比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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魔王、降臨。


そして、比企谷八幡は魔王に救われる。

 ……なんか、すっかり慣れちまったな。この感じ。

 

 そして、この部屋。

 

 俺が転送されて来た時、知っている人間は一人もいなかった。

 

 新しい参加者が……八人。全員男だ。

 頭が爆発している(髪形の)若い男に、眼鏡に帽子のでかい男。帽子の方はなんかラップとかヒップホップとか愛してそうだな。あと、サラリーマン風のスーツの男が二人。一人は眼鏡。そして、190cmはある白人の格闘家。さらに、迷彩服の軍事オタクっぽいやつに、ゴルゴ13みたいな眼光鋭いつなぎの男。背中に立ったら撃たれそう。

 そして、一番目立つのが。

 

「……また一人、このためしの場に呼ばれたか」

 

 は? 何言ってんだ、この坊さん?

 

「……ここ、どこなんすか?」

 

 ラッパー風味の男(コイツはラッパーさんでいいや。たぶんラッパーじゃないけど)が坊さんに問いかける。

 

「ここは、死者が極楽浄土に往生するか、それとも無間地獄に堕とされるか、そのふりわけがされる場所だ」

 

 ……コイツ、すげぇこと言うな。自信満々に言い切るとこが凄い。

 まぁ、今までの奴らと違い、パニックを起こさないとこは素直にすごいな。……内心はどうだか知らないが。

 

 だけどその妄言を、他の奴らも信じるかはまた別か。

 

「……ためしの場って、ここが?」

 

 髪の毛爆発男(ボンバーさんと名付けよう)が、坊さんに食って掛かる。まぁ、何の変哲もないマンションの一室ですしね。閻魔とかいないのかよ。鬼灯さんもびっくりだよ。

 

「死した記憶があるだろう。死を認めぬ者は、極楽浄土に往生できぬぞ」

「………………」

 

 確かに、そう言われると、何も知らない彼らはぐうの音も出ないだろう。

 

 だが、このおっさんはこの後どうするつもりだ?

 アンタは今までそう信じて生きてきて、こうして死んだ今もここでちゃんとすれば極楽浄土に行けると思うことで自己を保っているのかもしれないが。

 

 ここで、他の人達にも、自分の価値観を押し付けて。

 

 責任、とれんのか?

 

 

 ……まぁ、それを俺がとやかく言う資格なんてないか。

 現に今も、俺はここにいる誰よりも本当のことを知っているくせに、何もしようとしていない。

 

 俺は部屋の隅――中坊の指定席だった場所に移動し、腰を下ろす。

 

 疲れた。誰かの何かを背負うことが。本来そんなの、ぼっちの俺の与り知る所じゃない。

 

 もういい。どうでもいい。

 

 自分のことは、自分でやれ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 また誰か転送されてくる。

 すでにこれだけいるんだ。さすがに俺の知っている誰かだろう。

 

 そして案の定、そいつは俺の知る奴だった。

 

「…………よぉ」

「比企、谷……」

 

 折本は現れるなり俺をまじまじと見つめてきた。その目にあるのは驚愕と……安堵?

 

「比企谷ぁ!」

 

 すると折本は涙を浮かべ、俺に飛びついてきた。

 

 ……え? なになにどういうこと!?

 俺の胸に顔をうずませ、涙声で折本は言う。

 

「……公園で、アンタ見かけたら、なんか、消え始めて……そしたら、私の腕もなくなって……もうわけわかんなくて!……すごく……怖かったぁ……」

 

 折本は俺の制服をぎゅうと掴む。

 ……そうか。折本はまだ2回目。そりゃ戸惑うか。……むしろ、慣れ始めてる俺が異常なんだ。

 

 

「大丈夫だ、御嬢さん。怖がることはない。ここはためしの場。私と一緒に念仏を唱えれば、極楽浄土に往土できる」

「…………比企谷。この人何言ってんの?」

 

