比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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八幡サイド。


比企谷八幡は、戦争の先の戦争の為に戦争を戦う。

 

 そこは、まさに戦場で、惨状で、地獄だった。

 

 

 その地獄に、この地獄絵図を作りだした、一人の少年は君臨する。

 

 

 そこは大きな広場だった。たまたま使用されていなかったのか、そこをガンツが狙ったのか、イベントなどに使われた際には大勢の人間が敷き詰められるだろうその場所は、今やゆびわ星人の肉片しか存在しない。

 

 腕が、脚が、腰が、肩が、腹が、頭が、バラバラに、滅茶苦茶に、ぐちゃぐちゃに敷き詰められている。

 

 きっちり二体分。馬を合わせて四体分。それぞれのゆびわ星人が持っていた巨斧すらもバラバラに。

 まるで狙ったかのように、目指して目論んだかのように、この上なく惨殺だった。

 

 圧倒的に勝利し、圧倒的に敗北していた。

 

 最早、この惨状を作り出せるということが、技術的にではなく精神的に、生物として敗北していた。

 

 バチバチバチバチ、と火花が瞬くような電子音と共に、その処刑人が姿を現す。

 

「……まだ生きてるのか」

 

 男は――比企谷八幡は、そう無感情に呟いた。

 

 この地獄絵図に君臨する、たった一人の男は、ひとりぼっちの男は、たった一人でこの惨状を作り出し、この二体のゆびわ星人との戦争に容赦なく勝利していた。

 

 手に持っていたケースを放り投げる。グチャ、と屍体の上に落ちた。八幡はそれに見向きもしない。

 既にその中身は空だった。全てのBIMを使い果たし、その全ての使用方法を勉強した。その為の教材として、この上なく二体のゆびわ星人の命を使い果たし、絶命させることを八幡は試みて――成功していた。

 

 これまでに九十九点を獲得し、今回の戦争で二体のゆびわ星人を殺し尽くしたこの男は、それでもまだその先を見据えている。

 

 この先の戦争を、見据えている。

 

 戦争の為に戦い、次なる戦争の為に生き残る。

 

 そんな狂った男の――狂い果てた男の足元に転がるのは、ゆびわ星人の頭部だった。

 

 八幡が呟いた通り、まだ生きている――否、死に損なっている、と表した方が正確か。

 分を待たずとも、残り数秒で、僅か数瞬で、微かに灯っているこの個体の命の灯火も尽きるだろう。

 

 だが、比企谷八幡という壊れたままで完成した戦士(キャラクター)は、その数瞬すらも許さない。

 

 この命に、八幡にとっての利用価値は既にない。そんなものは使い果たした。

 

 ならば、殺すだけだ。

 いつも通り、殺すだけだ。

 

 奪い取っていたゆびわ星人の巨斧――その破壊した刃の先端を、八幡は地面に向かって叩きつけるように突き刺す。

 その先には、転がっていた死に損ないのゆびわ星人の兜――頭部。

 

 ザッシュッッ!!!! と、不気味な色の血液を噴き出し、それを全身に浴びながらも、八幡は瞬き一つせず、脈拍一つ乱さずに止めを刺した。

 

 今度こそ、自分の取り分である二体のゆびわ星人の絶命を確認した八幡は、血を拭うこともせずにコントローラを取り出す。

 

「――終わりだな」

 

 そのマップはエリア内にバラバラに散ったガンツメンバーとゆびわ星人達が相対している図を映し出していて、一つ、また一つと、星人(ターゲット)を示す赤点が消えていく。

 

 桐ケ谷和人が。

 

 潮田渚が。

 

 新垣あやせが。

 

 東条英虎が。

 

 次々と、続々とゆびわ星人に勝利していく。

 

 そして最後の赤点が消えた時――それは始まった。

 

「……来たか」

 

 比企谷八幡の頭上に電子線が注がれ、徐々に頭部から消失していく――転送されていく。

 

 八幡は、鋭い目線を周囲に向け、あの黒服集団の乱入がないかを警戒したが、何事もなく、平和に、地獄の中から黒い球体の部屋への帰還を果たした。

 

