比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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今回は渚と和人の日常の戦争で一話です。


潮田渚は進路を得て、桐ケ谷和人は誓いを刻む。

 音が見えた。衝撃が見えた。渚には――――その色が見えた。

 

 その波は、全てを塗り替えて、全てを侵食しながら、渚の視界を駆け抜けた。

 

『死神』の打ち合わせた掌を起点に、渚を庇うように目の前に立つ『死神』が放った音色が、渚の世界を壊し、新たな世界を創り出した。

 

 渚には、それがどういったものなのかは分からないだろう。

 

 何をしたのかも分からず、何が起こったのかも分からず、どうしてグリップという殺し屋が顎を殴られたかのように膝を折って崩れていくのかも、全く分からず、訳が分からないだろう。

 

 

 だが、この時、渚は――――魅了された。

 

 

 たった一発で、あれだけの殺意を放つ強者を、一部の無駄なく無力化した、その手技に。

 

 

『死神』の技術(スキル)に、美しすぎる暗殺に、渚の心は奪われた。

 

 かつての『死神』の弟子で――今は「二代目」と呼ばれる、彼と同じように。

 

 

 今、この瞬間、渚の「進路」は、確定した。

 

 

 一人の『死神』によって誘われ、引きずり込まれていく。

 

 

 世界の、裏側へ。

 

 

 鮮血と、裏切りと、陰謀と、策謀と、淫欲と、富と、名声と、力と、恐怖と、死と、薬と、酒と、悪と、独り善がりな正義が渦巻き、「才能」が物を言う――――殺しの世界へ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ガクリと『死神』の前で跪くように気絶(スタン)するグリップにまるで介抱するように近づいて、彼は周りを行く人達に対して「どうやら具合が悪いようです」と、その笑顔と声色で安心させて、注目が集まらないようにする。

 

 それにより、二人の戦いの余波の殺気を感じて警戒心を僅かに持っていた人達も、安心したように去っていった。

 

『死神』は肩を貸すようなそぶりでグリップを抱え上げながら、瞬時に盗んだ携帯で、迷わず番号を手打ちし、電話を掛ける。

 

「どうも、狙撃手(スナイパー)さん。私です」

『――どうして俺の番号が………って、「死神」相手に野暮ってもんか』

「話が早くて助かります。早速ですが、この方を引き取ってもらえませんか?」

『ほう、自分を狙った殺し屋を見逃すのか?』

「まぁ殺しても良いのですが、この国では死体を処理するのも面倒なので。なので、取引をしましょう」

『……取引だと?』

「ええ、ここでこの方を回収してくれるのであれば、貴方達に柳沢の手から確実に逃れられるルートを用意しましょう。その間、貴方達は私を殺す新しい計画(プラン)を練っているとでも言って、柳沢が新しい殺し屋を雇うのを妨げていただいたら助かります」

『……もし、それを断ったら?』

「仕方がありません。面倒ですが、このままこの方を殺して、順番にあなた達を殺していきます。この取引は、柳沢が雇う次の殺し屋にお願いしましょう」

『……はっ、了解だ。殺し屋としての実績に傷がついて信用を失うのはこの業界としては痛いが、背に腹は代えられねぇ――』

 

――『死神』に噛みついた報いと思って、甘んじて受けるさ。

 

 そう言って嘆くガストロに、『死神』はふっと笑いかけるようにして言った。

 

「――大丈夫ですよ。そういったあれやこれは、もう幾ばくも無い間に、全てがリセットされますから」

 

『――はぁ?』と返したガストロに、『死神』は「それでは、今から指定する公園に回収に来てください」と話をすり替えるようにして誤魔化した。

 

 そして、電話を切った『死神』は、渚に向き直って、言う。

 

「――すいません。怖い目に遭わせてしまいましたね。それでは――「あ、あのっ!」…………どうしました、渚君?」

 

 と、返した死神だったが、半ば、この後の渚の台詞は既に予想出来ていた。

 

 なぜなら、その時の渚の表情が――

 

 

――『あ、あの! 僕を! あなたの弟子にしてください!』

 

「僕を、あなたのようにしてくれませんか?」

 

 

 

――『なりたいんです! あなたのように!』

 

