「なんなんだよ! なんだってんだよ! ふざけてんのかよ! ふざけてんじゃねぇよ! アイツあんだけ偉そうなこと言ってたくせに全然守れてねぇじゃねぇか!!」
もっと全力で俺を守れよ!! ――と更に情けないことを叫ぼうとしたリュウキの口を、取り巻きの四人が全力で塞ぎにかかった。
その様を、肥満体系の中年男は手を咥えながらハラハラと見守り、渚はそっと物陰から外の様子を伺った。
――そこには、何かを探すように、ズシン! ズシン! と強烈な足音を響かせて徘徊する、一体のゆびわ星人。
このグループは、和人が転送と同時に叫んだ『新人を護衛する』という趣旨のグループだった。
だが、見ての通り数人の新人は合流することも出来ず、あやせとすらはぐれてしまい、渚一人で彼等を守らなくてはならない状況に陥っていた。
そして、本来ならば和人と東条と八幡がその全てを引き受けるはずだった標的――ゆびわ星人は、今、渚達の目と鼻の先にいる。
渚としては本来八体もいる敵を七体も引き受けてくれたことに感謝こそすれ恨みがましく思う気持ちなど皆無なのだが、リュウキ達新人からするとあんなことを言っておいて約束が違うじゃないかという心情なのだろう。
だが、よく考えてみれば、和人はあの部屋でも確かに力強い言葉でみんなを纏め、前を向かせていたが、その言葉のほとんどがガンツミッションに対する基本的な知識で(スーツは絶対に着ろだとか、頭のアラームが鳴ったらすぐに移動しろ、だとか)――絶対に誰も死なせない、だとか、どんなことがあっても俺がお前達を守ってやる、などという安請け合いは、断じて口にしていなかった。
まぁ、あれだけ知ったような口ぶりで扇動――誘導といってもいいかもしれない――しておいて、それじゃあまるで詐欺じゃないかと言われれば何も言えないようなグレーゾーンだけれど、今、こうして死ぬかもしれない恐怖を、あんな怪物に狙われるという理不尽を前にすれば、それこそ、そんなことは知ったことかという気持ちなんだろう。
誰でもいいから俺を助けろ。俺よりも強いならとっとと俺を守れ。
それが彼等の偽らざる本音――心の底からの魂の叫びだ。
「ど、どうするんや、あんさん! あの黒い人は、いつ助けに来てくれるんや!」
「…………」
中年男が渚に必死に語り掛けるが、渚は苦々しい顔をするばかりで何も答えられない。
渚の考えを口に出してしまうなら、そんなものは来ない、だ。
いや、それは正確ではない。
正しくは、そんなものは“いつ来るか分からない”。ならば、そんなものは当てにせず――
「――倒します」
「……へ? 今……なんて?」
渚は背後の中年男を振り返ることすらせず、腰のホルスターから(専用のものがクローゼットに用意されていた)ガンツナイフ(命名)を取り出し、囁くように言う。
「――僕が……アレを倒します」
――自分の手で、やるしかない。
このガンツのミッションにおいて、他人を宛てにするというのは、実はかなり分が悪い賭けだ。
制限時間が明確に設定されている上、敵の強さは実際に転送されて相対するまで全く分からないし――その上。
渚には目の前のゆびわ星人がどれほどの強さなのか、まるで見当がつかないが――もし。
この星人が――和人よりも強かったら? その場合、和人はこちらの救援に来るような余裕はないだろう。
だが、だからと言って――
「――あんさん、強いんか? あの化け物に勝てるんか!?」
中年男が希望を得たとばかりに渚の肩を掴み、強引に自分と向き直らせる。
だが、それとは対照的にリュウキを始めとする不良少年達は、渚を胡散臭そうなものを見る目で見ている――信じられないという顔だ。
そして渚は、中年男の期待に満ちる眼差しから目を逸らすように俯きながら、呟くように答える。
「……いえ。僕は、桐ケ谷さんや比企谷さん――そして、東条さんのように……強くないです」
彼等のように――勇敢な戦士達のように、あんな怪物に立ち向かうことなど、出来ない。
