比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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長い間を空けていたにも関わらず、温かい感想を本当にありがとうございます!
お待たせした分、面白くなるように全力で書いていきたいと思います!


桐ケ谷和人は、平和な日常の尊さを痛感する。

 

 板張りの床。初夏のこの時期でも、ひんやりと冷たい静謐な空気。

 

 長年愛用している自前の防具を纏い、己の汗が染み込んだ竹刀を真っ直ぐ構える。

 

 そんな彼女の前に立つのは、同じく防具を身に纏い、剣道の定石からかけ離れた、独特――と称するには、あまりに珍妙な構えの剣士。

 

 その構えを見て少女――桐ケ谷直葉は、およそ一年前、義兄があの鋼鉄の城のデスゲームから帰還し、こうして剣を交えた時のことを思い出す。

 

(……あの時、以来だな)

 

 兄が恋人である明日奈とのデートからいつまでも帰ってこず、今までそんなことはなかったがまさか遂に朝帰りなのかと少しそわそわしながらも中々寝付けなかった昨夜。

 

 そんなこんなで寝不足ながらも、いつも通り朝の稽古を始めようと起き上がった直葉の自室に、いつの間にか帰ってきていた兄が、妙に切羽詰った表情で飛び込んできた。

 

 寝ぐせで髪がボサボサの寝起き姿を見られた直葉は頬を赤く染めてあわあわと慌てたが、兄――桐ケ谷和人は、そんな直葉に構うことなく、というよりそんな直葉の様子に気付くことなく、ガシっと彼女の肩を掴み、真っ直ぐに直葉の目を見据えて真剣な表情で告げた。

 

『――スグ。俺と試合してくれないか?』

 

 

(――お兄ちゃん、少し様子がおかしかったけど……)

 

 直葉はいつかのように和人の構えを見て吹き出すようなことはしなかったが、それでも目の前の一戦に集中する、ということは出来ていなかった。

 

 第一に、和人はあの時の試合以降、防具を纏って剣道をやるということはしてこなかった。

 和人はあの時、剣道をまた始めてみようかなどと口にしてはいたが、その直後にALOでの事件に介入し、その後もGGOでの戦いに身を投じたりと忙しかった。

 

 それに直葉自身も、剣道ではなくALOという兄との繋がりが出来た以上、あの時の言葉を蒸し返すつもりも掘り返すつもりもなかったのだが――

 

「ハァッ!!」

「っ!?」

 

 考え事をしていた直葉を叱咤するように、和人が気勢を上げて斬りかかる。

 

 いつかのように滑るように低い姿勢で、片手で持った竹刀を足元から掬い上げるような軌道で振り上げる。

 

「くっ」

 

 リハビリの途中だったあの時よりも、やはり鋭い。

 

 だが、あの頃と違うのは自分も同じ。今の直葉は桐ケ谷和人、否、『キリト』という剣士を知っている。

 その動きに感心はしても、虚を突かれたりはしない。

 

 右足を引くようにして身体を開き、避ける。

 ヒュンという、和人の剣閃の空気を切り裂く音に息を呑みながらも、そのまま剣を振り上げることで隙が出来ている和人の右側を狙う。

 

 胴が空いている。

 竹刀を倒し、左から右に、剣を流した。

 

「ど――っ!?」

 

 直葉は咄嗟に剣を自身の面横に立てた。

 

 バンッ! と竹刀同士がぶつかる音。

 

 和人は斬り上げが躱されると、そのまま剣を戻すように、水中の水を掻くようにして剣を振ったのだ。左から右へ、直葉の面を横から叩くように。

 

「あぶなッ」

 

 それは自身の面を狙われたこともそうだったが、和人の技に対しても向けられた言葉だった。

 

 先程の斬り上げはフェイントではなく、全力で狙っていた威力の剣閃だった。にも関わらず、その勢いを力づくで止め、そのままあんな軌道の振りを、片手で行ったのだ。まだリハビリを終えて一年も経っていない、その治りかけの体で。

 

 なんて無茶を。腕を痛めたりしたらどうするつもりなのだ、と直葉は唇を噛む。

 それに剣道としては、下手すれば後頭部を強打し兼ねない先程のような振りは、決して誉められるような行為ではない。

 

 そんな思いを込めて、面越しに和人を睨み付ける。

 

 すると、向こうの面越しに、和人の瞳が見えた。

 

「――ッ!?」

 

 ゾっと、した。

 

 和人の瞳は、爛々とこちらを鋭く見据えていた。

 

 それは、高貴な剣士などではなく、もっと凶暴で、もっと獰猛な――

 

「……っ……お兄ちゃん!」

 

 和人の剣は激しく直葉を攻めたてる。

 

 その剣閃は鋭い。だが荒々しく、本能に駆り立てられるがままに振るわれるそれは、やはり剣士のものではなかった。

 

 ただがむしゃらに、何かを欲するように、何かを求めるように振るうそれは――

 

「おにいッ、ちゃんッ!」

 

 直葉はそれを必死に防ぐ。

 

 右から、左から、上から、下から襲い掛かるそれは、獣の爪であり、牙のようだった。

 

