比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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共に戦い抜いた、敗北者達の一幕。


少女は、聖戦を戦い抜いた同志に包まれ、その初恋を卒業する。

 

 今日は奉仕部を休みにし、雪ノ下を真っ直ぐに自宅に送った後、俺はすぐさま一度帰宅し、ガンツスーツを着て、その上にパーカーとスウェットを纏い、家に書置きを残して外に出た。

 こんな拙いカモフラージュをするよりは、誰も見ていないところでさっさと透明化を発動しちまえばいいんだろうが……やはり、どうしても日常においてガンツ装備を使うのは躊躇いがある。こんな風に常に携帯しておいて今更だろうが、ギリギリまで使わないに越したことはないと思ってしまうのだ。

 

 それは、情報漏洩の回避というよりは、やはり、下らないトラウマに近いものなのだろうが。

 俺のせいで、俺がガンツに関わってるせいで、壊してしまった日常世界への、どうしようもなく自己満足な罪悪感の、表れなんだろうが。

 

 それに、こんなポーズだけの贖罪のようなものを見せていても、きっといざという時は、何の躊躇いもなく俺は引き金を引く。

 こんな風に、表面だけを繕っただけで、中身はしっかりと完全武装しているのが良い証拠だ。

 

 ったく、本当に腐りきっている。何もかも。

 

「…………」

 

 俺はXガンなど必要最小限のもののみが入った軽い鞄を肩にかけ直し、俯きながら目的地へと向かう。

 

 本当は大志が小町に手を出さないか付きっ切りで見張りたいところだが、大志が俺を誘き寄せる囮である可能性は否めない。

 吸血鬼の情報を聞かれるだけ答えたり、小町に手を出さないと約束したり、あまりにも俺に対して都合が良すぎる存在だ、あいつは。

 

 捻くれていると言われるかもしれないが、これはもう俺の習性のようなものだ。物事をネガティブに――批判的に考えるのは。だが、事が事なだけに裏を考えすぎて悪いということはないだろう。

 

 そういう意味では、俺の考えが足りない――もしくは考えすぎてる場合、小町が大志に殺されるということになり、そうなった場合は俺の負けなのだが――惨敗もいいところなのだが。だが、それよりも、小町を生かしておいて俺を引き寄せる囮に使う方が、奴等にとっては有効的だと思える。……これは、奴等が小町を殺す理由はない、と、俺が思いたいが故の、情けない俺らしくもない希望論な考えかもしれないが。俺を誘き寄せるということなら、まさしく小町を殺すことで、俺を挑発するという使い道もある。

 

 しかし、どちらにせよ、小町を生かすにせよ殺すにせよ、俺に対する囮として使うのなら――奴等が俺を一刻も早く排除しようとするのなら、しているのなら、昼休みに大志は俺の誘いに応じる必要なんてなかったはずだ。

 

 俺が誘いをかけたのは朝の登校時だ。

 俺をさっさと処分したいのであれば、昼までの間に他の仲間と連絡を取り、屋上で待機させておけばよかったのだから。

 

 だが、結果は見ての通りだ。俺はまだ、無様にこうしてのうのうと生き延びている。

 ここから考えられるのは、奴等は俺単体にそこまで価値を見出していないということ。

 

 そして、俺に対して価値を見出していなければ――小町に関しても、奴等は、少なくとも大志を除いた奴等は、何の価値も見出していないだろう。

 

 そうならば、今は最大のチャンスだ。

 

 こっちから、打って出る好機だ。

 

 ……大志に、関しては――

 

 

『……俺は、まだ、“こっち側”でいたいっす。……だから、お兄さん――』

 

 

『――俺が、完全にあっち側に行ったら……お兄さんが、殺してくれないっすか?』

 

 

「……………」

 

 ……今、すぐに、小町に手を出すということはしないだろう。

 

 組織の上からの命令というのならばまだしも、俺に対してそこまで価値を――脅威を見出していない現状では、俺を無闇矢鱈に刺激するようなことはしないはずだ。ましてや、さっきの今で。

 

 だから、動くなら今だ。

 