自分は、前回の戦争の時――彼等が戦っている時、何も出来なかった。
何も、しなかった――逃げていた。
守られていた、弱者だ。
そう正直に言うと、ありのままの事実を告げると、中年男は表情を絶望で彩り、渚の肩に乗せていた両手をそのまま己の頭に移動させる。彼が「なんやそれ……どないすればええんや……」と悲嘆にくれる後ろで、リュウキが「ほらみろ! テメェみたいなチビに何が出来るってんだよ!」と不満をここぞとばかりにぶつけ、彼の周りの四人の不良も渚を侮蔑するように睨み付けた。
渚はグッと気圧される。
だが前述の通り、この戦争というデスゲームの場において、ただ仲間の救援を待つばかりという選択は正しくない。
前回の戦争では、“たまたま”和人達が勝利したからよかったものの、もし和人達が負けていたら、自分達は為す術もなく殺されていた。
和人が勝てないような敵に、自分が勝てる道理など皆無だ。――正しい。
ならば余計なことはせずに、敵に見つからないようにひっそりと身を潜め、強い仲間が敵を屠ってくれる可能性に賭けて、自分の分も戦ってもらって、弱い自分等は助けてもらって、守ってもらう方がいい。その方がいい。――きっと、正しい。
――でも、それじゃあ、ダメだ。
この戦争は、スコア制だ。
ただ生き残るだけでは、戦ってもらっているだけでは、守ってもらうだけでは――いつまで経っても終わらない。何も、変わらない。
おこぼれなどない、確固たる戦果を。
口を開けて突っ立っているだけでは、雨水一滴も得られない。
覚悟を持たなければ。自分から、一歩を踏み出さなくては。
自分の小さな身を隠してくれる、この壁の向こう側へと――本当の意味での戦場へと、その身を晒さなければ。
冒険をしなくては――経験値は得られない。
強くなれず、弱いままだ。
例えこのまま壁のこちら側で震え続けていても、いつかこの壁は壊され、死から逃げきれなくなる日が来る。
自立しなくてはならない。弱くても、無理矢理にでも、強くならなくてはならない。――戦場では、誰しも子供ではいられない。
動かなくては。戦わなくては。――――あの時のように、殺さなくては。
「――それでも、
――殺さなくちゃ、殺されるんだ。
それが、戦争だ。
ゾクッ!! と、五人の不良と一人の中年は、小柄な中学生の少年が放つ殺気に――硬直した。
閉口し、冷や汗を流し、本能的に恐怖を抱いた。
「で、でも、実際問題として、どないするんや。あんなでっかい敵に、そないなナイフじゃどうにもならんやろ!」
確かにそうだ。
渚は前回、このナイフで恐竜の心臓を貫いたけれど、あれほど巨大な敵にはこんなナイフでは太刀打ちできないだろう。つまようじがいくら鋭くても人は殺せないのと同じように。
眼球や首筋なら違うかとも思うが、ゆびわ星人は頭部の甲冑の中はまるで闇の如く深淵になっていて眼球はおろか頭部そのものがあるのかすら怪しいし、首は強靭な筋肉でコーティングされている。そもそも巨馬に跨っている上、そこまで辿り着ける方法すら分からない。
こうなると興味を惹かれて持ってきたもう一方の武器すらも役に立たない。
そもそも、なぜ自分はこうも近接戦闘用の武器ばかり持ってきたのだろう。クローゼットの方にはあまりなかったが、ガンツから飛び出たラックにはあんなにもじゃらじゃらと銃があったというのに。スーツを取りに行ったときに一つくらい持って来ればよかったと、渚は思った。
一応ちらっと目線を向けてみたけれど、
渚はそれを取り出して、パカッと開いた。
中には八種類の金属塊。
球形のもの、立方体のもの、平べったいフリスビーのような形態のもの、缶のような形のもの――種々それぞれだったが、全て光沢のある漆黒のカラーリングだった。
独特のデザインだけれど、その武器自体は渚でも知っているような物が宝石箱の如く詰め込まれていたあのクローゼットの中で、格別に正体不明だったこの品を、渚は思わず持ち出してしまったけれど――
(――これも、何かの武器なのだろうか?)
