比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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――ダチを守れて、初めて楽しいケンカなんだろうが

 Side由香――とある60階建てビルの通り

 

 

 岩倉が殴る。東条が笑う。

 東条が殴る。岩倉が笑う。

 

 岩倉が殴って、東条が殴って、岩倉が殴り、東条が殴り、岩倉が、東条が、東条が、岩倉が、殴って、殴られて、殴り、殴って、殴る、殴る、殴る殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴――

 

「はははははははははははははははははははははははは――」

「――はははははははははははははははははははははははは」

 

 笑い合い、まるで旧知の友のように友情を確かめ合うが如く殴り続ける、岩の怪物と、金髪の男。

 

「…………………………………」

 

 その理解できない光景に――中一女子の自分では、恐らくは一生かかっても理解の埒外であろうその光景に、湯河由香は、口を何度も開閉させ、所在なさげに手を虚空でウロウロさせ、その場で何度も足踏みしながらも、結局何も言わず、目も逸らさず、その殴り合いをただじっと見ていた。

 

 途中、何度か近くにいる笹塚を見上げた。どうして欲しいのか自分でも分からないが、おそらくはどうにかして欲しかった。あの壮絶な、けれど明らかに常軌を逸しているその戦いを、大人の力でどうにかして欲しかった。

 

 だが笹塚は、その視線に気づいていながら、何もしない。何も出来ない。

 大人だ子供だという話では、既にない。あの二人は――あの戦士と、あの化け物の殴り合いは、最早そんな領域にはない戦争(ケンカ)だ。

 

 誰も手出しは出来ない。

 

 どちらかが倒れるまで――死ぬまで終わらない。そういう馬鹿な、男の戦争(ケンカ)だ。

 

「うらぁっっ!!」

 

 東条の良いパンチが岩倉の胴体に突き刺さり、岩倉は少しよろめき、距離が出来る。

 

 だが、岩倉はにぃと笑みを漏らし――地面を殴る。

 

「ふんッッ!!」

「!?」

 

 その瞬間、突き上げるように東条の足元の地面が局所的に盛り上がった。

 ちょうど東条が立っていた位置を、正方形で切り取るような形で、柱のように地面が高く突き上がる。

 

 だが、東条は動じず、笑みのまま、その土柱を思い切りお返しだとばかりに殴りつけた。

 

 ビシィッ!! と、一撃でその柱に稲妻型に罅が走り、そして砕ける。

 

 そして岩倉は、それを見て――空中で無防備な状態で漂う東条を見て、これまた笑みを漏らしながら、足元の地面を両掌で強く叩く。

 

「ッッ!! 危ない、逃げてぇ!!」

 

 由香の叫声。

 

 だが、その叫び虚しく、空中の東条に――突然、東条(じぶん)を挟み込むように左右から、地面から捲り上げられるように出現した土壁から、逃れる術はなかった。

 

 ドダァン!!! という轟音と共に、東条はその攻撃の直撃を食らう。本を閉じられるような形で、二枚の土壁からの圧殺の餌食になる。

 

「東条さぁんっ!!」

 

 少女の叫びに悦を覚えたかのように、化け物の笑みが醜悪に歪む――が、直ぐに、その笑みが剥がれ、驚愕に変わる。

 

「……びっくりしたぜ」

 

 東条はそんな言葉を漏らしながら、依然としてその笑みを崩してはいなかった。

 

 左右から迫った土壁を、その両手だけで受け止めながら、潰されずにその均衡を保っている。

 

 東条は更にぐぐぐと力を込めて――

 

「うおらあッ!」

 

 と、土壁を腕力で弾くように押し返した。

 

「ッ!! マジかよ!!」

 

 岩倉は驚愕と共に、再び地面を両掌で叩き、渾身の力で東条を押し潰そうとする。

 

 だが東条は、戻ってきたその土壁を――

 

「ふんッ!!」

 

