比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

130 / 192
……『本物』を……あきらめないで……

 そして、その救いのない俺の物語(じきょう)を語り終えて、俺は陽乃さんを、ようやく真っ直ぐに見据える。

 

 

 中坊達がいなくなってから、少なくとも一時間以上は経っている。

 

 ここまで来れば、黒い球体の配慮であることは確実だろう。俺は存外、随分と気に入られていたらしい。

 

 

 陽乃さんは、ずっと俯いたまま、一言も口を挟まず、ただ黙って俺の話を聞いていた。

 

 

 呆れているのか、怒りを堪えているのか――それとも、見下げ果てているのか。

 

 失望は、確実にしているだろう。比企谷八幡という男に、見切りはつけているだろう。

 

 

「……………」

 

 

 ……きっと、俺は、もう二度と、誰かを好きになることはない。

 

 

 陽乃さんが俺に対して憎悪の感情を抱いたとしても、俺にとっては、陽乃さんよりも愛する女性(ひと)が現れることは、きっとないだろう。

 

 

 それまでに、俺は確実に死ぬだろうから。

 

 

 だから、これがきっと、最初で最後の――『本物』の恋だ。

 

 

 ああ……きっと、これが、『本物』の愛だ――こんな俺でも、誰かを心から、愛することが出来た。

 

 

 こんな感情を生みだしてくれただけで、こんな感情を見つけてくれただけで、俺は陽乃さんと本当に出会えて良かった――心から、そう想うことが出来る。

 

 

「――――」

 

 

 俺は目を瞑って、その時を――断罪の、その瞬間を待った。

 

 

 例え、この場で陽乃さんがXガンやガンツソードで俺を殺そうとしても、甘んじてそれを受け入れよう。

 

 

 ……いや、むしろ、俺はそれを望んでいるのかもしれない。

 

 

 人は案外、あっさりと死ぬ。

 

 突然死ぬ。唐突に死ぬ。理不尽に死ぬ。

 

 何のストーリーも素敵なドラマもなく、巻き添えで流れ弾で見せしめで、善人だって悪人だって。

 

 

 例え――それが誰かにとっての掛け替えのない大切な人だろうと、何の救いもなく、やはり死ぬ。

 

 

 それを、俺はこれまでのガンツミッションで、そして、今回のガンツミッションで、知った。身を以て知った。この手で――小町を殺したこの手で、思い知った。

 

 

 そんな中、俺はしぶとく、図太く、図々しくも、ぐだぐだと生き延び続けてしまったけれど。そのせいで、多くの人間を不幸にし、挙句の果てに、小町まで殺してしまったけれど――そんな中、遂に死ねる。やっと死ねる。ようやく、死ねる

 

 

 愛する人の手で、殺される。

 

 

 それは――こんな俺の身の丈には合わない程に、身の程知らずな程に、とても幸せなことなんじゃないか?

 

 

 願って止まない程に、望んで止まない程に、とてもとても幸せなことなんじゃないのか?

 

 

 俺なんかがこんな幸せに死んでもいいのかとも思うが、罪悪感も湧いてくるが、それでも――小町は、幸せにならずに死んだら許さないと、そう言ってくれた。そう、言い遺してくれた。

 

 

 あれは、小町を殺したショックで、俺が自分の中に都合良く作った幻想かもしれないけれど、それでも――俺は、陽乃さんの今わの際の願いを、叶えてあげることは出来なかった。

 

 

 ならば、せめて――小町の、今わの際の願いは、叶えてやりたい。

 

 

 だから、俺は――幸せに、死にたい。

 

 

「――――っ!」

 

 ぐいっと、その時、陽乃さんに胸倉を掴まれ、強制的に立たされた。

 

「…………きて」

 

 陽乃さんはそう言って、黒い球体が鎮座するリビングから出て、廊下に――俺と陽乃さんの物語の大きな変換となった、ある意味では始まりの場所である、この廊下に移動してきた。

 

 ……なるほど。始まりの場所で終わるというのも、中々収まりがいいかもしれない。

 

 そして陽乃さんは、ドンッと、俺を背中から壁に押し付ける。

 

 両手を俺の顔の横に叩き付け、じっと顔を俯かせている。

 

 

「………………陽乃さ――」

 

 

 唇を、奪われた。

 

 

 陽乃さんはバッと顔を唐突に上げると、そのまま荒々しく、噛みつくように俺の唇を奪った。

 

 俺は、為す術もなく流される。その唇を、受け入れてしまった。

 

「――――っ!!」

 