 

 

 

 

 その様を、少し離れた場所で――パンダは見ていた。

 

「……」

 

 そして、そのパンダも、やはり何事もなく、平和に転送されていった。

 

 こうして、ゆびわ星人との戦争は幕を閉じ――

 

 

――運命の、採点が始まる。

 

 

 

 比企谷八幡の、選択の時は来た。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 比企谷小町は、HRが終了した後も、なぜか直ぐに帰ろうとは思えなかった。

 

 昼休み――大志が屋上へと向かってしまった後、小町はトイレに篭って濡れたハンカチを目に当てて、泣いてしまって腫れた瞼を押さえながら過ごし、昼休みが終わる直前に教室の自分の席に戻った。

 心配そうに声を掛けてくる友人をやり過ごしていると、そんな小町よりも更に遅く、チャイムが鳴り終わり、先生がやってくる直前に、大志はひっそりと戻ってきた。

 

 小町は、そんな彼をちらちらと見遣りながら午後の授業を乗り切った。大志はこちらに一切関心を向けていなかったが。むしろ小町の方が、彼はこんなにも“無”表情で日常を過ごしていたのかと、今更ながらに気が付いて目が離せなくなる程だった。

 

 そして、帰りのHR。

 小町は大志が帰る前に――確か彼は自分と同様に帰宅部だったはずだ――もう一度声を掛けようかと目論んでいたが、小町が午後の授業をそっちのけでずっと大志をちらちらとみていたことを目敏く発見した小町の友人に捕まり、小町がよく分からない釈明をしている間に、大志はさっさと帰ってしまった。

 

 小町は、直ぐに追いかけようかとも思ったが、昼の大志と、そして今朝の兄――八幡の様子を思い出し、身体がうまく動いてくれなかった。

 

 なんなのだろう。この漠然とした、莫大な不安は。

 

 ……一体、今、自分の周りで――兄の周辺で、何が起こっているのだろう。

 

 いつから、こんなことになってしまったのだろうか。

 

 そんな風に思い悩んでいると、HRが終わってからまだそれほど経っていないが――十分程だろうか――既に部活や即時帰宅の生徒達はほとんど教室からいなくなっていて、いるのは意味もない楽しそうな雑談に青春の価値を見出している一部の生徒だけだ。

 

 ……こんなところで、こんなことをしていても、しょうがない。何も変わらない。

 

 とりあえず意を決して帰ろうかと教室を出ると――

 

「………………」

 

 キュッ、と。足が止まる。

 ……なぜだかは分からない。それでも真っ直ぐ家に帰ることは気が進まず、足も進まなかった。

 

 一体、どうしたというのだろう?

 

「……………よし」

 

 ならば、逆転の発想だ。

 よく分からないけれど、家に帰ることは気が進まないのであれば、学校に残って、抱えている問題の解決に向かって行動を起こせばいい。

 

 大志は帰ってしまったけれど、この時間ならば、まだいるはずだ。

 

 兄は、あの部屋に。あの空間に。

 

 あの兄を変えてくれた、小町も大好きな、あの二人と一緒に。

 

 奉仕部の、部室に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 一歩、一歩。

 踏み出す足が、重くなる。ずっしりと、何かが圧し掛かるように。

 

 ……なんなのだろうか。

 先程、家に帰ろうとしたときの拒否感よりも、遥かに強い拒絶反応を身体が訴えている。

 

 兄に黙って奉仕部に行こうとしていることへの罪悪感だろうか。

 

 

 小町の脳裏に、あの時の情景が過る。

 

 四月――奉仕部に入部したいと言った自分を、兄は強く止めた。

 

 いや、あれこそまさしく拒絶といっていい。

 いつもは自分の言う我が儘は、面倒くさそうな顔をしても最後にはなんだかんだ言って叶えてくれる、妹の自分から見てもシスコンな兄が、あの時は最後まで許してくれなかった。

 

 あの時の兄も怖かったけれど、それでも悲しそうと言った様子が大きかった。

 もしかして、あの修学旅行後の時のように、三人が擦れ違っているのかもしれないと思ったのを覚えている。

 