――両手の拳を叩きつけ、力づくで粉砕した。

 

(…………うそ)

 

 由香は、そんな東条の暴挙を、目を見開いて呆然と眺める。

 

 東条は再び落下を開始し、着地地点の岩倉に笑顔を向け、両手を組み合わせて拳を作り、それをハンマーのように振り下ろした。

 岩倉は急いで立ち上がり、それに渾身の拳で対抗する。

 

 ドゴォォォオン!!! という轟音が響く。

 

 その轟音に、直ぐ近くで戦争を行っている火口の目が向けられる中――吹き飛ばされたのは、火口の同胞の岩石の吸血鬼だった。

 

「ガハァッ!!」

 

 そして着地を果たした東条は、不敵な笑みで倒れ伏せる岩倉を見下ろす。

 

「ぎぃ……しゃぁぁあぁぁああぁあ!!!」

 

 岩倉は歯を食い縛り、地面を何度も連発で殴打した。

 

 それによって作り出されるのは、速く、(おおき)く、鋭い、岩の連弾。

 

「ふっ――はぁっ!!」

 

 それでも、東条英虎は動じない。その強さは、揺るがない。

 

 裏拳、肘撃、蹴り上げ、頭突き、片手で掴み別の岩にぶつける――何一つとして、東条に有効打を与えることは出来なかった。

 

「ぐぅぅぅぅ――ぁぁぁああああああああ!!!」

 

 そして岩倉は、歯を食い縛って、化け物の咆哮を迸らせながら、最後の岩砲を、己の渾身で後押しした。

 地面から掘り出すようして手に入れたその岩塊を、その岩の剛腕で殴りつけるようにして発射した。

 

 これまでで最速最強の弾丸は、そのまま東条英虎に襲い掛かり――

 

 

 

「――渚ぁ!!」

 

 

 

――東条は、それを彼方へ弾き飛ばした。

 

 

「――――な」

 

 

 岩倉も、そして由香も目を見開いて驚愕する。

 

 

「ごぁぁぁぁああああああああああ!!!!」

 

 

 この叫び声に、岩倉が声の方向に目を向けると――岩倉が放ち、東条が弾いて方向転換させた岩塊により、岩倉の仲間であり、上司である火口が吹き飛ばされていた。

 

 その火口に今にも殺されそうだった小さな水色の少年は、東条に向かって歓喜に表情を滲ませ、そして東条も――そんな渚に向かって力強い笑みを浮かべていた。

 

(――ッッッ!!!)

 

 岩倉は屈辱に身を震わせて、足踏み、地面を砕く。

 それにより由香は身を震わせ、笹塚は由香を庇い、東条は再び岩倉に目線を戻した。

 

「………はっ………随分、余裕だな………俺との戦いなど、余所見しながらで十分ってことか………? あぁ? ………あれか? ………強者の余裕って奴か? ………俺より強いって自慢か? ……俺との戦いなんて退屈ってことか? あァっ!!?」

 

 岩倉がぷるぷると、その硬い岩の身体を震わせ叫ぶのを、東条は首に手を添えながらぽけっとした顔で――

 

「ん? いや、テメーは強ぇよ。たぶん、俺が今までケンカしてきた中でもトップクラスだ。だから、おまえとのケンカはすげぇ楽しいぜ?」

「はぁ!? だったら――」

「でもよ、ケンカは確かにタイマンでやるもんだが――」

 

 東条は首をこきっと鳴らしながら、本物の、強者の笑みを浮かべて言う。

 

 

『いいか、トラ? 本当に強いってことはな、誰を倒したかじゃない――何を守ったかだ』

 

 

 あの男の言葉を回顧し、あの男の顔を思い浮かべながら。

 

 

「――ダチを守れて、初めて楽しいケンカなんだろうが」

 

 

(――――――っっっ!!!)