 だが、その奥から覗く和人の瞳は、対照的に静かに細められ、真っ直ぐに遠い先を見据えていた。

 

 直葉ではなく、もっと遠くの、遠い何かを。その遥か彼方の、遠い何かに向かって――

 

 ぎりっと、直葉は歯を食い縛り――

 

「お兄ちゃん!!!」

 

 大きく叫んだ。

 

 ビクッと、和人の動きが止まる。

 

 直葉は、和人の目を覚ませるがごとく、一年ぶりに強烈な面打ちを兄の頭に叩き込んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「全く! 何を考えているの、お兄ちゃんは!!」

「……はい。本当にごめんなさい……」

 

 試合後、板張りの床に道着のまま、和人は義妹に正座させられていた。

 

 そしてがみがみと説教を受けている。

 自分でも直葉に危ないことをしてしまったという自覚はあるので、それを甘んじて受けていた。

 

 

 昨晩、和人は再びデスゲームに巻き込まれた。

 

 それは、あのSAOよりも理不尽で、恐ろしい文字通り悪夢の一夜だった。

 

 焦っていたのかもしれない。

 黒の剣士――キリトへと依存を止め、自分自身の力で強くなろうと、『剣士』になろうと決めたのはいいが、まず何をすれば分からず、とにかく何かをしなければと思った。

 

 剣を振りたかった。

 それ故に、直葉に試合を挑んだ。

 

 システムアシストに頼らずに、剣士になる。

 VR世界のアバターとしてではなく、この現実世界の、桐ケ谷和人として強くなる。

 

 だが、結果はあれだ。

 

 遥か彼方にいる、『キリト』という剣士。『黒の剣士』という英雄。

 

 思い描く最強の自分に向かって、とにかく我武者羅に剣を振った。本能のままに。焦りのままに。

 

 その結果、その焦りに身を任せた結果、その全てを直葉に八つ当たりしたような結果になってしまった。

 あのままでは、本当に直葉に大怪我をさせてしまっていたかもしれない。

 

(……なにやってんだ、俺は……っ!)

 

 和人は直葉の説教をBGMに、昨日――昨夜、あの戦争から帰還した後のことを思い返した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――――はッ!?」

 

 和人はガバッと体を起こした。

 咄嗟に自分の顔から何かを外そうとして――自分がナーブギアもアミュスフィアも装着していないことに気付く。

 

 荒くなった呼吸を整えるように何度か深呼吸をした後、辺りを見渡した。

 

 そこは、間違いなく、埼玉県川越市の桐ケ谷和人の家で――自宅で、自室だった。

 

「…………」

 

 頭がぼおっとしている。現状を中々把握出来ない。

 ベッドの上で上半身を起こすような恰好で、二度三度、感触を確かめるように手を握っていると――

 

――死なないように、気をつけろ。

 

「――ッ!」

 

 ふと、去り際のあの男の言葉がリフレインし、冷水を被ったかのように意識が急速に覚醒した。

 

(……そうだ。あれは夢なんかじゃない。ゲームでもない。……間違いなく、あれは現実だった)

 

 現実の、戦争だった。

 

 和人はゴクリと唾を飲み込みながら、ギュッと固く手を握る。

 

 あの後――八幡があの言葉を捨て台詞に転送された後、黒い球体の部屋は重苦しい沈黙に満たされた。

 

 ただ一人、東条英虎のみがパンダと戯れていて重苦しく顔を俯かせる渚に言葉を投げ掛けていたけれど、あやせと、そして和人は、ただ深く項垂れるだけで、やがて自身が転送されるまで終ぞ一言も発さなかった。

 

 本来ならば、あの後、八幡がいなくなった後でも、残ったメンバーだけでも交換できる情報はたくさんあったはずなのに――このデスゲームをこれからも生き残っていくには、戦っていくためには、そうしていくのが最も効率的で、有効的で、正しい行動だったはずなのに。

 

 あの場で、最もそれを理解しているはずの自分は、結局何も出来なかった。

 和人はそれを苦しく思うも、やはり感情が付いていかなかった。

 

 デスゲームの攻略に最も明るいのが和人なら――デスゲームの恐怖を最も痛感しているのも、やはり和人なのだ。

 

 これからも、あんなことが続く。戦争が――デスゲームが続く。

 

 それもSAOのように、難関であれど、クリアされることを前提に――いわば“ゲーム”として作られているものではなく、あれは。

 

 あの戦争は、戦争を前提に成り立っている。殺し合いを、無理矢理ゲームのようにしているだけだ。

 

 つまり、死ぬのが前提。プレイヤーが殺されるのが前提で、その中で、修錬された戦士を育成していくものだ。和人はそれを、たった一回で理解した。

 

 あれは、デスゲームではあっても、断じてゲームではない。

 

 遊びの要素など皆無の、戦争で、殺し合いだ。

 

(……あんなのを、これから何回もやらされるのか……っ)

 

 ゾクッっと強烈な寒気が走る。体があっという間に恐怖に侵される。

 

 デスゲーム。死の恐怖に最も近い場所に、その身を置き続けた少年。

 

