比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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お久しぶりです! お元気でしたか?

 

 

 Side??? ――???

 

 

 その男は――化け物になる前の、化け物に堕ちる前のその男は、夜の街の暗躍者だった。

 

 夜の街――快楽の街――淫欲の街。

 称される言葉は数々だったが、その街が、その常夜の――ある者達によっては楽園で、ある者達によっては地獄のようなその街が、とある男のたった一つの居場所で、たった一つの世界で、そして――男にとって、この世の何よりも嫌悪する空間だった。

 

 男は、酒と煙草と女の匂いが支配する、その歓楽街で生まれた。

 障子一つ隔てた向こう側から、男の誕生の産声を掻き消すように、女の情事の嬌声が響いていたというのだから、その街の“色”が伺えるだろう。

 

 彼の母親は、歓楽街に無数にある特に有名でもない有り触れた娼館の、特別売れっ子でもない掃いて捨てる程に溢れ返る中の一人の娼婦だった。

 父親は、当然顔も名前も知らない。母親である女も、心当たりが有り過ぎて特定出来ない有様だった。

 

 男は望まれない子供だった。子供を孕み、商売が出来なくなった母親は店を追われ、けれど行く宛がなかった。

 この街には、そういった娼婦達も有り触れている。数多くの過去から、この街に縛られ、この常夜の街から出ることが叶わない――

 

――もう二度と、太陽を仰ぐことが、叶わない者達が。

 

 男は、太陽を見ることなく育った。

 常夜の街に売り飛ばされて来た母親から生まれた男にとって、世界とはこの街であり、空は黒いものであり――人とは、汚いものだった。

 

 醜いものだった。恐ろしいものだった。嫌悪すべき――敵だった。

 

 男は女の――母親の嬌声を聞きながら育った。

 日中はひたすら街中の娼館へと出向き、地面に頭を擦り付けながら仕事を請い、情事後の部屋の後片付けをして回っていた。

 男女が交わった後の布団を直し、男の精臭で咽返るようなゴミ箱を片付け、女の身体に付けられた傷口を拭った。

 

 娼婦達の痛々しい笑顔と、微々たる賃金だけを得て、男は街の奥の我が家へと帰宅する。

 

 

 母親が、見知らぬ男と交わっていた。

 

 

 否――それは、まさしく襲われる、犯されるといった言葉が相応しい程に、見るも耐えない痛々しいものだった。

 

 そこにいたのは、獣だった――そして、人間だった。

 

 この常夜の街に売り払われ、行く宛もなく、頼る先もない。

 右も左も分からない時分の内にこの街に辿り着いた、人に誇れるようなものや教養もない母にとって、金を稼ぐ為には、出来ることは一つだった。使えるものは、たった一つだった。

 

 男は、そんな母と見知らぬ男の情事の横を無表情で通り過ぎて、薄い障子の向こう側――この小さな家の、たった一つの閉鎖空間というには、余りにも頼りない隔たりが存在する、この醜い光景を見なくてすむ場所へと閉じ篭る。

 

 幼い男は吐き捨てる。

 醜い。醜い。醜い。醜い。醜い。

 

 どいつもこいつも醜い。この街は、何処(どこ)彼処(かしこ)も汚れていて、どいつもこいつも腐っている。

 

 この街は汚い。

 眼球が潰れそうになるピンクのネオンが不健康に輝き、無駄に露出の多い服を纏った女と、鼻の下を伸ばすか醜悪な笑みを浮かべている男しかいない。

 

 この街は臭い。

 鼻が曲がりそうになる強烈な香水と、胃の中の水を戻しそうになる精臭、そしてそれが混ざり合う淫臭が空気を満たしている。

 

 この街は五月蠅い。

 どいつもこいつも無様に喘ぐか、痴情の縺れか借金の取り立てやれで喚き散らす声しか響かない。

 

 この街は糞だ。この街は汚く、臭く、五月蠅く、醜く、穢れていて、本当に本当に本当に――

 

――嫌いだ。

 

 この街が――人間が、嫌いだ。

 

 男は知っていた。

 

 自分が地面に額を擦り付けて仕事を請うのと、ちょうど同じ時分――母親も、路上で土下座し男に同衾を請うていることを。

 

