……はやいなぁ。もうここまで来ちゃったか。
早く二部の続き書かないとなぁ……。
ついに、比企谷八幡は失った。
「もう、無理して来なくていいわ……」
雪ノ下は酷く優しい声で、けれど酷く寂しげに言った。
……どうして、こうなっちまうんだ。
雪ノ下は俺に背を向け、ローファーを鳴らしてゆっくりと遠ざかる。
今、行かせてしまってはダメだ。このままで終わってしまっては絶対にダメだ。
けれど、俺の足は縫い合わせたかのようにピクリとも動いてくれない。
あの部室の、椅子の位置のように。
雪ノ下の後姿が、クリスマス前の街の雑踏の中に消えていく。
俺は口を開くが、声帯は何も発しない。
搾り出す言葉が、何も見つからないから。
俺は、ただ失いたくなかったんだ。
初めて失いたくないと感じた居場所を、守りたかっただけなんだ。
知っていたから。散々聞かされてきたから。
――大事な物は、替えが利かないと。
――かけがえのないものは、失ったら二度と手に入らないと。
だから、信念を曲げた。
嘘を吐いた。偽りに縋ってしまった。
うわべだけのものに意味を見出さない。
それは、彼女と共有していたであろう信念。
それを曲げた。歪めて、捻じ曲げて、手放した。
だから、雪ノ下雪乃に、見限られてしまった。
――これが、あの部屋の地獄を生き抜いてまで、やりたかったことなのか。
俺は、一体何のために……。
忙しなく行き交う人混みの中で、雪ノ下の最後の言葉と、去りゆくローファーの足音が、虚しく耳に残り続けていた。
+++
中坊を失った、二回目のミッションを終えた翌日。
不眠不休で学校に向かった俺を出迎えたのは、由比ヶ浜からの奉仕部への依頼の知らせだった。
依頼主は、一色いろは。
依頼内容は海浜総合との合同クリスマスボランティアのサポート。
驚いたことに雪ノ下は、この依頼を受けるか否か、俺達の意見を聞くというのだ。
今まで雪ノ下は依頼を受けることに躊躇したことはなかった。断るときも間髪入れずにその場で断っていた。
問いかけてきた由比ヶ浜はやりたそうにしていたが、俺は断るように言った。
生徒会長をやりたかったかもしれない雪ノ下に、その生徒会のサポートを間近でやらせるのは、どうにも酷なことに思えたのだ。
俺は由比ヶ浜にそのことを雪ノ下に伝えておいてくれというと、彼女は残念そうに肩を落として去っていった。
少し心が痛んだが、仕方ない。
俺は放課後に生徒会室に向かった。
そして一色に、奉仕部としてではなく、個人的にサポートすることを約束する。
奉仕部としては依頼を受けづらくとも、俺には一色を生徒会長にした責任がある。出来る限りのことはしてやるべきだと思った。
だが、それは思った以上に困難だった。
相手側の高校が思った以上に難儀な集団だったのだ。
具体性がまるでなく、その癖一見すると活発な会議。
中身が定まらず、膨れ上がる規模。押し迫るスケジュール。
こちら側の代表者である一色は一年生ということもありなかなか強く出ることが出来ない。
ただ時間だけが、無為に過ぎていった。
一色と入れ違いになり迎えに行こうとサッカー部を訪れた時、人が変わったかのような葉山隼人と鉢合わせた。
あのミッション以来、葉山は時々表情を失くす。精神が限界にきているのかもしれない。そのせいか、葉山グループの雰囲気が最近おかしい。
それは最近の相模との噂も一因かもしれない。
今回の相模は茶化すようにではなく真面目にその噂を否定しているからそこまで大げさに広まってはいないが、三浦は相模と一緒に下校する葉山を見たと言っている。そのせいか、葉山と三浦に距離が出来てしまい、それも雰囲気の悪化につながっているのかもしれない。
真実を知っている俺は、おそらく事情を――ガンツに関する悩みを共有できる相模を支えにしているのだろう、と考えている。相模も支えになりたいと思っているのかもしれない。
まぁ、そういったことから真実に恋心が芽生えることもあるのかもしれないが、そこまでいくと俺の範疇じゃない。好きにすればいい。
だが、葉山の様子がおかしいのは確かだ。より具体的に言うならば、人畜無害な爽やかイケメン像が時折崩れ、ぞっとするような冷たい一面が露わになる。
それは葉山隼人という人間が元々持っていた一面なのだろう。
林間学校の時も、修学旅行の時も、そしてこないだの生徒会選挙の時も、その片鱗をちらつかせていた。
俺は葉山隼人という人間のことを、何も知らなかったのかもしれない。