 一度終わったと思っていたそれが、再びその身に襲い掛かる。一度それを体験したからこそ、解放されたからこそ、和人は誰よりも、新たなるデスゲーム――ガンツミッションというものの悍ましさを、そして恐ろしさを理解していた。

 

 その時。和人が頭を抱え、絶望に暮れそうになった、その時――

 

『あーーーー!!!! パパいましたぁ!!』

 

 へあっ!? と情けない声を漏らした和人は、先程までの絶望と合わせて若干涙目になりながら、自室のPCモニタに目を向ける。

 

 そこには大きく頬を膨らませご立腹である愛娘――ユイの姿が表示されていた。

 

『もうー!! どこに行っていたのですかパパ! リーファさんがパパの帰りが遅いと心配していて知らせに行こうとしたらなぜかパパの端末に行けませんし! ママに聞いても送ってもらって別れた後は分からないと言ってましたし! 心配してたんですからね!』

「ご、ゴメン、ユイ」

 

 和人は苦笑しながらPC前の椅子に座り、モニタのユイと向き合う。

 

『まだこちらの質問に答えてもらってないです! この数時間どこで何をやっていたのですか! 端末の電源を落としてまで!』

「……ええと」

 

 ちょっとオーバーテクノロジーで拉致されて幕張で恐竜星人と戦争してました。

 

 なんて言えるわけがない。心情的にも、肉体的にも(爆弾的な意味で)。

 

 電源を切った覚えはないが、あれだけ不思議な技術で密室を作っていたのだ。携帯の電波など当然遮断していただろう。それならばユイが来れなかったのも無理はない。

 

 そんなことをしどろもどろになりながら思考していると、なにやらユイが、和人をじとぉとした目で睨みつけている。

 そんなユイも可愛いと思う親馬鹿(?)な和人だが、その愛する娘の口から飛び出した言葉に、和人は昔のコントのようにのけぞるようにして椅子ごと倒れ込みそうになった。

 

『浮気はダメですよ、パパ』

「ぶふぉぁっ!」

 

 別に何も口に含んでいないのにそんな効果音を噴き出した和人。

 

 その後、必死に弁解(というより無実の訴え)をした和人だったが、つーんと完全に拗ねたユイは聞く耳を持ってくれず、『ママもすごく心配してたから連絡してあげてくださいね!』と言い放ちネットの海に消えていった。

 

 和人は「ユイーーー!!!」とどっかのグラサン総司令のように情けなく叫んでモニタに手を伸ばしたが、ユイが戻ってくれることはなくがっくりと頭を垂れた。

 

 これまで和人はユイがいつでも来れるように常に端末の回線をONにしていてユイに黙って電源をOFFになどしたことがなかったから、ユイは少なからずショックだったのだろう。

 机に突っ伏しながら今にも泣きだしそうな声色で「うぅ……ユイ……」と思春期の娘に「パパなんてだいっきらい!」と言われた全国のお父さんくらい心に絶大なダメージを受けている和人はまだ気づいていないが。

 

 と、そこでタイミングがいいのか悪いのか、ゆっくりと顔を上げて目の前のPCで『娘 仲直りの仕方』とググろうとしていた和人の動きを諫めるように、件の端末が鳴り出した。

 やはり電源を切っていたわけではなくあの部屋が電波遮断していたのだろうと思いながら、和人は着信主を見る。

 

 その名を見た瞬間、和人はすぐに応答した。

 

「も、もしもし!」

『もしもし、キリトくん!? 大丈夫なの!?』

 

 あ……と、和人はその声を――その愛する人の声を聞いた瞬間、心の何かが温かく溶けだした気がした。

 

 帰ってきたんだ。俺は、生き残ったんだ。

 

 そう改めて――実感できた。

 

『直葉ちゃんとユイちゃんから、キリトくんがいつまで経っても帰ってこないって……あの別れた公園まで行ってみたんだけど誰もいないし、なんだかうちの近くに奇声を上げて徘徊してる不審人物もいるって噂も流れてるし……なんだかすごく怖くて。キリトくん? 大丈夫なんだよね? もう、ちゃんと家に帰ってるんだよね?』

「…………ああ、大丈夫だ、アスナ。……ちゃんといるよ。――俺は、ここにいる」

 

 和人は明日奈にそう返した。

 

 だが、明日奈はそんな和人の言葉を訝しんだように、心配そうに、こう返した。

 

 

『……キリトくん――――泣いてるの?』

 

 

「―――――っ――――っっ」

 

 和人はそこで、大丈夫、泣いていないと答えることが出来なかった。

 ただ己の服に端末を押し付け、自分の口から止めどなく溢れてくる嗚咽を愛する女性に聞かせないようにするだけで精一杯だった。

 

 端末からは『キリトくん!? どうしたの、大丈夫なのキリトくん!?』と明日奈の焦ったような、切迫した心配する声が聞こえるが、和人はそれに答えることが出来ない。

 

 あの時、自分は、この幸せを諦めた。

 

 死銃に肩を撃たれ、薄れゆく意識の中、この幸せを手放しかけた。

 

『アスナ、ごめん』

 

 嬉しかった。自分はまだ、生きている。こうして明日奈と言葉を交わせる。会える。触れられる。まだ自分は、彼女を失っていないのだと。

 

 そして怖かった。自分はいつか、また彼女を失うかもしれない。彼女を悲しませてしまうかもしれない。もう言葉を交わせないかもしれない。会うことも、触れることも、愛することも。出来なくなるかもしれない。

 

 和人は嗚咽を堪えるように唇を噛み締め――決意を固めた。

 

(……強くなる……ッ! そして、何度でも生き残る! 帰るんだ、何度でも! ……この場所に――アスナの元に!!)