 

 その言葉が真に響いたのは、岩倉ではなく、端で、安全圏でその戦争(ケンカ)を眺めていた由香だった。

 

 ダチを――友達を、仲間を守る強さ。

 

 たった一人の孤高の強さではなく、誰かに背中を預ける強さ。

 

 一人では成り立たない――支える、支え合う強さ。

 

(……それが、本物の、強さ?)

 

 群れることなど、集団の強さなど、本物ではない偽物を誤魔化す為のものだと思っていた――他ならぬ、自分がそうだったから。

 

 だから、本当の強さとは、たった一人でも、誰にも負けない孤高の強さだと思っていた。

 

「……………………」

 

 あの日以来、ずっと消えない姿がある。

 

 自分と同様に孤独の中にいて――いや、自分よりも、自分なんかよりも、ずっと、ずっと前から、孤独に、孤高に居る少女。

 

 他でもない自分が、湯河由香が、彼女を孤独に追いやっていて。ずっと理不尽に虐げ続けていて。

 

 それでも――あの日。全てが終わり、そして始まった、あの夏の日。

 

 真っ暗な闇を、真っ黒な恐怖を、彼女は、眩い光で鋭く切り裂いてくれた――

 

 

『――走れる? こっち。急いで』

 

――たった一人でも、強く、美しく、輝いていた彼女の姿が、ずっと由香の中から、消えない。

 

(――――あ。……なんだ。わたし……ずっと、前から――)

 

「彼は……本当に強いな。……彼は、本物の強者だ」

 

 笹塚は、ずっと銃口を岩倉に向け続けながらも、そんなことをポツリと呟いた。

 

 由香は、そんな笹塚の呟きを聞いて、一度笹塚を見上げて、再び東条を見た。

 

 誰かを守る強さ。誰かを救う強さ。

 

 そんな彼の背中は、由香の心を――人を、無条件で惹き付ける。

 

(わたしは……ずっと前から……あの日から……あの子に……憧れてたんだ)

 

 あの日、自分を救ってくれた、あの綺麗な孤高の少女。

 どんなに自分が辛くても、例えそれが、自分を虐げ、貶めてきた者達だったとしても、その手を差し伸べ、誰でも救ってしまう――“本物”の彼女に、あの“本物の強さ”に、由香はずっと憧れていた。

 

 本物の強さが欲しかった。本物の強者に憧れていた。

 

 だから、ずっと由香は――――鶴見留美に、なりたかった。

 

 彼女みたいに、なりたかった。そして――

 

(――わたしは……ずっと……あの子と……)

 

 由香は、涙を溢れさせながら、顔を上げる。

 

 この戦いを、目に、心に焼き付けようと決意する。

 

 再び岩倉と東条は、激しく殴り合っていた。

 だが、既に岩倉の拳は東条に届いていない。

 

 東条英虎の前に、本物の強さの前に、その埋まらない差を見せつけられているかのように。

 

「ぐっ、ぞおおおおおおおおおおおお!!!!!!」

 

 岩倉は、思い切り地面を踏みつけた。

 ビシシとその足元に罅が入るのと同時に――再び東条の足元の地面が突き上がる。

 

 一度破られた技を破れかぶれで繰り出したのは、少しでも東条を――本物の強者を遠ざけたかった心の表れか。

 

「お前も来い」

 

 だが――東条は、岩倉の笑みと共に突き上げられる岩柱の上に、岩倉自身も強引に引っ張り上げた。

 

「――な……っんだと!?」

 

 岩倉が地面から離れ、制御を失った岩柱は、東条が殴るまでもなく、ビシッィ!! と罅が入り、瓦解する。

 

 東条は、そんな壊れかけの岩柱を足場に使い、それを蹴り飛ばして勢いよく落下する――

 

 

――岩倉の腰に、両手を回して。

 

 

「ッッ!!? や、やめ――」

「これで、シメーだ」

 

 ドガァァァン!!! という、落下音。

 

 東条はそのまま岩倉の腰を抱いたまま、脳天から地面に叩きつけた。

 