「僕は……なりたい! あなたのように!」

 

 

 

――『「たとえ、死ぬほど努力しても!!」』

 

 

 

 なぜなら、その時の渚の表情が――

 

 

――かつての誰かに、そっくりだったから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それから、しばらくして。

 辺り一帯が暗くなり、公園の街灯が白い明かりを灯す頃。

 

 渚と『死神』は、とある公園の中心にある噴水の縁に並んで腰かけていた。

 

 つい先程、ガストロが気絶していたグリップ――クラップスタナーによる気絶(スタン)が解けそうになる度に『死神』の手が触手のようにうなり再度気絶させていた――を回収して、渚と『死神』は二人きりになったところだった。

 

 この公園は駅前から少し歩いたところにある寂れた公園なので、噴水といってもその水は苔だらけで、長い間手入れが行われていないことが分かる。異臭はしないが、決して人気のスポットというわけではなく、虫が集っている街灯が照らす圏内では、渚と『死神』しか存在していなかった。

 

「――君には、才能がある。私は先程、そう言いました」

 

『死神』は、渚の方を見ず、そう言った。

 

 渚もその言葉を、ただ前を見ながら受け取る。

 

「先程の戦いを見て、私と彼等の会話を聞いて、薄々理解出来ているかもしれませんが――」

 

 そして、『死神』は渚の方を向く。渚も、ゆっくりと『死神』の方を向き、目が合った、その瞬間――

 

 

「――私は……『死神』と呼ばれる殺し屋です」

 

 

 そして、尚、渚の瞳を、あの笑みを浮かべながら真っ直ぐに見据え、こう言った。

 

 

「私のようになるということは――殺し屋になるということです」

 

 

――それでもあなたは、私のようになりたいと望みますか?

 

 

『死神』は、責めるでも、問い詰めるでもなく、優しく、穏やかな笑みと言葉で――突き放す。

 渚を真っ直ぐに見据えながら――何も「見ていない」瞳で。

 

『死神』は、もう二度と、弟子は取らないと決めていた。

 未だ彼には、なぜ「二代目」が裏切ったのか、自分に足らなかったものは何なのか、その答えが出せていないからだ。

 

 自分の思い通りに動かない道具(じぶん)はいらない。不確定要素は『死神(じぶん)』にとって不利益しか生まない。

 

「………………」

 

 だが、『死神』は、渚の紺碧の瞳に引き込まれそうになっていた。

 相手を取り込むのではなく、あろうことか『死神』である自分が、渚に――潮田渚という、目の前の少年に。

 

 この少年は、まさしく自分が求めていた逸材かもしれない。

 この少年に、暗殺の才能があることは、揺るぎない。『死神』は、そのことに関しては、一目見た瞬間に見抜いて、気付いていた。

 

 そして、もう一つ。この少年は大きな才能を持っている。

 それは『死神』にとってあまりに都合が良く、求めているもので――あの「二代目」にはなかった才能。

 

『死神』の笑みが、一瞬揺れた。己が歓喜で崩れそうになった。

 

『死神』は、正体不明のその欲求に戸惑っていた。

 

 一体、何なのだろう。この湧き起こる感情は。

 

 だが『死神』は、それを一切表に出さず、張り付けた仮面のような笑みのまま、渚の答えを待つ。

 

 渚は、その澄んだ瞳で、清流の水のように美しい瞳で、『死神』を真っ直ぐに見据えながら、彼の問いに解答すべく口を開いた。

 

「僕は――――」

 

 

 

 

 

 ビィィィィン、と。

 

 空から一筋の光が照射された。

 

 

「――――ッ!????」

 

 

 渚は突然のそれに混乱して叫ぼうとするも、頭のてっぺんに照射されたそれは、既に渚の視界を奪おうとしていた。

 

 最後に目に焼き付いたのは、一瞬驚愕の表情を浮かべるも、すぐに不敵な笑みに変えた――『死神』の顔。

 

「……ほう」

 

 渚は再び叫ぼうとする。それは、この正体不明の怪奇現象にではなく、目の前の、やっと出会えた存在との、別離への絶叫だった。

 

(――嫌だ! このまま別れたくない!!)

 

 この人と一緒にいたい。この人のようになりたい。

 

 

――この人から、教わりたい!!