 

 和人は震える声で、電話の向こうの明日奈に、何度も「大丈夫……大丈夫だから」と返す。

 

 そして逃げるように、電話を切った。

 

 再び巻き込まれたデスゲーム。

 

 そのクリアへの決意を、胸に、魂に刻み込みながら。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「聞いてるの、お兄ちゃん!!」

「は、はい!」

 

 そして、今である。

 

 ご大層な決意を固めたのはいいが、人間気合だけでは強くなれない。

 むしろ盛大に空回り、こうして妹に説教を受ける羽目になっている。

 

 やがて散々説教をして満足したのか、直葉は大きく溜め息を吐いた。

 

「……はぁ、もういいよ。これからは気を付けてよ、お兄ちゃん」

「ああ、本当にゴメンな、スグ。……虫がいい話だと思うけど、これからもちょくちょく付き合ってくれないかな? スグにあんな危ない真似は、もう絶対にしないから」

 

 和人は正座の姿勢のまま、直葉を真っ直ぐ見据えながら言った。

 

 妹に対し危険な真似をしたという罪悪感は和人の心に重く圧し掛かっていたけれど、それでも今の和人にとって、剣道の打ち合い以上に強くなる道標はなかった。

 筋力の類はあのスーツを着ればどうとでもなるし、SAOと違ってガンツミッションは情報を集めるということがほとんど出来ない。

 

 そういう意味では、あの場で呆然とせず、せめてあやせや渚達の連絡先くらいは交換しておくべきだったけれど、今、それを悔やんでもしょうがない。次、あの部屋に集められた時には忘れずに実行すればいい。……若干コミュ障の自分がそんな真似を出来るのかと言われたら疑問が残るところだったけれど、背に腹、というより命には代えられない。

 

 だから和人は、例えここで妹に土下座をすることになったとしても、何とかこの稽古を続けてもらうつもりだった。

 

 そういう意味で、和人は真剣な目で直葉を見上げていたのだが――なぜか直葉の顔は、赤らむどころかどんどん険しく、黒いオーラのようなものを纏い始めている。

 

 その時、初めて和人は、あれ? 何かがおかしい? と気付いた。

 

「す、スグ……さん?」

「……お兄ちゃん? 私の話の、何を聞いてたの?」

「……え、あの、その」

 

 正直、思考に耽っていて聞き流してました。とは、さすがに言えない。この状況でそんなことが言えるほど、自分は危険に対し鈍感ではない。これでも二年間、デスゲームの最前線にいたのだ。

 

 実の所、和人は(スグにとって)危険な剣の振り方をしたことに直葉は怒っていて説教しているのだと思っていたが、直葉はほとんど(和人にとって)危険な剣の振り方について怒って――というより心配していたのだ。あんな剣の扱い方をしていたら、VR世界ならともかく、現実世界の、それも碌に鍛えていない和人の体では、確実に怪我をし、下手すれば一生ついて回る故障をしてしまうと。

 

 それなのに、そんなことを一切聞いていなかったかのような和人の口振りに、直葉はちょっとキレそうだった。というか、ちょっとキレていた。

 

 だが生憎和人の方は、ぶっちゃけると直葉のありがたいお言葉を聞いていなかったので、直葉がなんで怒っているのか分からない。だが、自分が何かをしてしまったことは分かるので、小さく縮こまってやり過ごすしかなかった。

 

 なんか俺昨日からこんなんばっかりだと、情けなくも再び涙目になりそうな和人だったが、その時、道場の外から「ごめんくださーい」という声が聞こえた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ごめんね、直葉ちゃん。いきなり来ちゃって」

「いえ、大丈夫ですよ、明日奈さん。元はと言えば、心配をかけたお兄ちゃんが悪いんですから」

『そうです! 全部パパが悪いです!』

「……あの、俺が悪うございましたから、そろそろ皆さん許してもらえませんかね……?」

 

 平日の早朝という珍しいタイミングで、いつも通り両親不在の桐ケ谷家を訪ねた客人は、結城明日奈だった。

 

 あの後、桐ケ谷兄妹は道着から着替えてシャワーを浴びて、今は三人ともリビングに集まっている。

 

 明日奈は直葉と隣り合って朝食を調理していて、ユイも明日奈の端末にいる。和人は己に対する愚痴で盛り上がる三人娘から少し離れたテーブルで、ネットニュースを開いているタブレットで顔を隠しながら肩身の狭さを体現するように身を縮めている。いつの世も男は女に敵わないのだという不変の真理(かなしいげんじつ)を見事に表現している朝のひと時だ。