 そして、息継ぎをする為に一瞬唇が離れた隙に離れようとすると、跳ね退けようとすると、陽乃さんは俺の頭の後ろに乱雑に腕を回し、力強く、己と俺の唇を、力づくで重ね続ける。

 

 やがて、長い、長い接吻が終わり、やっと陽乃さんは、その顔を俺から離した。

 

「……陽乃さ――っ!?」

 

 

 俺は、言葉を失った。

 

 陽乃さんは、泣いていた。

 

 顔を涙でぐしゃぐしゃにし、真っ赤に染め上げ、表情をぐちゃぐちゃにして、嗚咽を漏らしていた。

 

 いつも美しく、強く、不敵だった彼女が、ここまで子供のように、弱く、情けない姿を見せるのは……これが、初めてだった。

 

 此処で、この場所で初めてキスをした時も、今わ際の時も、生き返った時も、ここまでこの人が弱さを見せたことがなかった。

 

 

「…………ごめんね」

 

 

 陽乃さんは、そうぽつりと呟く。

 

 俺の胸にしがみ付き、その柔らかく温かい身体を押し付けながら、嗚咽混じりの、涙声で言う。

 

「…………ごめん。…………ごめんね、八幡」

「…………どうして、陽乃さんが謝るんですか。悪いのは、罪深いのは、全部、全部、俺で――」

「――ううん。違う。違う。違うよ!」

 

 陽乃さんは、俺の身体に顔を(こす)り付けるように頭を横に振って否定する。

 

 そして、俺の背中に手を回して、更に身体を密着させるようにして言った。

 

「……わたし、疑った。……八幡のことを、信じられなかった。……八幡が、小町ちゃんを……殺したって聞いた時、信じられなかった。……そんなわけないって思った。……でも、動揺した。うそって思った。…………だから、わたし……八幡が、雪乃ちゃんを壊したって言った時………わたし………………わたし………ッ」

「……当然ですよ。だって、本当のことなんですから。全部本当のことなんですから。俺が小町を殺したことも。俺が雪ノ下を壊したことも。全部、全部本当です。揺るぎない真実で、俺の罪状です。……だから、疑って当然です。信じられなくて当然です。……あなたは、何も悪くない。悪いのは、俺です。他には、誰も悪くない」

「違う! 違うのっ!!」

 

 陽乃さんは強く頭を振って、そのぐしゃぐしゃの顔で、俺を見上げる。

 

 そして、震える涙声で、顔をこれでもかってくらい歪ませて、くしゃくしゃにして、俺に言った。

 

「……八幡は、わたしの罪も全部背負ってくれるって言ってくれた。……わたしが世界を滅ぼしても、その片棒を担いで、共犯者になってくれるって。一緒に背負ってくれるって。……でも……でも、わたしは違ったっ! 八幡を見捨てかけたっ! 八幡を信じられなくって、失望しかけたっ! 見限りかけたっ! ……これまで、ずっとそうしてきたみたいに……色んな人のことを、そうやって見下し続けてきたみたいに……八幡のことも……わたしは捨てかけたっ! 『本物』になるって……八幡の『本物』になるって、約束したのにっ!!」

 

 ギュッと、痛いくらいに陽乃さんがしがみ付く。

 

 陽乃さんは、あの時の俺の告白のことを、ずっと想ってくれているようだった。

 

「――っ!」

 

 無条件で、嬉しかった。無性に歓喜してしまい、不覚にも、その言葉だけで、俺は更に幸せになれた。

 

 この人の綺麗な背中に手を回して、ぐっと更に強く俺の身体に押し付けたい。

 

 今度は俺から、その美しい顎を持ち上げて、優しく、強く唇を奪いたい。

 

 

 そう、思った。

 

 

 ……でも、ダメだ。そんなことは許されない。そんな資格は、俺にはない。

 

 

 自分の妹を殺しておいて、この人の大事な妹を壊しておいて、そんな真似が、許される筈がない。

 

 

――生きたいなんて、望むことは、許されない。

 

 

 俺は、陽乃さんの肩に手を乗せる。陽乃さんの瞳が見開かれた。

 

「……いいんですよ、陽乃さん。……あの言葉のことは、忘れてください。あの時の俺は、血迷ってました。身の程知らずでした。……俺には、陽乃さんは、眩し過ぎます」

「…………はち……まん?」

 

 その名が示す通り、その名を体現するかのように、太陽のような、太陽のように輝くこの美しい女性は――日陰者の俺には、眩し過ぎる。

 

 文字通りの意味で住む世界が、住んでいい世界が違うのだ。

 