 それで得る金は、幼い男が一日で稼ぐそれと大差ないか、それよりも少ない日もあるということを。そして――

 

――男が眠ったであろう頃を見計らって、母親の声が、女の色を帯びることを。

 

 痛々しい嬌声が甘く変わり、悦びが混じり始めることを。産声を掻き消すように生まれたての耳に嬌声を叩き込まれ、子守歌代わりに母親の情事の声を聞いて育った男には、それは嫌になる程、理解出来てしまった。

 

 この街は糞だ。糞溜めだ。この街は醜い――人間は醜い。

 

 男も――女もだ。

 

 この腐った常夜の街で育った、この男は理解していた。

 

 この街は、全てを腐らせる。

 

 来訪者の男は、閉じ込めた女達によって。女達は、訪ね来る男達によって。

 

 そして、この街を満たす、媚薬のような、麻薬のような――空気に、よって。

 

 例え、どれほど悲壮な過去を背負っていようと、敵意や殺意に塗れた覚悟を背負っていようと。

 

 この常夜の街の空気は、肺に取り込んだ全ての者達を、快楽の坩堝(るつぼ)に落とす。

 

 人間が作り出した、人間の本性を露わにする、人間の為の閉鎖都市。

 

 男が後に手に入れた真実によると、とある昔の腐った事業家が、己の欲望の限りを尽くして作った街であり、それが代々権力者達に受け継がれていく内に、このような腐りきった街になったらしい。

 

 始めは、只の歓楽街だった。

 

 だが、女が集められ、引き寄せられる様に男が集まり。

 金が集まり、権力が集まり、薬が蔓延り、性欲に狂った。

 

 いつの間にか塀に囲まれ、屋根が空を覆い、真っ黒な夜が満たした。

 そして、徐々に、徐々に、空気が濁っていった。

 

 酒に、薬に、女に、博打に、欲に、欲に、欲に欲に欲に欲に――満たされ、狂わされ、乗っ取られ、濁り、汚れ、腐っていった。

 空気が腐ると街が腐り、そして人間が腐っていった。

 

 そうして出来上がったのが、既に人間(じぶん)達にすら手の付けられない、化け物のような街。

 

 人間が作りしものが、化け物へと変化する。

 

 はっ、まるで俺のようだ――男は、そう吐き捨てた。

 

 そのふざけた真実を手に入れ、この街を後にするその時――見るも無残に崩壊したその生まれ故郷を、自分が徹底的に破壊し尽くしたその常夜の街を、背後に佇む四名の同胞と、自分を迎えに来た化け物の仲間達と共に眺めていた。

 

 成長した男は、この街の暗躍者だった。

 

 幾つもの顔を持ち、その巧みな話術と、相手の心の傷――抱える醜さを見抜く眼で、女を弄び、男を騙し、数えきれない程の人間の本性を暴いて回っていた。

 

 それは、男の復讐だった。男の戦争だった。

 

 自分にとって唯一の世界を――この腐りきった常夜の街を、敵に回すという意思表示だった。

 

 俺は認めないッ! お前等のような醜い存在を! 汚らしい存在をッッ! 俺は絶対に認めねぇ!!

 

 男は、そんな激情を胸に抱え、偽りの笑顔を貼り付け、相手の欲する言葉を、相手の喜ぶ囁き声で突き刺し、相手の心の壁をこじ開け、その傷を一番無残なやり方で曝け出す。

 全てがこの街の空気によって身に付けた技術だった。この街の空気を吸い続けることで、得た力だった。

 

 いっそ、自分もこいつ等と同じように腐らせてくれたら――そう願ってしまうこともあった。

 こんな醜い人間(そんざい)になってしまうことを考えるだけで悍ましい嫌悪感に包まれたが、狂いそうだったが、いっそ狂ってしまえば楽になれると思う時もあった。

 

 だが、男は狂えなかった。化物のように――その男は、強かった。

 

 だからこそ、男は復讐者になった。世界を敵に回すことを選んでしまった。

 

 身に付いてしまった変装術、話術、性行為の技術、観察力、戦闘力、逃走技術、その全てを駆使して、常夜の街に戦いを挑んだ。

 

 考え得る限りで、最も奴等に相応しい方法で。醜い人間達が、最も醜く、最も傷つき、最もその本性を露わにし――最も弱くなる、その瞬間。

 