 

 

 その時『死神』が、その触手のような美しい手を、渚の頬に添えようとする――だが、ほんの僅か、隙間を空けている為に、渚はその手の感触も、温度も何も感じ取れない。

 

「大丈夫。また会えますよ」

 

 その言葉を最後に、渚の視界は完全に消え、『死神』は手を離して、その現象を最後まで見届けた。

 潮田渚という少年が、謎の電子光線によって侵食され――――消失し、“転送”される光景を、微笑みと共に見送った。

 

 そして、『死神』はベンチから立ち上がり、興味深そうに呟く。

 

「………なるほど。“彼”が。………やはり、この国に来て正解でした」

 

――面白い夜になりそうです。

 

 そう言って『死神』は、少し先の茂みに目を遣り、そのままそこから背を向けるようにしてその公園を後にした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――

 

 

「っっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」

 

 

 その茂みでは、ポロポロと涙を溢れさせ、ガタガタガタと激しく震え、ガチガチガチガチと激しく歯の根を鳴らし、その細い腕で小柄な己の体を強く強く抱き締めている少女がいた。

 

 緑髪の少女――茅野カエデは、己が見た光景を未だに信じられなかった。

 

 激しく後悔し、必死に探して、どうにか見つけた、その少年。

 だが、その少年は見知らぬ大人の男と話していて、とっさに茂みの中に隠れて、その様子を見守った。

 

(……とりあえず、あの男の人との会話が終わったら声を掛けよう。そして、今度こそ、何か言葉を届けなくちゃ。…………でも、一体、何て……)

 

 一発で、たった一言で渚を救えるような、そんな魔法のような、ご都合主義のような言葉は、物語のヒーローやヒロインならばきっと意識すらせずにスラスラとその場面になったら出てくるような言葉は、この期に及んでもさっぱり思いつかない。

 

 茂みの中で、茅野はうんうんと唸ってその言葉を必死で考えていると――

 

 

 

 突然、何処からともなく、電子音が響いた。

 

 

 

 その音によって思考は中断し、茅野は茂みから顔を覗かせると――

 

 すると、そこには―――――そこでは――――

 

 

「ッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!」

 

 

 茅野は、己が見たものを確認するように、その非現実的な光景を、己が言葉で再確認するかのように、ゆっくりと、吐き出すように、呟く。

 

 

「な…………ぎ、さ……が…………なぎさ………が――」

 

 

 

 

 

――消え……た?

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 和人は、ただ明日奈を出来得る限り銃弾から遠ざける為、己の体全体を使って明日奈の体を地面に押し付けるしかなかった。

 

 暗い倉庫の中、その体勢は色々と誤解を招きそうで、平和な日常物語なら、この場面を突然倉庫に訪れた別の女の子が発見して一悶着あって笑いどころになるかもしれないが。

 そんな微笑ましくも賑やかなシーンとなるには、彼等の頭上を飛び交う銃弾はあまりにも異質だった。

 

 あまりにも非日常で、あまりにも殺伐で恐ろしくて――――あまりにも戦場だった。

 

 あまりにも、戦争だった。

 

「……き、キリトくん……」

 

 お互いの吐息がかかるような距離で、明日奈は和人を見上げる。見つめる。

 その瞳は涙で潤んでいて、頬は紅潮し、恋人の名を呼ぶその声は、縋るように湿っていた。

 

 和人は、そんな明日奈を見て、そんな明日奈の瞳を受けて、辛そうに目を細める。

 

 もう二度と、彼女にこんな表情を、こんな思いをさせないと誓ったはずなのに。

 

 一体、何を間違えたのだろう。何が足りなかったのだろう。何が、悪かったのだろうか。

 

(……俺は……また、死ぬのか……? ……今度は、俺だけじゃない……明日奈も、一緒に――)

 

 いや、違う。自分と、明日奈は、絶対に違う。

 

 自分がここで殺されるのは、ある種、きっと必然だった。

 

 昨日のあの時、あの場面で氷川を殺していれば、きっとこんなことにはならなかった。

 それが無理でも、昨日、あんなことがあったのだから、呑気に学校になど行ったりせず、例え明日奈や直葉に訝しがられても、すぐに行動を起こすべきだった。

 