 岩倉の岩の身体は、バラバラに砕け散るように破壊される。

 

「…………………」

 

 由香はその決着を、唇を噛み締め、涙を流しながら見届ける。

 

 これが、本物の強さ。

 

 由香が目指す、強者の背中。

 

 

 そして、決意する。心に、憧れを刻み込む。

 

 

 自分は、どうしようもない弱者だ。

 愚かな罪を犯し、当然の報いを受け、王国を崩壊させられ、野に投げ捨てられた、本物の弱者だ。

 

 それでも――いつか。

 

 鶴見留美のように。東条英虎のように。

 

 彼女のように美しく、彼のように偉大な、本物の強者に。

 

 あの日、自分の手を引いてくれた、あの少女の背中に。

 この日、自分の命を守ってくれた、あの男の背中に。

 

 少しでも、ほんの少しずつでも、あの背中に――あの憧れに、近づけるように。

 

 湯河由香は、涙を流し、鼻を啜りながら、強く、強く、魂に誓った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 Sideあやせ――とある路線の出口近くの吹き抜け空間

 

 

 そのストーカーは、まさしく天使か、あるいは女神を見るような、崇めるような瞳で、その化け物に見蕩れていた。

 

 一糸纏わぬ美しき裸体を、惜しげもなく、誇るように披露し、妖艶な仕草で唇を舐め、ストーカー男を見下す新垣あやせに――新垣あやせに変身した、化野という化け物に、目を奪われ、心を掌握されていた。

 

 たった一目見ただけで、その全てを奪われていた。

 

 既にそのストーカーの視界にすら入っていない、漆黒のガンツスーツを身に纏い拙い構えでガンツソードを化野に向けていたあやせは、そんなストーカーに苛立ちを覚え、化野を見据えながらも声を荒げて叫ぶ。

 

「何してるんですか! 早く逃げてください! あれは星人です! わたしの偽物です! あの化け物達の仲間ですよ!」

「違いますよ」

 

 だが、そんなあやせの怒声も、裸体のあやせの静かな――けれど不思議な自信の篭った、それこそ女神の神託であるかと思わせるような不思議な響きの篭った言葉に掻き消される。

 

「わたしこそが本物です――本当の、あなたのあやせです」

「ほ、本当に……? 本当に、本物の、あやせたんなの……? 僕の天使……僕の女神……僕の……僕だけの……」

「ええ、そうです。あなたの、あなただけのあやせです。もう大丈夫ですよ。怖かったですよね。安心してください。……わたしは、ここにいます」

「あ、あやせたんッッ!!」

「なッ!? な、なにを――」

 

 ストーカーは、裸体のあやせの天使のように優しいその言葉と、女神のように慈愛溢れるその微笑みに、引き寄せられるように、引きずり込まれるように、彼女の――化野の元へと駆け出していく。

 

 そして化野は――裸体の新垣あやせは、その露出した胸で、ストーカーの顔を受け止めた。

 

「―――ッッ!!」

「ああ……あやせたん……あやせたんッ! あやせたんッ!!」

「ふふ。可愛いですね。大丈夫ですよ。あなたは決して一人ではありません」

「本当に? 本当だよね? あやせたんは僕の傍にいるよね? ずっと一緒にいるよね? ……僕を切り捨てたりしないよね? 僕を裏切ったりしないよね? ずっと! 何があっても! 僕の僕の僕の味方だよね!?」

「もちろんですよ。当たり前じゃないですか。わたしはあなたの天使で、女神ですもの。あなたをずぅっと守ってあげます。ずっと、ずっと、あなただけのあやせですよ」

「~~~~~~っっっ!!! あやせたん!! あやせたんあやせたんあやせたぁぁぁあああん!!!」

 

 ストーカーは、全裸のあやせの身体を力一杯抱き締め、その剥き出しの胸部に顔を(うず)める。

 