だがこれ何なのか皆目見当もつかない渚に、中年男が驚愕に目を見開きながら、小さな音量で、掠れたような声で叫んだ。
「こ、これはBTOOOM!のBIMやないか! なんでこれがここにあるんや!?」
渚は中年男の言葉に驚愕し、詰め寄るようにして聞き出す。
「え!? これを知ってるんですか!? 一体、これは何なんですか!?」
「………いや……でも、そないなわけ……でも、これはどうみても……」
「いいから教えてください! そのBTOOOM!とは何ですか!?」
自分の思考の中に潜る中年男の肩を今度は渚が揺さぶって問い詰める。
中年男はまだ信じられないと言った面持だったが、ポツリポツリと呟くようにして語った。
BTOOOM!とは、ここ最近で一気に人気を伸ばしてきた最新のVRMMOらしい。
ついこの間、第一回が行われたという世界大会では、登録選手に運営が一人につき一〇〇ドルを全員に分配し、その金を、敵を殺すことで奪い合うというシステムが導入された。
様々な施設がある孤島フィールドでそのバトルロワイヤルは行われ、参加者の証であるチップを相手から殺して奪うことで賞金を獲得していき、ラスト一〇人になるまで、その戦い――戦争は続く。
そして、一〇人になった時点で手に入れていた獲得賞金で順位付けされ、生き残った者達は世界ランカーとなる。更に何よりも世間の注目を集めたのは、その獲得賞金が、そのまま現実世界へ通貨還元されることだ。
GGOのように普段のゲーム内通貨も現金に還元できるわけでなく、この大会の賞金のみの話だが、その賞金はGGOのそれとは比べ物にならない程に莫大な金額で、しかもその性質上、参加人数が多ければ多い程に最終的な獲得賞金は膨れ上がる方式となっている。
全世界で、たったの一〇人。
宝くじよりも遥かに低い確率だが、それに勝てば――生き残り、勝ち残れば、まさしく億万長者となれるそのシステムは賛否両論を呼び、色々と問題になったけれど、余程大きな後ろ盾を得ているのか、未だサービス中止になっておらず、既に四年後の第二回世界大会の開催が発表されたばかりだ。
しかも第二回には四人一チームの団体戦の開催も加えて発表されていて、ただでさえ賞金システムの関係上、白熱していたユーザーの布教活動に更なる熱が加えられて――今、色々な意味で最も注目されているVRMMOの一つであるといっても過言ではない。
そして、BTOOOM!はそういった理由だけでなく、その肝心なゲームシステムでも大きな特徴がある。
それが――
「――――爆弾や」
中年男は、渚にそう言った。
「…………爆弾」
ケースに入れられた、八種類の金属塊――爆弾を見て、渚はそう呟く。
BTOOOM!というゲームには、これまでのVRMMOのバトルゲームにありがちだった、剣や銃、魔法といったシステムは一切なく――存在する武器は、八種類の爆弾のみである。
どれだけゲームをやり込んだとしても、それ以上の武器は手に入ることはなく、もっと言えばレベルも、キャラクターのステータスも、上級な防御装備も存在しない。
バトルの勝敗を左右するのは、プレイヤーの戦闘技術――ただそれだけである。当然、このシビア過ぎる設定も賛否両論を生み、実の所、世界大会が行われるまではあまり人気があるゲームとは言えなかった。VRMMO――もっと言えばゲームそのものの醍醐味である“やり込み要素”が皆無なのだから、無理もないが。
逆に言えば、初心者と上級者を分かりやすく分かつ“差”がない以上、莫大な懸賞金目当てで“気軽”に始めてしまう者達が後を絶たないのだが――
話が逸れたが、つまり中年男曰く、この金属塊は、そのBTOOOM!というVRMMOで使われる武器で――爆弾だということだ。
……確かに、そんなことを聞かされれば、まず最初に思うのは『そんなものが、何故、こんなところに』――だ。
ガンツとそのBTOOOM!の運営がどこかで繋がっているのか――それとも単純に、どこからかそのゲームの存在を知ったガンツが、面白半分でこのBIMを実現――作ったのか。
(……いや、そんなことは今、考えることじゃない)
この場で考えるべきことは、これが本当にそのBIM――つまり爆弾だとするならば、上手くすればあの星人を打倒出来るかもしれない、ということ。
ゆびわ星人を殺せるかもしれない、ということで――
「あの――――ッ!?」
渚が更に中年男に問い詰めようとした時――リュウキが突然、渚の前に立ち、そのケースから一つの金属塊をひったくって――
「なにをごちゃごちゃやってやがんだ――」
――そのまま物陰から一歩飛び出して――
「――これが爆弾だってんなら、さっさとあの化け物をぶっ殺せばいいだろうが!!」
――巨大すぎるその的に向かって、川に石を放り投げるようなフォームで、その爆弾を投げつけた。