 己の抱える、最も刻み込まれた、その心の傷を、最も触れられたくない場所を、最も晒したくないその場所を、容赦なく抉り取った――その、最高の瞬間。

 

 人間達が絶叫し、激昂し、表情をぐちゃぐちゃに歪めて、様々な体液で顔をぐちゃぐちゃに汚して、見るも堪えない血走った目で、聞くも堪えない罵詈雑言を喚き、最も醜い状態で、ただ獣のように衝動に突き動かされて自分を殺しに来て――

 

――最も醜い状態で、返り討ちにし、最も醜い死に様で殺す。

 

 それこそが、この世で最も醜い人間という生物に最も相応しい死に様であり、男が求める最高の復讐だった。

 

 

 そして、そんな復讐の日々のある日。

 

 黒いサングラスのオニのように恐ろしい男が率いる一味が彼の元を訪れ、常夜の街の檻をこじ開け、この男を別の夜の世界へと連れ出すのは、また別の話。

 

 ただ、この己に様々の“化”粧を施し、幾つもの姿で幾人もの人間の本性を暴き続けてきた男は、己が人間ではない正真正銘の化け物であるという真実に歓喜し、そして、己を腐ったこの常夜の街から救い出してくれた、そのサングラスの黒鬼に忠誠を誓った。

 

 吸血鬼の――オニ星人としての異能を覚醒させ、男が生まれ故郷を滅ぼすまで、後――

 

 

 

 そして、幾ばくかの時が更に流れ、遂に組織の悲願たる革命の夜に。

 

 男がとある少女の心の傷を、これ以上なく無残に抉り取るまで、後――

 

 

 そして――男が――

 

 

 後――

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Side??? ――とある駅の構内某所

 

 

 時間を少し遡って――場所は、池袋駅構内。

 地面の下のこの空間に、高坂京介、高坂桐乃、五更瑠璃、赤城瀬菜の四名は、命からがら逃げ延び、生き延びていた。

 

 当初は駅の入り口を謎の化け物に封鎖されていて、その時はこの四人も池袋の街中を逃げ回っていたが、やがて化け物が立ち塞がっていない入り口を見つけ、光明を見つけたような気持ちで駆け込んだが――その時、地下の駅構内で見たのは、全路線の車両が破壊されているという、垣間見えた光明を掻き消し、再び絶望の暗闇へと叩き落とす知らせだった。

 

 そして何よりの凶報は、駅の中にも、うじゃうじゃと謎の化け物の群生が跋扈していたことである。

 不幸中の幸いと言うべきか、駅の中は様々な店舗があり通路も入り組んでいるので、隠れる場所には事欠かなかった。だが、それと同時に逃げ場所も思いつかなかった。

 

 千葉から来ているこの四人にとって、この池袋からの脱出ルートとなると、真っ先に思いつくのは電車であり、この池袋駅だった。

 だが、この場所を破壊されては、咄嗟に次なる逃走ルートが思いつかない。

 

 バス? タクシー? そんなものが、この異常事態に正常に動いているわけがない。

 そうなると徒歩での逃走となるのか? ――あの化け物達が跋扈するこの池袋の街を、遮二無二に駆けずり回りながら?

 

 ならばいっそ助けが来るまで、この場所で逃げ隠れ続けるか――目の前が真っ暗になるくらい絶望的な案だが、それが最も生き延びる確率が高いように、京介には思えた。

 

 そして、池袋の駅の中のとある場所で、何度も何度も化け物とニアミスを繰り返しながら逃げて、なんとか逃れたその場所で、京介は三人の少女達を壁際に追いやり背で守りながら、その案を告げた。

 

「はぁ!? あ、あんた、正気なの!?」

「せんぱい……それって、大丈夫なんですか?」

 

 桐乃と瀬菜からは、涙目混じりでそんな否定的なニュアンスが返ってきた。

 

 無理もない、と京介は思う。

 既に何度も化け物に襲われかけて――つまり死に掛けて、まさしく地獄を見続けてきた。

 

 そんな逃亡を、命懸けの逃避行を、どれだけ時間がかかるか分からない、来るかどうかも分からない助けが来るまで続けよう――なんて提案に、二つ返事で頷けるようなメンタルが、普通の女子高生に備わっているはずがない。