 

 やがて朝食がテーブルに並べられ(和人の分もちゃんと他のメンバーと変わらないメニューと量が用意された。和人はちょっと嬉しかった。露骨に減らされるかと少し本気で心配してた)、みんなで手を合わせいただきますと唱和する。

 

 和人もようやく穏やかな空気が流れたことにホッとし、手を合わせ色々なことに感謝した後、おいしそうな味噌汁を口に運――

 

「――ところでキリトくん?」

「ん?」

「浮気したって本当?」

「ぶはっ!!」

 

――べなかった。ええ、吹き出しましたとも、盛大に。

 

 モロに気管支に入ってごほ、ごほ、おえ、とちょっと吐き気まで感じるほどに咽る和人を、明日奈はニコニコ笑顔で、ユイはふんっと拗ねて、そして直葉はゴミを見るような目で眺めていた。

 

「……うそ。お兄ちゃん、昨日帰ってこなかったと思ったら……明日奈さんとのデートの後に違う女の人のとこから朝帰り?」

「違う! 無実だ! 冤罪だ!」

「……相手は誰なの? シノンさん? リズさん? ……ま、まさか、シリカちゃ――」

「だから違うって、妹よ! っていうか、なんでそんなスラスラと名前が出てくるんだ!? え、スグって俺がそんな身近の女の子に手辺り次第に手を出すような男だと思ってたのか!?」

 

 嘘だと言ってよマイシスター! とばかりに和人が縋るような目を向けると、直葉は気まずそうに、何も言わず目を逸らした。

 

 ガーン! と和人は心がポキッと折れそうになるも、まだそこで倒れる訳にはいかなかった。

 

 なぜなら、未だ自分の隣で、何も言わず、表情も変えず、能面のようなニコニコ笑顔で、どす黒い殺気を放ち続けている魔王――否、愛する彼女に弁明をしなくてはならないからだ。

 

「……あ、アスナさん?」

「なぁに?」

 

 甘い。甘い声だった。だが、それが今は何よりも恐ろしい。

 

「……ち、違うんだ。昨日は、俺はアスナと別れた後……」

「別れた後、どうしたの?」

「…………その」

 

 和人は思わず言い淀んだ。この場でこんなことをしてしまえば誤解しか生まないことはよく分かっていたが、それでも和人は何も言うことが出来なかった。

 

 事実など、言えるはずがない。例え、頭に爆弾など埋め込まれていなくとも、言えるはずがない。

 

 

 自分は、昨日、新たなるデスゲームに巻き込まれて。

 

 これから何度も、あんな死と隣り合わせどころか、四方八方を死に囲まれているかのような、過酷で理不尽な戦争を、悲惨で凄惨な殺し合いを、何度も、何度も、潜り抜けなくてはならない――なんてことを、言えるわけがない。

 

 そうでなくとも明日奈には、これまでも、ずっと心配をかけてきたのだ。

 

 今度こそ、死ぬかもしれない。おそらくは――これまでで最も、死ぬ可能性が高い。生き残る方が難しいデスゲームだ。

 

 心配かけたくない。そして、何より、巻き込みたくない。

 

 もう二度と、失いたくない。

 

 それだけは、絶対に――

 

 

「…………っ」

「……お兄ちゃん」

「……パパ」

「…………」

 

 直葉も、そしてユイも。

 

 あまりにも苦々しく、顔を青くして唇を噛み締める和人を、心配そうな表情で見つめる。

 

 そして明日奈は、そんな和人を真剣な表情で見つめ――

 

「――わかった。何も聞かない」

 

 表情を柔らかく、優しい微笑みに変えて、そう言った。

 

「……アスナ」

「キリトくんを信じることにするよ。キリトくんがこういうときに嘘をつけないこと知ってるし」

「……そうですよね。鈍感なお兄ちゃんに、浮気なんてする甲斐性なんてないですよね」

『ですね! さすがパパです!』

「……褒められてる、のか?」

 

 妹と娘の物言いに苦笑する和人だが、直ぐに明日奈が不安そうな顔をしているのを見て、そちらに目を向ける。

 

「……でも、キリトくん。何かあったら、すぐに言ってね。……あんまり心配かけないで。……この間の死銃(デスガン)事件みたいなことは、もうしないでね」

 

 死銃(デスガン)――という言葉に、和人は背筋を少し震わせたが、必死に気取られないように、動揺を押し殺す。

 

「……ああ、約束するよ」

 

 そうして、和人は早速、愛する女性に嘘を吐いた。

 

「――さ! それじゃあ、冷めないうちにご飯食べちゃいましょう! お兄ちゃん! 今日はアスナさんに教えてもらって、私も頑張ったんだからね!」

「ふふ。直葉ちゃん、張り切ってたものね。お兄ちゃんがなんか元気ないからって」

「あ、アスナさん!」

「……ああ、いただくよ。ありがとうな、スグ、アスナ」

 

 和人は楽しそうにはしゃぐ――自分を気遣って、空気を明るくし、そして踏み込んでこないでくれた彼女達を慈しむような眼差しで眺めながら、少し冷たくなった味噌汁を改めて啜った。