 自分に相談してくれないのは寂しかったけれど、この時の兄は、修学旅行後の時よりも遥かに深刻に追い詰められているように見えた。

 ……それよりも前から少し様子はおかしかったけれど、決定的に様子が変わったのは――あの総武高の虐殺事件の時だ。

 

 その時から、兄は決定的に何かを失くした。雪ノ下雪乃も壊れてしまい、由比ヶ浜結衣は置いて行かれていた。

 

 奉仕部が、決定的に――終わってしまった、あの事件。

 

 それでも、まるで崩壊してしまったシナリオを、選択肢を間違ってしまった物語(バッドエンド)を、それでも何かに取り憑かれたかのように、失敗から目を逸らし続けるかのように――演じ続けるが如く、三人は奉仕部の部室に足を運び続ていた。

 

 比企谷八幡は、まるで壊れたロボットのように義務的に。

 雪ノ下雪乃は、ただ己を保つための安心感を求めて。

 由比ヶ浜結衣は、それでも何かを待ち続けるかのように。

 

 

 

「……………………」

 

――その様を、まさしくこの場所から、奉仕部へと続く最後の廊下の曲がり角から、細めた瞳に涙を浮かばせた平塚静と共に、小町は一度だけ眺めたことがあった。

 

 兄に強く奉仕部への入部を拒絶された、その日から数日後のこと。

 

 八幡にはああ言われたが、その時の兄の様子から小町は、これ以上ただ見ていることなど我慢できなくなった。限界だった。

 感情任せに職員室の平塚を訪ね、自分を奉仕部に入れてくれと直訴した。

 

 だが平塚はその要望を、ただ悲しげに首を振って否認するだけだった。

 それでも納得できず、憤慨するように食い下がる小町を説得する為に、平塚は――その様を、その光景を、小町に見せたのだ。

 

 あの時も、この場所だった。この場所から、顔だけを覗かせて――その光景を目撃した。

 

 奉仕部の部室へと、まるで吸い寄せられるように足を運ぶ彼と彼女と彼女を、廊下の曲がり角に隠れて、小町は平塚と垣間見た。

 

 それで十分だった。それだけで、全てを小町は理解した。

 

 涙が止まらなかった。こんなことがあっていいのかと思った。

 

 あの美しかった三人が、小町が憧れてやまなかった奉仕部が、兄を救ってくれた――ずっと傷ついて、ずっと裏切られ続けてきた兄が、やっと、やっと見つけた居場所。小町以外に見つけた、大切な、大切だった繋がり。

 

 何度もすれ違い、傷つけあってきたけれど、その度に強くなり、絆を深め――『本物』へと、近づいていた、いつか兄の、本当の『本物』になるはずだった、あの場所が。

 

(これじゃ……こんなのって……)

 

 小町は静かに泣き崩れ、その場でしゃがみこんで、平塚の煙草の匂いが染みついた白衣に顔を押し付けながら、涙を流した。

 

(………こんなのってないっ! ………こんなのってないよぉっ!!)

 

 小町は泣いた。泣いて、泣いて、泣いた。

 

(どうしてっ! どうしていつもお兄ちゃんばっかりこんな目に遭うの!?)

 

 これも兄が悪いというのか。こんな仕打ちを受けるほど、受け続けるほど、兄は罪深い人間だというのか。

 

 だとすれば、そんな世界は間違っている。間違っているのは、兄ではなく世界の方だ。

 

 小町はこの日、兄のことを――兄が幸せになることを、決して認めようとしないこの世界のことを、また更に嫌いになった。

 

 

 

 そのことを――あの日のことを思い出すごとに、小町の足の体感重量は増していく。

 

 ……このままあの部屋を訪れても、あの日と同じ思いをするだけなんじゃないのか。

 

 家で顔を合わせる兄の様子を見るに、あれから事態が良い方向に動いているとは思えない。むしろ、あの日よりも更に悪化しているのではないか。……あの状態よりも更に悪い状態というのは、小町には思いもよらないが。あそこまで壊れてしまったのなら、いっそ木端微塵になって、全てを忘れてリセットした方がマシなのではと思ったこともある――そんなことになったら、あの三人はどうなってしまうのか、これもまた想像もつかないので、絶対に口には出したりしないが。

