どんよりと曇った空を見上げていた。
もう何時間くらい経っただろう。
新垣あやせは、放課後の学校帰り、家に帰らず制服のまま、こうして児童公園のベンチに座り、ただ空を眺めていた。
平日故か公園内にはあまり人気はなく、静かだった。最近の子供は家でゲームばかりで、公園であまり遊ばなくなったというのは本当なのかもしれない。ただ単純に空模様が芳しくないという理由かもしれないが。
まぁ、この公園は普段から人気が少なく、物寂しい場所ではあるのだけれど。
この児童公園は、かつてあやせが京介によって桐乃と仲直りした場所だった。
あの頃――あやせが京介と知り合って間もない、あの頃。
桐乃がオタクであることを知り、ショックを隠し切れず、酷い仲違いをしてしまった。
思い込みが激しく潔癖症だった自分は、自分の理想の桐乃との違いが許せなくて、受け入れられなくて――そして、京介に救われた。
嘘をついて、騙してくれた。そして桐乃と――大好きな親友と、仲直りさせてくれた。
そして、新垣あやせは、高坂兄妹の物語の一員になって――そして、あの兄妹が大好きになったんだ。
その後も、ことあるごとに人生相談だと称して京介を呼び出して、その度に色んなことが起こって、そして、そして――
「……………」
不思議だった。
京介に振られてから、桐乃と、再び喧嘩のような、仲違いのようなものをしてから。
自分は、あの二人との――あの兄妹との思い出が深い場所には、近づかないようにしていたのに。逃げるように、避けていたのに。逃避していたのに。
それでも今日は、まるで導かれるように、この場所に来ていた。
こんな、数ある思い出の中でも、一際強く心に残っている――突き刺さっている、この場所に。
自分にとって、ある意味であの物語の、あの初恋の、始まりのような、この場所に。
なぜだろう。やっと踏ん切りがついたのだろうか。それとも未練の表れだろうか。
それとも――
「………………」
あやせは、空に向かって手を伸ばした。
どんよりと曇った空に。太陽すら出ていない空に。
何で手を伸ばしたのか、何に手を伸ばしたのか、自分でも分からない。
だが、一つ、確かなのは――
「あら」
「……え?」
その時、誰かの声がして、あやせはようやく空から視線をゆっくりと下した。
そこいたのは、セーラー服を着た、あやせに負けない程に艶やかで綺麗な黒髪の少女。
真っ白な肌に、目の下には黒子。小柄ながら不思議と大人びた美を感じさせるこの少女の事を、あやせは知っていた。
桐乃との間に距離が出来てから――否、正確には、もっと前。
去年、京介に振られ、そしてその後の年末、あの冬コミで――
「お久しぶりね、我がサークル『
「わたしのことを二度とその名前で呼ばないでくださいぶち殺しますよ」
彼女の名前は五更瑠璃――通称“黒猫”。
高坂桐乃の“裏”の親友で。高坂京介の“元”彼女で。
新垣あやせと同じ
同じように、高坂兄妹に――切り捨てられた少女だった。
+++
その日の最後の授業が終わり、放課後となる。
真っ先に寺坂グループが教室の後ろから出ていくのを皮切りに、ぞろぞろと皆、帰り支度を始めた。
「…………」
「あ、あの神崎さん、一緒に帰りませんか?」
「…………」
「……あ、あのぉ、ご迷惑だったでしょうかぁ?」
「っ! い、いえ、そんなことないですよ! 一緒に帰りましょう、奥田さん!」
勇気を振り絞ったという感じで奥田が神崎を下校に誘う。
何かに気を取られていた神崎はそれに気づかなかったが、泣きそうな声を聞いて奥田に気付き、慌てて笑顔でそれに応じる。
ぱぁと花が咲いたように笑顔になる奥田とは対照的に、こちらも神崎を下校に誘おうと狙っていたが勇気が出せずに撃沈し、がっくりと肩を落とす杉野。
それを苦笑しながら見ていた渚に、茅野が声を掛ける。
「な~ぎさ。一緒に帰ろう!」
「ん? 茅野?」
確かに渚と茅野は席が隣同士ということもあってそれなりに仲が良く、放課後に雑談をしていた流れで一緒に帰るというのはそう珍しいことではなかったが、こう真っ直ぐに茅野の方から誘ってくるのはあまりなかった。
訝しがるというよりは、珍しいなといった感じで不思議がる渚の背後――神崎を誘えなかったので、いつも通り渚を誘おうとした杉野(そういう決め事や約束をしているわけではないが、渚は杉野と一緒に帰ることが一番多い)に、茅野はそっと目配せする。
その意図を汲み取ってくれたのか、杉野は笑顔でサムズアップして、そのまま一人で帰ってくれた。
(……う~ん。もしかしたら、“そういう風”に誤解されたかなぁ?)