渚が、中年男が、そして不良達が呆然と見送る中、その球形のBIMはふらりと孤を描くような軌道で――
バァァァン!!! と爆炎を散らした。
「ひぃぃぃいいい!!」
怯える中年男の横で、爆風を物陰の壁を使ってやり過ごす渚。「うわぁっ!」と尻餅をつくリュウキを余所に、渚は真っ直ぐゆびわ星人の方を向く。
(……
これで殺せたのなら、間違いなくそれに越したことはないのだが――
……タラっと、一筋の汗を流す。
渚には、なんとなくわかった。
この暗殺は――
「――――ッ!? こっちですっ!!」
「――は?」
爆煙の隙間から、
渚は隣にいた中年男を引っ張り――階段に向かって一気に飛んだ。
そして、更に次の瞬間――
「ぐぁぁぁああああああ!!!」
逃げ遅れた四人の不良――そして何よりリュウキが、リュウキが投げ込んだ爆弾によってこちらの位置を知ったゆびわ星人の、その巨大で強大な斧の横薙ぎの一撃により渚達の頭上を飛んでいった。
それはアンパンマンのアンパンチによって吹き飛ばされるバイキンマンのようでいっそ滑稽ですらあったが、吹き飛ばされているのが大柄といっていい体格の男子高校生達で、次は自分がああなるのかもしれないと思うと別の意味で笑いが込み上げそうになってくる。
ドカン!! ドガン!! バリィン!! と、どこかへ打ち付けられるような鈍い音や、窓ガラスを破壊して建物の中に突っ込んでいったような音が響くが、スーツを着ているので死んではいないだろうと、渚は思う。そう、思うことにした。
渚も初めて身に着けるが、このスーツのお蔭で遮二無二に階段へと飛び降り、そして受け身も取らず――取れず――にゴロゴロと転がり落ちても怪我どころか痛みすらなかった。
内心では目の前の中年男のように感動すら覚えていたが、それに浸るのをグッと我慢して、渚は中年男の手を取って立ち上がらせる。
「ど、どないするんや!」
「とりあえず、また一旦隠れましょう。そしてそこで残りの爆弾――BIM、でしたか――のそれぞれの特性と使い方を教えてください」
そして、渚は一度、ゆびわ星人を見る。爆弾の衝撃で片腕を失っているが、それで却って禍々しさが増し、更なる迫力を振り撒いている――怪物。
たった一発で、一撃で、一振りで、五人もの人間を容易く吹き飛ばす敵――化け物。
ヒュッと、息を呑んで恐怖に呑まれかける。
だが、それでもグッと腹に力を入れ――力強く、地面を蹴った。
キュイイン! というスーツの駆動音を鳴らしながら、渚は回想する。
――それでもあなたは、私のようになりたいと望みますか?
(――こんなところで、僕は死ねないッ!)
渚は猛スピードで移動しながら、手を引く中年男に振り向き、問い掛ける。
「僕は、潮田渚と言います。……あなたのお名前は?」
中年男は、その渚の笑みを見て、一瞬表情を引き攣らせると――覚悟を決めたように頷き、答えた。
「――ワシは、
+++
「……ただいま」
神崎有希子は、小さな声でそう呟きながら、玄関の扉を開けて自家へと帰宅した。
「…………」
神崎のただいまに対する、返答はない。鍵を開けたのは神崎自身なので、誰も――父親も、まだ帰っていないことは玄関を開けるまでもなく分かっていたが、神崎はまるで何かを待つように――期待するように、あるいは恐れるように、俯きながら棒立ちしていたが、やがてゆっくりと靴を脱ぎ出し、そのままリビングへと向かう。
そして当然ながら、その部屋にも誰もいない。この家には、誰もいない。
弁護士という、社会的地位が高く、そしてそれに見合う高収入を得ている父親の財産によって購入した――自身の“箔”を付ける為という意味も大きいのだろうが――この高級住宅の広々としたリビングは、徐々に日が落ちてきたことで下がってきた気温以上に、寒々しい空気に満たされているようだった。一つ一つの家具が目を見張るような高級で高価な品々だが、それらにはほとんど傷がない。リビングという本来最も家族が過ごす場所であるにも関わらず人の温かみがないこの空間は、まるで博物館のような居心地の悪さだった。
気が置けない。息が詰まる。――この家に、人心地つけるような場所など、どこにもないのだが。
あるのは、自室にあるアミュスフィアによって旅立つ――向こう側だけだ。
逃避先で、逃亡先の――仮想世界だけだ。
「…………」
神崎は電灯すら点けずにその空間をじっと見据えていたが、それ故か、固定電話の留守電メッセージを知らせるランプが点灯していることに気付いた。
ゆっくりとした足取りで近づき、数秒間逡巡したのちに、そのメッセージを再生する。
一分――否、三十秒に満たないそのメッセージは、やはり父親からのものだった。
内容は、要約すれば、たった二つの事柄。
今日は遅くなるという知らせと――余計なことはするな、ということ。
この空間のように寒々しく、乾ききったそのメッセージは、父親の自分に対する失望と――そして諦念が込められているようだった。