 

 けれど確実に、事態は今、動いているはずだ。

 

 今朝、兄は小町に本気の殺意を向け、小町は生まれて初めて、心から兄に対し本気の恐怖心を抱いた。

 あんなのことは初めてで、絶対に信じられなくて、この人は本当に兄なのか、疑うような目を、探るような瞳を向けてしまった。

 

 すると兄は、寂しそうな、儚げな笑みを、小町に向けた。

 まるで触れると崩れてしまいそうな、そよ風が吹くと煙や幽霊のように消えてしまいそうな、そんな危うく、頼りない笑み。

 

 そのことに、更に小町は恐怖心を抱いた――焦燥感、と言っていいかもしれない。

 

 あの最悪の事態から、更に何か、兄を追い詰めるようなことが起こったのか。これ以上、一体どんな惨劇が、兄を襲うというのだろうか。

 

 もし、そんなことが起こったら、起こっているのだとしたら。

 

 今度こそ……兄は――

 

(――お兄ちゃんは…………っ)

 

 ………行かなくては。

 

 小町は一歩、前に進む。

 

 ……兄が一体、どんな地獄に迷い込んでいるのかは分からない。

 何故、兄があんなことを言ったのか。大志が一体、兄の何に関わっているのか――それは分からない。

 

 それをまっすぐに聞く勇気も、相談してくれる程の兄からの信頼も、小町は持ち合わせていないのかもしれない。

 

 それでも――例え、そうだとしても。

 

(………お兄ちゃんを、失うのだけは――嫌。……ぜったいに、いやっ)

 

 小町はいつの間にか浮かんでいた涙を拭いながら、奉仕部を目指す。

 

 このことで、兄から決定的に嫌われてしまったとしても構わない。

 無力な自分では、あの空間に飛び込んだとしても、何一つ変えることは出来ないのかもしれない。

 

 それでも、今の自分は、高校生――兄と、そして兄が守りたかったあの空間と、同じ敷地内に、堂々と足を踏み入れることが出来る立場なのだから。

 

 もう部外者じゃない。兄と同じ場所で、共に悩み、戦うことが出来るはずなんだから。

 

 必要なのは、勇気。そう信じて、小町は、あの曲がり角を曲がり、奉仕部の扉を目に捉えた。

 

 

――否、その扉の前には、誰か一人立っていて、その扉を見据えることはできなかった。

 

 

 その背中は、小町がよく知っている背中だった。

 

 可愛らしいリュックに、トレードマークのお団子頭。

 後ろ姿だけでも愛らしい彼女は、その部屋の中にいるべき――その部屋の中の、特別な空間のかけがえのない存在。奉仕部の物語の、大事な登場人物の――主役の一人だった筈の少女だった。

 

 小町は、掠れた声で、その背中に声を掛ける。

 

「……結衣、さん?」

 

 呆然と、扉の前で身動きもせず立ち尽くしていた彼女は、小町のその声に対しビクリと肩を震わせて、ゆっくりと振り向く。

 

「……やっはろ、小町ちゃん」

 

 彼女の定番のその挨拶は、かつてない程の悲壮感に満ちていて。

 

「……ゴメンね。今日は――奉仕部、やってないんだ」

 

 その笑顔は、向けられた小町の瞳から、再び涙が溢れてしまう程に――痛々しかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 小町は、その涙を袖で乱暴に一息に拭うと、「やっはろです! 結衣さん!」と笑顔を無理矢理作り、先程まで鉄球でも引き摺っているのではと思う程に重かった足取りを忘れ、強引に忘れ、小走りで由比ヶ浜の元へと近寄った。

 

 そして、由比ヶ浜の背中に隠れていた扉に目をやって「およ? ということは、お兄ちゃんと雪乃さんはもう帰っちゃったんですか?」と尋ねた。なるべく由比ヶ浜の顔を見ないように。……この質問をすれば、由比ヶ浜はきっと、また痛々しい笑顔で答えると分かっていたから。

 