 

 すごく美味しかった。

 

「あ、そういえば、アスナさん、お兄ちゃん。昨日、ALOでなんだかすごいプレイヤーがいたんですよ。猫妖精(ケットシー)なんですけど」

「へぇ、強いのか?」

「強いっていうか……いや、すごく強かったんだけど……とにかくすごいの! 色んな意味で!」

「どんな奴なんだ……」

「あ、すごいプレイヤーっていったら、昨日キリトくんを探す為に連絡をとったらシノのんがGGOでね――」

「あ……一応、連絡網は回したんですね、アスナさん……深夜に……」

『ママ……』

「な、なによぉ! だって心配だったんだもん! あ、キリトくん、これなんだけど、GPSでお互いの位置がいつでも――」

 

 穏やかで、でも賑やかで。

 

 色々と大変なことが巻き起こって、でもすごく幸せで。

 

 こんな、たまに突飛だけれど、けれど当たり前な日常が、今の和人には、とても尊く映った。愛しく思った。

 

(――平和、か)

 

 そう。平和だった。

 

 明日奈が、直葉が、ユイが。

 

 とても楽しそうに、穏やかに過ごしているこの日常は、間違いなく平和だった。

 

 鋼鉄の城で剣を振るい続け、妖精の国で囚われの姫を助け出し、銃と硝煙の世界で亡霊を討ち倒して、ようやく手に入れた、この手に取り戻した、尊い平和だった。

 

 昨日の自分は、そんな平和に対し、どこか複雑な気持ちを抱いていたけれど。

 この身になって――再びデスゲームに縛られたこの身になって、胸を張って言える。

 

(俺は、幸せだ)

 

 どこか残っていた胸の中のしこりは、綺麗さっぱり消え去って、代わりに恐怖と、燃えるような決意がそこにあった。

 

 この平和を、絶対に失いたくない。

 

 必ず、守り抜く。

 

 そのために、俺はまた、剣を振るおう――そう、和人は誓う。

 

 剣士キリトのように強くなって、黒の剣士のように強くなって。

 

 そしてまた、ただの桐ケ谷和人に戻る為に。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 目覚めは当然、最悪だった。

 

 睡眠時間が圧倒的に足りないということもあるが、一番の理由は、昨日の、あの邂逅。

 

 いつものように、“先輩”たちの狩りについていき、おこぼれをもらうだけのはずだった。

 

 なのに。それなのに。

 

「…………っぅ!」

 

 ズキっ!と、頭に激痛が走る。

 

 ……結局、昨日は血を一滴も呑めなかった。

 狩れた獲物は十数体の小型恐竜のみで、人間は一人たりとも狩れなかったし――むしろ、こちら側の味方が一人殺された。

 

 あの白いパーカーの怪物。あれは、明らかに人間ではなかった。

 

 人間の仮面を、皮を被っているだけの、尋常ではない正真正銘の怪物だ。

 

 自分達と、同じように。

 

「…………っ」

 

 今度は先程よりも小さく、鈍い痛みが襲った。

 

 自室のカーテンの隙間から入り込む日光を疎むように、川崎大志は両手で顔を覆う。

 

 自分は確かに吸血鬼だけれど、特別日光に弱いとか、そんなお伽噺のような分かりやすい弱点があるわけでもないのに。

 

 お伽噺でも、空想でも、幻想でもなく。

 

 こうして現実で、現実世界で現実に、疑いようがなく、救いようがなく、自分は紛うことなき――化け物なのだ。

 

 

「大志っ! 何やってんの、遅刻するよ!」

 

 ドアの向こうから、姉である沙希の怒鳴り声が聞こえる。

 それに対し、大志はごく自然に、大きくチッと舌打ちをした。

 

「……分かってるよ」

 

 大志はゆっくりと体を起こす。そして今日も、人間のように学校に向かう準備を始めた。

 

 そのまま緩慢な動きで制服に着替え、授業中に形として机の上に広げる以外まったく開いていない教科書類を乱雑に鞄に詰め込み、そのまま直接玄関に向かう。

 

 そして靴を履く為にしゃがみ込んでいる時に、後ろからバタバタと足音が響いた。

 

「ちょ、ちょっと大志! 朝ご飯は!?」

「……いらない」

「いらないってアンタ、昨日の夕ご飯もろくに食べてなかったじゃ――」

 

 大志はそこで一際大きく舌打ちし、振り返って姉を睨み付ける。

 

「――うるさい」

 

 ビクッと、沙希は大きく体を震わし、怯えたように大志を見る。

 

 大志はそんな姉の姿を見て、気まずげに目を逸らし、そのまま靴を履いて立ち上がる。

 

「…………いってきます」

 

 いってらっしゃいという言葉の代わりに、「……あ」と掠れ出たような姉の声が聞こえた。

 

 こちらに腕を伸ばしているのだろうと、十五年の付き合いになる姉の行動を正確に察しながら、だが大志は、その行動を拒絶するように、意図して強くその扉を閉めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 大志が自分の異変に気付いたのは、今から数か月前。