 そんなことに、そんな当たり前のことすら、俺は愚かにも気付けなかった。

 

 

「どうか、俺のことは――」

 

 

――忘れてください。憎んでください。許さないでください。

 

 

 どうか――俺を――

 

 

 殺して、ください。

 

 

「嫌っ!!」

 

 

 ドンっ! と、陽乃さんの身体を引き離そうとした俺の手に逆らうように、陽乃さんは勢いよく俺の身体に飛び付いてきた。

 

 その勢いを支えられず、俺の身体は無様に廊下に仰向けに倒れ伏せる。

 

 そして、その上に馬乗りのなるように、涙目の、涙を流し続ける陽乃さんが乗った。

 

 

「嫌ッッ!!」

 

 

 陽乃さんは、真っ赤な目で俺を睨みつけながら、尚も言う。

 

 

 駄々を捏ねる子供のようなその仕草は、普段の陽乃さんからは想像がつかないものだった。

 

 だが、だからこそ、これは素の、等身大の、ずっと内に秘め続けていた陽乃さんなのだろうと思った。

 

 

 震える陽乃さんは、更にぐしゃりと表情を歪ませ、嗚咽と共に、俺の顔に、ぽたりぽたりと涙を落としながら、言った。

 

 

「いや……やめて……やめてよ。……あの告白を、撤回なんかしないで。……なかったことなんかにはしないで……。………お願いだから……わたし……もっと、もっと頑張るから……だから……だから……」

 

 

 陽乃さんは、身体を丸め、俺の胸に縋りつくようにして、俺の中に染み込ませるように。

 

 

 

「……『本物(わたし)』を……あきらめないで……」

 

 

 

 陽乃さんは、縋るように言った。陽乃さんは、祈るように囁いた。

 

 

 俺は、その言葉に、その祈りに――

 

 

「……捨てないで…………手放さないで…………逃げ……ないでぇ……」

 

 

 陽乃さんは、別れを切り出された恋人のような言葉を、俺に言う。

 

 

 俺は、俺の胸で泣く陽乃さんではなく、腐った目を見開いて、口を馬鹿みたいに開いて、呆然と廊下の天井を眺めていた。

 

 

 ……俺は、陽乃さんを捨てようとしたのか?

 

 

 ……俺は、この人を捨てて、自分だけ、全てを手放そうとしたのか? 楽になろうとしたのか?

 

 

 この人の全てを背負うと、あれだけ豪語しておきながら、俺は……陽乃さんからも、逃げ出そうと――

 

 

 陽乃さんは、絞り出すように、震える身体で、震える涙声で、言った。

 

 

「お願いだから……」

 

 

 

――死なないでよぉ……。

 

 

 

 その、言葉を聞いて。その、言葉が届いて。その、言葉が、どうしようもなく――響いて。

 

 

 俺は……自分の瞳から、涙が溢れ出すのを感じる。

 

 

 散々無様を晒したくせに、この期に及んで泣き顔を見られたくなくて、俺は腕で瞼を覆う。

 

 

 そして、それでも、堪えきれなくて。どうしようもなく、溢れ出して。

 

 

 遂に、俺は――決壊し、吐き出した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……死にたい」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 一度、吐き出したら、もう、止まらなかった。

 

 

「……死にたい……死にたい……もう、死にたいんだよ…………陽乃さん」

「…………うん……うん」

 

 

 文字通りの泣き言を、吐く資格のない恨み言を、俺は、とめどなく溢れてくるそれを、陽乃さんにぶつけ続けた。

 

 

「……もう……嫌なんだよ……どうして……こんなことになっちまうんだ……どうして……こんなことに……なっちまんったんだよ……俺が…………俺達が……いったい…………何をしたっていうんですか……どうして……なんで……なんで…………こんなことに……っ」

「………………うん……うん……………うんっ」

 

 

 一度溢れだした弱音は、いくら涙を流しても、全然止まってくれなくて。

 

 世界で一番カッコ悪いところを見せたくない女性に、俺は甘えて、無様を晒し続けた。

 

 

 陽乃さんは、強く、強く、俺を抱き締めてくれて。そして、その柔らかさと、その温かさが、闇弱な俺を、更に、弱く、弱くする。

 

 

「……俺は……雪ノ下と……由比ヶ浜がいる……あの場所を取り戻したかっただけなんだ……………雪ノ下を壊したくなかった……由比ヶ浜を傷つけたくなんてなかった…………守りたかった……そのために…………俺は……………俺は……………小町…………小町…………小町ぃ!」