「……俺は君が思っているほど、いい奴じゃない」
忌々しげに呟き、俺を睨み据えて言ったその言葉に、迫力に、俺は。
怖い、と。
そう思ってしまった。
その後、俺は一人でコミュニティセンターに向かうと、途中いつものようにコンビニからお菓子の袋を抱えて出てきた一色を目撃した。
なんだ入れ違いかとんだ徒労だったと思いながら近づくと、一色の顔が暗く、俯いていることに気づく。
当然だ。
一色は生徒会長になりたてで、同じ総武高の生徒会のメンバーとも打ち解けていない。
その上更に他校の人間との関係も築かなくてはならないのだ。負担でないはずがない。
そして、その負担を背負わせたのは、俺だ。
俺はそのコンビニ袋を一色の代わりに持った。
俺には、それくらいしか出来ない。
流れで参加することになった小学生の中に、あの鶴見留美がいた。
夏休みの林間学校。
あの時に彼女を取り巻く人間関係をぶち壊し、トラウマを植え付けた少女。
彼女は相変わらず一人だった。
あの時のグル―プのメンバーは彼女しかいなかったから詳細は分からない。
俺の目論見通りあのグループが解散したのかもしれないし、今でも学校ではあのグループは健在で留美を追いつめているのかもしれない。現在の彼女を取り巻く人間関係は窺うことは出来ない。
だが、少なくとも、鶴見留美は相変わらず一人だった。
今日もまるで進行がなかった。
にも関わらず、有限の時間はみるみる消化されていく。
玉縄と俺の相性は最悪だ。
何を言っても暖簾に腕押し。効果がない。それにアイツの言い分も決して間違っていないから性質が悪い。
何も出来ない。
ストレスだけが溜まっていく。
一色と留美の現状を見ると、まるで俺の今までの活動が間違っていたかのように感じる。
いや、事実、間違っていたのだろう。
俺がやってきたのは、全て問題の解消だ。解決じゃない。ただの先延ばし。
先延ばしにした問題は、時に形を変え、時により大きな問題となって降りかかる。
俺はそれを今、見せられている。見せつけられている。
だが、それなら。
俺は今まで、いったい何をしてきたんだのだろう。
+++
雪ノ下に会ったのは、そんな時だった。
貴重なはずの時間を無理矢理つぶすような無為な作業を終え、コミュニティセンターの近くのケンタにパーティバレルを予約した後だった。
俺が何の用もなくこんな時間にいるべきではない場所だった。
当然、雪ノ下からもそこを突かれる。
「……こんな時間に、どうしたの?」
「……まぁ、色々な」
俺は本当のことを言うわけにもいかず、ぼかした感じで言ったのだが。
「そう……一色さんの件、手伝っているのね」
雪ノ下には、通じない。
その声は、氷細工のように冷たかった。
「成り行き上……な。……悪かったな。勝手にやって」
しかし、責めているような、口調ではない。
「あなたの個人的な行動に、私の許可は必要ないでしょう。……それに、あなたなら一人で解決できると思うわ。これまでのように」
まるで、何かを。
「……俺は何も解決なんてしてない。一人だから一人でやっているだけだ。お前だってそうだろ」
諦めて、しまったような。
「私は……違うわ。いつも、できてるつもりで……わかっているつもりでいただけだもの」
その微笑は、とても美しかった。精巧な、仮面のように。
俺は、そんな顔は見たくなかった。
その仮面を外す為に、これまで戦ってきたはずなのに。
雪ノ下は何か言葉を続ける。
だが、よく覚えていない。
なにかたどたどしく言い返した気がするが、それはただの足掻きでしかなく、そんなものが雪ノ下の仮面を被った心に届くはずもなくて。
すでに決まってしまった
そして、突き付けられる。最後通牒。
「――けど、別に無理する必要なんてないじゃない。それで壊れてしまうなら、それまでのものでしかない……。違う?」
その問いかけは、まったく関係ないのに、奉仕部を取り戻すために奮闘したあの戦いを、あの命懸けの戦争を、なぜかまるごと否定された気がして。
何も、言えなかった。
最後のチャンスを逃してしまった。
彼女は悲しげに微笑み、小さく吐息を零す。
雪ノ下の綺麗な唇が、これ以上ない残酷な言葉を紡ぐ。
俺が、みっともなく縋っていたあの場所を、終わりにする言葉を。
「もう、無理して来なくていいわ……」
+++
気が付いたら、どこかの広場のベンチに座り込んでいた。
はぁ……と空中に息を吐き出す。肺の中にたまっていた嫌な空気は真っ白に染まり、すぐに消えた。