 俺は今、大志が言っていた例のセミナーの教室に向かっている。

 大志の情報が確かなら、奴等の息がかかった――根城の一つ。

 

 そこに、今から、俺は単独で乗り込む。

 

 ガンツミッションに関係なく、俺が、プライベートで仕掛ける星人との戦争。

 

 ……確かにリスクは高い。重傷を負っても転送時に回復したりしないし、武器もXガンとガンツスーツだけだ。敵もどれだけいるか分からない。そして点数も稼げない――一円にもならない労働だ。

 

 だが、奴等は――吸血鬼星人は、一刻も早く処理しなくちゃならない。

 コイツ等は、今までの星人とは危険度が段違いだ。

 

 完璧に人間社会に溶け込む擬態能力。高度な知能。巨大な組織。

 そして、戦闘能力。あの金髪は桐ケ谷と互角に渡り合っていたし、あのデカいグラサンは千手クラスの化け物だと感じた。

 

 あんなのが、あと何体いるのかも分からない。

 

 そして、何体増えるのかも……。

 

 ナノマシーンウイルス。

 大志の話が本当ならば、元凶のそれをどうにか出来ないことには、根本的な解決にはならないのかもしれない――その辺を探る為にも、まずは奴等についての正確な情報収集が必要だ。

 

 今回の潜入ミッションでは、奴等に対して攻撃を行うことが目的じゃない。

 奴等の息のかかった根城を探り、情報を得ることが最優先だ。

 

 生態や、具体的な組織の形態、規模。そしていずれは本拠地。弱点なんかも見つかったら最高だ。

 

 ……ナノマシーンウイルスか。一応マスクはしてきたけどこんなので防げるのか?

 っていうか今更だけど、初夏のこの時期にダボダボのパーカーとスウェットにマスク姿の目が濁りきった男ってかなり怪しいよね? ヤバい。吸血鬼とかガンツとかいう前にお巡りさんに職質されちゃうかも。……いや、冗談じゃねぇよ、荷物検査とかボディチェックとかされたら終わりだよ。頭バーンだよ。くっ、まさかここにきて国家権力が敵に回るなんてっ! いつも通りだね!

 

 なんて恐ろしい可能性(みらい)を考えていて、比喩抜きで恐怖で体が震え出した時――

 

「――ん?」

 

 目の前に、天使が降臨していた。

 

「…………………………………」

「…………………………………」

 

 えっと、こちらも比喩抜きで、例えとかじゃなくて、戸塚でもなくて、言葉通りの意味で天使がいるんだ。目の前に。

 くりっとした瞳で、おかっぱ頭。おそらくは小学校低学年くらいの子が――真っ白なゴスロリ服を着て、背中に羽根を生やして、俺を見上げているんだ。

 

 ………………え? 何? ついにお迎えが来ちゃったの? ネロ的なアレなの? もう疲れたよパトラッシュなソレなの? いや、こんな可愛らしい天使に連れていかれるのならそれは本も――

 

「あの、おにぃちゃん?」

 

 ………………………………………………グァハァァァァァァアア!!!!!

 

 な、なんだ、今の破壊力は………。これはまさか、ガンツが作り出した新しい天使型兵器なのか……っ!?

 

 自他ともに認めるシスコンの俺が、一瞬小町以外の存在を妹と呼び愛でたくなってしまったぞ……っ。いや、シスコンだからこそか……ッ。くっ、なんて恐ろしいものを作りやがる。これに落ちない千葉の兄貴なんているのかっ!

 

 落ち着け……動揺を表に出すな……今の俺のファッションで息を荒げたりなんてしたら110番間違いなしだ。冗談抜きで俺の頭が吹っ飛ぶ。こんな天使にそんなトラウマを植え付けるわけにはいかないっ(使命感)!

 

 そんな俺の葛藤を余所に、相変わらずくりっとした大きな瞳をパチクリさせて可愛らしく首を傾げた天使は、さらに俺にこう語り掛けた。

 

「おにぃちゃんは、じゃあくなまおうさまなのです?」

 

 ………………………んん?