「うん……っ……………うん……っ」

 

 俺の言葉は、最早、只の嗚咽になっていた。

 

 

 無様に泣きじゃくった。初めて、此処で陽乃さんと唇を重ねた、あの時以上に、俺は泣きじゃくった。

 

 

 およそこの世で最も無様で、醜い男の、哀れな姿だった。

 

 

「――俺は…………じにだい……っ!」

 

 

 これが、これこそが、俺の偽らざる本音だった。

 

 

 もう、嫌だった。もう、俺は限界だった。否、とっくの昔に、俺は限界などとうに通り過ぎてぶっ壊れていた。

 

 

 

 戦っても、戦っても、戦っても。

 

 

 俺の周りの大切な人は、守りたい人達は、壊れ、傷つき、死んでいった。

 

 

 

 もう嫌だった。もう限界だった。もう――死にたかった。

 

 

 

 嫌だ。戦うのは嫌だ。

 

 嫌だ。壊すのは嫌だ。

 

 

 嫌だ。傷つけるのは、もう嫌だ。

 

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だっ!!

 

 

「嫌だ……もう殺すのは嫌だっ! ……殺したくない……殺したくなかったっ!! 俺は! 小町を!! 殺すつもりなんてながっだんだよぉ!!」

 

 

 小町…………小町小町小町小町小町っ!!

 

 

 俺は、何もない天井に向かって手を伸ばして、ゆっくりと――笑みを浮かべながら、陽乃さんに言った。

 

 

「……お願いです、陽乃さん。……俺を――殺してください。……あなたの手で、殺してください。それが俺の願いです」

 

 

 そうすれば、そうしてくれれば……俺は何よりも――幸せに逝けます。

 

 

「――俺は、あなたに、仇を討たれて死にたい」

 

 

 雪ノ下を、陽乃さんがずっとずっとずっと大事に守ってきた妹を――壊した。この上なく、無残に。

 

 

 俺は、その仇を、今、ここで討たれて死にたい。

 

 

 その大罪を、断罪されて死にたい。

 

 

 ……この期に及んで、末期にまで及んで俺は、雪ノ下を己が楽になる為に利用するような男だと再確認して、再認識して、更にまた一段と死にたくなった。

 

 

 だからこそ、陽乃さん。

 

 

 こんな俺を殺してください。こんな俺を断罪してください。今こそ、仇を討ってください。

 

 

 俺を――死なせてください。楽に、させてください。

 

 

 今こそ、復讐の時です。

 

 

「……はち……まん……はち、まん……っ!!」

 

 

 陽乃さんは顔を上げて、その真っ赤に染まって、涙でぐしょぐしょで、表情も歪んでくしゃくしゃな、その顔で、俺を見下ろした。

 

 

 それでも陽乃さんは、そんな有様でも雪ノ下陽乃は、本当にすごく綺麗だった。すごく、可愛かった。

 

 

 ああ、やっぱり。俺は陽乃さんが好きだなぁ。

 

 

 こんな人に殺される自分は、最高に幸せな男だ。

 

 

 小町――最期に俺、幸せになれたよ。

 

 

 だから、もういいよな。

 

 

 

 俺、死んでいいよな。

 

 

 

 陽乃さんの綺麗な指が、俺の首に回される。

 

 

 俺もスーツを着ているが、陽乃さんもスーツを着ている。

 

 

 このまま俺が無抵抗でいれば、その内きっと――死ねる筈だ。

 

 

 やっと、終わる筈だ。

 

 

「……っ…………ぅぅ…………ぁぁ! ぁぁぁああああああああああああああああああ!!!」

 

 

 陽乃さんは、まるで抱き締めるように、俺の首を抱き絞めてくれた。

 

 

 ボロボロと泣きながら、ボロボロに喚きながら、首を絞められている俺よりも、遥かに苦しそうに叫びながら――俺の首を絞め続け、俺を殺し続けてくれた。

 

 

 対して俺は、きっと笑っていただろう。愛する女性がこんなに苦しむ様を見上げながら、そんな笑みを浮かべる俺は、きっと死んだ方がいいに違いない。

 

 

 だから、死ぬのだ。ああ、やっと死ぬのだ。遂に俺は――死ぬことが、出来るのだ。

 

 

 これこそまさに、今こそまさに、俺がずっと待ちわび、ずっと待ち望んだいた、望んで止まない瞬間だった。

 

 

 陽乃さんの涙が、俺の目元に落ちる。そして、つうとそれが眦から滑り落ちる――それと一緒に、俺の意識も、ゆっくりと落ち始めた。

 