 

 だが、それでも、桐乃と瀬菜が、感情的にヒステリックに否定しないのは、叫び散らさないのは、一重に――

 

「――その案が、私も最も可能性があるとは思うけれど……」

 

 黒猫は神妙な顔で、心配そうに眉を寄せながら問い掛ける。

 

「あなた、それまで持つのかしら?」

 

 京介は――ボロボロの身体で、衣服のあちこちを切り裂かれ、所々に血を滲ませた格好で、それでも、気丈に笑ってみせた。

 

「――へへっ。これくらい、どってことねぇよ。……それよりも、さすがにこんな事態になったんだ。国の方も、警察の特殊部隊とか、自衛隊とかを送り出す準備をしてるんじゃないか?」

「もしかしたらこれが新種のバイオ兵器か何かで、感染拡大を防ぐために池袋全域を封鎖しているかもしれないわね」

「ははっ……黒猫さん、生きる気力が根元から圧し折られちゃうんで勘弁してくれませんかね。……まぁ、だとしても、俺がやるべきことは一つだ」

 

 そう言って、京介は背後の彼女達に向かって振り返り、そのボロボロだが、力ある笑みを浮かべた。

 

「お前達は――ぜってぇ、俺が守ってやる。……死んでもな」

 

 少女達は、それぞれ、その笑みに、その言葉に息を呑んだ。

 それは、その勇ましい様に見蕩れて、その言葉に心を揺さぶられた――から、だけではなく。

 

 その、覚悟の深さが、伝わったから。伝わって、しまったから。

 

 京介は、何も言葉だけの決意ではなくて、言葉にして確固たる覚悟を決めようとしているわけでもなくて――冷静に、事の重大さを察し、事態の深刻さを実感し、その上で、己の命と、少女達の命を天秤に計り、己が命を賭してでも、己が命を捨ててでも、少女達を守ると決めたのだ。

 

 そういう決意を、決断を、下せる男に、下せてしまう男に、高坂京介という男は成っていた。

 

 これを成長と呼ぶのか、それとももっと危うい何かなのかは、分からない。

 だが、京介の言葉を受けて、瀬菜は頬を紅潮させていたが、桐乃は悲し気に表情を歪ませた。

 

 既に前を向いている京介には、その最愛の実妹の感情が読み取れない。

 

「…………………………」

 

 黒猫は、そんな京介の背中を無表情で見つめ、そっと、手を伸ばそうとして――

 

「――ッ!? 隠れろ!!」

 

 京介が突然叫び、物陰へと押し込んだ。

 そして、京介が一番外側となり、外の様子を観察する。

 

 京介達から見て前方――東口方面から、数体の化け物がこちらに向かってくる。

 だが、あくまで方向だけで、奴等の明確な目標はこっちではないらしい。

 

 自分達よりも、更に後方――西口、南口方面か? ――へと、その化け物達は一目散に突っ込んでいく。明確な、敵意を持って。

 

 これまで京介達が遭遇したような、人間達を愉悦混じりに道楽のように追いかけ回していた――殺すことよりも甚振ることを目的としていた(だからこそ京介達は何とか生き延びることが出来た)狩りではなく、敵意というよりは殺意を持った、獲物ではなく確かな敵に襲い掛かるような苛烈さだった。

 

(……なんだ? アイツ等、なんかさっきまでとは――)

 

 京介がそれに疑問を覚えた時――

 

 

 

「――あぁ、もう、面倒くさいなぁ。さっきから全然進まないじゃない。来るならいっぺんに来なさいよ。早く八幡の所に行きたいのに~!」

 

 

 

 そんな女性の声が、後ろから聞こえてきて――

 

 

――続いて構内に響いたのは、化け物の悲鳴だった。

 

「「ぐぎゃぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああ!!!!!」」

 

 その声に、轟く悲鳴に、三人の少女と京介は目を見開く。

 

(な、何が――)

 

 起こってる? と身を乗り出しかけた京介の袖を、黒猫が引いた。

 振り向く京介に、黒猫は無言で首を振る――今、出ていくのは自殺行為だと。

 

