかしくなったんだろう……ほっとけ」と、冷たく投げやりに送り出す。

 

 このおばさんもそう言いたいのかと思ったが、彼女の口から出た言葉は、神崎の思ったそれとは少し違った。

 

「……あの男……笑ってたのよ」

「……笑って――た?」

 

 神崎は気付かなかった。ずっと何も見ないように、何も聞こえないようにお得意の現実逃避をしていたからだろうか――だが、こんな状況で笑うということは、やはり気が触れていたということではないのか?

 

「ずっと、煙草を咥えながら――小さく、鼻歌を歌ってた」

「……鼻……歌?」

 

 神崎は、その情景を脳裏に描いて――ゾッとした。

 

「それって……まるで――」

 

 この状況を。この――戦争を。

 

(……楽しんでる、みたい――)

 

 ぶるりと背筋を駆け上がる恐怖を覚える神崎に、そのおばさんはこう繰り返した。

 

「アイツは、ヤバいよ……」

 

 外を跋扈する怪物よりも。辺り一面に転がる死体を作り出した怪物よりも。

 

「……狂ってる」

 

 今、出ていった“人間”の方が、余程、よっぽど恐ろしいと、そう言わんばかりに。

 

「…………」

 

 神崎は、最後にもう一度、帽子の男が出ていった先を見ながら――ゆっくりと、腰を下ろした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 建物から出たその帽子の男は、ふうと息を吐いてズボンのポケットに手を入れる。

 

「ありゃ?」

 

 すると何か手ごたえがあり、それを取り出してみると――

 

「お、なんだ、あんじゃねぇか。いつも上着の内ポケットに入れてるもんで気づかなかったぜ」

 

 ご機嫌な様子で中身を一本取り出し、火をつける。

 

 男が愛煙するその煙草の銘柄は「じOker」という絶版銘柄で、自宅には二万個程もの在庫が冷蔵庫の中で保管されているが、それ故に外出先では入手不可能である為、これは予期せぬラッキーだった。

 

 そして文字通り一息ついたところで、男は顔を上げる。

 

 ここは大きな通りから左に曲がった道であり、右手にはその大きな通り――60階通りがある。そこでは先程から大きな轟音が響いていて、ちらっと――身長3m近い岩石の巨人が見えた。

 

「おうおう化け物だねぇ。いかにも強そうだ」

 

 そんなことを飄々と呟きながら煙草を吹かす男は、さてこれからどうするかと帽子の位置を調整するかのように被り直して――

 

 

――左方向の少し先で立ち昇っている、大きな火柱に目を向けた。

 

 

「俺様好みの馬鹿がはしゃいでるじゃねぇの」

 

 火火火(ヒヒヒ)

 

 そう笑い――そう嗤い、その男は、天高く伸びるその火柱を、闇夜を焦がすかのようなその火柱を、まるで花火を鑑賞するが如く楽しんでいた。

 




湯川由香は本物の強さを見出し、神崎有希子は化け物よりも恐ろしい犯罪者を見遣る。

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