 

 そして俺は、最後に彼女に、こんな幸せな(おわり)をくれた彼女に、感謝の気持ちを込めて、礼を遺した。

 

 

 

「…………あ………りが……とう」

 

 

 

 そして――俺は――

 

 

 

 

 ゆっくりと――意識を――命を――

 

 

 

 

 

 落とし――た――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――――筈、だった、のに……。

 

 

 

 俺は、ゆっくりと、()()()()()

 

 

 女の子の、啜り泣く声で、()()()()()

 

 

 

 そこは、まだ、あの黒い球体の部屋の廊下だった。

 

 

 

 俺は相変わらず仰向けで、陽乃さんが馬乗りになっていた。

 

 

 陽乃さんの手は、まだ俺の首に回されていて――でも、その力は、弱弱しく、最早、添えているとしか言えない程に、力が入っていなかった。

 

 

 命を奪う、俺を殺してくれる――力など、入っていなかった。

 

 

 俺は愕然とした表情で、陽乃さんを見上げる。

 

 

 

「………………でき…………ない…………っ」

 

 

 

 陽乃さんは、泣いていた。

 

 

 遂には、その手を離し、俺の首から離し、その手で溢れだす涙を拭っていた。

 

 

「……出来ない……わたしには……八幡を……好きな人を…………殺すなんて……出来ないよぉ」

 

 

 陽乃さんは、そう言って、完全に――殺意を失った。

 

 

 俺を殺してくれる、意力を失っていた。

 

 

「…………なんで……? どうして……ですか? 陽乃さん……」

「………………」

 

 

 陽乃さんは、何も言わない。

 

 

 ただ、悲しそうな顔で、辛そうな顔で、情けない俺を見下ろすだけ。

 

 

「……俺は……俺は死にたいんですっ! 死にたいんですよっ! もう嫌なんです! 生きたくない! 生きていたくないんですよ! 逝きたくて堪らないんです! 俺が生きれば! 生きていれば! みんなみんな不幸になる! 壊れて、傷ついて、殺されるんですよ! やっと死ねると……やっと終わると思ったのに!! あなたに……やっと、殺してもらえると思ったのに!! なのになんでッ!? どうしてっッ!?」

「………………」

 

 

 陽乃さんは、何も言わない。言ってくれない。

 

 

 俺に対して、何も言ってくれない。

 

 

 無様な俺に、陽乃さんの信頼を裏切った――裏切者の俺に、妹を壊した憎き仇に。

 

 

 何の、殺意も、抱いて、くれない。

 

 

「……お願いです……陽乃さん。もう死にたい。辛くて、苦しくて、生きているのが申し訳なくて堪らない! 罪悪感で死にたくて堪らない! だからどうか! どうか俺を殺してください! 死にたいんです! 死にたいんですッ! 死にたいんですよッッ!! どうか俺を、助けると思って――」

「それでも、わたしは――」

 

 

 

「――あなたに、生きていて欲しいの」

 

 

 

 陽乃さんは、告げる。

 

 

 悲しそうな顔で、辛そうな顔で、情けない俺に、そっと、その涙に濡れた、美しい顔を近づけながら。

 

 

 俺に対する――死刑宣告に等しい、その言葉を告げる。

 

 

 

「わたしはあなたを、助けない。わたしはあなたを、死なせないと――ここに誓うわ」

 

 

 

 そして、陽乃さんは、俺に誓いの口づけをした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 それから、果たしてどれだけ経っただろう。

 

 

 俺は、壁に背中を着け、座り込むような体勢で、ぼおと天井を眺めていた。

 

 そして陽乃さんは、そんな俺の胸に両手を付けて、ぴたりと寄りかかるように密着していた。

 

 

 俺と陽乃さんは、生まれたままの姿だった。

 

 

 漆黒のガンツスーツを脱ぎ、情事を終えた俺達は、身も心も繋がった俺達は、何も言わず、ただ静かに、お互いの体温だけを感じるように寄り添っていた。

 

 

「……俺は、雪ノ下を壊しました」

「……うん」

 

 

「……俺は、由比ヶ浜を傷つけました」

「……うん」

 

 

「……俺は……小町を、殺しました」

「…………うん」

 

 

「…………俺は……一生、許されない。誰も俺を許してくれないし、俺も俺を、一生許さない。……罪人です。罪塗れです。……死ぬことだけが、幸せです。…………俺に生きろというのなら、俺は、きっと、ずっと不幸のままでしょう」

「……だったら、それが、わたしの復讐だよ」

 