 年が明け、総武高校への入試が近づき、受験勉強が本格的に追い込みの時期になっていた頃だった気がする。

 

 その少し前、総武高校ではしばらくの間ニュースを騒がせる程の痛ましい殺傷事件が起きており、自分の周りでもバタバタと総武高志望の学生が激減し、在校生であり自分の姉でもある沙希からも真剣な目で志望校を変えたらどうかと諭されていた。

 

 だけど自分は、尊敬する姉が通っている高校であるということと、同級生で友達でそして密か(?)に想い人でもある小町も変わらず総武高校を目指すこと、更に、こちらも密かに憧れの人物である比企谷八幡が通う総武高校に通いたいという思いがあることから、総武高を目指すというその気持ちは微塵も変わらず揺るがなかった。

 

 そういったことを、姉の沙希に包み隠さず、正直に話した。勿論、小町への気持ち云々は隠したけれど(客観的に隠せたかどうかは定かではないが)。

 家族愛が強く、ぶっちゃけて言えばブラコン気味である沙希は、不安そうな顔を最後まで崩さなかったけれど、弟に尊敬してもらえているということが嬉しかったのか、最終的には大志の意思を尊重した。

 

 だけど、自分でも不思議だった。総武高を志望したその動機については、先程姉に話したことで嘘はない。

 でも、それにしても自分は、自分が志望する学校で、しかも在校生による殺傷事件が起きたということに関して、全く持って忌避感を覚えなかった。

 

 正直言えば、どうでもよかった。自分の知らない人間が、どれだけ惨たらしく殺されようが、はっきり言ってどうでもよかった。もっと言うのなら、受験直前であるこの時期に――自分は合格ラインギリギリをウロウロしていたので――倍率が減ってラッキーとすら思っていた。

 

 そのことに気付いた時、大志は絶句した。そんな自分に絶句した。

 

 自分のことを生来の聖人君子だと思っていたわけではない。紛うことなき善人だとも、全ての死に対して平等に涙することが出来る感性の持ち主だと思っていたわけではない。

 

 しかし、自分はここまで命に対して、冷淡な人間だったのか?

 

 だって姉は、自分の姉が、その現場に居たんだぞ?

 

 万が一、いや、そんな遠い可能性じゃない。百が一、十が一、そんな確率で、そんな可能性で、あのテレビのニュース画面にズラッと並んでいた死亡者リストの中に、己の姉が、大事な家族の名が、加わっていたのかもしれないのだ。

 

 なのに、どうして、こんなにも自分は――なんとも思っていないんだ?

 

 ズキッ!! と、頭に強い頭痛が走った。

 

 ……まただ。ここ最近、ずっと痛みが消えない。一日に何度も襲ってくるし、段々とその間隔が短くなってきた気がする。

 

「――ちゃん! ねぇ、たーちゃん! ねぇねぇねぇってば!」

 

 初めは夜遅くまで受験勉強をしているせいでの寝不足、もしくは受験へのストレスかと思っていたけれど、いくらなんでもこんなに酷いものなのか――

 

「――ねぇ、たーちゃん! これみて! ねぇ、たーちゃんってば!」

 

 耳に入ってくるその声が、凄く耳障りで癇に障って、大志は力強く、横の壁を殴りつけた。

 

「うるさいっ!!!」

 

 重々しく響いた衝撃は、壁にビシッと罅を走らせていた。

 

 ひっ、と怯えたその幼女は、ぺたんとお尻から倒れ込み、やがて大きな声で泣き喚く。

 

「うわぁぁぁあああああああああん!! うわぁぁぁあああああああああん!!」

「ちょ、何、今の音!? けーちゃん!? けーちゃん!!」

 

 先程の大志による轟音と京華の泣き声により、居間から沙希が飛び出るように現れる。

 

 ぎゃんぎゃんと大泣きする京華を抱きしめながらあやす沙希は、壁の罅と、茫然と立ち尽くす大志に目を向ける。

 

「……アンタがやったの?」

「…………」

「答えな、大志っ!!」

 

 鋭く怒鳴る沙希。その声に驚き、再び大きな声で泣き喚く京華。

 

 だが大志は、姉の怒鳴り声にも、妹の泣き声にも、まるで反応を示さなかった。

 

 

 驚くほど、何も感じなかった。

 

 

 まだ保育園児の妹を、ただ自分の癇癪で泣かせたのに、まるで罪悪感が生まれなかった。

 

 そのことが、怖かった。恐ろしくて堪らなかった。

 

 少なくとも自分は、その他大勢の死に悲しみを覚えられなくても――家族は大事に思っていた。家族に愛情を持っていた。

 

 それだけは胸を張って言える。己の根幹だ。確かなアイデンティティだ。川崎大志とは、そういう前提で成り立っている人間のはずだ。

 

 大事な妹を、自分が泣かした大事な妹に対して、それを注意し諫めてくれる大事な姉に対して――

 

 

――こんな苛立ちを覚える人間は、間違っても川崎大志(じぶん)ではない……っ。

 

 

「……ごめん」

 

 大志は歯を食い縛るようにして、そのまま風呂場へと駆けこんだ。

 

「大志! 大志っ!」

 