 

「そのくらきしっこくのひとみは、まさしくじゃおうしんが――」

「まてまて、色んな意味で待って」

 

 どうしよう。本当にどうしよう。こんな状況生まれて初めてだ。

 

 ああ、現実を認めよう。俺は、今、天使のコスプレをしたゴスロリ幼女にキラキラとした眼差しで魔王様と呼ばれている。

 

 ……………どんな状況だよっ!!

 

 さすがにここ半年間で色々な修羅場を潜り抜けて突飛な状況に対する適応力は磨き抜かれたと自負する俺だが、この状況は想定外だ。っていうか想定している奴いるのか? そいつ頭おかしいからいますぐレッツホスピタル! 倫太郎先生の診察を受けよう!

 

 俺は小町のお蔭で年下に対する耐性はあるが、ここまで年下だとそれも通じない。っていうか大概の子供は俺の目を見て怖がってぐずりだすまである。そしてママさん連中に鬼のような目で見られるまででワンセットだ。

 

 だが、あろうことがこの幼女はそんな俺の目をいたく気に入ってくれたらしく、それはもうきらっきらの目で見上げてくる。きらっきらだ。俺の腐った眼が浄化されるまである。ま、眩しい! ぐぁぁぁあああ! ってなる。

 

「たまちゃーん! どこ行ったのーー!!」

 

 すると、遠くの方から焦っているような女の子の声が聞こえた。

 

 こちらも幼いが、目の前の幼女と違って舌足らずな感じはないから、おそらくは小学校高学年くらいだろう。

 

「あれ? お姉ちゃん?」

 

 すると天使がくるっと振り返って反応した。この子のお姉ちゃんが探してるのか? ……この子のお姉ちゃんって天使の上位種の大天使とかじゃねぇよな……。

 

「うぅ、どこ行ったのさ、たまちゃん……。あんな恰好で出歩かれると、この辺の友達に見られたら恥ずかしくてもう帰って来れないよぉ」

 

 ですよねー。

 

 曲がり角から姿を現したのは、なるほどお姉ちゃんというだけあって雰囲気はどこか似ているが、着ている服はキャラが薄――いや、ごく普通の、Tシャツにズボンの、予想通り小学校高学年くらいの少女だった。

 

 よかった……。さすがにこんな濃いキャラクターが二人も三人もいたら完全にキャパオーバーだわ。……いくら千葉でもそれは――

 

「完全にルリ姉の影響だよぉ……。着実にルリ姉二世だよぉ……」

「!?」

 

 なん……だと……。

 

 これのさらに師匠的な存在がいるのか!? しかもあの子が姉って呼んでるってことは中学生以上だろ!? 中二病拗らせたってレベルじゃねぇぞ! いったいどれ程の業の者なんだ!? 完全に材木座じゃねぇか!

 

 その時、顔を俯かせてだらーんと両腕を投げ出しながらゾンビのように歩いていた少女が顔を上げ――――ばっちりと、俺と目が合った。

 

「――あ」

「――あ」

「お姉ちゃん♪」

 

 時が止まる俺と少女。そんな俺等とは住んでいる時空が違うとばかりに輝く笑顔で姉に向かって可愛らしく手を振る天使。

 

 俺はこの時、ツッコミに夢中で忘却していた今の状況について、遅まきながら気づいた。

 

 俺は現在、自分で引く程に目が腐りきった双眸で、尚且つこの初夏の時期にダボダボのパーカー(黒)とスウェット(紺)とマスクという風貌。

 

 そんな不審者(おとこ)のすぐ傍に、純白の天使コスプレの愛くるしい(てんし)

 

 さぁ、導き出される結論は!