 俺に振るな。ってか、念仏唱えれば行けちゃうのかよ。簡単だな、極楽浄土。

 っていうか近い近い。至近距離でキョトンとするな。惚れちゃうだろうが。いい匂いだなぁ。

 

 

 

 ビーという音と共に、この部屋に新たな人物が追加される。

 すると我に返ったのか、折本が自分の状況に気づき、顔を赤くして慌てて離れた。だからそういう反応やめろ。どきっとするだろうが。

 

 そいつは――――

 

「葉山……」

 

 葉山隼人だった。

 葉山はこの部屋に転送されたことを悟ると顔を歪ませたが、すぐに雪ノ下とも陽乃さんのとも違う、葉山特有の仮面をつけた。

 そして、こちらに気づく。

 

「比企谷……折本さんも」

 

 俺は軽く目線で応えたが、折本は露骨に不機嫌になり顔を背ける。

 この二人、なんかあったのか?

 

 次々と増える人たちに坊さんは困惑していたが、気を取り直して葉山に話しかけようとする。

 

 するとその時、ガチャと廊下へとつながる扉が開いた。

 綺麗な顎に細い指を添えながら「ん~」と唸っているその人物は、俺が知っている人――――だが、この場所にいることが、一番信じられない人物だった。

 

 その女性が顔を上げると、部屋の片隅にいる俺に真っ先に気づく。

 そして、すぐにあの“強化外骨格な笑顔”を、この絶望の場所に不釣り合いな精巧過ぎる笑顔を向ける。

 

 

 

「あ、比企谷君だ~。ひゃっはろ~」

 

 

 

 雪ノ下陽乃。

 

 

 俺が今、ひょっとしたら雪ノ下以上に会いたくない人物だった。

 いや俺がこの人に会いたい時なんて、出会ってから今まで一瞬たりともないんだが。

 

 けど。だけど。

 

 

 今この時だけは、本当に、会いたくなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「…………陽乃さん」

「ん? あれ? 隼人じゃん。隼人もこんな所に? あ、それに君は前に会ったことあるよね。 あらら、ちょっと探検してる間にずいぶん知り合いが増えてお姉さん心強いよ」

 

 表面上はいつも通りを装ってはいるが、いくら雪ノ下陽乃といえど、この状況は相当切羽詰まっているはずだ。陽乃さんのように頭のいい人間ほど、こういう理論じゃ説明出来ない状況に混乱するはず。

 まぁ、あの坊さんの言うことに一切耳を傾けず、おそらく誰も知り合いがいないであろうこの状況でパニックにならずに情報収集に動いていたのは、さすがというところか。

 

 今は俺よりも陽乃さんに近いところにいた葉山と何か話している。おそらく葉山が陽乃さんにこの状況を説明しているのだろう。

 その後は葉山のことだ。今、極楽浄土が云々と信じ込まされている他の連中にも同じように説明して、全員を救おうと動くだろうな。

 

 ……俺の認識している――認識していた――葉山隼人なら、だが。

 

 俺はその二人の様子を傍から見ていたが、そっと壁から背を離す。

 

 ……ダメだ。今、あの人とまともに言葉を交わせる気がしない。

 

 

『もう、無理して来なくていいわ……』

 

 

 ……会わせる顔が、なさすぎる。

 

 

 俺は、会話を弾ませる葉山と陽乃さん、そしてその二人を少し離れた所から少しの敵意を放ちながら眺める折本に気づかれないように、陽乃さんが出てきた扉から廊下に移動した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 地獄のようなこの空間も、廊下の造りはごく普通のマンションと何も変わらない。

 風呂やトイレも完備しているのかいくつか扉があるが、どれも触れることは出来ない。

 

 このガンツルームで触れることはできるのは、あの球体がある一番大きな部屋から玄関へと繋がっているこの廊下へと繋がるあの扉と、球体の部屋から別の一室へと繋がる扉の2つだけ。前回女子が着替えに使った部屋だ。前に一度入ったが、何もなかった。