 陽乃さんは、のそりと裸のままで、俺の上で体勢を変えて、俺を見上げて、優しく笑う。

 

「わたしの大事な雪乃ちゃんを、壊した仇を、わたしはそうやって討つよ。……だから、生きて。ずっと不幸に生きて。ずっと無様に生きて。ずっと生き地獄で生き続けて。だから――逃げちゃダメ。わたしはもう、絶対にあなたを、逃がしてなんかあげない」

 

 そう言って、陽乃さんは俺の身体をよじ登り、再び、優しく、唇を奪う。

 

「――あなたの罪を、わたしも背負うよ。……今度こそ、全部背負う。わたしはあなたに、生き返させられたんだから。あなたの罪は、わたしの罪。あなたの所業の、片棒を担ぐ。……だから、あなたの不幸は、わたしの不幸。そして――」

 

 陽乃さんは、にこっと、不敵に笑う。快活に笑う。

 

 

「――わたしの幸せは、あなたの幸せ。……だから、あなたの不幸を補って余るくらい、わたしは幸せになるわ。……だから、ずっと、わたしの隣で生きてね」

 

 

 その笑みは、まさしく雪ノ下陽乃の笑みで、狂った俺を、更に狂わせる――暴力的な、暴虐的な魅力で溢れていた。

 

 

 俺は、今、再び、雪ノ下陽乃に溺れ、狂ってしまった。

 

 

「……………………ぁ」

 

 

 陽乃さんの顎を持ち上げて、ゆっくりと、再び唇を重ね合わせる。

 

 

 優しく、強く、俺から彼女に、口づけを贈る。

 

 

 そして俺は、ゆっくりと、一筋の涙を流した。

 

 

 

 

 

 俺は、死ねなかった。俺は、生きなくてはならなくなった。

 

 

 それは、きっと、ずっと苦しんで、ずっと辛くて、ずっと哀れで、ずっと無様で、ずっと、ずっと、ずっと不幸なんだろう。

 

 

 

 それでも、俺を幸せにすると言ってくれた、彼女の為にも。

 

 

 俺が幸せにならないと許さないと言ってくれた、彼女の為にも。

 

 

 俺が壊してしまった、傷つけてしまった、彼女達の為にも。

 

 

 

 幸せを求めることは、止めてはならないのだろう。

 

 

 諦めてはならないし、逃げてはならないのだろう。

 

 

 

 例え、手が届かなくても、俺の身の丈に合わなくても、身の程知らずでも、相応しくなくても、資格がなくとも、それでも――幸せを追い求めることだけは、止めてはならないのだろう。

 

 

 だから俺は、俺の『本物』になると言ってくれた、この女性(ひと)の為に、今日を生きよう。

 

 

 ずっと、ずっと不幸なままでも、傷を舐め合うようにして、無様に生きていこう。

 

 

 幸せな死ではなく、格好いい死でもなく――遠い、遠い、遥かなる幸せを求めて。

 

 

 いつか、無様に死ぬ、その時まで。

 

 

 

 

 

――唇を離す。

 

 

 向かい合った陽乃さんは、見つめ合った陽乃さんは、俺と同じく涙を流していて、それでも、嬉しそうに――幸せそうに微笑んだ。

 

 

 綺麗な笑顔だった。

 

 見ているだけで、幸せになってしまいそうな、眩しい太陽のような笑顔だった。

 