 

「あ……あ……あ……」

「待て、落ち着け、まずはそのスマホを仕舞うんだ」

 

 少女(姉)は瞳に涙を浮かべながらゆっくりと後ずさっていく。

 

 俺は敵意のないことを示す為に両手を挙げながら説得に当たろうとするが――

 

「お姉ちゃん、このおにぃちゃんはじゃあくなまおうさまなのです♪」

「お願いだからやめてくれこの状況じゃ違う意味にしか聞こえないから」

 

 幼女(妹)がこの張り詰めた修羅場に爆弾を喜々として無自覚に投下する。

 

 その言葉を機に、少女(姉)がダッとダッシュし俺の眼の前まで接近して天使の腕を掴み、21番を背負うアイシールドのランニングバックが如き鋭い光速のカットで、来た道を全力全開全速力で引き返した。

 

「変態だぁぁぁああ!!! ロリコンな魔王さまだぁぁああああ!!!!」

「俺の人生にピリオドを打つようなことを叫びながら逃げるなッ! 待て! 頼むから待って!!」

「ぎゃああああ!!! 魔王様が追いかけてくるぅぅぅ!!! おとぉぉぉぉうさぁぁぁああん!! おとぉぉさん!! まおぉぉぉがぁぁぁくるうううううう!!!!」

 

 久しぶりにガンツミッション以外で生命の危機を感じたひと時でした。まる。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 新垣あやせは、再びどんよりと曇った空を眺めていた。

 

「……お久しぶりですね」

「ええ、聖戦を共に戦い抜いた、あの時以来ね」

「……その聖戦って冬コミとやらのことですか? なら、いい加減にしないとわたしも怒りますよ。あの時のことはもう忘れてくださいって言ってるじゃないですか」

 

 先程までと違うのは、あやせはベンチの端に寄り、反対側の端にセーラー服姿の美少女がちょこんと座り、同様に空を――どんよりと曇った空を見上げているということ。

 

 彼女――五更瑠璃は、あやせのそんなぶすっとした言葉に、大して陽射しも強くないのに――というよりほとんどないのに――目に入る光を遮るように右手を上げながら、「……違うわ」と、呟いて――

 

 

「――私達の、初恋のことよ」

 

 

 瑠璃――黒猫は、そう、はっきりと口にした。

 

 あやせはその言葉に対し、予め覚悟を決めていたように、何も言わなかった。

 

 ただ、キュッと、口を引き締めた。

 

「大体、冬コミは、あなたひどい有様だったじゃない。闇天使(ダークエンジェル)コスのままパイプ椅子に座ってぶつぶつぶつぶつと怨念を撒き散らしてただけじゃない」

「……黒猫さんだって人のこと言えないでしょう。カップルどころか、男の人と女の人が一緒にいるのを見かける度に呪いをかけまくってたじゃないですか」

「黒猫じゃないわ。私は闇猫よ」

 

 あらゆる恋を否定せしもの、闇猫。

 この年上の女性は、相も変わらず訳の分からず、どうしようもなく拗らせていた。

 

 でも、真っ直ぐだった。

 純粋で、綺麗で――とても、強い。

 

「…………黒猫さんは……桐乃や………お兄さんと、サークル活動を、続けていると聞きました」

「…………誰から、なんて、野暮ね」

「どうしてですか?」

「…………」

「どうして、そんなことが出来るんですか?」

 

 あやせは、相も変わらず、空を眺めながら言った。

 

 灰色で覆われた空模様とは異なり、あやせの心は、思いの外すっきりとしていた。

 ドロドロ、していない。きっと、昨日までの自分では、こんなことは聞けなかった。

 

 でも、この、心を綺麗に満たしている、感情の種類は分からない。

 

 これは一体、何なのだろうか。

 

 黒猫は、そんなあやせの心内を知ってか知らずか、こう答えた。

 

「――質問を質問で返すようで悪いけれど、あなたはあれから桐乃や先輩と会っていないそうね」

「……会ってますよ――桐乃とは。同じ学校ですから」

「無様な真似はやめて頂戴」

 

 あやせの濁すような言葉を、空を見上げながら黒猫はバッサリと切り捨てる。

 あやせは何も言わず、表情も変えず、それを受け止めた。

 

「……こちらこそ、聞かせてもらうわ」と、黒猫は前置きをした後、その言葉を斬り込んだ。

 

 

「あなた――あの兄妹のことが、嫌いになったの?」

 

 

 あやせは、その言葉を、何も言わず、表情も変えず――黙って、受け止めた。

 