 

 

 

 そんなことを改めて振り返りながら、俺は廊下の奥へと進み、壁に手を突いた。

 

 …………無様、だな。

 俺は、雪ノ下どころか、その姉の陽乃さんにすら顔を合わせることが出来ない。

 

 俺が、雪ノ下の期待を裏切り、信頼――そんなものがあったのかすら、今となっては自信がないが――を失った。

 

 雪ノ下雪乃を、悲しませた。

 

 そんなことを言っても、陽乃さんは俺を責めやしないだろう。

 歪んではいるが、あの人は雪ノ下を大事に思ってはいる。シスコンを自負する俺が引くほどに。

 だが、それでもあの人は、俺を決して責めない。

 

 

 失望して、がっかりして、飽きて、見限られるだけだ。

 

 

 俺に対する興味を失うだけだ。

 

 

 ……はっ。それでいいじゃないか。俺は元々あの人が苦手なんだ。

 変な興味を持たれて、絡まれて、面倒なことにならなくなる。結構なことだ。

 

 俺はぼっちだ。俺の元から人が離れるなんて、今更だろう。恐れることはないだろう。

 慣れたもんなはずだ。

 そんなことで傷つくようなメンタルは、とっくの昔に持ち合わせてはいないはずだ。

 

 

 今まで散々、裏切られて、誤解されて、弾かれて、失望されてきたんだ。

 

 日常茶飯事だ。むしろ自分から遠ざかって嫌われるまである。

 

 

 

 

 

 …………なのに。

 

 

 

 

 ………なのに。

 

 

 

 ……なのに。

 

 

 

 …どうして、こんなに。

 

 

 

 

 

 こわいんだ。

 

 

 誰かに、失望されるのが。

 

 

 

 

 

 やめろよ。

 

 

 

 

 

 俺に、期待しないでくれ。

 

 

 

 

 

 だから、俺を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「比企谷君?」

「!?」

 

 

 その声は、陽乃さんだった。

 

 この人に向き合いたくないから、ここに逃げてきたのに。

 

 

「…………なんですか?」

 

 だが、ここまで来たら、もう逃げられない。

 

 俺は陽乃さんの方を向く。

 すると、陽乃さんは目を見開いた。

 

 どうしたんだ? 改めて俺の目の腐り具合に絶句したのか?

 

 陽乃さんは、ポツリポツリと、言葉を漏らす。

 

 

「比企谷君…………泣いて、るの?」

 

 

「はぁ?」

 

 何言ってるんだ、陽乃さんは? と思いながら、手を目元に持ってくると。

 

 確かに、俺は泣いていた。

 俺の腐った目から溢れた温い水滴が手の甲について、ポタポタとフローリングに垂れた。

 

「あ、あれ?……違うんすよ、これは……目にゴミが」

 

 なんてベタな言い訳をしてるんだと思いながら、今更ながらに自分が涙声なのに気づいた。

 

 ゴシゴシと乱暴に目をこする。だが、その手を外せない。

 陽乃さんに、こんな情けない自分を見せたくなかった。

 

 そして許せなかった。こんな風に子供みたいに泣いて、被害者ぶってる自分に。

 俺かわいそうアピールを、よりによって陽乃さんにしている自分に。

 

 

 ふざけるな。

 

 俺は誰よりも加害者だ。

 

 自分の間違った行動で、留美も一色も追い込み、由比ヶ浜を悲しませ、雪ノ下を失望させた。

 

 それが加害者でなくてなんだ。

 

 そんな奴が、被害者ぶって泣き喚いていいはずがない。

 

 

 すると、俺の体を暖かい何かが包んだ。

 

 

 俺の視界は、まだ自分の腕により塞がれて暗いままだ。

 

 だが、この暖かさの源は、分かる。

 

 