 例えば、幕張。八幡や渚達がどこにいるのかは分からなくても、自分達は昨日、間違いなく幕張にいたのだ。そこから手掛かりを探すことも出来たのかもしれない。

 それが無理だったとしても――そこで何も見つけられなかったとしても、何か身を守る術を用意しておくべきだった。

 

 八幡は、昨日の氷川達の乱入は、イレギュラーだったと言っていた。

 デスゲームでの、イレギュラー。それがどれほど恐ろしく、とんでもない悲劇に繋がりかねない緊急事態であることは、自分は誰よりも知っていたはずなのに。

 

 それだけじゃない。思えば自分は、あのガンツミッションで、新たに巻き込まれたデスゲームに対して、あまりにも動かな過ぎた。

 

 自分よりも状況に詳しい八幡(プレイヤー)がいたからか? 強い奴がいたからか? それとも今までと違ってゲームじゃなかったから? キリトではなく桐ケ谷和人だったから?

 

 どれでもいい。どうでもいい。そんなものは、ここに来て言い訳にもなりやしない。

 

 八幡に無理矢理情報を聞き出すという手もあった。そのチャンスはいくらでもあった。

 

 最低限、あの部屋のアイテムは持ち帰るべきだった。こんな事態を想定できなくとも、八幡は、あのデスゲームに“次”があると、そう明言していたのだ。その時、あれらのアイテムの使い方を知っているだけと、使いこなしているのでは、次回の生存確率はきっと天と地の差だ。

 

 そんなことにさえ、自分は思い至らなかった。

 

 デスゲームに対して、生き残る為に、最善を尽くさなかった。

 

 アインクラッドにいた頃の自分なら――『キリト』なら、そんなことはきっと在り得なかった。

 あのはじまりの日――唯一出来た友人さえ見捨てて、生きるための“効率”を選んだ『キリト』なら。

 

 全ての行動原理が“死なないため”。死の危険性(リスク)を避け、常に安全を得る為に――“生”を確保する為に行動する。行動し続けることが当たり前だった――習性だった、あの頃の自分なら――『キリト』なら、こんなことは絶対に在り得なかった。

 

 そして自分は、そうであるべきだった。そう戻るべきだった。

 

『キリト』を目指すというのなら、きっとそこから始めるべきだった。

 

 その結果が、これだ。

 

 生きるために人事を尽くさなかった結果が、これだ。

 天命は、待つだけの者には、決して訪れない。

 

 桐ケ谷和人は死亡する。呆気なく絶命する。三度目の死を、三度目の正直――正真正銘の死を迎える。

 

 

 愛する人を――――結城明日奈を、道連れにして。

 

 

「―――――ッッッッッ!!!!」

 

 出来得ることなら叫び散らしたかった。

 

 己の無力を――己の愚かさを呪いたかった。

 

 桐ケ谷和人を、呪い殺したかった。

 

(何を……一体、何をしているんだ、俺は……ッッ)

 

 これだけは駄目だ。これだけは、絶対に駄目だったはずだ。決して許してはならなかったはずだ。

 

 自分一人が死ぬのなら――桐ケ谷和人という愚か者が死ぬなら、それは自業自得だ。

 

 けれど、明日奈は関係ない。彼女は、絶対に死んではいけないはずだ。

 

 もう二度と――彼女を失わないと、心に誓った。

 

 けれど――――――けれど。

 

 

 ドガッッ!!! と、何かが崩壊する音が聞こえる。

 銃弾の雨あられを受けて、この倉庫そのものが倒壊しようとしているのかもしれない。

 

 最早、自分達に残された道は、銃弾を受けて死ぬか――屋根に押し潰されて死ぬか。

 

 ここで和人一人が建物の外に飛び出そうとしても、何も変わらない。運命は変わらない。身を少し持ち上げただけでも銃弾は体を貫通し、何も起こせず――何一つ出来ずに、為す術もなく死亡するだろう。

 

 そして、ちらっと後ろを見ても、扉は見事に変形していて、自分の貧弱な腕力ではきっと開けられない。見る範囲でこの倉庫には、足元と天井近くに換気用の窓があるだけで、和人が出られるような場所はない。桐ケ谷和人のリハビリ明けの細腕では、木造とはいえ壁を壊すことなども出来ない――そして、和人が出られないということは、明日奈も出られないということであり、彼女だけを逃がすということも、おそらくは不可能だった。

 

 命乞いをするにしても、降参するにしても、銃声によってその叫びも掻き消されてしまうだろう。

 

 完全に――詰んでいた。

 

(……出て来いっていうなら、出口くらい用意してくれよッ!)