 それに対し、反射的に否定するでも、肯定するでもなく――思考を選んだ。

 

 あやせは、じっと、目を瞑る。

 もう、いいのかもしれない、と思った。

 

 京介に振られて――およそ、半年。

 桐乃に、期間限定の事実を告げられて――およそ、三か月か。

 

 もう、いいのかもしれない。いい加減、向き合う時だ――――己の、感情と。

 

 

 わたしは、新垣あやせは。

 

 

 高坂桐乃を。高坂京介を。

 

 あの兄妹のことを。

 

 

 今は。

 

 どう、思っているのだろう。

 

 

「……………例え、あなたがあの兄妹を見限っても、しょうがないと私は思うわ。あの二人は、それだけのことをしたんだもの。……それくらい、あの兄妹は――気持ち悪いもの」

 

 そう、気持ち悪い。端的に言って、まずその言葉が浮かんだ。

 

 新垣あやせは、高坂桐乃が大好きだった。尊敬していた。彼女がわたしの一番の親友だと、あやせはとても誇らしかった。

 新垣あやせは、高坂京介が大好きだった。恋をしていた。彼がわたしの初めての恋の相手だと、あやせはとても嬉しかった。

 

 でも、それでも――いや、だからこそ。

 その二人が、その兄妹が――あろうことか、兄妹で、兄と妹で。

 

 恋を、するなんて――社会のルールとか、一般の常識とか、そういうこと以前に、気持ちが悪かった。

 

「……それでも、私達は戦った。桐乃がそんな変態だってことを理解した上で、あなたは、“()()()()()()”と、そう言った――――私達は、それぞれ別の形で、あの兄妹と戦ったはずよ。それは、まさしく聖戦だった」

 

 そうだ。あの兄妹が気持ち悪いことなんて、とっくの昔に気付いていた。

 

 京介に振られる前から、桐乃に負ける前から――気付いていた。

 

 そして、それでもあの時のあやせは、あの兄妹から離れるのではなく――戦うことを選んだ。

 

 そして―― 

 

 でも――

 

 

「わたしは――わたし達は、負けました」

「…………そうね」

 

 あやせは、黒猫は――自分達は、“期間限定”の、桐乃に負けた。

 

 それは、揺るがない、紛れもない、ただそれだけの、残酷な事実だ。

 

「……わたしは、今でも自分が、間違っていたなんて思いません。……桐乃とお兄さんは、間違っています。気持ち悪いです。どう考えても、あんな関係は正すべきでした」

「………………そうね。否定はしないわ――肯定も、出来ないけれど」

 

 黒猫の言葉に反射的に口を開こうとして、あやせはギュッと唇を噛み締める。

 そして、黒猫同様に、ほとんどない陽射しから目を守るように、右腕で顔を覆う。

 

 そのまま、ゆっくりと口を開き、今日、初めて、心から吐き出すように、感情を吐き出すように、言った。

 

「……………それでも、こんなのは、あんまりじゃないですか…………わたしが正すまでもなく、あの二人は自分達の気持ち悪さを理解していて……勝手に付き合って……勝手に別れて………何がしたいんですか? ………何が、したかったんですか?」

 

 そして、その目を覆う腕を伝って、涙がポロポロと零れ落ちる。

 

 涙声だった。振られた女の子が、恋破れ――恋敗れた女の子が、やっと流せた、悔し涙だった。

 

 

「これじゃあ…………わたし、バカみたいじゃないですかぁ」

 

 

 ギュッと、抱き締めた。

 

 いつの間にか立ち上がっていた黒猫は、ベンチの背もたれの後ろから、あやせの頭を胸に抱くようにして、包み込むように抱き締めていた。

 

「………その気持ちは、きっと、世界で一番、私が分かるわ」

 

 あやせの零す言葉は、もう言葉になっていない、ただの嗚咽になっていた。

 

 それでも黒猫は、その一言一言を、真摯に、噛み締めるように受け止める。

 

「………それでもね。私は、あの兄妹の気持ちも……分かるの。………分かりたいと、思ってしまうのよ」

 