「…………やめてください」

「や~だ♪」

 

 ダメだ。こんなのは許されない。

 

 加害者の俺が、元凶の俺が、優しく慰められるなんてことは、あってはならない。

 

「………離れて、ください」

「なんで私が比企谷君なんかの言うことを聞かなきゃならないの?」

 

 その雪ノ下のような物言いが、俺の心を突き刺して、さらなる罪悪感をもたらす。

 

 けど、俺の体は、一向に陽乃さんを押し返そうと働いてくれなかった。

 

 

「……やめろよ。……もう……やめて、くれよぉ……」

 

 俺の声により一層嗚咽が混じり、情けなさを増す。

 

 もう恥も外聞も捨てて懇願する。ダメだ。これ以上は。

 

 これ以上、この暖かさに浸ってしまっては。……俺は。…………俺は。

 

 

 その時、暖かさが体から離れる。

 俺の懇願が受け入れられた結果なのに、不意に寂しさを感じてしまって、それを理性で抑え込む。

 

 だが、その暖かさは俺の視界を塞いでいる左手にだけは残って、そっと、決して強くない力で、それを剥がす。

 

 抗えない。

 

 やがて徐々に視界が景色を取り戻す。

 そこには、強化外骨格など微塵も感じられない、優しい笑顔を讃える陽乃さんの綺麗な顔が、すぐ目の前にあった。

 

 心臓が、跳ね上がる。顔の温度がみるみる上昇するのを感じる。

 

 俺は顔を背ける。その優しい眼差しが、あまりにも眩しくて。

 

 陽乃さんは、くすりと笑う。この人にかかれば、俺のこんな行動など物凄く子供っぽく映るだろう。

 

 本気で嫌なら、本気で嫌がる。陽乃さんがいかに只者でなくても、男と女だ。力づくで暴れれば、逃れることは出来るだろう。

 

 けど、俺はしない。出来ない。つまりは、そういうことだ。

 

 許されないのに。あってはならないのに。

 

 この暖かさに、優しさに。

 

 

「…………い・や・だ♡」

 

 

 抗えない。

 

 

 どうしようもなく。

 

 

 浸りたい。

 

 

 陽乃さんが、俺の頬に両手を添える。

 

 その濡れた瞳が、桜色に染まった頬が、雪のように美しい肌が、蠱惑的な紅の艶やかな唇が、ゆっくりと近付いてくる。

 

 俺は、陽乃さんの肩に手を置き、引き離そうとする。

 

 だが、その手にはまるで力が入らず、抵抗の意味を為さなかった。

 

 俺は、また、負けた。

 

 

 そして俺達は、キスをした。

 

 

 目を閉じ、再び視界を真っ暗にし、その柔らかい唇の感触を存分に感じた。

 

 視覚を封じた分嗅覚が鮮明になり、陽乃さんの甘い匂いが脳のより深くを刺激する。

 

 現実感がなくなる。

 

 まるで、天国にいるかのようだった。皮肉にも、ここが天国に一番近い場所ということも忘れて。

 

 いや、もう忘れたかった。何もかも忘れて、今はこの唇の柔らかさを楽しみたい。

 

 

 それが、許されないことだと分かっていても。

 

 

 陽乃さんが息を吸う為、唇を離す。その時の名残惜しそうな息遣いにすら、俺の心は揺さぶられる。

 

 俺は、陽乃さんの腰に手を回し、抱き寄せる。

 

 その時の陽乃さんの小さな悲鳴が、この人の意表を少しでも突けた気がして、少し嬉しかった。

 

 俺の顔を見上げた時の陽乃さんは、案の定呆気にとられていて。

 

 それが、どうしようもなく可愛くて。

 

 俺の人生のセカンドキスは、俺から奪いにいった。

 

 絶賛童貞中の俺は、ただ不格好に唇を重ねることしかできない。

 