比企谷八幡は、幸せなる復讐によって討たれ――『本物』に溺れて、今日を生きる。










次章予告

【英雄会見】

 全てを変えた未曽有の大虐殺から一夜明け、開かれる日本政府の記者会見。
 一人の英雄の誕生を全世界へと知らせる発表会となるべく、それは世界中の注目の中で開かれる。



 そして――その同時刻。
 遥か離れた千葉の地で、とあるひとりぼっちの戦士が。
 世界の誰も知らない戦争の中で、真っ当なる復讐によって討たれようとしていた。





「――今回の議題は、日本の池袋で発生した、オニ星人による一般人大量虐殺。そして、それによる星人存在の表世界への暴露だ」



「……ごめん、アスナ――まだ、終われないんだ」

「こんばんは、英雄君」

「――この黒い球体について、GANTZについて、僕の知る限りのことを話そう」


「――やめなさい。今度こそ、本当に消されてしまうかもしれませんよ」

「……私は、負けないよ………渚」

「殺してでも、救ってみせる」


「あなたが好きなのは天使の私? ――それとも、堕天使?」

「ううん、何にも――ただの最悪な一日でしたよ♪」

「あなたにも――お兄ちゃんがいるんでしょう?」


「久しぶりの学校だぜ」

「――ヨーグルッチの刑に処すッッ!!」

「誰が、誰に、勝てるって?」


「………さて、逃げるか」

「――似合ってるじゃないか、そのパーカー。中々に決まってるぜ」

「初めまして、ようこそ我が家へ。雪ノ下家は貴方を歓迎しますよ、比企谷八幡さん」



「――あら? 珍しいお客さんね。どうしたの?」

「おおッ! 救いの神よ! いや、救いのパンダよ! いいところに来た、俺を助け――ん?」

「……君達の――」


――娘が、死んだ。




「僕達は綺麗じゃない。僕達は正義じゃない。だけど、僕は、君の味方だ――キリト君」

「……それとも、まだどうしようもなく、この世界に――未練があるのか?」

「私に彼をお任せ下さい。必ずや、人類の勝利に貢献する殺し屋に育て上げてみせましょう」

「……私は……警察は……人間は。昨夜――怪物に……化物に……負けたのだ……っ」

「おはよう、桐乃! いい朝だね!」

「偽善者と呼んでくれ。ずっと、そう呼ばれ続けてきた――僕の誇りだ」

「認めろ。そして楽になれ。野良猫では――虎には勝てん」

「――確かに、まだまだどうして、捨てたもんじゃないな。……人間は」

「…………笑顔が引き攣ってるよ、八幡」

「私達は、弱くて、弱くて、弱弱しいので――あんまり、イジメないでくださいね?」


「――地球に仇なすというのなら、この獣を敵に回すと知れ」

「その役目を果たせなかった報いは当然、現実世界のテメェらの命で支払ってもらう」

「――それ程の逸材なのか。君が、そこまで入れ込む程に」

「帰ってきた……生き返ってきたんだ」

「悪魔とは、まさしく人間のことであると」

「――知らねぇよ。知ったこっちゃねぇんだよ、んなこたぁ」

「ああ、姉さん。姉さん、姉さんだわ。どうして忘れていたのかしら。こんなにも頼りになる人を。私を守ってくれる人を。ああ姉さん。姉さん姉さん姉さん姉さん!」

「……あ、あのね……あのね……たーちゃんが……かえってこないの」

「……綺麗ですね……本物は」

「東条英虎――私は、あなたを許さない。あなたの暴挙は、この私が止めるわ」

「――悪いな。レディの食事中だ」

「これが――敗北ではなく、なんだというのだッッ!!」

「次の目的地は椚ヶ丘学園だ。法定速度を遵守しつつ――最大速度で向かうぞ」

「大切な人の、あったかい笑顔です♪」

「……お前は、今の今まで、何処で何をしていたんだ――愚息が」

「……どうして……どうしていつも……結衣ばっかり……っっ!」

「……小町ちゃんがね。……まだ、見つかってないんだって」

「――死んでんじゃん。私」

「………ここは、地獄なのか」



「繋がる生命。繋がる想い。それが、繁栄。それが……生きるということ」

「この地に住まう、この海に住まう、この空に住まう――この宇宙に住まう、全ての生命が持っている本能。想い。それが――これが、生きるということ」

「人間の、生命の、何と美しいことか」

「化物の、私達の、何と浅ましく、醜いことか」



「……大事なものの……はずなのに…………ないの…………分かんないの……思い出せないよぉ……ゆきのん……ゆきのん」

「俺らは、選択したんだ。この結果を――そして、ここから繋がる未来を」

「――そうだ。忘れるな。折れるな。潰れるな。そうすれば、お前は、きっと見返せる」

「悪いが、一兵たりとも逃がすつもりはない。貴様らは――やり過ぎた」

「――ようやった。最後にワイのかっちょええ雄姿を、その目に焼き付けて死に」

「分かってる? 今、君はその程度の価値しかない戦士なんだよ」

「…………やだ………やだよ……キリトくん……こんなの……やだよ――ッ!?」

「……撤回しなさい。あなた如きに、先輩の何が分かるの?」

「俺はお前を愛さない。お前が俺のことを愛していないように」