 沙希は逃げるように走っていった大志を心配そうに見送りながらも、自分の腕の中で大泣きしている京華をあやし続けた。

 

「…………大志」

 

 先程の弟の、何かを堪えるような横顔が――あの日から変わってしまった己のクラスメイトの横顔と重なったのを、気のせいだと振り払いながら。

 

 

 

「…………なんなんだ」

 

 大志は何度も何度も顔を洗い、普段はうるさく姉に節水しろと言われている水道の水を勢いよく垂れ流しているのを呆然と見つめる。

 

 気持ち悪い。気分が最悪だ。

 あれほど荒れ狂っていた激情が、この数十秒で嘘のように消えている。代わりに襲ってきたのは、恐ろしいまでの虚無感だった。

 

 なにもかもがどうでもいい。

 誰が泣こうが喚こうが、誰が死のうが殺されようが、一切合財どうでもいい。

 魂が抜け落ちたかのような虚無感だった。

 

 なんだ。なんなんだ、これは。

 

 自分の感情が、感覚が、まるで制御できずに勝手に動いているかのようだ。

 

 まるで自分が自分であって、自分でないような感覚――

 

「…………」

 

 大志はゆっくりと服を脱ぐ。冷たいシャワーでも頭から被りたい気分だった。

 

「…………え」

 

 その時、大志は気付いた。

 

 自分の背中――肩甲骨の当たりに、大きな湿疹ができていた。

 

 まるで、何かの羽のように。

 

 気持ち悪い、異形の羽のように。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――…………」

 

 大志はそんなことを思い返しながら、通学路を俯くようにして歩いていた。

 

 

 そうだ。あの日から、自分の穏やかだった、少なくとも自覚的には穏やかで、平和で――人間的だった生活は終わりを告げた。

 

 そして、気が付けば、自分はすっかり化け物になっている。

 

 

 周りの道行く人間達の、見分けがつかない。

 

 いや、違いは分かる。人間が、道端に落ちている石ころの形の判別は出来るように。野良猫の毛並や色の違いが分かるように。身体的な、外見的な特徴は判別できる。

 

 だが、それを個性だと、各々の違いだと、認識できないだけだ。

 

 人間にとっては、たとえ形や大きさが違っても石ころは石ころだし、猫は猫だ。ただそれだけだ。

 

 いまや大志にとっては、家族や一部の人間を覗いて、個々の人間の判別が出来ない。

 

 己と別種の――別種族の生物の、見分けがつかない。

 

 だからぐったりと俯き、自分の足元を見ながら、そこだけを見ながら歩いている。誰にも話しかけられないように、気配を消す。ぼっちのように。

 

 

 だが、そんな半人前のステルスは、この男にはまるで通用しなかった。

 

 

 自分の前に、誰かが立ち塞がる感覚。

 

 避けようと外側に足を向け――るのを察知したかのように、そんなぼっちの歩行技術は織り込み済みだと言わんばかりに、先行く一歩で行く先を封じ、大志の行く手を足で阻んだ。

 

 大志は諦めて、顔を上げた。

 

 気が付いたら、すでに総武高の正門の前に辿り着いていた。

 

 そんな多くの人間が行き交うその場所で、自分の周りだけぽっかりと大きく空間が開けている。

 

 否、その空間を確保しているのは自分ではなく、今や全校生徒に恐れられ、気味悪がられている、一人の男――一組の男女だった。

 

「……お兄さん」

 

 大志は自分の前に立ち塞がるようにして自分を睨み付けている男を見て、そう呟いた。

 

 対して男は、一切表情を変えず、感情を何も込めていないのではないかという平坦な声で、それに返した。

 

「……お兄さんと呼ぶな」

 

 そして、グっと大志に向かって更に一歩近づき、見下ろすようにして言った。

 

「――殺すぞ」

 

 それは、その言葉は、今や人外の大志にして。人ではなくなり、人の外見や言葉や行動や、人の全てに関心を抱けなくなった大志にして。

 

 思わず息を呑んでしまうほど、呑まれてしまうほど、鋭利な殺気を纏っていた。

 

 そのまま男は――比企谷八幡は、ずいっと顔を至近距離に近づけ、大志がビクッと体を震わせてしまうほどの耳元で、他の誰にも聞こえないように、小さく囁いた。

 

「昼休みに、屋上に来い。……お互い、話があるだろ」

 

 それだけ呟くと八幡は、少し離れたところでこちらのやり取りをただ黙って見ていた雪ノ下の元に戻り、そのまま校舎へと歩いて行った。

 

 しばらくは、あの比企谷八幡に待ち伏せられ声を掛けられたとして大志にも好奇の視線が集まっていたが、やがて大志が一歩足を踏み出すと蜘蛛の子を散らすように彼ら彼女らは一斉に去っていった。例えどのような形でも、今の八幡は関わりたくない存在らしい。

 

 もしかするとこのことにより、大志の学校生活にも少なからずの影響があるかもしれないが、それも今更だった。

 

 今の大志にとっては、そんなものは何の価値もないのだから。

 

 なくしてしまったのだから。

 




今回は少し長めでしたかね……。

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