 だが、たったそれだけの行為でも俺の中の何かが融け、少しずつ軽くなり、そしてその事にどうしようもなく罪悪感を覚える。

 

 

 けれど、今だけは、快楽に身を任せたい。

 

 

 これから先、どのような罰でも甘んじて受けるから。

 

 

 だから――――

 

 

 そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、再び息継ぎの為に顔を離すと、陶然とした表情の陽乃さんが、俺の首に手を回し、抱き着くようにして三回目のキスをした。

 

 その勢いで押され、背中が壁につく。

 陽乃さんの柔らかな二つの膨らみが、俺の体で押しつぶされ、形を変える。

 

 だが、そんなことはお構いなしに、先程の二回のキスとは違い、陽乃さんは荒々しく俺の唇に吸い付く。

 

 俺を求めてくれる。こんなにも無我夢中に。それがどうしようもなく嬉しくて。

 

 俺は、陽乃さんの腰を力強く抱き寄せ、陽乃さんの口づけを受け入れた。

 

 ……あぁ。ダメだ。俺は、この人からもう離れられない。

 

 

 

 

 

 俺は

 

 

 陽乃さんに

 

 

 溺れてしまった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 彼は、こちらに目を合わせようとせずに、廊下へと姿を消す。

 

 あんな彼を、私は始めて見た。

 

 彼は決して最強ではない。むしろ、一般的な男子高校生より、はるかに弱い。

 

 例えば、今私と会話している隼人なんかよりは、はるかに。

 

 だけど、だからこそ彼は、決して人に弱さを見せない。

 いや、見せることはあるが、見せ方が違う。

 普段の彼は、誰かに攻撃されるよりも先に自分の弱さをひけらかして、見せつけることで、弱点で武装することはある。自分にとってはこんなのはなんともないと誇示し、そうすることで身を守ることはある。

 

 だが、今の彼は、違う。

 

 前回会った時も少なからず正常運転というわけではなかったが、あれからさらに何かあったのか。

 

 いや、もし、今隼人が話してる荒唐無稽のおとぎ話が事実なら。

 

 あの比企谷くんでも、追い込まれるかもなぁ。

 

 ……ちょっと、鎌かけてみようか。

 

 せっかく目を付けていたあの子が、こんなイレギュラーで潰れちゃうのはもったいない。

 

 雪乃ちゃんを受け入れてくれそうな子が、やっと、やっと見つかったんだから。

 

 ……あの二人には、もっと、もっと……。

 

 

 

 

 

「――というわけなんだ。……信じ、られないよな」

「ううん。信じるよ」

 

 隼人が呆気にとられる。

 何?この期に及んで、常識に縋りつくとでも思ったの?この私が?

 

 そもそも、この私がこんなとこに連れてこられてた時点でもう事態は普通じゃない。

 

 これがただの誘拐ならすでに雪ノ下家が何らかの行動をとっているはずなのに、いつまで経ってもそれがない。

 

 始めはあの坊主の人が何か胡散臭いことを言ってくるから新手の新興宗教による集団的な拉致かと思ったけど、むしろそういう場合はこちらよりも同等あるいは多数の人間でそういう空気を作らなきゃ効果は薄い。見るところあのお坊さんにお仲間はいなさそうだしね。

 

 そして、さっき私は玄関に触れなかった。

 

 ここまで条件が揃えば、明らかに普通じゃない。むしろ隼人の説明で納得したくらいだ。

 

 見ると、隼人が苦笑してる。

 ようやく自分の浅さに気づいたみたいね。あなた如きが私のことを心配するなんておこがましいのよ。

 

 ……にしても、この子ずいぶん慣れてるわね。

 比企谷くんはともかく、隼人みたいなタイプはこういう状況は明らかに弱そうなのに。

 

 ……もう何回も経験してるってことか。

 隼人だけなら生き残れそうにないから、おそらく彼も同数かそれ以上の数を生き残ってきたのか。

 

 

 