 それでも、自分も重々しい雰囲気を出すよりも、いつもの比企谷小町で居た方が、きっと由比ヶ浜も楽だと思ったから。そうして欲しいと、触れてほしくないと、由比ヶ浜も心で叫んでいるはずだと思ったから。

 

 それが、自分の勇気が足りないせいだとは思いたくなくて、小町はそう自分に言い聞かせた。

 

「……うん、そうなんだ。……ヒッキー、今日も、用事があるって言ってたから」

 

 ……ゆきのんも、ヒッキーと一緒に帰っちゃった。

 そう、由比ヶ浜は言った。

 

 兄の用事――とは、小町も覚えがなく「――そうですか。せっかく、お兄ちゃんに内緒で驚かそうと思ったのに。小町的にポイント低いよ、お兄ちゃん」と唇をすぼめて言ってみるも、由比ヶ浜にもきっとこれが嘘だと気づかれただろうと小町は思う。

 

 だって、四月から今日に至るまで、小町がこの部室をサプライズで訪れたことなど、一度もないのだから。それどころか一度も足を踏み入れたこともない。

 

 だから由比ヶ浜は、その小町の言葉に苦笑いで返すことしかできなかった。とても痛々しい、ズタズタでボロボロな、それでも気丈に必死に作ったと分かる笑顔で。

 

「…………っ」

 

 小町は、もうそんな由比ヶ浜のことを見ていることが出来ず、そっと俯く。

 

 ……それなのに。あの二人は来ないと――戻ってこないと知っているのに、もう、戻ってこないと、分かっているはずなのに――それなのに。

 

 どうしてここに居るんですかとは、どうしてここで待ち続けているのですかとは――聞けなかった。そんなことは、言えるわけがなかった。

 

 こうして小町が由比ヶ浜と二人きりで相対するのは、奉仕部が壊れてしまったあの日以来、初めてだった。

 小町の受験が佳境になった時に奉仕部が崩壊を迎えたので、必然的に会う機会がなくなってしまっていた。

 

 メールのやりとりは少しあったけれど、由比ヶ浜は決してメールであろうと弱音は吐かず、そこでも気丈であり続けたし、小町も踏み込むことは出来なかったので、やがて繋がりは途絶えてしまった。

 

 それでも小町にとっては、由比ヶ浜も、そして雪ノ下も、兄の恩人で、そして大事な友達だ。

 

 だから、こんなふうに笑う由比ヶ浜を見ていられず、バッと顔を上げ、そして思いつくがままに言った。

 

「結衣さん! 遊びに行きましょう!」

「………え?」

 

 呆然とする由比ヶ浜に、小町は精一杯の無邪気な笑みを向け続けた。

 

 

 

 

 

 そして、小町は一度家に帰り、兄がいないことを確認した。

 

 そのことに少しほっと息を吐き――今朝のことで、自分はまだ、少し兄が怖いのだと自覚した。

 それ故に、自分は自宅に帰ることを避けていたのだろうか。奉仕部に向かったのも、今朝と、そして昼休みの大志の様子から、きっと今日は奉仕部に行かないだろうと、無意識に判断していたからかもしれない。

 

 だとすれば、兄が由比ヶ浜に言った用事というのも、案外、大志関連かもしれないと考える。

 ……ならば、事態の解決の道を探るにはこのまま川崎家へと向かうのもありなのかもしれないが、自分は川崎家の場所を良く知らないし、今はそれよりも由比ヶ浜との約束だ。

 

 もしかしたら兄は今は雪ノ下を彼女の家まで送っていて一度こちらに戻ってくるかもしれないので、机の上に置手紙を残しながら、制服から適当な私服に着替えて、小町は駅へと向かった。

 

 

 

 

 

「結衣さーん!」

「小町ちゃん」

 

 すみません、待ちましたか?