 

 だが、ここに逃げ込んだのは自分達だし、扉を歪めたのは氷川の部下達だ。今更そんな恨み言を氷川に向かって呟いてもどうにもならないことは、和人も理解していた。

 

 和人が最後に望みを託したのは、これだけ派手に撃ち鳴らしている銃声を誰かが聞きつけて、警察なりなんなりの助けを呼んでくれるのを、このままの体勢のまま、跳弾が当たらないことを祈り続けながら待つというものだった――――が。

 

 それも、この建物自体が倒壊するという可能性が出てきた以上――――潰えた、と言ってよかった。

 

 ミシッ――と、何かが軋む音。

 

 銃弾の他にも、天井からパラパラと土煙が降り注いできた。

 

 もう、時間がない。

 

「…………キリトくん」

 

 絶望に暮れる和人の頬に、そっと、愛する人の手が添えられる。

 

 先程までの恐怖に染まっていた顔はそこにはなく、明日奈の表情は――最愛の男性への慈愛で満ちていた。

 

 彼女は、既にその運命を受け入れていた。

 

 その上で、彼女は――――笑ってみせた。

 

 幸せそうに、微笑んでみせた。

 

(…………ああ、俺は、また――)

 

 何度、彼女に救われたことだろう。この強い女性に、自分は何度、救われ続けてきたことだろう。

 

「――ゴメン。…………俺は、また、君を――」

「――ううん。わたしこそ、ゴメンね。……君をずっと、永遠に守り続けるって約束……また、守れなかった」

 

 和人は、自分の頬に添えられた明日奈の手を取り――そっと、彼女の胸の上へ。

 

 そして、その手を名残惜しそうに離し――彼女の頭を抱えるように、抱き締めた。

 

「……キリト、くん?」

「………それでも、もう一つの約束だけは――絶対に守る」

 

 和人は、明日奈の顔を、自分の胸に力強く押し付けて――――絶対に、離さないと、手放さないと、抱き締めて。

 

 

「俺の命は君のものだ、アスナ。だから君のために使う」

 

 

――最後の一瞬まで、一緒にいよう

 

 

 明日奈は、その言葉を聞いて、ゆっくりと目を閉じて――――一筋の、涙を流した。

 

 

 

 そして、倉庫が、倒壊する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ドゴォォンッッ!! と、限界を迎えた倉庫は、屋根が中に沈み込むようにして壊れた。

 

「うおっ! やばっ、ぶっ壊れちまいましたよ!」

「どうします? 警察が来る前に逃げますか。正直、いつ来てもおかしくないと思うんですけど」

「……そうだな。まぁ、パトカーが来てからでもいいだろう。もう夜だ。十分に逃げ切れる」

 

 氷川は呆気なく死んだ和人に対し、露骨に興味を失ったかのように投げやりに答えていた。

 

(……もう少し面白い奴だと思ったんだが。……やっぱ“夜”を待つべきだったか?)

「あ、氷川さん! あれ!」

 

 土煙がもうもうと立ち込める中――倉庫の中。

 

 一筋の光が、天から降り注ぐように伸びていた。

 

(……死んだのか? それともギリギリで呼ばれたのか? ――それとも、女の方なのか……)

 

 氷川は表情をにやぁという満面の笑みに変え――踵を返し、倉庫に背を向ける。

 

「帰るぞ」

「え、いいんですか?」

「ああ。死んでいるにしろ、生きているにしろ、あの光が現われたってことは、どっかで“狩り”が始まるってことだ」

 

 だとすれば、こんな場所にはもう用はない。

 

 和人が生きているのか、それとも死んでいるのか――――はたまた、死んで、生き返っているのか。

 

 それは、狩り場で――――戦場で、この目で確かめればいい。

 