 また、あの黒い球体――ガンツ だっけ?――から、人が転送されてくる。

 ……本当に現代科学を大きく凌駕してる。確かに、コイツに勝つには、一筋縄ではいかなそうだ。

 

 

 その為にも、彼だ。

 

 

 私はまだ、こんなところで終わるわけにはいかない。

 

 

 

「じゃあ、隼人。後よろしく」

 

 そういうと隼人が何か言っていたが、無視する。

 新しく来た子達も隼人の知り合いみたいだし――なんか女の子は見たことがあるような……まぁ、いっか♪――後の色々メンドクサイことは隼人に任せよう。坊主さんの相手とか。

 

 私は廊下に出た比企谷君を追うべく、扉に手をかける。

 

 

 

 ……にしても、そっか。

 

 

 

 私、やっぱり、死んだんだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 廊下に出ると、そこに比企谷くんは居た。

 

 

 壁に両手を拳の形で押し付けて、顔を俯かせ、肩を、拳を小刻みに震わせている。

 

 彼がここまで感情を露わにしているのを、私は始めて見た。

 

 一瞬本当に比企谷くんなのか疑ったくらい。

 

 そのせいか、自分でも知らず知らずの内に、口から言葉が零れ出てしまった。

 

 

「比企谷君?」

「!?」

 

 彼はビクリと過剰に反応し、体の震えを止め、ピタリと静止する。

 

 少しの間そうしていたが、やがて決心がついたかのように、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

 

「…………なんですか?」

 

 その光景に、私は今度こそ絶句する。

 

 この時の私はさぞかし間抜けな顔をしていたに違いない。

 

 それぐらい、私には衝撃だったのだ。

 

 

 彼は、比企谷君は。

 

 あの、比企谷君が。

 

 泣いていた。

 

 

 目元を真っ赤にし、その生気のない双眸から透明の雫を溢れさせていた。

 

 私は、掠れた声を絞り出して、彼に言葉をかける。

 

「比企谷君……泣いて、るの?」

「はぁ?」

 

 何言ってるんだと言いたげに怪訝な表情を向けながら、彼は目元を拭う。

 

 その時初めて、自分が泣いているのだと気づいたようだ。

 

 比企谷君は分かりやすく狼狽し、必死に取り繕う。

 

「あ、あれ?……違うんすよ、これは……目にゴミが」

 

 いつもつらつらと流れるように出てくる皮肉気で自虐的な言い訳も出てこないくらい余裕がないらしい。目にゴミなんて本当に言う人初めて見た。

 

 彼は先程までとはおそらく違った理由で顔を赤くし、それを見られまいと必死に腕で顔を隠す。いつまで経っても外そうとしない。

 

 

 ……あぁ。この気持ちはなんだろう。初めて覚える感情だ。

 

 雪乃ちゃんに対する愛情とは、また別。

 

 年下の男の子に対する庇護欲?それとも泣いている子を慰めてあげたいという母性本能だろうか?

 

 ……ううん。なんとなく、違う。これはそんな不特定多数に対して抱く感情じゃない。

 

 

 これは、比企谷君だからこそ、抱く感情だ。

 

 

 これは、比企谷君に対してだけ、宿る感情だ。

 

 

 愛おしい。この、強くて、弱い少年が。

 

 

 私は、ゆっくりと、彼に歩み寄って。

 

 

 両手で包み込むように、彼を抱きしめた。

 

 

 不意に、彼の体がビクリと跳ねる。

 

 暖かさに、怯えるように。

 

「…………やめてください」

 

 案の定、彼から出たのは拒絶の言葉。

 

 弱い、弱い、強がりの言葉。

 

 だから、やめてなんかあげない。

 

「や~だ♪」

 

 彼の身長は、私よりも少し高いくらい。目線はほとんど変わらない。

 

 だから、こうして顔を俯かせる彼を抱きしめると、胸に抱く感じになる。

 

 胸の中で震える彼が、どうしようもなく愛おしい。

 

「………離れて、ください」

 

 彼は、まだ、怯えている。

 

 自分に向けられる好意に。自身を包み込む暖かさに。

 

 彼は、怯えている。

 

 その裏に、“あるかもしれない”悪意に。

 

 それとも彼にとっては、100%の善意こそが、何よりの毒なのかな?