 そのあやせに変身した化野は、あやせの姿で強く抱き締められた際に色っぽく「あ……」と吐息を零したが、その少し赤く染まった頬の顔で、漆黒のスーツを纏ってその光景を少し離れた場所で眺めていたあやせに――本物のあやせに向かって、ふふと挑発的に笑った。

 

 あやせは、思わずガンツソードを握る手に、力が篭められていくのを感じる。

 

「…………やめて」

 

 あそこにいるのは、あそこで自分の姿をしているのは、只の自分の偽物だとは分かっている。

 

 本性は――正体はあの不気味な変態の男で、そう考えれば今のあの状態のストーカーは滑稽ですらあるけれど、そうと分かっていても、自分と全く同じの姿形の存在が、あんな無防備に裸体を晒して、そしてあろうことか、あのストーカーを抱き締め、胸に顔を埋めているなど、嫌悪以外の何物でもなかった。

 

「………………やめて………っ」

 

 そして、偽あやせの――化野の、その色っぽい吐息に刺激されたのか、ストーカーは更に深く胸に顔を埋めて、その顔を左右に振り、擦り付け始める。あやせたんあやせたんと声をくぐもらせながら、徐々に雄の欲望を露わにし始める。

 

 ついさっきまでは、この地獄のような戦場に(それ以前のあやせの拒絶も大いに関係しているだろうが)追い詰められた中で遂に見つけた希望に縋りついたという面も見えたが、そんな悲愴感もこの僅かな時間で消え失せ、今では只の興奮した愚かな男でしかなかった。

 

 だが偽あやせは――化野は、そんなストーカーの愚かさも面白く思っているのか、そんな男の顔を自身の(変身した)胸に、強く、強く押し付ける。ストーカーの声が一オクターブ高くなった気がした。

 

 あやせはそれを見て――見せられて、歯を剥き出しにして噛み締めた。

 

「………………やめて……………やめろ……………っっ」

 

 まるで、それは自分があの男を受け入れているかのようで。

 まるで、それは自分が汚れていくようで。穢されていくようで。犯されていくかのようで。

 

 全身に嫌悪感が走り、強烈な吐き気を催す。

 体中に名状しがたい何かが蝕んでいくかのようで、そして、そして――

 

 そんな感覚を覚える度に、自分が『本物』から遠ざかっていくかのようで――

 

 あの尊き、神聖で、この世の何よりも素晴らしい存在へと至る資格を、剥奪されていくような気がして――

 

「やめろッ!!!」

 

 あやせは叫ぶ。

 剣を落とし、全力で己の身体を守るように抱いて、感情の昂ぶりのままに叫び散らす。

 

「わたしの顔でッ! わたしの身体でッ!! そんな真似をするなぁッッ!!!」

 

 ヒステリックに叫ぶ――事実、この時のあやせは、相当にヒステリーな状態であった。

 

 これまで覚醒したかのように戦争をしてきたあやせだったが、それでもあやせは――新垣あやせという少女は、ほんの昨日まで、一日前まで、バトルや殺し合いなどとは無縁の、恋と友情に思い悩む、一般的な女子高生でしかなかった。

 

 そんな彼女が、これまで必死に敵を殺して、己を殺されるのを回避してきたのは、一重に、彼女が意識的にも、そして無意識的にも、己の精神状態を安定させようとしていたからだ。

 

 このイカれた環境に、適応しようとしていたからだ。

 自分が常に命を狙われ、命を奪わなくてはならないというこの地獄の戦場に、生物として、適応しようとしていたからだ。

 

 その為に、生きたい理由を作った。生き残りたい理由を。死にたくない理由を。死ぬ訳には、いかない理由を。

 生へと執着する、理由付けを行った。

 

 それが――『本物』。

 

 高坂京介に振られて、高坂桐乃へ複雑な感情を抱いていた新垣あやせという少女にとって、内に抱えていた希望と欲望、そして願望に合致した、それはまさに、奇跡のようにして出会えたうってつけの目標。