 京介もそれは分かっている為、ぐっと思い留まるが、それでも響き続ける化け物の絶叫と、何かの切断音のような音に、後ろ髪を引かれるように気を取られ続けた。

 

(化け物を――殺してる? あの、化け物をか? 一体、どんな化け物が……まさか、さっきの女の声ってわけじゃ――)

 

 そんな思考を巡らせながらも、徐々にその戦闘音は近づいてくる。

 

 近づくにつれ、化け物の爪と何かがぶつかり合う金属音のようなものも聞こえるようになったが、それよりも圧倒的に響き渡るのは、化け物の死に際の怨嗟の哭き声と、鋭く振られる刃物による破壊音だった。

 

 そして、それが自分達の横を――自分達が息を潜め、隠れ潜んでいる物陰を通過する瞬間。

 

 京介達は、確かに見た。

 

 

 漆黒のボディスーツを身に纏い、漆黒の槍を気だるげに振るいながらも、瞳だけは冷たい殺意を放ちながら、化け物達を無双する、絶世の美女を。

 

 

(――――ッッ!!)

 

 京介は、動けなかった。

 

 その光景が余りに現実離れしていて、意識が彼方に飛ばされていたのかもしれない。

 だが、黒猫も、桐乃も、瀬菜も、そんな京介に何を言うわけでもなく、同様に心を何か不思議な感情に占められていた。

 

 やがてその戦闘音は、遥か先まで遠ざかっていき――そして、何も聞こえなくなった。

 

 そうなることで、ようやく京介達は、身体から力を抜くことが出来て――

 

「――はっ! な、なんだったんだ、あれ? 警察、とか、自衛隊ってわけじゃあ、ねぇよな?」

「いえ、あれは魔の物と戦うことが義務付けられている討魔の一族の者に違いないわ。禍々しいオーラを放っていたもの……」

「厨二乙――って、言いきれないのが……もうわけわかんない……なんなの、これ……」

「……これからどうします、高坂せんぱい? ……またあの化け物が通りかからない内に、別の場所に移動しますか?」

 

 京介は壁に背を着け凭れ掛かりながら、瀬菜の言葉を受けて考える。

 

 確かに、いつまでも同じ場所に留まり続けるのは危険だろう。あの怪物達によって、ここは奴等が通りすがる場所だということが分かった。次も同じように先程の漆黒の狩人が駆けつけてくれるとは限らない。

 

 だが、これも当然のリスクとして、隠れ場所を変える道中で、別の化け物達と遭遇することも十分にあり得る。

 絶対的な安全の保障がない以上、どちらのリスクを選ぶか、どちらのリスクの方が低いかを見極めるということなのだが――

 

「――ちょっと待っててくれ。外の様子を見てくる。辺りに化け物がいないか確認してくるから、そっと息を潜めていてくれ」

 

 そう言って京介は、物陰から顔を出して、身を乗り出し、通路に姿を現わす。

 後ろから心配げに見守る少女達に安心させる意味を込めて苦笑を送って、さあいざと目を走らせてみた結果――

 

「――うっ!?」

 

 真っ先に感じたのは、嘔吐感だった。

 

 目の前に、真っ直ぐに一歩道に、化け物の屍骸のルートが出来ている。

 血飛沫や肉片、タイルを削った爪痕や刃傷など、戦い――というよりは、やはり一方的な蹂躙のような痕跡が、まるで一つの作品の如く、池袋駅構内に作り出されていた。

 

(……これを、さっきの女の人がやった――()った、のか?)

 

 見た目では、完全に普通の女性にしか見えなかった。

 

 だが、こんな惨状を、こんな地獄を、いくら化け物相手とはいえ――相手が化け物であったとはいえ、あんな気だるげな表情で、一歩も足を止めることなく、まるで降りかかった火の粉を振り払っただけといわんばかりに、作り出せてしまう存在を。

 

 普通の女性――普通の人間と、呼んでいいのか?

 

 それこそ――化け物、なのでは?

 

(――ッッ!! 仮にも助けてもらった人だぞ!! そんなことを思っていいわけあるか!!)