 

「なんで私が比企谷君なんかの言うことを聞かなきゃならないの?」

 

 私は、離さない。離してなんかやらない。

 

 彼が望んでないとしても。私がそうしたいから。

 

 それに彼は、言葉では拒否するけれど、一向に振り払おうとはしない。

 

 勘違いしたく、なっちゃうじゃない。

 

「……やめろよ。……やめて、くれよぉ……」

 

 彼は震える。

 

 ……一体何が、彼を、あの強い彼をここまで追いつめたのかな?

 

 私?……い、いや、否定はできないっていうか……確かに要因の一端である可能性は高いけれど……こないだちょっと雪乃ちゃんいじめ過ぎちゃったし。その勢いで比企谷くんも怯えさせちゃったし。

 

 でも、この怯え方は、ちょっと普通じゃない。

 

 好意が信じられないっていうより、まるで。

 

 

 好意を許容してしまうことを、恐れているかのような。

 

 

 ……もしかして、自分にはその資格はない、とか、そんなことは許されない、とか考えているのかな?

 

 ……ああ、ありそう。それ。

 

 ……本当に、不器用なんだから。

 

 

 頑固で、強いけれど、その実誰よりも不器用で、純粋。

 

 そんな……私にとって、とっても眩しい、綺麗な存在。

 

 

 

 ……ほんと、嫉妬しちゃう位、そっくりでお似合い。

 

 

 

 どっちに対して……かな?分かんないや。

 

 

 私は、ゆっくりと比企谷君から離れる。

 

 だけど、別に言葉上のお願いを鵜呑みにしたわけじゃない。

 

 ……だからそんなに寂しそうにしないで。

 

 私は、彼の視界を塞いでいる左手をそっと払う。

 

 力は込めていないけれど、その腕はゆっくりと剥がれる。

 

 そこから現れたのは、いつもは彼のそれなりに整っている顔を台無しにしている瞳。

 

 けれど、今はその濁った瞳に溜まった雫が、天井の蛍光灯の光を反射してキラキラと光って見えた。

 

 

 その目が、どうしようもなく、欲している。

 

 それが、私の心に痛いほどに伝わってくる。

 

 

 彼は顔を真っ赤にし、私と目を合わせないように背ける。

 

 私はくすっと声に出さずに微笑んだ。彼のそんな抵抗が可愛くて。微笑ましくて。

 

 愛しくて。

 

 彼は、逃げない。それって、そういうことだよね?

 

 彼は、決して鈍感ではない。むしろ敏感だ。悪意にも。そして好意にも。

 

 だけど、彼は、悪意を恐れてる。だから、必死に予防線を引くのだ。あらゆる可能性を考慮に入れて。

 好意も、その裏に悪意が潜んでいる可能性を考えて、遠ざける。

 

 そんな生き方は、彼に平穏を齎しただろう。

 

 それでも、決して幸福で満たしてはいなかった。

 

 どれだけ自己肯定を重ねても、彼は心の奥底で欲していたのだろう。

 

 好意を。自分に向けられる、策謀なき好意を。見返りを求められない、無償の愛を。

 

 けれど、求めるのは怖くて。期待しても、裏切られるのが嫌で。

 

 

 ……なら、私が、捧げたい。

 

 

 私も、そんなものは知らない。

 

 彼が求めるような綺麗なものを信じられるほど、私はおそらく純粋じゃない。

 

 そんなものを信じるには、私は汚いものを見過ぎた。汚れてしまった。

 

 