 

 それをみるみるうちに美化させて、高く高く掲げて、まさしく崇めるようにして、その偶像に向かってひたすら邁進した。邁進しようと決めた。

 そこへ辿り着くことを、それを手に入れることを、己の生きる理由にした。死ねない理由にした。生への執着とした。

 

 だが、それが崩れてしまう。

 余りにも綺麗にし過ぎてしまったその理想が、目の前の悍ましい光景によって汚れ――犯されていく。

 

 穢れていく。穢されていく。

 

 綺麗な『本物』へと、辿り着けなくなる。

 

 その事への恐怖と嫌悪が、新垣あやせを急速に侵食していく。

 

 あやせは瞳に涙を浮かべて、不健康な汗を流しながら、自分の偽物の胸に埋まり悦を感じているストーカーに向かって、嫌悪と侮蔑を込めて心から叫ぶ。

 

「あなたも何をしてるんですか!! そんな真似をして恥ずかしくないんですか!! 汚らわしい汚らわしい汚らわしいッッッ!!! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いッッ!! 分かってるんですか!? 何度言ったら分かるんですかッ!! そいつはわたしではなく、ただの化けも――」

 

 

 

「黙れ!! 黙れ黙れ黙れッッ!! この偽物が!!!」

 

 

 

 そのストーカーの言葉に、あやせの、あれほどに荒れ狂っていた全てが、雲散霧消に消え失せた。

 

 代わりに鈍く響くのは、ストーカーが叫んだ、その二文字。

 

 本物という言葉の、真逆で、対極な――最も遠い、その二文字が。

 

 響く、響く――鈍く、重く、響く。

 

「……………偽、物…………? …………わたし、が……………?」

 

 呆然と呟くあやせに、ストーカーは畳みかけるように、唾を撒き散らしながら喚く。

 

「偽物だ! お前なんか偽物で、お前こそが偽物だ!! 本物のあやせたんはここにいる!! 僕を見捨てない天使がここにいる!! 僕を切り捨てない女神はここにいた!! お前は偽物だ!! 偽物!! 偽物!! 偽物めッッ!!! お前なんかもう必要ない!! お前なんか……お前なんか……いらないんだよこの偽物めがぁっっ!!」

 

 そう喚き散らしたストーカーは、裸体の『あやせ』の胸に再びギュッと顔を埋める。

 

 だが、既にあやせはそのストーカーに目を向けていなかった。

 ただがっくりと俯き、ぶつぶつと何かを呟き続ける。

 

 ストーカーは、お前なんかもう必要ないと言った。

 

 それはつまりストーカー自身も、この状況で、漆黒のスーツを着たあやせと、全裸で威風堂々と立つあやせ――どちらが“本当の”新垣あやせなのかは、さすがに分かっていたのだろう。

 

 それでも、漆黒のスーツのあやせは、己のことごとくを否定し、自分を切り捨てた。

 対して、全裸の『あやせ』は、己を優しく包み込む、自分の理想の天使で女神だった。

 

 故に、間違っている方が本物で、本当の存在が偽物になった――ストーカーにとってはそうなった。ストーカー自身が、そう仕組んだのだ。己の中で、完結した。

 

 真実で――本物になった。

 

 結局の所、ストーカーにとっての()()()()()とは、己にとっての都合のいい――最高に都合のいい、幻想で、空想で、理想だったのだ。

 

 己の縋れる理想だった――理想であれば、よかったのだ。

 

 誰でもよかった。何でもよかった。

 

 化け物でも、よかったのだ。

 

 そんな存在相手ですら――新垣あやせは、切り捨てられた。

 

 

「……………ふふ」

 

 

 あやせは微笑む。

 これまで必死に取り繕ってきた何かが、繋ぎ留めていた何かが、終わっていくのを感じる。

 

 新垣あやせの、内に秘めた、内に閉じ込めていた、仕舞いこんでいた、何かが、露わになっていく。

 