 

 だが、いくら頭を振っても、既に京介の心の中では、何度も殺されかけた化け物達と同列か、あるいはそれ以上に、あの漆黒の狩人に対する恐怖心が明確に芽生えていた。

 

 そのことに京介は舌打ちし、誤魔化すように辺りの観察を続け、そして――

 

「――ッ!」

 

 一つのことに、思い至った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――なるほど。それは、一理あるわね」

「で、でも、危険じゃないですか!? 逆に、それに引き寄せられて、あの化け物の仲間が寄ってくるかも……」

「……確かに、その可能性もある。だが、何の手掛かりも無しに走り回るより、確率は高いと思うんだ」

 

 京介が示した考えとは、あの化け物の屍の道を――逆に辿ることだった。

 

 あの化け物の道は、つまりはあの漆黒の狩人が、寄ってきた化け物を、片っ端から殺してきたことで作り出された道。

 よって、あの道の先にいた化け物達は、軒並み殺されているのではないか――という、命を懸けるには、あまりにも甘い公算だったが、現状のように、他に頼るべき可能性もなく、右も左も死の可能性で埋め尽くされている地獄では、思わず縋りたくなるような筋道が、か細くとも通っている可能性(みち)でもあった。

 

 ここで誰も、今からでもあの漆黒の狩人を追いかけ、助けを求めるという案を出さなかったのは、三人の少女達にも少なからず京介と同様の気持ちがあるからだろう。

 

 確かに、あの漆黒の狩人の、優雅で、美麗で、可憐な、まるで舞いのような戦いぶりに、心奪われた部分もあるけれど、それでもそれ以上に、やはり恐ろしかった。

 化け物を引き寄せる化け物の如き強さを誇る彼女の元へ行けば、それはすなわち、更なる化け物との殺し合いに巻き込まれるということを、予感させられるから。

 

 だから、進むとしたら逆方向――屍の道の逆行。

 

「……どうする、桐乃?」

 

 京介は未だ自身の案に対する賛否を示していない妹に向かって問いかける。

 桐乃は、そのどこか自身に縋るような声色で問いかけてきた京介に対し、笑顔で、罵る。

 

「今更ビビってんじゃないわよ! こうなったら、どこまでもアンタについて行ってやるわよ!」

 

 びしっと京介の鼻頭に指を突きつけ、そして、いたずらっぽく、甘えるように笑う。

 

「守って――くれるんでしょ?」

 

 その言葉に、妹の我が儘に、表情に活力を取り戻さないシスコンはいない。

 

「――ああ! 任せろ!」

 

 そして、京介は立ち上がり、難色を示していた瀬菜に手を伸ばし「なるべく見通しのいい通路を進む。化け物を見かけたら、すぐに最寄りの物陰に避難する――絶対に、守る。だから……いいか?」と、問い掛ける。

 

 瀬菜は「……もう。これじゃあ嫌だって言えないじゃないですか。絶対守ってくださいね! じゃないと真壁さんに○○○(ピー)してもらいま――」「命がけで護衛させていただきますッ!」と言った会話を、京介と交わした。

 

 そんな中、黒猫は――

 

「……………………」

「……ん? どうしたの、アンタ?」

「…………いえ――なんでも、ないわ」

「……大丈夫? 後で具合悪くなって動けなくなった、なんてことになったら洒落にならないわよ。………まぁ、こんな状況じゃあ、無理もないけど」

「……いいえ、本当に大丈夫よ。ごめんなさいね、心配かけて」

 

 そうだ。こんな状況で、碌に根拠もなく――ただ、嫌な予感がした、などと、言える筈もない。無駄に不安を煽るだけだ、と黒猫はふるふると首を振る。

 

 ……京介の案は、確かに幾つも不安要素はあるが、それなりに筋は通っている。

 こうして後ろからあの漆黒の狩人を追いかけている化け物がいない以上、あの狩人が殺し尽くしたか、あの狩人に恐れをなして逃げたか――そのどちらかの公算が大きく、そのどちらでも、化け物はいない、または少ないという可能性が高い。

 

 だから、その屍の道とやらを逆行することを、自分も賛成したのだ。

 

 それなのに、なんだろう――この、漠然とした……嫌な、予感は。

 

「それじゃあ、行こう。……あらかじめ言っておくが、外の光景は相当にグロテスクだ。あんまり直視するな。吐き気を催したら我慢せずに吐け。だが、絶対に悲鳴を上げるな。三人でそれぞれの様子を確認して、フォローしあってくれ――黒猫? 大丈夫か?」