中学生が異性と“二人っきりで”一緒に帰りたいという意図を告げれば、そういった方向に勘ぐるなという方が無理があるのだろうが――杉野はそういったことを不用意に吹聴するような人ではないだろうからと、茅野はそのことはもう考えないようにした。
「うん、いいよ。じゃあ――って、あれ? 杉野は?」
「なんか急いで出ていったよ。なにか、用事でもあったんじゃない?」
「そっか。……いや、まさかね。さすがにそれはないか」
「ん? 渚?」
「いや、なんでもないよ。それじゃあ、僕達も帰ろうか、茅野」
「うん」
一瞬、杉野は神崎達を追いかけていったんじゃないかと思った渚だったが、杉野にはいい意味でも悪い意味でもそんな行動力はないだろうと即座に断じた。ちょっと酷い渚。
別に約束をしているわけでもないし――そもそも昨日も自分はさっさと一人で帰ったし――と渚は深く考えず、茅野に自分達も帰ろうと促す。
茅野と一緒に帰るのは初めてではないが、いつもは杉野が、雨の日にはたまに岡野もいたりするので、そういえば二人きりって初めてかも、なんてことを考えながら、渚は茅野と雑談しながら教室を出る。
そして、玄関までの廊下を歩いていると――
「――ん? あれ? カルマ君?」
「……やぁ、渚君」
――廊下の教室側の壁に背をつけて、渚を待ち伏せていたカルマがいた。
「………」
茅野は、その二人の様子を見る為に、そっと一歩後ろに――渚の斜め後ろに下がる。
「どうしたの、カルマ君?」
「……いや、ね」
カルマはじっと、見下ろすように渚を観察する。
「…………?」
渚はそんなカルマの様子を不思議がるように、ただ首を傾げた。
そして、少しの沈黙が二人の間を満たし、渚が居心地の悪さを感じてカルマに問いかけようとした頃、先にカルマが言葉を発した。
「今朝さ、渚君、本校舎の連中に絡まれてたよね」
「え!? ……あ~。見てたんだ、カルマ君……」
「ちょうど駅から出たところでさ、目に入って。割り込もうかと思ったんだけど――なんか、渚君、一人で追い払っちゃったからさ」
えっ? と茅野が思わず声を漏らす。
黙って静観しようと思っていたのにまさしく痛恨だが、カルマの視線がこちらを向いたことにも気づかないくらい、茅野は衝撃を受けた。
だって、渚が、あの渚が、絡まれた本校舎の生徒達を――追い払った? それも、自力で?
茅野は渚の方を向くが、渚は気まずげに頬を掻いているだけで、訂正しようとしない。
(……まさか、本当に……)
茅野のそんな思考を余所に、渚に視線を戻したカルマが、話を続ける。
「今更なんだけど、助けられなくてゴメンね?」
「いや、大丈夫だよ。……もし、カルマ君が入ってきたら、なんていうか、もっと大事になってたかもしれないし」
「ははっ、かもねぇ。瓶で殴りかかったりしてさあ」
「……洒落になってないよ、カルマ君」
カルマが渚の冗談ともいえないような言葉に笑っていると、渚がふと、何でもないように漏らした。
「大丈夫だよ、僕は――――殺されそうになったわけじゃあるまいし」
そう、当たり前のように言った。
(……な、ぎさ?)
カルマは思わず表情を固め、茅野は息を呑んだ。
「じゃあね、カルマ君」
「………うん。またね、渚君」
そういってカルマの横を通行する渚。
茅野は、カルマとのすれ違い様、カルマの様子をそっと見ると――
――彼は、額に一筋、冷や汗を流していた。
「………はは」
そして、乾いたような、笑みを漏らす。
そのまま、微動だにせず、固まったように佇みながら。
「…………」
茅野は再び前を向いて、少し前を歩く渚の背中を見つめた。
小さな背中。無害な背中。
昨日までは、その背中を眺めても、こんなに胸がざわついたりしなかったのに――
(…………渚)
表面上は、何も変わっていない。
言葉を交わしても、いつも通りの、温和で、優しくて、誰も傷つけない無害な小動物のような渚だ。
なのに、どうして、ふとした瞬間――ゾッとするように、怖くなるんだろう。不安になるんだろう。
茅野は、歩く速度を速め、渚に追いつこうとした。
まるで彼が、どこか遠くへ行ってしまいそうで。
いなくなって、しまいそうで。
短くてすいません……。
文字数ではなく内容の区切りの良さで一話を決めているので、めちゃくちゃ長かったり、今回のように短かったりで安定しませんが、本当にごめんなさい。
次回は再びあやせ、そして今回も出番がなかった我らが主人公八幡の話です!