だが、肺の中はすぐに気持ち悪い空気で再び満たされる。
それとは逆に、心にはポッカリと空虚な穴が開いてしまったかのようだ。
……分かっていたんだ。永遠なんてないことくらい。
いつか、必ず壊れてしまうなんてことくらい。
修学旅行のあの一件がなくても、生徒会長選挙のあの失敗がなくても。
いつか、必ず訪れていたことなんだ。
にも関わらず、俺は逃げた。向き合わなかった。立ち向かわなかった。
それが、これだ。この様だ。
本来ならすぐにでも行動に移すべきだったんだ。取り返しがつかなくなる前に。
いや、まだ取り返しがつくのかもしれない。だが、やり方が分からない。
俺は仲直りの方法なんて知らない。今まで仲直りをするべき友達がいなかったから。
雪ノ下には速攻で断られ、そして友達になる前に……中坊は死んだ。
……そうだ。ここ最近間が空いたが、ガンツの次のミッションはいつなんだろうか。
俺は今まで、奉仕部の現状をなんとかしなければならない、これをモチベーションに――心の支えに戦ってきた。
だが今は、その支えがポッキリと折れてしまった。
まだ終わったわけじゃない。ここから直すんだ。
雪ノ下の信頼を取り戻し、再びあの日常へ。紅茶の香り漂う、あの部室に。
そう、理屈では理解しているのに。
心が、追いつかない。隙間が埋まってくれない。
はは……今の俺は絶好の駆け魂のターゲットだろうな。あれ?あれって女限定なんだっけ?
……ダメだ。いつもみたいにくだらない脳内遊びをしてみても、何も変わらない。
俺は、いつからこんなに弱くなったんだ。
こんな状態で…………俺は、生き残れるのか。
思わず、天を仰ぐ。アニメとかなら心情を表現するために雨とか雪とか降るんだろうが、皮肉にも空は澄み切っていて、綺麗なオリオン座が見えていた。
しばらく意味もなくこうしていると――
「…………はっ。嫌になるな。本当に」
俺の人生には碌なことがない。
思わずそんなことを吐き捨てたくなるような、まるでどこからか見ているかのような、最悪な悪意しか感じないタイミングで――
――首筋に、悪寒が走った。
別に寒空の下で黄昏ていたから風邪を引いたってわけじゃない。
その証拠に、俺の足は徐々に消失し――転送され始めていた。
また、あれが始まる。あの部屋に送られる。
だってのに、俺の心は、まるで奮い立たなかった。
+++
「おい……ちょっと、面貸せよ」
達海が部活終わりにゲームセンターで息抜きをしていた時、その背中から数人のガラの悪い輩たちが達海に声をかけてきた。
「……はぁ。何のようっすか?」
折本がクリスマスイベントとやらのメンバーになってから付き纏われる時間も減り(決してなくなったわけではない)、いい気分でゲームに熱中していたところを邪魔されて、達海は声に不機嫌さが出てしまったことを自覚した。
「……てめぇ。目上の人間に対する礼儀がなってねぇな」
一体何を持ってして、自分を俺よりも目上だと判断しているのか。
そんなことを達海は思ったが、何分すでに店内の注目を集めてしまっている。
今は決して深夜というわけでもなく、ここは不良たちの溜まり場というわけでもない。
ごく普通の駅前のゲームセンターだ。学校帰りの中学生や、なんだったら小学生も利用するような。彼らはこっちを見て明らかに怯えている。
不良たちが自分目当てでこんなテリトリー外に足を運んだことも明白であり、達海は溜め息を吐きながら格ゲー用の座高の低い椅子から腰を上げた。
歩くこと数分。達海は路地裏で不良たち三人に囲まれていた。
達海はお決まりの展開に内心うんざりしながらも理由を尋ねる。
「で、何なんですか?」
「とぼけんな!人の女に手ぇ出しといて、ただで済むと思ってんじゃねぇよな!あぁ!?」
またか。と達海は思った。
勿論、達海に身に覚えはない。
大方コイツの(元)彼女が達海のファンになり、別れを切り出したのだろう。その事の逆恨み。こういった因縁を吹っ掛けられるのも一度や二度ではない。
大方その程度なのだ。彼女のコイツに対する想いとやらは。
そして、その程度の想いしか抱かせなかったくせに、この男は彼女にではなく、自分にでもなく、達海にその原因を押し付けて憂さを晴らそうとする。
それで彼女とやらが帰ってくるわけでもあるまいし。
達海は大きく息を吐く。その行為に不良たちの額に青筋が浮かぶ。
いつもの達海なら、ここでわざわざこんな風に相手を煽るような真似はしない。