 ん~ん、今来たとこだよ。

 という定番のやり取りを終えた後、由比ヶ浜は学校帰りなので制服のままだったので、とりあえず着替える為に由比ヶ浜の家に行こうという話になり、電車に乗る。

 

「小町ちゃん、どこに行くの?」

「ふふ、なんでも今日、某所で映画の撮影イベントをやっているみたいなんです! きっと楽しいですよ!」

 

 と言って、小町は笑顔を作る。

 その笑顔を見て、由比ヶ浜は相変わらずの苦笑いを返したが、さっきよりは痛々しさが和らいでいる――そんな気がした。

 

 そうだ。この人は、誰よりも笑顔が似合う、すごく素敵な女の子だった。

 

 ……これは、現実逃避かもしれない。兄が苦しんでいるのを、誰よりもずっと近くで見てきて、そして見ているだけしか出来なかった自分の、ただの自己満足な罪滅ぼしなのかもしれない。

 

 それでも、この人の傷を、ほんの少しでも癒せたら。

 

 それが不可能でも、この人がずっと耐えている痛みを、ほんの少しでも和らげることが出来たなら――誤魔化せることが、出来るのならば。

 

 この人の笑顔に――少しでも輝きを取り戻すことが出来たなら。

 

 それがきっと、兄の抱えている苦しみを、和らげることが出来ると信じて。

 

 奉仕部に、自分が憧れたあの美しい空間に、ほんの少しでも――温もりを。

 

 紅茶の香りのような、暖かい――温もりを。

 

 小町はそう信じて、ぐっと決意を固めるように、電車の揺れを利用して由比ヶ浜の腕に思い切って抱き付いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 既に、その場に残っているのは、一人の黒金グループの末端の吸血鬼と、不動の体勢を崩さない氷川、そして――

 

「……ぅ……ぅぅ……うっ! …………ぁぁ…………ぅ……ぁ……」

 

 ダランと両腕の鎖に吊り下げられるようにして呻き、時折ビクンッ! と体を震わす――かつて、川崎大志という人間だった者。

 

 川崎大志という、異形の化け物だけだった。

 

「…………」

 

 氷川は、そんな大志を変わらずの無表情で眺めながら、先程の黒金との会話を思い返す。

 

 

 

『俺は今日、奴等に戦争を仕掛ける』

 

 絶叫しながら悶え苦しむ大志を背に、黒金はそう狂気の笑みを浮かべながら、氷川に言った。

 

『奴等は、俺の目の前で“転送”されていった。つまり、奴等は今日“狩り”をしている。オメーも見たんだろう? だから、ここに来た――違うか?』

 

 その通りだった。

 氷川は、まさしく黒金同様に、狩りの途中の奴等を――最大限に武装した最高(さいきょう)状態(コンディション)の和人と戦う為に、ここに“あるもの”を取りに帰ってきたのだった。

 

 だが、氷川は黒金のその戦争宣言に対し、冷たくこう答えた。

 

『……その片目の復讐か?』

『はっ、こんなのはどうでもいい――まぁ、この傷でスイッチが入っちまったのは確かだな』

 

 黒金はそう吐き捨てて、その笑みを極限に歪めながら、獰猛に吠えた。

 

『あんな中途半端な状態でお預けされてぐっすり眠れる程、俺は行儀よく躾けられてねぇんだよ……。まずはあのハンター共を皆殺しにする。……その後は“奴”だ。のこのこと現われたところを、今度こそ確実に食い殺すっ!』

『……奴?』

『ははっ! はははっ! いいな、いいな、最高だ!!』

 

 氷川の呟きなど全く耳に入らず、黒金は大きく両手を開いて、残った片目の瞳孔も開いて、その危険な狂気にどっぷりと浸かって、高らかに謳うように吠えた。

 

『もうちまちまちまちま不意討ちで楽しむなんてのじゃ我慢出来ねぇ!! 戦争だ!! 真正面から堂々と招待してやる!! 見てろ!! 今日!! 俺は!! この世界に喧嘩を売る!! この腐った世界をぶっ壊す!! 腐りきって狂いきったこの世界を!! 徹底的にぶっ殺す!!』

 

 氷川はこんな黒金を見て思う。

 

 こいつは狂ったわけでは決してない。

 

 文字通り、化けの皮が剥がれただけだ。

 

 人間のような擬態(かわ)が剥がれたら、そこに残るのは狂気(ばけもの)だけだ。

 