 あやせは子供のように泣きじゃくった。

 そして、その涙と共に、嗚咽のような泣き言と共に、徐々に心の中の、正体不明の感情が消えていく。

 

 あの日から、ずっと消えなかった燻りが、なくなっていく。

 それは、きっと、何かを失うということで。それは、きっと、とても大事な何かだったはずで。

 

「それでも、これだけは忘れないで。あなたの恋は、決して誰にも劣ってなんかいない。……その恋を()()()()()()()()()、あなたの想いが、他の誰かのそれよりも()()()()ということでは、()()()()()()。……それは、私が誰よりも知っている。もしも、そんな戯言を抜かす輩がいたら、私が呪い殺してあげるわ」

 

――だから、もういいのよ。

 

 黒猫は、そう優しく囁く。

 その言葉は、よく頑張ったと、我が子を誉める母親のようだった。

 

 あやせは、まるで母親に甘える子供のように、溢れる感情のままに、大声で泣きじゃくった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――ご迷惑を、おかけしました」

「いいのよ。私達は同志なのだから」

 

 黒猫は、優しく微笑みながらそう言った。

 

 その笑みが、本当に大人びて綺麗で、改めてこの人は年上なのだと理解し、あやせは少し頬を染めた。

 

 なんていうか、この人の、こういうところには敵わないし――ずるい。

 

「どうかしたの?」

「い、いいえ、何も。………それよりも、黒猫さん。最初の質問に答えてもらってませんよ」

「ああ、そうだったわね。なんだったかしら?」

 

 あやせは改めて問いかけようとして――口を閉じた。

 

 そして、その質問の内容を、少し変える。

 

「……黒猫さん。あなたは――――」

 

 

 あやせの質問に、黒猫は少し目を見開き、そして――――。

 

 

 

――――あやせは、その答えを受けて、じっと目を瞑り。

 

 

 

「――――黒猫さん。あなたは………なんていうか、すごいです」

「ふふ、いいのよ、気を遣ってもらわなくても。我ながら気持ち悪いと思うもの」

「……いいえ………でも、やっぱり、すごいです」

 

 本当に、この人には敵わない。あやせはそう実感した。

 

 でも、不思議と悔しくはない。

 

 この人と桐乃の関係に嫉妬し、この人と京介の関係に嫉妬してきたあやせだけれど。

 

 それでも今は、不思議と、悔しくなかった。

 

「………私のさっきの言葉、忘れてないでしょうね」

「……ええ、もちろん」

 

 だって、すごく嬉しかったから。

 

 その言葉で、わたしは救われたから。

 

 だから、一生――――忘れるわけがない。

 

「ならば重畳。その言葉は、闇猫たる我の渾身の言霊。その身に――魂に、刻み込まれたと知りなさい」

「ええ……しっかりと」

 

 身体が軽い。まるで呪いが解けたかのようだ。

 

 まるで、生まれ変わったかのようだ。

 

 事実、昨日、一度死んだのだけれど。

 

 だからだろうか――一度、死んだからだろうか。今まで恐くて逃げていたものに、こうして向き合うことが出来たのは。

 自分の弱さと、向き合うことが出来たのは。

 

 あれは――――夢だったのだろうか。

 

 恐竜と戦った一夜。

 現実感を持てというのが無理だというものだけれど、夢だとも思えない、奇妙な記憶だった。

 

 その記憶から逃げるように、今まで逃げてきた問題と否応なしに向き合うことになったけれど――その結果、少し、楽になった気がする。

 少しだけ、軽くなった気がする。

 

 それは、きっと、あの寂しげな背中の男の人のおかげなのだろう。

 

 あの人のお蔭で、自分の中の感情の正体に気付くことが出来て。

 黒猫のお蔭で、その感情と向き合うことが出来た。

 

「桐乃と、きちんと話そうと思います」

 

 だから、あやせはやっと、前に進むことが出来る。

 

「前みたいな関係に戻れるかどうかは、分かりませんけど……もう、逃げるのは、やめにします」

「……それでいいと思うわ。そもそも、あの女と先輩の自業自得の因果応報なのだから。そこまでしてもらえるだけでも、十分過ぎるというものよ」

 