「……ええ、平気よ。行きましょう」

 

 京介は少し黒猫の様子がおかしいことに気付いたが、こんな状況だしおかしいのは当たり前で、本人が大丈夫というのならその気持ちを尊重しようと、何も聞かなかった。

 

 黒猫本人も、こんな状況で、何の根拠もない嫌な予感などを告げても、いたずらに不安を煽るだけであり、それは容易く致命傷に繋がるとして、何も言わなかった。

 

 それをこの後、どうしようもなく、後悔することになるとも知らずに。

 

 そして、その後悔を味わっても、尚もこう思うのだ。

 

 

 あれは、遅かれ早かれ、訪れていた悲劇なのではないかと。

 

 

 

 そして彼女達は、屍の道を辿っていった、その先で――変わり果てた“彼女”と再会する。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 Side??? ――とある路線の出口近くの吹き抜け空間

 

 

 京介と、桐乃と、瀬菜と、黒猫は、その場所に辿り着いた時、誰一人、言葉を発せなかった。

 

 身動きが取れなかった。瞬き一つ出来なかった。

 

 それほどに、その光景は、あの黒金の革命の号砲から目を塞ぎたくなるような地獄を見続けてきた、見させられ続けてきて、見せつけられ続けてきた彼等でさえも、言葉を失うような、時間を忘れるような、現実を忘れてしまうような――現実であることを忘れたくなってしまうような、衝撃的で、幻想的な光景だった。

 

 そして、何よりも、どんな地獄よりも――彼等にとっては、最も痛々しい、目を塞ぎたくなるような、悲劇的な光景だった。

 

「はは――――ははは――――はははは――はは―――ははは――」

 

 そこには、文字通りの血の雨が降っていた。

 

 赤い、赤い、雫の雨。

 

 真っ赤な、真っ赤な、涙の雨。

 

 暗い、暗い、闇夜の戦場に、その血の雨は、残虐に、凄惨に、狂った彩りを与えている。

 

「ははははは――はは―――――はははは―――ははは―――はははは―――は――はは」

 

 そして、その禍々しいステージの中を、一人の堕天使が踊っていた。

 

 降り注ぐ血の雨を浴びて、その漆黒の衣装に緋色を溶け込ましていく彼女は、それでも尚足りないと言わんばかりに、その雨を全身で受け止めようと、真上を向いて、両手を広げて、くるくると回る。()()ると狂う。

 

 足元に転がるグチャグチャの死体に――人間のような死体を踏み潰し、踏みにじりながら、まったくバランスを崩すことなく、心から楽しそうに堕天使は笑う。

 

 その様は、まさしく、天から堕ちた――堕天使。

 

 天上の楽園から追放されても、尚も幸せそうに笑い続ける――壊れた堕天使。

 

 

「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 

 

 彼女は笑う。堕天使は嗤う。

 

 幸せそうに笑う。壊れたように嗤う。

 

 そんな彼女を見て、瀬菜は顔面を蒼白させ一歩後ろに後ずさり、桐乃は涙を零れさせ両手で口を塞ぎ、黒猫はそっと瞳を細めて唇を噛み締めた。

 

 そして京介は、拳を渾身の力で握り、歯をごりごりと食い縛り。

 

「…………なんでだよぉ」

 

 泣きそうな、そんな情けない呟きを漏らして。

 

 

「なんでっ!! こんなことに、なってんだよ――――〝あやせ”っ!!」

 

 

 かつて、自分に想いを伝えてくれた少女に。

 

 かつて、自分が想いに応えてやれなかった少女に。

 

 京介は、そう全力で、危険度など度外視で叫んだ。

 

 すると少女は――新垣あやせは、くるくると舞うのを止めて、踊るのを止めて、くるっと首だけを京介の方に向けて、京介や桐乃や黒猫や瀬菜の方に向けて、ニコッと、天使のように笑った。

 

 

「あ、お兄さん。お久しぶりです! お元気でしたか?」

 

 

 彼女は――笑う。

 

 恐ろしく――美しく。

 

 

 みんなが思った。

 

 

 あれは――ダレダ?




変幻の妖鬼、緋色の堕天使が狂気に沈められ、池袋にて――

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