 これは、奴が――そして自分達が、元から持っている正体(なかみ)なんだ。

 

『俺を止めることが出来るというのなら、止めて見ろハンター!! 止めてみろ人間共!!』

 

 ああ、確かにこいつの言う通り、きっと、今日――何かが変わり、何かが終わる。

 

 この一体の化け物によって。

 

 

『俺は、例え全人類が相手でも勝ってみせるッッ!!! 俺が、最強だッッ!!!』

 

 

 そして黒金は、自身のグループを引き連れ、このアジトを出ていった。

 

 今日、これから、どこかの街で――戦争を引き起こす為に。

 

 奴は、徐々にその身体を異形の怪物へと変えていく大志を見て、一人の仲間を残し、こう言った。

 

『こいつを借りるぞ、氷川』

『……どうするつもりだ』

『大志は、今日の俺の戦争で、最大の目玉商品になる。――地下の“アレ”を使うぞ。かつてない程に最高な人間共の醜態を拝めることが出来る』

 

 黒金はそう言った。

 そう、これが、氷川と黒金の最大の違いだった。

 

 氷川は求道者。

 強さを求める理由は、ただ、誰よりも強くなりたいが為。強者と戦い、最高の興奮を、血が沸くその感覚を、冷え切った己の身体に注ぎ込んで、どこまでもその感覚を味わいたいが為。

 

 黒金は復讐者。

 強さを求める理由は、全てのハンターを、そして人間達を駆逐したいが為。強者と戦い、その者を討ち滅ぼし、自分がどんな人間よりも強く、優れた存在であることを証明する為。

 

 いずれは、こうなることは目に見えていた。

 それが今日だったという、ただそれだけの話だ。

 

 篤の最大の失敗は、黒金という爆弾の爆破期限(タイムリミット)を見抜けず――その前に処分するという決断を下せなかったこと。

 

 だが、所詮は同じ穴の狢。黒金も、氷川も、殺される人間達からすれば、ハンター達からすれば、そんなものは何の違いもない。ただの命の簒奪者だ。

 

 氷川はそれを理解していて、だからこそ、黒金の発言の倫理観ではなく、別の事柄に対する疑問をぶつけた。

 

『地下……だが、それは――』

『――その為の、大志の“能力”だ』

 

 だが、黒金は氷川の発言を遮りながら、答えを言った。

 それだけで理解した氷川は――それでも尚、質問を重ねる。

 

 らしくないと、自覚するほどに、しつこく。

 

『……もし、望みの能力が発現しなかったら、どうするつもりだ』

『そん時は、そん時だ。別の愉しみ方をするさ。――大志がいる。それだけで、()()()()()()はそれなりに面白いリアクションをするだろうからな』

 

 氷川はその言葉を最後に――遂に、何も言えなくなった。

 

『もう、満足か?』

 

 対して黒金は、氷川に獰猛な笑みを浮かべながら言った。

 

『なんなら、お前も参加するか? 大歓迎だぜ。お前も、目当てのハンターがいるんだろう? ならば、来ればいい。そんで大志を守ればいいさ。――そんなに、そいつが大切ならな』

 

 その言葉に、氷川はカッ! と目を見開いた。

 

 そして、その手の平から刀を作り出し、そのまま黒金に向かって容赦なく振り抜く。

 

 黒金の失った左目の死角から振り抜かれたその一撃を、黒金は笑みを全く崩さぬまま――素手で掴み取った。

 

 たらり、と。人間と同じ真っ赤な血が、その刀を滑り落ちる。

 周りを囲むそれぞれのグループの連中は、シンと静まり返って、額に汗を浮かばせながら、ただ固唾を呑んで見ていることしか出来なかった。

 

『好きにすればいい』

 

 氷川は黒金を細めた目で睨みつけながら、吐き捨てるように言い――そのまま殺気を仕舞って、再び壁に背を付けて呟いた。

 

『さっさと行けよ――俺はパスだ』

 

――なんか、冷めちまった。

 

 そして氷川グループは、その戦争に不参加を表明した。

 

 

 