 黒猫は、そう言って優しく、少し悪戯っぽく微笑む。

 

 あやせは、その笑みに――笑みを、返すことが出来た。

 

「あ、そういえば黒猫さん。なんでここにいるんですか? 制服姿ってことは学校帰りですよね? 今日って平日ですし」

「え、ええと、それは――」

 

 あやせの言葉に露骨に慌てて顔を逸らす黒猫。

 

 その挙動不審を絵に描いたようなリアクションに、あやせは眉を顰めて、問い詰めようとすると――

 

「あ、ルリ姉ー!」

「姉さまー!」

 

 公園の外から可愛らしい二種類のボイスが届いた。

 

 その声に黒猫とあやせが反応し、そちらに目を向けると――――天使と、小学生と、不審者がいた。

 

「あ」

「げ」

 

 あやせはその不審者を見ると目を見開き、不審者の方は露骨に嫌そうに表情を歪ませた。

 

「……比企谷さん?」

「人違いです。よし、じゃあな、お前ら。もう千葉で迷子になんてなるなよ」

 

 あやせの言葉をバッサリと切り捨てた不審者は、少女と幼女に別れを告げた後、さっさとそのまま逃げ出した。

 

「ちょ、ちょっと、待ってください! それじゃあ、黒猫さん、色々とありがとうございました! またいつか!」

「あ、ちょ――」

 

 黒猫が何か言う前に、あやせはまっすぐに公園を飛び出して不審者の後を追った。

 

 そんな彼女と入れ違いに、黒猫の愛すべき妹達がひょこひょこと歩いてくる。

 

「姉さま!」

「あっ。……もう、珠希。勝手にどこかに行っては駄目じゃないの。心配したのよ」

「……ごめんなさいです」

「……無事でよかったわ」

 

 そう言って、己にしがみつく珠希を撫でる黒猫。そこに、日向が話しかける。

 

「ルリ姉、ルリ姉」

「――日向。ごめんなさいね、面倒をかけて。珠希を見つけてきてくれてありがとう」

「それはいいんだけど――まぁ、色々とよくはないんだけど、さっきの人ってあれだよね? 高坂くんが一人暮らししてた時に押しかけ女房してた……」

「………そうね。私の、戦友よ」

 

 その言葉を、色々な感情が篭った表情で呟いた黒猫の顔を見て、日向はそれ以上、入り込むのを止めた。

 

「……それよりも、あなた達と一緒に来たあの闇の者は何者なの?」

「闇の者て」

「あのお兄ちゃんはまおうさまです! 姉さま!」

 

 日向が「あ、ちょっ」と慌てている様が目に入っているのかいないのか、珠希は無邪気という言葉を表現するかのような笑顔で、あの不審者についてそう言った。

 

「とってもやさしいまおうさまです!」

「……そう、魔王」

「悪い人じゃないんだよ、ルリ姉! だから、その――」

「分かってるわよ」

 

 そういって黒猫は、珠希を抱き締めながら、優しく答えた。

 

「珠希が懐く人に、悪い人はいないわ」

 

 そして黒猫は、あやせが追いかけていったその件の人物を思い出す。

 

 遠目で、少ししか見えなかったけれど。あやせがあれ程に執着し、珠希や日向がこれほどに懐く男――

 

(――魔王様、ね)

 

 くすっと、黒猫は微笑んだ。

 

 闇猫たるこの身が、まさかこの地で――魔王と出会うことになるなんて。

 




本当はもっと後に、八幡があやせを救うプロットだったのですが、結果としてはこっちの方がよかったかと。
っていうか、今の八幡に誰かを救うことなんてできるのだろうか。おい主人公……。

でも、このシーンは俺妹の最終巻を読んでからずっと書きたかったので、すごく感慨深いです。やっと書けてよかった……。

次回は、あやせと八幡――ではなく再び渚パートで一話。本当に多いな……暗殺教室パート。

次の八幡パートは……次の……次、かな? 本当にすいませんっ!

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