そもそもこんな所にむざむざと付いて来たりしない。
その程度の敵意を嗅ぎ分ける嗅覚は、達海にはある。今回もどうせそんなことだろうと思っていた。
ちなみに達海はこんな奴らにやられるほど喧嘩は弱くない。運動神経が段違いだ。
しかしそれでも普段の達海はこんな愚行を犯さない。こんなくだらないことで万が一怪我でもしたら最悪だ。
「コイツ……なめやがって」
「やっちまうか……」
「イケメンがぁ……」
不良たちは一斉に達海に襲いかかる。
それなのに今回達海がこんな愚行に走ったのは――――制服の中に着こまれた、黒いスーツ故か。
「ねぇ!」
達海が路地裏から出ると、そこには息を切らせた折本がいた。
それを見て達海は露骨に舌打ちをし、無視して足を駅の方向に向ける。
「待って!」
去りゆく達海の手を後ろから折本が掴む。
「なんだ――」
「さっき」
達海は振り払おうとしたが、真剣な眼差しで自身を見据える折本の目に、動きを止めた。
「そこの路地裏で何してたの?」
「…………関係ないだろ」
今度こそ力強く折本の腕を払い、帰宅しようとする。
その背に向かって折本の声が響いた。
「今までああいう奴らは適当にあしらってきたじゃん!なんで――」
「別にいいだろ」
「絶対に怪我しないのに、何であんな奴らを気遣う必要がある」
そういって顔だけをこちらに向けた達海は。
口元を歪め、笑っていた。
+++
折本はトボトボと宛もなく歩いていた。
先程の、達海の笑顔。
怖かった。だが、同時にとても無邪気だった。
新しいおもちゃに夢中になっている子供のような。
父親に教えてもらった知識を弟に嬉しそうに話すお兄ちゃんのような。
達海は、どこか変わってしまった。ように、折本は感じていた。
あの部屋から帰ってきた、その日から。
八幡は言った。またあそこに送られると。100点をとるまで、逃れることは出来ないと。
あれから数日が経った。まだ再招集はかからない。だが折本は、なぜか解放されたという気分にはなれなかった。
どうしようもない不安に駆られて、学校でこっそり達海を誰もいない場所に引っ張り問いかけたことがあった。
怖くないのか、と。
達海はあっけらかんと答えた。
『100点を取ればいいんだろ。簡単だ。見てろ』
その時は、なんてカッコいいんだとうっとりしたものだったが、今思えば明らかに変だ。
なぜ、達海はあんなにも自信満々なのだ?
この間は死にかけて、実際に死んでしまい帰って来なかった者までいるというのに。
ぶるっ!と体が震えた。寒い。怖い。折本は、どうしようもなく不安になった。
達海はまるで別人のようだ。誰か、他に頼る人は。
八幡は言った。あの部屋の事を誰かに話すと頭が爆発すると。
それは、実際に人の頭が破裂する所を目撃した折本には、嘘だと思えなかった。
そして、そこで、気づいた。そうだ。八幡がいると。
折本の中では先日のミッションを終えて、葉山の評価はどん底になったが、八幡の評価は少し上がっていた。
自分達と違い、怯えることなく敵に猛然と立ち向かうその姿は、自身の中の八幡のイメージとは大きくかけ離れたものだった。
そして、今回のクリスマスイベントの会議。
場の空気に流されず、自身の意見を恐れずに言うその姿は、まるでこういったことに慣れているかのようだった。
その姿は、少なくとも、カッコ悪くはなかった。
頼ってみてもいいかな、と思ったその時。
「…………比企、谷?」
ふと顔を上げると、広場のベンチに八幡がいた。
足を伸ばし、ベンチの背もたれにもたれかかり、空中に白い息を吐き出していた。
(なんか……落ち込んでる?)
何かあったのかと折本は訝しんだが、こうして会ったのだから声を掛けようとした。が。
折本は、首筋に嫌な悪寒が走ったのを感じて、思わず立ち止まった。
そして、戦慄する。
目の前の八幡が、少しずつ消えていく。八幡はまったく動じていないが、明らかに異常な光景だった。
思わず悲鳴を上げそうになり、口を手で覆う――――が、その手が、なくなっていた。
レーザーのようなものが、徐々に手首を侵食し、肘へと迫ってくる。レーザーに侵された部分は消失していた。
自分の体が。
なくなっていた。
「……い、」
今度こそ、折本は哭いた。
「いやぁぁぁぁぁああああああああああああアアアアアアア――――――――――」
誰もいない公園の横の道を行き交う人達は、悲鳴を聞いて足を止め、公園に目を向ける。
だが。
そこには、誰もいなかった。
次回、あの人登場。