昔は、このメッセージの最後に――頑張れ、と、言ってくれていたような、気がする。
かつての自分にはそれが重荷で、その重さからの解放を、何よりも夢見る少女だったように思う。
だが、その重圧からの解放は、決して神崎の心を幸福感で満たしたりはしなかった。
待っていたのは、どうしようもない虚無感と――自身への、失望だけ。
諦念、だけ。
「………」
神崎は、そして逃げるように、逃亡し、逃避した。
現実から。父親から。そして、自分から。
その父親からのメッセージから、目を背け、背を向けて――自室へと向かった。
+++
自室へと――自らを守る檻のような空間へと帰還を果たした神崎は、制服を脱ぐことすらせずに、そのまま背中からベッドへと身を沈めた。
そして、ただ、天井を見上げる。自らを守る檻の天井を。限られた自分の居場所の限界を明確に示す境界を。
「………」
なんとなく、その天井にすら責められているような気がした神崎は、それすらからも逃げるように、そっと視線を落とし――アミュスフィアを見つめる。
アミュスフィア。自分を逃がしてくれる――このどうしようもなく終わってしまった、詰んでしまった、投了の、チェックメイトの状況から、現実から逃げしてくれて、仮想世界へと連れて行ってくれる、その
「………」
また、GGOへと潜ろうか。神崎有希子から――有鬼子へと変わり、逃亡し、どこかのモンスターでもその手で殺せば、自分を追い詰めている漠然とした何かを、どうしようもなく強大で逃れられない何かを、殺したような気になれるから。
逃れられて――解放されたような気になって、逃げられるから。
現実から、逃避できるから。
神崎は立ち上がり、ベッド横に置いてあるそれを手に取ろうと――
『“殺した”ことなんて、ないくせに』
そう、見下す声が、聞こえた――気がした。
「…………」
神崎の伸ばした手が、逃げようとした手が、ピタリと止まる。
殺したことがない――殺せた、試しがない。
殺せたことなど、一度もなかった。
殺したことなんて、ないくせに。
まるで、私が言われているみたいだった――そう、神崎は思った。
「…………」
その嘲笑した声は、今朝の登校時、同じE組である渚が――同じように敗北者で、同じ穴の狢であるはずの潮田渚が、明確に自分達よりも格上の存在で、膝を折って屈服するべき
強者を押し退けた――弱者の言葉だった。
逃げずに、退かせた、彼の言葉だった。
「………………」
神崎の手は、アミュスフィアではなく――クローゼットへと、伸ばされた。
そして――
+++
再び、誰もいない、寒々しいリビング。
玄関へと向かっていた神崎の足は、なぜかその場所へと赴き、アミュスフィアではなくクローゼットを選択した神崎の手は、なぜかその扉を開けさせた。
案の定、その場所には、誰もいない。
かつて父親に捨てるように命じられたそれら――派手な色のウィッグに、肩や太腿を露出した服。
捨てたはずの服を、棄てたはずの過去を身に纏った神崎を、止める者は、止めてくれる人は――親は、そこにはやはりいなかった。誰もいなかった。
「………」
その空間があまりにも冷たくて――あまりにも、自分に無関心なように冷たくて、神崎は縋るようにテレビを点けた。
人の声が聞きたかったのか、まるで時間を稼ぐかのように、何かを待つように点けたテレビは、ちょうどワイドショーを放送していた。
『見てください! この大勢の人! 今日、この池袋では、あの人気映画の大ヒット御礼イベントが行われ、な、なな、なんと! 来春公開のその続編映画の冒頭シーンを、今日、この場所で! 池袋駅前で撮影することなっており、そのエキストラをその場で現地募集する試みがなされることが先日公式ホームページで発表されました! その為か、今この池袋駅前は、たくさんの人達で溢れかえっております! 更にサンライト六十においてはあの人気アニメのイベントも控えており、様々な――』
テレビの向こう側の世界は、この寒々しい空間とは大違いの明るさで満ちていた。
神崎は、まるで光に導かれるように、人の温もりを求めるように、テレビを消し、そして玄関へと向かった。
(……私、また逃げてる。……ううん、もっとひどい。……仮想世界からも逃げて……元に戻っただけだ)
同じ過ちを、繰り返しているだけだ。
成長していない。むしろ退化している。
寂しくて、辛くて、逃げて、逃げて、逃げて。
「……私は、弱いよ……渚君」
私には――――殺せないよ。
そうして神崎有希子は、まるで泣いているような表情で、どんよりと曇った空を見上げてながら、現実の世界での更なる逃亡を図った。
誰に見送られることも、引き留められることもなく――ひとりぼっちで。
と、いうわけで、平さん参戦。
BTOOOM!はこの世界ではVRMMOという設定です。
次回は、あやせサイドです。