「彼はE組だ。例外はない。国であろうと、私の教育方針に口を挟むことは許さない」

「あなたは、私に幸せをくれた。あなたは、私の全てなのよ」

「私は、この服を脱ぐつもりはありません。この役目を、放棄することは有り得ません」

「あの人は――ただの変態です」

「どうしていつも!!! こんなやり方しか出来ないんだッッッ!!!」

「……京介さー。いつまでお兄ちゃんやってんの?」

「話をしよう。アナタの抱える全部の『謎』を預かるよ」

「…………もう……死にたく、ないんだよぉ……ッッ」

「やっぱり私――貴方が、嫌い」

「――『死神教室』、か。……世界最強の殺し屋の授業を受ける生徒は、色々な意味で不幸だな」

「俺は、お前に――負けたくない」

「友達と、仲直りしに来たんだ」

「神様とかいうものに嫌われて、世界とかいうのにも嫌われている。だけど、理不尽にはとことん愛されている。そんな生命が、この世界にはいるのよ」


「そもそもの話――比企谷八幡という男がいなければ、霧ヶ峰霧緒も、そして陽乃も死ななかったのではないか、とな」

「全ては、比企谷八幡が黒い球体の部屋へと招かれてから動き出している」


「――――だが、もう……後戻りは出来ない」

「……幸せにならなくちゃ、俺は死ねない」


「彼こそが――人間よ。私は、そう思うわ」



「――ようやくだ。……ようやく、ここまで来た」

「――もうすぐだ。……もうすぐ、あそこまで行ける」



「さあ、会見の時間だ」

「国民へ伝えよう。星人という存在を。漆黒の戦争の存在を。そして、我が英雄の存在を」

「今日は、世界が変わる一日となる」



「君こそが、世界を救う英雄になると信じている。だからこそ僕は、これから君に真実を話そう」

「答えは単純明快です。我々は――『星人』を知っていた」

「我々は――世界を救う為に戦っている」

「世界を支配する組織の支配者――まさしく、世界の支配者だ」

「……戦争は、人を変える。なら、星人だって、変えたっておかしくないだろう?」

「……だったら、どうして、未だに俺達は戦争をしているんだ?」

「地球に危機が迫っている。このままだと地球は、今年の終わりと共に、終焉を迎える――これは、紛れもない、予言された真実なんだ」


――我々は、それをカタストロフィと呼んでいる。


「部隊名は――GANTZ」


「――行こう。世界を守る為に」

「俺は――世界を救うんだ」


「我々には――『GANTZ』が必要なのです」





「彼女は、あの子は――我が子は、人間でした」

「我が子なのに、人間でした」


「――私は、娘を殺したのです」


「ハッピーエンドは訪れません。この物語はバッドエンドです。どうしようもなく後味が悪く、胸糞が悪い、そんな最低な結末で幕を閉じます」

「化物の、化物による、化物に相応しい物語ですから」



「――比企谷八幡……という男を、覚えているか?」



「小町をぶっ殺しておいて、なに幸せになろうとしてんだ? アァ?」

「あたし達の仲間になりたくば――まずはあたしを倒してから行け!!」

「で? 俺はこれからどんな酷い目に遭わされるんだ?」

「どうせ仇を討たれて死にてぇんだろ。好きなだけ殺してやるよ」

「お前たちのような悪は、あたしが許さない!」

「……正直、がっかりした」

「僕のようになりたかったら、まずは平気な顔をして嘘を吐けるようになる所から始めようか」

「俺達は――大人だからな」

「この初恋を――わたしは忘れない」

「――何、泣きながら、笑ってやがる」

「クズだクズだとは思ってはいたけれど……まさか、ここまでのクズだったとはね」

「それを――ッ!! この私に向かって言うのかッ!! 他でもない、お前達がッッ!!」

「ずっと……何もせずに、ただ見捨てていたわよね」

「アンタを殺して、俺は生きる」


「……運命、だと。ハッ、お前らしい、おめでたい言葉だな」

「……認めねぇよ。例え、お前が認めても……『真理』が、『神』が認めても! 俺だけは認めねぇ!! 死んでも殺されようと認めねぇ!!」

「俺って、こんな目……してたんだな」

「――きっと、初めから間違ってたのよ」

「――ああ。もういい、ガンツ。十分だ」



「今まで、一緒に背負ってくれて。今日まで、一緒に生きてくれて」

「………約束、したよね?」


「一緒に、死のう?」

「…………ああ。そうだな」



――理解不能。正しく、理解不能だ。

――汝、何を望む。


――お前は、何の為に死んでいくのだ。




【いってらっしゃい】

「――行ってくる」




「俺は――合格か?」



「君のような英雄を、我々はずっと待っていた」





――【これが――『真理』だ】





 その部屋には黒い球体だけが残った。


 誰もいない――誰もいなくなった。



 この『黒い球体の部屋』には、もう――比企谷八幡は、いない。





【比企谷八幡と黒い球体の部屋】――〇〇星人編――


――to be continued

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。