 その後、『そうか』と嘲笑するような笑みと共に黒金はアジトを後にして、去り際に数人自分のグループの人間を残し、大志が“完成”したら、地下の“アレ”と共に大志を連れてくるように命令していた。

 

 氷川グループは皆、何か言いたげな表情だったが、リーダーの決定に大人しく従い、今日の所は解散となった。氷川は彼等を見送ることすらせず、ただ冷めた瞳で大志を見つめ続けていた。

 

 残った黒金グループのメンバーも、悶え苦しむ大志を見張る役目は一人で十分だと(正確には氷川と同じ場所に残る役目を押し付け合って)、残りのメンバーは地下に向かった。この役目も相当に命懸けなのだが。

 

 そして今、大志の“擬態解除”は完遂し、準備は完了となった。

 

 川崎大志という化け物は、“完成”した。

 

 見張りの男が地下の連中と連絡を取りに向かい、この空間に残されているのは、氷川と大志のみ。

 

 その時、これまで不動の体勢で大志を眺め続けていた氷川が、壁から背を離し、大志の近くまで歩み寄ると、膝を折ることすらせず、見下ろすような体勢で、こう言葉を投げ掛けた。

 

「無様だな」

「…………」

「これも全て、お前がいつまでも女々しく“元の世界”にしがみ付いていた結果だ」

 

 

『お前はもう“こっち側”だ。どれだけ目を逸らそうが、それは変わらねぇ。……お前は、もうそうなっちまったんだ。これは変えられねぇ。これは揺るがねぇ――』

 

 

「お前が――運命を、受け入れなかった結果だ」

 

 氷川は、その名の通り氷のように、冷たく鋭い言葉を大志に突き刺し続ける。

 

「…………」

 

 大志は何も答えない。苦しみでそれどころではないのか、または返す言葉が見つからないのか。

 

 氷川は、そんな大志に対し――手の平から刀を作り出し、大志の喉元に、刃を横向きに、真っ直ぐ突きつける。

 

「――化け物になるのが嫌だったんだろう。ずっと人間で居たかったんだろう。残念ながら、それはもう叶わない。永遠に叶わない。それが――お前の大嫌いな、お前を大嫌いな運命の選択だ」

 

 その刃は、まさしく鏡の如き光沢を放っていた。

 うっすらと、異形の怪物となった己の姿がその刃に映る。容赦なく、現実を――運命を、白刃と共に突きつける。

 

「そんなに嫌なら、ここで死ぬか、大志?」

 

 氷川は無感情に、氷のような無表情で告げる。

 

 大志は、プルプルと震えた手で、がっしりと、その刃を掴み――己の首から、退かした。

 

「…………」

「……ありがた、い……すっけど……先約が……いるんす」

 

 大志は、異形の怪物となったその顔で、人間のような笑みを浮かべながら、氷川に――己をこの世界に引き込んだ、吸血鬼に告げる。

 

 あの日、あの時――己を救ってくれた、化け物の恩人に、告げる。

 

 

――俺が、完全にあっち側に行ったら……お兄さんが、殺してくれないっすか?

 

 

「俺は………あの人に………殺されたい」

 

 

 そして、ガシャンッ! と、力尽きたかのように意識を失い、刃を手放す大志。

 

「………」

 

 氷川はその刃を、もう一度大志の首元に向けようとして――

 

「――すいませんっす、氷川さん……あの……ソイツを連れて行っても――」

 

 いつの間にか戻ってきた見張りの男の、恐る恐る探るような言葉を断ち切るように――氷川は刃を水平に振った。

 

「ひっ!」

 

 慄く見張りの男だったが、その刃が切り裂いたのは、男でも、大志の首でもなく――

 

 

――ガシャァン!! ガシャァン!! と音を立てて落ちた、大志の両腕の戒めていた鎖だった。

 

 

「……こいつは、俺が運ぶ」

「え?」

 

 呆然とする見張りの男に、氷川は淡々と告げ、大志を肩に担いだ。

 

「気が変わった。……この馬鹿の死に様を、特等席から眺めてやる」

 




これでゆびわ星人編のミッションは終了――次回、運命の採点です。

やっと……ここまで来た。

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