「――あまり俺を、がっかりさせてくれるなよ」

 

 氷川はそう呟き、遠くから響いてきたパトカーのサイレンの音をBGMに、日常(おもて)の戦場を後にし――――より苛烈で、より残酷な、本番へ。

 

 (うら)の世界の戦場へと――自分達の住処へと、溶け込んでいった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 パトカーの音が、今更ながらに鳴り響く。

 

 ポツン、ポツンと、雨が降ってきた。

 今日は終日どんよりと曇っていたが、ついに降り出したらしい。

 

 そして、本来屋内であるはずの倉庫の中に、こうして雨が侵入しているということは、その屋根が役割を放棄し――ただの瓦礫群と成り果て、倒壊したことを示していた。

 

 ポタッ、ポタッと、滴り落ちる。

 気を失っている結城明日奈の美しい頬に落ちたそれは、だが――雨ではなかった。

 

 その身に幾つもの瓦礫を受け、頭部に思わず目を背けたくなるような傷を負いながらも。

 

 最後まで――最期まで、決して明日奈から退かず、その身で愛する人を守り続けた男――

 

 

――桐ケ谷和人の、命の血だった。

 

 

「……アスナ」

 

 和人は、無傷の明日奈を見て、微笑む。

 

 もはや意識が朦朧とし、彼女の頬に落ちた血を拭おうとしても――ピクリともその腕は動かなかった。

 

 自分が死ぬのか、もう死んでいるのかも分からない。

 

 ただ、どこからか辛うじて届くパトカーのサイレンの音と共に、ビィィィンという、いつかどこかで聞いたことがあるような音が紛れているような、気がした。

 

「アスナ――――」

 

 和人は、呟いているのか、それとも声になっていないのか、それすらも判別できずに、ただ――――誓う。

 

 既に何度も諦めそうになってしまったけれど、その度に再度、己の心に強く、深く刻み直してきた、そんな薄っぺらい騎士の――否、剣士の誓いだけれど、それでも何度でも、何度でも何度でも、何度でも何度でも何度でも、誓う。

 

 この世で最も遵守すべき誓いを、例え肉体は作り直されても、消えない魂へと刻み込んで。

 

 

 

「――――必ず、君の元へ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「おい、大丈夫か!」

「……こりゃあ、ひでぇな」

 

 倒壊した倉庫内に、二人の男が突入した。

 

 二人ともスーツ姿で、一人ガタイがよく目つきが鋭い男、もう一人は無精髭に生気のない瞳の男。

 

「――警察だ。もう大丈夫だ。救急車はすぐに来る。どこが一番いた――」

「………………」

 

 目つきが鋭い男――烏間は、何と名乗るべきか一瞬迷ったが、この場で彼女を最も安心させる言葉は「警察」だろうと判断し、現時点(いま)の立場を言い表すならそう名乗っても問題ないだろうと考え、そう名乗った。そして彼女の怪我の具合を診ようと――救急車が来るまでの応急処置程度なら自衛隊にいた烏間は熟知している――彼女の体を見渡すと、ほとんど目立った外傷はなかった。

 

 同じく、その状況の不自然さに気付いた生気のない男――笹塚も思わず目を細める。

 

 ぽかりと、彼女がいた周囲にだけ、瓦礫が少なかった。

 

 まるで何かに――守られたかのように。

 

「………ぅ……ん」

「……目が覚めたか」

「――ああ、石垣。とりあえず、他の人員は周りの現場保存と検証に充てろ。それからそのプラモは後で壊すからな」

 

 笹塚の部下の石垣が悲鳴と共にどこかへと駆けだす。その間、烏間は少女に対しケアを行っていた。

 

「大丈夫か? 眩暈などはないか? ……見たところ目立った外傷はないが、それでも少しでも違和感があるのなら無理をするな」

「………………くん、は?」

「……………?」

 

 烏間の問いかけが届いているのか、それともいないのか、その少女――明日奈は呆然と、雨を降らし始めた真っ黒な空を見上げ、なくなった天井から覗く空に向かって、ゆっくりと、手を伸ばしながら呟いた。

 

 

 

 

 

「……………キリトくんは――――どこ?」

 




次回、八幡vs黒金です。

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