「あやせたぁぁぁぁあああああん!!! あやせたんあやせたんあやせたん!!!」

「うふふ。そんなにわたしのおっぱいが好きなんですか?」

「好きだよぉぉぉぉ!!! 好きに決まってるよぉぉおおおお!! ふわふわのフカフカで最高だよぉぉぉおおおお!!!」

 

 対して、あやせに好きなだけ気が済むまで意趣返しが出来たことに満足したのか、ストーカーは己の理想に、薄々、自分が顔を埋めているそのふわふわでフカフカの胸が、何か得体の知れない何かだということに気付いていながら、その厳しい現実から目を逸らして――逃避して、既に散々に限界だった精神を少しでも癒そうと自分に最高に都合のいい理想に浸っていた。

 

「ふふ、そうですか。なら――――好きなだけ味わえよ変態野郎」

 

 だが――そんな理想は、いつまでも不用意に浸れるほどに、無害ではなかった。

 ましてや、ストーカーのような救いようない男を、救ってくれるような理想など、この残酷な世界には存在しない。

 

 そんな当たり前のことに、このストーカーは最後の最期まで気づけなかった。

 

「――え?」

 

 ストーカーがそんな呆けた声を出したのは、突然、自身の腰が、何者かにロックされたからだった。

 

 その感触は、その感覚は、まるで人間の腕に抱き締められたかのようだったけれど、『あやせ』の両腕は、自分の頭の後ろに回されている――有り得ない。そんなこと、有り得る筈がない。

 

 だが、そんな現実逃避も、厳しい現実の猛追には、とても逃げきれなかった。

 

 次の瞬間には、『あやせ』の胴体が伸び、そこから無数の乳房が現れた。

 

 先程までストーカーが喜々として顔を埋めていた、『あやせ』の美しい胸が、好きなだけ味わえの言葉通りに、とても味わいきれない程に溢れ出していた。

 

「――う――ぷ」

 

 ストーカーはその中に無理矢理に顔を埋めさせられ――溺れさせられ、腰から現れた両腕によって固定され、完全に捕えられていた。

 

 自分の理想に抱かれて溺れていた。囚われていた。

 それはそれで相応しい末路とも言えなくもなかったが、『あやせ』の変身はまだ終わっていなかった。

 

 そのまま胴体を伸ばし、足を伸ばし、手を伸ばし――増やした。

 顔は『あやせ』のままだったが、胸部から胴体にかけて無数の乳房を持ち、最終的には手足がすらりと不気味な程に長い、四本腕の、まさしく化け物という異形に変形――変身した。

 

 胴体に、ストーカーをへばり付けるような形で――恰好で。

 

「はっはー。まさか、ここまで上手く行くとは思わなかったな。男というのは、やはりどんな種族においても、下半身で生きる愚かな生き物だねぇ」

 

 人のことは言えないがな、と、化野は、『あやせ』の声で、面白げに語る。

 

「はっはっはー。で、どうするよ、愚かではないレディハンター。月並みなセリフだが言わせてもらおう――俺を殺せば、漏れなくお仲間のコイツは死ぬぜ? 散々な言われようだったが、こんなクズ野郎でも、同じ衣を――黒衣を纏ったお仲間だろ? この哀れな姿を見て、思わず助けたくなるくらい同情しちまうだろう?」

 

 それが、人間ってやつだろう?

 

 化野は――化け物は、あやせにそう、愉快に言った。

 

「さぁ、ジョーチャン。お前は、俺を攻撃できるのかい?」

 

 化野は――化け物は、あやせに向かって、『あやせ』の声で、『あやせ』の顔で。

 

 化け物の姿で、言った。

 

 そして、あやせは――

 

 

 

「――――――あはっ」

 

 

 

 と、天使のように笑った。

 

 堕天使のように、嗤った。

 




岩石の剛鬼――本物の強者が強さに落とされ、池袋にて砕け散る。

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