 けれど、教えたい。彼に、それを教えるのが、私でありたい。

 

 

 誰にも、その役目は、渡したくない。

 

 

 

 私は、彼の両頬に優しく両手をあてがう。

 

「…………い・や・だ♡」

 

 

 彼の手が、私の両肩に置かれる。彼はおそらく、抵抗の意思表示のための行動なのだろうけれど、まったく力の入っていないそれを、私は逆に肯定と受け取った。

 

 私は、ゆっくりと彼に顔を近づける。恥ずかしながら、こういった行為の経験はいまだに一度もない。

 

 心はすっかり汚れてしまったけれど、せめて体はと必死で守り抜いてきた。

 

 今、本当にそうしてきて良かったと、心から思える。

 

 こうして、彼に初めてをあげられるから。

 

 

 ……ごめんね。雪乃ちゃん。でも、今だけは許して。

 

 

 ……愛なんて、私は知らないけれど。

 

 自分なりの、精一杯を。

 

 この胸いっぱいの“これ”が、彼に届くように。

 

 “これ”が愛だと、あなたへの想いだと信じて。

 

 私は、比企谷くんに、大事にとっておいたファーストキスを捧げた。

 

 

 

 目を閉じて、全身を駆け巡る幸福感に身を委ねる。

 

 唇と唇が接しているだけなのに、まるで彼と繋がったかのような錯覚に陥る。

 

 おそらく彼も始めてなのだろう。

 お互いどうしていいか分からずに、始めに接した状態から全然動けない。初心者丸出しのみっともない子供なキス。

 

 でも、そんなことがどうしようもなく嬉しくて。

 

 私も、彼のように綺麗になれた気がして。

 

 

 名残惜しかったけれど、息が続かなくて、やむなく唇を離す。

 

 限界ギリギリまで離れたくなくて、思わず吐息が漏れちゃった。

 

 彼の反応が気になって、彼の目を見つめようとする。

 

 ……もしかして、今の行為を後悔していないだろうか。

 

 そんな不安は、私の腰に手を回して私を抱き寄せた彼の行為で吹き飛んだ。

 

 思わず小さな悲鳴が漏れる。

 

 そして彼の腕の中にいること。彼の胸の中にいること。彼の温もりが私を包んでいることで、どうしようもなく体温が急上昇してしまう。

 

 いつも受け身な彼の、少し強引な男らしい行動に、キュンと心臓がときめいた。

 

 思わず彼の顔を見上げると、彼はこちらを愛おしそうに見つめていた。

 

 その彼の表情に、心が燃え盛った瞬間。

 

 彼が私の唇を塞いだ。人生二回目の、それも今度は彼から求めてくれたキス。

 

 今度も酷く不格好で、お互いの唇を重ねるだけのスマートとはいえないキスだったけれど。

 

 私の心は、みるみる内に満たされていく。

 

 膨れ上がる。溢れ出す。彼への想いが。彼への好意が。彼への愛が。

 

 

 再びお互いの息が限界になり、唇が離れると、今度は再び私からキスを求める。

 

 もう抑えきれなくて。彼が欲しくて、欲しくて、欲しくて。

 

 とびかかるように、襲いかかるように、彼を求めた。

 

 彼の首に手を回し、全身で彼を感じたくて彼に体を押し付ける。

 

 彼の意外に筋肉質な体が、私の熱い体を受け止めてくれた。

 

 今までのキスとは違い、荒々しく、貪るように彼の唇に吸い付く。

 

 そして、彼は、私の腰に手を回し、そんな私を受け入れてくれた。

 

 ……ああ、もうダメだ。私はもう、彼を知らなかった頃には戻れない。

 

 

 

 

 

 私は

 

 

 

 比企谷君に

 

 

 

 狂ってしまった。

 

 

 

 




少し長くなってしまいましたが、区切るとこが分からなくて。

何はともあれ、雪ノ下陽乃(魔王)加入。

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